日本政界●情報メモ
※ログイン後に投稿フォームが表示されます。
Loginはこちら【613】福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか(詳細解説)
(以下貼付)
http://pr.bbt757.com/2011/1028.html
http://pr.bbt757.com/
『福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか』
チームH2Oプロジェクト 特設サイトのご案内
チーム設立の背景、メンバー、工程、詳細資料、そして結論を発表しています。
原発事故から7ヶ月。
福島第一、福島第二、女川などの原子力発電所に一体何が起こったのか。
事故に至った経緯と設計の因果関係は?
苛酷事故における組織運営の問題点は?
国民への情報開示における問題は?
など、知りたかった、いや我々が知るべき調査結果を以下サイトで公開しています。
友人、お知り合いなどにも是非ご紹介ください。
特設サイトURL
http://pr.bbt757.com/
(以上貼付)
【612】新刊『裸のフクシマ』(たくき よしみつ・著)
http://takuki.com/hadakanofukushima.htm より貼付
『裸のフクシマ』(たくき よしみつ・著) 立ち読み版
裸のフクシマ ◆ 書 名:『裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす』(講談社)
種 別:単行本 352ページ
著 者:たくき よしみつ
版 元:講談社、2011.10
価 格:1600円+税
ISBN :978-4-06-217319-3
メディアが語ろうとしない驚愕の事実が満載
内容紹介
■目次
●まえがき
第1章 「いちエフ」では実際に何が起きていたのか?
●揺れる我が家を外から見ていた
●通信不能になることの恐怖
●2時間も隠されていた最初の爆発
●ツイッターとグーグルに真実を教えられた
●全電源喪失に至る「想定外」のバカさ加減
●前年6月にも2号機は電源喪失で自動停止していた
●11日のうちに炉心溶融していた!
●4号機のミステリー
●東京にとっては3月21日が問題だった
●そのとき川内村の住民たちは
●避難を決断できた村とできなかった村
第2章 国も住民も認めたくない放射能汚染の現実
●3月15日、文科省がまっ先に線量調査した場所
●福島県はSPEEDIのデータを13日に入手していた
●イギリスから線量計が届いた
●まだ線量の高い川内村に「一時帰宅」
●「調査をするな」と命じた気象学会
●突然有名になった飯舘村
●20km圏内の放射線量を出さなかった理由
●0.1マイクロシーベルト/時 は高いのか低いのか
●「年間20ミリシーベルト」論争の虚しさ
●恐ろしくて調査もできない内部被曝
●日本中を震撼させた児玉証言
●チェルノブイリ事故のときのヨーロッパは
●福島の人たちでも感じ方・判断は様々
●核実験時代は今より放射線レベルが高かったという勘違い
●「チェルノブイリの○倍/○分の1」というトリック
●低線量被曝の「権利」
●わざわざ線量の高い避難先の学校に通わされている子供たち
●「低線量長期被曝」の影響は誰にも分からない
第3章 「フクシマ丸裸作戦」が始まった
●安全な家を突然出ろと言われた南相馬市の人たち
●20km境界線を巡る攻防
●30km圏内に入れてくれと言った田村市、外してくれと言ったいわき市
●仮払金・義援金をめぐる悲喜劇
●避難所から出て行こうとしない人たち
●無駄だらけの仮設住宅
●汚染のひどい都市部の補償はどうするのか
●事故後、「原発ぶら下がり体質」はさらに強まった
●原発を率先して誘致したのは県だった
●プルサーマルを巡って葬り去られた知事、暗躍した経産副大臣
●福島を愛する者同士の間で起きている根深い憎悪劇
第4章 「奇跡の村」川内村の人間模様
●川内村にとって脅威は線量ではない
●農家の意地をかけた孤独な闘い
●獏原人村と「大塚愛伝説」
●「一時帰宅ショー」の裏側で
●目と鼻の先の自家用車を取り戻すのに丸一日
●一時帰宅──富岡町の場合
●「ペット泥棒騒動」に巻き込まれたジョン
●全村避難が決まった飯舘村へ
第5章 裸のフクシマ
●「地下原発議連」という笑えないジョーク
●放射能で死んだ人、これから死ぬかもしれない人
●日当10万円、手取り6500円
●浜岡は止める前から壊れていた
●「エコタウン」という名の陰謀
●「除染」という名の説教強盗
●下手な除染は被害を拡大させる
●3・11以降まったく動かなかった風力発電
●「正直になる」ことから始める
●素人である我々が発電方法を考える必要はない
●1日5500万円かけて危険を作り続ける「もんじゅ」
●裸のフクシマ
●かなり長いあとがき 『マリアの父親』と鐸木三郎兵衛
【611】↓登石裁判官 訴 追 請 求 状
訴 追 請 求 状
平成23年 月 日
〒100-8982
東京都千代田区永田町2-1-2 衆議院第二議員会館内
裁判官訴追委員会御中
住所
氏名(個人で提出する場合はここに記載する。連名の場合はまとめて別紙添付)
電話
下記の裁判官について弾劾による罷免の事由があると思われるので、罷免の訴追を求める。
1 罷免の訴追を求める裁判官
所属裁判所 東京地方裁判所
裁判官の氏名 登石郁朗裁判官
2 訴追請求の事由(概要)
登石裁判官が下した下記事件の平成23年9月26日判決には、日本国憲法・刑法・刑事訴訟法が定める近代憲法や刑法の基本原理―基本的人権の保障、国民主権、議会制民主主義・法治国家・公平な裁判所、刑事被告人の諸権利の保障等の、日本国統治の根本理念を否定する、著しく明白かつ重大な違憲判断が随所にある。
こうした刑事裁判手続きにおける法令違反は、それ自体が、法治国家を否定する違法な裁量権の行使として憲法違反となるが、同時に、行為全体が公務員の憲法等法令擁護・遵守義務(憲法99条)の違反でもある。
違法な裁量権行使の詳細は次節以降に譲るが、その逸脱の程度は常軌を逸しており、正気であれば、法曹の資格も裁判官の適格性をも欠く著しい非行として、罷免事由に該当する。
正気でないのなら(裁判官の身分保障は手厚いのだから)、完全治癒まで裁判官の職を辞させ、治療に専念させるべきである。
記
事件名:平成21年(特わ)第517及び平成22年(特わ)第195号
当事者名:被告 石川知裕衆議院議員、池田光智及び大久保隆規元秘書
代理人名:木下貴司、高橋司、吉田美穂子弁護士他
添付書類
1. 別紙請求者一覧(住所、氏名、電話番号)
2. 判決要旨
3. 検察庁ホームページ(H21年当時)から「検察の役割」部分の抜粋
4. 本件の捜査指揮者、佐久間達哉特捜部長(当時)の答弁書
3 判決要旨中の具体的な違憲事実
(1)司法権が依拠すべき「近代憲(刑)法による検察権行使の制限」の鉄則
近代憲法は、国家の礎を国民主権と民主主義・法治国家に置き、司法・行政・立法の国家の三権を分立させた。
これに立脚した日本国憲法の目的は、人権侵害を看過せぬ人権尊重国家、主権者国民が自由に発言・思考・討論し、選挙によって自ら重要な施策を選ぶ(議会制間接民主主義)、自由で独立した個人からなる国民主権国家の保障にある。
そして、こうした民主体制の阻害要因となる人権侵害を予防するため、憲法は、国家権力の人権背害を規制する多くの条文を設けた。
国家権力による人権侵害や民主主義への攻撃は、強制力を伴う検察・警察権の執行過程でなされる。強制権を付与された検察・警察は、国民の身体・財産・自由・名誉…究極的には生命までも合法的に抹殺しうる巨大な権力であり、その刃が(選挙で選ばれた国民代表である)議員や政治家に恣意的に行使されれば民主主義は抹殺される。
恣意的な警察・検察権の行使によって、こうした民主主義の抹殺や人権侵害がなされぬよう、憲法は刑事訴訟法とともに、強制権限の行使には多くの制約を課し、そのチェック機能を司法権に委ねたのである。
(2)警察・検察の権力濫用に対する唯一のチェック機関が裁判所
検察・警察の強制力行使に過ち(権利侵害)がないかをチェックする機能は司法のみが司る。検察等の逸脱行為を断罪・矯正・差止めできる国家権力は裁判所のみなのである。
(3)本判決とそれに至る経緯-検察の権力濫用とそれを放置してきた裁判所
然るに、本西松建設事件及び陸山会事件では、当所からマスコミ・検察の二人三脚による魔女狩り国策捜査との批判が耐えず、こうした特捜部の暴走に、裁判所が民主的な歯止めをかけうる場が幾度もあったが、裁判所はその人権擁護機能を終に行使しなかった。
特捜部には、2つの重大な権力濫用行為があり、裁判所にはこの過ちを正す機会が何度もあった。
特捜部の2つの権力濫用行為とは、不要な逮捕・捜査等の「小沢一郎と三被告への不当な強制権限行使」と、強引な逮捕・起訴によって国民主権の実現(公正選挙による政権交代間近の状況)を阻んだ「民主主義への攻撃」である。
裁判所がこれを矯正しえた機会とは、些細な期ずれで小沢一郎を狙い撃ちした偏向捜査の段階、(法益侵害皆無の形式犯の)偏向逮捕と偏向起訴の段階、違法な取調べ(供述調書の却下)の段階、起訴後無罪を言い渡すべき場面での訴因変更の段階等である。
つまり(単なる期ずれを無理矢理犯罪に仕立てた)特捜部・マスコミの過ちは無論のこと、その職権乱用行為を追認した裁判所にも、前述の近代憲法、刑法の理念に背いた明白な任務違反行為がいくつもあった。
こうして、裁判所は「人権擁護の最後の砦」として憲法が付与した任務を一切行使せぬまま、最後の本判決では、登石裁判官はこれら検察や司法の違法行為のすべてを是認して、起訴状丸写し判決で締めくくったのである。
この判決は、幾多の先人が知恵を絞り、幾重にも張り巡らせた精緻な人権擁護理念、民主主義擁護理念、法治国家・司法の公平性・検察による政治介入防止理念等のすべてを蹂躙した、民主国家の死亡宣告である。
ここに至る数々の司法の任務違反中でも判決の違憲性は格段に強い。次節で判決文と関連法規に即して具体的にそれを示す。
(4)近代憲法や刑法の人権擁護理念を抹殺した本件判決
①刑法の根本理念、「刑法の謙抑性」原則の違反
基本的人権擁護を本務とする近代憲法は、人権侵害を伴う刑罰権の行使には多くの制約を課し、更に様々の原則でそれを補強した。
なぜ「国家は、地球より重い人命や人権を刑罰で奪えるのか」の問いに「刑罰によって救われる公共の利益(他の人権等)が奪われる人権より多いから」として「刑法の謙抑性」原則を樹立し、国家権力に更に縛りをかけたのである。
それは、「刑罰権の行使は、刑罰以外に、他の人権等の重要な保護法益を救済する有効な手段がない場合にのみ、やむなく謙抑的に最小限に行使されるべし」との刑法の根本原則である。
この原則から補強理論「可罰的違法性論」も派生した。「形式的には刑罰条文に当れども、処罰に値する可罰的違法性なき瑣末な事件が不当に起訴されたら、裁判所は公訴棄却や無罪で対処せよ」との理論である。
本「政治資金規正法違反事件」はこの「刑法の謙抑性」原則適用のモデルケースであり、登石裁判官は不当起訴を公訴棄却や無罪等で退け、権力による人権侵害を止めさせる義務があった。
なぜなら政治資金規正法(規制ではなく規正)の目的は、字面通り政治資金の正しい報告・開示にあり、記載時期にずれがあれば訂正させればそれですむ。本件虚偽記載(期ずれ)が、他の人権や公共の利益を、刑罰に値するほど著しく侵害した事実は全くない。申告時期の期ずれ(形式犯)として、実務上も、他の全政治家には、終始一貫訂正報告で由としている。
本件で、秘書三名(含:不逮捕特権ある国会議員)を突然同時逮捕し、数週間も人身拘束して議員辞職を迫らねばならぬ程の、強度の緊急性や違法性、又そこまでして守るべき重要な保護法益は皆無だったのである。
つまり刑法の謙抑性や可罰的違法性論からいえば、刑罰によって守るべき重要な法益は何もなく、他の政治家への扱いと比較しても著しく均衡を欠いた偏向捜査・起訴である。
又、登石裁判官は、検察の取調べが利益誘導、恫喝、切り違え質問などあらゆる不当な手段を用いて行われたとして多くの調書を証拠不採用としている。
つまり同裁判官は起訴前にも起訴時にも、検察側に幾重にも職権濫用(人権侵害)行為があったと重々認識しているのである。
然るに同裁判官は、「刑法の謙抑性」というサルでもわかる!単純明快な憲(刑)法の人権擁護理念を完全に没却し、公訴棄却・無罪ではなく有罪とした。
これは法と人権の最後の守り手とされる法曹のプロ中のプロ、裁判官にあるまじき、根本法令の解釈・適用を誤った重大な違反行為である。
②本件を不当に立件した特捜検察、その権力濫用を追認した裁判官の違法
本件を立件した検察には、2つの重大な任務違反がある
i)検察による「不偏不党・厳正公平」宣言
検察権の行使は人権侵害を常とするため、検察自ら「公正な公益の代表者として、常に不偏不党・厳正公平を旨とし、事件処理の過程で人権を尊重すべき」と宣言し※、強制権の厳正公平な運用を宣言している。
「公正な公益の代表者…常に不偏不党・厳正公平を旨とし」とは、特定の政党に有利(不利)な不公平な立件をしないこと等で、例えば「選挙前の政治家の逮捕・捜査はご法度」の戒めがその筆頭にある。
検察は、戦後一貫してこの戒めを「公正な検察」の伝統として守ってきた。
ii)「厳正中立原則」の伝統を捨て、民主主義を攻撃した特捜部
然るに本西松事件では、政権交代が確実視された総選挙の直前に、突然、勝利を目前とした野党民主党代表小沢一郎の秘書への強制捜査を開始した。
しかもその容疑は、(汚職、脱税、投票買収等「民主主義を汚す重大犯罪(後述)」のいずれでもない)収支報告書の単なる記載ミス!-これが、検察64年の伝統あるご法度を破った異例逮捕の容疑であった。
形式犯で緊急性がない記載ミス、これで逮捕できるなら、ほとんどの国会議員を特捜部はいつでも自由に逮捕できる。主権在民の現憲法は捜査機関にそんな重大な権限を与えておらず、本件逮捕は、裁量権を逸脱して民主主義を攻撃した違憲逮捕である。
にも拘らずこの9ヶ月後、64年間の禁を破ってルビコン河を渡った特捜部は、本陸山会事件では、今度は国会議員を含む2名の秘書(元)を、記載ミスだか共謀だか(今では誰も思い出せない程の)瑣末な容疑で逮捕した。
その上、今度は(不逮捕特権ある国民の代表)国会議員の逮捕という重大事なのに、検察首脳会議すら開かず、「若手検事の暴走」という前代未聞の形で着手している。
この強制捜査は与党自民党議員との公平さも著しく欠いていた。
(検事総長と東大の同級生)漆間官房福長官(当時)が「自民党には捜査は及ばぬ」と言明し、事実(記載ミスどころではない長期政権与党として汚職の疑いが山ほど浮上していた)与党自民党議員には及ばず、自民党森田健作千葉県新知事の政治資金規正法違反も全く捜査されず、「不偏不党、厳正公平な公益代表者」宣言は完全に破綻していた。
ⅲ)検察・特捜部が公言した本務から大きく逸脱した立件
特捜部の捜査権について検察は、独自捜査(政・財・官界に潜む巨悪との戦い)と題し※「検察庁自らが検挙摘発を行う捜査…、汚職事件や法律や経済についての高度な知識を必要とする企業犯罪・多額の脱税事件など」「政治・経済の陰に隠れた巨悪を検挙摘発」としてその独自の任務を強調している。(添付資料3)
※・検察庁ホームページ「検察庁の役割」(H21年)の記事(添付資料3)
・http://www.kensatsu.go.jp/gyoumu/yakuwari.html#yakuwari
樋渡検事総長(当時)も、検察・特捜部の任務を平成20年7月1日(強制捜査の8ヶ月前)就任記者会見で以下のように語った。(添付3)
「検察には不偏不党、厳正公平に職務を遂行するという伝統がございまして、この伝統を私も引き継いでやっていきたというふうに思っております。…」との第一声後、現在の検察の急務は「国民が不公正だと感じる犯罪の撲滅と安全で安心な日本の復活」、特捜部独自の任務は「汚職と脱税」即ち「民主主義を損なう3大犯罪-『投票買収、汚職事件、脱税事件』の摘発、そして改革のキーワードは「国民の視点」である」と回答。(要旨抜粋)
つまり当事者が言明した検察の本務は「政・財・官界に潜む巨悪との戦い」「汚職と脱税や、民主主義を損なう3大犯罪-『投票買収、汚職事件、脱税事件』」「法律・経済について高度な知識を要とする企業犯罪・多額の脱税事件」で、常に「国民の視点」に立ち、「国民が不公正だと感じる犯罪を撲滅」し、「安全で安心な日本の復活」に尽きる。そして本件「期ずれ、記載ミス」はこの任務のいずれにも当らない。
ⅳ)不当捜査に没頭し、本命捜査を放棄した、主客転倒の特捜部
しかも、こうして特捜部が民主主義の攻撃という越権行為に没頭する間、その本務-「国民が不公正だと感じる犯罪の撲滅」の旗は降ろされ、日本は、真の巨悪が跋扈する「危険で不安な日本の復活」に向っていった。
特捜部が摘発すべき事件とは―被害が甚大な組織犯、国民が不公平だと感じる巨悪、法律や経済の高度な知識を要する国家・企業犯罪だったはずで、当時のそれは、例えば、かんぽの宿の不正売却問題や有価証券報告書虚偽記載による150億円の未公開株詐欺事件などであった。
「オリックス・かんぽの宿の一活売却問題」は、経済危機で苦悶する国民を尻目に、年金・郵貯等の膨大なムダ使いが次々に発覚、国家・企業が一体化して国民の共有財産を横領した疑いのある事件で、国民は強制捜査を強く望んでいた。しかし特捜部はこれには指一本触れていない。
有価証券報告書虚偽記載による150億円の未公開株詐欺事件とは、日本ファースト証券役員による自社の無価値未公開株販売事件である。同社は、金融庁EDINETに、粉飾決算を虚偽記載した有価証券報告書を掲載し、上場間近の優良会社を装い、刷りまくった無価値株券20,000株余を8,000余人の全国の一般投資家に販売し、150億円余を詐取後、金融庁に破産させられた。
金融庁管轄下の登録証券会社による、虚偽記載を伴う自社未公開株詐欺という前代未聞の証券犯罪である。
この未公開株詐欺事件は、本件と同時期に発生し、「虚偽記載」という同名犯罪ながら、特捜部は正反対に扱った。
被害のない本件に、3名逮捕1年以上の徹底捜査を投入しながら、被害総額150億、うつ病や自殺者多発、形を変えて犯罪が継続中という、国民の生命・財産に多大の損害を及ぼした組織的な虚偽記載事件では、4通の告発状をすべて不受理とし、再犯、再々犯に着手した、証券詐欺の常習集団を放置し続けたのである。
この2つの虚偽記載事件を比較すると、本件立件の不当性がより鮮明になる。被害者の会に、佐久間特捜部長は以下のように説明した。
告発状受理条件は、当初は民事訴訟での勝訴、民事の有価証券報告書虚偽記載で勝訴後告発すると、新銀行東京を大株主と偽った「形式的虚偽記載だけでは虚偽記載罪は成立しない」として不受理。
そこで粉飾決算の虚偽記載で告発すると「地検は人手不足だから個人で段ボール箱数個分の粉飾の証拠を集め、そのまま起訴できる緻密な告発状を仕上げれば受理する」という。
こうした複雑な経済犯罪の捜査こそ特捜部の出番であり、強制権限もない一個人で捜査など絶対不可能であるのに。
確定的な証拠がある背任罪だけでもと粘ると「大事件の一部分を抽出した部分起訴はできぬ」と回答。時効間近と嘆願してもそれがどうしたと突っぱねる。
未公開株詐欺では、証券市場の信頼、国民の生命・財産という最重要法益が奪われ、今も犯罪継続中の緊急性ある危険な犯罪者は野放しのまま、他方で、被害・再犯の恐れ・緊急性皆無の、国会議員を含む三秘書は突然逮捕である。
それは、粉飾でも、それで投資家が財産を失うわけでも、市場の信頼を失わせるわけでもない、単式簿記(覚書的)の形式的虚偽記載である。
そして人手不足で本務に事欠く地検特捜部が、全国の検事を総動員して岩手まで大捜索する。
三秘書逮捕の理由に、時効間近を挙げていたがこれもウソであるし、「最終目標は(瑣末な書き違いミスではなく)収賄の立件」とメディアは書いたが、「大事件の一部起訴はしない」として特捜部は、未公開株詐欺事件では、3億円の背任罪の立件すら、十分な証拠があるのに拒否している。
そもそも本件では、瑣末な別件逮捕自体、違憲の疑いが強い捜査手法で、そこまで強引に、違法逮捕や強制捜査に1年余を費やしても、終に収賄罪の証拠は発見できなかった。
それなのに、登石裁判官は証拠もなしに「収賄があった」と断定して有罪判決を下した。(⑤「証拠裁判主義の否定」参照)
本有罪判決は、検察の違法行為を咎めるどころか、違法のバトンを受け継ぎ、冤罪製造を事後従犯的に幇助している。検察の違法をチェックできる唯一の、最後の砦であった登石裁判官が、検察の民主主義への攻撃を許し、伴に民主国家の憲法を踏みにじった罪は重い。
③刑法の三層構造に従った冷静な事実認定を否定した違反
犯罪を裁く裁判官は、素人-マスコミや世間-のリンチ的風潮に流されず、法のプロとして、冷静に純粋に「法と良心のみに基づき公平な裁定」を下す義務がある。
センセーショナルな事件では、ヒートアップした大衆やマスコミは時に法の定めを超えた処罰を煽るが(所謂魔女狩り)、裁判官は世論の圧力に屈せず、その良心に従い、法と正義を貫いて被告人の人権を守る義務がある。
つまり裁判官とは、法治国家では「人権擁護の最後の砦」という唯一無二の貴重な役割担う法のプロなのだから、罪刑法定主義の原則に忠実に、法と証拠のみに拠る公正な裁判手続きを遂行し、冷静に犯罪の有無を認定することがその本務である。
そしてもしも(法的には無罪なのに)血祭りにされている被害者あらば、法に則った公平な裁判手続きで、犯罪の証明なくば無罪を宣告して名誉を回復させ、故意・過失で無辜の民に「犯罪者」の汚名を着せた社会に対しても、法による正義の回復を断行する義務がある。
刑事裁判の裁判官が、故なき魔女狩りに迎合し、憲法・刑法・刑訴法に違反した手続きで有罪とできるならば、マスコミ等が(根拠も証拠もなく)犯罪者の烙印を押して既成事実とすれば、すべての無辜の民が犯罪者とされうる。
こんな蛮行がまかり通れば、政敵や権力者の過ちを糾す民の抹殺など朝飯前!たちまち、主権在民ではなく主権在マスコミの専制独裁国家が出現し、自由な民主主義国は死滅する。
こうした事態を予測し、刑法は(裁判官が冷静に犯罪事実を認定できるよう)構成要件(条文該当性)・違法・有責という三層構造で構成され、必ずこの順序で頭を冷やして犯罪認定せよとする。
三層構造による冷静な法律判断では、まず構成要件該当性を判断し、ここで非該当なら直ちに棄却か無罪(無犯罪)とし、その後の違法・有責判断には踏みこまぬことが鉄則である。
しかるに登石裁判官は、この刑事裁判の鉄則を外し、「政治資金規正法違反」という構成要件該当性の枠を大きく逸脱して、検察が立証も主張も起訴もできなかった(=違法逮捕や強制捜査でも証拠を得られず起訴を断念した)「収賄」があったと、証拠もなしに、勝手な推認で認定した。
こうして同裁判官は、あえて、構成要件ではない(本訴と無関係の)事実を延々と認定し、その責任性にまで踏みこんだ迷走審理の果てに、本訴=政治資金規正法違反で有罪判決を下したのである。
刑事裁判の最初のハードル、刑法の三段思考を軽々と踏み越え、あえて感情的な素人思考に退行した登石裁判官には、近代憲法・刑法の根幹すら理解できない重大な誤認(違憲行為)がある。
④訴因主義(罪刑法定主義)を否定した違反
罪刑法定主義の要請の一部は、刑訴法上「訴因」に具体化した。裁判の争点=犯罪事実の有無等は、起訴状、適用条文、訴因で絞られ、被告人は「訴因で特定された事実」のみを防御すれば足り、それが奏功すれば無罪となる。
このように、訴因は、被告人の防御範囲を特定し、訴因外の事実で有罪とされ不意打ちを食らうことはないという罪刑法定主義の1つの具現化であり、被告人の防御権を保障する意味を持つ。
裁判官が訴因外の事実を勝手に認定することは、こうした憲法、刑訴法の人権擁護の大原則を蹂躙する違法行為であって到底許されない。
然るに政治資金規正法違反(虚偽記載罪)の判決であるはずの本件は、誰もが収賄罪の判決と見間違うほど収賄の認定に異常に紙面を割いている。
収支報告書への虚偽記載(期ずれ)というおよそ起訴に値しない瑣末な形式犯を、登石裁判官は、棄却もせず、法と証拠に基づいて淡々と審理することもせず、その代りに訴因外の「政治とカネ」の断罪に大半の情熱を注いで判断したのである。
この裁判の傍聴人江川紹子氏は「検察側は『動機・背景事情』として、ヤミ献金疑惑の立証にもっとも力を入れ、登石裁判官も(訴因も構成要件該当性も逸脱して)それを許した。裁判を傍聴して、これは何の事件だったのか、ヤミ献金事件、もしくは収賄事件の裁判ではないかと錯覚しそうになった。判決もこの点に多くが割かれ、読み上げる登石郁朗裁判長の声にももっとも熱が込められ…これは収賄事件の判決ではないかと思うほど『小沢事務所と企業の癒着』を論難した。」と語っている。(ツイッター要旨)
こうして、訴因(収支報告書の虚偽記載)と、水谷建設からのヤミ献金は全く無関係なのにもかかわらず、登石裁判官は、訴因外の上記の事実を、一方的な想像と推認で、証拠もなしに勝手に認定した。
検察のメンツをかけて、全国の検察官を召集し数億円を投入した(とされる)1年以上の徹底捜査でも、証拠を発見できずに起訴を断念した「収賄」について、目撃者も裏付け証拠もないのに、関係者の伝聞証言だけで、水谷建設から石川被告への5,000万円の授受が「あった」と断定したのである。
そして、同裁判官はこれほど訴因外の収賄認定に異常な情熱を注ぎながら、有罪認定は、瑣末な訴因「政治資金規正法違反」でなしたのである。
これは争点を訴因に縛った罪刑法定主義を著しく踏みにじる違憲行為であり、プロの裁判官の仕業とは信じ難い荒業である。
なお、登石裁判官は本件に先立つ大久保秘書の裁判の審理中にも、検察側が(無罪判決忌避のため)強引に申し立てた訴因変更を認め、大久保秘書を被告の座から逃さなかった前歴がある。訴因の人権擁護機能を踏みにじる姿は同裁判官の常態である。
⑤証拠裁判主義を否定した違反
刑事訴訟法は「事実の認定は証拠による」(刑訴法317条)とし証拠主義の立場にたつ。
ところが、登石裁判官は、検察側の調書の多くを(違法捜査を理由に)却下しながら、状況証拠に対して恣意的な推認を重ね、訴因外の事実を勝手に、違法認定し、訴因=政治資金規正法虚偽記載で有罪と認定した。
供述証言を却下して証拠調べもせず、証拠無しに状況証拠と推認だけで有罪とできるなら、調書すら不要で、裁判官の主観-推測や憶測-で勝手に犯罪事実が決まることになる。これでは裁判は裁判官の独壇場と化し、検察が捜査して証拠を探す必要もなくなり、検察の存在意義すら危うくなる。
更には裁判官の独断にフリーハンドを与えることで、当事者主義も法治国家も瓦解してしまう。
これを被告人側から見れば、憲法が保障する「証拠に基づく客観的で公平な裁判を受ける権利:(憲法31、32、37条)」が否定され、有罪無罪は裁判官の主観次第という極めて危うい立場に晒される。
加えて証拠なしに有罪とする行為は、近代憲法及び刑事訴訟法の大原則「推定無罪の原則」(疑わしきは罰せず:刑事訴訟法336条)にも違背する。
これは法治国家の瓦解であり、登石裁判官の判決はこれに道を開いたものとして、主権者国民が到底看過できる判決ではない。
⑥当事者主義の否定と弾劾(職権)主義へ逆行した違反
前述の傍聴人江川紹子氏は「判決文にも、それを読み上げた砥石裁判官にも、裁判所が「『政治とカネ』の問題を成敗してやる!」という、ある種の「正義感」がびんびんと伝わってきた」ともいう。
これは新憲法が否定した旧刑事訴訟法の弾劾主義に他ならず、国民主権・民主主義に立脚した新憲法-基本的人権の尊重即ち、国家主義ではなく個人を重視する個人主義-の対極にある思想である。
登石裁判官は、新憲法を否定する国家至上主義者で新憲法下の裁判官にはおよそふさわしくない偏向思考の持ち主であり、裁判官には不適格である。
⑦裁判官の憲法擁護義務(憲法99条)違反
裁判官とは三権分立の一権、司法の頂点に立ち「法治国家と人権擁護の最後の砦」としての職責を負う司法公務員である。
この「人権擁護の最後の守り手」という、民主国家における任務の重大性に鑑み、憲法は、公平な裁判活動が妨げられぬよう、裁判官には相当額の俸給を含め、その身分と独立を憲法上の保障にまで高めて強く保障している。(憲法76条)
つまり、「人権擁護の最後の砦」である裁判官は「自己の良心と法と証拠にのみ拘束され、独立して公平な判断を下せる唯一の国家機関」(憲法76条)であるが故に、多額の血税で養われ、憲法が身分保障している唯一の公務員という特異な優越的地位も是認されるのである。
このように、法曹(=法治国家を支える法律のプロ集団)のトップに君臨し、憲法によって手厚く処遇される特別の国家機関である裁判官は、一般公務員より遥かに高度の憲法擁護義務が課せられて当然である。(憲法99条)
然るに登石裁判官は「自己の良心と法と証拠にのみ拘束され独立して公平な判断を下すべき」裁判官の本務を放棄し、①~⑥に詳述したように、素人目にも明らかな数々の違憲・違法行為を重ねた偏向した違憲判決によって、白昼堂々、臆面もなく憲法・刑法・刑訴法のすべての崇高な理念を蹂躙した。
憲法等の諸法令に対する公務員の遵守義務、中でも司法公務員(法曹=法治国家のプロ)のトップランクに位置する裁判官として、一般公務員を凌ぐ高度の遵守義務があることを十二分に認識しながら、故意にこの重大義務を放棄した登石裁判官の非行は極めて重大である。
まとめ
このように登石裁判官は、人権(民主主義)擁護のための「刑事裁判べからず集」の禁じ手を、ほぼすべて総動員して、本政治資金規正法違反事件に有罪判決を下した。
憲法が刑事被告人に保障した正当手続き(憲法31条)をかなぐり捨てた、一方的な検察(国家権力)万歳!の姿勢は、人権擁護の最後の砦どころか権力擁護の最後の砦にして、人権抹殺の砦である。
同裁判官は過去にも一貫して「決して無罪判決を出さない裁判官」として知られ、巷では「有罪専門の裁判官」と揶揄されている。刑事被告人の諸権利を無視した法令違反の訴訟指揮は、過去にも枚挙に暇がない。
こうした人権無視の態度が本判決にも結実し、多くの明白な憲法等諸法令の違反が判決の随所に見られる。それは、まるで民主主義に挑むが如き傲慢不遜な態度であり、(法のプロ中のプロ)登石裁判官のこうした度重なる違憲行為を看過すれば、法治国家、主権在民、基本的人権擁護、個人主義、議会制民主主義等、民主国家の礎はすべて灰燼に帰す。
違憲行為の重大性に鑑み、訴追請求に及んだ次第である。
http://nipponissin1.blog136.fc2.com/blog-entry-103.html
「登石裁判官訴追に関する意見募集」より貼付
【610】登石裁判官訴追に関する意見募集
転載コピー自由・無限拡散希望
日本一新の会 メルマガ配信
━━【日本一新】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2011/10/13
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
顧問:戸田邦司
発行:平野貞夫
編集:大島楯臣
☆☆☆☆☆ 転載コピー自由・無限拡散希望 ☆☆☆☆☆
☆☆☆登石裁判官訴追に関する意見募集☆☆☆
登石裁判官に対する訴追請求には多くの声が上がっているよう
ですが、日本一新の会維持会員であるH氏より、添付ファイルの
「試案」が届きましたので紹介し、意見を求めます。
会員諸氏(維持・予備区別無)には熟読願い、
1、誤字・脱字、法律用語の適否、
2、文脈などの適否、
3、特に、弁護士諸兄の専門的助言、
4、上記をまとめた後の文書の取扱について、
5、その他、建設的意見、
を募集しますので、info@nipponissin.com までお寄せ頂くよ
うお願い申し上げます。(但し、ボランティアです)
携帯受信でPDFファイルが見えない方、テキストを希望され
る方は、http://nipponissin1.blog136.fc2.com/
に公開してあ
りますので、自由にご活用下さい。
【609】小沢一郎 「本件で特に許せないのは、主権者である国民から何も負託されていない検察・法務官僚が土足で議会制民主主義を踏みにじり、それを破壊し、公然と国民の主権を冒涜・侵害したことであります。」
検察が2度にわたって不起訴としながら、おかしな検察審査会により刑事被告人として法廷に立つことになった小沢一郎民主党元代表。
資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐり、政治資金規正法違反(虚偽記載)の公判が、10月6日に東京地裁(大善文男裁判長)で始まりました。
以下、関連記事を転載します。
(転載はじめ)
小沢元代表、無罪主張 初公判「強制起訴は誤り」
(asahi.comニュース2011年10月6日15時分)
http://www.asahi.com/national/update/1006/TKY201110060123.html
自らの資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐり、政治資金規正法違反(虚偽記載)の罪で強制起訴された民主党元代表・小沢一郎被告(69)の初公判が6日午前、東京地裁(大善文男裁判長)で始まった。小沢氏は「虚偽記載には当たらない。ましてや私が共謀したことは断じてない」と述べ、全面無罪を主張した。
市民で構成する検察審査会が、検察の不起訴処分を覆して起訴した初の裁判。判決の行方は小沢氏の政界での影響力を左右する。判決は来年4月の予定だ。
小沢氏は自ら書面を読み上げ、起訴内容について「検察の不当な捜査で得られた供述調書を唯一の根拠にした検察審査会の誤った判断に基づくものにすぎない。この裁判は直ちに打ち切るべきだ」と訴えた。
(転載おわり)
小沢一郎氏の罪状認否・意見陳述全文が載っているlivedoorのニュースを中田安彦(アルルの男・ヒロシ)さんのtwitterで知りました。
以下に転載します。
小沢一郎氏の堂々たる力強い発言です。ぜひ読んでみてください。
(転載はじめ)
「君はどう考えてるの!」小沢氏、記者の質問に声を荒げる
2011年10月06日17時33分
http://news.livedoor.com/article/detail/5917544/?p=1
●初公判を終えて記者会見
6日、自らの資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐり、政治資金規正法違反(虚偽記載)の罪で強制起訴された小沢一郎・元民主党代表(69)が、都内で記者会見を開いている。
会見の冒頭、小沢元代表は弁護士に「お座りになって」と促されたが、「(記者が)一杯いるな」「今日はサービスしたほうがいい」と余裕の表情を見せ、立ったままでの会見を行っている。小沢元代表は、自身は潔白であるとした法廷での主張を改めて述べるとし、用意された原稿を読み上げた。
小沢元代表は検察の捜査について「国家権力を乱用」「議会制民主主義を踏みにじった」「日本憲政史上の一大汚点」などと厳しく批判、「今ならまだ間に合う。裁判官のみなさまは公正な判断を」と訴えた。
記者からの質問を受けて、「君はどう考えてるの!」「三権分立をどう考えるの?」と声を荒げて"逆質問"。言葉に窮したマスコミの記者に対して、立法権、司法権についてちゃんと勉強して」と諭す場面も見られた。
●小沢会見の模様
それでは私から、最初に申し上げさせていただきます。私が主張したい内容は、本日の法廷で裁判長の許可を頂いて、意見を申し述べましたので、そのことにほとんど触れられていますので、ここで改めて私の意見の陳述を改めて申し上げさせていただきます。
*****
裁判長のお許しを頂き、ただいまの指定弁護士による起訴状に対し私の意見を申し上げます。今、指定弁護士が話されたような事実はありません。裁判長のお許しをいただき、ただいまの指定弁護士の主張に対し、私の主張を申し上げます。
指定弁護士の主張は、検察の不当・違法な捜査で得られた供述調書を唯一の根拠にした検察審査会の誤った判断に基づくに過ぎず、この裁判は直ちに打ち切るべきです。百歩譲って裁判を続けるにしても私が罪に問われる理由はまったくありません。
なぜなら、本件では間違った記載をした事実はなく、政治資金規正法の言う虚偽記載には当たりませんし、ましてや私が虚偽記載について共謀したことは断じてないからです。また本件の捜査段階における検察の対応は、主権者である国民から何の負託も受けていない一捜査機関が、特定の意図により国家権力を乱用し、議会制民主主義を踏みにじったという意味において、日本憲政史上の一大汚点として後世に残るものであります。
以下にその理由を申し上げます。
そもそも政治資金規正法は、収支報告書に間違いがあったり、不適切な記載があった場合、みずから発見したものであれ、マスコミ、他党など第三者から指摘されたものであれ、その政治団体の会計責任者が総務省あるいは都道府県選管に自主申告して収支報告書を修正することが大原則であります。
贈収賄、脱税、横領など実質的犯罪を伴わないものについて、検察や警察が報告の間違いや不適切な記載を理由に捜査すると、議会制民主主義を担保する自由な政治活動を阻害する可能性が出てまいります。ひいては国民の主権を侵害するおそれがあるからであります。だからこそ規正法が制定以来、今日まで何百件、何千件と数え切れないほどの報告間違いや不適切な記載があっても実質的犯罪を伴わないものは検察の言う単純な虚偽記載も含めて例外なく、全て収支報告書を修正することで処理されてまいりました。
私の政治資金団体「陸山会」の事件が立件されたあとも、本日ただ今もそのような処理で済まされております!それにも関わらず唯一私と私の資金管理団体、政治団体、政党支部だけが一昨年3月以来1年余りにわたり、実質的犯罪を犯したという証拠は何もないにも関わらず東京地検特捜部によって強制捜査を受けたのであります。
もちろん、私は収賄、脱税、背任、横領等、実質的犯罪は全く行っていません。なぜ私のケースだけが単純な虚偽記載の疑いで何の説明もなく、突然現行法の精神と原則を無視して強制捜査を受けなければならないのか。
これでは到底、公正で厳正な法の執行とは言えません!したがってこの事例においては、少なくとも「実質的犯罪はない」と判明した時点で捜査を終結すべきだったと思います。それなのに、一昨年春の西松事件による強制捜査、昨年初めの陸山会事件による強制捜査など、延々と捜査を続けたのは、明らかに常軌を逸していると思います。
この捜査はまさに検察という国家権力機関が政治家・小沢一郎個人を標的に行ったものとしか考えようがありません。私を政治的・社会的に抹殺するのが目的だったと推認できますが、明確な犯罪事実、その根拠が何もないにもかかわらず、特定の政治家を対象に強制捜査を行ったことは、明白な国家権力の乱用であり、民主主義国家、法治国家では到底許されない暴力行為であります!
日本特派員協会の会長でもありましたオランダ人ジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、近著「誰が小沢一郎を殺すのか?」で「小沢一郎に対する強力かつ長期的なキャラクター・アサシネーション『人物破壊』は、政治的に類を見ない」と言っています。「人物破壊」とは、その人物の評価を徹底的に破壊することで、表舞台から永久に抹殺する社会的暗殺、アサシネーションであり、生命を奪う殺人以上に残虐な暴力だと思います。
それ以上に、本件で特に許せないのは、主権者である国民から何も負託されていない検察・法務官僚が土足で議会制民主主義を踏みにじり、それを破壊し、公然と国民の主権を冒涜・侵害したことであります。
一昨年の総選挙の直前に、何の根拠もないのに検察当局は捜査・逮捕権という国家権力を乱用して、野党第一党の代表である私を狙って強制捜査を開始したのであります。
衆議院総選挙は、国民がみずから主権を行使して、直接、政権を選択することのできる唯一の機会にほかなりません。
とりわけ、2年前の総選挙は、各種世論調査でも戦後半世紀ぶりの本格的な政権交代が十分に予想された特別なものでありました。そのようなときに、総選挙の行方を左右しかねない恣意的な権力の行使が許されるとするならば、日本はもはや民主主義国家とは言えません。議会制民主主義とは、主権者である国民に選ばれた代表者たる政治家が自由な意思により、その良心と見識に基づいて、国民の負託に応え、国民に奉仕する政治であります。国家権力の介入を恐れて、常に官憲の鼻息を伺わなければならない政治は、もはや民主主義ではありません!
日本は戦前、行政官僚、軍部官僚、検察・警察官僚が結託し、財界・マスコミを巻き込んで、国家権力を乱用し、政党政治を破壊しました。その結果は、無謀な戦争への突入と悲惨な敗戦という悲劇でありました。昭和史の教訓を忘れて今のような権力の乱用を許すならば、日本は必ず同様の過ちを繰り返すに違いありません。
東日本大震災からの復興はいまだに本格化できず、福島第一原子力発電所の事故は安全な収束への目途すら立たず、加えて欧米の金融・財政危機による世界恐慌の恐れが目前に迫ってきている時に、これ以上政治の混迷が深まれば、国民の不安と不満が遠からず爆発して偏狭なナショナリズムやテロリズムが台頭し、社会の混乱は一層深まり、日本の将来は暗たんたるものになってしまいます。
そうした悲劇を回避するためには、まず国家権力の乱用をやめ、政党政治への国民の信頼を取り戻し、真の民主主義、議会制民主主義を確立する以外にはありません。「まだ間に合う!」私はそう思います。裁判長はじめ裁判官の皆様の見識あるご判断をお願い申し上げ、私の陳述を終えます。有難うございました。
*****
以上が、私が法廷において申し上げたことであります。私の真意は今申し上げたことに尽きていると思いますので、皆さんのご意見を求めたいと思います。以上です。
●初公判を終えて記者会見
―秘書三人の方の一審での有罪判決が出ましたが、刑事責任とは別に道義的責任を問う声もあります。今後の政治活動で何らかの対応、議員辞職などの対応を取るつもりはありますか?
私も私の秘書も、有罪と認定されるようなことは何もしておりません。先ほどの判決についても、何の証拠もない。裁判官が自分の推測や推断で判決を下す。私は司法の自殺に等しいと思っております。私達が何か違法なことをしたのであれば、あんたが今言ったようなことをするでしょうが、そんなことをしてないのでする必要はありません。
―国会での証人喚問を野党は求めていますが、国会で説明責任を果たす考えはありますか?
君はどう考えてるの!裁判が進んでいるときに、そういうことをすべきの?
―司法手続きは重要ですが……
あ、そうなの。三権分離をどう考えてるの?
― ……。(言葉に窮する記者)
ちゃんとよく勉強して、筋道をたった質問をしてください。裁判所は、証拠に基づいて判断をする場でしょう。そこがいろいろな力や干渉で左右されるようなことがあってはいけないから司法は司法で独立しているんでしょう。よく勉強してから質問してください。
―4億円の原資は?
私のお金です。強制捜査をして何でも知っている検察にお聞きください。
―小沢さんがこうまで司法やマスコミに狙われるはなぜでしょう。官僚の人事や、テレビ局と新聞社のクロスオーナーシップに踏み込むからではないか?
私は官僚の人事に口を出したことはありません。ただ、マスコミの集中排除は法的に規定されておりますし、私はどういう分野でも程度の差はあれ、自由な競争が必要だと思っております。身近なことを言えば、会見もどなたにもオープンにしております。
―それが記者クラブに嫌われた理由ですか?
それは分かりません。
(転載終わり)
【608】「民主党政権とはなんだったのか」
http://www.tachibana-akira.com/
作家・橘玲(たちばな・あきら)のホームページ より
(以下貼付)
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2010年8月20日 橘 玲
民主党政権とはなんだったのか(1)
投稿日: 2011年8月22日 作成者: tachibana
菅首相が退陣を決意し、1週間後にはこの国に新しい首相が誕生する。これを機に、「民主党政権とはなんだったのか」を考えてみたい。
といっても、私は政治学の専門家ではないから、ここでは政治学者・飯尾潤の『日本の統治構造』を導きの糸としたい。同書は、この国がどのような権力関係よって統治されているのかを、政治家や官僚への膨大な聞き取り調査(フィールドワーク)に基づいて検証した労作で、今後も長く日本の政治を語る際の基本文献になるだろう。
飯尾は、日本の統治構造の特徴を「官僚内閣制」「省庁代表制」「政府・与党二元体制」の3つのキーワードにまとめる。これら3つの要素は互いに相補的な関係(ナッシュ均衡)にあり、安定的な(なかなか変わらない)日本の「政治」をかたちづくっている。
そもそも議院内閣制とは、 民主的な選挙で選ばれた議員(国民代表)が議会を構成し、その議会に権力を集中する仕組みだ。大統領制では大統領と議会に権力を分散するのに対し、議院内閣制では、議会主権による権力の集中が行なわれる。
連邦債務上限問題をめぐる米議会の混乱を見ても明らかなように、アメリカの大統領は議会を統制する権限をほとんど持っていない。日本に政治リーダーシップがないからといって、大統領制に変えても問題はなにも解決しない。
議院内閣制では、議会内で多数を占めた政権党(政党連合)が内閣総理大臣を選出し、総理大臣は各省庁の国務大臣を指名して政府を組織する。このような権力フロー(統治構造)からすれば、政府と政権党は一体であり、議会内での対立は政権党と野党の間で起こるはずである。
ところが実際には、日本の政治には本来の議院内閣制ではあり得ない奇妙なことが頻発する。
ひとつは、各省庁の大臣に実質的な拒否権が与えられていることだ。自民党時代の閣議は全員一致が原則で、大臣が反対するものは閣議決定に回されなかった。大臣は担当する省庁の代理人(エージェント)として、省庁の利害を代表することを求められていた。
このため閣議決定には事前の根回しが不可欠で、前日に各省庁の事務次官が集まる事務次官会議が開かれ、そこで反対のなかった案件だけが翌日の閣議の議題とされることになった。
大臣が各省庁の代理人となり、その合議体として内閣が構成されるのが官僚内閣制だ。
官僚内閣制では、政府における最終的意思決定の主体が不明確化し、必要な決定ができなくなり、 政権が浮遊してしまう。これが日本中枢の崩壊だが、それは議院内閣制の問題ではなく、日本的な統治構造の必然的な帰結なのだ。
民主政(デモクラシー)では、国民(Nation)の代表である国会議員が国家(State)を統治する。これが国民国家(Nation State)だ。ところが日本では、官僚制が国家を侵食することで、この統治構造が大きく変質してしまった。
日本の官僚制は、地方政府(地方自治体、地方公共団体)や業界団体などを通じて社会の隅々にまで根をはりめぐらせている。だがこうした権力のネットワークは省庁ごとに縦割りで分断されており、各省庁は自らの権限をめぐって熾烈な競争を行なっている。
こうした組織では、政策はトップダウンではなく、現場からの積み上げによってつくられる。
業界団体などが必要な政策を省庁に要望し、所轄課がそれをとりまとめて政策の原案をつくる。この原案は「合議(あいぎ)」あるいは「相議」と呼ばれる手続きによって、省内の関係部局の同意を取りつけ、局長間の合意を経て省案となる。
こうしたボトムアップの合意形成は、責任の所在が曖昧になる一方で、現場の実情を踏まえた政策が立案され、その内容が実施担当者に正しく理解されているというメリットも持っていた。その意味では、1970年代前半までの「政策不足」の時代にはきわめてよく適応した。
日本では、官僚制は閉じた存在ではなく、社会に深い根を持っている。これは社会の側が、業界団体や政治家を通じて官僚制を侵食しているということでもある。すなわち官僚制とは、日本においては、社会諸集団の結節点として機能しているのだ。
議院内閣制では国会議員は国民代表だが、官僚内閣制では社会集団のさまざま利害を官僚が代弁することになる。これが省庁代表制で、日本は自律した省庁の連邦国家なのだから、「省庁連邦国家日本(United Ministries of Japan)」と呼ぶこともできる。
ところが70年代末になると、日本社会が成熟し政策は飽和して、さまざまな問題が露呈することになる。
官僚にとっては新しい政策を立案し権限を拡張することが最優先だから、似たような法律が乱立し、際限なく増殖していくことになった。
行政が複雑になり、権限が分散化するにつれて、「拒否権」を持つ者が増えて合意形成に時間とコストがかかるようになった。
最大の問題は、既得権に干渉するような政策の立案がまったく不可能になったことだ。こうして官僚内閣制は、90年代以降の日本の危機にまったく対処できなくなった。
日本の政治のもうひとつの特徴は、政権党が自らを「与党」と名乗り、政府から距離を置くことだ。
自民党時代は、党の政務調査会が実質的な立法活動を担い、族議員(派閥の有力議員)が政策決定を実質的に支配した。これが「派閥政治」だが、しかし先に述べたように、官僚内閣制では政府に官僚を統制するちからがないのだから、政治家がその権限を別の場所に求めるのは当然のことでもある。
与党の合意のない法案は閣議決定を行なわないという不文律が生まると、官僚は自分たちの政策を実現するために政治家の支持を得なくてはならなくなった。日本では、国会運営は党の専管事項とされ、政府(内閣)は関与できないため、与党議員の協力や野党議員の暗黙の了解がなければ法案は議会を通過できないのだ。
その結果、「国対政治」で与野党が国会審議を紛糾させればさせるほど、官僚は対応に窮し、政治家の権限が拡張していくという奇妙な現象が起きることになった。
さらには自民党の人事システムでは、大臣は能力や実績とは関係なく、一定以上の当選回数に達した議員に平等に割り振られる名誉職とされたため、実際の権力は官僚以上に政策に精通した族議員に集中することになった。これが「政高官低」で、90年代以降、若手の官僚が省庁を見捨てて政治家に転進する例が急増した。
政府・与党二元体制は、官僚内閣制と省庁代表制のもとで、「国民代表」としての政治家が行政に介入する非公式な仕組みであったが、その行動は選挙区や支援団体の利害に左右され、日本全体の利益に関心を持つことはなかった。
こうして日本の統治構造は完全に行き詰まり、「小泉改革」を経て、民主党による政権交代が実現した。
次回は、民主党(鳩山政権)が、日本の統治構造の抜本的な変革を目指したことを検証してみよう。
民主党政権とはなんだったのか(2)
投稿日: 2011年8月24日 作成者: tachibana
いまやなつかしい鳩山政権のマニュフェストを読み返すと、その冒頭に「5原則5策」の政権構想が掲げられている。「内閣官僚制」「省庁代表制」「政府・与党二元体制」という日本の統治構造の変革を民主党が目指していたことがよくわかるので、すこし長くなるが引用しておこう。
【5原則】
原則1 官僚丸投げの政治から、政権党が責任を持つ政治家主導の政治へ。
原則2 政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下の政策決定に一元化へ。
原則3 各省の縦割りの省益から、官邸主導の国益へ。
原則4 タテ型の利権社会から、ヨコ型の絆(きずな)の社会へ。
原則5 中央集権から、地域主権へ。
【5策】
第1策 政府に大臣、副大臣、政務官(以上、政務三役)、大臣補佐官などの国会議員約100人を配置し、政務三役を中心に政治主導で政策を立案、調整、決定する。
第2策 各大臣は、各省の長としての役割と同時に、内閣の一員としての役割を重視する。「閣僚委員会」の活用により、閣僚を先頭に政治家自ら困難な課題を調整する。事務次官会議は廃止し、意思決定は政治家が行う。
第3策 官邸機能を強化し、総理直属の「国家戦略局」を設置し、官民の優秀な人材を結集して、新時代の国家ビジョンを創り、政治主導で予算の骨格を策定する。
第4策 事務次官・局長などの幹部人事は、政治主導の下で業績の評価に基づく新たな幹部人事制度を確立する。政府の幹部職員の行動規範を定める。
第5策 天下り、渡りの斡旋を全面的に禁止する。国民的な観点から、行政全般を見直す「行政刷新会議」を設置し、全ての予算や制度の精査を行い、無駄や不正を排除する。官・民、中央・地方の役割分担を見直し、整理を行う。国家行政組織法を改正し、省庁編成を機動的に行える体制を構築する。
「内閣官僚制」とは、内閣総理大臣の指示に従って国務大臣が省庁を統治するのではなく、各大臣が省庁の代表としてふるまうことだった。そこで民主党は、事務次官会議による事前の根回しを廃止し、そのかわりに政治家を大量に省庁に送り込んで、政治主導の意思決定を行えるようにした(幹部職員の人事も政治家が決めるとした)。
それと同時に、事務次官会議に代わる総合調整の機能として「国家戦略局」を創設し、予算の骨格の策定まで行なうとマニュフェストには記した。
「省庁代表制」では、中央政府は地方政府や業界団体を手足のように使って、社会諸集団の利害を代弁し、政策の立案から遂行までを行なってきた(同時に利害関係者は、政治家や業界団体を介して官僚の意思決定に影響力を及ぼした)。
そこで民主党は、地方政府に大幅に権限を移譲するとともに、「ひもつき補助金」を廃止して自由に使える「一括交付金」にすることで、地方政府を財政的にも自立させ、中央政府との役割分担を明確にしようとした。それと同時に、天下りや渡りなどを全面的に禁止し、官僚と民間との癒着を絶つことを目指した。
「政府・与党二元体制」では、政権党が「与党」として政府から距離を置くことで、族議員など党(派閥)の有力者による非公式の行政への介入が常態化していた。民主党のマニュフェストでは、政府と与党を一元化し、意思決定を内閣に集中することを明確にうたった。
ところで、こうした「改革」は民主党の独創というわけではない。自民党政権でも日本の統治構造の欠陥は認識されており、改革への努力は始まっていたと飯尾は指摘する。
橋本内閣では、行政改革会議を中心に内閣機能強化と省庁再編が実施された。各省庁に副大臣と政務官を配置することにしたのは小渕内閣で、小泉内閣では経済財政諮問会議で基本政策を決め、首相主導の内閣がトップダウンで政策を実施する「大統領的」手法がとられた。
それと同時に、官僚の世界でも変化はすこしずつ起きはじめていた。
まず、政権中枢に近い内閣府の官僚に権限が移行することで事務次官を頂点とするキャリアパスが揺らいできた。さらには地方自治体が独自性を主張することで、明治以来の中央官庁の威信も低下した。
自民党から民主党への政権交代は、こうした政治改革の流れをさらに加速させるはずのものであった。
政治改革の目的は、議院内閣制の下で内閣に権力を集中させることだ。しかしこれは、一歩間違えば独裁へとつながりかねないから、権力を統制する仕組みが不可欠となる。それが、政権交代だ。
自民党時代は派閥抗争によって擬似的な政権交代が行なわれてきたが、民主党はマニュフェストという「国民との契約」を掲げて選挙をたたかい、政権交代できることを示した。
政権党の内閣に権力を集中させても、その結果に満足できなければ、次の衆院選で政権交代させればいい。権力統制の仕組みとしては、こちらの方がずっとすっきりしている。民主党は、政権交代という選択肢を有権者に提供したことで、強大な権力を行使する正統性を得たのだ。
2009年の民主党は、(すくなくともマニュフェストのうえでは)日本の統治構造の問題点を明確に意識し、その変革を目指していた。「ばらまき4K」は政権交代のための方便であり、税と社会保障の一体改革は新しい政治体制でこそ実現可能になる。だとすれば政治=行政改革こそが、民主党政権の本質だったのだ--たぶん。
ところが鳩山政権は、当初こそ事業仕分けで喝采を博したものの、マニュフェストにも記載のない沖縄・普天間基地の移設問題で国会を紛糾させ、さらには小沢一郎幹事長(当時)が政治資金規正法違反で強制起訴され、鳩山自身も個人献金の虚偽記載が明らかになったことで行き詰まって政権を投げ出してしまった。
代表戦の結果、菅直人が総理の座を担うことになったが、その直後の参院選で大きく議席を減らし、衆参のねじれ国会で立ち往生することになった。その後、東日本大震災と福島原発事故で延命したものの、けっきょく政治改革はなにひとつ進まないまま辞任することになった。
しかし菅首相は、皮肉にも、日本の統治構造における内閣総理大臣の権限を明らかにするうえで大きな貢献をした。そのことを示す好個のエピソードがある。
7月27日、菅首相は海江田経産相の頭越しに、経済産業省に対し電力需給に関する情報をすべて開示するよう文書で指示した。この措置に対して海江田大臣は、「私は全部開示してきた。これまでやってきたことはほとんど無駄だという思いだ」「悔しい。信用されてないと思った」「私の行動に納得がいかなければ、そのときは首を切っていただくことになる」などと述べた。
さらに29日の衆院経済産業委員会で、自民党議員から早期辞任を求められた海江田経産相は、「もうしばらくこらえてください。お願いします。頼みます」などと声を詰まらせ答弁し、席に戻った後、涙を堪えきれず顔を手で覆った。
『日本の統治構造』で飯尾は、日本の内閣総理大臣は憲法上は強大な権限を持っているものの、内閣法ではなんの権限もないと述べている。
憲法第72条には、「(内閣総理大臣は)内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する」と定められている。これによれば、内閣総理大臣には各省庁官僚を使って、行政事務を実施する権能が与えられていると解される。
一方、内閣法第3条は、「各大臣は、別に法律に定めるところにより、主任の大臣として、行政事務を分担管理する」とある。これを厳密に適用すると、内閣総理大臣は、分担管理大臣としては、内閣府(かつての総理府)の長としての権能しか持たない。すなわち、その他の各省庁に指揮監督権を行使することはできず、総理大臣にはほとんど権限が残っていないことになる。
これまでは内閣法に則って、あるいは慣習として、首相は大臣を通じて行政を統括し、各省庁に直接の指示・命令は出さないことになっていた。だからこそ海江田大臣は、菅首相の仕打ちを自分に対する侮辱ととらえたのだ。
しかしこの騒動は、制度上、内閣総理大臣はオールマイティに近い権力を持っていることを明らかにした。浜岡原発の運転停止要請にせよ、全原発に対するストレステストにせよ、日本の総理大臣は、やろうと思えばなんだってできるのだ。
しかしこれは、民主党がマニュフェストで高らかにうたった「政治主導」とはまったく異なるものだ。
マニュフェストによれば、総理直属の「国家戦略局」に官民の優秀な人材を結集し、そこで策定された国家戦略に基づいて、首相の強力なリーダーシップの下、各省庁を統括する国務大臣や副大臣、政務官などの政治家が官僚を指揮して政策を立案・実行することになっていた。
だが国家戦略局は「国家戦略室」に格下げされ、その位置づけも曖昧で、大震災以降もほとんど存在感を示せていない。そうなると、首相がどのような手続きを踏んで意思決定をしているのか外部からはまったくわからなくなる。これが、経産省や電力会社に対する一連の指示・要請が「思いつき」「パフォーマンス」と批判された理由だ。
これは控えめにいっても、民主党がマニュフェストで主張した「新しい日本の統治構造」とはまったく関係のない、グロテスクな権力行使だ。「権力の集中」が、総理大臣が恣意的に強大な権力を行使することなら、これはたんなる独裁にほかならない。
民主党はきわめて理念的に日本の統治構造を分析し、設計図を引き直すようにシステム全体をつくりかえようとした。それは自民党時代からの共通認識に基づくもので、淵源をたどれば小沢一郎の『日本改造計画』に行き着くのだろうが、現状分析や対処法(ビジョン)が間違っていたとはいえない。
それではなぜ、民主党の「日本改造計画」は失敗してしまったのか。鳩山政権の金銭疑惑や菅政権での参院選の敗北がなければ、民主党はマニュフェストどおりの改革を実現できたのだろうか。次回は、そのことを考えてみたい。
民主党政権とはなんだったのか(3)
投稿日: 2011年8月26日 作成者: tachibana
「官僚内閣制」「省庁代表制」「政府・与党二元体制」という日本的な統治構造では、仕切られた省庁の枠組のなかで、ボトムアップの合意形成によって政策がつくられていく。この仕組みは戦後の復興期、社会の各層に的確な政策が必要とされていた時期にはきわめてよく適合した。
だがこの大きすぎる成功体験が、冷戦終焉以降の歴史的な変化に乗り遅れる原因ともなった。「省庁連邦国家日本」には、国益のためにトップダウンで合理的な意思決定をする仕組みが備わっていないのだ。
そこで民主党は、2009年の政権交代を受けて、日本の統治構造の改造に乗り出すことになる。
民主党の「原理主義者」たちの理解では、政権交代後にこの国にふたつの権力が並立することになった。ひとつは選挙で選ばれた国民代表を基盤とする民主党内閣、もう一つは省庁代表を基盤とする官僚内閣だ。
ひとつの国にふたつの権力は並び立たないのだから、民主党内閣は、権力闘争によって官僚内閣を打倒しなければならない。このようにして事業仕分けによる官僚バッシングが始まったのだが、じつは主戦場は別のところにあった。
日本の官僚制は、大きく3つの権力の源泉を持っている。
ひとつは、官僚だけが事実上の立法権を有していることだ。
日本では、内閣法制局の審査を通った法案しか国会に提出できない。これは、法令体系を統一的で相互に矛盾のない規定によって構成するためだとされるが、複雑怪奇で膨大な法令データベースを参照できるのは現実には担当部局の官僚だけであり、立法府のはずの国会はほとんど立法機能を持っていない。
二つ目は、法律の解釈を独占し、事実上の司法権を有していることだ。
地方自治体では、法令について不明な部分があると省庁の担当部局に問合せ、官僚が正しい解釈を伝えることが当たり前のように行なわれている。これも法令についてのデータベースを独占しているから可能になることで、官僚は立法権だけでなく司法権も行使できるのだ。
三つ目は、予算の編成権を持っていることだ。
日本国の予算は各省庁の要望を財務省(主計局)が「総合調整」したものだから、官僚が自ら予算を編成しているのと同じことになる。もちろん政治家は族議員などを通じて予算に関与することができるが、官僚と族議員(ロビイスト)は共生関係にあり、こうした非公式の影響力では官僚の権限は揺るがないのだ。
日本は憲法のうえでは三権分立だが、実際は省庁が行政権ばかりか立法権と司法権を有し、予算の編成権まで持っている。さらには、各省庁は法によらない通達によって規制の網をかけ、許認可で規制に穴を開けることで業界に影響力を及ぼし、天下り先を確保している。
こうした権力の源泉を絶つためには、政と官の役割の徹底した組みなおしが必要だ。
アメリカやイギリスでは、「後法は前法を破る」「特殊法は一般法に優先する」といった概念をもとに法令の有効性を判断し、法令相互の矛盾を気にせず法律をつくり、最終的には裁判所による判例の蓄積で矛盾を解決している。これが議員立法が活発な理由で、小沢一郎は、内閣法制局を廃止することで官僚から立法権を奪取し、国会を名実ともに立法府とすることができると繰り返し主張している。
また政治=行政改革では、司法の機能を強化するとともに、官僚の恣意的な法令解釈を排除し、利害関係者が司法の場で法令の解釈を問うことを目指した。
さらには予算の総合調整機能を財務省から国家戦略局もしくは内閣予算局に移行するとともに、民主党の議員が個別に霞ヶ関に陳情することを禁止し、党の要求は幹事長に一元化することにした。
だがこのなかで実現したのは霞ヶ関への個別陳情の禁止だけで、それ以外の官僚の権限に手をつけることはできなかった。
本来であれば、憲法によってその権威を保証された議院内閣に対し、たんなる非公式な慣習でしかない官僚内閣が対抗できるはずもなかった。だが普天間問題で鳩山政権が求心力を失うと、立法・司法・行政権を独占する官僚に、「権力の集中」を目指したはずの内閣は実務を丸投げするほかなくなった。
だがこれは、官僚制が権力闘争に勝利した、ということではない。自分たちの組織が機能不全を起こしていることは、彼ら自身にも認識されていたからだ。
「官僚支配」というのは、各省庁が共同して日本を統治しているということではない。官僚制の本質は、権限の範囲を仕切られたなかでの省庁同士、あるいは省庁内部の局や部、課のあいだの権限争いで、そこには共同の意思はなく、各自が自分たち(と関係者)の利益を最大化するために合理的に行動しようとする。
こうした組織は、合意形成の積み上げによって意思決定するのだから、経済が拡大するなかでの分配には長けているが、全体のパイが縮小するとたちまち足の引っ張り合いを起こしてしまう。太平洋戦争における陸軍と海軍の確執がその典型で、彼らの全精力は敵とたたかうことではなく、内輪もめに対処することに割かれていた。
もちろんこんなことは、これまで繰り返し指摘されてきた。しかし、日本でもっとも知的なひとたちの集まりであるはずの官僚制は、何十年たってもこの欠陥を自ら修正することができない。
いつまでたっても変わらないのは、変わらないことに合理的な理由があるからだ。
そもそも公務員の人事制度は、日本社会と独立に存在するわけではない。終身雇用と年功序列を絶対の掟とする公務員人事は、日本的雇用制度の純化した姿だ。
公務員制度改革の理念では、官僚を企画(総合職)と実施(一般職)、および技官(専門職)に分け、政策の立案に携わる企画官僚は内閣に新設される人事局でプールし、省庁を横断して最適な人材を派遣していくことになっていた。これがもし実現すれば、省庁の縦割りは意味を失い、日本の官僚制は革命的な変化を起こすだろう。
だがこの理想世界には、決定的に重要な前提条件がある。
新しい公務員制度では、企画官僚は政権党のシンクタンクの役割を果たすことになるが、常に最適なポストがあるとはかぎらない。幹部の人数は限られているのだから、人材プールで待機中は民間企業で働くことになる。アメリカで行なわれている、官と民の「リボルビングドア」だ。
ところが年功序列と終身雇用の日本的雇用制度では、たとえ現役官僚であったとしても、企業は中途採用をしたがらない。そこで省庁が、コネを使ってなんとか引き取ってもらうというのが「官民交流」の実態になっている。これはもちろん官と民の癒着の温床になるが、だからといって禁止してしまうと、官僚は再就職できなくなって省庁に滞留するほかなくなる。
民主党は、日本的な雇用慣行をそのままにして、官僚制だけをアメリカ型に改造しようとした。彼らに欠けているのは、アメリカの公務員人事制度は、アメリカの労働市場に最適化されているという視点だ。
アメリカでは労働市場の流動性が高く、異業種への転職も頻繁に行なわれ、中途入社は当たり前だ。だからこそ、能力と実績を買われた官僚が民間企業に転職したり、成功したビジネスマンが省庁幹部に政治任用されたりする。
官僚機構をアメリカ型につくり変えるには、その土台である日本的雇用制度を解体しなければならなかったのだ。
官僚制度は誰かが意図的につくったわけではなく、日本社会のなかで自生的に生まれ、歴史のなかを連綿とつづいいて、高度成長期にいまの姿に拡張を遂げた。それは私たちの身近な生活に深く根を下ろし、そこから養分を吸い上げてきた。
私たちは、公務員制度改革を自分たちには関係のない話だと考え、既得権にしがみつく官僚たちに憤慨し、事業仕分けで立ち往生する様を嘲笑した。だがひとは、鏡に写った姿だけを都合よく変えることはできない。
「日本改造」とは、官僚の天下りを禁止することではなく、日本そのものをドラスティックに変えていくことだ。しかし、連合の支援を受けた民主党政権に日本的雇用に手をつける覚悟があるはずもなく、そもそもどの程度理解していたかも疑わしい。マニュフェストは、最初から絵に描いた餅だったのだ。
このようにして「改革」は予定調和的に破綻し、いまでは大臣は省庁の代理人に戻り、与党と政府が責任を押しつけあう旧態依然の統治構造に逆戻りしてしまった。
「改革」は、戦後日本の統治構造が機能不全に陥ったからこそ、やむなく始まった。それがうまくいかないからといって元に戻しても、問題はなにも解決しないばかりか、事態はさらに悪化していくだけだ。これは次に誰が首相になっても同じで、仮に大連立が成立したとしてもさらなる混迷に陥るだけだろう。
私たちは、次なる衝撃に備えなければならない。
(以上貼付)
【607】小沢一郎衆議院議員公開討論会および記者会見2011/07/28
2011/07/28
小沢一郎衆議院議員公開討論会および記者会見
【606】中国発“ODA”は「何でもあり」?「北京コンセンサス圏」拡大で我が道をゆく 日経ビジネスオンライン連載 荒木 光弥 【ODA削減でいいのか日本】より
会員の黒瀬祐子です。最近、副島隆彦先生の『あと5年で中国が世界を制覇する』(2009年 ビジネス社 刊)を読み返しました。その中にあった中国のODA戦略に関連する記事を、日経ビジネスオンライン連載 【ODA削減でいいのか日本】で見かけたので紹介します。
なお、副島先生のODA論=敗戦後に軍事国家(自力防衛国家)であることを禁じられた日本が、密かな国家戦略として取り組んで着々と実行してきた戦後最大の国際戦略(対世界戦略)。外務省の陰に隠れて、経済産業省(旧通産省の官僚たち)が営々と30年に渡って実行=という分析は「今日のぼやき」の下記の記事にあります。あわせて必読です。
「323」 力作論文 「ODA(政府開発援助)のからくりを大きく謎解きをする」を載せる 2002.7.15
https://www.snsi.jp/tops/boyaki/350
「336」 続・ODAのカラクリ 2002.8.25
https://www.snsi.jp/tops/boyaki/369
「中国のODAは日本のODAを手本にした国際戦略である」というのが、副島隆彦先生の『あと5年で中国が世界を制覇する』での分析でした。
以下は、日経ビジネスオンライン連載【ODA削減でいいのか日本】より転載です。
(転載はじめ)
中国発“ODA”は「何でもあり」
「北京コンセンサス圏」拡大で我が道をゆく
http://cmad.nikkeibp.co.jp/?4_114514_533209_139
荒木 光弥
2011年7月11日(月)
アメリカン大学のデボラ・ブローディガム教授は2009年に「ドラゴンの贈り物(Dragon’s Gift)―アフリカにおける中国の真実」を出版した。その内容は、中国のアフリカ援助を丹念に現地調査しているだけあって新鮮だった。それは、中国の対外援助に関する情報が絶対的に不足していたからである。
それでは少し本の内容を紹介してみよう。
まず、(1)中国援助の特徴についてこう述べている。
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中国援助の特徴は、ヨーロッパや日本から受けた援助のやり方を模倣していることだ。特に、中国は日本がかつて援助を商業的利益と結び付けた手法をアフリカで多用している。
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1958年、日本は最初の円借款をインドのゴア鉄鉱石の採掘に供与するが、当時、ヨーロッパの掘削機材に比べて日本製品は品質が悪かった。
そこで、日本はヒモ付き(タイド)の円借款により日本製品の輸出に結び付け、10年間にわたって毎年200万トンの鉄鉱石輸入を行い、その代金を日本からの融資の返済に振り向けた。中国はこうした体験を下敷きにアフリカを援助している。
当時、日本ではこれを開発輸入と名付け、時にその事業を「ナショナル・プロジェクト」と呼んでいた。ナショナル・プロジェクトの多くは資源開発型で、常に国家が支援し、そのリスクも国家が担保していた。
日本は開発輸入をこう解釈していた。資本、技術、経営の一体化した経済活動を通じて途上国の潜在的な資源開発を行い、それに市場性を与えて、これを輸入することにより、日本の必要な資源の安定供給確保に資する、であった。
■“モデル国家”として映る中国
次に(2)アフリカ人から見た中国の援助については、このような意見を紹介している。
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ナイジェリア外交官「アフリカ人には中国企業との競争に脅える人もいるが、中国は貧困から繁栄へと立ち上がった“モデル国家”として多くのアフリカ人の想像を刺激するものだ」。
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この意見に関しては、「国家モデルについては欧米の民主化より国内体制の安定を優先する国家資本主義モデルだとし、このモデルに共鳴する途上国や新興国が増えている」と指摘した上で、「中国は経済協力(対外援助)を武器にロシアや中央アジア、中東、アフリカ、中南米と連携を深めている」と分析する人もいる。
また、そこには安定と繁栄の弧としての「北京コンセンサス圏」(佐藤賢著『習近平時代の中国』=日本経済新聞出版社)が生まれ、欧米の「ワシントン・コンセンサス圏」と対立することになる、と予見する人もいる。
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チサノ前モザンビーク大統領「欧米など援助国は、アフリカのインフラ支援や民間セクター支援を怠ってきた。中国の援助は、ほかの援助国が低い優先度をつけたインフラ開発や留学生への奨学金支給を重視してきた」。
セネガルのワデ大統領「DAC(OECDの開発援助委員会)に加入している欧米、日本など伝統的な援助国は一種のカルテルを組み、援助の使い方やその内容まで高飛車に指導しようとする。1980年代の世銀ローンは平均60%の条件付きである。中国援助は押し付けず、我々のニーズに単純にして素早く対応してくれる」。
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恐らく民主化のみならず、自分の価値観で正義を押し付ける欧米の流儀は、アフリカの指導者の目に「主権侵害」「内政干渉」と映っているのかもしれない。中国はそこを巧みに利用しながら、アフリカ諸国を国家資本主義的な「北京コンセンサス圏」内に引き込んでいるとも言える。
著者のデボラ・ブローディガム教授は、中国のアフリカへの対外援助に対し、ある一定の評価を与えているように見える。恐らくこれまでの欧米諸国とは異なる援助の考え方や方法に一種の新鮮味を感じているのかもしれない。
■先進国が加盟するDACのルールを無視
「ドラゴンの贈り物」発行から2年を経た今年4月、中国政府は初めて8カ国語に翻訳した「中国の対外援助」という小冊子を出版した。これで中国の対外援助は世界に向けて公式に情報開示されたことになる。
それによると、1953年から2009年末までの援助総額は約2563億元(約3兆6000億円)で、161カ国に援助し、うち約50%がアフリカで、約30%がアジアである。これでも中国援助のアフリカ重点が明らかになった。
もっとも中国の対外援助が急上昇し始めたのは2007年頃からで、そのピークは2010年で商業的な優遇バイヤーズ・クレジットを加えるとその総額は約650億元(約9000億円)の巨額に達すると見られている。
中国の対外援助は、先進国が加盟するDACの援助ルールを無視しているので、その仕組みも方法も異なる。
■2006年に日本を抜いて世界一に
要するに、インフラ整備から産業開発、農業開発、民間ベースの企業振興、市場開拓までのすべてを包括する援助が中国式で、その方法も無利子借款だったり、特恵貸付という優遇借款(返済帳消しもある)だったりで、中国輸出入銀行、国家開発銀行などがそれらの窓口になっている。
ちなみに、中国輸出入銀行の2010年の融資承諾規模は4364億元(約6兆1000億円)、国家開発銀行の2010年の外貨融資規模は434億ドル(3兆7000億円)で、第12次5カ年計画期間中(2011~15年)には5000億ドル(42兆5000億円)の外貨融資を計画しているという。
実際には、中国の国営企業なり私企業が援助事業に関与しても、それらは国家主導の下での仕事であって、国家の保護(リスクヘッジ)を受けているので安定性と持続性が高い。
中国の外貨準備高は人民元の切り下げ圧力を受けながらも2006年に日本を抜いて世界一になり、その規模は3兆447億ドルを記録している。
かつて日本は1980年代後半に外貨独り占め状態になって、世界中のバッシングを受けながら「資金還流計画」と称して650億ドルを一部は援助で、多くは投融資で外貨のバラ撒きを行ったことがあるが、この時の日本に比べてみると、中国の粘り腰は比較にならないほど強い。
もっとも今の中国は最大の米国債保有国であり、2010年の保有残高は1兆1601億ドルの規模に達していて、米国への一種の圧力にもなっている。
■「中国は発展途上国」という意味
中国はGDPの規模にせよ外貨準備高にせよ、また国防力にせよ、1人当たり国民所得を別にすると、どう見ても先進大国に等しい。ところが、2010年のトロントG20首脳会議で胡錦濤国家主席は「中国は発展途上国だ」と言い切った。
この基本的なスタンスは、今も昔も変わらない。1960年末、東アフリカのタンザニアとザンビアを結ぶタンザン鉄道建設で4億ドルを投じて労働者4万人を動員した時は、今と違って最も貧しい途上国だった。
それでも中国は“アジア・アフリカ連帯”を叫び続けていた。それが今も継承されている。したがって、中国が「我が国は発展途上国だ」と言って対外援助を展開する時は、日本の定義するODAとは本質が異なっている、と見るべきだろう。
もっと議論を煮詰めると、中国の対外援助は最初から1つの思想をもった戦略的援助であったと言える。
つまり、自らを植民地支配の犠牲者とみなして、欧米の植民地支配で苦しめられてきた多くの途上国側に立って、今も民族自決を叫ぶ。
特に貧しい途上国がひしめくアフリカ大陸との政治的連携(最近は経済的連携が強まっている)を強化し、さらにはG20首脳会議の中の南アフリカ、ブラジル、サウジアラビア、トルコ、インドネシア、アルゼンチンなど新興国との連携強化を図りながら、欧米の対局に立って発言権を強化しようとしている。
それはまさに、先に述べた「北京コンセンサス圏」作りにつながっている。
例えば、中国は戦後の米ドル基軸の世界経済秩序の守り神的なIMF(国際通貨基金)の議決権比率を見直して、新興国や途上国の影響力を強めようと画策している。その実現は時間の問題だと見られている。
そうなると、新しい世界経済秩序のみならず、新しい世界秩序作りにも中国の「北京コンセンサス圏」の圧力が加わる可能性が高い。
そこまで深読みしないと、中国が自らを発展途上国だと主張する発想の底流が見えてこない。
■一種の「生命維持装置」となった対外援助
そう考えると、中国の経済援助による台湾孤立化作戦などは、今の中国にとって時代的価値を失ったものと考えてよいだろう。
軍事面では、台湾海峡を通過して、東シナ海からインド洋の沿岸に“真珠の首飾り”と呼ばれる海外港湾拠点を、対外援助をテコに設けている。例えば、パキスタンのグワダル港、スリランカのハンバントタ港、バングラデシュのチッタゴン港、ミャンマーのシトウェ港などがあるが、それが中東、アフリカ沿岸に延びていく可能性は大いにあり得る。
しかし、これらは単に、軍事的戦略の下での拡大政策というより、今では中国経済の発展を支える海運力増強にも深く関係しているという指摘もある。
とにかく中国が一党独裁支配体制を維持していくには一定の経済成長を持続し、12億の民への所得配分を続ける必要に迫られている。
少なくとも年率5%以下の経済成長になると民の不満が広がり、体制崩壊への亀裂が深まると考察する学者もいる。その自転車操業に必要なのが、今や中国の対外援助であると言ってもよい。
中国の対外援助は、中国に同調する仲間を増やし、政治的影響力を発揮するための手段だけでなく、自らの経済成長の拡大路線を維持する手段としての政策的価値を持っていると言える。
日本でも経済再建を進めていく上で、ODAに求める国益的価値は日々増大しているので、その思惑は中国と違っていても、対外援助、ODAに託す考え方は、まさに中国と同床異夢だと言えないことはない。
(転載終わり)
【筆者プロフィール】
荒木 光弥(あらき・みつや)
1967年「国際開発ジャーナル」創刊に参加し、40年以上にわたり代表取締役兼編集長を務める。2003年10月より現職。外務省「国際協力に関する有識者会議」委員、経済産業省「産業構造審議会経済協力小委員会」委員、文部科学省「国際教育協力懇談会」委員などを歴任。主な著書に『途上国援助 歴史の証言-1970年代、80年代、90年代』(国際開発ジャーナル社)などがある
【荒木 光弥「ODA削減でいいのか日本」バックナンバー】
2011年7月11日
中国発“ODA”は「何でもあり」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110707/221341/
2011年7月4日
対中ODAが続いている理由
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110630/221205/
2011年6月27日
途上国で“汚職の海”を泳ぐ
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110622/221069/
2011年6月20日
欧米に骨抜きにされた日本の援助哲学
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110616/220831/
2011年6月13日
「恩義を返される国」が揺らいでいる
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110609/220634/
【605】新刊「悪党―小沢一郎に仕えて」
悪党―小沢一郎に仕えて [単行本]
石川知裕 (著)
価格: ¥ 1,680
単行本: 248ページ
出版社: 朝日新聞出版 (2011/7/7)
ISBN-10: 4022508914
ISBN-13: 978-4022508911
発売日: 2011/7/7
内容紹介
その思想、選挙戦術、日常の素顔から、知られざる弱点まで――。政治資金規正法違反容疑で逮捕・起訴された元秘書が、覚悟を込めて明かす、誰も書けなかった小沢一郎論。「擁護」でも「排除」でもなく、等身大の政治家像を描き出す。
佐藤優氏も絶賛!「この本は危ない。誰も書けなかった小沢一郎がいる」
目次
第1部 「悪党」登場
第1章 逮捕まで、そして逮捕から
第2章 悪党の思想と外交戦略
第3章 悪党に仕えるということ
第4章 悪党の急所
第5章 悪党と選挙、大連立
第2部 「悪党」解剖
第1章 悪党とキン肉マン
第2章 悪党とマルクス
第3章 悪党とウェーバー
第4章 悪党とチャーチル
第5章 悪党とサンデル
第3部 対決
小沢一郎が語った「原発」「遷都」「復権」
【604】藤森かよこ @kayokofujimori
kayokofujimori 藤森かよこ
アイン・ランドが、普通預金口座にカネ預けっぱなしで、何もしてないのを見かねた弟子のひとりが、ランドの晩年に、なんやかやと運用してあげた。小賢しい弟子だ。何かを創造して稼ぐことができる人間は、運用だのと投資だのに頭は回らんよね。
kayokofujimori 藤森かよこ
稼ぎまくって、普通預金口座にカネ預けっぱなしの、間抜けたおおらかな人生を生きるって、カッコいいなあ。
kayokofujimori 藤森かよこ
アイン・ランドは、『肩をすくめるアトラス』において、カネは諸悪の根源ではなく、ある人が成し遂げた良き何かと、別の誰かが成し遂げた良き何かを交換する道具であり、すごい発明品だと寿いだ。でも運用も投資もしなかった。銀行の普通預金口座にカネ預けっぱなしだった。おおらか。