< アメリカ政治情報メモ >
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Loginはこちら【29】かたせさん、グッジョブです。
今、入院中なので、悪しからず。
伊藤睦月拝
【28】トランプ前大統領銃撃事件!! 2024年7月14日
トランプ前大統領銃撃事件!!犯人の映像入手!!犯人死亡!!犯人のいた場所分かりました!!トランプ氏無事を発表!!2024年7月14日!!2024年7月14日
ピコ次郎チャンネルより投稿
危なかった! 私たちの希望を守ってくれたすべての偶然に感謝!
【27】ブラックロック
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シュワルツマン氏はウォール街最大の共和党献金者の一人
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2年前にはトランプ氏支持しない考えを示していた
米ブラックストーンのスティーブン・シュワルツマン最高経営責任者(CEO)は24日、11月の米大統領選で返り咲きを目指すトランプ前大統領の陣営による資金集めを支援すると表明した。共和党の候補指名獲得を確実にしているトランプ氏にとり、資金提供者の基盤を構築する上で大きな勝利となった。
プライベートエクイティー(PE、未公開株)投資会社ブラックストーンの創業者で、有力な政治献金者でもあるシュワルツマン氏は長い間、共和党の主要な資金源だったが、トランプ氏を支持するかどうかについては数カ月間沈黙を守ってきた。
シュワルツマン氏は24日の発表で、「反ユダヤ主義が劇的に台頭していることで、私は今度の選挙がどのような結果をもたらすか、一段と急を要する問題として注目するようになった」と説明。「私は経済と移民、外交政策が国を誤った方向に導いているという懸念を多くの米国人と共有している。これらの理由から、私は変化のために投票し、大統領選でドナルド・トランプ氏を支持するつもりだ」と表明した。
シュワルツマン氏のトランプ氏支持の意向についてはアクシオスが先に報じていた。
同氏は2022年、共和党の 「新世代 」リーダーを求めるとしてトランプ氏を支持しない考えを示していた。共和党の予備選期間中、候補者の中でトランプ氏を最も激しく批判していたクリスティー前ニュージャージー州知事と連携するスーパーPAC(政治活動委員会)に200万ドルを寄付していた。
シュワルツマン氏の知人らは、同氏が最終的に勝利する可能性が最も高いと見なす候補者を支持するだろうと内々に語っていた。
シュワルツマン氏(77)は、ウォール街最大の共和党献金者の一人。選挙資金とロビー活動のデータを追跡する非営利団体オープンシークレッツによると、20年の選挙サイクルだけで、トランプ氏と他の共和党候補を支援する団体に3500万ドル余り(約55億円)を寄付した。
シュワルツマン氏の後ろ盾があれば、トランプ氏への献金に消極的な金融界の他の資産家の取り込みも期待できる。トランプ氏は選挙資金集めでバイデン大統領に後れを取っており、最新の申告によれば、手元資金はバイデン陣営の約半分にとどまっている。
転載終わり
【26】サポーター大集結! これがトランプラリーだ!
黒森ミネオTrump2024 YouTubeより
5月11日ニュージャージー州で行われたトランプラリーに集まる群衆と、「私たちは共に、もっとも危険で凶悪な勢力に立ち向かいます。2024年はみなさんと私の最後の戦いです」と呼びかけるトランプさんの映像です。
日本のマスメディアでは取り上げられない映像をご堪能下さい。
【25】米軍高官「ウクライナ、軍事的勝利は当面ない」 政治解決に期待
(転載貼り付け始め)
米軍高官「ウクライナ、軍事的勝利は当面ない」 政治解決に期待
11/17(木) 8:35配信
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毎日新聞
米軍制服組トップのミリー統合参謀本部議長=2022年11月16日、AP
米軍制服組トップのミリー統合参謀本部議長は16日の記者会見で、ロシアのウクライナ侵攻に関して「ロシアがウクライナ全土を征服するという戦略目標を実現できる可能性はゼロに近い。ただ、ウクライナが軍事的に勝利することも当面ないだろう」と指摘した。その上で「ロシア軍は大きなダメージを受けており、政治的判断で撤退する可能性はある」と述べ、攻勢に出ているウクライナにとっては交渉の好機だとの考えを示した。
【国境近くで上がる煙、ミサイルが着弾した現場】
ミリー氏は「防衛に関して、ウクライナは大成功を収めている。ただ、攻撃に関しては、9月以降にハリコフ州とヘルソン州(の領域奪還)で成功したが、全体から見れば小さな地域だ。ウクライナ全土の約20%を占領するロシア軍を軍事的に追い出すことは非常に難しい任務だ」と指摘した。
一方で、「ロシア軍は、多数の兵士が死傷し、戦車や歩兵戦闘車、(高性能の)第4、5世代戦闘機、ヘリコプターを大量に失い、非常に傷を負っている。交渉は、自分が強く、相手が弱い時に望むものだ。(ウクライナの望む形での)政治的解決は可能だ」と強調した。秋の降雨でぬかるみが増える季節を迎えたことで「戦術的な戦闘が鈍化すれば、政治解決に向けた対話の開始もあり得る」との見解を示した。【ワシントン秋山信一】
(転載貼り付け終わり)
【24】米大統領、ゼレンスキー氏に異議 自国の発射否定に「証拠なし」
(転載貼り付け始め)
米大統領、ゼレンスキー氏に異議 自国の発射否定に「証拠なし」
11/17(木) 16:48配信
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共同通信
17日、米ホワイトハウスに到着し、ポーランドのミサイル着弾について質問に答えるバイデン大統領(ロイター=共同)
【ワシントン共同】バイデン米大統領は17日、ウクライナのゼレンスキー大統領がポーランド東部に着弾したロシア製ミサイルについて「われわれのミサイルでないことに疑いはない」と訴えていることについて「証拠がない」として異議を唱えた。ホワイトハウスで記者団に語った。
【写真】ウクライナの迎撃ミサイル着弾か ポーランドとNATOが見解
オースティン米国防長官は16日、ロシア軍による意図的な攻撃ではないとの見方を示し、ウクライナ軍が発射した迎撃ミサイルの可能性が高いとするポーランドのドゥダ大統領の見解と「矛盾するものは何もない」と述べた。
(転載貼り付け終わり)
【23】トランプ トラッカー アプリ
truth social app
https://apps.apple.com/jp/app/トランプ-トラッカー-海外ニュース/id1252432015
【22】<新刊>トランプは世界をどう変えるか? (朝日新書)
<参考> 副島隆彦著作への 記述あり
トランプは世界をどう変えるか? 「デモクラシー」の逆襲
(朝日新書) – 2016/12/26
エマニュエル・トッド (著), 佐藤優 (著)
内容紹介
トランプ大統領誕生で世界は、日本はどう変わるか?
米・中・露の覇権は?
世界経済は好転するか、保護主義で恐慌に突入か?
日本は自主防衛できるか?
戦争のリスクは増大するか?
──反グローバリズムの奔流と新しい世界秩序を最強論客が読み解く!
【主な内容】
米大統領選開票結果
●民主主義がトランプを選んだ――エマニュエル・トッド
起きて当然のことが起きた
トランプ現象を恐れることはない
自由貿易への異議申し立て
現実を見ないでおこうとしたエリートたち
「プロレタリア」に選ばれたトランプ
白人のための民主主義
体制順応ではないエリートが必要
教育という大きな不平等
人々の不安や意思の表明はポピュリズムではない
米大統領は王様ではない
<資料>トランプ氏 共和党候補指名受諾演説
●「トランプ現象」の世界的影響、そして日本は――佐藤優
1.インテリジェンスで見る「トランプ当選」の実相
「もう外務省の説明は聞きたくない」
判断を誤らせた理由
キッシンジャーとの面談
かつてない「異変」が起きていた
マルクスの呪縛からの自由
ウォール街の金融資本、大手マスメディア、大手IT企業
下層白人の利益を最大化
情報空間の二重バイアス
「トランプはとんでもない人間だ」
過激な発言の骨格
トランプが60代男性に送ったアドバイス
江戸時代の石田梅岩、二宮尊徳
2.「トランプ以後」のアメリカを見極める三つのポイント
孤立主義からの転換とニーバーの思想
グローバリズムにおける自由と平等
デモクラシー社会の脆弱性
個人と社会の矛盾は解消できるか
「光の子」と「闇の子」
ナチズムの勃興
自己と他者との摩擦
「蛇のように賢く、鳩のように素直に」
デモクラシーのための戦争
トランプから見えるアメリカの精神風景
オバマとトランプの連続性
安倍首相の会談と日米同盟
FBIとメール問題
再考機密の極秘扱い
想定外の捜査妨害
4千人のポストが入れ替わる
北方領土交渉が進む可能性
日米同盟の見直し――尖閣諸島と沖縄
マッカーシズムとポピュリズム
その名は、ロイ・コーン
トランプの公私にわたるメンター
ホラがホラではなくなる
「不安」が生み出すアメリカの敵
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登録情報
新書: 173ページ
出版社: 朝日新聞出版 (2016/12/26)
言語: 日本語
ISBN-10: 4022736992
ISBN-13: 978-4022736994
発売日: 2016/12/26
【21】低年齢化する中国人のアメリカ留学
前田和寿です。
中国人のアメリカ留学は、大学ではなく高校へとシフトしているようです。
(転載開始)
2013年、米国の高校に就学する中国人留学生は2.4万人
中国教育オンライン(http://www.eol.cn)はこのほど、『2014年出国留学趨勢報告』を発表しました。教育省の統計データによりますと、2013年にアメリカの高校に入学した中国人留学生は2万4000人で、8年前に比べ366倍となっています。
これまで外国へ留学した中国人留学生のうち、修士課程を専攻する学生が大半を占めていましたが、2012年から2013の年にアメリカへ留学した中国人留学生を見てみると、その比率は8年前の76.1%から43.9%に下がっています。一方、本科課程を専攻する留学生の比率は14.9%から39.8%に増加しました。私立高校に通う中国人留学生は8年前のわずかの65人から366倍の2万4000人に増加しました。
中国人学生の最大の留学先はアメリカで、アメリカへ留学している中国人留学生の数は8年で3倍となっています。2009年から、中国はインドを抜いてアメリカへの留学生が最も多い国となり、2013年の中国人留学生の数はアメリカの外国人留学生の総数の中で28.7%を占めているということです。(玉華、吉野)
引用先:http://japanese.cri.cn/881/2014/03/24/162s218931.htm
(転載終了)
おそらく私立の全寮制高校(ボーディングスクール)へと入学しているのでしょう。日本では三菱商事の槇原稔などが、名門ボーディングスクールからハーバードへ進学していますが、稀なケースです。高校に2万人単位で人材を送る中国のパワーは恐ろしいものがあります。
前田和寿
【20】フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』から25年。(備忘録)
前田和寿です。
政治学者(political scientist)であるフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』が書かれてから25年が経過しました。現在に至るまでのフクヤマの思想の遍歴などが詳しく書かれています。英国ガーディアン紙(The guardian)に記事があったので、後々のために載せておきます。
(転載開始)
Bring back ideology: Fukuyama’s ‘end of history’ 25 years on
Francis Fukuyama’s influential essay ‘The End of History?’ announced the triumph of liberal democracy and the arrival of a post-ideological world. But was it just a rightwing argument in disguise? And has the demise of utopianism ushered in a ‘sad time’?
In the summer of 1989, the American magazine the National Interest published an essay with the strikingly bold title “The End of History?”. Its author, the political scientist Francis Fukuyama, announced that the great ideological battles between east and west were over, and that western liberal democracy had triumphed. With anti-communist protests sweeping across the former Soviet Union, the essay seemed right on the money. Fukuyama became an unlikely star of political science, dubbed the “court philosopher of global capitalism” by John Gray. When his book The End of History and the Last Man appeared three years later, the qualifying question mark was gone.
The “end of history” thesis has been repeated enough to acquire the ring of truth – though it has also, of course, been challenged. Some critics have cited 9/11 as a major counterexample. Others have pointed to the rise of Islamic fundamentalism and the Arab spring as proof that ideological contests remain.
But Fukuyama was careful to stress that he was not saying that nothing significant would happen any more, or that there would be no countries left in the world that did not conform to the liberal democratic model. “At the end of history,” he wrote, “it is not necessary that all societies become successful liberal societies, merely that they end their ideological pretensions of representing different and higher forms of human society.”
Fukuyama was talking about ideas rather than events. He believed that western liberal democracy, with its elegant balance of liberty and equality, could not be bettered; that its attainment would lead to a general calming in world affairs; and that in the long run it would be the only credible game in town. “What we are witnessing,” he wrote, “is not just the end of the cold war, or a passing of a particular period of postwar history, but the end of history as such: that is, the end point of mankind’s ideological evolution and the universalisation of western liberal democracy as the final form of human government.”
Fukuyama drew on the philosophy of Hegel, who defined history as a linear procession of epochs. Technological progress and the cumulative resolution of conflict allowed humans to advance from tribal to feudal to industrial society. For Marx, the journey ended with communism; Fukuyama was announcing a new destination.
For a long time his argument proved oddly resilient to challenges from the left. Neoliberalism has been pretty hegemonic. Over the last three years, however, in a belated reaction to the 2008 bank bailouts, cracks have started to appear. Global Occupy protests and demonstrations against austerity have led many commentators on the left – including the French philosopher Alain Badiou in The Rebirth of History and Seumas Milne in his collection of essays The Revenge of History – to wonder whether history is on the march once again. “What is going on?” asks Badiou. “The continuation, at all costs, of a weary world? A salutary crisis of that world, racked by its victorious expansion? The end of that world? The advent of a different world?” He tentatively regards the uprisings of 2011 as game-changing, with the potential to usher in a new political order. For Milne, likewise, developments such as the failure of the US to “democratise” Iraq and Afghanistan, the financial crash and the flowering of socialism in Latin America demonstrate the “passing of the unipolar moment”.
What remains an open question is whether these developments – dramatic as they are – will actually result in anything. Leaderless and programme-light, dissent keeps failing to cohere, fragmenting into online petitions and single-issue campaigns. Is the left going to mount a coherent ideological challenge to the right, or are these just border skirmishes? Has history ended, or not?
As some on the left have long realised, Fukuyama was performing an ideological sleight of hand. Is “western liberal democracy”, as he argued, really an application of the principles of the French revolution? Or is it in fact a way of cloaking rightwing politics in benignly incontestable disguise? “Man’s universal right to freedom” sounds inspiring, but if you are on the right it is another way of saying economic liberalism. Besides, even that is a fiction: capitalism pretends to love free markets; in reality, it rigs markets for elites.
When he wrote “The End of History?”, Fukuyama was a neocon. He was taught by Leo Strauss’s protege Allan Bloom, author of The Closing of the American Mind; he was a researcher for the Rand Corporation, the thinktank for the American military-industrial complex; and he followed his mentor Paul Wolfowitz into the Reagan administration. He showed his true political colours when he wrote that “the class issue has actually been successfully resolved in the west … the egalitarianism of modern America represents the essential achievement of the classless society envisioned by Marx.” This was a highly tendentious claim even in 1989.
In 2006, in the wake of George W Bush’s catastrophic blunders in Iraq and Afghanistan, Fukuyama repudiated neoconservatism in a book titled America at the Crossroads. In order to keep his end-of-history thesis intact, Fukuyama argued that the neocons had gone off on a Leninist tangent of historical determinism and artificial nation-building, and had departed from the correct understanding of historical evolution as an organic byproduct of material comfort and access to consumer goods.
The “post-ideology” sleight of hand nevertheless continues. “The markets”, which he hailed as the engine of progress, were and are talked about as “natural” – as if they were forces of gravity or Darwinian evolution. They are believed to impose “realistic” limits on policy; political prioritising hides behind practical references to the “public purse”. “This is the sober reality I must set out for the country today,” David Cameron said in June 2010, announcing his plan for cuts in public spending. “We are not doing this because we want to, driven by theory or ideology … We are doing this because we have to.” Through three decades of wonkery and spin, the right has systematically constructed an ideological movement that presents itself as anything but systematic, anything but ideological.
Fukuyama distinguished his own position from that of the sociologist Daniel Bell, who published a collection of essays in 1960 titled The End of Ideology. Bell had found himself, at the end of the 1950s, at a “disconcerting caesura”. Political society had rejected “the old apocalyptic and chiliastic visions”, he wrote, and “in the west, among the intellectuals, the old passions are spent.” Bell also had ties to neocons but denied an affiliation to any ideology. Fukuyama claimed not that ideology per se was finished, but that the best possible ideology had evolved. Yet the “end of history” and the “end of ideology” arguments have the same effect: they conceal and naturalise the dominance of the right, and erase the rationale for debate.
While I recognise the ideological subterfuge (the markets as “natural”), there is a broader aspect to Fukuyama’s essay that I admire, and cannot analyse away. It ends with a surprisingly poignant passage: “The end of history will be a very sad time. The struggle for recognition, the willingness to risk one’s life for a purely abstract goal, the worldwide ideological struggle that called forth daring, courage, imagination, and idealism, will be replaced by economic calculation, the endless solving of technical problems, environmental concerns, and the satisfaction of sophisticated consumer demands.”
It is hard not to conclude that this passage offers an accurate portrait of our age, in which the campfire conversations of young activists merely concern relative concentrations of CO2; the politics of nudge and solutionism are embraced by right and left alike; and the hordes camped out on the streets of Rio de Janeiro are awaiting the opening of Latin America’s first Apple store.
“In the post-historical period,” Fukuyama continues, “there will be neither art nor philosophy, just the perpetual caretaking of the museum of human history. I can feel in myself, and see in others around me, a powerful nostalgia for the time when history existed.” Doesn’t this vision seem exactly right? We appear to be losing a clear sense of both our history and our future, living in a perpetual present in which we have forgotten that things were different in the past and that there are, therefore, alternatives. (A parallel can perhaps be drawn with pop: we are in the post-postmodern age of the retro-authentic mashup. Contemporary songs – by Adele, Lady Gaga, La Roux – are simulacra of those produced in the 60s, 70s and 80s.)
I grew up in the 80s, marching against Thatcher. The left laid into the right. In 1990, when I turned 16, John Major became prime minister and the ideological clashes of British politics faded out. Major’s “back to basics” campaign was against highfalutin ideology; a disavowal of politics. (In recent advice to Conservative MPs, Major told them to focus less on “ideology” and more on “issues that actually worry people in their daily lives”. His rejection of the hardline right is to be applauded, but since when did daily issues have nothing to do with ideology?) Next came the triangulation of Tony Blair, his saintly transcendence of left and right; Barack Obama’s call for “a declaration of independence … from ideology”; and David Cameron saying he “doesn’t do isms”. Politics is now a matter of technocratic optimisation, of doing “what works” and “getting the job done”. In 2010, even the veteran conviction politician Shirley Williams praised the coalition government for its pledge to “work together in the national interest”. “The generation I belong to, steeped in ideology and partisan commitment, is passing away,” she wrote, commending a new spirit of “co-operation” over “the safe, long-established confrontation”. While declaring that the old polarities no longer pertain, all the main parties have shifted to the right.
Meanwhile, the performance of confrontation continues. Popular disaffection with mainstream politics manifests as a rejection of its tribal, shouty style. PMQs is criticised for being too raucous, but that is a distracting irrelevance now that policy differences seem imperceptible. The problem is not “divisiveness” but its opposite: the lack of democratic choice.
In the recent commentary on the death of Tony Benn, he has been repeatedly described as one of the final representatives of a sharply delineated political culture. “To the modern eye he broke the mould: a brazen, aristocratic ideologue in an age of middle-class triangulation and third ways,” wrote Mark Wallace, an editor at ConservativeHome. “But if those things seem so alien today, it’s not because he was a one-off but because he was the last of his kind.” The passing of political conviction is accepted as a given whatever one’s political conviction, but it is the left that stands to lose most.
In The End of History and the Last Man, Fukuyama writes that the “enormously productive and dynamic economic world created by advancing technology” has a “tremendous homogenising power”: global political harmony is the “ultimate victory of the VCR”. But are consumerism and technology, as he suggests, really progressive? The internet came of age at the same time as I did. My undergraduate essays were handwritten, but in my third year I sent my first email using a green interface called Pine. My childhood correspondence fills several cardboard boxes, but during the 1990s the paper trail peters out. The rest is on email accounts owned by corporations with infantile names; some of those accounts are lost.
Is it an accident that the digital blitzing of boundaries between historical eras, work and play, this book and that, is happening at the same time as the seeming end of movements of all kinds, both cultural and political? My nostalgia for my own childhood is bound up with my nostalgia for political opposition and the material written word. I miss history, just as I miss my own history, and my childhood visions of the future. In my grander moments I feel like an embodiment of Slavoj Žižek’s Living in the End Times, meandering mournfully around Spotify and fretting about the left’s intellectual bankruptcy.
“The modern age was a time when human beings, alone or together, could sculpt the marble of history with the hammer of will,” writes the writer and activist Franco “Bifo” Berardi. Today, this has “vanished from sight. There is no longer … a progressive temporal dimension.”
As modernist housing projects fall into ruin, it is hard to recall the sincerity of Tomorrow’s World or SF that is not ironically space age or steampunk. It is barely possible to articulate a utopia, even (or especially) if you are on the left. Is this because of neoliberalism’s domination of the ideological landscape, or is it that we are in a post-ideological age, of which the internet is either a symptom or a cause? When every single person in a train carriage is staring at a small illuminated device, it is an almost tacky vision of dystopia. Technology – along with turbo-capitalism – seems to me to be hastening the cultural and environmental apocalypse. The way I see it, digital consumerism makes us too passive to revolt, or to save the world. If we accept it as inevitable it will indeed lead to the end of history, in more ways than one.
Is the recent challenging of Fukuyama’s thesis grounds for new optimism? It is still too early to tell. “What is happening to us in the early years of the century,” Badiou writes, is “something that would appear not to have any clear name in any accepted language.” Fukuyama himself speculated that the absence of idealism and struggle might yet spark their rekindling: “Perhaps this very prospect of centuries of boredom at the end of history,” he wrote, “will serve to get history started once again.” There is a glimmer of perverse hope in the fact that boredom is a luxury most of us can no longer afford.
• Eliane Glaser’s Get Real is published by Fourth Estate.
引用先:http://www.theguardian.com/books/2014/mar/21/bring-back-ideology-fukuyama-end-history-25-years-on
(転載終了)
前田和寿です。
このような文章をさらっと読めるようにならないと世界標準の政治知識はないのでしょうね。ガーディアンのサイトでも、この記事に対して多くのコメントが書かれています。日本だったら、ちんぷんかんぷんで誰もコメントしないでしょう。
the last man=オタクの日本人ですから、人類って何なんでしょうか?
前田