ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
会員番号2054 投稿日:2026/10/17 06:24

【719】甘樫丘について(後半):鼠は穴に伏して生き、穴を失って死ぬ

2054です。本日は2026年10月17日です。前半では、蘇我氏の出自について論証しました。後半では、蘇我満智以降の系譜と甘樫丘について考察します。

(3)韓子(からこ)→高麗(こま)の実在性について
蘇我氏の系図では、蘇我満智のあとが、韓子(からこ)、その次が高麗(こま)です。この絶妙なネーミング(いかにも朝鮮半島)によって、この2人も実在を疑う学説があります。また、この2人が実在しないから、やっぱり蘇我満智も存在しないと言いはる説(蘇我氏は蘇我稲目以降だけ説)もあります。
しかし、蘇我満智は雄略天皇時の475年に倭国に移住しましたが(『百済本紀』蓋鹵王21年条)、継体天皇3年の509年に百済に戻ったようです。継体天皇3年2月条には、「使いを百済に遣わす」とあり、その古注に「百済本紀にいう。久羅麻致支弥(くらまちきみ)、日本より来る。未だ詳(つまびらか)ならず」とあるからです。

久羅=大蔵を司った
麻致=蘇我満智

古注は百済からみて「大蔵担当の蘇我満智は日本からきた」とあるので、蘇我満智は倭国の使者として百済に行ったことがわかります。百済に行った理由は日本書紀にはありませんが、当時の政治情勢では、雄略朝から継体朝への王朝交代の頃です。そのため、倭国に居づらくなったことが考えられます(小林恵子『史上から消された聖徳太子・山背王朝』p46)。
そして、蘇我満智がいちど半島に退去すると、倭国での基盤も消滅します。韓子、高麗は日本書紀では影が薄いが、それは彼等の主要な活動地が倭国ではなかったからです。
しかし、だからといって彼等が存在しなかったことにはなりません。韓子も高麗もその活動が日本書紀に見えます。

(4)蘇我氏は高句麗系の百済人
蘇我高麗の「高麗」は百済系の木刕満致の一族に似つかわしくないように見えるが、「百済本紀」の末尾には高句麗は高辛氏の末裔とあります。高辛氏は木徳の帝王なので、木刕満致の「木」は木徳を意味し、この一族が高句麗系の百済人であることを示しています。
つまり、蘇我氏とは、百済、任那、高句麗、倭国などをまたにかけた国際的な氏族であったようです。

(5)蘇我稲目以降は、拠点が増えています
日本書紀等の史料から見ると、以下のような邸宅があります。
1 蘇我満智(木満致):田家(なりどころ、橿原市曽我町)…【本願の地】
2 蘇我稲目:小墾田の向原(桜井市大福か)、軽(橿原市大町)
3 蘇我馬子:槻曲(所在地不詳)、嶋(明日香村・のちの嶋宮)
4 蘇我蝦夷:大津(泉大津市か)
5 蘇我蝦夷・入鹿:甘樫丘(明日香村)、畝傍山の東

これを見れば明らかなように、蘇我氏の本貫・根拠地は始祖・木満致が定住した「橿原市曽我町」であり、その後も政治情勢に応じて拠点を移転させています。
そして、蝦夷・入鹿が甘樫丘に邸宅が確認されるのは皇極3年(644年)11月です。その後、皇極4年(645年)6月の乙巳の変において入鹿が誅殺され、追い詰められた蝦夷が自邸に火を放って自害したため、甘樫丘の邸宅は焼失しました。
つまり、甘樫丘が蘇我氏の拠点であった期間はわずかで、また、後述するように甘樫丘は宮廷というよりも軍事拠点です。伊勢神宮を自らの本拠地と関連付けたいのであれば、もっと適した地点があるはずと思います。

(6)甘樫丘を軍事施設化した理由 『鼠は穴に伏して生き、穴を失って死ぬ』
日本書紀皇極3年(644年)11月条に、甘樫丘の邸宅についての記載がある。
それによると、「蘇我蝦夷と入鹿は家を甘樫丘に2つ、並び立てた。」という。そして、「蝦夷の家を上の宮門といい、入鹿の家を谷の宮門といい、子供たちを皇子と呼ばせたという。家の周囲には城柵を構え、兵庫を作り、50人もの護衛に守られて外出した」とあります。
記紀は蘇我氏を悪人にする意図があるため、天皇がいないようにふるまっていた点は割り引いて解釈する必要があります(※4)。しかし、少なくとも、この甘樫丘は、雅な宮廷などではなく、こんもりした丘において城柵、兵器と兵士に囲まれた「軍事拠点」ということが読み取れます。
蘇我蝦夷・入鹿は、なぜ、軍事要塞に立てこもる必要があったのか?
それは、甘樫丘の記述の前月に起こった山背一族の誅殺事件にかかわっています。

山背一族を誅殺したときに、蘇我宗家では入鹿の軽率な行動に周囲が怒っています。
蘇我蝦夷は入鹿が山背一族を滅ぼしたと聞いて怒りののしっています。「ああ、入鹿は本当におろかだ。悪いことばかりする。自分の命も危うくなるではないか」と言っています。そして、蘇我一族の血を引く古人大兄王は、『鼠は穴に伏して生き、穴を失って死ぬ』(鼠である蘇我氏は、天皇という穴があるから生きていけるのに、山背王朝を失ったら滅亡してしまう)と言って蘇我入鹿を止めています(※3)。
そしておそらく645年1月ごろには、蘇我蝦夷は、将来に多大の危惧を感じて、大臣の位を入鹿に譲って引退しています。
危機感を持った蘇我一族が、急いで城柵を設けて軍事拠点を構築したのが「甘樫丘」と考えられます。
じっさい、蘇我入鹿は、「3日天下の明智光秀」のように、645年6月(太陽暦7月)にあっさり殺害されます。これは、山背王朝を滅ぼした真犯人が別にいることを示しています。

(7)結論:甘樫丘と伊勢神宮の関係について
以上のように甘樫丘は、下條氏が述べるような「和化政策をアピールするための雅な王宮」などではなく、山背一族誅殺によって、かえって身の安全を図る必要を感じた蘇我氏が、わずか7ヶ月間だけ立て籠もった「追い詰められたネズミの防衛シェルター」に過ぎません。
恐怖に怯えながら城柵を築き、兵庫(武器庫)に囲まれていた蘇我氏に、「伊勢神宮との正確な東西軸の測量」などという悠長な都城計画を企てる余裕はまったくなかったと私は思いますが、皆様はどのように判断されますでしょうか。

※3 山背大兄王の即位について
私見では、山背大兄王は聖徳太子(タリシヒコ)の長子で、629年から即位しており、唐の信任も得ていたと解釈しています。山背大兄王の後見人は百済の武王ですが、記紀はその後見人の百済の武王を舒明天皇を表記して山背王朝がなかったように隠ぺいしています。古人大兄の『鼠は穴に伏して生き、穴を失って死ぬ』は山背王朝が存在してこそ意味をなす表現です。このことからも山背王朝の存在がほの見えます。

※4 甘樫丘の記述において「宮門・皇子」が明示されている理由について
2つの考えがあり、私はどちらもあり得ると思っています。
1つは、宮門・皇子と蘇我氏が呼称した事実がないのに、捏造したという解釈です。記紀は蘇我氏をことさらに悪人にする意図があるため、そういうこともありえます(ただ、もし完全なでっち上げなら、わざわざ「宮門」「皇子」という具体的な用語を用いたのか、疑念を拭いきれません)。
もう1つは、それは捏造ではなく、理由があったという考えです。蘇我氏の悲願は「自らが天皇に即位すること」ではありません。蘇我氏直系の「古人大兄王」の即位です。そして山背王朝を滅亡させたあと、おそらく645年1月~6月までは「古人天皇」だったと考えられるからです。古人大兄は警護を固めるために甘樫丘に移住した、あるいは一族の多くを避難させていたかもしれません。そうであれば、甘樫丘を「(古人天皇の)宮門」とか「(古人天皇の)皇子」と呼ぶことは十分にありえます。
ただ、記紀は古人大兄の即位を絶対的に隠蔽しますから、その事実は明示できません。だから「入鹿の子供たちを皇子と呼ばせた」「天皇がいない邸宅を宮門と呼ばせた」とすり替えたのだろうと考えられます。十分にあり得る推論と思います。

会員番号2054 投稿日:2026/10/12 20:05

【718】甘樫丘について(前半):なぜ蘇我氏だけが渡来人集団を束ねられたのか

2054です。本日は2026年10月12日です。3連休の最終日になります。今回は蘇我氏の邸宅のあった甘樫丘について考察します。本掲示板の9月22日投稿:【713】蘇我氏は鮮卑ではない、の続編となります。
下條氏の蘇我氏に関する見解を、別の角度から批判したいと思います。

下條氏は、「【3233】宇佐神宮と伊勢神宮の正確に西に王宮(御所)があった その1」において、甘樫丘と伊勢神宮の位置関係について言及している。
下條氏によれば、蘇我氏が王だったころ、甘樫丘には蘇我氏の邸宅があり、そこには王宮(御所)があった、そして正確にその東に伊勢神宮をつくったとする。そして、伊勢神宮を配したのは倭の伝統にしたがったためであるとする。
しかし、甘樫丘に邸宅があったのは事実だが、王宮とか伊勢神宮と関係するとか、そういう場所ではない。以下、それを証明しようと思います。
甘樫丘は、644年11月に蘇我氏の邸宅を置いたと記述がありますが、その存立期間は滅亡までの7か月です。蘇我氏の拠点は時代とともに変化しています。仮に伊勢神宮によって倭に溶け込むことをアピールするのであれば、適地は蘇我氏の本願の地を含め、いろいろあるはずです。
そもそも蘇我氏とは何者なのか。
蘇我氏について、その出自と時代ごとの拠点の変遷について自説を述べたいと思います。

(1)自説の要約
まず、以下の説明の前提として、私のよって立つ見解をまとめます。そして以下、順に説明します。
■蘇我氏は百済からきた渡来人である。祖先は百済の政治家:木満致(木刕満致)で、彼は倭国では蘇我満智となった。渡来したのは475年で橿原市曽我町に定住して、その地名から「ソガ(蘇我)」と呼称した(あるいは周囲から呼称された)。
■蘇我満智は継体朝への政権交代時に居づらくなり509年に朝鮮半島に退去した。蘇我満智→蘇我韓子(からこ)→蘇我高麗(こま)の世代までは半島(任那)を中心に活動したため、日本書紀などに記録はあるものの、全体として倭国内では影が薄かった。
■蘇我稲目は倭国定着を目指し、倭国内の土着豪族である葛城氏と婚姻関係を結ぶ(葛城氏の女婿)。倭国に定着した後は、渡来人集団をまとめ、全国各地に屯倉を設置した。形式的には、天皇の直轄領であるが、天皇が空位の時代であったため、実質的には蘇我氏の基盤となった。
■蘇我馬子は物部守屋の妹と結婚した。物部守屋を滅ぼした後は、広大な物部氏の所領も手中にして経済的基盤をさらに広げた(※1)。
■蘇我氏の拠点は、木満致の頃は橿原市曽我町でここが「本願の地」である。さらに7か所の邸宅が記録に残っており、甘樫丘に邸宅の記録があるとされているのは、644年11月から蘇我宗家が滅亡する645年6月の7か月だけです。

(2)蘇我氏の出自(蘇我満智)について
蘇我氏の出自については、通説(渡来人ではなく土着の在地豪族である説)と渡来人説(百済からきた渡来人である説)があるが、通説は根拠がなく誤りである。蘇我氏は渡来人である(※1)
両説の対立点は※2で後述する。

一番重要な視点は、「もし蘇我氏が在地豪族なら、どうして百済系や高句麗系の渡来人をまとめて特異的に経済基盤を拡充することができたのか?なぜほかの有力豪族たちは指をくわえて傍観していたのか?」という疑問に、通説は答えられないことだ。
通説は、蘇我氏の拠点と渡来人集団の集落が近かったから(近所だから蘇我氏がパトロンになった)とか言いますが、「近所に住んでいたから」で説明がつくわけがありません。
それは蘇我氏が渡来人であるから(ほかの在地豪族とは違ったから)というのが最も説明がつきます。
(後半に続く)

以下、注釈箇所の補足説明です。
※1 物部氏の所領について
蘇我氏は、物部氏と実は近い関係だった。物部守屋の死後は、物部守屋の妹は莫大な遺産を手に入れ、結果として蘇我宗家の経済基盤が格段に向上している。蘇我入鹿は別名で「鞍作」というが、これは物部氏の河内国鞍作の所領に由来するとも言われている。また、蘇我入鹿の弟は「物部大臣」と称していた。物部の遺産がどれだけ莫大だったかを物語っています。

※2 渡来人説と在地豪族説の対立点について
渡来人説とは、門脇禎二氏が最初に唱えた説で、史実として蘇我氏の祖先とされるのは蘇我満智であるとする。『百済本紀』や『日本書紀』に登場する百済の政治家:木満致(木刕満致)のことで、「百済からの渡来人であるとする説です(門脇禎二『葛城と古代国家』学生社p118~131)。
他方、在地豪族説(通説)は、蘇我氏は渡来人ではなく、土着の在地豪族であるという説だ。その出自は大和国高市郡曽我とする説のほか、大和国葛城郡とする説、河内国石川郡とする説などがあるが、どの説も要するに「倭国内の在地豪族」であることに変わりがないため、以下、在地豪族説とする。
在地豪族説は以下のような点を根拠にするようだ。
(a1)木満致(百済の木刕満致)=蘇我満智を示す直接の史料がない。だから捏造だ
(b1)木満致が倭国で『木』姓を捨て『蘇我』と名乗り、名前の『満致(満智)』だけを残したのは奇異だ
(c1)渡来系であることを隠して臣姓を名乗るのは当時のこととしてあり得ない(隠す必要がないから渡来人ではない)。(b1、c1は水谷千秋『蘇我氏と日本の古代』第二章 蘇我氏の出自・本貫と国際性を参照)。

しかし、在地豪族説(通説)は誤りである
(a2)直接の史料がないと言うが、傍証となる史料として『百済本紀』や『日本書紀』『古語拾遺』などがある。百済本紀と日本書紀は別系統の史料なのに、人物(木満致/蘇我満智)・年代(5世紀後半)・活動内容(大蔵・外交)が一致しており、その実在を否定するのは無理がある。通説がこれを「捏造・架空」と否定するのであれば、通説の側にこそ「なぜその記述が捏造と言えるのか」という客観的な根拠(立証責任)が必要ですが、何も立証できません。
(b2) 木満致が倭国に定着するなら、定着した地名を苗字にして「蘇我」と称する(あるいは周囲の豪族がそのように呼称する)ことは「渡来人の定着プロセス」として極めて自然です。
(c2) 渡来人がいきなり『臣』を名乗るなんてありえない、といいますが、蘇我氏は最高権力者になったのですから、その「結果」で大臣と名乗ることは、由来が渡来人だろうがまったくおかしなことではありません。ましてや蘇我氏が渡来人であることを隠して臣姓を名乗ったという証拠はありません。単なる言いがかりです。
通説は、「実在が確実なのは土着豪族だけ」という前提から、「直接、木=蘇我と書いた紙がないから捏造だ」「分からないから存在しない」と言っているようなものです。しかし、「分からない」と切り捨てておきながら、なぜか「だから土着豪族だ」と結論づけるのは、循環論法に陥っています。

会員番号2054 投稿日:2026/10/09 20:52

【717】高松塚古墳で起きていた異常事態・暗号を読み解く(後半)

2054です。本日は2026年10月9日です。後半を投稿します。前回は、高松塚の被葬者は「天皇」であることを論じました。その続きです。

(5)被葬者は誰なのか(四神像の暗号解読)
被葬者は天皇だとして、一体だれなのか。その手掛かりになるのが石室内の壁画だ。そこには、四神像が描かれている。
まず前提知識だが、四神像とは玄武、朱鳥、白虎、青龍のことである。そして、高松塚の壁四面において、白虎と青龍はきれいに描かれているが、朱鳥はまったく描かれず、玄武に至っては特に入念にかきおこしや墨くまを加えられ、さらに亀蛇の頭部が人工的に損傷を受けた姿となっている。
四神で扱いが違い過ぎる。プロの絵師が精巧に描いているのに、おかしいではないか。ここにも、築造者による明確な意図がある。それは「被葬者は誰か」を示す暗号を埋め込んだということだ。暗号をそれぞれ解読してみよう。

(a)玄武について
まず玄武であるが、五行説での特徴は以下の通り。
■五行説:水徳/方向:北/季節・色:冬・黒/象徴:亀と蛇が一体となった姿

玄武は「水徳」である。ここに大きな意味がある。一般に新羅は「火徳」と解されるが、実は「水徳」も表意する。それは、新羅は秦人の後と称したことがあり、秦が祖としているのは水害を治めたという顓頊(せんきょく)高陽氏(水徳)であるという。
このことから新羅は水徳であるという説がある。そして、『三国史記』の金庾信の記述に、「二十八宿の配当では虚宿は日(太陽)に配され、玄武を神としているが、その宿と角宿(蒼龍七宿の首宿・すぼし)の光りが金庾信に下垂した」とあり、ここに「玄武」とあることから、金庾信の時代、つまり七世紀後半には新羅は玄武水徳意識があったということがわかる。
築造者は、この「玄武」の頭部を徹底して破壊した。頭をちょん切って「未来永劫の根絶やし」にしたのだ。だから、築造者は新羅が大嫌いであることがわかる。その反面、この被葬者は親新羅の人物である可能性を示唆するものである。

(b)白虎について
五行説での特徴は以下の通り。
■五行説:金徳/方向:西/季節・色:秋・白

この白虎は、天智天皇を表す(金、白、白虎)。これがまったく無傷だから、被葬者は少なくとも天智系ではない。そして、築造者(高市皇子)が天智の正統性(白・金徳)を誇示し、称え伝えるために白虎だけを綺麗に残したと推量できる。

(c)朱鳥について
朱鳥は朱雀(すざく)ともいうが、特徴は以下である。
■五行説:火徳/方角: 南/季節・色: 夏・赤

この石室内には、まったく朱鳥が描かれていない。盗掘があったから剥落したのだという意見もあったが、調査技術が発達した後年においても、顔料や線の痕跡すら全くのゼロである。これは、朱雀が守る南方には「天皇の座所」の意味があるから、北斗七星と同様に最初から描かなかったと推量できる。また、天武天皇は漢の高祖から由来する赤帝意識のある人物だったため、これを嫌ったことも一因にあるかもしれず、どちらにせよ、描かれていないのだ。

(d)青龍について
五行説での特徴は以下の通り。
■五行説:木徳/方向:東/季節・色:春・青

高松塚の青龍には特徴がある。それは、大きく首に「✖じるし」が描かれているのだ。これは、天武天皇の追悼寺である薬師寺の青龍にある「✖じるし」と全く同じである。
お分かりだろうか。これは完全に「天武の個人的な目印」なのだ。つまり、高松塚が天武の墳墓であることを端的に物語っている。青龍は天武天皇を表象するのだ。
また、青龍は雷雨をもたらす雲と不可分に結びつくため、「青雲」という表現と関連する。中国では青雲はよく使うが、日本では青雲という表現はあまり使われない。しかし、その使われない青雲が、天武崩時の持統の挽歌(『万葉集』巻二)に見える。
北山にたなびく雲の青雲の星離り行き月を離りて

ここでの「青雲」は天武自身を指す。この歌は、青雲(天武)が星(皇子たち)や月(妻である自分)から去って死者の国に行ってしまったという天武の追悼歌である。つまり青雲=天武となることで、青龍が天武であることが裏付けられるわけだ。だから、高松塚の築造者は、「ご丁寧にも」天武を表す暗号を、壁画内にもう1つ加えている。
それは、青雲である。
高松塚の日月像の下には、朱線上の緑と青の雲状の絵がある。ここにある雲はただの雲ではなく青雲である。侍者の持つ蓋(きぬがさ)の配色が「緑と赤」というのも、これは位階を示しているのではなく、「天武の青竜(青)と漢高祖の赤帝(赤)」を意味し、天武個人の蓋であることを表明しているのだ。

この高松塚の壁画には、このようにいたるところに「暗号コード」が埋め込まれている。五行説と当時の政治情勢が分かっている同時代人であれば、この石室内を見れば、一目で「ああ、これは天武の墓だ」とわかったはずである。築造者はそれを周知のものにしたかったのだから、分かるに決まっている。それがわからないのは、現代人が暗号コードを読み解けないか、古代人の因習に過ぎないと暗号コードを軽視しているからだ。

(6)まとめ:天の香具山の投稿との関連について
以前の投稿において、「春過ぎて~」の歌で天武朝の終焉を祝うような歌を詠めたのは、それが天武の愛妻(鸕野讃良皇女)などではなく、政敵であった高市皇子(天智の長子)だったからこそであると論証しました。
今回検証した高松塚古墳の異常事態、被葬者(天武天皇)に対して何重もの徹底的な「永遠の呪い」がかけられていたという事実も、これでご理解いただけると思います。このような「死者への封印」をするために大掛かりな装置(古墳)を製作するのはやはり政敵(=高市皇子)しか成し得ません。今も昔も政治闘争は激しいものです。高市皇子のすさまじい執着をうかがい知ることができます。

会員番号2054 投稿日:2026/10/06 21:25

【716】高松塚古墳で起きていた異常事態・暗号を読み解く(前半)

2054です。本日は2026年10月6日です。9月21日に「天の香具山」について投稿しました。今回は、その続編となります。

前回の投稿(9/21)では、「春過ぎて夏來るらし白妙の衣乾したり天の香具山」の政治的な意味合いについて説明し、天武天皇の長子と言われている高市皇子が、実は「天武の血統ではなく、天智天皇の長子であること」の傍証とした。

今回は、高松塚古墳の被葬者が天武天皇であり、この古墳は高市皇子が「永遠に天武天皇の復活を封じるための呪い」がかけられている点について論じたいと思う。

なお、その根拠については、以下、小林恵子『高松塚被葬者考』現代思潮新社の説明をもとにします。

 

(1)高松塚古墳の謎について

高松塚古墳は、1972年に本格的な発掘調査が行われたことで一躍脚光を浴びた古墳です。この古墳はいくつかの異常な状態が確認されています。

(a)遺骨はあるが、頭蓋骨は頭蓋の小破片すら見つからない

(b)銀製の刀の金具(刀の鞘)はあるが、刀身は見あたらない

(c)銅鏡は存在するが、棺の被葬者の上に置かれておらず、壁に打ち付けられている

(d)玉が埋葬されているが、室内前面に散らばっており、遺骨も棺外に散乱している

(e)壁画は精巧に描かれているが、一部は意図的に損壊されている(北斗七星なし、朱鳥なし、玄武は首から削り落とす)。

(f)被葬者は一切の着衣が見あたらない

 

つまり、高松塚古墳は、首なしの遺体を丸裸で着衣もさせずに狭い棺内に置き、皇帝を表意する北斗七星も記載されず、王権や再生を表象する朱鳥は描かれず、玄武は首を削り落とされ、刀もない状態で安置されたわけです。これを異常と言わずに、何を異常というの?という状態です。

 

高松塚古墳は、鎌倉時代に盗掘にあっているようですが、経済的価値の高い銀や玉は盗られておらず、狭い室内でかがむのが精いっぱいのスペースで、棺から遺体を取り出して頭蓋骨を盗むということは通常、考えられません。

たとえば高橋三知雄氏(『高松塚論批判』p53)のように「頭蓋骨は盗掘の際に失われた」と主張する説もありますが、これは物理的に「あり得ない」。なぜなら、最も散らばりやすく消えやすい「歯」が石室内に23本も残っているのに、最も大きく分厚い頭蓋骨だけが1ミリの破片も残さず消え去るなど考えられないからです。

 

(2)高松塚の頭蓋骨について

高松塚の被葬者は、白骨化した遺骸から顔面頭骨、下顎骨を含めた「頭骨全体」が丁寧に切り離されたと推量されます(『高松塚被葬者考』p125)。

なぜそんな手間のかかる作業をしたのか。それは古代人の死生観に関わります。

古代においては、生から死への「肉体的な死」は、生まれ変わりのための「一時的な死」と考えられ、「永遠の死」とは考えられていませんでした。永遠の死は、魂の宿る頭部が身体から分離、滅失したときにもたらされるという二重の死生観があったのです。

だから同じ「死罪」でも、絞殺と斬首は軽重がありました(参照:『律』第七賊盗律)。絞殺は死体から首はなくなりませんから「永遠の死」は免れますが、斬首は「永遠の死」を意味します。

このような死生観のある世界において、高松塚の遺骸に頭骨がないということは、死者の再生を未来永劫まで否定し、完全に封印するために、頭骨を捨て去られたと結論付けるのが最も合理的です。

 

(3)刀、鏡、玉について

石室内には金銀で飾られた大刀装具(鞘など)が残されているにもかかわらず、刀身(鉄の本体)だけが影も形もなく存在していません。これについても「盗掘によって持ち去られた」と言い張る説(盗掘説)がありますが、やはり不可能です。

高松塚の石室は「高さ113cm・幅100cm・奥行265cm」という極小空間であり、そこへ約200cmの棺が収められています。大人が這いつくばるのが精いっぱいの暗闇と狭小な空間で、盗掘者がわざわざ大刀を解体し、価値の高い金銀金具を現場に放り出して、重く錆びた鉄の刀身だけを抜き取って持ち帰るなど、行動としてあり得ないからです。

したがって、最初から刀身は納められず、「刀なしの鞘」だけが配置されていたと考えられます。

鏡の配置もきわめて異常です。

斉藤忠氏(『日本古墳の研究』p218)によれば、鏡は単なる装飾品ではなく「尊崇の対象」であり、死者の魂を鎮める呪術的宝器として、被葬者の「胸の上」や「頭のすぐ脇」に面を上にして大切に捧げられるのが通例です。

それが、高松塚では東壁の漆喰にフチがめり込んだ状態で発見され、最初から棺の外に置かれていました。「漆喰が生乾きの処に叩きつけた」(『高松塚被葬者考』p121)ような、異様な状態で放置されていたのです。

さらに、貴重な玉も石室内に散らばったまま遺されていました。もし盗掘者であれば「盗り放題」の宝物です。

学会にはびこる盗掘説に立つと、泥棒は「換金価値の高い金銀金具・鏡・玉を取り残し、価値のない頭骨と重く錆びた鉄の刀身だけを盗んで去った」ことになります。もし窃盗事件の現場で警察の鑑識がそのような報告をしたら、「何言っているの?」と総スカンを食らうような言説が盗掘説なのです。

 

(4)北斗七星について

高松塚の天井には、非常に精緻な星図が描かれています。

そもそも古代における星図とは何か。

それは、中央に北極星や北斗七星を配し、その周囲に天界を28の区画に分けた「二十八宿(にじゅうはっしゅく)」を描いた、プラネタリウムのような天象図です。地上を皇帝が支配するのと同様に、天上も皇帝が支配しているという東アジアの宇宙観を表しています。

中国の「分野(ぶんや)説」においては、天上の二十八宿は地上の国土と直接対応しており、天象に異変があれば地上の該当地方に災害や政変が起こると信じられていました。

したがって、「高松塚のように二十八宿を描く場合は、本来あだやおろそかに描くべきものではない」(有坂隆道『古代史を解くカギ』、毎日選書p19)ということになります。

つまり日本においても、星図を適当に描いたり省略したりすることは、天皇による国家統治の正統性を自ら傷つけることを意味するわけなので、「丁寧に、かつ、精緻に」描く必要があるわけです。それなのに、高松塚では、プラネタリウムの中心であり「天皇の地位」を表象する北斗七星の場所に、ぽっかりとスペースを開けてしまっており、描いていないのです。剥落したからなくなったのではなく、最初から描かれていないのです。

それはどうしてか?

 

星図において北斗七星が存在しない意味が分かれば、おのずと答えが出ます。

有坂隆道は「北斗七星は天帝が用いる乗用車に過ぎないから、あえて描くまでもなかった」(上掲書p19)としますが、そんなはずはありません。古代の当時の人間においては「北斗」は「皇帝=天皇」の絶対的象徴だからです。

その北斗に流星(孛星)が侵入するだけで、「君主が死ぬ」ことを表します(『春秋左氏伝』の文公一四年七月条、『漢書』の五行志・七下之下、『続日本紀』宝亀元年条など)。

その超重要な北斗がわざわざ描かれていないということは、それは「お前(=被葬者)は天皇じゃないんだぞ、わかったか!」という被葬者の全否定のためです。

もう、お分かりでしょう。この高松塚の築造者は非常に手の込んだ「呪い」をかけており、その全証拠が1つの結論にベクトルが向いています。星宿に北斗七星を描かず、刀ももたせず、頭骨を外している。これはすべて「お前は天皇ではない、未来永劫、復活するな」ということです。

そして、この被葬者は明らかに天皇ということになります。なぜなら、天皇になっていない人間に対して、北斗七星を描かないことで、その身分を否定する必要はないからです。したがって論理的に考えれば、高松塚の被葬者は天皇以外にはあり得ないことになります(高松塚被葬者考p129)。

(前半終了、後半に続く)

会員番号2054 投稿日:2026/09/27 12:07

【715】鬼道と鬼神について

2054です。本日は2026年9月27日です。今回は、「物理学者が解き明かす邪馬台国の謎」の著作にある下條氏の見解をさらに考察してみたいと思います。

今回は、「鬼道と鬼神の違い」についてです。

 

(1)下條氏の見解について

まず下條氏は、「鬼道」と「鬼神」を以下のように二分します。

■鬼道 = 五斗米道の神々のことで、別名は「天神」である

■鬼神 = 土着神による怪しい呪術や占いのこと

つまり鬼道は神ですので「敬うべきもの」、鬼神は怪しい呪術ですから「捨て去るべきもの」で、五斗米道は後者を禁じたとします。老子想爾注という五斗米道の解釈テキストを根拠として「五斗米道では鬼神を信じることを禁じているのだ。だから、鬼道ということばは、まさに、鬼神と区別をつけるためにあることばである」とします(上掲書p59)。

 

(2)私の疑問の出発点について

一般的に鬼道と鬼神を区分する見解は聞きませんし、言葉のニュアンスとしても疑問がありました。

古来から中国大陸では、「鬼」とは本来は「死者の魂」そのものを指し(※1)、「神」とは、「天にあって万物を生成する霊力のこと」をいいます(※2)。つまり、

■鬼=土にかえる死者の魂(属性は陰・地・死者・過去)

■神=天上から万物を生成・運行させる天の霊力(属性は陽・天・生命・未来)です。

 

たとえば、「魂魄」という言葉は、この鬼神の考え方をよく示す言葉です。

魂(こん)も魄(はく)もどちらも「気」のことをいうので似たような意味と見えますが、実は全く違います。精神の向くベクトルが逆方向なのです。

人間が死んだときに「土にかえる霊」が魄(はく)でベクトルは下に向いています。他方、「天上に消化する精神」が魂(こん)でそのベクトルは上に向いています。いわば正反対の2語が接合することで天上から地面までをすべて含んだ世界観を内包した用語になっています。

鬼神という言葉も同じです。世界全般を示す用語に過ぎません。

 

そして、このような語源から考えれば、鬼道も神という言葉にはなりません。「鬼」が土に帰る死者霊を指す以上、「鬼道」とは地に留まる死者(鬼)の霊の「通り道」とか、霊を呼び寄せる「手法」を指すことになります。ここから口寄せや降霊によって吉凶を占う実践的手段(シャーマニズム)という意味に転じたと考えられます。

実は、後述する福永光司氏の説明も、この語源に即した説明になっています。

もともとの語源からして下條氏のいう定義は違うのではないか?

果たして下條氏の二分論は正しいのでしょうか。以下、私が検討した点を示したいと思います。

 

※1 「鬼」の古来からの用法について

鬼とは、人の帰する所を鬼となすと、『説文解字』(後漢の漢字字典)にあり、また、儒教の『礼記・祭義篇』においても「命あるものは必ず死し、死せば必ず土に帰す。これを鬼と謂う」とあります。つまり「死んで土にかえる死者の霊魂のこと」をいいます。

※2 「神」の古来からの用法について

『説文解字』によれば神とは、天神にして万物を生み出し生長させるものと定義されます。

 

(3)福永光司氏の見解の誤読について

下條氏は上掲書において、「鬼道」とは五斗米道のことなのは道教研究者の中で常識であるとのべ、神塚淑子氏や福永光司氏の見解を紹介している。しかし、少なくとも福永氏については下條氏の見解と同じではありません。なぜなら下條氏が引用している文章にも「この三張道教は中国古来の巫術を中心として祈福や治病などを行い」と書いてあります。五斗米道が鬼神を禁じているなら、このような呪術は行わないはずなのに、怪しい呪術や占いを行っている、と福永氏はしっかり言及しています。

 

実は、福永氏は『道教と日本思想』(徳間書店、1985、p75~80)において、「鬼道」という言葉の意味変遷について詳述しており、下條氏の説明とはまったく違うことを述べています。

鬼道という用語が紀元前のいつから使われ、意味がどのように転じたのか、3000文字以上を用いて詳述しています。引用するのは長すぎるので、私が内容を要約します(私の意訳も含みます)。

 

福永氏によると、3段階で意味が変わるとのことです。

(1)第1段階

本来は神をまつる祭壇において鬼神が出入往来するための道路(物理的・神事的な道)という意味でした。つまり、「宗教儀式上の道路」を指していました。紀元前の周〜秦・前漢時代のことです。

(2)第2段階

道路そのものから、鬼神そのものをあやつる行為、つまり、呪術ないし宗教的な信仰儀礼そのものという意味に転じます。これが後漢〜三国時代のことで、まさに卑弥呼の時代の話になります。この時代において、卑弥呼の「鬼道」とは土俗的な呪術・シャーマニズムそのものを指す言葉となります。

(3)第3段階

南北朝時代以降になると、仏教の影響もあり、後世の道教側(五斗米道などの後身)は、外部から「あんなのは、低俗な鬼道(シャーマニズム)だ」と攻撃されるようになります。そのため、道教側でも「いやいや自分たちは崇高な教えであって、土着の巫術呪術である低俗な「鬼道」と一緒にするな」と言い出して、鬼道にネガティブなレッテル貼りがされるようになりました。そして道教側は自分たちは「鬼道」から脱却しようとしていました。

以上です。

少なくとも福永氏は、「鬼道」は五斗米道のことであるとも、五斗米道の神々であるとも、まったく述べていません。

(4) 老子想爾注の成立時期と鬼神を禁じた理由について

老子想爾注の成立時期は争いがあるようですが、卑弥呼の時代(福永氏の第2段階)ではないだろうというのが有力なようです(参照:麦谷邦夫『老子想爾注について』)。

南北朝時代以降であれば、自分たちの教義と、古来からの土着呪術を区分する必要があった時期ですから、低俗な風習は禁じるという文脈において「鬼神(巫術、呪術)を禁じた」と解釈ができます。そして、自分たちの教義は「崇高で正しい教え」として逃げ切ろうとしたのでしょう。その「言い逃れロジック」が老子想爾注に表れています。

そのように考えると、卑弥呼の時代の話でもなくなりますし、老子想爾注を根拠に「鬼道」と「鬼神」を区分するのは区分自体が誤っているだけでなく、時代錯誤にも陥っているように思います。

 

(5) 范曄の後漢書について

陳寿は『三国志』魏志倭人伝で卑弥呼の行為を「事鬼道(鬼道に事え)」と書きましたが、のちにその記述をもとに『後漢書』倭伝を編纂した范曄(はんよう)は、これを「事鬼神道、能以妖惑衆(鬼神の道に事え、能く妖を以て衆を惑わす)」と書き換えました。

「鬼神」が天神地祇や先祖霊全般を指す以上、「鬼神道」とは神霊全般を動かす呪術・神事「全般」を意味します。つまり、当時(5世紀)の歴史家(范曄)自身が、「卑弥呼の行っていた鬼道とは、鬼神を祀って妖術を行う土着の呪術(=鬼神道)のことだ」と表現したものと言えます。

このように古来から5世紀の後漢書までの用法を見ていると、鬼道と鬼神の二分論というのは、五斗米道を特別視する何らかのバイアスのかかった物の見方と感じられてしまいますが、皆様はどう思われますでしょうか。

 

(6)古代の為政者は巫術者の素養がある

小林恵子『江南出身の卑弥呼と高句麗からきた神武』p168~170には、為政者の必要条件が記載されています(※3:引用箇所は長いので最後に記載します)。

その内容を簡略にまとめると、以下のようになります。

(1)古代においては、王自身がシャーマンであり、シャーマンの長であった(最近の中国研究者の見解)。(2)巫術者の役割は、時代によって変遷している。もともとは(その語源からも)死者との交流を行った。死者との交流だけでなく、吉凶を占い、ときには、ひでりや雨乞の時、犠牲として天に捧げられた。

(3)時代が経つと、死者との交流よりも、風雨や天災を支配する呪術が巫者の条件になっていく。戦国時代中期以後、中国民族共通の祖先と考えられるようになった黄帝も、風雨を支配する巫術者と考えられていた。

 

下條氏(そして岡田英弘氏)は華僑説を頻繁に持ち出しますが、古代の為政者は商才たくましいだけの華僑では務まりません。シャーマンであれば、損得勘定で動く商売人は、むしろ似つかわしくないと思えるのは私だけでしょうか?

そもそも、現代のビジネスマンのイメージを古代にそのまま投影するのはアプローチとしても正しくないと私は思います。

低俗な呪術と蔑視されてきた巫術ですら、(断片的なものがおおくても)史料や伝承などに痕跡を残しています。仮に華僑が為政者であり、「華僑が倭国を支配した」のが事実なら、なぜその証拠が史料上に何ひとつ存在しないのか。その点をもってしても、私は、華僑説は誤りであると判断しています。

以上です。

 

※3 『江南出身の卑弥呼と高句麗からきた神武』p168~170、貼り付けはじめ

巫術と、卑弥呼が長じていた鬼道とは同じ道教的呪術と考えられているが、鬼道の鬼とは魂が天に昇る前の死者をいう。悪く言うと魑魅魍魎の類にもなりうる状態の死者である。鬼道とはその道に通じた人というのが文字づらからみた解釈になる。紀元一世紀に巫術の中心地である江南の紹興に住んでいた王充(『論衡』論死六二・訂鬼六五)によると、巫女は元弦(楽器の類といわれるが詳細は不明)を叩いて死人の魂を下ろし、死者に話をさせるとある。それだけではなく、吉凶を占い、ときにはひでりや雨乞の時、犠牲として天に捧げられる場合もあった。周の時代には手に茅を持って舞い、託宣をしたという。『記紀』にみえる天岩戸に隠れたアマテラスを誘いだすため、手に小竹葉を持って舞ったアメノウズメの命が巫女のオリジナル版というのは通説である。

これらは主に巫女の場合だが、戦国時代中期以後、中国民族共通の祖先と考えられるようになった黄帝も、風雨を支配する巫術者と考えられていた。後年になる程、死者との交流よりも、風雨や天災を支配する呪術が巫者の条件になっていくようである。

我々が現在見ることができる中国の史料はだいたい正史だから、中国歴代王朝が支持した儒教が中国の民衆の基礎哲学と思い込みがちである。しかし、現在では初期の時代から近代に至るまで、道教的観念と渾然一体となった巫術が民衆を心身共に支配していたという説が有力になっている。

最近の中国の研究者は、古代においては、王自身がシャーマンであり、シャーマンの長であったと考えているようだ。しかし、中国の古代はシャーマン=王だったとしても、為政者が儒教を民衆統治の手段にしてからのち、本当の意味で民衆を心身ともに支配した巫術者の行為はおおむね時の権力に対してアンチテーゼとして働くため、裏面史として史料に残される例が極めて少ない。また、正史の編者はすべて官職にある者、あるいはあった者だから、為政者の立場、つまり時の王朝からみた歴史を記述するという限界がある。だから民衆の中から起こった巫術者が指導する反乱は、正史の断片的記述から丹念に拾いだす他はないのである。

(貼り付けおわり)

会員番号2054 投稿日:2026/09/23 15:57

【714】金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は誰がいつ持ち込んだのか

2054です。本日は2026年9月23日です。2022年8月に重たい掲示板において下條氏とやりとりをした続編を4年ごしに投稿したいと思います。ご興味のある方は、重たい掲示板:[3453]、[3456]、[3458]、[3459]もお読みいただければ幸いです。

以前の投稿で下條氏が自説を最も根拠づけたのは金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)の存在です。この点について考察してみたいと思います。

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡というのは、大分県のダンワラ古墳から出土された直径21.1㎝の鉄製の鏡です。鉄の鏡はさびやすいので、銅鏡以上に高度なものとされます。この鉄鏡は背面に金錯・銀錯の象嵌をほどこされ、きわめて高級なもののため、「王宮関係に限られる(物理学者が解き明かす邪馬台国の謎p36の引用箇所、潘教授の見解)」。つまり国宝級のものということです。
この金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の存在を根拠に、下條氏は「なぜそんな貴重な鏡が日本にあるのか?」と問い、「それは卑弥呼が魏王室と縁戚関係だからだ、そう考えないと説明できない」としています([3459]の回答によります)。
正確を期すために箇条書きすると以下のようになります。
(1) この鉄鏡は曹操の身内(息子や娘)しか持てない貴重品であり、魏王室と縁戚関係にあった張氏一族(張玉蘭)であるからこそ所有し、厚遇された
(2) 銅鏡百枚とは別に、張魯の娘が個人的に卑弥呼に送った鏡である(上掲書p76)
(3) 魏王室の縁戚だから、卑弥呼は「親魏倭王」として金印紫綬や莫大な返礼品を授与された
(4) 許氏一族などは魏王室の縁戚ではないため、この鉄鏡の存在や金印紫綬の説明がつかず、卑弥呼ではあり得ない

以上を前提に私論を述べていきます。
まず時代背景から考えます。
もともと江南の巫術者集団は為政者による儒教思想のアンチテーゼのような存在で、彼等は道教と結びついて、地下水のように脈々と民衆の中に流れていき、絶えることはありませんでした。そして、何かのきっかけで反乱が勃発し、そのたびごとに為政者側は鎮圧したり懐柔したりを繰り返す、というのが中国史です。そして、2世紀後半は、後漢の内紛期で、ちょうどその民衆による反乱が突出した時期です。許氏の乱(172年)や黄巾の乱(184年)がそれにあたり、周辺諸国は好むと好まざるとにかかわらず余波を被った時期です。
歴史は連動しますから、朝鮮半島や日本列島はもろに影響をうけたことが史料上からうかがえます。
新羅本紀には173年に「倭女王卑弥乎が使者を遣わして交際を求めて(阿達羅王に)来訪した」とあります。その年号は許氏の乱の1年後です。魏志倭人伝も合わせると、許氏の巫術者(許黄玉)が、列島の「卑弥呼」の名称を語って北九州(伊都国)に定着し、倭人の小国王たちに共立されたのだろうと解釈できます。なお、黄玉は巫術と関係の深い表現で、巫術(魏志倭人伝にいう「鬼道」)にすぐれた卑弥呼にふさわしい名前です(※1)。
新羅(辰韓の1国)では、184年に阿達羅王が死に、伐休王が即位しています。伐休王は風雲を占い、洪水や日照り、その年の豊凶を予知し人の邪正を判断する能力があることから人々は「聖人」と称した。風雨を制御したり、吉凶を占う能力があるのが巫術者の条件ですし、巫術者は「聖」の字をよく使います。そう考えると、伐休王は巫術者であると考えて差し支えなく、黄巾の乱が掃討された年に新羅王になったことからみて黄巾の乱の残党であると考えられます(小林恵子『江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武』現代思潮新社p173)。つまり、その時期に倭国には許氏の勢力があり、その援護もあって中国を追われた残党が新羅王になったわけです。
そのような時代背景をもとに考えてみましょう。
巫術や道教といった思想背景を同じくする許氏が先に邪馬台国に根付き、その後に張氏一族などが亡命・逃亡先として邪馬台国に移動することは十分考えられることになります。それは邪馬台国が魏に使いを送っている239年ごろとは限りません。例えば魏が滅亡する265年や、もっと後になって魏王室の関係者が縁戚を頼って日本列島に金銀錯嵌珠龍文鉄鏡をもって移住したというシナリオも考えられなくもありません。そして、そのシナリオの真偽は鉄鏡をいくらシゲシゲと眺めてもわかりません。
つまり、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は「いつ、だれが、どのように」持ち込んだのかは解明できないわけです。
下條説は「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は魏王室との縁戚関係があるから(卑弥呼に)送ったとしか考えられません」としますが、論理的には、「他の可能性はいくらでも考えられる」ということになり、そう評価するのが現時点の妥当な結論かなと私は思います。
換言すると、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡というのは、それ自体は貴重な考古資料であると評価できますが、その「モノの存在」から「張玉蘭=卑弥呼」や「魏王室との縁戚関係ゆえに下賜された」という、直接の証明資料にはなり得ないわけです。
私は、魏王室が「縁戚関係による温情(ファミリードラマ?)」などで、邪馬台国を厚遇したとは思いません。当時の国際情勢による計算(呉や高句麗との連合を防ぐために懐柔策とした)が働き、厚遇したと思います(詳細は[3453]に記述)。また、そもそも張玉蘭では新羅本紀の年号と合わないため、下條説は誤っていると思います。
ただ、下條説を正しいとして、「張玉蘭は卑弥呼である。卑弥呼は魏に使いを送った。魏王室の縁戚だから金銀錯嵌珠龍文鉄鏡をもらった」ということを正当化するのであれば、他の側面(鉄鏡以外の独立した根拠)から「張玉蘭は卑弥呼である」ことを証明しなければいけないと思います。

※1 許黄玉の「黄玉」について
中国では仙女は鼻の上に、黍ぐらいの大きさの黄玉をあざのようにつけているのが特徴で、それがない者は偽物とされていたそうです。仙女は道教的な仙人の女性版ですから、霊験あらたかな巫女に近い存在です。まさに卑弥呼に似つかわしい存在です。
※参照:下條竜夫『物理学者が解き明かす邪馬台国の謎』秀和システム
学問道場の諸兄諸氏のなかで、ご興味のある方はぜひご一読されることをお勧めいたします。

会員番号2054 投稿日:2026/09/22 06:43

【713】蘇我氏は鮮卑ではない

2054です。本日は2026年9月22日です。シルバーウィークのお休みの間に投稿をしておこうと思います。
下條氏は「宇佐神宮と伊勢神宮の正確に西に王宮(御所)があった その2」において、蘇我氏の出自を北魏からきた鮮卑系の華僑としています。私は根拠がなく、すべて誤りであると思います。

(貼り付け始め)
北魏は534年、西魏と東魏に分裂した。北魏が分裂した東魏の末裔が倭にきたときに、「漢化政策」と似た「和(倭)化政策」をとったのだろうというのが、私の考えだ。漢化政策とは、北魏で鮮卑系の人々が中国風の名前や様式を取り入れたことをいう。だから、もう一回、この漢化政策と同じことをした、(中略)有力貴族も名を変えた。それが大和(やまと)にすむ「すが」「へぐり」「あや」「わに」などの有力豪族だろう。彼らの中には漢民族もいたが、「東漢(やまとのあやうじ)」、「西漢(かわちのあやうじ)」と同じく名前を和風に変えた。
(貼り付け終わり)

2054です。まず北魏の支配層が倭に渡来したという事実はどこにもありません。たぶん渡来していないでしょう。
(1)そもそも日本側から見て、受け入れる義理はどこにもありません。「我々は王族でござる」と言われても、利用価値が認められない集団を受け入れる気持ちは湧きません。王として尊崇するのはもっと無理です。
(2)渡来する側もそれなりの庇護者か血縁者がいなければリスクを冒して渡航はしません。
(3)甘樫丘を含め、大和地方の「広大な一等地」を領有するにはそれなりの軍事力がなければ不可能です。経済力を持つ土着豪族が「はいそうですか、はいどうぞ」と差し出すわけがないです。
(4)北魏の王族や貴族が大挙渡航してきたのなら、後世も含めて資料や伝承が残されるはずです。そのような証拠は私が知る限り存在しません。

東漢氏(やまとのあやうじ)が下條氏の説明に挙げられていました。彼等は北魏分裂の100年以上前に日本列島に渡来した渡来人ですが、彼等の場合は「それ相応の渡来する理由」があり、かつ、庇護者がいたから列島に渡来したと考えられます。以下、通説ではなく私見をもとに説明します。

東漢氏の祖は阿知使主は409年9月に列島に渡来したと日本書紀にあります(応神20年9月条)。彼等はどこからきたのか?
私は409年7月の北魏の道武帝による慕容氏(百余家)殺戮事件によると思います。殺戮を逃れた人たちは高句麗に逃れます。高句麗の広開土王は北魏にパイプがあり、かつ、慕容氏系という条件を満たす人物と考えられるからです。「高句麗本紀」の同年同月条には「平城の民戸を移した。8月に土王は南に巡回した」とあります。この平城の民戸とは北魏にいた慕容氏の人々でしょう。そして、広開土王は「南に巡回した」とあり、「南」とは古来から日本列島を暗示します。広開土王は倭国との戦争に完勝したのですから、倭国を事実上掌握していたようです。
北魏と倭国では「海を隔てて何千里」という距離があります。東漢氏の場合は、平城→高句麗→半島南部→倭国というラインが史料から推測でき、かつ、強力な庇護者(広開土王)がいました。だから、地縁も血縁もない倭国に渡来することができたわけです。
では、東魏の末裔の場合はどうでしょうか?
庇護者も指導者もおらず、何の史料的根拠もありません。「元」と「天」の漢字の形が似ているというのは単なる語呂合わせの域を出ません。
もし本当に蘇我氏などが王族として北魏からやってきたのだとすれば、阿知使主以上のインパクトです。史料や伝承に何の痕跡も残さずに、武内宿禰の子孫に収まること(蘇我氏の祖は武内宿禰であるとされます)は無理があるように思います。

また、最後に余談です。東アジアという政治圏において北魏が覇権を握り、辺境国に影響を与えたという「属国帝国モデル」は私も首肯します。つまり拓跋鮮卑は朝鮮半島や日本列島にも政治的インパクトを与えたと私も考えます。下條氏もその点に賛成されますでしょうか。
もしそうであれば、3世紀後半(285~286年以降)には、慕容鮮卑がその立場にあり、日本列島に100年以上の影響を与えたと私は考えます。下條氏は慕容鮮卑の王族は日本に渡来したと考えないでしょうか?
以上です。
参照文献:小林恵子『広開土王の諡は仁徳天皇』現代思潮新社p77~80

会員番号2054 投稿日:2026/09/21 13:50

【712】余談:天の香久山の解釈について

2054です。本日は2026年9月21日です。
下條氏の投稿その1の引用箇所に「衣ほすてふ天の香具山」という万葉集の有名な歌が載っていた。この、教科書に載るような有名な短歌「春過ぎて夏來るらし白妙の衣乾したり天の香山」について考察します。
まず、この歌は、持統天皇の歌とされており、その内容は一般に「春が過ぎて、いつの間にか夏がやって来たようだ。夏になると白い衣を干すという天の香具山に、真っ白な衣が干されているよ」という、実にのどかで平凡な風景をうたった歌とされている。それだけなら、「つまらない絵画のような歌」というだけですが、この歌の真意はそのような情緒的なものでありません。実にドロドロした政治的な意味合いを持っています。たとえていえば「暗号」です。
このことは小林恵子『本当は恐ろしい万葉集』(祥伝社黄金文庫)p174~176に詳しい。私の見解は、小林説に基づいているだけだが、以下紹介したいと思います。
まず前提として持統天皇は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)という女性ではない。高市皇子である。そして、高市皇子は天武天皇の長子とされていますが、間違いだ。彼は天智天皇の長子(庶子)である。このことを前提にします(通説と異なりますので、異論はあるかと思いますが、とりあえず、私の仮説に立って、お付き合いいただきたいと思います)。

春過ぎて夏來るらし白妙の衣乾したり天の香具山
春過而夏來良之 白妙能衣乾有 天之香來山

万葉集だけとは限らないが、この時代は五行説の知識がわからないと歌に込められた「暗示」を読み取ることができない。この歌に必要な情報を分解すると以下の通りになる。

(1) 香具山は高市皇子の邸宅のあったところでので、高市皇子を表象する。
(2) 「春」は五行思想でいう天武天皇の季節、「夏」は木徳の次にくる火徳の季節で、大津皇子を指す。
(3) 高市皇子は土徳の人で、かつ近江朝の「水徳」も自認している人物です。
(4) 「白」は天智朝の色です。天智天皇は「金徳」、季節は「秋」です。

五行説から考えると、この歌はきれいに「木・火・土・金・水」が登場し、東西南北の中央に「土(=中央=香久山)」がきています。この短い文字数でよくもまあ計算できたものだと感心します。高市皇子(持統)は「おれが中央だぞ」と自慢しているわけです。そして、意訳すると、天武朝の春は過ぎて(=天武はいなくなった)、夏が来た(=大津皇子朝となった)が、ついに白い天智朝の秋である私(=天の香久山、高市皇子)の天下になったぞ!という、政治的な勝利宣言の歌になっているのです。

さらにこの歌で重要なのが「香久山」に「天」がつくことだ。香具山はすべての歌で「天の香具山」と歌われているわけではない。この事実は無視できない。
「天の香久山」と初めて詠んだのは舒明天皇です。高市皇子の父は天智天皇、その父は舒明天皇です。舒明→天智→高市(持統)という血統を示すためにも「天の香久山」と詠む必要があり、また、「天」のつく香具山の歌の場合は、歌った人物が倭国の主、つまり天皇になったという即位宣言の意味も込めたものと解釈できます。つまり血縁と即位を兼ねた「ダブル・ミーニング」なのだ。

高市皇子=持統天皇という前提に疑問をお持ちの方もいると思います。しかし、その疑問の持たれている方にあえて問いたいと思います。五行説は、当時の知識人であれば当然知っている学問的基盤です。「ああ、この歌は表は牧歌的だけど、裏はこんな意味だね」と誰もが分かるはずです。もし天武天皇の配偶者(あるいは別の人、つまり天武派)であれば、夫である天武の時代の終焉を祝うような歌を詠うはずがありません。それは政敵だからこそできることではないでしょうか。
このような「裏読み」は私はワクワクします。もし学問道場の諸兄諸氏の皆様も興味がわきましたら、『本当は恐ろしい万葉集』(祥伝社黄金文庫)をお読みいただければ幸いです。
以上です。

会員番号2054 投稿日:2026/09/20 16:33

【711】真人について

2054です。本日は2026年9月20日です。下條氏が重たい掲示板において「【3234】宇佐神宮と伊勢神宮の正確に西に王宮(御所)があった その1・その2」を投稿しています。しかし、現時点では誰も言及していない。この投稿には多くの疑義がありますが、今回は真人について考察したいと思います。以前、投稿を止めるとしましたが、撤回します。

(1)真人の意味について

下條氏は後半の投稿(その2)に真人(まひと)とは「本来は拓跋氏の系統という意味である」としています。

しかし、真人とは道教でいう悟りを開いた仙人に近い人を指し、紀元前から広く知られた概念です(『楚辞』『淮南子』など)。4世紀以降に歴史の表舞台に登場した北魏の拓跋氏を示す用語ではありません。

仮に北魏において「真人」という言葉が用いられていたとしても、それは中国大陸で古くから共有されていた道教的・神仙思想的なプラットフォームを拓跋氏が受容・利用したに過ぎず、言葉の起源や血統そのものを意味するものではありません。

(2)天武天皇の和風諡号について

下條氏は「瀛真人」としますが、ただしくは「天渟中原瀛真人(あまのぬなかはらおきのまひと)」です。

「渟」とは止まった水のことすなわち清らかな水にたたえられた場所のこと、「瀛」は神仙思想の東方海上の三神山の1つ、瀛州山からきたもの、そして「真人」は道教でいう悟りを開いた仙人に近い人を指します。だから、和風諡号は、「天上の静かで清い水をたたえた風土における仙人のような人」と解釈されます。

ここから言えるのは、天武天皇が神仙思想に傾斜した人物であることがわかります(小林恵子『倭王たちの七世紀』現代思潮新社p120)。拓跋氏の由来を示す根拠は見当たりません。

以上です。

かたせ2号 タゴサク 投稿日:2026/04/11 06:22

【710】ある方に向けての業務連絡

ある方に向けての業務連絡、の件

かたせ2号です。本日は、2026年4月11日です。
この件は投稿が必要なので、あえて投稿します。
そして、今年中はもう投稿しません。
それではごきげんよう。

・今月(2026年4月)に発信されたあなたからのメッセージをたしかに受取りました。
・「行くあてはないけど ここにはいたくない」(Blanky Jet City) というのがホンネではないでしょうか、おそらく。
・あなたにお会いするための準備をいつ開始しようか、ふんぎりがつかないでいましたが、そろそろ始めます。良い機会をいただけました。ありがとう。
・あなたとリアルで(対面で)初めてお会いできるのは、早くても、来年、2027年、の1月以降です。そして、具体的にそれがいつになるかは、まだわからない。
・あなたとの接触は、ある「メッセンジャー」(とある人物)を介して始めます。ここでは、伏せておきますが、あるキーワードをそのときに伝達します。それで、わたしかどうか見極めてください。
・なお上記「メッセンジャー」(人物)の属性キーワードは「琵琶湖」。 ただし、現時点で、その人物にこのキーワードはまだ付与されていません。
・最後に、現時点でのあなたには、広島東洋カープファンであるわたしから、わたしが大好きだった津田恒美投手の座右の銘を贈ります。「弱気は最大の敵」。

以上