ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
伊藤 投稿日:2025/01/11 08:42

【593】日本古代史研究小史(3)津田左右吉(文献学)と梅原末治(考古学)の影響が巨大である。(その2)

伊藤睦月です。今回は、考古学。

(2)梅原末治の「形式学的研究法」が考古学の基本方法論となった。

2-(1)考古学では、梅原末治(1893-1983)が重要。大学出でなく、発掘編場からのたたき上げから、京都大学の先生になった。かなり、癖のある、つきあいにくい性格で、考古学者仲間からの評判は最悪だったらしいが、弟子育成には熱心で全国に弟子がたくさんいて、2000年くらいまで、学会をリードした。

2-(2)彼の方法論は、「形式学的研究法」。かみくだくと、

①徹底した観察・分類(出土物の形式、文様、材質などを細かく分類する)

➁精密な図録作成

➂地層判別法により、年代測定(古い地層から出土したのが古い遺物)

④炭素14年年代測定法などの科学的分析法への不信

といった方法で、例えば土器を観察して、縄文、弥生、庄内、布留、と細かく分類して、出土した地層の古い順から並べる、という方法。シンプルで、わかりやすい。現場の考古学者の励みとなった。

2-(3)その一方で④のような、科学的分析法の導入には消極的、というかよく理解できなかったのでは。

2-(4)炭素14年代測定法とは、炭素14という元素の半減期に注目して年代測定する方法。欧米の考古学では1960年代からポピュラーになった。わが国では梅原の影響が強く、採用しても、観察結果を補充するものとして扱われた。出土物を数理統計学で分析、分類する方法(安本美典など)も同様。

2-(5)このような、「歴史サイエンス」の手法が認知されるきっかけとなったのが、2000年に発覚した旧石器捏造事件。藤村新一、という、現場のたたき上げ考古学者が、旧石器の捏造品を、旧石器時代の地層に仕込んでいたことが発覚して、大問題となった。副島先生の重掲にも取り上げられていた。

2-(6)藤村新一については、彼だけが、次々と旧石器を発見していることから、(そのため、藤村は「ゴッドハンド」と呼ばれた。)藤村に疑問を持つ研究者もいたが、学会の重鎮の一人が藤村を支持、擁護していたために、発覚が遅れた。発覚後は新聞等がセンセーショナルに報じられ、学会は一時パニックになった。

2-(7)なお、藤村の旧石器を「日本文明」のよりどころとしていた、「新しい教科書を作る会」の失速のきっかけとなった。会の有力イデオローグであった、渡部昇一、西尾幹二、田中英道、たちの株が暴落した。

2-(8)伊藤睦月です。この事件以降、ようやく、科学的年代測定法が重用されるようになったが、重用しすぎる弊害がおこった。

2-(9)2013年、宮内庁が管理する、箸墓古墳が、国立歴史民俗博物館(レキハク)が、炭素14年代測定法を使って、出土品の年代測定を実施。卑弥呼に時代と同年代の可能性が高い、と発表。それを朝日新聞がセンセーショナルに報じた。たちまち、考古学学会の「通説」となった。『副島隆彦の歴史再探訪』(2019年)にも出てくる話。

2-(10)この発表は、邪馬台国畿内説の有力根拠とされた。当時の学会内の「空気」としては、「いまのところ、考古学会では、ほぼ近畿説で落ち着いているのが現状であり、『九州説を採る者にまともな考古学者はいない』発言さえ、聞かれるようになった」(片岡宏二『邪馬台国論争の新視点』2019年雄山閣)

2-(11)その後、安本美典氏らが強力な反論を行っているが、新聞各社は取り上げず、「週刊文春」のみが報じたという。2024年現在でも、畿内説、九州説が拮抗している。以前にも述べたように、考古学の見直しや、歴史サイエンスの成果が浸透してくると、なし崩し的に、九州説に落ち着くとは思うが、数十年はかかるだろう。教科書の記述が変わるのが目安。

2-(12)このレキハク(大阪国立民族博物館「ミンパク」とは別。レキハクは千葉県

の発表は、私見だが、旧石器捏造事件の名誉回復や、箸墓古墳のある、奈良県や桜井市の観光振興という政治的意味合いもあるので、建前上なかなかひっこみつかないようだ。地元で実際に発掘調査している、真面目な考古学者たちもうんざりしているらしい。(関川前掲)考古学会それ自体は、「邪馬台国論争」にさほど、重きは置いていないという。(片岡前掲)。騒いでるのは、素人さんだけ、ということか。なし崩し的に落ち着くだろう、という私の観測はここからきている。

小休止、伊藤睦月筆

伊藤 投稿日:2025/01/10 15:48

【592】ブレイク:日本古代史研究小史(2)津田左右吉(文献学)と梅原末治(考古学)の影響が巨大である。(その1)

  伊藤睦月です。日本史、特に日本古代史に関して、文献学の津田左右吉(1873-1961)、考古学の梅原末治(1893-1983)の方法論は無視できない。この分野で、2人を知らない人は、モグリ、である。

 2人の考えは、学会通説の形成の基礎となっている。2000年以降、学会重鎮が物故すると、見直し、反動が起きてはいるが、なかなか手ごわい。私の理解の範囲で、雑談する。

(1)津田左右吉の「史料批判(造作論)」

 1-(1)津田左右吉は、戦前から有名な歴史学者である。「古事記及び日本書記の研究」(1919)、いわゆる皇国史観の風潮に抗して、「記紀は、編纂時の権力者の意向に従った神話・伝説であり、史実ではない」と主張。戦前昭和では、弾圧された。戦後は逆に英雄の一人となった。

1-(2)彼のすべては造作(フィクション)という主張は、結構インパクトがあって、現在でも歴史理解の基本となっている。歴代天皇のうち、2代~9代までは実在しない(欠史八代)とか、応神までは、神様で、仁徳から人間になる、とか、記紀の記述を簡単に否定・改変してしまう。「自虐史観」の典型として、右寄りの人たちから、強く批判(非難)されている。

1-(3)しかし、この津田の懐疑主義は、今でも、文献学の重要な考えの方一つとなっている。ただし、この考え方は、18~19世紀に欧州で主流の考え方であり、同時期の日本では、懐徳堂の山片蟠桃の方法論もである。明治に導入されたランケの方法論にも通じる。

1-(4)現在では、記紀のような神話、民俗学や人類学で扱う伝承類は事実でないとしても、そこになんらかの「歴史的真実」が示唆されている、という考えも有力である。造作論(懐疑主義)も思考の出発点としては、必要、と考えられているようだ。

1-(5)津田左右吉の「造作論」との関係は、よくわからんが、東洋史学会では、「世界史の中の日本史を探求する」という考えがあるようだ。岡田英弘博士のような、学会反主流派もこの点については認識を共通にしており、日本史学会、教科書の記述にも影響を与えつつある。それでも、まだ不十分、という批判もあるようだ。

1-(6)また、史料を徹底的に読み込む、という考えもある。古田武彦(1926-2015)が典型だが、文献学者共通の考えでもある。ただし、文献解読の範囲が日本史料に偏っている、との批判もある。

1-(7)文献学の新しい方法論として、歴史サイエンスの一つ、数理統計学の手法があり、そのパイオニアが安本美典氏(1934-)。

 邪馬台国論争で有名だが、1960年代、大学院生時代に、源氏物語宇治十帳の作者が紫式部でないことを、初めて実証的に解明した。(作者特定までにはいたらなかった)

 数理統計学は結局確率論なので、限界はあるが、有力なツールであることは間違いない。欧米では、安本の手法が主流になっていると思う。トッドやハラリが典型。わが国とは事情が違うようだ。

1-(8)歴史サイエンスは、むしろ、考古学において、威力を発揮する。理系出身や英語文献にも明るい人が多いようだ。このような傾向が顕著になったのは、私見だが、2000年以降。冷戦終結という大きな枠組みのなかで、津田、梅原の影響を強く受けた世代が、退場していったことが大きいと思う。歴史学は、これからが、面白くなってくる、と確信している。

次回は、考古学の動向について、雑談します。

伊藤睦月筆

 

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/10 09:04

【591】ブレイク:日本古代史研究小史:戦前の方が、スケール大きかった(1)

 伊藤睦月です。今朝、博多の街は雪景色です。積雪はミリ程度ですが、道が凍結しているので、歩くのに注意が必要。事故増えそう。

 前回で、日本古代史の前半(1世紀~8世紀)を概観したので、(思い付きの補足説明はするけれども)ちょっと休憩。少し雑談(今までもそうじゃないか!というツッコミはご勘弁)します。以下あくまでも私見です。

(1)日本古代史研究は、戦前の方がスケールが大きかった。邪馬台国論争の白鳥庫吉や内藤湖南は、日本史学者ではなく、東洋史学者として有名だった。中国人学者・留学生も彼らに教えを請いに来たという。

(2)戦前は、大日本帝国の膨張期で、「比較的自由に大陸を行き来していた(小林恵子氏)」。だから、東シベリアの遊牧民たちの人類学的研究も盛んであった。戦後「文明の生態史観」の梅棹忠夫、「騎馬民族王朝征服説」の江上波夫といった戦前からキャリアを始めた学者の論考は、それへの諾否は別として、戦後の学者たちにはない、スケール感がある。戦後世代にはなるが、岡田英弘(1931-2017)もその系統である。

(3)戦後は、海外渡航に制限がかかっていたこと、「皇国史観」というフィクションが崩壊した後、「唯物史観」という新たなフィクションの流行、それに行きたくない人は「実証」の殻に閉じこもる、といったいびつな研究環境にあった、特殊な時期が続いた。台湾以外の中国人歴史学者との交流は、日中国交回復(1972年)以降から始まったが、まだ十分とは言えない。韓国人学者との交流もいまだにバイアスがかかっているようだ。

(4)日本古代史研究も、日本歴史学会、日本考古学会、日本東洋史学会、に分かれて、お互いの領域は干渉しない、という慣行が続いているようだ。(他に文化人類学会とか・・・勝手に命名してしまうけど)「たこつぼ」と批判するのはたやすいが、それなりの成果はあったとは思う。

(5)そういった「歴史研究の壁」を打ち破る傾向が見え始めていると思う。いわゆる「歴史サイエンス」「学際研究」と呼ばれる、研究手法の開発、発達だ。海外との交流が盛んだった、理系研究者の参入が著しいようにみえる。

(6)この傾向も、1990年代の、東西冷戦の終結が背景にある。政治、経済、ときて、文化、歴史研究にもようやく及んできたようだ。2000年以降になる。

(7)次回からは、日本古代史研究史に関し、私の「知ったかぶり」を雑談していきます。ツッコミ、ご教示大歓迎です。

以上、伊藤睦月拝

 

伊藤 投稿日:2025/01/09 22:48

【590】日本古代史解明の補助線(10) 天武直系から、天智直系へ

伊藤睦月です。続きを少々。

4-(1)孝謙改め称徳が770年に死亡したことによって、吉野盟約の6人の皇子のうち、5人の直系が絶えた。

4-(2)残るは、天智直系の志貴(施貴皇子)の息子、白壁王(709-782)が残っていた。天武派の豪族たちは、聖武傍系の井上内親王を皇后に、二人の間にできた子、他戸親王を皇太子にすることを条件に即位させた。光仁天皇である。光仁は高齢だったので、政権交代は遠くない、と思われた。ぼけ老人のふりをしていた、という。政敵を油断させたのだ。

4-(3)即位から5年後、775年に、井上内親王、他戸皇太子を謀反の疑いで、幽閉し、食事、水を一切与えず、餓死させた。

4-(4)そして、天武系の血が1ミリも入っていない、渡来人系の妻、高野新笠との間の子、山部親王を皇太子にたてた。781年光仁の跡を継いで、天皇に即位し、桓武(737-806)と名乗った。これ以降、天武系の天皇は出ていない。志貴皇子の血統は絶えることなく継続し、現天皇家までつながっている。

5-(5)ここでクイズ、光仁、桓武で天智系が完全復活したが、そのときなぜ、大友皇子の名誉回復をしなかったのか。

5-(6)答え(私見)光仁の即位により、志貴皇子の血統が直系となったため、大友皇子の血統は傍系になり、皇位継承資格を失った(もしくは、名誉回復により、天智の血統間での天皇位争いが勃発するのを防止するため)

5-(7)大友皇子の名誉回復は、明治まで行われなかった(弘文天皇号を追贈)

5-(8)大友皇子の直系の曽孫が、淡海真人三船(おおみのまひとみふね722-785)である。懐風藻の編纂や漢風諡号(かんふうしごう)を定めたとされる。真人は皇族に与えられる姓(かばね)。格は高いが、役職が制限されていたらしく、三船は、いわゆる「臣籍降下」(女性皇族が皇籍を離脱する、「臣籍降嫁」とは別)して淡海姓をもらい、官位を望んだ。生活のためであろう。学問で身を立てようともしたらしい。天武系全盛の時代だったから、現実的な選択をしたと思う。本人の心中はわからない。

以上、伊藤睦月筆

5-(9)懐風藻の冒頭の漢詩が大友皇子の作で始まっているのは、先祖への追慕の意味がある。それ以上の政治的意味があるかどうかは不明。

5-(10)漢風諡号は、持統時代に定められた和風諡号と合わせて、歴代天皇の出自と業績のエッセンスがまとまっていると思うが、彼自身及び天智系の天皇たちの思惑も反映されているかもしれない。

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/09 16:57

【589】日本古代史解明の補助線(9):天皇位継承の大原則 吉野盟約

伊藤睦月です。

1-(1)天武・持統朝における、天皇位継承者の範囲を決定したのが、「吉野盟約」(679年)だ。672年の壬申の乱から、7年後である。

1-(2)天武天皇は、吉野盟約の2年後、681年に日本書紀の編纂を命じている。

1-(3)この7年後(686年)に天武天皇が亡くなる。「7」という数字になにか意味があるかどうかはわからない。

1-(4)720年日本書紀が完成した。

2ー(1)吉野盟約によって、天皇位継承候補者は、6人に絞られた。天武直系4名、天智直系2名である。天智直系が入っていることに注意。

2-(2)その6人は以下の通り

※天武直系

①草壁皇子(662-689)

②大津皇子(663-686)

③高市(たけち)皇子(654-696)

④忍壁(おさかべ)皇子(?ー706)

※天智直系

⑤川島皇子(657-691)

⑥志貴皇子(668-716)

2-(3)伊藤睦月です。継承順位はおおむね番号通り。母の身分順で、年齢順ではない。

2-(4)天武以降は、上記6人もしくはその直系しか天皇位になれない、ということ。江戸時代の徳川御三家(尾張、紀伊、水戸)、御三卿(一橋、田安、清水)みたいなもの。この区別は厳重に守られた。

2-(5)この盟約では、天武と持統の子、草壁皇子が、次の天皇に決まった。他の皇子は傍系となった。この時点では。

2-(6)しかし、草壁は天皇位に着く前に早死にしてしまった。

2ー(6)持統は、草壁の直系(文武)に天皇位を継がせるため、第2順位の大津皇子を謀殺し、自ら傍系の天皇になり、文武が即位するまでに、他の傍系の天皇(元明、元正)でつないだ。性別は問わなかった。

2-(7)第3順位の高市皇子は殺されなかったが、息子の長屋王(684-729)は、草壁直系(聖武)を即位させるため、藤原四兄弟によって、一族根絶やしにされた。藤原一族の妻子は、助けられたが、子孫は残せなかった。

3 藤原仲麻呂(706-764)の失敗

3-(1)聖武の直系である孝謙女帝(718ー770)は、子供を産まなかったので、天武直系が絶える恐れがあった。

3-(2)そこで、当時の最高実力者藤原仲麻呂(恵美押勝)は、孝謙を退位させ、舎人親王の子、大炊(おおい)王を天皇位につけた。舎人親王は、天武の直系であるが、吉野盟約のメンバーではない。つまり対象外から天皇を選んだ。

3-(3)これには、当時の豪族を代表して、橘奈良麻呂(721-757)が反対した。橘奈良麻呂は、橘諸兄(684-757)の子。橘諸兄は、仲麻呂の祖父、藤原不比等の正妻、県犬養三千代の連れ子だ。

3-(4)藤原仲麻呂は、橘奈良麻呂の関係者を皆殺しにして、独裁権を確立、恵美押勝と改名して、大炊王即位を強行した。

3-(5)その藤原仲麻呂も、孝謙派の豪族たちの反発にあって、失脚、暗殺された。

3-(6)孝謙は、大炊王の天皇位を剥奪して(淡路廃帝)孝謙天皇として即位した。淡路廃帝は、仲麻呂の死の翌日に死亡した。暗殺説が有力。

3-(7)明治に入って、名誉回復。大友皇子(弘文天皇)ととともに、淳仁天皇と追贈された。

小休止、以上伊藤睦月筆

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/09 14:13

【588】日本古代史解明の補助線(8):傍証としての「日本書紀」(5)雄略大王について

伊藤睦月です。続けます。

(1)雄略大王=ワカタケルは、小説家の関心を呼ぶような題材らしく、池澤直樹氏(芥川賞作家)が日経新聞に連載した「ワカタケル」が話題を呼んだことがある。

(2)雄略大王の業績は、神武東征以来の有力豪族の多くを排除して、「ヤマトのアマ氏」の優位性を確立したことだ。

(2)ー2 雄略大王は、葛城氏、吉備氏、平群氏と いう武内宿禰由来の豪族たちの宗家を、謀略と戦闘で次々と排除した。戦闘は圧勝だ。雄略の晩年には、彼に面と向かって逆らう豪族は誰もいなくなった。

(2)ー3 雄略の覇権に寄与したのが、蘇我氏、大伴氏、だ。物部氏も大勢力だが、中立を保った。

(2)ー4 雄略大王の「軍政」担当が蘇我氏だ。蘇我氏は、倭国王武と好太王の激闘のあおりを受けて、列島に渡来(避難)してきた、難民たちを組織化した。(帰化人と呼ばれた)

(2)ー5 蘇我氏は、計数に明るい帰化人の部族(秦氏、西文氏など)を、傘下に入れ、軍事や騎乗が得意な部族を、大伴氏の傘下に入れて騎馬隊とした。(戦国時代の常備軍、馬回り衆に近い機能を持った)騎馬隊は当時の最強兵器である。兵器の優位性が勝敗を左右するのは古今東西同じである。

(2)ー6 蘇我氏は、応神大王のころから、大王家の税(米)と財産(宝物)の管理、出納をしていたというから(『古語拾遺』)、明らかに華僑由来だ。このころはまだ、政治の表には出てきていない。出てくるのは継体朝以降だ。馬具職人(後に仏師)の鞍作一族とも同族であろう。

(2)ー7 大伴氏は、東征の時から、神武につき従っていたから、神武の用心棒、親衛隊長のような関係だったと思われる。雄略の最も信頼厚き武闘派一族。「軍令」を担当し、蘇我氏が編成した騎馬隊を率いて、戦いの先頭に立った。後年、大伴金村が、継体大王擁立に大きく貢献する。それ以降はぱっとしない。

(2)ー8 物部氏は、葛城、平群滅亡後の最大勢力。ヤマトへの先行華僑、ニギハヤの後裔で、大王家とはほぼ同格。大王家が、名門倭国のアマ氏と同族ということで、かろうじて、大王家が優位にたった。物部氏は、雄略存命中はおとなしくしていたようだ。また、物部は「モノノフ」と言われるように、政治よりも軍事が得意だったらしく、欽明大王時代に政治力で上回る蘇我氏に後れを取ることとなる。

(3)雄略大王が独裁権を握った後は、この種の独裁者によくあることだが、一種の自家中毒を起こしたらしい。北九州の倭国や朝鮮半島を攻略するには、まだ力不足だったのだろう。やつあたりみたいに、近親者を殺しまわり、血縁がほとんどいなくなった頃に急死した。危険を感じた身内もしくは、旧来の豪族たちの合意で、殺されたのであろう。織田信長の最期とイメージが重なる。(倭国や外国勢力の関与も疑える)

(4)雄略の死後、しばらく小康状態になり、従来の豪族(華僑と原住民の王)たちの合議で、政治が行われたのであろう。こういう体制では、対外戦争はできない。目立った事跡も書記にはない。播磨王朝もそれだけ取り出して論じる意味がわからない。

(5)そのうち、武烈大王の死により。応神・仁徳大王の直系が絶えたので、同じ応神の血統である、越前の豪族、継体が大王に招かれた。応神の直系の変更が起こった。(後年の天武→天智という、舒明直系の変更とイメージが重なる)

小休止、伊藤睦月筆

 

伊藤 投稿日:2025/01/09 11:58

【587】日本古代史解明の補助線(7):傍証としての「日本書紀」(4)倭の五王と山門国の大王たち(河内王朝)は別人である。

伊藤睦月です。前回の続き。

3 「倭国」と「大和国」との分かれ道(1)

3-(1)私、伊藤は、いわゆる「河内王朝」は、内政重視による国力充実の時期に当たり、いわゆる外に出ていくのは、継体朝以降だと考える。その理由は以下の通り。

①日本書紀には、この時期、「外征」の記事がない。当時、倭の五王は、朝鮮半島に積極的に進出し、高句麗と激しい戦闘を繰り広げていたことは、朝鮮側の史料「三国史記」「三国遺事」でも明らか。また、当時の中国南朝(宋)にまで、上記内容の上表文を提出して、柵封を受けているのだから、建前上、「海外向け」の書紀で取り上げないのはおかしい。この倭の五王たちは、大和国の大王たちとは、別系統、とみるべき。

②また、教科書等に良く掲載されている、倭の五王の系図と河内王朝の系図(宮内庁HP)が一致しない。見て見ぬふりをしているとしか思えない。

③倭の五王の最後、武は雄略大王だというのが、定説だが、金石文(刀剣等に刻み付けられた碑文など)にある「ワカタケル」=雄略大王であっても、ワカタケル=武とする根拠は、同時代というほかは、なにもない。

④「ワカタケル」という名は、関東と九州の遺跡の両方から出土されたことから、河内王朝の雄略だという推定は支持できる。(北九州の倭国の勢力が関東まで及んでいたとは思えないから)

⑤学会通説は、「倭国」(もしくは九州王朝)の存在を認めていないから、武=雄略としている立場を崩さない。しかしそれがために、河内王朝以後の王統のつながりをうまく説明できないでいる。倭国と山門国の二国併存説(同旨副島、古田)なら、「合理的な説明が可能。これについては後述する)

3-(2)大規模土木工事の記事は、仁徳大王の項に集中しているが、その後も大型前方後円墳の建設は続いているから、仁徳以後も、メンテナンス、新田開発工事はある程度継続されたと考える。それにしても、行政らしい事跡は仁徳以外に出てこないのは、ルーティンな作業だけで、目新しいことはなにもしていない、ということ。国力充実に専念していた、と考えるのが妥当だと考える。但し、雄略大王の時代になると少し、様相が変わってくる。

3-(3)履中、反正、允恭、安康、雄略、の記事は、いずれも、国内問題ばかりである。いわゆる不倫や近親相姦、略奪婚の話が多く、いわゆる身体障碍を思わせるような大王もいて、とても、「先祖代々甲冑を着て、朝鮮半島で戦いを繰り広げた」(武の上表文)とは、思えないような牧歌的な記述が続く。

3-(4)以前、引用した考古学者の関川尚功氏も、奈良県内の遺跡の多くを発掘調査してきた者の「実感」として、「大陸・(朝鮮)半島情勢とは無縁の近畿・東海地域」と結論付けている。(『考古学から見た邪馬台国大和説』)

3-(4)ほかの大王とは、一味違う、雄略大王

①雄略大王の代になると、単なる「略奪婚」にとどまらず、自分に逆らう豪族たちを、手段を択ばず、その女性ともども滅ぼしている。しかも、瞬殺、圧勝である。

②学会通説でも、雄略大王の代に当時の有力豪族を滅ぼして、一時的にせよ、独裁権を確保したとみる説がある。「古代の織田信長」と例える人もいる。

③古代人にとっても、雄略大王は「一味違う」大王と恐れられ、憧れもされたようで、万葉集の冒頭は、雄略大王の長歌から始まっている。また、雄略(ワカタケル)を主人公とした小説もある。

④しかし、なぜ、そうなのか、という考察はないようだ。次回、私見を述べる。

以上、伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/09 10:04

【586】日本古代史解明の補助線(6)::傍証としての「日本書紀」(3)

伊藤睦月です。前回の続き。

2 奈良盆地の「人口爆発」(続)

2-(2)巨大前方後円墳は、古代の治水・農業灌漑施設だ。

 ①2019年に世界遺産登録された、大仙陵古墳(仁徳陵)をはじめとする、百舌鳥・古市古墳群は、高校教科書などでは、「強力な王権の存在を伺わせる王墓」といった説明が付されることが多い。しかし、本来目的は、河内平野の治水と農業灌漑用の施設だ。後にこのプロジェクトを指揮した、大王たちの業績を記念するため、その施設跡に王棺が収められた。土木工学の専門家で、国土交通省技官だった、長野正孝氏は、専門家なら一目でわかるという。(『古代史のテクノロジー』2023年PHP新書)

②また、ゼネコンの大林組の調査で1991年に、百舌鳥・古市古墳群と、奈良盆地をつなぐ運河(古市大溝、丹比大溝)が発見され、さらにいくつかの運河跡の存在をつきとめている。これも考古学の新しい成果(歴史サイエンス)だが、学会主流で積極的に取り上げられた形跡はない。そのうちなし崩し的に認知されるだろう。私の推論を進める。

③このプロジェクトに従事したのは、中国から渡来した土木技術者集団(帰化人)で、彼らは黄河や長江の治水技術を山門国に、導入した。北九州にはそういった大規模施設の遺構がみられないので、渡来しなかったか通過しただけだろう。ちょうど、高句麗の好太王と倭の五王が、朝鮮半島南部で死闘を繰り返していた時期(謎の4世紀)にあたる。長野正孝氏は、そういった事例として、ほかに、大和川、龍田川、富雄川、佐保川、蘇我川などを結ぶ、「奈良湖」や、京都巨椋池、岡山穴の海と津寺遺跡などを挙げている。彼らは、難民として渡来してきて、華僑系の有力豪族、蘇我氏によって組織化されたのであろう。蘇我氏が急速に存在感を増してきたのは、河内王朝以降である。技術者集団が、どの氏族に当たるかは、手元に資料がないので後日の宿題にさせていただきます。

④仁徳大王は、奈良盆地にあふれていた東国からの流民たちを工事に使役し、完成後は彼らに新田を与えた。流民たちは仁徳に大変感謝し、崇めたに違いない。

⑤西からの難民(渡来人)たちもいただろうが、東からの流民の方が数が多くて、彼らに与える土地がなかったのかもしれない。後に彼らの多くは、信州や関東に移され、そこに土着し、武装した彼らが、いわゆる関東武士団を形成することになる。そのときに、先の農業技術者たちと、騎乗のスキルを身に着けた者たちが、難民たちを率いて行ったものと考えられる。

⑥私、伊藤は、江上波夫が、この謎の4世紀に発生したとする、いわゆる、「騎馬民族王朝征服説」は採用しない。理由は、江上による「騎馬民族」の定義が厳密すぎるから。江上は、騎乗のスキルを身に着けた遊牧民だけが「騎馬民族」であるし、漢民族などの農耕民由来を、騎馬民族とはかたくなに認めなかった。但し日本人は本来農耕民であるが、ある時期「騎馬民族的」になったという。(武士の登場、大日本帝国など)

⑦古墳時代後期の出土品は、江上が指摘するように、馬具や馬具を身に着けた戦士の埴輪が数多くあるが、いずれも、農耕民由来の「鐙(あぶみ)」などの馬具を使用しており、江上のいう「騎馬民族」の定義に当てはまらない。遊牧民が鐙を使用しだすのは、もっと後、12世紀モンゴル帝国のころからだとされている。

⑧また、その後に日本列島で使用された馬は、すべて去勢されていない、牡馬(おすうま)であり、これは、農耕民由来の特徴である(欧州でも同じ。去勢馬を採用したのは、11世紀の十字軍遠征で、イスラム騎馬隊を真似た、とされる。)。去勢馬を使用しだしたのは、明治以降である。軍馬としては、日本陸軍騎馬隊の創設者、秋山好古(坂の上の雲の秋山真之のお兄ちゃん)がフランス騎馬隊を真似て、導入したとされている。但し、競走馬などの特殊用途では、去勢されていない「牡馬」が採用されているようだ。

⑨一方で、遊牧民由来は、当時から牝馬(めすうま)か、去勢馬を使用していた。宦官の風習なども、これが起源とされている。

 伊藤睦月です。これらの理由から、謎の4世紀に渡来した、「騎馬民族」なるものは、農耕民由来である、ゆえに、江上が定義するそれとは別(江上は生涯この定義にこだわった)であるとされ、日本考古学会は正式に江上説を否定した。学会内では解決済み、とされた。江上の自滅だ、と私、伊藤は考えます。

小休止、以上。伊藤睦月筆

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/08 13:39

【585】5日本古代史解明の補助線(5)::傍証としての「日本書紀」(2)【584】の続き)

伊藤睦月です。前回の続き

1 内政重視の時代(いわゆる、河内王朝、播磨王朝から継体王朝へ)

1-(1)応神大王の即位後、大和国はしばらく、静かになる。崇神大王以来数代にわたる(たぶん100年くらい)外征により、国力(経済力、軍事力)が枯渇したのだ。

1-(2)度重なる波状攻撃により、「倭国」を一応支配下に置いたが、完全に屈服させられなかった。本来の目的であったはずの、倭国の外交権(中国、朝鮮半島)すなわち、貿易利権(朝貢貿易)を奪えなかった。中国への朝貢は、「倭国」の役割となった。これは、663年白村江の戦いで、倭国が消滅するまで続く。反乱名目で、筑紫国造磐井を殺した時も、奪えなかった。なぜか。

1-(3)私伊藤は、一番の要因は、山門国側に外交(貿易)に関する、ヒューマンリソースが不十分だったから、と考える。

1-(4)岡田英弘説は、日本列島は華僑の居留地がもとになって、国を構成したとする。私、伊藤は「華僑と原住民の王(酋長)の協働」で、国が出来上がったと考える。横道にそれるので、後述する。

1-(5)私伊藤は、倭国と山門国それぞれの「華僑の質」に注目したい。当時の外交、貿易を行うためには、それ相当の知識、教養、財力、人脈が必要だ。倭国には、そういう華僑人材が多数集まっていただろう。ビジネスチャンスがあるところに、有望な人材が集まる。当時日本列島内では、倭国だ。

1-(6)一方、同じ華僑だといっても、列島内陸部に行けば行くほど、「質」が落ちる。諸般の事情で、中国大陸や朝鮮半島にいられなくなった華僑が、「一旗揚げようと」野心をもって、列島奥地へと進んでいく。そういう状況があったと思う。中国語ができれば良いというものではない。

1-(7)私、伊藤はいわゆる「神武東征」なるものも、倭国の辺境である日向で食い詰めた倭国傍流の王族が、「一旗あげに」東に向かった、王族だから、簡単な読み書き計算ぐらいはできただろう。あとは、知恵と度胸があればよい。後で補足する。

2 奈良盆地の「人口爆発」

2-(1)もう一つの問題は増え続ける奈良盆地である。いわゆる4世紀にはいると、東国からの人間の流入が著しくなり、奈良盆地だけでは、流民たちを食わせられなくなった。当時の農業技術では、これ以上、農業生産量が増えなくなった。もっと農地が必要だ。生駒山地を越えて人があふれ出した。彼らを食べさせなければならない。でも戦争で略奪してくるほどの軍事力はない。そこで、新田開発の場所として、選ばれたのが、後に河内平野と呼ばれる、大湿地帯だ。この大規模開発をリードしたのが、「オオササギノミコト」だ。後世、「仁徳」という諡号が贈られた。

小休止:以上、伊藤睦月筆

伊藤 投稿日:2025/01/08 10:11

【584】日本古代史解明の補助線(4)::邪馬台国は東遷していない3(傍証としての「日本書紀」【583】の続き)

伊藤睦月です。あくまで傍証ですが、日本書紀は、「東遷」よりも「大和国西征」の方を重視している、といえる。

1 日本書紀(以下「書紀」という)には、「東遷」を思わせる記事が3回(実質1回)しかないが、「西征」の記事  回あり、記述内容もより筋道経っている。

1-(1)東遷記事

①神武東征

②神功皇后・応神大王の大和帰還

③壬申の乱

伊藤睦月です。岡田英弘博士は、上記②と③の行程を合わせると、ほぼ①の行程と重なることから、①は、②、③の史実を反映させたフィクションであろうとしている。(『日本史の誕生』)

1-(2)西征記事

①四道将軍の派遣(崇神大王)

②第1次九州遠征(景行大王)

③クマソ暗殺行(ヤマトタケル)

④第2次九州遠征・第一次新羅遠征(神功皇后、仲哀大王)

⑤磐井の反乱鎮圧(継体大王)

⑥第2次新羅遠征(推古大王)

⑦白村江の戦い(斉明大王、中大兄皇子)

1-(3)伊藤睦月です。書記は、近畿の大和(山門国)を統一した、「ヤマトのアマ氏」が、域外に膨張していく様を段階を踏んで、記している。話の筋が通っている。⑦を除いた外征記事は、唐突感があって、本当に行われたか、怪しんでいる。⑤の反乱については、古田武彦は、「反乱」ではなく、「九州王朝の制圧」ではないかとしている。古田説に基本賛同するが、これについては、後で補足説明する。

1-(4)上記「征西」について、補足すると、

①畿内を統一した、「ヤマトのアマ氏」は、まず、部下(四道将軍)を各地に派遣し、ヤマトの支配下に置こうとした。(説得と武力を使い分け、おおむね成功したようだ)

②最も手ごわい相手である「倭国」(当時の最先進国)の勢力範囲である、九州に対しては、景行大王自らが、赴き、倭国エリア(博多平野、筑紫平野、球磨平野)を除く、地域を服属させた(原則武力行使せず、大王軍の巡回・威圧行動で従わせた)

③面従腹背の態度を示した、クマソタケルに対しては息子のヤマトタケルを派遣して、暗殺した。これで、倭国の「外堀」は埋まった。

④神功皇后、仲哀大王が、ヤマト、出雲、吉備、越前から動員した兵員で、「倭国」を攻め、従わせた。

⑤諸国の兵員は、新羅遠征名目で集められたのだろう。これを知らなかった、仲哀大王は、武内宿禰と共謀した、神功皇后に殺された。形ばかり(たぶん八百長)の新羅遠征を終えた神功は、武内宿禰との子、応神を産んだ。

⑥神功皇后は、応神とともに、山門国に帰還しようとしたが、仲哀大王の本当の息子たちに阻まれた。激戦の末、息子たちを殺して、山門国に帰還し、応神大王を即位させた。(「王の帰還」ロードオブザリングのパターン)

1-(5)伊藤睦月です。これから、「仁徳大王」の直系争いの記事、「河内王朝」「播磨王朝」の話になる。書記の舞台が、奈良盆地から大阪平野に移るが唐突感、不自然さは免れない。そこで、応神大王とは別の血統とみる見解もある(岡田英弘説)が、これについては、後で私見を述べる。

小休止、以上、伊藤睦月筆