ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
伊藤 投稿日:2024/07/03 10:36

【420】ブレイク(7月3日)白村江の戦いに関する学会新説を読む

伊藤睦月(2145)です。昨日の続き。学会新説の「中村修也説」です。

(1)倭=大和王朝が前提(通説と同じ)

(2)軍勢:4万2千(通説と同じ)

(3)倭軍ほぼすべてが、渡海。白村江で全滅。(ここまでは通説と同じ)

(4)そのため、国内(大和王朝の勢力範囲)にまともな軍勢がいなくなり、軍事的空白が発生。(唐軍の占領状態となる)

(5)中大兄皇子は、すぐに大和に逃げ帰らず、筑紫那津宮(福岡県福岡市東区)にて、敗戦処理にあたる。これ以降、直接唐と相対していない、大海人皇子などの豪族たちとの意識のギャップが生まれ、壬申の乱の遠因のひとつとなる。

(6)今まで、九州や西日本各地の防衛施設とされてきたのは、唐軍(進駐軍)の監視基地、連絡施設で(進駐軍基地)唐軍の指示で設置された。近江京遷都も、防衛目的ではなく、大和が唐に占領されたため、追い出され、近江に封じこめられたもの。

(7)劉仁高、郭務棕が持参した国書の内容は、「朝貢要求」及び日本の「民主化指示書」(当時のグローバルスタンダードである唐の諸制度を取り入れよ、という指示書であった)中大兄皇子は、それに従い、各種制度改革に取り組まされた。

(8)665年、唐(劉仁軌、劉仁願)を仲介として、新羅、旧百済、耽羅(済州島)、倭、との間で講和条約を締結させ(倭代表は大友皇子)、その証として翌年の封禅の儀に参加させた。

(9)新羅の反乱のため、唐による「倭国改造計画」(羈縻政策の遂行)は中断。郭務棕も占領をあきらめて、撤退した。

伊藤睦月です。

(1)中村修也は、学者さんらしく、その著「天智朝と東アジア」において、史料に即しながら、表現を選んで、自説を展開しているが、その主張を私なりにかみ砕くとこういうことになる、と思います。

(2)中村の思考の根底にあるのは、先の大戦における、敗戦と占領政策とのアナロジー、である。

(3)また、「敗戦国にとって必要なのは防衛でなく、外交だ」という認識から、唐と倭(日本)は、白村江の敗戦後、(通説のいうような)対等の関係ではありえず、中大兄皇子は、建前と実態とのギャップの中で、悪戦苦闘する、政治指導者として描こうとしています。

伊藤睦月です。この著は2015年に発刊されているが、副島史学とも親和性が高いと思う。「属国」というキーワードは使用していないが、直接、間接に副島史学の影響は、ないとも言い切れないのでは。もっと素直になればよいのに。

私、伊藤はそれでも、中村説に対する疑問をぶつけます。(続く)

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/07/02 16:48

【419】ブレイク:頭の整理(7月2日②)

伊藤睦月です。倭の酋長を封禅の儀に列席させた目的は、一言でいえば。「唐の意向に反した日本への威嚇であり脅し」であったとするのが、通説の見解であり、これには、特段の異論はないようだ。では、この列席の原因となった、白村江の敗戦とその後の対応の説明については、通説、中村説、副島説、伊藤説それぞれ多少とも違っており、その違いを整理することとする。(基本的に伊藤の頭の整理です)

1 学会通説

(1)663年の白村江の戦いの時点で、倭=大和王朝であることを前提。

(2)白村江の戦いに参加した兵士数は、

   総数4万2千

(2-1)内訳:余豊璋護衛隊5千、安曇比羅夫率いる本隊2万7千、蘆原君臣(いおはらのきみおみ)率いる後詰め部隊1万)

(2-2)上記部隊の大半が渡海。全滅。

    ※渡海人数は不明。

(2-3)全滅の報に接した中大兄皇子は、直ちに大和(飛鳥宮?)に撤退。

(2-4)664年対馬。壱岐、筑紫に防御施設と狼煙(通信施設)を築造。防人を設置し防衛体制を構築

(2-5)667年近江遷都。

(2-6)668年正式即位(「天皇」「日本」

     初出)

(2-7)671年 天智天皇死去

(2-8)672年 壬申の乱

(2-9)702年 第7回遣唐使(粟田真人)で対外的にはじめて、「日本」「天皇」を名乗る。

2 副島説

(1)倭(広義)=山門国(大和王朝)倭(狭義=九州王朝)

※当時の倭は、原住民王国と華僑王国との連合体であり、白村江の敗戦後、両者がまとまって「日本」を建国したとの岡田英弘説を展開。

(2)渡海して全滅したのは、余豊璋護衛隊5千プラス九州王朝部隊2万7千。計3万7千(伊藤試算)

(3)山門国軍は、余豊璋護衛部隊5千プラス後詰め部隊1万。前者のみ渡海。

(4)これで、旧倭(九州王朝)は消滅し、結果的に 山門国が吸収。

(5)中大兄皇子は、白村江敗戦の報に接するや、直ちに撤退。大和に戻り、防衛体制を固める。

(5)以後、通説とほぼ同じ展開。

3 伊藤説

(1)(広義)倭=大和王朝プラス百済支配地の旧倭(奴国)

(1-1)旧倭は、実質的に華僑の有力者たちが、合議体で国を運営していた。(「漢委奴国王」の金印が統合のシンボル、後年の博多や堺からの連想)

(1-2)旧倭は、白村江以前に、百済(余豊璋)から乗っ取られ、兵站基地とされていた。

(1-2)実際に渡海し全滅したのは、旧倭から徴発された倭人部隊。

(1-3)大和王朝側は、後方支援(那津宮・朝倉宮)のみで戦意はそれほど高くはなかった。

(1-4)全滅の報に接した中大兄皇子は、直ちに大和に撤退。防衛体制を固める。

(1-5)敗戦後、中大兄皇子が早々に撤退したことで、旧倭に軍事的空白ができ、郭務棕らが、占領。

(1-6)671年、白村江の戦いの首謀者、余豊璋(藤原鎌足)の捕縛に失敗。(689年死亡)

(1-7)671年、郭務棕は、新羅の反乱などもあり、占領継続が困難となったので、天智天皇の死亡を機に撤退。

(1-8)旧倭の管理は、親新羅系の天武天皇(もしくは高市皇子)に引き継がれた。

と、ここまでで、小休止。スミマセン。

(以上、伊藤睦月筆)

 

伊藤 投稿日:2024/07/02 11:36

【418】ウォーミングアップ(7月2日)封禅の儀666に倭国王は列席したか。(たぶん最終回答)

伊藤睦月です。(513)で、倭国王は666年の封禅の儀に列席しなかった、と主張しましたが、その後、出典(旧唐書劉仁軌列伝の該当箇所)を見つけましたので、引用します。(中村修也「天智朝と東アジア」120頁以下)見出し番号は伊藤

(引用開始)

(1)麟徳二年に、泰山に封ず。

(2)仁軌、新羅及び百済・耽羅(たんら:済州島のこと)・「倭」の四国の「酋長」を領(ひきい)て

   赴き会す。

(3)高宗、甚だ悦ぶ。

(4)(仁軌を)擢(ひきぬきて:抜擢して)、大氏憲に拝せしむ(任命した)

(引用終わり)伊藤睦月です。この封禅の儀の記事は。後世の類書「冊府元亀」、政治指南書「資治通鑑」にも、紹介されています。

(引用はじめ)

(4-1)ここにおいて、仁軌、新羅・百済・耽羅・「倭人」の四国の「使い」を領い、浮海西遷(旧百済から、海を渡って西側:泰山のあった山東省に移動して)し、以って泰山のもとに赴く。(冊府元亀)

(4-2)熊津都尉(都督:都尉は北宋時代の官職名)扶余隆(旧百済皇太子)と新羅王法敏とに上命(命じて)旧怨(660年百済が滅ぼされたこと)を釈(と)き去らしむ。(和解させた)

(4-3)劉仁軌、新羅、百済、耽羅、倭国の使者をもって、浮海西遷せしめ、泰山に会祠(かいし:参加)せしむ。高麗(高句麗)もまた、太子福男(ぼくなむ)遣わし来たり、侍祠す(じし:参列)す。

(引用終わり)伊藤睦月です。もう一つ、三国史記(新羅本紀)の記事から。

(4-4)(引用開始)

 是において、仁軌、倭が使者及び百済・耽羅・「倭人」の四国の「使い」を領し、海に浮かびて西に還り、以って会して、泰山を祀る。(佐伯有清編訳「三国史記倭人伝」岩波文庫)(引用終わり)

伊藤睦月、です。なお、同署には「新唐書劉仁軌伝」の記事として、「始。仁軌任帯方州(朝鮮半島)及び封泰山。仁軌乃率新羅、百済、耽羅、倭四国酋長赴会。天子大悦。擢為大司憲。とあります。

伊藤睦月です。守谷君。君が指摘したのは、上記でまちがいないですか。

(5)この5史料の優先順位は、新唐書、旧唐書、三国史記、資治通鑑、冊府元亀、の順です。

(7)それを勘案すると、封禅の儀には、「倭」の「酋長」が参列していることになります。では、「酋長」とは誰か。わかりません。(苦笑)

(8)通説では、資治通鑑や冊府元亀の「使い」に注目して、前年に劉徳稿と郭務棕を送っていった「守君大石」と考えているようです。(川上麻由子「古代日中関係史」はじめに 中公新書)守君大石は、白村江生き残りの倭の将軍で、いかにも「酋長」という風貌だったのかもしれません。

(9)それに対し。中村修也は、「天智朝と東アジア」において、「酋長」というからには、国王のようなもの。日本書紀では、同時代の天皇は天智天皇だが、訪中はしていない。大友皇子が天智天皇の代理として、唐、新羅、旧百済、倭、との講和条約を熊津城にて調印、その帰りに、封禅の儀に参加させられた、としています。(前掲書120ー135頁)

しかし、この中村説には、通説、副島説、伊藤説、いずれからみても無理があると考えます。

とりあえず、小休止

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/07/02 10:03

【417】サヨナラだけが人生だ(続き)間違えて途中で投稿ボタン押してしまいました。

伊藤睦月です。

私、伊藤は。太宰作品は「新釈お伽草紙」が好きです。というか、これと「富嶽百景」と「走れメロス」以外はまともに読んでいませんが。(他の自虐系はどうも苦手で・・・。その後は、2,3年前に漫画「文豪ストレイドッグス」を読みましたが・・・関係ないか)

いずれにせよ、50年前の、高校生のときに読んだきり、ですけど。

かたせ2号さん、思い出させてくれてありがとうございました。

(以上、伊藤睦月筆)

伊藤 投稿日:2024/07/02 09:53

【416】サヨナラだけが人生だ

伊藤睦月(2145)です。

表題の文句は、井伏鱒二訳の漢詩です。

かたせ2号さんが上げられた、「富岳百景」は、「富士には月見草がよく似合う」でしょうか。

私、伊藤は、太宰なら「新釈お伽草紙」

伊藤 投稿日:2024/07/01 10:57

【415】ウォーミングアップ(7月1日)封禅の儀に倭国王は列席したのか。

伊藤睦月(2145)です。

守谷健二君が、(3134)の投稿で、665年の封禅の儀に、劉仁軌が、倭の国王が参加した、という旧唐書劉仁軌列伝の記事を紹介しています。私、伊藤は、旧唐書の該当部分を確認していないのですが、関連資料をみていたら、次の記事を見つけました。

(引用はじめ)

(1)666年正月、唐の第三代皇帝である高宗は、中国第一の名山である泰山で、天地を祭る封禅の儀式を行った。・・・さらには、新羅・百済・タン羅、高句麗といった東アジアの国々の使者とともに、日本の「使者」も参加していたという。(川上麻由子「古代日中関係史」はじめに)

(引用終わり)

伊藤睦月です。いくつか指摘。

(1)守谷君は、封禅の儀を665年の出来事と言い、川上は666年、といっているが、どちらが正しいか。

(2)川上前掲本では、滅亡したはずの「百済」が登場するのはなぜか。

(3)封禅の儀に参加したのは、「国王」か「使者」か。

伊藤睦月です。以下、私の回答

(1)666年が正しい。ただし、各種史料は、太陽暦でなく、太陰暦で記載されているので、閏月とか、太陽暦に置き換えたときに、若干のずれが生じたものと考えられる。

(2)旧百済皇太子隆が参加していたため、百済もカウントされた。

(2-1)百済王国は、660年義慈王のときに、唐・新羅連合軍に滅ぼされている。665年に劉軌仁の仲介で、新羅王と旧百済皇太子との間で、講和の盟約を締結しており、旧百済皇太子は、唐の官職(熊津都督)を得ているので、その資格で参加しているのではないかと考えます。

(3)「国王」でなく「使者」であると考えられる。

(3-1)日本書紀によれば、665年に、劉徳高と郭務棕が来日し、その年の12月14日に帰国(旧百済か唐本国かはわかりませんが、皇帝への報告と、封禅の儀への参加のため、唐本国に帰ったと考えます)した際、小錦守君大石らを同行させており、彼らが封禅の儀に参加したと考えると、川上前掲書とつじつまが合います。百済方面軍担当の劉軌仁の紹介(随行の資格)で、参加したと考えます。

(3-2)但し、日本書紀には封禅の儀に参加した、という記事はげらありません。「大唐に遣わし、しかじかと、だけ記載されています。

(3-3)私、伊藤は、百済王、倭国王なら、戦争捕虜なので、封禅の儀のいけにえにささげられたのではないか、と推測したのですが、その時点で百済王は存在しない(王子とか貴族は連行された、という記事が、新唐書新羅に出ていますが)し、倭国王も、倭国=大和王朝説(通説)なら、当時の倭国王は、天智天皇なので、彼が「訪中」したという記事もないし、実際行っていないでしょう。

(3ー4)倭国王=九州王朝の王という説(副島説)をとるなら、その連行された倭国王の名前が不明なのはおかしいと思います。旧百済と新羅のような盟約も結ばなかったのも解せません。

(3-5)倭国では、元来「国王」は存在せず、白村江のときは、余豊璋の支配地だった、連行されたのは、「貴族」たちで「国王」ではなかった。という伊藤説

(3-5)結果的に、封禅の儀に参加したのは、大和王朝の「使者」である、という川上説と一致する。この伊藤説なら、つじつまが合うのではないかと考えますが、今のところ、私以外に支持者はいないようです(大汗)

伊藤睦月です。もう少しウォーミングアップします。

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/07/01 09:29

【414】入院中の楽しみが増えた。

伊藤睦月(2145)です。かたせ2号さんが、紹介された本、地元の大型書店でも平積みになっていたので、関心はありました。

早速購入して(電子書籍やアマゾンでなく)、近日入院した時に読みたいと思います。

以上、伊藤睦月筆

 

伊藤 投稿日:2024/06/30 10:55

【413】そろそろウォーミングアップ(6月30日)としての補足説明(封禅の儀、唐の「すりより」について)

伊藤睦月です。「副島歴史テーゼ」を展開するにあたって、学会通説と少数説(有力な反対説)をチェックしておこう。対象となる文献は、次の2冊。

1 「古代日中関係史」川上麻由子著、中公新書 2019年

2 「天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ」中村修也著 NHKブックス 

   2015年

それぞれ、どんな主張をしているのか。帯カバーのコピーをとりあえず、引用する。

(引用はじめ)

1 「古代日中関係史」 日本は対等を主張し続けたか。

宋(南北朝:伊藤)、隋、唐、五代十国に日本は何を求めたのか

607年、日本は隋の煬帝に「日出る処の天子」で名高い書状を送る。以後、対等の関係を築き、中国を大国とみなすことはなかった・・・。こうした通説は事実なのか。日本はアジア情勢を横目に、いかなる手段・方針・目的をもって中国と交渉したのか。本書は倭の五王の時代から、5回の遣隋使、15回の遣唐使、さらには派遣後まで、500年間に及ぶ日中間の交渉の軌跡を実証的に、「常識」に疑問を呈しながら描く。

2 「天智朝」と東アジア 唐の支配がもたらした律令国家への道筋とは?

   もう一つの「占領下」を描く

 古代東アジアに起こった一大戦役・白村江の戦。通説では、唐・新羅連合軍に敗れた日本は以後、唐の律令に学び、国家体制を整備していったと言われる。だが、この通説は果たして本当か?敗戦国の日本が、唐の支配を全く受けずに友好関係を保つことが可能だったのか?

本書は、中国・朝鮮側の史料、最新の考古学の知見、古今東西の「戦争」における常識など、多角的な視点から「日本書紀」を再解釈。白村江後に出現した唐の日本「支配」の実態、さらに、それがのちの律令国家建設に与えた影響を鮮やかに描く。(引用終わり)

伊藤睦月です。岡田英弘が「日本史の誕生」所収の諸論文で「世界史からみた日本」の視点を打ち出したのが1970年代。副島隆彦先生が、「属国日本論」を提唱したのが、1995年前後、岡田説から50年、副島説から30年、やっとここまできたか、時代が副島隆彦においついてきた、と感慨にふけっている場合ではない。彼らは「属国」というキラーワードを使わずに、自説を展開している。実際、彼らの参照文献には、岡田や副島先生からの引用が全くない。(その間の事情をあれこれ詮索はあえてしない)そこで、副島学の成果の一つである、「属国」ワードを十二分に活用しながら、この2作をチェックしていく。

その前に、「日中関係史」に関する、私、伊藤の現時点での見解を示す。上記2書をチェックするなかで、若干の修正、はあるかもしれないが、大筋では変わらない、と思う。

(伊藤説)

 702年の第7回遣唐使(粟田真人)以来、日本はなんとか唐と対等の外交関係を結ぼうとしたが、失敗。それ以降の各王朝からも相手にされず、国内的には、対等であるふりをして、特に武士階級から利用された。両者が対等の関係になったのは、形式的には、1871年「日清修好条規」、実質的には、1895年、下関条約(日清戦争に勝利)のとき以降である。

伊藤睦月です。上記の議論に行く前に、守谷君や2054さんからあった指摘について、補足説明をします。(暫時休憩)

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/06/28 19:01

【412】ちょっとブレイク(7月28日)

伊藤睦月です。

 〇禁酒を命じられた日、スーパーの酒類コーナーにて。

 コノサカズキヲ受ケテクレ

 ドウゾナミナミツガセテオクレ

 ハナニアラシノタトエモアルゾ

 サヨナラダケガ人生ダ

 〇ふと我に返って口ずさむ。

 遊びをせんとや生まれけむ

 戯れせんとや生まれけん

 遊ぶ子どもの声聞けば

 わが身ざえこそ揺るがるれ

 〇深夜、スマホの天気予報の警報に接して。

 時により

 すぐれば民の嘆きなり

 八大龍王雨やめたまへ

以上、井伏、後白河、実朝でした。

伊藤睦月筆

 

伊藤 投稿日:2024/06/27 18:25

【411】ちょっとブレイク(6月27日)の続き(私の全体像について)

 伊藤睦月です。以前2054さんの投稿で、「(伊藤の)全体像がみえない」旨のご指摘をいただきましたが、私、伊藤の意識としては、シンプル、です。

一言でいえば、「副島歴史学を実証する」です。

(引用開始)日本は本当は、この2000年の間、中国の歴代王朝・中華帝国の属国としての地位にあった。しかし、表面上は、絶対に中国に屈服しないで、少なくとも政治的に対等であるというフリをして、やせ我慢をしてきた国である。「英文法の謎を解く11ページ」(引用終わり)

 伊藤睦月です。これを私は勝手に「副島歴史テーゼ」と称しております。このテーゼを実際の史料に即して語る、語りつくす、というのが、私の目標であります。とんだビッグマウスです。しかし、私は、酒を飲んでいませんし、酔ってもおりません。今、2054さんや、守谷君、と議論させてもらっているのは、すべてその準備作業で、私にとって非常にありがたいことです。改めて御礼申し上げます。

 それに少し、焦りもありまして、この「副島歴史テーゼ」が1995年前後に明らかにされてから、学会主流にいつの間にか取り入れられて、気づけば、当たり前の話になってきそうなのです。歴史学分野でも、時代が副島隆彦に追いついてきた。彼らは、「属国」という言葉を使わずに、たくみに自説を展開する。盗作とまでは、言いません。少なくとも、歴史分野における「副島隆彦」の爪痕を何か残したい。モデルは頼山陽「日本外史」、副島版「日本外史」を書いてみたい、という夢をもっています。

 伊藤睦月です。もちろん、この夢は本日初披露であり。副島先生にも話してなく、了解も得ておらず、ちょっとドキドキしながら書いています。しかし、弟子として思うのです。

 今、副島先生の相手は、現実世界のすべて、全てに向き合って、思想戦を闘っておられると、私、伊藤は思うのです。その主戦場は、著作群と「重たい掲示板」「今日のボヤキ」。だから、能天気に「重たい掲示板」に「副島先生は偉大だ」などという投稿が載ると、どうしても我慢できなくなってしまうのです。副島先生にとって、眼中になく、余計なお世話であり、お叱りを受けるとわかっていても、副島推しの血が騒ぐ。つい熱くなってしまうのです。だから、自分の好きな分野(私にとっては歴史分野)について、副島テーゼで語ってみたいのです。すでに副島先生は、日本史の主要時代、古代、戦国・江戸時代、幕末・明治、戦前戦後の昭和、平成、において作品をものにされています。それらをベースとし、「巨人の背中に乗った小人」よろしく、何事かを加えたい、そう願う未熟なビッグマウスにとっては、この「ふじむら掲示板」、副島先生によって与えられた、小さな、小さな、公共の言論アリーナ、こそ、私の主戦場なのです。

(以上、伊藤睦月筆、少し頭を冷やしてきます)