ふじむら掲示板
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Loginはこちら【583】日本古代史解明の補助線(3):邪馬台国は東遷していない(2)
伊藤睦月です。邪馬台国東遷説をどう考えるかが、解明のカギとなります。
1 「謎の4世紀」に人口が北九州より畿内の方が多くなっている。
1-(1)まず、考古学の知見から。3世紀の邪馬台国の時代(弥生時代後期)では、鏡の出土が北九州が圧倒的に多いが、5世紀(古墳時代)以降は北九州からほとんど出土せず、畿内の出土が圧倒的に多くなっている。(安本美典『データーサイエンスが解く邪馬台国』)
1-(2)当時の米の生産量から古代の人口推計をすると(米穀安定供給確保支援機構)
1-(2)ー①:縄文時代後期→弥生時代→古墳時代→江戸時代で推計する。
②九州:10,000→106,300→710,400→3,300,700
③近畿:4,400→109,400→1,217,300→4,941300
であるとされている。(金澤正由樹『古代史サイエンス2』2024年鳥影社)
1-(3)伊藤睦月です。東遷論者はこれらのデーターから、近畿の人口が増えたのは、なんらかの要因で、北九州から人の移動があったからだとする。(この観点からすれば、いわゆる騎馬民族王朝征服説も同種の論理構成だとわかるだろう)
1-(4)しかし、九州もそれなりに増えているのである。東遷論者に従えば、九州の人口が相当数減少していなければならない。皆既日食がそんなに恐れられたのなら、北九州がゴーストタウン化しても不思議ではない。この現象は、畿内の人口増加率が、九州のそれを上回ったとみるべきで、東遷論者は、邪馬台国九州説に引き寄せたいがために、こういったデータを無視している、と考えざるを得ない。
2 畿内の人口増は、東国(伊勢、美濃、尾張、越前)からの流入が原因
2-(1)最初の前方後円墳であるとされる、箸墓古墳(邪馬台国畿内論者の最後の砦)を含む、纒向遺跡を発掘調査した、関川尚功氏(元奈良県立橿原考古学研究所)の分析によると、
①出土品(土器)の大半が東海地域由来で、北九州・西日本由来がほとんどない。
②北九州由来の鉄器の出土もほとんどない。
③そのほか、大陸系遺物の出土も、北九州と比べて圧倒的に少ない。
などから、畿内(奈良盆地)は、北九州とは、ほぼ関係なく発展した、としている。(関川尚功『『考古学からみた邪馬台国大和説』2020年梓書院)
2-(2)伊藤睦月です。以上により、私伊藤は、畿内の人口増加は、北九州からの人口移動によるものでなく、むしろ、東国からの人口流入と、農業技術の進歩による、米生産高が、北九州を上回ったためと考える。(同旨関裕二氏)
2-(3)なお、関裕二氏は「歴史研究家」でなく「歴史作家」と自称しており、最新の学説や歴史データを巧みに取り入れて、自説をアップデートしていることに注意。
2-(4)伊藤睦月です。最新の考古学や歴史サイエンス(農学)の研究成果を踏まえると、邪馬台国東遷説は成り立ちそうにない。もはや、「邪馬台国九州説VS畿内説」の図式で、議論する段階は終わっている、と思う。
2-(5)以上を踏まえると、文献史学の解釈も変わってわってこざるを得ない。「考古学の問題は考古学で」だが、考古学の知見が文献史学の知見を変えることはありうる。(例えば、1980年代、古代出雲の発見)次回は東遷論に関して、「日本書紀」の記述を検討する。
以上、伊藤睦月筆
【582】ブレイク:渡部昇一について(ちょっとほろ苦い昔話)
伊藤睦月です。渡部昇一(1930-2017)について。少しばかり・・・読書談義ばかりで恐縮ですが。
(1) 私が最初に読んだのが。『知的生活の方法』(講談社現代新書1976年)。それから、1990年くらいまではよく読みました。高校生から、20代ですね。渡部の著書だけでなく、彼の勧める本(ハマトン『知的生活』、スマイルズ『西国立志編』や保守系知識人の本など)もよく手に取りました。渡部の本以前は、岩波新書などの左系が多かったが、渡部の本で、そっち系にのめりこみ、のぼせることなく、生活破綻を免れたようなものです。そういう意味では、感謝しています。
(2)30代になり、バブルも崩壊した中、中堅公務員として仕事も充実するにつれ、だんだん読まなくなりました。司馬遼太郎とか他の保守系の論客たちもそうでした。なんか嘘っぽい。最後まで残ったのが、小室直樹博士、山本七平、山本夏彦の本です。そうして、35歳で副島先生の本に出会い、上書き修正されて、今に至っている。
(3)副島先生も「続英文法の謎を解く」では、渡部昇一を意識されていたようですが、後年、「渡部は、イエズス会の手先だ」と見切られて、私もああそうか、とガテンしました。
(4)渡部は、『知的生活の方法』で上智大学の図書館に住み込んだ、貧乏暮らしを勉強で脱出した、みたいなことを書いていましたが、それだけではない。渡部昇一は、講談社の一族から嫁を貰って、それから羽振りよくなって、大学図書館生活から脱出したのだ、ということを彼の大学の同僚の人(予備校の講師をしていた)から、聞いてはいました。で、なんのご縁で結ばれたのか。私の推測ですが、「イエズス会つながり」でしょう。それしか接点がない。一介の私大教員が、15万冊、しかも高価な稀覯本(きこうぼん)を買えるものか。空調付きのそれだけの書庫も整備できるわけがない。ひがみも半分あります。正直。
(3)日本クリスチャン(特にカトリック)の言論、知識人で注意しなければ、いけないのが、「二重忠誠問題」です。彼らが、天皇制を擁護するときには、気をつけろ!副島先生から、学んだことです。(私の理解です)
(4)それからは、スーとつながりました。私が20代のとき感心した、「甲殻類の研究」なんて、ハンナアーレントの焼き直しではないかなどなど。いずれにせよ、私の書棚の相当部分を占めていた、渡部の本たちは、「ブックオフ送りの刑」になり、今では、手元には1冊もありませんし、PHP文庫などで時折みかけても食指が動きません。ネトウヨなどが流行る前に、副島先生の本に出合えたことが、とにかく、幸運でした。
という、昔話でした。
次回から、通常モードに戻ります。
以上、伊藤睦月拝
【581】【579】お正月らしい投稿を発見した(2025年1月4日について、かたせ2号さん、今年も快調そうですね。
伊藤睦月です。かたせ2号さん、お元気そうで何よりです。今年もよろしくお願いします。
さて、あさま山荘の事件の時は、私は中学2年でしたが、当時プラモデルつくりに夢中で、テレビは終日つけていましたが、それほど関心もなかった。ただ、異様な雰囲気は感じており、大きな鉄球が建物を壊していく様には、さすがに見入ってしまいましたなあ。
連合赤軍について書かれた本は、佐藤優と池上彰の対談本を読みましたが、むつかしく感じました。セクト間の関係がよくわからない。そこで、いつか読んでみたいと思うのは、『レッド1969-1972』(山本直樹)というマンガです。結局、読書談義かよ。ですが、ここで思い出したことを一つ。私の職場の上司から、酒席で一度だけ聞いた話。
(1)その上司は、私より、ほぼ一回り上。いわゆる、「団塊の世代」「全共闘世代」です。
(2)東大安田講堂事件(1969年1月)の時、その上司は都内私大の、ゼンガクレンの委員長(本人談)で、学長室を占拠し、そこの電話を使って、連絡を取り合っていたそうです。安田講堂事件の時、東大にだけ立てこもったのではなく、都内の大学の多くで学生たちが暴れていました。
(3)テレビで、安田講堂が陥落する前に、どこからか電話連絡が入り、その上司は直ちに大学を脱出、横浜国立大学の学生寮に数日潜んでいたそうです。
(4)その学生寮で同室だったのが、「坂口弘」、あさま山荘事件の首謀者の一人で、確定死刑囚です。もう執行されたかどうかは、知りません。
(5)坂口と上司が、その夜、何を話したのか、上司は話しませんでした。翌朝、二人は学生寮を出て、坂口は北へ。上司は西へと向かい、それきり、でした。坂口は、ほかの仲間と合流し、リンチ殺人事件とあさま山荘事件を引き起こしました。
(6)上司は、各地の工事現場で働きながら、故郷にたどり着き、地方公務員になりました。
(7)当時、県庁や市役所は、身辺調査をしていませんでした。警察と外務省はしていたようです。当時の外務省試験(国家公務員試験とは別に実施していた)の募集要項には、「2次試験合格者には身辺調査をします」と書いてあった時代です。上場企業は普通にやっていたようです。「三菱樹脂事件」という憲法訴訟もありました。
(8)今でも企業の身辺調査、やられているんじゃないかな。反社関係者の排除もあるし、ただそのやり方は巧妙になっている、と思います。
(9)当時、地方の役所は、逮捕歴さえなければ、試験の成績で入れました。今と違い面接重視ではありませんでした。政治家のコネを使ったのかもしれません。もともと高学歴で頭もよい人たちでしたし、学生運動の活動歴のある者は、かえってリーダーシップがあってよい、という人すらいました。体育会系のノリですね。逮捕されないという、要領の良さも大事です。こういう人たちは、結構出世していましたよ。民間の人たちからも、「さばけた役人」と評判の良い人が多かった印象です。世間話も上手で社交的な人が多かった印象です。私の上司もそこそこ出世して、無事定年を迎えて退職していきました。それから、お互い没交渉です。ご存命であれば、後期高齢者です。
(10)私にその話を一度だけ話してくれた上司は、ヘビースモーカー、ヘビードリンカーで、今なら確実に依存症です。この時もべろべろに酔っぱらっていました。カラオケマイクを握ったときは、「風に吹かれて」という英語の歌しか歌いませんでした。べろべろのくせに音程は外れていなかった。仕事中に時折見せた、「潔癖な正義感」と「わざとらしい卑屈さ」が妙に懐かしい。
お正月になると、余計なことを思い出しますね。すぐ忘れてしまう。今度思い出すのはいつだろう。どうでもよい
けど。
以上、伊藤睦月筆
【580】【藤井風推し】イエス・キリストの聖言よりも、藤井風の歌詞の方がレベルが高い。
【藤井風推し】イエス・キリストの聖言よりも、藤井風の歌詞の方がレベルが高い、の件について。
かたせ2号です。
本題に入ります。
ルカによる福音書 第6章第38節に以下のコトバがある。
「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」
これよりも藤井風の歌詞の方が、「レベルが高い」ように思える。違うかな?
(歌詞から抜粋)
「与えられるものこそ、与えられたもの。ありがとうって胸をはろう。」
https://www.youtube.com/watch?v=goU1Ei8I8uk
「帰ろう」
<補足>
周囲の人たちに、藤井風の曲のお気に入りを聞いてみると、以下が上がったので、掲載しておきます。
さよならベイベ
https://www.youtube.com/watch?v=JB_bLPp3wCs
花
https://www.youtube.com/watch?v=SfPkl7lol7g
旅路
https://www.youtube.com/watch?v=29p8FvT_puU
以上
【579】お正月らしい投稿を発見した(2025年1月4日)
かたせ2号です。
お正月らしい投稿を発見した(2025年1月4日)、の件。
重たい掲示板での、お正月らしい、投稿を伊藤睦月さんからご教示いただきました。群馬のゆみこさんの投稿です。
(引用はじめ)
みなさんも、本ばかり読んでいないで、わたしのように世間に出て、年寄りの話とかを聞いてみてください。そして年寄りの知恵をもらい、互いの波動を交流させて、より良い人生を作っていきましょう。ネットなんか、誰も見てないから。
(引用終わり)
かたせ2号です。結論から言うと、伊藤睦月さんと同様、このご意見に賛成です。
ごもっとも。。。
やはり、自分と違う世代の人の話を聞くのはとても大切だと、前々から思っていたので。。
さて、年末年始は、なぜかワタシは、「連合赤軍事件 50年目の真相」(宝島社文庫、2020年12月刊)
という本を読了した。
ワタシは、1972年2月に起きた、この事件や背景を詳しく知ることなく、今まで過ごしてきました。
この事件については、その前後の連合赤軍派内部での「総括」というリンチ殺人の顛末(てんまつ)が報道され、それまで衰退傾向にあった学生運動が、一気に勢いを失ったとまでは知っていましたが。
上記の文庫本の26ページから引用します。
(引用開始)
(あさま)山荘は下から見上げてみるとまさに“要塞”のようで、機動隊が攻めあぐんだというのも、十分理解できる。
ある元メンバーは、「偶然なんだけど、ある意味一番いい場所に逃げ込んじゃったんだな。崖の上にあって、入口が小さい。あそこ以外の山荘だったら、絶対にあんなに事件は長期化していないよ」と語っていたが、それは確かであろう。
(引用終わり)
かたせ2号です。
こんな歴史の偶然を引き起こした「歴史の神」の正体が、神か悪魔か、あるいは両方による共同作業なのか、わたしには、当然ながら、わかりかねますが、
それはともかく、生中継での最高視聴率が89.7%だった(この記録はいまだ破られていない)、この事件の当時の「熱気」をワタシはまったく知らなかったわけです。
そういうのも、たとえば10歳以上年配の方に聞けば、実感をもってわかるはずです。そんなことを思い出しました。
数十年前から感じていたことですが、
今、世の中を見ていて問題点と思うのは、交際する世代の幅が狭いこと。あるいは、たいていの方が、企業に勤めているわけですが、一日八時間、あるいは十時間というものを拘束されている。これは、人間の人生においては、非常にもったいないことです。
ですから、いろんな世代の人と、いろんな経験を得た人と話ができるような、ま、そんな場が世の中にできたらと思うわけです。そして、いろんな人と話し、「いやあ、若いうちには辛いことも多いよ。私もそんなときがあったけれども、こうやって乗り越えたんだよ」と、そういうことが言えるような場がほしいです。
でも、どうやったらできるんでしょうかね? 難題です。
あと、読書論。ワタシも加藤周一の「読書術」(当時はカッパブックス。現在は、岩波現代文庫)を読みました。
ワタシのような50歳代後半になると、健康寿命が尽きるまで、平均で計算して、長く見積もって、あと20年弱というのがわかるので、以下は、ワタシのこころがけ(老年向け)です。ご参考ください。
(1)自分が興味を持っている分野の本をすべて読破する夢は、捨てる。
(2)自分が読む本について、最初から最後まで読むのを原則としない。拾い読みで満足する。
(3)本を読んだ冊数が多ければ、その人間が信頼に値するというのは間違い、と気づく。優秀な人間であっても、信頼に値する人間でない場合もありえる。別に、渡部昇一のことを言っているわけではない 笑い
名古屋名著読書会さんのポスト (2024年12月2日)
https://x.com/nagoyabookclub/status/1863546424694333494
「私の卒業論文を閲読してくださった渡部昇一教授の蔵書は15万冊。杉並区のご自宅は地下3階まである巨大な書庫を備えていた。「先生、これってバベルの図書館ですよね」と申し上げたら、「みんなにそう言われるんだよ」と愉快そうに笑われた。
先生が亡くなって七年。図書館はどうなっているだろう。」
かたせ2号です。バベルの塔のような図書館だったというのは、案外間違いでなかったかもしれない。
渡部昇一先生、残念でした。
以上が、2024年を終了した現時点にあたってのワタシの「所感」です。
群馬のゆみこさん、伊藤睦月さん、
どうもありがとうございました。
かたせ2号拝
以上
【578】日本古代史解明の補助線(2):邪馬台国は東遷していない(1)
伊藤睦月です。
私は、邪馬台国九州説(福岡・佐賀県内のどこか説)を採用しているが、九州説とセットの考えである「東遷説」はとらない。そこで、邪馬台国東遷説について、私見を述べる。
1 邪馬台国東遷説とは何か。(安本美典『卑弥呼の鏡が解く邪馬台国』)
1-(1)邪馬台国九州説において、主に東大系の文献史家(白鳥庫吉以降)によって、根強く支持。
1-(2)卑弥呼のことが、神話化し、伝説化したものが、天照大御神である。
1-(3)天照大神のいた「高天ヶ原」は、北部九州にあった邪馬台国の伝承化された姿
1-(4)西暦300年前後に、邪馬台国の後継勢力が東に移動して、大和朝廷をたてた。
伊藤睦月です。「邪馬台国東遷説」は、1-(1)と1-(4)がよく取り上げられる。
1-(4)の根拠としては、
1-(4)-(a) 北九州の地名と大和の地名は不思議な一致をしている。(白鳥庫吉から下條竜夫氏まで)
1-(4)-(b)数理統計学的年代論の立場からは、卑弥呼と天照大神とは、活躍年代が重なり、神武天皇の活躍年代は、西暦300年代となる。これは、大和朝廷のはじまりは、全ての天皇の実在を認めても、邪馬台国時代よりも後になる。(学会多数説は、第2代綏靖~第9代開化大王までを「欠史八代」とよび、実在しない、としている)
1-(4)-(c)当時の魏皇帝が、卑弥呼に与えたとされる「銅鏡100枚」のうち、2枚が、東国の尾張氏、海部氏の家で発見された。
1-(4)-(d)数理統計学の手法「パラレル年代推定法」によっても、天照大神と卑弥呼の時代が重なりあうことが判明した。
2 邪馬台国東遷説への疑問
2-(1)東遷説は、主に、1-(1)、1-(4)で論じられるが、1-(2)、1-(3)も合わせ考察する必要がある。
2-(2)地名一致は確かに「不思議」であるが、一致しているからと言って、九州から大和へ移動した、証左にはならない。逆に東から西に「西進」した可能性を考えることはできないのか(騎馬民族王朝征服説を採れば、東遷説は、成立しうるが、難民移動・拡散、はあっても、民族単位での組織だった移動はなかったものと考えるので、この説は採らない)
2-(2)-(a) この地名問題は、中国占星術(道教)の教義をも加味した考察が必要。平安遷都の時も、当時の陰陽師により、場所の選定が行われた。
2-(3)数理統計的手法による年代特定は、それ自体は妥当だとしても、「東遷」を証明したことにならない(井沢元彦氏は、同時期に発生した「皆既日食」をきっかけとして、九州→大和への移動(エクソダス)が始まったと推理しているが、それを裏付けるものはない)
伊藤睦月です。この邪馬台国東遷説は、邪馬台国九州説を論証する中で提唱されたものであり、結局は九州説VS畿内説の議論に帰着する。いわゆる歴史サイエンスの手法は魅力的であるが、後述するように、「トリセツをよく読み、用法、用量を、守って使用する必要」がある。
次回からは、私のファンタジーを披露させていただきます。
伊藤睦月拝
【577】ブレイク:働きながら本を読むコツ
伊藤睦月です。
副島系掲示板で、お正月らしい、投稿を見つけた。
(引用はじめ)
みなさんも、本ばかり読んでいないで、わたしのように世間に出て、年寄りの話とかを聞いてみてください。そして年寄りの知恵をもらい、互いの波動を交流させて、より良い人生を作っていきましょう。ネットなんか、誰も見てないから。
(引用終わり)
伊藤睦月です。結論から言うと、このご意見に賛成だ。ごもっとも。
ところで、私は、もうすぐ、66歳になる。「伊藤さん、あんた見かけは若い」と周りからおだてられてその気になってはいる。いるが、夜、風呂上りに鏡で映してみると、そこには、まごうかたなき「ご老人」がいる。明らかに、わけえもんに、話を聞いてもらう側だ。
そう考えたとき、はて、自分がわけえもんに何が話せるだろう。うーん。ない。しいて言えば、今、掲示板に投稿している歴史トレビアか、自分の闘病記くらいか。でも、こうやって文章で書いているから、まだましだが、こんな話を宴席で延々聞かされたら、たまったものではなかろう。下手すればハラスメントかも・・・
ところで、「本ばかり読んでないで」とあるが、今どきのわけえもんが本を読んでいるだろうか。私なんぞは、寺山修司の「書を捨てよ、街に出よ」を思い出してしまったが、50年以上も前の話だ。今どきの日本の就業者の82%がサラリーマンという時代。『なぜ、働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆)が評判になる時代だ。
著者は、京都大学を卒業して、今はやりのIT企業に就職したが、思うように本が読めないことがわかって、1年で辞めて、ポスドク生活をしているそうだ。正直うらやましいと思った。自分には絶対あり得ない「もう一つの人生」だけど。
そこで、著者が同書で勧める、「読書法」を紹介する。昔、加藤周一、渡辺昇一ほかの各種読書法に、おおいに触発され、結局挫折した「老人」でも、さすがに感心した。いくつかは、既に実行中。うほほい。
項目だけ引用するから、興味ある方は、本を買って(本を買う、これが最も肝要。限界はあるけど)詳細、読んでみてください。
(1)自分と趣味の合う読書アカウントをSNSでフォローする。
(2)iPADを買う。
(3)帰宅途中のカフェ読書を習慣化する。
(4)書店に行く。
(5)今まで読まなかったジャンルに手を出す。
(6)無理をしない
以上です。今どきの「わけえもん」よ。もっと本を読め!(個人的には、佐藤優の読書法がお勧めだが、ちょっとハードル高いかも)
以上、伊藤睦月拝
【576】日本古代史解明の補助線:倭国と大和国、いわゆる九州王朝説について
伊藤睦月です。日本書紀の内容を読み解くのに、避けて通れないイシューとして、九州王朝説、騎馬民族王朝征服説、邪馬台国東遷説、がある。騎馬民族王朝説は、私の見解(民族でなく難民だ)をすでに述べたので、九州王朝説、邪馬台国東遷説についてできるだけ簡潔に述べ、必要に応じて補足説明する。
1 九州王朝説とはなにか。
古田武彦(1926-2015)により、提唱された学説。その後、古田は、北部九州、出雲、吉備、畿内、越前、関東、東北にそれぞれ独立した王権が存在した、とする「多元論」を提唱した。 学会主流の見解ではなく、少数説扱い(古田によれば無視されてきた、とのこと)だが、生前は、松本清張などが支持し、邪馬台国論争など活発な論戦を展開し、いわゆる「古代史ブーム」をけん引した一人でもある。既に故人だが、彼の主著27冊を公刊している関西のミネルヴァ書房が事務局となって、彼の見解を支持するアマチュア歴史研究家の会、「古田史学の会」を結成している。学会にも、少数派ながら、支持者がいるようだ。その一人である、若井敏明(わかいとしあき:関西大学非常勤講師)氏の定義を紹介する(『謎の九州王権』2021年祥伝社新書)
1-(1)古田氏は、邪馬台国(氏の主張では、邪馬壱国:やまいちこく)が九州にあった。
1-(2)『三国志』の『魏書』東夷伝倭人の条(以下、『魏志倭人伝』)以降の中国史書にみえる倭には連続性が認められる。
1-(3)以上を主な根拠として、九州を領土とする王朝が弥生時代初期から七世紀末まで存在した、とする。
伊藤睦月です。若井氏は、この古田説に修正を加えている
1-(4)九州王朝ではなく、「九州王権」と呼称する。
1-(5)4世紀~5世紀、倭の五王(讃、珍、済、興、武)のころにはヤマト王権の支配化に入っている。
1-(6)中国史書の倭に連続性が感じられるのは、一時、倭との通交が途絶したことなのから、中国史書の編者がそのように解釈した結果だと思う。
1-(7)伊藤睦月です。私はこの若井説を採らない。古田説の「中国史書にみえる倭」は重要な指摘だと思う。当時の中華帝国からは、九州のことは見えていても、はるか瀬戸内海を横断した先の「ヤマト」までは見えてなかったろう。
1-(8)副島隆彦先生は、旧唐書倭国伝に登場する「倭国」を北部九州に存在した国、奴国や邪馬台国の末裔である国で663年の白村江の敗戦で滅亡した、とする。
1-(9)その後、国号を「日本」と改めた、畿内の「山門国」に吸収合併された、とする。「九州王朝」「大和王朝」という言葉を使わない。私、伊藤は、原則、副島説を妥当と考える。そして、「倭国」「大和国」という呼称を使っている。(奈良盆地の「山門」だけが、「大和」と改名したことから、他地域と区別するため)
2 古田武彦の方法論について
古田の良き論争相手であった、日本史学者の家永三郎(1913-2002:津田左右吉流のひとり)は、古田説を「精密な論証」と「主観的独断」が共存している学説、と評している。
2-(1)精密な論証
若井敏明が指摘しているように、古田の特徴は、中国史書、日本史書、関連文献の徹底的な読み込み、で ある。例えば、中国史書や文献には、「ヤマタイ国」と「台(旧字)」と表記したものは一つもなくすべて「壱(旧字)」と表記されていることから、すべからく「ヤマイチ国」と呼称すべき、などと指摘する。この読みの鋭さ、潔癖さは、古田の特徴である。
2-(2)主観的独断
さきの精密な論証をベースに、大胆に推理する。これには、ち密な文献学者であった家永三郎をもてこずらせた。
例えば、邪馬台国の場所について、魏志倭人伝を分析し、「博多湾周辺」と決めつけている。そして、学会が自説を採用しないのは、邪馬台国の場所を、朝倉とか吉野ケ里とか、博多湾から離れた場所を主張する、学会一派による「策謀」とする。また、古田の大胆な仮説は、考古学によって裏付けられつつある、とする。(古代出雲、法隆寺移転再建問題など)。もちろん「邪馬台国畿内説」は論外、トンデモ学説、とする。
伊藤睦月です。「古田史学の会」の主要メンバーと思われる人々は、(1)ベビーブーマー(いわゆる団塊の世代)が多い。(2)民間の技術系サラリーマン(退職者)が多い。という特徴がある、という印象を受ける。
いずれにせよ、3世紀とか4世紀には、いわゆる、ヤマト王権が全国制覇していた、という見解が妥当でないことは、文献の読み込みにとどまらず、考古学の研究成果、そしていわゆる、歴史サイエンスの成果が、証明しつつあることは間違いないようだ。そういう意味では、古田説に先見性があると認めざるを得ないだろう。だからといって、古田説にすべて盲従はしないが。
小休止、以上、伊藤睦月筆
【575】私説:日本書紀、古事記の正体(10)(574)古事記は、「ふるごとのメモランダム」である。(多分、私だけ?)の続きです。
伊藤睦月です。前回の続きから。
(5)古事記本文(上代特殊仮名遣い)は9世紀の仮名遣いであり、8世紀の文体でない(多人長の自作)という岡田英弘、鳥越憲三郎説を採用。
伊藤睦月です。以上を補足します。あくまで素人考えですが、内心自信があります。(酔ってませんよ!)
(6)日本書紀(ネイティブ漢文)は「読む書物」、古事記(変体漢文)は「聞く書物」、「読み聞かせる書物」、または、「演じる書物」。
(6)-2 当時は、まだ仮名文字は発明されていない。漢文を音読しても、お経を読み上げるのと同じ。意味が分からない。
(6)-3 変体漢文は、当時の日本語。音読には向いている。読んでわからなくても、音声で聞けば理解できる。だから古事記は読む本でなく、「聞く本」である。
(6)ー4 日本書記講莚のポイント(漢文)を抜き書きしたのが「日本紀私記」。これの講義シナリオが必要。それが「古事記」(ふるごとを書いたもの、つまりは、シナリオ、メモランダム)現代風に言えば「授業の手引き」である。
(7)内容構成は、日本書紀の記載が薄い、「神代編」を補足、充実(出雲神話など)
(8)「人代編」では、応神、継体から続く、舒明直系の正統性をアピール、それ以外の傍系を貶めるが、本(日本書紀)には書けないエピソードを、古事記にメモし、講義でしゃべった。
(9)講義を効果的にするため、散文だけでなく、文学的エピソード、要所要所に「歌(韻文)」を織り込んだ。後世の「歌物語」、「能楽」、「浄瑠璃」、「歌舞伎」、「オペラ」、「ミュージカル」といった、日本芸能の伝統、源流、となった。(現代の「スーパー歌舞伎 ヤマトタケル」(梅原猛作、脚本、先代市川猿之助演出)までつながる)
以上小休止、伊藤睦月筆。
【574】私説:日本書紀、古事記の正体(9)古事記は、「ふるごとのメモランダム」である。(多分、私だけ?
伊藤睦月です。【572】の続きです。
私、伊藤は古事記を、
(1)「日本紀私記(日本書紀講莚)の講義テキスト」の「授業の手引き」である。
(2)作成時期は812年、第2回講莚のとき。
(3)講師は、太安万侶の子孫、多人長。
(4)古事記序文は偽書だから、古事記作成、712年説は間違い、言い過ぎならあいまい。(古事記偽書説は賀茂
真淵、岡田英弘説を採用)
(5)古事記本文(上代特殊仮名遣い)は9世紀の仮名遣いであり、8世紀の文体でない(多人長