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伊藤 投稿日:2025/01/03 07:59

【576】日本古代史解明の補助線:倭国と大和国、いわゆる九州王朝説について

 伊藤睦月です。日本書紀の内容を読み解くのに、避けて通れないイシューとして、九州王朝説、騎馬民族王朝征服説、邪馬台国東遷説、がある。騎馬民族王朝説は、私の見解(民族でなく難民だ)をすでに述べたので、九州王朝説、邪馬台国東遷説についてできるだけ簡潔に述べ、必要に応じて補足説明する。

1 九州王朝説とはなにか。

 古田武彦(1926-2015)により、提唱された学説。その後、古田は、北部九州、出雲、吉備、畿内、越前、関東、東北にそれぞれ独立した王権が存在した、とする「多元論」を提唱した。 学会主流の見解ではなく、少数説扱い(古田によれば無視されてきた、とのこと)だが、生前は、松本清張などが支持し、邪馬台国論争など活発な論戦を展開し、いわゆる「古代史ブーム」をけん引した一人でもある。既に故人だが、彼の主著27冊を公刊している関西のミネルヴァ書房が事務局となって、彼の見解を支持するアマチュア歴史研究家の会、「古田史学の会」を結成している。学会にも、少数派ながら、支持者がいるようだ。その一人である、若井敏明(わかいとしあき:関西大学非常勤講師)氏の定義を紹介する(『謎の九州王権』2021年祥伝社新書)

1-(1)古田氏は、邪馬台国(氏の主張では、邪馬壱国:やまいちこく)が九州にあった。

1-(2)『三国志』の『魏書』東夷伝倭人の条(以下、『魏志倭人伝』)以降の中国史書にみえる倭には連続性が認められる。

1-(3)以上を主な根拠として、九州を領土とする王朝が弥生時代初期から七世紀末まで存在した、とする。

伊藤睦月です。若井氏は、この古田説に修正を加えている

1-(4)九州王朝ではなく、「九州王権」と呼称する。

1-(5)4世紀~5世紀、倭の五王(讃、珍、済、興、武)のころにはヤマト王権の支配化に入っている。

1-(6)中国史書の倭に連続性が感じられるのは、一時、倭との通交が途絶したことなのから、中国史書の編者がそのように解釈した結果だと思う。

1-(7)伊藤睦月です。私はこの若井説を採らない。古田説の「中国史書にみえる倭」は重要な指摘だと思う。当時の中華帝国からは、九州のことは見えていても、はるか瀬戸内海を横断した先の「ヤマト」までは見えてなかったろう。

1-(8)副島隆彦先生は、旧唐書倭国伝に登場する「倭国」を北部九州に存在した国、奴国や邪馬台国の末裔である国で663年の白村江の敗戦で滅亡した、とする。

1-(9)その後、国号を「日本」と改めた、畿内の「山門国」に吸収合併された、とする。「九州王朝」「大和王朝」という言葉を使わない。私、伊藤は、原則、副島説を妥当と考える。そして、「倭国」「大和国」という呼称を使っている。(奈良盆地の「山門」だけが、「大和」と改名したことから、他地域と区別するため)

2 古田武彦の方法論について

  古田の良き論争相手であった、日本史学者の家永三郎(1913-2002:津田左右吉流のひとり)は、古田説を「精密な論証」と「主観的独断」が共存している学説、と評している。

2-(1)精密な論証

     若井敏明が指摘しているように、古田の特徴は、中国史書、日本史書、関連文献の徹底的な読み込み、で     ある。例えば、中国史書や文献には、「ヤマタイ国」と「台(旧字)」と表記したものは一つもなくすべて「壱(旧字)」と表記されていることから、すべからく「ヤマイチ国」と呼称すべき、などと指摘する。この読みの鋭さ、潔癖さは、古田の特徴である。

2-(2)主観的独断

     さきの精密な論証をベースに、大胆に推理する。これには、ち密な文献学者であった家永三郎をもてこずらせた。

 例えば、邪馬台国の場所について、魏志倭人伝を分析し、「博多湾周辺」と決めつけている。そして、学会が自説を採用しないのは、邪馬台国の場所を、朝倉とか吉野ケ里とか、博多湾から離れた場所を主張する、学会一派による「策謀」とする。また、古田の大胆な仮説は、考古学によって裏付けられつつある、とする。(古代出雲、法隆寺移転再建問題など)。もちろん「邪馬台国畿内説」は論外、トンデモ学説、とする。

 伊藤睦月です。「古田史学の会」の主要メンバーと思われる人々は、(1)ベビーブーマー(いわゆる団塊の世代)が多い。(2)民間の技術系サラリーマン(退職者)が多い。という特徴がある、という印象を受ける。

 いずれにせよ、3世紀とか4世紀には、いわゆる、ヤマト王権が全国制覇していた、という見解が妥当でないことは、文献の読み込みにとどまらず、考古学の研究成果、そしていわゆる、歴史サイエンスの成果が、証明しつつあることは間違いないようだ。そういう意味では、古田説に先見性があると認めざるを得ないだろう。だからといって、古田説にすべて盲従はしないが。

小休止、以上、伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/02 10:07

【575】私説:日本書紀、古事記の正体(10)(574)古事記は、「ふるごとのメモランダム」である。(多分、私だけ?)の続きです。

伊藤睦月です。前回の続きから。

(5)古事記本文(上代特殊仮名遣い)は9世紀の仮名遣いであり、8世紀の文体でない(多人長の自作)という岡田英弘、鳥越憲三郎説を採用。

伊藤睦月です。以上を補足します。あくまで素人考えですが、内心自信があります。(酔ってませんよ!)

(6)日本書紀(ネイティブ漢文)は「読む書物」、古事記(変体漢文)は「聞く書物」、「読み聞かせる書物」、または、「演じる書物」。

(6)-2 当時は、まだ仮名文字は発明されていない。漢文を音読しても、お経を読み上げるのと同じ。意味が分からない。

(6)-3 変体漢文は、当時の日本語。音読には向いている。読んでわからなくても、音声で聞けば理解できる。だから古事記は読む本でなく、「聞く本」である。

(6)ー4 日本書記講莚のポイント(漢文)を抜き書きしたのが「日本紀私記」。これの講義シナリオが必要。それが「古事記」(ふるごとを書いたもの、つまりは、シナリオ、メモランダム)現代風に言えば「授業の手引き」である。

(7)内容構成は、日本書紀の記載が薄い、「神代編」を補足、充実(出雲神話など)

(8)「人代編」では、応神、継体から続く、舒明直系の正統性をアピール、それ以外の傍系を貶めるが、本(日本書紀)には書けないエピソードを、古事記にメモし、講義でしゃべった。

(9)講義を効果的にするため、散文だけでなく、文学的エピソード、要所要所に「歌(韻文)」を織り込んだ。後世の「歌物語」、「能楽」、「浄瑠璃」、「歌舞伎」、「オペラ」、「ミュージカル」といった、日本芸能の伝統、源流、となった。(現代の「スーパー歌舞伎 ヤマトタケル」(梅原猛作、脚本、先代市川猿之助演出)までつながる)

以上小休止、伊藤睦月筆。

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/02 09:27

【574】私説:日本書紀、古事記の正体(9)古事記は、「ふるごとのメモランダム」である。(多分、私だけ?

伊藤睦月です。【572】の続きです。

私、伊藤は古事記を、

(1)「日本紀私記(日本書紀講莚)の講義テキスト」の「授業の手引き」である。

(2)作成時期は812年、第2回講莚のとき。

(3)講師は、太安万侶の子孫、多人長。

(4)古事記序文は偽書だから、古事記作成、712年説は間違い、言い過ぎならあいまい。(古事記偽書説は賀茂

   真淵、岡田英弘説を採用)

(5)古事記本文(上代特殊仮名遣い)は9世紀の仮名遣いであり、8世紀の文体でない(多人長

 

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/01 11:48

【573】ブレイク:歴史サイエンスのトリセツ(1)

  伊藤睦月です。あけましておめでとうございます。

  今年の9月8日は、全国各地で皆既日食がみられるそうだ。昨晩のEテレのカウントダウン番組で知った。

 古代では、こういう天変地異がおこると、為政者に対する、天の怒り、警告、と考えられていて、

 それを、観測、予測、意味を読み取る、できれば予防する、という研究(呪術)が盛んであった。日本では、「陰陽道」として体系化されたが、元は中国の占星術、道教がルーツだ。下條竜夫氏の『物理学者解き明かす、邪馬台国の謎』が面白い。

 かつて、石原慎太郎は、東日本大震災を指して、「天鑓(てんけん)」と呼んで、被害者に対して、「天罰がくだった」とは何事か、とメディアからたたかれた。しかし、石原にとっては心外だったろう。民に対する天罰じゃなくて、為政者(当時の管民主党政権)に対する、天意(批判、警告)が下されたのだ。それを指摘して何が悪い、ということだ。でも、メディア、ひいては、国民一般には、そんな教養はないから、通じなかった。教養のギャップの問題、として片づけられてよいものではない。今でも、こういう古い知識が、日本人に無意識に刷り込まれているとしたら、これを意識下に置く、つまり知識として持っておく、というのは、意外と大事なことではないかと思う。

 2000年代にはいって、もっと言えば、2010年以降、歴史研究、特に古代史分野において、新しい手法で、研究を進展させる、ことが、トレンドになりつつある。

 学会でも世代交代が進み、寛容度が高まっているのかもしれない。時間かかりすぎだとは思うが。

 歴史学には、大きくは、文献学と考古学があるが、数理統計学、天文学、地質学、土木学、建築学、気象学、物理学、化学、生物学、農学、水産学、冶金学、航海学、遺伝子工学、放射線学などの手法から得られた知見で、従来の定説に修正を迫ってきている。考古学分野において著しい。またこれらの分野を専門とする人たちが、日本古代史研究に参入してきている。(下條氏をはじめとする、副島先生の理系のお弟子さんたちもその流れのなかにいる)彼らは、査読付きの英語論文も参照する。もうここまで来ている。

 伊藤睦月です。以上こういった、従来セオリー以外のやりかたを「歴史サイエンス」と呼ぶことにする。

 そして、これらの動きについて、私のわかる範囲で、紹介しようと思う。もとより、理数ダメ、英語ダメダメの典型的な「偏差値50の私立文系」人間なので、間違い、不適切なものがある、ありまくりだと思う。どうぞご指摘ください。できるだけぼろがでないように、頑張ります・・・(冷や汗)

それでは、今年もよろしくお願いいたします。

伊藤睦月拝

伊藤 投稿日:2024/12/30 06:33

【572】私説:日本書紀、古事記の正体(8)一応のまとめ(日本書紀編)

伊藤睦月です。本日は、2024年12月30日5時14分です。

日本書記の正体、について、ここで一応まとめます。

(1)日本書紀は、ネイティブ漢文で書かれているが、同書の信頼性、権威を高めるためであり、日本書紀自体は、中国側向けではなく、国内の官人向けに書かれた歴史書である。

(2)日本書紀は、大和のアマ氏の王権の正統性、なかでも、舒明直系だけが、天皇位を引き継げることを、他の傍系や、有力豪族の末裔たちに、アピールするために編纂された歴史書である。

(2)-2 日本書紀完成の翌年、721年に、当時の官人全員を対象に、内容のレクチャー(日本書紀講莚)を実施した。

(2)-3 舒明直系に逆らうと、どうなるかを警告するエピソードをふんだんに盛り込んだ。

(3)平安時代に入り、大和のアマ氏の直系の王権が確立すると、今度は藤原氏の正統性をアピールするため、藤原の書として、利用された。

(3)-2 810年、藤原薬子の変により、舒明直系の威信が低下するのを防ぐため、812年に、日本書紀講莚を再開した。

(3)-3 その後は、藤原氏の威信が揺らぐような政治的事件があるたびに、講莚が繰り返される。そして、藤原摂関家の覇権獲得が進んでいく。

 例:843年第3回:承和の変(839年)の翌年開催

   878年第4回:応天門の変(866年)の12年後、下総俘囚の乱(875年)の3年後

   904年第5回:菅原道真の太宰府左遷(901年)の3年後。

 

   936年第6回:平将門、藤原純友の反乱(935-941年)の渦中

   965年第7回:この時期、藤原摂関家の全盛期に入る。安和の変(969年)があったが、藤原摂関家の覇 

           権は揺るがず、それ以降は、開催されなくなった。

(3)-4 伊藤睦月です。上記はこじつけっぽいところもあるが、大筋では該当している、と考えている。

(4)大和のアマ氏と中華帝国は、対等な関係にある、というフィクションを、官人たちに、アピールするための歴史書である。

(5)以上のことを、官人たちに刷り込むため、対等関係でないことがわかる史実を記載せず、中国側に知られると困る、「不都合な史実」もあえて掲載した。

(5)-1 対等関係でないことがわかるので日本書紀に記載されなかった史実

    例:漢委奴国王、親魏倭王、征東大将軍(倭の五王)らの朝貢、冊封記事

(5)-2 中国側に知られるとまずいが、「対等であること」をアピールするための、エピソード。(国内では、

      武勇伝になる)

    例:天皇号の表記、遣隋使での無礼な挨拶、隋国書の紛失、乙巳の変(親新羅派=新唐派要人の暗殺など)

      及び白村江の戦いの共同謀議(倭国が首謀者であることがバレバレ)、歴代倭王の不適切行為(不倫、

      近親相姦、暗殺、残虐行為など、有徳性を疑わせる行為)

(6)さらに万が一中国側にばれたときのアリバイ工作のため、上記「不都合な事実」の大半を、白村江で滅んだ倭

   国の仕業とし、すでに滅んだ倭国のアマ氏の系譜を「傍系」として、大和のアマ氏の系譜に挿入した。悪いこ

   とはすべて、倭国がやりました。大和のアマ氏は、倭国のアマ氏とは、「別種」です、と説明するためだ。

(6)-2 これらは、私伊藤の完全なるファンタジーで、立論が不十分なことは、自覚している。今後の課題だ。

 しかし、ありそうな話だと、内心自信がある。今後、適宜補足していく。次は、古事記について、自論を述べる。

  以上、伊藤睦月筆

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/29 22:48

【571】私説:日本書紀、古事記の正体(7)白村江から壬申の乱へ。そして日本書紀の完成。

伊藤睦月です。続きです。

 663年の白村江の敗戦の前後の時期における、天武(大海人皇子)と藤原鎌足(余豊璋)の動向がよくわからない。天智(中大兄皇子)は、天武の妻妾を朝倉宮まで連れて行っているから、これを人質(関裕二説)と考えれば、天武は、飛鳥に残ったと考えられる。日本書紀にはその間、何も記事がないが、将来のことを考えて、単に記載すべき事項がなかったためと想像している。ただし、現地にスパイを送り込んで、人質の安否と天智周辺の動向を監視していた可能性はある。

(2)この戦いは、唐正規軍対百済残党プラス倭国傭兵隊との戦いで、武備と用兵術に勝る唐軍の圧勝だった。新羅軍は、将校団のほか参加していないし、唐軍には、百済正規軍(元百済皇太子軍)が参加していたので、歴史教科書記載の「唐・新羅連合軍VS[日本・百済連合軍」という構図は間違い。百済は660年に滅亡しており、倭国が、残党たちに、亡命王子の余豊璋と援軍を送り込んで戦わせた。余豊璋は、倭国の傀儡であろう。余には百済軍を統率する力量がなく、実際は倭国軍単独で、唐軍とぶつかり、全滅した。副島隆彦先生は、これでもって、九州北部の伝統ある「倭国」は、滅亡した、とする。中国側に記録には、百済軍の固有名詞は記載されても、倭国軍は、「倭人」とか「倭軍」と記するのみである。日本書紀には、固有名詞の記載が結構あるのと好対照である。

(3)敗戦の報に接した天智は、朝倉宮を脱出して、飛鳥に戻り、防備を固め、近江京で「天智天皇」に即位した。通常、負け戦で逃げ帰れば、その者の威信が低下し、政権交代がおこりやすくなる。詳細が天武のもとに入る前に、即位して、直系の地位を確保したかったのかもしれない。それにしても、行動が早すぎる。先を越された天武の心中いかばかりか。万葉集には、宴席で、酒に酔った天武が手槍を床に突き刺したり、元カノの額田王に、今カノの天智の目の前でちょっかいを出して挑発したり、といった「奇行」が伝えられている。

(4)舒明直系を決める決勝戦は、天智の死の直後、672年に、今度は先手をとった、天武の圧勝で終わった。大友皇子は自殺した。天武は近江京から、飛鳥浄御原京に移って「天武天皇」に即位した。ここで、舒明直系は、天武で決まった。

(5)679年、天武と持統は、天武直系の皇子と天智直系の皇子たちを集め、後継者を天武と持統の子、草壁皇子とすることに、同意させ、「吉野盟約」を結んだ。盟約の対象者は、天武の直系のほか、天智の直系も参加した。大友皇子の直系は外された。天智の傍系となった。これで、草壁皇子の系統だけが、天武、ひいては、「舒明の直系」となった。

(6)681年、吉野盟約の2年後に天武天皇は、10数人の官人からなる、「日本書紀編纂委員会」を結成し、史料の取捨選択、天武の意向に沿った、「正しい歴史書」の作成を命じた。

(7)686年、天武天皇が死に、皇后が「持統天皇」として即位した。

(8)697年、持統が死に、草壁皇子の子が即位し、文武天皇となった。

(9)720年、日本書記が完成した。翌年、721年に、官人たち全員にお披露目し、第1回目の内容レクチャー(日本書紀講莚)が行われた。

小休止、以上、伊藤睦月筆。

 

伊藤 投稿日:2024/12/29 20:33

【570】私説:日本書紀、古事記の正体(6)まず、傍系皇族と有力豪族を排除する。(その2)

伊藤睦月です。

 (1)舒明直系の天智、天武にとって、当面の標的は、蘇我氏である。蘇我氏は、雄略大王のころから、大和国の財政や財産を管理していたというから、先祖は華僑の大商人であろう。諸史料からは、渡来人由来とはされていないが、それだけ古くから、大和のアマ氏に仕えていたものと思われる。文官として、秦氏や、東文氏、西文氏、武官として、東漢氏などを部下にしていたことからも、華僑系だと思う。読み書き計算のできない(得意でない)、武力一辺倒の原住民系の豪族(物部氏など)ではない。華僑の系列は、親百済派か親新羅派かは、はっきりしないが、伝統的に親百済派の豪族が多い中、聖徳太子に代表されるような人物が多く、仏教移入に積極的な進歩派、「新しもの好き」な一族。

(2)私、伊藤は、いわゆる、「聖徳太子は、実在したが、タシリヒコは、倭国のアマ氏の大王だ」と考えている。(同旨古田武彦)。1990年後半から、大山誠一氏を中心に「聖徳太子は実在しない。タシリヒコ=蘇我馬子」説が学会内で有力になり、高校教科書の記述にまで影響が出ているが、いわゆる、学会通説と同じく、倭国のアマ氏の存在を認めない、としている点で、違和感を持っている。(詳しくは後述する)

(3)蘇我氏は、継体大王の即位後にその影響力を増してきて、大和のアマ氏をしのぐ勢いとなった。お金を持ってる奴は強い。高校教科書にも書かれているが、当時の大和国は、有力豪族の連合体で、アマ氏の優越権はなかったから、蘇我氏が大王であった可能性は高い。隋書の記述とも整合しそうだ。そうなると、用明、推古、崇峻、聖徳太子、みんな実在しないことになる(大山誠一氏)が、まだ、賛否を決めかねている。彼らが実在しない、となると、物部氏との「仏教戦争」も本当にあったのか、再考が必要になる。

 (4)とにかく、645年に、天智、藤原鎌足(余豊璋と同一人物説:同旨関裕二氏)のコンビが、「蘇我入鹿」を暗殺し、その後、傍系の古人皇子を殺し、孝徳大王をネグレクトして憤死させ、その息子の有間皇子を謀反のぬれぎぬをかけて殺した。傍系だが、実母の皇極=斉明大王は、殺しはしなかったが、九州の朝倉宮で軟禁状態にして、死なせた。(白村江の戦争指揮なら、博多湾沿岸部の香椎宮の方が便利なはずだが・・・)そうして、直系の兄弟だけが残った。決勝戦は近い。

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/29 10:29

【569】私説:日本書紀、古事記の正体(5)まず、傍系皇族と有力豪族を排除する。(その1)

伊藤睦月です。

(1)大和国の王権は、(以下、「大和のアマ氏」と呼ぶ。従来の北部九州に存在した、奴国、邪馬台国の後継王を「倭国のアマ氏」と呼ぶ。「休氏」とする説もあるが、ここでは、中国正史に採用された「阿毎(あま)」氏とする。なお、九州天皇家、近畿天皇家、という古田武彦流の呼び方もあるが、天皇は天智天皇以降の呼称とする、副島隆彦説を採用する。それ以前は大王・おおきみとする)は継体大王の子孫の時代である。日本書紀では、この時代の記述が、で最重要である。

(2)継体大王には、安閑、宣化、欽明、の3人が大王となっていたが、欽明の血統が大王位を引き継いだ。欽明が継体の「直系」となった。欽明から見て、他の2人の血統は「傍系」となる。

(3)欽明大王には、敏達、用明、推古、崇峻、の大王がいたが、欽明の血統、舒明が「直系」となった、舒明の「直系」が、天智と天武だ。この2人が、継体の「直系」だ。現天皇家は、この継体大王の「直系」の子孫になる。天智と天武のどちらが年上かとか、血のつながりが温かかどうかは関係ない。舒明大王の「直系」と認定されたことが、それだけが重要なのだ。

(4)だから、大王位の争いは、誰が直系となるか、という争いだ。例えば、用明大王の子(聖徳太子)や孫(山背王)が大王になれば、彼らの血統が「直系」となり、他の血統は「傍系」になる。大王には直系のみがなれる。というか、大王になった者こそ「直系」になる。現在のいわゆる「皇位継承問題」にもつながる問題だ。そして、現代のように「平和的な解決方法」は、当時にはない。だから、どうしても、血生臭い話になる。殺し合いになる。

(5)そして、もう一つ厄介な存在がある。有力豪族だ。この取り扱いもめんどくさい。

小休止:以上、伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/29 09:46

【568】私説:日本書紀、古事記の正体(4)日本書紀は、天智・天武、両方の直系が、正当な王位継承者であることを主張した歴史書である。

 伊藤睦月です。前回の続き。通説では、日本書紀は、壬申の乱で大友皇子を倒した、天武天皇の正統性を主張したものというもの、これをベースに藤原不比等が一族の正統性の主張を仕込んだ、という説もある(関裕二、井沢元彦、梅原猛、など)私、伊藤は、天武、天智、両方の血統(舒明直系)の正統性を主張したものだと考える。以下、説明する。

(1)前回述べたように、日本書紀が宗主国中国(唐帝国)向けでなく、国内向けだとすると、中国には言えない「不都合な事実」も、意味を持ってくる。

(2)当時の、「日中関係」の超重要案件は、「対等な日中関係」の構築である。通説では、第2回遣隋使(607年)で、史上初めて、対等関係を主張。隋皇帝のダメ出しを食らったものの、以後対等な関係を明治まで維持できたとする。(直木孝次郎、井上光貞など)

(2)-1 2000年代に入って、通説に異議を唱える見解も現れてきている。(中村修也、河上麻由子)

(3)以上の通説では、例えば、720年、日本書紀の完成後、平安時代中期965年に至るまで、当時の官人(役職を持っている貴族)全員を対象に繰り返し、日本書紀の勉強会(日本書紀講莚)を開催してきたことを説明できない。天智系全盛の世の中で、なんで天武系の正統性を勉強させる必要があるのか。

以下、次回。伊藤睦月筆

伊藤 投稿日:2024/12/28 22:32

【567】私説:日本書紀、古事記の正体(3)日本書紀は、中国に渡っていない。

伊藤睦月です。

(1)日本書紀は、立派な漢文で書かれているのに、遣唐使は、中国に持ち込まなかった。日本書紀が完成(720年)してから、7回派遣されている(733年、752年、759年、777年、779年、803年、837年)が、中国正史にその記事がない。後世の「宋書日本伝」には、「年代記」を提出したという記事がみえる。しかし、帝紀(年代記)と旧辞(エピソード集)の両方から構成されている、日本書紀は中国に持ち込まれることはなかった。日本書紀から、「旧辞」を除いた「帝紀」部分だけを提出したのだろう。「帝」という題名を遠慮したのだろう。日本側の歴史書(続日本紀など)には、遣唐使派遣のために船を建造したとかの記事は出てくるが、日本書紀持参の記事はない。天武天皇による、日本書紀の編纂命令(681年)や完成報告の記事はある。これは奇妙だ。そして、その翌年には、早速、当時の官人(役職についている貴族全員)を対象にした勉強会(日本書記講莚)が開催されている。この後、何回も開催されている。

(2)なぜ、中国に行かなかったのか、あくまで私説であるが、その理由を考えてみる。

(2)-1:日本書紀には、歴代倭王を、「天皇」と表記していたため、中国側に提出できなかった。

(2)-2:過去の中国正史(晋書、宋書、隋書など)と矛盾する記述があるため。

 例えば、「邪馬台国の朝貢」、「倭の五王の朝貢」の記述がない、中国に日本の王権の正当性をアピールするには、過去の実績を強調することが大事だと思うが、それがない。

 隋書にある、タシリヒコの記載がない。特に、タシリヒコ問題は結構深刻で、例えば、守谷健二氏は、この不都合を解決するため、「稗田阿礼」なる人物から、「聖徳太子」という架空キャラを創造し、「隋書」の記述を書き換えさせるよう、古事記で遺言した、という説を立てているくらいだ。(自分の記憶ですが)

2-(3)中国側にあまり、蒸し返してほしくない、史実の記載がある。(歴代倭王による、不倫・近親相姦・殺人などの不適切行為、遣隋使国書紛失事件、白村江の戦い、壬申の乱など)馬鹿正直にもほどがあるだろう。

実は、私、伊藤は別の仮説を考えている。

(2)-4:そもそも、日本書紀は国内向けに作成された。立派な漢文は、あくまでも「箔づけ」だった。

 これについては、日本書紀編纂の真の目的、背景等についての考察が必要だ。(あくまで、伊藤のファンタジーですが)

以上、伊藤睦月筆