ふじむら掲示板
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Loginはこちら【517】【516】「重訳」について(【409】への返信:その5)への返信。
伊藤睦月です。2054さん、早朝からお付き合いいただき、ありがとうございます。
2054さんは、「東倭」という、邪馬台国を盟主とする「倭国」とは、別の国、勢力の存在が倭の東にあった、ということを小林恵子説を使って、主張されているのでしょうか。
それに対しては、2054さんの見解に賛同します。 ただ、「東倭」が史料上は、1か所、1回きりなのが気になります。
ところで、『冊府元亀』は北宋時代にまとめられた資料集で、中国正史に記載されていない、史実がたくさん紹介されており、司馬光の「資治通鑑」とならんで、小林氏だけでなく、多くの研究者が引用しております。しかし、当該資料の出どころは明らかでなく、記載史料の真偽がわからない、2次資料なので、あくまでも、中国正史等一次資料を補完するものと考えております。今回のケースは一次資料が使えるので、それでよいのでは。あくまで、私見ですが。
重訳が、文書の翻訳を重ねることなのか(鳥越説)、通訳者のことなのか(小林説)なのかは、平行線かと思いますが、中国への朝貢は、「文書」でやりとりするのが、基本で、当時の中国語をしゃべることができたかどうかは関係ないと思います。それに最近まで中国語の口語や発音は、まるで別言語かと思われるほど通じない方言が多いそうで、結局は、文書で会話しているらしい。(岡田本及び私自身の訪中経験)ここ50年くらいはテレビ、ラジオ等により、「北京官話」という、大連地方の方言が普及したので、大分口頭での話が通じるようになったとか。当時の状況が思いやられます。
往生際が悪くて恐縮ですが、魏と邪馬台国、魏と東倭、邪馬台国と東倭とでは、口頭では言葉が通じなかった、文書で筆談するしかなかったので、重訳にしても、どちらの意味にもとれそうです。ああいえばこういう、ですみません。だから何?と言われたら微苦笑するしかないけど。
以上、伊藤睦月筆
【516】「重訳」について(【409】への返信:その5)
2054です。今回は晋書:武帝紀と四夷伝から考えてみたいと思います。
それぞれの原文は以下のようにあります。
武帝紀「泰始2年、11月巳卯、倭人来献方物」(泰始2年は266年)
四夷伝:倭条「泰始、初遣使重訳入貢」
伊藤氏は、この原文の解釈について、「泰始、初遣使重訳入貢」は「邪馬台国の台与(臺與)が晋に使いを送った」と解釈しています(参照:『倭人・倭国伝全釈 東アジアのなかの古代日本』鳥越憲三郎・角川ソフィア文庫)。
(伊藤氏の疑問提示:抜粋はじめ)
「東倭」が重訳を連れてきたのではなく、「台与が」というのが、素直な読み方。それに重訳を「通訳」としているが、ほかに用例があれば、納得しますが、よくわからん。
(抜粋終わり)
鳥越憲三郎は前掲書のなかで「邪馬台国の女王台与によるものであったことは確か」(電子書籍版:47/100%箇所)としています。しかし、本当に「邪馬台国」が送使したのでしょうか(私はそう思いません)。
まず、原文には主語が「倭人が」とあり、どこの国の誰かは明記していません。晋は倭国を独立国と認めていませんので、解釈が必要になります。この点、『冊府元亀』にも倭の女王が朝貢した(265年)とあるので、「台与が」と解釈するのは妥当です。しかし、これが「邪馬台国(の台与)」とする根拠はありません。武帝紀には「倭人」とあるだけです。
なお、重訳とは「通訳を重ねる」ということ。用例はいろいろあり、漢書·平帝紀には「元始元年春正月、越裳氏 重譯獻白雉一」とあり、「重譯」は使われております。これも通訳を重ねると読むのが通常です。貞観政要にも「絶域君長、皆來朝貢、九夷重譯、相望於道。」(誠道十七)とあります。
邪馬台国であれば重訳を連れずに朝貢できるはず。伊藤説が岡田説・下條説などと同様に、華僑説を前提にする場合、邪馬台国は華僑が支配者層ですよね?(解釈を間違っていたらすみません)。それなら邪馬台国では、重訳どころか通訳すら不要です。実際、邪馬台国の卑弥呼については、重訳を連れていったという記述はありません。しかし台与の送使は重訳を連れています。同じ邪馬台国であれば、それはおかしいように思います。
そして宣帝紀には、240年正月に、東倭重訳朝貢の記載があります。東倭であれば、重訳が必要で、女王国の場合は重訳がいません。したがって、晋書は邪馬台国と東倭を対比して使い分けていると解釈されます。
なお、鳥越氏の前掲書では晋書の説明箇所をみても宣帝紀への言及がありません。「東倭」は存在しないかのような扱いです。学会通説も似たようなものと私は推測しています。最新の伊藤氏のコメントでも東倭の存在に(学会を説得するような)根拠がないとしていますが、上記に述べた通り、中国正史上では十分、根拠が明示されていると私は思います(中国正史以外での根拠については別の機会にコメントします)。
一般的に流布されている考えからすれば、「あれ?おかしいな?」という異端な説を私はご紹介していると思います。伊藤氏におかれましては「学会通説で説明つかないときは、学会内外にこだわりなく、最も適切な見解を採用する」とのスタンスを取られるとのこと。少なくとも学会通説のおかしな点をご理解いただければ幸いです。
つぎに高句麗と倭国について、晋書がまったくの無視をしている点を取り上げたいと思います。(続く)
【515】【514】ブレイク:【513】へのご返信へのご返信
伊藤睦月です。2054さん、早速のレス、ありがとうございます。司馬懿=徳川家康説は、私の思い付きですが、239年、明帝の死後、249年に司馬懿が逆クーデタで実権を握ったという史実を念頭に置いたものです。なお、司馬懿の孫、司馬炎は、265年に魏の元帝から禅譲を受け、西晋帝国を建国します。2054さんのご指摘通り、238年の卑弥呼の朝貢のときには、諸葛亮を死に至らしめた英雄として、司馬懿は存在感を増しており、むしろ曹一族の方が警戒を強め、緊張関係はあったようですが、まだ表面化していない段階だと思います。明帝の死後、張玉蘭の夫、曹宇が新帝の後継人に指名されますが、4日後に解任されます。司馬懿の関与は不明です。
また、毌丘倹は、司馬懿と連携して、公孫淵を滅ぼした大功があり、司馬懿存命中は、忠実な子分として行動していました。司馬懿にはよほど心服していたのでしょう。
しかし、孫の司馬炎が元帝から禅譲を受け、西晋を建国すると、江南の呉と内通して反乱を起こしますが、逆に打ち取られます。最後は魏帝国に殉じたわけです。彼にとっては「禅譲」も「簒奪」と映ったのでしょう。
以上、岡田英弘『倭国』第三章をベースに記憶を呼び起こしました。
なお、下條本のとおり、魏→晋への禅譲は平和裏に行われ、最後の魏皇帝(元帝)は、殺されることなく、陳留王として、57歳まで生きたそうです。陳寿が三国志正史を書き上げたときはまだ存命だったそうです。両者の接触は確認されておりません。50年ほど前のNHK人形劇「三国志」では、禅譲のあと、元帝は暗殺されますが、これは1000年後にできた羅漢中作『三国志演義』に基づくもので、フィクションだと言われています。ちなみに、禅譲で前皇帝が、殺されなかったのは、後漢→魏、魏→晋、北周→北宋、の3回だけだと言われています。
とりあえずのレスでした。卑弥呼=張玉蘭説の重掲投稿は、後日拝見したいと思います。2054さんの投稿は、いつも、励みになります。今後ともお付き合いいただければ幸いです。
以上、伊藤睦月拝
【514】ブレイク:【513】へのご返信
2054です。さっそくに私の投稿をお読みいただきありがとうございます。伊藤氏の精力的な投稿に触発され、いろいろ考える契機をいただけました。御礼申し上げます。重訳については、近日中に投稿いたします。
司馬懿は徳川家康にそっくりというのは「言い得て妙」ですね。豊臣秀吉は臨終の際に「秀頼を頼む」と徳川家康に頼んでで死んだとされていますから、確かにそっくりです。
しかし徳川家康の忠義は表面だけです。豊臣秀吉もそういわざるを得なかっただけで、忠義者とは思っていなかった
ことは想像に難くありません。それと同じではないでしょうか。
「魏書」毌丘倹伝では、習鑿歯(しゅうきんし)が以下のように語っています。
(引用はじめ)http://home.t02.itscom.net/izn/ea/kd3/28a.html
習鑿歯曰く:毌丘倹は明帝の顧命に感動し、ゆえにこの戦役を為した。
君子(習鑿歯)が謂うには、毌丘倹の事は成らなかったとはいえ、忠臣と謂うべきである。
そも節を竭くして義に赴くのは自身に在り、成功と失敗とは時に在り、
自身に苟くも時が無ければ、成功がどうして必定となろうか? 自身を忘れて必定を求めず、
これが忠たる理由である。古人の言葉にも 「死者が復た生きても、生者は愧じず」 とある。
毌丘倹の如きは愧じぬ者と謂ってよかろう。
(引用おわり)
2054です。ここで分かることは、毌丘倹は明帝の忠臣で、明帝の顧命に従った(よって司馬氏に反逆した)ということです。ということは明帝の時から司馬氏が実権を掌握しつつあり、そして聡明な明帝はその状況を理解していたのではないでしょうか(理解していないはずがありません)。
【508】の(13)において、下條先生の「卑弥呼=張玉蘭説」について判断を保留すると述べられていました。その点についてですが、私は重たい掲示板において、[3453]『物理学者が解き明かす邪馬台国の謎』の疑問点というタイトルで投稿したことがございます。下條先生とはそのときに重たい掲示板上でやりとりをさせていただきました。もしよろしければ、ご高覧いただき、判断材料の1つにしていただければ幸いです。
【513】2054さん、ていねいなフォロー、ありがとうございます。
伊藤睦月です。2054さん、拙文を丁寧に検討していただき、ありがとうございます。
東倭とは、卑弥呼を共立した、倭の30国とは違い、倭の東、例えば東北地方にある、国、であるとの、ご見解ですね?確かに東北には、九州、畿内とも独立した勢力が、あって、魏に朝貢してきたという可能性は否定できない(三内丸山遺跡などの末裔か)とは思います。ただし、学会が納得するような根拠がでてきてないように思えます。残念です。
ではなぜ、魏皇帝は「東倭王」の称号を与えなかったのでしょうか。そして、東夷伝になぜ「東倭伝」が記載されていないのか。宣帝本紀にあげられているくらいだから、司馬懿は喜んだはずなのに。(下條説のように、卑弥呼は魏皇帝の縁戚だから、特別扱いされたのだ、という説も魅力的ですが、まだ納得しかねています)そしてなぜ、1回しか登場しないのか。
なお、「倭国王」の称号を与えうるのは、当時は明帝だけだと思います。(司馬懿はまだ、実権を掌握しきっていない)。邪馬台国と東倭の両方に二重に「倭国王」の称号を与える理由がよくわかりません。司馬懿はクーデタを仕掛けられて逆襲するまでは、実に「忠実な爺や」を演じていて、徳川家康にそっくりです。そういう挑戦的なことをしかけるのは、もっと後年だと思います。(自分の記憶だけで書いていますので、間違いあればご指摘ください)
いずれにせよ、2054さんのご見解、刺激になってありがたいです。今後ともよろしくご指摘お願いします。
なお、「重訳」は、鳥越憲三郎の解釈そのままです(『倭人・倭国伝全釈』東アジアのなかの日本 角川ソフィア文庫)それで、現時点では鳥越説を支持していますが、それよりもっと説得力ある見解がでてくれば、こだわりはありません。「重訳」の他の使用例が見つかるとよいですね。
以上、伊藤睦月拝
【512】YOUは何しに魏にきたの?(【409】への返信:その4)
2054です。
伊藤氏は最新の見解は過去と異なり「アップデート」がされているようです。その新伊藤説については別の機会に検討しようと思います。今回は、アップデート以前の見解(旧伊藤説とします)をご紹介し考察を進めていきたいと思います。
(伊藤氏の疑問提示:ここから)
239年に、邪馬台国が「親魏倭王」の金印を受けている。もう、倭国代表の指定は終わっているのに、240年に「YOUは何しに魏にきたの?」戦勝祝いなら、時機失してる。
(引用終わり)
238年6月に女王国は難升米を帯方郡に派遣し、238年12月には魏から詔書・金印などを下賜されています。そして再び240年正月に謁見した。旧伊藤説が述べているように倭国代表の指定は終わっているのですから、「YOUは何しに魏にきたの?」(意味ないよね?)ということになります。東倭の存在を前提にしない場合、ここから一歩も先に進みません。
しかし、実際には邪馬台国と東倭は同時期に存在し、同時期に送使しています。この使者送付の理由について、当時の国際情勢を踏まえて整合的に解釈するのが、本来の歴史学のはずです。
当時の東アジア情勢では、周辺諸国は魏の影響をもろに受けます。小林説が優れているのは、日本列島からの送使を「魏の内部問題」から説きおこしている点にあります。具体的には、明帝と司馬懿の権力闘争があり、その影響を受けた日本列島では、邪馬台国と東倭が別々に呼び寄せられる結果となったと考えられるのです。そして、明帝側と司馬懿側の両サイドが、邪馬台国と東倭にそれぞれを倭国代表と認めたのでしょう。
引用が長くなるので途中までにしますが、小林恵子の見解をご紹介します。
(引用はじめ)江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武(現代思潮新社p156~157)
卑弥呼が親魏倭王に任じられた直後の「魏志倭人伝」の正始元年(240年)条に、帯方郡の太守の弓遵が、帯方郡の使者に詔書と印綬や宝物をもたせて倭国に遣し、倭王に仮受させた。それに対して倭王は謝意の上表文を奉ったとある。この条の倭王も今までは卑弥呼と考えられてきた。しかし、卑弥呼はすでに魏王室から親魏倭王に任じられている。その上、帯方郡の太守から倭王に任じられたというのは重複にしてもおかしい。この倭王は先に述べたように、「魏志倭人伝」にある、243年に使者を送った倭王(=東倭)で、卑弥呼とは別人なのである。そして、この倭王も魏の都に使者を派遣したことは「魏書」ではなく『晋書』(帝紀一)にみえるのだ。
『晋書』(宣帝紀)には、正始元年(240年)正月条に、東倭重訳が使者を派遣して、中央アジアの焉耆(えんぎ)や東北方アジアの遊牧民鮮卑(せんぴ)と共に朝貢してきたとある。東倭とは初見だが、邪馬台国の別名ではなく、より東北にある列島内の一国の名前である。このことは同道の民族が中国東北方面の遊牧民鮮卑であることからも推測される。
240年正月朝貢といえば、彼らが倭国を出発したのは239年中だろうから、238年の邪馬台国の使者の直後に倭国を後にしたことになる。『冊府元亀』(外臣部 朝貢一)にも同じ記事がみえており、東倭重訳と倭国女王卑弥呼と対比させている。倭国女王と倭王は同一人物ではなく、弓遵が使者を派遣したのは東倭王だったのだ。東倭とは、九州の女王国より東北にある国、列島の日本海側の一勢力と考えられる。東倭の使者は、高句麗の領域に日本海側から直接上陸して、高句麗領内を通って魏の都に入ったようである。この時の帯方郡の太守弓遵には、卑弥呼の邪馬台国以外の列島の諸国とよしみを通じなければならない理由があった。(後略)(引用終わり)
2054です。魏志倭人伝の記述では、倭王と女王は使い分けられていますし、列島から派遣したであろう使者の名前もそれぞれ違います。また、彼らを呼び寄せた魏側の太守も別々です。そして晋書には240年の送使は東倭である、とあるのですから、これが全部1つの国=邪馬台国とみる必然性はない(むしろ疑問だらけ)と思います。
また晋書に「重譯」(重訳)とあり、その点について伊藤氏の疑義提示がありましたので、この点を次に取り上げたいと思います。(続く)
【511】【510】いくつかの仮説メモ(2):私の方法論(少し気負いすぎかも・・・):時代区分論
伊藤睦月です。私の属国日本史論、の時代区分について、生煮えですが、書き留めます。今後必要あれば、適宜修正していきます。
(1)テーマ名「属国日本2000年記(仮称)」
①範囲:おおむね、ADゼロ年(漢委倭国王)から、2001年(アメリカ帝国「終わりの始まり」)まで
(2)この2000年間を、「世界史の誕生」(1206年ジンギスカンの即位)以前と以後にわける。
(3)「世界史の誕生」以前
①「地域覇権」の時代。
・60年かその倍数単位で年代を区切って、歴史を語る。(60年周期で歴史は繰り返す説:副島)
・東アジア、オリエント、インド
・オリエントから、地中海、ペルシャ、が派生
・地域覇権間の緩衝地帯としての「中央アジア」
・日本古代史は「東アジア世界」のなかで、語られる。(中国から見えている日本列島、という視点)
・九州王朝説(古田武彦)の採用
・倭の五王と「書紀の5王」別人
・「邪馬台国東遷説」と「騎馬民族征服説」はセットの話。
・九州王朝は「東」ではなくて、「北」に向かった。
・「神武東征」は、よくある「建国神話・創業者伝説、古代版「プロジェクトX」だ。
②中国正史に現れた「倭国」は九州王朝のこと。
・「旧唐書倭国伝」は「九州王朝」のこと。
・「旧唐書日本伝」から「ヤマト王朝」が中国のカ ウンターパートとして、認知される。
・日本書紀記載の対中国的に「不都合な事実」は、ほとんど、「九州王朝」がやらかしたこと。
・それでもそういう記事を採用したのは、あくまでも、「九州王朝」の正統な後継は「ヤマト王朝」である、ということを、国内向けに宣伝するために、日本書紀は書かれたのであって、中国向きではなかった。
・タシリヒコは「用明天皇」(新唐書日本伝に明 記)
・「聖徳太子」は、「仏教かぶれのプリンス」という意味、九州にも大和にもこの種の流行に敏感な、ぶっとんだ、おにいさんは存在した、というだけのこと。(現在でもいますよね)
③「古事記」は平安時代初期の偽書だが、書紀未収録のエピソード(冊府元亀みたいな)や「ファンタジー」集として使われた。太安万侶を持ち上げるために。
④「日本書紀」は、ネイティブ漢文だが、遣唐使の時代、中国には伝わっていない。
⑤中国から、「日本国号」の使用許可はとれたが「天皇号」はとれなかった(申請すらできなかった)
⑥天皇号の使用を認められたのは、北宋になってから。
⑦「日本書紀」は、国内向けのプロバガンダ文書
⑧日本書紀は、あくまでも「ヤマト王朝」の歴史書。
それに、「九州王朝」の歴史を組み込んで作った。
・古事記は、太安万侶の子孫たちの、日本書紀講義のあんちょことして、作成された。(公式講義録は「弘仁私記」)
伊藤睦月です。いろいろ書き散らしたが、私の考えの骨格を示したつもりです。適宜バージョンアップしていきます。今まで、書き散らかしてきたのは、本文に対する、注釈やコラムに相当するものだと、思います。当面書き散らしが続きますが、そのうち、熟度が高まれば、本文編もかけるのではと思います。
今まで、個別テーマで論文を書いてきた研究者が、全体を見通した、教科書、通読書、を書くようなものかな。これじゃ、私の方が、よほど中二病、じゃん。
以上、伊藤睦月筆
【510】いくつかの仮説メモ(1):私の方法論(少し気負いすぎかも・・・)
伊藤睦月です。日本古代史に関する私の見解を述べるにあたって、いくつかの前提があるのでそれを急いで書き留めます。根拠史料(文献)は、私の記憶に基づくもので悪しからず。(以前、参考文献リストをアップしましたが、その後増えてます。50点はあると思う)
(1)中国側史資料と日本側史料が矛盾するときは、原則、中国側史資料を優先して、解釈する。
(2)中国側資料の中での優先順位は、①正史②野史・稗史(はいし)③その他百科事典的史料とする。
(3)学説としては、副島属国理論と岡田英弘説をベースにおいて、他者の説も、必要に応じて採用する。(できるだけ、引用文献等明示する)
(4)いわゆる「学会通説」で説明を試みるが、説明つかないときは、学会内外にこだわりなく、最も適切な見解を採用し、それでもつかないときは、自説を展開する。
(5)従来型の文献解読と考古学の成果をベースとするが、分析手法は、現代欧米と同じく、統計学、遺伝子学、土木学、気象学、海外学者の学説など、「学際的な知見」も自分のわかる範囲で採用する。
(6)伊藤睦月です。これは、他者説の批判検討でも同じことです。・・・少し気負いすぎましたね。なんか息切れしそう・・・ちょっと休憩します。(年寄りの冷や水かな・・・)
以上、伊藤睦月筆
【509】ブレイク:「邪馬台国畿内説」は政治的な邪魔が入らなければ、そのうちフェードアウトするだろう。
伊藤睦月です。前回、コメントした、邪馬台国論争ですが、すでに、学会内では「九州説」で決着済みのようだ。その間の事情は安本美典典『邪馬台国は、99.9%福岡県にあった』(2015年勉誠出版)に詳しい。この本に書かれてあることが事実なら、勝負はついている。でもなぜ・・・
(1)「邪馬台国は北部九州にあった」という学説は、魏志倭人伝にでてくる、鏡、鉄の矢じり、勾玉、𥿻、について各県の遺跡から出土する数を調べて、数理統計学上の分析をすれば、99.9%の確率で、福岡県に邪馬台国はあった、ということになるらしい。
(2)これについては、畿内説をとる考古学者からは、無視されているようだが、専門の統計学者からすれば、「勝負あった」ということらしい。たぶんそうなんだろう。
(3)それよりも、注目すべきは、箸墓古墳=卑弥呼の墓説で、考古学の分析手法である、「炭素14年代測定法」で箸墓古墳の築造年代が、卑弥呼と同時期というのが、最大の論拠だとされていた。これが否定されたことだ。
(4)そして、この説が、2009年に朝日新聞で全国ニュースで報道されると、「畿内説」で決まり、という風潮になっていった。
(5)しかし、安本前掲書によると、この説が日本考古学会で発表されると批判が相次ぎ、当時の考古学会の会長が、取材にきていたマスコミ各社に対し、「この説は、学会多数説でない」という声明を出したという。
(6)これを受け、「週刊文春」が追跡記事を書いたり、先の安本説が、月刊「文芸春秋」に掲載されたりしたが、(2013年11月号)世間一般には、「畿内説」で決まり、という風潮は消えず、今に至っているそうだ。
(7)この説を学会で発表したのが、「国立歴史民俗博物館(千葉県)の研究グループ」で、発表前に、当時朝日新聞の文化部記者だった、塚本和人記者に事前リークし、塚本記者は、地元桜井市教育委員会や奈良県教育委員会、学会の重鎮で、元日本考古学会会長だった、「大塚初重明治大学名誉教授」(1926-2022)への取材を加え、学会での発表とほぼ同時並行で、新聞記事にしたという。
(8)この箸墓古墳=卑弥呼の墓説はその発表直後から、「邪馬台国畿内説」をとっている研究者でさえ、その大半は否定的であり、「炭素21年測定法」もそのずさんなやり方が、専門家の批判を浴びている。
(9)そして、実際に「箸墓古墳」や「纒向遺跡」を発掘調査している「奈良県立橿原考古学研究所」の研究員たちからも、異論がでており、ここで、「九州説」で一件落着、・・・とはならないのが不思議。
(10)また、このPRのやり方について、「調査費予算」を確保するためだと暴露する、関係者も現れた。
(11)安本氏は、これは、「旧石器捏造事件」や「STAP細胞捏造事件」と同じことではないか、と嘆いているが、マスコミ的には、前2者より、盛り上がりに欠けるようだ。
(12)伊藤睦月です。この箸墓古墳問題が長引いた要因の一つに考古学会重鎮の一人が加担していたことがあるだろう。本人がどれだけ自覚的かは今となっては不明だ。安本先生の憤りはもっともですが。重鎮の生前中は誰も阻止できなかった。
(13)しかし、その重鎮もこの世を去った。今から本格的な見直しが始まるだろう。というか、いつのまにか畿内説はなかったことになり、教科書の記述もいつのまにか変更されているだろう。聖徳太子のように。釈然とはしないけどね。その日を楽しみにしていよう。
以上、伊藤睦月筆
【508】「東倭」とは、卑弥呼を共立した国のいずれかの可能性がある、と考えられる(伊藤ファンタジー)
伊藤睦月です。2054さんの投稿にあった「東倭」についての、考察を加えます。(基本、伊藤独自説、ファンタジーなので、お気楽に)
(1)「東倭」の朝貢は、宣帝(司馬懿)本紀に記載されているので、おそらく事実であろう。(邪馬台国卑弥呼の朝貢とならんで、司馬懿の業績の一つと認定された)
(2)しかし、邪馬台国に対する取り扱い(待遇)と東倭に対する取扱いは明らかに差がある。
①邪馬台国は、「親魏倭王」の金印を皇帝から、(使者に対し)親綬されているが、東倭の使者の対しては、出先機関の帯方郡太守から「辞令」を渡されただけ。明らかに両者の待遇に格差がある。
➁中国正史には、邪馬台国に関する記事を別に紹介している(倭人伝)が、東倭にはそういう記載がない。
➂また、中国正史には、邪馬台国のトップの名前(卑弥呼)が紹介されているが、東倭には王名不詳であり、地理的情報など、朝貢の具体的状況の記載もない。
(3)以上から、当時の中国王朝からは、邪馬台国と東倭とは、倭エリアにおける同等の存在とはみられていない。むしろ邪馬台国の勢力下にある国だとみなされたと思われる。
(4)そうであれば、候補国としては、魏志倭人伝に記載された邪馬台国の周辺国(20くらい)のいずれか、で日本海側から、使者が出せた国(玄界灘~朝鮮南西部経由は邪馬台国が押さえていたはず)
(5)邪馬台国の朝貢使は、238年、東倭の朝貢使は、240年に魏都にたどり着いているから、東倭は邪馬台国からみて東側(日本海側)にある、邪馬台国の服属国。
(6)出雲王朝であったとか、後年のヤマト王朝の勢力なのかはよくわからない。当時の卑弥呼を共立した国の地理的範囲による。(南の狗奴国については記載はあるが、東側の「敵対国」については記載されていないので、そんなに脅威がある勢力がいないか、いても無視できる程度のものであったと思われる。
(7)では、なぜ東倭の使者が魏に派遣されたのか。これは「指名権争い」であろう。238年以前は、遼東を支配した公孫淵の「燕」が設置した「帯方郡」に使者を派遣していたが、燕の滅亡に伴い、燕の帯方郡が消滅したので、直接魏に使者をだすことができるようになった。(ここまでは、西嶋定生の見解)
(8)そこで、東倭は、邪馬台国を出し抜き、先に使者を出して、魏皇帝から、倭国エリアの代表として公認されれば、倭国貿易の窓口(岡田英弘説)としての利権を支配できる、と考えたのではないか。
(9)しかし実際は、東倭の使者は邪馬台国に2年遅れで、魏都に到着した。宣帝本紀に記載されているので、出先の帯方郡ではなく、魏都には、到着したのであろう。
(10)魏皇帝側としては、邪馬台国につづき「東の大国」が朝貢してきたことを歓迎したが、金印をわたせず、倭国王の辞令しかわたせなかった。金印でなければ、辞令の重複などそれほどこだわらなかったのであろう。(後年の王武も辞令だけで金印をもらっていない)しかも、皇帝から直接ではなく、帯方郡に戻らせて、帯方郡太守から、渡す形式となった。これを「たらい回し」という。
(11)その後、東倭の「辞令」は、「親魏倭王」の金印の前では、地元(倭国エリア)で優位性が周囲や取引先の華僑から認められなかったのだろう。もしかしたら、倭国エリアに戻ってから捕縛され、辞令は没収された可能性もある。関係ないふりをしたことも考えられる。
(12)その後は、「東倭」からの使者が魏に届くことはなく、中国正史に記載されるほどの活動ができたかどうかは、わからない。卑弥呼死後の「第2次倭国大乱」における役割やその後の「邪馬台国東遷」との関係もよくわからない。
(13)なお、下條説『卑弥呼は、魏皇帝とも姻戚関係にあった、五斗米道の一族の姫君「張玉蘭」』である、という説については、検証するすべを持たないので、賛否は保留する。
(14)なお、岡田英弘説では「冊封体制」という学会通説のコンセプトを認めていないので、(『歴史とは何か』)岡田説に言及する場合は注意が必要。
以上、現時点(2024年11月30日)での、私の見解です。
伊藤睦月筆