ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
伊藤 投稿日:2025/01/09 22:48

【590】日本古代史解明の補助線(10) 天武直系から、天智直系へ

伊藤睦月です。続きを少々。

4-(1)孝謙改め称徳が770年に死亡したことによって、吉野盟約の6人の皇子のうち、5人の直系が絶えた。

4-(2)残るは、天智直系の志貴(施貴皇子)の息子、白壁王(709-782)が残っていた。天武派の豪族たちは、聖武傍系の井上内親王を皇后に、二人の間にできた子、他戸親王を皇太子にすることを条件に即位させた。光仁天皇である。光仁は高齢だったので、政権交代は遠くない、と思われた。ぼけ老人のふりをしていた、という。政敵を油断させたのだ。

4-(3)即位から5年後、775年に、井上内親王、他戸皇太子を謀反の疑いで、幽閉し、食事、水を一切与えず、餓死させた。

4-(4)そして、天武系の血が1ミリも入っていない、渡来人系の妻、高野新笠との間の子、山部親王を皇太子にたてた。781年光仁の跡を継いで、天皇に即位し、桓武(737-806)と名乗った。これ以降、天武系の天皇は出ていない。志貴皇子の血統は絶えることなく継続し、現天皇家までつながっている。

5-(5)ここでクイズ、光仁、桓武で天智系が完全復活したが、そのときなぜ、大友皇子の名誉回復をしなかったのか。

5-(6)答え(私見)光仁の即位により、志貴皇子の血統が直系となったため、大友皇子の血統は傍系になり、皇位継承資格を失った(もしくは、名誉回復により、天智の血統間での天皇位争いが勃発するのを防止するため)

5-(7)大友皇子の名誉回復は、明治まで行われなかった(弘文天皇号を追贈)

5-(8)大友皇子の直系の曽孫が、淡海真人三船(おおみのまひとみふね722-785)である。懐風藻の編纂や漢風諡号(かんふうしごう)を定めたとされる。真人は皇族に与えられる姓(かばね)。格は高いが、役職が制限されていたらしく、三船は、いわゆる「臣籍降下」(女性皇族が皇籍を離脱する、「臣籍降嫁」とは別)して淡海姓をもらい、官位を望んだ。生活のためであろう。学問で身を立てようともしたらしい。天武系全盛の時代だったから、現実的な選択をしたと思う。本人の心中はわからない。

以上、伊藤睦月筆

5-(9)懐風藻の冒頭の漢詩が大友皇子の作で始まっているのは、先祖への追慕の意味がある。それ以上の政治的意味があるかどうかは不明。

5-(10)漢風諡号は、持統時代に定められた和風諡号と合わせて、歴代天皇の出自と業績のエッセンスがまとまっていると思うが、彼自身及び天智系の天皇たちの思惑も反映されているかもしれない。

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/09 16:57

【589】日本古代史解明の補助線(9):天皇位継承の大原則 吉野盟約

伊藤睦月です。

1-(1)天武・持統朝における、天皇位継承者の範囲を決定したのが、「吉野盟約」(679年)だ。672年の壬申の乱から、7年後である。

1-(2)天武天皇は、吉野盟約の2年後、681年に日本書紀の編纂を命じている。

1-(3)この7年後(686年)に天武天皇が亡くなる。「7」という数字になにか意味があるかどうかはわからない。

1-(4)720年日本書紀が完成した。

2ー(1)吉野盟約によって、天皇位継承候補者は、6人に絞られた。天武直系4名、天智直系2名である。天智直系が入っていることに注意。

2-(2)その6人は以下の通り

※天武直系

①草壁皇子(662-689)

②大津皇子(663-686)

③高市(たけち)皇子(654-696)

④忍壁(おさかべ)皇子(?ー706)

※天智直系

⑤川島皇子(657-691)

⑥志貴皇子(668-716)

2-(3)伊藤睦月です。継承順位はおおむね番号通り。母の身分順で、年齢順ではない。

2-(4)天武以降は、上記6人もしくはその直系しか天皇位になれない、ということ。江戸時代の徳川御三家(尾張、紀伊、水戸)、御三卿(一橋、田安、清水)みたいなもの。この区別は厳重に守られた。

2-(5)この盟約では、天武と持統の子、草壁皇子が、次の天皇に決まった。他の皇子は傍系となった。この時点では。

2-(6)しかし、草壁は天皇位に着く前に早死にしてしまった。

2ー(6)持統は、草壁の直系(文武)に天皇位を継がせるため、第2順位の大津皇子を謀殺し、自ら傍系の天皇になり、文武が即位するまでに、他の傍系の天皇(元明、元正)でつないだ。性別は問わなかった。

2-(7)第3順位の高市皇子は殺されなかったが、息子の長屋王(684-729)は、草壁直系(聖武)を即位させるため、藤原四兄弟によって、一族根絶やしにされた。藤原一族の妻子は、助けられたが、子孫は残せなかった。

3 藤原仲麻呂(706-764)の失敗

3-(1)聖武の直系である孝謙女帝(718ー770)は、子供を産まなかったので、天武直系が絶える恐れがあった。

3-(2)そこで、当時の最高実力者藤原仲麻呂(恵美押勝)は、孝謙を退位させ、舎人親王の子、大炊(おおい)王を天皇位につけた。舎人親王は、天武の直系であるが、吉野盟約のメンバーではない。つまり対象外から天皇を選んだ。

3-(3)これには、当時の豪族を代表して、橘奈良麻呂(721-757)が反対した。橘奈良麻呂は、橘諸兄(684-757)の子。橘諸兄は、仲麻呂の祖父、藤原不比等の正妻、県犬養三千代の連れ子だ。

3-(4)藤原仲麻呂は、橘奈良麻呂の関係者を皆殺しにして、独裁権を確立、恵美押勝と改名して、大炊王即位を強行した。

3-(5)その藤原仲麻呂も、孝謙派の豪族たちの反発にあって、失脚、暗殺された。

3-(6)孝謙は、大炊王の天皇位を剥奪して(淡路廃帝)孝謙天皇として即位した。淡路廃帝は、仲麻呂の死の翌日に死亡した。暗殺説が有力。

3-(7)明治に入って、名誉回復。大友皇子(弘文天皇)ととともに、淳仁天皇と追贈された。

小休止、以上伊藤睦月筆

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/09 14:13

【588】日本古代史解明の補助線(8):傍証としての「日本書紀」(5)雄略大王について

伊藤睦月です。続けます。

(1)雄略大王=ワカタケルは、小説家の関心を呼ぶような題材らしく、池澤直樹氏(芥川賞作家)が日経新聞に連載した「ワカタケル」が話題を呼んだことがある。

(2)雄略大王の業績は、神武東征以来の有力豪族の多くを排除して、「ヤマトのアマ氏」の優位性を確立したことだ。

(2)ー2 雄略大王は、葛城氏、吉備氏、平群氏と いう武内宿禰由来の豪族たちの宗家を、謀略と戦闘で次々と排除した。戦闘は圧勝だ。雄略の晩年には、彼に面と向かって逆らう豪族は誰もいなくなった。

(2)ー3 雄略の覇権に寄与したのが、蘇我氏、大伴氏、だ。物部氏も大勢力だが、中立を保った。

(2)ー4 雄略大王の「軍政」担当が蘇我氏だ。蘇我氏は、倭国王武と好太王の激闘のあおりを受けて、列島に渡来(避難)してきた、難民たちを組織化した。(帰化人と呼ばれた)

(2)ー5 蘇我氏は、計数に明るい帰化人の部族(秦氏、西文氏など)を、傘下に入れ、軍事や騎乗が得意な部族を、大伴氏の傘下に入れて騎馬隊とした。(戦国時代の常備軍、馬回り衆に近い機能を持った)騎馬隊は当時の最強兵器である。兵器の優位性が勝敗を左右するのは古今東西同じである。

(2)ー6 蘇我氏は、応神大王のころから、大王家の税(米)と財産(宝物)の管理、出納をしていたというから(『古語拾遺』)、明らかに華僑由来だ。このころはまだ、政治の表には出てきていない。出てくるのは継体朝以降だ。馬具職人(後に仏師)の鞍作一族とも同族であろう。

(2)ー7 大伴氏は、東征の時から、神武につき従っていたから、神武の用心棒、親衛隊長のような関係だったと思われる。雄略の最も信頼厚き武闘派一族。「軍令」を担当し、蘇我氏が編成した騎馬隊を率いて、戦いの先頭に立った。後年、大伴金村が、継体大王擁立に大きく貢献する。それ以降はぱっとしない。

(2)ー8 物部氏は、葛城、平群滅亡後の最大勢力。ヤマトへの先行華僑、ニギハヤの後裔で、大王家とはほぼ同格。大王家が、名門倭国のアマ氏と同族ということで、かろうじて、大王家が優位にたった。物部氏は、雄略存命中はおとなしくしていたようだ。また、物部は「モノノフ」と言われるように、政治よりも軍事が得意だったらしく、欽明大王時代に政治力で上回る蘇我氏に後れを取ることとなる。

(3)雄略大王が独裁権を握った後は、この種の独裁者によくあることだが、一種の自家中毒を起こしたらしい。北九州の倭国や朝鮮半島を攻略するには、まだ力不足だったのだろう。やつあたりみたいに、近親者を殺しまわり、血縁がほとんどいなくなった頃に急死した。危険を感じた身内もしくは、旧来の豪族たちの合意で、殺されたのであろう。織田信長の最期とイメージが重なる。(倭国や外国勢力の関与も疑える)

(4)雄略の死後、しばらく小康状態になり、従来の豪族(華僑と原住民の王)たちの合議で、政治が行われたのであろう。こういう体制では、対外戦争はできない。目立った事跡も書記にはない。播磨王朝もそれだけ取り出して論じる意味がわからない。

(5)そのうち、武烈大王の死により。応神・仁徳大王の直系が絶えたので、同じ応神の血統である、越前の豪族、継体が大王に招かれた。応神の直系の変更が起こった。(後年の天武→天智という、舒明直系の変更とイメージが重なる)

小休止、伊藤睦月筆

 

伊藤 投稿日:2025/01/09 11:58

【587】日本古代史解明の補助線(7):傍証としての「日本書紀」(4)倭の五王と山門国の大王たち(河内王朝)は別人である。

伊藤睦月です。前回の続き。

3 「倭国」と「大和国」との分かれ道(1)

3-(1)私、伊藤は、いわゆる「河内王朝」は、内政重視による国力充実の時期に当たり、いわゆる外に出ていくのは、継体朝以降だと考える。その理由は以下の通り。

①日本書紀には、この時期、「外征」の記事がない。当時、倭の五王は、朝鮮半島に積極的に進出し、高句麗と激しい戦闘を繰り広げていたことは、朝鮮側の史料「三国史記」「三国遺事」でも明らか。また、当時の中国南朝(宋)にまで、上記内容の上表文を提出して、柵封を受けているのだから、建前上、「海外向け」の書紀で取り上げないのはおかしい。この倭の五王たちは、大和国の大王たちとは、別系統、とみるべき。

②また、教科書等に良く掲載されている、倭の五王の系図と河内王朝の系図(宮内庁HP)が一致しない。見て見ぬふりをしているとしか思えない。

③倭の五王の最後、武は雄略大王だというのが、定説だが、金石文(刀剣等に刻み付けられた碑文など)にある「ワカタケル」=雄略大王であっても、ワカタケル=武とする根拠は、同時代というほかは、なにもない。

④「ワカタケル」という名は、関東と九州の遺跡の両方から出土されたことから、河内王朝の雄略だという推定は支持できる。(北九州の倭国の勢力が関東まで及んでいたとは思えないから)

⑤学会通説は、「倭国」(もしくは九州王朝)の存在を認めていないから、武=雄略としている立場を崩さない。しかしそれがために、河内王朝以後の王統のつながりをうまく説明できないでいる。倭国と山門国の二国併存説(同旨副島、古田)なら、「合理的な説明が可能。これについては後述する)

3-(2)大規模土木工事の記事は、仁徳大王の項に集中しているが、その後も大型前方後円墳の建設は続いているから、仁徳以後も、メンテナンス、新田開発工事はある程度継続されたと考える。それにしても、行政らしい事跡は仁徳以外に出てこないのは、ルーティンな作業だけで、目新しいことはなにもしていない、ということ。国力充実に専念していた、と考えるのが妥当だと考える。但し、雄略大王の時代になると少し、様相が変わってくる。

3-(3)履中、反正、允恭、安康、雄略、の記事は、いずれも、国内問題ばかりである。いわゆる不倫や近親相姦、略奪婚の話が多く、いわゆる身体障碍を思わせるような大王もいて、とても、「先祖代々甲冑を着て、朝鮮半島で戦いを繰り広げた」(武の上表文)とは、思えないような牧歌的な記述が続く。

3-(4)以前、引用した考古学者の関川尚功氏も、奈良県内の遺跡の多くを発掘調査してきた者の「実感」として、「大陸・(朝鮮)半島情勢とは無縁の近畿・東海地域」と結論付けている。(『考古学から見た邪馬台国大和説』)

3-(4)ほかの大王とは、一味違う、雄略大王

①雄略大王の代になると、単なる「略奪婚」にとどまらず、自分に逆らう豪族たちを、手段を択ばず、その女性ともども滅ぼしている。しかも、瞬殺、圧勝である。

②学会通説でも、雄略大王の代に当時の有力豪族を滅ぼして、一時的にせよ、独裁権を確保したとみる説がある。「古代の織田信長」と例える人もいる。

③古代人にとっても、雄略大王は「一味違う」大王と恐れられ、憧れもされたようで、万葉集の冒頭は、雄略大王の長歌から始まっている。また、雄略(ワカタケル)を主人公とした小説もある。

④しかし、なぜ、そうなのか、という考察はないようだ。次回、私見を述べる。

以上、伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/09 10:04

【586】日本古代史解明の補助線(6)::傍証としての「日本書紀」(3)

伊藤睦月です。前回の続き。

2 奈良盆地の「人口爆発」(続)

2-(2)巨大前方後円墳は、古代の治水・農業灌漑施設だ。

 ①2019年に世界遺産登録された、大仙陵古墳(仁徳陵)をはじめとする、百舌鳥・古市古墳群は、高校教科書などでは、「強力な王権の存在を伺わせる王墓」といった説明が付されることが多い。しかし、本来目的は、河内平野の治水と農業灌漑用の施設だ。後にこのプロジェクトを指揮した、大王たちの業績を記念するため、その施設跡に王棺が収められた。土木工学の専門家で、国土交通省技官だった、長野正孝氏は、専門家なら一目でわかるという。(『古代史のテクノロジー』2023年PHP新書)

②また、ゼネコンの大林組の調査で1991年に、百舌鳥・古市古墳群と、奈良盆地をつなぐ運河(古市大溝、丹比大溝)が発見され、さらにいくつかの運河跡の存在をつきとめている。これも考古学の新しい成果(歴史サイエンス)だが、学会主流で積極的に取り上げられた形跡はない。そのうちなし崩し的に認知されるだろう。私の推論を進める。

③このプロジェクトに従事したのは、中国から渡来した土木技術者集団(帰化人)で、彼らは黄河や長江の治水技術を山門国に、導入した。北九州にはそういった大規模施設の遺構がみられないので、渡来しなかったか通過しただけだろう。ちょうど、高句麗の好太王と倭の五王が、朝鮮半島南部で死闘を繰り返していた時期(謎の4世紀)にあたる。長野正孝氏は、そういった事例として、ほかに、大和川、龍田川、富雄川、佐保川、蘇我川などを結ぶ、「奈良湖」や、京都巨椋池、岡山穴の海と津寺遺跡などを挙げている。彼らは、難民として渡来してきて、華僑系の有力豪族、蘇我氏によって組織化されたのであろう。蘇我氏が急速に存在感を増してきたのは、河内王朝以降である。技術者集団が、どの氏族に当たるかは、手元に資料がないので後日の宿題にさせていただきます。

④仁徳大王は、奈良盆地にあふれていた東国からの流民たちを工事に使役し、完成後は彼らに新田を与えた。流民たちは仁徳に大変感謝し、崇めたに違いない。

⑤西からの難民(渡来人)たちもいただろうが、東からの流民の方が数が多くて、彼らに与える土地がなかったのかもしれない。後に彼らの多くは、信州や関東に移され、そこに土着し、武装した彼らが、いわゆる関東武士団を形成することになる。そのときに、先の農業技術者たちと、騎乗のスキルを身に着けた者たちが、難民たちを率いて行ったものと考えられる。

⑥私、伊藤は、江上波夫が、この謎の4世紀に発生したとする、いわゆる、「騎馬民族王朝征服説」は採用しない。理由は、江上による「騎馬民族」の定義が厳密すぎるから。江上は、騎乗のスキルを身に着けた遊牧民だけが「騎馬民族」であるし、漢民族などの農耕民由来を、騎馬民族とはかたくなに認めなかった。但し日本人は本来農耕民であるが、ある時期「騎馬民族的」になったという。(武士の登場、大日本帝国など)

⑦古墳時代後期の出土品は、江上が指摘するように、馬具や馬具を身に着けた戦士の埴輪が数多くあるが、いずれも、農耕民由来の「鐙(あぶみ)」などの馬具を使用しており、江上のいう「騎馬民族」の定義に当てはまらない。遊牧民が鐙を使用しだすのは、もっと後、12世紀モンゴル帝国のころからだとされている。

⑧また、その後に日本列島で使用された馬は、すべて去勢されていない、牡馬(おすうま)であり、これは、農耕民由来の特徴である(欧州でも同じ。去勢馬を採用したのは、11世紀の十字軍遠征で、イスラム騎馬隊を真似た、とされる。)。去勢馬を使用しだしたのは、明治以降である。軍馬としては、日本陸軍騎馬隊の創設者、秋山好古(坂の上の雲の秋山真之のお兄ちゃん)がフランス騎馬隊を真似て、導入したとされている。但し、競走馬などの特殊用途では、去勢されていない「牡馬」が採用されているようだ。

⑨一方で、遊牧民由来は、当時から牝馬(めすうま)か、去勢馬を使用していた。宦官の風習なども、これが起源とされている。

 伊藤睦月です。これらの理由から、謎の4世紀に渡来した、「騎馬民族」なるものは、農耕民由来である、ゆえに、江上が定義するそれとは別(江上は生涯この定義にこだわった)であるとされ、日本考古学会は正式に江上説を否定した。学会内では解決済み、とされた。江上の自滅だ、と私、伊藤は考えます。

小休止、以上。伊藤睦月筆

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/08 13:39

【585】5日本古代史解明の補助線(5)::傍証としての「日本書紀」(2)【584】の続き)

伊藤睦月です。前回の続き

1 内政重視の時代(いわゆる、河内王朝、播磨王朝から継体王朝へ)

1-(1)応神大王の即位後、大和国はしばらく、静かになる。崇神大王以来数代にわたる(たぶん100年くらい)外征により、国力(経済力、軍事力)が枯渇したのだ。

1-(2)度重なる波状攻撃により、「倭国」を一応支配下に置いたが、完全に屈服させられなかった。本来の目的であったはずの、倭国の外交権(中国、朝鮮半島)すなわち、貿易利権(朝貢貿易)を奪えなかった。中国への朝貢は、「倭国」の役割となった。これは、663年白村江の戦いで、倭国が消滅するまで続く。反乱名目で、筑紫国造磐井を殺した時も、奪えなかった。なぜか。

1-(3)私伊藤は、一番の要因は、山門国側に外交(貿易)に関する、ヒューマンリソースが不十分だったから、と考える。

1-(4)岡田英弘説は、日本列島は華僑の居留地がもとになって、国を構成したとする。私、伊藤は「華僑と原住民の王(酋長)の協働」で、国が出来上がったと考える。横道にそれるので、後述する。

1-(5)私伊藤は、倭国と山門国それぞれの「華僑の質」に注目したい。当時の外交、貿易を行うためには、それ相当の知識、教養、財力、人脈が必要だ。倭国には、そういう華僑人材が多数集まっていただろう。ビジネスチャンスがあるところに、有望な人材が集まる。当時日本列島内では、倭国だ。

1-(6)一方、同じ華僑だといっても、列島内陸部に行けば行くほど、「質」が落ちる。諸般の事情で、中国大陸や朝鮮半島にいられなくなった華僑が、「一旗揚げようと」野心をもって、列島奥地へと進んでいく。そういう状況があったと思う。中国語ができれば良いというものではない。

1-(7)私、伊藤はいわゆる「神武東征」なるものも、倭国の辺境である日向で食い詰めた倭国傍流の王族が、「一旗あげに」東に向かった、王族だから、簡単な読み書き計算ぐらいはできただろう。あとは、知恵と度胸があればよい。後で補足する。

2 奈良盆地の「人口爆発」

2-(1)もう一つの問題は増え続ける奈良盆地である。いわゆる4世紀にはいると、東国からの人間の流入が著しくなり、奈良盆地だけでは、流民たちを食わせられなくなった。当時の農業技術では、これ以上、農業生産量が増えなくなった。もっと農地が必要だ。生駒山地を越えて人があふれ出した。彼らを食べさせなければならない。でも戦争で略奪してくるほどの軍事力はない。そこで、新田開発の場所として、選ばれたのが、後に河内平野と呼ばれる、大湿地帯だ。この大規模開発をリードしたのが、「オオササギノミコト」だ。後世、「仁徳」という諡号が贈られた。

小休止:以上、伊藤睦月筆

伊藤 投稿日:2025/01/08 10:11

【584】日本古代史解明の補助線(4)::邪馬台国は東遷していない3(傍証としての「日本書紀」【583】の続き)

伊藤睦月です。あくまで傍証ですが、日本書紀は、「東遷」よりも「大和国西征」の方を重視している、といえる。

1 日本書紀(以下「書紀」という)には、「東遷」を思わせる記事が3回(実質1回)しかないが、「西征」の記事  回あり、記述内容もより筋道経っている。

1-(1)東遷記事

①神武東征

②神功皇后・応神大王の大和帰還

③壬申の乱

伊藤睦月です。岡田英弘博士は、上記②と③の行程を合わせると、ほぼ①の行程と重なることから、①は、②、③の史実を反映させたフィクションであろうとしている。(『日本史の誕生』)

1-(2)西征記事

①四道将軍の派遣(崇神大王)

②第1次九州遠征(景行大王)

③クマソ暗殺行(ヤマトタケル)

④第2次九州遠征・第一次新羅遠征(神功皇后、仲哀大王)

⑤磐井の反乱鎮圧(継体大王)

⑥第2次新羅遠征(推古大王)

⑦白村江の戦い(斉明大王、中大兄皇子)

1-(3)伊藤睦月です。書記は、近畿の大和(山門国)を統一した、「ヤマトのアマ氏」が、域外に膨張していく様を段階を踏んで、記している。話の筋が通っている。⑦を除いた外征記事は、唐突感があって、本当に行われたか、怪しんでいる。⑤の反乱については、古田武彦は、「反乱」ではなく、「九州王朝の制圧」ではないかとしている。古田説に基本賛同するが、これについては、後で補足説明する。

1-(4)上記「征西」について、補足すると、

①畿内を統一した、「ヤマトのアマ氏」は、まず、部下(四道将軍)を各地に派遣し、ヤマトの支配下に置こうとした。(説得と武力を使い分け、おおむね成功したようだ)

②最も手ごわい相手である「倭国」(当時の最先進国)の勢力範囲である、九州に対しては、景行大王自らが、赴き、倭国エリア(博多平野、筑紫平野、球磨平野)を除く、地域を服属させた(原則武力行使せず、大王軍の巡回・威圧行動で従わせた)

③面従腹背の態度を示した、クマソタケルに対しては息子のヤマトタケルを派遣して、暗殺した。これで、倭国の「外堀」は埋まった。

④神功皇后、仲哀大王が、ヤマト、出雲、吉備、越前から動員した兵員で、「倭国」を攻め、従わせた。

⑤諸国の兵員は、新羅遠征名目で集められたのだろう。これを知らなかった、仲哀大王は、武内宿禰と共謀した、神功皇后に殺された。形ばかり(たぶん八百長)の新羅遠征を終えた神功は、武内宿禰との子、応神を産んだ。

⑥神功皇后は、応神とともに、山門国に帰還しようとしたが、仲哀大王の本当の息子たちに阻まれた。激戦の末、息子たちを殺して、山門国に帰還し、応神大王を即位させた。(「王の帰還」ロードオブザリングのパターン)

1-(5)伊藤睦月です。これから、「仁徳大王」の直系争いの記事、「河内王朝」「播磨王朝」の話になる。書記の舞台が、奈良盆地から大阪平野に移るが唐突感、不自然さは免れない。そこで、応神大王とは別の血統とみる見解もある(岡田英弘説)が、これについては、後で私見を述べる。

小休止、以上、伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/07 10:01

【583】日本古代史解明の補助線(3):邪馬台国は東遷していない(2)

伊藤睦月です。邪馬台国東遷説をどう考えるかが、解明のカギとなります。

1 「謎の4世紀」に人口が北九州より畿内の方が多くなっている。

1-(1)まず、考古学の知見から。3世紀の邪馬台国の時代(弥生時代後期)では、鏡の出土が北九州が圧倒的に多いが、5世紀(古墳時代)以降は北九州からほとんど出土せず、畿内の出土が圧倒的に多くなっている。(安本美典『データーサイエンスが解く邪馬台国』)

1-(2)当時の米の生産量から古代の人口推計をすると(米穀安定供給確保支援機構)

1-(2)ー①:縄文時代後期→弥生時代→古墳時代→江戸時代で推計する。

②九州:10,000→106,300→710,400→3,300,700

③近畿:4,400→109,400→1,217,300→4,941300

であるとされている。(金澤正由樹『古代史サイエンス2』2024年鳥影社)

1-(3)伊藤睦月です。東遷論者はこれらのデーターから、近畿の人口が増えたのは、なんらかの要因で、北九州から人の移動があったからだとする。(この観点からすれば、いわゆる騎馬民族王朝征服説も同種の論理構成だとわかるだろう)

1-(4)しかし、九州もそれなりに増えているのである。東遷論者に従えば、九州の人口が相当数減少していなければならない。皆既日食がそんなに恐れられたのなら、北九州がゴーストタウン化しても不思議ではない。この現象は、畿内の人口増加率が、九州のそれを上回ったとみるべきで、東遷論者は、邪馬台国九州説に引き寄せたいがために、こういったデータを無視している、と考えざるを得ない。

2 畿内の人口増は、東国(伊勢、美濃、尾張、越前)からの流入が原因

2-(1)最初の前方後円墳であるとされる、箸墓古墳(邪馬台国畿内論者の最後の砦)を含む、纒向遺跡を発掘調査した、関川尚功氏(元奈良県立橿原考古学研究所)の分析によると、

①出土品(土器)の大半が東海地域由来で、北九州・西日本由来がほとんどない。

②北九州由来の鉄器の出土もほとんどない。

③そのほか、大陸系遺物の出土も、北九州と比べて圧倒的に少ない。

などから、畿内(奈良盆地)は、北九州とは、ほぼ関係なく発展した、としている。(関川尚功『『考古学からみた邪馬台国大和説』2020年梓書院)

2-(2)伊藤睦月です。以上により、私伊藤は、畿内の人口増加は、北九州からの人口移動によるものでなく、むしろ、東国からの人口流入と、農業技術の進歩による、米生産高が、北九州を上回ったためと考える。(同旨関裕二氏)

2-(3)なお、関裕二氏は「歴史研究家」でなく「歴史作家」と自称しており、最新の学説や歴史データを巧みに取り入れて、自説をアップデートしていることに注意。

2-(4)伊藤睦月です。最新の考古学や歴史サイエンス(農学)の研究成果を踏まえると、邪馬台国東遷説は成り立ちそうにない。もはや、「邪馬台国九州説VS畿内説」の図式で、議論する段階は終わっている、と思う。

2-(5)以上を踏まえると、文献史学の解釈も変わってわってこざるを得ない。「考古学の問題は考古学で」だが、考古学の知見が文献史学の知見を変えることはありうる。(例えば、1980年代、古代出雲の発見)次回は東遷論に関して、「日本書紀」の記述を検討する。

以上、伊藤睦月筆

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/06 10:04

【582】ブレイク:渡部昇一について(ちょっとほろ苦い昔話)

伊藤睦月です。渡部昇一(1930-2017)について。少しばかり・・・読書談義ばかりで恐縮ですが。

(1) 私が最初に読んだのが。『知的生活の方法』(講談社現代新書1976年)。それから、1990年くらいまではよく読みました。高校生から、20代ですね。渡部の著書だけでなく、彼の勧める本(ハマトン『知的生活』、スマイルズ『西国立志編』や保守系知識人の本など)もよく手に取りました。渡部の本以前は、岩波新書などの左系が多かったが、渡部の本で、そっち系にのめりこみ、のぼせることなく、生活破綻を免れたようなものです。そういう意味では、感謝しています。

(2)30代になり、バブルも崩壊した中、中堅公務員として仕事も充実するにつれ、だんだん読まなくなりました。司馬遼太郎とか他の保守系の論客たちもそうでした。なんか嘘っぽい。最後まで残ったのが、小室直樹博士、山本七平、山本夏彦の本です。そうして、35歳で副島先生の本に出会い、上書き修正されて、今に至っている。

(3)副島先生も「続英文法の謎を解く」では、渡部昇一を意識されていたようですが、後年、「渡部は、イエズス会の手先だ」と見切られて、私もああそうか、とガテンしました。

(4)渡部は、『知的生活の方法』で上智大学の図書館に住み込んだ、貧乏暮らしを勉強で脱出した、みたいなことを書いていましたが、それだけではない。渡部昇一は、講談社の一族から嫁を貰って、それから羽振りよくなって、大学図書館生活から脱出したのだ、ということを彼の大学の同僚の人(予備校の講師をしていた)から、聞いてはいました。で、なんのご縁で結ばれたのか。私の推測ですが、「イエズス会つながり」でしょう。それしか接点がない。一介の私大教員が、15万冊、しかも高価な稀覯本(きこうぼん)を買えるものか。空調付きのそれだけの書庫も整備できるわけがない。ひがみも半分あります。正直。

(3)日本クリスチャン(特にカトリック)の言論、知識人で注意しなければ、いけないのが、「二重忠誠問題」です。彼らが、天皇制を擁護するときには、気をつけろ!副島先生から、学んだことです。(私の理解です)

(4)それからは、スーとつながりました。私が20代のとき感心した、「甲殻類の研究」なんて、ハンナアーレントの焼き直しではないかなどなど。いずれにせよ、私の書棚の相当部分を占めていた、渡部の本たちは、「ブックオフ送りの刑」になり、今では、手元には1冊もありませんし、PHP文庫などで時折みかけても食指が動きません。ネトウヨなどが流行る前に、副島先生の本に出合えたことが、とにかく、幸運でした。

という、昔話でした。

次回から、通常モードに戻ります。

以上、伊藤睦月拝

 

伊藤 投稿日:2025/01/05 08:10

【581】【579】お正月らしい投稿を発見した(2025年1月4日について、かたせ2号さん、今年も快調そうですね。

伊藤睦月です。かたせ2号さん、お元気そうで何よりです。今年もよろしくお願いします。

 さて、あさま山荘の事件の時は、私は中学2年でしたが、当時プラモデルつくりに夢中で、テレビは終日つけていましたが、それほど関心もなかった。ただ、異様な雰囲気は感じており、大きな鉄球が建物を壊していく様には、さすがに見入ってしまいましたなあ。

 連合赤軍について書かれた本は、佐藤優と池上彰の対談本を読みましたが、むつかしく感じました。セクト間の関係がよくわからない。そこで、いつか読んでみたいと思うのは、『レッド1969-1972』(山本直樹)というマンガです。結局、読書談義かよ。ですが、ここで思い出したことを一つ。私の職場の上司から、酒席で一度だけ聞いた話。

(1)その上司は、私より、ほぼ一回り上。いわゆる、「団塊の世代」「全共闘世代」です。

(2)東大安田講堂事件(1969年1月)の時、その上司は都内私大の、ゼンガクレンの委員長(本人談)で、学長室を占拠し、そこの電話を使って、連絡を取り合っていたそうです。安田講堂事件の時、東大にだけ立てこもったのではなく、都内の大学の多くで学生たちが暴れていました。

(3)テレビで、安田講堂が陥落する前に、どこからか電話連絡が入り、その上司は直ちに大学を脱出、横浜国立大学の学生寮に数日潜んでいたそうです。

(4)その学生寮で同室だったのが、「坂口弘」、あさま山荘事件の首謀者の一人で、確定死刑囚です。もう執行されたかどうかは、知りません。

(5)坂口と上司が、その夜、何を話したのか、上司は話しませんでした。翌朝、二人は学生寮を出て、坂口は北へ。上司は西へと向かい、それきり、でした。坂口は、ほかの仲間と合流し、リンチ殺人事件とあさま山荘事件を引き起こしました。

(6)上司は、各地の工事現場で働きながら、故郷にたどり着き、地方公務員になりました。

(7)当時、県庁や市役所は、身辺調査をしていませんでした。警察と外務省はしていたようです。当時の外務省試験(国家公務員試験とは別に実施していた)の募集要項には、「2次試験合格者には身辺調査をします」と書いてあった時代です。上場企業は普通にやっていたようです。「三菱樹脂事件」という憲法訴訟もありました。

(8)今でも企業の身辺調査、やられているんじゃないかな。反社関係者の排除もあるし、ただそのやり方は巧妙になっている、と思います。

(9)当時、地方の役所は、逮捕歴さえなければ、試験の成績で入れました。今と違い面接重視ではありませんでした。政治家のコネを使ったのかもしれません。もともと高学歴で頭もよい人たちでしたし、学生運動の活動歴のある者は、かえってリーダーシップがあってよい、という人すらいました。体育会系のノリですね。逮捕されないという、要領の良さも大事です。こういう人たちは、結構出世していましたよ。民間の人たちからも、「さばけた役人」と評判の良い人が多かった印象です。世間話も上手で社交的な人が多かった印象です。私の上司もそこそこ出世して、無事定年を迎えて退職していきました。それから、お互い没交渉です。ご存命であれば、後期高齢者です。

(10)私にその話を一度だけ話してくれた上司は、ヘビースモーカー、ヘビードリンカーで、今なら確実に依存症です。この時もべろべろに酔っぱらっていました。カラオケマイクを握ったときは、「風に吹かれて」という英語の歌しか歌いませんでした。べろべろのくせに音程は外れていなかった。仕事中に時折見せた、「潔癖な正義感」と「わざとらしい卑屈さ」が妙に懐かしい。

 お正月になると、余計なことを思い出しますね。すぐ忘れてしまう。今度思い出すのはいつだろう。どうでもよい

けど。

以上、伊藤睦月筆