ふじむら掲示板
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Loginはこちら【620】本当は、「勝ちに不思議の勝ちあり」も滋味があるコトバなのだが。
日本人以外ならばむしろ、勝ちに不思議の勝ちあり、のコトバに、神さまからの盛大な恵みを感じいることだろう。
以下はすべて引用。
https://ksien.com/2021/10/07/no_wonder/
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」
肥前国第9代平戸藩主、松浦清の言葉。
東北楽天ゴールデンイーグルスの名誉監督、野村克也氏の座右の銘として話題になりました。
「負けるときは、負けにつながる必然的な要因がある(不思議な点はない)」
しかし、「勝つときには、(どうして勝ったのかどうも思い当たらないという)不思議な勝ちがある」ということである。
負けにつながる必然。
偶然に負けることはない。
事業承継にも当てはまるのではないか。
そんな思いを確認しるために、大学院で研究することにしました。
世界には、有史以来無数の企業が存在しています。
その中で、現存している企業数は少ない。
それぞれの企業が、事業承継の時期に事業を引き継がなっかた、もしくは、引き継げなかった何らかの原因があるのではないか。
その原因の一端がわかることで、望まない廃業が減少できるのではないか。
そんな思いが私を研究に駆り立てています。
世界最古の企業は、西暦578年創業の金剛組。
四天王寺建立のため聖徳太子によって百済より招かれた3人の宮大工(金剛、早水、永路)のうちの1人である金剛重光により創業。
少なくともこの時代以降、企業は存在していたし、いろいろな企業が創業し、廃業している。
そのすべてを明らかにすることはできないが、少しでも、ほんの数例でも明らかにできれば、意味があるのではないでしょうか。
先行研究で明らかになっていることもありますが、事例研究をするのは一人の研究者では難しい。
幾人もの研究者が、時代を超えて、事例研究を重ねることが重要であると思います。
事業承継支援を、事業として行っているからこそ、その事例研究に参加するのは、ある意味義務ではないかと。
失敗の原因は、個別に見れば、相関性や類型化は難しくても、事例を積み重ねることで、精度の高い研究になると思います。
「失敗」のとらえ方は人それぞれかもしれません。
しかし、事業を継承できなかったという事実は、その通りでしょう。
時代・環境・運等、いろいろな要因はもちろんあると思います。
単一の要因ではなく、複数の要因が重なった結果というのも、そうでしょう。
だからこそ、一つ一つの事例を検証し、確認していくこと、その作業を継続していくことが重要だと思います。
先行研究を通じて、過去の先輩たちと会話をし、研究結果を残すことで、後輩に託すことができる。
研究のだいご味はこの点ではないでしょうか。
どこまでできるかわかりませんが、自分自身の可能な範囲で研究を続けていきたいと思います。
【619】柿本人麿とは何者か、7
『日本書紀』斉明紀に登場する日本国と倭国
斉明天皇の在位は西暦655年から661年の七年間、661年正月六日、天皇は筑紫行幸の旅に就く、その二日後大田皇女が船上で女子(大来皇女)を出産した。この事は前に論じた。
今回論じるのは、斉明紀には、日本国(近畿大和王朝)と倭国(筑紫王朝)が別々の存在として登場していると云う事実である。
斉明紀には「壱岐連博徳(いきのむらじはかとく)の書に曰はく」と云う引用記事が長々と載せられている。
壱岐の連博徳は、斉明四(658)年に大和王朝(日本国)から派遣された遣唐使の通訳に採用された人物であった。
「壱岐連博徳の書」は、その博徳の大和王朝に提出した業務報告書で、日本書記の編者はそれを引用して『日本書紀』斉明紀を創ったのである。日本の歴史学者たちは、斉明紀に日本国と倭国が同時に書かれていることを、皆知っていたのである。『旧唐書』と『新唐書』のどちらが正しいか、みんな判っていたのだ。
『旧唐書』は、七世紀の日本を倭国と日本国の並立王朝の時代と書く、一方『新唐書』は、日本では開闢以来大和王朝しか存在せず、大和王朝の天皇が万世一系(王朝の交代など起らずに)で日本を統治して来たのである、と書いている。
『旧唐書』も『新唐書』両書とも中国の正史である、しかし日本認識では甚だしく異なっているのだ。
続く
【618】柿本人麿とは何者か、6
大海人皇子(天武天皇)を倭国の人物と考える根拠(その2)
『日本書記』
天智三(664)年春三月の記事より
天皇、大皇弟に命じて、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上・民部・家部等のことを宣りたまふ。
(注)その内容は、冠位十二階を増設し、各氏上に大刀・小刀・盾や弓矢などを賜り、それぞれの封戸を定め与えた記事である。
この天智三(664)年二月は、倭国軍が白村江で唐・新羅連合軍相手に大敗北を喫してまだ半年後である。
白村江の戦いは『旧唐書』の劉仁軌伝に次のように書かれている。
「仁軌、倭兵と白江の口に遇う、戦うこと四度、皆勝利した。倭船を焼くこと四百艘、炎煙は天に漲り、海水は真っ赤に染まった。・・・」
倭国の百済救援の戦いは、壊滅的大敗北に終わったのです、倭王朝は、この戦いに二年に亘り三万もの大軍を朝鮮半島に派兵していたのです。それが完璧な失敗に終わった。王朝が被った打撃がどれほどのものであったか、想像もつかない。
そんな中での「冠位十二階の増設、各氏に対する報奨の贈与である。この記事が何を意味しているのか容易に理解できると云うものだろう。
当然国民は怒り狂っていたはずだ。肉親の多くが海外に帰らぬ身になっていた。王朝は何とか国民をなだめる必要に迫られていた。
この戦争で得たものは何もなかった。王朝の官位を増設して与えるしか手がなかった。これがこの記事の意味する所である。
しかしこんなことで国民の怒りが収まっただろうか、何の実体のない報奨である、王朝に権威信頼があれば収まりもついただろう。しかしその権威は地に堕ちていた。倭王朝は存続の瀬戸際に立たされていた。
この記事は、天皇(倭国王)に代わって大皇弟(大海人皇子、後の天武天皇)が宣言した、と書かれている。天武天皇は、大皇弟として『日本書紀』に登場する。これが天武の『日本書紀』に於ける初出記事である。
大和王朝(日本国)の斉明天皇は、斉明七(661)年七月、筑紫の朝倉宮で崩御された。朝鮮出兵は、その翌月の八月決行されている。
おかしなものだ、まるで斉明天皇の死を待っていたかのように断行しているのだ。
大和王朝の皇太子である中大兄皇子は、斉明天皇の喪(亡骸)を護り、大和に帰還している。
『日本書紀』より
冬十月、天皇の喪、帰りて海に就く、ここに皇太子(天智)、ある所に泊まり、天皇を偲い
君が目を 恋しきからに 泊(は)て居て かくや恋ひむも 君が目を欲り
二十三日、天皇の喪還りて難波に泊まれり。
中大兄皇子(天智)は、早々と大和に帰ってきていた。中大兄はすぐには即位せず、皇太子のまま政治を見た称制時代と呼ばれ、天智が即位したのは称制七(668)年の正月である。
冠位十二階を増設した天智三(664)年には、大和王朝には天皇不在である。
『日本書紀』の斉明紀と天智紀の前半は、倭国と大和王朝(日本国)の合成記事で創られている。斉明紀には倭国と日本が混在している。
(続く)
(
【617】戦後日本における統一教会の反共運動でこれまで一番得を人たちは、実は中国共産党です。
戦後日本における統一教会の反共運動でこれまで一番得を人たちは、実は中国共産党です、の件。
かたせ2号です。
中国にきちんと文句をつける言論を、統一教会に約半世紀、長年に独占され、コントロールされたことが、戦後日本の歴史にとって痛恨の極み。
統一教会の原点は、「反共」ではなく「反日」です。
「反共」は日本人からお金を巻き上げるための、悪魔教団とCIAによる口実に過ぎません。
日本はエヴァの邦(くに)。
渡部昇一も、谷口雅春もそれをあえて見逃した人たちということになります。
そして、悪魔教団の統一教会と共闘できないと、マトモな判断をできた日本人たちは、中国共産党に対して物申すことが長年、立場上できなくなった。
日本人は思考停止に陥いってしまった。
その昔、ソ連共産党と中国共産党という左翼の大物同士で大喧嘩してたんだから、日本の左翼も、中国共産党にほんとはきちんと文句を言ってもよかったはずなのにね。ましてや、中国共産党は、経済面では国有化路線を完全放棄しているのだから。
それらの思考回路を、櫻井よしこらに独占されてしまった。
返す返すも痛恨の極み。
それでも、一歩引いて考えるならば、悪魔教団の統一教会と共闘できないという、マトモな判断が尊重してしかるべきです。
世界救世教や手かざし教を邪宗と非難する人は、熱海や信楽にある彼らの美術館には、たとえ自分の興味を引くような展示がされても行かない。
そういう態度と同じです。文句のつけようがありません。
ですから、中国共産党に文句をつけないという態度が、このような健全な判断に基づく反射的な効果、もしくは結果であるならば、それはそれで受忍する他はない。
今まではこういう流れになっていたはずです。
ただし、これから、こういった前提条件が崩れていくはずですから、そのときには自由にものを考えて、かつ、言えるようにしておきましょう。
自由の中で今ある選択肢の中で悩むのではなくて、自由の中からこれからの選択そのものを作りあげていくのに重点を置くべきです。
以上、
連合赤軍のような「総括」をするつもりは毛頭ありませんが、
現時点での総括をしておきます。
<ご参考>
小説「バビロンの王」(著者_高橋将)から抜粋します。約20年前に手に入れた本で、いまだにワタシの手元にある本です。
新興国バビロニアの王、ネブカドネザルに征服された直後の、エルサレムの様子。
「偉大なるエルサレム」を偉大な国・日本、
「新興国バビロニア」を共産主義国、
「バアル信仰のような邪宗」を統一教会に置き換えて読み直すと、
戦後日本の反共運動の様相(ワタシから見たときの)と、ほぼほぼ重なります。
よろしくご参考ください。
あなかしこ、あなかしこ。
(抜粋開始)
翌日の夕、二人(旧約聖書の預言者エレミヤとその弟子のバロク)はエルサレムに帰ると、街の変貌に驚いた。大声で演説している者があちこちにおり、それを聴衆が取り囲んでいる。その容姿、口調はそれぞれ異なっていても、内容はすべて判を押したように同じであった。
「偉大なるエルサレムが新興国バビロニアなどに征服されていてはならない。我々は断固として独立を宣言すべきだ」というものである。
エレミヤとバロクはその中でもひときわ大きい集まりの所に行った。その若き演説者は真剣な顔で、イスラエルの神の名をかたり、人々に熱心に説いている。
「人々の心を一つにして、この国を守っていかなければならない。確かに国民一人一人は、それぞれの立場は異なり、信仰する神も異なっているであろう。しかし、一つのこと、あのバビロンを倒すということ、それだけは、国民すべてが祈り続けなければならない。
バアル信者はバアルの神に、天后(てんごう)信者はアシュタロテの神に、イスラエルの神を信じる者はイスラエルの神に。
皆、それぞれの神に祈ろうではないか。」
その言葉が終わると一斉に拍手が鳴り響く。涙にむせいでいる者も少なくない。
彼らの興奮が少し収まった時、エレミヤが自分の感情を抑えきれずに爆発した。
「イスラエルの神はこのようなことを絶対にお許しにならない。
子供をいけにえとして炎の中に放り込むバアル信仰や、性欲の虜(とりこ)となって神殿で情事に耽(ふけ)るアシュタロテ信者となぜ一緒になれるか。
悪魔と義人が手を組むことは、絶対にない。
なぜそんなことが分からないのだ。」
(抜粋終わり)
以上
【616】副島先生のサイトを、1日に何度もリロードしてしまう。
副島先生の重たい、重たい本当に重たい掲示板の更新がないかを毎日、毎朝、毎晩とリロードしまくっている。
財務省解体せよなどと盛り上がっているんだけど、本当にそこなのかな。
金の出所を握ってるのは財務省なんだろうけど、本当は、税を握っている国税庁を解体せよなのではないのかな?
どれだけの、有能な経営者を脅し、殺してきたのか。
森永卓郎ぎ持ち上げられるのはわかるが、副島隆彦先生の理論が先だろう。
なぜこの世はまだわからないんだ。
Xでも、ブログでも、歌手の皮被ったあの人も副島隆彦先生の本を読んでるに違いないんだ。
俺は勝手に泣いてます。私が、私のちっぽけな人生を必死で生きてきて、やっと、佐藤優先生から副島隆彦先生にたどり着いた。
この強烈な思想と行動力が私を救ってくれた。
先生の勧めで、金もないのにゴールドも買えた。
経営者でもないのに、セミナーにもでて生で声を聞いた。
先生の言ったように世の中は動いてるじゃないか。
この期に及んで、日本は副島隆彦先生の言説をトップに出さない。
日本ではいまだに剽窃した人間の勝ちなんだ。
なぜ国税庁解体とか、税務署解体と叫ばないんだ。
お前ら、副島隆彦先生の税務署と戦うを見ろ。
なんで、いま財務省なんだ。
金出せ金出せはわかる。
誰に操作されているんだろう。
一般人は、簡単に操作されてしまうんだろう。
集団発狂がこの先2年くらい続くんだろう。
疲れて飽きて、普通の生活がいいなぁとか言って、財務省解体とかも騒がなくなるんだろう。
そして、税の徴税体制だけはしっかりと強化されるんだろう。
森永卓郎は、本当は国税庁を刺したかったんだろう?
でもできなかったんだろう?
私はこの盛り上がり方はおかしいと感じる。
国税庁の隠れ蓑にしかならない。
私はじっと、副島隆彦先生の発言、本が出るのを待ってる。
行動はそれからでもいいんだと思う。
副島隆彦先生の集団が一番冷静じゃないか。
これで終わりにします。
乱文を失礼します。
【615】昨日(2月22日)は「猫の日」だったそうです。まったく、知らなんだ。
かたせ2号です。
さて、ドナルド・トランプは相変わらず、統一教会との関係がズブズブのまま、世界の解体にとりかかっています。
それでも、Donald Trumpは、地上世界での「最後の審判」の実行役、「Trumpet」(トランペット、ラッパ)なのでしょう。
第2期トランプ政権での、仕事ぶりを冷静に見て、ワタシには、そうとしか考えられない。
「ゆったりと物事を最善の方法で裁く」、今がそういう時期なのでしょう。
そして、話を変えますが、
「猫の日」というものがあるそうで、いくつかあるそうなのですが、
日本の「猫の日実行委員会」が1987年に制定した記念日は、猫の鳴き声「にゃん・にゃん・にゃん」の語呂合わせで2月22日に定められています。
ワタシは、さきほどまで全く知らなかった。
昨日、2025年2月22日がまさしく「猫の日」でした。
以上のことから思い出した、もしくは連想したことを書いておきます。
(本題開始)
書物「老子道徳経」の有名な一節を、「最後の審判」思想と重ねて解釈すると、
老子という思想家が、小春日和に、飼い猫と一緒に縁側で日向(ひなた)ぼっこするおじいちゃんから、
おそろしい相貌を持った思想家に変貌します。
以下の二つの命題が、おそらく同値です。
1.
天網恢々疎にして漏らさず。
「悪事を行えば、天罰を逃れることはできない」という意味です。 老子の言葉が元になっています。
天網は「悪人や悪事を逃がさないように 天が張り巡らした網」という意味です。
「老子道徳経」 第73章の一部
天之所󠄃㆑惡、孰知㆓其故㆒。是以、聖人猶󠄄㆑難㆑之。天之道、不㆑爭、而善勝、不㆑言、而善應、不㆑召、而自來、繟然、而善謀。天網恢恢、疎而不㆑失。
〈天の惡む所󠄃、孰かその故を知らんや。是を以て、聖人も猶󠄄ほこれを難しとするがごとし。天の道は、爭はずざるも、而も善く勝ち、言はざるも、而も善く應じ、召かざるも、而も自ら來り、繟然たるも、而も善く謀るなり。天網は恢恢なれば、疎なるも而も失はざるなり。〉
〈しかし天の判断するところを誰が知ることが出来るのでしょうか。 この点から、聖人と言われる人にとっても判断は難しいのです。 天の道は争わずして勝ち、言わずとも応答し、呼ばないのに到来したり、ゆったりと物事を最善の方法で裁くのです。 天の法網といわれているものは大変大きく、目も粗いのですがしっかりと見ていて、何事も捉えられないことは無いのです。〉
かたせ2号です。
よく読めば、別に、最後の審判という裁きの形式を否定するものではありません。
2.
かたせ2号です。
ワタシにとって、「最後の審判」思想の相貌をもっとも顕わにしたのが、以下の映画の一場面です。
映画「仁義なき戦い」シリーズの中での
神戸・山口組 山本健一さん(梅宮辰夫さん)と 広島・共政会 服部武さん(小林旭さん)が対峙する場面が、個人的にはしびれます。
その中での小林旭さんのセリフを引用します。
「ほいじゃあ、言うといたるがのう、
広島極道は芋かもしれんが、旅の風下に立ったことは一遍もないんで。神戸のもんいうたら猫一匹通さんけん、おどれらよう覚えとけや」
「猫一匹通さんけん、おどれらよう覚えとけや」
かたせ2号です。
おそらく、地上世界の「最後の審判」Trumpet役のドナルド・トランプも、おそらく悪人に対してなら、
「猫一匹通さん」でしょうね。
老子という思想家も、2000年以上も前から、「猫一匹通さん」覚悟のほどだったようです。
以上、昨日の猫の日(2月22日)にちなんだお題で、感想をならべてみました。
まあ、単なるエッセイですけえ、、「網の目の粗い」ところは、大目に見てつかあさいや。笑い
(だから、「ふじむら」掲示板への投稿となります)
以上
【614】柿本人麿とは何者か、5
守谷健二です、今回は『万葉集』中大兄(天智天皇)の三山の歌(巻一・13~15)について論じます。
香具山は 畝火雄々しと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 嬬をあらそふらしき(13)
反歌
香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来し 印南国原(14)
わたつみの豊旗雲に入日見し 今宵の月夜さやに照りこそ(15)
古来、中大兄の三山の歌は大和三山に譬えた妻争いの歌と理解されて来たようです。
額田王(ぬかたのおおきみ)は、最初大海人皇子(天武)と結婚していました。二人の間には十市皇女が生まれています。彼女は、天智の長男・大友皇子(明治に追号されて弘文天皇)と結婚し葛野王(かどののおおきみ)を産んでいる。
しかし、天智七(668)年では、額田王は天智の後宮に入り妃の一人になっていた。ここから天智と天武は、額田王をめぐって争った、と云う話が創られ(13)の歌は、その事を歌ったのだ理解されている。そのように考えると、香具山と耳梨山は男性と為り、畝火山が女性と言う事になります。
しかし歌の最初の部分は「香具山は、畝火雄々しと・・・」となっている。原文は「雲根火雄男志等(うねびおおし)」と書かれている。男らしい、勇ましいと云う意味だろう。是では畝傍山が女性では都合が悪いだろう。
私はこの歌を妻争いの歌ではないと考える、畝傍山を近畿大和王朝と、香具山と耳成山は倭国(筑紫王朝)と新羅と。大和王朝は新羅からも味方に付くように働きかけを受けていたのではなかったか。
そう考えると反歌二首の意味も生きてくる。(14)の歌の意味する事は、当時の倭国と大和王朝の勢力の境界が印南国原(明石市と高砂市の間)であったと言う事だろう。倭国の方が圧倒的に強勢であった。
(15)の歌も、本歌が妻争いの歌だとすると、全く意味をなさない。そうではなく、大和王朝が倭国に付くことに決め、筑紫に向け船出する前夜、これからの幸運を願い、旅の無事の祈りの歌と理解すれば、これ以上の秀歌はあるまい。この歌は『万葉集』だけにとどまらず日本の名歌の一首である。
【613】オールドメディアに「特攻」をかけつつある、日本国内の統一教会関係者たちを憐れむ。
オールドメディアに「特攻」をかけつつある、日本国内の統一教会関係者たちを憐れむ。
かたせ2号です。
一応、伝えるべきことは伝えておきます。
滅ぶべき人たちにのみ「世界の終わり」が訪れる。
1. (ルカによる福音書 23:34)
そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』
2. (マタイによる福音書 8:28-34)
イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。
二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」 はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。
そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。 イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。
すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。 豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。
吉井和哉 – 世界の終わり(THEE MICHELLE GUN ELEPHANT Cover)
吉井和哉 – 世界の終わり(THEE MICHELLE GUN ELEPHANT Cover)
以上
【612】自動車会社Mazdaのある広島での話題 (スポーツ)、の件。
自動車会社Mazdaのある広島での話題 (スポーツ)、の件。
まず、デイリースポーツのサイトから。
記事名_(セ・リーグ プロ野球)歴史的失速の広島(東洋カープ)
ついにセ・タイ記録の月間20敗、魔の(2024年)9月、借金15で終わる、新井監督「自分の未熟さ」
2024年9月29日
https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2024/09/29/0018175016.shtml
(記事名のみ記載)
かたせ2号です。
これはほんとにひどかった。もう、打つ手もなくどうしようもなかった。主力の秋山翔吾選手も、NHKの番組「球辞苑」で嘆いてはりました。
日本の「失われた30年」と同じくらい、なすすべもなく、ひどかった。
まあ、それでもAll is well that ends well (by Shakespeare).
以下の記事でもってよし、といたしましょう。
広島が神戸に、余裕で勝ちました。
記事名_(サッカーJリーグの)サンフレッチェ広島、スーパーカップ5度目の優勝 2-0で神戸を下す
2025年2月8日(土) 15:48 (昨日) (中国新聞記事⇒Yahooニュース)
https://news.yahoo.co.jp/articles/cd9e917e6c18cf365f365efe547289b6f6835dfe
(引用開始)
J1サンフレッチェ広島は2025年2月8日(昨日)、東京・国立競技場で富士フイルム・スーパーカップ神戸戦に臨み、2―0で勝利した。9年ぶり5度目の優勝で賞金3千万円を獲得した。
大迫勇也ら主力を温存した神戸に対し、広島は新戦力のジャーメイン良、田中聡を含め、先発に主力を並べた。前半12分、中野就斗の右クロスをトルガイ・アルスランが頭で合わせて先制。その後も押し込む展開が続いた。
後半は武器であるセットプレーで追加点を奪った。25分、菅大輝の右CKを荒木隼人がヘディングで押し込み、ゴールネットを揺らした。守備陣はGK大迫敬介を中心に無失点で締めくくった。スキッベ監督は「これまでも決勝で負けた経験があるだけに、タイトルが取れてうれしい。全体的にいいサッカーができた」とうなずいた。
(引用終わり)
<業務連絡>は以上です。
【611】柿本人麿とは何者か、4・天武天皇(大海人皇子)が倭国(筑紫王朝)の人物と考える根拠
お久しぶりです、守谷健二です。昨年重たい掲示板に書いた、柿本人麿とは何者か、3の続編です。副島先生に重たい掲示板に書くのを禁止されたのでこちらに書きます。
斉明七(661)年正月六日、斉明天皇は筑紫行幸の海路に就きます。教科書が「天皇自らが新羅討伐の指揮を執るため」の行幸と書く出来事です。
この行幸に、どうした訳(わけ)か大田皇女を帯同している。海路に就いての二日目(正月八日)、兵庫県から岡山県に入った海域で、大田皇女は船内で女の子(大来皇女)を出産しました。
通説に従えば、斉明天皇は戦争をするために筑紫に出向いたのです。そんな旅に、どうして身重の、それも臨月に入っていた大田皇女を帯同する必要があったのでしょう。
大田皇女は、中大兄皇子(天智天皇)の娘で、大海人皇子(天武天皇)に嫁いでいました。
斉明天皇の一行は、その海域から伊予国(愛媛県)の石湯(今の道後温泉)に直行し、二カ月半も逗留している。筑紫に到着したのは三月二十五日であったと『日本書紀』は記す。
私には、大田皇女の産後を養ったとしか考えられないのだ。
朝鮮半島戦況は逼迫していた。六世紀・七世紀前半の朝鮮半島は三国鼎立時代と呼ばれている。北に高句麗、南西に百済、南東の新羅王朝が鼎立していた。三国の中で北の高句麗が強勢で中国大陸東北部に深く勢力を伸ばしていた。
六世紀末に隋王朝が中国を統一するや、長い国境を接する高句麗との間に一触即発の緊張関係が生じていた。隋朝が短命に終わったのは高句麗討伐の失敗によると言われている。
隋朝と唐朝の交代は、王朝内革命のようなもので唐朝は隋の政策をそのまま受け継いだ。高句麗敵視も受け継いでいた。
半島南部では、中国に最も遠い南東に位置する新羅が親唐朝の立場を取り、南西の百済は高句麗と手を結び新羅を攻めていた。
百済王朝は倭国(筑紫王朝)にも王子を人質に入れ友好を強めていた。
唐朝と新羅対高句麗・百済・倭国(筑紫王朝)の対決構造が出来ていた。
北の高句麗と西の百済に攻め立てられ窮地にあった新羅は唐朝に早急の救援を求めたのである。
陸路高句麗を攻めていた中国統一王朝の唐朝ではあったが、高句麗の頑強さに手を焼いていた。そこで唐朝は戦略を変えることにした。大水軍を建造し、新羅と協力し高句麗の後方に控える百済を一気に壊滅してしまえと。
660年八月、百済王朝はあっけなく滅ぼされたのである。斉明天皇が筑紫行幸に出発する五カ月前だ。斉明天皇は、百済王朝滅亡を知った上で筑紫行幸を決行したのだろうか、臨月の皇女を帯同する理由が何処にあると云うのか。
斉明天皇は、百済王朝滅亡の情報など全く知らなかった、と私は考える。倭国が情報を遮断していたと。斉明天皇の筑紫行幸は、大田皇女を無事筑紫に送り届けるのが目的であったと。
新羅討伐軍の派兵は、倭国(筑紫王朝)の喫緊の課題であった。唐朝の援助を受け新羅は国勢を回復しつつあった。新羅討伐軍を派兵する為には、近畿大和王朝の協力を取り付けることが不可欠であった。その為に大和王朝に派遣された切り札が大海人皇子(天武天皇)だったのだろう。
大海人皇子は、大和王朝を説得するのに成功した、その結実が大田皇女との結婚、懐妊であった。
新羅討伐は、唐朝を敵にすることである。倭国内には、新羅討伐軍の派兵に反対の者もいたはずである。それらの者を説得する為にも大和王朝の協力を得た事を披露する事は絶対に必要であった。
大田皇女を無事筑紫に送り届けることは、とても大事なことであったのだ。