ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
伊藤 投稿日:2025/01/16 07:26

【603】ブレイク:現代中国における都市戸籍VS農村戸籍の問題は、古代からの大問題だ。(2)

伊藤睦月です。

(9)中国人とは、「都市住民」のことである。

(9)-1 漢字の「国」という文字は、囲い(城壁)に、王様がいる、ということをあらわしている。つまり、中国は、「都市国家」から始まった。

(9)ー2 岡田英弘博士は、中国人は、元来商業民族であり、黄河と長江の間の緑地(中原)の交通・物流の要衝に都市国家を建設。その都市国家を内陸水運(河川や運河)で結んで、点と線のネットワークを形成。それらからの税金(関税)を財源として、兵と官僚を養った。そういったネットワークの大半を支配したのが、「皇帝」」だとする。

(9)-3 この都市住民は、戸籍に登録され、徴兵と納税の義務があった。城内には、王、官僚、軍隊、商人、職人、のほか、農民も城内に住んでいた。

(9)-4 農地や牧草地は、城外にあったが、城内に住む農民たちが耕した。夜が明けて城門が開くと、王から農機具(青銅・鉄器)を借りて、農作し、日没になって、城に戻り、農機具を返還する。この農機具の使用代として、収穫物の一部を「租」として納める。商人や職人は、売り上げの一部を「税」として納める。

(9)-5 王にとっては、税金が取れる人間が大事であり、都市国家に住む住人こそが、「領民」であり、「中国人」である。岡田博士が、中国の歴代人口の推計をやっているが、それは、「都市戸籍」に登録された人間の数のこと。少なくとも宋朝まではそうだったらしい。

(9)-6 場外にも、人間は生息していたが、その者たちは、税金がとれないので、王にとっては「中国人=人間」ではない。ケダモノ、と同じ。もちろん、戸籍には載せないので、その数はわからない。動物の大群と同じ。それで城外の四方に住む人間たちを、「東夷、南蛮、北狄、西戎」、つまり「四夷」と呼んで、区別した。この「区別」が「差別」となって、中国社会に根付いた。中華人民共和国が成立後、この城外に住む人間たちを登録したのが「農村戸籍」である。毛沢東の方針で、農民の組織化(人民公社)を図るために必要だからだ。最初から差別構造が内蔵されている。さすがの習近平も苦労するはずだ。

(9)-7 この区別は、王が定めた区別であり、人種、言語は関係ない。話し言葉は通じないので、書き言葉(漢文)が公用語となった。「王侯いずくんぞ相種あらんや」(皇帝になるのに血筋は関係ない)という易姓革命の思想はここにルーツを持つ。その一方で、中国社会は、男系の先祖崇拝(社稷しゃしょくを守ること)を「孝」とよび、これを全うすることが、最も大事とされた。親孝行はその一部に過ぎない。「忠孝」は日本特有の倫理である。

(9)ー8 このような、国内関係(都市VS農村)を国際関係(中国VS四夷)に置き換え、定式化したのが、「冊封体制」だ。西嶋定生はじめ、日本東洋史学会が提唱し、通説となった。高校世界史教科書にも採用された。副島=斎川『天皇とは北極星のことである』はじめ、中国史を語る基本フレームとして定着している。

(9)-9 それに対し、岡田英弘博士は「冊封体制」は中国史には存在しない。史料しか読まない学者の「机上の空論」だ、と反発している。実際、岡田博士の、中国史、日本古代史に関する著作には、「朝貢」「冊封」という用語は一切使われていない。

(9)-10 伊藤睦月です。「冊封体制」という歴史モデルは、我々にとってわかりやすい。それと比較し、岡田説は、政治関係より、経済関係を重視するモデルであって、間違ってはいないとは思うが、「朝貢」「冊封」概念の方が、「帝国=属国論」との親和性が高いと考える。したがって、現時点では、通説を支持する。

(9)-11 伊藤睦月です。この「都市・農村国籍問題」は、中国の伝統的な社会構造に根差したものなので、表面上の改革だけでは、どこかでひずみが出てくる可能性がある。今後を注視していくほかないだろう。

以上、伊藤睦月筆

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/15 20:55

【602】ブレイク:現代中国における都市戸籍VS農村戸籍の問題は、古代からの大問題だ。(1)

 伊藤睦月です。現代中国における、「都市戸籍」、「農村戸籍」をご存じだろうか。30年ほど前、中国との交流事業に携わっていた時に、この問題を知った。

(1)当時は、鄧小平の改革開放政策の真っただ中。経済特区の深圳(シンセン)の労働力を確保するため、農村戸籍を持つ人間が、期限付き(3年くらい。最近の日本の移民政策に似ている。)で深圳への出稼ぎが認められ、ものすごい人の移動がああった。

(2)その時、中国深圳市の役人か、ガイドだか忘れたが、彼だか彼女だかが言うには、中国には都市戸籍と農村戸籍がある。都市に生まれた者は、都市戸籍が与えられ、都市間の移動、移住、大学(都市にしかない)への進学、国内旅行や海外旅行も条件付きで可能。

(3)一方で、農村に生まれた者は、農村戸籍が与えられ、都市への移動が原則できず、進学の機会もほとんどない。経済格差、教育格差、その他もろもろの格差が大きい。だから今回の特例措置は画期的なのだ、と胸を張っていた。

(4)伊藤睦月です。この状況は、だいぶん改善されているらしいが、未だに二つの国籍は現存する。例えば、日本に来るインバウンドもほとんどが、都市戸籍を持っている中国人である。大学生も同様。農村から都市に行くには、都市に出稼ぎして結婚するか、進学しかないらしいが、結婚はともかく、進学は、学力格差がひどすぎて、かなり困難なようだ。政府としては、少数民族と同様、農村出身者向けの政策をやっているらしいが、結局は改革開放政策で、都市に行けた者が結婚し、その子供は都市戸籍が取得できるので、都市にとどまり勉強させて進学させ、上昇の機会をつかませることが、チャイナドリームへの道としてポピュラーらしい。

(5)また、この戸籍問題は、都市対農村の対立構造を象徴し、例えば、国共内戦や文化大革命において両者の対立をあおるような政策(農村が都市を包囲する。農村へ下放(追放)する)がとられたこともあって、この対立構造は、未だ根強く残っているとされる。

(6)中国の最高実力者習近平は、自らも、文革時、農村に「下放」された経験をもつが、2014年、両者の対立構造を解消するため、戸籍統一の方針を出し、2020年を目標年としたが、実現できていない。

(7)この記事の元ネタのウィキペディアは、この戸籍問題は、中華人民共和国建国以来の大問題としている。

(8)しかし、私、伊藤はこの問題は、もっと、昔、古代中国社会の成立時からの宿痾(しゅくあ)のようなものと考える。次回でそのことを説明する。

以上、伊藤睦月筆

 

伊藤 投稿日:2025/01/15 10:51

【601】ブレイク:華僑だけでは、国は作れない。

伊藤睦月です。日本書紀(天皇系図)の解読も自分としては、一区切りついたのので、その他をいくつか。

1 華僑は実権を握っても、政治の表舞台に立つことはあまりない。

1-(1)岡田英弘博士は、日本という国は華僑がつくった、と主張されている。(日本史の誕生ほか)

そして、その成り立ちの様子を、現代のマニラやジャカルタ、クアラルンプールといった東南アジアの華僑社会の観察から論を組み立てられている。

1-(2)私、伊藤は、華僑だけでは、国はできず、(シンガポールのように、マレーシアの国策の影響で、仕方なくできた国もあるが)現地民とのコラボが不可欠と考える。

1-(3)なぜなら、華僑は、ユダヤ商人と同じ、基本は根なし草(デラシネ)、儲かるところ、ビジネスチャンスを求めるからだ。基本性格として「国際性」をもつ。土地への執着心や「愛国心」はない。

2 商売人は基本搾取する。

2-(1)岡田博士の主張のように、まず華僑が日本列島(以下「列島」という)に上陸したのはその通りだと思う。商売には、相手がいる。その相手は、原住民だ。華僑同士の取引もあったかもしれないが、例外的だと思う。

2-(2)岡田博士が、原住民との取引の始まりを描写しているが、私には「実感こもった」ものではなく、野生猿の餌付けのような印象を持った。文明人の華僑にとって、原住民は「サル同然」だ。

2-(3)原住民は、読み書き計算ができない。そんな存在と取引をする、華僑にとっては、「ぼろい相手だ」。朝貢貿易とは逆だ。むしろ朝貢貿易の方が商売抜きの政治ショーであって、通常は、商売人がだます(もちろん、建前は正当な取引だ)。

2-(4)原住民は最初は喜んだろう。例えぼられていても。しかし、直にわかってくる。原住民の中にも、読み書き計算が多少ともできる人間が現れると

通用しなくなる。そうなるとどうなるか。最悪身の危険が迫ってくる。

2-(5)そのとき華僑はどうするか。ハードな対策としては、「後ろ盾」を使う。中国本国とその出先(帯方郡とか)をちらつかせる。必要に応じ、彼あrに「来日」してもらって威圧する。軍隊を派遣してもらうこともあるかもしれない。そ

2-(6)ソフトな対応、としてその原住民の王と友好関係を結ぶ。考えられるのは、搾取の仲間に入れる、ともに暴利をむさぼる。そうなれば、原住民の王が華僑を守ってくれる。原住民の王(以下「酋長」とよぶ)たちは、頭が悪いが、腕っぷしは強いのだ。

2-(7)そういった関係を結ぶのに有効な手段が「婿入り」だ。酋長の娘と結ばれれるということは、その部族の一員となり、味方、場合によっては「家臣」になってくれる。岡田博士は「現地妻」とよんだが、単なる「華僑のセックスの相手」でなく、自身を守るための、政治的行為なのだ。

2-(8)酋長の娘との間に、子ができれば、その子は男子であれば、「正統な王子」、女子であれば、「権威あるシャーマン」になる。そうなると地盤が安定する。

2-(9)私、伊藤は、いわゆる「神武東征」も、倭国を後ろ盾にもつ、先行華僑(ニギハヤヒ)の搾取に不満を持った、奈良盆地の酋長たちが、神武たちを受け入れた経過を伝えている、と考える。

3 酋長たちは政治的には華僑を支配する。

3-(1)華僑は、交通の要衝を押さえて、居留地とする、いわば点の支配だ。質を武器にする。

3-(2)酋長たちは、華僑に物資を提供するための耕作地や鉱山といった「土地」とそれらに携わる人員を支配する、面の支配である。量は、こちらが優位。

3-(3)国を作るためには、質量ともに必要。どちらかといえば、馬鹿でも「数」で圧倒される。

3-(4)酋長たちは、華僑を政治的に優位にしなかった。スポンサーとして、官僚として、技術者としてつかった。(これは、華僑だけでなく、ユダヤ人など、古今東西同じこと。日本でも帰化人出身の豪族は、政治的に優遇されなかった。(平安時代でも5位の国司クラスが最上)

3-(5)その例外が蘇我氏、だから、酋長たちの王(天智、天武)から排除された。

3ー(6)その後、華僑たちは、政治の表に出ることなく、スポンサー、黒幕に徹した。(秦氏が典型)

3-(7)そして、酋長たちにうまく利用されながら、逆に利用して一族の繁栄を実現しようとした。

3-(8)華僑たちの政治力の源泉は、「財」と「宗主国の後ろ盾」だが、「面従腹背」の遣唐使などで、本国との関係を断ち切られ、「宗主国の後ろ盾」をなくし、しかし、「財」だけはある、華僑たちは、政治力のある、酋長たちに利用されることに甘んじるしかなかった。という見方もできると思う。

4 その他

 華僑やユダヤ人などの「根なし草の商業民族」は古今東西に一定数存在するが、面の支配を実現、長期に維持した例は、私の知る限り、ない。

 岡田英弘博士のいわれる、「華僑」が、国づくりに大いに貢献したことは認めるが、それだけではないということを、リマークしたかった。

以上、伊藤睦月筆

 

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/14 14:22

【600】ブレイク:上古~古代の天皇家系図を仕分けしてみる(4)「神武東征」は山門国の「エクソダス」だ。は、その後の「婿入り戦略」の時代だ。

伊藤睦月です。以下、私のファンタジー。

1 古代の日本列島は、華僑の居留地と、原住民の酋長の支配地が混在していた。

2 神武は、倭国の一族が住み着いた日向の居留地出身。一応王族の傍系だが、「一旗揚げよう」と日向を出て、まずは、ビジネスチャンスがありそうな、倭国の王都、邪馬台国に向かった。書記にあるような船団を率いたのではなく、航海の途中でだんだんと増えていったのであろう。

3 日向を北上し、豊予海峡を抜け、華僑の居留地を伝って、宇佐、宇佐から、遠賀川河口(当時の港湾都市。新羅との貿易拠点であった)まできたところで、邪馬台国に向かわず、方向転換。東に向きを変えて、安芸(宮島)、吉備高島宮へとたどり着いた。

4 伊藤睦月です。神武たちが、邪馬台国に入らなかったのは、邪馬台国が、戦乱(第2次倭国大乱)、もしくは、疫病などがあって、入りたくとも入れなかったのだろう。華僑の居留地は、情報拠点の機能もあった。

5 最近は、倭国を本社、山門国を支社にみたてて、神武をニギハヤニに続く、二番目のセールスマンであるとし、岡本で土器を仕入れたという見解もある(金澤『古代史サイエンス2』)。奈良盆地からは、九州の土器はほとんど出土していないことから、採用しない。安芸や吉備に売るための仕入れと考えられなくもない。寄港地で商売をしながら、畿内に向かった可能性はある。ちなみに、当時岡本は砂鉄の産地として有名だった。

6 最初正面から、難波津に入ろうとしたが、受け入れ拒否されたので、紀伊から伊勢に向かい、山してして奈良盆地に入った。堂々たる征服とは、書紀の忖度であって、実際は、在来華僑の搾取を嫌がった、原住民の酋長たちの手引きによるものであろう。背後から攻めて、一応の貿易ルートを確保した。(神武即位)

6 二代目綏靖(すいぜい)から、9代目(開化)までは、めぼしい、事績がないことから、架空の存在としているのが、通説となっている。

7 しかし、この説は、井上光貞『日本の歴史』(中公文庫)に採用され普及した。そのネタ元は津田左右吉の説による。(『古事記及び日本書紀の研究』)

8 安本美典氏は、津田説が、「実績がないから存在しない」と決めつけるだけで、なんら実証していないと指摘し、実在したと主張している。(数理統計学の手法を用いた「パラレル年代推定法により、神武を、306年から313年、綏靖~開化までの在位期間を313年~396年と推定している)

9 また、前出の金澤氏は、先祖崇拝が現代より、よりリアルであった、8世紀において、架空の先祖を作り出すのは、先祖に対する冒とくであり、実在であった、と主張している。(前掲書)

10 私伊藤は、旧辞(エピソード)は、話を盛るが、帝紀(年代記)は嘘つかない。と考えているので、「欠史八代」も実在した、と考える。

11 この時代の大王たちは何をしていたかというと、地域の豪族(酋長)たちの娘をひたすらナンパ、婿入り婚に専念していたと思う。当時は、娘の婿になれば、その豪族が味方、後ろ盾になってくれる。だから、書記には嫁の実家の記事しかないのだ。いわゆる「閨閥」を形成することで、奈良盆地に勢力を伸ばしていったのだ。

12 そして、奈良盆地の大半の酋長たちと血縁関係を構築して、とりあえず、倭国と貿易利権を争う力を養った。その時代、崇神大王の時代から、対外膨張が始まる。ここで、天皇系図の仕分けが完了した。

以上、伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/14 13:05

【599】ブレイク:上古~古代の天皇家系図を仕分けしてみる(3)神功皇后が、仲哀傍系の応神を崇神直系にした。

伊藤睦月です。

1 応神は、仲哀の子ではなく、ヤマトのアマ氏の一族である神功皇后の子である。(父親はおそらく、武内宿禰)いわば仲哀の傍系である。

2 神功は、北九州の倭国及び新羅の後援を受け、応神の正統な王権を主張して、山門国に入ろうとした。

3 仲哀の実子である、忍熊王、香坂王の兄弟が阻止しようとしたが、敗北し、応神が大王位についた。

4 この記事は、「王の帰還」といって、東西の伝説によくあるパターンだが、現実の事件が核にあって、応神大王の正統性を主張したエピソードになったのであろう。

5 応神以前崇神までは、奈良盆地を統一した山門国の対外発展戦争の様相を記したものであろう(詳細は、前出)

6 応神大王が、景行大王ー日本武尊ー仲哀ー神功と継承されている、と書紀は明記する。

7 しかし、宮内庁HPの天皇系図では、神功皇后は抹消されている。これは、明治以降の政府公式見解だが、そのために、応神の在位が当時としては、不自然に長くなっている。(70年間)

小休止、伊藤睦月筆。

 

 

かたせ2号 投稿日:2025/01/13 22:58

【598】余談なんですけど、「共観福音書の「十字架にかかる場面」ってルカだけ「盛って」ませんか?」

余談なんですけど、「共観福音書の「十字架にかかる場面」ってルカだけ「盛って」ませんか?」の件について。

かたせ2号です。

余談なんですけど、

たぶん、これって「盛って」ますね。

ルカの福音書23章による描写が以下の通り。

たぶん、下線部はルカが盛っています。じゃないと、他の福音書の記述との記載の矛盾が解消できない。

https://mana-mh.com/archives/3229

(引用開始)

十字架につけられる

イエスを刑場に連れて行く途中、居合わせたクレネ人シモンに十字架を背負わせ、イエスの後から運ばせました。嘆き悲しむ女性達に「わたしのために泣くな。自分と子どものために泣きなさい。罪のない私が裁かれるのだから、霊的な命が枯れたようなあなたたちはいったいどうなるのだろう」と言われました。されこうべと呼ばれる丘に、二人の強盗の真ん中にイエスの十字架が立てられました。イエスは「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているか分からないのです。」と言いました。彼らはイエスの服をくじで引いて分けあったり、「他人を救ったように自分を救え」とあざけりました。十字架に架けれた強盗の一人もイエスをあざけりましたが、もう一人は「この人は何も悪いことをしていないのに十字架に架けられている。『イエスよ、あなたが御国においでになる時には私を思い出して下さい』」と言いました。イエスは「今日私はあなたと一緒に楽園にいる」と言われました。

イエスの死

昼の12時に全地は暗くなり3時まで徒づきました。そして神殿の幕が真ん中から裂けました。十字架上でイエスは「父よわたしの霊を御手にゆだねます」と言われ息を引き取られました。これを見ていた百人隊長は「本当にこのひとは正しい人だった」と言い、人々も深い悲しみに沈んで家路につきました。ガリラヤの女性たちはこれを遠くから見ていました。

(引用終わり)

【かまいたち】アイドルを目指す関西キッズがあの&村重に忖度なしで聞きたいこと「これ余談なんですけど…」ナイトinナイト

以上

伊藤 投稿日:2025/01/13 09:30

【597】ブレイク:上古~古代の天皇家系図を仕分けしてみる(2)応神から継体までは、「疑似易姓革命」の物語だ。

伊藤睦月です。前回からの続き。

1 日本書紀の主題は、継体朝における、正統が、舒明直系(天智・天武)であることを主張したもの。

2 その継体大王は、応神大王の正統であることを主張する必要があった。(応神のすぐあとを継いだ仁徳系統と違い、継体は、5世の孫という、血縁薄い大王であったから)

3 当時の東アジア世界における正統思想、世界標準(ワールドバリューズ)の政治思想は、「易姓革命」論。

3-(1)いわゆる「万世一系」の思想は、東アジア世界では、二流の思想。属国日本の思想

3-(2)日本で、「万世一系」の思想が明確に出てきたのは、14世紀。「神皇正統記」(北畠親房)から。

3-(3)987年、訪中したチョウ然が、北宋皇帝から、褒められたこと(宋書日本伝)がきっかけとなった。

3-(4)「天壌無窮の神勅」(日本書紀720年成立)は、神代編本文でなく、「一書に曰く」として、後世に書き加えられたと考える。

4 応神を継いだ仁徳から、武烈までの、「旧辞」(エピソード)は、史記にそっくり。

4-(1)有徳の仁徳の系統が、雄略、武烈で、失徳の悪行を繰り広げる。そこで、王朝が断絶して、継体が正統の王朝となる。(易姓革命論)

4-(2)武烈の悪行は、史記に記されている、夏の桀王、殷の紂王のエピソード(妊婦の腹を裂いて胎児を取り出す、女性に馬とのセックスをさせて殺すなど、猟奇的な悪行が目立つ)に類似している。

4-(3)雄略も同じく、一生、敵対者を殺しつくしているが、当時から「悪徳」よりも、「強すぎてかえって素敵

」という、マッチョな印象が強かったらしい(万葉集冒頭)

4-(4)雄略のイメージは、「大王は神にしませば」とたたえられた天武のイメージとも重なる。

5 本場の中国と違い、仁徳系も、継体系も、同じ「アマ氏」なので、目立たないが、実質的に「易姓革命」と同じ、と書記編纂者は考えた。(疑似易姓革命論)

6 古田武彦は、倭の五王=河内王朝の五大王は、九州王権の王たちと考えるが、私伊藤は、北九州の倭国王であった倭の五王と、大和国(河内王朝)の五大王は、同時期に別個に存在した、と考える。

7 応神以前は、「創業伝説」「建国神話」で、その構成は、旧約聖書「創世記」のパターンに類似。(同一とまでは、断定しない。当時のオリエント文明の影響下にあった文化共通パターンではなかったのか)

次回は、応神~神武について自説を述べる。

伊藤睦月筆

 

小休止。伊藤睦月筆。

 

 

 

 

 

3 

伊藤 投稿日:2025/01/12 07:22

【596】ブレイク:前項の補足

伊藤睦月です。記述が乱れていて恐縮ですが・・・

(1)底本の「天皇系図」は宮内庁ホームページ

(2)隋書倭国伝に記された倭王は、倭国王のこと。大和国は、度重なる攻撃により、倭国に対する、優位を確保し

   たが、外交権(貿易利権)は完全には奪えなかった。江戸時代の幕府ー琉球国との関係と類似。

以上、伊藤睦月筆

伊藤 投稿日:2025/01/12 07:15

【595】ブレイク:上古~古代の天皇家系図を仕分けしてみる(1)

 伊藤睦月です。これまでの投稿をもとに、天皇家系図を仕分けして、畿内の大和国が取り入れた北九州の倭国王の系図を抽出する。底本は、

(1)天皇系図

(2)日本史年表・地図(児玉幸多編2024年吉川弘文館)

(3)歴史手帳2025(吉川弘文館)

 伊藤睦月です。(2)は高校副読本だが、一般用としては最も詳細。(3)は、歴史愛好家によく利用されている。

1 古代(飛鳥時代)

(1)用明大王とその直系

  ①用明大王、聖徳太子(厩戸皇子)、山背王、久米皇子、当麻皇子、殖栗皇子

  ➁タリシヒコ=用明大王、聖徳太子の親子2代。「タリシヒコ」は「ヒミコ」と同じく、中華帝国が倭王につけ

   た呼び名であろう。

  ➂当時、大和国では、神武以来のアマ氏と蘇我氏が倭王位をめぐる政争中であり、蘇我馬子は、アマ氏派の物部

  守屋を滅し、穴穂部皇子、崇峻大王を殺して、倭王位についた。仏教導入争いは口実に過ぎない。穴穂部皇子

  は、敏達のフィアンセ、推古の強姦未遂容疑で殺された。崇峻は露骨に反抗したので、部下の東漢氏(帰化人の

  武闘派)を使って、暗殺した。

④645年の乙巳の変は、海外路線対立(親百済、親新羅派の対立、国粋派対国際派)の面もあるが、有力豪族(蘇

 我氏)を天皇家(ヤマトのアマ氏)が排除しようとした。政局がらみのテロ事件だと考える。

⑤壬申の乱は、天智・天武の「共通の敵」を排除した後の「舒明直系」を決める戦いであった。天武は、有力豪族の

 力を借りて、天智系(大友皇子)を排除した後、かねてから導入を図っていた、律令制を利用して、天皇権力の最

 大化を図った。藤原不比等は、実務派官僚として、持統天皇の意向に従い、律令制導入を推進した。

⑥「日本書紀」を編纂するにあたって、蘇我氏の倭王時代を隠すため、663年の白村江の戦いで滅んだ、倭国のア

マ氏の事績を採用し、蘇我氏の事績を、用明大王以下の記事として書き換えた。そのため、日本書紀は中国(唐)に

提出されず、国内向けの啓蒙普及教材として利用されることになった。(同旨、古田武彦、参考として、守谷健二氏

の投稿(古事記の正体))

⑦聖徳太子は実在した。9~11世紀に成立した、「上宮聖徳法王帝説」という聖徳太子の伝記は、倭国王タシリヒ

コの伝記のこと。(法王は、国王が出家した場合にのみ、使用可能。同旨古田武彦。8世紀末に弓削道鏡が法王に任

じられたとき、この故事が想起され、危機感が高まった。傍証として、山背王の系統を「上宮王家」と呼称。)

⑧学会通説は、北九州の倭国の存在を認めない。そのため、倭国の政局を説明するのに、「聖徳太子非実在説」(大

山誠一)にたどり着かざるを得なかった。それだけでは、蘇我氏の倭王時代を説明できなくなって、蘇我馬子大王説

を主張するに至っている。これらは、倭国と大和国併存説を採用すれば、矛盾なく説明できる。

⑨副島隆彦先生は、古田武彦の「近畿天皇家、九州天皇家」というコンセプトを使用せず、「倭国と山門(大和)

国」のコンセプトを採用して、7世紀の日本政治・外交史の説明に成功している。私、伊藤も副島説を支持する。

以上、伊藤睦月筆

  ④

 

 

 

隋書倭国伝に記された倭王は、倭国王のこと。大和国は、度重なる攻撃に 

   より、優位を確保したが、外交権(貿易利権)は完全には奪えなかった。江戸時代の幕府ー琉球国との関係と

   類似。

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/11 10:51

【594】日本古代史研究小史(3)最後に若干のトレビアを補足する。

伊藤睦月です。以上の私見のまとめ、補足をします。

1 邪馬台国論争は、学問的には、九州説に決まり(ただそれ以上の場所絞り込みは現状では無理)だが、政治化している畿内説(大和説)は、何かメンツがたつような説明を考えてあげないと、引っ込みがつかない。高校歴史教科書などの変化に注目(聖徳太子の前例あり)

2  歴史サイエンスは、海外では「普通」であり、日本史の解明にも、大いに有用。海外文献も読みこなす、理系人材参入していることも期待できる。ただし、科学的方法論の限界もあり、従来タイプの文献分析や、考古分析がおざなりになっているところも見られる。その辺は取り扱い注意。

伊藤睦月です。あと、「たこつぼ」と揶揄される日本学会だが、一応リマークしておくべきことがある。

3 日本史学会では、「日本古代史」は、飛鳥、奈良、平安、の3時代を指す。文献資料が比較的豊富な奈良、平安時代に1980年生まれ以降の若手・中堅研究者の関心が集中する傾向がある。飛鳥とは、継体大王以降であろう。

4 一方、飛鳥以前、縄文、弥生、古墳時代は、原則、「考古」の範囲。もちろん例外はある。一般向けには、縄文以降、平安までを「古代史」としていることが多い。(以上、2024年有富純也編『日本の古代とは何か』光文社新書)

5 飛鳥に人気がないのが、日本史料(海外史料は軽視していることはあいかわらず)としては、古事記(通説)、日本書紀という、当時の権力者に忖度しまくりの史料しかない、ためらしい。(有賀前掲)

6 ということは、それ以前の話(邪馬台国が典型)は、日本歴史学会においては、考古学の領域、「有史以前」、「先史時代」、「民俗学」、「人類学」の領域。私に言わせれば、すべからく「ファンタジー」である。このことは、アマチュアとして最低限、認識しておくべきであろう。不本意ながら。

以上、伊藤睦月筆