ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
副島隆彦の学問道場 投稿日:2025/04/19 15:34

【628】丁寧な書評をありがとうございます。

会員番号「8279」さま

SNSI・副島隆彦の学問道場の研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)です。
今日は2025年4月19日です。

この度は丁寧な書評を掲示板とアマゾンに掲載していただき、
ありがとうございます。

たいへん励みになります。第5章にご注目いただき、ありがたいです。
トランプの返り咲きによって、アメリカの世界覇権国の地位からの
撤退が進むと考えます。

以下の記事も合わせてお読みいただければ幸いです。

※ブログ「古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ」2025年4月8日付記事:「最新刊『トランプの電撃作戦』(秀和システム)の書評が日刊ゲンダイに掲載されました」
https://suinikki.blog.jp/archives/89565898.html

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

古村治彦拝

守谷 健二 投稿日:2025/04/14 10:43

【627】柿本人麿とは何者か、11

  天武天皇の子供の年齢

天武天皇の子供は、二つの群に分けることが出来る。

一つは、天智天皇の娘との間に生まれた子供たち。

二つは、高市皇子、十市皇女、など天智天皇の娘以外の妃に産ませた子供たちです。

一と二の群の間には顕著な相違があります。一の群の子供たちの最高年齢者は、斉明天皇の筑紫行幸(661年正月八日)の際、船上で生まれた大田皇女です。

「壬申の乱(672年六月)」の時点では、まだ十二歳にすぎません。一の群の子供たちは、皆これより幼いのです。

二の群の十市皇女は、天智天皇の長男・大友皇子(弘文天皇、壬申の乱で滅ぼされた)に嫁ぎ、皇子(葛野王)を産んでいた。少なくとも十代の後半にはなっていたのではないか。

また高市皇子は、「壬申の乱」の首謀者で、父・天武天皇に代わって軍を指揮し勝利に導いています。

天武朝・持統朝(天武の皇后)でも、本当の実権者は、壬申の乱を勝利に導き、軍事を握っていた高市皇子でした。(柿本人麿が高市皇子に奉げた挽歌『万葉集』巻第二199は、そのように歌っている)

その高市皇子の母は、宗形君徳善の娘と『日本書紀』は記す。北九州の宗形である。

「壬申の乱」の指揮ぶりなどを見るに、高市皇子は、既に立派な成人になっていたと考えるしかない。

十市皇女は、高市皇子より年長と『日本書紀』は記すから、この二人は、二十歳を過ぎていたようだ。

一の群の年長者、大来皇女(母・大田皇女)は、筑紫行幸の海路で生まれ、その弟・大津皇子は筑紫で生まれている。

天武天皇が筑紫王朝(倭国)と密接な関係があった事は否定して否定できるものではないのです。

  (続く)

 

 

 

 

 

 

かたせ2号 投稿日:2025/04/06 12:31

【626】本田宗一郎と藤沢武夫の人間関係がすばらしい。

本田宗一郎と藤沢武夫の人間関係がすばらしい。

山本祐輔『藤沢武夫の研究 本田宗一郎を支えた名補佐役の秘密』かのう書房〈人の世界シリーズ〉、1993年1月、236頁。

(引用開始)
舞台や音楽鑑賞を趣味とした藤沢に対し、本田はゴルフなどの行動的な趣味を持っていた事から、不仲説が浮上したことがあった。しかし当人たちは、互いが当時住んでいた地名の「下落合」(本田)、「六本木」(藤沢)と呼びあうなど良好な関係だった。「いつも手をつないで一緒にいるのを仲良しとは呼ばない。私達は離れていても、今この瞬間、相手が何を考え、どうするかが、手に取るように分かる。」とも語っている。藤沢の死後、1989年に本田が日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを果たした時に、本田は授賞式を終えて帰国したその足で藤沢邸に向かい、藤沢の位牌に受賞したメダルを架け「これは俺がもらったんじゃねえ。お前さんと二人でもらったんだ。これは二人のものだ」と語りかけた。
(引用終わり)

以上

会員番号 8279 投稿日:2025/04/06 01:22

【625】古村治彦氏の新刊「トランプの電撃作戦」を読んだ感想。

はじめまして。
会員番号8279の者です。

古村治彦氏の新刊「トランプの電撃作戦」を読みましたので感想を投稿します。

拙い文章になりますがよろしくお願いします。

トランプ分析に関する本として非常に優れていると思います。

まず2024年のトランプ当選の功労者であるイーロン・マスクの分析はもとより、
彼と関係の深いピーター・ティールについても「詳細」に分析されているのがいい。
(彼らの生い立ち、経営してる会社、誰が彼らをトランプと引き合わせたのか?の分析がある)

個人的に好きな章は第5章の「トランプ率いるアメリカから離れ、ヨーロッパはロシアに、アジアは中国に接近する」である。
気にいった理由は本書のサブタイトルの箇所にも含まれてるが、アメリカの世界覇権からの撤退、
脱ドル化に向かうアメリカとそれ以外の国の近未来の分析及び予測がされているから。
(特にインドネシアの分析は日本の衰退を鈍化させるためにも重要だと思っている)

P271には、2024年に中国の最高指導部の要人たち(習近平を含む)と会談できた某アメリカ人の名前及びその分析がある。
(習近平には一国の首脳でも会うのは難しい。またアメリカは衰退国家で中国は上がり調子の国なので中国抜きの政治分析は精度が低いものとなる)

P122~126ではCIAとDNIの閣僚人事を分析することでトランプが「大きい戦争を起こさない」という決意をしている事がわかる。

また本書P173~185になるが、現時点での情報はかなり少ないはずなのに
2028年の米大統領選に立候補しそうな人物やその周辺情報についても分析もある(笑)。

あと本書の情報量は膨大なので、将来、トランプ関係のニュースがあった時の手引書的な
資料として購入し、本書と照らし合わせるのもいいと思う。
(英文の記事等を読みウラをとるのはかなりシンドイ)

世界(日本を含む)の政治・経済に興味のある方には必須の書籍であると思う。

最後になりますが、今回投稿した本文とほぼ同じ内容のものをamazonのレビューに投稿しようと
した所、レビューが反映されず、翌日にレビューのサポートにメールで問い合わせた所、
レビューの承認に1週間ほど、時間をみといて下さい、という回答でした。
試しに過去私がamazonで買った中古の商品のレビューを書いたところ20分程度で反映されました。
権力者(達)の共同謀議を感じました(笑、冗談です)

以上です。

守谷 健二 投稿日:2025/03/31 11:28

【624】柿本人麿とは何者か、10

 天武天皇の結婚の異常さについて

『日本書紀』は、天武天皇を天智天皇の「同母の弟」と明記します。同じ両親(舒明天皇と皇后・後の皇極天皇、重祚して斉明天皇の間)から生まれた兄弟であると。

『日本書紀』は、天智天皇の娘を十人と記している。その十人の内、四人も天武天皇は娶っているのだ。また天武の長男・高市皇子も一人、皇后(天智の娘・後の持統天皇)の間に生まれた草壁皇子の妃も天智の娘・阿部皇女(後の元明天皇)である。高市皇子の妃は、安部皇女の実の姉・御名部皇女(みなべのひめみこ)である。

まるで天智天皇の血を、天武天皇とその子供で独占しようとしているように見える。

少しでも品種改良に関心を持った人間から見ると、全く系統の違う(性質の異なる)個体から新しい性質を持つ個体を作り出す際の交配のように見えてしまうのです。天智と天武は「同母の兄弟」などではなく、全く系統の異なる人間だったのではないかと。

『日本書紀』の言うように天智と天武が「同母の兄弟」であったなら、どうして天武は天智の娘を四人も娶り、子供を作る必要があったと云うのです。

天武はペドフィリア(異常幼女性愛症)であったとでも言うのだろうか。

ふたりを「同母の兄弟」とすれば、これらの結婚は全く異常です。歴史学者たちは、この異常さに気付かないのでしょうか。

私が最初に天智と天武が「同母の兄弟」とすることに疑問を持ったのは、天武結婚を調べた時からです。どのように考えても実の兄の娘を四人も娶るのは異常に思えたのです。

      (続く)

かたせ2号 投稿日:2025/03/27 09:47

【623】外にも出よ 触るるばかりに 春の月

https://sakuramitih31.blog.fc2.com/blog-entry-5152.html

外にも出よ 触るるばかりに 春の月
                     中村汀女

(とにもでよ ふるるばかりに はるのつき)

意味・・赤みを帯びたそれはそれは大きな月が山の端に
    上りました。それを見つけた作者は人々に呼び
    かけます。こんなに佳(よ)い月が上がっている
    のに、家に籠っているなんてもったいない。外
    に出て共に月を仰ぎましょう!

    単に外出するというだけでなく、自分の殻から
    出ませんか?という意味が含まれているように
    も思えます。いつもの場所、いつもの自分から
    飛び出して、月に花に親しんでみませんか?
    そこには思いがけない出会いや答えが待ってい
    るかもしれません。

作者・・中村汀女=なかむらていじょ。1900~1988。
    高浜虚子に師事。

出典・・句集「花影」(黛まどか著「あなたへの一句」)

守谷 健二 投稿日:2025/03/21 11:33

【622】柿本人麿とは何者か、9

倭国(筑紫王朝)は、「夜郎自大」と云う病に侵されていた

「白村江(663年八月)の戦い」で言い表されている倭国の朝鮮出兵に関し、私は長年大きな疑問を抱いてきた。相手は、唐・新羅連合軍である、倭国の指導者たちには勝利の確信があったのだろうか。

勝利の確信も無しに海外派兵に踏み切ったのだろうか。丸二年にも及び三万余の大軍の派兵であった。

「滅ぼされた百済王朝を援け再興を計るため」などと云うきれい事で出兵事で出兵を決めたのではない。

新羅討伐は十年来の喫緊の課題であった。650年唐の冊封体制に入ったこと(唐の属国になった)が原因である。

それまで朝鮮半島の南部二国(百済王朝と新羅王朝)は倭国の属国であった。

『隋書』倭国伝より引用

新羅・百済、皆倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒に通使往来す。

引用終わり

『日本書紀』孝徳紀(在位645~654)より引用

白雉二(651)年、この歳、新羅の貢調使(みつぎたてまつるつかい)知萬沙飡等、唐の国の服を着て、筑紫に泊まれり。朝廷、恣(ほしきまま)に俗移せることを憎みて、呵責(せ)めて追い返したまう。時に、巨勢大臣申す、「まさに今新羅を討たずば、後に必ず悔いあらむ。・・・

引用終わり

新羅が唐の冊封体制に入ったことは、倭王朝に対する重大な裏切りであり、宗主国倭王朝にとって赦すべからざる行為であった。

倭王朝は、すぐにでも新羅討伐軍を派遣したかったが、背後に控える日本国(大和王朝)が近年目に見えて国力を充実させていた。両国の関係はあま良好とは言えなかった。

倭王朝は、何としても大和王朝の協力を取り付ける必要があったのです。

それにしてもどうして倭王朝が、中国統一王朝の隋・唐と張り合って帝国を目指したのでしょう。

二世紀の終わり漢王朝が滅びてから589年の隋の中国統一まで、中国には強力な統一王朝は成立しなかった。分裂王朝の短命政権の時代が続いた。周辺国家に中国を侮る気分が生まれていたとしても不思議ではない。

また隋朝・唐朝は漢民族の国家ではない、周辺民族・女真族の王朝だ。隋朝は極短命に終わっている。唐朝も短命に終わるだろうと、倭王朝は考えたのではなかろうか。

倭王朝は、中国統一王朝の隋・唐と対等と考えていたようだ。

『隋書』倭国伝より

大業三(607)年、その王多利思比孤、使を遣わして朝貢す。使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来たって仏法を学ぶ」と。その国書に曰はく、「日出ずる処の天子、日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、云々」と。・・・

引用終わり

    (続く)

守谷 健二 投稿日:2025/03/14 09:56

【621】柿本人麿とは何者か、8

『日本書紀』斉明紀(在位655~661)に登場する日本国(大和王朝)と倭国(筑紫王朝)

 

『日本書紀』斉明紀より引用

壱岐連博徳の書に曰く、斉明(659)五年七月三日、難波の三津浦より船出する。・・・閏十月三十日唐の天子に謁見を許される。天子相見て問いたまう「日本国の天皇、平安にますや否や」とのたまう。・・・

十一月一日、朝廷に冬至の会あり。参内している諸藩の使者の中で倭の使者が最も勝れて見えた。・・・

十二月三日、韓智興(倭国の使者)の従者・西漢大麻呂が我が客(日本国の使者)を唐朝に讒言して罪に落そうとした。(日本国の使節と倭国の使節の間で喧嘩が勃発したのである)両使節は喧嘩両成敗で刑を受けたが、壱岐連博徳の尽力によって許された。

事件の後、唐朝が言うには「唐は、来年海東(朝鮮半島)戦略を変える。(今まで陸路から高句麗討伐を優先していたが、海路から百済討滅を優先することにした。事実翌年(660)の八月、百済王朝は滅ぼされている)

それ故、使者たちが帰国する事は禁じられた。・・・

引用終わり

唐の都に、日本国の使節と倭国の使節が同時に滞在していたと云うのです。

日本の学者たちは、日本国と倭国は同じと云うのです。キチンと読んでいるのでしょうか、正常な読解力があるのでしょうか。

この壱岐連博徳の書で分かるのは、倭国の使者が、日本国の使者に敵意を持っていたことです。

と言う事は、日本国の使節が出発した斉明五年七月の時点では、日本国と倭国の間には同盟が成立していなかったと言う事です日本国は倭国の働きかけ(一緒に百済を討とう)に応じなかったのです。倭国は、唐朝も隋朝と同様短命に終わるなどと調子のよい事を言っていたのでしょう。

日本国は自分の目で確かめるために遣唐使を送ったに違いありません。

この遣唐使が早急に帰ってこなかったために日本国(大和王朝)に迷いが生じたのでしょう。

  続く

かたせ2号 投稿日:2025/03/05 06:08

【620】本当は、「勝ちに不思議の勝ちあり」も滋味があるコトバなのだが。

日本人以外ならばむしろ、勝ちに不思議の勝ちあり、のコトバに、神さまからの盛大な恵みを感じいることだろう。

以下はすべて引用。
https://ksien.com/2021/10/07/no_wonder/

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」

肥前国第9代平戸藩主、松浦清の言葉。
東北楽天ゴールデンイーグルスの名誉監督、野村克也氏の座右の銘として話題になりました。
「負けるときは、負けにつながる必然的な要因がある(不思議な点はない)」
しかし、「勝つときには、(どうして勝ったのかどうも思い当たらないという)不思議な勝ちがある」ということである。

負けにつながる必然。
偶然に負けることはない。
事業承継にも当てはまるのではないか。
そんな思いを確認しるために、大学院で研究することにしました。

世界には、有史以来無数の企業が存在しています。
その中で、現存している企業数は少ない。
それぞれの企業が、事業承継の時期に事業を引き継がなっかた、もしくは、引き継げなかった何らかの原因があるのではないか。
その原因の一端がわかることで、望まない廃業が減少できるのではないか。
そんな思いが私を研究に駆り立てています。

世界最古の企業は、西暦578年創業の金剛組。
四天王寺建立のため聖徳太子によって百済より招かれた3人の宮大工(金剛、早水、永路)のうちの1人である金剛重光により創業。
少なくともこの時代以降、企業は存在していたし、いろいろな企業が創業し、廃業している。
そのすべてを明らかにすることはできないが、少しでも、ほんの数例でも明らかにできれば、意味があるのではないでしょうか。

先行研究で明らかになっていることもありますが、事例研究をするのは一人の研究者では難しい。
幾人もの研究者が、時代を超えて、事例研究を重ねることが重要であると思います。

事業承継支援を、事業として行っているからこそ、その事例研究に参加するのは、ある意味義務ではないかと。
失敗の原因は、個別に見れば、相関性や類型化は難しくても、事例を積み重ねることで、精度の高い研究になると思います。

「失敗」のとらえ方は人それぞれかもしれません。
しかし、事業を継承できなかったという事実は、その通りでしょう。
時代・環境・運等、いろいろな要因はもちろんあると思います。
単一の要因ではなく、複数の要因が重なった結果というのも、そうでしょう。

だからこそ、一つ一つの事例を検証し、確認していくこと、その作業を継続していくことが重要だと思います。
先行研究を通じて、過去の先輩たちと会話をし、研究結果を残すことで、後輩に託すことができる。
研究のだいご味はこの点ではないでしょうか。

どこまでできるかわかりませんが、自分自身の可能な範囲で研究を続けていきたいと思います。

 

守谷 健二 投稿日:2025/03/01 02:43

【619】柿本人麿とは何者か、7

 『日本書紀』斉明紀に登場する日本国と倭国

斉明天皇の在位は西暦655年から661年の七年間、661年正月六日、天皇は筑紫行幸の旅に就く、その二日後大田皇女が船上で女子(大来皇女)を出産した。この事は前に論じた。

 今回論じるのは、斉明紀には、日本国(近畿大和王朝)と倭国(筑紫王朝)が別々の存在として登場していると云う事実である。

 斉明紀には「壱岐連博徳(いきのむらじはかとく)の書に曰はく」と云う引用記事が長々と載せられている。

 壱岐の連博徳は、斉明四(658)年に大和王朝(日本国)から派遣された遣唐使の通訳に採用された人物であった。

 「壱岐連博徳の書」は、その博徳の大和王朝に提出した業務報告書で、日本書記の編者はそれを引用して『日本書紀』斉明紀を創ったのである。日本の歴史学者たちは、斉明紀に日本国と倭国が同時に書かれていることを、皆知っていたのである。『旧唐書』と『新唐書』のどちらが正しいか、みんな判っていたのだ。

 『旧唐書』は、七世紀の日本を倭国と日本国の並立王朝の時代と書く、一方『新唐書』は、日本では開闢以来大和王朝しか存在せず、大和王朝の天皇が万世一系(王朝の交代など起らずに)で日本を統治して来たのである、と書いている。

 『旧唐書』も『新唐書』両書とも中国の正史である、しかし日本認識では甚だしく異なっているのだ。

   続く