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Loginはこちら【547】三角縁神獣鏡について
2054です。今回は三角縁神獣鏡について考察いたします。
(1)学会の見解について
三角縁神獣鏡については、邪馬台国の卑弥呼が魏から賜与された鏡であるとの見解が有力で、三角縁神獣鏡を邪馬台国が独占的に入手し、卑弥呼の晩年から初期のヤマト政権が誕生する数十年にわたって「王権の威信材」として継続的に利用されたとします(福永伸哉『三角縁神獣鏡とヤマト政権の形成』、日本史の現在1考古・山川出版社p139)。
学会内では魏で作られた鏡とする通説(魏鏡説)と日本製鏡とする説(日本製説)に争いがありますが、三角縁神獣鏡は畿内において圧倒的に多く出土されており、魏の年号を用いた鏡も島根県雲南市で出土しています。そのため、「もし仮に日本製だとしても、年号などから卑弥呼が魏から賜った鏡として配られたことは明らかだから中心が畿内にあることは動かないだろう」(大津透、日本の歴史1 講談社学術文庫 電子書籍版:8/100%)とします。卑弥呼は畿内に所在することは「明らか」とするわけです。今回はこれらの見解を学会の通説として考察をしてみたいと思います。
(2)魏から出土されない鏡
三角縁神獣鏡は上記のように「魏から送られた鏡」とすれば、不思議なことに魏の領域から1枚も出土されません。このことは学会通説も認めざるを得ない事実です。日本からは数百枚以上の出土があり、日本特有の鏡です。魏の皇帝が邪馬台国に渡した銅鏡とすれば不思議なことです。そのため、学会内では、「それ見たことか、あんな鏡は日本列島で作った模倣品なんだよ」(日本製説)や「いいや、魏の皇帝が普段は作らない三角縁神獣鏡を特注して渡したのだ」(魏鏡説)その他もろもろの百家争鳴状態が続いているようです。
(3)私見について
2054です。結論を先に申し上げると、三角縁神獣鏡は「卑弥呼が魏から賜った鏡」ではなく、邪馬台国が独占的に入手していたものでもありません。「高句麗が製作して東倭が受け取った鏡」と考えられます。その根拠を何点かあげます。
(3‐1)まず三角縁神獣鏡の「送り手:作り手」についてですが、魏でも日本列島でもない「第三の候補」が無視されてきました。戦前の先行研究に梅原末治『増補鑑鏡の研究』(1925年)があり、それを参考文献に挙げる白崎昭一郎『方格規矩鏡と三角縁神獣鏡の関係』東アジアの古代文化94号(1998年)によれば、中国東北部や北部朝鮮では、三角縁神獣鏡そのものは出土していませんが、三角縁神獣鏡の源流をなす祖型の鏡は、出土しているとのこと。つまり高句麗や公孫氏など、魏以外の国でも三角縁神獣鏡を製作している可能性があるわけです。
(3‐2)つぎに三角縁神獣鏡の「受け取り手」ですが、邪馬台国と決めつけているのは、その当時に中国大陸と交渉しているのは邪馬台国しかないという「決めつけ」によります。そもそも論ですが、その点が誤っています。出土している地域を見れば、東倭が受け取っていることが想定されます。
魏の青龍三(235)年の年号の入った方格規矩四神鏡が出土したのは京都府弥栄町(丹後半島)で、景初四(239)年の年号の入った三角縁神獣鏡は京都府福知山市から出土しています。いずれも邪馬台国の支配領域ではなく、東倭の本拠地です。特に240年正月に東倭は魏に朝貢しています。この東倭の使者は高句麗を経由していますので、福知山市で出土の鏡は、そのときに高句麗から受け取ったものと考えられます。
(3‐3)邪馬台国が畿内にあるとするいわゆる畿内説(学会通説)は、三角縁神獣鏡が畿内で多く発見されることを有力な根拠として、邪馬台国の畿内説は揺るがないと考えているようです。そして、「三角縁神獣鏡を利用した王権の政治活動は、卑弥呼晩年の240年代頃から初期ヤマト政権段階の数十年にわたって継続したと理解できる」と結論付けています(福永伸哉、同掲書p139)。
しかし小林説では、邪馬台国は北九州にありましたがその邪馬台国は高句麗東川王によって滅ぼされており、また、三角縁神獣鏡とも無関係とします。高句麗東川王は近畿地方に東遷して「大倭(やまと)政権」を樹立しますので、近畿地方に多く集中するのは当然の成り行きです。
(引用はじめ:小林恵子『古代倭王の正体』祥伝社新書p114~116)
早い時期の三角縁神獣鏡には「陳氏作鏡」という銘の付いたものがある。また 銅は徐州から出、師は洛陽から出たと刻された鏡もある。つまりは鏡本体の銅も中 国産、製作者も中国出身なのだが、この形の鏡は中国には一枚もないといわれている。遼東・半島でも出土したという話は聞かない。したがって魏が卑弥呼のために特注したという説が一般的である。しかも、この鏡が大和地方で多く発見されていることから邪馬台国近畿説の有力な証拠とされている。しかし私は、卑弥呼の鏡は前にも述べたように江南の呪術師の持つ内行花文鏡と考えている。
三角縁神獣鏡が列島にしか存在しない理由は、神武がまだ高句麗王だった時代から鏡好きの列島の小国に高句麗支配のしるしとして贈ったからと考える。
刻印の文からみても景初三(239)年という早い時期の三角縁神獣鏡ですら、まったく韻文になっていないので中国産ということはありえないという意見がある。特に魏では韻文で詩を書くのが流行していた時代である。東川王は銅を徐州から取り寄せ、鏡製作者を魏の都洛陽から呼び寄せたが、鏡の韻を注意するような漢人の側近はいなかったらしい。
神武勢力は、東遷して大和地方に入ってからも各地に支配のしるしとして三角縁神獣鏡を配った。三角縁神獣鏡は神武勢の定着した近畿地方で最も多く出土するのは当然なのである。ということは東川王が列島に渡るに際して、鏡製作者と銅を伴っていたと推定される。
(引用おわり)
2054です。小林説による240年代~260年代の政治動向を上画像にまとめました。
【519】仮綬の意味について(2024/12/08 08:46投稿)と【521】東川王の東遷(神武東遷)について(2024/12/09 06:12投稿)と説明が重複しますがご容赦ください。
魏の毌丘倹・王頎によって圧迫された高句麗東川王は、活路を日本列島に求めます。247年に邪馬台国を急襲、卑弥呼を殺害して倭王を僭称します。
九州の土着勢力の反発もあり、近畿地方に向けて東遷します。7年間安芸に滞在し、255年の毌丘倹勢力の没落を機に吉備を征服。その間に東川王も死去します。備前車塚古墳(岡山県)は初期の三角縁神獣鏡が集中して陪葬されており、東川王(神武天皇)の墓と考えられます。
そして神武天皇の息子である神渟名川耳(かみぬなかわみみ)が265年までに近畿地方を征服し、266年正月に綏靖天皇として即位します。これが大倭(ヤマト)政権で、全国各地の土着勢力を支配する際には三角縁神獣鏡を配布したものと思われます。
なお、余談ですが、魏志倭人伝を著した陳寿は、上記のような神武東遷の事実もある程度、把握していたものと推察されます。それが「大倭」を魏志倭人伝に記した理由と考えられます。
【546】ワタシは、将棋の羽生善治先生の人間性推しです
ワタシは、将棋の羽生善治先生の人間性推しです、の件。
かたせ2号です。
ワタシは、将棋の羽生善治先生の人間性が大好きです。
その理由を書いておきます。
(1) これは前フリです_幼年期のエピソード
小学生時代、将棋会場にいる羽生さんがすぐに見分けがつくように、ご両親が羽生さんに広島東洋カープの赤い帽子(目立つ色)をかぶせていた。たしかに、いい目印ですね (^o^)
「広島東洋カープの帽子をかぶって将棋盤に向かう小学3年の羽生善治九段=1979年暮れから1980年3月頃」の写真が以下のリンクに表示されています。毎日新聞サイト。
https://mainichi.jp/articles/20230203/k00/00m/040/224000c
(2) 最近のエピソード(2023年10月20日)
記事名「全八冠独占」の藤井聡太八冠と、「七冠制覇」当時の羽生善治会長、どっちが強い?羽生さんの意外な答え|TBS NEWS DIG
(一部文字起こし開始)
質問「27年前の羽生7冠と今の藤井8冠が対局したら、どっちが強いでしょうか」
羽生善治さん「アッハハハ、全然かなわないですけど、全くかなわないです」
(一部文字起こし終わり)
かたせ2号です。
以下にこの動画についていたコメントの一部を記載します。
・笑って全然敵わないですって普通に言えることにこの人の強さと優しさが出てると思う。
・将棋界の伝説と言える現会長が30歳以上も下の21歳の藤井さんに笑顔でこれが言えるのどれだけ凄いことか。カッコ良すぎるわ
・羽生さんはただの七冠ではない永世七冠
藤井八冠も史上初の八冠で凄まじいし、いずれ永世八冠になるんだろうけど、羽生さんの偉大さはまだまだ色褪せることがない
・羽生さんは偉ぶる事もなくユーモアもあって本当に素晴らしい人柄だよな~
・年下や後進を笑顔で即答、持ち上げれる先輩ほど人が出来た人はいない。これが本当の人間の鑑。どんなタイトルや称号も敵わない。
・敵わないって言える人ってほんとに強いひとだよね。羽生さんすごい
・羽生さんにもプライドあると思うけど、そこであえて、しかも笑顔でかなわないって言えるのは、もう神様にしか見えない
・羽生さんの穏やかな表情からは想像も付かない気の強さは有名ですよね
・偉大な人ってその界隈を詳しく知らなくても凄い人なのが伝わる。羽生先生素敵です
・謙虚なのが良い、しかも建前じゃなく、短い動画の中にも人柄の良さ出てる
・素敵すぎる。人柄でも国民栄誉賞だよ。
・羽生さんのように年下の人にも敬意を示せる人間になりたいですね
かたせ2号です。ワタシも上記のコメントに同意します。
漫画界の至宝である手塚治虫先生にも、こういう感じでいてほしかったですねえ。
さて、話が脱線しました。。。
(3) ワタシは将棋のルールは知ってはいますが、まったく将棋は弱く、詰将棋も3手詰めが限度の人間です。そんなわたしでも、以下の羽生善治先生の発言は、「すごいなこの人」とわかった発言があったので紹介しておきます。羽生善治さんが、本当に楽しそうにしょべっている動画なので、この動画はワタシのお気に入りです。
羽生善治九段が水曜どうでしょうについて語るまさかの映像 (2022年10月30日)
(一部文字起こし開始) (7分25秒ころから)
自分が描いた構想とかプランどおりにやるというのは、あまりいい手ではないことが多くてですね、
なんでも好きなようにやってくださいよ、という感じで(対局相手に)手を渡せる方がいい手であることの方が多いです
(一部文字起こし終わり)
かたせ2号です。
いいコメントなので、とても参考になりました。
上の上の上のレベルの戦いというのは、こういうのでやってるのかと、すごく勉強になったように、ワタシには思えました。
以上
【545】小林説が、正当性を証明すべきで、2054氏は勘違いしているのではないか。
伊藤睦月です。これから騎馬民族征服王朝説の検証をやっていくことになるが、一つ注意しておきたいのは、本来は、正当性を証明しないといけないのが、江上=小林側であること、です。私が学会主流の見解に注目しているのは、それが、わが国の公式見解だからだ。その公式見解を否定修正しようとするのだから(多数説でなくても、少数説のなかに真実があると主張するのだから)まずは多数説が何かを見極め、その問題点を吟味検討したうえで、必要があれば、自説を通説の代替案にして提示する。その点小林説は多数説でもなんでもありません。今のままでは単なる独りよがりの個人学説です。それを少しでも残念に思うなら、一般向けだから、とか言い訳しないで、小林説で、学会通説を正々堂々と論破してみせてください。2054氏が「小林推し」なら、「副島推し」「岡田推し」の伊藤に対し「小林本をゆっくり読んで、やってください」などと、寝言を言ってる余裕はないはずです。私に上から目線で「ご指導いただく」前に、まず、2054氏が、副島先生をうならせるような、小林説の論考を投稿したらどうですか。私は自分の推しの正当性をどうやって証明しようか、どうやったら副島先生が一目置いてくれるような論考が書けるか、常に思案しています。でもこれは副島先生を含む、他人から指示、指導されてそうやっているのではありません。自分で決めて、勝手にやっていることですから、他人から、とやかくいわれるいわれはありません。失礼にもほどがある。2054氏は何様のつもりだ。ご自身の立ち位置がわかっていないのではないか。
以上、伊藤睦月筆
【544】細かいことは気にするな! 財布を落としたことくらい 笑
細かいことは気にするな! 財布を落としたことくらい 笑、の件。
かたせ2号です。
2024年12月の今月、シリアのアサド政権があっさり崩壊して、世界は、すでに大動乱期に突入しているのに、
日本だけは、こんな細かい話での(Xへの)投稿に、
500万以上の数の閲覧(インプレッション)がついたそうです。
ああ、びっくり・・・
どうでもいいじゃん、こんなこと、(あきれ顔)
日本は、衰退しながらも、いまだに大動乱期に入っていないことの証拠ですね。
平和ですなあ。。
さらさんのXへの投稿
https://x.com/_Shotta_2525/status/1868795799590896040
<情報加筆して引用開始>
(2024年12月17日(火)午前7時59分(JST)での出来事。
TBSの朝の番組で)
(アイドルグループSnowManに所属する)佐久間大介さんが財布を落としたことを何故か知っている安住紳一郎アナ
※財布を落としたことは言っていない
※安住アナが拾ったわけではない
(動画つき)
<情報加筆して引用終わり>
かたせ2号です。
それから3時間半の後、当の佐久間大介さんから、真相判明の(Xへの)投稿がなされました。
最終更新 午前11:32 · 2024年12月17日(JST)
https://x.com/SAK_SAK_SAKUMA/status/1868846688703857053
(引用開始)
そういえば!!!!!!!
今朝の #ラヴィット で安住さんが佐久間のお財布の話をしたやつの真相がわかった!!
この間、TBSのエレベーターに深澤と乗った時に、たまたまスーパーオフモードの安住さんが居たらしくて、
そこで財布が消えてしまった話を安住さんが聞いていて、
今日その話を振ってくれてたみたいww
本当に気付けてませんでした (>_<)
すみません安住さん (>_<)
いや〜すっきりした〜 (^^)
(引用終わり)
かたせ2号です。
佐久間大介さんへ。
ワタシの個人的直感に過ぎませんけど、
おそらく「たまたま」スーパーオフモードの安住アナは、そのエレベーターの中には「いなかった」と思いますよ。
たまたまは、
大阪の「スーパー玉出(たまで)」だけでよろしいかと。
以上、大動乱期にいまだ到達していない、平和な国日本からの、ご報告でした。
以上
【543】伊藤氏の投稿を批判します(【542】について)
2054です。
小林恵子さんは、(ご本人がどこかに書かれていましたが)生来、弱視のようです。
レーザー手術で直るかどうかなんてわかりませんし、そんなことは伊藤氏が論じることではありません。
そもそも他者の健康状態について言及・批判の対象とするのは、行儀がよくありません。学問道場の品位も下げます。
小林恵子の著作(現代思潮新社・祥伝社)は学会向けに論文として著しているわけではありません。自説を一般向けに紹介しているのですから、いちいち他の学者の主義主張に言及することはありません。私から見ると必要な限りで十分言及されていますし、参考文献も豊富に巻末にあります。あとは読者の判断に任せているのでしょう。
古田説(九州説)岡田説(華僑説)が正しいと思われるのであれば、小林説と比較して具体的な根拠をもって批判すればいいだけのこと。それは伊藤氏に是非期待したいと思います。学問道場の掲示板に投稿するなら、そういうハイレベルな論考が良いでしょう(読んでいて知的刺激があって楽しめます)。
伊藤氏は、あまり結論を性急に求めず、小林さんの現代思潮新社からの一連の著作を読まれてから判断されたほうが良いと思います。
【542】小林恵子説のプロトタイプとしての「騎馬民族征服王朝説」について(3)
伊藤睦月です。【541】の続きです。書く方も読まされる方も飽きてきた頃でしょうから、できるだけ手短に書きます。引用の煩を避けるため、あらかじめ、対象となる文献を列記します。
1 江上波夫『騎馬民族国家』(中公新書)
2 江上波夫・佐原真『騎馬民族は来た!?来ない!?(対談)』(小学館)
3 佐原真『騎馬民族は来なかった』(NHKブックス)
4 小林恵子『古代倭王の正体』(祥伝社新書)
5 小林恵子『江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武三世紀・三国時代(現代思潮社)
です。あとは私の考えを述べます。いきなり結論から。
1 21世紀に入り、「騎馬民族征服王朝説」の議論自体、事実上無意味になっている。副島「帝国ー属国理論」から派生する、「難民」理論で十分説明可能。
2 「騎馬民族征服王朝説」とは、邪馬台国九州論者たちによる、「邪馬台国東遷説」のバリエーションであり、その文脈で議論すれば足りる。
3 この説が発表された、1948年時点では、「民族」(ethnicity)の概念は、それほど厳密には定義されず、また、現在ではその概念を認めるべきかどうか人類学の分野では議論になっている。当時は「部族」(tribe)や氏族(clan)とほぼ同義のような使われ方をしているように思える。
4 であれば、「騎馬民族」ではなくて「騎馬の文化を身に着けた、部族、氏族、」とすれば、これは日本史学、考古学の主要テーマである「渡来氏族、帰化人論」として、日本列島征服後に騎馬民族なる部族がどう日本社会に入り込んだか、という従来研究にもつながる。
5 この「騎馬民族王朝征服説」は事の適否は別として、「日本考古学会内の議論」であり、学会村のよそ者である「小林恵子」が「ちょっかい」を出している構図だろう。だから、学問の常道からすれば、不当な取り扱いをうけているのだろう。(学者にとって自説を否定されるよりも無視される方がつらいのだと思う)
6 その小林恵子にしても、その著書の冒頭付近で、古田武彦(失われた九州王朝)、岡田英弘(倭国)を引用文献として掲載しながら、両者の主要主張部分には全く言及せず、私に言わせれば「不当に無視」している。これは、以前投稿したけど、「もっともやってはいけないこと(悪癖)BY安本美典」の最たるもの。古田はアマチュア歴史愛好家、岡田は東洋史学会の「よそ者」だからと無視しているんだ、と勘ぐっている。そうなると、三笠宮から可愛がられた、というエピソードも、本当だろうが、それが何か?と不審に思っている。
7 特に岡田は、ウィキペディアにも取り上げられるほどの、「騎馬民族征服説」否定論者で、小林が引用している『倭国』(中公新書)には、わざわざ『騎馬民族の時代』という一章をもうけ、いわゆる騎馬民族というのは、中国大陸や朝鮮半島の動乱から日本列島に逃れてきた「中国人(華僑)難民」たちであろう、という仮説をたてている。小林はこれに対して何の反応もしない。これでは、小林に対する学会村の連中の態度と変わらないではないか。自説を無視されることの悲哀はご本人が一番わかっているのではないか。
私は、子供の時に、親から「自分がいやなことは他人にしてはいけない」と教えられてきたので、こういう言動にはどうしても反応してしまう。「80歳の白内障のばあさん」であっても容赦しません。80歳なら、健康保険1割負担で、最新のレーザー手術で白内障治療できますよ、と憎まれ口をたたきたくなる。私の亡母もそうして、視力をとりもどしました・・・
少しエキサイトして横道にそれてきたので、それこそ少し、頭を冷やします。
以上、伊藤睦月拝
【541】小林恵子説のプロトタイプとしての「騎馬民族征服王朝説」について(2)
伊藤睦月です。前回の【536】の続きです。
まず、小林恵子の定義を再掲します。
騎馬民族征服王朝説とは、
(2)ー1:列島で巨大な古墳が作られた4世紀頃から
(2)ー2:大陸の遊牧民が大挙して、列島に押し寄せ、
(2)ー3:それまでの土着民を征服し、
(2)ー4:国家を建設した。
(2)ー5:このことは、巨大古墳や、
(2)ー6:発掘された武具や馬などの遺物から証明される、というもの。(小林同書、枝番は伊藤)
(3)ー1:伊藤睦月です。さらに小林は、「江上氏の学説の根拠は、日本人が自由に大陸に行くことができた1930年代に(注:江上説が発表されたのは。1948年、日本独立、日中国交回復前)
(3)ー2:大陸の古墳や出土品と日本の古墳時代の出土品を比較検討した結果、その「関連性」に注目したことにあった。(以上同書)
(4)伊藤睦月です。この定義は、江上の主張をよくまとめています。これに批判者がリマークするポイントがあって、
(2)ー7:江上のいう「騎馬民族」とは、騎乗をマスターした「遊牧民」を指し、「農耕民」(漢民族、日本人など)が、騎乗を覚えたり、文化遺物があっても、「騎馬民族」とは言わない。(江上波夫『騎馬民族』中公新書)この「騎馬民族」の定義は、融通無碍に論争する江上にしては、相当厳格な定義です。批判者の標的にもなりました。
(4)伊藤睦月です。この定義によると、江上説には、小林説との関連で、次のような特徴があります。
(5)「騎馬民族王朝征服」は4世紀(古墳時代)に起こったこと。
(6)江上波夫は、もともと考古学者であることから、考古学の成果を重視している。彼の主張をまとめた『騎馬民族国家』(中公新書)の論証のメインは古墳とその出土品分析である。
(7)また、江上が採用した、考古学分析は発表当時は、戦前からのオーソドックスなものだったが、のその後の発展、炭素21年代測定法など科学的分析手法の導入については、「消極的」(佐原真:元国立民族博物館副館長)である。
(8)そして、文献学的な面においては、自説を強調するにとどまっており、考古学のそれと比べ、実証に弱い。
(10)伊藤睦月です。以上のような方法を前提に、江上が描いた「騎馬民族征服」のストーリーはおおむね、次の通り。小林恵子が、どう継承、発展させていったかに留意。(以下佐原『騎馬民族はこなかった』1993年、江上『騎馬民族国家』などから、伊藤が要約します。)
(11)ー1:東北アジア等の騎馬遊牧民族の国々、
①扶余、②高句麗、③百済、の系統をひく王侯貴族が、「任那(みまな):伽耶、加羅」にきた。
(11)ー2:「任那」に「辰王朝」があった。
(11)ー3:崇神天皇(第10代)を主役として、騎馬民族軍団をもって、(朝鮮南部の)辰から、北部九州に上陸
(11)ー4:北部九州に扶余・韓・倭の連合の「日本国」をつくる。
(11)ー5:北部九州筑紫の勢力を加えて、
(11)ー6:応神天皇(第15代)のとき、東に進み、大阪平野へ進出
(11)ー7:ここで、日本列島の支配を目指して、「日本国」から「倭国」へと国号変更
(11)ー8:応神以降の「倭の五王」で、日本列島征服を成し遂げた
(12)ー9:雄略天皇(21代)の時代前後に「大和王朝」を始める。
伊藤睦月です。以上が江上説の概要、です。次回は、江上説にどのような批判がなされてきたか、を紹介します。細かすぎる議論かもしれないが、これでも乱暴なくらい、端折っています。あしからず。
以上、伊藤睦月筆
(10)-1
【540】ブレイク:史癖(しへき)は、佳癖(かへき)なり(続き)
伊藤睦月です。前回からの続きを書きます。まずは、引用から。(引用開始)
(古代の))推理においては、次の二つのことが大切です。
(1)得られた証拠は、確実なものか。
(2)証拠から、結論に至る推理の道筋はたしかか。
伊藤睦月です。次は「悪癖」について
(1)推理というよりも、想像や連想を大幅に重ね、トンデモ本と変わりがなくなっているもの。
伊藤睦月です。私のいう「ファンタジー」ですが、単なるトンデモ本と片づけられるのは、少し違うかな、と思います。これ以降は、(1)の各論です。
(2)たとえば、「邪馬台国の九州説」、あるいは「畿内説」などの、前提、思い込み、先入観を持っていて、得られた材料をすべてその前提に合うように、「解釈していくもの」
(3)多くの材料の中から、自説に有利なものだけを、証拠として取り上げ、自説に不利なものは、すべて無視するもの。
(4)「自説」がある特定の「学説」であって、その特定の学説を信じ込んで、すべてその学説によって説明できる、とするもの。なんだかカルトに近い。
(5)自分できちんと調べ、確かめ、考えようとせず、誰かが述べていることを適宜組み合わせてストーリーをつくり、それでよし、するもの。権威者の意見に従うようになりがち。
(6)きちんとした証明よりも、とにかくマスコミなどを通じた宣伝に腐心しているもの。プロの研究者にも時々見られるそうな。
(7)観測された事実についての、ある解釈において有力な反論がすでに出ていることを見落としているもの。
そして、最後に安本センセイいわく、「以上のような注意すべき諸点がたくさんあるため、古代史の諸論点を考えるのは本当に頭の体操になります」とさ。
(引用終わり。『古代史論争最前線』はじめに)
伊藤睦月です。書き写していて、なんだか自分のことを言われているようで、冷や汗がでてきた。(笑)
確かに正論だが、これでは委縮して書けなくなるなりそう。まず、とにかく、書いてみることが大事。以上のような批判は他人にやってもらえばよい。そしてその批判を甘んじて受ける、そういう胆力を養う、ということでよいのでは。そのために当掲示板がある。
私、伊藤は、そう考えます。批判、反論上等!!!!
(罵倒は勘弁してほしい・・・)遊びをせんとや生まれけむ、ですな。
以上、伊藤睦月拝
【539】ブレイク:史癖(しへき)は、佳癖(かへき)なり
伊藤睦月です。頭が冷える前にうずうずしてきたので、投稿します。
安本美典『古代史論争最前線』(2012年柏書房)から。
(引用開始)「歴史をたしなむのは、良い趣味である」というほどの意味でしょうか。
特に古代史については、調べて得られた証拠を元にして、推理をしていく楽しみがあります。手がかりを元に、さらに調べ、あれこれ推理していくと、あらたなことがわかり、推理小説の主人公の、探偵になったような気分が味わえるわけです。努力次第で、次々と新しい証拠を得ることができます。(引用終わり)
伊藤睦月です。安本は、以上の楽しみを得るために、大事なことや逆に良くないこと(悪癖)について、アマチュアにもわかりやすく説いています。それを次回以降、紹介します。安本氏とは直接面識はありませんが、従来「郷土史家」と呼ばれるような、アマチュアでも分け隔てなく、権威ぶらずに接し、全国にファンがいます。江上波夫もそういったタイプの人だったのではないか。そう思いたい。三笠宮、小林恵子もまたそう。そういった人たち、この人たちの本を読んで、自在に論ずることができる喜び、まさに、「史癖は佳癖なり」ですね。
まだ、調子が戻らないので、当面小休止
伊藤睦月拝
【538】ブレイク:ちょっとくやしい話。
伊藤睦月です。私、伊藤は従来から「遣唐使は、唐帝国に、日本書紀を持参しなかった」「天皇号は、中国皇帝(則天武后)には名乗れず、「スメラミコト」でごまかした」という説を今年5月以降、当掲示板で主張してきた。しかし、この説に類似の先行主張があることを、「発見してしまった」。くやしいが、紹介する。(涙)
この研究者の名は、倉本一宏、今年の大河ドラマ「光る君へ」の時代考証も担当し、山川日本史詳説の古代編を執筆している「正統派」日本史学者だ。世間一般的には、伊藤より、倉本の業績となってしまうだろう。『古代史から読み解く「日本」のかたち』43頁から47頁、倉本一宏・里中満智子2018年祥伝社新書、から引用する。
I(引用はじめ)遣唐使(702年粟田真人が派遣された第7回遣唐使のこと:伊藤)が、中国の王朝に報告する義務があったものとして、国号、君主号、元号、律令、都城、歴史書(日本書紀のこと:伊藤)を挙げましたが、このうち報告・持参しても差し支えなかったのは、どれか、ここで検討してみることにします。・・・中途省略・・・第六の歴史書は、前述のように国史『日本書紀』は完成していないので持参していません。問題は第二の天皇です。これも「日本の君主は天皇です」と報告したら下手をすると戦争になります。・・・途中省略・・・では、どのように報告したか。天皇渡いう漢字は見せずに、「すめらみこと」と読んで聞かせるにとどめたはずです。中国の歴史書には、「主命楽美御徳」という六文字の漢字で記されています。誰かの入れ知恵があったのか、遣唐使は苦肉の策で折合いをつけたのです。
(以上、引用終わり)
伊藤睦月です。書いてて脱力感を味わっていますが、ここでもう少し書き込みます。
(1)本書が一般向けの歴史素人漫画家との対談集(新書)なので、倉本氏の業績にカウントされない可能性がありますが、同テーマで、学術論文を発表されたりしたら勝負あったです。
(2)読んで聞かせるですんだはずはありません。それなら「主命楽美御徳」の文字が中国側資料に残されるはずはないのです。皇帝には原則口頭で話すことは許されず、大半は文書(上表文、書とかいう)で皇帝の部下スタッフに提出され、審査を通過したものが皇帝が見る。だから「天皇」という表記の入った書を見せられるはずはないのです。日本書紀も同様に「天皇」と表記されていますから、中国側に見せられるはずがない、というのも同じ理由です。「すめらみこと」というふりがなは、国内向けです。このことは、東洋史学者の西嶋定生が、1980年代から指摘していたことで、倉本は西嶋説を「採用」している可能性はあります。
(3)さらに、粟田真人が謁見した皇帝は、「則天武后」です。「天皇」という言葉は、則天武后が自ら名乗った言葉から、日本で作られたものです。なお、このことをおそらく初めて解明したのが、斎川眞、副島隆彦『天皇とは北極星のことである』です。私の知る限り。
(4)だから、則天武后の前で「日本天皇」と名乗るのはできなかった、と思われます。ちなみに、「天皇号」の使用を認めてもらったのは、唐滅亡後、北宋太宗皇帝のときからだと思われます。(新唐書日本伝、宋書日本伝)
伊藤睦月です。かねてから、「先行研究には十分注意と敬意を払え」と強調していた私が、このていたらくですから情けない。
これでは、この掲示板上で、えらそうにいう資格はありません。皆さんも「他山の石」にしていただければ幸いです。少し頭を冷やします。
以上、伊藤睦月拝