日本政界●情報メモ

黒瀬祐子 投稿日:2011/10/07 16:39

【609】小沢一郎 「本件で特に許せないのは、主権者である国民から何も負託されていない検察・法務官僚が土足で議会制民主主義を踏みにじり、それを破壊し、公然と国民の主権を冒涜・侵害したことであります。」

検察が2度にわたって不起訴としながら、おかしな検察審査会により刑事被告人として法廷に立つことになった小沢一郎民主党元代表。

資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐり、政治資金規正法違反(虚偽記載)の公判が、10月6日に東京地裁(大善文男裁判長)で始まりました。

以下、関連記事を転載します。

(転載はじめ)
小沢元代表、無罪主張 初公判「強制起訴は誤り」
(asahi.comニュース2011年10月6日15時分)
http://www.asahi.com/national/update/1006/TKY201110060123.html

自らの資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐり、政治資金規正法違反(虚偽記載)の罪で強制起訴された民主党元代表・小沢一郎被告(69)の初公判が6日午前、東京地裁(大善文男裁判長)で始まった。小沢氏は「虚偽記載には当たらない。ましてや私が共謀したことは断じてない」と述べ、全面無罪を主張した。

 市民で構成する検察審査会が、検察の不起訴処分を覆して起訴した初の裁判。判決の行方は小沢氏の政界での影響力を左右する。判決は来年4月の予定だ。

 小沢氏は自ら書面を読み上げ、起訴内容について「検察の不当な捜査で得られた供述調書を唯一の根拠にした検察審査会の誤った判断に基づくものにすぎない。この裁判は直ちに打ち切るべきだ」と訴えた。
(転載おわり)

小沢一郎氏の罪状認否・意見陳述全文が載っているlivedoorのニュースを中田安彦(アルルの男・ヒロシ)さんのtwitterで知りました。
以下に転載します。

小沢一郎氏の堂々たる力強い発言です。ぜひ読んでみてください。

(転載はじめ)

「君はどう考えてるの!」小沢氏、記者の質問に声を荒げる
2011年10月06日17時33分
http://news.livedoor.com/article/detail/5917544/?p=1

●初公判を終えて記者会見

6日、自らの資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐり、政治資金規正法違反(虚偽記載)の罪で強制起訴された小沢一郎・元民主党代表(69)が、都内で記者会見を開いている。

会見の冒頭、小沢元代表は弁護士に「お座りになって」と促されたが、「(記者が)一杯いるな」「今日はサービスしたほうがいい」と余裕の表情を見せ、立ったままでの会見を行っている。小沢元代表は、自身は潔白であるとした法廷での主張を改めて述べるとし、用意された原稿を読み上げた。

小沢元代表は検察の捜査について「国家権力を乱用」「議会制民主主義を踏みにじった」「日本憲政史上の一大汚点」などと厳しく批判、「今ならまだ間に合う。裁判官のみなさまは公正な判断を」と訴えた。

記者からの質問を受けて、「君はどう考えてるの!」「三権分立をどう考えるの?」と声を荒げて"逆質問"。言葉に窮したマスコミの記者に対して、立法権、司法権についてちゃんと勉強して」と諭す場面も見られた。

●小沢会見の模様

それでは私から、最初に申し上げさせていただきます。私が主張したい内容は、本日の法廷で裁判長の許可を頂いて、意見を申し述べましたので、そのことにほとんど触れられていますので、ここで改めて私の意見の陳述を改めて申し上げさせていただきます。

*****

裁判長のお許しを頂き、ただいまの指定弁護士による起訴状に対し私の意見を申し上げます。今、指定弁護士が話されたような事実はありません。裁判長のお許しをいただき、ただいまの指定弁護士の主張に対し、私の主張を申し上げます。

指定弁護士の主張は、検察の不当・違法な捜査で得られた供述調書を唯一の根拠にした検察審査会の誤った判断に基づくに過ぎず、この裁判は直ちに打ち切るべきです。百歩譲って裁判を続けるにしても私が罪に問われる理由はまったくありません。

なぜなら、本件では間違った記載をした事実はなく、政治資金規正法の言う虚偽記載には当たりませんし、ましてや私が虚偽記載について共謀したことは断じてないからです。また本件の捜査段階における検察の対応は、主権者である国民から何の負託も受けていない一捜査機関が、特定の意図により国家権力を乱用し、議会制民主主義を踏みにじったという意味において、日本憲政史上の一大汚点として後世に残るものであります。

以下にその理由を申し上げます。

そもそも政治資金規正法は、収支報告書に間違いがあったり、不適切な記載があった場合、みずから発見したものであれ、マスコミ、他党など第三者から指摘されたものであれ、その政治団体の会計責任者が総務省あるいは都道府県選管に自主申告して収支報告書を修正することが大原則であります。

贈収賄、脱税、横領など実質的犯罪を伴わないものについて、検察や警察が報告の間違いや不適切な記載を理由に捜査すると、議会制民主主義を担保する自由な政治活動を阻害する可能性が出てまいります。ひいては国民の主権を侵害するおそれがあるからであります。だからこそ規正法が制定以来、今日まで何百件、何千件と数え切れないほどの報告間違いや不適切な記載があっても実質的犯罪を伴わないものは検察の言う単純な虚偽記載も含めて例外なく、全て収支報告書を修正することで処理されてまいりました。

私の政治資金団体「陸山会」の事件が立件されたあとも、本日ただ今もそのような処理で済まされております!それにも関わらず唯一私と私の資金管理団体、政治団体、政党支部だけが一昨年3月以来1年余りにわたり、実質的犯罪を犯したという証拠は何もないにも関わらず東京地検特捜部によって強制捜査を受けたのであります。

もちろん、私は収賄、脱税、背任、横領等、実質的犯罪は全く行っていません。なぜ私のケースだけが単純な虚偽記載の疑いで何の説明もなく、突然現行法の精神と原則を無視して強制捜査を受けなければならないのか。

これでは到底、公正で厳正な法の執行とは言えません!したがってこの事例においては、少なくとも「実質的犯罪はない」と判明した時点で捜査を終結すべきだったと思います。それなのに、一昨年春の西松事件による強制捜査、昨年初めの陸山会事件による強制捜査など、延々と捜査を続けたのは、明らかに常軌を逸していると思います。

この捜査はまさに検察という国家権力機関が政治家・小沢一郎個人を標的に行ったものとしか考えようがありません。私を政治的・社会的に抹殺するのが目的だったと推認できますが、明確な犯罪事実、その根拠が何もないにもかかわらず、特定の政治家を対象に強制捜査を行ったことは、明白な国家権力の乱用であり、民主主義国家、法治国家では到底許されない暴力行為であります!

日本特派員協会の会長でもありましたオランダ人ジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、近著「誰が小沢一郎を殺すのか?」で「小沢一郎に対する強力かつ長期的なキャラクター・アサシネーション『人物破壊』は、政治的に類を見ない」と言っています。「人物破壊」とは、その人物の評価を徹底的に破壊することで、表舞台から永久に抹殺する社会的暗殺、アサシネーションであり、生命を奪う殺人以上に残虐な暴力だと思います。

それ以上に、本件で特に許せないのは、主権者である国民から何も負託されていない検察・法務官僚が土足で議会制民主主義を踏みにじり、それを破壊し、公然と国民の主権を冒涜・侵害したことであります。

一昨年の総選挙の直前に、何の根拠もないのに検察当局は捜査・逮捕権という国家権力を乱用して、野党第一党の代表である私を狙って強制捜査を開始したのであります。

衆議院総選挙は、国民がみずから主権を行使して、直接、政権を選択することのできる唯一の機会にほかなりません。

とりわけ、2年前の総選挙は、各種世論調査でも戦後半世紀ぶりの本格的な政権交代が十分に予想された特別なものでありました。そのようなときに、総選挙の行方を左右しかねない恣意的な権力の行使が許されるとするならば、日本はもはや民主主義国家とは言えません。議会制民主主義とは、主権者である国民に選ばれた代表者たる政治家が自由な意思により、その良心と見識に基づいて、国民の負託に応え、国民に奉仕する政治であります。国家権力の介入を恐れて、常に官憲の鼻息を伺わなければならない政治は、もはや民主主義ではありません!

日本は戦前、行政官僚、軍部官僚、検察・警察官僚が結託し、財界・マスコミを巻き込んで、国家権力を乱用し、政党政治を破壊しました。その結果は、無謀な戦争への突入と悲惨な敗戦という悲劇でありました。昭和史の教訓を忘れて今のような権力の乱用を許すならば、日本は必ず同様の過ちを繰り返すに違いありません。

東日本大震災からの復興はいまだに本格化できず、福島第一原子力発電所の事故は安全な収束への目途すら立たず、加えて欧米の金融・財政危機による世界恐慌の恐れが目前に迫ってきている時に、これ以上政治の混迷が深まれば、国民の不安と不満が遠からず爆発して偏狭なナショナリズムやテロリズムが台頭し、社会の混乱は一層深まり、日本の将来は暗たんたるものになってしまいます。

そうした悲劇を回避するためには、まず国家権力の乱用をやめ、政党政治への国民の信頼を取り戻し、真の民主主義、議会制民主主義を確立する以外にはありません。「まだ間に合う!」私はそう思います。裁判長はじめ裁判官の皆様の見識あるご判断をお願い申し上げ、私の陳述を終えます。有難うございました。

*****

以上が、私が法廷において申し上げたことであります。私の真意は今申し上げたことに尽きていると思いますので、皆さんのご意見を求めたいと思います。以上です。

●初公判を終えて記者会見

―秘書三人の方の一審での有罪判決が出ましたが、刑事責任とは別に道義的責任を問う声もあります。今後の政治活動で何らかの対応、議員辞職などの対応を取るつもりはありますか?

私も私の秘書も、有罪と認定されるようなことは何もしておりません。先ほどの判決についても、何の証拠もない。裁判官が自分の推測や推断で判決を下す。私は司法の自殺に等しいと思っております。私達が何か違法なことをしたのであれば、あんたが今言ったようなことをするでしょうが、そんなことをしてないのでする必要はありません。

―国会での証人喚問を野党は求めていますが、国会で説明責任を果たす考えはありますか?

君はどう考えてるの!裁判が進んでいるときに、そういうことをすべきの?

―司法手続きは重要ですが……

あ、そうなの。三権分離をどう考えてるの?

― ……。(言葉に窮する記者)

ちゃんとよく勉強して、筋道をたった質問をしてください。裁判所は、証拠に基づいて判断をする場でしょう。そこがいろいろな力や干渉で左右されるようなことがあってはいけないから司法は司法で独立しているんでしょう。よく勉強してから質問してください。

―4億円の原資は?

私のお金です。強制捜査をして何でも知っている検察にお聞きください。

―小沢さんがこうまで司法やマスコミに狙われるはなぜでしょう。官僚の人事や、テレビ局と新聞社のクロスオーナーシップに踏み込むからではないか?

私は官僚の人事に口を出したことはありません。ただ、マスコミの集中排除は法的に規定されておりますし、私はどういう分野でも程度の差はあれ、自由な競争が必要だと思っております。身近なことを言えば、会見もどなたにもオープンにしております。

―それが記者クラブに嫌われた理由ですか?

それは分かりません。

(転載終わり)

1094 投稿日:2011/09/02 18:14

【608】「民主党政権とはなんだったのか」

http://www.tachibana-akira.com/
作家・橘玲(たちばな・あきら)のホームページ より
(以下貼付)
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2010年8月20日 橘 玲

民主党政権とはなんだったのか(1)
投稿日: 2011年8月22日 作成者: tachibana

菅首相が退陣を決意し、1週間後にはこの国に新しい首相が誕生する。これを機に、「民主党政権とはなんだったのか」を考えてみたい。

といっても、私は政治学の専門家ではないから、ここでは政治学者・飯尾潤の『日本の統治構造』を導きの糸としたい。同書は、この国がどのような権力関係よって統治されているのかを、政治家や官僚への膨大な聞き取り調査(フィールドワーク)に基づいて検証した労作で、今後も長く日本の政治を語る際の基本文献になるだろう。

飯尾は、日本の統治構造の特徴を「官僚内閣制」「省庁代表制」「政府・与党二元体制」の3つのキーワードにまとめる。これら3つの要素は互いに相補的な関係(ナッシュ均衡)にあり、安定的な(なかなか変わらない)日本の「政治」をかたちづくっている。

そもそも議院内閣制とは、 民主的な選挙で選ばれた議員(国民代表)が議会を構成し、その議会に権力を集中する仕組みだ。大統領制では大統領と議会に権力を分散するのに対し、議院内閣制では、議会主権による権力の集中が行なわれる。

連邦債務上限問題をめぐる米議会の混乱を見ても明らかなように、アメリカの大統領は議会を統制する権限をほとんど持っていない。日本に政治リーダーシップがないからといって、大統領制に変えても問題はなにも解決しない。

議院内閣制では、議会内で多数を占めた政権党(政党連合)が内閣総理大臣を選出し、総理大臣は各省庁の国務大臣を指名して政府を組織する。このような権力フロー(統治構造)からすれば、政府と政権党は一体であり、議会内での対立は政権党と野党の間で起こるはずである。

ところが実際には、日本の政治には本来の議院内閣制ではあり得ない奇妙なことが頻発する。

ひとつは、各省庁の大臣に実質的な拒否権が与えられていることだ。自民党時代の閣議は全員一致が原則で、大臣が反対するものは閣議決定に回されなかった。大臣は担当する省庁の代理人(エージェント)として、省庁の利害を代表することを求められていた。

このため閣議決定には事前の根回しが不可欠で、前日に各省庁の事務次官が集まる事務次官会議が開かれ、そこで反対のなかった案件だけが翌日の閣議の議題とされることになった。

大臣が各省庁の代理人となり、その合議体として内閣が構成されるのが官僚内閣制だ。

官僚内閣制では、政府における最終的意思決定の主体が不明確化し、必要な決定ができなくなり、 政権が浮遊してしまう。これが日本中枢の崩壊だが、それは議院内閣制の問題ではなく、日本的な統治構造の必然的な帰結なのだ。
民主政(デモクラシー)では、国民(Nation)の代表である国会議員が国家(State)を統治する。これが国民国家(Nation State)だ。ところが日本では、官僚制が国家を侵食することで、この統治構造が大きく変質してしまった。

日本の官僚制は、地方政府(地方自治体、地方公共団体)や業界団体などを通じて社会の隅々にまで根をはりめぐらせている。だがこうした権力のネットワークは省庁ごとに縦割りで分断されており、各省庁は自らの権限をめぐって熾烈な競争を行なっている。

こうした組織では、政策はトップダウンではなく、現場からの積み上げによってつくられる。

業界団体などが必要な政策を省庁に要望し、所轄課がそれをとりまとめて政策の原案をつくる。この原案は「合議(あいぎ)」あるいは「相議」と呼ばれる手続きによって、省内の関係部局の同意を取りつけ、局長間の合意を経て省案となる。

こうしたボトムアップの合意形成は、責任の所在が曖昧になる一方で、現場の実情を踏まえた政策が立案され、その内容が実施担当者に正しく理解されているというメリットも持っていた。その意味では、1970年代前半までの「政策不足」の時代にはきわめてよく適応した。

日本では、官僚制は閉じた存在ではなく、社会に深い根を持っている。これは社会の側が、業界団体や政治家を通じて官僚制を侵食しているということでもある。すなわち官僚制とは、日本においては、社会諸集団の結節点として機能しているのだ。

議院内閣制では国会議員は国民代表だが、官僚内閣制では社会集団のさまざま利害を官僚が代弁することになる。これが省庁代表制で、日本は自律した省庁の連邦国家なのだから、「省庁連邦国家日本(United Ministries of Japan)」と呼ぶこともできる。

ところが70年代末になると、日本社会が成熟し政策は飽和して、さまざまな問題が露呈することになる。

官僚にとっては新しい政策を立案し権限を拡張することが最優先だから、似たような法律が乱立し、際限なく増殖していくことになった。

行政が複雑になり、権限が分散化するにつれて、「拒否権」を持つ者が増えて合意形成に時間とコストがかかるようになった。

最大の問題は、既得権に干渉するような政策の立案がまったく不可能になったことだ。こうして官僚内閣制は、90年代以降の日本の危機にまったく対処できなくなった。
日本の政治のもうひとつの特徴は、政権党が自らを「与党」と名乗り、政府から距離を置くことだ。

自民党時代は、党の政務調査会が実質的な立法活動を担い、族議員(派閥の有力議員)が政策決定を実質的に支配した。これが「派閥政治」だが、しかし先に述べたように、官僚内閣制では政府に官僚を統制するちからがないのだから、政治家がその権限を別の場所に求めるのは当然のことでもある。

与党の合意のない法案は閣議決定を行なわないという不文律が生まると、官僚は自分たちの政策を実現するために政治家の支持を得なくてはならなくなった。日本では、国会運営は党の専管事項とされ、政府(内閣)は関与できないため、与党議員の協力や野党議員の暗黙の了解がなければ法案は議会を通過できないのだ。

その結果、「国対政治」で与野党が国会審議を紛糾させればさせるほど、官僚は対応に窮し、政治家の権限が拡張していくという奇妙な現象が起きることになった。

さらには自民党の人事システムでは、大臣は能力や実績とは関係なく、一定以上の当選回数に達した議員に平等に割り振られる名誉職とされたため、実際の権力は官僚以上に政策に精通した族議員に集中することになった。これが「政高官低」で、90年代以降、若手の官僚が省庁を見捨てて政治家に転進する例が急増した。

政府・与党二元体制は、官僚内閣制と省庁代表制のもとで、「国民代表」としての政治家が行政に介入する非公式な仕組みであったが、その行動は選挙区や支援団体の利害に左右され、日本全体の利益に関心を持つことはなかった。

こうして日本の統治構造は完全に行き詰まり、「小泉改革」を経て、民主党による政権交代が実現した。

次回は、民主党(鳩山政権)が、日本の統治構造の抜本的な変革を目指したことを検証してみよう。

民主党政権とはなんだったのか(2)
投稿日: 2011年8月24日 作成者: tachibana

いまやなつかしい鳩山政権のマニュフェストを読み返すと、その冒頭に「5原則5策」の政権構想が掲げられている。「内閣官僚制」「省庁代表制」「政府・与党二元体制」という日本の統治構造の変革を民主党が目指していたことがよくわかるので、すこし長くなるが引用しておこう。
【5原則】
原則1 官僚丸投げの政治から、政権党が責任を持つ政治家主導の政治へ。
原則2 政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下の政策決定に一元化へ。
原則3 各省の縦割りの省益から、官邸主導の国益へ。
原則4 タテ型の利権社会から、ヨコ型の絆(きずな)の社会へ。
原則5 中央集権から、地域主権へ。

【5策】
第1策 政府に大臣、副大臣、政務官(以上、政務三役)、大臣補佐官などの国会議員約100人を配置し、政務三役を中心に政治主導で政策を立案、調整、決定する。
第2策 各大臣は、各省の長としての役割と同時に、内閣の一員としての役割を重視する。「閣僚委員会」の活用により、閣僚を先頭に政治家自ら困難な課題を調整する。事務次官会議は廃止し、意思決定は政治家が行う。
第3策 官邸機能を強化し、総理直属の「国家戦略局」を設置し、官民の優秀な人材を結集して、新時代の国家ビジョンを創り、政治主導で予算の骨格を策定する。
第4策 事務次官・局長などの幹部人事は、政治主導の下で業績の評価に基づく新たな幹部人事制度を確立する。政府の幹部職員の行動規範を定める。
第5策 天下り、渡りの斡旋を全面的に禁止する。国民的な観点から、行政全般を見直す「行政刷新会議」を設置し、全ての予算や制度の精査を行い、無駄や不正を排除する。官・民、中央・地方の役割分担を見直し、整理を行う。国家行政組織法を改正し、省庁編成を機動的に行える体制を構築する。

「内閣官僚制」とは、内閣総理大臣の指示に従って国務大臣が省庁を統治するのではなく、各大臣が省庁の代表としてふるまうことだった。そこで民主党は、事務次官会議による事前の根回しを廃止し、そのかわりに政治家を大量に省庁に送り込んで、政治主導の意思決定を行えるようにした(幹部職員の人事も政治家が決めるとした)。

それと同時に、事務次官会議に代わる総合調整の機能として「国家戦略局」を創設し、予算の骨格の策定まで行なうとマニュフェストには記した。

「省庁代表制」では、中央政府は地方政府や業界団体を手足のように使って、社会諸集団の利害を代弁し、政策の立案から遂行までを行なってきた(同時に利害関係者は、政治家や業界団体を介して官僚の意思決定に影響力を及ぼした)。

そこで民主党は、地方政府に大幅に権限を移譲するとともに、「ひもつき補助金」を廃止して自由に使える「一括交付金」にすることで、地方政府を財政的にも自立させ、中央政府との役割分担を明確にしようとした。それと同時に、天下りや渡りなどを全面的に禁止し、官僚と民間との癒着を絶つことを目指した。

「政府・与党二元体制」では、政権党が「与党」として政府から距離を置くことで、族議員など党(派閥)の有力者による非公式の行政への介入が常態化していた。民主党のマニュフェストでは、政府と与党を一元化し、意思決定を内閣に集中することを明確にうたった。

ところで、こうした「改革」は民主党の独創というわけではない。自民党政権でも日本の統治構造の欠陥は認識されており、改革への努力は始まっていたと飯尾は指摘する。

橋本内閣では、行政改革会議を中心に内閣機能強化と省庁再編が実施された。各省庁に副大臣と政務官を配置することにしたのは小渕内閣で、小泉内閣では経済財政諮問会議で基本政策を決め、首相主導の内閣がトップダウンで政策を実施する「大統領的」手法がとられた。

それと同時に、官僚の世界でも変化はすこしずつ起きはじめていた。

まず、政権中枢に近い内閣府の官僚に権限が移行することで事務次官を頂点とするキャリアパスが揺らいできた。さらには地方自治体が独自性を主張することで、明治以来の中央官庁の威信も低下した。

自民党から民主党への政権交代は、こうした政治改革の流れをさらに加速させるはずのものであった。

政治改革の目的は、議院内閣制の下で内閣に権力を集中させることだ。しかしこれは、一歩間違えば独裁へとつながりかねないから、権力を統制する仕組みが不可欠となる。それが、政権交代だ。

自民党時代は派閥抗争によって擬似的な政権交代が行なわれてきたが、民主党はマニュフェストという「国民との契約」を掲げて選挙をたたかい、政権交代できることを示した。

政権党の内閣に権力を集中させても、その結果に満足できなければ、次の衆院選で政権交代させればいい。権力統制の仕組みとしては、こちらの方がずっとすっきりしている。民主党は、政権交代という選択肢を有権者に提供したことで、強大な権力を行使する正統性を得たのだ。

2009年の民主党は、(すくなくともマニュフェストのうえでは)日本の統治構造の問題点を明確に意識し、その変革を目指していた。「ばらまき4K」は政権交代のための方便であり、税と社会保障の一体改革は新しい政治体制でこそ実現可能になる。だとすれば政治=行政改革こそが、民主党政権の本質だったのだ--たぶん。
ところが鳩山政権は、当初こそ事業仕分けで喝采を博したものの、マニュフェストにも記載のない沖縄・普天間基地の移設問題で国会を紛糾させ、さらには小沢一郎幹事長(当時)が政治資金規正法違反で強制起訴され、鳩山自身も個人献金の虚偽記載が明らかになったことで行き詰まって政権を投げ出してしまった。

代表戦の結果、菅直人が総理の座を担うことになったが、その直後の参院選で大きく議席を減らし、衆参のねじれ国会で立ち往生することになった。その後、東日本大震災と福島原発事故で延命したものの、けっきょく政治改革はなにひとつ進まないまま辞任することになった。

しかし菅首相は、皮肉にも、日本の統治構造における内閣総理大臣の権限を明らかにするうえで大きな貢献をした。そのことを示す好個のエピソードがある。

7月27日、菅首相は海江田経産相の頭越しに、経済産業省に対し電力需給に関する情報をすべて開示するよう文書で指示した。この措置に対して海江田大臣は、「私は全部開示してきた。これまでやってきたことはほとんど無駄だという思いだ」「悔しい。信用されてないと思った」「私の行動に納得がいかなければ、そのときは首を切っていただくことになる」などと述べた。

さらに29日の衆院経済産業委員会で、自民党議員から早期辞任を求められた海江田経産相は、「もうしばらくこらえてください。お願いします。頼みます」などと声を詰まらせ答弁し、席に戻った後、涙を堪えきれず顔を手で覆った。

『日本の統治構造』で飯尾は、日本の内閣総理大臣は憲法上は強大な権限を持っているものの、内閣法ではなんの権限もないと述べている。

憲法第72条には、「(内閣総理大臣は)内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する」と定められている。これによれば、内閣総理大臣には各省庁官僚を使って、行政事務を実施する権能が与えられていると解される。

一方、内閣法第3条は、「各大臣は、別に法律に定めるところにより、主任の大臣として、行政事務を分担管理する」とある。これを厳密に適用すると、内閣総理大臣は、分担管理大臣としては、内閣府(かつての総理府)の長としての権能しか持たない。すなわち、その他の各省庁に指揮監督権を行使することはできず、総理大臣にはほとんど権限が残っていないことになる。

これまでは内閣法に則って、あるいは慣習として、首相は大臣を通じて行政を統括し、各省庁に直接の指示・命令は出さないことになっていた。だからこそ海江田大臣は、菅首相の仕打ちを自分に対する侮辱ととらえたのだ。

しかしこの騒動は、制度上、内閣総理大臣はオールマイティに近い権力を持っていることを明らかにした。浜岡原発の運転停止要請にせよ、全原発に対するストレステストにせよ、日本の総理大臣は、やろうと思えばなんだってできるのだ。

しかしこれは、民主党がマニュフェストで高らかにうたった「政治主導」とはまったく異なるものだ。

マニュフェストによれば、総理直属の「国家戦略局」に官民の優秀な人材を結集し、そこで策定された国家戦略に基づいて、首相の強力なリーダーシップの下、各省庁を統括する国務大臣や副大臣、政務官などの政治家が官僚を指揮して政策を立案・実行することになっていた。

だが国家戦略局は「国家戦略室」に格下げされ、その位置づけも曖昧で、大震災以降もほとんど存在感を示せていない。そうなると、首相がどのような手続きを踏んで意思決定をしているのか外部からはまったくわからなくなる。これが、経産省や電力会社に対する一連の指示・要請が「思いつき」「パフォーマンス」と批判された理由だ。

これは控えめにいっても、民主党がマニュフェストで主張した「新しい日本の統治構造」とはまったく関係のない、グロテスクな権力行使だ。「権力の集中」が、総理大臣が恣意的に強大な権力を行使することなら、これはたんなる独裁にほかならない。

民主党はきわめて理念的に日本の統治構造を分析し、設計図を引き直すようにシステム全体をつくりかえようとした。それは自民党時代からの共通認識に基づくもので、淵源をたどれば小沢一郎の『日本改造計画』に行き着くのだろうが、現状分析や対処法(ビジョン)が間違っていたとはいえない。

それではなぜ、民主党の「日本改造計画」は失敗してしまったのか。鳩山政権の金銭疑惑や菅政権での参院選の敗北がなければ、民主党はマニュフェストどおりの改革を実現できたのだろうか。次回は、そのことを考えてみたい。

民主党政権とはなんだったのか(3)
投稿日: 2011年8月26日 作成者: tachibana

「官僚内閣制」「省庁代表制」「政府・与党二元体制」という日本的な統治構造では、仕切られた省庁の枠組のなかで、ボトムアップの合意形成によって政策がつくられていく。この仕組みは戦後の復興期、社会の各層に的確な政策が必要とされていた時期にはきわめてよく適合した。

だがこの大きすぎる成功体験が、冷戦終焉以降の歴史的な変化に乗り遅れる原因ともなった。「省庁連邦国家日本」には、国益のためにトップダウンで合理的な意思決定をする仕組みが備わっていないのだ。

そこで民主党は、2009年の政権交代を受けて、日本の統治構造の改造に乗り出すことになる。

民主党の「原理主義者」たちの理解では、政権交代後にこの国にふたつの権力が並立することになった。ひとつは選挙で選ばれた国民代表を基盤とする民主党内閣、もう一つは省庁代表を基盤とする官僚内閣だ。

ひとつの国にふたつの権力は並び立たないのだから、民主党内閣は、権力闘争によって官僚内閣を打倒しなければならない。このようにして事業仕分けによる官僚バッシングが始まったのだが、じつは主戦場は別のところにあった。

日本の官僚制は、大きく3つの権力の源泉を持っている。

ひとつは、官僚だけが事実上の立法権を有していることだ。

日本では、内閣法制局の審査を通った法案しか国会に提出できない。これは、法令体系を統一的で相互に矛盾のない規定によって構成するためだとされるが、複雑怪奇で膨大な法令データベースを参照できるのは現実には担当部局の官僚だけであり、立法府のはずの国会はほとんど立法機能を持っていない。

二つ目は、法律の解釈を独占し、事実上の司法権を有していることだ。

地方自治体では、法令について不明な部分があると省庁の担当部局に問合せ、官僚が正しい解釈を伝えることが当たり前のように行なわれている。これも法令についてのデータベースを独占しているから可能になることで、官僚は立法権だけでなく司法権も行使できるのだ。

三つ目は、予算の編成権を持っていることだ。

日本国の予算は各省庁の要望を財務省(主計局)が「総合調整」したものだから、官僚が自ら予算を編成しているのと同じことになる。もちろん政治家は族議員などを通じて予算に関与することができるが、官僚と族議員(ロビイスト)は共生関係にあり、こうした非公式の影響力では官僚の権限は揺るがないのだ。

日本は憲法のうえでは三権分立だが、実際は省庁が行政権ばかりか立法権と司法権を有し、予算の編成権まで持っている。さらには、各省庁は法によらない通達によって規制の網をかけ、許認可で規制に穴を開けることで業界に影響力を及ぼし、天下り先を確保している。

こうした権力の源泉を絶つためには、政と官の役割の徹底した組みなおしが必要だ。

アメリカやイギリスでは、「後法は前法を破る」「特殊法は一般法に優先する」といった概念をもとに法令の有効性を判断し、法令相互の矛盾を気にせず法律をつくり、最終的には裁判所による判例の蓄積で矛盾を解決している。これが議員立法が活発な理由で、小沢一郎は、内閣法制局を廃止することで官僚から立法権を奪取し、国会を名実ともに立法府とすることができると繰り返し主張している。

また政治=行政改革では、司法の機能を強化するとともに、官僚の恣意的な法令解釈を排除し、利害関係者が司法の場で法令の解釈を問うことを目指した。

さらには予算の総合調整機能を財務省から国家戦略局もしくは内閣予算局に移行するとともに、民主党の議員が個別に霞ヶ関に陳情することを禁止し、党の要求は幹事長に一元化することにした。

だがこのなかで実現したのは霞ヶ関への個別陳情の禁止だけで、それ以外の官僚の権限に手をつけることはできなかった。

本来であれば、憲法によってその権威を保証された議院内閣に対し、たんなる非公式な慣習でしかない官僚内閣が対抗できるはずもなかった。だが普天間問題で鳩山政権が求心力を失うと、立法・司法・行政権を独占する官僚に、「権力の集中」を目指したはずの内閣は実務を丸投げするほかなくなった。

だがこれは、官僚制が権力闘争に勝利した、ということではない。自分たちの組織が機能不全を起こしていることは、彼ら自身にも認識されていたからだ。
「官僚支配」というのは、各省庁が共同して日本を統治しているということではない。官僚制の本質は、権限の範囲を仕切られたなかでの省庁同士、あるいは省庁内部の局や部、課のあいだの権限争いで、そこには共同の意思はなく、各自が自分たち(と関係者)の利益を最大化するために合理的に行動しようとする。

こうした組織は、合意形成の積み上げによって意思決定するのだから、経済が拡大するなかでの分配には長けているが、全体のパイが縮小するとたちまち足の引っ張り合いを起こしてしまう。太平洋戦争における陸軍と海軍の確執がその典型で、彼らの全精力は敵とたたかうことではなく、内輪もめに対処することに割かれていた。

もちろんこんなことは、これまで繰り返し指摘されてきた。しかし、日本でもっとも知的なひとたちの集まりであるはずの官僚制は、何十年たってもこの欠陥を自ら修正することができない。

いつまでたっても変わらないのは、変わらないことに合理的な理由があるからだ。

そもそも公務員の人事制度は、日本社会と独立に存在するわけではない。終身雇用と年功序列を絶対の掟とする公務員人事は、日本的雇用制度の純化した姿だ。

公務員制度改革の理念では、官僚を企画(総合職)と実施(一般職)、および技官(専門職)に分け、政策の立案に携わる企画官僚は内閣に新設される人事局でプールし、省庁を横断して最適な人材を派遣していくことになっていた。これがもし実現すれば、省庁の縦割りは意味を失い、日本の官僚制は革命的な変化を起こすだろう。

だがこの理想世界には、決定的に重要な前提条件がある。

新しい公務員制度では、企画官僚は政権党のシンクタンクの役割を果たすことになるが、常に最適なポストがあるとはかぎらない。幹部の人数は限られているのだから、人材プールで待機中は民間企業で働くことになる。アメリカで行なわれている、官と民の「リボルビングドア」だ。

ところが年功序列と終身雇用の日本的雇用制度では、たとえ現役官僚であったとしても、企業は中途採用をしたがらない。そこで省庁が、コネを使ってなんとか引き取ってもらうというのが「官民交流」の実態になっている。これはもちろん官と民の癒着の温床になるが、だからといって禁止してしまうと、官僚は再就職できなくなって省庁に滞留するほかなくなる。

民主党は、日本的な雇用慣行をそのままにして、官僚制だけをアメリカ型に改造しようとした。彼らに欠けているのは、アメリカの公務員人事制度は、アメリカの労働市場に最適化されているという視点だ。

アメリカでは労働市場の流動性が高く、異業種への転職も頻繁に行なわれ、中途入社は当たり前だ。だからこそ、能力と実績を買われた官僚が民間企業に転職したり、成功したビジネスマンが省庁幹部に政治任用されたりする。

官僚機構をアメリカ型につくり変えるには、その土台である日本的雇用制度を解体しなければならなかったのだ。

官僚制度は誰かが意図的につくったわけではなく、日本社会のなかで自生的に生まれ、歴史のなかを連綿とつづいいて、高度成長期にいまの姿に拡張を遂げた。それは私たちの身近な生活に深く根を下ろし、そこから養分を吸い上げてきた。

私たちは、公務員制度改革を自分たちには関係のない話だと考え、既得権にしがみつく官僚たちに憤慨し、事業仕分けで立ち往生する様を嘲笑した。だがひとは、鏡に写った姿だけを都合よく変えることはできない。

「日本改造」とは、官僚の天下りを禁止することではなく、日本そのものをドラスティックに変えていくことだ。しかし、連合の支援を受けた民主党政権に日本的雇用に手をつける覚悟があるはずもなく、そもそもどの程度理解していたかも疑わしい。マニュフェストは、最初から絵に描いた餅だったのだ。

このようにして「改革」は予定調和的に破綻し、いまでは大臣は省庁の代理人に戻り、与党と政府が責任を押しつけあう旧態依然の統治構造に逆戻りしてしまった。

「改革」は、戦後日本の統治構造が機能不全に陥ったからこそ、やむなく始まった。それがうまくいかないからといって元に戻しても、問題はなにも解決しないばかりか、事態はさらに悪化していくだけだ。これは次に誰が首相になっても同じで、仮に大連立が成立したとしてもさらなる混迷に陥るだけだろう。

私たちは、次なる衝撃に備えなければならない。
(以上貼付)

1094 投稿日:2011/07/31 10:14

【607】小沢一郎衆議院議員公開討論会および記者会見2011/07/28

2011/07/28
小沢一郎衆議院議員公開討論会および記者会見

http://www.ustream.tv/recorded/16286241

黒瀬祐子 投稿日:2011/07/13 15:08

【606】中国発“ODA”は「何でもあり」?「北京コンセンサス圏」拡大で我が道をゆく 日経ビジネスオンライン連載 荒木 光弥 【ODA削減でいいのか日本】より

 会員の黒瀬祐子です。最近、副島隆彦先生の『あと5年で中国が世界を制覇する』(2009年 ビジネス社 刊)を読み返しました。その中にあった中国のODA戦略に関連する記事を、日経ビジネスオンライン連載 【ODA削減でいいのか日本】で見かけたので紹介します。

 なお、副島先生のODA論=敗戦後に軍事国家(自力防衛国家)であることを禁じられた日本が、密かな国家戦略として取り組んで着々と実行してきた戦後最大の国際戦略(対世界戦略)。外務省の陰に隠れて、経済産業省(旧通産省の官僚たち)が営々と30年に渡って実行=という分析は「今日のぼやき」の下記の記事にあります。あわせて必読です。

「323」 力作論文 「ODA(政府開発援助)のからくりを大きく謎解きをする」を載せる 2002.7.15 
https://www.snsi.jp/tops/boyaki/350
「336」 続・ODAのカラクリ 2002.8.25
https://www.snsi.jp/tops/boyaki/369

 「中国のODAは日本のODAを手本にした国際戦略である」というのが、副島隆彦先生の『あと5年で中国が世界を制覇する』での分析でした。
 以下は、日経ビジネスオンライン連載【ODA削減でいいのか日本】より転載です。

(転載はじめ)

中国発“ODA”は「何でもあり」
「北京コンセンサス圏」拡大で我が道をゆく
http://cmad.nikkeibp.co.jp/?4_114514_533209_139

荒木 光弥  
2011年7月11日(月)

 アメリカン大学のデボラ・ブローディガム教授は2009年に「ドラゴンの贈り物(Dragon’s Gift)―アフリカにおける中国の真実」を出版した。その内容は、中国のアフリカ援助を丹念に現地調査しているだけあって新鮮だった。それは、中国の対外援助に関する情報が絶対的に不足していたからである。

 それでは少し本の内容を紹介してみよう。
 まず、(1)中国援助の特徴についてこう述べている。
***************************************************************************
 中国援助の特徴は、ヨーロッパや日本から受けた援助のやり方を模倣していることだ。特に、中国は日本がかつて援助を商業的利益と結び付けた手法をアフリカで多用している。
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 1958年、日本は最初の円借款をインドのゴア鉄鉱石の採掘に供与するが、当時、ヨーロッパの掘削機材に比べて日本製品は品質が悪かった。

 そこで、日本はヒモ付き(タイド)の円借款により日本製品の輸出に結び付け、10年間にわたって毎年200万トンの鉄鉱石輸入を行い、その代金を日本からの融資の返済に振り向けた。中国はこうした体験を下敷きにアフリカを援助している。

 当時、日本ではこれを開発輸入と名付け、時にその事業を「ナショナル・プロジェクト」と呼んでいた。ナショナル・プロジェクトの多くは資源開発型で、常に国家が支援し、そのリスクも国家が担保していた。

 日本は開発輸入をこう解釈していた。資本、技術、経営の一体化した経済活動を通じて途上国の潜在的な資源開発を行い、それに市場性を与えて、これを輸入することにより、日本の必要な資源の安定供給確保に資する、であった。

■“モデル国家”として映る中国
 次に(2)アフリカ人から見た中国の援助については、このような意見を紹介している。
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 ナイジェリア外交官「アフリカ人には中国企業との競争に脅える人もいるが、中国は貧困から繁栄へと立ち上がった“モデル国家”として多くのアフリカ人の想像を刺激するものだ」。
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 この意見に関しては、「国家モデルについては欧米の民主化より国内体制の安定を優先する国家資本主義モデルだとし、このモデルに共鳴する途上国や新興国が増えている」と指摘した上で、「中国は経済協力(対外援助)を武器にロシアや中央アジア、中東、アフリカ、中南米と連携を深めている」と分析する人もいる。

 また、そこには安定と繁栄の弧としての「北京コンセンサス圏」(佐藤賢著『習近平時代の中国』=日本経済新聞出版社)が生まれ、欧米の「ワシントン・コンセンサス圏」と対立することになる、と予見する人もいる。
***************************************************************************
 チサノ前モザンビーク大統領「欧米など援助国は、アフリカのインフラ支援や民間セクター支援を怠ってきた。中国の援助は、ほかの援助国が低い優先度をつけたインフラ開発や留学生への奨学金支給を重視してきた」。

 セネガルのワデ大統領「DAC(OECDの開発援助委員会)に加入している欧米、日本など伝統的な援助国は一種のカルテルを組み、援助の使い方やその内容まで高飛車に指導しようとする。1980年代の世銀ローンは平均60%の条件付きである。中国援助は押し付けず、我々のニーズに単純にして素早く対応してくれる」。
***************************************************************************
 恐らく民主化のみならず、自分の価値観で正義を押し付ける欧米の流儀は、アフリカの指導者の目に「主権侵害」「内政干渉」と映っているのかもしれない。中国はそこを巧みに利用しながら、アフリカ諸国を国家資本主義的な「北京コンセンサス圏」内に引き込んでいるとも言える。

 著者のデボラ・ブローディガム教授は、中国のアフリカへの対外援助に対し、ある一定の評価を与えているように見える。恐らくこれまでの欧米諸国とは異なる援助の考え方や方法に一種の新鮮味を感じているのかもしれない。

■先進国が加盟するDACのルールを無視
 「ドラゴンの贈り物」発行から2年を経た今年4月、中国政府は初めて8カ国語に翻訳した「中国の対外援助」という小冊子を出版した。これで中国の対外援助は世界に向けて公式に情報開示されたことになる。

 それによると、1953年から2009年末までの援助総額は約2563億元(約3兆6000億円)で、161カ国に援助し、うち約50%がアフリカで、約30%がアジアである。これでも中国援助のアフリカ重点が明らかになった。

 もっとも中国の対外援助が急上昇し始めたのは2007年頃からで、そのピークは2010年で商業的な優遇バイヤーズ・クレジットを加えるとその総額は約650億元(約9000億円)の巨額に達すると見られている。

 中国の対外援助は、先進国が加盟するDACの援助ルールを無視しているので、その仕組みも方法も異なる。

■2006年に日本を抜いて世界一に
 要するに、インフラ整備から産業開発、農業開発、民間ベースの企業振興、市場開拓までのすべてを包括する援助が中国式で、その方法も無利子借款だったり、特恵貸付という優遇借款(返済帳消しもある)だったりで、中国輸出入銀行、国家開発銀行などがそれらの窓口になっている。

 ちなみに、中国輸出入銀行の2010年の融資承諾規模は4364億元(約6兆1000億円)、国家開発銀行の2010年の外貨融資規模は434億ドル(3兆7000億円)で、第12次5カ年計画期間中(2011~15年)には5000億ドル(42兆5000億円)の外貨融資を計画しているという。

 実際には、中国の国営企業なり私企業が援助事業に関与しても、それらは国家主導の下での仕事であって、国家の保護(リスクヘッジ)を受けているので安定性と持続性が高い。

 中国の外貨準備高は人民元の切り下げ圧力を受けながらも2006年に日本を抜いて世界一になり、その規模は3兆447億ドルを記録している。

 かつて日本は1980年代後半に外貨独り占め状態になって、世界中のバッシングを受けながら「資金還流計画」と称して650億ドルを一部は援助で、多くは投融資で外貨のバラ撒きを行ったことがあるが、この時の日本に比べてみると、中国の粘り腰は比較にならないほど強い。

 もっとも今の中国は最大の米国債保有国であり、2010年の保有残高は1兆1601億ドルの規模に達していて、米国への一種の圧力にもなっている。

■「中国は発展途上国」という意味
 中国はGDPの規模にせよ外貨準備高にせよ、また国防力にせよ、1人当たり国民所得を別にすると、どう見ても先進大国に等しい。ところが、2010年のトロントG20首脳会議で胡錦濤国家主席は「中国は発展途上国だ」と言い切った。

 この基本的なスタンスは、今も昔も変わらない。1960年末、東アフリカのタンザニアとザンビアを結ぶタンザン鉄道建設で4億ドルを投じて労働者4万人を動員した時は、今と違って最も貧しい途上国だった。

 それでも中国は“アジア・アフリカ連帯”を叫び続けていた。それが今も継承されている。したがって、中国が「我が国は発展途上国だ」と言って対外援助を展開する時は、日本の定義するODAとは本質が異なっている、と見るべきだろう。

 もっと議論を煮詰めると、中国の対外援助は最初から1つの思想をもった戦略的援助であったと言える。

 つまり、自らを植民地支配の犠牲者とみなして、欧米の植民地支配で苦しめられてきた多くの途上国側に立って、今も民族自決を叫ぶ。

 特に貧しい途上国がひしめくアフリカ大陸との政治的連携(最近は経済的連携が強まっている)を強化し、さらにはG20首脳会議の中の南アフリカ、ブラジル、サウジアラビア、トルコ、インドネシア、アルゼンチンなど新興国との連携強化を図りながら、欧米の対局に立って発言権を強化しようとしている。

 それはまさに、先に述べた「北京コンセンサス圏」作りにつながっている。

 例えば、中国は戦後の米ドル基軸の世界経済秩序の守り神的なIMF(国際通貨基金)の議決権比率を見直して、新興国や途上国の影響力を強めようと画策している。その実現は時間の問題だと見られている。

 そうなると、新しい世界経済秩序のみならず、新しい世界秩序作りにも中国の「北京コンセンサス圏」の圧力が加わる可能性が高い。

 そこまで深読みしないと、中国が自らを発展途上国だと主張する発想の底流が見えてこない。

■一種の「生命維持装置」となった対外援助
 そう考えると、中国の経済援助による台湾孤立化作戦などは、今の中国にとって時代的価値を失ったものと考えてよいだろう。

 軍事面では、台湾海峡を通過して、東シナ海からインド洋の沿岸に“真珠の首飾り”と呼ばれる海外港湾拠点を、対外援助をテコに設けている。例えば、パキスタンのグワダル港、スリランカのハンバントタ港、バングラデシュのチッタゴン港、ミャンマーのシトウェ港などがあるが、それが中東、アフリカ沿岸に延びていく可能性は大いにあり得る。

 しかし、これらは単に、軍事的戦略の下での拡大政策というより、今では中国経済の発展を支える海運力増強にも深く関係しているという指摘もある。

 とにかく中国が一党独裁支配体制を維持していくには一定の経済成長を持続し、12億の民への所得配分を続ける必要に迫られている。

 少なくとも年率5%以下の経済成長になると民の不満が広がり、体制崩壊への亀裂が深まると考察する学者もいる。その自転車操業に必要なのが、今や中国の対外援助であると言ってもよい。

 中国の対外援助は、中国に同調する仲間を増やし、政治的影響力を発揮するための手段だけでなく、自らの経済成長の拡大路線を維持する手段としての政策的価値を持っていると言える。

 日本でも経済再建を進めていく上で、ODAに求める国益的価値は日々増大しているので、その思惑は中国と違っていても、対外援助、ODAに託す考え方は、まさに中国と同床異夢だと言えないことはない。

(転載終わり)

【筆者プロフィール】
荒木 光弥(あらき・みつや)
1967年「国際開発ジャーナル」創刊に参加し、40年以上にわたり代表取締役兼編集長を務める。2003年10月より現職。外務省「国際協力に関する有識者会議」委員、経済産業省「産業構造審議会経済協力小委員会」委員、文部科学省「国際教育協力懇談会」委員などを歴任。主な著書に『途上国援助 歴史の証言-1970年代、80年代、90年代』(国際開発ジャーナル社)などがある

【荒木 光弥「ODA削減でいいのか日本」バックナンバー】
2011年7月11日
中国発“ODA”は「何でもあり」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110707/221341/

2011年7月4日
対中ODAが続いている理由
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110630/221205/

2011年6月27日
途上国で“汚職の海”を泳ぐ
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110622/221069/

2011年6月20日
欧米に骨抜きにされた日本の援助哲学
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110616/220831/

2011年6月13日
「恩義を返される国」が揺らいでいる
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110609/220634/

1094 投稿日:2011/07/08 13:00

【605】新刊「悪党―小沢一郎に仕えて」

悪党―小沢一郎に仕えて [単行本]
石川知裕 (著)
価格: ¥ 1,680
単行本: 248ページ
出版社: 朝日新聞出版 (2011/7/7)
ISBN-10: 4022508914
ISBN-13: 978-4022508911
発売日: 2011/7/7
内容紹介
その思想、選挙戦術、日常の素顔から、知られざる弱点まで――。政治資金規正法違反容疑で逮捕・起訴された元秘書が、覚悟を込めて明かす、誰も書けなかった小沢一郎論。「擁護」でも「排除」でもなく、等身大の政治家像を描き出す。

佐藤優氏も絶賛!「この本は危ない。誰も書けなかった小沢一郎がいる」

目次
第1部 「悪党」登場
 第1章 逮捕まで、そして逮捕から
 第2章 悪党の思想と外交戦略
 第3章 悪党に仕えるということ
 第4章 悪党の急所
 第5章 悪党と選挙、大連立
第2部 「悪党」解剖
 第1章 悪党とキン肉マン
 第2章 悪党とマルクス
 第3章 悪党とウェーバー
 第4章 悪党とチャーチル
 第5章 悪党とサンデル
第3部 対決
 小沢一郎が語った「原発」「遷都」「復権」

1094 投稿日:2011/06/20 19:01

【604】藤森かよこ @kayokofujimori

kayokofujimori 藤森かよこ
アイン・ランドが、普通預金口座にカネ預けっぱなしで、何もしてないのを見かねた弟子のひとりが、ランドの晩年に、なんやかやと運用してあげた。小賢しい弟子だ。何かを創造して稼ぐことができる人間は、運用だのと投資だのに頭は回らんよね。

kayokofujimori 藤森かよこ
稼ぎまくって、普通預金口座にカネ預けっぱなしの、間抜けたおおらかな人生を生きるって、カッコいいなあ。

kayokofujimori 藤森かよこ
アイン・ランドは、『肩をすくめるアトラス』において、カネは諸悪の根源ではなく、ある人が成し遂げた良き何かと、別の誰かが成し遂げた良き何かを交換する道具であり、すごい発明品だと寿いだ。でも運用も投資もしなかった。銀行の普通預金口座にカネ預けっぱなしだった。おおらか。

1094 投稿日:2011/06/20 18:35

【603】竹原信一 @takeharasinichi 鹿児島県阿久根市

takeharasinichi 竹原信一
この国の組織運営が何を目的にされているのかを明確に理解する必要がある。それは「役人国家権力の維持」です。公務員権力のすべてがそこに集約される。そのように作られ運用されてきました。民主主義という言葉で国民は欺かれてきた。すべて公務員は国家の奉仕者であり国民の奉仕者ではない。

takeharasinichi 竹原信一
私の言う政治家とは、政治担当作業員のことです。

takeharasinichi 竹原信一
役人を民間同様に解雇できるようにすれば、市民の雇用を熱心に考えるようになります。身分制度にしたからまずい。採用制度よりも身分制度の廃止が最重要です。公務員身分さまの城ではなく、役割を果たすだけの役所にしなければなりません。

takeharasinichi 竹原信一
今は官僚に飼われた記者クラブ、検察、裁判官が審判をやっている。監督も官僚。そして政治家が選手。グラウンドで漫才やってる

takeharasinichi 竹原信一
政治家がルールを決める。政治家が審判をする。政治任用の官僚だけでチームを作る。

takeharasinichi 竹原信一
政治家ではなく、役人が役人を採用した。自分たちを守りあう制度や政治家を作り出してきた。官僚の陰謀です。公務員制度改革をさせたくない。官僚が小沢を妨害したと私は見ています。

takeharasinichi 竹原信一
そもそも、公の仕事を自分のためにやってはいけない。自己利益を理由に役所に就職されてはたまったもんじゃありません。今はそうなっていますが。政治家と役人身分は儲からなくてもいいんです。政治家や役人でなくなった時、一般市民と共に不自由しない状態をめざして頑張る状態に置くべきでしょう。

takeharasinichi 竹原信一
私の実感では公務員学校に行った者のペーパー試験の点数は現場の能力とは関係なくかなり高めです。また採用に失敗した場合でも、ほとんどやめさせることができません。役人同士守りあう結果、役所全体のペースが最低人間のレベルに合わせることになっていきます。頑張ることがばかばかしくなってくる

takeharasinichi 竹原信一
公務員試験がどういったものかご存知でしょうか。官僚試験は前もって知らされた参考書から出ます。試験は点数が全部同配点で、簡単なものを選び、難しい問題は後回し、あるいはしない。その能力だけで採用されます。役所では国民の為になる人材を育てません。国民から役人組織を守る者が出世します。

takeharasinichi 竹原信一
連続的な動きの中での変革を希望する方は、結局、変わって欲しくない方なんだろうと思います。ぬるま湯から熱くなっても出られない。茹でガエルになるでしょう。 そろそろ使ったことのない勇気という心の筋肉をつけていただきたい。最初は痛い、でも慣れてきます。使うことが気持ちよくなります。

takeharasinichi 竹原信一
阿久根にはそうでない方がたくさんいました。「こちらこそお願いします」という方が少なくありませんでした。でも過半数にはならない。

takeharasinichi 竹原信一
有権者も選挙の時には自分たちの身分を感じているのかもしれません。もちろん権力者感覚、候補者に対して上から目線。社会全体に対する責任感を感じないんですよね。

takeharasinichi 竹原信一
必要なのは妥協ではなく、市民の暮らしです。市長も議員も、役人もそのための一時的な道具です。単なる係の立場にするべきです。身分化するから考え違いをする。どれも大した内容ではありません。

takeharasinichi 竹原信一
二元代表制は無理なんです。市長は全体から選ばれて市政の実務をおこなう。議員は地域や特定の集団の利益を基に立つ。条例や予算を決定するのが全体に対する責任のいらない烏合衆の議員多数決議会。談合、芝居、多数決それが市政の最高議決機関。

takeharasinichi 竹原信一
市長自身が自分の給料を半分にする。ボーナスをゼロにする。というのに反対する議会がどこにあるか。こんなのを一切報道しないマスコミ、公務員や官僚伊藤知事と結託している報道に皆さんは騙されたのです。

takeharasinichi 竹原信一
そもそも「議会では議論をしてはいけない」そういう仕組みであることをご存知でしょうか。議会における市長は議案の説明係にすぎません。議員は質問しっぱなしで多数決するだけです。賛成したくないからしない。 彼らは私が決めた減税を戻して、職員、市長、議員の報酬をあげてしまいました。

takeharasinichi 竹原信一
官僚は増税をしたくてたまらない。天下り先を確保するためにカネが欲しいのです。増税を避けるため、政府紙幣発行を予定していた中川昭一財務大臣は酔っ払い会見をする羽目になった。隣で平静な顔をしていた人間が今IMFの役員をしている。IMFが日本に増税を求めている。極悪非道の官僚組織です。

takeharasinichi 竹原信一
国民に対する権力闘争とは、、公務員が報道と手を握り、脅迫し、利権を共有して役人に権力を譲らせる政治家を応援する。政治家に与える情報を操作し、政治家を教育し、洗脳して増税→天下り確保などに利用する。警察、検察、裁判所の立場から国民を日常的に監視、管理、脅迫する。

takeharasinichi 竹原信一
公務員が全体として身分化し、日常的に国民に対する権力闘争をしかけていることを認識すべきだ。

takeharasinichi 竹原信一
堀江貴文氏、きょう収監。法の犠牲者ではなく、裁判官、公務員、官僚たちの保身と欲望の犠牲者。

takeharasinichi 竹原信一
この国を建てなおせるかどうか、全ては公務員改革が出来るかどうかにかかっている。

takeharasinichi 竹原信一
ある高級官僚の言葉「政治主導なんて言葉けだけだ。政治家なんて結局、おれたちがいなくては、なにもできないのさ。官僚がこの国を動かす仕組みは永久に変わらないんだ。」官僚にはすべての省庁、裁判所、報道を握っているという自負がある。有権者は問題ではない

1094 投稿日:2011/06/18 19:10

【602】‘@takeharasinichi 竹原信一

竹原信一
takeharasinichi 竹原信一
役人が揺すってくれる揺りかごに乗っている政治家が使う言葉には癖があるような気がする。役人システムを信頼しきった表現がそれだ。 哺乳瓶をくわえている様でぎこちない。
6月17日
竹原信一
takeharasinichi 竹原信一
政治家は役人や役所を使う者という概念があるような気がする。しかし、もはや、使えない役所は使わないという選択肢が必要だ。
6月17日
竹原信一
takeharasinichi 竹原信一
役人は政治家をミスリードしたりはしない。国家の犬として政治家を利用しているだけ。それが役人の職務なのである。
6月17日

黒瀬 投稿日:2011/06/04 18:29

【601】「小沢・菅抜き」連立…「鳩菅」合意で幻に(読売新聞記事)

終わりのほうの一文に要注目。

「鳩山氏も余計なことをしてくれた。小沢氏を堂々と切ることができるチャンスだったのに」

●「小沢・菅抜き」連立…「鳩菅」合意で幻に
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110603-OYT1T00101.htm

 「17年国会議員をやっているが、こんなどんでん返しは初めてだ。問題は何も解決されていない。早晩行き詰まるだろう」

 前原誠司前外相は2日夜、東京都内のホテルで開いたグループの会合でこう嘆いた。グループでは、不信任案採決での大量造反は避けられないと見て、可決、否決にかかわらず、小沢を除名処分にして、菅にも退陣を求めるべきだという意見が強かったのだ。

 そこには、ある戦略があった。自公両党内に菅と小沢へのアレルギーが強いことから、「小沢・菅」抜きの新たな連立の枠組みへ踏み出すというものだ。

 〈不信任案採決後、岡田と仙谷由人官房副長官が菅に退陣を迫る。菅の後継を選ぶ代表選には前原グループの仙谷を擁立し、自民党との連携を探る〉

 グループ内には、こんなシナリオさえあった。

 前原や仙谷は既に、自民党の大島理森副総裁や石破政調会長と連絡を取り合っていた。1日夜の会合では「誰がやっても難しい状況だから、谷垣さんに首相をやってもらうのもありだ」との声も上がっていた。

 それだけに、急転直下の「鳩菅」合意で、前原グループ内には脱力感も漂う。

 「鳩山氏も余計なことをしてくれた。小沢氏を堂々と切ることができるチャンスだったのに」

 同グループの若手の一人は悔しさを隠さなかった。(文中敬称略)

(2011年6月3日09時04分 読売新聞)

黒瀬 投稿日:2011/05/31 03:49

【600】決死の戦場に等しい東電福島原発事故現場:権限委譲するしかない

ブログ「新ベンチャー革命」より。

筆者は技術経営コンサルタントの山本尚利(やまもと・なおとし)氏。
1970年 東京大学工学部船舶工学科卒業。石川島播磨重工業(株)にて造船設計,新造船開発,プラント設計,新技術開発などを担当する。1980年 SRIインターナショナル(スタンフォード研究所)東アジア本部に入り,以降コンサルタントとして企業戦略,事業戦略,技術戦略などのコンサルティングを行なう。2000年 SRIから独立し(有)ISP企画代表取締役となる。

詳細なプロフィール
http://www.techno-con.co.jp/author/yamamoton.html

(転載開始)
新ベンチャー革命2011年5月30日 No.376
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/24786964.html

タイトル:決死の戦場に等しい東電福島原発事故現場:権限委譲するしかない

1.東電福島事故現場の関係者は決死で現場に踏みとどまった

 本ブログNo.175(注1)で、東電福島原発事故対応に関して、事故機のある第一原発所長の吉田昌郎氏について取り上げました。本ブログでは、東電本店の対応も日本政府の対応も評価していませんが、唯一、事故現場関係者を評価しています(注2)。

 この現場を仕切っているのは誰だろうというのは、事故直後から、気になっていました。

 事故現場は、命懸けで人事を尽くしていると思います、だから、致命的破局事故(原子炉自体の大爆発)が起きていないと言えるでしょう。

 3.11大地震・大津波で供給電源を失い、非常用電源も失い、地震直後の現場はまさに万事休すだったはずです、にもかかわらず、東電現場関係者は命を賭けて、現場に踏みとどまっていました。

 これを可能にしたのは、ひとえに吉田所長の人望とリーダーシップにあったことは明白です。こういうとき、現場管理者が逃げ出したら、現場の統制は取れず、メチャクチャになって、クモの子を散らすように全員逃避していたはずです。

2.船長は最後まで、船に残るのが船乗りの掟

 筆者はもともと造船屋ですから、船乗りの掟を知っています。船も非常に危険な乗り物ですから、常に緊急事態が発生します。そのため、船内の乗員社会は、一般社会と異なり、徹底した階級社会となっています。さもないと緊急時に統制がとれなくなりますから。そして、船長には全権が与えられています。その代り、全責任も負っていますから、万一、船が遭難したとき、船長は乗員全員が避難するのを見届けた後、最後の一人となるまで、船に踏みとどまります。船乗りの世界では、船長が部下を見棄てて先に逃げたらそれは一生の恥です。

 気骨ある船長は、どうせ限られた人生、恥を背負って生きるくらいなら、死んだ方がましという人生哲学をもっています。

 昔、出光興産(亡き父の勤務先)所属の内航向けの小型石油タンカーが瀬戸内海にて他船と衝突炎上して遭難した際、その船長は乗員全員を救命ボートに乗せて、自分は燃え盛る自船に居残り殉職しました。当時の出光佐三社長は、この行為に大変感激し、その家族に殉職船長が生きていた場合と同じ水準の給与を定年まで払い続け、さらに、その子息を無条件に出光に雇用しました。

3.船乗り精神は軍人にも通じる

 さて、本ブログのテーマは米国戦争屋およびそのロボット・悪徳ペンタゴン日本人です。

なお、上記、米国戦争屋およびそのロボット・悪徳ペンタゴン日本人の定義は、本ブログのNo.225の注記をご覧ください。

 筆者の元勤務先である米国シンクタンク・SRIインターナショナルは、研究開発プロジェクト予算の大半を国防総省(米戦争屋の配下)からもらっており、ペンタゴンの近くにワシントン事務所を持っていました。その関係で、筆者は頻繁にワシントンDCを訪問、米国の軍人精神とは何かに触れる機会がありました。

 上記、米戦争屋は戦争をビジネスとする米国覇権主義者集団ですから、軍人精神の徹底化をことさら重視しています。とりわけ、戦争時の戦闘最前線の軍人には、命を賭けて最前線の戦線を防衛してもらう必要がありますから、ペンタゴン制服組には軍人精神教育を徹底的に行うわけです。

 したがって、彼ら戦争屋や軍人がミッションという場合、それは、命を賭けて遂行する軍事任務を意味しています。

4.吉田所長はミッション遂行型人間だったようだ

 3.11事故以降の東電事故現場の動きを観察してきた限りでは、吉田所長は、上記、ミッション遂行型人間ではないかと推察されます。

 なにしろ事故機が4基もありますから、一難去ってまた一難と次々と重大危機が襲ってきました。現場は汚染水の流出で高濃度放射能に満ち満ちており、油断すれば命の危険があります。にもかかわらず、黙々と冷静に対処してきたのは確かです。右往左往と大騒ぎしていたのは、東電本店と原子力安全・保安院とマスコミです。“船頭多くして船山に登る”を絵に描いたような光景が毎日、テレビ中継を通じて、全国の茶の間に伝えられました。

 一方、事故現場では、吉田所長の采配で、コツコツと炉心燃料の冷却作業を続けてきました。この吉田所長タイプは、だまってオレについてこいというような独断専行型となりがちですが、非常時や緊急時に本領を発揮しますので、まさに適材適所だったわけです。

 原発事故発生時、東電には稀な吉田氏のような人物が所長をやっていたのは、日本国民にとって、不幸中の幸いでした。

 マスコミ情報によれば、吉田所長は、平気で上司に楯突いたり、上司を批判したりして、困り者の一面をもっていたそうですが、だいたい想像がつきます。

 大阪府出身とのことで、大阪人的メンタリティの人間が東電に入ると違和感があるはずです。

 そういう筆者も、IHI時代、東電向けプロジェクトをいくつも手がけ、東電袖ヶ浦火力や東扇島火力の建設現場に入りびたりでしたから、だいたいわかります。

5.戦場のような厳しい現場の実権者はかならずしも、地位で決まらない

 東電の発電所現場に限らず、官庁や日本企業の現場で実権を握るのは、そこで実質的に必要とされる人間であって、かならずしも、地位や年功序列では決まりません。吉田所長の場合、単に地位の高い人ではなく、もともと実権者であり、たまたま幸運にも、所長だったということでしょう。大袈裟に言えば、これで、日本は救われた面もあります、下手すれば、原子炉大爆発寸前だったわけですから。

 さて、私事ですが、筆者もIHI時代に東電発電所建設現場(一種の戦場)とやりとりしていたとき、IHI内にて上司に楯突いたり、批判したりしていました。

 あるとき、IHIプラント事業本部の幹部から、キミは東大卒のエリートだが、組織の統制を乱す反逆児であり、上司を面前罵倒するような人物を課長するわけにはいかないと告げられたことがあります。しかしながら、現場でトラブルがあると、東電建設現場からは真っ先に筆者(まだ課長ではなかった)にお呼びがかかってきました。

6.現場に求められるのは臨機応変の問題解決力

 東電事故現場は、毎日が戦場であり、修羅場であることは容易に想像がつきます。しかも事故機が4基もあり、かろうじて助かった5号機、6号機も決して安泰ではありません。原発プラントの最大の難点、それは、放射能が邪魔して、思うように事故現場に近づけないので、修理もできない点です。この点は、他の発電プラントとは根本的に異なります。

 さらに、東電福島事故現場は、世界中の原発では起きたことのない未知の領域に入り込んでいますから、一瞬先は闇なのです。

 次々と起こるトラブルに、できる範囲で、速やかに対処しなければなりません。吉田所長はマーフィ―の法則(注3)通り、事故機の安全不備にとっくの昔に気付いていたはずで、これまで、本店に老朽機安全強化の改造を申請してきた可能性があります。おそらく、原発技術に疎い東電経営者は受け付けなかったのでしょう、だから、同氏からみれば、案の定、こんなことなったと、本心では、原発無知の東電経営者に対し、はらわたが煮えくりかえる思いでしょう。にもかかわらず、同氏は、居直らずに踏ん張っているわけです、それは、彼が逃げ腰の本店幹部に向かってテレビ会議で『もう、やってられねー!』と暴言を吐いたというエピソードから十分にうかがわれます。官僚的な東電エリートはざっくばらんな大阪人メンタリティの吉田所長を到底、受け付けないはずです、これはこれで、わからないでもありませんが・・・。

 いずれにしても、このような緊急局面において、単に、学歴エリートだけが売りの人は、まったくリスク対処できないのみならず、逆に現場の足を引っ張るのが関の山です。

 今回の事故は、東電経営者が原発というものの正体を正しく認識できていれば簡単に防げた事故ですが、残念ながら起きてしまったことなので、今は、現場に権限委譲するしか選択肢はありません。ここで、権限委譲とは、問題解決を現場に任せるが、最終責任は経営者が取るという意味です、誤解なきように。

 東電本店も原子力安全・保安院も、何か不都合があったら、現場のせいにして自己保身に走らないようにお願いします。

注1:本ブログNo.344『東電福島原発事故現場:やはり吉田昌郎所長個人の剛腕で仕切られていた』2011年5月28日
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/24746772.html

注2:本ブログNo.344『命がけで踏ん張る東電福島事故現場:世界にとって驚異であり、脅威でもある』2011年4月18日
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/24017890.html

注3:マーフィーの法則、ウィキペディア参照

ベンチャー革命投稿の過去ログ
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Oakland/1386/melma.htm

テックベンチャー投稿の過去ログ
http://www.elmstadt.com/news/techventure.html
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/8285/column-top.html

(転載終了)