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Loginはこちら【488】ブレイク:坂口安吾と言えば・・・
伊藤睦月です。かたせ2号さんの投稿をみて、少し、トレビアっぽい話を・・・
(1)坂口安吾の作品は「信長」しか読んだことはない。それ以外に1970年代に「安吾の開化探偵帳」とかいう、勝海舟とその弟子、が探偵となって、事件を解決する、というTV番組を見ていた。主演は、若林豪、と池辺良だったか。横尾忠則のイラストがシュールで、なんか記憶に残っている。
(2)坂口安吾と太宰治は「無頼派の作家」といわれ、終戦直後の昭和20年から、恐らく、昭和25年くらいまでの間に、酒と女におぼれながら、作品を発表し、太宰は女性と心中し、坂口は酒と覚せい剤(ヒロポンといって、当時は禁止されていなかったように思う)におぼれた。太宰の話は、副島先生の本にも出てくる。
(3)この昭和20年(敗戦)から、昭和25、6年頃、GHQの占領下にあった頃、(仮に占領期とよぼうか)いろんなことが起こっているし、その一部は松本清張や多くの作家や研究者により、研究され、本にもなっているが、本当の話、時代の実相というのは、現在の我々にはよくわからなくなっている。少なくとも私は、副島先生の「ぼやき」や佐藤優氏による、共産党の歴史やその他の人たちの本を読んだり、話を聞いて、へーえ、と思うことがせいぜいだ。関心は失わないようにはしたいとは思っている。
(4)そこで思い出したのが、この占領期における、作家や学者たちの右往左往(うおうさおう)だ。みんな戦犯容疑で逮捕されることを恐れていたようだ。
(5)副島先生が、「狂人日記」で谷崎潤一郎を取り上げているが、谷崎のように超然としていたばかりでなく、そうでない作家の方が多かったようだ。
(6)まず、時代に殉じた、敗戦によって、自殺したり、筆を折った作家がいたとは、私は聞いたことがない。(蓑田胸喜、という右翼思想家が終戦の詔勅を聞いて自殺した、という話は、佐藤優氏の本で知った)
(7)谷崎のように沈黙を守って、戦後にお呼びがかかるまで、作品を書き続けた人、谷崎潤一郎のほかにだれか知りませんか?
(8)とにかくやけっぱち、で酒や女に溺れていった作家、太宰治、坂口安吾ら「無頼派」の作家たち。太宰治は、「死ぬ死ぬ詐欺を繰り返した挙句」、女性と心中した。
(9)もうどうにでもなれ、と居直った人、小林秀雄、親友だった中原中也から奪った女性に溺れて過ごした。(同時に、日本古典の世界にのめりこんでいった)
(10)GHQに積極的にこびへつらい、おもねった作家、志賀直哉(城崎にて)とその仲間たち。志賀直哉は、我が国の公用語を日本語からフランス語に代えるべき、という嘆願書を仲間の作家や文化人と連名で、GHQに嘆願したという。志賀直哉と行動を共にした人たちの名前は知らない。知っている人がいたらご教示ください。現在、我々はフランス語を使用していないから、嘆願は通らなかったのだろう。
(11)その志賀直哉の一番弟子だと自任していたのが、「阿川浩之」(米内光正、山本五十六)だ。副島先生が、筆誅を加えていた。だから、日本語を売ろうとした作家の弟子が、今一番の保守派の作家のひとりとみなされている。なんかおかしいよね。
(12)川端康成はどうだったのだろう。その一番弟子の三島由紀夫が、心中直前の太宰治に酒場で議論を吹きかけ、太宰から、相手にされなかったそうだ。三島から何を言われてもただへらへら笑っていたそうだ。そして間もなく心中した。そこに太宰のすごさ、というか、突き抜けていた人なんだな、と感じてしまう。
(13)坂口安吾は、その後も酒と薬に溺れ続けたそうだ。彼が敗戦のショック冷めやらぬ間に急いで書き留めたのが「堕落論」という作品だ。私は読んだこともないし、これから読むつもりもない。
(14)伊藤睦月です。以上の話は、全部、私の記憶だ。20代、いろんな本を読み漁っていたときに得たものの集積だ。だから虚実はわからない。私だって、引用文献がない、根拠薄弱な文章を書きたくなる時だってあるんだ。
(15)とりあえず、「信じるか信じないかはあなた次第です」と言っておこう。かたせ2号さん、いろいろ思い出せてくれて、多謝です。
以上、伊藤睦月拝
【487】坂口安吾の文章がよかった。
かたせ2号です。
ずっと以前から畏友から勧められていた、坂口安吾の文章、主張を最近になってようやく、初めて読んだ。
良かった。
これは、神様が無頼派作家(坂口安吾)の口に寄せて、ぼやいているのでは?
それくらい出来のよい文章だった。
以下に、青空文庫から坂口安吾「不良少年とキリスト」の後半部分を引用する。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42840_24908.html
(引用開始)
もっと、ひどいのは、哲学者、笑わせるな。哲学。なにが、哲学だい。なんでもありゃしないじゃないか。思索ときやがる。
ヘーゲル、西田幾多郎、なんだい、バカバカしい。六十になっても、人間なんて、不良少年、それだけのことじゃないか。大人ぶるない。冥想ときやがる。
何を冥想していたか。不良少年の冥想と、哲学者の冥想と、どこに違いがあるのか。持って廻っているだけ、大人の方が、バカなテマがかゝっているだけじゃないか。
(引用終わり)
かたせ2号です。
こういうことへの批判なら、認識論のカントに対していうべきではないかと思ったが、なんでヘーゲルなんだろう? 坂口安吾は、マルクスと同じ「共産主義者」(ヘーゲル批判者)なのか?
まあ、いいですけど。
あとの文章もよい。以下に3つ、抜粋しておく。
(1)生きることだけが、大事である。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。
(2)人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
(3) 限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。 (中略) 学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。
かたせ2号です。以下、上の3つを含んだ文章を引用して、終わりにしておきます。
(引用開始)
死ぬ、とか、自殺、とか、くだらぬことだ。負けたから、死ぬのである。勝てば、死にはせぬ。死の勝利、そんなバカな論理を信じるのは、オタスケじいさんの虫きりを信じるよりも阿呆らしい。
人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ。死んでも、生きてるなんて、そんなユーレイはキライだよ。
生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。
死ぬ時は、たゞ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です。
大ゲサすぎたのだ。限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。
原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。
自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。
私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、戦争も学問じゃない、ということを教えられた。大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。
学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。
(引用終わり)
以上
【486】戦国時代の謎解き。
かたせ2号です。
あくまで仮説にしか過ぎませんが、以下で、戦国時代の謎解きをします。
中国大返しの前、本能寺の変の直前に、イエズス会と毛利家の、仇敵同志が、「信長殺害」で手をくんだということ。イエズス会から見れば信長が「しつけのなっていない犬」だと、荒木村重謀反の際の信長の対応で判断ができた、小早川隆景にとっては、信長に滅ぼされる前の毛利家の保全策。
その上で、踊らされたのが朝廷と光秀。
本能寺の変は、光秀・朝廷・秀吉・イエズス会・毛利家、「全員が犯人」。
そして、ごく簡単にいえば、戦国時代のイエズス会が、現在の日本政治における統一教会。
イエズス会は、イエス・キリストを崇拝していたのではなくて、ローマ教皇の背後の「闇」を崇拝していたはずだから。
さあ、ミノタウロスの皿の少女(今後の日本)の運命やいかに?
ミノタウロスの皿 (藤子・F・不二雄の傑作SF短編)
(あらすじ)
宇宙飛行士の主人公は、「イノックス星」に不時着し、美少女ミノアと出会う。
ところがミノアは実は人型の食肉用家畜で、彼女らを飼育しているのは牛型の宇宙人だった。
ミノアに好意を抱いていた主人公は驚愕しつつも彼女を助けようと奔走するが、「おいしく食べられること」を誉れと考えている彼女とは話が噛み合わない。
そしていよいよミノアが祭りで食べられる日が近づく……。
以上
【485】ブレイク(:九州王朝説(日本古代史研究のトリックスター、古田武彦ら「在野の巨人たち」について)
伊藤睦月です。今回は「古田武彦」について。この人はちょっと厄介だ。古田は、1926年生まれ、東北大日本思想科を卒業したあと、高校教師をしながら、日本古代史、親鸞の研究、発表を続け、1984年からは、昭和薬科大学の教授に迎えられている。2015年死去。
伊藤睦月です。「古田武彦」といえば、『邪馬台国はなかった』(1971年)『失われた九州王朝』(1973年)で、「魏志倭人伝には、「邪馬台国」は存在せず、「邪馬壱国(やまいちこく)」としか書いていないので。ヤマタイコクと書いている先行研究はすべて誤りだ」「卑弥呼女王の都は、魏志倭人伝上博多湾周辺しかありえない」という主張で、業(学)界を震撼させたらしい。 また当時としてはいち早く「九州王朝説」を唱えて話題をさらうなど、歴史研究者や愛好者間ではかなり有名な人物だ。彼の「九州王朝説」については、学会内での支持者、と思われる、若井敏明(関西大学非常勤講師)の要約を紹介します。
(引用開始)※番号は伊藤付加
(1)古田氏は、邪馬台国(氏の主張では、やまいちこく)が九州にあったことと、『三国志』の『魏書』東夷伝倭人条(以下、『魏志』倭人伝)以降の中国史書に見える倭には、連続性が認めれることを主な根拠として、九州を領土とする王朝が弥生時代初期から七世紀末まで、存在したとする。
(引用終わり:『謎の九州王朝』祥伝社新書2021年)
(2)伊藤睦月です。この7世紀末というのは、633年の白村江の戦いで、「旧唐書倭国伝」の倭国、すなわち、「九州王朝」が滅んだとし、その最後の王が665年に郭務綜が来日した際に、捕虜として返された「筑紫君」だとする。
(3)そして、天武天皇の即位後に、焼失後再建された法隆寺が「九州王朝」の都、「大宰府」の寺院から、飛鳥に移築された、という考古学の成果などを根拠に、実は、天武天皇は、天智天皇の弟でなく、「九州王朝」の王族であり、672年の壬申の乱で、大和王朝系(古田は、近畿天皇家、九州天皇家、両方とも同じ「アマ」氏だとする)の大友皇子を倒して政権を簒奪、その孫の文武天皇のときに、反天武系がクーデターを起こして、国号を「日本」と改め、粟田真人が、遣唐使で、則天武后に報告、日本国号の使用と合わせて、王朝の正当性の承認を得た、という。
(『古代は輝いていたⅢ法隆寺の中の九州王朝』)1985年)
(4)そして、「日本書紀」に「九州王朝の歴史書(日本旧紀)」を大幅に取り入れ、日本書紀の神代編に「一書」という形で九州王朝の神話を取り入れたとする。そのことによって、天武系の正当性を主張しようとした、とする。(『盗まれた神話 記・紀の秘密』1983年)
(5)伊藤睦月です。以上を読まれた方、以前の私の投稿をご覧になった方は「あれ、どこかで見たような見解だな」と思いませんでしたか?アイデアてんこ盛り。古田の学説は、今まで学会でまともに取り上げられることはなかったが、一部の学会や歴史愛好家には、未だに熱烈な支持者がいるようで、彼らは「古田学会」という自主研のようなグループを結成し、機関誌も発行しているようだ。彼の単行本は400ぺージくらいで27冊あり、そのすべてが、ミネルヴァ書房という書店から「古田武彦古代史セレクション」という全集本で復刊されている。ちなみに、この機関誌の存在は、昨日(11月17日)福岡市の大型書店で見つけた。その横に、下條氏の本が平積みで3冊ほど積んであって正直じわった。ちなみにその機関誌は買ってない。
(5)伊藤睦月です。古田とは生前親交があり、良き論争者であった、「家永三郎」(1913年ー2002年、東京教育大名誉教授、専門は日本古代史、「家永教科書裁判」という憲法訴訟の分野では有名な判例で、昭和や平成前半期の法学生には有名だった)は古田のことを、「精緻な論証と主観的独断の共有する古田学説」と評したが、日本史学会の学者たちの大半が古田を無視したなか、ただ一人、論争に応じ、共著までだしている。この家永三郎、学者としての業績評価は知らないが、なかなかの人物、だと私、伊藤は思います。
(6)伊藤睦月です。古田は47冊の本を通じてありとあらゆる、大量の仮説を書き散らし、いや提示してきているので、九州王朝に関する仮説は、たいがいは、古田の本から見つかるだろう。
(7)私の経験を言えば、かつて、「白村江の戦いは、残敵殲滅戦」だと書いて、少し悦に入っていたが、後日、同じ文章を古田本のなかから見出して、テンション下がった記憶がある。「自分の頭で考える」ことなど、たいていは、思い上がりでしかない「中二病」であろう。もちろん、自分の頭もその程度だ。
(8)1970年代~80年代の「古代史ブーム」の立役者といえば、ほかに、松本清張、高木彬光、宮崎康平、梅原猛、江上波夫、などが、よく読まれた。井沢元彦は松本、高木の系統であろうこれらのスターたちは、学会では、江上を除き、あまり取り上げられることはないし、学者たちの重箱の隅をつつくような議論、論文はさほど気にしなくても、こういう在野の歴史マニアが信奉する論者たちの見解には、注意を払う必要があると思う。
以上、伊藤睦月拝
【484】天才・岡田英弘の孤独(5):おまけ
伊藤睦月です。おまけ2つ
(1)「岡田英弘イジメ問題」については、ウィキペディア「岡田英弘」に本人と弟子のコメントを参照。読んでて切なくなった。
(2)それから、下條本に岡田英弘著作集全8巻を、中国の要人が読んで、絶賛し、その評価が日本に逆輸入されるだろう、という旨の、文があるが、楽観視が過ぎる、と考える。
(3)伊藤睦月です。上記「中国要人絶賛」の記事もウィキペディア(岡田正弘)に掲載されているが、この記事が事実だとしたら、そのポイントは、次の4点
(1)この記事は2015年、出元が「福嶋香織」であること。
(2)この福嶋香織がインタヴューした中国要人が「王岐山」であること。
(3)王岐山は、2014年の1年間にわたり、岡田博士の本を読んでいること。
(4)王岐山は、岡田英弘博士を「蔑視派」の歴史学者と認定していること。
(5)そのうえで、岡田博士は素晴らしい、とほめていること。
私は、この記事を読んで背筋が寒くなった。以下私の考えを簡潔に述べる。
(1)福嶋香織は、元産経新聞中国特派員で、現在フリー。新疆ウイグル自治区やチベットの人権弾圧に関する著書があるようだ。(私は、読んでいない)そんな「好ましからぬ人物」が介在している岡田本を彼らは歓迎するだろうか。
(2)この「王岐山」という人物の現在の政治勢力、パワーはどれくらいあるのだろう。これが習近平が読んで、褒めたのなら、その翌日には、中国中の本屋に岡田先生の本があふれかえっているはずだ。中国には「出版の自由」はほとんどない。そのほとんどすべては、なんらかの「政治色、政治的意図」があると見た方がよい。そんな「色」がつくことを岡田先生は望まれただろうか。
(3)この「王岐山」は、日本語の本は読めたのか、読めなくて、中国語に訳させて読んだのか、その辺は明らかではないが、それにしても、「1年間にわたって読んだ」ということは、著作集8巻を読んだ、ということだけではなく、それを含め、「岡田英弘」の「人物と思想調査」が完了した、ということだ、と思う
(4)一番の問題は「蔑視派」という認定だ。「蔑視派」とは何のことか、誰が誰を「蔑視」しているのか。そう、これは「日本人」が「中国人」を蔑視する歴史観という意味だと思う。そうだとするなら、岡田先生の本の随所に出てくる、「漢民族は、2世紀にはその大半が死に絶えた」とか「中国の近代化はすべて日本経由」みたいな見解を一貫して主張している、岡田英弘、という学者の本を中国で広めようとするだろうか。また逆輸入が実現するだろうか。
(5)そんな岡田先生を「王岐山」が褒めたという。それはいわゆる「ほめ殺し」とうもので、これを解読すれば「岡田英弘博士は、「蔑視派」として正々堂々と持論を展開している。それは、敵ながらあっぱれである。岡田先生は、われわれ、中華帝国に堂々と逆らった「国士」だ。国士には礼をもって、国士にふさわしい「名誉の死」をあたえよう。かの文天祥や方抗儒のように」
伊藤睦月です。これって私の考えすぎだろうか。なお、岡田先生は、台湾の大学の先生をしたことがあるが、1980年に北京図書館に自分の業績論文を寄贈し、「林彪事件」の現場を視察(著作集第5巻にその時の写真が掲載されている)した以降は、中国に入国された、できた、のであろうか。
そのへんの状況は私にはわからないが、そんなに中国に褒められることが、めでたいことなのだろうか。私にはよくわからない。アメリカに代わり、我々の宗主国になるかもしれない、国とつきあうことはそれはそれでやっかいだな、と正直に思う。
以上小休止。伊藤睦月筆
【483】天才・岡田英弘の孤独(4)
伊藤睦月です。暑苦しい議論で恐縮ですが、続けます。
(1)大学教科書として編纂された、『世界史の誕生』とは違って、『日本史の誕生』は、一般読者向きの、教養、娯楽本として企画編集されたものだと、私、伊藤は考えます。
(2)手元に弓立社版の単行本を持っていないので、自分の記憶に頼ってますが、写真、地図、イラスト、講演、シンポジウムの発言録などが、通常本とは違う、図鑑や雑誌のような段組で、載せられて、読み物というよりも、見て楽しい本だったと思います。
(3)文章も、学術論文調ではなく、たとえば、「駐在員」とか「パレード」とか一般読者がイメージしやすい表現を用い、「真実なるものはえてしてほろ苦い」といった、情緒的、文学的なフレーズを入れるなど、普通学術書にはみられない工夫が随所にみられる。
(4)その反面、学術書なら当然あるべき、引用・参考文献リストが付されていない。
(5)以上から、明らかに一般書の体裁であり、当初、岡田博士の業績にはカウントされず、したがって日本史関連の論文で引用もされなかったと考えられる。これはいわゆる「無視」とか「いじめ」
とは違うのではないかと思う。(「無視」とか「いじめ」と自他ともに認めるのは、西嶋定生を筆頭とする、日本東洋史学会の主流派学者たちのことだろうと思う)というか、岡田博士にとって、日本史に関する諸論考は、本気でなくて息抜き、余興のようなものであったろう。私、伊藤は、同書からは岡田先生がくつろいで議論を楽しんでいるようにどうしても思えるのです。
それでも、岡田博士は天才だから、天才にとってはほんの余技でも、それをライフワークとしている学者たちとそん色ないレベルのものであるとするなら、並みの学者たちはどういう思いだったろうか。
なお、岡田学説は学会的には『倭国の時代』で躍動することになる。下條氏も紹介している、渡邊義浩『魏志倭人伝の謎を解く』(中公新書2012年)である。『倭国の時代』の巻末には、「参考にした資料について」と題した、参考文献リストが文庫版から付されており、学術書でも引用可能になった。
渡邊義浩は、三国時代を中心とする中国古代史や儒教などの中国思想史を専門とする、いわば岡田博士と同業者で、日本史の専門家ではないが、魏志倭人伝に関する論考で、岡田説をほぼ全面的に展開している。こんな本は、私は初めて見た。渡邊は、『倭国の時代』について、「親魏大月氏王に着目し、曹爽と司馬イとの抗争のなかに、親魏倭王の贈与の原因を求める」と簡潔に要約している。
そして、その隣に、西嶋定生『邪馬台国と倭国ー古代日本と東アジア』を置いている。渡邊なりのバランス感覚の発露、とみるのは、考えすぎだろうか。
もう一つ、強調しておきたいのは、『日本史の誕生』を見つけ、称揚し、その名声を高めるのに、一役買ったのは、副島隆彦先生そしてその弟子たち、すなわち私たちではなかったのか。
岡田英弘先生は、2017年に亡くなられているが、いわば人生の晩年あたりに、最良の理解者とその読者たち、を得て、孤独な天才の心は少しは慰められたのではなかろうか。僭越ながら、そう思いたい。
以上、伊藤睦月拝
追伸:岡田先生の「聖徳太子実在説」をしりたかったなあ。
【482】天才・岡田英弘の孤独(3)
伊藤睦月です。寄り道が過ぎるようですが、このまま、行っちゃいます。
(1)現在、『世界史の誕生』、『日本史の誕生』及び『倭国の時代』は、ちくま文庫に似たような装丁でならんでいる。しかし、その成り立ちは、前者と後2者とで全く違う。
(2)『世界史誕生』は将来この分野での専門家を目指す学生のための入門テキストとして企画された。たしか、「ちくまプリマー双書」とかというシリーズだったと思う。私はその中の「法哲学」とか「法思想史」とか「民法」などを読んだ記憶がある。
(3)この『世界史の誕生』の本文は、文章に「遊び」がない。論文、教科書スタイルである。ぎっしりと硬質な文章で埋められている。
(4)巻末に、「参考文献の解説」があり、各章ごとに必読の文献(日本語と英語)が、その解説(というか、読みどころ)とともに、紹介されている(全100本くらい)この本に取り組む者(学生)は、著者のナビに従って、、この100冊を読破、習得すれば、この分野での、必須文献をマスターし、専門家(大学院)への道が開ける、といった趣向である。これは決して一般向きの本ではない。
(5)伊藤睦月です。私はこのリストと解説をみて、驚愕した。岡田博士は、研究者としてだけでなく、教育者(メンター)としても優れた方だったんだろう、と痛感した。
(6)なお、私はこのリストにある文献を一冊も読んでないし、これからも手にすることすらしないだろう。私には無理。しかしこの分野では、入門中の入門文献なのだろう。せいぜい本文を読んでその雰囲気を味わうだけだ。
(7)また、この本は、私の知る範囲では、この分野の学術論文や、一般向けの本でも、必ず、参考文献として挙げられ、引用もされている。言及すらされない「日本史の誕生」とは好対照だ。この『世界史の誕生』を一般読者むきにかみ砕いて語っているのが、「歴史とは何か」(文春新書)である。これには、参考文献や引用はほとんどない、岡田先生の語りおろしである。
(8)だから、岡田先生が生涯かけて、言いたかったことを手っ取り早く知りたいのであれば、『歴史とは何か』、世界的な学者としての、「岡田英弘」をその雰囲気だけでも知りたい方は、『世界史の誕生』に取り組まれてみたらどうだろう。あなたも「モンゴル史」の専門家になれるかも?信じる信じないはあなた次第です・・・?(どこかで聞いたようなフレーズ・・・)
ここで小休止、以上。伊藤睦月筆
【481】前項の訂正・補足
伊藤睦月です。
『日本史の誕生』単行本の初出は、1994年でした。だから大山氏が同書を読んでいた、そして、その2年後に、自説として発表した、という疑いは、否定できません。しかし、それは証明可能でしょうか。
ところで、古田武彦氏は、1970年代には、九州王朝説の立場から、タリシヒコと聖徳太子は別人だと、主張しています。「聖徳太子実在問題」を論ずるのに、古田説(本人は故人ですが、未だに熱烈な支持者が学会や歴史愛好家に存在しています)も議論の遡上に載せないのは、不当な取り扱いだと思います。最も早く、聖徳太子の存在に疑問を抱き、具体的な仮説を提示したのは、私の知る限り、古田です。岡田博士は、文章表現上は疑問を呈しているだけです。
以上、誤りの訂正と補足説明でした。古田武彦については、後日取りあげます。
伊藤睦月筆
【480】天才・岡田英弘の孤独(2)
伊藤睦月です。最初にお断りを・・・全稿で「倭国」は「倭国の時代」の間違いです。両書は別個に存在します。失礼いたしました。
さて、議論の補助線として、2つ。
1,「聖徳太子存在問題」を指摘した岡田博士の立論の要素分解をすると、3つになります。
(1)「隋書倭国伝」と「日本書紀の記述」は矛盾する。
(2)両者が矛盾した場合、「隋書倭国伝」の記述を優先する。
(3)その結果、推古と聖徳太子の実在があやしくなった。
伊藤睦月です。(1)は、学会でも1960年代から指摘されてきた。
(2)は、岡田説のような考え方は「日本史を世界史の中で考える」という、西嶋定生以来、東洋史学会の共通認識だと思われます。(『古代東アジア世界と日本』)それに対し、日本史学会の考えは逆です。(1)は十分認識しながら、海外史料でなく、国内史料にとことんこだわって、(3)という結論にならないよう、「努力・工夫」を重ねてきたと考えられます。
(3)で、学会誌で「聖徳太子は実在しない」論を証拠付きで主張したのが、大山誠一氏です。この大山氏の動きが、日本史学会の学者たちにとって、いかに唐突だったか、前に紹介した「東大教授」の反論文を見れば、十分うかがえます。大山氏の「反乱」は1996年から、とされていますから、2004年に公刊された「日本史の誕生」を読んで、「聖徳太子非実在説」の着想を得た、という疑いを持つことは、可能です。しかし、果たしてその実証は可能でしょうか。実際大山氏は、学会主流から猛反発を受けながらも、史料証拠を指摘し続け、学会主流が懸念するほど、賛同者を増やし続け、教科書の表記を変えさせました。その点には正当な評価が与えられべきかと思います。なんだか日米特許論争みたいな話ですね。大山氏が「自白」すればよろしいでしょうが、それが無理である以上、「疑わしきは罰せず」で、納めるしかないのでは。これ以上追求すると、それこそ「誹謗中傷」といわれても、反論できなくなると思います。
そして、泉下の岡田先生も、そんなこだわりはお持ちではなかった、と思います。彼の「主敵」はあくまでも、西嶋定生をはじめとする「東洋史学会」だと考えています。
もう一つの補助線、それは『世界史の誕生』と『日本史の誕生』という2冊の小さな本が、その似通った題名と違って、岡田先生における、重要度が全然違う、という話です。『世界史の誕生』が「本命、本気、真面目」、『日本史の誕生』は「余暇、遊び、戯れ」、だった論、とでも言いましょうか。
以下、次回、伊藤睦月筆
【479】天才・岡田英弘の孤独(1)
伊藤睦月です。前回からの続きを書きます。
要旨:
(1)岡田英弘先生は、「日本史の誕生」を一般読者向けに「遊び半分」に書いた。
(2)そして、同書を学術書でなく、歴史雑誌やムックのような体裁で単行本を作った。
(3)だから、参考・引用文献リストなど、学術書として当然あるべき、体裁を整えてなかった。
(4)そこに、同書及び「倭国」、「歴史とは何か」の3冊の「古事記偽書説」部分について、日本史学会古事記部会から、「盗作疑惑」のクレームをうけた(多分、弓立社版の単行本や「倭国」中公新書版は事実上の絶版状態に追い込まれた)
(5)同書及び「倭国(倭国の時代と改名)」を、ちくま文庫に採用するにあたって、該当部分に対する、コメントを付し、文庫版あとがきで、初出情報を付すなど、学術書として、最低限度の体裁を整えて、ちくま文庫版で世に出すことができた。(その際、当時ベストセラーとなっていた「英文法の謎を解く」シリーズで筑摩書房に発言力をもっていた、副島隆彦先生のかなりのサポートがあったのではないかと推測している。邪推かも・・・)
(6)聖徳太子非実在説については、学会側から、クレームはこなかったと思われる。学会側も歴史ムック扱いだからそんなに目くじらたてなかったのだろう。もしくは、学会の関係者は読んでいないのではないか。(だから、古事記偽書説で、クレームを出した学者にはなんかうさんくさいものを感じている)
(7)一方、岡田先生にしても、日本史分野は自分の領分でないので、クレームが来てもあまり感じなかったのだろう。そもそも、日本史学会なんて眼中になかったのだ。
(8)だから、「日本史の誕生」「倭国の時代」をちくま文庫に入れる際、意外とすんなり釈明コメントを入れたのだろう。(ちくま文庫編集部および副島先生の説得もあったのだろう)一方、「歴史とはなにか」(文春新書)では、釈明はしていないので、この本は岡田先生なりにこだわりがあったのだろう。(東洋史と先生の歴史哲学に関する内容なので、先生なりの矜持もあったのだろう)
以上、あくまで、伊藤の推測でした。次回から上記に補足します。
伊藤睦月拝