ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
伊藤 投稿日:2024/12/20 17:12

【546】ふじむら掲示板に投稿するつもりが誤ってこちらに投稿してしまいました。

 伊藤睦月です。事務局の古村さまへ。下記投稿を誤ってこちらにアップしてしまったのですが、移動の方法がわからなくて、困ってます。ご多忙中、大変恐縮ですが、ふじむら掲示板への移動、おねがいできませんでしょうか。お手数かけます。

伊藤睦月拝

伊藤 投稿日:2024/12/20 17:07

【545】【543】伊藤氏の投稿を批判します(【542】について)を批判します。

 伊藤睦月です。2054さんへ。だから「憎まれ口」と書いたのに、そこまで言われる筋合いはない。

1)小林氏の「弱視」ですが、「弱視」だと掲示板上で暴露したのは、2054さん、あなたです。あなたが、小林氏のプライベートを暴露したのです。私、伊藤睦月ではありません。そこは間違えないでもらいたい。

2)白内障レーザー手術は、私の母が83歳の時に実際受けたものです。母は、手術が保険適用となることを知らなくて、私も知らなくて、目薬でごまかして、失明寸前までいったときに、民生委員さんから教えてもらって、治療し、視力を取り戻しました。そのときの経験から、紹介したまでのこと。そのどこが、下品なのか。余計なお世話だと言えるのは、ご本人だけ。あなたからとやかく言われる筋合いはありません。

(3)それから「80歳の白内障のばあさん」という表現は、2054さん、あなたが、この掲示板上に転載した副島先生の「重掲」投稿文から、そのまま借用したものです。再掲するのも不愉快なのでしませんが、この掲示板をずーっとさかのぼっていけば出てきます。もちろん、それを取り上げたのは私です。私の判断です。

(4)そこで、2054さん、あなたは、再掲しているくらいだから、副島先生の「80歳の白内障のばあさん」という表現は、当然ご存じですよね。そのとき、どう思われましたか。私を批判されたように、副島先生に意見されましたか?されたなら、何も言うことはありません。むしろ尊敬します。だからといって、謝罪する気持ちはありません。なぜなら、副島先生の「ばあさん」表現に悪意を感じなかったからです。

(5)もし、なにも言われていないのなら、なぜ、私には、批判して、副島先生にはされなかったのか、私が納得するように、この掲示板上で説明してください。自分で投稿を削除して逃げるようなことはしないでいただきたい。

(6)ちなみに、小林氏のプライベート情報(弱視、白内障、三笠宮とのこと)は、すべて、『古代倭王の正体』のあとがきに書いています。副島先生もこれを読まれたのでしょう。1936年生まれとも、表紙裏カバーに記載されています。これは、もはや公然たる事実で、プライベート侵害として、批判される筋合いはない、ものと考えます。人を公然と批判するのに、「どこかで読んだ」みたいなあいまいな論拠で、言われるのは、それこそ、失礼千万だ。

 2054さん、あなたを、あえて批判します。回答はあえて求めません。しかしこのやりとりの投稿を私に無断で削除することは、断固拒否します。

以上、伊藤睦月筆

追伸:かたせ2号さんへ。せっかくかたせさんが、しつらえてくれた雰囲気をぶち壊しにしたこと、ごめんなさい。

 

 

 

 

 

 

かたせ2号 投稿日:2024/12/20 15:36

【544】細かいことは気にするな! 財布を落としたことくらい 笑

細かいことは気にするな! 財布を落としたことくらい 笑、の件。

かたせ2号です。

2024年12月の今月、シリアのアサド政権があっさり崩壊して、世界は、すでに大動乱期に突入しているのに、
日本だけは、こんな細かい話での(Xへの)投稿に、
500万以上の数の閲覧(インプレッション)がついたそうです。

ああ、びっくり・・・

どうでもいいじゃん、こんなこと、(あきれ顔)
日本は、衰退しながらも、いまだに大動乱期に入っていないことの証拠ですね。
平和ですなあ。。

さらさんのXへの投稿
https://x.com/_Shotta_2525/status/1868795799590896040

<情報加筆して引用開始>
(2024年12月17日(火)午前7時59分(JST)での出来事。
TBSの朝の番組で)
(アイドルグループSnowManに所属する)佐久間大介さんが財布を落としたことを何故か知っている安住紳一郎アナ
※財布を落としたことは言っていない
※安住アナが拾ったわけではない
(動画つき)
<情報加筆して引用終わり>

かたせ2号です。
それから3時間半の後、当の佐久間大介さんから、真相判明の(Xへの)投稿がなされました。
最終更新 午前11:32 · 2024年12月17日(JST)

https://x.com/SAK_SAK_SAKUMA/status/1868846688703857053
(引用開始)
そういえば!!!!!!!
今朝の #ラヴィット で安住さんが佐久間のお財布の話をしたやつの真相がわかった!!
この間、TBSのエレベーターに深澤と乗った時に、たまたまスーパーオフモードの安住さんが居たらしくて、
そこで財布が消えてしまった話を安住さんが聞いていて、
今日その話を振ってくれてたみたいww
本当に気付けてませんでした (>_<)
すみません安住さん (>_<)
いや〜すっきりした〜 (^^)
(引用終わり)

かたせ2号です。

佐久間大介さんへ。

ワタシの個人的直感に過ぎませんけど、
おそらく「たまたま」スーパーオフモードの安住アナは、そのエレベーターの中には「いなかった」と思いますよ。

たまたまは、
大阪の「スーパー玉出(たまで)」だけでよろしいかと。

以上、大動乱期にいまだ到達していない、平和な国日本からの、ご報告でした。

以上

会員番号2054 投稿日:2024/12/20 11:42

【543】伊藤氏の投稿を批判します(【542】について)

2054です。
小林恵子さんは、(ご本人がどこかに書かれていましたが)生来、弱視のようです。
レーザー手術で直るかどうかなんてわかりませんし、そんなことは伊藤氏が論じることではありません。
そもそも他者の健康状態について言及・批判の対象とするのは、行儀がよくありません。学問道場の品位も下げます。

小林恵子の著作(現代思潮新社・祥伝社)は学会向けに論文として著しているわけではありません。自説を一般向けに紹介しているのですから、いちいち他の学者の主義主張に言及することはありません。私から見ると必要な限りで十分言及されていますし、参考文献も豊富に巻末にあります。あとは読者の判断に任せているのでしょう。

古田説(九州説)岡田説(華僑説)が正しいと思われるのであれば、小林説と比較して具体的な根拠をもって批判すればいいだけのこと。それは伊藤氏に是非期待したいと思います。学問道場の掲示板に投稿するなら、そういうハイレベルな論考が良いでしょう(読んでいて知的刺激があって楽しめます)。

伊藤氏は、あまり結論を性急に求めず、小林さんの現代思潮新社からの一連の著作を読まれてから判断されたほうが良いと思います。

伊藤 投稿日:2024/12/20 10:00

【542】小林恵子説のプロトタイプとしての「騎馬民族征服王朝説」について(3)

 伊藤睦月です。【541】の続きです。書く方も読まされる方も飽きてきた頃でしょうから、できるだけ手短に書きます。引用の煩を避けるため、あらかじめ、対象となる文献を列記します。

1 江上波夫『騎馬民族国家』(中公新書)

2 江上波夫・佐原真『騎馬民族は来た!?来ない!?(対談)』(小学館)

3 佐原真『騎馬民族は来なかった』(NHKブックス)

4 小林恵子『古代倭王の正体』(祥伝社新書)

5 小林恵子『江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武三世紀・三国時代(現代思潮社)

です。あとは私の考えを述べます。いきなり結論から。

1 21世紀に入り、「騎馬民族征服王朝説」の議論自体、事実上無意味になっている。副島「帝国ー属国理論」から派生する、「難民」理論で十分説明可能。

2 「騎馬民族征服王朝説」とは、邪馬台国九州論者たちによる、「邪馬台国東遷説」のバリエーションであり、その文脈で議論すれば足りる。

3 この説が発表された、1948年時点では、「民族」(ethnicity)の概念は、それほど厳密には定義されず、また、現在ではその概念を認めるべきかどうか人類学の分野では議論になっている。当時は「部族」(tribe)や氏族(clan)とほぼ同義のような使われ方をしているように思える。

4 であれば、「騎馬民族」ではなくて「騎馬の文化を身に着けた、部族、氏族、」とすれば、これは日本史学、考古学の主要テーマである「渡来氏族、帰化人論」として、日本列島征服後に騎馬民族なる部族がどう日本社会に入り込んだか、という従来研究にもつながる。

5 この「騎馬民族王朝征服説」は事の適否は別として、「日本考古学会内の議論」であり、学会村のよそ者である「小林恵子」が「ちょっかい」を出している構図だろう。だから、学問の常道からすれば、不当な取り扱いをうけているのだろう。(学者にとって自説を否定されるよりも無視される方がつらいのだと思う)

6 その小林恵子にしても、その著書の冒頭付近で、古田武彦(失われた九州王朝)、岡田英弘(倭国)を引用文献として掲載しながら、両者の主要主張部分には全く言及せず、私に言わせれば「不当に無視」している。これは、以前投稿したけど、「もっともやってはいけないこと(悪癖)BY安本美典」の最たるもの。古田はアマチュア歴史愛好家、岡田は東洋史学会の「よそ者」だからと無視しているんだ、と勘ぐっている。そうなると、三笠宮から可愛がられた、というエピソードも、本当だろうが、それが何か?と不審に思っている。

7 特に岡田は、ウィキペディアにも取り上げられるほどの、「騎馬民族征服説」否定論者で、小林が引用している『倭国』(中公新書)には、わざわざ『騎馬民族の時代』という一章をもうけ、いわゆる騎馬民族というのは、中国大陸や朝鮮半島の動乱から日本列島に逃れてきた「中国人(華僑)難民」たちであろう、という仮説をたてている。小林はこれに対して何の反応もしない。これでは、小林に対する学会村の連中の態度と変わらないではないか。自説を無視されることの悲哀はご本人が一番わかっているのではないか。

 私は、子供の時に、親から「自分がいやなことは他人にしてはいけない」と教えられてきたので、こういう言動にはどうしても反応してしまう。「80歳の白内障のばあさん」であっても容赦しません。80歳なら、健康保険1割負担で、最新のレーザー手術で白内障治療できますよ、と憎まれ口をたたきたくなる。私の亡母もそうして、視力をとりもどしました・・・

 少しエキサイトして横道にそれてきたので、それこそ少し、頭を冷やします。

 以上、伊藤睦月拝

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/19 09:47

【541】小林恵子説のプロトタイプとしての「騎馬民族征服王朝説」について(2)

伊藤睦月です。前回の【536】の続きです。

まず、小林恵子の定義を再掲します。

騎馬民族征服王朝説とは、

(2)ー1:列島で巨大な古墳が作られた4世紀頃から

(2)ー2:大陸の遊牧民が大挙して、列島に押し寄せ、

(2)ー3:それまでの土着民を征服し、

(2)ー4:国家を建設した。

(2)ー5:このことは、巨大古墳や、

(2)ー6:発掘された武具や馬などの遺物から証明される、というもの。(小林同書、枝番は伊藤)

(3)ー1:伊藤睦月です。さらに小林は、「江上氏の学説の根拠は、日本人が自由に大陸に行くことができた1930年代に(注:江上説が発表されたのは。1948年、日本独立、日中国交回復前)

(3)ー2:大陸の古墳や出土品と日本の古墳時代の出土品を比較検討した結果、その「関連性」に注目したことにあった。(以上同書)

(4)伊藤睦月です。この定義は、江上の主張をよくまとめています。これに批判者がリマークするポイントがあって、

(2)ー7:江上のいう「騎馬民族」とは、騎乗をマスターした「遊牧民」を指し、「農耕民」(漢民族、日本人など)が、騎乗を覚えたり、文化遺物があっても、「騎馬民族」とは言わない。(江上波夫『騎馬民族』中公新書)この「騎馬民族」の定義は、融通無碍に論争する江上にしては、相当厳格な定義です。批判者の標的にもなりました。

(4)伊藤睦月です。この定義によると、江上説には、小林説との関連で、次のような特徴があります。

(5)「騎馬民族王朝征服」は4世紀(古墳時代)に起こったこと。

(6)江上波夫は、もともと考古学者であることから、考古学の成果を重視している。彼の主張をまとめた『騎馬民族国家』(中公新書)の論証のメインは古墳とその出土品分析である。

(7)また、江上が採用した、考古学分析は発表当時は、戦前からのオーソドックスなものだったが、のその後の発展、炭素21年代測定法など科学的分析手法の導入については、「消極的」(佐原真:元国立民族博物館副館長)である。

(8)そして、文献学的な面においては、自説を強調するにとどまっており、考古学のそれと比べ、実証に弱い。

(10)伊藤睦月です。以上のような方法を前提に、江上が描いた「騎馬民族征服」のストーリーはおおむね、次の通り。小林恵子が、どう継承、発展させていったかに留意。(以下佐原『騎馬民族はこなかった』1993年、江上『騎馬民族国家』などから、伊藤が要約します。)

(11)ー1:東北アジア等の騎馬遊牧民族の国々、

①扶余、②高句麗、③百済、の系統をひく王侯貴族が、「任那(みまな):伽耶、加羅」にきた。

(11)ー2:「任那」に「辰王朝」があった。

(11)ー3:崇神天皇(第10代)を主役として、騎馬民族軍団をもって、(朝鮮南部の)辰から、北部九州に上陸

(11)ー4:北部九州に扶余・韓・倭の連合の「日本国」をつくる。

(11)ー5:北部九州筑紫の勢力を加えて、

(11)ー6:応神天皇(第15代)のとき、東に進み、大阪平野へ進出

(11)ー7:ここで、日本列島の支配を目指して、「日本国」から「倭国」へと国号変更

(11)ー8:応神以降の「倭の五王」で、日本列島征服を成し遂げた

(12)ー9:雄略天皇(21代)の時代前後に「大和王朝」を始める。

 伊藤睦月です。以上が江上説の概要、です。次回は、江上説にどのような批判がなされてきたか、を紹介します。細かすぎる議論かもしれないが、これでも乱暴なくらい、端折っています。あしからず。

以上、伊藤睦月筆

 

 

(10)-1 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/18 14:31

【540】ブレイク:史癖(しへき)は、佳癖(かへき)なり(続き)

伊藤睦月です。前回からの続きを書きます。まずは、引用から。(引用開始)

(古代の))推理においては、次の二つのことが大切です。

(1)得られた証拠は、確実なものか。

(2)証拠から、結論に至る推理の道筋はたしかか。

伊藤睦月です。次は「悪癖」について

(1)推理というよりも、想像や連想を大幅に重ね、トンデモ本と変わりがなくなっているもの。

伊藤睦月です。私のいう「ファンタジー」ですが、単なるトンデモ本と片づけられるのは、少し違うかな、と思います。これ以降は、(1)の各論です。

(2)たとえば、「邪馬台国の九州説」、あるいは「畿内説」などの、前提、思い込み、先入観を持っていて、得られた材料をすべてその前提に合うように、「解釈していくもの」

(3)多くの材料の中から、自説に有利なものだけを、証拠として取り上げ、自説に不利なものは、すべて無視するもの。

(4)「自説」がある特定の「学説」であって、その特定の学説を信じ込んで、すべてその学説によって説明できる、とするもの。なんだかカルトに近い。

(5)自分できちんと調べ、確かめ、考えようとせず、誰かが述べていることを適宜組み合わせてストーリーをつくり、それでよし、するもの。権威者の意見に従うようになりがち。

(6)きちんとした証明よりも、とにかくマスコミなどを通じた宣伝に腐心しているもの。プロの研究者にも時々見られるそうな。

(7)観測された事実についての、ある解釈において有力な反論がすでに出ていることを見落としているもの。

そして、最後に安本センセイいわく、「以上のような注意すべき諸点がたくさんあるため、古代史の諸論点を考えるのは本当に頭の体操になります」とさ。

(引用終わり。『古代史論争最前線』はじめに)

 伊藤睦月です。書き写していて、なんだか自分のことを言われているようで、冷や汗がでてきた。(笑)

 確かに正論だが、これでは委縮して書けなくなるなりそう。まず、とにかく、書いてみることが大事。以上のような批判は他人にやってもらえばよい。そしてその批判を甘んじて受ける、そういう胆力を養う、ということでよいのでは。そのために当掲示板がある。

私、伊藤は、そう考えます。批判、反論上等!!!!

(罵倒は勘弁してほしい・・・)遊びをせんとや生まれけむ、ですな。

以上、伊藤睦月拝

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/18 09:33

【539】ブレイク:史癖(しへき)は、佳癖(かへき)なり

 伊藤睦月です。頭が冷える前にうずうずしてきたので、投稿します。

安本美典『古代史論争最前線』(2012年柏書房)から。

(引用開始)「歴史をたしなむのは、良い趣味である」というほどの意味でしょうか。

 特に古代史については、調べて得られた証拠を元にして、推理をしていく楽しみがあります。手がかりを元に、さらに調べ、あれこれ推理していくと、あらたなことがわかり、推理小説の主人公の、探偵になったような気分が味わえるわけです。努力次第で、次々と新しい証拠を得ることができます。(引用終わり)

 伊藤睦月です。安本は、以上の楽しみを得るために、大事なことや逆に良くないこと(悪癖)について、アマチュアにもわかりやすく説いています。それを次回以降、紹介します。安本氏とは直接面識はありませんが、従来「郷土史家」と呼ばれるような、アマチュアでも分け隔てなく、権威ぶらずに接し、全国にファンがいます。江上波夫もそういったタイプの人だったのではないか。そう思いたい。三笠宮、小林恵子もまたそう。そういった人たち、この人たちの本を読んで、自在に論ずることができる喜び、まさに、「史癖は佳癖なり」ですね。

まだ、調子が戻らないので、当面小休止

伊藤睦月拝

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/17 13:46

【538】ブレイク:ちょっとくやしい話。

伊藤睦月です。私、伊藤は従来から「遣唐使は、唐帝国に、日本書紀を持参しなかった」「天皇号は、中国皇帝(則天武后)には名乗れず、「スメラミコト」でごまかした」という説を今年5月以降、当掲示板で主張してきた。しかし、この説に類似の先行主張があることを、「発見してしまった」。くやしいが、紹介する。(涙)

 この研究者の名は、倉本一宏、今年の大河ドラマ「光る君へ」の時代考証も担当し、山川日本史詳説の古代編を執筆している「正統派」日本史学者だ。世間一般的には、伊藤より、倉本の業績となってしまうだろう。『古代史から読み解く「日本」のかたち』43頁から47頁、倉本一宏・里中満智子2018年祥伝社新書、から引用する。

I(引用はじめ)遣唐使(702年粟田真人が派遣された第7回遣唐使のこと:伊藤)が、中国の王朝に報告する義務があったものとして、国号、君主号、元号、律令、都城、歴史書(日本書紀のこと:伊藤)を挙げましたが、このうち報告・持参しても差し支えなかったのは、どれか、ここで検討してみることにします。・・・中途省略・・・第六の歴史書は、前述のように国史『日本書紀』は完成していないので持参していません。問題は第二の天皇です。これも「日本の君主は天皇です」と報告したら下手をすると戦争になります。・・・途中省略・・・では、どのように報告したか。天皇渡いう漢字は見せずに、「すめらみこと」と読んで聞かせるにとどめたはずです。中国の歴史書には、「主命楽美御徳」という六文字の漢字で記されています。誰かの入れ知恵があったのか、遣唐使は苦肉の策で折合いをつけたのです。

(以上、引用終わり)

 伊藤睦月です。書いてて脱力感を味わっていますが、ここでもう少し書き込みます。

(1)本書が一般向けの歴史素人漫画家との対談集(新書)なので、倉本氏の業績にカウントされない可能性がありますが、同テーマで、学術論文を発表されたりしたら勝負あったです。

(2)読んで聞かせるですんだはずはありません。それなら「主命楽美御徳」の文字が中国側資料に残されるはずはないのです。皇帝には原則口頭で話すことは許されず、大半は文書(上表文、書とかいう)で皇帝の部下スタッフに提出され、審査を通過したものが皇帝が見る。だから「天皇」という表記の入った書を見せられるはずはないのです。日本書紀も同様に「天皇」と表記されていますから、中国側に見せられるはずがない、というのも同じ理由です。「すめらみこと」というふりがなは、国内向けです。このことは、東洋史学者の西嶋定生が、1980年代から指摘していたことで、倉本は西嶋説を「採用」している可能性はあります。

(3)さらに、粟田真人が謁見した皇帝は、「則天武后」です。「天皇」という言葉は、則天武后が自ら名乗った言葉から、日本で作られたものです。なお、このことをおそらく初めて解明したのが、斎川眞、副島隆彦『天皇とは北極星のことである』です。私の知る限り。

(4)だから、則天武后の前で「日本天皇」と名乗るのはできなかった、と思われます。ちなみに、「天皇号」の使用を認めてもらったのは、唐滅亡後、北宋太宗皇帝のときからだと思われます。(新唐書日本伝、宋書日本伝)

 伊藤睦月です。かねてから、「先行研究には十分注意と敬意を払え」と強調していた私が、このていたらくですから情けない。

 これでは、この掲示板上で、えらそうにいう資格はありません。皆さんも「他山の石」にしていただければ幸いです。少し頭を冷やします。

以上、伊藤睦月拝

 

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/17 11:51

【537】急いで加筆します。倉本一宏は、日文研にも所属してました。

伊藤睦月です。以前言及していた、倉本一宏氏は日文研OBでした(2018年頃)。他の本を読んでいたら出てきましたので、備忘録として書き留めます。山川教科書にも「梅原一派」が・・・それがどうした?と言われそうだが。

伊藤睦月筆