ふじむら掲示板

副島系掲示板の”補集合”としての役割
かたせ2号 投稿日:2024/07/03 22:08

【523】在特会の初代会長が在日朝鮮人だということをワタシは、まったく知らなかった

在特会の初代会長が在日朝鮮人だということを、ワタシはまったく知らなかった件について。

どらえもんさんの本日のXから。

https://x.com/matsudadoraemo1/status/1808284770176323728

在特会でヘイトスピーチ担当の桜井誠は通名で、本名は高誠(コ・スン)。在日は出て行けと叫んでいる本人が在日で、コリアンヘイトを煽っている。度し難い”ビジネス右翼”の実態。彼らの言葉は、何一つ信用できない。また都知事選に出てきた恥晒し。」
午前8:41 · 2024年7月3日
·
かたせ2号です。
全然知りませんでした。

ワタシがもしも、政治的立場を右旋回する(と空想した)なら、
中国や南北朝鮮の紐(コントロール)がつかないところで、右旋回したいものだ。
でも、あるのかな?
この日本に、そんな場所が。

さて、上記情報のソースは、2023年6月17日の日刊ゲンダイのサイトでした。
それを紹介します。

(記事名)
逮捕された在特会会長、「なぜ通名?」の声
2013年06月17日 15:32 更新【社会】
http://gendai.net/news/view/107790 ←削除の為、阿修羅掲示板に訂正
http://www.asyura2.com/13/senkyo149/msg/484.html 

(引用開始)
「『本名・高田誠』ってどういうこと?」――。 こんな疑問の声が飛び交っている。
2013年6月16日、東京・新大久保で在日韓国・朝鮮人の排斥などを主張する「在日特権を許さない会」(在特会)と、ヘイトスピーチに反対する「レイシストしばき隊」の小競り合いが発生した。
この騒動で、警視庁新宿署は双方の団体から計8人を逮捕。
在特会の新大久保デモ隊が逮捕されたのはこれが初めてではないが、今回の逮捕者には在特会会長の桜井誠容疑者(41)が含まれていたため、注目された。
とりわけ関心を集めているのが逮捕時の警察発表だ。
「桜井」という名字は通称で、本名は「高田誠」だったことが判明した。
在特会は在日の通名使用を批判しているだけに、ネット上では「在特会なのに何で“通名”なんだ?」と疑問視する声が上がっている。
(引用終わり)

かたせ2号です。
たしかに通名はおかしい。

そして、この桜井誠および在特会の正体を追求したブログを発見した。

(ブログ名)
「よしくんのブログ ~愛する日本を守りたい~
売国・安倍政権を糾弾!
アメリカは、資本家・グローバリストという王侯貴族の国家。
アメリカ、韓国、竹中平蔵、統一教会のために売国する、
安倍政権を批判します。」

記事名:桜井誠は在日と仲良し。ヘイトスピーチ対策法。マッチポンプのヤラセ芝居。証拠となる写真。2016-07-30 12:34:03
テーマ:桜井誠は在日と仲良し。ヘイト法はやらせ
https://ameblo.jp/teruteru46/entry-12244828930.html?frm=theme

(抜粋開始)
故・今井雅之氏=元自衛官・俳優 「新大久保の在日ヘイトデモの金の出所は在日」
ヤラセヘイトで言論弾圧合法化
いわゆる在日特権や逆差別といった「嫌韓」の過激な主張は
とにかく注目を浴びて対策議論を引き起こすための名目にすぎない

ヘイト規制は安倍内閣の移民政策の一環でもある
移民国家に作り変えるため日本国内の地ならしを必ずやる
これは安倍サポ以外の保守の間ではずっと言われていたこと

『ニッポン・ダンディ』 2013.09.26(木曜日) 東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)
山本太郎「今ほら、例えばヘイトデモみたいのあるじゃないですか。」
今井雅之「あれはヤラセだって、あれはおかしいんだって、日本人がやってないんだから、日本人もいるよ、裏ボク知ってるから。」

山本太郎「そうなんですか!教えてください。」
今井雅之「在日系の人が裏からやってるの。」

山本太郎「え~!」
今井雅之「ヘイトもそうよ。」

山本太郎「在日系の方がやってるんですか!?」
今井雅之「ゼロじゃないけど日本人もいるよ。金の出どこを言ってるのよ私は、金の出どこ。出どこは何処が出してるかっていうことなの。」
(抜粋終わり)

かたせ2号です。
この在特会がしてきた行為を、より壮大にしたのが、「美しい国」の安倍晋三なんだと思うと、なるほど、と得心が行った。
やっぱり、WWⅡの戦勝国である、アメリカとそしておそらく中国とが、南北朝鮮を利用して、いまでも、日本を抑えこんでるのではなかろうか? 
笹川良一の「ワタシは文鮮明の犬です」発言や、1991年に、文鮮明が金日成と義兄弟の契りを交わして、かつ、統一教会が北朝鮮に資金援助するの中国が黙認したのも、そういうことではなかろうか?

https://bunshun.jp/articles/-/57334?page=2
統一教会が北朝鮮に献上した5000億円 文鮮明が金日成に「お兄さんになって」

https://youtu.be/Izy1Va7ytbw
「我々は世界を支配できると思った」米・統一教会の元幹部が語った”選挙協力”と”高額報酬”の実態【報道特集】
「彼(笹川良一)は、ワタシは文氏の犬だと言った」

以上

伊藤 投稿日:2024/07/03 19:59

【522】それでも、学会新説に突っ込みをいれてみる(7月3日)

伊藤睦月です。まずは、彼ら、学会の若手・中堅研究者(中村は1959年生、河上は1980年生まれだけど・・・)が対峙している、「通説」を確認しておく。

(引用はじめ)

「日本古代史研究の世界では、白村江の敗戦以後の「占領下」の日本を描く論考は、ひとつとして存在しない。日本は敗戦したが、唐の占領は受けずに、唐との友好関係を保ち、唐の律令を導入して、国力の充実を図ったというのが定説である。」(中村修也「天智朝と東アジア」2015年6頁)

「日本は古代のある時期、中国との対等の関係を築き、それ以降は中国を単純に「大国」とみなすことはなかったという説が根強くある。」

「遣隋使を日本古代対外交渉史上の画期(日出る処の天子・・・)とする説は、近代(戦前昭和)に入り教科書に採用された。」

「現在では、高校の歴史教科書からは、遣隋使が中国との対等を主張したという説は姿を消した。ところが記述はずいぶんあっさりしたものの、義務教育の教科書では、いまだに遣隋使から対等な立場での日中交渉が開始されたとの表現が残るものがある。一般向けの書物もまた同様である。遣隋使が中国との対等な立場を主張したという説は、21世紀に入った今日でも常識として社会に共有されている。」(川上麻由子「古代日中関係史」中公新書2019年はじめに)(引用終わり)

伊藤睦月です。この通説に対し、中村は、

(引用はじめ)

「7世紀の日本が、近隣の朝鮮3国とかかわりながら、唐という大国(すなおに「世界帝国」と書けばいいのに・・・)と戦い、敗北した白村江の戦は、20世紀において、アジアを巻き込みながら、アメリカという大国と戦い、敗北した第二次世界大戦と共通する点がみいだせるということである。もちろん科学の進歩など、細部においては全く異なることは当然である」

「しかし、大国と戦って敗戦すれば、占領支配を受けるといった戦争の法則から外れることはないはずである。逆の例であるが、近代において日本が日清戦争に勝利したとき、下関「講和」条約において、朝鮮の独立承認、遼東半島・台湾・膨湖列島の割譲、賠償金二億両の支払い等を清国に認めさせている。・・・戦勝国が敗戦国に何も要求しないということは、戦争の常識を覆す論理である。それを肯定することはできない。」(中村前掲書、伊藤一部加筆)

(引用終わり)

伊藤睦月です。「論考は一つとして存在しない」「戦争の常識を覆す論理」だからこそ、我々素人筋にも議論に参加できる余地がある。だから歴史学、そして学問は楽しい。

参考までに、1990年代の「定説」も紹介しておく。現在と当時の諸情勢、背景に思いを致すのも、また楽しからずや。

(引用はじめ)

「「もはや戦後ではない」はあまりに有名なフレーズだが、白村江「戦後」とは厳密には「まだ戦後ではない」であった。・・・大唐帝国の圧倒的な物量の前に前例のない大敗を喫した敗戦国=倭国が、「戦後」は戦勝国である唐の制度や文明に学び、それこそ奇跡的に日本に生まれ変わったという、語り継がれてきた敗戦史観。われわれはそろそろ、これを根本から見直すべき時期に来ているのではあるまいか。(遠山美都男「白村江」講談社現代新書エピローグ1997年)」

(引用終わり)伊藤睦月です。遠山は、1957年生まれ、中村とは2歳違いだが、学者としては一世代前の人のようだ。とりあえず小休止。

(以上伊藤睦月筆)

追伸:藤原肇氏については、当分の間、保留します。昔、小室直樹先生と対談本を出していて、その表紙の写真の山羊髭が気に入らなかったことを思い出した。人を外見で判断してはいけないことはわかっているが、こればかりはどうしようもない。すみません。なお、この人の要約は要注意だと思う。

(以上)

 

 

かたせ2号 投稿日:2024/07/03 14:19

【521】藤原肇さんによる副島隆彦説の紹介。

藤原肇さんによる副島隆彦説の紹介です。

かたせ2号です。

藤原肇さんが、エリザベス女王時代の副島隆彦先生の説を、好意的に「興味深い説」として評価している。

まず藤原肇さんは、副島隆彦先生の著書
https://x.gd/9gHTj
「教養としてのヨーロッパの王と大思想家たちの真実 単行本(ソフトカバー) – 2024/3/19」
の内容を要約した上で内容を紹介している。
https://note.com/tonle/n/n0c063290175a

(引用開始)

 英国の歴史を学ぶ時には、時代の華がエリザベス一世の治世で、演劇のシェークスピアが活躍し、哲人フランシス・ベーコンが新時代の思想を展開して、北方のルネッサンスを謳歌した。また、日の沈まぬスペイン帝国には、私掠船団でアルマダ艦隊を撃滅し、海賊の全盛時代を確立しており、オランダから制海権を奪い植民地帝国の基盤を築き、近代の夜明けをパックス・ブリタニカに結び付けたと学ぶ。

 高校生時代に学んだ世界史で、英国の歴史が嫌になったのは、複雑なヘンリー八世の家系図が頭を混乱させただけでなく、エリザベスとメアリーの残酷な相克が、良く理解出来なかったからである。カトリックとプロテスタントが対立し、殺し合いをした時代性は、ヨーロッパ史の理解上のガンであり、エリザベスとメアリーが殺しあう悲惨な関係で争い、連合王国を作り上げる歴史には吐き気がした。

 しかも、エリザベスの父親ヘンリー八世が、妻との離婚をするために国教会を作って独立した話は、日本史の南北朝と同じで人間の醜さを象徴しており、それは阿修羅が支配する世界だ。ヘンリー八世には六人の妻がいて、最初の妻は兄の嫁の未亡人で、スペイン王フェルナンド五世の妹だが、二番目の妻アンはエリザベスの母であり、フランス王ルイ七世に嫁ぎ、三番目の妻のジェーン・シーモアはアンの女官で王に見初められたが、不品行な二人の兄を持っていた。

 四番目の妻アンはジェーンの死後にヘンリー八世に嫁いだが、半年で離婚してスコットランドに戻り、五番目の妻キャサリンは三十一歳年上の王と十八歳で結婚し、不貞の罪で処刑されてしまった。六番目の妻キャサリンは二度の結婚歴を持つ寡婦で、老いて気難しいヘンリー八世に仕え、王の死後はトーマス・シモアと再婚したが、トーマスが当時十四歳だったエリザベスの処女を奪う、スキャンダルに巻き込まれた。

 しかも、エリザベス一世は処女王と呼ばれ、正式な結婚は生涯していないが、実は恋多い女性としての人生であり、気に入った若い貴族を相手に熱烈な恋愛関係を営み、それは歴史書にも記録されている。寵臣のRobert Dudley(1st Earl of Leicester)とその親密関係が有名だったが、幼馴染の彼を主馬頭に任命し、同じ生年月日のよしみもあり、わざわざ女王の寝室の隣に彼の寝室を設けたほどで、最愛の恋人として寵愛していた。
 
 また、33歳も若い廷臣Robert Devereux (2nd Earl of Essex)も女王の愛人として知られ、大蔵卿のRobert Cecil(1st Earl of Salisbury)に反抗して、クーデタ未遂罪で処刑されている。ヨーロッパ各国の王族から、彼女に結婚の申し込みがあり、メアリー一世の夫フェリペ二世や神聖ローマ帝国の三男とか、フランスのシャルル九世などより取り見取りだったが、彼女は求婚を断り続けた理由が「私は英国と結婚した」である。

 ここで愛人の捜索は打ち切り、話をシェークスピアに移し、彼の正体がフランシス・ベーコンで、ベーコン卿が偽名で作ったものが、シェークスピアの作品として発表されたという話に到達する。すると、この話は大飛躍を果たし、ベーコンがエリザベス一世の庶子で、彼女が28歳の時に生んだ子であり、ベーコンの実の父親は重臣のWilliam Cecil (Baron of Burghley)で、父とされているSir Nicholas Baconではない。

*****

 以上の説を主張しているのは評論家の副島隆彦であり、彼は『ヨーロッパの王と大思想家たちの真実』の中でこの説を披露しているが、出典を明示していないけれど、映画に詳しい彼らしい推察である。

 <・・・周りに愛人になる青年貴族たちが現れた。エリザベス一世は7-8人、青年貴族を次々に愛人にしている。この事実は今では隠されていない。Q. E. 一世を描いた映画の中にも、彼ら取り巻きが出てくる。海賊上がりのあのキャプテン・ドレークも愛人の一人だ。・・・一時は愛人にされたけれど、彼女に厭きられて捨てられた貴族が暴れだし、嫉妬に狂い反乱を起こそうとして、捕まえて処刑にされたりした。これがエリザベス女王の真実だ。・・・>

 副島の論証を詳述すれば、どうしても映画の引用になり、二次情報の印象が強いが、筋道としては興味深いので彼の考えの枠組みを示せば、以下のような筋書きになる。登場人物が錯雑としているために、分かり難い感じがするが、英国史では普通であるから、そのまま引用してみるけれども、面倒だと思う人は読み飛ばし、次に移って貰って結構である。

 <セシルはエリザベスの父親、ヘンリー八世を操り続けたトマス・クロムウェルに能力を認められて、這い上がった男だ。元は貴族ではなくて、ジェントリー(郷紳)階級だ。だから、庶民院(House of Commons)の議員でしかない。それでもプロテスタントとして、人文主義者の勢力としてエリザベス女王を支えて、横にべったりとくっついた。国王秘書長官として、それから死ぬまで大蔵卿をした。だから、国家の資金を全部握っていた。

 このウイリアム・セシルが、エリザベスの秘密警察長官であるウォルシンガム卿を忠実な部下にした。このウォルシンガム卿が、カトリック側のスパイで潜り込んできたカトリック神父たちを捕まえて、逆さ吊りの拷問にかけた。このシーンはエリザベス女王を描いた映画によく出てくる。・・・非情なウォルシンガム卿が、少年のころから育てたのがフランシス・ベイコンだ。だから、ベイコンは暗号で文章を書いたり、二重人格に成りきる訓練を受けている。だから、シェイクスピアという劇作家にも、成り代わることも出来たのだ。

 もとより、ベイコンはエリザベスとW.セシルが作った子供だ。だから、可愛いに決まっている。だから、エリザベスがその後何人もハンサムで格好の良い、貴族の男を愛人にして、”男女の愛”を謳歌するのをセシルは許していた。・・・エリザベスを守って女王にしたこのセシルたちが、その後の四十年の勝ち組なのだ。負け組になった代表がこのセシルによって処刑された、ジョン・ダドリー卿(john Dudley)だ。・・・十四歳のエリザベスを犯したトマス・シーモアが、余りにもあっけらかんとしてバカだったから、それを処分した実の兄のエド・シーモア陸軍卿を、さらに処刑したのがジョン・ダドリー卿だ。それを権力闘争で破って処刑し、セシル卿が権力を握った。・・・>
(引用終わり)

かたせ2号です。

以下、補足。
藤原肇さんと現在も公開メール文通をしている「山根治blog」というサイトに、
に「藤原肇さんからのコメント・メール」というフォルダがあります。
http://yamaneosamu.blog.jp/archives/cat_249957.html

おそらく、たびたびワタシが紹介している、どらえもんさんの話と同じくらいに興味深い暴露話が満載なので、読んでおきたいと思います。

(さて、これで地獄の釜の底が見えてきた。底を浚(さら)ってもいいものなのか?)

他にも、それ以前の論考がこちらのサイトに収められています。
http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article.html

以上

伊藤 投稿日:2024/07/03 10:36

【520】ブレイク(7月3日)白村江の戦いに関する学会新説を読む

伊藤睦月(2145)です。昨日の続き。学会新説の「中村修也説」です。

(1)倭=大和王朝が前提(通説と同じ)

(2)軍勢:4万2千(通説と同じ)

(3)倭軍ほぼすべてが、渡海。白村江で全滅。(ここまでは通説と同じ)

(4)そのため、国内(大和王朝の勢力範囲)にまともな軍勢がいなくなり、軍事的空白が発生。(唐軍の占領状態となる)

(5)中大兄皇子は、すぐに大和に逃げ帰らず、筑紫那津宮(福岡県福岡市東区)にて、敗戦処理にあたる。これ以降、直接唐と相対していない、大海人皇子などの豪族たちとの意識のギャップが生まれ、壬申の乱の遠因のひとつとなる。

(6)今まで、九州や西日本各地の防衛施設とされてきたのは、唐軍(進駐軍)の監視基地、連絡施設で(進駐軍基地)唐軍の指示で設置された。近江京遷都も、防衛目的ではなく、大和が唐に占領されたため、追い出され、近江に封じこめられたもの。

(7)劉仁高、郭務棕が持参した国書の内容は、「朝貢要求」及び日本の「民主化指示書」(当時のグローバルスタンダードである唐の諸制度を取り入れよ、という指示書であった)中大兄皇子は、それに従い、各種制度改革に取り組まされた。

(8)665年、唐(劉仁軌、劉仁願)を仲介として、新羅、旧百済、耽羅(済州島)、倭、との間で講和条約を締結させ(倭代表は大友皇子)、その証として翌年の封禅の儀に参加させた。

(9)新羅の反乱のため、唐による「倭国改造計画」(羈縻政策の遂行)は中断。郭務棕も占領をあきらめて、撤退した。

伊藤睦月です。

(1)中村修也は、学者さんらしく、その著「天智朝と東アジア」において、史料に即しながら、表現を選んで、自説を展開しているが、その主張を私なりにかみ砕くとこういうことになる、と思います。

(2)中村の思考の根底にあるのは、先の大戦における、敗戦と占領政策とのアナロジー、である。

(3)また、「敗戦国にとって必要なのは防衛でなく、外交だ」という認識から、唐と倭(日本)は、白村江の敗戦後、(通説のいうような)対等の関係ではありえず、中大兄皇子は、建前と実態とのギャップの中で、悪戦苦闘する、政治指導者として描こうとしています。

伊藤睦月です。この著は2015年に発刊されているが、副島史学とも親和性が高いと思う。「属国」というキーワードは使用していないが、直接、間接に副島史学の影響は、ないとも言い切れないのでは。もっと素直になればよいのに。

私、伊藤はそれでも、中村説に対する疑問をぶつけます。(続く)

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/07/02 16:48

【519】ブレイク:頭の整理(7月2日②)

伊藤睦月です。倭の酋長を封禅の儀に列席させた目的は、一言でいえば。「唐の意向に反した日本への威嚇であり脅し」であったとするのが、通説の見解であり、これには、特段の異論はないようだ。では、この列席の原因となった、白村江の敗戦とその後の対応の説明については、通説、中村説、副島説、伊藤説それぞれ多少とも違っており、その違いを整理することとする。(基本的に伊藤の頭の整理です)

1 学会通説

(1)663年の白村江の戦いの時点で、倭=大和王朝であることを前提。

(2)白村江の戦いに参加した兵士数は、

   総数4万2千

(2-1)内訳:余豊璋護衛隊5千、安曇比羅夫率いる本隊2万7千、蘆原君臣(いおはらのきみおみ)率いる後詰め部隊1万)

(2-2)上記部隊の大半が渡海。全滅。

    ※渡海人数は不明。

(2-3)全滅の報に接した中大兄皇子は、直ちに大和(飛鳥宮?)に撤退。

(2-4)664年対馬。壱岐、筑紫に防御施設と狼煙(通信施設)を築造。防人を設置し防衛体制を構築

(2-5)667年近江遷都。

(2-6)668年正式即位(「天皇」「日本」

     初出)

(2-7)671年 天智天皇死去

(2-8)672年 壬申の乱

(2-9)702年 第7回遣唐使(粟田真人)で対外的にはじめて、「日本」「天皇」を名乗る。

2 副島説

(1)倭(広義)=山門国(大和王朝)倭(狭義=九州王朝)

※当時の倭は、原住民王国と華僑王国との連合体であり、白村江の敗戦後、両者がまとまって「日本」を建国したとの岡田英弘説を展開。

(2)渡海して全滅したのは、余豊璋護衛隊5千プラス九州王朝部隊2万7千。計3万7千(伊藤試算)

(3)山門国軍は、余豊璋護衛部隊5千プラス後詰め部隊1万。前者のみ渡海。

(4)これで、旧倭(九州王朝)は消滅し、結果的に 山門国が吸収。

(5)中大兄皇子は、白村江敗戦の報に接するや、直ちに撤退。大和に戻り、防衛体制を固める。

(5)以後、通説とほぼ同じ展開。

3 伊藤説

(1)(広義)倭=大和王朝プラス百済支配地の旧倭(奴国)

(1-1)旧倭は、実質的に華僑の有力者たちが、合議体で国を運営していた。(「漢委奴国王」の金印が統合のシンボル、後年の博多や堺からの連想)

(1-2)旧倭は、白村江以前に、百済(余豊璋)から乗っ取られ、兵站基地とされていた。

(1-2)実際に渡海し全滅したのは、旧倭から徴発された倭人部隊。

(1-3)大和王朝側は、後方支援(那津宮・朝倉宮)のみで戦意はそれほど高くはなかった。

(1-4)全滅の報に接した中大兄皇子は、直ちに大和に撤退。防衛体制を固める。

(1-5)敗戦後、中大兄皇子が早々に撤退したことで、旧倭に軍事的空白ができ、郭務棕らが、占領。

(1-6)671年、白村江の戦いの首謀者、余豊璋(藤原鎌足)の捕縛に失敗。(689年死亡)

(1-7)671年、郭務棕は、新羅の反乱などもあり、占領継続が困難となったので、天智天皇の死亡を機に撤退。

(1-8)旧倭の管理は、親新羅系の天武天皇(もしくは高市皇子)に引き継がれた。

と、ここまでで、小休止。スミマセン。

(以上、伊藤睦月筆)

 

かたせ2号 投稿日:2024/07/02 11:48

【518】「サヨナラ」ダケの「ダケ」の部分は、訳詩者・井伏鱒二の創作に該当します。

伊藤睦月さん。ご返信ありがとうございます。

ワタシはこの詩の「だけ」と言い切るところが、最近は特に気に入っていますが、
この部分は、井伏鱒二の創作に該当します。漢詩原文では、そこまでは言い切っていません。

漢詩原文 「勧酒」(于武陵)
勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離

和訳(直訳)
君に この金色の大きな杯を勧める
なみなみと注いだこの酒 遠慮はしないでくれ
花が咲くと 雨が降ったり風が吹いたりするものだ
人生に 別離はつきものだよ

    
井伏鱒二の訳
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

かたせ2号です。
以下はワタシなりの解釈と感想。

長生きすればするほど、友達と仲良く最後まで終われる確率は、確実に低くなる。
そんなのを痛感するとき、
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
とつぶやきたくもなります。

それは、それで淋しいことではありますが、
おそらく、こんなつぶやきが、
確実に遠からず訪れるであろう「死」への準備にもなっていると考えると、
こんなつぶやきであっても、悪いことだけではないかもしれません。

Memento Mori.

(補足)
生ぜしもひとりなり 死するもひとりなり

こんなコトバを残したのは一遍さんですが、
そんな一遍さんを、戦後1955年に、主著「南無阿弥陀仏」で掘り起こした民藝運動の柳宗悦(やなぎ・むねよし)は、立派だなあと思います。

https://www.iwanami.co.jp/book/b246181.html
主著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)の紹介
(引用開始)
南無阿弥陀仏という六字の名号が意味するものを説き明かしつつ,浄土思想=他力道を民藝美学の基盤として把え直した書.なかでも,日本における浄土思想の系譜を法然―親鸞―一遍とたどり,一遍上人をその到達点として歴史的に位置づけた点は注目される.柳宗悦晩年の最高傑作であり,格好の仏教入門書である.
(引用終わり)

以上

伊藤 投稿日:2024/07/02 11:36

【517】ウォーミングアップ(7月2日)封禅の儀666に倭国王は列席したか。(たぶん最終回答)

伊藤睦月です。(513)で、倭国王は666年の封禅の儀に列席しなかった、と主張しましたが、その後、出典(旧唐書劉仁軌列伝の該当箇所)を見つけましたので、引用します。(中村修也「天智朝と東アジア」120頁以下)見出し番号は伊藤

(引用開始)

(1)麟徳二年に、泰山に封ず。

(2)仁軌、新羅及び百済・耽羅(たんら:済州島のこと)・「倭」の四国の「酋長」を領(ひきい)て

   赴き会す。

(3)高宗、甚だ悦ぶ。

(4)(仁軌を)擢(ひきぬきて:抜擢して)、大氏憲に拝せしむ(任命した)

(引用終わり)伊藤睦月です。この封禅の儀の記事は。後世の類書「冊府元亀」、政治指南書「資治通鑑」にも、紹介されています。

(引用はじめ)

(4-1)ここにおいて、仁軌、新羅・百済・耽羅・「倭人」の四国の「使い」を領い、浮海西遷(旧百済から、海を渡って西側:泰山のあった山東省に移動して)し、以って泰山のもとに赴く。(冊府元亀)

(4-2)熊津都尉(都督:都尉は北宋時代の官職名)扶余隆(旧百済皇太子)と新羅王法敏とに上命(命じて)旧怨(660年百済が滅ぼされたこと)を釈(と)き去らしむ。(和解させた)

(4-3)劉仁軌、新羅、百済、耽羅、倭国の使者をもって、浮海西遷せしめ、泰山に会祠(かいし:参加)せしむ。高麗(高句麗)もまた、太子福男(ぼくなむ)遣わし来たり、侍祠す(じし:参列)す。

(引用終わり)伊藤睦月です。もう一つ、三国史記(新羅本紀)の記事から。

(4-4)(引用開始)

 是において、仁軌、倭が使者及び百済・耽羅・「倭人」の四国の「使い」を領し、海に浮かびて西に還り、以って会して、泰山を祀る。(佐伯有清編訳「三国史記倭人伝」岩波文庫)(引用終わり)

伊藤睦月、です。なお、同署には「新唐書劉仁軌伝」の記事として、「始。仁軌任帯方州(朝鮮半島)及び封泰山。仁軌乃率新羅、百済、耽羅、倭四国酋長赴会。天子大悦。擢為大司憲。とあります。

伊藤睦月です。守谷君。君が指摘したのは、上記でまちがいないですか。

(5)この5史料の優先順位は、新唐書、旧唐書、三国史記、資治通鑑、冊府元亀、の順です。

(7)それを勘案すると、封禅の儀には、「倭」の「酋長」が参列していることになります。では、「酋長」とは誰か。わかりません。(苦笑)

(8)通説では、資治通鑑や冊府元亀の「使い」に注目して、前年に劉徳稿と郭務棕を送っていった「守君大石」と考えているようです。(川上麻由子「古代日中関係史」はじめに 中公新書)守君大石は、白村江生き残りの倭の将軍で、いかにも「酋長」という風貌だったのかもしれません。

(9)それに対し。中村修也は、「天智朝と東アジア」において、「酋長」というからには、国王のようなもの。日本書紀では、同時代の天皇は天智天皇だが、訪中はしていない。大友皇子が天智天皇の代理として、唐、新羅、旧百済、倭、との講和条約を熊津城にて調印、その帰りに、封禅の儀に参加させられた、としています。(前掲書120ー135頁)

しかし、この中村説には、通説、副島説、伊藤説、いずれからみても無理があると考えます。

とりあえず、小休止

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/07/02 10:03

【516】サヨナラだけが人生だ(続き)間違えて途中で投稿ボタン押してしまいました。

伊藤睦月です。

私、伊藤は。太宰作品は「新釈お伽草紙」が好きです。というか、これと「富嶽百景」と「走れメロス」以外はまともに読んでいませんが。(他の自虐系はどうも苦手で・・・。その後は、2,3年前に漫画「文豪ストレイドッグス」を読みましたが・・・関係ないか)

いずれにせよ、50年前の、高校生のときに読んだきり、ですけど。

かたせ2号さん、思い出させてくれてありがとうございました。

(以上、伊藤睦月筆)

伊藤 投稿日:2024/07/02 09:53

【515】サヨナラだけが人生だ

伊藤睦月(2145)です。

表題の文句は、井伏鱒二訳の漢詩です。

かたせ2号さんが上げられた、「富岳百景」は、「富士には月見草がよく似合う」でしょうか。

私、伊藤は、太宰なら「新釈お伽草紙」

かたせ2号 投稿日:2024/07/02 06:13

【514】太宰治の「富嶽百景」と井伏鱒二の「放屁」。

太宰治の「富嶽百景」と井伏鱒二の「放屁」について。

かたせ2号です。
特に結論めいたものはないが、太宰治の「富嶽百景」、この小説を、ワタシは好きなので、紹介する。
(いったい、ワタシは誰に向かって書いているのか。。。)

太宰治「富嶽百景」から。
太宰治の師である井伏鱒二は、富士山をきれいに眺望できるはずだった三つ峠で、屁をこく。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/270_14914.html
(引用開始)
とかくして頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台といふ、断崖の縁に立つてみても、いつかうに眺望がきかない。何も見えない。井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆつくり煙草を吸ひながら、放屁なされた。いかにも、つまらなさうであつた。
パノラマ台には、茶店が三軒ならんで立つてゐる。そのうちの一軒、老爺と老婆と二人きりで経営してゐるじみな一軒を選んで、そこで熱い茶を呑んだ。茶店の老婆は気の毒がり、ほんたうに生憎の霧で、もう少し経つたら霧もはれると思ひますが、富士は、ほんのすぐそこに、くつきり見えます、と言ひ、茶店の奥から富士の大きい写真を持ち出し、崖の端に立つてその写真を両手で高く掲示して、ちやうどこの辺に、このとほりに、こんなに大きく、こんなにはつきり、このとほりに見えます、と懸命に註釈するのである。
私たちは、番茶をすすりながら、その富士を眺めて、笑つた。
いい富士を見た。霧の深いのを、残念にも思はなかつた。
(引用終わり)

かたせ2号です。
この小説のこの場面に関するQ&Aを引用する。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14257955124

(質問)
太宰治の小説「富嶽百景」についての質問なのですが、井伏氏と三つ峠に登り頂上のパノラマ台に着いた後のシーンで、井伏氏が「ゆっくりタバコを吸いながら放屁なされた」という記述がありますが、なぜわざわざ井伏氏が放屁したという事を書いたのでしょうか?
皆様の解釈をお願いします。
(回答開始)
せっかく富士山をきれいに眺望できる三ツ峠へ登ったが、残念ながら霧にまかれて何も見えない。その無聊をかこつ象徴として放屁したという事実を記述した。井伏の素朴な人柄に少なからず癒された。
主人公はスランプだった。
実生活では、大の男が暗い便所で泣きたくなるほどつらいことがあったし、仕事の上では文学的な行き詰まりを感じていた。そういう状況を打開しようと、師と慕う井伏鱒二が逗留している天下茶屋へ行く。そこで富士山を媒体として、純朴な少女、三つ峠の老婆、ふもとの文学愛好の若者たち、さらには婚約者となる母娘、そういう人たちの素朴で打算のない誠実な生きざまに接することによって、人間への愛情、信頼感が回復してくる。彼らは富士山を自分の家族のように愛し、誇りを持っている。最後に主人公は感謝と尊敬の念を込めて富士山へのオマージュとして富士山の写真を撮って山を降りる。「富士山、さやうなら、お世話になりました。
(回答終わり)

かたせ2号です。
ちなみに、ワタシはこの井伏鱒二の「放屁」が「フィクション」であることを知っている。

https://bungakusanpo.oops.jp/0309dazai/ibuse..htm

(引用開始)
『富嶽百景』は、富士のさまざまな実景・心象風景を背景に、懸命に生きようとする主人公を描いた作品で、「富士には月見草がよく似合う」のフレーズで有名だ。井伏と一緒に三ツ峠に登るエピソードも出てくる。あいにくの霧で富士が見えないのを気の毒がった茶店の老夫婦が、この辺に、こんなふうに見えます、と富士の写真を掲げ、いい富士を見た、と主人公が思う場面など、忘れがたい。井伏が三ツ峠の霧の中で、いかにもつまらなそうな顔をしながら「放屁なされた」という場面もあるが、あれは事実無根だ、と井伏が何度も書いていておかしい。むきになって書けば書くほど、井伏の筆は例によって微苦笑をもたらしもするから、よけいおかしくなる。
(引用終わり)

かたせ2号です。
井伏鱒二は自分自身のユーモアある文章の中で「微苦笑」がもたらされるのを、きちんと計算した文章を書いているのだろう。「あれは事実無根だ、と井伏が何度も書いて」いる背景として、この「微苦笑」が想定される。

そうして、そうして、小説「富嶽百景」最終場面でのユーモアある太宰治の文章は、師匠譲りか。

(引用開始)
「どうにも狙ひがつけにくく、私は、ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、富士山、さやうなら、お世話になりました。パチリ。
「はい、うつりました。」
「ありがたう。」
 ふたり声をそろへてお礼を言ふ。うちへ帰つて現像してみた時には驚くだらう。富士山だけが大きく写つてゐて、ふたりの姿はどこにも見えない。」
(引用終わり)

かたせ2号です。
何にせよ、この太宰の「富嶽百景」はワタシにとって、思い出深い作品。
富嶽百景、お世話になりました。

最後に太宰治の、別の文章を引用しておく。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/54176_46736.html

(引用開始)
『富嶽百景』序
太宰治
所收――「富嶽百景」「女生徒」「滿願」「駈込み訴へ」「女の決鬪」「走れメロス」「彼は昔の彼ならず」「ロマネスク」
明治四十二年の初夏に、本州の北端で生れた氣の弱い男の子が、それでも、人の手本にならなければならぬと氣取つて、さうして躓いて、躓いて、けれども、生きて在る限りは、一すぢの誇を持つてゐようと馬鹿な苦勞をしてゐるその事を、いちいち書きしたためて殘して置かうといふのが、私の仕事の全部のテエマであります。戰地から歸つて來た人と先夜もおそくまで語り合ひましたが、人間は、どこにゐても、また何をするにしても、ただひとつ、「正しさ」といふ事ひとつだけを心掛けて居ればいいのだと二人が、ほとんど同時におんなじ事を言つて、いい氣持がいたしました。私の文學が、でたらめとか、誇張とか、ばかな解釋をなさらず、私が窮極の正確を念じていつも苦しく生きてゐるといふ事をご存じの讀者は幾人あつたらうか。けれども作者が、自分の文學に就いて一言半句でも押しつけがましい事をいふべきではない。ただ讀者の素直な心情を待つばかりであります。
(引用終わり)

以上