ふじむら掲示板
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Loginはこちら【566】ブレイク:天皇相続(皇位継承)問題は、男系・女系ではなくて、直系・傍系で考えるべきである。
伊藤睦月です。本日は2024年12月29日5時58分です。あくまでも私のファンタジーです。
(1)この問題を考える大前提がある。当たり前すぎて、誰もいわないようだ。それは、憲法上に定める、天皇制の存続、内容は、国民が決めること、ということだ。このことを、言論人で、明言しているのは、私の知る限り、副島隆彦先生だけ、である。(たしか、『属国日本論』だったと思う。これ以降はすべて私の記憶による)
(2)これは、憲法学者がずっと前から、当たり前のこと、と明記しており、法曹関係者(裁判官、検事、弁護士、その他)、国・地方公務員全員が知っていて、頭に刷り込んでいる。そして、忘れている。試験に出ないからだ。実務上は必要のない余計な知識だから、忘れても何ら仕事にさしつかえがない。弁護士業界では、「裁判で、憲法と信義則を持ち出したら、(その裁判は)負け筋」ともいうそうだ。でも、「刷り込まれている」ことが重要で、何かのキーで、本人もそうとわからないまま、刷り込み通りに考え、行動してしまう。考えようによっては恐ろしいことだ。
(3)(引用はじめ)明治憲法においては、天皇の地位は天照大神の意思、つまり神勅に基づくとされていたのに対して、日本国憲法においては、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基づく」(第1条)ものとされる。したしたがって、天皇制は絶対的なもの、不可変なものでなく、国民の総意により、可変的なものになった。(引用終わり)(芦部信喜著高橋和之補訂『憲法第8版』44頁岩波書店)
(4)伊藤睦月です。この「可変的なものになった」というフレーズが、死活的に重要。これで、天皇制、天皇家は、「国民の総意(憲法改正)」があれば、いつでも、廃止、消滅させることとができるようになった。これを「共和主義」という。戦前なら、「国体変更を企てる反逆者」として、治安維持法の対象となる大罪だ。このことの「恐ろしさ」を日本で一番、身に染みてわかっているのが、今の天皇家の人々だろう。天皇家の人々の「国民目線にたった」言動の根っこは、ここにある、上皇夫妻や天皇・皇后夫妻の、お人柄だけの問題ではない、と私、伊藤は考える。恐れ多いことではあるが。
(5)この、芦部信喜(あしべ のぶよし)は、東大法学部憲法学教室教授の職を、「宮沢俊儀(みやざわとしよし)」から、引き継いだ、憲法学者だ。両者とも既に故人である。宮沢は、敗戦直後、GHQから、憲法草案(英語)を受け取って、実際に日本語に翻訳・翻案した学者。芦部は彼の助手として、翻訳作業チームの一員だった。朝ドラ「虎に翼」にも、出ていたかもしれない。
(6)したがって、宮沢、芦部の憲法解釈は、戦後長い間、1990年くらいまでは、学会の「通説」とされてきた。戦後の憲法判例の蓄積や海外の憲法理論研究の進展により、昔ほどの支持者はいないが、宮沢、芦部の注釈書(コメンタール)や教科書は、長らく、司法試験や、公務員試験の必読書だった。先に引用した「憲法」は、たぶん50歳以上の関係者なら、必ず、一度は手に取ったであろう。大学受験参考書の『試験に出る英単語』のように。(ちなみに私は両方とも、挫折しました・・・涙)
(7)というわけで、いわゆる「皇位継承」は、愛子天皇を支持する、副島先生の論に全面的に賛成。これは、さきにあげた、日本国憲法の理念にもかなうし、皇室伝統にもかなっている、と考える。
(8)天皇は、我々国民の統合の象徴(憲法第1条)だ。だから、「人間としてのふるまい」の最たるものである、家族、相続のありかたは、我々国民のそれと乖離すべきではない。
(9)相続法(民法)の大原則は「直系血族」(民法887条、889条)である。その起算点は、「被相続人」であるから、この場合は、徳仁天皇、雅子皇后だ。このお二人で決めればよい。お二人の直系血族は、愛子内親王だけだ。だから次期天皇は、愛子様で決まり。男系・女系、男女は関係ない。初代神武天皇以来の伝統にもかなう。「傍系の」悠仁親王が天皇になれば、それ以降は、悠仁天皇の血統が「直系」になるだけだけど、やはり、現直系の愛子内親王が、良いな、と私は素朴に考える。その方が万事うまくいく。ごちゃごちゃ説明や言い訳する必要がない。すっきり解決。
(10)上皇夫妻にとっての直系血族は、浩宮と秋篠宮だ。だから二人が候補になった。平成天皇夫妻は浩宮を選び、譲位した。今度は、徳仁天皇・雅子夫妻が決めたらよい。男子でも女子でも構わない。でも愛子内親王でよい、それが一番おさまりが良い、と考える。
(10)男系・女系を言い出したのは、おそらくは、1889年大日本帝国憲法発布と同時に制定された「皇室典範(戦後のそれと区別して旧典範ともいう)」からで、「皇統の男系の男子」と歴史上初めて、明記された。それまでは、明記されていないが、「直系皇族の年齢順、できれば男子」だった。天皇システムは、中国の律令制度がベース。中国人は、人類学的に男系社会であるから、その影響を受けたシステムになっているが、「男系社会でもあり、女系社会でもある(小室直樹)」日本人は、そこまでこだわらなくてもよい、と思う。
(11)騎馬民族の王なら、末子相続だ。だから、「天皇家は騎馬民族」という考えは、天皇家みずから否定した、と考える。だから、天皇家、そして我々日本人は、大多数が「農耕民族」だ。そもそも「民族」なんて概念はその程度のいい加減なものだ。だから、以前の投稿で、古代日本に渡来してきたのは、「騎馬民族」ではなく、「騎馬難民」だろうと主張した。
(12)伊藤睦月です。本当はこの投稿は、正月になってからにしようと思ったが、年寄りの通例で、早朝に起きたら、なんか、ムズムズしたので、投稿した。まだ寝ぼけているのかもしれない。夢かもしれない、ので、悪しからず。今から2度寝する。
伊藤睦月拝
【565】私説:日本書紀、古事記の正体(2)日本書紀の、気になると夜も眠れなくなること
伊藤睦月です。今日は、2024年12月27日8時8分です。今日から冬休み。来年も、個人的に嫌なことが続きそうなので、年末年始くらいのんびり、投稿させてもらいます。
2 日本書紀に関して気になること。(人代編を対象とし、神代編は、別途考察する予定)
(1)海外向けなのに、遣唐使が、持ち込んだ形跡(記録)がない。中国(唐帝国)も受け取ったという記録もない。
(2)日本書紀完成後、約200年間、7回にわたり、当時の官人(貴族)全員を対象にした、勉強会(日本紀講莚)をくりかえし、開催している。
(3)内容を見ると、海外(中国)向けというには、不都合、不適切な記事が多い。
(4)そのかわり、国内向けと考えると、掲載されてもおかしくない記事も目立つ。
(5)日本書紀と中国正史と食い違いのある部分を比較してみると、不自然な感じがする記事も目立つ。まるで二つの国の歴史が組み込まれているような印象を受ける。
伊藤睦月です。私の疑念のみなもとは、以上これだけ。しかもすべて状況証拠。たったこれだけから、私のファンタジーを展開する。だから気楽に読まれて、気楽に突っ込んでいただければ、幸い。
以上小休止。伊藤睦月拝
【564】私説:日本書紀、古事記の正体
伊藤睦月です。本日は、2024年12月26日20時37分です。
1 はじめに
日本書紀、古事記といえば、従来から「記紀」と称されて、わが国最古の歴史書とされている。記紀の使い分けとしては、古事記は、当時の日本語(変体漢文、万葉仮名)で書かれているため、国内向け。日本書紀は、立派な漢文(渡来人である、のネイティブ中国人が執筆した、というのが多数説)で書かれているため、海外向け(主に宗主国中国)に書かれた歴史書というのが、日本史学会の多数説であると思われる。当掲示板の守谷健二氏もこの多数説をベースに、新しい考察を加えようとしている、と理解している。
私、伊藤はこの多数説に異論を唱えようと思う。少し素直な考えではないかもしれないが、議論のサンドバッグにでもしてもらえれば本望。まず、結論だけを簡潔に述べる。
(1)日本書紀は、海外向けとみせかけた、国内有力豪族向けに、天皇家(天智・天武両方)の正統性を刷り込むために、作成されたプロパガンダ文書である。その目的のために、白村江の敗戦で滅んだ、九州北部の「倭国」の歴史も、「大和国」の歴史として取り込んでいる。
(2)古事記は、ほぼ30年に1回開催された、日本書紀の勉強会(日本書紀講莚:にほんしょきこうえん)の講師を務めてきた多氏(おおのし)が作成した、「講義シナリオ、あんちょこ」である。ほかに講義テキスト(日本書紀私記)も作成している。
伊藤睦月です。「倭国」、「大和国」は、副島隆彦先生の表記。。副島先生は「山門国」としたが、山門という地名は全国にあるが、副島説によると、奈良盆地にある「山門国」だけが、「大和」と名乗ったという。他と区別するため、「大和国」という表記を使用する。山門から大和への国名変更時期については、別に考察する。
伊藤睦月です。次回から、「日本書紀の正体」について考察します。(少し肩コッタ)
小休止 以上、伊藤睦月筆
【563】ブレイク:旧唐書より、新唐書推し、なのはどうやら私だけらしい。(5)新唐書の価値
伊藤睦月です。
本稿では、『倭国伝 中国正史に描かれた日本』(講談社学術文庫2010年)を使用します。
(1)私が考える新唐書の価値は、新唐書で、「天皇」号の使用が初めて認められた、ということです。つまり、「日本」号の使用=日本建国は、661年(岡田・副島)もしくは、702年(学会多数)。「天皇」号使用は、国内では、671年(近江令)、中国公認は、1061年(新唐書日本伝への記載)、ということになります。この指摘はおそらく私が日本初です。(汗)
(2)そのきっかけは、984年、東大寺学僧の奝然(ちょうねん)が、北宋太宗皇帝に謁見した時に、「日本王の年代記」の献上に成功したことです。この年代記は、日本書紀の「帝紀」(王の系譜を記したもの)にあたるものと思われます。(日本書紀自体は献上されなかったろう論は別に述べます)奝然の存在は、守谷健二氏の指摘で知りました。「宋史日本国」の冒頭近くに、明記されています。
(3)いままで、高校教科書では、「日本」と「天皇」がいつ使われたかについて、「日本」は明確に示しているのに、「天皇」については、記載がないか、あいまいでした。それで、「日本」号が認められたのと同時だと、私は思っていました。
(4)東洋史学会では、1980年代から、歴代遣唐使は、「天皇」ではなくて、「日本国王主明楽美御徳」(スメラミコト)と自分で名乗り、唐側からもそう命名されていたこと、「日本国王」は「日本国皇」と中国からの国書を書き換えていた事実を指摘していましたが、日本史学会の採用にはならなかったようです。(2010年代になってようやくその事実を認めたようだ。そのうち、教科書の記述もそうなるだろう)
(5)なぜそうだったかの説明は今までの投稿をみていただきたいが、簡単に言うと、702年、第7回遣唐使、粟田真人が謁見した中国皇帝は、「天皇」号を自ら名乗った則天武后だったので、天皇とは名乗れず、天皇以前の倭王の尊称であった「スメラミコト」を名乗らざるを得なかった。それが、唐の滅亡まで続いた、ということ。
(6)では、その部分を引用する。
その王の姓は、阿毎(あめ)氏、自ら言う。初主は天御中主(あめのみかぬし)と号し、・・・神武立ち、更(あらた)めて、天皇を以って号となし、治(ち)を大和州(やまとしゅう)に徒(うつ)す。・・・以下略。
(7)伊藤睦月です。この「天皇」という2文字を入れてもらうのに、400年かかったということ。当時の日本は、藤原道長の全盛期に当たる。
(8)ちなみに、旧唐書日本伝の価値は、
今まで朝貢していた「倭国」とは別種の国である国(山門国:副島説)が「日本」という国号で、唐帝国に認められた。ことです。ほかの記事はどうでもよろし。
なお、日本(山門国)が倭国の地を併合したと主張したが、怪しまれ、新唐書では、逆に倭国に併合されたのではないか、と言われて反論できなかった記事もあるが、とにかく、日本という国の存在を認められたことが、とてつもなく大きいのです。粟田真人はその功で、3位から1位に、後の、僧奝然が6位から、3位(東大寺別当)に大出世したのは、当然かと思います。
小休止、以上伊藤睦月筆
【562】2054さんへ。あえて再反論。もちろん返事は期待しておりません。「小林信者」は敬意をこめて言っていたつもりですが、残念です。
伊藤睦月です。2054さんへ。もちろん返信は結構です。
(1)騎馬民族の王=タシリヒコ=のちに聖徳太子と呼ばれる、と書いてあったように思います。
ならば、タシリヒコ=聖徳太子、という等号の使い方は、論理的に正しいと、中1数学で習ったそのままを表現しただけです。それがなにか。
2)小林説が、卑弥呼を歴史上、3回も登場させたところに、違和感を持ちました。各回とも、1世紀近く間隔が離れているので、死んだ、と言う意味で3回とも殺された、と表現したのは、私の想像です。
しかし、井沢元彦氏は、当時、発生した皆既日食で不安になった人々が、彼女を殺した、という説を発表していますし(私の記憶ですが)、シャーマンが死ぬときは天寿を全うすることはまれで、いけにえとして、殺されることが多い、という過去の読書経験(フレイザーなど)からする「持論」を述べたのですが、それほど、言われなければならないのですかね。
3)「考古学の問題は考古学で解決すべき問題だ」は、私の持論ではなく、佐原真という考古学者の発言です。(「騎馬民族はこなかった」NHKブックス)佐原については、先般投稿で紹介すみです。佐原は、江上の元祖・騎馬民族説(1948年発表)が、考古学の知見から出発しているのに、その後の考古学の進展状況を全くふまえないで、想像ばかりの物語を展開していることを、厳しく批判しました。「考古学の問題は考古学で」というテーゼは、私一人にとどまらず、佐原ひとりだけでなく、おそらくは、日本の考古学者全員の共通認識だと思います。彼ら全員に確かめなくてもわかります。
4)副島先生ですら3日かけた、というのは、余計なお世話だと思います。問題は何日かけたかではなく、その結果、副島先生の見解になにか変化が起きたかを確かめるのが大事です。
5)副島先生の投稿があったのは、2017年でしたっけ。斎川眞氏との共著、『天皇とは北極星である』の最終校正段階だったと、投稿からうかがえます。
しかし、その天皇本でも、次作の『副島隆彦の歴史再発掘』でも、小林説には言及されていません。これが、現時点での副島先生の小林説に対する、「答え」だと思います。
この「歴史再発掘」は、「今日のボヤキ」や「重掲」の投稿に加筆修正を加えて、本にまとめられたものだと思います。私は副島先生の投稿をずっと追いかけていましたからわかります。もし、小林説を一部でも取り入れたいなら、最終本でなくても、ぼやきなどへの投稿の段階でも、何等か追加の言及があったはず、それがないまま、新刊本が出され、それから、数年たっている。それは、なぜか。というところから、私の小林説の点検が始まりました。あえて、副島先生の見解を求めず、史料を読み、自分の頭で、あれこれ考える。それで、いつかの「答え合わせ」を楽しみにする。「副島推し」のだいご味、ここにあり、です。
副島先生は、今現在、世界中すべてを相手に思想戦を闘っておられますので、答え合わせがいつになるかわかりませんが、それを待つのもまた一興、でございます。
6)最後に。2054さんねえ。あなたの大事な小林先生の、一番薄い本、でも一番重要な本、『古代倭王の正体』のあとがきもろくに読まないで、副島先生や私に批判がましい言葉をぶつけてくる、そういう暇があれば、改めて、小林先生の本を隅から隅まで読まれたら、いかがですか。
7)私も小林氏の9巻本、持っていますが、全巻読み通すつもりも、時間もありません。帯広告や、広告パンフレットが小林氏の見解をよくまとめてあるので、それを読めば、当面十分です。騎馬民族のことを語りながら、岡田英弘博士の本にほとんど触れない、このことをもって、小林説の正体見たり、です。本物に近づかない、ということを確認しただけで、私には、十分です。
以上です。2054さん、お疲れさまでした。
それでは、よいお年をお迎えください。
伊藤睦月拝
【561】【545】【550】【551】における伊藤氏の投稿を全面的に批判します(最後の投稿とします)
2054です。【545】【550】【551】における伊藤氏の投稿を全面的に批判します。
今回が私の最後の投稿となります。
本掲示板において私は何度か投稿をしてまいりました。普段は本を読むだけですが、書き表すことで、私自身の思考を深めて整理することができ「すっきり」しました。
そのきっかけは伊藤氏の投稿によるものでした。その点で伊藤氏に感謝の念を持っております。
しかし、その伊藤氏への感謝の念と彼の言論内容はまったく別に考えます。
伊藤氏は、小林恵子の著作をろくに読みもしないで批判を展開しました。
その結果、(1)内容を理解できないままの内容批判と(2)内容にかかわらない印象操作に終始されました。
彼の投稿では、文脈上明らかに私を想定して、「小林信者」と決めつけ、かつ、何の事実の指摘もなく
「面白くない」と揶揄しています(私は誰の信者でもありません)。
これでは議論になりませんし、私自身が新たに学ぶことも期待できません。また、学問道場の諸兄に対して、お目汚しが過ぎる事態にならないか心配になりました。そのため、私(2054)は今後、伊藤氏とのやりとりは控えることにし、今後は本掲示板に投稿をしないことにします。
最後ですので(伊藤氏への一定の感謝の念を持ちつつ)伊藤氏による小林説批判の問題点を考察してまいります。「お目汚しになっているじゃん!」とツッコミを入れられる方もいるかもしれませんし(実際そうなんですが)最後の投稿としてご容赦ください。
(1)内容を理解できないままの内容批判について
(1-1)聖徳太子について
(【550】の投稿7)より:引用はじめ)
小林説については、例えば、『古代倭王の正体』の一番最後の文、「達頭(聖徳太子)は倭王タシリヒコとして、隋に送使し認知された」とあるように、「騎馬民族」というベールをはいでみれば、1960年代に、直木孝次郎、井上光貞、といった、日本史学会、考古学会の主流学説、「タシリヒコ=聖徳太子」とと結果的にはなんら変わらない
(引用終わり)
2054です。学会通説は「タシリヒコ=聖徳太子」、小林説は「タシリヒコ=聖徳太子=西突厥可汗達頭」ですから、そもそも全然違います。伊藤氏はなぜか「騎馬民族」というベールをはいでみれば、という条件を付加していますが、
騎馬民族征服説から「騎馬民族」を取り除いたら、何も残りません(笑)。
謎な条件付加ですが、仮にその条件だとしても騎馬民族の王=聖徳太子ですから、騎馬民族を取り除いたら、小林説は「タシリヒコ=取り除かれた条件=取り除かれた条件」となります。
結果だけみても、学会通説「タシリヒコ=聖徳太子」とは違います。
学会通説と小林説が同じとなれば、学会も小林恵子も驚嘆するでしょう。その全く違う見解を、謎な条件をくっつけて両者が「同じ」と言います。これは単なる詭弁です。
(1‐2)卑弥呼について
(【550】の投稿8)より:引用はじめ)
本来考古学の問題を「文献学で立証するなど、無理だったのだ。だから、卑弥呼を3回も登場させてその都度、殺したり、応神天皇と仁徳天皇(公開土王だそうだ)と親子対決をさせたり、しなければならなくなった。もちろん「真実は1つ」だから、小林説も「仮説」だが、それが、近代学問の大鉄則である「反証可能性」にかなうものなのか、「小林信者」の人たちに問いたい。
(引用終わり)
2054です。騎馬民族征服説を考古学の問題と決めつけているのは伊藤氏の持論で、それはご自由にすればいいと思います。しかし反対説を紹介するなら、正確にご紹介してください。
「卑弥呼を3回も登場させてその都度、殺したり」と言っていますが、そんな記述はどこにもありません。
①紀元前3~4Cの邪馬台国が奄美大島にあり卑弥呼はその大巫女だったこと(海洋貿易の衰退とともに形骸化)
➁紀元前1C頃、北上する異民族(大月氏:オオモノヌシ勢力)に拉致同然に出雲地方に連れ出されたこと
③3世紀に江南出身の卑弥呼が高句麗東川王に殺害されたこと
小林説での卑弥呼の変遷は、上記のような3点に集約できます。3世紀には卑弥呼は殺害されていますが、この1回です。伊藤氏は「3回も登場させて、その都度、殺す」と言っていますが、「殺す」というのが勢力の減退や政治的失墜まで含むのであれば、ギリギリ理解可能です。
しかし上記の雑駁な伊藤氏の説明では「本当に殺した」と思っていそうですし、そう読めます。表現としても不適切です。
近代学問の「反証可能性」を言い出す前に(そもそも歴史学における反証可能性の意味が理解できていないフシがありますが)、「他者の批判をするなら、正確に引用する」という最低限のマナーは固守していただかないと、議論になりません。
(1-3)応神天皇と仁徳天皇について
上記の引用からすると、応神天皇と仁徳天皇は「親子」で決まり!と伊藤氏は判断されているようです。しかしその根拠は書かれていません。「そんなの常識だ」とでもいいたげな文章になっています。
しかし、応神も仁徳も怪しい血脈の天皇ばかりで、とても万世一系が真実とは思えません。
『記紀』には親子とあるが、本当だろうか?というのが議論の出発点なんですよ。
それを本も読まずに「トンデモ」扱いしているのは、「副島隆彦はトンデモだ、非常識だ、読む価値なんてない」とわめく低能な人たちと同じ所為です。それでいいんですか?
ポイントは「本を読まずに」というところです。いいですか?副島先生でも3日もかけて精読してメモにまとめているのですよ。『古代倭王の正体』は簡単そうに見えますが、現代思潮新社のシリーズ本5~6冊分を圧縮していますので、ついていくのは至難です。最初に読むなら、現代思潮新社のシリーズのほうがおすすめです。
なお、小林説では、応神天皇から仁徳天皇にかけて「王位簒奪」があったとします。その根拠は『広開土王の諡は仁徳天皇』(現代思潮新社)に詳しいので、そちらをご参照ください。
(1‐4)まとめ
以上、3点ほど伊藤氏の誤読(読んでいない、あるいは理解不足)についてご紹介しました。
伊藤氏は江上説の「騎馬民族征服説」と小林説の相違もよくわかっていないようで、騎馬民族征服説の内容にはいっさい言及していません。おそらくよくわかっていないのでしょう。だから、「騎馬民族征服説=江上説」でその説は学会で否定された。小林説は騎馬民族征服説である、だから小林説は「否定された学説を今さら展開している遅れた人」扱いしたのでしょう(参照【550】の投稿6)。
私は何から何まで間違っていると思います。
(2)内容にかかわらない印象操作について
上記のように伊藤氏は小林説について内容を吟味して批判する点については、簡潔に過ぎ、雑な批判しかできませんでした。その反面、記述量が多く分厚い批判を展開したのは、内容以外の部分です。端的に言えば印象操作です。
枚挙にいとまがありませんが、いくつか例を挙げます。
「江上波夫に挨拶していない」
「小林恵子は考古学者を目指すべきだった」
「無用に戦線を広げた」
「支離滅裂になっている」
「三笠宮との交流をひけらかしている」
「相手にしない、などと、ほざいている」
「岡田博士の著書ですら恣意的にしか引用できない程度の学力」
「真偽のほどもわからないお寺の古文書を持ち出して、ごまかすな」
伊藤氏は、小林恵子について「騎馬民族民族説を唱える江上氏にあいさつもせず、文献学では証明不能な学説を、遅れて学会に紹介して無視され、学会に友達もおらず、単に皇族との交流を自慢して、支離滅裂の持論を、低能な学力で述べているトンデモ人物である」といっているわけです。
よくもまあ・・・本も読まずにこれだけ文句をつけられるものだなあ~と感心してしまいました。
印象操作の意図がなく、怒りにまかせてそういっているだけなのかもしれませんが、単に小林恵子がいかに「ごまかしの、ニセモノか」を非難しているだけで、小林説の言説の内容について具体的な批評・検討を加えていません。
刑訴法の「悪性格の立証」のようなもので、弊害が多く、真実発見につながらない「誰得?」な言論です。
無用に戦線を広げた、支離滅裂・・・、本もまともに読んでいない伊藤氏にはわかりませんよね?
恣意的にしか引用できない程度の学力って、ご自身はどうなんですか?
人様に学力がないと批判できるぐらい、伊藤氏は有能なんですか?
伊藤氏は小林恵子の学力がどうしてわかるんですか。
そして、それらを日記帳ではなく、パブリックスペースで披露しているのです。
なお、伊藤氏は「人の健康状態について言及・批判をすること」と「人の健康状態について言及すること」の区別がついていません。私は(副島先生も)人の健康状態について批判をしていません。一緒くたにしないでいただきたい。伊藤氏は、「人の健康状態について言及したうえで批判をすること」の品のなさがわからないのでしょうか。私は読んで気分の良いものではありません。
「白内障?そんなの理由にならないんだよ、レーザー治療しなよ、私の母もそうしたんだから」と学者さんをつかまえて批判することを、品が良いんだと強弁を続けられるなら、もうそれは、どうぞ。私は貴殿に失礼千万と言われることも構いません。
憎まれ口を言えるのも健康で元気な証です。いろいろ伊藤氏には上記で苦言を申しましたが、冒頭で申し上げたた通り、感謝もしています。私は伊藤氏の投稿を読むことはありませんが、本掲示板で活発に自論を展開し、ご自身にとって納得のいく通史を完成させることを願っています。
【560】ブレイク:旧唐書より、新唐書推し、なのはどうやら私だけらしい。(4)
伊藤睦月です。
(1)石敬塘がやらかした、もう一つは、旧唐書をつくったことです。後晋は、石敬塘の子供の代になっていましたが、旧唐書完成後、翌年には契丹から滅ぼされてしまいました。建国から滅亡まで、10年余りの寿命でした。旧唐書をつくらなければ、もう少し寿命が延びた、と考えています。
当時、歴史書を作ることは、後晋が、大唐帝国の後継王朝である、ということを、内外に宣言することです。当然、契丹帝国は野蛮人国家となります。中国風に「遼」と国号を変えたばかりの契丹帝国が激怒するのは、わかります。石敬塘本人が生きていたら、まだごまかしようがあったでしょうが、子供の代になって、そういう空気も読めなかったのでしょう。結局、遼から、別の口実で、あっさり滅ぼされます。
(2)後に北宋は中国統一の後、唐帝国の正統な後継王朝ということを示すため、「新唐書」を編纂し、また、唐滅亡以降の「五代十国」それぞれの歴史書を編纂して、王朝の正統性をアピールしています。
これは、伊藤独自説、たぶん、私ひとりだけ、の説だと思います。
(3)この旧唐書は、もちろん完成当時は「唐書」でした。後世、1072年に北宋帝国によって、編纂された、「唐書」と区別するために、新旧つけられましたが、それは、18世紀清の乾隆帝によって、中国正史に加えられて以降のことだと思います。それまでは「稗史」として一段低い扱いだったと思います。
(3)普通、王朝がこんなに短期で滅んでしまったら、歴史資料なんかは散逸してしまいそうですが、この「後晋版唐書」は、なぜか、1200年も生き残りました。
(4)普通なら偽書説が出そうですが、でなかったとしたら不思議だと思います。
(5)それは、どういう経緯かわからないが、「清皇帝お墨付き」の歴史書となったためかと考えます。自分の国の歴史はすぐ疑うくせに、中国皇帝の権威には弱いのか。
(6)いずれにせよ、旧唐書は、後世の研究者や歴史マニアにとって、メジャー、マイナー問わず、おいしい資料です。
(7)それは、新唐書が、中国正史の伝統に忠実すぎて、採用史料とその記述を絞りすぎたために、(よく言えば、当時の大学者、欧陽脩の簡潔すぎる名文のため)、新唐書にもれた、史実が結構、旧唐書には掲載されているからです。その真偽判断を経ているのかどうかは、少なくとも私は知りません。新唐書は、旧唐書の100年後に編纂されていますので、偽書でなければ、当然、旧唐書を参照して、当時の基準で取捨選択したはずです。
伊藤睦月です。そこで僭越ながら、他の人たちからは、ほとんど、顧みられない、新唐書、それも一般読者が容易に入手、検討できる、「倭人伝」の内容を紹介します。
以上、小休止、
伊藤睦月筆
【559】ブレイク:旧唐書より、新唐書推し、なのはどうやら私だけらしい。(3)少し脱線
伊藤睦月です。朱子学と陽明学について。今思い付きですが。忘れないうちに書きます。すでにほかの方の弁ならごめんなさい。
(1)陽明学は、実践の学とよく言われますが、思想内容的には、何もありません。空っぽです。
(2)思想体系として朱子学の範疇(はんちゅう)で、それを超えるものではありません。
(3)「知行合一」で説明します。この言葉は陽明学の根本命題だが、それだけでは何のことかわかりません。禅宗の座禅の公案(おだい)のようなぼやっとしたものではありません。
(4)「朱子学」を知って、それを実現するため(合一)「朱子学」を行え。という意味です。意味わかんない?それでは、
(5)この「朱子学」には、人それぞれの朱子学のコンセプトが入ります。
(6)例えば、「大義名分」を知って、それを実現するために、「尊王攘夷」を行え。と入れれば、幕末の志士の思想です。
(7)また、「経世済民」を知って、それを実現するために「放伐」を行え。と入れれば大塩平八郎の思想です。
(8)伊藤睦月です。放伐とは武力行使のことです。
これらのコンセプトは、朱子が、儒学の正統経典として、確定させた「四書・五経」のどこかに出てくるコンセプトです。各人どのコンセプトが刺さるかは、その人によります。だから体制維持(保守)の思想にも体制打破(易姓革命)の思想にも、金儲けの思想にも、戦争の思想にも、平和の思想にも、いかようにもなります。一神教のような絶対者がいないからだと考えます。
以上、思い付きでした。小休止
伊藤睦月筆
【558】ブレイク:旧唐書より、新唐書推し、なのはどうやら私だけらしい。(2)
伊藤睦月です。続けます。
後唐の石敬塘、この男が問題だ。いろいろやらかした。
(1)石敬塘は、後唐の傭兵隊長だったが、後唐の皇帝と対立し、契丹の支援を得て、後唐を滅ぼして、後晋を建国した(936年)ここまではよくある話。
(2)石敬塘は、契丹帝国に対し、支援の見返りとして、「燕雲十六州」を割譲、正式な領土として、契丹帝国に譲渡した。これが大問題。
(3)燕雲十六州は、万里の長城の南側にある、いわば、中国固有の領土。これまで、長城の北側にしか領土をもっていなかった(事実上の占拠はあった)、野蛮国がついに中国に領土を持つ国になった、ということは、将来「禅譲」を受け、正式な中国王朝になる可能性が出てきた、ということだ。これは、一大事。契丹は中国国内に領土を持ったことで、国号を「遼(りょう)」と改めた。さあ、大変なことになった。
(4)この「燕雲十六州問題」は「中国版レコンキスタ(失地回復運動)」として、後の北宋、南宋帝国のトラウマ、となった。「水滸伝」も失地回復物語のスピンオフ作品である。レコンキスタはスペインでは成功したが、中国では大失敗した。
(5)北宋は失地回復を焦って、遼よりもっと凶暴な、「女真(金)」と同盟し、遼を滅ぼしたが、失地回復に失敗して、金に滅ぼされた。(靖難の変1126年)
(6)残存政権の南宋帝国も、今度はモンゴル帝国と同盟し、金を滅ぼしたが、南宋もまたモンゴル(元)帝国に滅ぼされた。(1279年)
(7)この失地回復運動の理論的根拠を与えたのが、南宋の朱熹が創始した「朱子学」である。だから朱子学は本来、戦闘的な政治思想である。後世の陽明学も朱子学からの派生形。本物の政治思想だから、これに殉じる人も中国や日本で大勢でてきた。朝鮮の状況はよく知らない。この石敬塘という、10世紀のオッサンのやらかしが、中国のみならず、東アジア、特に我が国にまで深刻な影響を与えている。そして今も、我々は「朱子学の呪い」に拘束されている。北方領土問題や尖閣問題も、根っこはここじゃないのか。
寄り道が過ぎた。小休止。
伊藤睦月筆
【557】レイク:旧唐書より、新唐書推し、なのはどうやら私だけらしい。
伊藤睦月です。軽めのネタをひとつ。
(1)現在、学会、歴史マニア問わず、「唐書」といえば、圧倒的に旧唐書、ということらしい。通説、少数説問わず、論文や一般書でも、旧唐書はよく引用されるが、新唐書は出てこない。残念なことだと思う。
(2)現在では、新旧両方とも、中国正史(24史)に入っているが、実は旧唐書は、18世紀まで「正史」ではなっかった。「野史」「稗史」(はいし)といって、「正史」の記述を補完する、あるいは「三国志演義」や「水滸伝」のような、虚実織り交ぜた物語扱いだった。
(3)それが、18世紀、清の乾隆帝という、清朝全盛期の皇帝によって、正史に追加され、「四庫全書」に加えられ、木版印刷で、一般にも頒布されるようになった。日本でいえば、8代将軍、徳川吉宗が引退したころだ。蘭書や漢書の輸入が緩和されたころで、そのころに、日本に入ってきた、と私はにらんでいる。
ちなみに、国学、水戸学、蘭学が盛んになりだしたのはこのころで、塙保己一「群書類従」も、結局は「四庫全書」の完成、日本への輸入の影響が大だったのではないか。
(4)中国正史のなかで、新旧があるのは、唐書だけだ。そこで、両書の成り立ちを紹介する。
(5)まず、旧唐書。946年成立。五代後晋の時代。唐帝国が滅亡したのが、907年。唐を滅ぼした朱全忠が建国した「後梁」、その次が「後唐」(923年建国)、その後唐を、936年に石敬唐(せきけいとう)という人物が、滅ぼして、「後晋」を建国した。ちなみに「五代」とは、後に北宋帝国の首都となった、開封とその周辺を拠点に興亡した軍閥政権のことで、後梁、後唐、後晋、後漢、後周、の5つの王朝のこと。私が、高校生の時は、「週刊晋唐本日完了」と覚えた(どうでもよいが)。開封は、いわゆる「中原」のど真ん中にあって、内陸水運、物産集積の要衝で、江戸時代の大阪や中世のシャンパーニュ地方のようなイメージ。北宋は軍事よりも、経済を重視して、開封に居座って、税関を設け、その税収で北宋帝国を維持した。また、開封以外の、要衝の地を拠点にした地方軍閥たちを「十国」といい、二つ合わせて「五代十国」という。最近の、世界史B(?)の教科書では、ここまで書かれていないことが多いので、トレビアを紹介した。
小休止
以上伊藤睦月筆