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Loginはこちら【580】【藤井風推し】イエス・キリストの聖言よりも、藤井風の歌詞の方がレベルが高い。
【藤井風推し】イエス・キリストの聖言よりも、藤井風の歌詞の方がレベルが高い、の件について。
かたせ2号です。
本題に入ります。
ルカによる福音書 第6章第38節に以下のコトバがある。
「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」
これよりも藤井風の歌詞の方が、「レベルが高い」ように思える。違うかな?
(歌詞から抜粋)
「与えられるものこそ、与えられたもの。ありがとうって胸をはろう。」
https://www.youtube.com/watch?v=goU1Ei8I8uk
「帰ろう」
<補足>
周囲の人たちに、藤井風の曲のお気に入りを聞いてみると、以下が上がったので、掲載しておきます。
さよならベイベ
https://www.youtube.com/watch?v=JB_bLPp3wCs
花
https://www.youtube.com/watch?v=SfPkl7lol7g
旅路
https://www.youtube.com/watch?v=29p8FvT_puU
以上
【579】お正月らしい投稿を発見した(2025年1月4日)
かたせ2号です。
お正月らしい投稿を発見した(2025年1月4日)、の件。
重たい掲示板での、お正月らしい、投稿を伊藤睦月さんからご教示いただきました。群馬のゆみこさんの投稿です。
(引用はじめ)
みなさんも、本ばかり読んでいないで、わたしのように世間に出て、年寄りの話とかを聞いてみてください。そして年寄りの知恵をもらい、互いの波動を交流させて、より良い人生を作っていきましょう。ネットなんか、誰も見てないから。
(引用終わり)
かたせ2号です。結論から言うと、伊藤睦月さんと同様、このご意見に賛成です。
ごもっとも。。。
やはり、自分と違う世代の人の話を聞くのはとても大切だと、前々から思っていたので。。
さて、年末年始は、なぜかワタシは、「連合赤軍事件 50年目の真相」(宝島社文庫、2020年12月刊)
という本を読了した。
ワタシは、1972年2月に起きた、この事件や背景を詳しく知ることなく、今まで過ごしてきました。
この事件については、その前後の連合赤軍派内部での「総括」というリンチ殺人の顛末(てんまつ)が報道され、それまで衰退傾向にあった学生運動が、一気に勢いを失ったとまでは知っていましたが。
上記の文庫本の26ページから引用します。
(引用開始)
(あさま)山荘は下から見上げてみるとまさに“要塞”のようで、機動隊が攻めあぐんだというのも、十分理解できる。
ある元メンバーは、「偶然なんだけど、ある意味一番いい場所に逃げ込んじゃったんだな。崖の上にあって、入口が小さい。あそこ以外の山荘だったら、絶対にあんなに事件は長期化していないよ」と語っていたが、それは確かであろう。
(引用終わり)
かたせ2号です。
こんな歴史の偶然を引き起こした「歴史の神」の正体が、神か悪魔か、あるいは両方による共同作業なのか、わたしには、当然ながら、わかりかねますが、
それはともかく、生中継での最高視聴率が89.7%だった(この記録はいまだ破られていない)、この事件の当時の「熱気」をワタシはまったく知らなかったわけです。
そういうのも、たとえば10歳以上年配の方に聞けば、実感をもってわかるはずです。そんなことを思い出しました。
数十年前から感じていたことですが、
今、世の中を見ていて問題点と思うのは、交際する世代の幅が狭いこと。あるいは、たいていの方が、企業に勤めているわけですが、一日八時間、あるいは十時間というものを拘束されている。これは、人間の人生においては、非常にもったいないことです。
ですから、いろんな世代の人と、いろんな経験を得た人と話ができるような、ま、そんな場が世の中にできたらと思うわけです。そして、いろんな人と話し、「いやあ、若いうちには辛いことも多いよ。私もそんなときがあったけれども、こうやって乗り越えたんだよ」と、そういうことが言えるような場がほしいです。
でも、どうやったらできるんでしょうかね? 難題です。
あと、読書論。ワタシも加藤周一の「読書術」(当時はカッパブックス。現在は、岩波現代文庫)を読みました。
ワタシのような50歳代後半になると、健康寿命が尽きるまで、平均で計算して、長く見積もって、あと20年弱というのがわかるので、以下は、ワタシのこころがけ(老年向け)です。ご参考ください。
(1)自分が興味を持っている分野の本をすべて読破する夢は、捨てる。
(2)自分が読む本について、最初から最後まで読むのを原則としない。拾い読みで満足する。
(3)本を読んだ冊数が多ければ、その人間が信頼に値するというのは間違い、と気づく。優秀な人間であっても、信頼に値する人間でない場合もありえる。別に、渡部昇一のことを言っているわけではない 笑い
名古屋名著読書会さんのポスト (2024年12月2日)
https://x.com/nagoyabookclub/status/1863546424694333494
「私の卒業論文を閲読してくださった渡部昇一教授の蔵書は15万冊。杉並区のご自宅は地下3階まである巨大な書庫を備えていた。「先生、これってバベルの図書館ですよね」と申し上げたら、「みんなにそう言われるんだよ」と愉快そうに笑われた。
先生が亡くなって七年。図書館はどうなっているだろう。」
かたせ2号です。バベルの塔のような図書館だったというのは、案外間違いでなかったかもしれない。
渡部昇一先生、残念でした。
以上が、2024年を終了した現時点にあたってのワタシの「所感」です。
群馬のゆみこさん、伊藤睦月さん、
どうもありがとうございました。
かたせ2号拝
以上
【578】日本古代史解明の補助線(2):邪馬台国は東遷していない(1)
伊藤睦月です。
私は、邪馬台国九州説(福岡・佐賀県内のどこか説)を採用しているが、九州説とセットの考えである「東遷説」はとらない。そこで、邪馬台国東遷説について、私見を述べる。
1 邪馬台国東遷説とは何か。(安本美典『卑弥呼の鏡が解く邪馬台国』)
1-(1)邪馬台国九州説において、主に東大系の文献史家(白鳥庫吉以降)によって、根強く支持。
1-(2)卑弥呼のことが、神話化し、伝説化したものが、天照大御神である。
1-(3)天照大神のいた「高天ヶ原」は、北部九州にあった邪馬台国の伝承化された姿
1-(4)西暦300年前後に、邪馬台国の後継勢力が東に移動して、大和朝廷をたてた。
伊藤睦月です。「邪馬台国東遷説」は、1-(1)と1-(4)がよく取り上げられる。
1-(4)の根拠としては、
1-(4)-(a) 北九州の地名と大和の地名は不思議な一致をしている。(白鳥庫吉から下條竜夫氏まで)
1-(4)-(b)数理統計学的年代論の立場からは、卑弥呼と天照大神とは、活躍年代が重なり、神武天皇の活躍年代は、西暦300年代となる。これは、大和朝廷のはじまりは、全ての天皇の実在を認めても、邪馬台国時代よりも後になる。(学会多数説は、第2代綏靖~第9代開化大王までを「欠史八代」とよび、実在しない、としている)
1-(4)-(c)当時の魏皇帝が、卑弥呼に与えたとされる「銅鏡100枚」のうち、2枚が、東国の尾張氏、海部氏の家で発見された。
1-(4)-(d)数理統計学の手法「パラレル年代推定法」によっても、天照大神と卑弥呼の時代が重なりあうことが判明した。
2 邪馬台国東遷説への疑問
2-(1)東遷説は、主に、1-(1)、1-(4)で論じられるが、1-(2)、1-(3)も合わせ考察する必要がある。
2-(2)地名一致は確かに「不思議」であるが、一致しているからと言って、九州から大和へ移動した、証左にはならない。逆に東から西に「西進」した可能性を考えることはできないのか(騎馬民族王朝征服説を採れば、東遷説は、成立しうるが、難民移動・拡散、はあっても、民族単位での組織だった移動はなかったものと考えるので、この説は採らない)
2-(2)-(a) この地名問題は、中国占星術(道教)の教義をも加味した考察が必要。平安遷都の時も、当時の陰陽師により、場所の選定が行われた。
2-(3)数理統計的手法による年代特定は、それ自体は妥当だとしても、「東遷」を証明したことにならない(井沢元彦氏は、同時期に発生した「皆既日食」をきっかけとして、九州→大和への移動(エクソダス)が始まったと推理しているが、それを裏付けるものはない)
伊藤睦月です。この邪馬台国東遷説は、邪馬台国九州説を論証する中で提唱されたものであり、結局は九州説VS畿内説の議論に帰着する。いわゆる歴史サイエンスの手法は魅力的であるが、後述するように、「トリセツをよく読み、用法、用量を、守って使用する必要」がある。
次回からは、私のファンタジーを披露させていただきます。
伊藤睦月拝
【577】ブレイク:働きながら本を読むコツ
伊藤睦月です。
副島系掲示板で、お正月らしい、投稿を見つけた。
(引用はじめ)
みなさんも、本ばかり読んでいないで、わたしのように世間に出て、年寄りの話とかを聞いてみてください。そして年寄りの知恵をもらい、互いの波動を交流させて、より良い人生を作っていきましょう。ネットなんか、誰も見てないから。
(引用終わり)
伊藤睦月です。結論から言うと、このご意見に賛成だ。ごもっとも。
ところで、私は、もうすぐ、66歳になる。「伊藤さん、あんた見かけは若い」と周りからおだてられてその気になってはいる。いるが、夜、風呂上りに鏡で映してみると、そこには、まごうかたなき「ご老人」がいる。明らかに、わけえもんに、話を聞いてもらう側だ。
そう考えたとき、はて、自分がわけえもんに何が話せるだろう。うーん。ない。しいて言えば、今、掲示板に投稿している歴史トレビアか、自分の闘病記くらいか。でも、こうやって文章で書いているから、まだましだが、こんな話を宴席で延々聞かされたら、たまったものではなかろう。下手すればハラスメントかも・・・
ところで、「本ばかり読んでないで」とあるが、今どきのわけえもんが本を読んでいるだろうか。私なんぞは、寺山修司の「書を捨てよ、街に出よ」を思い出してしまったが、50年以上も前の話だ。今どきの日本の就業者の82%がサラリーマンという時代。『なぜ、働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆)が評判になる時代だ。
著者は、京都大学を卒業して、今はやりのIT企業に就職したが、思うように本が読めないことがわかって、1年で辞めて、ポスドク生活をしているそうだ。正直うらやましいと思った。自分には絶対あり得ない「もう一つの人生」だけど。
そこで、著者が同書で勧める、「読書法」を紹介する。昔、加藤周一、渡辺昇一ほかの各種読書法に、おおいに触発され、結局挫折した「老人」でも、さすがに感心した。いくつかは、既に実行中。うほほい。
項目だけ引用するから、興味ある方は、本を買って(本を買う、これが最も肝要。限界はあるけど)詳細、読んでみてください。
(1)自分と趣味の合う読書アカウントをSNSでフォローする。
(2)iPADを買う。
(3)帰宅途中のカフェ読書を習慣化する。
(4)書店に行く。
(5)今まで読まなかったジャンルに手を出す。
(6)無理をしない
以上です。今どきの「わけえもん」よ。もっと本を読め!(個人的には、佐藤優の読書法がお勧めだが、ちょっとハードル高いかも)
以上、伊藤睦月拝
【576】日本古代史解明の補助線:倭国と大和国、いわゆる九州王朝説について
伊藤睦月です。日本書紀の内容を読み解くのに、避けて通れないイシューとして、九州王朝説、騎馬民族王朝征服説、邪馬台国東遷説、がある。騎馬民族王朝説は、私の見解(民族でなく難民だ)をすでに述べたので、九州王朝説、邪馬台国東遷説についてできるだけ簡潔に述べ、必要に応じて補足説明する。
1 九州王朝説とはなにか。
古田武彦(1926-2015)により、提唱された学説。その後、古田は、北部九州、出雲、吉備、畿内、越前、関東、東北にそれぞれ独立した王権が存在した、とする「多元論」を提唱した。 学会主流の見解ではなく、少数説扱い(古田によれば無視されてきた、とのこと)だが、生前は、松本清張などが支持し、邪馬台国論争など活発な論戦を展開し、いわゆる「古代史ブーム」をけん引した一人でもある。既に故人だが、彼の主著27冊を公刊している関西のミネルヴァ書房が事務局となって、彼の見解を支持するアマチュア歴史研究家の会、「古田史学の会」を結成している。学会にも、少数派ながら、支持者がいるようだ。その一人である、若井敏明(わかいとしあき:関西大学非常勤講師)氏の定義を紹介する(『謎の九州王権』2021年祥伝社新書)
1-(1)古田氏は、邪馬台国(氏の主張では、邪馬壱国:やまいちこく)が九州にあった。
1-(2)『三国志』の『魏書』東夷伝倭人の条(以下、『魏志倭人伝』)以降の中国史書にみえる倭には連続性が認められる。
1-(3)以上を主な根拠として、九州を領土とする王朝が弥生時代初期から七世紀末まで存在した、とする。
伊藤睦月です。若井氏は、この古田説に修正を加えている
1-(4)九州王朝ではなく、「九州王権」と呼称する。
1-(5)4世紀~5世紀、倭の五王(讃、珍、済、興、武)のころにはヤマト王権の支配化に入っている。
1-(6)中国史書の倭に連続性が感じられるのは、一時、倭との通交が途絶したことなのから、中国史書の編者がそのように解釈した結果だと思う。
1-(7)伊藤睦月です。私はこの若井説を採らない。古田説の「中国史書にみえる倭」は重要な指摘だと思う。当時の中華帝国からは、九州のことは見えていても、はるか瀬戸内海を横断した先の「ヤマト」までは見えてなかったろう。
1-(8)副島隆彦先生は、旧唐書倭国伝に登場する「倭国」を北部九州に存在した国、奴国や邪馬台国の末裔である国で663年の白村江の敗戦で滅亡した、とする。
1-(9)その後、国号を「日本」と改めた、畿内の「山門国」に吸収合併された、とする。「九州王朝」「大和王朝」という言葉を使わない。私、伊藤は、原則、副島説を妥当と考える。そして、「倭国」「大和国」という呼称を使っている。(奈良盆地の「山門」だけが、「大和」と改名したことから、他地域と区別するため)
2 古田武彦の方法論について
古田の良き論争相手であった、日本史学者の家永三郎(1913-2002:津田左右吉流のひとり)は、古田説を「精密な論証」と「主観的独断」が共存している学説、と評している。
2-(1)精密な論証
若井敏明が指摘しているように、古田の特徴は、中国史書、日本史書、関連文献の徹底的な読み込み、で ある。例えば、中国史書や文献には、「ヤマタイ国」と「台(旧字)」と表記したものは一つもなくすべて「壱(旧字)」と表記されていることから、すべからく「ヤマイチ国」と呼称すべき、などと指摘する。この読みの鋭さ、潔癖さは、古田の特徴である。
2-(2)主観的独断
さきの精密な論証をベースに、大胆に推理する。これには、ち密な文献学者であった家永三郎をもてこずらせた。
例えば、邪馬台国の場所について、魏志倭人伝を分析し、「博多湾周辺」と決めつけている。そして、学会が自説を採用しないのは、邪馬台国の場所を、朝倉とか吉野ケ里とか、博多湾から離れた場所を主張する、学会一派による「策謀」とする。また、古田の大胆な仮説は、考古学によって裏付けられつつある、とする。(古代出雲、法隆寺移転再建問題など)。もちろん「邪馬台国畿内説」は論外、トンデモ学説、とする。
伊藤睦月です。「古田史学の会」の主要メンバーと思われる人々は、(1)ベビーブーマー(いわゆる団塊の世代)が多い。(2)民間の技術系サラリーマン(退職者)が多い。という特徴がある、という印象を受ける。
いずれにせよ、3世紀とか4世紀には、いわゆる、ヤマト王権が全国制覇していた、という見解が妥当でないことは、文献の読み込みにとどまらず、考古学の研究成果、そしていわゆる、歴史サイエンスの成果が、証明しつつあることは間違いないようだ。そういう意味では、古田説に先見性があると認めざるを得ないだろう。だからといって、古田説にすべて盲従はしないが。
小休止、以上、伊藤睦月筆
【575】私説:日本書紀、古事記の正体(10)(574)古事記は、「ふるごとのメモランダム」である。(多分、私だけ?)の続きです。
伊藤睦月です。前回の続きから。
(5)古事記本文(上代特殊仮名遣い)は9世紀の仮名遣いであり、8世紀の文体でない(多人長の自作)という岡田英弘、鳥越憲三郎説を採用。
伊藤睦月です。以上を補足します。あくまで素人考えですが、内心自信があります。(酔ってませんよ!)
(6)日本書紀(ネイティブ漢文)は「読む書物」、古事記(変体漢文)は「聞く書物」、「読み聞かせる書物」、または、「演じる書物」。
(6)-2 当時は、まだ仮名文字は発明されていない。漢文を音読しても、お経を読み上げるのと同じ。意味が分からない。
(6)-3 変体漢文は、当時の日本語。音読には向いている。読んでわからなくても、音声で聞けば理解できる。だから古事記は読む本でなく、「聞く本」である。
(6)ー4 日本書記講莚のポイント(漢文)を抜き書きしたのが「日本紀私記」。これの講義シナリオが必要。それが「古事記」(ふるごとを書いたもの、つまりは、シナリオ、メモランダム)現代風に言えば「授業の手引き」である。
(7)内容構成は、日本書紀の記載が薄い、「神代編」を補足、充実(出雲神話など)
(8)「人代編」では、応神、継体から続く、舒明直系の正統性をアピール、それ以外の傍系を貶めるが、本(日本書紀)には書けないエピソードを、古事記にメモし、講義でしゃべった。
(9)講義を効果的にするため、散文だけでなく、文学的エピソード、要所要所に「歌(韻文)」を織り込んだ。後世の「歌物語」、「能楽」、「浄瑠璃」、「歌舞伎」、「オペラ」、「ミュージカル」といった、日本芸能の伝統、源流、となった。(現代の「スーパー歌舞伎 ヤマトタケル」(梅原猛作、脚本、先代市川猿之助演出)までつながる)
以上小休止、伊藤睦月筆。
【574】私説:日本書紀、古事記の正体(9)古事記は、「ふるごとのメモランダム」である。(多分、私だけ?
伊藤睦月です。【572】の続きです。
私、伊藤は古事記を、
(1)「日本紀私記(日本書紀講莚)の講義テキスト」の「授業の手引き」である。
(2)作成時期は812年、第2回講莚のとき。
(3)講師は、太安万侶の子孫、多人長。
(4)古事記序文は偽書だから、古事記作成、712年説は間違い、言い過ぎならあいまい。(古事記偽書説は賀茂
真淵、岡田英弘説を採用)
(5)古事記本文(上代特殊仮名遣い)は9世紀の仮名遣いであり、8世紀の文体でない(多人長
【573】ブレイク:歴史サイエンスのトリセツ(1)
伊藤睦月です。あけましておめでとうございます。
今年の9月8日は、全国各地で皆既日食がみられるそうだ。昨晩のEテレのカウントダウン番組で知った。
古代では、こういう天変地異がおこると、為政者に対する、天の怒り、警告、と考えられていて、
それを、観測、予測、意味を読み取る、できれば予防する、という研究(呪術)が盛んであった。日本では、「陰陽道」として体系化されたが、元は中国の占星術、道教がルーツだ。下條竜夫氏の『物理学者解き明かす、邪馬台国の謎』が面白い。
かつて、石原慎太郎は、東日本大震災を指して、「天鑓(てんけん)」と呼んで、被害者に対して、「天罰がくだった」とは何事か、とメディアからたたかれた。しかし、石原にとっては心外だったろう。民に対する天罰じゃなくて、為政者(当時の管民主党政権)に対する、天意(批判、警告)が下されたのだ。それを指摘して何が悪い、ということだ。でも、メディア、ひいては、国民一般には、そんな教養はないから、通じなかった。教養のギャップの問題、として片づけられてよいものではない。今でも、こういう古い知識が、日本人に無意識に刷り込まれているとしたら、これを意識下に置く、つまり知識として持っておく、というのは、意外と大事なことではないかと思う。
2000年代にはいって、もっと言えば、2010年以降、歴史研究、特に古代史分野において、新しい手法で、研究を進展させる、ことが、トレンドになりつつある。
学会でも世代交代が進み、寛容度が高まっているのかもしれない。時間かかりすぎだとは思うが。
歴史学には、大きくは、文献学と考古学があるが、数理統計学、天文学、地質学、土木学、建築学、気象学、物理学、化学、生物学、農学、水産学、冶金学、航海学、遺伝子工学、放射線学などの手法から得られた知見で、従来の定説に修正を迫ってきている。考古学分野において著しい。またこれらの分野を専門とする人たちが、日本古代史研究に参入してきている。(下條氏をはじめとする、副島先生の理系のお弟子さんたちもその流れのなかにいる)彼らは、査読付きの英語論文も参照する。もうここまで来ている。
伊藤睦月です。以上こういった、従来セオリー以外のやりかたを「歴史サイエンス」と呼ぶことにする。
そして、これらの動きについて、私のわかる範囲で、紹介しようと思う。もとより、理数ダメ、英語ダメダメの典型的な「偏差値50の私立文系」人間なので、間違い、不適切なものがある、ありまくりだと思う。どうぞご指摘ください。できるだけぼろがでないように、頑張ります・・・(冷や汗)
それでは、今年もよろしくお願いいたします。
伊藤睦月拝
【572】私説:日本書紀、古事記の正体(8)一応のまとめ(日本書紀編)
伊藤睦月です。本日は、2024年12月30日5時14分です。
日本書記の正体、について、ここで一応まとめます。
(1)日本書紀は、ネイティブ漢文で書かれているが、同書の信頼性、権威を高めるためであり、日本書紀自体は、中国側向けではなく、国内の官人向けに書かれた歴史書である。
(2)日本書紀は、大和のアマ氏の王権の正統性、なかでも、舒明直系だけが、天皇位を引き継げることを、他の傍系や、有力豪族の末裔たちに、アピールするために編纂された歴史書である。
(2)-2 日本書紀完成の翌年、721年に、当時の官人全員を対象に、内容のレクチャー(日本書紀講莚)を実施した。
(2)-3 舒明直系に逆らうと、どうなるかを警告するエピソードをふんだんに盛り込んだ。
(3)平安時代に入り、大和のアマ氏の直系の王権が確立すると、今度は藤原氏の正統性をアピールするため、藤原の書として、利用された。
(3)-2 810年、藤原薬子の変により、舒明直系の威信が低下するのを防ぐため、812年に、日本書紀講莚を再開した。
(3)-3 その後は、藤原氏の威信が揺らぐような政治的事件があるたびに、講莚が繰り返される。そして、藤原摂関家の覇権獲得が進んでいく。
例:843年第3回:承和の変(839年)の翌年開催
878年第4回:応天門の変(866年)の12年後、下総俘囚の乱(875年)の3年後
904年第5回:菅原道真の太宰府左遷(901年)の3年後。
936年第6回:平将門、藤原純友の反乱(935-941年)の渦中
965年第7回:この時期、藤原摂関家の全盛期に入る。安和の変(969年)があったが、藤原摂関家の覇
権は揺るがず、それ以降は、開催されなくなった。
(3)-4 伊藤睦月です。上記はこじつけっぽいところもあるが、大筋では該当している、と考えている。
(4)大和のアマ氏と中華帝国は、対等な関係にある、というフィクションを、官人たちに、アピールするための歴史書である。
(5)以上のことを、官人たちに刷り込むため、対等関係でないことがわかる史実を記載せず、中国側に知られると困る、「不都合な史実」もあえて掲載した。
(5)-1 対等関係でないことがわかるので日本書紀に記載されなかった史実
例:漢委奴国王、親魏倭王、征東大将軍(倭の五王)らの朝貢、冊封記事
(5)-2 中国側に知られるとまずいが、「対等であること」をアピールするための、エピソード。(国内では、
武勇伝になる)
例:天皇号の表記、遣隋使での無礼な挨拶、隋国書の紛失、乙巳の変(親新羅派=新唐派要人の暗殺など)
及び白村江の戦いの共同謀議(倭国が首謀者であることがバレバレ)、歴代倭王の不適切行為(不倫、
近親相姦、暗殺、残虐行為など、有徳性を疑わせる行為)
(6)さらに万が一中国側にばれたときのアリバイ工作のため、上記「不都合な事実」の大半を、白村江で滅んだ倭
国の仕業とし、すでに滅んだ倭国のアマ氏の系譜を「傍系」として、大和のアマ氏の系譜に挿入した。悪いこ
とはすべて、倭国がやりました。大和のアマ氏は、倭国のアマ氏とは、「別種」です、と説明するためだ。
(6)-2 これらは、私伊藤の完全なるファンタジーで、立論が不十分なことは、自覚している。今後の課題だ。
しかし、ありそうな話だと、内心自信がある。今後、適宜補足していく。次は、古事記について、自論を述べる。
以上、伊藤睦月筆
【571】私説:日本書紀、古事記の正体(7)白村江から壬申の乱へ。そして日本書紀の完成。
伊藤睦月です。続きです。
663年の白村江の敗戦の前後の時期における、天武(大海人皇子)と藤原鎌足(余豊璋)の動向がよくわからない。天智(中大兄皇子)は、天武の妻妾を朝倉宮まで連れて行っているから、これを人質(関裕二説)と考えれば、天武は、飛鳥に残ったと考えられる。日本書紀にはその間、何も記事がないが、将来のことを考えて、単に記載すべき事項がなかったためと想像している。ただし、現地にスパイを送り込んで、人質の安否と天智周辺の動向を監視していた可能性はある。
(2)この戦いは、唐正規軍対百済残党プラス倭国傭兵隊との戦いで、武備と用兵術に勝る唐軍の圧勝だった。新羅軍は、将校団のほか参加していないし、唐軍には、百済正規軍(元百済皇太子軍)が参加していたので、歴史教科書記載の「唐・新羅連合軍VS[日本・百済連合軍」という構図は間違い。百済は660年に滅亡しており、倭国が、残党たちに、亡命王子の余豊璋と援軍を送り込んで戦わせた。余豊璋は、倭国の傀儡であろう。余には百済軍を統率する力量がなく、実際は倭国軍単独で、唐軍とぶつかり、全滅した。副島隆彦先生は、これでもって、九州北部の伝統ある「倭国」は、滅亡した、とする。中国側に記録には、百済軍の固有名詞は記載されても、倭国軍は、「倭人」とか「倭軍」と記するのみである。日本書紀には、固有名詞の記載が結構あるのと好対照である。
(3)敗戦の報に接した天智は、朝倉宮を脱出して、飛鳥に戻り、防備を固め、近江京で「天智天皇」に即位した。通常、負け戦で逃げ帰れば、その者の威信が低下し、政権交代がおこりやすくなる。詳細が天武のもとに入る前に、即位して、直系の地位を確保したかったのかもしれない。それにしても、行動が早すぎる。先を越された天武の心中いかばかりか。万葉集には、宴席で、酒に酔った天武が手槍を床に突き刺したり、元カノの額田王に、今カノの天智の目の前でちょっかいを出して挑発したり、といった「奇行」が伝えられている。
(4)舒明直系を決める決勝戦は、天智の死の直後、672年に、今度は先手をとった、天武の圧勝で終わった。大友皇子は自殺した。天武は近江京から、飛鳥浄御原京に移って「天武天皇」に即位した。ここで、舒明直系は、天武で決まった。
(5)679年、天武と持統は、天武直系の皇子と天智直系の皇子たちを集め、後継者を天武と持統の子、草壁皇子とすることに、同意させ、「吉野盟約」を結んだ。盟約の対象者は、天武の直系のほか、天智の直系も参加した。大友皇子の直系は外された。天智の傍系となった。これで、草壁皇子の系統だけが、天武、ひいては、「舒明の直系」となった。
(6)681年、吉野盟約の2年後に天武天皇は、10数人の官人からなる、「日本書紀編纂委員会」を結成し、史料の取捨選択、天武の意向に沿った、「正しい歴史書」の作成を命じた。
(7)686年、天武天皇が死に、皇后が「持統天皇」として即位した。
(8)697年、持統が死に、草壁皇子の子が即位し、文武天皇となった。
(9)720年、日本書記が完成した。翌年、721年に、官人たち全員にお披露目し、第1回目の内容レクチャー(日本書紀講莚)が行われた。
小休止、以上、伊藤睦月筆。