ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
会員番号2054 投稿日:2024/12/01 10:51

【507】ブレイク:邪馬台国は江南文化圏にあった(【504】のご返信)

2054です。伊藤氏は今年4月以降に本格的に文献を読み込まれているのですね、もちろん「上には上」がいますから、精通している人は世に多くいらっしゃると思いますが、古代史の学会全般を見渡している方はあまりいないと思います。
精力的な投稿で気力が充実しているようにお見受けしています。「病は気から」で、古代史の研究活動が病気を遠ざけ、退散させることを願っています(病気とは言え、お仕事を休んで文献を読み込むなどは、少々羨ましい・・・と思ってしまいますが)。
伊藤氏は『古代倭王の正体』(祥伝社新書)を入手されているとのこと。そして邪馬台国が奄美大島にあったことに首肯されるとのこと。この本の主張の最重要点に関連していると思います。さすが、伊藤氏は鋭いですよね。
小林恵子は「邪馬台国が江南文化圏にあり、数千年前から海洋貿易国家だった点」をはっきりさせたかったのだろうと私は推察しています。
(引用はじめ、前掲書p9~10)
今まで自分でも漠然としていて整理がつかなかった紀元前から直後にかけての邪馬台国の真相に力点をおいた。邪馬台国については新しい知見があり、どうしても書き残しておきたいと思っている。
(引用終わり)
2054です。エジプトの太陽神信仰が邪馬台国に何らかの形で伝わり、天照大神につながったことや、絹や蚕の原産地が奄美諸島にある可能性も指摘してきます。これらは以前の著作には見られない点です。
これらの点については、その根拠となる文献や資料を見つけられないので、ご存じの方には是非教えていただきたいころです。仮に数千年前からの人的交流が認められれば、日本の古代史全般が書き換えられることになりますので、非常にダイナミックな見解です。将来的にはこの点の解明が進むのでしょうが、解明するのは日本の古代学者ではなく、たぶん、海外の研究者になるのでしょう(勝手な憶測ですが)。

伊藤 投稿日:2024/12/01 08:19

【506】【505】景初四年は偽の年号(【409】への返信:その3):この問題は、政治的な意味でややこしい。

 伊藤睦月です。2054さん、ち密な投稿、ありがとうございます。励みになります。ややこしくなるので、正確な引用の指摘は避け、簡便に私見を述べます。

(1)「三角縁神獣鏡」の取り扱いについては、1920年代から考古学上の議論になっていますが、日本歴史学会では、いわゆる「邪馬台国論争」(畿内説か九州説)に絡んで、沼にはまってきた。

(2)1920年代の日本人考古学者は、「魏鏡説」を主張し、1970年代までには、定説化して、「畿内説」の有力な根拠の一つとされてきた。「九州説」にたつ、東大系の考古学者のなかには、疑義を挟む者もいたが、学会主流にはならなかった。

(3)1970年代に入ると状況が変化する。日中国交正常化に伴い、中国本土の考古学者と交流が始まると、彼らは、「魏鏡説」を全否定した。三角縁神獣鏡は、中国国内の主要な遺跡からは、1枚も出土しておらず、日本に渡来した、長江周辺の職人が、日本国内で製造したもの。だから、魏志倭人伝で、卑弥呼にプレゼントされた「銅鏡50枚」ではない。このことは、中国の学会では定説になっていること。

(4)年号についても、改元のあったことを知らない、中国人職人が、たまたま作ったのが残ったのだろう。中国では1枚も見つからず、日本で大量に見つかっているのは、その証左である、と。

(5)この中国からの「援軍」は、「九州説」論者を勢い付けたが、反論も多く、学会内では、決着がつかず、2011年代に、箸墓古墳の、考古学的分析(炭素14年代測定法)による出現年代の判明などで、一応「畿内説」に決まりかけたが、2020年代に同じ考古学者からの有力な反論もあって、事態は「沼」化している。

(6)以上を踏まえて、福永伸哉(大阪大学教授)は、この「三角縁神獣鏡」の取り扱いについは、次のようにまとめている。

(引用開始)

(この三角縁神獣鏡は、国内で)現在約600枚の出土が確認されており、このうち、四分の三が中国鏡、四分の一がそれを模倣して列島内で制作された鏡とみるのが有力な説であるが、製作地をめぐっては、全てを列島製、全てを中国製と考える説もある。

(引用終わり:福永伸哉『三角縁神獣鏡とヤマト政権の形成』設楽博己(東京大学名誉教授)編日本史の現在1考古)

 伊藤睦月です。このまとめ、いかにも「日本的」でしょう?この『日本史の現在』シリーズは山川高校日本史教科書レベルの論点の学会での最新(2023年現在)現状と展望をまとめたもので、便利です。

 伊藤睦月です。小林恵子氏のように、年号問題を正面から取り上げているものはないように思います。『晋書』については、日本史学会の学者たちは知らなかったわけでなく、台与の再朝貢の記事のみに注目し、「銅鏡問題」は魏志倭人伝を議論の対象にしてきた、と考えられます。

 いずれにしても、この問題は、文献学ではなく、考古学の領域であり、これについては、「国内鏡」で決着がつきそうな印象ですが、副島先生が示唆されているように、政治的に阻む動きもあるようで、また、そもそも、同じ文献学といっても、「日本史学会」と「東洋史学会」とでは、見方が微妙に違っているようなので、注意が必要です。

 なお、「邪馬台国東遷説」「騎馬民族征服説」も絡んできますが、話がややこしくなるので、これについては、別に論じます。

以上、伊藤睦月筆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会員番号2054 投稿日:2024/11/30 17:59

【505】景初四年は偽の年号(【409】への返信:その3)

2054です。前回の続きで、晋書の無視について説明したいと思います。その傍証として「景初四年は存在するのか問題」を提示します。

京都府福知山市にある古墳から出土された三角縁神獣鏡には「景初四年」銘があります。日本史学会では、「景初三年の次は正始元年で、景初四年は存在しない年号だ」とするのが定説のようで、この鏡は「偽の年号」で作ったことになります。そのため、これは魏本国での制作ではないと解釈するようです。
この鏡の製作地についてはおくとして、年号については、小林恵子は、「景初四年は存在する」と晋書をもって、さらっと説明しています。

(『記紀史学への挑戦状』p67~68、現代思潮新社:引用はじめ)
『晉書』を読まない日本史の先生
小林 (魏志倭人伝は)あれはもう隅から隅まで見ているんですね。ですけれども、三国の時代が終わって、265年に晋が建国されますね。その翌年の266年に、東倭、東の倭の国が朝貢したと、「晋書」 に出ているんですね。「冊府元亀』(朝貢一)では265(泰始元)年となっています。邪馬台国から倭の五王にかけての非常に重大な時期なんです、この晋のときはね。
井沢 そうですね、はい。
小林 それを読んでいらっしゃらない。読まずに、東倭の朝貢を否定する。実際に「晋書」(志 天文・中)を見てください。景初四年というのはあるんですよ。景初四年という年は、日本の学説ではないことになっているから、あれは僻地にいる日本人が、倭の人間が考え出した幻の年号と年だと。
井沢 はい。
小林 というようなことをいわれていますけれども、それは「三国志」の「魏書」ばっかり見ているとそうなるんで、景初というのは、魏の年号で、景初三年が239年。240年は正始元年になるんです。だから景初四年はないというのが定説です。ですけれども、景初元年に、三月を四月にして暦を変更しているんです。結局、景初三年は239年の十一月まで、そうすると239年の十二月は景初四年になるわけです。景初四年は中国の史料じゃないから信用できないなんてずっといわれつづけて、今もいわれてますけどね。その重大な時期の『晋書』を日本史の先生が、読まないから、こういうことになるんです。
(引用おわり)

2054です。暦の改定で「1か月だけ」の年があるとのこと。上記書籍には239年とありますが、正しくは238年12月を正月としたというのが正しいように思われます。

魏の明帝は239年1月1日に死去していますが、魏書の明帝紀の注釈にも「数えで34だが、前年の12月を正月とするので、35といえなくもない」と記載されていますから、238年12月を正月とすることで、正月を迎えた数だけ年を取るということで、数えで35といえるからです(小林説でも後年、そのように説を変更しているようです)。ただ、238年でも239年でもどちらにしても景初三年と正始元年の間には「景初四年」があることになります。

上記引用の著作は1998年出版で、30年近く経過した現在、学会村がいまだに「景初四年は存在しない」としているのかどうかは知りません。少なくとも「中国の史書にないから存在しないのだ」と述べているなら、晉書を知らないということになります。それとも「晉書」は正史だけどレベルが低いからダメ、とでも言い出すのかもしれません(学会の全体像を私は知りませんので単なる想像です。もし、ご存じのようでしたら伊藤氏にご教示いただければとも思います)。伊藤氏の方が古代史全般について遥かに知識をお持ちだと思いますので。
伊藤氏の疑問提示【409】については、まだまだ回答が不足していると思いますので、続きは後日投稿したいと思います。疑問を提示していただいた点から出発して、少しでも有意義な考察につなげられればと思っています。伊藤氏に「長い」と言いながら、私も長くなってしまい恐縮です。次回は「YOUは何しに魏にきたの?」(ツボに入ったので、使わせていただきます)について考察します。

伊藤 投稿日:2024/11/30 17:28

【504】【503】捨て置かれている晋書(【409】への返信:その2)について(ちょっと、照れますが・・・)

伊藤睦月です。2054様、素敵なレス、ありがとうございます。私も勉強してみます。

(1) ところで、私のことを、評価していただき、大変恐縮しております。実は、私の投稿の元ネタはすべて、今年4月以降のものです。すでに他の掲示板(医療掲示板)等にも書き始めていますが、入退院騒ぎで、職場を休んでいる間に、守谷健二氏の投稿を見つけ、それを追いかける形で文献を入手し、読み、考え、投稿し、現在に至っております。だから、「精通している」と言われると、正直戸惑います。私は日本古代史に関しては、「ほんのニワカ」です。この分野をライフワークにしている研究者や歴史マニアの方々に申し訳ないです。

(2)そして、多少とも生意気な投稿ができているのは、副島隆彦先生、小室直樹博士、山本七平などの読書体験と、「ユダヤ本」の執筆経験が自分の教養、思考の基礎として、残っているからだと思います。そういう意味では、守谷氏も、2054さんも私の「先達」であると、考えています。(これ本当)

(3)さて、小林恵子氏ですが、以前少し、ディすりましたが、撤回します。小林氏の「古代倭王の正体」や「聖徳太子の真相」を入手し、ざっと流し読みした程度の感想ですが、彼女は、江上波夫の系譜を継ぐ、「忠実な史料読み」だと思います。

(4)魏志倭人伝を、何も改変せずに、すなおにたどっていけば、邪馬台国は奄美大島にしかありえないし、江上説を忠実に追っていけば、歴代の倭王たちは、同時代の「騎馬民族の王たち」に比定(ひてい)せざるを得なくなります。私は小林説を支持するものではありませんが、その学問態度には、敬意をもたざるをえません。

(5)但し、江上は本来は、考古学がホームグランドです。その業績に対し、文化勲章をもらっています。彼の一見、「トンデモ」な見解も、当時の考古学の成果を踏まえた、誠実な思考の帰結だとみるべきでしょう。江上説への賛否は別として。また、後輩とも「ため口」を許す議論を好んだそうで、学会内にも賛否は別として、個人的なファンがかなりいたようです。それがかえって、この学説が生き残った原因の一つかとも思われます。

(6)小林恵子氏は「文献学」つまり「史料読み」が本職のようです。だからなんだと言われそうだが、小林説に接すると、江上説が大変堅実な学説に思えてしまいます。(あくまで個人の感想)

(7)と、ここで、「晋書」について、私の持っている知識を備忘録として記します。ここから私の探求が始まります。

(引用開始)『晋書(しんじょ)』は、帝紀10巻、志20巻、列伝70巻、載記30巻、合計130巻からなり、西晋4代・54年、東晋11代、120年間のほか、載記として5胡16国に関しても記している。

 編集の期間は唐の貞観20年(646年)から同22年(648)のわずか3年に倒らず、房玄齢、褚遂良、許敬宗、の3人が監修にあたり、そのほか18人が参画して執筆した。多くの人の手によることで、前後の矛盾や錯誤をはじめ、手落ちも指摘されているが、唐代以前に晋書20余種が消失・散逸しているだけに、貴重な文献である。

 しかも、西晋末から北方民族が中原に侵入して戦乱となり、五胡(匈奴、羯、鮮卑、氐、姜)16国につぐ、南朝・北朝の130余年にわたる、対立の時期だけに、その史料的価値は高い。なお、西晋初代の武帝の即位に対する邪馬台国からの遣使を最後に約百五十年間、中国と交流が絶えていたのは、中国の政情にもよったといえよう。

(引用終わり:鳥越憲三郎『倭人・倭国伝全釈 東アジアの中の古代日本』142頁、角川ソフィア文庫2020年、初出2004年中央公論社)

(8) 伊藤睦月です。鳥越憲三郎(1914-2007)は、学会主流かどうかはわかりませんが、岡田英弘博士の「古事記偽書説」や「吉備王国」(『倭国』中公新書)に関する見解は、鳥越の著作に全面的に依拠していることから、無視してよい存在ではないと、考えています。

2054さん、また、切磋琢磨していきましょう。

伊藤睦月拝

 

会員番号2054 投稿日:2024/11/30 14:41

【503】捨て置かれている晋書(【409】への返信:その2)

2054です。東倭がなぜ、これほどマイナーな扱いなのかを考察してみたいと思います。

伊藤氏は歴史の専門研究家ではないとのことでしたが、私から見ると、古代史について精通している御仁です。また一連の投稿を見るにつけ、古代史学会の議論を丹念に追われていることもうかがえます。その方でも晋書の該当部分についてご存じない、というのは、日本の古代史学会が「晋書」の無視していることを物語っているように思います。

小林恵子によると、東倭は唐突に出てくるので学会は「不審だとして捨て置いている」と述べています。『安史の乱と藤原仲麻呂の滅亡』(小林恵子・現代思潮新社p261)より引用します。
(引用はじめ)
新装版の最後にあたって私独自の古代史研究方法をお伝えしたい。 まず、第一に東アジア史は中国を中心にして、その歴史の推移がただちに列島に連動しているので、日本古代史を知るには、まず中国の歴史を知らなければならないのである。このことは太平洋戦争の敗戦直後の昭和二○年代から一般的にいわれていることだが、未だ実行されているとはいえない。
その理由は、おおむね日本史家は中国の史書に詳しくないからである。たとえば「三国史」の「魏書」倭人条や『宋書』の倭の五王についての論文はしばしば見かけるが、『晉書』にみえる東倭については唐突にでているので、不審だとして捨て置かれ、論及されていない。(中略)このような正史ではなくても倭および日本についての史料は中国に数多くあるが、日本史研究者が日本に関係しないと思うのか細かく検証しようとしない。
(引用終わり)

2054です。次の投稿では、晉書の無視についてもう少し考察を続けたいと思います。

会員番号2054 投稿日:2024/11/30 14:35

【502】東倭について(【409】への返信:その1)

2054です。伊藤氏の投稿(【409】「晋書」について)での質問・疑義点について回答していきたいと思います。今回は晋書にみえる「東倭」についてです。

東倭は邪馬台国が魏に使いを送った、まさに同時期に、日本列島から魏に使いを送っている国で、邪馬台国とは別の国です。邪馬台国は中学高校の教科書にも記載されていますが、東倭はまったく無視されています。
魏志倭人伝と晋書を合わせて読めば、西暦240年当時において、日本国内に「邪馬台国」のほかに「東倭」という有力な勢力があり、いずれも中国王朝から倭王の認定を受けていることが読み取れます。そしてその事実は、歴史学会で無視されています。中国正史に記載されているのに、です。

(伊藤氏の疑問提示)
「晋書にみえる東倭の国」は、「晋書・宣帝紀」と「冊府元亀」をその根拠としており、原文の該当部分を確認できていないので、正否は保留します。(中略)ここで突然、冊府元亀がでてくるけど、なんの論拠としているのだろうか。266年の使いなら、すでに「晋書」に書かれているのだから、2次史料である、冊府元亀を取り上げる意図がわからない。
(ここまで)

2054です。中国正史(晋書)に東倭が記載されているのは事実です。「晋書・宣帝紀」を提示します。和訳されているサイトを引用します。※原典の画像もあるので貼ります。

(引用はじめ)

正始元年(240年)春正月、東倭が複数の通訳を介して朝貢してきた。焉耆・危須等の諸国、弱水以南の地方、鮮卑の名王が、みな使者を遣わして来貢した。引用元:晋書 高祖宣帝懿紀 訳出担当 田中 愛子/辰田 淳一

http://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/01-1.html
(引用終わり)

2054です。正始元年は240年で、「魏志倭人伝」によると、帯方郡の太守の弓遵が使者を倭に派遣して詔書と宝物を渡している。倭王は感謝の返礼をしているとあるので、「晋書」と「魏志倭人伝」を合わせ読めば、この「倭王」は「東倭の王」であることになります。もし晋書が単なる誤りというのなら、後世の知識人は誤りを正すはず。しかし「冊府元亀」では「晋書」の記載をふまえています(補強証拠となります)。

したがって、「238年末までに邪馬台国は明帝より金印を仮綬された」「240年正月に東倭は帯方郡太守(弓遵)から詔書で倭王を仮綬された」ということになります。

中国正史に誤りがないとすれば、このような結論になります。しかし、歴史学会のスタンスは異なり、何かの間違いだろうと無視するのだそうです。

ここで東倭から、晋書に話題を変え、分けて投稿します(続く)。

伊藤 投稿日:2024/11/27 11:42

【501】属国日本史雑記帳(1)日本古代史研究がいまいちなのは、「方法論」議論が弱いからだ。安本美典の方法論にもっと注目すべきだ。

伊藤睦月です。

今回は、表題が、すべて語っているので・・・それでは芸がないので、少しぼやきます。

(1)ナチュラルサイエンスの分野では、「当たり前」なことかもしれないが、その研究を評価するにあたっては、「方法論」の吟味も重要らしい。日本の人文学(特に日本古代史)の分野で「方法論」そのものが、議論になることが少ない。日本史研究における、「方法論」の代表が「数理統計学」「歴史人口学」「遺伝子進化学」など。それらを駆使した文献上、考古上の研究成果も、ともすれば「目新しさ」のみに注目されているように思える。

(2)これが海外の研究者ともなれば、エマニュエル・トッド、ユバル・ノア・ハラリ、トマ・ピケティといった欧米第1線の学者たちは、ともすれば、そのユニークな見解に注目が集まりやすいが、彼らの「方法論」にももっと注目されてよい。トッドは、歴史人口学者の速水優を「自分の先生」とまで呼んでいる。速水の日本での弟子を公言しているのが「磯田道史」(国際日本文化センター教授)だが、最近はテレビ出演で忙しいのか、目立った業績がみられないようである。そのうち出てくることを期待しよう。

(3)例えば、今、ぼやきで、「宇治十帖」の作者は、紫式部ではない、(娘の大弐三位)だろう論が展開されているが、「 源氏物語」(本編44帖)と宇治十帖の文構造や語彙を、数理統計学の手法を用いて、比較分析し、「両者は別の人物により書かれたもの」という学説を、日本で初めて主張したのが、1960年代の大学院生だった、安本美典だ。

(4)もっとも、数理統計学は確率論なので、「大弐三位」だと特定するには至らなかったみたいだ(特定するにはデータ不足だったのだろう)が、安本説の出現は、源氏物語研究の画期(おおきなできごと)になったはず・・・実際はどうだったのだろう。欧米の学会だったら、安本説を中心に議論が進んでいただろう。

(5)津田左右吉(1873-1961)いえば、戦前の弾圧を堪えぬき、戦後、日本古代史の主流となっていたが、その方法論たる、文献批判学は、江戸後期の大阪の町人学者、山片蟠桃(やまがた ばんとう 1873-1821)の方法と成果を完コピしたもの、津田の『古事記及び日本書紀の新研究』は山片『夢の代』をそのまま無断で借用したもの、ということを関西の短大の教授が暴露している。(安本美典『新版卑弥呼の謎』講談社現代新書1988年 序 邪馬台国問題はなぜ解けない)

(5)伊藤睦月です。当時最先端の学説だった津田学説も実は、江戸時代の学説から一歩も進んでいない、ということだ。それは「方法論」が江戸時代と基本的に変わっていないからだ。これは、日本史関連だけにとどまらないだろう。

(6)ちなみに、山片や富永仲基(1715-1746)と同時代の欧米でも、山片や富永と同じような方法論が流行していて、「古代史や神話はすべて造作(後世のつくりもの:津田学説の基本テーゼである実証主義的な原典批判)」とされていた。それを打ち破ったのが、「シュリーマンのトロイ発掘」、「ソクラテスの弁明偽書説の否定」、などの新しい方法論にもとづく歴史調査研究だったそうだ(『同書』)

(7)同じ、日本人の歴史研究者でも、西洋史の研究家たちは、安本の取り組みに好意的だったそうで、林健太郎、村上堅太郎、田中美知太郎、といった当時の有名どころは、(林、村上は、私や副島先生が高校生時代にが使用した『山川詳説世界史』教科書の執筆者でもあった)安本説に好意的なコメントを寄せている。

(8)その一方で、日本史学者の井上光貞は、津田学説を評して、「主観的合理主義に貫かれている」と評していた。(井上センセイ、何をおっしゃりたかったのでしょう?)

(9)伊藤睦月です。私は山片や富永の学問水準が、当時の欧米の学問と同時並行的であった、素晴らしい、と持ちあげるために、本稿を書いているのではない。確かに彼らは「天才」だが、それとて19世紀の水準である。現在は21世紀である。現代の「方法論」でやりたいものだ。

(10)そういった観点からは、副島先生が「理系型知識人」の存在に注目し、彼らとのコンタクトを図っていたのは、僭越ながら、慧眼、というほかはない。その成果が、下條竜夫「物理学者が解き明かす」シリーズ(現在まで3冊でている)であろう。

(11)三冊目は魏志倭人伝と卑弥呼、といった日本古代史分野だ。下條氏は、安本美典にも言及されているが、彼の「方法論」にも注目してほしい。「邪馬台国東遷説」など、安本理論の成果の一つに過ぎない。

(12)安本の視野はもっと広いはずだ。そして、コテコテの文系人間の私では、学力不足で、そんな高みにはおそらくは、たどりつけないだろう。それでも、可能な限り、安本説にも目配りをきかせて、今後論じていくことにしたい、と思う。(また自分で自分のハードルを上げて、自分を追い込んでいる、われながら、懲りないやつだと思う。でも、これが私の「学問ごっこ」なので、仕方ない。)

(13)遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、わが身さへこそ揺るがるれ、

(14)もうしばらく、私の「学問ごっこ」に付き合ってもらいますよ(誰に向かって言ってんだか。めんどくさいやつだ。多重人格でもあるまいに。)

以上、伊藤睦月筆。

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/11/25 11:40

【500】私の頭脳で、「哲学談義」はどうも・・・そしてまたまた余計なことを言ってしまった。(大汗)・・陳謝)

 かたせ2号さんへ。素敵なレス、ありがとうございます。

 私の哲学知識は、「覇権アメ」から派生したもので、あの本に出てくる、哲学者やその著作(日本語訳が出ているのに限る・・・汗)を読んでみては挫折し、の繰り返しで、30年ほど経過してしまいました。現在65歳、これでも見かけは50台に見えると、若い子たちにおだてられ、鼻の下を伸ばしています・・・。

 私は西洋哲学は、大きくはプラトン系とアリストテレス系に分けられ、結局はそれに尽きる、と考えておりまして、(レオ・シュトラウスやコジューブの受け売り。しかも「覇権アメ」からの孫引き!トホホ)

 それ以後の学説に接しても、結局はどっち系なのよ、で終わっている始末です。それで、別に実生活に支障ありませんねえ。

 特にこの掲示板を見ている(かもしれない)若い人へ。まずは副島「覇権アメ」から、あの本に紹介している、文献から始めてみては。その場合、日本語訳でかまわないが、(自分はそれしか読めない・・・冷や汗)、原語じゃなくても、英訳版を読めば、日本語版より、理解しやすい、といった話はよく聞きます。

 少し、脱線しますが、大正~昭和にかけて活動した、正宗白鳥(まさむね はくちょう)という作家がおりました。彼は、日本古文の「源氏物語」を読んでさっぱり意味が分からなかったそうです。そこで、英語版(ウェーりー訳)を読んでやっと意味が分かったそうで、仲間の小説家たちにも、勧めたとか。

 だから、谷崎潤一郎や川端康成、永井荷風、横光利一、小林秀雄、といった戦前の作家たちで、英語が読める人たちは、みんなそうしたのでは。そして現代日本語を作り上げていったのでは、と想像しています。

 年寄りの妄想かもしれませんが・・・

 なお、英語訳としては、サイデンステッカー版もあって、日本語訳も出てたような。サイデンステッカーは、ドナルドキーンの同僚で、米軍の日本研究班にもいたそうな・・・(あくまでも私の記憶)

(追伸)守谷健二氏へ。

 もう片意地張るのは辞めて、こちらの掲示板にいらっしゃっては。「重たい掲示板」へのこだわりもわかりますが、あの掲示板は副島先生の独壇場で、多少の思いで投稿されても、質量的に圧倒的な「副島津波」にのまれて、氏の「卓見」もそれがあったということさえ、わからなくなると思いますよ。これはときどき「重たい掲示板」になんか興奮のあまり、投稿して自沈している方々にもいえることです。

 せっかく、「重掲」以外にもたくさんの掲示板を用意していただいているのだから、それらを活用しない手はないと思いますよ。

また、余計なことを言って嫌われたかな。

気に障ったらごめんなさい!

伊藤睦月拝

 

 

 

 

かたせ2号 投稿日:2024/11/24 10:33

【499】伊藤睦月さんへ

伊藤睦月さん

かたせ2号です。
どうもです。
お相手していただくとありがたいです。
私は50歳台後半の人間なので、こうやって書き連ねると、ただの
「じじい同士が自分の昔話(読書体験)に花を咲かせるだけ」(伊藤さん、失礼!)の展開になりますが、
それほどレベルの低い話が進んでいるわけでもないので、このままの感じで行きます。
まあ、いいか、ここは網走番外地「ふじむら掲示板」だし。

(1) カール・ポパーのご紹介ありがとうございます。カール・ポパーが、プラトンを非難しているのは知りませんでした。分析哲学と呼ばれる領域での論客で、「反証主義」を唱えているとは、ワタシもお勉強して、そこまでは知っています。そして分析哲学が主に「哲学と科学との境界線を考察する」、20世紀前半に勃興した比較的新しい活動であることも。ただし、ワタシは読めません。
自分が進むべき生き方を探求する上では学び取る必要が薄く、かつ、日本人の生活実感からかけ離れた思想領域には、時間をかけて勉強する気にはならないので。
分析哲学もこれに該当します。

(2) 佐々木毅さんは、副島隆彦先生が著書をご紹介されていたことから、名前は当然存じています。一冊、ワタシも本を持っています。「政治の精神」(岩波新書)。
途中まで読んでいてて、いいことを書いているとは思うのですが、この本を読んだ日本人が、自分の政治に行動を変える可能性があるのかを想像して、読めなくなってしまうのです。
書かれた内容と日本人の政治行動とのあまりの違いに、頭が勝手に絶望してしまうので。
日本人の政治行動とはなにか?
有名な経営コンサルタントの大前研一さんが、東京都知事選に立候補して落選したときのことを著書「大前研一敗戦記」(1995年11月刊)には、
街頭演説の最後に、奥さん(米国人)がフルートを弾いて終えると、「あのフルート、よかったよねえ」とそこばかり褒めてくる、といったエピソードがあり、それが強く印象に残っています。日本人の政治選択ってそんなものですから。日本国民の大部分が究極まで窮乏するのが先か、日本人の政治選択の様式が変わるの先か、これからどうなるのでしょうか?

(3) ソクラテスとプラトンの思想の違いは、「無知の知」の考えが、本来のソクラテスの思想で、「イデア説」「哲人国家説」がプラトンの思想だと、大きくは考えておけば、支障はないと思います。
また、今日のぼやき「ヨーロッパの王と大思想家たち本の後に続く問題(第3回・全3回) 2024年3月25日」にあった、副島隆彦先生記載の一文、
「西暦1100年代、1200年代は同じスコラ学者の中の戦いがすごかったんです。」
には目を見開かされた思いです。
副島先生ご記載の通り、バチカンの闇の奥には、プラトンの「イデア説」が蟠踞(「ばんきょ」。根をはってわだかまること。がんばって動かないこと)しています。
ですから、イエズス会というのは、「子羊たちに見せる顔」としては、たしかにイエス・キリストを崇拝していますが、本当はそうではなくて、本当はプラトンの「イデア説」の美しさに魅了されて、魂を売ってしまったひとたちなんだろうと思います。その醜悪な姿を、ドストエフスキーが活写し「カラマーゾフの兄弟」の中で告発したのでしょう、キリストの奇跡を否定しキリストを火あぶりにしようとする「大審問官」として。
そんなプラトンの愛弟子が「マルクス」と「ポルポト」。
これでいい世の中ができるわけがないでしょう。
以上、ワタシの勝手な極論ですので、聞き流してください。

バチカンの「署名の間」に、絵画「アテネの学堂」が掲げられているのが、世界の真実。

「幽霊の正体見たり 枯れ尾花」

(補足)
セートクアートランダムというブログから引用します。
https://seitokubi.exblog.jp/17627259/
(引用開始)
「署名の間」は神学、哲学、詩学、法学(正義)という概念を、壁画と、天井に描かれた場面や擬人像と対応させ、図式化した構成になっています。壁画《聖体の論議》と天井画《原罪》は神学、壁画《アテネの学堂》と天井画《天体の起動》は哲学、壁画《パルナッソス》と天井画《アポロンとマルシュアス》は詩学、壁画《正義の壁》と天井画《ソロモンの審判》は法学(正義)という対応関係です。
これはキリスト教と古代の新プラトン主義が結びつき、さらにキリスト教を超えたその時代の思想を部屋全体で体現しているという、壮大な構成です。ルネサンスの理想としている空間で、「署名の間」はまさにルネサンスの最高傑作と呼べるもので、当時も大評判を呼びました。
(引用終わり)

かたせ2号拝

伊藤 投稿日:2024/11/24 08:08

【498】かたせ2号さんの投稿は、昔の記憶を思い出させてくれます。ありがとう。

 伊藤睦月です。かたせ2号さんの投稿を一読して、思い出したことをいくつか。

(1)プラトンの「哲学王」をはじめとするエリート思想(ヒトラーを含む)を批判したものとしては、カール・ポパー(1902-1994)『開かれた社会とその敵』(1945年)があり、その

手法を用いて、現代政治史を回顧したものに、佐々木毅(1942-)の『プラトンの呪縛』があります。

(2)伊藤睦月です。ポパーの本は岩波文庫、佐々木の本は講談社学術文庫に入っているので、比較的手に入りやすいと思います。私は途中で挫折してほどなく、ブックオフにひきとってもらいました(苦笑)

(3)マルクスとポルポト(カンボジアの独裁者。「キリング・フィールド」という映画は副島先生の本にも出てきます)との関係ですが、むしろ毛沢東思想との関連を指摘する向きが多かったような。

(4)ソクラテスについても、ほとんどすべてが、プラトンの著作によっているので、ソクラテスの考えなのか、プラトンの考えなのか、よくわからない、というのが、現時点での感想です。

(5)篠原信氏の考えもまた、「祖述」されたものだとおもいますので、彼の考えより、彼の「種本」はなんだろう、と気にしてしまうのは、「アタシの悪いクセ。ウインク。(杉下右京)」ですね。

かたせ2号さん、いろんなことを思い出させてくれて、ありがとうございます。

以上、伊藤睦月拝