ふじむら掲示板
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<書誌事項> 『置文21』編集同人・編「回想の全共闘運動(副題)今語る学生叛乱の時代」彩流社、2011年、318ページ
<本書の内容> (版元のサイトより)
第1章 いかに顧みるか●視点と方法
1、導入─大学闘争を振り返ることの意義と意味 大石和雄
2、いま全共闘をどう扱うか?方法の問題 神津陽
3、学生運動と社会主義の結合としての全共闘運動 大石和雄
第2章 東京教育大●筑波移転闘争の記録
1、かつて教育大闘争があった〈16の断章〉 水沢千秋
2、全学闘と廃校と─東京教育大65~70年私史─ 前田浩志
第3章 慶應大●68年・69年バリスト闘争の記録
1、六八年・六九年─慶應大学バリスト闘争回想記 三森義道
第4章 日大●正義の百姓一揆の記録
1、思想性なき正義の百姓一揆 太郎良譲二
2、日大全共闘にとっての東大闘争共闘とは何だったのか 太郎良譲二
第5章 筆者座談会●全共闘運動を検証する
大石和雄、佐野正晴、太郎良譲二、前田浩志、三森義道
<私 見> 本書は、中央大学、東京教育大学(現・筑波大学)、慶応大学、日本大学と、各校の「校風」、「風土」または「学生気質」の違いに踏み込んだ点が、従来の類書と比べて異色である。
学生運動にも各校それぞれのスクール・カラーが反映することは、体験的に知ってはいたが。
さて、本書によって初めて知った驚天の知見が二つあった。
今となっては、恐らくごくごく一部の興味しか引かない話だと思うが、ここにご紹介したい。
1. 東大・安田講堂の攻防戦は「アッツ島の玉砕戦」だったという話
東大・安田講堂の攻防戦は1969年1月18日から19日にかけて行われた。戦術的には学生側のボロ負けだったが、マスコミには大きく取り上げられて、以降は「学生運動の殉教・受難」のシンボルみたいになった。
証言者は日大全共闘OBの太郎良譲二氏。以下が証言である。
(引用、始め)
(藤村注;安田講堂攻防戦の際、他大学の学生は後方霍乱のため「神田カルチェラタン闘争」を仕掛けた。)
出発の際、執行部メンバーから「今日の日大全共闘の役割は、御茶ノ水防衛である」と厳命された。中央大学中庭での集会を終えてデモに入ろうとすると外は機動隊が幾重にも取り囲んでいた。一時の投石戦の後、機動隊が靖国通り方向に後退し、御茶ノ水一体(原文ママ)は解放区カルチェラタンと化した。当然、その勢いで安田講堂陥落阻止の支援に向かうと思っていたら、再度「日大全共闘は、防衛に徹しろ」と指示が来た。御茶ノ水交番前でたむろしていると、他のセクト諸君が順天堂病院方向に進撃し、機動隊と対峙している様が遠目に見えた。しばらくして、本郷まで様子を見にいった行動隊の一人が「本郷まで機動隊はいない」と言い、「東大に向かおう」と提案した。しかし、執行部メンバーからまたまた「御茶ノ水橋を渡るな」との指示。(実はこの頃、機動隊は催涙弾を使い果たしていた。日大情報局による無線傍受で情報をつかんでいた)結局、午後七時頃までぶらぶらして学部バリ(藤村注;バリケード封鎖された学部棟のこと)に戻った。
翌一・一九においても、日大全共闘は「御茶ノ水防衛」とのことで、東大本郷に向かうことはなかった。夕方に「安田講堂陥落」との情報が入り、気が抜けたように学部バリに帰った記憶がある。
当然、皆から不満の声が漏れ始めた。「なぜ東大に向かわなかったのか」
(中略)
「なぜ東大に向かわなかったのか」のなぞは、一○年ほど前から解き明かされてきた。その切っ掛けは、日大情報局担当だった学友から当時の無線傍受記録の一部を耳にしたことにある。前記のように一八日の午後には東大攻防戦で催涙弾を使い果たし、無駄に催涙弾を使うなと指示が出ていた。御茶ノ水一体(原文ママ)が解放区になっているのに機動隊が規制に来ない理由が判明した。
また、当日の学生側指揮本部は全学連各セクト幹部が仕切っており、特に日大全共闘を東大に行かせまいとした。なぜなら安田講堂は一八日の午前中には陥落させる予定で、各セクトは全国からパクラレ要員を募り籠城させていた。安田講堂は日大全共闘がバリケードを補強強化したお蔭で予想外に陥落が遅れた。機動隊との戦闘になれた日大全共闘が安田講堂の機動隊と直接対峙すれば更に陥落が遅れ、下手をすれば安田講堂のバリ撤去が中止されると考えていたのだ。味方に敵がいたのである。
何の目的で画策したのか。マスコミで大きく取り上げられることで大衆の関心を引き、七○年安保闘争勝利の布石を打ったと耳にした。この件は、旧ブント幹部や日大全共闘幹部の口から同じ内容を聞いた。知らぬは○○ばかり也。当事者日大全共闘ばかりか、少なからずいた東大全共闘のノンセクト学生が利用されただけだったのか。(前掲書、249~251ページ)
(引用、終わり)
1943年5月29日、アリューシャン列島アッツ島で、帝国陸軍守備隊2,700名が全滅した。
元々はミッドウェー作戦の陽動のため占領したので、米軍に反攻されたら一溜りもないことは分かっていた。
そして実に、このアッツ島攻防戦こそが我が「玉砕戦」の第一号であり、このため戦死者たちはマスコミを通じて軍神と称えられ、「必勝報国」(早い話が、戦争に行って死んで来いということ)のシンボルとなった。
なお、隣接するキスカ島にいた陸海軍守備隊6,000名は、霧に紛れての撤退に成功している。
安田砦に立て籠もった学生たちは神風特攻隊、またはアラモの砦のつもりだったのだろうか。彼らはその結果に満足したのか。
2.東大全共闘の実態は、セクトの寄り合い所帯だったという話
同じく、日大全共闘OB太郎良譲二氏の証言である。
(引用、始め)
数年前に山本義隆氏(藤村注;元東大全共闘議長。左翼業界では有名な人)から聞いたことがある。彼は次のようなことを言っていました。
「東大全共闘は、党派同士が共に闘うもので、対日共ということで体制を固める必要があり、それで誰か中立的なやつを議長にしようということで自分が指名された。東大全共闘というのは全共闘ではないよ。なぜって、自分は学生ではなく、助手という学校側の人間だよ、それが議長だよ」と。
それで私は、一・一八~一九決戦では各セクトが各施設に陣取っていたことへの疑問が解けたんですよ。(前掲書、281ページ)
(引用、終わり)
私が未だバカタレ学生だったころ、「60年代末頃、東大駒場キャンパスには新旧左翼・全セクトの支部が出揃っていた」と聞いて、内心羨ましく思ったものである。選択肢は多いに越したことはない、さすが東大駒場だけのことはあると。
だが、「ノンセクトが全共闘の主導権を握れず、セクトに牛耳られてしまった」という所に、私は東大生の悲しさを感じる。
頭が良過ぎる人間というのは、ナニをするにしても理屈や損得勘定が先行してしまうからだ。だから、東大駒場がセクト支部の花盛りになるのである。
なまじ頭が良いために、なまじ自分の知的能力に自信があるために、「学生運動をするんだったら、まずはセクトの言い分を聞いてみなくっちゃ」と思う。クソ真面目な人間ほどそう思う。そして、それが躓きの石になるのである。時には頭でっかちが禍して、ハムレットみたいにニッチもサッチも行かなくなるのである。
バカタレはなんにも考えずにバカなことをしでかす。だから、バカほど怖いものはないのである。まさに魯迅の小編「賢人と馬鹿と奴隷」にある通りである。
ちなみに我が母校は、隣近所の2校とセットで「ホーチミン大学」と呼ばれ、世間の顰蹙を買っていたが、利口にもバカにも徹し切れなかったのが我が母校のダメな所だと、本書を通読して思った。
それにしても、当事者たちの回想を読んで、60年代の運動シーンは未だ随分と牧歌的だったんだなと思わずにはいられなかった。
70年代以降の新左翼は、ただの人殺し、またはギャング集団と代わらないではないかと言われたら私には返すべき言葉がない。
(以 上)
【26】高橋優「少年であれ」ほか
<高橋優・略歴> たかはし ゆう。歌手。男性。1983年生。秋田県出身。自称「今思ったことを今歌う、リアルタイム・シンガーソングライター」。
<山本幸治氏による紹介記事>
(藤村注;富野由悠季や宮崎駿といった「大御所」から見ると、最近のクリエイターたちが小粒に見えてしまうのは致し方ないことだ、と認めた上で、)
今この時代にとっての真ん中のテーマって何だろうと考えたとき、2つの曲が頭に浮かんだ。「素晴らしき日常」(高橋優)と「3331」(ナノウfeat.初音ミク)だ。
真正面から描くというよりは自分自身を相対化しているように見えるかもしれない。でも、ダイレクトに時代を歌っていると言えるだろう。
そして、そういうスタンスが今の真ん中なのだとしたら、大御所たちにも新しい創作意欲を持ってもらえるかもしれない。
(出典)「SPA!」 Vol.60 No.42 (2011.12.13) P101、山本幸治「アニメ定量分析」Vol.45、扶桑社
<事務所宛・ファンレター>
拝啓 高橋優様
藤村甲子園と申します。「SPA!」12月13日号、山本幸治氏の連載コラム「アニメ定量分析」で、貴台のお名前を初めて知りました。
そこで、You Tubeにアップされている音源を、片っ端からチェックしてみました。久しぶりに新鮮さを感じさせる才能に出会ったと思いました。
小生のこれまでの不明を恥じます。やはり、地上波テレビの歌番組をチェックしているだけでは、本当に新しいものを見逃してしまうんだなあと痛感しました。
小生は「少年であれ」が一番好きです。歌詞と曲のバランスがよく取れていると思います。貴台の「私小説的メッセージ・ソング」系統では、この曲が一番、完成度が高いと思います。ピアノとチェロのアレンジも良いと思いました。
「誰もいない台所」、「虹と記念日」、「靴紐」も好きです。これらは、誰が聴いても「いいな」と思えるだろう、素直なラブ・ソングスですね。
「現実という名の怪物と戦う者たち」、「こどものうた」は、曲のテンポが良いので好きになりました。そうか、こんなアゲアゲの曲も作れる人なんだと思いました。
貴台は、才能に幅のある作家だと思います。これからの人だと思います。まだまだ伸びて行く余地のある人だと思います。
ここ10年ほどはリズム全盛、ダンス全盛の時代でしたが、そろそろ音楽好きの聴衆に飽きられて、これからメロディ・メーカーたちの巻き返しが始まるのでしょうか。
早速、最寄のCDショップにアルバムを注文します。貴台の今後益々のご清栄をお祈りします。 敬具
<アルバム「リアルタイム・シンガーソングライター」感想>
藤村です。
アルバム聴いて思いました。
これはなんと、性急で生硬な「異議申し立て」系メッセージ・ソングの連発ではないか。まるで40数年前の全共闘のアジ演説みたいだ。
でも、それこそが高橋優の楽曲の魅力ナンデス。
高橋は現在27歳。こういった青臭さが許されるギリギリの年齢だと思います。
もしもの話、48歳の小生が、これと似たようなメッセージ・ソングをこしらえて人前でシャウトしようものなら、良くて「さんまのSUPERからくりTV」の「サラリーマン替え歌選手権」、ヘタすりゃただの「頭のおかしいデブ男」扱いです。
性急で生硬。これは決して短所ではありません。実にこれこそが青年の特権なのであります。
ああ、「青年」なんて言葉、久しぶりに使うなあ。
天は高橋優に、イケてる歌詞とイケてるメロディの「二物」を与えました。
でも惜しいかな、美声は与えませんでした。ダミ声ナンデス。
声の良し悪しも、もちろんサウンドの一部です。スーザン・ボイルみたいなタダのオバハンでも「天使の歌声」ひとつで成り上がったのに、実に実に残念なことです。
ルックスの方は、まあ、スガシカオ程度にはイケてると思うンデスが。
「負けるな、少年よ。」©高橋優
(以 上)
【25】突破マンガ「くすりポン吉」
<書誌事項> 伊東あきを・作「長篇マンガ くすりポン吉」1949年発行
<伊東あきを・略歴> 不明。「狼少年ケン」等の作者、伊東章夫と同一人物か否かも不明。
<情報源> 「SPA!」 Vol.60 No.42 (2011.12.13) P103、岩井道「マンガ極道」其の一四三、扶桑社
<岩井道・略歴> いわい みち。まんだらけ中野店副店長として多忙な日々を送る。まんだらけのサイト( http://www.mandarake.co.jp )にて、コラム「岩井の本棚」を連載中。独自の視点で注目マンガを紹介する。(上記SPA!による)
<私 見> 「くすりポン吉」は異色の時代劇マンガ、またはナンセンス・ギャグ・マンガである。
主人公はヒロポン中毒と思われる少年剣士。そのストーリーたるや、下記の如きである。
(1)主人公は、襲撃してきた強盗に「クスリ」をかけて無力化する。強盗はこの「まぼろし薬」によって幻覚症状を発し、そのまま昏倒してしまう。
(2)催眠強盗に遭って眠り込んでいる町の人たちを、主人公は覚醒剤で一人残らず起こしてあげる、
と言った、「喜劇新思想体系」(1972~4)時代の山上たつひこでもやらなかったような外道マンガなのである。
念のためにお断りしておくと、「喜劇新思想体系」は青年劇画である。対するに「くすりポン吉」は、どこからどう見ても子供向けのオモチャ漫画である。「あんみつ姫」や「轟先生」と同時期のマンガなのだ。
本作が刊行された1949年当時、ヒロポンは未だ合法ドラッグだったとは言え、余りにもアブナい内容を余りにもアッケラカンと描いているので、上記・紹介記事を読んで、小生はおかしくて大笑いしてしまった。この作者、気は確かか。
この時代、児童マンガに注がれる世間の目は殊の外キツかったと聞く。当時のわが国は、教養主義・善導主義の全盛時代だったのである。あの手塚治虫ですら、何度も不買運動の槍玉に挙げられているのである。
しかるに「くすりポン吉」たるや、「荒唐無稽」、「俗悪」、「子供の教育に良くない」どころの話ではない。ただひたすらアブナいのである。
しかもその絵柄が決してデンパ系ではなく、杉浦茂ばりのホノボノ系という所が何とも味わい深い。
本当は「SPA!」誌上の岩井道の図版入り記事をご紹介したいところなのである。是非とも最寄のコンビニでチェックしていただきたい。
小生が子供だった1970年代初頭は、価値紊乱・秩序破壊を意図したかのようなアナーキーなマンガが大挙して出現した時期であった。山上たつひこ「喜劇新思想体系」を横綱格として、小生は下記のような作品群を直ちに思い出す。
手塚治虫「やけっぱちのマリア」(1970)
ちばてつや「餓鬼」(1970)
谷岡ヤスジ「メッタメタ ガキ道講座」(1970~1)
赤塚不二夫「レッツラゴン」(1971~4)
石森章太郎「劇画 家畜人ヤプー」(1971)
永井豪「オモライくん」(1972)
ジョージ秋山「ゴミムシくん」(1972~3)
ところがどっこい「くすりポン吉」を前にすると、上記の傑作群が「学研の学習マンガ」みたいな、クソまじめだけが取り柄の退屈なマンガと思えてくる。
アナーキストと言うのは、実は意外と謹厳実直なカタブツが多いものである。「最初からオカシナ奴」の破壊力には、到底敵わないのだ。
「くすりポン吉」は珍本には違いないが、内容が内容だけに復刊は金輪際ないだろう。なお、本書はマンガ専門古書店「まんだらけ」に、現在1万2千円で出品されているとのことである。
「ならば、このオレが」と、ほんの一瞬だけ魔が差してしまったが、すぐに思い直した。
こんなものに1万2千円を払う余裕があるなら、それをそっくり共同募金でもした方がはるかに意味があるだろう。
(以 上)
【24】カエサルのものはカエサルに
<書誌事項> 2011年12月5日、読売新聞「解説」欄、「論点スペシャル・ヨーロッパの行方」
(インタビュー1)遠藤乾「統合の利、今も大きい」
(インタビュー2)橋爪大三郎「将来からの逆算、大切」
<遠藤乾・略歴> えんどう けん。1966年、東京都生まれ。北海道大教授。欧州委員会・専門調査員の経歴を持つ。専門は国際政治学・EU研究。編著に「ヨーロッパ統合史」「複数のヨーロッパ」など。(前記・読売による)
<私 見> 新聞で遠藤乾氏のEU論を読む。同氏の論により「補完性原理」なる言葉を初めて知った。
(引用、始め)
理念から見れば、EUには補完性原理という考えがある。
「より小さい単位が自らの目的を達成できる場合は、より大きな単位は介入してはならない」とする消極的原理と、「小さな単位が自らの目的を達成できない場合は、大きな単位が介入しなければならない」とする積極的原理からなる。
もともと軍隊の正規軍と予備軍の関係を指し、のちにキリスト教会の小教区と大教区の関係、市民社会と国家の関係に適用され、今は加盟国とEUの関係に応用されている。
(引用、終わり)
小生の理解では「補完性原理」とは、主権国家と欧州流個人主義が折り合って行くための屁理屈と思われる。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」というわけである。
私の見るところ「補完性原理」には、カエサルそのものを相対的・歴史的とみる姿勢は感じられない。これはゲスの勘繰りだが、「補完性原理」と「大きな政府」論は相性が良いのではなかろうか。
「補完性原理」の由来をたどると、元々はローマ法王が言い出したことらしい。マルクスやハイエクのような極論に走らなかったところは、さすがアッパレな政治家ぶりではある。
こうやってカエサルに「補完」されるのにウンザリした人々が、新大陸に渡って一旗あげるとリバータリアンになるのだろうか。「補完性原理」と「リバータリアン」を並べて検索してみたが、めぼしいものはヒットしなかった。先学のご教示を賜りたい。
ふと小生は、旧ソ連のスパイで御用作家、イリヤ・エレンブルグの一節を思い出した。あるアメリカ人実業家の問わず語りを書き留めたものである。
(引用、始め)
ふじむら掲示板[1398]人生意気に感じる話 投稿者:藤村甲子園 投稿日:2002/03/30(Sat) 16:45:20
(前 略)
<書誌事項>イリヤ・エレンブルグ「わが回想(副題)人間・歳月・生活」木村浩訳、全三巻、1853p、朝日新聞社、1968~69年(改訂新装版)
(中 略)
<「人生意気に感じる話」の前口上>
エレンブルグは1946年4月から数ヶ月、アメリカ、カナダを公費旅行している。(中 略)旅も終わりに近づき、乗り継ぎのため立ち寄ったニューヨーク州オールバニで、エレンブルグはとても印象的な体験をすることになる。以下に、エレンブルグ「わが回想」から該当部分を引用する。
<人生意気に感じる話>
私がオールバニでのこの晩を記憶に留めたのは、そこでバーの客の一人と突然、話し込んでしまったからであった。見たところ、その男は五十歳以下であった。彼の赤銅色の顔は汗で光っていた――その晩は暑かったのだ。彼は二年間ブリュッセルで暮らしたので、フランス語をよく話した。(中 略)
私は、彼がそのような不安な生活に疲れていないかどうか、たずねてみた。彼は軽蔑するような微笑を浮かべた――「私は、ベルギー人でもなく、フランス人でもなく、ロシア人でもありません。私はほんとうのアメリカ人ですよ。五月に私は五十四歳になりましたが、これは男ざかりの年齢です。私の頭はいろいろなアイデアでぎっしりです。私はまだ上にのぼっていけますよ」それから彼は理窟を並べはじめた――「私は何もロシア人に反感なぞもってはいませんよ。ロシア人はしっかり戦いましたからね。きっと彼らはりっぱなビジネスマンにちがいありません。しかし私は『タイムス』で、お国には個人の創意というものがない、自由競争がない、出世できるのは政治家と建設者だけで、他の者は労働し給料をもらうだけだ、という記事を読みました。これは世にも退屈な話です!もしも大不況(二十年代末の経済恐慌を彼はそうよんでいた)の際、おまえに相当の給料を出すが、それはおまえが州から州へ移らず、職を変えないという条件づきでだ、といわれたとしたら、私は自分で自分の命を絶ったことでしょう。あなたには、この気持ちがおわかりにならないでしょうね?もちろんですよ!私はブリュッセルで、人びとが平穏無事に暮らし、万一に備えて貯蓄し、退化していくさまを見ました。あそこでは、どの青年も精神的インポテントですよ・・・・・」(中 略)
私はある夜、旅行についての私の思いをメモし、そのメモの中でオールバニで出会った赤銅色のアメリカ人のことに戻った。(中 略)アメリカでは資本主義が、青春ではないにせよ、オールバニであの男がいったごとく『男ざかりの年齢』を送っているのだ。彼は偶然の冒険家ではなく、冒険主義的世界の生んだ人間なのである。彼が重んじているいっさいのものは、彼にとっては終わりかけているのでなく、はじまりかけているのだ。アメリカとは協定しなければならない――革命は、あそこでは近々数十年のうちにはおこらないだろうから。アメリカ人を抑制しなければならない。彼らは概して温和な人間だが、たいそう冒険的な連中だから・・・・」(「わが回想」第三巻、346p~349p)
(後 略)
(引用、終わり)
ところでこの「補完性原理」、元々個人主義の土壌がない日本国では、なんと民営化推進論者の旗印になっているらしい。これには恐れ入った。やれやれとんだサルどもである、もちろん小生も含めてだが。
(以 上)
【23】愛と死を見つめて(1/4)
<書誌事項> 猪俣津南雄『踏査報告 窮乏の農村』岩波文庫、1982年、P244。原著は1934年、改造社刊。
<私 見> Ⅰ.プロローグ
帯状疱疹で一週間、入院した。ヒマだから、ミコちゃんみたいに本ばかり読んでいた。
2011年10月8日(土)、猪俣津南雄『窮乏の農村』(岩波文庫)読了。思わぬ拾いものだった。
私はこれまで、昭和戦前期の日本の農村について、具体的で生き生きとしたイメージを与えてくれる本と出合ったことがなかった。
農業経済学は大枠の知識は与えてくれたが、そこから農民のナマの声は聞こえて来なかった。
民俗学はどうか。柳田国男は昔へ昔へと遡ることに興味が行ってしまう人であった。宮本常一が書き残した農村同時代史は、主に戦後以降を記述対象としたものである。
ならば文学はどうか。漱石・鴎外以来の日本近代文学は、もっぱら都市の風俗ばかりを描こうとしてきた(少数の例外を除いて)。
たとえば堀辰雄が描いた昭和戦前期の軽井沢は、あれはありのままの農村などではない。別荘地/サナトリウムという都市風俗の後景として登場する「まるでおフランスみたいな田園風景」の代用品にすぎない。
小林多喜二の農村プロレタリア小説なんて、読まなくたって何が書いてあるのか想像がつくようなシロモノだ。
猪俣津南雄『窮乏の農村』は、欠点も多いが、誠実で率直なルポルタージュである。
本書の序に「私の報告は、真実を伝えたい一念で書いた。誇張歪曲は極力避けた」(岩波文庫、P6。以下、引用は岩波文庫から)とある。まさにその通りの本だと思う。
昭和戦前期の日本の農村について、私は
「クラい、クラい、クラい、クラい、クラい、クラい、クラい。」 ああ、いやだ、いやだ、(サゲサゲ)
といった貧困なイメージしか持っていなかった。
具体的には、黒澤明のモノクロ映画「七人の侍」、あるいは白土三平の階級闘争マンガ「カムイ伝」みたいな、ドツボな感じ。
決してそうではなかったのである。確かに昭和戦前期の日本の農村は、貧しいは貧しい。
でも、生身の人間である。人間が生きていれば、そこに必ず喜怒哀楽がある。来る日も来る日も哀しみや怒りばかりで、喜びや楽しみの全く欠落している人生などというものがあるだろうか。もしあったら、過酷な農業労働に耐えて行ける筈がない。首をくくるか、さもなきゃ夜逃げでもした方がまだマシというものである。
人間がいるところには必ず喜怒哀楽がある。考えてみれば当り前のことである。
これまで私が、昭和戦前期の日本の農村のことを暗黒世界のようにイメージしていたのは、単に私の無知のせいだということがよく分かった。
(続く)
【22】愛と死を見つめて(2/4)
(承前)
Ⅱ.著者の人となり。および本書の時代背景について
ここから先、この一章は、少々ガマンしてお付き合いください。
『窮乏の農村』の著者、猪俣津南雄(1889~1942)は戦前に活躍したマルクス経済学者である。裕福な商家の生まれだが、実家は後に破産した。苦学の末、32歳で早稲田大学講師となるが、第一次共産党に入党して検挙された。以降は、講座派とも労農派とも一線を画す一匹狼的な論客として、そこそこ売れたらしい。彼の所説は当時のジャーナリズムから「イノマタイズム」と称されたそうだ。
さて昭和9年ごろ、日本の農民運動は第二のピークを迎えつつあったという。
運動の第一のピークは、大正末年ごろだった。これは中農下層および貧農上層を中心とした「モノ取り主義」的闘争で、一定の成果を勝ち取った途端に運動は沈滞し、村会議員に成り上がった運動指導者の中には、ダラ幹と化した者もいたという。
昭和5年、昭和恐慌はじまる。当時、日本の主要農産物は米と繭だった。
繭価(春まゆ)の推移を昭和元年を100とする指数でみると、昭和6年は33.2、昭和7年は27.4に下落した。
同じく米価指数の推移は、昭和元年を100とすると、昭和6年は49.2、昭和7年は56.3である。
当時、米穀統制法に基づく政府買い上げ米制度は既にあったが、朝鮮・台湾から入ってくる安価な米を流通規制しないなど、戦後の食糧管理制度に比べればチャチなシロモノであった。
本格的な食糧管理制度は戦争のおかげで整備された。これもまた、皮肉な話ではある。
恐慌は万人を苦しめる。だが、ワリを食うのはもっぱら下の方である。
昭和恐慌のおかげで、地主も中農も貧農上層も借金まみれになった。儲けたのは目端の利く商品ブローカーばかりである。
だが、貧農下層は借金まみれどころではない。なにしろ食べる米がない(自分で作った米は、前借金のカタに取上げられてしまうのである)。農村には日雇取りの仕事もなくなってしまった。都会に出ても、既に失業者で溢れ返っている。
かくして昭和9年ごろ、日本の農民運動は第二のピークを迎えた。今度は生活防衛闘争である。また、従来は何かと軽く見られ勝ちだった貧農下層が、運動の中で大きな部分を占めるようになってきた。
このように、農民運動の質が変化してきた。一方で状況は切迫している。ファシズムや農本主義右翼に吸引される農民も出てきた。「このままではいけない。何とかしなければ」という問題意識が、当時の農民運動の指導者層に共有されていたようである。
(引用、始め)
それに、こういう意見の人もあった。貧農の下層が黙って引き込んでいるのは、上層の者が組合支部を切り廻しているからだ、どこの村にも格とか席順とかいうものがあって、村の集まりには下の者は口を利かないしきたりになっている、その慣行が組合支部の集会や活動に際しても現われるのだ、下層の者は有能者でも自己の才能を隠そうとするほどだ、こんな姑息(こそく)な家長制的伝統を打破しなくては組合の本当の活動は出来るものでない、また組合においてはそれを打破することも決して不可能ではない、と。
右の意見は、自身も貧農の下層に属する人の意見であった。それだけに余計傾聴に価するものがある。(P221-222)
(引用、終わり)
昭和9年当時、猪俣津南雄は全国農民組合(全農)の顧問的立場にあった。運動方針転換のための基礎調査として、猪俣は全国2府16県の農村を踏査した。実質的な調査期間は2~3ヶ月を超えない程度と思われる(注)。その調査報告が本書である。本書の内容は全農の新方針にも影響を与えたとのことだが、時流には抗し切れず、結局、全農は昭和12年に壊滅した。
(注)調査期間推測の根拠は以下の通り。
1.昭和9年の「五月初旬に東京を立ち、」(P5)と、猪俣自身が書いている。
2.本調査の一部は、最初、雑誌『改造』の昭和9年7月号、8月号、および9月号に発表されている。
3.本書の序には「一九三四年九月」との日付がある。
1~3より、本書執筆の途上で調査旅行が継続していたとしても、調査期間は2~3ヶ月を超えない程度と推測した。
(続く)
【21】愛と死を見つめて(3/4)
(承前)
Ⅲ.『窮乏の農村』の見どころ
とにかくユーモラスなのである。著者は農村の悲惨さを訴えようとしているのだが、何だか笑ってしまうような話が多い。企まざるユーモアというべきか。
具体的に、二三引用する。
(引用、始め)
(藤村注;農家の娘さんたちは近隣の工場で働いて、親の家計を助けていたが、これも恐慌ですっかりダメになってしまった、という話の後で、)
この女工さんたちがお休みに着て歩く人絹物の派手な模様の一張羅(いっちょうら)がとかく地主たちの眼に止り、お前らのとこの娘にあんな着物を着せておいて年貢米をまけてくれもなかろうと言い立てれば、娘は娘で、こんな着物ぐらい着なければ嫁に貰ってくれ手もないと応酬するという話。―――
もっとも、こうした「女工哀史」の最新版を書きつつあるのは、信州や上州に限ったことではない。また養蚕農家に限ったことでもない。それはまず全国的なことだと言えるであろう。(P35)
(藤村注;当時の農民も、農業機械の導入には意欲的だった。零細農家にとって、高額な機械の購入はリスクが大きい事は明白なのに、なぜ誰もがそうしたがるのか。)
群馬県のある自作農の言ったことが代表的である。彼はこう言った、機械を使えば身体(からだ)が楽だし、仕事も早く切り上げられる、しかし経済的にはかえって余計苦しいし、仕事も粗末になりがちだ。
だが、身体が楽だ、そして明るいうちに切り上げられる、というそのことは、何といっても現代の農民には大きな魅力であるらしい。経済上のよしあしを詮議(せんぎ)しているいとまもないくらいこの魅力が大きく強いということこそ、あわただしい機械化普及の秘密の一部を語るかと思われる。(中 略)
石川県のある村で、私は、農民組合の『の』の字も知らぬ一群の農民たちがあげる火のような気焔(きえん)をきいた。熱して来ると彼らは、「身体にらくゥしている町の月給取り」を仇敵(かたき)のようにこきおろした。「あいつらァ、日曜だと吐(こ)いてェ、朝っぱらから炬燵(こたつ)べェへえってェ、蓄音機ィかけてェ・・・・・。」
それも一応無理はない。科学の進歩、産業技術の発展の現状をもってして、農民たちの身体を楽に出来ないはずはなかったのだ。(P50-51)
先頃、ある農業経済学者が群馬県へやってきて、大いに産業組合の利益を説いた。農民は産業組合によって資本家にも対抗してゆくことが出来る、第一に組合製糸がそれであるし、さらにまた各種の生産組合を作れば日用品の大部分も資本家から買わなくてすむようになる、というようなことを言って聞かせた。しかしそこに集まっていた若い者は笑って相手にならなかった。われわれにはあいにくと資本がない、腕と頭の力だけでは敵(かな)いっこない、先生も自分で二、三年小作でもやって御覧なさい、じきにわかります、と言ったので農業経済学者も一緒に笑ってしまった。そんな話もきいた。(P130)
(引用、終わり)
ここらへんのおおらかさが、猪俣津南雄の持ち味であるように思える。
表層的と言えば表層的だが、ものの見方がとても素直である。
少なくとも、「金持ちはキライだ」または「ブルジョア階級は人民大衆の不倶戴天の敵だ」といった類の「正しい階級意識」から出発している人ではないように思われた。
もちろん猪俣も、「世の中全部が社会主義になれば、何もかもがうまく行く筈だ」と考えてはいるようだ。実際、そういった意味のことを本書でも何度も繰り返している。こういった点においては猪俣もまた、在り来たりのアカの一人に過ぎないとは言える。
ただ、猪俣の人間観は、アカの理論家としてはちょっと変わっているように思える。
誰かを「諸悪の根源」、「悪の総元締め」または「戦争の親方」みたいなものに仕立て上げて、「***を打倒しさえすれば何もかもうまく行く」式の、単純きわまる善悪二元論に立っている人ではなさそうなのである。
(引用、始め)
(藤村注;当時の地主は、農民からの収奪強化のため、小作人から土地を取り上げることがよくあった。「ガタガタぬかすと、小作地を取り上げるぞ。他に耕作したがっている人間はいくらでもいるんだ」という訳である。という話に続けて、)
土地取上げの手段方法やからくりをいちいち書き立てていたら際限がない。(中 略)
青森県にはまた、多収穫の競争で一等賞を貰ったおかげで土地を取上げられたという小作人もいた。一反から前の二倍も三倍も米の取れるようになった土地、その土地から前同様の小作料を取って満足していることは、地主としては堪(た)えがたいことであったろう。(P198-199)
(引用、終わり)
この「地主としては堪えがたいことであったろう」という一言が、人間洞察として深いところまで届いていると私には思えた。
もちろん、この地主のやったことは理不尽きわまりない。農業経営者の取るべきリーダーシップという点から見ても、合理的な選択とは言いかねる。もしもの話、あなたの同僚のトップ営業マンが、突然、ヤキモチ焼きの社長にクビにされでもしたら、あなたはどんな気持ちがしますか?
だが、人間とはこういった理不尽、こういった不合理を敢えてやってしまう生き物なのである。そうする権力を持っていれば、誰だってそうする。もしも誰からも牽制されなければ、誰だってローマ皇帝ネロみたいになる。実際、「トップ営業マンが真っ先にリストラされてしまいました」程度のことは、巷間、どこの会社にでもある話なのである。私がそういうことをしないのは、私にはそういった権力がないからに過ぎない。
これが小林多喜二だったら、「この地主は卑劣な奴だ。これが搾取者の本質なのだ」とかナントカ、訳知り顔の倫理判断または価値判断にまで踏み込んでいたろう。
猪俣津南雄は「地主としては堪えがたいことであったろう」で止めた。ほんの少しの言い回しの違いだが、私はここに猪俣のフトコロの深さを感じる。公平さ、真実に対する忠誠心、または人間性に対する愛と言っても良い。
そもそも本書は、一体に、階級的憎悪(ルサンチマン、または貧乏人のヒガミ)の含有量が希薄なのである。これは左翼文献にしては珍しいことだ。そういうものは、ひた隠しに隠していても、自ずと現れずにはいないものなのだから。
猪俣は、ホントはとってもお育ちの良い「おぼっちゃまくん」だったのではなかろうか。
まあ、こういう気取りや飾り気のないところが、革マルみたいな、お高く留まっていて、切っても血も出ない公式主義者から、猪俣がアホ呼ばわりされるユエンなのだろうが。
(続く)
【20】愛と死を見つめて(4/4)
(承前)
Ⅵ.『窮乏の農村』の限界と、その意義
本書の成り立ちは、おそらくこんなところだろうと思われる。
「おい、ゴンベエさん、聞いたか。今度、東京から組合の偉い先生がやって来て、オラが村のことをあれこれ調べなさるんだとよ。」
「そうかいね、留吉さん。だったらひとつ、その先生のところまで出掛けて行って、オラっこのグチでも聞いてもらうべえ。」
このゴンベエさん、グチとは言え、アカの他人に向かって言うべき言葉を持っている人である。こういう人は少数派である。
さらに、自分の意見を世の中に向けて発表したい/発表すべきだという問題意識も持っている。そういう人はさらに少数派である。
さらに、忙しい労働時間を割いて、わざわざ東京から来た珍客を訪ねてみようかという意志の持ち主でもある。そういう人は、さらにさらに少数派である。
これは昔も今もそうだし、また洋の東西も問わない。もちろん、農民に限った話ではない。
つまり『窮乏の農村』という本は、当時の日本の農村の、最良もしくは最も意識が尖鋭な部分の意見のみを代表している可能性がある。もの言わぬ農民大衆のホンネは、本書の持つ射程距離の、さらにその先にある可能性がある。
これはもちろん、猪俣津南雄の洞察力不足のせいではない。彼は彼にできる最善を尽くした。これは聞き書きという方法そのものが持っている、宿命的な欠陥なのだ。
そもそも、「もの言わぬ」相手のホンネを、どうやって聞き取れば良いというのか。
察すれば良いだろう、こちらが勝手に想像すれば良いだろうというのは、当の相手から見れば大変無礼な振る舞いであり、ハタから見ればただの思い上がり、または傲慢である。
「もの言わぬ」相手のホンネを、「おまえのホンネはこうだ」と決めつける権利を持っているのは、ただ裁判所と税務署と公正取引委員会あるのみである。
では、みのもんたの身の上相談は、あれは無礼ではないのか?傲慢ではないのか?
あれは傲慢ではない。みのもんたは「お譲さん、アンタねぇ、一体ナニ考えてんの!?」と、叱られたがっている相手を叱っているだけだ。無理矢理なのか、それとも相手と合意の上なのか、また、相手に無礼と取られはしないかは微妙なところだが、そこのところを紙一重の差ですり抜けてみせる、みのの練達の話術はさすがである。
閑話休題。『窮乏の農村』をもって、「昭和戦前期の日本の農村の全体像はこうだった」と捉えたら、おそらく誤るだろう。だが、「こういう一面も、あるにはあったに違いない」と捉える限りにおいては、政治的立場の如何を問わず、有益な歴史資料と言えるのではなかろうか。
これだけは言える。本書は、私の歴史意識の空白を埋めてくれた良書である。
昭和戦前期の日本の農村は、決して暗黒ではなかった。
もちろん、零細規模経営で、農産品市況が不安定で、地主からの収奪も激しかったため、楽な暮らしではなかったが、農民も、決してやられる一方の哀れな立場ではなかったのだ。いやむしろ、なかなかにシタタカなものではないかと思われた。
実際、旧ソ連では、都市労働者(月給取り)は共産党の言うことに唯々諾々と従うしかない立場に置かれていたが、農民たちは共産党のことを散々手古摺らせてきたのである。中共は今でもそうだ。
それでは最後に、昭和戦前期の日本の農村の「最も意識が尖鋭な部分」たちの「声ある声」をご紹介したい。
(引用、始め)
(藤村注;昭和恐慌では地主階級も痛手を負った。時流に乗り損ねたものが没落するのは、有産階級であっても変わらないからだ。中小地主はことにそうだ、という話に続けて、)
新潟県の米作地帯などで、「中小地主の没落は急角度だ」といわれるのは、そこの小作人が他県よりよほど強かったことにも関係する。近年猛烈な争議をして勝った王番田(おうばでん)の小作人たちは、この辺の地主は借金で首ったけでもうわれわれに抵抗する気力などはないと大層気焔(きえん)をあげていた。
この小作人たちの気焔は全く愉快なものだった。抵抗する気力がないなどと好い気になっているとひどい目に逢うぞ、と笑った者がある。すると彼らも負けてはいない。万事はこの胸にある、といった調子である。そんなら、今後の対地主政策はときくと、突嗟(とっさ)に、「まず生かさず殺さずという所かな」という応酬だ。(P168)
(引用、終わり)
(以 上)
【19】つくばだより、その1
震災一日目(3/11)、茨城県つくば市は激しい余震あり。決して気持ちの良いものではない。
震災二日目(3/12)は、波のようにうねる余震に変わった。船酔いのような気分になる。
震災三日目以降はもう覚えていない。落ち込んだ気分にも慣れてしまった。
震災五日目(3/15)にしてようやく悟った。そもそも、余震だ停電だ断水だと、何かある度にいちいち気を張り詰めるから、日が落ちる頃にはドッと疲れが出て憂鬱になるのである。
もうこうなったら是非には及ばず。鈍感かつ無神経になるに限るとハラを括った。ということで、ヤケ食いのようにずっと口を動かしてばかりいる。雰囲気もクソもない、まるで排泄行為のような食事だ。ちなみに、性欲の方はまだ回復していない。(以 上)
【18】(参考文献)2011年3月16日付、読売新聞より
(Q)
地震直後から船酔いのような症状が抜けません。これは何でしょうか。(茨城県那珂市 27歳男性)
(A)
「地震酔い」と言われているものです。今回の地震は揺れた時間が長く、しかも大きな余震も続いているため地震酔いにかかる方も多いかもしれません。
メカニズムは船酔いや車酔いと同じです。視覚情報と三半規管で感じる平衡感覚にズレが生じると自律神経が興奮し、「酔い」の状態になります。
「不安感」なども原因です。車酔いする人がバスの中のにおいや、たばこなど苦手なにおいがすると酔いやすくなるのと同じで、「また地震が起こるかも」「親戚、家族は大丈夫だろうか」といった不安感が余震による酔いを増幅させているのでしょう。
地震酔いが苦しい人は、深呼吸をし、冷たい水や温かいお茶を飲むなど、リラックス出来る工夫をしてみて下さい。(喜多悦子 日本赤十字九州国際看護大学長)