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Loginはこちら【586】日本古代史解明の補助線(6)::傍証としての「日本書紀」(3)
伊藤睦月です。前回の続き。
2 奈良盆地の「人口爆発」(続)
2-(2)巨大前方後円墳は、古代の治水・農業灌漑施設だ。
①2019年に世界遺産登録された、大仙陵古墳(仁徳陵)をはじめとする、百舌鳥・古市古墳群は、高校教科書などでは、「強力な王権の存在を伺わせる王墓」といった説明が付されることが多い。しかし、本来目的は、河内平野の治水と農業灌漑用の施設だ。後にこのプロジェクトを指揮した、大王たちの業績を記念するため、その施設跡に王棺が収められた。土木工学の専門家で、国土交通省技官だった、長野正孝氏は、専門家なら一目でわかるという。(『古代史のテクノロジー』2023年PHP新書)
②また、ゼネコンの大林組の調査で1991年に、百舌鳥・古市古墳群と、奈良盆地をつなぐ運河(古市大溝、丹比大溝)が発見され、さらにいくつかの運河跡の存在をつきとめている。これも考古学の新しい成果(歴史サイエンス)だが、学会主流で積極的に取り上げられた形跡はない。そのうちなし崩し的に認知されるだろう。私の推論を進める。
③このプロジェクトに従事したのは、中国から渡来した土木技術者集団(帰化人)で、彼らは黄河や長江の治水技術を山門国に、導入した。北九州にはそういった大規模施設の遺構がみられないので、渡来しなかったか通過しただけだろう。ちょうど、高句麗の好太王と倭の五王が、朝鮮半島南部で死闘を繰り返していた時期(謎の4世紀)にあたる。長野正孝氏は、そういった事例として、ほかに、大和川、龍田川、富雄川、佐保川、蘇我川などを結ぶ、「奈良湖」や、京都巨椋池、岡山穴の海と津寺遺跡などを挙げている。彼らは、難民として渡来してきて、華僑系の有力豪族、蘇我氏によって組織化されたのであろう。蘇我氏が急速に存在感を増してきたのは、河内王朝以降である。技術者集団が、どの氏族に当たるかは、手元に資料がないので後日の宿題にさせていただきます。
④仁徳大王は、奈良盆地にあふれていた東国からの流民たちを工事に使役し、完成後は彼らに新田を与えた。流民たちは仁徳に大変感謝し、崇めたに違いない。
⑤西からの難民(渡来人)たちもいただろうが、東からの流民の方が数が多くて、彼らに与える土地がなかったのかもしれない。後に彼らの多くは、信州や関東に移され、そこに土着し、武装した彼らが、いわゆる関東武士団を形成することになる。そのときに、先の農業技術者たちと、騎乗のスキルを身に着けた者たちが、難民たちを率いて行ったものと考えられる。
⑥私、伊藤は、江上波夫が、この謎の4世紀に発生したとする、いわゆる、「騎馬民族王朝征服説」は採用しない。理由は、江上による「騎馬民族」の定義が厳密すぎるから。江上は、騎乗のスキルを身に着けた遊牧民だけが「騎馬民族」であるし、漢民族などの農耕民由来を、騎馬民族とはかたくなに認めなかった。但し日本人は本来農耕民であるが、ある時期「騎馬民族的」になったという。(武士の登場、大日本帝国など)
⑦古墳時代後期の出土品は、江上が指摘するように、馬具や馬具を身に着けた戦士の埴輪が数多くあるが、いずれも、農耕民由来の「鐙(あぶみ)」などの馬具を使用しており、江上のいう「騎馬民族」の定義に当てはまらない。遊牧民が鐙を使用しだすのは、もっと後、12世紀モンゴル帝国のころからだとされている。
⑧また、その後に日本列島で使用された馬は、すべて去勢されていない、牡馬(おすうま)であり、これは、農耕民由来の特徴である(欧州でも同じ。去勢馬を採用したのは、11世紀の十字軍遠征で、イスラム騎馬隊を真似た、とされる。)。去勢馬を使用しだしたのは、明治以降である。軍馬としては、日本陸軍騎馬隊の創設者、秋山好古(坂の上の雲の秋山真之のお兄ちゃん)がフランス騎馬隊を真似て、導入したとされている。但し、競走馬などの特殊用途では、去勢されていない「牡馬」が採用されているようだ。
⑨一方で、遊牧民由来は、当時から牝馬(めすうま)か、去勢馬を使用していた。宦官の風習なども、これが起源とされている。
伊藤睦月です。これらの理由から、謎の4世紀に渡来した、「騎馬民族」なるものは、農耕民由来である、ゆえに、江上が定義するそれとは別(江上は生涯この定義にこだわった)であるとされ、日本考古学会は正式に江上説を否定した。学会内では解決済み、とされた。江上の自滅だ、と私、伊藤は考えます。
小休止、以上。伊藤睦月筆
【585】5日本古代史解明の補助線(5)::傍証としての「日本書紀」(2)【584】の続き)
伊藤睦月です。前回の続き
1 内政重視の時代(いわゆる、河内王朝、播磨王朝から継体王朝へ)
1-(1)応神大王の即位後、大和国はしばらく、静かになる。崇神大王以来数代にわたる(たぶん100年くらい)外征により、国力(経済力、軍事力)が枯渇したのだ。
1-(2)度重なる波状攻撃により、「倭国」を一応支配下に置いたが、完全に屈服させられなかった。本来の目的であったはずの、倭国の外交権(中国、朝鮮半島)すなわち、貿易利権(朝貢貿易)を奪えなかった。中国への朝貢は、「倭国」の役割となった。これは、663年白村江の戦いで、倭国が消滅するまで続く。反乱名目で、筑紫国造磐井を殺した時も、奪えなかった。なぜか。
1-(3)私伊藤は、一番の要因は、山門国側に外交(貿易)に関する、ヒューマンリソースが不十分だったから、と考える。
1-(4)岡田英弘説は、日本列島は華僑の居留地がもとになって、国を構成したとする。私、伊藤は「華僑と原住民の王(酋長)の協働」で、国が出来上がったと考える。横道にそれるので、後述する。
1-(5)私伊藤は、倭国と山門国それぞれの「華僑の質」に注目したい。当時の外交、貿易を行うためには、それ相当の知識、教養、財力、人脈が必要だ。倭国には、そういう華僑人材が多数集まっていただろう。ビジネスチャンスがあるところに、有望な人材が集まる。当時日本列島内では、倭国だ。
1-(6)一方、同じ華僑だといっても、列島内陸部に行けば行くほど、「質」が落ちる。諸般の事情で、中国大陸や朝鮮半島にいられなくなった華僑が、「一旗揚げようと」野心をもって、列島奥地へと進んでいく。そういう状況があったと思う。中国語ができれば良いというものではない。
1-(7)私、伊藤はいわゆる「神武東征」なるものも、倭国の辺境である日向で食い詰めた倭国傍流の王族が、「一旗あげに」東に向かった、王族だから、簡単な読み書き計算ぐらいはできただろう。あとは、知恵と度胸があればよい。後で補足する。
2 奈良盆地の「人口爆発」
2-(1)もう一つの問題は増え続ける奈良盆地である。いわゆる4世紀にはいると、東国からの人間の流入が著しくなり、奈良盆地だけでは、流民たちを食わせられなくなった。当時の農業技術では、これ以上、農業生産量が増えなくなった。もっと農地が必要だ。生駒山地を越えて人があふれ出した。彼らを食べさせなければならない。でも戦争で略奪してくるほどの軍事力はない。そこで、新田開発の場所として、選ばれたのが、後に河内平野と呼ばれる、大湿地帯だ。この大規模開発をリードしたのが、「オオササギノミコト」だ。後世、「仁徳」という諡号が贈られた。
小休止:以上、伊藤睦月筆
【584】日本古代史解明の補助線(4)::邪馬台国は東遷していない3(傍証としての「日本書紀」【583】の続き)
伊藤睦月です。あくまで傍証ですが、日本書紀は、「東遷」よりも「大和国西征」の方を重視している、といえる。
1 日本書紀(以下「書紀」という)には、「東遷」を思わせる記事が3回(実質1回)しかないが、「西征」の記事 回あり、記述内容もより筋道経っている。
1-(1)東遷記事
①神武東征
②神功皇后・応神大王の大和帰還
③壬申の乱
伊藤睦月です。岡田英弘博士は、上記②と③の行程を合わせると、ほぼ①の行程と重なることから、①は、②、③の史実を反映させたフィクションであろうとしている。(『日本史の誕生』)
1-(2)西征記事
①四道将軍の派遣(崇神大王)
②第1次九州遠征(景行大王)
③クマソ暗殺行(ヤマトタケル)
④第2次九州遠征・第一次新羅遠征(神功皇后、仲哀大王)
⑤磐井の反乱鎮圧(継体大王)
⑥第2次新羅遠征(推古大王)
⑦白村江の戦い(斉明大王、中大兄皇子)
1-(3)伊藤睦月です。書記は、近畿の大和(山門国)を統一した、「ヤマトのアマ氏」が、域外に膨張していく様を段階を踏んで、記している。話の筋が通っている。⑦を除いた外征記事は、唐突感があって、本当に行われたか、怪しんでいる。⑤の反乱については、古田武彦は、「反乱」ではなく、「九州王朝の制圧」ではないかとしている。古田説に基本賛同するが、これについては、後で補足説明する。
1-(4)上記「征西」について、補足すると、
①畿内を統一した、「ヤマトのアマ氏」は、まず、部下(四道将軍)を各地に派遣し、ヤマトの支配下に置こうとした。(説得と武力を使い分け、おおむね成功したようだ)
②最も手ごわい相手である「倭国」(当時の最先進国)の勢力範囲である、九州に対しては、景行大王自らが、赴き、倭国エリア(博多平野、筑紫平野、球磨平野)を除く、地域を服属させた(原則武力行使せず、大王軍の巡回・威圧行動で従わせた)
③面従腹背の態度を示した、クマソタケルに対しては息子のヤマトタケルを派遣して、暗殺した。これで、倭国の「外堀」は埋まった。
④神功皇后、仲哀大王が、ヤマト、出雲、吉備、越前から動員した兵員で、「倭国」を攻め、従わせた。
⑤諸国の兵員は、新羅遠征名目で集められたのだろう。これを知らなかった、仲哀大王は、武内宿禰と共謀した、神功皇后に殺された。形ばかり(たぶん八百長)の新羅遠征を終えた神功は、武内宿禰との子、応神を産んだ。
⑥神功皇后は、応神とともに、山門国に帰還しようとしたが、仲哀大王の本当の息子たちに阻まれた。激戦の末、息子たちを殺して、山門国に帰還し、応神大王を即位させた。(「王の帰還」ロードオブザリングのパターン)
1-(5)伊藤睦月です。これから、「仁徳大王」の直系争いの記事、「河内王朝」「播磨王朝」の話になる。書記の舞台が、奈良盆地から大阪平野に移るが唐突感、不自然さは免れない。そこで、応神大王とは別の血統とみる見解もある(岡田英弘説)が、これについては、後で私見を述べる。
小休止、以上、伊藤睦月筆
【583】日本古代史解明の補助線(3):邪馬台国は東遷していない(2)
伊藤睦月です。邪馬台国東遷説をどう考えるかが、解明のカギとなります。
1 「謎の4世紀」に人口が北九州より畿内の方が多くなっている。
1-(1)まず、考古学の知見から。3世紀の邪馬台国の時代(弥生時代後期)では、鏡の出土が北九州が圧倒的に多いが、5世紀(古墳時代)以降は北九州からほとんど出土せず、畿内の出土が圧倒的に多くなっている。(安本美典『データーサイエンスが解く邪馬台国』)
1-(2)当時の米の生産量から古代の人口推計をすると(米穀安定供給確保支援機構)
1-(2)ー①:縄文時代後期→弥生時代→古墳時代→江戸時代で推計する。
②九州:10,000→106,300→710,400→3,300,700
③近畿:4,400→109,400→1,217,300→4,941300
であるとされている。(金澤正由樹『古代史サイエンス2』2024年鳥影社)
1-(3)伊藤睦月です。東遷論者はこれらのデーターから、近畿の人口が増えたのは、なんらかの要因で、北九州から人の移動があったからだとする。(この観点からすれば、いわゆる騎馬民族王朝征服説も同種の論理構成だとわかるだろう)
1-(4)しかし、九州もそれなりに増えているのである。東遷論者に従えば、九州の人口が相当数減少していなければならない。皆既日食がそんなに恐れられたのなら、北九州がゴーストタウン化しても不思議ではない。この現象は、畿内の人口増加率が、九州のそれを上回ったとみるべきで、東遷論者は、邪馬台国九州説に引き寄せたいがために、こういったデータを無視している、と考えざるを得ない。
2 畿内の人口増は、東国(伊勢、美濃、尾張、越前)からの流入が原因
2-(1)最初の前方後円墳であるとされる、箸墓古墳(邪馬台国畿内論者の最後の砦)を含む、纒向遺跡を発掘調査した、関川尚功氏(元奈良県立橿原考古学研究所)の分析によると、
①出土品(土器)の大半が東海地域由来で、北九州・西日本由来がほとんどない。
②北九州由来の鉄器の出土もほとんどない。
③そのほか、大陸系遺物の出土も、北九州と比べて圧倒的に少ない。
などから、畿内(奈良盆地)は、北九州とは、ほぼ関係なく発展した、としている。(関川尚功『『考古学からみた邪馬台国大和説』2020年梓書院)
2-(2)伊藤睦月です。以上により、私伊藤は、畿内の人口増加は、北九州からの人口移動によるものでなく、むしろ、東国からの人口流入と、農業技術の進歩による、米生産高が、北九州を上回ったためと考える。(同旨関裕二氏)
2-(3)なお、関裕二氏は「歴史研究家」でなく「歴史作家」と自称しており、最新の学説や歴史データを巧みに取り入れて、自説をアップデートしていることに注意。
2-(4)伊藤睦月です。最新の考古学や歴史サイエンス(農学)の研究成果を踏まえると、邪馬台国東遷説は成り立ちそうにない。もはや、「邪馬台国九州説VS畿内説」の図式で、議論する段階は終わっている、と思う。
2-(5)以上を踏まえると、文献史学の解釈も変わってわってこざるを得ない。「考古学の問題は考古学で」だが、考古学の知見が文献史学の知見を変えることはありうる。(例えば、1980年代、古代出雲の発見)次回は東遷論に関して、「日本書紀」の記述を検討する。
以上、伊藤睦月筆
【582】ブレイク:渡部昇一について(ちょっとほろ苦い昔話)
伊藤睦月です。渡部昇一(1930-2017)について。少しばかり・・・読書談義ばかりで恐縮ですが。
(1) 私が最初に読んだのが。『知的生活の方法』(講談社現代新書1976年)。それから、1990年くらいまではよく読みました。高校生から、20代ですね。渡部の著書だけでなく、彼の勧める本(ハマトン『知的生活』、スマイルズ『西国立志編』や保守系知識人の本など)もよく手に取りました。渡部の本以前は、岩波新書などの左系が多かったが、渡部の本で、そっち系にのめりこみ、のぼせることなく、生活破綻を免れたようなものです。そういう意味では、感謝しています。
(2)30代になり、バブルも崩壊した中、中堅公務員として仕事も充実するにつれ、だんだん読まなくなりました。司馬遼太郎とか他の保守系の論客たちもそうでした。なんか嘘っぽい。最後まで残ったのが、小室直樹博士、山本七平、山本夏彦の本です。そうして、35歳で副島先生の本に出会い、上書き修正されて、今に至っている。
(3)副島先生も「続英文法の謎を解く」では、渡部昇一を意識されていたようですが、後年、「渡部は、イエズス会の手先だ」と見切られて、私もああそうか、とガテンしました。
(4)渡部は、『知的生活の方法』で上智大学の図書館に住み込んだ、貧乏暮らしを勉強で脱出した、みたいなことを書いていましたが、それだけではない。渡部昇一は、講談社の一族から嫁を貰って、それから羽振りよくなって、大学図書館生活から脱出したのだ、ということを彼の大学の同僚の人(予備校の講師をしていた)から、聞いてはいました。で、なんのご縁で結ばれたのか。私の推測ですが、「イエズス会つながり」でしょう。それしか接点がない。一介の私大教員が、15万冊、しかも高価な稀覯本(きこうぼん)を買えるものか。空調付きのそれだけの書庫も整備できるわけがない。ひがみも半分あります。正直。
(3)日本クリスチャン(特にカトリック)の言論、知識人で注意しなければ、いけないのが、「二重忠誠問題」です。彼らが、天皇制を擁護するときには、気をつけろ!副島先生から、学んだことです。(私の理解です)
(4)それからは、スーとつながりました。私が20代のとき感心した、「甲殻類の研究」なんて、ハンナアーレントの焼き直しではないかなどなど。いずれにせよ、私の書棚の相当部分を占めていた、渡部の本たちは、「ブックオフ送りの刑」になり、今では、手元には1冊もありませんし、PHP文庫などで時折みかけても食指が動きません。ネトウヨなどが流行る前に、副島先生の本に出合えたことが、とにかく、幸運でした。
という、昔話でした。
次回から、通常モードに戻ります。
以上、伊藤睦月拝
【581】【579】お正月らしい投稿を発見した(2025年1月4日について、かたせ2号さん、今年も快調そうですね。
伊藤睦月です。かたせ2号さん、お元気そうで何よりです。今年もよろしくお願いします。
さて、あさま山荘の事件の時は、私は中学2年でしたが、当時プラモデルつくりに夢中で、テレビは終日つけていましたが、それほど関心もなかった。ただ、異様な雰囲気は感じており、大きな鉄球が建物を壊していく様には、さすがに見入ってしまいましたなあ。
連合赤軍について書かれた本は、佐藤優と池上彰の対談本を読みましたが、むつかしく感じました。セクト間の関係がよくわからない。そこで、いつか読んでみたいと思うのは、『レッド1969-1972』(山本直樹)というマンガです。結局、読書談義かよ。ですが、ここで思い出したことを一つ。私の職場の上司から、酒席で一度だけ聞いた話。
(1)その上司は、私より、ほぼ一回り上。いわゆる、「団塊の世代」「全共闘世代」です。
(2)東大安田講堂事件(1969年1月)の時、その上司は都内私大の、ゼンガクレンの委員長(本人談)で、学長室を占拠し、そこの電話を使って、連絡を取り合っていたそうです。安田講堂事件の時、東大にだけ立てこもったのではなく、都内の大学の多くで学生たちが暴れていました。
(3)テレビで、安田講堂が陥落する前に、どこからか電話連絡が入り、その上司は直ちに大学を脱出、横浜国立大学の学生寮に数日潜んでいたそうです。
(4)その学生寮で同室だったのが、「坂口弘」、あさま山荘事件の首謀者の一人で、確定死刑囚です。もう執行されたかどうかは、知りません。
(5)坂口と上司が、その夜、何を話したのか、上司は話しませんでした。翌朝、二人は学生寮を出て、坂口は北へ。上司は西へと向かい、それきり、でした。坂口は、ほかの仲間と合流し、リンチ殺人事件とあさま山荘事件を引き起こしました。
(6)上司は、各地の工事現場で働きながら、故郷にたどり着き、地方公務員になりました。
(7)当時、県庁や市役所は、身辺調査をしていませんでした。警察と外務省はしていたようです。当時の外務省試験(国家公務員試験とは別に実施していた)の募集要項には、「2次試験合格者には身辺調査をします」と書いてあった時代です。上場企業は普通にやっていたようです。「三菱樹脂事件」という憲法訴訟もありました。
(8)今でも企業の身辺調査、やられているんじゃないかな。反社関係者の排除もあるし、ただそのやり方は巧妙になっている、と思います。
(9)当時、地方の役所は、逮捕歴さえなければ、試験の成績で入れました。今と違い面接重視ではありませんでした。政治家のコネを使ったのかもしれません。もともと高学歴で頭もよい人たちでしたし、学生運動の活動歴のある者は、かえってリーダーシップがあってよい、という人すらいました。体育会系のノリですね。逮捕されないという、要領の良さも大事です。こういう人たちは、結構出世していましたよ。民間の人たちからも、「さばけた役人」と評判の良い人が多かった印象です。世間話も上手で社交的な人が多かった印象です。私の上司もそこそこ出世して、無事定年を迎えて退職していきました。それから、お互い没交渉です。ご存命であれば、後期高齢者です。
(10)私にその話を一度だけ話してくれた上司は、ヘビースモーカー、ヘビードリンカーで、今なら確実に依存症です。この時もべろべろに酔っぱらっていました。カラオケマイクを握ったときは、「風に吹かれて」という英語の歌しか歌いませんでした。べろべろのくせに音程は外れていなかった。仕事中に時折見せた、「潔癖な正義感」と「わざとらしい卑屈さ」が妙に懐かしい。
お正月になると、余計なことを思い出しますね。すぐ忘れてしまう。今度思い出すのはいつだろう。どうでもよい
けど。
以上、伊藤睦月筆
【580】【藤井風推し】イエス・キリストの聖言よりも、藤井風の歌詞の方がレベルが高い。
【藤井風推し】イエス・キリストの聖言よりも、藤井風の歌詞の方がレベルが高い、の件について。
かたせ2号です。
本題に入ります。
ルカによる福音書 第6章第38節に以下のコトバがある。
「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」
これよりも藤井風の歌詞の方が、「レベルが高い」ように思える。違うかな?
(歌詞から抜粋)
「与えられるものこそ、与えられたもの。ありがとうって胸をはろう。」
https://www.youtube.com/watch?v=goU1Ei8I8uk
「帰ろう」
<補足>
周囲の人たちに、藤井風の曲のお気に入りを聞いてみると、以下が上がったので、掲載しておきます。
さよならベイベ
https://www.youtube.com/watch?v=JB_bLPp3wCs
花
https://www.youtube.com/watch?v=SfPkl7lol7g
旅路
https://www.youtube.com/watch?v=29p8FvT_puU
以上
【579】お正月らしい投稿を発見した(2025年1月4日)
かたせ2号です。
お正月らしい投稿を発見した(2025年1月4日)、の件。
重たい掲示板での、お正月らしい、投稿を伊藤睦月さんからご教示いただきました。群馬のゆみこさんの投稿です。
(引用はじめ)
みなさんも、本ばかり読んでいないで、わたしのように世間に出て、年寄りの話とかを聞いてみてください。そして年寄りの知恵をもらい、互いの波動を交流させて、より良い人生を作っていきましょう。ネットなんか、誰も見てないから。
(引用終わり)
かたせ2号です。結論から言うと、伊藤睦月さんと同様、このご意見に賛成です。
ごもっとも。。。
やはり、自分と違う世代の人の話を聞くのはとても大切だと、前々から思っていたので。。
さて、年末年始は、なぜかワタシは、「連合赤軍事件 50年目の真相」(宝島社文庫、2020年12月刊)
という本を読了した。
ワタシは、1972年2月に起きた、この事件や背景を詳しく知ることなく、今まで過ごしてきました。
この事件については、その前後の連合赤軍派内部での「総括」というリンチ殺人の顛末(てんまつ)が報道され、それまで衰退傾向にあった学生運動が、一気に勢いを失ったとまでは知っていましたが。
上記の文庫本の26ページから引用します。
(引用開始)
(あさま)山荘は下から見上げてみるとまさに“要塞”のようで、機動隊が攻めあぐんだというのも、十分理解できる。
ある元メンバーは、「偶然なんだけど、ある意味一番いい場所に逃げ込んじゃったんだな。崖の上にあって、入口が小さい。あそこ以外の山荘だったら、絶対にあんなに事件は長期化していないよ」と語っていたが、それは確かであろう。
(引用終わり)
かたせ2号です。
こんな歴史の偶然を引き起こした「歴史の神」の正体が、神か悪魔か、あるいは両方による共同作業なのか、わたしには、当然ながら、わかりかねますが、
それはともかく、生中継での最高視聴率が89.7%だった(この記録はいまだ破られていない)、この事件の当時の「熱気」をワタシはまったく知らなかったわけです。
そういうのも、たとえば10歳以上年配の方に聞けば、実感をもってわかるはずです。そんなことを思い出しました。
数十年前から感じていたことですが、
今、世の中を見ていて問題点と思うのは、交際する世代の幅が狭いこと。あるいは、たいていの方が、企業に勤めているわけですが、一日八時間、あるいは十時間というものを拘束されている。これは、人間の人生においては、非常にもったいないことです。
ですから、いろんな世代の人と、いろんな経験を得た人と話ができるような、ま、そんな場が世の中にできたらと思うわけです。そして、いろんな人と話し、「いやあ、若いうちには辛いことも多いよ。私もそんなときがあったけれども、こうやって乗り越えたんだよ」と、そういうことが言えるような場がほしいです。
でも、どうやったらできるんでしょうかね? 難題です。
あと、読書論。ワタシも加藤周一の「読書術」(当時はカッパブックス。現在は、岩波現代文庫)を読みました。
ワタシのような50歳代後半になると、健康寿命が尽きるまで、平均で計算して、長く見積もって、あと20年弱というのがわかるので、以下は、ワタシのこころがけ(老年向け)です。ご参考ください。
(1)自分が興味を持っている分野の本をすべて読破する夢は、捨てる。
(2)自分が読む本について、最初から最後まで読むのを原則としない。拾い読みで満足する。
(3)本を読んだ冊数が多ければ、その人間が信頼に値するというのは間違い、と気づく。優秀な人間であっても、信頼に値する人間でない場合もありえる。別に、渡部昇一のことを言っているわけではない 笑い
名古屋名著読書会さんのポスト (2024年12月2日)
https://x.com/nagoyabookclub/status/1863546424694333494
「私の卒業論文を閲読してくださった渡部昇一教授の蔵書は15万冊。杉並区のご自宅は地下3階まである巨大な書庫を備えていた。「先生、これってバベルの図書館ですよね」と申し上げたら、「みんなにそう言われるんだよ」と愉快そうに笑われた。
先生が亡くなって七年。図書館はどうなっているだろう。」
かたせ2号です。バベルの塔のような図書館だったというのは、案外間違いでなかったかもしれない。
渡部昇一先生、残念でした。
以上が、2024年を終了した現時点にあたってのワタシの「所感」です。
群馬のゆみこさん、伊藤睦月さん、
どうもありがとうございました。
かたせ2号拝
以上
【578】日本古代史解明の補助線(2):邪馬台国は東遷していない(1)
伊藤睦月です。
私は、邪馬台国九州説(福岡・佐賀県内のどこか説)を採用しているが、九州説とセットの考えである「東遷説」はとらない。そこで、邪馬台国東遷説について、私見を述べる。
1 邪馬台国東遷説とは何か。(安本美典『卑弥呼の鏡が解く邪馬台国』)
1-(1)邪馬台国九州説において、主に東大系の文献史家(白鳥庫吉以降)によって、根強く支持。
1-(2)卑弥呼のことが、神話化し、伝説化したものが、天照大御神である。
1-(3)天照大神のいた「高天ヶ原」は、北部九州にあった邪馬台国の伝承化された姿
1-(4)西暦300年前後に、邪馬台国の後継勢力が東に移動して、大和朝廷をたてた。
伊藤睦月です。「邪馬台国東遷説」は、1-(1)と1-(4)がよく取り上げられる。
1-(4)の根拠としては、
1-(4)-(a) 北九州の地名と大和の地名は不思議な一致をしている。(白鳥庫吉から下條竜夫氏まで)
1-(4)-(b)数理統計学的年代論の立場からは、卑弥呼と天照大神とは、活躍年代が重なり、神武天皇の活躍年代は、西暦300年代となる。これは、大和朝廷のはじまりは、全ての天皇の実在を認めても、邪馬台国時代よりも後になる。(学会多数説は、第2代綏靖~第9代開化大王までを「欠史八代」とよび、実在しない、としている)
1-(4)-(c)当時の魏皇帝が、卑弥呼に与えたとされる「銅鏡100枚」のうち、2枚が、東国の尾張氏、海部氏の家で発見された。
1-(4)-(d)数理統計学の手法「パラレル年代推定法」によっても、天照大神と卑弥呼の時代が重なりあうことが判明した。
2 邪馬台国東遷説への疑問
2-(1)東遷説は、主に、1-(1)、1-(4)で論じられるが、1-(2)、1-(3)も合わせ考察する必要がある。
2-(2)地名一致は確かに「不思議」であるが、一致しているからと言って、九州から大和へ移動した、証左にはならない。逆に東から西に「西進」した可能性を考えることはできないのか(騎馬民族王朝征服説を採れば、東遷説は、成立しうるが、難民移動・拡散、はあっても、民族単位での組織だった移動はなかったものと考えるので、この説は採らない)
2-(2)-(a) この地名問題は、中国占星術(道教)の教義をも加味した考察が必要。平安遷都の時も、当時の陰陽師により、場所の選定が行われた。
2-(3)数理統計的手法による年代特定は、それ自体は妥当だとしても、「東遷」を証明したことにならない(井沢元彦氏は、同時期に発生した「皆既日食」をきっかけとして、九州→大和への移動(エクソダス)が始まったと推理しているが、それを裏付けるものはない)
伊藤睦月です。この邪馬台国東遷説は、邪馬台国九州説を論証する中で提唱されたものであり、結局は九州説VS畿内説の議論に帰着する。いわゆる歴史サイエンスの手法は魅力的であるが、後述するように、「トリセツをよく読み、用法、用量を、守って使用する必要」がある。
次回からは、私のファンタジーを披露させていただきます。
伊藤睦月拝
【577】ブレイク:働きながら本を読むコツ
伊藤睦月です。
副島系掲示板で、お正月らしい、投稿を見つけた。
(引用はじめ)
みなさんも、本ばかり読んでいないで、わたしのように世間に出て、年寄りの話とかを聞いてみてください。そして年寄りの知恵をもらい、互いの波動を交流させて、より良い人生を作っていきましょう。ネットなんか、誰も見てないから。
(引用終わり)
伊藤睦月です。結論から言うと、このご意見に賛成だ。ごもっとも。
ところで、私は、もうすぐ、66歳になる。「伊藤さん、あんた見かけは若い」と周りからおだてられてその気になってはいる。いるが、夜、風呂上りに鏡で映してみると、そこには、まごうかたなき「ご老人」がいる。明らかに、わけえもんに、話を聞いてもらう側だ。
そう考えたとき、はて、自分がわけえもんに何が話せるだろう。うーん。ない。しいて言えば、今、掲示板に投稿している歴史トレビアか、自分の闘病記くらいか。でも、こうやって文章で書いているから、まだましだが、こんな話を宴席で延々聞かされたら、たまったものではなかろう。下手すればハラスメントかも・・・
ところで、「本ばかり読んでないで」とあるが、今どきのわけえもんが本を読んでいるだろうか。私なんぞは、寺山修司の「書を捨てよ、街に出よ」を思い出してしまったが、50年以上も前の話だ。今どきの日本の就業者の82%がサラリーマンという時代。『なぜ、働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆)が評判になる時代だ。
著者は、京都大学を卒業して、今はやりのIT企業に就職したが、思うように本が読めないことがわかって、1年で辞めて、ポスドク生活をしているそうだ。正直うらやましいと思った。自分には絶対あり得ない「もう一つの人生」だけど。
そこで、著者が同書で勧める、「読書法」を紹介する。昔、加藤周一、渡辺昇一ほかの各種読書法に、おおいに触発され、結局挫折した「老人」でも、さすがに感心した。いくつかは、既に実行中。うほほい。
項目だけ引用するから、興味ある方は、本を買って(本を買う、これが最も肝要。限界はあるけど)詳細、読んでみてください。
(1)自分と趣味の合う読書アカウントをSNSでフォローする。
(2)iPADを買う。
(3)帰宅途中のカフェ読書を習慣化する。
(4)書店に行く。
(5)今まで読まなかったジャンルに手を出す。
(6)無理をしない
以上です。今どきの「わけえもん」よ。もっと本を読め!(個人的には、佐藤優の読書法がお勧めだが、ちょっとハードル高いかも)
以上、伊藤睦月拝