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Loginはこちら【527】大河ドラマ制作スケジュールについて
伊藤睦月です。下記、かたせ2号さんの野望(?)を果たすための参考にして、大河ドラマを実現するとしたら、おおむね次のようなスケジュール感になります。あくまで、私の見聞した範囲で真偽は保証しません。
1 2024年12月 NHKのプロデューサー会議で、2027年、2028年のテーマ案(各5本くらい)が決まる。以後「諸調整」を行い、絞り込んでいく。
2 2025年6月ごろ、テーマ決定(事前に、文科省に影響力のある、文部科学省、文化庁、総務省、地元:地元のNHK支局、主要経済界、有力政治家、行政関係者などに通知。ロケ等の協力依頼。まあ断るところはない、と思うけど)
3 2025年9月ごろ、2028年の大河テーマ、脚本家、主演俳優、を発表。地元ロケ受け入れ、観光キャンペーンなどの受け入れ準備、キャンペーン開始。大河常連の京都、愛知、東京、大阪、以外では、ちょっとしたお祭り騒ぎになります。オリンピックの開催地、選抜高校野球の21世紀枠決定、のような雰囲気といえば、想像つくだろうか。
4 2026年6月 撮影開始、観光キャンペーン開始
5 2027年1月 放送開始
伊藤睦月です。
(1)大体このようなスケジュール感、だったと思います。京都などの大河常連はよくわからんが、大抵はNHK側のペースに合わせられます。地元は、テーマ決定以前に「誘致合戦」をしていて、何でもします、というのが条件ですから、いやなら、変わりはいくらでもある、というわけです。逆に地元側が注文つけるときもあります。「平清盛(松山ケンイチ主演)」で、衣装が地味で、観光キャンペーンにならない、と当時の広島市長がゴネて、結局うやむやのされたこと、は関係者間で教訓となっていると想像しています。ちょうど時代考証でリアルを求めだしたのもそのころです。
(2)大河の展開が、どうなるかは、原作者、脚本家、時代考証の学者のラインアップをみれば、大体想像つくことになっています。担当プロデューサーとそのバックにいる人次第、ということ。
(3)だから、毎年今頃になると、大河ドラマ関連の図書が出てきますが、これも2,3年前から準備されています。出版スケジュール上そうなります。学者たちも時代考証をゲットできるかできないかによって、自著の出版やテレビ出演、はたまた各種審議会委員の選任も違ってきますから、外見はともかく内心は、はらはらドキドキです。
(4)例えば、2025年大河の「蔦屋重三郎」ですが、このテーマは、2021年ごろからの既定路線です。つまり言葉は悪いが、そのころから、ある種の「世論誘導」されているわけで、つい関連本を買ってしまう自分がくやしい。でもすでに2冊買ってしまっている自分がいます(苦笑)。
(5)懐徳堂とのからみはないだろうか。江戸と大阪だからないかも。井上ひさしの伊能忠敬の本では、山片蟠桃が出てくるけど。みなもと太郎の漫画も取り入れると面白くなるが。副島本の江戸時代の学者たちの話も。なんか楽しみ、とおもってハッとして苦々しく思ってしまいます。
(6)今日は、「光る君へ」の最終回。かたせ2号さんの投稿とあわせて、あれこれ思い出してしまった。かたせ2号さん、大河誘致がんばってください。かたせさんのテーマでは、原作、原案は「矢切止夫」だとよいけれど。井沢元彦かな。
以上、伊藤睦月筆。
(6)以上、どうでもよいネタでした。かたせ2号さん、大河誘致、頑張ってください。
伊藤睦月筆
追伸:今ではロケ誘致合戦も、「フィルムコミッション」が各地に立ちあがって、システム化しつつあるようです。昔は「フーテンの寅さん」「釣りバカ日誌」の地元ロケ誘致に、松竹側から、3000万要求されて、予算の都合がつかず、誘致断念した話をきいたことあります。当時でも映画製作に数億かかっていましたから、今振り返れば、リーズナブルな要求だったと思いますが、当時は法外だとみんなで憤慨したものです。これだから田舎者は困る、というお話でした。
4
【526】ブレイク:副島史観と岡田史観が袂を分けるとき
伊藤睦月です。日本古代史(「日本」建国まで)を語るにあたって、副島史観と岡田史観はニヤイクオールとして、語ってきた。副島先生は、「岡田英弘博士を尊敬している」とし、倭国が華僑のゆるやかな連合体であること、663年の白村江の敗戦後の外圧に対抗するため天智天皇のもと、団結して「日本」を想像したとの岡田説を支持している。
しかし、両者には、対中国観において、埋まりがたい溝があるように思える。古代史段階では顕在化していないが、時代が下るにつれて、明らかになるものと思われる。私説だが、その要素を3点あげる。
(1)岡田博士は、中国を「シナ」と呼ぶことにこだわっているが、副島先生は「チューゴク」と呼ぶのにこだわりがないように思える。
(2)岡田博士は、西嶋定生をはじめとする、日本東洋史学会の公認コンセプト「冊封体制」を認めない。その主著(『倭国』、『倭国の時代』、『日本史の誕生』)には、「朝貢」は出てきても「冊封」は出てこない。それに対し、副島先生は、斎川眞氏とともに、基本的なコンセプトとして許容しているように思える。
(3)岡田博士は、「日本文明」ということを当然のこととしている。これが両者最も相いれないところであろう。副島先生は、中国文明の枠組みの中で、日本は文化を育んできたのであって、「文明」といえるものではない、としている。ここはお互い譲れないところであろう。私は両説のジャッジをする立場でも能力もないが、副島説に賛同するものである。(理由は今回述べない)
伊藤睦月です。日本通史を語る中で、どの時代から、違いが鮮明になるのだろうか。私なりの予感や考えはあるが、それは、これから通史を語っていくなかで、明らかにしていこうと思う。
以上、伊藤睦月筆
【525】「『本能寺の変の真相』フォーマット」を無償提供するので、どなたか、面白い小説、漫画、アニメ、映画等に仕上げてください。
「『本能寺の変の真相』フォーマット」を無償提供するので、どなたか、面白い小説、漫画、アニメ、映画等に仕上げてください、の件。
かたせ2号です。
表題の件を思い立った経緯を最初に記載し、続いて、本論の「フォーマットの中身」について記載します。
1. 表題の件を思い立った経緯
(1)
伊藤睦月さんの書き込みを読んでいると、ワタシの考えついた『本能寺の変の真相』で、歴史学会を説得するのは到底、無理だとわかった。あの岡田英弘先生が冷や飯を食わされるようなところだから。
伊藤睦月さん、ありがとうございました。
また、20年以上前にわかってはいたが、
戦国時代の歴史学者の面々(松田毅一が筆頭)が、ルイス・フロイス「日本史」の記述の中に、「豊臣秀吉が、明からの黄金輸入船を、おれのところに回せと強要した」とあることを、意図的に伏せてきたし。
(2)
エンターテイメントの世界の方が、本能寺の変の真相解明が、より進んでいる。
まず、2021年のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」の最終回の場面。
「本能寺の変」を聞きつけた秀吉役の佐々木蔵之介が、
驚きもせず、不敵な笑みを浮かべて、すぐに「中国大返し」を断行した場面が特に印象に残っています。
あれは、わかる人には「本能寺の変のことを秀吉は知っていた、と脚本家たちが匂わせている」とわかったはずです。まあ、これだけだと、少し弱いか。。。
さらに、北野武監督の「首」(2023年)では、堂々と、秀吉黒幕説で本能寺の変の真相が描かれている。
ニフティニュースサイトから。
記事名「北野武監督最新作、本能寺の変を描いた『首』で表現した「本当の裏切り者」とは!?」
2023年06月06日
https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12205-2375993/
(引用開始)
“世界のキタノ”は健在。北野武監督6年ぶりの新作映画『首』が、第76回カンヌ国際映画祭で上映されると、観客から5分間に及ぶスタンディングオベーションで称賛された。
「今作は、たけしさんが構想から30年もの間、温め続けてきたという戦国スペクタクル。映画化に先立ち、2019年に原作となる歴史長編小説『首』を書き下ろしています。
今回、明智光秀役に西島秀俊、織田信長役に加瀬亮など、“北野組”の役者が勢ぞろいし、本能寺の変を“たけし流の解釈”で描き出したんです」(映画ライター)
1582年、明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に滞在する主の織田信長を襲撃。多勢の明智軍に囲まれた信長は寺に火を放ち、自害したとされる本能寺の変。これまでNHK大河ドラマでも、2021年の『麒麟がくる』など16作が題材にしている。
だが、北野監督は現地で行われた合同取材で「日本の時代劇は裏の話が描かれていなくて、きれいごとでやっている」などと発言。“歴史のタブー”に斬り込んだ理由を語っている。
「これまでの大河では、通説通りの、光秀による本能寺への討ち入りが最大の見せ場。でも、たけしさんは、羽柴秀吉が本能寺の変の黒幕であると考え、自ら秀吉役を演じ、別の視点から、この謀反劇を描いているんです」(スポーツ紙記者)
(引用終わり)
かたせ2号です。2021の大河ドラマの脚本家も、2019年の北野武作の原作小説は読んでいて、その影響を受けたかもしれない。
というわけで、このような状況を踏み台にして、だれでもいいので、以下のフォーマットを、エンタメの世界でアウトプットを創り出してほしいと願い次第です。
ワタシからのアイデア料請求は一切なし、かつ、このフォーマットに関する権利(?)はすべて放棄いたします。
ですから、面白い小説、漫画、アニメ、映画等に仕立てて、自らのオリジナルとして、堂々と発表してください。
2. 本能寺の変フォーマット
(1)必読文献 以下の3冊の記載内容が話の前提・骨格となります。
副島隆彦「信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた」(PHP_2015/12刊)
立花京子「信長と十字架 ―「天下布武」の真実を追う」 (集英社新書 2004/1刊)
加治将一「第六天魔王信長 消されたキリシタン王国」 (祥伝社文庫 2023/1刊)
(2)本能寺の変の犯人
・明智光秀、羽柴秀吉、朝廷(天皇および摂関家)、イエズス会、そして、毛利家、全員が犯人。
・ただし、本当の首謀者、舞台回し役は、イエズス会日本統括部隊のトップ、ヴァリニャーノ。
本能寺の変の当時、日本の国を離れていたのが、カッコ良すぎる 笑い。
(3)イエズス会が信長を殺害・排除する動機。
荒木村重の謀反がなければ、本能寺の変は起きていなかった。
このときの信長の挙動で、信長が「しつけのできていない、飼い犬の手を噛む犬」であることがイエズス会士の目にも明らかになった。それが、イエズス会をして信長を排除する動機となった。
要は、「犬(信長)が、飼い主(イエズス会)と対等の立場にあると、(本心では)勘違いしていることがバレた」。
「刀剣ワールド」というサイトから。
https://www.touken-world.jp/tips/46491/
(引用開始)
高山右近は、父の隠居に伴い、高槻城主となりました。そして、「織田信長」から摂津国の領有権を約束されていた荒木村重に従い、行動を共にするようになります。
ところが1578年(天正6年)、突如として主君・荒木村重が「織田家」から離反。高山右近は再考を促すため、妹や息子を人質に差し出して説得を試みました。
しかし、荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断したのです。この際、宣教師の「オルガンティーノ神父」にも相談しており、「織田信長に降る(くだる)のが正義だが、よく祈って決断するように」と助言を受けています。
一度は織田家との敵対を表明した荒木村重でしたが、その後、織田信長から「母を人質に差し出し、「安土城」(あづちじょう:現在の滋賀県近江八幡市)へ弁明に来れば許す」と寛大な条件が出されたのを機に、織田家と対抗することに尻込みするようになりました。
そんななか、重臣の「中川清秀」(なかがわきよひで)が、荒木村重に対して、籠城を強硬に進言。高山右近も、その意見に押され、同調せざるを得なかったのです。このとき、隠居していた高山友照も、織田家からの離反を支持していました。
結局、居城の「有岡城」(ありおかじょう:現在の兵庫県伊丹市)での籠城を決めた荒木村重軍は、「有岡城の戦い」(ありおかじょうのたたかい)へと突入。高山右近は、高槻城で織田軍と対峙することになりました。すると織田信長から、「ただちに開城しなければ、修道士達を高槻城の前で磔(はりつけ)にする」という、苛烈な脅しが届いたのです。
城内では、開城と抗戦とで意見が割れ、収拾がつかない状況に陥りました。さらに隠居した父が、「もし織田信長に寝返るなら切腹する」と言い出したことで、高山右近の悩みは、極限状態に達していったのです。
そこで高山右近が出した答えは、「すべてを捨てる」ということでした。どちらにも加担せずに領地も家族も捨て、単身で織田信長のもとへ投降。高山右近は、頭を丸め、紙衣(かみこ:和紙で作った着物)のみを身に着けた姿で、織田信長のところへ現れたのです。
この潔さに感じ入った織田信長は、人質の救出と領地の倍増を約束し、出家を止めるように、高山右近を説得します。この手厚い申し出に対して断り切れなかった高山右近は、結局武将として、織田信長に仕えることになったのです。
(引用終わり)
(4)信長の後継者が秀吉と決めたのは、イエズス会
後述。
(5)(3)以外の場面では、信長はイエズス会に最大限の忠誠を示した。武器(鉄炮の材料の軟鉄、火薬の原料となる硝石)、そして「黄金」を日本に運んでくるのは、イエズス会だから、やはり、逆らえるはずもない。
1581年の信長による「京都御馬揃え」は、イエズス会への忠誠を示すための軍事パレード。
ただし、そんな信長を、イエズス会は決して許しはしない。
(6)1582年の朝廷への改暦の強硬申し入れ
https://www.instagram.com/seimeijinja/p/CvCdEt1xaeQ/
(引用開始)
1582年、土御門久脩 は 織田信長 に安土城へ呼び出され「天正の改暦問題」についての相談を受けたとされています。
これは陰陽寮が制作した「京暦」と、伊豆の三嶋大社が制作した「三嶋暦」でお正月がずれてしまうことから生じた問題です。
一度は京暦を使うことで決着したものの、信長が上洛の際に三島暦にすべきと再度朝廷に申し入れて論争に。しかし 本能寺の変 で信長が討たれたことで、話はうやむやになりました。
(引用終わり)
かたせ2号です。
ちょうど、同じころ、たまたま、ユリウス暦からグレゴリウス暦への改暦という事件が、起きたので、そのような状況を知ったイエズス会が思いついた作戦です(エンタメ用フォーマットなので、左記、断言口調にしておきます 笑い)
要は、暦を管理・運営するのが朝廷の存在意義なので、そこに容喙(とやかく意見してくること)するのは、朝廷への大きな脅威となるわけです。暦そのものの改定を求める権力者が、これまでの日本にいましたか?イエズス会が信長に強要したのです。
1571年に、都の鬼門(北東の方角)を守護する延暦寺を、信長が焼き討ちにしたのも、朝廷の権威への相当な挑戦もしくは脅威として映っていたはずですから、今回はこれで2度目。
ここで「社会党の左バネ」ならぬ、「朝廷バネ」が働くことになります。
これこそが、イエズス会が狙っていたこと。
イエズス会は、信長の身体を焼き尽くす炎の火種を、信長自身に命じて、朝廷に投げ入れさせたのです。
この辺が、イエズス会の容赦なく冷酷な面なので、うまく表現してください。
(7)光秀が朝廷を守るために、信長へ謀反することを秀吉がそそのかす。
イエズス会から信長の後継者として指名された秀吉が、機を逃さず、光秀に接近し、朝廷の危機を感じていた光秀を説き伏せる。そして、信長打倒の盟約を結ぶ。
すなわち、中国攻めの際に「信長様、ワタシだけでは難しいので、中国攻めの最前線までおいでください」と秀吉が信長にヘルプを要請する。そして、丸裸同然の状態の信長を京都(宿所は本能寺、イエズス会の京都本部のほんのすぐ近く)に呼び寄せる。そこを光秀どのが、亀山城から兵を出して急襲くだされ。。
以上の密約には、朝廷および摂関家も、承認・同意したでしょう。でないと、光秀の(8)の一句は生まれない。
後に、秀吉は関白にまで上り詰めることができたのは、朝廷および摂関家が信長殺害の謀議に加わっていたことを知る秀吉だからできたことでしょう。要は、その点をついて、脅迫したのでしょう。ただし、関白の地位までということなので、裏を返せば、天皇の地位には触れない、朝廷の地位は安泰にしてみせますという条件での取引にもなっています。頭いいよなあ、秀吉。
(8)本能寺5日前、1582年5月27日、光秀の一句「ときは今 あめが下しる 五月哉」
ここでは、以下のように解釈しておきます。
「土岐(とき)氏の末裔であるワタシは、天下(あめがした)を司る朝廷の危機を救うため、ここに行動を起こします 1582年5月記す 明智光秀」
ただし、コトを起こしたあとに、秀吉が自分を裏切ることなど予想もしていなかったでしょう。
そして、光秀を裏切る予定だった秀吉の背後で「イエズス会による指令」が秀吉へおりていたことも。
(9)本能寺の変の当日、1582年6月2日。
イエズス会による信長、爆殺。それほど、本能寺の近くに、イエズス会の京都本部が所在したということです。
信長にしてみれば、「Keep your friends close」だったかもしれないけど、イエズス会にとってみれば「Keep your enemy closer」に過ぎなかったということ。
振り返ってみれば、村重謀反の際に、「ただちに開城しなければ、修道士達を高槻城の前で磔(はりつけ)にする」という、高山右近への苛烈な脅し発言さえしなければ、信長はずっと安泰だったのにね、
宣教師の「オルガンティーノ神父」が高山右近に「織田信長に降る(くだる)のが正義」と示唆して、信長を密かに応援してたんだから。
ほんの一言が命とり。
それが証拠に、イエズス会が後継者指名した秀吉は、その本心を注意深く隠しおおせましたな。
1587年のバテレン追放令までの約5年間、イエズス会による人身売買の事実なども知悉していたにもかかわらず、そういうことに触れる発言は一切しなかった。イエズス会にはいい顔のみを24時間見せ続けた。信長の失敗から、なにかを見習ったんでしょう。
さて、それではなぜ、「光秀による本能寺への出撃」がイエズス会および秀吉にとって必要だったのか?
「謀反人」として血祭りにあげるためです。非常にわかりやすい。
この目的完遂に向けて、秀吉の中国大返し⇒山崎の合戦、まで一気に事態が動きます。
(10)秀吉の中国大返し
本能寺の変の前に、秀吉と毛利家との間で、中国大返しのときに毛利軍はそのあとを追わない、と密約がすでにできていました。
これは、秀吉を後継者に指名したイエズス会も容認しています。
信じられないかもしれないですが、イエズス会は「敵」である信長を粛清するために、それまで石山戦争で血みどろの戦いをしていた毛利家を「味方」に引き入れたんです。
要は、本能寺の変の前の段階から、本能寺の変の勃発、秀吉の中国大返し、山崎の合戦にいたるまで、「イエズス会と毛利家の共闘」が実現しました。ただし、毛利家は秀吉の背後にイエズス会が控えているとは知らなかったこもしれない。
通常、撤退戦では、追いかけてくる敵を防ぐために決死隊としての「しんがり」が組織されるはずです。
信長の最大のピンチである1970年の「金ケ崎の退き口」で、決死のしんがりを務めたのが、秀吉自身だから、こんなことを知らぬはずがない。
しかし、中国の大返しで、屈強な「しんがり」を残したか、と言えば、寡聞にしてワタシはそんな話を聞いたことがない。
だから、事前に、秀吉が毛利家と密約を結んでいたに違いない。
「イエズス会と毛利家の共闘」、これもこのフォーマットの目玉なので、うまく描き切ってください。
(11)山崎の合戦
ところで、イエズス会と秀吉がこのごろ、本当にできていたのか、という根本的な質問が残っていますが、答えは簡単です、「本当にありました」。
山崎の合戦での秀吉軍の先鋒を務めたのが、高山右近ですから。
信長なきあと、右近に示唆を与えることができるのは、ただ一つイエズス会だったはずです。
その高山右近が何の躊躇もなく、中国大返しという「異常事態」を引き起こしている最中の秀吉軍の麾下に躊躇なく馳せ参じた。これも計画通りだとは思います。
だいたいこんな感じです。
エンタメとしては、なかなか盛り上がるフォーマットなので、ぜひともどなたかよろしくお願いします。
以上
【524】ブレイク:教養・文芸書における、最強、最速の読書術(523からの続き)
伊藤睦月です。
前回、『人生を狂わす読書』を紹介したが、作者紹介、内容要約、読みどころ、気の利いたコメント、など、世間話程度なら困らないぐらいの知識がゲットできる。通常はそれで十分でしょう。掲載作品50冊、そのラインナップも、しゃれている。例えば、『高慢と偏見』、『オリガモリソブナの反語法』、『死の棘』、『堕落論』、『チョコレート語訳乱れ髪』、『私を離さないで』など。興味がわいた本だけ、個別に読めばよい。1日で50冊読破!といってもたぶんごまかせる。
(2)次に、『100万回死んだ猫 覚え間違いタイトル集』これもスグレモノ。見開き2ぺージで、90作品。福井県図書館司書たちによる、生真面目な反応がくすっと笑えて頭に残る。
たとえば、(引用開始)
22 Q 『100万回死んだ猫』貸してください。 A こちらでしょうか。
『100万回生きた猫』ですね。この猫は100万回死んで100万回生きているのであながち間違いではありません。100万回の生き死にを繰り返しても泣かなかった猫がはじめて他者に惹かれて愛を知る、絵本の名作中の名作。あまりに有名なので、こういわれても悩むことなくご案内できるはずです。ちなみに『100日後に死んだ猫』という覚え違いのパターンもありました。こちらはワニの影がちらついてちょっと悩みます。・・・(引用終わり)
伊藤睦月です。この作品は、名作なので、読めば大概の人は泣けます。(私も泣きました・・・)が、これだけ知っていれば、読まなくても、これから先の人生困らない、と思います。
そのほか、いくつかの「覚え違い」があります。本の帯に紹介されているものとして、
『衝撃の巨人』、『下町のロボット』、『とんでもなくクリスタル』、『昔からあるハムスターみたいな本』、「なんかが強く吹きすぎている本』・・・など。いくつ、わかりますか。この作品たちもその中で特に気になるものをチョイスして読んでいけばよい。読まなくてもあまり支障ない。これも1日で90冊読破、です。
最後のきわめつけ。「解説目録」です。岩波文庫、岩波新書、中公文庫、中公新書、講談社文庫、講談社学術文庫、東洋文庫など名だたる文庫、新書、教養書を、120字程度で要約、解説してみせるスグレモノです。(受験対策にもなるかも・・・)
私は高校時代、解説目録を集めて読んでいました。当時は本屋でただでくれましたし、ないときは、出版社ではがきで申し込めば、ただでくれました。この本のおかげで、古今東西の、古典から最新作まで、人文・社会系古典的作品の作者名、作品名と主な内容を頭に入れることができました。専門にしなければ、知ったかぶりならば、これで充分だと思います。これも、気になれば、作品自体を読めばよいのですが、たいてい歯が立ちませんでした。(大汗)ほかに、「日本の名著・世界の名著」(中央公論社)などの目録がありました。今でもあるのかな。
実はこの方法は、多くの「読書家」がやってる方法だと、知ったのは、30代の時、谷沢栄一という読書家で知られた、書誌学者、評論家の本で知りました。そのころは、もうそういうことに飽きていましたが。これで、ざっと2千冊くらい、カバーできるのでは。
「広く浅く、とりあえず」なら、これで充分かと。あとは、自分の好きな分野、必要な分野を「深堀り」していけばよい。あとはお金をかけてよいなら、「名言集」、「読書論」、「書評本」とかの活用もあります。ITもありますが、アトランダムになりがちで網羅性に欠けます。ここに紹介した方法が、コスパ高いのでは。騙されたと思って、お試しあれ。あとアマゾンの紹介ページや読者感想にも読み応えあるものが散見されます。
もちろん、佐藤優氏が推奨するように、幅広い基礎教養、高校英数国理社の知識をしっかり身に着けること。それに比べれば、別次元、低レベルの話で恐縮ですが。以上「爺さんの読書談義でした」
以上、伊藤睦月筆
【523】ブレイク:「人生を狂わす読書」「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」で自分の平凡さを思い知らされる。
伊藤睦月です。歴史もののネタ切れしそうで、現在充電中。雑談っぽい話。
私は、年少のころから、「友達ができないタイプ」で、いつのまにか、「本がともだち」状態だったが、それでも、大したことはない。ふりかえれば、質量的に大したことがない。謙遜ではなく、実感。
例えば、作家の開高健は、家が貧乏だったので、小中高の図書館の本を全部読み、若いころから本の収集家だった友人の谷沢永一の蔵書を読みつくした、とか、佐藤優氏や副島先生が、中高生のころに読んでいた本について語っている文章などを読むと、あまりの格差にため息も出ない。そういう人たちと比べること自体間違いなんだろうけど、上には上がいる、と改めて、思う。
自分の頭、才能、使える時間、お財布の限界、などの制限のなかで、なんとかこれまでの人生、本嫌いにならずに、楽しめたのは、読む本、書き手たちのチョイスを自分相応に、間違えなかった、間違えてもすぐに修正できたからだと思う。
それでも、私の読書遍歴なんぞは、振り返ってみれば実に平凡なもので、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』にまとまってしまうような、ものらしい。
この著者の本は、SNSの投稿をまとめた『人生を狂わす読書』が好きで、この手の書評だと、もう紹介された本を読まなくてよくて・・・、という著者の意図とは、違う読み方をして、それですませる、という横着をしているが、それでよい、と思う。1994年生まれの、読書オタクな女の子に刺さった作品を知るだけでも、トクした気分になる。息抜きにはちょうど良い。
今後、こういう「ダレトクデスカネ?」という雑文も書かせていただきます。それが「ふじむら掲示板」だからいいだろう。
とりあえずの小休止でした。
伊藤睦月拝
【522】2054さんへ。対等なご議論をしていただき、まずは感謝です。
伊藤睦月です。2054さんへ。
私の半年も前の稚拙な議論(「409」2024.6.26)を拾っていただき、ありがとうございます。2054様は相当な「小林恵子推し」のようで、「推し」の闘争心に火をつけたようですね。わくわくします。
小林恵子説に関する、レスについては少しお時間ください。今彼女の著作を少しづつですが、入手して読み始めており、ある程度考えが固まったら、必ず、投稿させていただきます。
私、伊藤の、現在の関心事は、前回投稿しました、「見取り図」のピースを埋めることです。
これに対するご意見や参考情報等いただけると、ありがたいです。
それに、歴史ものも少し、煮詰まってきたので、他の分野の本にも手を出し始めています。例えば、
『記者と官僚 特ダネの極意、情報操作の極意』佐藤優・西村陽一中央公論社2024年、といったもの。先日地元の大型書店をぶらぶらしていて、偶然見つけました。まだ、表紙カバーしかみていないのに、衝動買いしてしまいました。佐藤優氏の「悪人顔」、いいですねえ。
ま、そういう次第でマイペースでやらせてもらいますので、2054さんも、お気楽におつきあいしていただければ、ありがたいです。
時節柄、ご自愛くださいませ。
伊藤睦月拝
【521】東川王の東遷(神武東遷)について(【409】への返信:その6)
2054です。今回は、東川王による東遷について考察したいと思います。この点について、伊藤氏による疑問が提示されました。伊藤氏によれば、もしそのような東遷の史実があるのであれば、その事情が中国正史に記載されているはずではないか?とのこと。
(伊藤氏の疑問提示:抜粋はじめ)
高句麗の東川王が、台与を押し立てて、東遷したという説を自説のように紹介しているが、なにか、そんな記事が宣王紀にあるのだろうか。そういう倭国内の事情は本紀よりも、この東夷倭人編にかかれてこそ、ふさわしいと思う。(抜粋終わり)
2054です。伊藤氏が「自説のように紹介している」と言及している説が小林説になります。小林説では、高句麗の東川王は九州にある邪馬台国(卑弥呼)を滅ぼし、台与を押し立てて近畿地方に向けて東遷したとします。神武東遷には何人かの史実が投影されていますが、東川王による東遷もその1つで、東川王は初代天皇である神武天皇となります。
そして、晋書に東川王による東遷が記載されていない理由は、晉にとって「都合が悪い」からです。その背景には、晉と敵対関係にある高句麗勢力(東川王系)が東アジアで勃興しており、倭国における東川王系の伸長を認めるわけにはいかない事情が控えています。
(引用はじめ 『興亡古代史』p97 小林恵子 文芸春秋)
この後(※266年の送使後)、晋は晋末の413年まで列島と交渉していない。『晋書』には倭人の条はあっても倭国の条はないのである。結局、晋は倭国の存在を認めなかったようだ。それは高句麗にもいえ、『晋書』には高句麗条そのものがない。その理由は244年に毌丘倹が高句麗を攻めて、東川王が逃亡した時、高句麗は消滅したというのが表向きの理由だろう。
しかし実は逆だったのである。250年前半に毌丘倹(かんきゅうけん)が幽州を去ると、再び高句麗が勃興していたのだ。東川王が高句麗を去った後、東川王の子の中川(ちゅうせん)王が高句麗に残っており、259年12月には魏勢と鴨緑江の支流で戦って圧勝し、再び高句麗は勢力を盛り返していたのである。この時点で半島中、南部は、ほとんど神武勢力下(※東川王勢力下)にあったから、列島を含めた極東地域は、東川王の子供か、その配下の者の国になっていたのである。
晋は晋に反抗した東川王の系統が極東で勢力を伸ばすことを認知するわけにいかなかった。だからこそ晋はその後、長期にわたって高句麗や半島中・南部、及び列島と国交を断絶したのである。
(引用ここまで)
2054です。当時の東アジア情勢に鑑みれば、晉が高句麗や倭国を「国家としてはなかったことにする」のもあり得る話です。高句麗は滅亡していることにしていますが実際には国力を増大させています。その高句麗系の東川王が「倭国で絶賛拡大中」とは認められません。そのような事実を記載するなど「もってのほか」です。
伊藤氏は【513】において「東倭はなぜ1回しか登場しないのか」と疑念を呈されていましたが、東川王と連合する東倭は東川王東遷の後盾になっていたことは想像に難くありません。しかし、高句麗は滅んだ、倭国?知りませんよ、そんな国というのが晋側の「大本営」のスタンスです。東倭について言及がないのはそれが理由と考えられます。
倭との交流はあくまで倭人だけということで「高句麗条」「倭国条」をつくらず「倭人」だけ東夷倭人編に記した。武帝紀にも「倭人が来た」としか記しません。そもそも国として認知・承認していません。そして、晉末期の413年まで国交を断絶しました。
東川王が神武天皇になって倭に乗り込むなんて夢物語(トンデモ)じゃないの?と見る向きもあると思います。しかし当時の東アジア情勢を見れば十分起こりうるシナリオです。
前回の投稿でも言及しましたが、朝鮮半島では土着勢力を巻き込んだ争乱が起こり、帯方太守や楽浪太守が殺害され、辰韓王も報復されています。隣接する日本列島がその余波を受けるのは自明であり、邪馬台国がいつどうなっても全くおかしくない状況です(だから帯方太守の王頎は邪馬台国の難升米に檄を飛ばしています)。
実際、毌丘倹の半島支配が確立すると、東川王は活路を求めて北九州に上陸。邪馬台国と戦い、卑弥呼を殺し倭王を僭称したと考えられます。
(引用はじめ)
東川王は246年に長寿山の戦いに敗れると、半島の西海岸を南に下り北九州に上陸した。そして247年に王頎の使者が来る前に卑弥呼を拘束して死に至らしめた。突然現われ、卑弥呼を殺し、北九州の覇を唱える東川王を奴国以外の北九州の卑弥呼側の国々が簡単に承認するはずはない。そこで東川王は卑弥呼の姪の台与を卑弥呼の代わりに祭祀権を授けて実権を握ることにしたようだ。しかし北九州勢力は、東川王は魏に敗れた高句麗からの亡命者だから、簡単に同盟すれば魏の怒りを買うことを恐れた。その上、精神的政治的支柱の卑弥呼を殺した事実は許せなかったらしい。北九州に定着することは困難とみた東川王は、卑弥呼の姪・台与を大物主のように疎外せず、祭祀者として取り込んで、はるかな祖先の休氏が辿った道、近畿地方に安住の地を求めて東遷する。台与を取り込んだのは北九州 も列島、つまり倭国の一地方にすぎなくするためだった。はたして、これ以後、北九州が倭国を代表することはなかった。東川王は『記紀』においては北九州から東遷した神武天皇といわれることになったのである。『記紀』では東川王の父山上王は高句麗で没したので、そのまま記録するわけにはいかない。 そこで神代最後の神ウガヤフキアエズとして名を残し、列島で没した東川王は人代の初代神武として名を留めたのである。東川王の名は東遷した王という意味を内在させている(小林恵子『古代倭王の正体』祥伝社新書p108~109)
2054です。東川王による「神武東遷」は、実際には順風満帆ではなく、毌丘倹の影響力が強いうちは、できなかったようです。本格化するのは、毌丘倹の没落した255年以降になりますが、その間に東川王も死去しています。東遷を完成させたのは、息子の神渟名川耳(かみぬなかわみみ)で、264年から265年にかけて近畿を平定。266年に即位します(これが綏靖天皇で、台与は皇后)。そして晉に承認を求めたが結果的には空振りで、国交は断絶したというのが歴史の流れと考えられます。
以上までで、ようやく【409】への回答が終わりました。伊藤氏にはいろいろ質問を提示していただき、また、長々とした説明をお読みいただき感謝いたします。
伊藤氏は2000年にわたる通史を作成されるとのこと、エネルギッシュさを尊敬しています。博学な伊藤氏にいろいろ教えていただきたいと思います。
【520】属国日本史論の見取り図(伊藤ファンタジー)を提示します。
伊藤睦月です。私の「属国日本史論」メモ、アトランダムに続けます。(過去分の重複、上書き御免)
1 「九州王朝説」(古田武彦)の採用(真理の整合説:下條竜夫)
(1)「邪馬台国九州説」、「邪馬台国所在問題」、「卑弥呼の正体」、「邪馬台国東遷説」、「広開土王との死闘」、「倭の五王あてはめ問題」「隋書倭国伝:タシリヒコ問題」、「旧唐書倭国伝、日本伝の併存」問題は、「九州王朝」の存在を前提としないと、うまく説明できない。(科学的方法論を採用した「考古学」・「文献学」の成果が裏付けつつある)
(1)ー2:「騎馬民族征服説」は「邪馬台国東遷説」のバリエーション。
(1)-3: 4世紀の畿内に「民族」はこなかったが、「騎馬」は伝わった。
(1)ー4:「騎馬」をいち早く採用した「ワカタケル」(雄略大王)が、畿内を統一して、勢力を「西進し」九州王朝を圧倒した。
(2)日本書紀は、「大和王朝」の歴史。
(2)-2:宮内庁公認の「皇室系図」は、ヤマト王朝の系図に九州王朝の系図が巧みに織り込まれている。
(3)天武・持統王朝の正統性を「国内の他の有力豪族向け」に主張(啓蒙普及)させるために、あえて、「ネイティブ漢文」で作成して、らしく装った。
(3)-2:日本書紀の「帝紀(大王の年代記)」と「旧辞(その他のエピソード集)」に、九州王朝の歴史書「日本旧記(古田武彦)」を巧みに混ぜ込んでいる。
(3)-3:中国正史の「倭の5王」と、日本書紀の「河内王朝、播磨王朝」の王たちは、別人とみると説明がうまくいく。
(3)の2:遣唐使は、日本書紀を唐皇帝に提出しなかった。(できなかった。「天皇号」承認問題。則天武后に「天皇」と名乗る度胸がなかった、とみるが、最初から提出する気がなかったとも解釈できる。
(3)の3:日本書紀完成後、ほぼ30年に1回、当時の貴族(官人)全員を対象に「日本書紀勉強会」を開催して啓蒙普及に努めた。
(3)の4:その時の講義レジメが「日本紀私記」(第2回目が有名な多人長の『弘仁私記』、人長は、この序文で、あんちょこ(古事記)の存在をばらした。)
(3)の5:『古事記』は、歴代講師(太安万侶の子孫)の「指導書(あんちょこ)」として、「多家秘伝の書」として書かれた。(だから、鎌倉時代の写本が最古であり、また、ネイティブ漢文でなく、当時の日本語である、変体漢文(万葉仮名)で作成。
(3)の6:日本書紀講義は、藤原北家の摂関政治が確立(960年ごろ)した後、その役割を終え、終了。
(3)-7:18世紀の国学者、賀茂真淵は、古事記の序文が平安時代初期の作だと見抜き、弟子の本居宣長に手紙で知らせた。本居宣長は、それを受け、序文は無視して、本文のみを分析、解釈して「古事記伝」を完成した。その後、現在まで、「古事記伝」が正統の学説となる。
(4)戦後、古事記偽書論争がおこったが、2000年代に至り、「序文は偽書、もしくは疑問。本文は本物」という解釈が主流となり、建前はともかく、論争の意味が事実上消滅した。現在では、偽書かどうかを争うのではなく、「本居宣長に帰れ」とのスローガンのもと、本文の内容研究が中心となっている。
(5)古事記作者についても、「稗田阿礼については、ペンディング、存在不明。太安万侶は実在が確実なので、彼が中心となって古事記を完成した」というのが学会主流。また、稗田阿礼の正体については、天武10年に結成された「日本書紀編集委員会」のメンバーのなかから、作者を推定する見解が現れ、定説になりつつある。
2 遣隋使以来、倭=日本は、中華帝国と対等関係を主張し、その後ずっとその態度を貫いた、というのが、戦前・戦後日本史学会の「定説」だった。
3 しかし、西嶋定生ら、「世界史の中で日本史を考える」東洋史学会は、「対等論」に正面から反論せず、史料、事実の提示で「違う」ことを示唆しつづけた。(1970年代から、はっきりと、主張した岡田英弘は、日本史学会、東洋史学会、両方からシカトされた)
4 2000年代に入り、学会定説の「対等論」に疑問を表明する研究者が現れた(中村修也、河上麻衣子など)また、「魏志倭人伝」に関して、岡田英弘説を採用する東洋史学者(渡邊義浩など)、考古学者(片岡宏二など)も現れだした。その決定版が1995年の副島隆彦「属国日本史テーゼ(仮称)」。
5 「漢委倭奴国王」、「親魏倭王」「倭の五王」までは、他の東アジア諸国と同じく、「朝貢・冊 封」による、貿易利権の独占と国内支配権の権威付け、図った。
6 遣隋使で、中華帝国と対等の関係構築を目指したが、失敗した。しかし、国内的には、対等関係構築に成功したふりをして、国内的にアピールし続けた。その後も同じ。実質的には、貿易利権(朝貢貿易)の確保と仏教文化、律令制度、など中国文明の輸入で満足した。
7 遣唐使でも、第7回で、「日本国号」は認めてもらったが、「天皇号」については、使用申請すらできなかった。その後の遣唐使でも、「天皇」ではなく、「スメラミコト」で終始せざるをえなかった。
8 「天皇号」が中華帝国に承認されるのは、北宋以降であるが、「対等」ではなく、「朝貢国」という前提であった。これ以降は、対中国交流の窓口は、天皇・公家から、僧侶、そして、武家に移った。鎌倉時代はその移行期。(蒙古襲来で初めて、窓口が問題となり、宋学移入のきっかけをつくった)
9 武家の時代になり、足利義満は、本音ベースで「日本国王」の冊封を受け、貿易利権を独占しようとした。この方針は、次代の「足利義持」以外の歴代の足利将軍たちに受け継がれ、将軍達は、明帝国に朝貢使を出し、日本国王の冊封を受け続けた。(1500年代になり、細川氏→大内氏に受け継がれた)
10 秀吉による、朝鮮出兵の講和交渉で、明側は、前例にのっとり、秀吉に「日本国王」の冊封をしようとしたが、拒否られ、逆切れされた。明側からすれば「不当な言いがかり」だった。
11 豊臣政権を引き継いだ徳川政権は、中国との国交を回復しようとしたが、「冊封問題」のため、実現できず、琉球王国に代わりに朝貢させることで、貿易実利を獲得することができた。この状態は、明治まで続いた。
12 明治になり、欧米式の外交関係を樹立しようとした。最終的には「戦争という外交手段」により、対等の関係を樹立できた。(1895年下関条約)その後の展開は、おおむね、高校日本史の教科書どおりに進行した。
13 中国の属国を脱した後は、大英帝国の属国となり、太平洋戦争の敗戦後、合衆国の属国となり、現在に至っている。
14 その後、「9.11終わりの始まり」以降、合衆国の求心力が弱まりつつあるが、その後の展開について、副島隆彦先生の「予言」が続いている。(佐藤優氏によれば「預言」だそうだ)
以上、伊藤ファンタジーの見取図でした。今後、必要に応じて改定していきますし、この見取図のもと、枝葉、各論について、議論していきます。
ので、悪しからず。
以上、伊藤睦月筆
【519】仮綬の意味について(【518】へのご返信)
2054です。仮綬については横道にそれるので言及を避けていましたが、伊藤氏からタイムリーな投稿がありましたので、「返信:その6」をまとめる前にこの点について考察してみようと思います。
東倭は240年に帯方太守から詔書を仮綬しただけだから、これは偽物で邪馬台国の朝貢とわけが違うというアイデアが【518】の伊藤説です。しかし、「仮綬」だからニセモノとは言えません。帯方太守の独断で詔書が発行されたのではなく、実質的な最高権力者=司馬懿の意向をもとに帯方太守から渡されているのですから、東倭からすればそれは「本物」です。東倭の使者の面前で「これは仮だから」と言ったわけでもないですし東倭は大いに宣伝したでしょう。
史書(魏志倭人伝)の記述だけに絞ってみれば、東倭に限らず、邪馬台国の金印・親魏倭王も「仮綬」です。皇帝が授けているのに「仮に」って何なの?と思います。なぜ「仮綬」という、わけのわからない表現になっているのか?という疑問がわきます。
その正解は、小林恵子の『興亡古代史』p77~78にあります。
(引用はじめ)
明帝の詔には金印を仮授するなど他にほとんど例のない「仮」という語が使われている。これは「魏志」の「倭人伝」に記されている事柄で、「魏志」の本紀には238年に卑弥呼の使者が都に来たと記していないから、 もちろん「親魏倭王」を仮授したという条もない。卑弥呼の送使は本紀では抹消されているのである。
しかし明帝は正式に卑弥呼を倭国王として「親魏倭王」の金印を与え、莫大な贈物をしたと思う。(中略)ではなぜ本紀は卑弥呼の送使を抹消し、「倭人伝」は「親魏倭王」を「仮授」したと表記したのか。皇帝から直接、任命されたのではなく、王から任命された場合、「仮授」というのではないかとする意見がある。しかし中国で「仮授」にそのような意味を持たせた例を私は知らない。
「倭人伝」には、卑弥呼の記事に引き続いて、正始元 (240)年、太守の弓違が使者を倭に使わして、仮に倭王に任命するという詔を下し、金や錦、刀、鏡を下賜したので、倭王はその恩に対して感謝の返礼をしたとある。
この時の太守は卑弥呼の時の劉夏と違って、弓遵という人物になっている。それにしても先年、卑弥呼は明帝によって、倭王に任命されているのだから、太守の弓遵が重複して卑弥呼を倭王に任命するというのはおかしい。
卑弥呼の使者、難升米等は238年11月に都に到着して明帝に対面しているが、翌12月に明帝は死んでいる。明帝が死ぬと、司馬懿は明帝の養子の子供を擁立して実権を握った。つまり240年の太守弓遵の倭国への送使はすでに明帝は死んでいるから、司馬懿の意志だったのである。
司馬懿は明帝、毌丘倹、劉夏ラインが倭王として認知した卑弥呼ではなく、司馬懿自身が別に倭王を立てて、 毌丘倹の遼東から列島にかけての勢力を排除しようとしたのである。
このことは「倭人伝」において、卑弥呼を女王と表記しているが、正始元年条では倭王と記して、区別していることからもわかる。卑弥呼はあくまでも女王であって、倭王ではないのである。後王とは男王のことである。
このように明帝=毌丘倹と司馬懿の勢力争いの結果、列島は明帝が認めた倭王卑弥呼の他、司馬懿が倭王に任命した倭王が存在することになった。『三国志』の編者、陳寿は魏の忠臣だったから、卑弥呼を倭王としたかったのだろうが、しかし事実は司馬懿が任命した倭王が別にいた。そこで卑弥呼ともう一人の倭王という二人の倭王任命には不確定な「仮」という文字を使ったのだろう。
(引用終わり)
2054です。伊藤氏は先の投稿で、明帝と司馬懿の権力闘争という点についてその時点では存在しないと判断されていました。しかし、実際には権力闘争は水面下を含めると相当あったのではないでしょうか。その現れが倭国代表の2国です。
もし司馬懿がその当時、明帝の忠臣であるならば東倭を呼び寄せること自体が不遜です。明帝は邪馬台国に金印を渡しているのですから、それは明帝の意向を踏みにじる行為です。そして、史実からは「明帝、毌丘倹、劉夏ライン」に対抗して「司馬懿、高句麗、弓遵ライン」がほの見えます。
高句麗は公孫氏と対立していましたが、魏の公孫氏討伐の際、司馬懿には援軍を出しますが、毌丘倹には出しません。毌丘倹は245年に高句麗を滅亡させます。司馬懿は毌丘倹の支援をした形跡はありません。
弓遵は半島土着の勢力(辰韓)に反乱されて戦死しています。この土着勢力は水面下での毌丘倹の支援の可能性があります。弓遵の後を継いだ帯方太守は毌丘倹側の王頎であることがそのことを物語っています。そして王頎は徹底して東川王を討伐します。その際、司馬懿側の楽浪太守・劉茂は王頎に援軍を出さずに黙殺します。そして劉茂は土着勢力(辰韓ら)に殺害されます(新羅本紀・助賁王17)。他方、助賁王は突如、歴史上から消えます。司馬懿側に殺害されたと推測されます。この一連の闘争の中で、邪馬台国の難升米は王頎から黄幢が授けられ檄を飛ばされています。
これらのいわば魏の内乱に等しい状態は、正史においてはごまかされてしまっています。
(引用はじめ)江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武(現代思潮新社p223)
現地勢力及び助賁王と臣賁沽国王との戦いによって、楽浪太守の劉茂が戦死するという未曾有の事件は、その背後には毌丘倹と王頎がいるからこそ成功したのではないか。いや、むしろ 私は王頎自身が出陣して劉茂を殺したと思っている。それは、楽浪太守だった劉茂が殺された翌年の247年(正始8)、王頎が帯方太守として卑弥呼に使者を送っていることによって想像されるのである。王頎は劉茂を殺して帯方太守の地位を強奪したのではないか。「魏書」(斉王紀注二)には、王頎は東萊(山東半島)の人だが、孫の王弥は、晋の永嘉年間(307~12)の大賊だったとある。王頎自身のその後のことは不明だが、少なくとも晋朝において出世した様子はない。
「魏書」の著者陳寿は、斉王本紀に、245年の王頎と東川王との戦いの後始末ともいうべき翌年五月の濊・狛の討伐と数十国の降伏のみを記して、246年8月から始まる王頎と劉茂との対決、それから10月から11月にかけての劉茂の戦死を隠蔽してしまったのである。その理由は、劉茂の戦死は、陳寿の書いているような現地人の反乱というような単純なものではなかったからだ。陳寿は、劉茂の死の真相を明らかにしたくなかった。だからその死の前後を年月もふくめてぼかしてしまった。
(引用終わり)
2054です。伊藤氏は「東倭」の存在を首肯されるとのこと。このように従来の前提を覆して新たな前提を設定すると、次々と疑問点が浮かぶと思います(私はそうです)。その際には本当に頭を使いますし、面白味がありますよね。伊藤氏はお風呂の中でも考えられていたとのこと。また何か良い着想があればご教示いただければ幸いです。
【518】東倭にかんする、ちょっと気になること。
伊藤睦月です。東倭の存在については、2054さんの説明で納得なのですが、気になっていることがひとつ。なぜ、帯方郡の長官が仮綬したのか。すこし引っかかっていましたが、風呂に入ったら急に思いついたので、忘れないうちに書き留めます。
それは、東倭の朝貢時には、宣帝=司馬懿は、まだ皇帝ではなかったから。
史実として、司馬懿は皇帝にならず、孫の司馬炎の代になって西晋の皇帝になりました。
この卑弥呼や東倭の朝貢の約10年後、明帝の死後に、曹一族による、司馬懿排除の動きをしたのですが、逆襲され、曹一族の主だった者は捕縛、処刑され、それ以降、司馬懿とその一族が、実権をにぎり、魏皇帝は傀儡となってしまいました。
晋書宣帝本紀は、後世「宣帝」の名を追贈された司馬懿の功績を称えるために書かれたものですが、当時は、東夷の朝貢を受けることはできても、倭国王の官位を与えるのは、司馬懿の越権行為、下手すれば明帝から処罰されても、文句は言えません。
だから、魏都では、倭国王の詔書は与えられず、自分の地盤である、帯方郡の長官から渡すことになったのだと思われます。厳密にいえば、東倭に与えた詔書は、正式のものではない、ニセモノです。東倭の使者はそんなこととは知らず、喜んで受け取ったでしょう。だから、邪馬台国女王の朝貢とは違って、当時、東倭の来訪は、そんなに大々的に喧伝できなかったのでしょう。むしろ内密にされた可能性もあります。正史における、邪馬台国の記事と東倭の記事の扱いの差がでたのは、以上のような事情があったのではないかと、推測します。勝てば官軍なので・・・
以上、伊藤睦月筆