ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
伊藤 投稿日:2024/12/17 11:51

【537】急いで加筆します。倉本一宏は、日文研にも所属してました。

伊藤睦月です。以前言及していた、倉本一宏氏は日文研OBでした(2018年頃)。他の本を読んでいたら出てきましたので、備忘録として書き留めます。山川教科書にも「梅原一派」が・・・それがどうした?と言われそうだが。

伊藤睦月筆

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/17 09:37

【536】小林恵子説のプロトタイプとしての「騎馬民族国家」征服説について(1)

 伊藤睦月です。小林恵子説について、副島先生の過去の投稿まで飛び出して、にぎやかになってきましたので、ここらで、私なりにまとめておきたい。

(1)小林恵子説だが、これは本人が明記しているように、「江上説の歴史版」(『古代倭王の正体』まえがき)だから、小林説を吟味(批判)するには、そのプロトタイプとなった江上説の吟味をするのが、順番であろう。長くなるのは仕方ない。

(2)騎馬民族王朝征服説の定義(小林による)

騎馬民族征服王朝説とは、

(2)ー1:列島で巨大な古墳が作られた4世紀頃から

(2)ー2:大陸の遊牧民が大挙して、列島に押し寄せ、

(2)ー3:それまでの土着民を征服し、

(2)ー4:国家を征服した

(2)ー5:このことは、巨大古墳や、

(2)ー6:発掘された武具や馬などの遺物から証明される、というもの。(小林同書、枝番は伊藤)

(3)ー1:伊藤睦月です。さらに小林は、「江上氏の学説の根拠は、日本人が自由に大陸に行くことができた1930年代に(注:江上説が発表されたのは。1948年、日本独立、日中国交回復前)

(3)ー2:大陸の古墳や出土品と日本の古墳時代の出土品を比較検討した結果、その「関連性」に注目したことにあった。(以上同書)

(4)伊藤睦月です。これは、江上支持者の小林の定義。次に江上批判者による、定義を紹介する。

ここで、小休止。

伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/16 09:01

【535】かたせ2号さんへ:さらなる御礼

 伊藤睦月です。「前原誠司」に関するより正確な情報、ありがとうございました。「前原誠司」の名前を憶えているのは、副島先生の口からその名が出たことです。

 昔々、副島先生が、TVの不定期コメンテータをされていたころ、(笑い)、前原から、「ソエジマさんのように本当のことばかり言っていると、そのうち誰からも相手されなくなるよ」といった趣旨の「忠告」をうけたことがあるそうで、過去の「重掲」か「ぼやき」にも書かれていたような記憶が・・・記憶ばかりで恐縮ですが。

 前原は、母子家庭で、苦学して京都大学を卒業したとか。それ自体は尊敬すべきことですが、それから、どういう経路で、ジャパンハンドラーズ(この言葉も最近、言われなくなりましたね・・・)にリクルートされたのか。高坂正尭がリクルータだったのか。そのところはよくわかりません。高坂も自分がそうだとは言わなかったでしょうから。

 以上、年よりの昔話でした。

 時節柄ご自愛ください。

伊藤睦月拝

 

 

 

 

かたせ2号 投稿日:2024/12/15 19:40

【534】お礼_伊藤睦月さんへ。

伊藤睦月さんへ。
かたせ2号です。
多数の投稿ありがとうございます。刺激になります。

1.
ワタシが権利放棄した「本能寺の変の真実のフォーマット」は、煎じ詰めて説明すると、下掲の投稿で紹介済の3冊の書籍に記載の内容に、以下の2つの命題を付け加えただけです。なので、自分のオリジナルだ、などと、強く主張する気にもなれないわけです。

(1) 本能寺の変の直前まで、信長が朝廷に暦を改めるのをしつこく要請したのは、
「信長の墓穴を掘るために、イエズスが信長に命じて、信長自身にやらせたこと」。
(2) 本能寺の変後の、秀吉の「デウスの恩寵による」神速の動きは、秀吉を介してのイエズス会と毛利家との「権力者共同謀議」。
すなわち、秀吉が中国攻めを独断で中止し和睦(毛利家はすぐさま応じる)⇒中国大返し(毛利家は追撃を一切しない)⇒山崎の合戦(秀吉方の軍勢の先鋒で高山右近が戦う)

ですので、以上の内容は、どなたが使って表現いただいてもかまいません。
そもそも、歴史の真実に著作権者という者はいません。歴史の真実は模倣されるためにあります。真実は多くの人びとのためにあります。それを大いに多くのみなさんに使っていただいて結構なのです(強気やなああ 笑い)。

2.
高坂正堯が、松下政経塾入りを勧めたゼミ門下生は、おそらく、前原誠司だけだと思います。
ワタシは前原誠司のことが昔から大嫌いですが、そのキャリア形成において可哀想な面も、あったかなと推察しています。前原誠司は、松下政経塾8期生です。

というわけで、以下の英文は、単なるゲスの勘ぐりなので、エンタメ案件の扱いでOKですが、
Maehara is a “dedication” from Kosaka to Matsushita.

前原誠司インタビュー記事から。
http://www.maehara21.com/kiji/kiji25.html

(引用開始)
◆政治家の本棚――71 運命の高坂正堯『国際政治』との出会い 2/2 

―――前原誠司という政治家のまさに骨格のところだ。京大を卒業してこんどは松下政経塾へ行く。なぜですか。

前原:将来は大学に残るか外交官か,もう一つは漠然と政治家にと。高坂先生は,学者は天才でなければならない,外交官は東大が羽振りをきかせていたのでどうか,おまえはおやじがいないからどうかと。それで「山田を紹介してやるから」と。いま杉並区長をしている山田宏さん,高坂ゼミから松下政経塾に行った先輩なんです。
(引用終わり)

かたせ2号です。
山田宏のサイトから。
結局、前原に(のみ)松下政経塾入りを強く勧めた高坂の真意は何だったのでしょう?
ちなみに、前原誠司は松下政経塾8期生、山田宏は2期生です。

https://www.yamadahiroshi.com/pickup03.html
(引用開始)
(山田宏は)親に内緒で(松下政経塾への)願書を出した。一次、二次試験を通り、最終の面接試験を迎える前、塾側から、ゼミの教官の推薦状をもらってくるように、との通達を受けていた。山田は躊躇した。なぜなら、ゼミの教官・高坂正堯は松下政経塾の理事でもあったからだ。理事に便宜を図ってもらって試験に有利にするような真似はしたくなかったのだ。
 やむなく高坂に事の成り行きを説明し、推薦状をいただきたいと言った。喜んで書いてくれると思っていたのだが、答えは案に相違して「やめとけ」だった。「五年間そこで学んでも食いはぐれるだけや。京大を出てもムダになるだけ。愛するゼミ生をそんな目に遭わせたくない」
 それでも、山田は食い下がった。自分がやりたい道はこれだ、と確信があったからだ。
 結果的に高坂は五年の間に会計士の資格を取るということを条件に推薦状を書いてくれた。設立間もない松下政経塾は、当の理事からさえ「海のものとも山のものともわからない」という程度にしか思われていなかったのだろう。
(引用終わり)

以上

伊藤 投稿日:2024/12/15 07:42

【533】京都学派のことで追加

 伊藤睦月です。書き忘れていましたが、「梅原猛」一派の有力な後援者が「松下財団」です。松下政経塾などは、副島先生もよく言及されます。ちなみに、現在維新の共同代表である、前原誠二は高坂マサタカの弟子で、高坂から後継者になれ、と言われたのを断って、政治家になった、という「武勇伝」を持っています。なんか、みんなどこかでつながっていて、キモチワルイ。彼だけではないはずです。

以上思い出しました。伊藤睦月筆

伊藤 投稿日:2024/12/15 07:29

【532】なんかにぎやかになっていますねえ。こりゃ楽しくなりそうだ。

 伊藤睦月です。年寄りの何とかで、早朝目を覚まして、掲示板をみてみたら、2054さんはじめ、投稿がにぎやかになっていて、ちょっと驚いたと同時に、うれしくなりました。投稿いただいた皆様、ありがとうございます。清野さんて、20年ぶりに拝見するお名前ですね。よろしくお願いします。あとは守谷健二さんの参戦をまつばかりですね。楽しみにしています。

 ところで、1次史料うんぬんについて、私は、「冊府元亀」や「資治通鑑」「太平御覧」といった2次史料を軽視しているのではなく、1次資料史料で説明つくならそれでいいじゃないか、わざわざ2次資料を持ち出さなくても用は足りる、という考えです。もちろん1次資料で自説を説明できないときは、そのリマークさえあれば、2次資料でも、何でも使ってよいわけで、小林恵子氏に限らず、学会主流であろうがなかろうが、「冊府元亀」や「資治通鑑」は研究者たちにモテモテです。

 それから、副島先生が「小林説」に引き込まれながらも、全面賛成ではなく、「時間軸」で踏みとどまっておられる、のは、僭越ながら、素晴らしい。副島理論の一つ「真実の時間計算」の一つかと勝手に納得しております。2054さん、副島先生は、決して「首肯」していないと思いますよ。うれしいのはわかりますが。

 あ、それから学会主流ですが、固定的なものでなく、その時代時代で「はやりすたり」があります。歴史学の場合をとっても、明治~昭和の敗戦(ランケ流の史料重視主義→皇国史観→唯物史観→弾圧による沈黙)戦後(津田左右吉流の造作論→その反動、文献学、考古学、いわゆる歴史サイエンスの導入など)この100年ばかりのあいだに「主流」は、目まぐるしく動いております。だから、「現時点での標準的見解」ぐらいの意味ですが、学問的な議論をするのに、無視しないことは、大事だと考えています。それだけのことです。我々、アマチュアであればなおさらのことです。

 ちなみに、副島先生が書かれていた「梅原猛一派」は、津田流への反発の流れの一つ。本当は覇権国アメリカの意向を受けて動いている「京都学派」のなかの「サントリー財団」「PHP」などの支援を受けている学者・文化人たちです。(もちろん、全員ではありません、と思いたい)、例えば、高坂マサタカ、梅棹忠夫、司馬遼太郎、梅原猛、上山春平、谷沢永一、たちです。現在でも多数います。彼らに比べ随分小物になりますが、呉座勇一(応仁の乱)、磯田道史(武士の家計簿)といった人たちは、中曽根康弘と梅原猛らが京都の山奥に、創設した「国際日本文化研究センター(日文研)」に梅原からスカウトされた人たちです。梅原は同センターの初代所長、現所長は井上章一(京都嫌い)です。なんか通説に反抗するのが「生きがい」のような人たちにみえます。アンチ東大。彼らの「鉄砲玉」が「新しい教科書を作る会」に属する、全国の学校教師やアマチュア歴史愛好家たち、彼らは、今どこにいるのでしょう。

 ちなみに、本郷和人や倉本一宏(光る君への時代考証)といった東大系の学会主流(わかりやすく言えば、山川教科書を書いている人たち、いわば、歴史官僚といってもよいかと。或る意味正統派)の人たち、とその関係については、正直わかりません。私の勘、です。はい。(汗)

 いずれにしても、私の「充電」は適当な段階で、いずれ、アップさせていただきます。その時はどうぞお手柔らかに。

以上、伊藤睦月拝

 

 

 

 

 

会員番号2054 投稿日:2024/12/15 05:09

【531】副島先生の小林恵子評を転載いたします

2054です。重たい掲示板に小林恵子に関する副島先生の記載を発見したので、転載いたします。副島先生は、岡田英弘教授の系譜を引き継いでいると思っていますが、その副島先生が「私は、この小林恵子氏の本は、十分の根拠を持っていると判断した。」と述べられています。本当に懐が広い知識人なのだと(今更ながら)あらためて実感いたしました。

(転載はじめ)
https://snsi.jp/bbs/page-1/page/163/
【1545】[1878]難民(なんみん)問題としての世界の古代史。『古代倭王(わおう)の正体』を読んだ。
副島隆彦です。  今日は、2016年3月13日です。
(中略)
私は、この3日間、一冊の本を、ずっと読み続けた。 それは大きくはこの難民問題に関わるからだ。

『古代倭王(こだいわおう)の正体』(祥伝社新書、2016年2月刊)という本で、著者は、小林恵(やす)子 氏だ。 小林氏は、1936年生まれで、岡山大学の東洋史を出た女性で、現在、 80歳になるおばあちゃんだ。

この「古代倭王の正体」 という古代史の本をずっと、私は没頭して読んでいた。小さくメモを取りながら、地図帳(日本と世界の両方)と 歴史年表(日本史と世界史の両方)で事実と年号と場所 を いちいち確認しながら読んだ。

 古代の倭王(わおう)というのは、倭国(わこく。西暦668年に、「日本」 と自分で名乗る前のこの国のこと。天智(てんち)天皇の時の近江令=おうみりょう=で出現した )の王たちのことだ。倭の国王(こくおう)たちの歴代の歴史のことだ。

 私の本で説明した「天皇(てんこう)とは、北極星(ほっきょくせい)のことである」という説を書いてきた斎川眞(さいかわまこと)氏と私の共著は、今年中に出したい。

 私は、この小林本が、一番、おしまいの方で書いている、日本(倭)に、西暦600年に、タクラマカン砂漠の方から、渡って来た、西突厥(にしとっけつ)の達頭(タルドウ)可汗(カガン。ハーン)が聖徳太子(しょうとくたいし)である、というあまりの 大きな話に、卒倒しそうになった。

 私、副島隆彦は、「聖徳太子 は 蘇我入鹿(そがのいるか)である」の 関裕二(せきゆうじ)説に、それが登場した32年前(1984年)から注目した。そして、同時に、岡田秀英弘(おかだひでひろ)東京外語大学名誉教授(存命)の 「華僑(かきょう、オーヴァーシーズ・チャイニーズ)たちが、古代日本を作った」説を信じて、自分の日本古代史の本も書いてきた。

 今では、欽明(きんめい、第29代天皇。在位539-571年)は、蘇我稲目(そがのいなめ)その人であり、次の敏達(びだつ、第30代 )と、用明(ようめい、第31代)天皇は、蘇我馬子(そがのうまこ)であろう、ということは、日本史学者たちが、呻き(うめ)声を上げながらでも認めなければ済まなくなっている 日本史(古代史)学界の 事実である。 

 「 えーい。もうどうなってもいい。史実などどうでもいい。厩戸王(うまやどのおう)がいたということにする。この厩戸皇子(うまやどのみこ)を、 聖徳(しょうとく)ということにしてしまえ。そうしないと、 『聖徳太子はいなかった』論争で、乱れに乱れた日本古代史は、大変なことになる 」 と、この10年で、苦し紛れに、歴史の大改竄(かいざん)をやっている。居直り尽くした日本文部科学省と、盲目的な天皇崇拝の体制護持派 が、困ってしまった。「聖徳太子はいなかった」の騒動を、無理やりでも鎮圧したのだ。

 私、副島隆彦は、この事態に追撃の手を緩めない。 私の『闇に葬られた歴史』(2013年11月刊、PHP 研究所 )を読んでください。 聖徳太子はいなかった論を、私たち、学問道場の13年前の議論からさえ「も」泥棒して一大議論を作った、大山誠一(おおやませいいち)一派が、卑屈なる日本史学者の伝統で、吉川弘文堂(よしかわこうぶんどう)という、権威的な日本史出版社からの、脅しも有って、「聖徳太子はいなかった、では、日本の国の国体(こくたい、こっかたいせい)が、揺らぐから、もうこの辺で、議論をやめて、厩戸王という( バカな、何の存在根拠もない)人がいた、ということで、収めましょう」 ということになったのだ。  

 私、副島隆彦は、それらのおかしな取り決めを一切、認めない。これからも、お前たちの 学問犯罪の所業を、追撃し続ける。

 蘇我氏が、西暦530年ぐらいから640年ぐらいまで、大王(だいおう、オオキミ)を名乗り、山門(やまと)や、御門(みかど、ミカド)と呼ばれる建物(邸宅、朝廷 そのもの)に住んでいた。近くに甘樫(あまかし)の丘というお城( 武器庫、と今は言われる)が今の奈良県明日香村あった。蘇我氏の一族の大きな住居 でかつ迎賓館が、斑鳩(いかるが)寺=法隆寺 である。  

 飛鳥寺(あすかでら)という古い、40年前ははぼろぼろだった寺の敷地の隅(すみ)に、入鹿大王(いるかだいおう)=聖徳 の 首塚(くびづか)がある。これは本物だ。重要人物殺された、その地にある首塚は簡単には移せない。怨霊(おんりょう)がそこに有るからだ。

  私は、自分が、17歳のとき(高校2年、このあと高校を中退、放校とも言うの1970年に、この当時まだボロボロだった飛鳥寺を見に行った。和辻哲郎(わつじてつろう)の 「大和古寺巡礼」という本を持って。 飛鳥寺の鬱蒼(うっそう)とした、古い仏像を見て「これには妖気が漂っている」と感じた。

 今度、私は、小林恵(やす)子という、80歳のおばあちゃん学者の「もう白内障で目が見えないから、本を読めない」と「あとがき」のある本、『 古代倭王の正体  海を越えて来た覇者たちの興亡 』 「卑弥呼、神武、ヤマトタケル、応神、雄略、聖徳太子、日本列島生まれは一人もいない ! 」「邪馬台国の所在地、天皇家のルーツが見える。紀元前から6世紀まで、ユーラシアを貫く壮大な古代史」 ・・・・

 この本の気宇壮大(きうそうだい)、荒唐無稽(こうとうむけい) は、私、副島隆彦でも簡単には付いてゆけない。 高句麗(こうくり)王、 と 新羅(しらぎ。辰韓=しんかん=)王 と 百済(くだら)王 と そして、倭王(初期天皇)たちが、入れ替わったり、同一人物だったり、一時、日本にいて、それからまた高句麗や百済に戻って王になった、と。

 日本(福井県、若狭あるいは、丹波=多婆邦(タバナ)王国 生まれの 脱解(だつかい)(紀元前19年生)が、弁韓(べんかん)=金官加羅(きんかんから)国=伽耶(かや)国=日本名は任那(みまな)で、受け入れられず、弁韓=新羅 で育ち、月城=現在の慶州(けいしゅう、キョンジュ)で、新羅王になる(P60)。

 ・・・・・この脱解(だつかい)が、高句麗王(こうくりおう)大武人(だいぶじん)になり、日本(倭、まだ 奴国=なこく= )にやってきて、神武(じんむ)天皇のモデルになった。スサノオノミコト の モデルでもある(P69)。

 「魏志倭人伝(本当は、東夷伝倭人)」の中の、卑弥呼の死(西暦248年。これには異論がない )のあと、皆に支持されなかった男王 がいて、この男が、神武であり、この神武東遷(じんむ・とうせん、東の方への征服の移動 )は、248年で 北九州の博多湾の邪馬台国でまさしく卑弥呼が死んだ年だ、と。

 小林恵子説は、卑弥呼は、中国の江南(今の、上海あたり)の地の巫術(ふじゅつ)師の 「許(きょ)」氏の出で、三国志が始まる 後漢(ごかん)末の大混乱の時、西暦172年に、中国の南から、日本列島に渡り、奄美大島に着いた、とする。 確かに、あそこの島々には、巫女(ふじょ、みこ)の伝統が残っている。

 このあと博多湾の隣の糸島の湾にあった 伊都(イト)国に住み、平原(ひらはら)古墳に242年に埋葬された。この古墳から、日本最大の変形内行花文八葉鏡(へんけい・ないこう・かもんはちよう・きょう)が見つかっている(P85)。 同じものが、伊勢(いせ)神宮の伊勢の瑞龍寺山頂(ずいりゅうじ・さんちょう)古墳からも出ている(P87)、そうだ。

 私、副島隆彦は、これまで、出雲(いずも) と 邪馬台国(私の考えでは、博多湾)と伊勢(いせ)の3者の関係が分からなかった。誰も教えてくれない。はっきりと書かない。なぜ 日本の天皇家にとって、出雲( 出雲大社、大物主=おおものぬし=)と 伊勢(天照大神 アマテラスオオミカミ )が、大事であるのに、それなのにどこか煙たがっている。そして出雲と伊勢は、両者は本当は、どういう関係なのか、誰も分かり易く書かない。 この小林本がそれとなく、それらの関係を書いてくれた。有り難いことだ。

 P82 から書いている、江南の会稽(かいけい、今の杭州)にいた巫術者(ふじゅつしゃ)の許昌(きょしょう)が、西暦172年に、反乱を起こした。後漢帝国が乱れていた。このときに、同族の卑弥呼の一行が日本に難民となってだろう、逃れてきたのだ、と小林説はする。

 私、副島隆彦の説では、西暦184年の、太平道(たいへいどう)の教えを説いて張角(ちょうかく)を指導者とする「黄巾(こうきん)の乱」を起こした人々は、「人類の現世の苦難からの救済(きゅうさい、サルベイション)」を求めた、キリスト教が、中国にまで伝わった人々だ。救済を求める人々の熱気の中から、世界の4大宗教は興った(ただしユダヤ教は救済宗教ではない)。 

 日本にまで伝わった仏教は、救済宗教としてのキリスト教と同じものだ。仏教はキリスト教の変形だ。同じく、中国の 太平道(黄巾の乱)と、同時期の五斗米道(ごとべいどう、張魯=ちょうろ=が指導者)が、中国の道教(どうきょう、タオイズム)の源流となったのだ。この指導者の張角や張魯 は、軍人(暴力団)ではなく、道士=導師であり、キリスト教の宣教師である。 

 そして、日本にまで渡って来た道教が、日本で、神道(しんとう、シントウイズム)に変形したのだ。それらにも、占(うらな)い、呪(まじな)い、祈祷(きとう)による病気治療、悪霊退散(精神病からの快癒)を求める、救済の思想がある。 私、副島隆彦は、ここまでずっと、何冊もの本でこのように書いてきた。

 岡田英弘(おかだひでひろ)先生が、はっきりと30年前に書いていた。卑弥呼(ヒメミコだ)について、「魏志倭人伝」で書いている、「鬼道(きどう、鬼の道)に仕え 民を惑わし・・・」の「鬼道」とは、妖術などのことではなく、当時の中国の五斗米道(ごとべいどう)である、と。これで小林説とほぼ一致する。
 
 そして それを 副島隆彦がさらに拡張して、これらの大きな宗教の発生による、キリスト教の爆発的な世界への広がりは、「 私たち哀れな人間を救けてくれ、援けてくれー」という 血の叫びなのである。

 このあと、西暦220年に後漢が滅んで、その中から、例の 「三国志」の 曹操(そうそう、その子 曹丕 =そうひ=、 魏 を建てる)、劉備玄徳(りゅうびげんとく。蜀を健てる)・諸葛孔明(しょかつこうめい) と、孫堅(そんけん、その子孫権。呉の国)の 三国の戦いとなる。260年代まで。  

 この時の大混乱で、またしても日本にまで、逃げて来た難民が大勢いたはずなのだ。 筏(いかだ)のようなものを組んで、数万人が、流れ着いてきただろう。800キロぐらいの海を渡って来なければいけない。卑弥呼たちの様な、呉の国 (今の上海あたり)から( ここから、呉服=ごふく=が生まれる。呉音という読み方が日本に伝わって保存される。これ以外は、漢音=かんおん=だ ) だけでなく、遠く、揚子江(ようすこう。今の中国人は、長江=ちょうこう=としか言わない) をずっと下って来た、蜀(しょく、四川省)が滅んで、人々もいただろう。

 日本は、大陸の東の 吹き溜まりだから、大陸で政治的な大混乱があると、必ず、難民となって、民族や、人種の生き残りが、日本にまで、流れ着いてくる。朝鮮半島からも来る。

 今の、ヨーロッパへの 中東からの難民の様子は、民族の移動でもある。ホメロスの大叙事詩「オデユッセウス」や「イリアード」も、当時のエーゲ海に小アジア(今のトルコ)からの、動乱があって移動してきた民衆のたどった道とまったく同じだそうだ。

 ヨーロッパからの、「お願いだから、こっちにこれ以上、来ないでくれ。迷惑だ」という表明が、ニューズで毎日、報道されている。 東アジアでも、きっと2000年前から繰り広げられた光景だ。難民たちの、あの、襤褸切(ぼろき)れや、毛布を頭と体に被(かぶ)って、子供の手を引いて、移動してゆく感じは、人類がずっと繰り返しやってきたことだ。 だから、これからも繰り返す。

 小林本は、P118で次のように書いている。
 「 私の推測では、高句麗の王 雛(すう)が滅ぼされて、大物主(おおものぬし)の勢力の残党が、「倭国 の 大乱」時代、瀬戸内海から近畿にかけて戦闘しながら大和に入った乱の中心だったと思う。そして長脛彦(ながすねひこ)勢力は神武勢が大和に入った時、大物主を祀(まつ)る三輪山(みわやま。今の桜井市)の周辺を中心に大和地方に君臨していた。」

 私は、日本国の創業者とされる、神武(じんむ)天皇以来の、すべての古代倭王(わおう)が、西暦600年の 聖徳=蘇我入鹿大王 に至るまで、すべて高句麗王や、新羅王、百済王との二重王、であり、行ったり来たりしていたという 小林恵子説のあまりの遠大な古代史の図式に 圧倒された。

 日本の天皇には、本姓はないということになってるが、本姓は、「休(きゅう)」である(P41)。 「万葉集」で、 「やすみしし」は、天皇にかかる枕詞であるが、これは、「休氏(きゅうし)スメラギ」で「やすみしし天皇」なのである、そうだ。

 大夏(たいか)の休氏が、月氏(げっし)に入って、大月氏(だいげっし)になる。・・・・

壮大な 遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)の興亡が、広大なユーラシア大陸の大草原で繰り広げられる。遊牧民族(nomad ノウマド)こそは、古代の世界史を作った人々だ。 私たち日本人は、ずっと島国にいて、農耕民=定住民(あagrarian アグラリアン)の伝統しか持たない(忘れてしまった)ので、なかなか理解できない。

 何百キロも、いや、それこそ 何千キロも移動する、ということは出来るのか?

 1.スキタイ( BC 7世紀からの広大な広がりを持つユーラシア大陸の遊牧民族の始まりの種族。馬を飼いならした )→ 
2.古代シリア → 

3.バクトリア(BC250年ごろから) → 

4.大月氏(だいげっし、BC150年ごろから )→ 

5.匈奴(きょうど。フンヌ、フン族。BC50年ごろから。のちに ヨーロッパに広がる。ヨーロッパで、西暦  300年代に、ゲルマン族の民族大移動を引き起こす原因となった )→ 

6.鮮卑(せんぴ。AD100年代から) → 

7.クシャナ帝国(クシャナ朝、北インドから)→ 

8.エフタル (AD440年から、もとは大月氏の一部の部族だった)→ 

9.突厥 (とっけつ。西暦600年代から 西突厥と東突厥に分裂 ) → 
10.ウイグル(700年代から。トルコ系。契丹=きったん=も。 のちのモンゴル族がこの文化や文字を受け継ぐ ) → 

11.遼(りょう。これもトルコ系。900年代から。 ) 

12.金きん。満州族。1230年代に滅ぶ。 のちに、西暦1600年代から、後金=こうきん=を名乗って、中国に攻め込んで、女真族の大清(シン)帝国 が出来る )

13.モンゴル帝国 (1200年代から、チンギス・ハーンが興す。100年間だけ世界帝国を作った)

 これらのことが、小林本の記述を確認しながら、私の中で、大きくつながった。

 この本には、たった一枚しか地図は付いてない。P152, 153 だ。 私は、これまで、扶余(ふよ)族、という、大きな遊牧民族のことが分からなかった。 扶余(ふよ)が南下したのである。 松花江(しょうかこう)という満州の中心部を大きく流れる大河がある。 

 そのど真ん中に、ハルピン(哈爾濱)をロシアが、1900年ごろに、突貫工事で、作った。私は、松花江を3年前に見に行った。満州帝国と満蒙開拓団の悲劇が有った一体だ。 

  その辺に扶余族はいた。 満州族 である 金(きん)帝国 や、女真の清の帝国を作った者たちは、もっと南の、長春(ちょうしゅん。日本時代は、新京)と、さらに南の瀋陽(しんよう。日本時代は、奉天=ほうてん=)だ。ここでも、冬は零下30度だ。耳覆(みみおお)いがないとすぐに凍傷になる。私はここにも行って体験した。

  私は、その扶余族の西となりに、3世紀(西暦200年代)から、同じ遊牧民族の鮮卑(せんぴ)族が勃興して居たことが、どうしても、実感で分からなかった。それから、沃姐(よくそ)族が、特に北沃姐族が、今のウラジオストクのあたりにいたことが、ようやく分かった。 韃靼(だったん、タタール)人は、小林本には、一言も出てこない。

 それから、邑婁(ゆうそう)族という種族が、もっと北の、ペイロンチー(黒竜江)河や、ウスリー河のあたりにいたこと。それから、新羅(=辰韓)の北にいた、 穢(サンズイ、わい)と狛(はく)という部族国家のことがずっと気になっていた。 靺鞨人(まっかつじん)というのもいた。 

今の韓国人は、「自分たちの祖先は、北の方から移動してきた、モンゴルのような遊牧民族だ。とくに新羅はそうだ」と言う。 それは、これらの扶余族の南下のことだろう。ところが、そのほかに、トルコ(チュルク)人である、大月氏系 もいた。

大月氏の地(中央アジアの、今のタシケントやサマルカンドのあたり)は、日本から5000キロの先である。

 遠く、中央アジアの 大月氏(だいげっし)の部族が、日本にまで、やってきていた。しかも、日本で大王(オオキミ、天皇)にまでなっていたこと。それらの、興亡の激しさに、私でも小林本の記述のすべてには、とてもつても付いてゆけない。それでも、この気宇壮大になんとか、喰らいついてゆく。  

 それから、「欠史八代(けっしはちだい)」と日本古代史で言われる、神武天皇から、あとの2代目綏靖(すいぜい)、3代目 安寧(あんねい)、4代目 懿徳(いとく)、5代目 孝昭(こうしょう)、6代目 孝安(こうあん)、7代目 考霊(こうれい)、8代目 孝元8こうげん)、9代目 開化(かいか)天皇 のことと、動きを、逐一、初めてその概略を知った。

 そのあとに、10代 崇神(すじん、西暦300年前後。大月氏大夏系の葛城=かつらぎ=氏系の、出雲系・大物主=おおものぬし=の勢力 を打倒して、大和に入って三輪山を根拠地にした。) 、11代 垂仁(すいにん。西暦315年に 纏向=まきむく= 今の、奈良県桜井市 に都を作った) 、12代 景行(けいこう。ヤマトヤケル=大和武尊=のモデル。扶余=ふよ=あるいは鮮卑=せんぴ=族の慕容=ぼよう=氏の一族である。 慕容コウ その人 ) ・・・・ 大月氏 である 古い先住者である出雲の大物主 や葛城(かつらぎ)氏 の 勢力が、 山門(=大和)からも 駆逐されてゆく。・・・

 なんともはや、壮大な、ユーラシア大陸をまたがる、さらに中央アジア史の一部としての さらに東アジア史の一部としての 日本 (倭国)に全てがつながっている話だ。

 昨年末に、私は、「これで、副島隆彦の日本古代史 は、完成した」 と思って本を書く準備をしていたのに。 「 東アジア史の一部としての、日本の、 西暦200年代(卑弥呼=ヒメミコ=の邪馬台国)、300年代、400年代、500年代、600年代が、これで大きく分かった。これでいい 」 と、すべて描きつくそうと思った。

 それは、「次々に、中国の歴代王朝の交替の大混乱 (戦乱)によって、朝鮮半島と 満州あたりだけでなく、 日本にまでも大きな、津波のように、難民となって、次々と、押し寄せてくる人々の群れ 」の話として、私はずっと書こうとしていた。 

 次々にやってくる難民たちは、筏(いかだ)に、馬、豚や、羊(日本では山羊、ヤギ)や、牛を載せて、北九州から、瀬戸内海を通って、順番に、ぞろぞろと数千人の群れとなって、「東へ、東へ」と移動していった。「あっちの方が空いているから、あっちにいってくれ」と 先住者たちに言われながら。

日本では、、馬、牛を去勢していないから、だから、江上浪夫(えがみなみお)の騎馬民族(きばみんぞく)征服王朝説は成り立たない」と、1990年代に、葬り去った、終生、悪質な学者であった、梅原猛(うめはらたけし)たちの 勢力は、今や、駆逐されつつある。

 遊牧民族(騎馬民族というのは、どうかなあ)は、何千頭も、何万頭も、家畜( livestock ライブストック,
生きている 財産、食べ物)を引き連れて、ぞろぞろと どこまでに、草原を移動してゆく。家畜は、殺したら、すぐに食べないと、10時間で腐って行く。 しかし、生きている動物は、腐らない。 生きた羊と、牛と、豚と、馬と、ヤギを連れている限り、そしてその餌(えさ)となる草原の草がある限り、どこまででも移動して行ける。

遊牧民は、家畜さえいれば、生きて行ける。肉とミルク、あとは、家畜の皮から作ったパオ、ゲルの住居と、焚き火用の材木だ。 私は、5年前に、カザフスタンのあと、モンゴルに行った。 モンゴルの首都ウランバトール
から、200キロと地の観光客用の ゲル(中国名はパオ)に 5日いた。 遠くの、30キロぐらい先を、次から、次に、羊や、馬の群れが、水飲み場に来て、それから、はっと気づいたら、もう 20キロぐらい先に、行っている光景を見た。  生きている食糧である家畜を連れていれば、遊牧民はどこまでも移動できる。

 考えてみれば、西暦375年に、ヨーロッパ北部で、フン族(匈奴、やがてアッチラ大王が出てくる。ハンガリー人は、今でもアッチラという名前を子供に付ける )が、背後から圧迫したので、ゴート族というゲルマン民族のひとつが、一斉に 数十万人がドナウ川(ダニューブ川)を渡りだした。ローマ帝国の兵士たちがそれを押しとどめることが出来なかった。 

 この時からが、ゲルマン民族の大移動だ。それから、このゲルマンの遊牧民たちの多くの部族が、100年間ぐらいの間に、ヨーロッパ中を、そして北アフリカ( ヴァンンダル族、バーバリアン)にまで移動していった。 あの感じと同じことが、東アジアでも起きたのだ、いや、きっと起きたはずだ、と 考えなければ、真の世界史の理解にならない。

 日本に押し寄せた難民たちは、うまく話が付かないで先住民との戦乱もあったろう。 そうやって、いつ、山門(やまと、大和。今の奈良盆地)にまで、入っていったか。それを、初期天皇たちの動きとして、逐一、私は、叙述しようと思った。

 それが、この小林本によって、打ち壊された。この小林本のスケイル(もの差し)の大きさの前に、私の「日本古代史の全体像」は、この3日間で、吹き飛ばされてしまった。
 
 中央アジアの日本から5千キロ先の、大月氏(だいげっし)や突厥(とっけつ)などの遊牧民族が、はるばる日本にまでやってきて、そして、歴代国王にまで、何人も何人も、次々と何人もなっている、話を、これでもか、これでもか、と書かれると、普通の日本人は、頭が割れるか、眩暈(めまい)がするだろう。

 「もう、やめてください。私の頭には入りません。そんな、大月氏とか、鮮卑(せんぴ)族、とか、エフタルとか、扶余(ふよ)族とか、日本にやってきて国王になった、なんて、やめてください。匈奴(きょうど)ぐらいなら習って知っているけど。それ以上は、頭に入りません」と なる。  

 私、副島隆彦は、そういうわけにはゆかない。私は、5年前に、カザフスタンに行った。アルマトウ(ここが、新しい世界銀行の地になるだろう)に行った。首都のアスタナにも行った。ここから天山(てんさん、テンシャン)山脈を南に見て、その向こうのキルギスまでが見えた。 

 その向こうは、フェルガナ盆地(大宛国、だいえんこく)を一部にしているウズベキスタン(ここが、中央アジア5か国の、本当は中心の国。しかし、政情不安で栄えていない)だ。 ここらに大月氏国 があったのだ。

 それから、7年ぐらい前に、私は新疆ウイグル自治区 のウルムチや、敦煌(とんこう)、トルファン盆地、ハミに行った。 コルラ、クチャ(庫車)には行けなかったが、天山山脈そのもののあたりを車で走った。

 この小林本の P42に、「中央アジアに残った大月氏は大体シルクロード上のオアシス都市クチャ(かつての亀茲=きじ=国)の東北(にある)金山(きんざん)あたりに住んでいたらしい」 とある。 ここの金山(きんざん)を私、副島隆彦は自分の目では見ていないが、そのあたりの出身者の女性に話を聞いた。 

 中国人は、北西の遊牧民を、西戎(せいじゅう。西の方の遊牧民で、野蛮人の「えびす」たち。トルコ系。チュルク人。のちのウイグル族や契丹族。それが、モンゴル族にもなった )と呼ぶが、犬戎(けんじゅう)とも呼ぶ。 この大月氏、犬戎が日本の天皇族の「休」氏の一族である(P44)。

私、副島隆彦説では、「満州人(マンジュ)とは、大興安嶺(だいこうあんれい)山脈を越えて来た、モンゴル族である。そして、狩猟もする民族になった」となる。 この点で、岡田英弘先生と、意見が合わなくて、岡田先生が、顔をそむけたので、それで対談本の企画が流れた。もう12ぐらい前のことだ。私のあまりにも荒っぽい(粗っぽい)議論に、岡田先生が、拒否の態度を取られた。岡田先生が、日本の東洋史、モンゴル史、満州史、朝鮮史 総して、アルタイ学(会)( Altaic studies アルタイック・スタディーズ)の 日本における権威である。

岡田先生と奥様 が、同じ東洋史である 小林さんの研究を何と言うか、私は、聞いてみたいが、きっと顔をそむけるだろうと、思う。

 小林恵子(やすこ)さんは、中国の正史である各王朝の歴史書、特に『資治通鑑(しじつがん)』も読んでいるが、『高句麗本紀(こうくりほんぎ)』や、『新羅本紀(しらぎほんき)』、『百済本紀』、『海山経』、『三国史記』 なども読んでいる。日本史学者たちは、こういう資料の読み込みをしない。出来ない。

 そして、細かく日本の『記紀』( 古事記 と 日本書紀。日本の正史と決めつけられてる)と付き合わあせている。 いい加減な突合せ(照合)はしていない。

 そして、P202で「応神 と 広開土王 の死闘」 となっている。応神(おうじん)天皇 (第15代、在位、西暦270―310年。この大王 は実在とされる)が、あの有名な、高句麗の王である「広開土王(こうかいどおう)の碑文(413年、息子の長寿王=ちょうじゅおう=が建てた)」の広開土王のことを 書いている。  

 ・・・・そして、P223で,仁徳天皇は、この広開土王(好太王 、句麗王安、)であり、日本征服に来た、となっている。あーあーあーで、ずっとこの調子だ。 私は、頭が強いから、簡単には割れないから、耐えられる。普通の人には耐えられないだろう。

 小林恵子女史は、古代オリエント学会の会員である。この古代オリエント学会(1954年設立)は、三笠宮(みかさのみや、昭和天皇の末弟。存命 )によって運営されてきた。 小林女史が、「あとがき」で書いているが、「三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう)殿下に何かと学問上のお世話をいただきました。・・・常識外れの私説に対しても一度も疑義のお言葉をいただいたことはありません」 と、 書いている。

 三笠宮は、「2月11日を建国記念日(神武天皇が国造り=国家統一を決めた日とされるとすることに歴史学的な根拠はない)と、紀元節(きげんせつ)の復活にかつて反対した。それで三笠宮は右翼たちから攻撃された。

 三笠宮は、中東、オリエント世界 (中央アジア()への遺跡発掘調査にも出かけて、実は、あの映画「インデアナ・ジョーンズ」(主演、ハリソン・フォード)のモデルにもなった人なのだ。

 私は、この小林恵子氏の本は、十分の根拠を持っていると判断した。従来の、古代史を、ユダヤの失われた一支族(第13氏族)が、日本にまでやってきて、四国の剣山(つるぎさん)そのほかに、古代国家の痕跡を残している」などと書く、歴史学の知識や精密な研究歴 を持たない、いい加減な思い付きだけの、おかしな人たちが書く本とは、異なる。

 ただ、どうやって、あの 5000キロも先の、中央アジアの広大な砂漠や草原地帯を超えて、はるばる、日本まで、どういう動機でやってきて(確かに 移動する遊牧民たちの時代だ )、しかも次々と日本の王にまでなっている、というのは、どういうことなのか。私は、今、この『古代倭王(たち)の正体』を読んで、深く考え込んでいる。  

副島隆彦拝
(転載終わり)

清野 真一 投稿日:2024/12/14 18:21

【530】『聖徳太子はいなかった』

2015-03-04 09:07:32
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読書室
『聖徳太子はいなかった』谷沢永一著 新潮新書 七百円 日本文明派に対する頂門の一針

 2005年、全国の義務制学校で、採用を拒否された『新しい歴史教科書』は、律令国家の成立の表題の下、聖徳太子の新政を、聖徳太子の外交と聖徳太子の政治の両面から論じている。

 そこには、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」が引用され、「遣隋使は隋からみれば朝貢使だが、太子は国書の文面で対等の立場を強調することで、隋に決して服属はしないという決意表明を行った」と書かれている。

「新しい教科書をつくる会」では、聖徳太子は、ヒーローなのである。

 この一文に対して、谷沢氏は、著書の冒頭に問題にし、「これ、聖徳太子が、中国の隋の皇帝に宛てた国書である、と長いあいだ教えられきた。非常に大切な文書であるとの触れこみである。それほど貴重なのか。では、日本の歴史書の、どこに、記しとどめられているのであろう」と切り出す。

 そしてこの一文が、我が国のいかなる書き物にも、ぜんぜん載っていないことを明らかにした後、『日本書紀』の箇所を紹介して、その手練手管を解析する。

 見事である。この部分だけでも読むことを進めたい。

 谷沢氏は、新書約二百二十頁にわたり、聖徳太子がいないことをいろいろな側面から執拗に証明している。

 私の管見からも、聖徳太子はいなかった説は、関祐二氏らも蘇我入鹿=聖徳太子説の立場から説明しているが、谷沢氏が依拠するのは、『長屋王家木簡と金石文』を著した大山誠一氏である。

 大山氏は、聖徳太子の実態を、用明天皇の第二子の厩戸皇子としている。

 この大山説に全面依拠して、谷沢氏は、議論を展開しているのだが、最近売り出している遠山美都男氏は、『日本書紀はなにを隠してきたか』において、法隆寺系資料を『日本書紀』以後の文書と認定したことで、聖徳太子が厩戸王をもとに創造された架空の人物であるとしたことを大山氏の功績としつつも、なぜ『日本書紀』ではそうした創造が行われたのかを解明していないことを大山説の問題点としてあげている。

 確かに専門的になるといろいろな点が議論にはなるが、谷沢氏は、大山説を、書誌学と藤枝晃の敦煌学と佐藤弘夫の『偽書の精神史』で補強していることを挙げておこう。

 いうまでもなく『日本書紀』が成立したとき、それは書物の形式ではなかった。今でも何巻という言い方が残っているように、それは巻物の形式として完成された。

 したがって写本とともに本文は自由につぎはぎされた。当然のことながら出版日も奥付もない。厩戸皇子が聖徳太子だというような注も自由に書き加えられるのである。

 現在私たちが読むことができる『日本書紀』が成立当時のものかはわからないのだ。ここは谷沢氏の炯眼の独壇場と私は脱帽する。

 聖徳太子に関わりがあるとされた釈迦像等も太子とは関係ないことが突きつけられた。

 最後のよりどころとして聖徳太子の著作とされてきた『三経義疏』については、敦煌の莫高窟から同様なものが出土したという事実が、谷沢氏から最終宣告される。

 法隆寺を挙げて聖徳太子に頌歌を捧げてきた学僧ならぬ政治僧・行信一党が、『義疏』なるものを聖徳太子にかこつけて持ち出したのは、まさに「千慮の一失」であった。

 谷沢氏が指摘するように、彼らが中国の流布本の表紙を貼り替え、「『義疏』をもちだしたものだから、敦煌出土文書の検討でいっぺんにケリがつき、パックリ底が割れた」のである。

 谷沢氏は言う、聖徳伝説に決定的な打撃を与えたのは、藤枝晃氏であり、トドメを与えたのが大山誠一氏で、先に紹介した本が出版されて今日まで足かけ七年しかたっていない。

 谷沢氏の本は、まさに日本文明派に対する頂門の一針である。また谷沢氏の過去の言動に対す
る批判の書でもある。

 谷沢氏自身が、『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』の百五頁から百八頁で、聖徳太子頌歌を捧げている。とくに百六頁には、「聖徳太子『三経義疏』は世界最古の学問書の一つ」との言葉が踊っている。

 誠実な人物なら、今回の新書に、当然にもこの点自分自身恥ずべきことを書いてきたと自己批判を書くべき処である。

 谷沢氏の心事を語れば、「新しい歴史教科書をつくる会」との確執が、『新しい公民科書』を巡って一層激しくなり、聖徳太子に関する堺屋太一氏との論争の過程で、聖徳太子像の再確立の必要性の自覚となり、それが契機となって「聖徳太子は実在しなかった説」の検討に、立ち向かわせたものであることは、想像に難くない。

 その意味で、この本は二重の観点から読める本でもある。一読を勧めたい。

清野 真一 投稿日:2024/12/14 16:46

【529】岡田英弘氏『歴史とはなにか』文春新書に学ぶ

[1447] 岡田英弘歴史掲示板から副島隆彦先生による投稿を転載します 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/11/18(Wed) 20:32:24

会員番号4655の佐藤裕一です。

岡田英弘歴史掲示板から、副島先生の投稿(転載文章)を再掲載します。

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

[66] 岡田英弘論を、ネット上で見つけましたので転載します 投稿者:副島隆彦 投稿日:2002/02/05(Tue) 12:29:38

副島隆彦です。 岐丸君にご挨拶するのは初めてです。
ネット上で、岡田英弘先生の著作を論じた文章を見つけましたので、転載します。ワーカーズ・ネットとありました。

(転載貼り付け始め)

真性保守から「日本文明」派に放たれたキッーイ一発 近代学問は個々の政治的思惑を易々と打ち砕いていく――岡田英弘氏『歴史とはなにか』文春新書に学ぶ

 岡田英弘氏といっても、一般の人で知る人は少ないであろう。しかし、歴史に関心のある人なら、彼の名前は、まさに逸することができないものがある。
 
 岡田氏は、モンゴル史・満州史の世界的権威にして、日本古代史と中国史の権威としても学会では知られているが、この世界では、徹底的と言っていいほど無視されてきたが、近代学問の実力で、ここ二十年ぶりに復活してきたばかりか、今や大いに注目されるまでになっている。
 
 そもそも、一般書におけるデビュー作は『倭国』1977年、姉妹本として『倭国の時代』1976年の二冊があるが、これらの本の内容は、日本の平泉澄ほどの皇国史観の頑迷派でなくとも、日本文明派のいう民族の尊厳や自信を打ち砕くのに充分なものがあり、その根拠とされた中国の正史のもつ本来的な政治性やいい加減さを容赦なく暴ききったために、日本史学会や中国史学会から追放に等しい扱いを受けたといわれている。
それほど、学会とは陰湿な世界なのである。前置きはこのぐらいにして本論に入ろう。

この本は、「岡田史学」の入門書とも言うべき本で、単なる新書版でありながら、実にコンパクトに、岡田理論が展開されている。

第一部は、「歴史のある文明、歴史のない文明」という岡田史学の原論である。彼によると、歴史のない文明の代表は、インド文明と後で地中海文明に巻き込まれていくことになるイスラム文明と現在と未来にしか関心がないアメリカ文明が挙げられている。

それに対して、常に「正統」の継承性のみを問題にして、世界の変化を認めない中国文明の歴史観と、二つの勢力が対立し最後に正義が勝って終わる地中海文明の歴史観があるという。また、歴史があっても借り物で、歴史の弱い文明があるとして、先にあった文明から文化要素を借りてきて独立した文明を「対抗文明」とし、日本文明を中国文明の対抗文明とした。

こうした論断は、日本文明派には許せざる所行であろう。さらに、まとめとして、「閉鎖的な日本の性格は、中国の侵略に対して自衛するという、建国をめぐる国際情勢が生みだしたもので、反中国が日本のアイデンティティなのであり、そうしたアイデンティティに根拠を与えたのが、『日本書紀』が創りだした日本文明の歴史観だった」と日本文明の成立事情を、大胆に説明しているのである。まさに、日本文明派にとっては、ゆるすべからざる発言ではあった。

第二部は、「日本史はどう作られたか」というもので、「神話はどう扱うべきか」、「『魏志倭人伝』の古代と現代」、「隣国と歴史を共有するむずかしさ」の各章で、先の日本文明の成立事情を具体的に補足する形で展開されており、西尾幹二ら日本文明派にとっては、一大痛打が浴びせられている。

彼によれば、『古事記』は偽書で、『日本書紀』は、天皇という君主の正当性を保証するために作られたとし、「天武天皇」以前の天皇の実在性を否定した。それ以前の天皇、たとえば神武天皇や日本武尊などは、天智天皇・天武天皇兄弟と両親の時代に起こったことを下敷きにして筋書きが決められているという。これだけでも保守反動側には大打撃である。さらに、中国正史の政治性といい加減さを暴くことに欠けても徹底しており、反動に対する武器となること請け合いである。また最後に、隣国と歴史を共有する難しさについて語り、自己の正当化は、歴史のおちいりやすい落とし穴であると忠告している。是非精読していただきたい。

第三部は、「現代史のとらえかた」と題して、「時代区分は二つ」、「古代史のなかの区切り」、「国民国家とはなにか」、「結語」の各章が展開されている。ここも山場であり、岡田史学の世界性を示している。中でも、国民国家に対する議論は、新鮮なものがあり、「国家」とか「国民」という枠組みを使って、十八世紀以前の歴史を叙述するのは、時代錯誤だという彼の主張は正しい。

また、十九世紀になるまで、中国人はいなかったという彼の主張は、彼が排撃される原因となったが、このことは、日本文明派が、『国民の歴史』などという怪しげな本を押し立てて策動していることを考えると全く正当な主張である。

「こういう枠組みを取り払って、まったく新しい術語の体系をつくって、歴史の叙述をはじめなければならない」とする岡田史学に、私は共鳴する。関心がある人は、先に紹介した『倭国』・『倭国の時代』、さらに『日本史の誕生』を検討いただきたい。

最後に,彼を師と仰ぐ人物に「属国・日本論」の副島隆彦氏がいるが、副島氏への批判とも読める205ページの「朝貢冊封体制」論批判を引用して終わろう。
 
 「朝貢冊封体制」というのは、第二次世界大戦後の日本で発明されたことばだ。これは どういう説かというと、「中国は世界(当時の東アジア)の中心であって、そこに異民族 の代表が朝貢し、貿易を許される。皇帝からもらう辞令(冊)によって、異民族の代表の 地位が保証される。こうして、中国の皇帝を中心として、東アジアには、朝貢と冊封に 基づく関係の網の目が張りめぐらされていた。これが東アジアの秩序を保証していた」 というものだ。ところが現実には、そんなことはぜんぜんなかった。

このように、朝貢に対する誤解に対する反感を露わにする岡田氏と、『天皇がわかれば日本がわかる』との本でも一貫させたように、「冊封体制」を、世界覇権国家と属国との関係とするとの副島氏の認識との明確な違いについては、彼の出藍の誉れかどうか、今の私には判断がつかないが、機会があれば直接本人に確かめてみたいと考える。

それはともかくとして、是非読者に一読を勧めたい本ではある。(直)

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

会員番号2054 投稿日:2024/12/14 13:13

【528】ブレイク:史書の実証性について

2054です。伊藤氏の「見取り図」のピース埋めについて意見や参考情報等、私ができることであれば協力いたします。いつの間にやら、私は伊藤氏の「応援団」になっていますかね(笑)。というか、伊藤氏に、いろいろ知らないことを教えていただこうと思っています。歴史学については充電された後に、かつ、気の向いたときに教えてください。どうぞよろしくお願いします。

今回は、史書の実証性について考察してみたいと思います。実は、伊藤氏を見習って、学会通説なるものを少しは理解しようと思いたちまして、大津透『天皇の歴史1神話から歴史へ』(講談社学術文庫)を読んでみました。ただ、スタンダードな概説書という位置づけなので、踏み込んだ記述がない点は差し引いても、特に政治外交史はまったくダメ。眠くなるような本でした。ちなみに東倭は「と」の字もありません(笑)。

こんなものなんですかねえ。これじゃ、100年先には消えていそう(すぐ消えてもいい)というのが正直な感想です。なんでかな?とつらつら考えていたのですが、その根本に「史書の実証性」があるような気がしてなりません。

まず、大津透は資料の取扱いについて、『天皇の歴史1神話から歴史へ』に以下のような説明があります。(引用はじめ:大津透『天皇の歴史1神話から歴史へ』:講談社学術文庫 電子書籍版:6/100%箇所)

歴史学はより信頼のおける史料に基づいて史実を再構成するのが原則である。一番信頼がおけるのは同じ時代に記録された文章(中略)次によるべきは、当時文字による記録を作成していた中国の資料である。歴代王朝ごとに次の王朝により国家事業として編纂された正史は、そうした文字の記録をもとにしているから、信憑性が高い。

(引用終わり)

2054です。大津氏は同時代に記録された文章や中国正史を信憑性の高いものとします。一般的に、一次史料と言われるものでしょうか。大津氏は二次史料について言及していませんが、上記の論理から推論すれば、二次史料は後の時代にまとめられたものだから、史料の信頼性は低いとされるはず。

そういえば、伊藤氏も「冊府元亀は二次史料だから取り上げる意味が分からない」というようなことを何度か述べられていましたから、これは大津氏に限らず歴史学会でのスタンダードな姿勢なのかもしれません(間違っていたらご指摘ください)。また、下條先生は、物理学のご専門で歴史学会の外にいらっしゃいますが、『邪馬台国の謎』を執筆時には三国史記にある卑弥呼の記述をご存じではなく、二次史料だからということで考慮の外に置かれていました。学会の内外を問わず、これは歴史学の常識なのかもしれません。

しかし、本当にそれでいいんでしょうか。

学会通説から距離を置いているといわれる岡田英弘教授でも日本書紀に関しては学会通説と似たような姿勢で、同時代の史料のほうが信憑性があるという立場です。岡田英弘『日本史の誕生』(ちくま文庫p78)では日本書紀について以下のように評価しています。

(引用はじめ)(※日本書紀は)古い伝承でも、現政権に都合の悪いものは切り捨て、都合のいい話は創作して歴史の筋書きを作り上げる。それでも、まだ生き証人がいるような新しい時代のことは、そうそう嘘はつけないから、天武天皇の父の舒明天皇が即位した629年からあとの史実は、かなり正直に書いているようである。

(引用おわり)

2054です。上記の通り、岡田教授の説明では、新しいものは信憑性があるが、古いものは創作としています。しかし、それはおかしいのではないでしょうか。都合の悪いものを切り捨てるのは、古いものも新しいものも同じこと。むしろ、新しい時代の方が、利害関係者が多すぎて本当のことは言えません。「ちょっとさしさわりがあって言えません、墓場まで持っていきます(でも一族郎党にだけは話しておきます)」は昔もあったでしょう。

そして、岡田教授が629年以降の舒明天皇以降は正確ということ自体が不思議です。壬申の乱について天武朝が本当のことを「書くわけがない」ですし、その端緒となる時期の629年以降なんて嘘八百がまかり通ります。

「徳川家康はすり替えられた説」が正しいとすれば、すり替えられた当人に会った同時代の人は皆「別人」としっていたわけで、生き証人ばかりです。しかしそのことが世に著されたのは1902年と副島先生の記述にあります。生き証人がいるから、なんて理由になりません。

他方、古い事実は正確に物を言いやすくもなります。干支を合わせて120年繰り下げれば、三国史記や中国正史と年代が一致する事実など、ざらにあります。万世一系を国是とするから王位簒奪を明記できないという制約はあるものの、真実を暗示しているだろう説話も多くあります。世に言われているほど日本書紀は荒唐無稽ではなく(荒唐無稽なもの、隠蔽、改ざんした史実もありますが)、単なる創作でもなく、当時の最高峰の知識人の学識から記述された、歴史的に貴重な史料と思えます。

ただ、注意すべきは、「同時代だから一級品」というものではなく、「古い史実は不正確、新しければ正確というものでもない」と私は思います。

小林恵子は奈良時代の研究方法と『続日本紀』について以下のような言及をしています。

(小林恵子『「安・史の乱」と藤原仲麻呂の滅亡』まえがき、現代思潮新社p11~12引用はじめ)

専門家は、『続日本紀』の記述の内容について云々すること自体、憶測や推理に過ぎないとしてしりぞけるか、でなければ無視するかしているから、『続日本紀』の記載と異なる意見が定説として成立したためしはない。『続日本紀』をそのまま読み下すことこそ正統な歴史学者だと信じているようだ。史料にないことを推量すると、推理小説のようだといい、相手にしないのが学問的だと思っている。奈良時代の人々の生活は、近年考古学上の発掘からも明らかになりつつあるにもかかわらず、日本人は政治・外交史においては『続日本紀』の記載をほとんど全面的に史実と信じこまされ、教科書にも記載されて現在にいたっている。

『日本書紀』は神代から始まるので、特に前半については、そのまま事実と信じる現代人はほとんどいないが、逆に『続日本紀』の記載に疑問を持つ人はほとんどいないといって過言ではない。 しかし『続日本紀』を解読するだけなら、現在、よい訓訳も現代語訳も出版されているので素人でもできる。むしろ、それから先が歴史学としての専門家の分野なのである。

正史は常に為政者側に立った啓蒙書的性格が強いから、いかなる時代、いかなる国においても、時の為政者に都合の悪い事実は伏せられている。これが正史の法則であり、正史たるゆえんである。しかもその伏せられている部分が最も重要な歴史的事実であることは多言を要しない。

ところが現在までの方法、つまり平安時代までの日本の史料だけを頼りに、『続日本紀』を解釈すれば推理にすら限界がある。

私の場合、第一に奈良時代の日本は、中国を中心にした東アジアの政治的な動きと密接に連動していたこと、あるいは互いに影響を与えていたということを、中国、韓国・朝鮮の史料から考察する。第二として、『続日本紀』は『日本書紀』におとらず、讖緯(しんい)説的表現で重大な事実を暗示している場合が多い。その讖緯説的表現も史実の究明に重要な役割を果たすと考えている。

第一と第二が一致し、その上、『続日本紀』の記述と矛盾しないこと、むしろ『続日本紀』が暗示にとどめざるを得なかった事柄が第一と第二から、より明確になった場合のみ、私見として取り上げている。この方法で、私は七世紀以前をふくめた古代史を解釈してきた。

(引用ここまで)

2054です。一次史料よりも二次史料の方が遥かに真実を語っていることも十分ありえる話です。「一次史料だから、二次史料だから」と判で押したように思考するのは、弊害が大きい。特に、一次史料と矛盾する二次史料があるときに、常に一次史料を優先するというのでは、真実探求は遠のくばかりです。

小林恵子の上記の説明によれば「『続日本紀』の記載と異なる意見が定説として成立したためしはない」のだそうです。続日本紀が正しくなく、後世の史料(二次史料)から真実を発見・論証するというようなことは現在の歴史学会だと絶望的に難しいのでしょう。史料の実証性にこだわって自縄自縛に陥っている人たち、と私の目には映ってしまいます。