ふじむら掲示板
※ログイン後に投稿フォームが表示されます。
Loginはこちら【482】天才・岡田英弘の孤独(3)
伊藤睦月です。寄り道が過ぎるようですが、このまま、行っちゃいます。
(1)現在、『世界史の誕生』、『日本史の誕生』及び『倭国の時代』は、ちくま文庫に似たような装丁でならんでいる。しかし、その成り立ちは、前者と後2者とで全く違う。
(2)『世界史誕生』は将来この分野での専門家を目指す学生のための入門テキストとして企画された。たしか、「ちくまプリマー双書」とかというシリーズだったと思う。私はその中の「法哲学」とか「法思想史」とか「民法」などを読んだ記憶がある。
(3)この『世界史の誕生』の本文は、文章に「遊び」がない。論文、教科書スタイルである。ぎっしりと硬質な文章で埋められている。
(4)巻末に、「参考文献の解説」があり、各章ごとに必読の文献(日本語と英語)が、その解説(というか、読みどころ)とともに、紹介されている(全100本くらい)この本に取り組む者(学生)は、著者のナビに従って、、この100冊を読破、習得すれば、この分野での、必須文献をマスターし、専門家(大学院)への道が開ける、といった趣向である。これは決して一般向きの本ではない。
(5)伊藤睦月です。私はこのリストと解説をみて、驚愕した。岡田博士は、研究者としてだけでなく、教育者(メンター)としても優れた方だったんだろう、と痛感した。
(6)なお、私はこのリストにある文献を一冊も読んでないし、これからも手にすることすらしないだろう。私には無理。しかしこの分野では、入門中の入門文献なのだろう。せいぜい本文を読んでその雰囲気を味わうだけだ。
(7)また、この本は、私の知る範囲では、この分野の学術論文や、一般向けの本でも、必ず、参考文献として挙げられ、引用もされている。言及すらされない「日本史の誕生」とは好対照だ。この『世界史の誕生』を一般読者むきにかみ砕いて語っているのが、「歴史とは何か」(文春新書)である。これには、参考文献や引用はほとんどない、岡田先生の語りおろしである。
(8)だから、岡田先生が生涯かけて、言いたかったことを手っ取り早く知りたいのであれば、『歴史とは何か』、世界的な学者としての、「岡田英弘」をその雰囲気だけでも知りたい方は、『世界史の誕生』に取り組まれてみたらどうだろう。あなたも「モンゴル史」の専門家になれるかも?信じる信じないはあなた次第です・・・?(どこかで聞いたようなフレーズ・・・)
ここで小休止、以上。伊藤睦月筆
【481】前項の訂正・補足
伊藤睦月です。
『日本史の誕生』単行本の初出は、1994年でした。だから大山氏が同書を読んでいた、そして、その2年後に、自説として発表した、という疑いは、否定できません。しかし、それは証明可能でしょうか。
ところで、古田武彦氏は、1970年代には、九州王朝説の立場から、タリシヒコと聖徳太子は別人だと、主張しています。「聖徳太子実在問題」を論ずるのに、古田説(本人は故人ですが、未だに熱烈な支持者が学会や歴史愛好家に存在しています)も議論の遡上に載せないのは、不当な取り扱いだと思います。最も早く、聖徳太子の存在に疑問を抱き、具体的な仮説を提示したのは、私の知る限り、古田です。岡田博士は、文章表現上は疑問を呈しているだけです。
以上、誤りの訂正と補足説明でした。古田武彦については、後日取りあげます。
伊藤睦月筆
【480】天才・岡田英弘の孤独(2)
伊藤睦月です。最初にお断りを・・・全稿で「倭国」は「倭国の時代」の間違いです。両書は別個に存在します。失礼いたしました。
さて、議論の補助線として、2つ。
1,「聖徳太子存在問題」を指摘した岡田博士の立論の要素分解をすると、3つになります。
(1)「隋書倭国伝」と「日本書紀の記述」は矛盾する。
(2)両者が矛盾した場合、「隋書倭国伝」の記述を優先する。
(3)その結果、推古と聖徳太子の実在があやしくなった。
伊藤睦月です。(1)は、学会でも1960年代から指摘されてきた。
(2)は、岡田説のような考え方は「日本史を世界史の中で考える」という、西嶋定生以来、東洋史学会の共通認識だと思われます。(『古代東アジア世界と日本』)それに対し、日本史学会の考えは逆です。(1)は十分認識しながら、海外史料でなく、国内史料にとことんこだわって、(3)という結論にならないよう、「努力・工夫」を重ねてきたと考えられます。
(3)で、学会誌で「聖徳太子は実在しない」論を証拠付きで主張したのが、大山誠一氏です。この大山氏の動きが、日本史学会の学者たちにとって、いかに唐突だったか、前に紹介した「東大教授」の反論文を見れば、十分うかがえます。大山氏の「反乱」は1996年から、とされていますから、2004年に公刊された「日本史の誕生」を読んで、「聖徳太子非実在説」の着想を得た、という疑いを持つことは、可能です。しかし、果たしてその実証は可能でしょうか。実際大山氏は、学会主流から猛反発を受けながらも、史料証拠を指摘し続け、学会主流が懸念するほど、賛同者を増やし続け、教科書の表記を変えさせました。その点には正当な評価が与えられべきかと思います。なんだか日米特許論争みたいな話ですね。大山氏が「自白」すればよろしいでしょうが、それが無理である以上、「疑わしきは罰せず」で、納めるしかないのでは。これ以上追求すると、それこそ「誹謗中傷」といわれても、反論できなくなると思います。
そして、泉下の岡田先生も、そんなこだわりはお持ちではなかった、と思います。彼の「主敵」はあくまでも、西嶋定生をはじめとする「東洋史学会」だと考えています。
もう一つの補助線、それは『世界史の誕生』と『日本史の誕生』という2冊の小さな本が、その似通った題名と違って、岡田先生における、重要度が全然違う、という話です。『世界史の誕生』が「本命、本気、真面目」、『日本史の誕生』は「余暇、遊び、戯れ」、だった論、とでも言いましょうか。
以下、次回、伊藤睦月筆
【479】天才・岡田英弘の孤独(1)
伊藤睦月です。前回からの続きを書きます。
要旨:
(1)岡田英弘先生は、「日本史の誕生」を一般読者向けに「遊び半分」に書いた。
(2)そして、同書を学術書でなく、歴史雑誌やムックのような体裁で単行本を作った。
(3)だから、参考・引用文献リストなど、学術書として当然あるべき、体裁を整えてなかった。
(4)そこに、同書及び「倭国」、「歴史とは何か」の3冊の「古事記偽書説」部分について、日本史学会古事記部会から、「盗作疑惑」のクレームをうけた(多分、弓立社版の単行本や「倭国」中公新書版は事実上の絶版状態に追い込まれた)
(5)同書及び「倭国(倭国の時代と改名)」を、ちくま文庫に採用するにあたって、該当部分に対する、コメントを付し、文庫版あとがきで、初出情報を付すなど、学術書として、最低限度の体裁を整えて、ちくま文庫版で世に出すことができた。(その際、当時ベストセラーとなっていた「英文法の謎を解く」シリーズで筑摩書房に発言力をもっていた、副島隆彦先生のかなりのサポートがあったのではないかと推測している。邪推かも・・・)
(6)聖徳太子非実在説については、学会側から、クレームはこなかったと思われる。学会側も歴史ムック扱いだからそんなに目くじらたてなかったのだろう。もしくは、学会の関係者は読んでいないのではないか。(だから、古事記偽書説で、クレームを出した学者にはなんかうさんくさいものを感じている)
(7)一方、岡田先生にしても、日本史分野は自分の領分でないので、クレームが来てもあまり感じなかったのだろう。そもそも、日本史学会なんて眼中になかったのだ。
(8)だから、「日本史の誕生」「倭国の時代」をちくま文庫に入れる際、意外とすんなり釈明コメントを入れたのだろう。(ちくま文庫編集部および副島先生の説得もあったのだろう)一方、「歴史とはなにか」(文春新書)では、釈明はしていないので、この本は岡田先生なりにこだわりがあったのだろう。(東洋史と先生の歴史哲学に関する内容なので、先生なりの矜持もあったのだろう)
以上、あくまで、伊藤の推測でした。次回から上記に補足します。
伊藤睦月拝
【478】下條さんの誠実な対応にまず感謝します。こういう反応をいただいたのは今までなかったので、少々うるっと来ています。
伊藤睦月です。只今、2024年11月14日8:15です。まず、下條様へ。表題にも書きましたが、誠実なご対応ありがとうございます。私の投稿に対しては、会員、非会員とわず、(20年前は非会員でも投稿できました)今まで、反発,無視、罵詈雑言、逆切れという対応ばかりだったので、下條様のファクトに基づく冷静な対応にはいささかとまどっているくらいです。それでも、副島先生がこれまで経験されてたであろう、(と想像していますが)仕打ちに比べれば、はるかにましでしょうが。なにはともあれ、今後ともよろしくお願いいたします。
さて、下條様がご指摘されている、大山誠一とその仲間の学者たち、彼らについては、私は態度を決めかねています。
(引用開始)ちなみに、私は副島先生と同じく、聖徳太子=蘇我入鹿+蘇我馬子説で、アマタリシヒコ=蘇我馬子だと思います。(引用終わり)
伊藤睦月です。実は、大山誠一もアマタシリヒコ=蘇我馬子説です
(引用はじめ)
聖徳太子が架空の人物であったとなると、直接の影響を被るのが推古である。・・・疑問なのは推古だけではない。用明も崇峻も、大王として疑問がある。・・・私はこの3人は大王でなかったと思う。そのことを証明するのは難しいが、基本的な考えかたは示しておきたい。・・・大王という地位にこだわらなければ、この時代の最大の権力者は明白である。もちろん、蘇我馬子である。では、彼は、大王だったのではないか。それは、飛鳥における彼の権力の質にかかわる問題であろう。(引用終わり:大山誠一『日本書紀』の構想、『聖徳太子の真実』2014年平凡社ライブラリー初出1994年ごろ)
伊藤睦月です。「ごろ」と書いたのは、大山氏の書き方がその辺が分かりにくい書き方になっている。1994年は学術論文として発表した年。それを一般書に書き直したのが、1999年の『聖徳太子の誕生』だそうだ。しかし、学会的には、大山誠一氏が「聖徳太子はしなかった論」を唱えだしたのが、1996年ごろ、とされている(下記東大教授の反論参照)だから、下條様、副島先生が,タシリヒコ=馬子説を言われだしたのはいつごろでしょうか。
(引用開始)日本の歴史家は隋書のアマタリシヒコの記述を指摘しません。大山誠一氏の本も読みましたが、本来、隋書の記述から聖徳太子存在しなかった説が始まっているはずなのに、この記述を本に掲載しません。これはおかしいのではないかというのが私の文の意味です。(引用終わり)
伊藤睦月です。この問題は、「倭国伝と推古紀の違い、矛盾」は、1960年代から、日本歴史学会のテーマです。
この問題を取り上げる研究には、
(1)坂本太郎「『日本書紀』と『隋書』」(坂本太郎著作集第二巻古事記と日本書記吉川弘文館、1988年初出1976年)
(2)増村宏「隋書と日本書紀、遣隋使をめぐって」(『遣唐使の研究』同朋社1988年、初出1968.1969年)
などがあります。(大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』平凡社2011年)
伊藤睦月です。『倭国の時代』は1976年、『日本史の誕生』の第5章「日本建国前のアジア情勢」は1981年の講演会の記録がもとになっているそうです。私は上記先行論文はタイトルだけで内容をチェックしていないので、断定は避けますが、岡田先生が日本歴史学会の論文をチェックしていないとは、思えないのですが。(後で述べますが、岡田先生は、チェックしていないか、引用を明記していない、ありていに言えばパクったのではないか、それはありえる、と思っています)
取り急ぎ、ご指摘させていたきます。
以上、伊藤睦月拝
【477】「【474】【至急】ここで、下條さんにコメントを求めます」にコメントします
伊藤睦月様
「【474】【至急】ここで、下條さんにコメントを求めます」にコメントします。
「後年大山誠一氏などの歴史家は、この指摘をしりながら、引用せず、あたかも別の説として、聖徳太子=厩戸皇子説を作り上げていった。」
これは私の書いた解説文で、引用ではありません。副島先生もぼやきで同じことを言っていたと思いますが、出典が不明なので、私下條の意見としておいてください。
日本の歴史家は隋書のアマタリシヒコの記述を指摘しません。大山誠一氏の本も読みましたが、本来、隋書の記述から聖徳太子存在しなかった説が始まっているはずなのに、この記述を本に掲載しません。これはおかしいのではないかというのが私の文の意味です。
ちなみに、私は副島先生と同じく、聖徳太子=蘇我入鹿+蘇我馬子説で、アマタリシヒコ=蘇我馬子だと思います。
下條竜夫拝
【476】日本古代史備忘録(7)東大教授による大山誠一’「聖徳太子は存在しなかた説」批判
伊藤睦月です。先に予告していた、東大教授による、大山誠一批判文の一部を紹介します。筆者の大津透氏は、『日本史の現在2 古代』(山川出版社)の編者です。この本は山川高校日本史に掲載されている論点について、若手研究者(将来の教科書執筆候補者)が最新の学説の状況と今後の展望を描く、という趣向の本、(考古から近現代まで全6巻)問うことは、近い将来、本書における議論を踏まえて、教科書が書き直される、かも・・・という論文集です。
大津教授の大山誠一批判は、第2巻古代編のあとがきに5頁にわたって書かれていますが、冒頭の1頁強を引用します。少しでも読みやすくするために、小分けにして番号を振ってます。あえてコメントや注釈はつけません。各人各様の感想はあると思いますが、とにかく、現役の学者先生たちが、大山誠一の見解の何を問題にしているのか、ある程度はわかると思います。では・・・
(1)執筆者が得られず、残念ながら立てられなかったテーマがある。それは聖徳太子であり、なぜ近年の高校教科書では、「厩戸王(聖徳太子)」と表記するのかという問題がある。
(2)筆者(大津)は専門ではないが、少しだけここで触れておきたい。
(3)そもそもは、大山誠一氏が『聖徳太子の誕生』(吉川弘文館、1999年)などにおいて、「聖徳太子は存在しなかった」と論じたことに始まる。
(4)法隆寺金堂釈迦三尊像と薬師如来像の後背銘、天寿国繍帳などは、天皇号(天武朝成立とする)がみえることから、推古朝の史料として使えず、
(5)『日本書紀』に記される聖徳太子の事績も、奈良時代に道慈(どうじ)によって捏造されたものだとする。
(6)聖徳太子の事績とされるものはすべて創作で、
(7)偉大な政治家・文化人である太子は実在せず、
(8)厩戸皇子(うまやどおうじ)という王族がいただけであり、
(9)斑鳩寺(いかるがでら)くらいしか事績はないとした。
(10)そこで、聖徳太子の本名である「厩戸王」を用いる方が学問的に見える。
(11)確かに一度それまでの歴史観を否定するのは意味があるが、
(12)聖徳太子はいなかったという全面否定的な議論には批判も多く、
(13)議論に根拠があるかは個別の史料の検討が必要であろう。
(14)又問題なのは、教科書で「厩戸王(聖徳太子)と記すと、「聖徳太子は存在しなかった」との説を認めているようにみえることにある。
(15)確かにかつて推古朝は、天皇に代わって摂政となった聖徳太子の政治といわれ、
(16)遣隋使など外交を主導したとされてきたが、
(17)現在では、聖徳太子がどこまで政治を主導したかは不明で、
(18)推古朝の政治は蘇我馬子が中心か、馬子と太子との協調だろうといわれている。
(19)ただし憲法17条については、「皇太子自らはじめてつくる」と聖徳太子の作だと『日本書紀』は記す。
(20)その捏造説に対しては、曽根正人氏が反論し、
(21)推古朝のものとして整合的だとしている。(『聖徳太子と飛鳥仏教』吉川弘文館2007年)
(22)そして教科書では、604年に憲法17条が定められたと明記するので、「厩戸王」とする記述と矛盾するようである。
(23)聖徳太子とは、聖人の徳を備えた皇太子の意味である。
(24)皇太子制はもっと後の時代にできた制度だから、「太子」は存在しないとの議論もある。
(25)しかし、吉村武彦氏は、『隋書』倭国伝に「太子を名付けて、ワカミタフリとなす」とあることから太子の存在は疑いないとする(『聖徳太子』岩波新書。2002年)・・・以下省略
(以上引用終わり)
伊藤睦月です。どうです。感想、意見は各自さまざまでしょう。私は、個人的には「岡田英弘先生をえこひいきしたい人」なのだが、副島先生の「議論とは自分の弱点を徹底的に考えることである」(覇権アメ第4章)、「相手の立場にたって物事を考える」(『法律学の正体』)という掟に縛られているので、どうしても逆の立場で考え、議論してしまう。かなりめんどくさい奴だな。とわれながら思いますが、もうこれは死ぬまで治らないでしょうな。
以上、伊藤睦月筆
【475】日本古代史備忘録(6)結局、魏志倭人伝では、邪馬台国の場所はわからない(3)「なんでやねん」とツッコミいれるのが正解の副島隆彦、岡田英弘説
伊藤睦月です。只今、2024年11月13日4:12です。今日病院の検査結果がでるためか、早起きしてしまいましたので、続きを書きます。まずは、副島隆彦説から。
(1)副島先生は郷土愛丸出しの「どう考えても北九州説」です。理由は「どう考えても」です。と真面目に書きましたが、この副島先生渾身(こんしん)のボケに「なんでやねん」と突っ込みを入れてあげるのが、先生に対する礼儀というものです。
(引用開始)
私、副島隆彦は、「どう考えても」子の邪馬台国(倭国)は北九州のあたりだと考える。今の福岡市そのものだ。私は福岡市で生まれ育った。邪馬台国(すなわち倭国)は、紀元前100年から紀元後663年(白村江の戦いで大敗した)まで存在しただろう。今の日本国民の多くも、邪馬台国は「どう考えても」九州の北のあたりだと思っている。(引用終わり。『副島隆彦の歴史再発掘』251頁)
伊藤睦月です。この「どう考えても北九州説」の副島先生は、自説に続いて、岡田英弘説を紹介している。副島先生によると、「彼は邪馬台国は今の下関だったのではないかと「も」書いた」とあるが、これを真面目に受け取ってはいけない。岡田説は、「要するに、卑弥呼の都がどこにあったのかはわかるはずはないのである」説だ。
(引用開始)「魏志倭人伝」は、その成立の事情からして、またそれが利用したもとの史料の性質からして、三世紀の日本列島の実情を正直に伝えたものでなく、したがって『魏志倭人伝』の文面だけでは邪馬台国の位置を決定できない。・・・「要するに、卑弥呼の都がどこにあったのかは、わかるはずがないのである」「しかしそう突っ放しただけでは、あまりに愛想がないので、どうせ頼りない結論であることは承知のうえで、邪馬台国がどのあたりにあったのか、だいたいの見当だけでもつけてみよう」(引用終わり。『日本史の誕生 ちくま文庫版』58頁)
伊藤睦月です。そして岡田先生が出した「頼りない結論」が「山口県下関市(関門海峡付近)」であるというものである。正確には「瀬戸内海西部の沿岸のどこか」である。ここで、われわれは、思い切って椅子から転げ落ちてみせないといけない。そうしないと岡田先生、逆切れされるかもしれない。しかも、ご丁寧にも、「隋書倭国伝」の裴世清(はいぜいせい)の来日行程にでてきた「秦王国」という華僑の大集落こそ、邪馬台国の都だったと断定している。あれ、「頼りない結論」じゃなかったのかしら。「なんでやねん!もうやってられへんわ!」
伊藤睦月です。副島、岡田両先生が主張しておられるのは、要するに本稿の表題どおり、「結局、魏志倭人伝では、邪馬台国の場所はわからない」でした。以前紹介した、台湾、いや中華民国の謝仁銘先生と、結局は同じことである。世界基準の学問からは、邪馬台国論争なんて、この程度のことだ、という、我々副島ファンにとっては、いつもの結論、でした。下條さんもお疲れさまでした。白鳥庫吉先生、内藤湖南先生たち諸先生方も、泉下で苦笑いするしかないだろう。いや新聞記者あがりの、内藤先生だったら、破顔一笑、やっとここまでたどりついたか、と大笑いされているかも。
以上、伊藤睦月筆
追伸:それでも、邪馬台国の場所を真面目に追求しておられる方々もいらっしゃるようなので、次回はそれを紹介し、併せて、私の「頼りない結論」を紹介する。「そんなんいらんわ!」とツッコミ入れるのはご容赦くださいませ。
。
【474】【至急】ここで、下條さんにコメントを求めます。
伊藤睦月です。下條さんのご著書、『物理学者が解き明かす邪馬台国の謎』169頁「第5章日本文化の礎を作った卑弥呼」のなかで、岡田英弘氏は『日本史の誕生』で日本古代史の真実を明らかにした、と題し、日本史の誕生(弓立社)の表紙写真、岡田英弘氏の顔写真、とあわせ、9行ほどの説明文を載せています。そこには、(引用開始)「・・・重要なのは、聖徳太子の非実在性中国史から明らかにした点である。・・・後年大山誠一氏などの歴史家は、この指摘をしりながら、引用せず、あたかも別の説として、聖徳太子=厩戸皇子説を作り上げていった。・・・」とあります。(引用終わり)
伊藤睦月です。これは現時点では、非常に不適切な個所です。大山氏らに対する誹謗中傷に近い。
では、次の個所をご覧ください。
(引用開始)さて、本文の各所で述べているように、『日本書紀』によると、女帝である推古天皇と聖徳太子がいた時代、中国の正史である、『隋書』では、男の倭国王がいたという。どう考えても『日本書紀』の記述のほうが怪しいので、聖徳太子が実在したかどうか、様々な議論が起こっている。最近になって私は、聖徳太子は実在したという考えを取るようになった。ただし、『日本書紀』のいう時代でなく、もっと後の時代だったと考える。(以上、引用終わり)『日本史の誕生』348-9頁、文庫版あとがき、ちくま文庫2008年)
伊藤睦月です。このように岡田先生は、2008年以降は、条件付きとはいえ、「聖徳太子実在説」に、改説されています。下條氏が採用しているのは、1994年の単行本ですが、本書が2022年発行だとしますと、岡田先生が14年も前に改説されたという事実を踏まえない、2022年発行の書物の記述は、話になりません。
上記記事及び大山氏への「筆誅(という風に読んで感じました)」は、たとえそれが事実であっても、現時点においては、明らかに当を得ません。もっとも、大山氏が「無断引用した」というのならわかりますが、「無断で引用しなかった」という指摘は、実証や反論しようがないと思われ、意味わかりません。岡田先生は、大山氏らの存在を十分知りながら、上記コメントしているのは、文脈上明らかです。なお、大山誠一氏らについては、現在、東大系の学会主流と思われる学者から反論がなされていますが、それについては、後で紹介します。
この本の記事を誰が書いたのか知りませんが、それが誰であれ、この本の文責は、著書である、下條竜夫氏にあると考えます。下條氏におかれては、上記について、可及的速やかに、コメントされることを強く求めます。
以上、伊藤睦月筆
追伸:下條さんの本、感心もし、好きだったのに、残念です。最後にちゃぶ台返しあうとは・・・・
【473】日本古代史備忘録(5)結局、魏志倭人伝では、邪馬台国の場所はわからない(2)
伊藤睦月です。昨日の続きです。
(1)1983年、謝銘仁という中国(国立台湾海洋学院大学教授:当時)の文献学者が『邪馬台国 中国人はこう読む』という本を日本の出版社(立風書房)から出している。日本の文献学者安本美典氏が解説文を書いている。個人的な親交もあるらしい。
(2)伊藤睦月です。私はこの本の存在を、下條竜夫『物理学者が解き明かす邪馬台国の謎』で知った。下條氏は、同書掲載の、魏志倭人伝の訳読を採用している。卓見、であると思う。(上から目線で恐縮です)私なら、岩波文庫や講談社学術文庫版など、入手しやすい、日本人学者による訳読を無批判で採用していたところだ。
(3)当時、いわゆる「古代史ブーム」「邪馬台国ブーム」だったころだ。かなり反響があった、と思いたいが、そうでもなかったようだ。今では、謝銘仁に言及しているのは、安本美典氏くらいしかいない。残念なことだ。
(4)謝銘仁教授は、同書「はしがき」で次のように言う。
(5)「邪馬台国について知るのに、まず必要なことは、「魏志倭人伝」の段落並びに、その文章を的確に把握することである」
(6)伊藤睦月です。謝先生、おっしゃる通りです。
(7)謝教授はさらにつづける。
日本で定本扱いされている「魏志・倭人伝」とかつて中国側が多くの学者を動員して、句読点(くとうてん)をつけ、1959年に発行した票点本『三国志』の中の「魏志・倭人伝」とを比較すると、本文の句読点だけでも、百か所近くの異同がみられる。(へえーそうだったんだ・・・(遠い目):伊藤)
(8)謝教授いわく、「陳寿の鳥瞰的な記載からは、邪馬台国の所在は九州の域を出ないことは言える。しかし、どこそこにあると強引に設定するのは、推測の域を出ない」
(9)特に、「行程論」について、謝先生の見解は、
「(魏志倭人伝の)行程記事は、中国的に表記しているので、中国文の伝統とニュアンスを吟味して理解することが肝心である。ところが日本的発想に基づく先入観にとらわれて、邪馬台国の所在を比定することが行われ、独善的な珍訳・奇論の展開がみられている」
(10)伊藤睦月です。あちゃ~😵これって、今までの日本人による邪馬台国論争の全否定じゃん。すでに40年前に、中国ネイティブ学者によって、「秘孔」は突かれていた、それからは、ゾンビのような論争が続けられていただけのことではないか。本当はこの時点で少なくとも違うアプローチを検討すべきだったのだと、私、伊藤睦月は、ため息をつきながら、思います。「失われた〇〇年」がここにもあったか。
(11)これって、90年代の副島先生が、「欠陥英和辞典」でたこつぼ学会村と裁判闘争をやっていたのと、同じことだと、僭越ながら、思います。
(12)ところで、安本美典氏は、同書解説を次の文章で締めくくっている。「中国人学者が読んだ場合、『魏志』『倭人伝』のどこまでがゆれ動き、どこまでが一致するかを見定めることは、議論の出発点として必要なことであろう。邪馬台国研究は、今、ようやく国際協力の時代に入り、新たな出発点を迎えているようである。本書はそういう意味で、重要な一石を投じたものといえる」
伊藤睦月です。40年後の今、安本センセイの現在の感想をお聞きしたいものだ。まだ、ご存命のうちに。
(ご無礼、陳謝)。小休止。
伊藤睦月拝