ふじむら掲示板
※ログイン後に投稿フォームが表示されます。
Loginはこちら【402】かたせ2号さんの投稿は楽しい
伊藤睦月です。かたせ2号様、即レス。多謝です。
今のところ、かたせさんにレスできるほど、私の知見がなくて、申し訳ないのですが、それでも楽しいですね。ありがとうございます。私は私でこの掲示板に戻ってきたテーマがありますので。悪しからず。
伊藤拝
【401】2054様、かたせ2号様、守谷健二君へ(ブレーク)
伊藤睦月(2145)です。
2054様、ご多忙中の中、私の投稿にお付き合いくださり、出典のご紹介までいただき、いまして、誠にありがとうございます。また、私の入院について、お気遣いいただき恐縮です。2054様の投稿はすべて読み切っておりませんが、貴殿の投稿は私にとって貴重なものですのでありがたいです。時間がかかってもかならず、お答えさせていただきます。
その際、ひとつだけ、私への疑問中、「根拠」がない、とよく言われてますが、「序論」でも書きましたように、2054様ご指摘箇所の大半は、「ファンタジー」(史料の裏付けのない、または乏しい、推理、仮説)でして、もとから根拠に乏しいものです。実証史学が主流である、現代におきましては、時代をさかのぼれば、のぼるほど、史料(文字情報)が乏しく、推理に頼るほかありません。したがって、推理の出来不出来や筋立ての面白さが、決め手となります。(これは、私、2054様、小林氏をはじめとする学者、作家(特に推理作家が活躍します)歴史作家、司馬遼太郎の作品なんか、典型的なファンタジーです。副島隆彦先生の作品もそう。われらのうち、誰のどのファンタジーが、真実に近づきえたか、真実をロックオンできたか、です。ですから、ファンタジーの批判、指摘に対しては、実証できないものは、ファンタジーでお答えすることになることを、ご理解ください。
〇かたせ2号さま。私のラテン語格言にいち早く反応いただき、ありがとうございました。
恐縮ですが、私は、かたせ2号様の投稿の内容がほとんど理解できません(汗)(苦笑)しかし、かたせ2号様の投稿の文面から見て、非常に楽しんでいる、ふじむら掲示板をとことん、遊んでいらっしゃる、と思います。楽しみにしています。
なお、あのラテン語の格言は、故近藤誠医師(「がんは治療するな」)の座右の銘だそうです。(和田秀樹医師による)
〇守谷健二君へ
私がこうして、投稿を始めたきっかけは守谷君の投稿です。ありがとう。君にかなり、突っ込みをいれてますが、この程度でふてくされたり、へたりこむ、守谷君では、ないですよね。これからも期待しています。
(以上、伊藤睦月筆)
【400】冊府元亀について
会員2054です。まず何度も回答のお付き合いをいただいている伊藤氏に御礼を申し上げます。伊藤氏の見解の全体像は、私の理解が及ばないため、疑問点についての言及は控えようと思います。また、学問道場の諸兄にも参考にならないと思いますので、これで(しばらく)最後の投稿にします。
なお、伊藤氏からご質問のあった「羅紀」は新羅本紀のことと思います。また、冊府元亀については、以下の記述が参考になると思いますので、ちょっと長いですが引用を記します。
小林恵子・井沢元彦対談本 『記紀』史学への挑戦状P203~205
(引用はじめ)
『晉書』にみえる東倭の国
小林 はい。それで『晉書』を見ますと、宣帝というのは司馬仲達のことなんですけど、その宣帝紀に正始元年、つまり240年に東倭が朝貢したと出ているんです。東の倭、これは初耳だと思うんですけど。
井沢 そうですね。
小林 この東倭というのが丹後から大和にかけての倭王の国なんです。
井沢 つまり、倭王、倭国は2つあってというか、倭人の国が幾つかあって――
小林 幾つかあって――
井沢 その中の1つということですね。
小林 そういうわけですね。特に東ですから本州の国ですね。東倭が重訳を連れてきたとあります。重訳っていうのは何人もの通訳を連れてきたという意味で、つまり、本州の中部にあった言葉と北九州にあった倭国語とは言葉が違うんですね。ですから東の国の言葉を一度西の方の倭国の言葉に訳して、それから中国語に訳すので何人もの重訳を連れてきたということでしょう。
井沢 今でも重訳といいますものね。
小林 重訳っていいますね。それから高句麗の東川王ですね、東に移った王は、毌丘倹(かんきゅうけん)という魏将に追われて列島に亡命してくるわけですね。北九州に来て、それで邪馬台国を滅ぼして、台与を押し立てて、つまり東遷ですよね、そういう説をとなえている人もいますけどね、東遷、北九州から東遷したというのは他にも何人もいます。
井沢 私もそうなんですけど、はい。
小林 それでもともと高句麗の東川王は東倭の国と連合していたわけですから、そこで台与という卑弥呼の一族の祭儀上の女王を押し立てて大和地方に移って、泰始元年、265年というのは、これは晉が建国した年なんですけれども、『冊府元亀』に倭の女王が朝貢したとあります。この女王が台与ですよね。だから、もうこのときは既に大和地方に移っている。『晉書』の方には266年11月になっていますけれども、倭人が来たとあります。
井沢 『冊府元亀』、これはどういう本ですか。
小林 『冊府元亀』というのは11世紀始めに書かれた本ですけれども、ものすごい量の本ですね。
井沢 それはだれが、どういう目的で書いた本なんですか。
小林 宋の時代です。宋の時代の王欽若(おうきんじゃく)等の編纂による書ですね。もうすべて森羅万象にわたっての中国史をかいてあるわけですよ。
井沢 じゃあもう百科全書みたいな。
小林 そうそう。そこの朝貢という場面です。もう何しろ当時の中国からみるとこちらは野蛮国ですから、朝貢しか載らないんです。この朝貢というところに――
井沢 あ、朝貢史の中にこれがあるわけですか。
小林 これが入っているわけです。『冊府元亀』を全部読む人ってあまりいないんですけど。
井沢 いないでしょうね。
小林 いないんです。
(引用終わり)
会員2054です。この対談では、240年前後当時、日本列島内には複数の国があり、そのなかに「邪馬台国」と「東倭」があっていずれも魏に朝貢していることが提示されています。また、晉建国直後の265年に朝貢していることが『冊府元亀』に示されている、とあります。
高校教科書がどうなのかはしりませんが、『冊府元亀』はあまり読まれていないとのこと。マイナーな扱いにしてよい史料ではないように思います。
最後に、伊藤氏に一言。精力的な投稿が続いておりますが、来月から長期入院されるとのこと。お体をお大事にお過ごしください。
【399】投稿についてお断りとややキモい決意
伊藤睦月です。私が投稿中に、副島史学とか、副島学とか、副島を冠しております。
これは、私の一存で、拝借しております。私の知見のベースは、副島先生の属国日本論をはじめとする副島先生の知見によるところが多い。それに先生から、弟子と呼んでいただいてる以上は、先生の学問を非力、無能ながら、継承発展させたい。できなければ、先生の知見を実証して、論拠を確立させたい。という思いで資料を集め、読みとき、その成果を投稿させてもらっています。だから、そういう面からの批判、お前は副島先生を、読み違えている、といったご指摘も大いにいただきたい。
私は、投稿するときは、頭に中に、ソエジマタカヒコ、が常にいます。
議論とは、自分の弱点を徹底的に考えることだ、という言葉を、覇権アメから、頂いて以来、私の頭の中のソエジマタカヒコが相手です。誰を相手にしていてもです。生来の臆病者である、私のたった一つのこだわり、副島推しの矜持です。また、それらすべて
楽しみたい。私の原動力は、楽、です。死を想え、そしてその日の花を摘め。人生を楽しめ。
以上、伊藤睦月筆
【398】2054様、私の投稿を読み違えています。
睦月(2145)です。2054様の指摘(倭国王不在)について。私の技術が低くてうまくコピペできなくて、恐縮ですが、取り急ぎ要旨のみ。2054様、私は「倭国王不在」=九州王朝の王不在と主張していまして、大和王朝の各天皇のことは不在とは言っておりません。私の投稿を読み違えています。入り口で間違えていらっしゃいますので冒頭のパラグラフ以外は論じるに値しません。それとも、孝徳天皇以下は倭国=九州王朝の王様の名前だといわれるのでしょうか。私は副島学説に従い、大和王朝と九州王朝(倭国)は別物という理解をしております。大和王朝の歴代天皇の系譜は、遣唐使派遣以降、「天皇号」や「日本号」とともに、中国側に伝わっている、と考えています。私が矢継ぎ早に投稿するものだから、消化不良を起こされたとしたら、それは申し訳ありません。
また、「原典」の件、承知しました。2054様がご多忙とのこと。私も貧乏サラリーマンですが、来月から長期入院にはいり、スマホやパソコンのアクセスが思うようにいかなくなるので、もしお持ちでしたら、との軽い気持ちでお願いしてしまいました。もしご負担に感じていらっしゃたのなら、これも申し訳ありません。
今後も2054様の投稿を楽しみにしておりますので、どうぞマイペースでご相手いただくと幸いです。
(追記)ところで、小林氏のいわれる「羅記」とはなんでしょう。また、「元亀」とは。少なくとも、高校教科書レベルを超える史料を次々と出されるのだから、かなりマイナーな史料なのか、とも思ってしまいます。マイナーな史料なら、その資料の信ぴょう性を確認する必要があります。そうでなければ、よいのですが。小林氏や2054様は倭国すなわち大和王朝、という前提のようですが、私、伊藤は、広義の倭国=狭義の倭国(九州王朝)プラス大和王朝という見解をとっていますので、そこから、考えの食い違いが始まっているのでは、ないか、と考えています。
(以上、伊藤睦月筆)
【397】学会標準学説で、自説(伊藤のファンタジー)を検証する。(1)
伊藤睦月(2145)です。今回は趣向を変えて、学会標準学説を読んでみましょう。私、伊藤は、特に歴史ものの自説を展開する前後で、学会の見解をチェックします。ひとりよがりだったり、すでに学会で公認されていて、知らずに恥をかくことをできるだけ、防ぐためです。今回は、チョウネン坊主に関する論考をとりあげます。結果は少しうれしく、少しくやしい、ものでした。それでは、ご一読ください。
(1)1970~80年代の学会通説(日本大百科全書:伊藤隆寿)
チョウネン(938?)平安時代の三論宗(南都六宗の一)の僧。俗姓は藤原氏。京都の人。幼くして東大寺に入り、東南院の観理に三論を学び、石山寺ゲンゴウに密教を受けた。983年(一説に982年)8月に宋の商船に乗り、入宋し、翌年ベンケイ(北宋の首都開封)に入って、太宗にまみえて紫衣と法済(ほうさい)大師の号を賜る。ついで、五台山などを巡礼し、987年2月に帰国した。宋版大蔵経5000巻、釈迦像(インドのウテン王が刻した栴檀(せんだん)の釈迦像を摸刻したもの)、16羅漢画像などを将来する。989年東大寺別当に任命されて、3年間奉職した。のち弟子の盛算(じょうさん)が嵯峨のセイカ寺境内に釈迦堂を建立して、清凉寺と号し、チョウネンの将来した釈迦堂を安置した。この像は、三国伝来の栴檀端像として、信仰を集めた。
伊藤睦月です。このころは、日本仏教興隆への貢献、清凉寺を建立した高僧、という面が注目されています。その中で、私が目をつけたのは、「宋の商船に乗って、入宋し」の部分で、宋史には、入宋時の商船の商人名が記載されてないことから、密航と推理していたのですが、結果的には当たらずも、遠からず、でした。実は、チョウネンは、当時北宋の敵国だった、呉越国の商人の船だったのです。当時呉越王と藤原氏は手紙のやりとりをしていて、チョウネンの前にも、日延という僧が、呉越商人の船で中国にわたっています。(「倭人伝」516ページ)それで、宋の歴史書には、記載されず「海に浮かんでプカプカと」記載されたのでした。
ちなみに、呉越国は、960年に宋に滅ぼされています。
伊藤睦月です。チョウネンの評価は、上記が基本ですが、2000年以降はそれ以外の側面にも注目されます。日本史学者と中国史学者の記事を掲載します。副島史学では、「世界史視点」が重要視されますが、日本学会もそれに追随しているように、私には思えます。まずは、日本史学者の記述から。
(引用はじめ)
このチョウネンの入宋について、もっと公的な意味を考えるべきだということを、石上英一氏が10世紀の外交を分析する中で述べている。チョウネンは、入宋に関して「允許宣言」(出国許可)を蒙っているが、単なる巡礼のための出国許可ではなく、もっと公的な使命を日本政府から負わされていた、という推定(この語に注意)である。(「道長と宮廷社会」大津透、初出2001年講談社学術文庫)
(引用終わり)
伊藤睦月です。守谷健二君も、チョウネンの入宋目的について、似たようなことを主張していたが、それが、旧唐書ショックに対応することだったのか、先に進みます。
(引用はじめ)
彼が渡航したのは983年であるが、960年に建国された宋は、979年に北漢を滅して中国全土の統一をなしたのである、統一直後の宋に対して、チョウネンは日本からの使者として、入宋したので、だから台州(浙江省)に上陸して、天台山を巡礼した直後に、宋都ベン京に行き太宗に朝見(拝謁)した、というのである。チョウネンは太宗に対し、銅器十種(それで、黄金はどこに行った?)、「職員令」「王年代記」を献じ、また中国ではすでに散逸していた鄭玄注「孝経」と越王の「孝経新義」も献じている。そして、皇帝の下問に応じて日本の風土を答え、王統譜を述べ、地理(国名)や人口を述べている。この答に、太宗はこの「島夷
」が皇統が変わらず、進化も継襲していることに、「これけだし古の道なり」と感嘆している。(前掲同書339ページ)(引用終わり)伊藤睦月です。」ここまでは、守谷君も「万世一系」の語を使用しなければ、おおむね正確です。さて、次に注目、現在の日本史研究者はここまで踏み込むのか、と思いますが、副島史観を知っている我々にとっては、そんなに驚きはないでしょう。
(引用はじめ)チョウネンは、国家の正式な使節ではなかった、とはいえ、風土を説明し、王統を述べたことは、宋朝への朝貢に準じた行為であった。「宋史」巻491の日本国伝の過半がチョウネンの入貢の記事であることから、宋朝にはそのようにとらえられ、また、チョウネンが入宋したことにより、宋の世界秩序のなかに、日本が位置づけられたことは疑いないだろう。律令制下とは変質しているとはいえ、日本は、宋を中心とする、国際秩序の中に自らをいちづけていたのである。(引用終わり:前掲同書339ページ)
伊藤睦月です。宋帝国は、日本が自ら属国になることを希望した、その朝貢使がチョウネンである、とうけとったのでした。また、チョウネンは否定しなかった(できなかった)。そして、日本は「やせ我慢」を続けた・・・。私のファンタジーとほぼ同趣旨のことが、20年以上前に一般向け歴史書にすでに書かれていた。少しうれしいけど、やっぱ悔しいね。これについては、別稿で深堀します。それでは、現在の中国史学者の見解も、みてみよう。
(引用はじめ)遣唐使が廃止されてからも、事実上の国使として日本を代表して中国に渡った天台宗の僧侶たちがいた。彼らが訪問したのは、唐末から長江下流部に事実上の独立王国として君臨していた、呉越国であった。呉越の領域内には天台山があったから、彼らにとってはこの渡航は聖地巡礼でもあった。呉越が宋によって併呑されてからは、海風に置かれた宋の宮廷が訪問先となった。その最初のチョウネン(938~1016,983年入宋)である。(彼は天台宗でなく、東大寺の学僧であるが)彼の訪問は宋の側からも重視され、宮廷には詳細な記録が作成・保存された。一度「宋史」の日本国伝をひもといてみていただきたい。彼に関する記述及びかれが伝えた日本情報で埋め尽くされている。
トウネンは、日本仏教史の側からも、極めて重要な貢献をした。宋で印刷された直後の大蔵を持ち帰ることを許されたのである。宋の宮廷からすれば、発明間もない新技術を文化のいまだ開け夷狄に誇らしげに示すという意味合いを持った行為であった。(引用終わり:小島毅「中国思想と宗教の奔流(2005年)」18ページ中国の歴史7講談社学術文庫)
伊藤睦月です。現在の中国史学会では、①日本が宋の属国になったこと➁日本仏教の振興に寄与した、学説が有力しされています。そのキーパーソンがチョウネンというわけです。➁はともかく、①について、当時の支配者層はどう思ったでしょうか。以前の投稿でチョウネンの行為は、支配者層を「当惑させた」と書きましたが、それですんだのか。これについても、今後深堀りします。私自身も、自分のファンタジー(副島史学)と学会学説が共鳴してしまって、すこし「戸惑っています」勉強の種はつきません。まだまだ投稿続きます。
(以上、伊藤睦月筆)
【396】【486】【485】伊藤氏の見解についての疑問点(3つ目)
<3点目>旧唐書に倭国王の名前が記されなかった理由
(引用はじめ)
【473】【472】【471】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(2)
(4)当時の倭国に王はいたのか、さらに私の想像が続きます。中国正史(旧唐書東夷倭国)に倭国王の名前が一人も記されていないのはなぜか。それは倭国には王がいなかったからだ、と考えます。倭国は華僑が合議制で運営していた国だったと、私、伊藤は考えます。その代表者をとりあえず。「王」としたにすぎない、と考えます。
(引用終わり)
会員2054です。伊藤氏の記述の通り、旧唐書には孝徳から孝謙までの諸天皇の名が記されていない。しかし、その理由は倭国に実体としての王朝が不在だったことを意味しません。少なくとも『書記』をはじめとした諸文献に歴代の天皇は表記されています。これを否定して「王は不在」とするのであれば、それ相応の根拠が必要です。
国内での実態はどうあれ、旧唐書に諸天皇の記載がなかった事実は、唐の意のままにならない王朝だったことを示していると考えられます。唐は天智朝を正統とし、天武朝系天皇を認めていません。また、唐はタリシヒコ王朝が山背倭王の時代に滅んだあとは、倭は血統として別系となったと認識しているのでしょう。これが旧唐書にいう「倭国の別種」という意味と解釈します。
私は以下にある小林説の説明に理があると思います。
(引用はじめ)
欧陽脩らが編纂して1060年に完成した『新唐書』(列伝145東夷)には、孝徳・斉明・天智・天武から聖武・孝謙に至る歴代の天皇を記録している。しかし百年以上前の945年に成立した劉昫の『舊唐書』(東夷伝)には倭王の姓は阿毎氏とある。(中略)『旧唐書』には648(貞観22)年になって新羅を附して表を奉り、唐国に起居を通じてきたとあるのみで、孝徳から孝謙に至る諸天皇の名を一切、挙げていない。(中略)起居とは国王の身辺の様子をいうから、この後、天皇の身辺も含めた国情を新羅を通じて唐国に知らせていたという意味である。起居を通じたとあるところからみて、『旧唐書』の編者が当時、孝徳以下の天皇を認識していたことは間違いない。おそらく唐朝の意のままにならなかった孝徳から孝謙に至るまでの諸天皇を無視して、その名を記載しなかったのだろう。
『旧唐書』では、その後、半世紀あまり空白ののち、唐突に702(長安2。本紀による)年10月に粟田真人が朝貢し、日本国は倭国の別種だが、倭国という国名を良くないとして日本にしたと報告してきたとある。日本が倭国の別種という意味は、当時の文武天皇が倭王阿毎氏、つまり『隋書』にいうタリシヒコ(小林説では聖徳太子)とは別系で、倭王の阿毎氏は山背皇子で途絶えたといわんとしたのだろう。
(引用終わり)
以上となります。なお、私は歴史研究家でも何でもありません。原典に逐一あたっている時間的余裕もなく、明日からは仕事に忙殺されるいっかいの庶民に過ぎません。【484】において伊藤氏から原典の教示を求められていますが、できません。この点、取り急ぎ、返信させていただきます。(追記)冊府元龜の原文ウェブサイトを見つけましたので、追記します。https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=189858
【395】【485】伊藤氏の見解についての疑問点(2つ目)
<2点目>白村江の戦いにおける「倭国」の表記について
(引用はじめ)
【483】(482)における会員2054様の指摘にこたえます。
(9)私がこだわるのは、少なくとも私の所持している、白村江の史料では、「倭人」「倭兵」と表記され、「倭国」と表記された文書を確認できないことです。なぜでしょう。
(引用終わり)
会員2054です。「倭国」と表記された文書は「羅紀」にあります。小林恵子「白村江の戦いと壬申の乱」p105より引用します。
(引用はじめ)
「羅紀」(文武王11年)の仁貴への返書において、文武王は「新羅兵馬亦発同征行、至周留城下、此時、倭国船来助百済、倭船千艘停在白沙、百済精騎岸上守船、新羅驍為前鋒、先破岸陣」と、文武王等が周留城に至ったとき、百済を助けに来た日本水軍が千艘、白沙に停泊しており、これを百済の騎兵が岸上から守っていた。そこで羅軍は唐の先鋒となって岸上の百済軍を破ったとある。
(引用終わり)
会員2054です。上述の羅紀に「倭国船来助百済、倭船千艘停在白沙」とあり、倭国と表記された文書の存在が示されています。
(反論3点目に続きます)
【394】伊藤氏の見解についての疑問点(1つ目)
会員2054です。まず、回答をしていただいた伊藤氏に御礼を申し上げます。私の立場を明確にしていなかったため、誤解を招いてしまったように思います。私は、岡田説のように倭国と日本が別の国という立場を採りません。当時の倭は、日本列島の総称のことで、倭国と日本は同一の意味と解します。
伊藤氏の見解(倭国と日本は別)からすると、その点を明らかにしないと用語の区別もできない雑な説明と判断されるのも理解できます。この点、お詫び申し上げます。
なお、以降は、私の立場(倭国=日本)を前提に記述させていただきます。引用元の小林恵子説も同様の立場と理解しています。伊藤氏の見解への疑問を続けます。
<1点目>665年当時の東アジア情勢について
(引用はじめ)
【476】【475】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(5)
ここで「どんでんかえし」というのは、前頁からの流れで、633年の白村江の戦いの後、 唐の同盟国(属国)であることをやめて、朝鮮半島統一に方針転換をした、またその動きを始めたので、それを警戒した唐帝国が、新羅をはさみうちにするため、日本と友好関係(つまりは朝貢して唐の属国になれよという誘い。当時はそして今も対等な同盟なんてほとんど存在しない)を結ぶべくすりよってきた、ということであろう。そうなると、665年と669年の軍隊兼使節の来日は、日本に朝貢を促すための、使者を派遣してきた、ということになる。
(引用終わり)
会員2054です。伊藤氏は663年以降、唐が新羅をはさみうちにするために日本にすりよってきたとあります。日本と唐が講和した(665年)のは事実と思われますが、「新羅をはさみうち」にする意図が当時の唐にあることを示す根拠は存在しません。
むしろ、歴史の流れは別方向に向いています。665年8月に劉仁軌は、百済の王子(扶余隆)と新羅(文武王)の間で和平を結ばせています。また、同年に倭国に使者(劉徳高)を送り、唐国と倭国の講和も成立しています。当時は唐による高句麗征討の前夜でもあります。これらを前提にすると、新羅をはさみうちするような状況ではなく、むしろ対高句麗戦をまえに、旧百済、新羅、倭国との結束を固める唐国の企図がうかがえます。
また、中大兄(天智天皇)の捜索・捕縛という伊藤氏の見解も根拠がありません。劉徳高の来倭当時、大友皇子(天智天皇の子)の相を見て大いに褒めたと『懐風藻』にあるようです。これは伊藤氏の見解と真逆の事実を表しており、のちの天智朝の承認を表している証拠となります。
(反論2点目に続きます)
【393】2054様へお願いです。
伊藤睦月2145.です。2054様が自説の根拠とされている小林氏の引用史書。そのうち、元亀、という史料に対する情報をもっておりません。ご教示お願いします。
また、可能なら、他の史書の白村江の記事、白文で結構ですから、これもご教示ください。書きくだし文もご教示くださると、大変助かります。どうぞ宜しくお願いします。
伊藤拝