ふじむら掲示板

副島系掲示板の”補集合”としての役割
伊藤 投稿日:2024/06/23 00:34

【483】(482)における会員2054様の指摘にこたえます。

伊藤睦月(2145)です。会員番号2054様、ご指摘ありがとうございました。

以下の通り、回答します。

(1)私、伊藤は「列伝の記載が事実ではない」と主張していないし、守谷健二君も、「事実」である、と断定して いない。2054様の誤読であろう。

(2)守谷君は、列伝の記事をもって、「倭国記事」と見做してはだめですか、と謙虚に問われたので、「見做す」ではなく、反証可能な「推定する」なら、あり、ですよ、と返しただけ。見做すと推定するとの論理的意味、使い分けについては,あまりにも初歩的な事項なので、説明は割愛します。

(3)守谷君は、列伝の白村江の記事を、「倭国記事」とみなす、とされ、同列伝の封禅の儀に倭国王を引き連れた記事をもって、その補強根拠としている。これについては、守谷君が原文もしくは、その訳文を示していないので、賛否は保留している。列伝の類似記事が他の史料にあり、それを吟味できれば、それでよい。(これが反証可能な資料という意味、私、伊藤は、列伝記事は反証不可能な史料、だとは指摘したが、事実でないとは、決めつけてない。こちらの表現も未熟だったかもしれないが、もう少し注意深く読んでいただきたい。)

(4)2054君が、「倭国記事を裏付ける史料」としている小林恵子氏の引用文は、非常に雑な議論なので、裏付け史料としては不適切である。これについては、少し詳しく述べます。

(5)小林氏は、

 「仁軌遇倭兵於白江之口、四戦棲、其船四百艘、煙焔漲天、海水皆赤、賊衆大潰」、

  という守谷君も引用している文の日本語訳を、

 「(劉仁軌は)白江に入り口に至ったとき、日本軍と出会い、四戦して日本軍の船四百艘を焼き討ちしたので、煙は天を覆い、海水は一面に赤くなって、日本軍は壊滅したのである。

これって、かなり雑な議論だと、わかりますか。

伊藤睦月です。上記の文で、「倭兵」を「日本軍」と訳しているところ。「倭国軍」としていれば、日本歴史学会の基準に達している。

(6)(引用開始)

斉明天皇と中大兄皇子は、百済を復興して朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと考え、百済救援の大軍を派遣することに決した。661年、中大兄皇子は斉明天皇とともに筑紫に出征し、斉明天皇の死後は、大王の地位につかないまま、戦争指導を行った。662年に大軍を渡海させたが、翌663年白村江の戦いにおいて、唐・新羅の連合軍に大敗した。(佐藤進、五味文彦ほか「改訂版詳説日本史研究」(山川出版社)57ページ)

伊藤睦月です。このテキストは高校日本史レベルの本ですが、著者たちは、東京大学の教員たち、つまり学会の主流の人達で、このテキストの見解は、日本歴史学会の通説的見解といってよいと思います。ここで著者たちは「倭国」という語は使いますが、「日本」という語を使用することを慎重に避けています。なぜなら、著者たちは、「日本」という国号は、702年に派遣された遣唐使によって、中国に知らされて、中国の皇帝に承認されたことをもって、「日本」の始まり、と考えているから。(同書65ページ)小林氏が白村江の戦い時に「日本軍」と表記しているのは、学会の通説的見解では誤りで、彼女が学会に属しているなら、何らかのエクスキューズが必要です。でなければ、読者をなめています。

(7)また、われらが副島史学の立場から見ても、この文章はおかしいです。副島史学では、当時の倭の国は、倭国(九州王朝)、日本国(大和王朝)が並立しており、白村江の戦いでは、九州王朝が戦って、敗北した。残った大和 王朝が倭国を合わせて全国王朝となり、やがて国号を「日本」に改めた、とされています。(伊藤要約)

(8)であれば、「倭兵」はやはり、「倭国軍(もしくは九州王朝軍)」と訳さないと、白村江で「日本軍」(=大和王朝軍)が全滅したことになります。小林氏の書き方はその辺が雑です。これは彼女の頭が雑だということになると思います。副島史学では、倭国と大和王朝は別物ですから。(これについては、また稿を改めて論じます)

(9)私がこだわるのは、少なくとも私の所持している、白村江の史料では、「倭人」「倭兵」と表記され、「倭国」と表記された文書を確認できないことです。なぜでしょう。旧唐書では、「東夷倭国」があるのに、新唐書百済の白村江の記事では、なぜ、「倭人」であって「倭国」ではないのか。小林氏の原文引用が正確ならば、中国書の白村江記事で、表記されているのは、「倭兵」である、ということを確認できるだけです。それなら、そのあと戦争捕虜を「倭人」と表記し,倭兵と表記しなかったのでしょう。なぜ旧唐書では、「倭国」と表記し、「倭」と表記しなかったのでしょう。私は議論の勝ち負けでなく、(どんなささいなことでも)真実に近づきたいだけです。

(以上、伊藤睦月筆)

(追記)なお、私は、旧唐書東夷倭国は、白村江の戦いの15年前(648年)の記事で終わっていることから、倭国はその時点で消滅しており、そのため、それ以後は、「倭国」という表記が使用されず、「倭」という、単なる地名表記になってしまった、という説(私だけの超少数説)を持っています。

 

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

 

会員番号2054 投稿日:2024/06/22 15:56

【482】【466】(3134)伊藤睦月氏に答えるに答えます(続き)についての反論

会員2054です。歴史書についての私の疑問に回答いただきありがとうございます。伊藤氏に御礼申し上げます。歴史書が門外不出(非常に重要)かどうかの言及はこれで終わりにしようと思います(学問道場の会員の皆様による賢明な判断にゆだねようと思います)。

守屋氏と伊藤氏の論争について、横から入ってばかりで恐縮ですが、以下の点について反論しようと思います。

(引用はじめ)【466】(3134)伊藤睦月氏に答えるに答えます(続き)

守谷(1)「列伝の記事を倭国記事と見做して悪いですか。悪いのでしたらその理由を教えてください。

伊藤意見:悪いです。理由:列伝以外には、いわゆる倭国記事を裏付ける史料がないからです。(例えば、百済や新羅、日本(大和朝廷)側の記事や旧唐書中のほかの個所(例えば高宗紀に白村江の記事があるとか)に列伝の内容を裏付ける記事を現時点では確認できていないから)つまり、列伝の記事は検証不能の記事なので、参考にはなりますが、そのまま「見做す」ことはできない。「推定」とか「推測」であれば、仮説の提示なので、仮説としてはありえます。(引用終わり)

会員2054です。『(旧)唐書』の劉仁軌伝にある、以下の点について、他の論拠を挙げることは可能と思われます。

「仁軌、倭兵と白江の口に遭う、四戦して勝つ、倭の船四百艘は焼かれ、煙と炎は天に漲り、海面は真っ赤に染まった。***」

小林恵子「白村江の戦いと壬申の乱」(現代思潮新社p104)より引用します。

(引用はじめ)

周留城は諸悪の根源であり、これを落とせば他の諸域は自ら下るであろうという仁軌の意見により、まず周留城を攻略することに決定した。この戦いに就いて、ほとんどの資料は「於是仁師、仁願、及び新羅王金法敏帥陸軍以進、仁軌別卒杜爽、扶余隆卒水軍及び糧船、自熊津江往白江、会陸軍同趣周留城、仁軌遇倭兵於白江之口、四戦捷、其船四百艘、煙焔漲天、海水皆赤、賊衆大潰」(『旧唐書』・列伝34・劉仁軌、東夷、他、『新唐書』・列伝33、劉仁軌、「百済本紀」、『通鑑』・唐紀17、『元亀』・366・将帥部・機略等)と仁師・仁願・文武王等は陸軍として陸路により、仁軌・杜爽・扶余隆等は水軍として糧船を率いて白江に往き、陸軍と解して周留城に赴くべく、熊津江より白江にむかったが、白江の入口に至ったとき、日本軍と出会い、四戦して日本軍の船四百艘を焼き討ちしたので、煙は天を蔽い、海水は一面に赤くなって日本軍は壊滅したとある。

(引用終わり)

会員2054です。引用文にある通り、ほとんどの資料(『旧唐書』『新唐書』「百済本紀」『通鑑』『元亀』)に記載のある事実として守屋氏が挙げた点を著述されており、これらは倭国記事を裏付ける資料となります。そもそも列伝であろうと「いつ・誰が・何をしたのか」という事実が正確であれば、これを否定する理由はありません。列伝の記載が事実ではないとするのであれば、伊藤氏はその点を明示すべきではないでしょうか。私は、守屋氏が列伝の記事を論拠とすることは妥当と思います。

伊藤 投稿日:2024/06/21 23:38

【481】(480)の表題書き忘れました。「2054様へのとりあえずの回答」とさせていただきます。

伊藤睦月(2145)です。2054様、上記の件、よろしくおねがいします。

伊藤拝

伊藤 投稿日:2024/06/21 23:33

【480】

伊藤睦月(2145)です。最初に回答の骨子を申し上げますと、

①「門外不出」といえるだけの史料(他王朝の事例など)を発見できなかったので、「門外不出」は大げさといわれても反論できない、したがってにこれに代わる表現を考えます。(「非常に貴重なものであった」(仮)というではいかがでしょう)

➁しかし、中国正史というのは、「気軽にプレゼントされる」ようなものではなく、当時の、東アジア情勢をお考えると、金春秋たちが果たした役割を十分ご理解いただくことが肝要、と判断しました。

といいうわけで、2054様ご指摘の記事を読み解くことから始めます。

伊藤睦月です。まずは、・・・

会員番号2054様が示してくださった、旧唐書をググる前に、手持ちの「倭人伝」で、新唐書東夷新羅にほとんど同じ記事をみつけました。旧唐書は白文、新唐書は読み下し文という違いはありますが、二つを比較して、同じものだと判断し、新唐書の記事で、会員番号2054様の指摘に回答させていただくことにしました。では、新唐書での該当記事の、読み下し文、日本語訳を下記に示します。また読みやすいように適宜小分けし、番号を付しました。では、ご一読ください。

(1)(貞観21年)、善徳死す。光禄太夫を贈り、妹の(金)真徳をして王(位)を襲(継)がしむ。

(2)明年、子の文王及び弟の伊賛の子(金)春秋を遣わして来朝せしむ。

(3)文王を左武衛将軍に、春秋を特進に拝す。

(4)(新羅は)章服を改めて、中国の制に従わんと請うによりて、

(5)内より珍服を出だしてこれに賜う。

(6)又、国学に詣りて釈てん・議論を観しむ。

(7)帝、製せし所の「晋書」を賜う。

(8)辞して帰るとき、勅して三品以上(のもの)に郊銭せしむ。

(和訳:講談社学術文庫訳に一部伊藤加筆)

(1)貞観21年(647年)新羅女王善徳は死んだ。唐太宗皇帝は、彼女に光禄太夫を追贈し、妹の真徳に王位を 

   継がせた。

(2)真徳女王は、その子の文王と、弟の伊賛の子である金春秋とを派遣して唐に来朝し太宗皇帝に拝謁した。

(3)太宗皇帝は、文王を左武衛将軍に、金春秋を特進(特別功労者という名誉職)に任命した。

(4)文王及び金春秋は、今後新羅としては、官人の衣冠(官僚制度)のきまりを改め、唐帝国の官僚制度を導入したい、と申し入れたため、

(5)(その申し入れを喜んだ)太宗皇帝は宮中秘蔵の官服を出して賜った(プレゼントした)。

(6)さらに、国立大学に行き、儒教の学生たちによる公開討論を見学させた。

(7)また、太宗皇帝は、彼が編纂させた(勅選)「晋書」を文王と金春秋に賜った(プレゼントした)

(8)文王と金春秋が、別れの挨拶をして帰国をするにあたっては、三品(三位,紫衣、いわゆる高級官僚)以上の

   高官たちに命じて都(長安)の郊外まで見送りにいかせた。

伊藤睦月です。まず、金春秋訪中の年648年は、新羅と百済の明暗をわけることになった、大変重要な年です。

①643年に新羅は高句麗と百済に攻められ、新羅の善徳女王は唐に救援を求め、唐は高句麗に圧力をかけて両国をけん制します。

➁645年に、日本(大和王朝)では、中大兄皇子と藤原鎌足という親百済派が親新羅派の蘇我入鹿を暗殺し、主導権を握り始めます。

➂647年に金春秋が来日し、新羅への救援要請をしますが、失敗します(関裕二説)

伊藤睦月です。当時新羅は、百済と高句麗から挟み撃ちのように、攻められて、ヤバかった。唐は高句麗をけん制するだけ、というまるで、現代のウクライナ戦争で、ロシアに対する西側諸国のような態度しかとってくれません。そこで、日本(大和王朝)に救援要請に行きますが、親百済派が、主導権を握りつつあったので、うまくいきません。そこで、金春秋は、唐帝国に救援要請に行き、唐帝国側と交渉し、交渉過程は不明ですが、からくも唐出兵の約束を取り付けました。そして、660年、唐・新羅連合軍は、百済を滅ぼします。663年百済の残党とそれに味方した倭人兵たちが、白村江で、唐水軍によって壊滅します。648年訪中は、まさにアジア情勢の帰趨を決めた超重要なニュースです。お気軽な交流会ではないのです。

 この唐と新羅同盟(仮称)現在でいえば、軍事同盟ですが、新羅は唐帝国の家臣(属国)になることで、唐を味方につけました。2054様が指摘になった金春秋の訪中記事は、唐と新羅との軍事同盟が成立した直後の新羅の唐に対する表敬訪問の記録です。だからなごやかな雰囲気を演出しています。最近でも、金正恩とプーチンが協定を結んだあと、様々な歓迎行事をやっていますが、それと同じことです。「晋書」はその両国間の友好の証として、易姓革命の正当性を主張した歴史書として渡されたもので、決して「気軽なプレゼント」ではありません。そして、このプレゼントを受け取ったことは、中国の属国になったことを意味するものでした。

また、唐太宗皇帝に金春秋は、「特進」という位をもらって、臣下の礼をとっていますから、関係大有り。

金春秋たちは、唐のご機嫌をとるために、官服を新羅式から唐式に完全シフトします。これはものすごいごますりです。当時の日本でも、唐式を導入しますが、官位12階、26階など微妙に違えています。そこを新羅は完コピした。唐太宗皇帝は大変喜びました。また、歴史書編纂など文化事業や儒教の振興にも熱心だったので、それらも見てみたい、見学したい、できたら欲しい、とおねだりしたのに違いありません。金春秋は、唐太宗皇帝のハートをわしづかみにしました。また、唐側も、前漢武帝の最盛期を再現するため、(当時は朝鮮半島全体が直轄地でした。楽浪郡とか。今でも中国が「我が国固有の領土」とか主張するのは、たいてい前漢帝国か明帝国、清帝国の版図のいいとこどりのように思えます)、新羅を「鉄砲玉」に使う意図見え見えです。新羅も十分承知。だから、後年、百済と高句麗が滅んだ時点で「ドンでんかえし」がおこります。まさに権謀術数の極み。表面上和やかな、訪中事業ですが、中身がドロドロなのは、今も昔も変わりません。

以上、とりあえずは、これをもって、私の回答とさせていただきます。

伊藤睦月筆

伊藤 投稿日:2024/06/21 13:46

【479】会員番号2054です様、貴重なご指摘ありがとうございます。

伊藤睦月(2145)です。会員番号2054様、貴重なご指摘ありがとうございます。しかも大学の紀要番号、(それとも科研費?)まで明記くださり、かたじけない。貴殿が「本物」の研究者(もしくは歴史愛好家)であることはわかります。この番号は私のパソコンでアクセス可能なら、早速確認したうえで、自説を改めるかどうか考えさせていただきます。

会員番号2054様がご指摘になった、「門外不出」は、私のあの論考の「痛点」です。少し時間がかかるかもしれませんが、必ずご返事差し上げますので、少しお時間いただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。時節柄、体調ご自愛ください。

取り急ぎ御礼、ご挨拶まで

伊藤睦月(2145)拝

会員番号2054 投稿日:2024/06/21 13:04

【478】【462】守屋論文を検証するの(2)について

会員番号2054です。伊藤氏による投稿について読みきれておりませんが、伊藤睦月氏の【462】守屋論文を検証するの(2)で言及されている「歴史書は門外不出」との点について反論します。
伊藤氏は以下のように論じます。

(引用はじめ)
中国の王朝交代は血筋でおこなわれるのではない。易姓革命、天命を受けた王朝が天命を失った王朝から王権を引き継ぎます。それを証明するのが、歴史書です。だから、歴史書は門外不出。皇帝とその関係者しか閲覧(見ること)できません。
(引用おわり)

伊藤氏は旧唐書・新唐書に限らず、中国の正史全般について「門外不出」と主張されていますが、そのような事実は本当にあるのでしょうか。逆に門外不出を破った例ならば「旧唐書」に見受けられます。

(引用はじめ)
引用元:専修大学ウェブサイト http://www.senshu-u.ac.jp/~off1024/nenpyoushiryou/kutoujyo/kyuu199s-647~648.htm
『旧唐書』199上 列伝149上 東夷 新羅
二十二年、眞德遣其弟國相・伊贊干金春秋及其子文王來朝。詔授春秋爲特進、文王爲左武衞將軍。
春秋請詣國學觀釋奠及講論、太宗因賜以所制温湯及晉祠碑并新撰晉書。將歸國、令三品以上宴餞之、優禮甚稱。
(引用終わり)

2054です。旧唐書によると、648年正月に金春秋は入唐し、できたばかりの『晉書』が与えられた、とあります。皇帝でもその関係者でもなく、気軽にプレゼントされている様子がうかがえます。守屋氏を批判する論拠の1つにすぎないのかもしれませんが、この点は重要です。歴史書が門外不出というのであれば、その根拠をご教示ください。どうぞよろしくお願いいたします。

伊藤 投稿日:2024/06/21 11:47

【477】伊藤睦月氏に答えるに答える(とりあえずのラスト):フビライカーンは「東方見聞録」を読んでいない。守谷君の雑な思考が彼の論文を台無しにした。

伊藤睦月(2145)です。守谷君の私に対する。投稿文の検証で、残っているものに、コメントします。

(引用はじめ)奝然は、普通だったら中国の皇帝に謁見できるはずがない。そんなことは誰にでも解ることだ。尋常でないことがあったのだ。尋常でない黄金を運んで行ったのだ。

これがマルコポーロの『東方見聞録』のジパング黄金伝説の元ネタになり、フビライハーンの日本に対する異常な執着(元寇)の原因となったのである。

(引用終わり)伊藤睦月です。この投稿文の前半部分はさんざんコメントしましたので、繰り返しません。

で、後半部分(マルコポーロ)については、簡単でした。「東方見聞録2・東洋文庫版」(平凡社ライブラリー)の該当部分を一読すれば、秒殺、です。

(引用開始)

ところで、無尽蔵なこの島国の富を伝え聞いたクビライ現カーンは、武力をもってこれを征服せんものと決意し、二人の重臣に歩騎の大軍と大艦隊を授けてこの島国に向かわしめたのである。(同書184,185頁)(引用終わり)

伊藤睦月です。この後、この島国で暴風雨にあって、全滅した、という記事が続きます。この戦いの描写から、「弘安の役」(1281)のことだとされています。つまり、クビライカーンは「東方見聞録」を読んでません。このことから、守谷健二君は、「東方見聞録」の本文を確認せずに、上記のでたらめを書いていたことになります。これで守谷論文のすべてが、不可、になりました。典型的なオウンゴールです。もったいない。守谷健二君は、多少とも学問的な論文を書く上での初歩の初歩をわきまえていない、「イタイヒト」でした。(しかも高校日本史の教科書レベルの知識もないくせに、むやみに歴史文献を振り回して得意になっている、アブナイヒト、でもありあます)この点私は妥協しません。顔洗って出なおしてこい。

とここで終わるのも、なんですから、いくつか補足します。

(1)まずこの出典をチェックする、という作業は、あの羽生教授が、あの「マックスウェーバーの犯罪」を暴いた手法です。シンプルだけど破壊力抜群、です。(もしよかったら、通称「ユダヤ本」(祥伝社新書)を参照してください)「東方見聞録」は、古フランス語で書かれていますから、日本語版でチェックしても許容範囲でしょう。

(2)マルコポーロは、ベネチアに戻った、1295年以降に、元を拠点に商業活動をしたときの各国、各地域事情を書いたといわれています。(債務が返済できずに牢獄に入れられた間に書いたとも。これも興味深いですが、今回は割愛)その内容の奇抜さから、最初は信用されませんでしたが、ユーラシア事情が判明するにつれ、その正確さが再評価されました。チパング(日本)の記述もその文脈で考えるべきです。完成は、1299年頃、だと思います。当時は印刷、でなく写本、でしたから、ベネチア共和国の情報機関(塩野七生によると、当時ベネチアは欧州最強のインテリジェンス機関でもあったようです。)や商人仲間で秘蔵されていて、フビライカーン(元王朝)のもとには届いていない。そもそも、フビライカーンは、1294年に死亡していますから、完成していない「東方見聞録」を読めるはずもありません。守谷健二君の妄想でしょう。(やさしく「勘違い」とでも言って差し上げましょうか?)

(3)では、フビライカーンは、日本に関するどんな情報をもっていたのか、マルコポーロは、「東方見聞録」で、日本の「黄金伝説」をこう書き残しています。

(引用はじめ)①この国ではいたるところに黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大なな黄金を所有している。この国へは、大陸から誰も行った者がない。商人でさえ訪れないから、豊富な黄金はかつて一度も国外に持ち出されなかった。右のような莫大な黄金がその国に現存するのは全くかかってこの理由による。

②引き続いて、この島国の国王が持ってる一宮殿の偉観について述べてみよう。この国王の一大宮殿は、それこそ純金づくめでできているのですぞ。・・・(中略)げにこの(黄金)宮殿はかくも計り知れない豪奢ぶりであるから、たとえ、誰かがその正しい評価をしようとも、とても信用されえないに違いない。(同署183,184頁)(引用終わり)

伊藤睦月です。これらの記述から、①「いたるところにある」砂金の産出がメインだったことがわかります。

毎度おなじみ、奝然坊主も、入国時の事情聴取で、「陸奥の金、対馬の銀」と(筆談で)言っていますので、陸奥の金は当時から有名だったのでしょうが、金鉱山でありませんから、見た目よりは産出量は少なかった、と思われます。銀に至っては、対馬の銀は「水銀」のことだと思われます。東方見聞録では、黄金と並ぶお宝として、「真珠」をあげていますが、日本のお宝として、こちらの方がリアリティがある、と思いますが、どれくらい価値があったのか。意外となかったのでは。黄金宮殿は中尊寺金色堂のことだと、いう研究者もいますが、実際中尊寺を見ると、意外としょぼいことが分かります。しかも金箔貼ってあるだけです。伝聞ですが、数キログラムの金箔で、東京ドームのグランド部分(約1ヘクタール)をカバーできるそうで、黄金の場合は見た目と、実際の分量とのギャップに注意すべきです。

②「東方見聞録」は、チパング(日本)に黄金があふれていたのは、後年の江戸時代のように鎖国体制をとっていて、黄金の海外持ち出しができなかったからだ、産出量が多かったからではない、という解釈をしています。これは、奝然坊主の話とは矛盾しますし、守谷健二君の論考とも矛盾しますが、私、伊藤はビジネスマン・マルコポーロの方が正確だったのではないか、と思います。とにかく日本の金が有名になるのは、金鉱山が開発された、16、17世紀以降であって、それまでは、東北の砂金は有名だったけど、中国皇帝が驚くほどではなかった(だから、黄金献上の話は、中国側の史料に出てこない。現時点の見解)と考えます。

伊藤睦月です。それよりも、東方見聞録で、私が注目している記述を紹介します。

(引用はじめ)しかし、この一事だけは是非とも知っておいてもらいたいからお話しするが、チパング諸島の偶像教徒は、自分たちの仲間でない人間を捕虜にした場合、もしその捕虜が身代金を支払えなければ、彼らはその友人・親戚のすべてに「どうかおいでください。我が家でいっしょに会食しましょう」と招待状を発し、かの捕虜を殺して、むろん料理してであるが、皆でその肉を会食する。彼らは人肉がどの肉にもましてうまいと考えているのである。(前掲書196頁)(引用終わり)

伊藤睦月です。これは、当時の貿易商人たちにとっても、黄金伝説より重要な安全情報です。「黄金の国ジパング」は、「食人族の国チパング」だったわけです。うっかり商売にいけば、食われる。鎖国よりもよほど怖い。私、伊藤は、漫画「北斗の拳」の修羅の国を連想しました。以前、別の論考で、7世紀の日本人に食人の習慣があったのではないか、と推測しましたが、それは、この個所を読んだからです。私は、「東方見聞録」の方が正確だったと思います。

(3)伊藤睦月です。ここから先は、伊藤のファンタジーです。

①食人の習慣が亡くなったのは、仏教教育によるものでしょうが、個人救済の思想の先駆け、浄土教が登場した平安中期以降(11世紀)だと考えます。教育の始まりは、8世紀の持統天皇のころからだと考えますが、当時は「鎮護国家」の仏教で、個人救済の思想はなかったか、あっても乏しかったとみています。戒律を授かった、正式の僧侶(国家公務員)は、肉食妻帯を禁じられていたと思いますが、「人を食ってはいけない」という戒律は明文化されていなかったのでは、とみています。(未確認)だから中国で食人の習慣が残ったのではないかと。

②日本で、食肉、食人の風習が亡くなったのは、恐らく12世紀、日本に禅宗が伝わり、いわゆる精進料理が普及してからではないか。それでも当時の支配階級(公家、僧侶)の間だけで、被支配階級の間では、長く食肉・食人の習慣は残っていて(餓死よりはまし)、完全に消えたのは、17世紀、江戸時代、徳川綱吉の「生類哀れみの令」以降だと、私、伊藤は考えます。(今のところ、100%伊藤のファンタジーですが。内心自信あります)

伊藤睦月です。「東方見聞録」については、まだまだ、書きたいことがあるので、また投稿します。

また、守谷論文の最大の致命的欠陥について、稿を改めます。守谷健二君、君の論考に対する批判はまだ始まっていません。今までは、単なる「指摘」に過ぎません。これからが本番、です。

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/06/20 10:34

【476】【475】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(5)

伊藤睦月(2145)です。今回も副島先生の文章の引用から始めます。それにしても、20年前は副島先生の文章を引用してコメントするなんてだいそれたこと、副島推しとして、恐れ多すぎ、と思っていました。しかし、今では割と平気でやっている。これも年寄りになった功罪と、この副島系掲示板の「補集合」のおかげだ。だから、ほかの副島推しみなさんも、「重たい掲示板」に無理して投稿するのでなく、もっと気軽に(この掲示板に)投稿したらよいのに、と思います。(あくまでも個人的意見です)

さて、続きを始めます。

(20)(引用はじめ)・・・ところが、ここでどんでん返しが起きた。新羅が、唐帝国の言うことを聞かなくなって、唐を裏切った。そこで唐としては、倭国は滅んだので、今度は日本(山門国)と付き合おうとした。そこで2000人の軍隊兼使節を2回、博多に送り込んできた。665年と669年の2回である。中国の文献にある。使節の名は劉徳高(りゅうとくこう)と郭務棕(かくむそう)である。いかにも将軍の名だ。(引用おわり)前掲書274頁

伊藤睦月です。ここで「どんでんかえし」というのは、前頁からの流れで、633年の白村江の戦いの後、

 唐の同盟国(属国)であることをやめて、朝鮮半島統一に方針転換をした、またその動きを始めたので、それを警戒した唐帝国が、新羅をはさみうちにするため、日本と友好関係(つまりは朝貢して唐の属国になれよという誘い。当時はそして今も対等な同盟なんてほとんど存在しない)を結ぶべくすりよってきた、ということであろう。そうなると、665年と669年の軍隊兼使節の来日は、日本に朝貢を促すための、使者を派遣してきた、ということになる。そうなると恐らく3度目(の誘い)はない。すなわち今度は唐帝国が日本(大和王朝)を滅ぼしに来るぞ、という恫喝、(まるで500年後のモンゴルみたいだ)ということになる。で、なぜ唐は攻めてこなかったのか。天智天皇が、厭戦気分マックスになって、唐の誘いに乗らなかったのなら、なぜビビりの天智はすぐに朝貢使を出してとりあえず、その場をとりつくろわなかったのだろうか。もしそういう意図を持った使者ながきたのなら、なぜ30年以上放置していたのだろう。間に新羅が邪魔して遣唐使を派遣できなかった、というだけでは、私、伊藤は、もやもやしてしまうのです。

(21)実際、唐帝国が、高句麗を滅ぼしてから(668年)、新羅は火事場泥棒みたいに高句麗と、百済の故地を奪って、朝鮮半島を統一するが(676年)、それに怒った唐帝国は何度も懲罰戦争をしかけて、新羅王を殺したり、捕縛したりしている。しかし、新羅はすぐに朝貢使をだして唐に許しを請い、ほとぼりのさめたころに、また、反乱を起こし、を繰り返している。

そして、とうとう、「会昌年間(841~846年)以降は新羅からの朝貢は二度と来なかった」(新唐書東夷新羅)と中国正史にも書かれたように、唐をあきらめさせ、完全独立を果たしている。(高麗に滅ぼされたのは、936年のこと)

伊藤睦月です。だから、唐からの2回にわたる使者は、日本(大和王朝)に唐への朝貢を促すことではなく、当時行方不明であった百済反乱の主犯、余豊璋=藤原鎌足(及び中大兄皇子=天智天皇)の捜索と捕縛が目的であったという(私だけの)ファンタジーを現時点では私、伊藤は、支持しております。

(22)(引用開始)なお、倭国地域の管理は、隣接する地域(福岡県宗像市一帯)を支配していた、親新羅派の海洋民族、宗像氏と縁が深い、大海人皇子(天武天皇)か、高市皇子(母親は宗像氏の族長の娘)に引き継がれた、とみるべきだ。そうしてまもなく壬申の乱が勃発する。(引用終わり)

伊藤睦月です。これは、史料の裏付けの全くない、完全なファンタジーです。しかし、高市皇子の母親が宗像氏の出でわることは、日本書紀にも出てきますし、当時の沖ノ島経由の新羅ルートの存在も事実のようです。(これらを評価されて、ユネスコの世界歴史遺産に登録され、同地域にある「光の道」(宮地嶽神社参道)とあわせ、観光資源として、地元ではかなり盛り上がっています。(もちろん学術調査研究も地道にされているようです)今後、高市皇子(息子は長屋王)の勢力範囲や、宗像氏の事跡などが解明されるといいな、と思っています。

以上で、「白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。」の補足説明を終わります。ご一読くださった方には深く感謝します。

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/06/19 17:03

【475】【474】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(4)

伊藤睦月(2145)です。パラグラフ(2)の補足を続けます。

(16)関裕二説(余豊璋=藤原鎌足説)の骨子は以下の通り

(引用はじめ)すなわち、中臣(藤原)鎌足は百済王子・豊璋で、「人質として来日していた豊璋は、全方位外交を展開する蘇我系政権を打倒しようと暗躍し、のちに親百済派の中臣氏の系譜に紛れ込み中臣鎌足を名乗るようになったのではないか(引用終わり)(関裕二「豊璋 藤原鎌足の正体」)またそう推理する根拠としては、①藤原鎌足が活動している間は、余豊璋は史書に登場せず、余豊璋が活動している間は、藤原鎌足は行方不明になり、白村江の戦いの後、余豊璋がいなくなって、鎌足が史書にでてくること。

②藤原鎌足は、人肉の塩漬けや政敵を平気で殺す等、当時の日本人にない、風習、残酷な行いをしており、日本人らしくないから。

としています(伊藤要約)

伊藤睦月です。私は②には疑問です。日本人は、原住民と華僑で構成されているとすれば、当時の日本にも中国の食習慣である、人肉食の習慣が少なくとも華僑たちになかった、とは言いきれません。塩漬けもしかり。後年藤原氏は、政権をにぎりますが、そのときに人肉や肉の塩漬けを食べる習慣を日本に持ち込まなかったのはなぜでしょう。仏教教育の賜物とも考えられますが、じゃあ、本場の中国やインドではなぜ、という疑問は残ります。仏教説話に残ってないものか。また関氏は、別著で、藤原氏は中国伝統の政治術「外戚政治」で天皇家を乗っ取ったと主張していますが、それでは、中国のもうひとつの伝統的政治術「宦官政治」を取り入れなかったのはなぜでしょう。宦官は遊牧民族特有の文化だから、では論拠弱いです。江戸時代では「宦官」にかわるものとして「茶坊主」を採用します。が、「それで?」と言われれば困ります。これ以上うまくつながりません。

(17)その点①はアリバイ問題なので、検証可能です。、私、伊藤は詳細に検証したわけではないですが、ざーと一読した限りで、納得しました。ファンタジーですから。お許しを。有力な反証がでてこない限り、関裕二説を支持します。

(18)伊藤睦月です。それではパラグラフ(3)の補足説明に移ります。

(引用はじめ:パラグラフ(3))

3)日本書記によると、戦後、671年、壬申の乱(672年)の直前、「郭務ソウ」という唐帝国からの使者が2000人の兵とともに、47艘の船で、来日し、筑紫(倭国地域)に翌年まで駐留している。その来日目的は、百済残党の頭目、余璋(=藤原鎌足)と共犯者中大兄皇子の捕縛及び、百済残党の兵站基地であった、倭国地域の占領と地域内での備蓄物資や女の略奪、戦いの犠牲者のための報復、である。ところが、余璋(藤原鎌足)は、すでに死亡しており(669年)、中大兄皇子は、日本王(天智天皇)に即位していて、うかつに捕縛できなくなっていた。そのうえ、重病で死にかかっていたため、天智天皇の監視に切り替え、翌年天智天皇の死亡を確認してから、(略奪・報復を完了した)兵士たちを引き連れ、帰国した。

 なお、倭国地域の管理は、隣接する地域(福岡県宗像市一帯)を支配していた、親新羅派の海洋民族、宗像氏と縁が深い、大海人皇子(天武天皇)か、高市皇子(母親は宗像氏の族長の娘)に引き継がれた、とみるべきだ。そうしてまもなく壬申の乱が勃発する。

(引用終わり)伊藤睦月です。この項は、副島説の引用から始まります。

(引用はじめ)・・・ところが、ここでどんでん返しが起きた。新羅が、唐帝国の言うことを聞かなくなって、唐を裏切った。そこで唐としては、倭国は滅んだので、今度は日本(山門国)と付き合おうとした。そこで2000人の軍隊兼使節を2回、博多に送り込んできた。665年と669年の2回である。中国の文献にある。使節の名は劉徳高(りゅうとくこう)と郭務棕(かくむそう)である。いかにも将軍の名だ。(引用おわり)前掲書274頁

伊藤睦月です。副島先生のいわれる「中国の文献」を現時点では確認できていませんので、この記述の賛否は保留させていただきます。そのうえで、日本書記には、「郭務棕」は3か所でてきます。

(引用開始①:以下日本書記(下)全現代語訳:宇治谷孟:講談社学術文庫)(天智)3年(664年)夏5月十七日、百済にあった鎮将(占領軍司令官か)劉仁願(りゅうじんがん)は、「朝散太夫郭務棕」(ちょうさんだいぶかくむそう)らを遣わして、表函(ふみひつ:上表文を収めた函)と献物をたてまつった。

六月、嶋皇祖母命(しまのすめみおやのみこと:天智天皇の祖母)が薨じた。

冬十月一日、(天智天皇は)郭務棕らをおくりだす勅をお出しになった。この日鎌足は、沙門智祥(しゃもんちしょう)を遣わして、品物を郭務棕に贈られた。

十月四日、(鎌足は)郭務棕らに饗応された。

十二月十二日、郭務棕らは、帰途についた。(以上引用①おわり)

(引用②開始)

天智4年(671年)九月、(天智)天皇が病気になられた。・・・

十一月十日、対馬国司が使いを大宰府に遣わして、「今月の二日に、沙門道久(どうく)・筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)(百済救援の役(=白村江の戦い)で唐の捕虜となった)、韓島勝娑婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのきのおびといわ)の四人が唐から帰ってきて、

「唐の使人(しじん)、郭務棕ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、総計二千人が、船四十七隻に乗って比知島(ひちじま:対馬のなかの島のひとつか?:伊藤)に着きました。(彼らと語り合って)今吾ら(われら)の人も船も多い。すぐ向こうに行ったら、恐らく向こうの防人は驚いて射かけてくるだろう。まず道久らを遣わして、前もって来朝の意を明らかにさせることにいたしました」と申しております」と報告した。

(引用②おわり)

(引用③はじめ)

(天智)四年(671年)十二月、天智天皇はお崩れ(おかくれ)になった。

(天武)元年(672年)春三月十八日、朝廷は、内小七位安曇連稲敷(あずみのむらじいなしき)を筑紫に遣わして、天皇のお崩れになったことを郭務棕らに告げさせた。郭務棕らはことごとく喪服を着て、三度挙哀(声をあげて哀悼を表す礼)をし、東に向かって拝んだ。

三月二十一日、郭務棕らは再拝して、唐の皇帝の国書の書函(ふみばこ)と信物(くにつもの:その地の産物)をたてまつった。

夏五月十二日、鎧(よろい)・甲(かぶと)・弓矢を郭務棕らに賜った。この日、郭務棕らに賜ったものは、合せて、太𥿻(ふとぎぬ)千六百七十三匹、布二千八百五十二端、綿六百六十六斤であった。

夏五月三十日、郭務棕らは帰途についた。(引用③終わり)

伊藤睦月です。これから次のことがわかります。

(19)

①副島説では、唐の「軍隊兼使節」が来日したのは、2回、665年(劉徳高)と669年(郭務棕)です。いづれも、2000人の軍隊を連れています。

②日本書記によれば、2回、664年と671年の2回、664年のときは、「朝散太夫」郭務棕。軍隊を連れてきたとは記されていません。「太夫」という職名から、文官だったと考えられます。(武官が文官に転換したかもしれません)文官の資格なら軍隊を連れていかなくても、不自然ではありません。644年といえば白村江の敗戦の翌年。669年の時点で、捕虜の返還などしていますから、まだいわゆる戦後処理は終わっていない。664年のときは、郭務棕は、文官として、わずかな供を連れて来日し、大津京まで行ったと思います。それでも日本側は手を出せない。天智天皇には拝謁できなかったでしょう。ビビりの天智いや中大兄皇子は、郭務棕に逮捕されるのが怖かったのでは。伊藤の空想ですが、このとき提出された唐皇帝の手紙の内容は、余豊璋及び共犯者中大兄皇子の逮捕協力依頼状だったのでは。中国側はこのときは、天智天皇=中大兄皇子とは、気づいていなかったかもしれません。大津京では、郭務棕は接待を受け、贈り物をもらい、天智天皇の祖母の死を名目に体よく帰ってもらいました。このとき、宴会接待を受けたり、招いたりしていましたが、その中になんと藤原鎌足もいたのです。なんと大胆な、ビビりの中大兄皇子とちがって、大胆というか、ばれないと思ったのか、このときは、郭務棕側が、鎌足を招いていますので、今でいう任意事情聴取というか、腹の探り合いをしたのでは。ここで郭務棕は確信した、と思います。藤原鎌足こそ、あの行方知れずの余豊璋に違いない、と。しかし、捕縛隊を連れてきてませんでしたので、いったん国に戻って、皇帝に報告し、出直すことに決めたと思います。そして、671年満を持しての来日です。

このときは、(皇帝の)使人「郭務棕」です。600人というのは、捕縛隊(軽装備)でしょう。送使「沙宅孫登」ら1400人は護衛部隊(重装備)でしょう。対馬の港に入ったところで、防人に攻撃されないように安全通行許可を求めています。当時の国際慣習にならった、もう本格的な警察部隊です。名目は捕虜返還。今回こそ、部隊を引き連れて大津京まで行きたかったでしょうが、さすがに筑紫(旧倭国地域。大宰府政庁がありました)で止められました。そして筑紫から先に行けないように、しかし刺激しないように、防人で包囲したと思います。あとは大津京とは手紙のやり取りが続いたのでは。その間、郭務棕の部下たちは、筑紫での略奪に切り替えたと思います。日本側はそれを制止できなかった。敗戦国の悲哀です。日本書紀にその記事がでていないのは、唐に朝貢したときの忖度とあまりに屈辱的だったからだと、私、伊藤は面ます。

日本側にとって幸運だったとのは、今回の逮捕目的である、余豊璋=藤原鎌足が、すでに死亡していたことです。(669年)息子の不比等をはじめ一族は行方不明。また中大兄皇子=天智天皇であることは、筑紫についてから知ったと思います。捕虜たちも知らなかったと思います。即位したのは668年だから。しかも郭務棕は、天皇(国王)逮捕までの権限は与えられていなかったでしょうから(国王逮捕は宣戦布告を意味すると思います)改めて皇帝の判断を求めることになったと思います。そうこうするうちに天智天皇も死んでしまいます(671年)郭務棕は、失敗しました。彼はむなしく帰途につきました。(おそらく百済?本国に召還されたかも)郭務棕のその後の消息は、わかっていません。(補足説明続きます)

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

伊藤 投稿日:2024/06/19 11:46

【474】【473】【472】【471】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(3)

伊藤睦月(2145)です。パラグラフ(2)の補足説明を続けます。

(6)倭国が消滅した648年前後は、後年の百済滅亡(660年)、白村江(663年)にいたる伏線としてなかなか忙しい時期です。一応チェックしておきましょう。

(7)まず、日本国(大和王朝)

大和王朝では、厳しい政争の末、645年蘇我入鹿(=聖徳太子:副島、関説)を中大兄皇子、藤原鎌足のグループが暗殺し、政権獲得のきっかけをつかみます。(岡田説(日本は原住民と華僑の協働でつくられた説)からの展開で原住民(排外派)が華僑(国際派)を倒した、とされていますが(引用はすべて私の記憶に頼っていますが、ふじわら掲示板に免じて、ご容赦ください)、関裕二説では、親百済路線をとる豪族(原住民とほぼ同義)代表の中大兄皇子・藤原鎌足(=余豊璋)が、全方位外交路線をとる豪族(原住民)代表の蘇我入鹿(聖徳太子)を倒した、としています。

(8)伊藤睦月です。私は、関裕二説の、藤原鎌足=余豊璋説、蘇我入鹿=聖徳太子説を支持しております。但し蘇我入鹿は、副島説とは、少しニュアンスが違ってまして、蘇我氏は、天皇家の譜代の家臣である、大伴氏や物部氏と同じくらい古い時代に、新羅地域から渡来し、ほとんど土着化した華僑、だと考えております。(親新羅派の原住民代表)

(9)日本書記をみると、継体朝(6世紀初め)のころから、大和王朝は、新羅に厳しく百済に甘いです。このころから、百済派の華僑たちが、入り込んでいることがわかります。大和王朝では、政治権力は原住民の王が握り、華僑には渡しませんでしたが、権力基盤強化に、華僑の技術力、財力を利用したのです。(後年、渡来人系の貴族は5位の国司クラス以上の氏族はおりません。有名な秦氏も官位は低いです)華僑側も利益確保のため、原住民の王とズブズブの関係になりました。

(10)華僑(すべて朝鮮半島経由で渡来しました。自分たちの先祖は中国の名家だと自分で言っているだけです)たちも、また出自により、百済系と新羅系に別れ、それを百済、新羅本国の争いに利用され、大和王朝の原住民の王(豪族)たちも、親百済、親新羅系に別れて、権力闘争をやっていたわけです。昔も今も属国の政局なんてこんなものでした。

(11)高校レベルのテキストを見ますと、百済系渡来人の氏族名は結構でてきますが、新羅系渡来人の氏族は、山城の秦氏くらいです。これは、蘇我氏の方が百済系より早くから渡来し、土着化していく過程のなかで、他の新羅系華僑を取り込んでいったと思います。だから、政治勢力としては、より強力で、継体朝以降の政局をリードしていったわけです。これを「ライバルのヘッドをつぶす」ことで、形勢逆転を狙ったのが、百済王子余豊璋と、中大兄皇子で、彼らは賭けに勝ったわけです。

(12)蘇我入鹿は、「鞍作臣(くらつくりのおみ)とよばれ、法隆寺の仏像をつくったのも、「鞍作鳥(くらつくりのとり)でした。二人は同族だったのでしょう。私、伊藤は、蘇我氏は華僑とはいっても、商業系ではなく、産業系、職人系よりだと思います。意外と実直な人たちだったのではないか、仏像という「きらきらし」ものにも、職人的なマインドに刺さったのだと思います。意外といけてる一族だったのでしょう。だから、意外と早く原住民ともなじんでいったのではないか、法隆寺の仏像を拝みながら想像しています。

(13)また、「鞍作」なら馬具ではないですか。その彼らが、古くから日本にいる、ということは・・・・?あれ、副島=江上説「騎馬民族征服説」までつながるかも。このファンタジーは保留しときます。

(14)このころは、古くから対立関係にあった、百済と新羅は、互いに戦争準備を始めました。そのため。(倭の五王以来)軍事力では定評のある、大和王朝の取り込みを図りました。(支配者として大陸に来るのは困るが、傭兵としてなら、大いに歓迎する。明治大正期の朝鮮、中国と日本との関係を想起させます。白村江の「倭人」も連合軍ではなく「倭人傭兵部隊」(フランス外人部隊、ロシア軍事顧問団のような存在)だったのでないか。だから中国側の史料には残っていない。

(15)そのため、新羅側は、大谷翔平クラスのエース級人材を投入しました。その人の名は金春秋、新羅の英雄王、武烈王、と新羅の民から尊称された人です。この人は「人質:日本書記」の名目で大和王朝に入り込み、多数派工作をしました。しかし失敗しました。彼が来日したのは、647年。多数派工作の頼みのつなであった、蘇我入鹿(聖徳太子)はすでに暗殺され、余豊璋(藤原鎌足)に取り込まれた、中大兄皇子が、自らの権力基盤を固めるべく、蘇我派の残党(蘇我倉山田石川麻呂、孝徳天皇、有間皇子など)を排除していたころです。また、余豊璋(藤原鎌足)は倭国を乗っ取り、戦争準備を始めていました。金春秋はあっさり諦めました。そして彼はなんと唐帝国に向かいました(648年)そして唐軍の出兵を実現させました。これで新羅と百済の運命は決まりました。

(引用はじめ)新羅は、官人の衣冠のきまりを改め、中国の制度にならいたい、と申し出たので、唐太宗皇帝は宮中秘蔵の官服を出して(金春秋)に賜った。(新唐書東夷新羅)(引用終わり)とあります。もうなりふり構わずです。あの「貞観政要」の伝説的名君、太宗李世民まで動かしたのですから、金春秋、デカイ、デカすぎる、ただ者ではない。660年、唐・新羅連合軍(これは中国正史に明記されています)は百済を滅ぼしました。それを見届けて、662年金春秋は亡くなります。その後「武烈王」の称号が追贈されました。白村江の戦い(663年)では、唐軍主体で、新羅は登場しません。新羅は百済の残党なんて眼中になかったのです。朝鮮統一の方に関心が移っていったと、私、伊藤は考えます。世界史的に見れば、660年の百済滅亡が重要です。白村江は、愚かで悲しきエピソード、に過ぎない、とあえて決めつけます。

この補足説明、次回も続きます。

(以上、伊藤睦月筆)