ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
伊藤 投稿日:2024/07/02 09:53

【416】サヨナラだけが人生だ

伊藤睦月(2145)です。

表題の文句は、井伏鱒二訳の漢詩です。

かたせ2号さんが上げられた、「富岳百景」は、「富士には月見草がよく似合う」でしょうか。

私、伊藤は、太宰なら「新釈お伽草紙」

伊藤 投稿日:2024/07/01 10:57

【415】ウォーミングアップ(7月1日)封禅の儀に倭国王は列席したのか。

伊藤睦月(2145)です。

守谷健二君が、(3134)の投稿で、665年の封禅の儀に、劉仁軌が、倭の国王が参加した、という旧唐書劉仁軌列伝の記事を紹介しています。私、伊藤は、旧唐書の該当部分を確認していないのですが、関連資料をみていたら、次の記事を見つけました。

(引用はじめ)

(1)666年正月、唐の第三代皇帝である高宗は、中国第一の名山である泰山で、天地を祭る封禅の儀式を行った。・・・さらには、新羅・百済・タン羅、高句麗といった東アジアの国々の使者とともに、日本の「使者」も参加していたという。(川上麻由子「古代日中関係史」はじめに)

(引用終わり)

伊藤睦月です。いくつか指摘。

(1)守谷君は、封禅の儀を665年の出来事と言い、川上は666年、といっているが、どちらが正しいか。

(2)川上前掲本では、滅亡したはずの「百済」が登場するのはなぜか。

(3)封禅の儀に参加したのは、「国王」か「使者」か。

伊藤睦月です。以下、私の回答

(1)666年が正しい。ただし、各種史料は、太陽暦でなく、太陰暦で記載されているので、閏月とか、太陽暦に置き換えたときに、若干のずれが生じたものと考えられる。

(2)旧百済皇太子隆が参加していたため、百済もカウントされた。

(2-1)百済王国は、660年義慈王のときに、唐・新羅連合軍に滅ぼされている。665年に劉軌仁の仲介で、新羅王と旧百済皇太子との間で、講和の盟約を締結しており、旧百済皇太子は、唐の官職(熊津都督)を得ているので、その資格で参加しているのではないかと考えます。

(3)「国王」でなく「使者」であると考えられる。

(3-1)日本書紀によれば、665年に、劉徳高と郭務棕が来日し、その年の12月14日に帰国(旧百済か唐本国かはわかりませんが、皇帝への報告と、封禅の儀への参加のため、唐本国に帰ったと考えます)した際、小錦守君大石らを同行させており、彼らが封禅の儀に参加したと考えると、川上前掲書とつじつまが合います。百済方面軍担当の劉軌仁の紹介(随行の資格)で、参加したと考えます。

(3-2)但し、日本書紀には封禅の儀に参加した、という記事はげらありません。「大唐に遣わし、しかじかと、だけ記載されています。

(3-3)私、伊藤は、百済王、倭国王なら、戦争捕虜なので、封禅の儀のいけにえにささげられたのではないか、と推測したのですが、その時点で百済王は存在しない(王子とか貴族は連行された、という記事が、新唐書新羅に出ていますが)し、倭国王も、倭国=大和王朝説(通説)なら、当時の倭国王は、天智天皇なので、彼が「訪中」したという記事もないし、実際行っていないでしょう。

(3ー4)倭国王=九州王朝の王という説(副島説)をとるなら、その連行された倭国王の名前が不明なのはおかしいと思います。旧百済と新羅のような盟約も結ばなかったのも解せません。

(3-5)倭国では、元来「国王」は存在せず、白村江のときは、余豊璋の支配地だった、連行されたのは、「貴族」たちで「国王」ではなかった。という伊藤説

(3-5)結果的に、封禅の儀に参加したのは、大和王朝の「使者」である、という川上説と一致する。この伊藤説なら、つじつまが合うのではないかと考えますが、今のところ、私以外に支持者はいないようです(大汗)

伊藤睦月です。もう少しウォーミングアップします。

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/07/01 09:29

【414】入院中の楽しみが増えた。

伊藤睦月(2145)です。かたせ2号さんが、紹介された本、地元の大型書店でも平積みになっていたので、関心はありました。

早速購入して(電子書籍やアマゾンでなく)、近日入院した時に読みたいと思います。

以上、伊藤睦月筆

 

伊藤 投稿日:2024/06/30 10:55

【413】そろそろウォーミングアップ(6月30日)としての補足説明(封禅の儀、唐の「すりより」について)

伊藤睦月です。「副島歴史テーゼ」を展開するにあたって、学会通説と少数説(有力な反対説)をチェックしておこう。対象となる文献は、次の2冊。

1 「古代日中関係史」川上麻由子著、中公新書 2019年

2 「天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ」中村修也著 NHKブックス 

   2015年

それぞれ、どんな主張をしているのか。帯カバーのコピーをとりあえず、引用する。

(引用はじめ)

1 「古代日中関係史」 日本は対等を主張し続けたか。

宋(南北朝:伊藤)、隋、唐、五代十国に日本は何を求めたのか

607年、日本は隋の煬帝に「日出る処の天子」で名高い書状を送る。以後、対等の関係を築き、中国を大国とみなすことはなかった・・・。こうした通説は事実なのか。日本はアジア情勢を横目に、いかなる手段・方針・目的をもって中国と交渉したのか。本書は倭の五王の時代から、5回の遣隋使、15回の遣唐使、さらには派遣後まで、500年間に及ぶ日中間の交渉の軌跡を実証的に、「常識」に疑問を呈しながら描く。

2 「天智朝」と東アジア 唐の支配がもたらした律令国家への道筋とは?

   もう一つの「占領下」を描く

 古代東アジアに起こった一大戦役・白村江の戦。通説では、唐・新羅連合軍に敗れた日本は以後、唐の律令に学び、国家体制を整備していったと言われる。だが、この通説は果たして本当か?敗戦国の日本が、唐の支配を全く受けずに友好関係を保つことが可能だったのか?

本書は、中国・朝鮮側の史料、最新の考古学の知見、古今東西の「戦争」における常識など、多角的な視点から「日本書紀」を再解釈。白村江後に出現した唐の日本「支配」の実態、さらに、それがのちの律令国家建設に与えた影響を鮮やかに描く。(引用終わり)

伊藤睦月です。岡田英弘が「日本史の誕生」所収の諸論文で「世界史からみた日本」の視点を打ち出したのが1970年代。副島隆彦先生が、「属国日本論」を提唱したのが、1995年前後、岡田説から50年、副島説から30年、やっとここまできたか、時代が副島隆彦においついてきた、と感慨にふけっている場合ではない。彼らは「属国」というキラーワードを使わずに、自説を展開している。実際、彼らの参照文献には、岡田や副島先生からの引用が全くない。(その間の事情をあれこれ詮索はあえてしない)そこで、副島学の成果の一つである、「属国」ワードを十二分に活用しながら、この2作をチェックしていく。

その前に、「日中関係史」に関する、私、伊藤の現時点での見解を示す。上記2書をチェックするなかで、若干の修正、はあるかもしれないが、大筋では変わらない、と思う。

(伊藤説)

 702年の第7回遣唐使(粟田真人)以来、日本はなんとか唐と対等の外交関係を結ぼうとしたが、失敗。それ以降の各王朝からも相手にされず、国内的には、対等であるふりをして、特に武士階級から利用された。両者が対等の関係になったのは、形式的には、1871年「日清修好条規」、実質的には、1895年、下関条約(日清戦争に勝利)のとき以降である。

伊藤睦月です。上記の議論に行く前に、守谷君や2054さんからあった指摘について、補足説明をします。(暫時休憩)

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/06/28 19:01

【412】ちょっとブレイク(7月28日)

伊藤睦月です。

 〇禁酒を命じられた日、スーパーの酒類コーナーにて。

 コノサカズキヲ受ケテクレ

 ドウゾナミナミツガセテオクレ

 ハナニアラシノタトエモアルゾ

 サヨナラダケガ人生ダ

 〇ふと我に返って口ずさむ。

 遊びをせんとや生まれけむ

 戯れせんとや生まれけん

 遊ぶ子どもの声聞けば

 わが身ざえこそ揺るがるれ

 〇深夜、スマホの天気予報の警報に接して。

 時により

 すぐれば民の嘆きなり

 八大龍王雨やめたまへ

以上、井伏、後白河、実朝でした。

伊藤睦月筆

 

伊藤 投稿日:2024/06/27 18:25

【411】ちょっとブレイク(6月27日)の続き(私の全体像について)

 伊藤睦月です。以前2054さんの投稿で、「(伊藤の)全体像がみえない」旨のご指摘をいただきましたが、私、伊藤の意識としては、シンプル、です。

一言でいえば、「副島歴史学を実証する」です。

(引用開始)日本は本当は、この2000年の間、中国の歴代王朝・中華帝国の属国としての地位にあった。しかし、表面上は、絶対に中国に屈服しないで、少なくとも政治的に対等であるというフリをして、やせ我慢をしてきた国である。「英文法の謎を解く11ページ」(引用終わり)

 伊藤睦月です。これを私は勝手に「副島歴史テーゼ」と称しております。このテーゼを実際の史料に即して語る、語りつくす、というのが、私の目標であります。とんだビッグマウスです。しかし、私は、酒を飲んでいませんし、酔ってもおりません。今、2054さんや、守谷君、と議論させてもらっているのは、すべてその準備作業で、私にとって非常にありがたいことです。改めて御礼申し上げます。

 それに少し、焦りもありまして、この「副島歴史テーゼ」が1995年前後に明らかにされてから、学会主流にいつの間にか取り入れられて、気づけば、当たり前の話になってきそうなのです。歴史学分野でも、時代が副島隆彦に追いついてきた。彼らは、「属国」という言葉を使わずに、たくみに自説を展開する。盗作とまでは、言いません。少なくとも、歴史分野における「副島隆彦」の爪痕を何か残したい。モデルは頼山陽「日本外史」、副島版「日本外史」を書いてみたい、という夢をもっています。

 伊藤睦月です。もちろん、この夢は本日初披露であり。副島先生にも話してなく、了解も得ておらず、ちょっとドキドキしながら書いています。しかし、弟子として思うのです。

 今、副島先生の相手は、現実世界のすべて、全てに向き合って、思想戦を闘っておられると、私、伊藤は思うのです。その主戦場は、著作群と「重たい掲示板」「今日のボヤキ」。だから、能天気に「重たい掲示板」に「副島先生は偉大だ」などという投稿が載ると、どうしても我慢できなくなってしまうのです。副島先生にとって、眼中になく、余計なお世話であり、お叱りを受けるとわかっていても、副島推しの血が騒ぐ。つい熱くなってしまうのです。だから、自分の好きな分野(私にとっては歴史分野)について、副島テーゼで語ってみたいのです。すでに副島先生は、日本史の主要時代、古代、戦国・江戸時代、幕末・明治、戦前戦後の昭和、平成、において作品をものにされています。それらをベースとし、「巨人の背中に乗った小人」よろしく、何事かを加えたい、そう願う未熟なビッグマウスにとっては、この「ふじむら掲示板」、副島先生によって与えられた、小さな、小さな、公共の言論アリーナ、こそ、私の主戦場なのです。

(以上、伊藤睦月筆、少し頭を冷やしてきます)

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/06/27 13:38

【410】ちょっとブレイク、頭の整理(6月27日)

伊藤睦月です。ここで、2054様との議論の中で、補足します。拡散型の議論展開で、恐縮です。

1 岡田英弘説は、663年時点では、倭国=大和王朝説(通説)を採用している。

(1)但し、当時の全国統一の時期を、天智天皇の正式即位後670年ごろに、華僑と原住民が協働して、統一し、「日本」という国号に改めた、としている。

(2)この見解は、隋書倭国伝の裴世清の来倭記事などの分析から導き出されたもの。

(3)統一前は、倭国=大和王朝は、近畿を中心とする王国であって、全国各地の華僑王国と連合体を組んでいた状態。

(4)岡田説では、史書にもとづき、出来事の経過を記しているのみで、それ以上はなにも語られていない。(以上「日本史の誕生から、伊藤要約)

2 (482)で2054さんが、提示された小林恵子「白村江の戦いと壬申の乱」については、小林説が提示した、根拠史料については次のように考えます。

(1)旧唐書:一次資料として検証の必要を認めます。(すでに表明)

(2)新唐書:中国正史であり、一次資料として、私もすでに引用して論じています。

(3)百済本紀:三国史記の百済編。三国史記は12世紀ごろの成立で、史料的価値は、(1)、(2)と比較して低いですが、朝鮮半島初の正史なので、参考にはします。(小林氏はあげていないが、「日本書紀」も同様」)

(4)通鑑:「資治通鑑」(司馬光著)のことかと思われます。これも名著ですが、史実の多くを旧唐書から採用しており(これは守谷君の指摘です。感謝)、史料的価値は低いです。

(5)元亀:「冊府元亀」のことです。これについては、11世紀に編纂された類書(資料集)。二次史料集なので、史料的価値は低いです。

(6)なお、冊府元亀、太平御覧など類書は、学者からほとんど言及されていませんが、彼らがそれらを読まなかったわけではなく、一次史料にたどり着くまでのインデックスとして活用されていた(いる)、そして一次史料が見つかれば、それをあげればよいので、自然と類書への言及は、なくなっていったと思います。

(7)伊藤睦月です。小林氏が提示した根拠のうち、まともに検証すべきは、

(1)、(2)の旧新唐書と、参考として、三国史記、日本書紀、のみで、他の本は、たぶんまともな学者は(裏で参考にはしていても)論拠としてあげないと思います。

いわゆる「にぎやかし」というやつで、あの本にも書かれている、この本にも出てる、といいたいだけの、素人だまし、といってもよいかと考えます。

(8)伊藤睦月です。2054さんが、(473)であげられた、小林恵子の引用文は、その前提として、タシヒリコ王朝=山背倭王朝説を前提としており、(これも小林ファンタジーです)この説の正否を論ずるだけの材料をもっておりませんので、保留といたしますが、正直いいまして、あまり説得力を感じません(すみません)

(9)伊藤睦月です。2054さんあg、(493)で引用された、小林恵子・井沢元彦の対談を読んでいますと、どうやらこのお二人は、

(ア)邪馬台国九州説

(イ)邪馬台国東遷説

を前提とされているようです。それならば、東倭、とか、高句麗東川王とか、冊府元亀とか、持ち出す前に、上記(ア)、(イ)を十分論証しないと、二人の立論は、できの悪いファンタジーの域を超えないと思います。

(以上、伊藤睦月筆)

 

伊藤 投稿日:2024/06/26 20:49

【409】「晋書」について:小林恵子のファンタジー爆発につっこみを入れてみる

伊藤睦月です。2054様が、ご提示いただいた、小林恵子+井沢元彦の対談本の記事「「晋書」にみえる東倭の国」は、その根拠とする、「晋書・宣帝紀」と「冊府元亀」をその根拠としており、原文の該当部分を確認できていないので、正否は保留します。しかし、特に小林氏の発言をファンタジーとした場合、突っ込みどころ満載です。

まず、「晋書」の基本情報から。(鳥越健三郎「倭人・倭国伝全釈・東アジアのなかの古代日本」角川ソフィア文庫)

(引用はじめ)「晋書」は、帝紀10巻、志20巻、列伝70巻、載記30巻、合計130巻からなり、西晋4代・59年、東晋11代・120年間のほか、載記として5胡16国に関しても記している。編集の期間は、646年から648年のわずか3年に至らず、房玄齢、褚遂良、許敬宗(いずれも唐太宗皇帝の重臣。貞観政要の常連)の3人が監修にあたり、そのほか18人が参画して執筆した。多くの人の手によることで、前後の矛盾や錯誤をはじめ、手落ちも指摘されているが、唐代以前にあった晋書20余種が消失・散逸しているだけに、貴重な文献である。(もちろん1次史料)(引用おわり)

伊藤睦月です。宣帝紀は、所持していないが、手持ちの史料(巻97・列伝東夷倭人)を示す。

(1)倭人は、倭人は帯方東南の大海の中にあり、山島によりて国をなす。

(ここでいう国とは、「郭」と同じで、城郭、つまり城壁をめぐらした都市のことである:岡田英弘)

(2)地には山林多く、良田なく、海物を食す。

(3)旧百余国の小国ありて、相摂し、魏の時に至り、30国ありて、通好す。(朝貢使を送ってきた)

伊藤睦月です。小林=井沢の対談では、邪馬台国のほか、倭には他の国があるのが、さも大事そうに発言しているが、対談はいつのことだろう。倭地域には魏の時代には、30国余りが存在し、それぞれ、魏に貿易代表として、エントリーしていたが、結局、邪馬台国が「親魏倭王」になった、というだけのこと。

(4)(倭国は)もと男子をもって王となす。漢末に倭人乱れ、攻伐して定まらず、すなわち女子をたてて王となし、名づけて、卑弥呼という。

(5)宣帝(司馬仲達)の公孫氏を平らぐるや、(238年に公孫淵を滅ぼすと)(239年に)その女王(卑弥呼)は、使いを遣わして帯方に至り朝見し、(朝貢し)その後は貢聘絶えず。(貢物を絶やさなかった)。

(6)泰始のはじめ、(266年)、(台与が)使いを遣わして、重訳入貢す。(邪馬台国最後の通信)

伊藤睦月です。小林発言に突っ込みます。

(1)なぜ、「東倭」の場所が、「丹後から大和にかけて」とわかるのか。(手前の邪馬台国でさえ、わからず論争になっているので)

(2)239年に、邪馬台国が「親魏倭王」の金印を受けている。もう、倭国代表の指定は終わっているのに、240年に「YOUは何しに魏にきたの?」戦勝祝いなら、時機失してる。

(3)「東倭」が重訳を連れてきたのではなく、「台与が」というのが、素直な読み方。それに重訳を「通訳」としているが、ほかに用例があれば、納得しますが、よくわからん。

(4)高句麗の東川王が、台与を押し立てて、東遷したという説を自説のように紹介しているが、なにか、そんな記事が宣王紀にあるのだろうか。そういう倭国内の事情は本紀よりも、この東夷倭人編にかかれてこそ、ふさわしいと思う。

(5)266年は、台与が大和に移っていると考えているけど、それも(4)と同じ。

(6)ここで突然、冊府元亀がでてくるけど、なんの論拠としているのだろうか。266年の使いなら、すでに「晋書」に書かれているのだから、2次史料である、冊府元亀を取り上げる意図がわからない。

伊藤睦月です。小林氏のファンタジーは、ファンタジーとしても、破綻していると思う。

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/06/26 10:32

【408】敗戦国の末路について

伊藤睦月です。665年、唐帝国、新羅王国、旧百済王国、との間で講和友好の盟約が締結されますが、その内容はともかく、史実としては、機能せず、結局百済王国は復活できませんでした。また、2054さんのいわれるとおりなら、同時に、唐帝国、新羅王国、倭(大和王朝)との間で、同様の盟約が締結されていないとおかしいですが、使者のやりとりはあったようですが、盟約の存在は、唐側、新羅側(新唐書、三国史記新羅本紀(羅紀))、日本側(日本書紀)からは確認できませんでしたので、別のファンタジーができそうです。

(引用はじめ)かくして、(盟約文を)鉄板に金字できざんだ、盟約の文をつくり、新羅の廟中に納めた。劉仁願が、唐に帰還すると、(旧百済皇太子)隆は、人民が手に手を取って逃散するのを畏れ、彼も都長安に帰った。(引用終わり)「倭人伝:講談社学術文庫」

伊藤睦月です。せっかく、講和の盟約が締結され、旧百済の民の安全は保障されているはずなのに、逃散、つまり大量の難民が発生し、隆も逃げ出して、旧百済地域は放棄されたも同然になったようです。旧百済民の多くは、新羅の進駐、略奪、報復を恐れたのでしょう。今現在でも世界中に起こっていることです。盟約は機能しなかったということです。

668年、唐帝国は高句麗を滅ぼしますが、新羅がそれを横取りし、旧百済をも手に入れ、朝鮮半島を統一してしまいます。(676年)

もちろん、唐帝国も放置せず、百済を回復しようとしますが、そのときも隆を利用して、失敗します。唐帝国は、「前漢武帝の版図の復活」(朝鮮半島全体の直轄地化)をねらっていますが、間接統治方式をとろうとしています。終戦直後の日本もこれです。ただ、その後の諸情勢により、米国の51番目の州にならなっただけです。(40年前までは、これを主張する有識者もいましたね)これも現代までよく見かけるパターンでです。

(引用開始)儀鳳年間(676~679年)、高宗は隆を「帯方郡王」(後漢時代に、平壌付近にあった、漢の出先機関)に昇進させ、領地へ戻らせた。このころ新羅は勢力が強かったので、隆はかつての故国に入ることができず、高句麗(平壌付近)に政庁を仮に置いたが、やがて没した。

則天武后は、隆の孫の敬に帯方郡主ののあとを継がせたが、その領地はすでに新羅と渤海(698年建国)の靺鞨(まっかつ:渤海の部族名)によって、分割されており、百済はかくして絶えたのである。(「倭人伝:講談社学術文庫)(以上、引用終わり)

伊藤睦月です。新羅はその後、唐と戦争したり、朝貢したり、また戦争したり、を繰り返して、936年、高麗に滅ぼされるまで、国を保ちます。

一方、わが国は、白村江の敗戦から、約40年後(なんでこんなに間が空いた?)、702年に粟田真人を遣唐使として派遣し、「日本」「天皇」を名乗って、後年には「日本書紀」を提出して、国交を回復しますが、朝貢しても冊封を受けず、日本国内向きには、「中国」と対等の関係を装います。このへんの話は、また深堀していきます。

次回こそ「晋書」の話に戻ります。結論を先取りすれば、小林=井沢は、対談本の注釈にでもよいから、原典の該当部分を明記すべきです。そうでないと我々素人と同じレベルだ、と言っておきます。

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/06/26 03:03

【407】(493)冊府元亀について:まず、基本情報、関連情報、をおさえよう。

伊藤睦月(2145)です。2054様、表記投稿ありがとうございます。とりあえず、現時点で私がもっている関連情報、お知らせします。

(1)冊府元亀について

(引用開始)①さっぷげんき:中国の書名。王欽若(おうきんじゃく)、楊億(ようおく)、らが北宋の真宗の勅を奉じて1005年編集に着手、1013年に完成した。1000巻。皇帝の政治に資するために、古代から五代までの歴代の君臣の政治に関する事績を、帝王部から外臣部まで31部1115部門に分類して、列記。当時現存した各種の書冊の中から、政治の要項を広く集めて編集。「冊府元亀」と名付けられた。このような形式を類書とよび、「文苑栄華」、「太平御覧」などとともに、北宋期につくられた代表的な類書である。とくに唐・五代に関する部分は亡失して現在伝わっていない史料を含み、史料的価値が大きい。(日本大百科全書)

➁類書:中国独特の百科事典。多くの書物の中にみえる事項を項目別に分類編集したもの。唐代以降盛んになり、「芸文類聚」、「太平御覧」、「冊府元亀」、「永楽大典」、「古今図書集成」などがその代表である。(ブリタニカ国際大百科事典)

(引用終わり)伊藤睦月です。上記2事典は、カシオの電子辞書(高校生普通モデル)に標準搭載されているものです。私が、高校教科書レベルにこだわるのは、基本、学会通説なので、実証の手間を節約できると考えたからです。通説では、説明できないときに少数説を主張すべきと考えているからです。その分、手間暇かかってしまうのですが、単なるファンタジーで終わらせないための、知的態度です。私が基本、支持する副島説は大半が少数説ですから、私は学会の人間ではありませんのでなおさら、心意気としては、「素人のたわごと」と言わせない工夫でもあります。

 伊藤睦月です。この「冊府元亀」は、2054様のいわれるように、「マイナーな扱いにしてしてよい史料ではないように思われる」、また、ある程度史料的評価も得ている。それではなぜ、「マイナー扱い」なのか、考えたことありますか。それは、この書物が、他書からの引用でしかない、「二次史料」の集まりだから。実証史学では、一次史料のほうが、史料的価値が高く、一次史料を補うことでしか、史料として認められてこなかったからだと思います。賛否はあるでしょう。小林恵子(多分学会主流ではない)や井沢元彦(歴史推理作家)はファンタジーの名手なので、そのルールからは自由な人たちだろうと思います。しかし、学会主流からは、野球の試合をやっているのに、ラグビーをやろうとしている人たち、ということになろうかと思います。「太平御覧」もしかり。私は副島史学を実証に耐えうるものにしたい、と分不相応な、野望を持っています。そのための「ふじわら掲示板」だし、2054様のような投稿は大歓迎なのです。

次回は、「晋書」について考えてみます。

(以上、伊藤睦月筆)