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Loginはこちら【495】日本の民間航空機の定期便が原則、通過することのできなかった「横田空域」で、今月、2024年11月には、通過できるようになりました。
日本の民間航空機の定期便が原則、通過することのできなかった「横田空域」で、今月、2024年11月には、通過できるようになりました。
1.
日本共産党の機関紙「新聞 赤旗」のサイトから。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2020-01-12/2020011203_02_0.html
(引用開始)
なんだっけ「横田空域」って?
Q 羽田空港の新飛行ルートが一部通過する「横田空域」ってなに?
A 正式には「横田進入管制区」。東京都にある在日米軍横田基地や神奈川県の米海軍厚木基地に離着陸する米軍機などを管制する空域として米軍が管理しています。
Q 空域の範囲は?
A 東京、埼玉、群馬、栃木、神奈川、福島、新潟、長野、山梨、静岡の1都9県にまたがっています。最低で高度2450メートル、最高7000メートルまでを米軍が管理下に置いています。
Q 日本の民間機は飛行できないの?
A 日本の民間航空機が同空域を飛行するのには米軍の許可が必要で、空域内に飛行経路を設定するのにも米軍との協議・調整が必要です。
Q 羽田空港や成田空港を利用する旅客機の飛行に支障があるのでは?
A 民間機の定期便は、米軍の許可をその都度うけなくても済むように、横田空域を避けて飛行することになります。2008年9月の日本側への一部返還で緩和はされましたが、羽田空港から北陸・西日本方面へ飛行する民間機は、東京湾上で旋回し急上昇して横田空域を越えなければなりません。
Q 民間航空の円滑な運航の障害になっているということですね。
A 首都圏周辺の広大な空域が、米軍の許可なしには日本の航空機が飛行できず、管制も日本側ができないこと自体が、安保条約の下で日本の空の主権が侵害され、米軍が日本を戦争の拠点としている証しです。
(2020・1・12)
(引用終わり)
かたせ2号です。
少し古いですが、2006年の防衛白書から引用します。
http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2006/2006/html/i42c5000.html
(引用開始)
(解説)横田空域
横田空域は、新潟県から東京西部、伊豆半島、長野県まで広がり、12,000フィート(約3,700m)から最高23,000フィート(約7,000m)の高度に上る空域であり、現在、この空域においては米軍が管制業務を行っています。この空域内には、米軍の横田をはじめ、空自の入間、海自・米軍の厚木などの飛行場があり、これらの飛行場を利用する航空機に対する進入管制業務(航空機に対し出発・進入の順序、経路、方式の指示などを行う業務)を行うための空域として利用されています。
羽田空港や成田空港から西日本方面などへ向かう航空機は、関西空港および大阪空港へ向かうものをのぞき、横田空域を避けて飛行しています。現在2009年中に羽田空港において4番目の滑走路の供用開始が予定されており、同空港の再拡張後は、発着容量が現在の年間約29.6万回から、約40.7万回へと大幅に増加することが見込まれています。
横田空域については、日米合同委員会の下の枠組みにより日米両国政府が協議を行い、これまで7回の一部返還が実現していますが、日本政府として求めてきた横田空域における進入管制業務の米軍から日本政府への移管(以下「横田空域の全面返還」という。)については、米軍は運用上の理由により応じられないとの立場でした。
(引用終わり)
かたせ2号です。
まとめると、
「羽田空港や成田空港から西日本方面、北陸方面などへ向かう日本の民間航空機の定期便は、関西空港および大阪伊丹空港へ向かうものを除き、横田空域を避けて飛行する状態が長年続いていた」
そういうことになります。
どうやらこの「禁制」が今月(2024年11月)になって、解禁となりました。
笹原俊さんのXを抜粋します。
https://x.com/shun_sasahara/status/1858742299196617194
(午後2:21 · 2024年11月19日(JST))
(抜粋開始)
2024年11月17日、(島根県の)出雲(地域)でお話会を開催しました。
私はスタッフとともに、前日(の11月16日の)夕方、羽田空港から飛行機に乗り、(島根県の)出雲(地域)へ向かいました。
羽田を離陸した飛行機は、上空を旋回してそのまま水平飛行に移り、東京と埼玉の県境を水平飛行していきました。
私の住んでいる埼玉県、川越や所沢・入間の夜景がよく見えました。
私は驚愕しました。この航路は、1945年以来、先月まで、絶対あり得ない飛行ルートだったからです。
東京西部の福生市や瑞穂町などにまたがり、横田基地が存在します。
横田基地上空には「横田空域」と呼ばれる空域が存在し、ここは米軍の管轄下におかれて、日本の航空機は進入禁止となっていました。
これまで、羽田を離陸して、(関西空港および大阪伊丹空港向けを除く)西に向かう定期便の航空機は、千葉方向に大きく旋回して、一気に上昇し、13000フィート上空まで上がってから、水平飛行に移っていました。
これはもちろん、横田空域を迂回するためです。
私は何度も飛行機に乗っていますが、飛行機の窓から川越の夜景を見たのは初めてでした。
これは、「横田空域(への飛行禁止)が消滅した」ということを意味するのです。
通常はこの時点で高度は10000フィート(約4000m)を超えているので、川越の町は絶対に見ることができなかったからです。
夜景が見えたということは、雲の下ということなので、この時点で高度は3000m以下です。
かつての横田空域のど真ん中をつっきって、飛行したことになります。
かつて日本のど真ん中に位置し、日本の航空機の飛行を拒んだ、悪名高き「横田空域」は、既に存在していないのです。
これはおそらく、トランプ大統領当選の影響と思われます。
マスコミでは一切報道しませんが、かつては考えられなかったほどの、すさまじい変化が、水面下で進行しているのです。
(抜粋終わり)
かたせ2号です。
にわかには信じがたい情報だったので、このポストのリプライを拾ってみました。
https://x.com/DoerhMmMnXsgytN/status/1858814123796226365
(引用開始)
トランプ大統領になって以後、羽田への着陸便が確かに変更されています。今まで横田空域の中央の階段を使って都内密集地を抜けていましたが最近はとても静かなので不思議でした。コレで納得です!
午後7:06 · 2024年11月19日
(引用終わり)
https://x.com/hasibiro_maga/status/1858854251646296203
(引用開始)
先日空を見ていたら、見たことない東京上空の空域を民間飛行機が飛んでいて、おかしいと思っていた。
横田空域があるのに、なぜあそこを飛べる(のか)と不思議に思っていた。
(民間飛行機が)東京都心上空を南から北に飛んでいた。
自分の目で確かめてください。
午後9:46 · 2024年11月19日
(引用終わり)
https://x.com/nekosaburos/status/1858766532635189412
(引用開始)
となると、これはトランプさん就任後、冗談抜きで在日米軍の撤退もありえるかもしれませんね。 日本が自力で防衛するのは大変だと思いますが、日本の真の独立のためには在日米軍と日米合同委員会にはお引き取りいただくことが必須となりますから。
午後3:57 · 2024年11月19日
(引用終わり)
かたせ2号です。
一気に在日米軍撤退完了ということにはならないとは思いますが、それにしても、東京オリンピックも終了して数年後の現在、防衛省がお願いしても通らなかった、(関西空港、大阪伊丹空港以外の)西日本の空港への通過が、しれっと、できるようになっているのは、とんでもないできごとです。
ですから、この出来事はたしかに、在日米軍撤退の一連の流れの「さきがけ」になっていくのかもしれません。
以上
【494】商業ルートの出版物について
2054です。近代医学・医療掲示板を拝見したところ、伊藤氏は「平癒」されたとのこと。精力的な投稿も続き、お元気そうな状況ですので、安心いたしました。今年の夏前(前回の入院前)にやり取りをしていましたが、返答をするのを控えておりました。伊藤氏の投稿の邪魔をしないタイミングで、少しずつ以前の質問や疑義への回答をしてまいりたいと思います。
今回は、商業ルートでの出版について伊藤氏による「ブレイク(閑話休題?)」の投稿がございましたので、便乗します。【491】の投稿では「一番金になりそうもない地味な学問系にとって、出版社とつないでもらえるということが、どんなにありがたいことか」とありました。
私が支持している小林恵子の場合は、三笠宮崇仁殿下が紹介して下さったようです。宮様が自ら風呂敷に包んで原稿を出版社に持ち込み、それに発奮して彼女は自ら「新規開拓営業」をしたようです。
(引用はじめ)
日本オリエント学会に入って、はや五十年近くになった。入会して間もなく学籍のない私を 気の毒に思われたか、会長の三笠宮崇仁殿下が宮内庁書陵部のご自分の研究室にお招き下さった。そこで宮様の御蔵書や書陵部の本を手当たり次第、読破した。宮様の研究室は教師のいない私の学校だったのである。
それから、かれこれ十年経た一九七二年に高松塚が発掘された。この頃、高松塚を話題に研究室で宮様とお話をしていたところ、宮様が本を出版したらどうかといわれた。初めは思いもかけないお言葉にとまどったが、やがて、その気になり、『東アジアの古代文化』などという今は廃刊になっている同人誌に小論を提出したりして自分なりに出版の準備をした。そのうち原稿がたまったので、宮様にお目にかけると、宮様は講談社や学生社にお持ちくださった。今も唐草模様の風呂敷に私の原稿を包んで、手ずからお持ちいただいたお姿が目に浮かぶ。
しかし両社共に断られ、私はそこで、始めて人事のように宮様のご好意を傍観していた自分に気づいた。
宮様のご好意を無にするわけにはいかないと決意し、私の本を出版しそうな傾向があるとみた当時の現代思潮社の石井恭二氏に電話した。一面識もなく、紹介者もいなかったが、原稿を見てもよいという返事だったので、三~四ヶ月かけて原稿を書き改めて石井氏のところに持ち込んだ。石井氏は私の電話のことはすっかり忘れていらっしゃったが、その場で刊行が決まった。それが今も出版中の『白村江の戦いと壬申の乱』である。一九八七年の暮のことだった。(引用終わり:『海翔ける白鳥・ヤマトタケルの景行朝』現代思潮新社p266~267)
2054です。『白村江の戦いと壬申の乱』(現代思潮新社)は、40年近く経過した今も、新刊で販売しています。商業的に成功はしていない(はず)ですが、アマゾンでもワンクリックで即入手できます。これは驚異的なことで、現代思潮新社という出版社の見識と矜持に、私は敬意を抱いています。
【493】ブレイク:学問系を世に出すときのメインルート、学会ルートと「科研費」という名の「自費出版」
伊藤睦月です。またまた自分の記憶便りで恐縮ですが・・・
学問系を世に出そうとするときのオーソドックスなルートとしては・・・
(1)大学院の過程を終了して、どこかの学会に属する。
(2)その学会誌寄稿したり、学会で発表する。
(3)自分が属している、出身の大学の紀要論文に発表する。
(4)いわゆる「科研費」に採用されて、論文や著書を世に出す。(大多数が「自費出版」のようなもの)
(5)そういったものが、学会賞金とかとって、出版社の編集者の目に留まる。
(6)出版社だけでなく、いわゆるマスコミから出演依頼が来たり、歴史学者であれば、時代考証とか頼まれたりして、本を出すきっかけをつかむ。
などがあると思う。(あくまでも私の推測)
伊藤睦月です。以上のようなことは、業界(学会)ではあたりまえのことかもしれないが、我々のようなアマチュアの部外者にとっては、とんでもない高い壁、ガラスの天井だ。
ただ少数の突き抜けた人だけが、松本清張とか、副島隆彦先生のような「名伯楽、目利き」の支援を受け、テイクオフしていくのだ。いわゆる芸能界やスポーツ界ではよくあることで、システム的にもある程度確立されているが、学問系ではまだまだだ。
「ユダヤ本」を出していただいたとき、今は亡き実弟が、彼はいわゆる「ポスドク崩れ」だが、頭の良さも学歴も私よりはるか上で、普段めったなことでは私に嫉妬しない彼が、珍しく、嫉妬した。本の内容ではない。この本が多少なりとも、印税が発生する「商業ルート」に乗った本だからだ。紀要論文を何本か発表し、指導教授の翻訳本の下訳をしたあげく、大学のポストが得られなかった彼は、副島先生のやっておられることの、すごさ、をしみじみと実感していたらしい。当時の私はそこまで考えず、ただ、嬉しくてはしゃいでいただけだった。私なんぞ、せいぜいその程度だ、と20年たった今しみじみ思う。自分のやっていることなんて、昔も今も「学問ごっこ」にすぎない。誰かさんからいわれなくても、その程度のことはわかってますがな!。
だんだん、暑苦しい話になってきたので、一旦、小休止します。
以上、伊藤睦月筆
【492】またまた訂正
伊藤睦月です。前稿で紹介した、柳田國男(やなぎた くにお)1875年~1962年、ですが、
「農商務省」(現在の農水省、経済産業省)出身で、貴族院書記官長(参議院事務総長に相当、というかもっと偉い人)、枢密顧問官、まで歴任した、エリート様でした。
自分の記憶のいい加減さに、自分でも嫌になる・・・
以上、伊藤睦月筆
【491】ブレイク:在野の有望な、アマチュア研究家をかわいがった「松本清張」と、弟子の業績をパクリまくった「柳田国男」のこと。またまた偏った記憶で恐縮ですが。
伊藤睦月です。もう思い出ばかり、それも偏ってて恐縮ですが。
(1)松本清張(1909-1992)、といえば、言わずと知れた戦後を代表する、推理作家だが、本職の社会派ミステリーのほかに数多くの歴史ものを残していることで有名。「黒い霧」とか「昭和史発掘」(副島先生の最近の歴史本の表題も、松本に対するオマージュだろう)とか現代史だけでなく、古代史でも数多くの著書や発言をしている。
(2)それをいちいち紹介していてはきりがないのでやめるが、私が覚えているのは、在野の研究者、アマチュア愛好家のなかで、清張が見込んだ人には、援助を惜しまなかったようだ。特に出版社をよく紹介したという。
(3)我々もそうだが、アマチュアにとって一番欲しいのは、そういう出版社とのつながりだ。ある種の漫画家のようにSNSから見いだされるわけでもない、音楽関係のように素人の有望株を、売り出す、ビジネスモデルがあるわけでもない。そういったなかで、アマチュアしかも一番金になりそうもない地味な学問系にとって、出版社とつないでもらえるということが、どんなにありがたいことか。
(4)副島先生もそういうことをやってらっしゃる。この学問道場が実は、そういうアクセスルートのひとつだということは、なんとなくわかっている人もいるのでは。もちろん、そういう下心だけでは、通用しないのは当然ですが。
(5)そういう清張が育てた、「アマチュア」の一人に大和岩男という「古事記偽証説」をとなえた、在野の研究者がいた。
(6)この大和という人、大和書房という出版社のオーナーで「青春出版社」という出版社も持っていて、50歳以上の世代にとっては、この出版社の「試験に出る英単語」とか、「ビッグトモロウ」という若手サラリーマン向け啓発・情報月刊誌、の方が記憶にあるだろう。それで大もうけした、と思われる。ちなみに私は「試験に出る英単語」その他、が覚えられなくて挫折した、という苦い思い出しかありあません。(汗)
(7)大和は、古事記偽書説の発想を松本清張の著作から受けて、自説を展開した、と自著で告白している。
(8)大和は、出版社のオーナーとして、清張とも原稿料を払う関係にあったようだ。親交もあったらしい。で、清張も『古事記成立考』の初版本(1970年代)を読んで、大和に増補改訂版を出すように勧め、大和の会社から本を出しても「自費出版扱いになるから」といってわざわざ、ほかの出版社への紹介状まで書いてくれたそうだ。大和は、そのことを自著で回想している。
(9)ちなみに、大和の本の改定版は、30年後(清張の死後)結局、自社から出している。清張の死後では、「紹介状」の有効期限が切れたようだ。
(10)また、清張は、江上波夫(騎馬民族日本征服説)や大野晋(国語学者)らと、大和を引き合わせ、宴席まで設けている。(たぶん費用は大和が出したであろう)
(11) 大和は、日本歴史学会古事記部会の正会員となっているが、これは清張が江上や大野に仲介を頼んで実現したのであろう。(しかし、学会では発表の機会は与えられたが、徹底的に批判されたそうだ)
(12)大和は、大野のタミル語研究のためのインド調査旅行のスポンサーにもなっていたようだ。しかし、大和説を大野が批判、さらに大和が反論するにおよんで、両者はお互い死ぬまで口も利かなくなったようだ。
(13)松本清張は戦前の高等小学校卒。そこから這い上がって、作家になった人だから、「有望なアマチュア」に対するまなざしは優しかったのだろう。
(14)彼の出世作ともなった小説『ある小倉日記伝』(芥川賞受賞)は、そういうアマチュア研究家の悲喜劇を描いたものだ。清張は、主人公には、「松本清張」を遣わさなかった。その点、清張はリアル、である。
(15)一方の、柳田国男は、逓信省(郵政省→総務省に統合)のキャリア官僚出身で、いわば「脱サラ」して学者になった人だ。民俗学者としての名声が高まるにつれ、全国に弟子ができた。
(16)民俗学はフィールドワークが大事だから、柳田のもとには、全国から、そういう民俗学の情報や、地方のアマチュアたちの論文が多数集まった。
(17)柳田は、それらを存分に活用し、「自分の名前で」論文や著作をたくさん出した。そうやって「柳田学」が出来上がったという。
(18)私、伊藤はそんなエピソードを、岩波版柳田全集の月報での対談かなにかで、読んだ記憶がある。あくまでも自分の記憶ですよ。キ・オ・ク。
(19)柳田の弟子たちの中には、自分の名前が出なくても、柳田先生の役に立ったというだけで、十分満足、という人もいただろうが、そうでない人もいたようだと、その対談者は遠回しに言っていたような「記憶」がある。勘違いならごめんなさい。
(20)伊藤睦月です。以上、とりとめのない、「それって誰得?」みたいな、お話でした。寒くなると、そういうことばかり、思い出してくる。今から春が待ち遠しい(ちと早すぎるか?)
以上、伊藤睦月筆
【490】訂正:すみません。
伊藤睦月です。渡辺昇一「国民の歴史」は『国民の教育』(扶桑社)でした。扶桑社はフジサンケイグループの出版社で、『正論』というオピニオン雑誌を今でも出しているのかな。若き日の副島先生も「左旋回」前は、何回か、登場されていたような・・・どうでもよいか・・・(ため息)
以上、伊藤睦月、でした。
【489】ブレイク:田中英道には、偏見をもっています。
伊藤睦月です。先日地元の大型書店の日本史コーナーで、下條氏の「物理学者が解き明かす邪馬台国の謎」が平積みで売られているのを見て、なんかうれしくなった。著者が主張する、「卑弥呼と道教との関係」など、もっと関係者間に広まればよい、と思います。
そんな中、少し気になったのが、下條氏が「田中英道」を取り上げていることだ。もちろん、引用は正確だし、指摘に間違いはないのだが、なんか気になってぞわぞわする。そこで、彼に関する記憶を思い起こすことにした。
(1)田中英道氏の西洋美術研究者としての評価はよく知らないが、2000年前後に「天平のミケランジェロ」という本で、奈良平城京をルネサンス期のフィレンチェになぞらえて讃えていて、なんか違和感を持ったこと。
(2)写楽の正体を葛飾北斎とする説を唱えていたこと。
(3)関東の古墳から、出土された、埴輪がユダヤ教正統派の恰好にそっくりなことから「ユダヤ埴輪」と名付け、日本には大量のユダヤ人が渡来してきて、その代表が山城の秦氏だという説を展開。
(4)「新しい教科書を作る会」の教科書編纂メンバーとして、渡部昇一(国民の歴史:教育勅語教育の復活を主張)、西尾幹二(国民の歴史:日本民族として誇りが持てる歴史にするべき、と主張)とならんで、「国民の芸術」という大部の本を執筆したが、その中で絶賛した「旧石器」が捏造だと判明したこと
などが、2000年前後の記憶にあります。
(5)また、日本史関連では『日本国史』という百田尚樹『日本国記』の内容とほぼ同趣旨(という私の印象)の本があり、縄文弥生のルーツは関東にあり、そこから西へ広がった、というような説を唱えておられるようです。(現在、同書をアマゾン注文中であり、確認出来たらまた報告します)
(6)下條氏引用の本の主旨は、氏の言われる通りなのですが、私が本屋で立ち読みした印象では、どちらかと言えば、小冊子的な作りで、「魏志倭人伝はいんちきだ」からさらに一歩を進めて、「だから、古事記、日本書紀の書いてあることは真実だ」と主張されているように思えました。(日本書紀には卑弥呼のことも書いてあるのに・・・)
(7)また、田中氏は、『日本国史学会』(任意団体。学会登録はしていない)の会長でもあります。
(8)また、田中氏は政治的立場も明確、で最近『虚構の戦後レジーム』という本を出し、東京裁判否定、「歴史修正主義」の考えを鮮明にしておられます。
(9)この本のアマゾン説明文の一部を紹介しますと、「・・・戦後レジームからの脱却を目指していた安倍晋三元首相が凶弾に倒れてしまった今、日本国民一人一人がこの問題に対峙しなければならない。・・・「美しい国・日本」を取り戻すために、歴史・美術史の知の巨人・田中英道がまやかしの戦後体制を一刀両断する一冊!」
(10)伊藤睦月です。田中氏の主張、歴史観は、岡田英弘博士や副島隆彦先生とは、対局にある、と私、伊藤は考えます。いくら自説への導入のための「つかみ」とはいえ、これはちょっといただけない。
(11)「新しい教科書を作る会」騒動から、四半世紀近く経過しているので、忘れたり、知らない人達もふえているのだろう。ので備忘録として書いています。これに関しては、当時、副島先生も、「ぼやき」や「重たい掲示板」でかなり発言されていた、とかすかに覚えています。
(12)それにしても、「知の巨人」とは、立花隆や佐藤優だけではなかったのですね。いくらなんでも、こういう「知の巨人」の肩には乗りたくないものだと、ぶつぶつ言ってる今日この頃です。
以上、伊藤睦月筆
【488】ブレイク:坂口安吾と言えば・・・
伊藤睦月です。かたせ2号さんの投稿をみて、少し、トレビアっぽい話を・・・
(1)坂口安吾の作品は「信長」しか読んだことはない。それ以外に1970年代に「安吾の開化探偵帳」とかいう、勝海舟とその弟子、が探偵となって、事件を解決する、というTV番組を見ていた。主演は、若林豪、と池辺良だったか。横尾忠則のイラストがシュールで、なんか記憶に残っている。
(2)坂口安吾と太宰治は「無頼派の作家」といわれ、終戦直後の昭和20年から、恐らく、昭和25年くらいまでの間に、酒と女におぼれながら、作品を発表し、太宰は女性と心中し、坂口は酒と覚せい剤(ヒロポンといって、当時は禁止されていなかったように思う)におぼれた。太宰の話は、副島先生の本にも出てくる。
(3)この昭和20年(敗戦)から、昭和25、6年頃、GHQの占領下にあった頃、(仮に占領期とよぼうか)いろんなことが起こっているし、その一部は松本清張や多くの作家や研究者により、研究され、本にもなっているが、本当の話、時代の実相というのは、現在の我々にはよくわからなくなっている。少なくとも私は、副島先生の「ぼやき」や佐藤優氏による、共産党の歴史やその他の人たちの本を読んだり、話を聞いて、へーえ、と思うことがせいぜいだ。関心は失わないようにはしたいとは思っている。
(4)そこで思い出したのが、この占領期における、作家や学者たちの右往左往(うおうさおう)だ。みんな戦犯容疑で逮捕されることを恐れていたようだ。
(5)副島先生が、「狂人日記」で谷崎潤一郎を取り上げているが、谷崎のように超然としていたばかりでなく、そうでない作家の方が多かったようだ。
(6)まず、時代に殉じた、敗戦によって、自殺したり、筆を折った作家がいたとは、私は聞いたことがない。(蓑田胸喜、という右翼思想家が終戦の詔勅を聞いて自殺した、という話は、佐藤優氏の本で知った)
(7)谷崎のように沈黙を守って、戦後にお呼びがかかるまで、作品を書き続けた人、谷崎潤一郎のほかにだれか知りませんか?
(8)とにかくやけっぱち、で酒や女に溺れていった作家、太宰治、坂口安吾ら「無頼派」の作家たち。太宰治は、「死ぬ死ぬ詐欺を繰り返した挙句」、女性と心中した。
(9)もうどうにでもなれ、と居直った人、小林秀雄、親友だった中原中也から奪った女性に溺れて過ごした。(同時に、日本古典の世界にのめりこんでいった)
(10)GHQに積極的にこびへつらい、おもねった作家、志賀直哉(城崎にて)とその仲間たち。志賀直哉は、我が国の公用語を日本語からフランス語に代えるべき、という嘆願書を仲間の作家や文化人と連名で、GHQに嘆願したという。志賀直哉と行動を共にした人たちの名前は知らない。知っている人がいたらご教示ください。現在、我々はフランス語を使用していないから、嘆願は通らなかったのだろう。
(11)その志賀直哉の一番弟子だと自任していたのが、「阿川浩之」(米内光正、山本五十六)だ。副島先生が、筆誅を加えていた。だから、日本語を売ろうとした作家の弟子が、今一番の保守派の作家のひとりとみなされている。なんかおかしいよね。
(12)川端康成はどうだったのだろう。その一番弟子の三島由紀夫が、心中直前の太宰治に酒場で議論を吹きかけ、太宰から、相手にされなかったそうだ。三島から何を言われてもただへらへら笑っていたそうだ。そして間もなく心中した。そこに太宰のすごさ、というか、突き抜けていた人なんだな、と感じてしまう。
(13)坂口安吾は、その後も酒と薬に溺れ続けたそうだ。彼が敗戦のショック冷めやらぬ間に急いで書き留めたのが「堕落論」という作品だ。私は読んだこともないし、これから読むつもりもない。
(14)伊藤睦月です。以上の話は、全部、私の記憶だ。20代、いろんな本を読み漁っていたときに得たものの集積だ。だから虚実はわからない。私だって、引用文献がない、根拠薄弱な文章を書きたくなる時だってあるんだ。
(15)とりあえず、「信じるか信じないかはあなた次第です」と言っておこう。かたせ2号さん、いろいろ思い出せてくれて、多謝です。
以上、伊藤睦月拝
【487】坂口安吾の文章がよかった。
かたせ2号です。
ずっと以前から畏友から勧められていた、坂口安吾の文章、主張を最近になってようやく、初めて読んだ。
良かった。
これは、神様が無頼派作家(坂口安吾)の口に寄せて、ぼやいているのでは?
それくらい出来のよい文章だった。
以下に、青空文庫から坂口安吾「不良少年とキリスト」の後半部分を引用する。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42840_24908.html
(引用開始)
もっと、ひどいのは、哲学者、笑わせるな。哲学。なにが、哲学だい。なんでもありゃしないじゃないか。思索ときやがる。
ヘーゲル、西田幾多郎、なんだい、バカバカしい。六十になっても、人間なんて、不良少年、それだけのことじゃないか。大人ぶるない。冥想ときやがる。
何を冥想していたか。不良少年の冥想と、哲学者の冥想と、どこに違いがあるのか。持って廻っているだけ、大人の方が、バカなテマがかゝっているだけじゃないか。
(引用終わり)
かたせ2号です。
こういうことへの批判なら、認識論のカントに対していうべきではないかと思ったが、なんでヘーゲルなんだろう? 坂口安吾は、マルクスと同じ「共産主義者」(ヘーゲル批判者)なのか?
まあ、いいですけど。
あとの文章もよい。以下に3つ、抜粋しておく。
(1)生きることだけが、大事である。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。
(2)人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
(3) 限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。 (中略) 学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。
かたせ2号です。以下、上の3つを含んだ文章を引用して、終わりにしておきます。
(引用開始)
死ぬ、とか、自殺、とか、くだらぬことだ。負けたから、死ぬのである。勝てば、死にはせぬ。死の勝利、そんなバカな論理を信じるのは、オタスケじいさんの虫きりを信じるよりも阿呆らしい。
人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ。死んでも、生きてるなんて、そんなユーレイはキライだよ。
生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。
死ぬ時は、たゞ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です。
大ゲサすぎたのだ。限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。
原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。
自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。
私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、戦争も学問じゃない、ということを教えられた。大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。
学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。
(引用終わり)
以上
【486】戦国時代の謎解き。
かたせ2号です。
あくまで仮説にしか過ぎませんが、以下で、戦国時代の謎解きをします。
中国大返しの前、本能寺の変の直前に、イエズス会と毛利家の、仇敵同志が、「信長殺害」で手をくんだということ。イエズス会から見れば信長が「しつけのなっていない犬」だと、荒木村重謀反の際の信長の対応で判断ができた、小早川隆景にとっては、信長に滅ぼされる前の毛利家の保全策。
その上で、踊らされたのが朝廷と光秀。
本能寺の変は、光秀・朝廷・秀吉・イエズス会・毛利家、「全員が犯人」。
そして、ごく簡単にいえば、戦国時代のイエズス会が、現在の日本政治における統一教会。
イエズス会は、イエス・キリストを崇拝していたのではなくて、ローマ教皇の背後の「闇」を崇拝していたはずだから。
さあ、ミノタウロスの皿の少女(今後の日本)の運命やいかに?
ミノタウロスの皿 (藤子・F・不二雄の傑作SF短編)
(あらすじ)
宇宙飛行士の主人公は、「イノックス星」に不時着し、美少女ミノアと出会う。
ところがミノアは実は人型の食肉用家畜で、彼女らを飼育しているのは牛型の宇宙人だった。
ミノアに好意を抱いていた主人公は驚愕しつつも彼女を助けようと奔走するが、「おいしく食べられること」を誉れと考えている彼女とは話が噛み合わない。
そしていよいよミノアが祭りで食べられる日が近づく……。
以上