ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
伊藤 投稿日:2024/12/18 14:31

【540】ブレイク:史癖(しへき)は、佳癖(かへき)なり(続き)

伊藤睦月です。前回からの続きを書きます。まずは、引用から。(引用開始)

(古代の))推理においては、次の二つのことが大切です。

(1)得られた証拠は、確実なものか。

(2)証拠から、結論に至る推理の道筋はたしかか。

伊藤睦月です。次は「悪癖」について

(1)推理というよりも、想像や連想を大幅に重ね、トンデモ本と変わりがなくなっているもの。

伊藤睦月です。私のいう「ファンタジー」ですが、単なるトンデモ本と片づけられるのは、少し違うかな、と思います。これ以降は、(1)の各論です。

(2)たとえば、「邪馬台国の九州説」、あるいは「畿内説」などの、前提、思い込み、先入観を持っていて、得られた材料をすべてその前提に合うように、「解釈していくもの」

(3)多くの材料の中から、自説に有利なものだけを、証拠として取り上げ、自説に不利なものは、すべて無視するもの。

(4)「自説」がある特定の「学説」であって、その特定の学説を信じ込んで、すべてその学説によって説明できる、とするもの。なんだかカルトに近い。

(5)自分できちんと調べ、確かめ、考えようとせず、誰かが述べていることを適宜組み合わせてストーリーをつくり、それでよし、するもの。権威者の意見に従うようになりがち。

(6)きちんとした証明よりも、とにかくマスコミなどを通じた宣伝に腐心しているもの。プロの研究者にも時々見られるそうな。

(7)観測された事実についての、ある解釈において有力な反論がすでに出ていることを見落としているもの。

そして、最後に安本センセイいわく、「以上のような注意すべき諸点がたくさんあるため、古代史の諸論点を考えるのは本当に頭の体操になります」とさ。

(引用終わり。『古代史論争最前線』はじめに)

 伊藤睦月です。書き写していて、なんだか自分のことを言われているようで、冷や汗がでてきた。(笑)

 確かに正論だが、これでは委縮して書けなくなるなりそう。まず、とにかく、書いてみることが大事。以上のような批判は他人にやってもらえばよい。そしてその批判を甘んじて受ける、そういう胆力を養う、ということでよいのでは。そのために当掲示板がある。

私、伊藤は、そう考えます。批判、反論上等!!!!

(罵倒は勘弁してほしい・・・)遊びをせんとや生まれけむ、ですな。

以上、伊藤睦月拝

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/18 09:33

【539】ブレイク:史癖(しへき)は、佳癖(かへき)なり

 伊藤睦月です。頭が冷える前にうずうずしてきたので、投稿します。

安本美典『古代史論争最前線』(2012年柏書房)から。

(引用開始)「歴史をたしなむのは、良い趣味である」というほどの意味でしょうか。

 特に古代史については、調べて得られた証拠を元にして、推理をしていく楽しみがあります。手がかりを元に、さらに調べ、あれこれ推理していくと、あらたなことがわかり、推理小説の主人公の、探偵になったような気分が味わえるわけです。努力次第で、次々と新しい証拠を得ることができます。(引用終わり)

 伊藤睦月です。安本は、以上の楽しみを得るために、大事なことや逆に良くないこと(悪癖)について、アマチュアにもわかりやすく説いています。それを次回以降、紹介します。安本氏とは直接面識はありませんが、従来「郷土史家」と呼ばれるような、アマチュアでも分け隔てなく、権威ぶらずに接し、全国にファンがいます。江上波夫もそういったタイプの人だったのではないか。そう思いたい。三笠宮、小林恵子もまたそう。そういった人たち、この人たちの本を読んで、自在に論ずることができる喜び、まさに、「史癖は佳癖なり」ですね。

まだ、調子が戻らないので、当面小休止

伊藤睦月拝

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/17 13:46

【538】ブレイク:ちょっとくやしい話。

伊藤睦月です。私、伊藤は従来から「遣唐使は、唐帝国に、日本書紀を持参しなかった」「天皇号は、中国皇帝(則天武后)には名乗れず、「スメラミコト」でごまかした」という説を今年5月以降、当掲示板で主張してきた。しかし、この説に類似の先行主張があることを、「発見してしまった」。くやしいが、紹介する。(涙)

 この研究者の名は、倉本一宏、今年の大河ドラマ「光る君へ」の時代考証も担当し、山川日本史詳説の古代編を執筆している「正統派」日本史学者だ。世間一般的には、伊藤より、倉本の業績となってしまうだろう。『古代史から読み解く「日本」のかたち』43頁から47頁、倉本一宏・里中満智子2018年祥伝社新書、から引用する。

I(引用はじめ)遣唐使(702年粟田真人が派遣された第7回遣唐使のこと:伊藤)が、中国の王朝に報告する義務があったものとして、国号、君主号、元号、律令、都城、歴史書(日本書紀のこと:伊藤)を挙げましたが、このうち報告・持参しても差し支えなかったのは、どれか、ここで検討してみることにします。・・・中途省略・・・第六の歴史書は、前述のように国史『日本書紀』は完成していないので持参していません。問題は第二の天皇です。これも「日本の君主は天皇です」と報告したら下手をすると戦争になります。・・・途中省略・・・では、どのように報告したか。天皇渡いう漢字は見せずに、「すめらみこと」と読んで聞かせるにとどめたはずです。中国の歴史書には、「主命楽美御徳」という六文字の漢字で記されています。誰かの入れ知恵があったのか、遣唐使は苦肉の策で折合いをつけたのです。

(以上、引用終わり)

 伊藤睦月です。書いてて脱力感を味わっていますが、ここでもう少し書き込みます。

(1)本書が一般向けの歴史素人漫画家との対談集(新書)なので、倉本氏の業績にカウントされない可能性がありますが、同テーマで、学術論文を発表されたりしたら勝負あったです。

(2)読んで聞かせるですんだはずはありません。それなら「主命楽美御徳」の文字が中国側資料に残されるはずはないのです。皇帝には原則口頭で話すことは許されず、大半は文書(上表文、書とかいう)で皇帝の部下スタッフに提出され、審査を通過したものが皇帝が見る。だから「天皇」という表記の入った書を見せられるはずはないのです。日本書紀も同様に「天皇」と表記されていますから、中国側に見せられるはずがない、というのも同じ理由です。「すめらみこと」というふりがなは、国内向けです。このことは、東洋史学者の西嶋定生が、1980年代から指摘していたことで、倉本は西嶋説を「採用」している可能性はあります。

(3)さらに、粟田真人が謁見した皇帝は、「則天武后」です。「天皇」という言葉は、則天武后が自ら名乗った言葉から、日本で作られたものです。なお、このことをおそらく初めて解明したのが、斎川眞、副島隆彦『天皇とは北極星のことである』です。私の知る限り。

(4)だから、則天武后の前で「日本天皇」と名乗るのはできなかった、と思われます。ちなみに、「天皇号」の使用を認めてもらったのは、唐滅亡後、北宋太宗皇帝のときからだと思われます。(新唐書日本伝、宋書日本伝)

 伊藤睦月です。かねてから、「先行研究には十分注意と敬意を払え」と強調していた私が、このていたらくですから情けない。

 これでは、この掲示板上で、えらそうにいう資格はありません。皆さんも「他山の石」にしていただければ幸いです。少し頭を冷やします。

以上、伊藤睦月拝

 

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/17 11:51

【537】急いで加筆します。倉本一宏は、日文研にも所属してました。

伊藤睦月です。以前言及していた、倉本一宏氏は日文研OBでした(2018年頃)。他の本を読んでいたら出てきましたので、備忘録として書き留めます。山川教科書にも「梅原一派」が・・・それがどうした?と言われそうだが。

伊藤睦月筆

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/17 09:37

【536】小林恵子説のプロトタイプとしての「騎馬民族国家」征服説について(1)

 伊藤睦月です。小林恵子説について、副島先生の過去の投稿まで飛び出して、にぎやかになってきましたので、ここらで、私なりにまとめておきたい。

(1)小林恵子説だが、これは本人が明記しているように、「江上説の歴史版」(『古代倭王の正体』まえがき)だから、小林説を吟味(批判)するには、そのプロトタイプとなった江上説の吟味をするのが、順番であろう。長くなるのは仕方ない。

(2)騎馬民族王朝征服説の定義(小林による)

騎馬民族征服王朝説とは、

(2)ー1:列島で巨大な古墳が作られた4世紀頃から

(2)ー2:大陸の遊牧民が大挙して、列島に押し寄せ、

(2)ー3:それまでの土着民を征服し、

(2)ー4:国家を征服した

(2)ー5:このことは、巨大古墳や、

(2)ー6:発掘された武具や馬などの遺物から証明される、というもの。(小林同書、枝番は伊藤)

(3)ー1:伊藤睦月です。さらに小林は、「江上氏の学説の根拠は、日本人が自由に大陸に行くことができた1930年代に(注:江上説が発表されたのは。1948年、日本独立、日中国交回復前)

(3)ー2:大陸の古墳や出土品と日本の古墳時代の出土品を比較検討した結果、その「関連性」に注目したことにあった。(以上同書)

(4)伊藤睦月です。これは、江上支持者の小林の定義。次に江上批判者による、定義を紹介する。

ここで、小休止。

伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/16 09:01

【535】かたせ2号さんへ:さらなる御礼

 伊藤睦月です。「前原誠司」に関するより正確な情報、ありがとうございました。「前原誠司」の名前を憶えているのは、副島先生の口からその名が出たことです。

 昔々、副島先生が、TVの不定期コメンテータをされていたころ、(笑い)、前原から、「ソエジマさんのように本当のことばかり言っていると、そのうち誰からも相手されなくなるよ」といった趣旨の「忠告」をうけたことがあるそうで、過去の「重掲」か「ぼやき」にも書かれていたような記憶が・・・記憶ばかりで恐縮ですが。

 前原は、母子家庭で、苦学して京都大学を卒業したとか。それ自体は尊敬すべきことですが、それから、どういう経路で、ジャパンハンドラーズ(この言葉も最近、言われなくなりましたね・・・)にリクルートされたのか。高坂正尭がリクルータだったのか。そのところはよくわかりません。高坂も自分がそうだとは言わなかったでしょうから。

 以上、年よりの昔話でした。

 時節柄ご自愛ください。

伊藤睦月拝

 

 

 

 

かたせ2号 投稿日:2024/12/15 19:40

【534】お礼_伊藤睦月さんへ。

伊藤睦月さんへ。
かたせ2号です。
多数の投稿ありがとうございます。刺激になります。

1.
ワタシが権利放棄した「本能寺の変の真実のフォーマット」は、煎じ詰めて説明すると、下掲の投稿で紹介済の3冊の書籍に記載の内容に、以下の2つの命題を付け加えただけです。なので、自分のオリジナルだ、などと、強く主張する気にもなれないわけです。

(1) 本能寺の変の直前まで、信長が朝廷に暦を改めるのをしつこく要請したのは、
「信長の墓穴を掘るために、イエズスが信長に命じて、信長自身にやらせたこと」。
(2) 本能寺の変後の、秀吉の「デウスの恩寵による」神速の動きは、秀吉を介してのイエズス会と毛利家との「権力者共同謀議」。
すなわち、秀吉が中国攻めを独断で中止し和睦(毛利家はすぐさま応じる)⇒中国大返し(毛利家は追撃を一切しない)⇒山崎の合戦(秀吉方の軍勢の先鋒で高山右近が戦う)

ですので、以上の内容は、どなたが使って表現いただいてもかまいません。
そもそも、歴史の真実に著作権者という者はいません。歴史の真実は模倣されるためにあります。真実は多くの人びとのためにあります。それを大いに多くのみなさんに使っていただいて結構なのです(強気やなああ 笑い)。

2.
高坂正堯が、松下政経塾入りを勧めたゼミ門下生は、おそらく、前原誠司だけだと思います。
ワタシは前原誠司のことが昔から大嫌いですが、そのキャリア形成において可哀想な面も、あったかなと推察しています。前原誠司は、松下政経塾8期生です。

というわけで、以下の英文は、単なるゲスの勘ぐりなので、エンタメ案件の扱いでOKですが、
Maehara is a “dedication” from Kosaka to Matsushita.

前原誠司インタビュー記事から。
http://www.maehara21.com/kiji/kiji25.html

(引用開始)
◆政治家の本棚――71 運命の高坂正堯『国際政治』との出会い 2/2 

―――前原誠司という政治家のまさに骨格のところだ。京大を卒業してこんどは松下政経塾へ行く。なぜですか。

前原:将来は大学に残るか外交官か,もう一つは漠然と政治家にと。高坂先生は,学者は天才でなければならない,外交官は東大が羽振りをきかせていたのでどうか,おまえはおやじがいないからどうかと。それで「山田を紹介してやるから」と。いま杉並区長をしている山田宏さん,高坂ゼミから松下政経塾に行った先輩なんです。
(引用終わり)

かたせ2号です。
山田宏のサイトから。
結局、前原に(のみ)松下政経塾入りを強く勧めた高坂の真意は何だったのでしょう?
ちなみに、前原誠司は松下政経塾8期生、山田宏は2期生です。

https://www.yamadahiroshi.com/pickup03.html
(引用開始)
(山田宏は)親に内緒で(松下政経塾への)願書を出した。一次、二次試験を通り、最終の面接試験を迎える前、塾側から、ゼミの教官の推薦状をもらってくるように、との通達を受けていた。山田は躊躇した。なぜなら、ゼミの教官・高坂正堯は松下政経塾の理事でもあったからだ。理事に便宜を図ってもらって試験に有利にするような真似はしたくなかったのだ。
 やむなく高坂に事の成り行きを説明し、推薦状をいただきたいと言った。喜んで書いてくれると思っていたのだが、答えは案に相違して「やめとけ」だった。「五年間そこで学んでも食いはぐれるだけや。京大を出てもムダになるだけ。愛するゼミ生をそんな目に遭わせたくない」
 それでも、山田は食い下がった。自分がやりたい道はこれだ、と確信があったからだ。
 結果的に高坂は五年の間に会計士の資格を取るということを条件に推薦状を書いてくれた。設立間もない松下政経塾は、当の理事からさえ「海のものとも山のものともわからない」という程度にしか思われていなかったのだろう。
(引用終わり)

以上

伊藤 投稿日:2024/12/15 07:42

【533】京都学派のことで追加

 伊藤睦月です。書き忘れていましたが、「梅原猛」一派の有力な後援者が「松下財団」です。松下政経塾などは、副島先生もよく言及されます。ちなみに、現在維新の共同代表である、前原誠二は高坂マサタカの弟子で、高坂から後継者になれ、と言われたのを断って、政治家になった、という「武勇伝」を持っています。なんか、みんなどこかでつながっていて、キモチワルイ。彼だけではないはずです。

以上思い出しました。伊藤睦月筆

伊藤 投稿日:2024/12/15 07:29

【532】なんかにぎやかになっていますねえ。こりゃ楽しくなりそうだ。

 伊藤睦月です。年寄りの何とかで、早朝目を覚まして、掲示板をみてみたら、2054さんはじめ、投稿がにぎやかになっていて、ちょっと驚いたと同時に、うれしくなりました。投稿いただいた皆様、ありがとうございます。清野さんて、20年ぶりに拝見するお名前ですね。よろしくお願いします。あとは守谷健二さんの参戦をまつばかりですね。楽しみにしています。

 ところで、1次史料うんぬんについて、私は、「冊府元亀」や「資治通鑑」「太平御覧」といった2次史料を軽視しているのではなく、1次資料史料で説明つくならそれでいいじゃないか、わざわざ2次資料を持ち出さなくても用は足りる、という考えです。もちろん1次資料で自説を説明できないときは、そのリマークさえあれば、2次資料でも、何でも使ってよいわけで、小林恵子氏に限らず、学会主流であろうがなかろうが、「冊府元亀」や「資治通鑑」は研究者たちにモテモテです。

 それから、副島先生が「小林説」に引き込まれながらも、全面賛成ではなく、「時間軸」で踏みとどまっておられる、のは、僭越ながら、素晴らしい。副島理論の一つ「真実の時間計算」の一つかと勝手に納得しております。2054さん、副島先生は、決して「首肯」していないと思いますよ。うれしいのはわかりますが。

 あ、それから学会主流ですが、固定的なものでなく、その時代時代で「はやりすたり」があります。歴史学の場合をとっても、明治~昭和の敗戦(ランケ流の史料重視主義→皇国史観→唯物史観→弾圧による沈黙)戦後(津田左右吉流の造作論→その反動、文献学、考古学、いわゆる歴史サイエンスの導入など)この100年ばかりのあいだに「主流」は、目まぐるしく動いております。だから、「現時点での標準的見解」ぐらいの意味ですが、学問的な議論をするのに、無視しないことは、大事だと考えています。それだけのことです。我々、アマチュアであればなおさらのことです。

 ちなみに、副島先生が書かれていた「梅原猛一派」は、津田流への反発の流れの一つ。本当は覇権国アメリカの意向を受けて動いている「京都学派」のなかの「サントリー財団」「PHP」などの支援を受けている学者・文化人たちです。(もちろん、全員ではありません、と思いたい)、例えば、高坂マサタカ、梅棹忠夫、司馬遼太郎、梅原猛、上山春平、谷沢永一、たちです。現在でも多数います。彼らに比べ随分小物になりますが、呉座勇一(応仁の乱)、磯田道史(武士の家計簿)といった人たちは、中曽根康弘と梅原猛らが京都の山奥に、創設した「国際日本文化研究センター(日文研)」に梅原からスカウトされた人たちです。梅原は同センターの初代所長、現所長は井上章一(京都嫌い)です。なんか通説に反抗するのが「生きがい」のような人たちにみえます。アンチ東大。彼らの「鉄砲玉」が「新しい教科書を作る会」に属する、全国の学校教師やアマチュア歴史愛好家たち、彼らは、今どこにいるのでしょう。

 ちなみに、本郷和人や倉本一宏(光る君への時代考証)といった東大系の学会主流(わかりやすく言えば、山川教科書を書いている人たち、いわば、歴史官僚といってもよいかと。或る意味正統派)の人たち、とその関係については、正直わかりません。私の勘、です。はい。(汗)

 いずれにしても、私の「充電」は適当な段階で、いずれ、アップさせていただきます。その時はどうぞお手柔らかに。

以上、伊藤睦月拝

 

 

 

 

 

会員番号2054 投稿日:2024/12/15 05:09

【531】副島先生の小林恵子評を転載いたします

2054です。重たい掲示板に小林恵子に関する副島先生の記載を発見したので、転載いたします。副島先生は、岡田英弘教授の系譜を引き継いでいると思っていますが、その副島先生が「私は、この小林恵子氏の本は、十分の根拠を持っていると判断した。」と述べられています。本当に懐が広い知識人なのだと(今更ながら)あらためて実感いたしました。

(転載はじめ)
https://snsi.jp/bbs/page-1/page/163/
【1545】[1878]難民(なんみん)問題としての世界の古代史。『古代倭王(わおう)の正体』を読んだ。
副島隆彦です。  今日は、2016年3月13日です。
(中略)
私は、この3日間、一冊の本を、ずっと読み続けた。 それは大きくはこの難民問題に関わるからだ。

『古代倭王(こだいわおう)の正体』(祥伝社新書、2016年2月刊)という本で、著者は、小林恵(やす)子 氏だ。 小林氏は、1936年生まれで、岡山大学の東洋史を出た女性で、現在、 80歳になるおばあちゃんだ。

この「古代倭王の正体」 という古代史の本をずっと、私は没頭して読んでいた。小さくメモを取りながら、地図帳(日本と世界の両方)と 歴史年表(日本史と世界史の両方)で事実と年号と場所 を いちいち確認しながら読んだ。

 古代の倭王(わおう)というのは、倭国(わこく。西暦668年に、「日本」 と自分で名乗る前のこの国のこと。天智(てんち)天皇の時の近江令=おうみりょう=で出現した )の王たちのことだ。倭の国王(こくおう)たちの歴代の歴史のことだ。

 私の本で説明した「天皇(てんこう)とは、北極星(ほっきょくせい)のことである」という説を書いてきた斎川眞(さいかわまこと)氏と私の共著は、今年中に出したい。

 私は、この小林本が、一番、おしまいの方で書いている、日本(倭)に、西暦600年に、タクラマカン砂漠の方から、渡って来た、西突厥(にしとっけつ)の達頭(タルドウ)可汗(カガン。ハーン)が聖徳太子(しょうとくたいし)である、というあまりの 大きな話に、卒倒しそうになった。

 私、副島隆彦は、「聖徳太子 は 蘇我入鹿(そがのいるか)である」の 関裕二(せきゆうじ)説に、それが登場した32年前(1984年)から注目した。そして、同時に、岡田秀英弘(おかだひでひろ)東京外語大学名誉教授(存命)の 「華僑(かきょう、オーヴァーシーズ・チャイニーズ)たちが、古代日本を作った」説を信じて、自分の日本古代史の本も書いてきた。

 今では、欽明(きんめい、第29代天皇。在位539-571年)は、蘇我稲目(そがのいなめ)その人であり、次の敏達(びだつ、第30代 )と、用明(ようめい、第31代)天皇は、蘇我馬子(そがのうまこ)であろう、ということは、日本史学者たちが、呻き(うめ)声を上げながらでも認めなければ済まなくなっている 日本史(古代史)学界の 事実である。 

 「 えーい。もうどうなってもいい。史実などどうでもいい。厩戸王(うまやどのおう)がいたということにする。この厩戸皇子(うまやどのみこ)を、 聖徳(しょうとく)ということにしてしまえ。そうしないと、 『聖徳太子はいなかった』論争で、乱れに乱れた日本古代史は、大変なことになる 」 と、この10年で、苦し紛れに、歴史の大改竄(かいざん)をやっている。居直り尽くした日本文部科学省と、盲目的な天皇崇拝の体制護持派 が、困ってしまった。「聖徳太子はいなかった」の騒動を、無理やりでも鎮圧したのだ。

 私、副島隆彦は、この事態に追撃の手を緩めない。 私の『闇に葬られた歴史』(2013年11月刊、PHP 研究所 )を読んでください。 聖徳太子はいなかった論を、私たち、学問道場の13年前の議論からさえ「も」泥棒して一大議論を作った、大山誠一(おおやませいいち)一派が、卑屈なる日本史学者の伝統で、吉川弘文堂(よしかわこうぶんどう)という、権威的な日本史出版社からの、脅しも有って、「聖徳太子はいなかった、では、日本の国の国体(こくたい、こっかたいせい)が、揺らぐから、もうこの辺で、議論をやめて、厩戸王という( バカな、何の存在根拠もない)人がいた、ということで、収めましょう」 ということになったのだ。  

 私、副島隆彦は、それらのおかしな取り決めを一切、認めない。これからも、お前たちの 学問犯罪の所業を、追撃し続ける。

 蘇我氏が、西暦530年ぐらいから640年ぐらいまで、大王(だいおう、オオキミ)を名乗り、山門(やまと)や、御門(みかど、ミカド)と呼ばれる建物(邸宅、朝廷 そのもの)に住んでいた。近くに甘樫(あまかし)の丘というお城( 武器庫、と今は言われる)が今の奈良県明日香村あった。蘇我氏の一族の大きな住居 でかつ迎賓館が、斑鳩(いかるが)寺=法隆寺 である。  

 飛鳥寺(あすかでら)という古い、40年前ははぼろぼろだった寺の敷地の隅(すみ)に、入鹿大王(いるかだいおう)=聖徳 の 首塚(くびづか)がある。これは本物だ。重要人物殺された、その地にある首塚は簡単には移せない。怨霊(おんりょう)がそこに有るからだ。

  私は、自分が、17歳のとき(高校2年、このあと高校を中退、放校とも言うの1970年に、この当時まだボロボロだった飛鳥寺を見に行った。和辻哲郎(わつじてつろう)の 「大和古寺巡礼」という本を持って。 飛鳥寺の鬱蒼(うっそう)とした、古い仏像を見て「これには妖気が漂っている」と感じた。

 今度、私は、小林恵(やす)子という、80歳のおばあちゃん学者の「もう白内障で目が見えないから、本を読めない」と「あとがき」のある本、『 古代倭王の正体  海を越えて来た覇者たちの興亡 』 「卑弥呼、神武、ヤマトタケル、応神、雄略、聖徳太子、日本列島生まれは一人もいない ! 」「邪馬台国の所在地、天皇家のルーツが見える。紀元前から6世紀まで、ユーラシアを貫く壮大な古代史」 ・・・・

 この本の気宇壮大(きうそうだい)、荒唐無稽(こうとうむけい) は、私、副島隆彦でも簡単には付いてゆけない。 高句麗(こうくり)王、 と 新羅(しらぎ。辰韓=しんかん=)王 と 百済(くだら)王 と そして、倭王(初期天皇)たちが、入れ替わったり、同一人物だったり、一時、日本にいて、それからまた高句麗や百済に戻って王になった、と。

 日本(福井県、若狭あるいは、丹波=多婆邦(タバナ)王国 生まれの 脱解(だつかい)(紀元前19年生)が、弁韓(べんかん)=金官加羅(きんかんから)国=伽耶(かや)国=日本名は任那(みまな)で、受け入れられず、弁韓=新羅 で育ち、月城=現在の慶州(けいしゅう、キョンジュ)で、新羅王になる(P60)。

 ・・・・・この脱解(だつかい)が、高句麗王(こうくりおう)大武人(だいぶじん)になり、日本(倭、まだ 奴国=なこく= )にやってきて、神武(じんむ)天皇のモデルになった。スサノオノミコト の モデルでもある(P69)。

 「魏志倭人伝(本当は、東夷伝倭人)」の中の、卑弥呼の死(西暦248年。これには異論がない )のあと、皆に支持されなかった男王 がいて、この男が、神武であり、この神武東遷(じんむ・とうせん、東の方への征服の移動 )は、248年で 北九州の博多湾の邪馬台国でまさしく卑弥呼が死んだ年だ、と。

 小林恵子説は、卑弥呼は、中国の江南(今の、上海あたり)の地の巫術(ふじゅつ)師の 「許(きょ)」氏の出で、三国志が始まる 後漢(ごかん)末の大混乱の時、西暦172年に、中国の南から、日本列島に渡り、奄美大島に着いた、とする。 確かに、あそこの島々には、巫女(ふじょ、みこ)の伝統が残っている。

 このあと博多湾の隣の糸島の湾にあった 伊都(イト)国に住み、平原(ひらはら)古墳に242年に埋葬された。この古墳から、日本最大の変形内行花文八葉鏡(へんけい・ないこう・かもんはちよう・きょう)が見つかっている(P85)。 同じものが、伊勢(いせ)神宮の伊勢の瑞龍寺山頂(ずいりゅうじ・さんちょう)古墳からも出ている(P87)、そうだ。

 私、副島隆彦は、これまで、出雲(いずも) と 邪馬台国(私の考えでは、博多湾)と伊勢(いせ)の3者の関係が分からなかった。誰も教えてくれない。はっきりと書かない。なぜ 日本の天皇家にとって、出雲( 出雲大社、大物主=おおものぬし=)と 伊勢(天照大神 アマテラスオオミカミ )が、大事であるのに、それなのにどこか煙たがっている。そして出雲と伊勢は、両者は本当は、どういう関係なのか、誰も分かり易く書かない。 この小林本がそれとなく、それらの関係を書いてくれた。有り難いことだ。

 P82 から書いている、江南の会稽(かいけい、今の杭州)にいた巫術者(ふじゅつしゃ)の許昌(きょしょう)が、西暦172年に、反乱を起こした。後漢帝国が乱れていた。このときに、同族の卑弥呼の一行が日本に難民となってだろう、逃れてきたのだ、と小林説はする。

 私、副島隆彦の説では、西暦184年の、太平道(たいへいどう)の教えを説いて張角(ちょうかく)を指導者とする「黄巾(こうきん)の乱」を起こした人々は、「人類の現世の苦難からの救済(きゅうさい、サルベイション)」を求めた、キリスト教が、中国にまで伝わった人々だ。救済を求める人々の熱気の中から、世界の4大宗教は興った(ただしユダヤ教は救済宗教ではない)。 

 日本にまで伝わった仏教は、救済宗教としてのキリスト教と同じものだ。仏教はキリスト教の変形だ。同じく、中国の 太平道(黄巾の乱)と、同時期の五斗米道(ごとべいどう、張魯=ちょうろ=が指導者)が、中国の道教(どうきょう、タオイズム)の源流となったのだ。この指導者の張角や張魯 は、軍人(暴力団)ではなく、道士=導師であり、キリスト教の宣教師である。 

 そして、日本にまで渡って来た道教が、日本で、神道(しんとう、シントウイズム)に変形したのだ。それらにも、占(うらな)い、呪(まじな)い、祈祷(きとう)による病気治療、悪霊退散(精神病からの快癒)を求める、救済の思想がある。 私、副島隆彦は、ここまでずっと、何冊もの本でこのように書いてきた。

 岡田英弘(おかだひでひろ)先生が、はっきりと30年前に書いていた。卑弥呼(ヒメミコだ)について、「魏志倭人伝」で書いている、「鬼道(きどう、鬼の道)に仕え 民を惑わし・・・」の「鬼道」とは、妖術などのことではなく、当時の中国の五斗米道(ごとべいどう)である、と。これで小林説とほぼ一致する。
 
 そして それを 副島隆彦がさらに拡張して、これらの大きな宗教の発生による、キリスト教の爆発的な世界への広がりは、「 私たち哀れな人間を救けてくれ、援けてくれー」という 血の叫びなのである。

 このあと、西暦220年に後漢が滅んで、その中から、例の 「三国志」の 曹操(そうそう、その子 曹丕 =そうひ=、 魏 を建てる)、劉備玄徳(りゅうびげんとく。蜀を健てる)・諸葛孔明(しょかつこうめい) と、孫堅(そんけん、その子孫権。呉の国)の 三国の戦いとなる。260年代まで。  

 この時の大混乱で、またしても日本にまで、逃げて来た難民が大勢いたはずなのだ。 筏(いかだ)のようなものを組んで、数万人が、流れ着いてきただろう。800キロぐらいの海を渡って来なければいけない。卑弥呼たちの様な、呉の国 (今の上海あたり)から( ここから、呉服=ごふく=が生まれる。呉音という読み方が日本に伝わって保存される。これ以外は、漢音=かんおん=だ ) だけでなく、遠く、揚子江(ようすこう。今の中国人は、長江=ちょうこう=としか言わない) をずっと下って来た、蜀(しょく、四川省)が滅んで、人々もいただろう。

 日本は、大陸の東の 吹き溜まりだから、大陸で政治的な大混乱があると、必ず、難民となって、民族や、人種の生き残りが、日本にまで、流れ着いてくる。朝鮮半島からも来る。

 今の、ヨーロッパへの 中東からの難民の様子は、民族の移動でもある。ホメロスの大叙事詩「オデユッセウス」や「イリアード」も、当時のエーゲ海に小アジア(今のトルコ)からの、動乱があって移動してきた民衆のたどった道とまったく同じだそうだ。

 ヨーロッパからの、「お願いだから、こっちにこれ以上、来ないでくれ。迷惑だ」という表明が、ニューズで毎日、報道されている。 東アジアでも、きっと2000年前から繰り広げられた光景だ。難民たちの、あの、襤褸切(ぼろき)れや、毛布を頭と体に被(かぶ)って、子供の手を引いて、移動してゆく感じは、人類がずっと繰り返しやってきたことだ。 だから、これからも繰り返す。

 小林本は、P118で次のように書いている。
 「 私の推測では、高句麗の王 雛(すう)が滅ぼされて、大物主(おおものぬし)の勢力の残党が、「倭国 の 大乱」時代、瀬戸内海から近畿にかけて戦闘しながら大和に入った乱の中心だったと思う。そして長脛彦(ながすねひこ)勢力は神武勢が大和に入った時、大物主を祀(まつ)る三輪山(みわやま。今の桜井市)の周辺を中心に大和地方に君臨していた。」

 私は、日本国の創業者とされる、神武(じんむ)天皇以来の、すべての古代倭王(わおう)が、西暦600年の 聖徳=蘇我入鹿大王 に至るまで、すべて高句麗王や、新羅王、百済王との二重王、であり、行ったり来たりしていたという 小林恵子説のあまりの遠大な古代史の図式に 圧倒された。

 日本の天皇には、本姓はないということになってるが、本姓は、「休(きゅう)」である(P41)。 「万葉集」で、 「やすみしし」は、天皇にかかる枕詞であるが、これは、「休氏(きゅうし)スメラギ」で「やすみしし天皇」なのである、そうだ。

 大夏(たいか)の休氏が、月氏(げっし)に入って、大月氏(だいげっし)になる。・・・・

壮大な 遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)の興亡が、広大なユーラシア大陸の大草原で繰り広げられる。遊牧民族(nomad ノウマド)こそは、古代の世界史を作った人々だ。 私たち日本人は、ずっと島国にいて、農耕民=定住民(あagrarian アグラリアン)の伝統しか持たない(忘れてしまった)ので、なかなか理解できない。

 何百キロも、いや、それこそ 何千キロも移動する、ということは出来るのか?

 1.スキタイ( BC 7世紀からの広大な広がりを持つユーラシア大陸の遊牧民族の始まりの種族。馬を飼いならした )→ 
2.古代シリア → 

3.バクトリア(BC250年ごろから) → 

4.大月氏(だいげっし、BC150年ごろから )→ 

5.匈奴(きょうど。フンヌ、フン族。BC50年ごろから。のちに ヨーロッパに広がる。ヨーロッパで、西暦  300年代に、ゲルマン族の民族大移動を引き起こす原因となった )→ 

6.鮮卑(せんぴ。AD100年代から) → 

7.クシャナ帝国(クシャナ朝、北インドから)→ 

8.エフタル (AD440年から、もとは大月氏の一部の部族だった)→ 

9.突厥 (とっけつ。西暦600年代から 西突厥と東突厥に分裂 ) → 
10.ウイグル(700年代から。トルコ系。契丹=きったん=も。 のちのモンゴル族がこの文化や文字を受け継ぐ ) → 

11.遼(りょう。これもトルコ系。900年代から。 ) 

12.金きん。満州族。1230年代に滅ぶ。 のちに、西暦1600年代から、後金=こうきん=を名乗って、中国に攻め込んで、女真族の大清(シン)帝国 が出来る )

13.モンゴル帝国 (1200年代から、チンギス・ハーンが興す。100年間だけ世界帝国を作った)

 これらのことが、小林本の記述を確認しながら、私の中で、大きくつながった。

 この本には、たった一枚しか地図は付いてない。P152, 153 だ。 私は、これまで、扶余(ふよ)族、という、大きな遊牧民族のことが分からなかった。 扶余(ふよ)が南下したのである。 松花江(しょうかこう)という満州の中心部を大きく流れる大河がある。 

 そのど真ん中に、ハルピン(哈爾濱)をロシアが、1900年ごろに、突貫工事で、作った。私は、松花江を3年前に見に行った。満州帝国と満蒙開拓団の悲劇が有った一体だ。 

  その辺に扶余族はいた。 満州族 である 金(きん)帝国 や、女真の清の帝国を作った者たちは、もっと南の、長春(ちょうしゅん。日本時代は、新京)と、さらに南の瀋陽(しんよう。日本時代は、奉天=ほうてん=)だ。ここでも、冬は零下30度だ。耳覆(みみおお)いがないとすぐに凍傷になる。私はここにも行って体験した。

  私は、その扶余族の西となりに、3世紀(西暦200年代)から、同じ遊牧民族の鮮卑(せんぴ)族が勃興して居たことが、どうしても、実感で分からなかった。それから、沃姐(よくそ)族が、特に北沃姐族が、今のウラジオストクのあたりにいたことが、ようやく分かった。 韃靼(だったん、タタール)人は、小林本には、一言も出てこない。

 それから、邑婁(ゆうそう)族という種族が、もっと北の、ペイロンチー(黒竜江)河や、ウスリー河のあたりにいたこと。それから、新羅(=辰韓)の北にいた、 穢(サンズイ、わい)と狛(はく)という部族国家のことがずっと気になっていた。 靺鞨人(まっかつじん)というのもいた。 

今の韓国人は、「自分たちの祖先は、北の方から移動してきた、モンゴルのような遊牧民族だ。とくに新羅はそうだ」と言う。 それは、これらの扶余族の南下のことだろう。ところが、そのほかに、トルコ(チュルク)人である、大月氏系 もいた。

大月氏の地(中央アジアの、今のタシケントやサマルカンドのあたり)は、日本から5000キロの先である。

 遠く、中央アジアの 大月氏(だいげっし)の部族が、日本にまで、やってきていた。しかも、日本で大王(オオキミ、天皇)にまでなっていたこと。それらの、興亡の激しさに、私でも小林本の記述のすべてには、とてもつても付いてゆけない。それでも、この気宇壮大になんとか、喰らいついてゆく。  

 それから、「欠史八代(けっしはちだい)」と日本古代史で言われる、神武天皇から、あとの2代目綏靖(すいぜい)、3代目 安寧(あんねい)、4代目 懿徳(いとく)、5代目 孝昭(こうしょう)、6代目 孝安(こうあん)、7代目 考霊(こうれい)、8代目 孝元8こうげん)、9代目 開化(かいか)天皇 のことと、動きを、逐一、初めてその概略を知った。

 そのあとに、10代 崇神(すじん、西暦300年前後。大月氏大夏系の葛城=かつらぎ=氏系の、出雲系・大物主=おおものぬし=の勢力 を打倒して、大和に入って三輪山を根拠地にした。) 、11代 垂仁(すいにん。西暦315年に 纏向=まきむく= 今の、奈良県桜井市 に都を作った) 、12代 景行(けいこう。ヤマトヤケル=大和武尊=のモデル。扶余=ふよ=あるいは鮮卑=せんぴ=族の慕容=ぼよう=氏の一族である。 慕容コウ その人 ) ・・・・ 大月氏 である 古い先住者である出雲の大物主 や葛城(かつらぎ)氏 の 勢力が、 山門(=大和)からも 駆逐されてゆく。・・・

 なんともはや、壮大な、ユーラシア大陸をまたがる、さらに中央アジア史の一部としての さらに東アジア史の一部としての 日本 (倭国)に全てがつながっている話だ。

 昨年末に、私は、「これで、副島隆彦の日本古代史 は、完成した」 と思って本を書く準備をしていたのに。 「 東アジア史の一部としての、日本の、 西暦200年代(卑弥呼=ヒメミコ=の邪馬台国)、300年代、400年代、500年代、600年代が、これで大きく分かった。これでいい 」 と、すべて描きつくそうと思った。

 それは、「次々に、中国の歴代王朝の交替の大混乱 (戦乱)によって、朝鮮半島と 満州あたりだけでなく、 日本にまでも大きな、津波のように、難民となって、次々と、押し寄せてくる人々の群れ 」の話として、私はずっと書こうとしていた。 

 次々にやってくる難民たちは、筏(いかだ)に、馬、豚や、羊(日本では山羊、ヤギ)や、牛を載せて、北九州から、瀬戸内海を通って、順番に、ぞろぞろと数千人の群れとなって、「東へ、東へ」と移動していった。「あっちの方が空いているから、あっちにいってくれ」と 先住者たちに言われながら。

日本では、、馬、牛を去勢していないから、だから、江上浪夫(えがみなみお)の騎馬民族(きばみんぞく)征服王朝説は成り立たない」と、1990年代に、葬り去った、終生、悪質な学者であった、梅原猛(うめはらたけし)たちの 勢力は、今や、駆逐されつつある。

 遊牧民族(騎馬民族というのは、どうかなあ)は、何千頭も、何万頭も、家畜( livestock ライブストック,
生きている 財産、食べ物)を引き連れて、ぞろぞろと どこまでに、草原を移動してゆく。家畜は、殺したら、すぐに食べないと、10時間で腐って行く。 しかし、生きている動物は、腐らない。 生きた羊と、牛と、豚と、馬と、ヤギを連れている限り、そしてその餌(えさ)となる草原の草がある限り、どこまででも移動して行ける。

遊牧民は、家畜さえいれば、生きて行ける。肉とミルク、あとは、家畜の皮から作ったパオ、ゲルの住居と、焚き火用の材木だ。 私は、5年前に、カザフスタンのあと、モンゴルに行った。 モンゴルの首都ウランバトール
から、200キロと地の観光客用の ゲル(中国名はパオ)に 5日いた。 遠くの、30キロぐらい先を、次から、次に、羊や、馬の群れが、水飲み場に来て、それから、はっと気づいたら、もう 20キロぐらい先に、行っている光景を見た。  生きている食糧である家畜を連れていれば、遊牧民はどこまでも移動できる。

 考えてみれば、西暦375年に、ヨーロッパ北部で、フン族(匈奴、やがてアッチラ大王が出てくる。ハンガリー人は、今でもアッチラという名前を子供に付ける )が、背後から圧迫したので、ゴート族というゲルマン民族のひとつが、一斉に 数十万人がドナウ川(ダニューブ川)を渡りだした。ローマ帝国の兵士たちがそれを押しとどめることが出来なかった。 

 この時からが、ゲルマン民族の大移動だ。それから、このゲルマンの遊牧民たちの多くの部族が、100年間ぐらいの間に、ヨーロッパ中を、そして北アフリカ( ヴァンンダル族、バーバリアン)にまで移動していった。 あの感じと同じことが、東アジアでも起きたのだ、いや、きっと起きたはずだ、と 考えなければ、真の世界史の理解にならない。

 日本に押し寄せた難民たちは、うまく話が付かないで先住民との戦乱もあったろう。 そうやって、いつ、山門(やまと、大和。今の奈良盆地)にまで、入っていったか。それを、初期天皇たちの動きとして、逐一、私は、叙述しようと思った。

 それが、この小林本によって、打ち壊された。この小林本のスケイル(もの差し)の大きさの前に、私の「日本古代史の全体像」は、この3日間で、吹き飛ばされてしまった。
 
 中央アジアの日本から5千キロ先の、大月氏(だいげっし)や突厥(とっけつ)などの遊牧民族が、はるばる日本にまでやってきて、そして、歴代国王にまで、何人も何人も、次々と何人もなっている、話を、これでもか、これでもか、と書かれると、普通の日本人は、頭が割れるか、眩暈(めまい)がするだろう。

 「もう、やめてください。私の頭には入りません。そんな、大月氏とか、鮮卑(せんぴ)族、とか、エフタルとか、扶余(ふよ)族とか、日本にやってきて国王になった、なんて、やめてください。匈奴(きょうど)ぐらいなら習って知っているけど。それ以上は、頭に入りません」と なる。  

 私、副島隆彦は、そういうわけにはゆかない。私は、5年前に、カザフスタンに行った。アルマトウ(ここが、新しい世界銀行の地になるだろう)に行った。首都のアスタナにも行った。ここから天山(てんさん、テンシャン)山脈を南に見て、その向こうのキルギスまでが見えた。 

 その向こうは、フェルガナ盆地(大宛国、だいえんこく)を一部にしているウズベキスタン(ここが、中央アジア5か国の、本当は中心の国。しかし、政情不安で栄えていない)だ。 ここらに大月氏国 があったのだ。

 それから、7年ぐらい前に、私は新疆ウイグル自治区 のウルムチや、敦煌(とんこう)、トルファン盆地、ハミに行った。 コルラ、クチャ(庫車)には行けなかったが、天山山脈そのもののあたりを車で走った。

 この小林本の P42に、「中央アジアに残った大月氏は大体シルクロード上のオアシス都市クチャ(かつての亀茲=きじ=国)の東北(にある)金山(きんざん)あたりに住んでいたらしい」 とある。 ここの金山(きんざん)を私、副島隆彦は自分の目では見ていないが、そのあたりの出身者の女性に話を聞いた。 

 中国人は、北西の遊牧民を、西戎(せいじゅう。西の方の遊牧民で、野蛮人の「えびす」たち。トルコ系。チュルク人。のちのウイグル族や契丹族。それが、モンゴル族にもなった )と呼ぶが、犬戎(けんじゅう)とも呼ぶ。 この大月氏、犬戎が日本の天皇族の「休」氏の一族である(P44)。

私、副島隆彦説では、「満州人(マンジュ)とは、大興安嶺(だいこうあんれい)山脈を越えて来た、モンゴル族である。そして、狩猟もする民族になった」となる。 この点で、岡田英弘先生と、意見が合わなくて、岡田先生が、顔をそむけたので、それで対談本の企画が流れた。もう12ぐらい前のことだ。私のあまりにも荒っぽい(粗っぽい)議論に、岡田先生が、拒否の態度を取られた。岡田先生が、日本の東洋史、モンゴル史、満州史、朝鮮史 総して、アルタイ学(会)( Altaic studies アルタイック・スタディーズ)の 日本における権威である。

岡田先生と奥様 が、同じ東洋史である 小林さんの研究を何と言うか、私は、聞いてみたいが、きっと顔をそむけるだろうと、思う。

 小林恵子(やすこ)さんは、中国の正史である各王朝の歴史書、特に『資治通鑑(しじつがん)』も読んでいるが、『高句麗本紀(こうくりほんぎ)』や、『新羅本紀(しらぎほんき)』、『百済本紀』、『海山経』、『三国史記』 なども読んでいる。日本史学者たちは、こういう資料の読み込みをしない。出来ない。

 そして、細かく日本の『記紀』( 古事記 と 日本書紀。日本の正史と決めつけられてる)と付き合わあせている。 いい加減な突合せ(照合)はしていない。

 そして、P202で「応神 と 広開土王 の死闘」 となっている。応神(おうじん)天皇 (第15代、在位、西暦270―310年。この大王 は実在とされる)が、あの有名な、高句麗の王である「広開土王(こうかいどおう)の碑文(413年、息子の長寿王=ちょうじゅおう=が建てた)」の広開土王のことを 書いている。  

 ・・・・そして、P223で,仁徳天皇は、この広開土王(好太王 、句麗王安、)であり、日本征服に来た、となっている。あーあーあーで、ずっとこの調子だ。 私は、頭が強いから、簡単には割れないから、耐えられる。普通の人には耐えられないだろう。

 小林恵子女史は、古代オリエント学会の会員である。この古代オリエント学会(1954年設立)は、三笠宮(みかさのみや、昭和天皇の末弟。存命 )によって運営されてきた。 小林女史が、「あとがき」で書いているが、「三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう)殿下に何かと学問上のお世話をいただきました。・・・常識外れの私説に対しても一度も疑義のお言葉をいただいたことはありません」 と、 書いている。

 三笠宮は、「2月11日を建国記念日(神武天皇が国造り=国家統一を決めた日とされるとすることに歴史学的な根拠はない)と、紀元節(きげんせつ)の復活にかつて反対した。それで三笠宮は右翼たちから攻撃された。

 三笠宮は、中東、オリエント世界 (中央アジア()への遺跡発掘調査にも出かけて、実は、あの映画「インデアナ・ジョーンズ」(主演、ハリソン・フォード)のモデルにもなった人なのだ。

 私は、この小林恵子氏の本は、十分の根拠を持っていると判断した。従来の、古代史を、ユダヤの失われた一支族(第13氏族)が、日本にまでやってきて、四国の剣山(つるぎさん)そのほかに、古代国家の痕跡を残している」などと書く、歴史学の知識や精密な研究歴 を持たない、いい加減な思い付きだけの、おかしな人たちが書く本とは、異なる。

 ただ、どうやって、あの 5000キロも先の、中央アジアの広大な砂漠や草原地帯を超えて、はるばる、日本まで、どういう動機でやってきて(確かに 移動する遊牧民たちの時代だ )、しかも次々と日本の王にまでなっている、というのは、どういうことなのか。私は、今、この『古代倭王(たち)の正体』を読んで、深く考え込んでいる。  

副島隆彦拝
(転載終わり)