ふじむら掲示板
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Loginはこちら【422】在特会の会長が在日朝鮮人だって‥それが何か。
伊藤睦月(2145)です。
(523)の投稿で、かたせ2号さんが、驚いた風だが、何をいまさら、という感じが正直なところ。
在日朝鮮人といっても、(1)日本国籍を取得した「日本国民」
(2)韓国(もしきは北朝鮮)国取得している人たち(3)そのどちらでもない人たち。(いわゆる永住権だけ取得している人たち。
(4)上記(1)~(3)のミックス、
とさまざまいて、親子、親族間であっても、背景や人間関係、スポンサーなど複雑で門外漢が入る余地はない。
歴史を少し調べれば、そういう例はいくつもあって、例えば、第二次大戦中の米国日系人の例。第一次大戦中のドイツ軍のユダヤ系軍人など、「本国人よりも本国人らしく」ふるまった人たちがたくさんいて、その人たちのその後の運命もさまざまだ。
在特会の会長もそういう人たちの一人だと思えば珍しくもない。大事なのはかたせせ2号さんも指摘しているように、その背後で彼らを操っている存在に思いを致すべきかと。
それから、山本太郎を取り上げておられるが、一部だけ切り取られているので、彼の発言の文脈がわからない。彼は関西から出てきたアマチュア芸人あがり(今の小島よしおや、とにかく元気な安村みたいなネタをやっていた)だから、在日朝鮮人の人たちは、関東の人たちより身近な存在だったはずで、ましてや、リベラル系政治家として、その辺のふるまいはわかっているのではないかと思う。
思えば、昔、副島先生も、そういう片言節句を切り取られて、ディスられていました。。今ではそういう人たちもほぼ絶滅したようです。
時代が、副島先生に追い付いてきた、ということで、今こそ、副島学立ち上げの時、私、伊藤は考え、自分のできることから取り掛かっているわけです。
朝から、過熱気味で、恐縮です。かたせ2号さん、この話と藤原肇の話は、これで中締め、ということにさせてください。
(以上、伊藤睦月筆)
【421】それでも、学会新説に突っ込みをいれてみる(7月3日)
伊藤睦月です。まずは、彼ら、学会の若手・中堅研究者(中村は1959年生、河上は1980年生まれだけど・・・)が対峙している、「通説」を確認しておく。
(引用はじめ)
「日本古代史研究の世界では、白村江の敗戦以後の「占領下」の日本を描く論考は、ひとつとして存在しない。日本は敗戦したが、唐の占領は受けずに、唐との友好関係を保ち、唐の律令を導入して、国力の充実を図ったというのが定説である。」(中村修也「天智朝と東アジア」2015年6頁)
「日本は古代のある時期、中国との対等の関係を築き、それ以降は中国を単純に「大国」とみなすことはなかったという説が根強くある。」
「遣隋使を日本古代対外交渉史上の画期(日出る処の天子・・・)とする説は、近代(戦前昭和)に入り教科書に採用された。」
「現在では、高校の歴史教科書からは、遣隋使が中国との対等を主張したという説は姿を消した。ところが記述はずいぶんあっさりしたものの、義務教育の教科書では、いまだに遣隋使から対等な立場での日中交渉が開始されたとの表現が残るものがある。一般向けの書物もまた同様である。遣隋使が中国との対等な立場を主張したという説は、21世紀に入った今日でも常識として社会に共有されている。」(川上麻由子「古代日中関係史」中公新書2019年はじめに)(引用終わり)
伊藤睦月です。この通説に対し、中村は、
(引用はじめ)
「7世紀の日本が、近隣の朝鮮3国とかかわりながら、唐という大国(すなおに「世界帝国」と書けばいいのに・・・)と戦い、敗北した白村江の戦は、20世紀において、アジアを巻き込みながら、アメリカという大国と戦い、敗北した第二次世界大戦と共通する点がみいだせるということである。もちろん科学の進歩など、細部においては全く異なることは当然である」
「しかし、大国と戦って敗戦すれば、占領支配を受けるといった戦争の法則から外れることはないはずである。逆の例であるが、近代において日本が日清戦争に勝利したとき、下関「講和」条約において、朝鮮の独立承認、遼東半島・台湾・膨湖列島の割譲、賠償金二億両の支払い等を清国に認めさせている。・・・戦勝国が敗戦国に何も要求しないということは、戦争の常識を覆す論理である。それを肯定することはできない。」(中村前掲書、伊藤一部加筆)
(引用終わり)
伊藤睦月です。「論考は一つとして存在しない」「戦争の常識を覆す論理」だからこそ、我々素人筋にも議論に参加できる余地がある。だから歴史学、そして学問は楽しい。
参考までに、1990年代の「定説」も紹介しておく。現在と当時の諸情勢、背景に思いを致すのも、また楽しからずや。
(引用はじめ)
「「もはや戦後ではない」はあまりに有名なフレーズだが、白村江「戦後」とは厳密には「まだ戦後ではない」であった。・・・大唐帝国の圧倒的な物量の前に前例のない大敗を喫した敗戦国=倭国が、「戦後」は戦勝国である唐の制度や文明に学び、それこそ奇跡的に日本に生まれ変わったという、語り継がれてきた敗戦史観。われわれはそろそろ、これを根本から見直すべき時期に来ているのではあるまいか。(遠山美都男「白村江」講談社現代新書エピローグ1997年)」
(引用終わり)伊藤睦月です。遠山は、1957年生まれ、中村とは2歳違いだが、学者としては一世代前の人のようだ。とりあえず小休止。
(以上伊藤睦月筆)
追伸:藤原肇氏については、当分の間、保留します。昔、小室直樹先生と対談本を出していて、その表紙の写真の山羊髭が気に入らなかったことを思い出した。人を外見で判断してはいけないことはわかっているが、こればかりはどうしようもない。すみません。なお、この人の要約は要注意だと思う。
(以上)
【420】ブレイク(7月3日)白村江の戦いに関する学会新説を読む
伊藤睦月(2145)です。昨日の続き。学会新説の「中村修也説」です。
(1)倭=大和王朝が前提(通説と同じ)
(2)軍勢:4万2千(通説と同じ)
(3)倭軍ほぼすべてが、渡海。白村江で全滅。(ここまでは通説と同じ)
(4)そのため、国内(大和王朝の勢力範囲)にまともな軍勢がいなくなり、軍事的空白が発生。(唐軍の占領状態となる)
(5)中大兄皇子は、すぐに大和に逃げ帰らず、筑紫那津宮(福岡県福岡市東区)にて、敗戦処理にあたる。これ以降、直接唐と相対していない、大海人皇子などの豪族たちとの意識のギャップが生まれ、壬申の乱の遠因のひとつとなる。
(6)今まで、九州や西日本各地の防衛施設とされてきたのは、唐軍(進駐軍)の監視基地、連絡施設で(進駐軍基地)唐軍の指示で設置された。近江京遷都も、防衛目的ではなく、大和が唐に占領されたため、追い出され、近江に封じこめられたもの。
(7)劉仁高、郭務棕が持参した国書の内容は、「朝貢要求」及び日本の「民主化指示書」(当時のグローバルスタンダードである唐の諸制度を取り入れよ、という指示書であった)中大兄皇子は、それに従い、各種制度改革に取り組まされた。
(8)665年、唐(劉仁軌、劉仁願)を仲介として、新羅、旧百済、耽羅(済州島)、倭、との間で講和条約を締結させ(倭代表は大友皇子)、その証として翌年の封禅の儀に参加させた。
(9)新羅の反乱のため、唐による「倭国改造計画」(羈縻政策の遂行)は中断。郭務棕も占領をあきらめて、撤退した。
伊藤睦月です。
(1)中村修也は、学者さんらしく、その著「天智朝と東アジア」において、史料に即しながら、表現を選んで、自説を展開しているが、その主張を私なりにかみ砕くとこういうことになる、と思います。
(2)中村の思考の根底にあるのは、先の大戦における、敗戦と占領政策とのアナロジー、である。
(3)また、「敗戦国にとって必要なのは防衛でなく、外交だ」という認識から、唐と倭(日本)は、白村江の敗戦後、(通説のいうような)対等の関係ではありえず、中大兄皇子は、建前と実態とのギャップの中で、悪戦苦闘する、政治指導者として描こうとしています。
伊藤睦月です。この著は2015年に発刊されているが、副島史学とも親和性が高いと思う。「属国」というキーワードは使用していないが、直接、間接に副島史学の影響は、ないとも言い切れないのでは。もっと素直になればよいのに。
私、伊藤はそれでも、中村説に対する疑問をぶつけます。(続く)
(以上、伊藤睦月筆)
【419】ブレイク:頭の整理(7月2日②)
伊藤睦月です。倭の酋長を封禅の儀に列席させた目的は、一言でいえば。「唐の意向に反した日本への威嚇であり脅し」であったとするのが、通説の見解であり、これには、特段の異論はないようだ。では、この列席の原因となった、白村江の敗戦とその後の対応の説明については、通説、中村説、副島説、伊藤説それぞれ多少とも違っており、その違いを整理することとする。(基本的に伊藤の頭の整理です)
1 学会通説
(1)663年の白村江の戦いの時点で、倭=大和王朝であることを前提。
(2)白村江の戦いに参加した兵士数は、
総数4万2千
(2-1)内訳:余豊璋護衛隊5千、安曇比羅夫率いる本隊2万7千、蘆原君臣(いおはらのきみおみ)率いる後詰め部隊1万)
(2-2)上記部隊の大半が渡海。全滅。
※渡海人数は不明。
(2-3)全滅の報に接した中大兄皇子は、直ちに大和(飛鳥宮?)に撤退。
(2-4)664年対馬。壱岐、筑紫に防御施設と狼煙(通信施設)を築造。防人を設置し防衛体制を構築
(2-5)667年近江遷都。
(2-6)668年正式即位(「天皇」「日本」
初出)
(2-7)671年 天智天皇死去
(2-8)672年 壬申の乱
(2-9)702年 第7回遣唐使(粟田真人)で対外的にはじめて、「日本」「天皇」を名乗る。
2 副島説
(1)倭(広義)=山門国(大和王朝)倭(狭義=九州王朝)
※当時の倭は、原住民王国と華僑王国との連合体であり、白村江の敗戦後、両者がまとまって「日本」を建国したとの岡田英弘説を展開。
(2)渡海して全滅したのは、余豊璋護衛隊5千プラス九州王朝部隊2万7千。計3万7千(伊藤試算)
(3)山門国軍は、余豊璋護衛部隊5千プラス後詰め部隊1万。前者のみ渡海。
(4)これで、旧倭(九州王朝)は消滅し、結果的に 山門国が吸収。
(5)中大兄皇子は、白村江敗戦の報に接するや、直ちに撤退。大和に戻り、防衛体制を固める。
(5)以後、通説とほぼ同じ展開。
3 伊藤説
(1)(広義)倭=大和王朝プラス百済支配地の旧倭(奴国)
(1-1)旧倭は、実質的に華僑の有力者たちが、合議体で国を運営していた。(「漢委奴国王」の金印が統合のシンボル、後年の博多や堺からの連想)
(1-2)旧倭は、白村江以前に、百済(余豊璋)から乗っ取られ、兵站基地とされていた。
(1-2)実際に渡海し全滅したのは、旧倭から徴発された倭人部隊。
(1-3)大和王朝側は、後方支援(那津宮・朝倉宮)のみで戦意はそれほど高くはなかった。
(1-4)全滅の報に接した中大兄皇子は、直ちに大和に撤退。防衛体制を固める。
(1-5)敗戦後、中大兄皇子が早々に撤退したことで、旧倭に軍事的空白ができ、郭務棕らが、占領。
(1-6)671年、白村江の戦いの首謀者、余豊璋(藤原鎌足)の捕縛に失敗。(689年死亡)
(1-7)671年、郭務棕は、新羅の反乱などもあり、占領継続が困難となったので、天智天皇の死亡を機に撤退。
(1-8)旧倭の管理は、親新羅系の天武天皇(もしくは高市皇子)に引き継がれた。
と、ここまでで、小休止。スミマセン。
(以上、伊藤睦月筆)
【418】ウォーミングアップ(7月2日)封禅の儀666に倭国王は列席したか。(たぶん最終回答)
伊藤睦月です。(513)で、倭国王は666年の封禅の儀に列席しなかった、と主張しましたが、その後、出典(旧唐書劉仁軌列伝の該当箇所)を見つけましたので、引用します。(中村修也「天智朝と東アジア」120頁以下)見出し番号は伊藤
(引用開始)
(1)麟徳二年に、泰山に封ず。
(2)仁軌、新羅及び百済・耽羅(たんら:済州島のこと)・「倭」の四国の「酋長」を領(ひきい)て
赴き会す。
(3)高宗、甚だ悦ぶ。
(4)(仁軌を)擢(ひきぬきて:抜擢して)、大氏憲に拝せしむ(任命した)
(引用終わり)伊藤睦月です。この封禅の儀の記事は。後世の類書「冊府元亀」、政治指南書「資治通鑑」にも、紹介されています。
(引用はじめ)
(4-1)ここにおいて、仁軌、新羅・百済・耽羅・「倭人」の四国の「使い」を領い、浮海西遷(旧百済から、海を渡って西側:泰山のあった山東省に移動して)し、以って泰山のもとに赴く。(冊府元亀)
(4-2)熊津都尉(都督:都尉は北宋時代の官職名)扶余隆(旧百済皇太子)と新羅王法敏とに上命(命じて)旧怨(660年百済が滅ぼされたこと)を釈(と)き去らしむ。(和解させた)
(4-3)劉仁軌、新羅、百済、耽羅、倭国の使者をもって、浮海西遷せしめ、泰山に会祠(かいし:参加)せしむ。高麗(高句麗)もまた、太子福男(ぼくなむ)遣わし来たり、侍祠す(じし:参列)す。
(引用終わり)伊藤睦月です。もう一つ、三国史記(新羅本紀)の記事から。
(4-4)(引用開始)
是において、仁軌、倭が使者及び百済・耽羅・「倭人」の四国の「使い」を領し、海に浮かびて西に還り、以って会して、泰山を祀る。(佐伯有清編訳「三国史記倭人伝」岩波文庫)(引用終わり)
伊藤睦月、です。なお、同署には「新唐書劉仁軌伝」の記事として、「始。仁軌任帯方州(朝鮮半島)及び封泰山。仁軌乃率新羅、百済、耽羅、倭四国酋長赴会。天子大悦。擢為大司憲。とあります。
伊藤睦月です。守谷君。君が指摘したのは、上記でまちがいないですか。
(5)この5史料の優先順位は、新唐書、旧唐書、三国史記、資治通鑑、冊府元亀、の順です。
(7)それを勘案すると、封禅の儀には、「倭」の「酋長」が参列していることになります。では、「酋長」とは誰か。わかりません。(苦笑)
(8)通説では、資治通鑑や冊府元亀の「使い」に注目して、前年に劉徳稿と郭務棕を送っていった「守君大石」と考えているようです。(川上麻由子「古代日中関係史」はじめに 中公新書)守君大石は、白村江生き残りの倭の将軍で、いかにも「酋長」という風貌だったのかもしれません。
(9)それに対し。中村修也は、「天智朝と東アジア」において、「酋長」というからには、国王のようなもの。日本書紀では、同時代の天皇は天智天皇だが、訪中はしていない。大友皇子が天智天皇の代理として、唐、新羅、旧百済、倭、との講和条約を熊津城にて調印、その帰りに、封禅の儀に参加させられた、としています。(前掲書120ー135頁)
しかし、この中村説には、通説、副島説、伊藤説、いずれからみても無理があると考えます。
とりあえず、小休止
(以上、伊藤睦月筆)
【417】サヨナラだけが人生だ(続き)間違えて途中で投稿ボタン押してしまいました。
伊藤睦月です。
私、伊藤は。太宰作品は「新釈お伽草紙」が好きです。というか、これと「富嶽百景」と「走れメロス」以外はまともに読んでいませんが。(他の自虐系はどうも苦手で・・・。その後は、2,3年前に漫画「文豪ストレイドッグス」を読みましたが・・・関係ないか)
いずれにせよ、50年前の、高校生のときに読んだきり、ですけど。
かたせ2号さん、思い出させてくれてありがとうございました。
(以上、伊藤睦月筆)
【416】サヨナラだけが人生だ
伊藤睦月(2145)です。
表題の文句は、井伏鱒二訳の漢詩です。
かたせ2号さんが上げられた、「富岳百景」は、「富士には月見草がよく似合う」でしょうか。
私、伊藤は、太宰なら「新釈お伽草紙」
【415】ウォーミングアップ(7月1日)封禅の儀に倭国王は列席したのか。
伊藤睦月(2145)です。
守谷健二君が、(3134)の投稿で、665年の封禅の儀に、劉仁軌が、倭の国王が参加した、という旧唐書劉仁軌列伝の記事を紹介しています。私、伊藤は、旧唐書の該当部分を確認していないのですが、関連資料をみていたら、次の記事を見つけました。
(引用はじめ)
(1)666年正月、唐の第三代皇帝である高宗は、中国第一の名山である泰山で、天地を祭る封禅の儀式を行った。・・・さらには、新羅・百済・タン羅、高句麗といった東アジアの国々の使者とともに、日本の「使者」も参加していたという。(川上麻由子「古代日中関係史」はじめに)
(引用終わり)
伊藤睦月です。いくつか指摘。
(1)守谷君は、封禅の儀を665年の出来事と言い、川上は666年、といっているが、どちらが正しいか。
(2)川上前掲本では、滅亡したはずの「百済」が登場するのはなぜか。
(3)封禅の儀に参加したのは、「国王」か「使者」か。
伊藤睦月です。以下、私の回答
(1)666年が正しい。ただし、各種史料は、太陽暦でなく、太陰暦で記載されているので、閏月とか、太陽暦に置き換えたときに、若干のずれが生じたものと考えられる。
(2)旧百済皇太子隆が参加していたため、百済もカウントされた。
(2-1)百済王国は、660年義慈王のときに、唐・新羅連合軍に滅ぼされている。665年に劉軌仁の仲介で、新羅王と旧百済皇太子との間で、講和の盟約を締結しており、旧百済皇太子は、唐の官職(熊津都督)を得ているので、その資格で参加しているのではないかと考えます。
(3)「国王」でなく「使者」であると考えられる。
(3-1)日本書紀によれば、665年に、劉徳高と郭務棕が来日し、その年の12月14日に帰国(旧百済か唐本国かはわかりませんが、皇帝への報告と、封禅の儀への参加のため、唐本国に帰ったと考えます)した際、小錦守君大石らを同行させており、彼らが封禅の儀に参加したと考えると、川上前掲書とつじつまが合います。百済方面軍担当の劉軌仁の紹介(随行の資格)で、参加したと考えます。
(3-2)但し、日本書紀には封禅の儀に参加した、という記事はげらありません。「大唐に遣わし、しかじかと、だけ記載されています。
(3-3)私、伊藤は、百済王、倭国王なら、戦争捕虜なので、封禅の儀のいけにえにささげられたのではないか、と推測したのですが、その時点で百済王は存在しない(王子とか貴族は連行された、という記事が、新唐書新羅に出ていますが)し、倭国王も、倭国=大和王朝説(通説)なら、当時の倭国王は、天智天皇なので、彼が「訪中」したという記事もないし、実際行っていないでしょう。
(3ー4)倭国王=九州王朝の王という説(副島説)をとるなら、その連行された倭国王の名前が不明なのはおかしいと思います。旧百済と新羅のような盟約も結ばなかったのも解せません。
(3-5)倭国では、元来「国王」は存在せず、白村江のときは、余豊璋の支配地だった、連行されたのは、「貴族」たちで「国王」ではなかった。という伊藤説
(3-5)結果的に、封禅の儀に参加したのは、大和王朝の「使者」である、という川上説と一致する。この伊藤説なら、つじつまが合うのではないかと考えますが、今のところ、私以外に支持者はいないようです(大汗)
伊藤睦月です。もう少しウォーミングアップします。
(以上、伊藤睦月筆)
【414】入院中の楽しみが増えた。
伊藤睦月(2145)です。かたせ2号さんが、紹介された本、地元の大型書店でも平積みになっていたので、関心はありました。
早速購入して(電子書籍やアマゾンでなく)、近日入院した時に読みたいと思います。
以上、伊藤睦月筆
【413】そろそろウォーミングアップ(6月30日)としての補足説明(封禅の儀、唐の「すりより」について)
伊藤睦月です。「副島歴史テーゼ」を展開するにあたって、学会通説と少数説(有力な反対説)をチェックしておこう。対象となる文献は、次の2冊。
1 「古代日中関係史」川上麻由子著、中公新書 2019年
2 「天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ」中村修也著 NHKブックス
2015年
それぞれ、どんな主張をしているのか。帯カバーのコピーをとりあえず、引用する。
(引用はじめ)
1 「古代日中関係史」 日本は対等を主張し続けたか。
宋(南北朝:伊藤)、隋、唐、五代十国に日本は何を求めたのか
607年、日本は隋の煬帝に「日出る処の天子」で名高い書状を送る。以後、対等の関係を築き、中国を大国とみなすことはなかった・・・。こうした通説は事実なのか。日本はアジア情勢を横目に、いかなる手段・方針・目的をもって中国と交渉したのか。本書は倭の五王の時代から、5回の遣隋使、15回の遣唐使、さらには派遣後まで、500年間に及ぶ日中間の交渉の軌跡を実証的に、「常識」に疑問を呈しながら描く。
2 「天智朝」と東アジア 唐の支配がもたらした律令国家への道筋とは?
もう一つの「占領下」を描く
古代東アジアに起こった一大戦役・白村江の戦。通説では、唐・新羅連合軍に敗れた日本は以後、唐の律令に学び、国家体制を整備していったと言われる。だが、この通説は果たして本当か?敗戦国の日本が、唐の支配を全く受けずに友好関係を保つことが可能だったのか?
本書は、中国・朝鮮側の史料、最新の考古学の知見、古今東西の「戦争」における常識など、多角的な視点から「日本書紀」を再解釈。白村江後に出現した唐の日本「支配」の実態、さらに、それがのちの律令国家建設に与えた影響を鮮やかに描く。(引用終わり)
伊藤睦月です。岡田英弘が「日本史の誕生」所収の諸論文で「世界史からみた日本」の視点を打ち出したのが1970年代。副島隆彦先生が、「属国日本論」を提唱したのが、1995年前後、岡田説から50年、副島説から30年、やっとここまできたか、時代が副島隆彦においついてきた、と感慨にふけっている場合ではない。彼らは「属国」というキラーワードを使わずに、自説を展開している。実際、彼らの参照文献には、岡田や副島先生からの引用が全くない。(その間の事情をあれこれ詮索はあえてしない)そこで、副島学の成果の一つである、「属国」ワードを十二分に活用しながら、この2作をチェックしていく。
その前に、「日中関係史」に関する、私、伊藤の現時点での見解を示す。上記2書をチェックするなかで、若干の修正、はあるかもしれないが、大筋では変わらない、と思う。
(伊藤説)
702年の第7回遣唐使(粟田真人)以来、日本はなんとか唐と対等の外交関係を結ぼうとしたが、失敗。それ以降の各王朝からも相手にされず、国内的には、対等であるふりをして、特に武士階級から利用された。両者が対等の関係になったのは、形式的には、1871年「日清修好条規」、実質的には、1895年、下関条約(日清戦争に勝利)のとき以降である。
伊藤睦月です。上記の議論に行く前に、守谷君や2054さんからあった指摘について、補足説明をします。(暫時休憩)
(以上、伊藤睦月筆)