ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
伊藤 投稿日:2024/12/29 20:33

【570】私説:日本書紀、古事記の正体(6)まず、傍系皇族と有力豪族を排除する。(その2)

伊藤睦月です。

 (1)舒明直系の天智、天武にとって、当面の標的は、蘇我氏である。蘇我氏は、雄略大王のころから、大和国の財政や財産を管理していたというから、先祖は華僑の大商人であろう。諸史料からは、渡来人由来とはされていないが、それだけ古くから、大和のアマ氏に仕えていたものと思われる。文官として、秦氏や、東文氏、西文氏、武官として、東漢氏などを部下にしていたことからも、華僑系だと思う。読み書き計算のできない(得意でない)、武力一辺倒の原住民系の豪族(物部氏など)ではない。華僑の系列は、親百済派か親新羅派かは、はっきりしないが、伝統的に親百済派の豪族が多い中、聖徳太子に代表されるような人物が多く、仏教移入に積極的な進歩派、「新しもの好き」な一族。

(2)私、伊藤は、いわゆる、「聖徳太子は、実在したが、タシリヒコは、倭国のアマ氏の大王だ」と考えている。(同旨古田武彦)。1990年後半から、大山誠一氏を中心に「聖徳太子は実在しない。タシリヒコ=蘇我馬子」説が学会内で有力になり、高校教科書の記述にまで影響が出ているが、いわゆる、学会通説と同じく、倭国のアマ氏の存在を認めない、としている点で、違和感を持っている。(詳しくは後述する)

(3)蘇我氏は、継体大王の即位後にその影響力を増してきて、大和のアマ氏をしのぐ勢いとなった。お金を持ってる奴は強い。高校教科書にも書かれているが、当時の大和国は、有力豪族の連合体で、アマ氏の優越権はなかったから、蘇我氏が大王であった可能性は高い。隋書の記述とも整合しそうだ。そうなると、用明、推古、崇峻、聖徳太子、みんな実在しないことになる(大山誠一氏)が、まだ、賛否を決めかねている。彼らが実在しない、となると、物部氏との「仏教戦争」も本当にあったのか、再考が必要になる。

 (4)とにかく、645年に、天智、藤原鎌足(余豊璋と同一人物説:同旨関裕二氏)のコンビが、「蘇我入鹿」を暗殺し、その後、傍系の古人皇子を殺し、孝徳大王をネグレクトして憤死させ、その息子の有間皇子を謀反のぬれぎぬをかけて殺した。傍系だが、実母の皇極=斉明大王は、殺しはしなかったが、九州の朝倉宮で軟禁状態にして、死なせた。(白村江の戦争指揮なら、博多湾沿岸部の香椎宮の方が便利なはずだが・・・)そうして、直系の兄弟だけが残った。決勝戦は近い。

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/29 10:29

【569】私説:日本書紀、古事記の正体(5)まず、傍系皇族と有力豪族を排除する。(その1)

伊藤睦月です。

(1)大和国の王権は、(以下、「大和のアマ氏」と呼ぶ。従来の北部九州に存在した、奴国、邪馬台国の後継王を「倭国のアマ氏」と呼ぶ。「休氏」とする説もあるが、ここでは、中国正史に採用された「阿毎(あま)」氏とする。なお、九州天皇家、近畿天皇家、という古田武彦流の呼び方もあるが、天皇は天智天皇以降の呼称とする、副島隆彦説を採用する。それ以前は大王・おおきみとする)は継体大王の子孫の時代である。日本書紀では、この時代の記述が、で最重要である。

(2)継体大王には、安閑、宣化、欽明、の3人が大王となっていたが、欽明の血統が大王位を引き継いだ。欽明が継体の「直系」となった。欽明から見て、他の2人の血統は「傍系」となる。

(3)欽明大王には、敏達、用明、推古、崇峻、の大王がいたが、欽明の血統、舒明が「直系」となった、舒明の「直系」が、天智と天武だ。この2人が、継体の「直系」だ。現天皇家は、この継体大王の「直系」の子孫になる。天智と天武のどちらが年上かとか、血のつながりが温かかどうかは関係ない。舒明大王の「直系」と認定されたことが、それだけが重要なのだ。

(4)だから、大王位の争いは、誰が直系となるか、という争いだ。例えば、用明大王の子(聖徳太子)や孫(山背王)が大王になれば、彼らの血統が「直系」となり、他の血統は「傍系」になる。大王には直系のみがなれる。というか、大王になった者こそ「直系」になる。現在のいわゆる「皇位継承問題」にもつながる問題だ。そして、現代のように「平和的な解決方法」は、当時にはない。だから、どうしても、血生臭い話になる。殺し合いになる。

(5)そして、もう一つ厄介な存在がある。有力豪族だ。この取り扱いもめんどくさい。

小休止:以上、伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/29 09:46

【568】私説:日本書紀、古事記の正体(4)日本書紀は、天智・天武、両方の直系が、正当な王位継承者であることを主張した歴史書である。

 伊藤睦月です。前回の続き。通説では、日本書紀は、壬申の乱で大友皇子を倒した、天武天皇の正統性を主張したものというもの、これをベースに藤原不比等が一族の正統性の主張を仕込んだ、という説もある(関裕二、井沢元彦、梅原猛、など)私、伊藤は、天武、天智、両方の血統(舒明直系)の正統性を主張したものだと考える。以下、説明する。

(1)前回述べたように、日本書紀が宗主国中国(唐帝国)向けでなく、国内向けだとすると、中国には言えない「不都合な事実」も、意味を持ってくる。

(2)当時の、「日中関係」の超重要案件は、「対等な日中関係」の構築である。通説では、第2回遣隋使(607年)で、史上初めて、対等関係を主張。隋皇帝のダメ出しを食らったものの、以後対等な関係を明治まで維持できたとする。(直木孝次郎、井上光貞など)

(2)-1 2000年代に入って、通説に異議を唱える見解も現れてきている。(中村修也、河上麻由子)

(3)以上の通説では、例えば、720年、日本書紀の完成後、平安時代中期965年に至るまで、当時の官人(役職を持っている貴族)全員を対象に繰り返し、日本書紀の勉強会(日本書紀講莚)を開催してきたことを説明できない。天智系全盛の世の中で、なんで天武系の正統性を勉強させる必要があるのか。

以下、次回。伊藤睦月筆

伊藤 投稿日:2024/12/28 22:32

【567】私説:日本書紀、古事記の正体(3)日本書紀は、中国に渡っていない。

伊藤睦月です。

(1)日本書紀は、立派な漢文で書かれているのに、遣唐使は、中国に持ち込まなかった。日本書紀が完成(720年)してから、7回派遣されている(733年、752年、759年、777年、779年、803年、837年)が、中国正史にその記事がない。後世の「宋書日本伝」には、「年代記」を提出したという記事がみえる。しかし、帝紀(年代記)と旧辞(エピソード集)の両方から構成されている、日本書紀は中国に持ち込まれることはなかった。日本書紀から、「旧辞」を除いた「帝紀」部分だけを提出したのだろう。「帝」という題名を遠慮したのだろう。日本側の歴史書(続日本紀など)には、遣唐使派遣のために船を建造したとかの記事は出てくるが、日本書紀持参の記事はない。天武天皇による、日本書紀の編纂命令(681年)や完成報告の記事はある。これは奇妙だ。そして、その翌年には、早速、当時の官人(役職についている貴族全員)を対象にした勉強会(日本書記講莚)が開催されている。この後、何回も開催されている。

(2)なぜ、中国に行かなかったのか、あくまで私説であるが、その理由を考えてみる。

(2)-1:日本書紀には、歴代倭王を、「天皇」と表記していたため、中国側に提出できなかった。

(2)-2:過去の中国正史(晋書、宋書、隋書など)と矛盾する記述があるため。

 例えば、「邪馬台国の朝貢」、「倭の五王の朝貢」の記述がない、中国に日本の王権の正当性をアピールするには、過去の実績を強調することが大事だと思うが、それがない。

 隋書にある、タシリヒコの記載がない。特に、タシリヒコ問題は結構深刻で、例えば、守谷健二氏は、この不都合を解決するため、「稗田阿礼」なる人物から、「聖徳太子」という架空キャラを創造し、「隋書」の記述を書き換えさせるよう、古事記で遺言した、という説を立てているくらいだ。(自分の記憶ですが)

2-(3)中国側にあまり、蒸し返してほしくない、史実の記載がある。(歴代倭王による、不倫・近親相姦・殺人などの不適切行為、遣隋使国書紛失事件、白村江の戦い、壬申の乱など)馬鹿正直にもほどがあるだろう。

実は、私、伊藤は別の仮説を考えている。

(2)-4:そもそも、日本書紀は国内向けに作成された。立派な漢文は、あくまでも「箔づけ」だった。

 これについては、日本書紀編纂の真の目的、背景等についての考察が必要だ。(あくまで、伊藤のファンタジーですが)

以上、伊藤睦月筆

伊藤 投稿日:2024/12/28 07:58

【566】ブレイク:天皇相続(皇位継承)問題は、男系・女系ではなくて、直系・傍系で考えるべきである。

 伊藤睦月です。本日は2024年12月29日5時58分です。あくまでも私のファンタジーです。

(1)この問題を考える大前提がある。当たり前すぎて、誰もいわないようだ。それは、憲法上に定める、天皇制の存続、内容は、国民が決めること、ということだ。このことを、言論人で、明言しているのは、私の知る限り、副島隆彦先生だけ、である。(たしか、『属国日本論』だったと思う。これ以降はすべて私の記憶による)

(2)これは、憲法学者がずっと前から、当たり前のこと、と明記しており、法曹関係者(裁判官、検事、弁護士、その他)、国・地方公務員全員が知っていて、頭に刷り込んでいる。そして、忘れている。試験に出ないからだ。実務上は必要のない余計な知識だから、忘れても何ら仕事にさしつかえがない。弁護士業界では、「裁判で、憲法と信義則を持ち出したら、(その裁判は)負け筋」ともいうそうだ。でも、「刷り込まれている」ことが重要で、何かのキーで、本人もそうとわからないまま、刷り込み通りに考え、行動してしまう。考えようによっては恐ろしいことだ。

(3)(引用はじめ)明治憲法においては、天皇の地位は天照大神の意思、つまり神勅に基づくとされていたのに対して、日本国憲法においては、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基づく」(第1条)ものとされる。したしたがって、天皇制は絶対的なもの、不可変なものでなく、国民の総意により、可変的なものになった。(引用終わり)(芦部信喜著高橋和之補訂『憲法第8版』44頁岩波書店)

(4)伊藤睦月です。この「可変的なものになった」というフレーズが、死活的に重要。これで、天皇制、天皇家は、「国民の総意(憲法改正)」があれば、いつでも、廃止、消滅させることとができるようになった。これを「共和主義」という。戦前なら、「国体変更を企てる反逆者」として、治安維持法の対象となる大罪だ。このことの「恐ろしさ」を日本で一番、身に染みてわかっているのが、今の天皇家の人々だろう。天皇家の人々の「国民目線にたった」言動の根っこは、ここにある、上皇夫妻や天皇・皇后夫妻の、お人柄だけの問題ではない、と私、伊藤は考える。恐れ多いことではあるが。

(5)この、芦部信喜(あしべ のぶよし)は、東大法学部憲法学教室教授の職を、「宮沢俊儀(みやざわとしよし)」から、引き継いだ、憲法学者だ。両者とも既に故人である。宮沢は、敗戦直後、GHQから、憲法草案(英語)を受け取って、実際に日本語に翻訳・翻案した学者。芦部は彼の助手として、翻訳作業チームの一員だった。朝ドラ「虎に翼」にも、出ていたかもしれない。

(6)したがって、宮沢、芦部の憲法解釈は、戦後長い間、1990年くらいまでは、学会の「通説」とされてきた。戦後の憲法判例の蓄積や海外の憲法理論研究の進展により、昔ほどの支持者はいないが、宮沢、芦部の注釈書(コメンタール)や教科書は、長らく、司法試験や、公務員試験の必読書だった。先に引用した「憲法」は、たぶん50歳以上の関係者なら、必ず、一度は手に取ったであろう。大学受験参考書の『試験に出る英単語』のように。(ちなみに私は両方とも、挫折しました・・・涙)

(7)というわけで、いわゆる「皇位継承」は、愛子天皇を支持する、副島先生の論に全面的に賛成。これは、さきにあげた、日本国憲法の理念にもかなうし、皇室伝統にもかなっている、と考える。

(8)天皇は、我々国民の統合の象徴(憲法第1条)だ。だから、「人間としてのふるまい」の最たるものである、家族、相続のありかたは、我々国民のそれと乖離すべきではない。

(9)相続法(民法)の大原則は「直系血族」(民法887条、889条)である。その起算点は、「被相続人」であるから、この場合は、徳仁天皇、雅子皇后だ。このお二人で決めればよい。お二人の直系血族は、愛子内親王だけだ。だから次期天皇は、愛子様で決まり。男系・女系、男女は関係ない。初代神武天皇以来の伝統にもかなう。「傍系の」悠仁親王が天皇になれば、それ以降は、悠仁天皇の血統が「直系」になるだけだけど、やはり、現直系の愛子内親王が、良いな、と私は素朴に考える。その方が万事うまくいく。ごちゃごちゃ説明や言い訳する必要がない。すっきり解決。

(10)上皇夫妻にとっての直系血族は、浩宮と秋篠宮だ。だから二人が候補になった。平成天皇夫妻は浩宮を選び、譲位した。今度は、徳仁天皇・雅子夫妻が決めたらよい。男子でも女子でも構わない。でも愛子内親王でよい、それが一番おさまりが良い、と考える。

(10)男系・女系を言い出したのは、おそらくは、1889年大日本帝国憲法発布と同時に制定された「皇室典範(戦後のそれと区別して旧典範ともいう)」からで、「皇統の男系の男子」と歴史上初めて、明記された。それまでは、明記されていないが、「直系皇族の年齢順、できれば男子」だった。天皇システムは、中国の律令制度がベース。中国人は、人類学的に男系社会であるから、その影響を受けたシステムになっているが、「男系社会でもあり、女系社会でもある(小室直樹)」日本人は、そこまでこだわらなくてもよい、と思う。

(11)騎馬民族の王なら、末子相続だ。だから、「天皇家は騎馬民族」という考えは、天皇家みずから否定した、と考える。だから、天皇家、そして我々日本人は、大多数が「農耕民族」だ。そもそも「民族」なんて概念はその程度のいい加減なものだ。だから、以前の投稿で、古代日本に渡来してきたのは、「騎馬民族」ではなく、「騎馬難民」だろうと主張した。

(12)伊藤睦月です。本当はこの投稿は、正月になってからにしようと思ったが、年寄りの通例で、早朝に起きたら、なんか、ムズムズしたので、投稿した。まだ寝ぼけているのかもしれない。夢かもしれない、ので、悪しからず。今から2度寝する。

伊藤睦月拝

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/27 08:32

【565】私説:日本書紀、古事記の正体(2)日本書紀の、気になると夜も眠れなくなること

 伊藤睦月です。今日は、2024年12月27日8時8分です。今日から冬休み。来年も、個人的に嫌なことが続きそうなので、年末年始くらいのんびり、投稿させてもらいます。

2 日本書紀に関して気になること。(人代編を対象とし、神代編は、別途考察する予定)

(1)海外向けなのに、遣唐使が、持ち込んだ形跡(記録)がない。中国(唐帝国)も受け取ったという記録もない。

(2)日本書紀完成後、約200年間、7回にわたり、当時の官人(貴族)全員を対象にした、勉強会(日本紀講莚)をくりかえし、開催している。

(3)内容を見ると、海外(中国)向けというには、不都合、不適切な記事が多い。

(4)そのかわり、国内向けと考えると、掲載されてもおかしくない記事も目立つ。

(5)日本書紀と中国正史と食い違いのある部分を比較してみると、不自然な感じがする記事も目立つ。まるで二つの国の歴史が組み込まれているような印象を受ける。

 伊藤睦月です。私の疑念のみなもとは、以上これだけ。しかもすべて状況証拠。たったこれだけから、私のファンタジーを展開する。だから気楽に読まれて、気楽に突っ込んでいただければ、幸い。

 以上小休止。伊藤睦月拝

 

伊藤 投稿日:2024/12/26 23:09

【564】私説:日本書紀、古事記の正体

 伊藤睦月です。本日は、2024年12月26日20時37分です。

1 はじめに

 日本書紀、古事記といえば、従来から「記紀」と称されて、わが国最古の歴史書とされている。記紀の使い分けとしては、古事記は、当時の日本語(変体漢文、万葉仮名)で書かれているため、国内向け。日本書紀は、立派な漢文(渡来人である、のネイティブ中国人が執筆した、というのが多数説)で書かれているため、海外向け(主に宗主国中国)に書かれた歴史書というのが、日本史学会の多数説であると思われる。当掲示板の守谷健二氏もこの多数説をベースに、新しい考察を加えようとしている、と理解している。

 私、伊藤はこの多数説に異論を唱えようと思う。少し素直な考えではないかもしれないが、議論のサンドバッグにでもしてもらえれば本望。まず、結論だけを簡潔に述べる。

(1)日本書紀は、海外向けとみせかけた、国内有力豪族向けに、天皇家(天智・天武両方)の正統性を刷り込むために、作成されたプロパガンダ文書である。その目的のために、白村江の敗戦で滅んだ、九州北部の「倭国」の歴史も、「大和国」の歴史として取り込んでいる。

(2)古事記は、ほぼ30年に1回開催された、日本書紀の勉強会(日本書紀講莚:にほんしょきこうえん)の講師を務めてきた多氏(おおのし)が作成した、「講義シナリオ、あんちょこ」である。ほかに講義テキスト(日本書紀私記)も作成している。

 伊藤睦月です。「倭国」、「大和国」は、副島隆彦先生の表記。。副島先生は「山門国」としたが、山門という地名は全国にあるが、副島説によると、奈良盆地にある「山門国」だけが、「大和」と名乗ったという。他と区別するため、「大和国」という表記を使用する。山門から大和への国名変更時期については、別に考察する。

伊藤睦月です。次回から、「日本書紀の正体」について考察します。(少し肩コッタ)

小休止 以上、伊藤睦月筆

伊藤 投稿日:2024/12/26 14:50

【563】ブレイク:旧唐書より、新唐書推し、なのはどうやら私だけらしい。(5)新唐書の価値

伊藤睦月です。

  本稿では、『倭国伝 中国正史に描かれた日本』(講談社学術文庫2010年)を使用します。

 (1)私が考える新唐書の価値は、新唐書で、「天皇」号の使用が初めて認められた、ということです。つまり、「日本」号の使用=日本建国は、661年(岡田・副島)もしくは、702年(学会多数)。「天皇」号使用は、国内では、671年(近江令)、中国公認は、1061年(新唐書日本伝への記載)、ということになります。この指摘はおそらく私が日本初です。(汗)

(2)そのきっかけは、984年、東大寺学僧の奝然(ちょうねん)が、北宋太宗皇帝に謁見した時に、「日本王の年代記」の献上に成功したことです。この年代記は、日本書紀の「帝紀」(王の系譜を記したもの)にあたるものと思われます。(日本書紀自体は献上されなかったろう論は別に述べます)奝然の存在は、守谷健二氏の指摘で知りました。「宋史日本国」の冒頭近くに、明記されています。

(3)いままで、高校教科書では、「日本」と「天皇」がいつ使われたかについて、「日本」は明確に示しているのに、「天皇」については、記載がないか、あいまいでした。それで、「日本」号が認められたのと同時だと、私は思っていました。

(4)東洋史学会では、1980年代から、歴代遣唐使は、「天皇」ではなくて、「日本国王主明楽美御徳」(スメラミコト)と自分で名乗り、唐側からもそう命名されていたこと、「日本国王」は「日本国皇」と中国からの国書を書き換えていた事実を指摘していましたが、日本史学会の採用にはならなかったようです。(2010年代になってようやくその事実を認めたようだ。そのうち、教科書の記述もそうなるだろう)

(5)なぜそうだったかの説明は今までの投稿をみていただきたいが、簡単に言うと、702年、第7回遣唐使、粟田真人が謁見した中国皇帝は、「天皇」号を自ら名乗った則天武后だったので、天皇とは名乗れず、天皇以前の倭王の尊称であった「スメラミコト」を名乗らざるを得なかった。それが、唐の滅亡まで続いた、ということ。

(6)では、その部分を引用する。

  その王の姓は、阿毎(あめ)氏、自ら言う。初主は天御中主(あめのみかぬし)と号し、・・・神武立ち、更(あらた)めて、天皇を以って号となし、治(ち)を大和州(やまとしゅう)に徒(うつ)す。・・・以下略。

(7)伊藤睦月です。この「天皇」という2文字を入れてもらうのに、400年かかったということ。当時の日本は、藤原道長の全盛期に当たる。

(8)ちなみに、旧唐書日本伝の価値は、

 今まで朝貢していた「倭国」とは別種の国である国(山門国:副島説)が「日本」という国号で、唐帝国に認められた。ことです。ほかの記事はどうでもよろし。

 なお、日本(山門国)が倭国の地を併合したと主張したが、怪しまれ、新唐書では、逆に倭国に併合されたのではないか、と言われて反論できなかった記事もあるが、とにかく、日本という国の存在を認められたことが、とてつもなく大きいのです。粟田真人はその功で、3位から1位に、後の、僧奝然が6位から、3位(東大寺別当)に大出世したのは、当然かと思います。

小休止、以上伊藤睦月筆

 

伊藤 投稿日:2024/12/26 10:05

【562】2054さんへ。あえて再反論。もちろん返事は期待しておりません。「小林信者」は敬意をこめて言っていたつもりですが、残念です。

 伊藤睦月です。2054さんへ。もちろん返信は結構です。

(1)騎馬民族の王=タシリヒコ=のちに聖徳太子と呼ばれる、と書いてあったように思います。

 ならば、タシリヒコ=聖徳太子、という等号の使い方は、論理的に正しいと、中1数学で習ったそのままを表現しただけです。それがなにか。

2)小林説が、卑弥呼を歴史上、3回も登場させたところに、違和感を持ちました。各回とも、1世紀近く間隔が離れているので、死んだ、と言う意味で3回とも殺された、と表現したのは、私の想像です。

 しかし、井沢元彦氏は、当時、発生した皆既日食で不安になった人々が、彼女を殺した、という説を発表していますし(私の記憶ですが)、シャーマンが死ぬときは天寿を全うすることはまれで、いけにえとして、殺されることが多い、という過去の読書経験(フレイザーなど)からする「持論」を述べたのですが、それほど、言われなければならないのですかね。

3)「考古学の問題は考古学で解決すべき問題だ」は、私の持論ではなく、佐原真という考古学者の発言です。(「騎馬民族はこなかった」NHKブックス)佐原については、先般投稿で紹介すみです。佐原は、江上の元祖・騎馬民族説(1948年発表)が、考古学の知見から出発しているのに、その後の考古学の進展状況を全くふまえないで、想像ばかりの物語を展開していることを、厳しく批判しました。「考古学の問題は考古学で」というテーゼは、私一人にとどまらず、佐原ひとりだけでなく、おそらくは、日本の考古学者全員の共通認識だと思います。彼ら全員に確かめなくてもわかります。

4)副島先生ですら3日かけた、というのは、余計なお世話だと思います。問題は何日かけたかではなく、その結果、副島先生の見解になにか変化が起きたかを確かめるのが大事です。

5)副島先生の投稿があったのは、2017年でしたっけ。斎川眞氏との共著、『天皇とは北極星である』の最終校正段階だったと、投稿からうかがえます。

 しかし、その天皇本でも、次作の『副島隆彦の歴史再発掘』でも、小林説には言及されていません。これが、現時点での副島先生の小林説に対する、「答え」だと思います。

 この「歴史再発掘」は、「今日のボヤキ」や「重掲」の投稿に加筆修正を加えて、本にまとめられたものだと思います。私は副島先生の投稿をずっと追いかけていましたからわかります。もし、小林説を一部でも取り入れたいなら、最終本でなくても、ぼやきなどへの投稿の段階でも、何等か追加の言及があったはず、それがないまま、新刊本が出され、それから、数年たっている。それは、なぜか。というところから、私の小林説の点検が始まりました。あえて、副島先生の見解を求めず、史料を読み、自分の頭で、あれこれ考える。それで、いつかの「答え合わせ」を楽しみにする。「副島推し」のだいご味、ここにあり、です。

  副島先生は、今現在、世界中すべてを相手に思想戦を闘っておられますので、答え合わせがいつになるかわかりませんが、それを待つのもまた一興、でございます。

6)最後に。2054さんねえ。あなたの大事な小林先生の、一番薄い本、でも一番重要な本、『古代倭王の正体』のあとがきもろくに読まないで、副島先生や私に批判がましい言葉をぶつけてくる、そういう暇があれば、改めて、小林先生の本を隅から隅まで読まれたら、いかがですか。

7)私も小林氏の9巻本、持っていますが、全巻読み通すつもりも、時間もありません。帯広告や、広告パンフレットが小林氏の見解をよくまとめてあるので、それを読めば、当面十分です。騎馬民族のことを語りながら、岡田英弘博士の本にほとんど触れない、このことをもって、小林説の正体見たり、です。本物に近づかない、ということを確認しただけで、私には、十分です。

以上です。2054さん、お疲れさまでした。

それでは、よいお年をお迎えください。

伊藤睦月拝

会員番号2054 投稿日:2024/12/26 07:48

【561】【545】【550】【551】における伊藤氏の投稿を全面的に批判します(最後の投稿とします)

2054です。【545】【550】【551】における伊藤氏の投稿を全面的に批判します。

今回が私の最後の投稿となります。
本掲示板において私は何度か投稿をしてまいりました。普段は本を読むだけですが、書き表すことで、私自身の思考を深めて整理することができ「すっきり」しました。
そのきっかけは伊藤氏の投稿によるものでした。その点で伊藤氏に感謝の念を持っております。

しかし、その伊藤氏への感謝の念と彼の言論内容はまったく別に考えます。
伊藤氏は、小林恵子の著作をろくに読みもしないで批判を展開しました。
その結果、(1)内容を理解できないままの内容批判と(2)内容にかかわらない印象操作に終始されました。

彼の投稿では、文脈上明らかに私を想定して、「小林信者」と決めつけ、かつ、何の事実の指摘もなく
「面白くない」と揶揄しています(私は誰の信者でもありません)。

これでは議論になりませんし、私自身が新たに学ぶことも期待できません。また、学問道場の諸兄に対して、お目汚しが過ぎる事態にならないか心配になりました。そのため、私(2054)は今後、伊藤氏とのやりとりは控えることにし、今後は本掲示板に投稿をしないことにします。

最後ですので(伊藤氏への一定の感謝の念を持ちつつ)伊藤氏による小林説批判の問題点を考察してまいります。「お目汚しになっているじゃん!」とツッコミを入れられる方もいるかもしれませんし(実際そうなんですが)最後の投稿としてご容赦ください。

 

(1)内容を理解できないままの内容批判について

 

(1-1)聖徳太子について

(【550】の投稿7)より:引用はじめ)
小林説については、例えば、『古代倭王の正体』の一番最後の文、「達頭(聖徳太子)は倭王タシリヒコとして、隋に送使し認知された」とあるように、「騎馬民族」というベールをはいでみれば、1960年代に、直木孝次郎、井上光貞、といった、日本史学会、考古学会の主流学説、「タシリヒコ=聖徳太子」とと結果的にはなんら変わらない
(引用終わり)

2054です。学会通説は「タシリヒコ=聖徳太子」、小林説は「タシリヒコ=聖徳太子=西突厥可汗達頭」ですから、そもそも全然違います。伊藤氏はなぜか「騎馬民族」というベールをはいでみれば、という条件を付加していますが、
騎馬民族征服説から「騎馬民族」を取り除いたら、何も残りません(笑)。
謎な条件付加ですが、仮にその条件だとしても騎馬民族の王=聖徳太子ですから、騎馬民族を取り除いたら、小林説は「タシリヒコ=取り除かれた条件=取り除かれた条件」となります。
結果だけみても、学会通説「タシリヒコ=聖徳太子」とは違います。
学会通説と小林説が同じとなれば、学会も小林恵子も驚嘆するでしょう。その全く違う見解を、謎な条件をくっつけて両者が「同じ」と言います。これは単なる詭弁です。

 

(1‐2)卑弥呼について

(【550】の投稿8)より:引用はじめ)
本来考古学の問題を「文献学で立証するなど、無理だったのだ。だから、卑弥呼を3回も登場させてその都度、殺したり、応神天皇と仁徳天皇(公開土王だそうだ)と親子対決をさせたり、しなければならなくなった。もちろん「真実は1つ」だから、小林説も「仮説」だが、それが、近代学問の大鉄則である「反証可能性」にかなうものなのか、「小林信者」の人たちに問いたい。

(引用終わり)

2054です。騎馬民族征服説を考古学の問題と決めつけているのは伊藤氏の持論で、それはご自由にすればいいと思います。しかし反対説を紹介するなら、正確にご紹介してください。
「卑弥呼を3回も登場させてその都度、殺したり」と言っていますが、そんな記述はどこにもありません。

①紀元前3~4Cの邪馬台国が奄美大島にあり卑弥呼はその大巫女だったこと(海洋貿易の衰退とともに形骸化)
➁紀元前1C頃、北上する異民族(大月氏:オオモノヌシ勢力)に拉致同然に出雲地方に連れ出されたこと
③3世紀に江南出身の卑弥呼が高句麗東川王に殺害されたこと

小林説での卑弥呼の変遷は、上記のような3点に集約できます。3世紀には卑弥呼は殺害されていますが、この1回です。伊藤氏は「3回も登場させて、その都度、殺す」と言っていますが、「殺す」というのが勢力の減退や政治的失墜まで含むのであれば、ギリギリ理解可能です。
しかし上記の雑駁な伊藤氏の説明では「本当に殺した」と思っていそうですし、そう読めます。表現としても不適切です。

近代学問の「反証可能性」を言い出す前に(そもそも歴史学における反証可能性の意味が理解できていないフシがありますが)、「他者の批判をするなら、正確に引用する」という最低限のマナーは固守していただかないと、議論になりません。

 

(1-3)応神天皇と仁徳天皇について

上記の引用からすると、応神天皇と仁徳天皇は「親子」で決まり!と伊藤氏は判断されているようです。しかしその根拠は書かれていません。「そんなの常識だ」とでもいいたげな文章になっています。

しかし、応神も仁徳も怪しい血脈の天皇ばかりで、とても万世一系が真実とは思えません。
『記紀』には親子とあるが、本当だろうか?というのが議論の出発点なんですよ。
それを本も読まずに「トンデモ」扱いしているのは、「副島隆彦はトンデモだ、非常識だ、読む価値なんてない」とわめく低能な人たちと同じ所為です。それでいいんですか?

ポイントは「本を読まずに」というところです。いいですか?副島先生でも3日もかけて精読してメモにまとめているのですよ。『古代倭王の正体』は簡単そうに見えますが、現代思潮新社のシリーズ本5~6冊分を圧縮していますので、ついていくのは至難です。最初に読むなら、現代思潮新社のシリーズのほうがおすすめです。

なお、小林説では、応神天皇から仁徳天皇にかけて「王位簒奪」があったとします。その根拠は『広開土王の諡は仁徳天皇』(現代思潮新社)に詳しいので、そちらをご参照ください。

 

(1‐4)まとめ

以上、3点ほど伊藤氏の誤読(読んでいない、あるいは理解不足)についてご紹介しました。
伊藤氏は江上説の「騎馬民族征服説」と小林説の相違もよくわかっていないようで、騎馬民族征服説の内容にはいっさい言及していません。おそらくよくわかっていないのでしょう。だから、「騎馬民族征服説=江上説」でその説は学会で否定された。小林説は騎馬民族征服説である、だから小林説は「否定された学説を今さら展開している遅れた人」扱いしたのでしょう(参照【550】の投稿6)。
私は何から何まで間違っていると思います。

 

(2)内容にかかわらない印象操作について

上記のように伊藤氏は小林説について内容を吟味して批判する点については、簡潔に過ぎ、雑な批判しかできませんでした。その反面、記述量が多く分厚い批判を展開したのは、内容以外の部分です。端的に言えば印象操作です。

枚挙にいとまがありませんが、いくつか例を挙げます。

「江上波夫に挨拶していない」
「小林恵子は考古学者を目指すべきだった」
「無用に戦線を広げた」
「支離滅裂になっている」
「三笠宮との交流をひけらかしている」
「相手にしない、などと、ほざいている」
「岡田博士の著書ですら恣意的にしか引用できない程度の学力」
「真偽のほどもわからないお寺の古文書を持ち出して、ごまかすな」

伊藤氏は、小林恵子について「騎馬民族民族説を唱える江上氏にあいさつもせず、文献学では証明不能な学説を、遅れて学会に紹介して無視され、学会に友達もおらず、単に皇族との交流を自慢して、支離滅裂の持論を、低能な学力で述べているトンデモ人物である」といっているわけです。

よくもまあ・・・本も読まずにこれだけ文句をつけられるものだなあ~と感心してしまいました。
印象操作の意図がなく、怒りにまかせてそういっているだけなのかもしれませんが、単に小林恵子がいかに「ごまかしの、ニセモノか」を非難しているだけで、小林説の言説の内容について具体的な批評・検討を加えていません。
刑訴法の「悪性格の立証」のようなもので、弊害が多く、真実発見につながらない「誰得?」な言論です。

無用に戦線を広げた、支離滅裂・・・、本もまともに読んでいない伊藤氏にはわかりませんよね?
恣意的にしか引用できない程度の学力って、ご自身はどうなんですか?
人様に学力がないと批判できるぐらい、伊藤氏は有能なんですか?
伊藤氏は小林恵子の学力がどうしてわかるんですか。
そして、それらを日記帳ではなく、パブリックスペースで披露しているのです。

なお、伊藤氏は「人の健康状態について言及・批判をすること」と「人の健康状態について言及すること」の区別がついていません。私は(副島先生も)人の健康状態について批判をしていません。一緒くたにしないでいただきたい。伊藤氏は、「人の健康状態について言及したうえで批判をすること」の品のなさがわからないのでしょうか。私は読んで気分の良いものではありません。

「白内障?そんなの理由にならないんだよ、レーザー治療しなよ、私の母もそうしたんだから」と学者さんをつかまえて批判することを、品が良いんだと強弁を続けられるなら、もうそれは、どうぞ。私は貴殿に失礼千万と言われることも構いません。

憎まれ口を言えるのも健康で元気な証です。いろいろ伊藤氏には上記で苦言を申しましたが、冒頭で申し上げたた通り、感謝もしています。私は伊藤氏の投稿を読むことはありませんが、本掲示板で活発に自論を展開し、ご自身にとって納得のいく通史を完成させることを願っています。