ふじむら掲示板
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Loginはこちら【556】誤値訂正
伊藤睦月です。前稿の下記の部分
②662年に、唐により高句麗が滅ぼされ、朝鮮半島北部からも「難民」が大量に流入した。
ですが、正→668年、でした。失礼しました。
以上、伊藤睦月拝
【555】「騎馬民族」ではなくて、「騎馬難民」が日本列島に押し寄せた。
伊藤睦月です。所論の繰り返しになるが、
(1)日本列島には、いわゆる「騎馬民族」(馬を取り入れた牧畜民:江上波夫の定義)は来なかった、もしくは非常に少数だった(江原眞ほか学会通説)
※以下は、伊藤の見解(ファンタジー)
(2)しかし、馬及び関連の文化はその担い手である部族、氏族らとともに、後漢末からいわゆる五胡十六国の侵入による、戦乱や殺戮等を逃れるため、大量の「難民」(副島理論)と化し、その一部が朝鮮半島や南西諸島を経由して、日本列島の各地(北部九州、出雲、越前、南西諸島)に流入した。(そのとき、戦闘行為はほとんどなかった、平和裏に流入した、というのが江上説。だから江上は、「騎馬民族征服」は自分の説じゃない、ドイツ人学者の説だと言い訳し、学会から喜ばれた)
(3)「騎馬難民」が日本列島に流入したのは、3世紀(後漢末)から5世紀(隋唐の建国)にわたる約300年間。間に「謎の4世紀」を含んでいる。画期は3回(以下加藤謙吉『渡来氏族の謎』2017年(祥伝社新書)による)
(3)ー1:1回目 4世紀末~5世紀初頭
①367年、高句麗の圧迫を受けた百済から、倭国へ救援要請。倭国、朝鮮出兵の口実を得る。
②369年、倭国と百済の連合軍が、高句麗に勝利。倭国、朝鮮半島南端の「伽耶(任那)」地域を勢力下に置く。
③391年~412年、新羅に侵攻した、倭国=百済連合軍に対し、新羅と同盟した、高句麗の広開土王が激突。これらの影響で、伽耶地方から大量の難民が出て、列島に流入。
④その間、400年頃、高句麗は中国北朝(北魏)に朝貢し、その対抗上413年、倭王讃が南朝(東晋)に朝貢している。
3-(2)2回目:5世紀後半~6世紀初頭
①475年、高句麗は、百済の首都漢城(現ソウル)を襲い、百済王を殺害。熊津(百済が滅亡するまで王都)に遷都。
②478年、倭王武が、南朝(宋)に朝貢し、上表文を提出。502年、宋武帝から、征東大将軍に柵封され、高句麗、新羅・伽耶などと戦ったり、百済に伽耶四郡を割譲するなどして、百済を支援した。その結果朝鮮半島での戦闘などがダラダラ続き、難民の流入が断続的に続いた。
③そのときに、主に近畿に流入した、騎馬技術を身に着けていた、伽耶難民(今来才伎:いまきのてひと)の組織化に成功した、ワカタケル(雄略大王)は、その軍事力をもって、対抗する有力豪族たちを圧倒し、畿内を中心とした「ヤマト政権」を確立した。
3-(3)7世紀後半
①660年 唐・新羅連合軍により、百済滅亡。亡命政権(余豊璋)を支援した、倭国(ヤマト王朝、九州王朝)が、663年、白村江の戦いで惨敗し、九州王朝は消滅、敗残兵とともに、旧百済の遺臣、新羅の圧迫から逃れた、百済全域からの「難民」が、九州北部に押し寄せた。
②662年に、唐により高句麗が滅ぼされ、朝鮮半島北部からも「難民」が大量に流入した。
③これら難民は、ヤマト王朝により、職能ごとに、氏族単位で組織化され、「帰化人」として、取り込まれた。
④その後は中国本土(唐の全盛期)や朝鮮半島(新羅の統一)における、政情安定化に伴い、難民の流入も落ち着いてきたものと考えられる。
⑤816年に成立した『新撰姓氏録』では、「諸蕃」(渡来系)326氏が登録されており、内訳(出身、出自別)は、漢(中国各王朝)163,百済104、高麗(高句麗)41,新羅9.任那(伽耶諸国)9で中国系が多いが、これは、本人たちの自己申告によるものであろうと、加藤は推測している。
4 伊藤睦月です。小林恵子説のような、ダイナミックな物語を作らなくとも、「帝国ー属国理論」の派生形である、「難民」理論をベースにすれば、「騎馬民族」なるものは、合理的に説明できる、と考える。
5 但し、海外では、傭兵化した難民が、その国を乗っ取ってしまうことが、ときたま、発生する(インドの奴隷王朝、イスラムのマムルーク朝など)ということが発生しているが、我が国の場合、どうだったか、については、結論を保留したい。
以上、伊藤睦月筆
【554】学会通説を確認しなければいけない不自由さ、を蹴とばす!
伊藤睦月です。本日は、2024年12月24日です。
私が、自他に対して、うるさいくらい「学会主流」「通説」にこだわっているのは、それらが好きだからでも、追随すべきと考えているのではない。そうしないと、せっかく自分の頭で考えたことであっても、通説とか少数説でもアカデミックの世界で、似たような見解があれば、そちらがオリジナルになる、というのが世間の掟だからだ。そして「通説の壁」を突破しないと、結局は「独りよがりの個人学説」になる。松本清張、矢切止夫、井沢元彦、そして副島隆彦先生、みなそういう世間の掟と闘い、オリジナリティを確保してきた人たちだと思う。小林恵子氏もそうだろう。だから敬意を持ちつつ、批判する。まあ、私のようなアマ初級者など歯牙にもかけていないだろうけど。それでもかまわない。客がいなくてもひたすら、場末の劇場でネタを出し続ける、売れない芸人のように、投稿するだけだ。(これ、副島先生のパクリ!)
それにしても、かつて、井沢元彦(逆説の日本史)が矢切止夫のことを取り上げていた。井沢は言う。
矢切が存命中はその先駆的な仮説には誰も見向きをしなかったくせに、本人が亡くなると、いつの間にか、「学会の通説」になっている。この日本の学問界の姑息さは許せない、と。私も早くそう言えるようになりたい。少なくともそれを目指したい。
という、固い口調は、これくらいにして、
吉村武彦(古田武彦とは別人)編「新版古代史の基礎知識」(2020年角川選書)という本がある。古代史のほとんどの論点の標準学説をコンパクトにまとめてあって、今現在の学者たちの多数派の見解を確認するのに便利だ。大体10年に1回くらいで改定されているようだ。値段も税別2100円と少しお高めだが、私はアマゾンの古本ショップで、1000円ほどで入手できた。これをみると、
1)厩戸皇子(聖徳太子)の標記は現状そのまま。大山誠一氏は、厩戸皇子=蘇我馬子説を「いつのまにか」となえている。学会に100条委員会はないのか。
2)法隆寺再建論争は、通説変更の可能性あり。(古田武彦説に接近している)
3)遣唐使では、「日本号」は使用できたが「天皇号」は、中国側に言えなかった(日中の外交関係は、対等という通説の事実上の変更)
※先を越されたなあ(ややおこ)
4)「騎馬民族」という語は一ミリも出てこない。(小林恵子先生、ガンバ!)
5)道教的信仰:苦しい言い訳をしているが、いまだ通説変更なし(下條竜夫さん、ガンバ!)
6)邪馬台国畿内説:まだ箸墓古墳を根拠としている。早晩、なしくずしに消えるだろう。安本美典説の勝利は近い。
7)古事記、日本書紀:記述が全くない。シメシメ。偽書説だけが論点じゃないのに。
などと、わが副島学派の歴史好きにとっては、色々突っ込みどころありますよ。
年末年始の暇つぶしにどうぞ。次の改定が楽しみだ。
また、類書に『万葉集の基礎知識』がありますよ。柿本人麻呂の正体についての標準見解も載ってます。
あ、それから、梅原猛『水底の歌』も少数説ながら無視できませんねえ。
老婆心ながら。
以上、伊藤睦月筆
【553】投稿文の移動、確認しました。大変ありがとうございました。
古村様
伊藤睦月、です。さきほど、誤って重掲にアップしてしまった拙稿の、ふじむら掲示板への移動、確認できました。年末のご多忙中のなか、ご対応いただき、まことにありがとうございました。
今後、重掲や、ぼやきに、掲載していただけるような投稿ができるよう、精進いたしますので、今後ともどうぞご指導、ご鞭撻、よろしくお願いします。
取り急ぎ、御礼まで。
追伸:佐藤優氏との対談本、拝読いたしました。お互いがかけあいで、難しい言葉をかみ砕いて、副島読者に通じる言葉で、示していただいている様、勉強になりました。この対談がシリーズになるとよいですね。
時節柄、ご自愛ください。
伊藤睦月拝
【552】2026年大河ドラマは、「豊臣兄弟」でした。
伊藤睦月です。2026年大河ドラマのタイトルは、「豊臣兄弟」でした。2024年3月に制作発表されていました。豊臣秀吉の弟、豊臣秀長が主人公です。
主演は、中野太賀(なかのたいが)朝ドラ「虎に翼」のヒロインの夫役の俳優です。ほかにも男女問わず、ここ1、2年の朝ドラ出演俳優がキャスティングされるようです。あれ、そしたら、来年4月の朝ドラ俳優の中から・・・
大河ドラマはNHK=政府のある種の世論操作だと思っていますので、今度はどんな狙いがあるのかな?
その誘導に乗って、関連本買ってしまいそう。「蔦屋重三郎」関係でも、すでに5冊になりました。完全なカモ、です。あやつられています。(苦笑)
明智光秀役はまだ決まっていないようですが、かたせ2号さんの構想に合うような配役、ストーリー展開に少しでも近づくと、良いなー。
取り急ぎ、ご注進。伊藤睦月筆。
【551】私の冬休みの課題図書、ただ今検討中、読んだら、感想文を投稿します。
伊藤睦月です。かたせ2号さん。ハブ名人の話、激しく同意です。「光速の寄せ」のタニガワ名人や財テクに失敗した、ヨネナガ王将も好きですが、ヨネナガ王将すでに亡く、タニガワ名人もフジイ「アバター」名人にヒヨッテいるようなので、我ら「アナログ人間の星」はハブ名人だけ。ハブニラミ、ガンバレー!!!
というわけで、年末年始は好きな本に埋もれて過ごしたい、と思います。少なくとも、小林恵子氏のファンタジーもそのファンの方のお話も面白くない。
中央アジアを席巻した、騎馬民族興亡史の派生形としての日本古代史というのなら、岡田英弘先生や西嶋定生先生は最低限チェックしなければいけないのに、「一般向けだから、恣意的に引用して、正当性を証明すればよい」とは、小林先生、岡田先生、西嶋先生に失礼だろう。それに引用文献も十分とは、一般読者で、あれだけの文献をチェックできる人はいないだろう、と読者をナメテいるとしか思えない。
ついでに言えば、小林恵子氏は、古代日本語、古代中国語、古代朝鮮語、に通じているが、日本古代史の学者はそれに通じていないので、相手にしない、などと、ほざいているが、「相手にされない」の間違いではないのか。
なぜなら、小林氏の『古代倭王の正体』にでてくる、騎馬民族の王族たちは、中国語や朝鮮語、ではなく、突厥語、ウラルアルタイ語、満州語、モンゴル語、などを使用していたと思われるが、それらの文献とか、関連研究からの引用がない、というのはどういうことか。
先に答えを言っておくと、これら騎馬民族たちの言葉、文字による史料は「オルホン碑文」という、モンゴルウランバートルの郊外(といっても350キロほど!)で発見された突厥語の碑文が最古で、8世紀中期以降ものと国際学会認定されている。(その後、世界遺産認定された)朝鮮半島でいえば「広開土王の碑」みたいなものだ。
つまり、騎馬民族の時代(謎の4世紀)から400年後、聖徳太子の時代からも、200年ほど後の史料だ。
この碑文は、東突厥語で書かれているため、それを解読するためには、突厥語を読めなくてはならない。また、この碑文の研究は欧米が先行しているため、英語、フランス語、ドイツ語の研究論文を参照しなければいけない。
日本では、岡田英弘博士の研究が最先端だ。小林氏はそれらの文献を参照したのか。岡田博士の著書ですら恣意的にしか引用できない程度の学力で。
結局は、小林氏が依拠する史料は「旧唐書」「冊府元亀」などの中国語文献だ。「三国史記」も漢文で書かれている。完成したのは平安時代の藤原道長より後の時代だ。小林氏が小ばかにしている、日本古代史の学者たちと比べて大差ない、というか、彼らの方が、日本書紀などの、日本史料を参照しているだけ、まだましだ。「冊府元亀」で足りないからと言って、真偽のほどもわからないお寺の古文書を持ち出して、ごまかすな。
以上、せっかく、かたせさんがなだめてくれているのに、エキサイトしてしまった。もうしわけない。かたせさん、もっと楽しい投稿で、私のささくれだった心、いやしてほしい。また、ご推薦の本があればぜひ紹介お願いします。
以上、伊藤睦月筆
【550】「騎馬民族王朝征服説」は存在しないことになっていた。
伊藤睦月です。今更なんですが、実は「日本考古学会」の中では、現時点では、「騎馬民族王朝征服説」は存在しないことになっている。この一点だけを紹介する。そして小林恵子説は、本来「考古学」の問題を「歴史学(文献史学)」の問題として、論じようとしたが、成功しているとはいいがたい、というか、無理がある。考古学の問題は考古学で解決すべき問題。小林氏の立論は土台から間違っている、しかし、仮説としては否定しない、と私、伊藤はあえて断言します。
1)「騎馬民族王朝征服説」は、東大系の考古学者、江上波夫(1906年-2002年)により、提唱され、大変評判になった。戦後歴史ブームの一端を担った。
2)江上説の発表後、日本考古学会のほぼ全員の研究者は、それぞれの理由で、反対を表明したが、江上は、一般向けのPR活動を積極的に展開し、学会は否定しているので、世間一般では、「多数説扱いになる」という、ある種の「ねじれ現象」が発生した。
3)日本考古学会を代表する形で、江上に私淑していた関西系学者の佐原眞(1932-2002、当時奈良国立文化財研究所研究指導部長、吉野ケ里遺跡発掘チームのリーダー、生涯、邪馬台国畿内論者だった)が、江上と論争し、ついに江上の口から、「『騎馬民族』『征服説』は、11世紀の契丹帝国の研究をした、ドイツの歴史学者が唱えた説、コンセプトで自分の説ではない、との発言を引き出した。その対談の様子は、江上本人の了解のもと、『騎馬民族は来た!?来ない?!』1990年(小学館)という本にまとめられた。学会側としたら、これで、「騎馬民族征服説」は提唱者自ら否定した、問題解決、となるはずだった。
4)しかし、その後も、江上は、一般向けのPRを辞めず、1991年に文化勲章を受章すると、「これで騎馬民族王朝征服説」は国家公認の学説となった(佐原による)」と公言するなど、「ねじれ現象」は続くことになる。
5)以上を踏まえ、佐原眞は、「騎馬民族征服説」への批判、反論をまとめた、『騎馬民族は来なかった』(1993年NHKブックス)を発表し、「かつて騎馬民族征服王朝説という仮説があった」と宣言し、学会的にはこれで終わり、ということになっているらしい。
6)伊藤睦月、です。おそらく、この佐原本発表の後、小林恵子が持論を公にしだしたのだろう。それで、日本考古学会はもちろん、日本史学会からも、「黙殺されたものと」、私、伊藤は推測しています。ことの是非は別です。
7)では、小林説については、例えば、『古代倭王の正体』の一番最後の文、「達頭(聖徳太子)は倭王タシリヒコとして、随に送使し認知された」とあるように、「騎馬民族」というベールをはいでみれば、1960年代に、直木孝次郎、井上光貞、といった、日本史学会、考古学会の主流学説、「タシリヒコ=聖徳太子」とと結果的にはなんら変わらない。(当時の学会通説は、「日本の歴史1、2」(中公文庫)にまとめられ、一般人であっても容易に入手できる)
8)思うに、1960年代といえば、小林恵子氏が学生として、研究生として勉強を開始した時期であろう、人は無意識のうちに若いころに刷り込まれた「既成概念に支配される」ものだ。(ケインズ)小林氏も若いころに江上説に感動し、この分野の専門家を志したそうだが、それなら、文献学者でなくて、考古学者を目指すべきだったのだ。結局は60年前の亡霊にとらわれることになった。これは言い過ぎだとは決して思わない。本来考古学の問題を「文献学で立証するなど、無理だったのだ。だから、卑弥呼を3回も登場させてその都度、殺したり、、応神天皇と仁徳天皇(公開土王だそうだ)と親子対決をさせたり、しなければならなくなった。もちろん「真実は1つ」だから、小林説も「仮説」だが、それが、近代学問の大鉄則である「反証可能性」にかなうものなのか、「小林信者」の人たちに問いたい。
9)江上説が現在まで一般向けに、生き残っているのは、「騎馬民族」という言葉から醸し出させるエキゾチックなイメージ、手塚治虫(火の鳥大和編)、黒澤明(影武者に出てくる武田騎馬隊)、ハリウッド(ラストサムライ)のイメージ、特に「集団密集隊形で突撃する武田騎馬隊」のイメージは、大河ドラマにおいても繰り返し、日本国民に刷り込まれ、副島先生も各所で批判されている。それと、対談集でもわかるが、論敵の佐原眞をも魅了する、江上の「人間力」にある、と私伊藤は考えます。
10)では、今後どうするか。それは副島先生が各所で発言されているが、「宮内庁管轄の全国の古墳や遺跡、遺物をすべて公開して、伝統的な手法に加え、最新の科学的手法も交え、分析調査すれば」小林説の成否もある程度明らかになるだろう。これは、「政治」の問題だ。
11)「騎馬民族王朝征服説」は戦前のアジア学による騎馬民族研究と、日本国内における「謎の四世紀」の考古学成果を合体させたものであり、戦後世代の研究者がもちえなかったスケール感がある。そして、当時の「歴史暗黒時代:謎の4世紀」の解明に焦点を絞った、江上波夫はクレバーな学者だと思う。文化勲章を受けるだけのことはある。無用に戦線を広げて(紀元前2世紀から8世紀まで)支離滅裂になっている、小林氏とは大違いだ。
12)私が、小林恵子氏に疑問を持ったのは、江上波夫氏との交流の話が出ない、と気づいた時だ。小林氏は若いころに、江上説にふれ、研究者の道を決意したという。それなら、なぜ東大に行って江上の弟子にならない。東大に入れなかったとしても、大学院からなら、まだ入れたかもしれない。実際佐原眞は、京都大学に3回落ちたので、大学院から入ったそうだ。日本考古学会や日本史学会などで接触する機会はいくらでもあったろう。最低でも自著を江上に贈呈していたはずだ。それに対する江上の反応はどうだったのだろう。今に伝えられる江上の人間性からみて、お礼状一つよこさないような、傲慢な、お偉いさんとは思えないのだが。彼女の著書は最初「文芸春秋社」から発刊されている。新聞広告も少なくとも1回はやったはずだ。江上の目に留まらなかったとは思いにくい。業績評価とは直接関係のない、三笠宮との交流をひけらかす前に、江上やほかの有識者との交流実態を教えてもらいたい。いまさらであっても、学会のたこつぼ体質を批判することになってもよいではないか。高齢の身なら、何を畏れることがあろう。
13)正直、私は小林説に関心を失いつつある。今アマゾンで、「小林恵子 日本古代史シリーズ全9巻」を注文中だが、このままでは、届いても、読む前に、「ブックオフ送り」になる可能性が高い。なんか自分がやるせない。
以上、伊藤睦月筆。
【549】三角縁神獣鏡について
2054です。今回は三角縁神獣鏡について考察いたします。
(1)学会の見解について
三角縁神獣鏡については、邪馬台国の卑弥呼が魏から賜与された鏡であるとの見解が有力で、三角縁神獣鏡を邪馬台国が独占的に入手し、卑弥呼の晩年から初期のヤマト政権が誕生する数十年にわたって「王権の威信材」として継続的に利用されたとします(福永伸哉『三角縁神獣鏡とヤマト政権の形成』、日本史の現在1考古・山川出版社p139)。
学会内では魏で作られた鏡とする通説(魏鏡説)と日本製鏡とする説(日本製説)に争いがありますが、三角縁神獣鏡は畿内において圧倒的に多く出土されており、魏の年号を用いた鏡も島根県雲南市で出土しています。そのため、「もし仮に日本製だとしても、年号などから卑弥呼が魏から賜った鏡として配られたことは明らかだから中心が畿内にあることは動かないだろう」(大津透、日本の歴史1 講談社学術文庫 電子書籍版:8/100%)とします。卑弥呼は畿内に所在することは「明らか」とするわけです。今回はこれらの見解を学会の通説として考察をしてみたいと思います。
(2)魏から出土されない鏡
三角縁神獣鏡は上記のように「魏から送られた鏡」とすれば、不思議なことに魏の領域から1枚も出土されません。このことは学会通説も認めざるを得ない事実です。日本からは数百枚以上の出土があり、日本特有の鏡です。魏の皇帝が邪馬台国に渡した銅鏡とすれば不思議なことです。そのため、学会内では、「それ見たことか、あんな鏡は日本列島で作った模倣品なんだよ」(日本製説)や「いいや、魏の皇帝が普段は作らない三角縁神獣鏡を特注して渡したのだ」(魏鏡説)その他もろもろの百家争鳴状態が続いているようです。
(3)私見について
2054です。結論を先に申し上げると、三角縁神獣鏡は「卑弥呼が魏から賜った鏡」ではなく、邪馬台国が独占的に入手していたものでもありません。「高句麗が製作して東倭が受け取った鏡」と考えられます。その根拠を何点かあげます。
(3‐1)まず三角縁神獣鏡の「送り手:作り手」についてですが、魏でも日本列島でもない「第三の候補」が無視されてきました。戦前の先行研究に梅原末治『増補鑑鏡の研究』(1925年)があり、それを参考文献に挙げる白崎昭一郎『方格規矩鏡と三角縁神獣鏡の関係』東アジアの古代文化94号(1998年)によれば、中国東北部や北部朝鮮では、三角縁神獣鏡そのものは出土していませんが、三角縁神獣鏡の源流をなす祖型の鏡は、出土しているとのこと。つまり高句麗や公孫氏など、魏以外の国でも三角縁神獣鏡を製作している可能性があるわけです。
(3‐2)つぎに三角縁神獣鏡の「受け取り手」ですが、邪馬台国と決めつけているのは、その当時に中国大陸と交渉しているのは邪馬台国しかないという「決めつけ」によります。そもそも論ですが、その点が誤っています。出土している地域を見れば、東倭が受け取っていることが想定されます。
魏の青龍三(235)年の年号の入った方格規矩四神鏡が出土したのは京都府弥栄町(丹後半島)で、景初四(239)年の年号の入った三角縁神獣鏡は京都府福知山市から出土しています。いずれも邪馬台国の支配領域ではなく、東倭の本拠地です。特に240年正月に東倭は魏に朝貢しています。この東倭の使者は高句麗を経由していますので、福知山市で出土の鏡は、そのときに高句麗から受け取ったものと考えられます。
(3‐3)邪馬台国が畿内にあるとするいわゆる畿内説(学会通説)は、三角縁神獣鏡が畿内で多く発見されることを有力な根拠として、邪馬台国の畿内説は揺るがないと考えているようです。そして、「三角縁神獣鏡を利用した王権の政治活動は、卑弥呼晩年の240年代頃から初期ヤマト政権段階の数十年にわたって継続したと理解できる」と結論付けています(福永伸哉、同掲書p139)。
しかし小林説では、邪馬台国は北九州にありましたがその邪馬台国は高句麗東川王によって滅ぼされており、また、三角縁神獣鏡とも無関係とします。高句麗東川王は近畿地方に東遷して「大倭(やまと)政権」を樹立しますので、近畿地方に多く集中するのは当然の成り行きです。
(引用はじめ:小林恵子『古代倭王の正体』祥伝社新書p114~116)
早い時期の三角縁神獣鏡には「陳氏作鏡」という銘の付いたものがある。また 銅は徐州から出、師は洛陽から出たと刻された鏡もある。つまりは鏡本体の銅も中 国産、製作者も中国出身なのだが、この形の鏡は中国には一枚もないといわれている。遼東・半島でも出土したという話は聞かない。したがって魏が卑弥呼のために特注したという説が一般的である。しかも、この鏡が大和地方で多く発見されていることから邪馬台国近畿説の有力な証拠とされている。しかし私は、卑弥呼の鏡は前にも述べたように江南の呪術師の持つ内行花文鏡と考えている。
三角縁神獣鏡が列島にしか存在しない理由は、神武がまだ高句麗王だった時代から鏡好きの列島の小国に高句麗支配のしるしとして贈ったからと考える。
刻印の文からみても景初三(239)年という早い時期の三角縁神獣鏡ですら、まったく韻文になっていないので中国産ということはありえないという意見がある。特に魏では韻文で詩を書くのが流行していた時代である。東川王は銅を徐州から取り寄せ、鏡製作者を魏の都洛陽から呼び寄せたが、鏡の韻を注意するような漢人の側近はいなかったらしい。
神武勢力は、東遷して大和地方に入ってからも各地に支配のしるしとして三角縁神獣鏡を配った。三角縁神獣鏡は神武勢の定着した近畿地方で最も多く出土するのは当然なのである。ということは東川王が列島に渡るに際して、鏡製作者と銅を伴っていたと推定される。
(引用おわり)
2054です。小林説による240年代~260年代の政治動向を上画像にまとめました。
【519】仮綬の意味について(2024/12/08 08:46投稿)と【521】東川王の東遷(神武東遷)について(2024/12/09 06:12投稿)と説明が重複しますがご容赦ください。
魏の毌丘倹・王頎によって圧迫された高句麗東川王は、活路を日本列島に求めます。247年に邪馬台国を急襲、卑弥呼を殺害して倭王を僭称します。
九州の土着勢力の反発もあり、近畿地方に向けて東遷します。7年間安芸に滞在し、255年の毌丘倹勢力の没落を機に吉備を征服。その間に東川王も死去します。備前車塚古墳(岡山県)は初期の三角縁神獣鏡が集中して陪葬されており、東川王(神武天皇)の墓と考えられます。
そして神武天皇の息子である神渟名川耳(かみぬなかわみみ)が265年までに近畿地方を征服し、266年正月に綏靖天皇として即位します。これが大倭(ヤマト)政権で、全国各地の土着勢力を支配する際には三角縁神獣鏡を配布したものと思われます。
なお、余談ですが、魏志倭人伝を著した陳寿は、上記のような神武東遷の事実もある程度、把握していたものと推察されます。それが「大倭」を魏志倭人伝に記した理由と考えられます。
【548】ワタシは、将棋の羽生善治先生の人間性推しです
ワタシは、将棋の羽生善治先生の人間性推しです、の件。
かたせ2号です。
ワタシは、将棋の羽生善治先生の人間性が大好きです。
その理由を書いておきます。
(1) これは前フリです_幼年期のエピソード
小学生時代、将棋会場にいる羽生さんがすぐに見分けがつくように、ご両親が羽生さんに広島東洋カープの赤い帽子(目立つ色)をかぶせていた。たしかに、いい目印ですね (^o^)
「広島東洋カープの帽子をかぶって将棋盤に向かう小学3年の羽生善治九段=1979年暮れから1980年3月頃」の写真が以下のリンクに表示されています。毎日新聞サイト。
https://mainichi.jp/articles/20230203/k00/00m/040/224000c
(2) 最近のエピソード(2023年10月20日)
記事名「全八冠独占」の藤井聡太八冠と、「七冠制覇」当時の羽生善治会長、どっちが強い?羽生さんの意外な答え|TBS NEWS DIG
(一部文字起こし開始)
質問「27年前の羽生7冠と今の藤井8冠が対局したら、どっちが強いでしょうか」
羽生善治さん「アッハハハ、全然かなわないですけど、全くかなわないです」
(一部文字起こし終わり)
かたせ2号です。
以下にこの動画についていたコメントの一部を記載します。
・笑って全然敵わないですって普通に言えることにこの人の強さと優しさが出てると思う。
・将棋界の伝説と言える現会長が30歳以上も下の21歳の藤井さんに笑顔でこれが言えるのどれだけ凄いことか。カッコ良すぎるわ
・羽生さんはただの七冠ではない永世七冠
藤井八冠も史上初の八冠で凄まじいし、いずれ永世八冠になるんだろうけど、羽生さんの偉大さはまだまだ色褪せることがない
・羽生さんは偉ぶる事もなくユーモアもあって本当に素晴らしい人柄だよな~
・年下や後進を笑顔で即答、持ち上げれる先輩ほど人が出来た人はいない。これが本当の人間の鑑。どんなタイトルや称号も敵わない。
・敵わないって言える人ってほんとに強いひとだよね。羽生さんすごい
・羽生さんにもプライドあると思うけど、そこであえて、しかも笑顔でかなわないって言えるのは、もう神様にしか見えない
・羽生さんの穏やかな表情からは想像も付かない気の強さは有名ですよね
・偉大な人ってその界隈を詳しく知らなくても凄い人なのが伝わる。羽生先生素敵です
・謙虚なのが良い、しかも建前じゃなく、短い動画の中にも人柄の良さ出てる
・素敵すぎる。人柄でも国民栄誉賞だよ。
・羽生さんのように年下の人にも敬意を示せる人間になりたいですね
かたせ2号です。ワタシも上記のコメントに同意します。
漫画界の至宝である手塚治虫先生にも、こういう感じでいてほしかったですねえ。
さて、話が脱線しました。。。
(3) ワタシは将棋のルールは知ってはいますが、まったく将棋は弱く、詰将棋も3手詰めが限度の人間です。そんなわたしでも、以下の羽生善治先生の発言は、「すごいなこの人」とわかった発言があったので紹介しておきます。羽生善治さんが、本当に楽しそうにしょべっている動画なので、この動画はワタシのお気に入りです。
羽生善治九段が水曜どうでしょうについて語るまさかの映像 (2022年10月30日)
(一部文字起こし開始) (7分25秒ころから)
自分が描いた構想とかプランどおりにやるというのは、あまりいい手ではないことが多くてですね、
なんでも好きなようにやってくださいよ、という感じで(対局相手に)手を渡せる方がいい手であることの方が多いです
(一部文字起こし終わり)
かたせ2号です。
いいコメントなので、とても参考になりました。
上の上の上のレベルの戦いというのは、こういうのでやってるのかと、すごく勉強になったように、ワタシには思えました。
以上
【547】小林説が、正当性を証明すべきで、2054氏は勘違いしているのではないか。
伊藤睦月です。これから騎馬民族征服王朝説の検証をやっていくことになるが、一つ注意しておきたいのは、本来は、正当性を証明しないといけないのが、江上=小林側であること、です。私が学会主流の見解に注目しているのは、それが、わが国の公式見解だからだ。その公式見解を否定修正しようとするのだから(多数説でなくても、少数説のなかに真実があると主張するのだから)まずは多数説が何かを見極め、その問題点を吟味検討したうえで、必要があれば、自説を通説の代替案にして提示する。その点小林説は多数説でもなんでもありません。今のままでは単なる独りよがりの個人学説です。それを少しでも残念に思うなら、一般向けだから、とか言い訳しないで、小林説で、学会通説を正々堂々と論破してみせてください。2054氏が「小林推し」なら、「副島推し」「岡田推し」の伊藤に対し「小林本をゆっくり読んで、やってください」などと、寝言を言ってる余裕はないはずです。私に上から目線で「ご指導いただく」前に、まず、2054氏が、副島先生をうならせるような、小林説の論考を投稿したらどうですか。私は自分の推しの正当性をどうやって証明しようか、どうやったら副島先生が一目置いてくれるような論考が書けるか、常に思案しています。でもこれは副島先生を含む、他人から指示、指導されてそうやっているのではありません。自分で決めて、勝手にやっていることですから、他人から、とやかくいわれるいわれはありません。失礼にもほどがある。2054氏は何様のつもりだ。ご自身の立ち位置がわかっていないのではないか。
以上、伊藤睦月筆