ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
伊藤 投稿日:2024/10/07 12:56

【442】学問ごっこ、上等。

 伊藤睦月です。そういえば、20年前も守谷君みたいな言葉を私にぶつけてきた会員さんがいたな。いつの間にか学問道場から、いなくなったな。私程度の「学問ごっこ」にもついてこれない、ひとりよがりのたわごとなど、なにほどのものか。

 それでも、私にとって、守谷君の投稿がきっかけで、関連資料を勉強するきっかけとなったので、そういう意味では、守谷君の投稿に感謝しています。本当にいじりがいのあるひとだな、「中二病君」。

 だから、中二病君の反応いかんにかかわらず、投稿はしますので、関心ある方はご高覧いただき、適切なご指摘いただければ、幸いです。(そのときは、「ふじむら掲示板」にお願いします。)

 最後に、中二病君、君が「重たい掲示板」に投稿するなんて、百年早い、と「学問ごっこ」のおっさんは思います。投稿はまたのちほど。

以上伊藤睦月拝

守谷 健二 投稿日:2024/10/07 07:57

【441】伊藤君は、君は馬鹿か?少しは自分の頭で考えろ!

守谷健二です。

君と学問ごっこする気はない。そんな体力も時間も持ち合わせていない。

伊藤 投稿日:2024/10/06 16:06

【440】思いて学ばざれば、すなわちあやうし(9)古事記偽書論争を概観する(6)(その後の顛末;国語学者の自己批判?)

(43)伊藤睦月です。今回は、守谷君が古事記本物論の唯一の論拠である、大野晋「日本語はいかに成立したか」など、国語学の分野において、異変が起きているらしい。これに関する三浦佑之の説明を紹介する。

(44)(引用開始)・・・ここ数十年のあいだに木簡類の発掘が膨大に集積され、その結果、近年になって日本語の表記に関する考えが根底的に変化したのではないかと思うからです。日本列島に渡来した文字の使用について、従来の、純漢文体の使用を経て変体漢文や音仮名表記の用法が可能になったという表記史の流れは、否定されてしまいました。「日本語の文を書くための基礎技術はな7世紀のうちに開発済みであった」(犬飼隆「文字から見た古事記」)というのですから、古事記の変体漢文がいつ書かれたのかという認識の幅は、以前では考えられないほど広くなったのです。

 (45)テキスト研究を通して古事記研究をけん引してきた神野志隆光(こうのしたかみつ1946-東大大学大学院教授)でさえ、従来の文字表記史を「自己批判」せざるをえなくなりました。(「漢字テキストとしての古事記」2007年東京大学出版会)。これはとても大きな出来事ではなかったかと私にはおもえます。ことは日本語をどのように書くかという日本語表記史の根幹にかかわる前提が崩壊したといってもよいのですから。それを古事記に限定していえば、古事記の表記がどのように成立したかという道筋が、根源からくずれてしまったわけです。(三浦佑之「古事記を読み直す」282頁 2010年ちくま新書)(以上、引用終わり)

(46)伊藤睦月です。では神志野が「自己批判した」と三浦が指摘した部分を、その著書から引用する。少し長くなるが、大事なところ、日本国語学史上、「歴史的発言」といっても過言ではない部分なので、ついてきてください。(三浦は、ページ数まで明記していなので、てこずったが、私が該当部分と思うところを記す。専門家のご指摘を期待する)

(47)(引用開始)2「古語」「古伝」という根拠と「誦習」

(稗田)阿礼は、「古語」を伝え、「古伝」を保持した人ではなかったのかと、問われるかもしれません。いまも、そうした阿礼のイメージは強いと思われます。伝えられた「古語」「古伝」というとらわれから離れるために、この「誦習」の問題に相対さなければなりません。

(古事記)序文は、「稗田阿礼が誦める勅語の旧辞を撰ひ録して献上れ(たてまつれ)とのりたまへば、謹みて詔勅の随(まま)に、子細に採りひりひつ。しかれども、上古の時、言と意と並びに朴にして、文を敷き句を構ふること、字においてはすなわち難し」といい、安万侶の書くことが、阿礼の「誦習」を受けたものとして言われているのですから、本居宣長が(中略)『古事記』に「上代の意言」を見るべきだという立場がここに確立させましょう。

「誦習」は、字義としては文献によって誦することの繰り返しの謂いであり、安万侶の述べるところ、すでに「記載」された本文があり、阿礼はこれに沿って正しい「よみ」を伝えたことになります。(小島憲之「上代日本文学と中国文学 上』塙書房1962年)文字テキストはあったのです。そのよみが阿礼の役割です。語り部のような、ただ「古伝」を伝えた人として、序文自体からして、言っているわけではないのです。まず、このことをはっきりさせましょう。

(以上、引用終わり。『漢字テキストとしての古事記』178-179頁))

伊藤睦月です。稗田阿礼は、まだ文字のなかった時代の物語を超人的な記憶力で語りつくし、それを太安万侶が聞き取って、文字に直した、と思い込んでいたのは、私だけ?故大和和雄や三浦佑之たちって、よほど器量が大きいのかな。それにしても1962年とはひどすぎる、とは素人ながら思います。

気持ちを落ち着かせるため、小休止します。

以上、伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2024/10/06 08:58

【439】思いて学ばざれば、すなわちあやうし(8)古事記偽書論争を概観する(5)(その後の顛末:古事記本物説の現在)

(35)伊藤睦月です。では、古事記本物説の代表者の見解を紹介する。なお、この古事記偽書論争は、現在では「古事記成立論」の文脈で語られることが多いらしい。

(36)(引用開始)古事記には上表文がある。これによって編纂の経緯に具体的な手がかりがあたえられるが、反面、あやういところもある。(上表文の)解釈いかんによって成立の問題が大きく左右されるからだ。まして上表文に疑いがあれば、解釈そのものが無効になりかねない。

 (37)古事記の成立論は、上表文の信ぴょう性を問うことから始めなければならない。その点で古事記偽書説の果たした役割は大きかったといえよう。上表文の真偽をめぐる論争は、そのまま古事記の成立論であった。のみならず、その成否はすぐさまわが国最古の古典に黒白をつける事態をもたらす。論争には、「ただならぬ」気配があった。少なくとも私(当時院生)には、そのように感じられた。けれどもこの論争は、太安万侶の墓誌が発見(1979年)されたことで速やかに幕が引かれたのである。論争がほぼピークに達したとき、よりによって、墓誌が出現したのだ。

 (38)むろん、安万侶の実在が証明されたこと自体に対して新味がない。墓誌が上表文の真実を直接保証するものではないからだ。しかし偽書説を裏付ける材料はなかった。かえって墓誌はその有力な根拠のいくつかを奪い取ったのである。かくして古事記の名誉は挽回され、これがわが国最古の古典であることに疑問を挟む余地はなくなった。

 (39)古事記にとってこういうなりゆきは喜ばしいところだが、上表文の信頼度が強められたことで、その後の成立論が衰退の方向をたどったのは、歓迎すべきことではない。安万侶がこの文書を書いたことは、事実だとしても、古事記の編纂経緯にはまだまだ不明なところがあるからだ。(引用終わり。西條勉「偽書説の上表文1初めに(「古事記の文字法」(2012年)笠間書店所収)

 (40)伊藤睦月です。西條勉(1950ー2015)は現時点では他界している。現在では、三浦の著書を見る限り、守嶋泉(1950ー青山大学名誉教授)が学会主流の見解を代表しているようだ。森嶋の著書については、アマゾンで注文中だから、入手できれば、紹介する。

(41)伊藤睦月です。この三浦と西條、両方の論者を読み比べて、1979年までは両者は拮抗、むしろ偽書説有利で、本物説は防戦一方だ。守谷君が依拠する国語学も、先に紹介した大野晋の文庫本でも、「序文はともかく、本文は本物だ」論に終始し、偽書派がそれを受け入れ、序文のみ偽書論が多数派になると事実上無力化した。

(42)1979年の太安万侶墓誌の発見は、それこそ学会主流にとって「神風」となった。上記文章をよく読んでみると、三浦が回想するように、かなり本物派に有利だともいえず、西條は比較的正直に認めているが、「勝者の余裕」のように思える。いずれにしても、学会主流は本物論で決着済みで、この論争は終わりにして、偽書論、本物論者とも、次の成立史の論点に進みたいようであるが、もう少し、紹介する。

小休止。以上、伊藤睦月筆

(43)

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/10/06 07:14

【438】思いて学ばざれば、すなわちあやうし(7)古事記偽書論争を概観する(5)その後の顛末

伊藤睦月です。

 (32)江戸中期の賀茂真淵から、200年にわたって繰り広げられた、古事記偽書論争も、そろそろ終わりに入ったようだ。まず、2000年以降、論争の当事者の大半が、この世を去って論争を展開する論者がほとんど存在しなくなった。こういう、特に人文学の分野では長寿も実力のうち、というか、「生きてるだけでまるもうけ」(明石家さんま)ということが多く起こるらしい。また、守谷君が論拠としているらしい、国語学からの支援も事実上なくなり、新しい展開が始まっている。以下、古事記偽書説、本物説、両方の代表的な見解を示す。両説の違いがほとんどなくなっていることを読み取っていただきたい。

(33)古事記(序文)偽書説(三浦祐之:みうらすけゆき1946年ー)(引用はじめ)「序」の執筆者には古事記本文に対する認識不足があって、本文を筆録したのと同一人物であるとは到底感じられない、私にはそう感じられます。そのために古事記「序」は、本文とは別に、のちに付け加えられたのではないかと考えるようになりました。おそらくその時期は、大和岩雄(1928-2021)が主張するとおり、和銅5年(712)よりも100年ほどのちの9世紀初頭のことで、(新版「古事記成立考」)、太(多)氏またはその周辺に伝来していた書物を権威化するために、天武天皇の誦習命令から始まったとする「序」が偽造されたのではないかと考えています。その実行者をあえて挙げるとすれば、前に弘仁の講書で名前の出た多人長ということになるでしょう。

(33)(古事記本文について)誤解のないように言っておきたいのですが、「序」は9世紀に書かれたのに対して、本文は和銅5年より、数十年前、7世紀の半ばから後半には成立していたのが私の見解です。その理由は、上代特殊仮名遣いと呼ばれる音韻の研究によって、明らかにされている「も」という仮名の二種類の書き分けや神話・伝承にみられる古層的な性格などによって、本文の古さは保証できると考えるからです。出雲神話を大きく取り上げるのも、古層の歴史認識とかかわっています。(引用終わり。「古事記を読みなおす279-280頁(ちくま新書2010年)

伊藤睦月です。次は本物説を紹介します。少し小休止

伊藤 投稿日:2024/10/05 15:46

【437】思いて学ばざれば、すなわちあやうし(6)古事記偽書論争を概観する(4)考古学からの反論

伊藤睦月です。

(31)1975年に大和岩男が「旧版古事記成立考」で、古事記序文偽書説を展開し、古事記本物説をとる、大野晋ほか学会主流との議論が活発になった。古事記序文偽書説は、、松本雅期(1912-1993)、神田秀夫(1913-1993)、西田長男(1909-1981)、友田吉之助、鳥越憲三郎(1914-2007)、といった国学者、民俗学者、松本清張(1909-1992)といった歴史推理作家、岡田英弘(1931-2017)といった、他分野の歴史学者に賛同者が多かった。特に松本清張は、大和岩男の熱心な支援者であり、大岩に新版の執筆を勧めたり、大野晋との宴席を設けたりした。大岩は、自分の「旧版古事記成立考」は、松本尾清張説(「古代探求(1974年)」を継承、発展させたものだと語っている。(「新版古事記成立考」2009年)

(32)しかし、学会主流は主に「上代特殊万葉仮名」や本居宣長「古事記伝」を根拠に、偽書説を批判し続けた。そんな中、1979年に関係者を震撼させた、ある事件が発生した。これにより、約30年間、古事記偽書説論者のほとんどが沈黙した。

(33)1979年1月に奈良県奈良市で発掘された、太安万侶の墓から出てきた墓誌(故人の記録)は、関係者に大変な衝撃を与えたらしい。「これで偽書説が吹っ飛んだ」と評した研究者もいたようだ。

(34)古事記偽書説論者は、その多くが「序文」を平安時代初期に太安万侶の子孫と称する多人長(おおのひとなが)により、偽造されたものとする。ただし本文は、上代特殊万葉仮名遣いの理論を受け入れ、8世紀の奈良時代初期の文章だとする。それでも古事記偽書論者は困らない。

(35)なぜなら、古事記という歴史書編纂の事実、経緯、稗田阿礼などは、序文にしか記載されておらず、当時の日本正史「続日本紀」をはじめ、それらの存在を証明する史資料が一切ない。ということは、「序文」が偽書であることを立証できれば、本文も偽書の可能性が高い、ということだ。

(36)なお、太安万侶は、古事記の編纂者でなく、民部卿、つまり行政官僚として「続日本紀」に掲載されてはいた。

(37)しかし、古事記偽書論者たちは、以上の理由で、太安万侶、稗田阿礼の存在を否定しており、学会本流も明確な反論ができなかった。

(38)そこで、さきほどの「太安万侶墓誌」の発見により、古事記の作者「太安万侶」の存在が証明された、とされ、偽書論者たちの多くは反論できなかった。古事記は序文、本文すべて本物だということになった。このニュースは全国紙で報道、テレビニュースやNHKの特集番組などによって、関係者だけでなく、国民一般にも浸透したようだ。

(39)この衝撃はすさまじかった。そのときの状況を現代の古事記序文偽書論者である三浦佑之は、次のように回想、総括している。

(引用はじめ)昭和54(1979)年1月23日に(太安万侶の)墓誌が発見されて以降、「序」への疑いは雲散霧消してしまいました。その当時私も墓誌の出現に浮かれていたと思いますが、改めて振り返ると、とんでもない誤りを犯していたのではないかと、恥ずかしくなります。少なくとも、発掘された墓誌には、古事記の成立を保証する事実は何も書かれていないのです。(以上、引用終わり。「古事記をよみなおす」262頁ちくま新書2010年)

 伊藤睦月です。三浦佑之が古事記序文偽書説を、「古事記学会」で発表したのは、2004年。それまでは、大和岩男が三浦と同趣旨で何度も反論を試みたが、批判と黙殺の連続だった。(そのあたりの状況は、大和岩男「古事記偽書説の周辺」(1979年)、「古事記偽書説は成り立たないか」(1988年)、そしてこれらを含めた、古事記偽書説の主張、反論、再反論は、「新版古事記成立考」(2009年大和書房)という600頁超の大著となっている。この本のあとがきで大岩はこう慨嘆する。

(引用はじめ)本文でも書いたが、私(大岩)は、専門の古事記学者でないから、34年前刊行の旧著は無視されてもよいのに、多くの学者が私見を取り上げ、批判を書いてくださり、古事記学会は、私の論文のいくつかを載せ、古事記学会の会員に加えてくださった。上代文学会も無視はしなかったが、私見は認めなかった。(中略)本書は、34年前に刊行した旧著の私見についての批判と、その批判に対して諸雑誌で反論・再反論した原稿の一部を載せているが、私も(2009年時点で)81歳だから論争をした学者の多くも死亡している。しかし、本書に乗せた批判文は、生存中に相手は読んでおり、死後に反論できないのを承知で批判した文章は一つもない。

 私は専門学者ではないが、私なりに専門学者の論文や諸文献を検証し、独断を避けて書いたのだから、34年前の旧版と違い、新版はきちんと読んで批判してほしい。(以上引用終わり)

伊藤睦月です。私が守谷健二君に言いたいことのほぼすべてがここに書かれている、守谷君、君も副島隆彦学問道場の会員、副島先生の弟子たらんとするなら、恥を知れ。

 

 

 

(33)

 

伊藤 投稿日:2024/10/03 17:59

【436】思いて学ばざれば、すなわちあやうし(5)古事記偽書論争を概観する(3)

伊藤睦月です。

 今回は国語学の話になる。いわゆる「上代特殊仮名遣いの研究」というものがあり、これにより、守谷君が主張しているように、古事記偽書説を完全に否定するはず、だったが、そうならなかった。現在では、古事記序文偽書説も本文の時代確定に取り入れられ、国語学からの反論は無意味化してしている。ただその中で、大野晋だけは、2008年7月に亡くなるまで、こだわり続けた。それはなぜか。私なりの考えを述べる。

(17)まず、上代特殊仮名遣いについて、大野晋の説明を引用する。(「古典文法質問箱」48頁~52頁、1998年角川ソフィア文庫)少し長いが、守谷君の主張にかかわる部分なので、ついてきてください。

(引用はじめ)・・・では。録音機などなかった昔の発音をどうして調べるのかといえば、奈良時代の発音は万葉仮名で書き写していたので、その万葉仮名を詳しく調べます。・・・(中略)万葉仮名を全部にわたって丹念に調べてみた結果、次のようなことがわかりました。

①・・・十九の仮名には、甲類及び乙類に分けられる二つの区分がある。

➁『古事記』だけにはモにも二つの区別があった。このモの区別は『万葉集』や『日本書紀』にはない。

➂、④略

⑤つまり、奈良時代の大和地方では87音節が区別されていた(『古事記』は88節が区別されていた)以下略

これが有名な橋本進吉氏の上代「特殊」仮名遣いの研究によって明らかにされた上代語の音韻の体系です。(以上、引用終わり)

(18)伊藤睦月です。この「古事記」だけ、モに二つの区分があり、それが厳密に守られて表記されて、万葉仮名の発展段階をとびぬけていることから、「特殊」とよばれ、古事記が、平安時代初期ではなく、8世紀の和銅年間に執筆された証拠だとされた。

(19)これに対し、序文偽書論者の大和岩雄は、「古事記成立考(旧版)1975年」で、大野晋「日本語の起源(旧版)岩波新書1957年」で「万葉集のころの人が区別していた発音を、平安時代の人がモの区別を一つも間違えずに書き分けるのは不可能」として(古事記本物説の)論拠としているが、橋本進吉氏や有坂有世氏、大野晋氏のような専門家なら可能だろう、と書いて大野晋の猛反発を招いた。

(20)伊藤睦月です。橋本進吉とその弟子有坂有世は、本居宣長とその弟子が発見した、万葉仮名の規則性を精査して、さきの「上代特殊仮名遣い」の理論を作り上げた、戦前国語学の逸材、大野晋は、この説の紹介、普及に邁進し、橋本進吉の後継者としての学会内の地位を確立した。

(21)だから、橋本=有坂のような専門家なら、古事記の「偽造」も可能だろう、と大野は受け取った。自分が神とも仰ぐ橋本=有坂を冒とくされたと感じたのではないか。

(22)大和岩雄という人物は、「大和書房」、「青春出版社」(試験にでる英語シリーズ、青年サラリーマン向け月刊誌「ビッグトモロー」が有名)のオーナーで、松本清張とも親交があった。

(23)また、松本清張の仲介で、江上波夫(騎馬民族征服説)や大野晋の知遇を得て、たぶん大野の紹介で、「古事記学会」にしている。

(24)大野晋といえば、「日本語タミル語起源説」だが、大野晋がインドタミル語調査旅行のスポンサーの一人であったと思われる。

(25)しかしながら、この古事記偽書論争により、両者は絶交状態になり、大野が2008年、大和が2021年にそれぞれ死去するまで、まともな交流はなかったようだ。

(26)守谷君が論拠とする、「日本語はいかにして成立したか」(中公文庫2002年、「日本語の成立1980年を加筆訂正)248頁「古事記偽書説の誤り」はこの文脈で読むと感慨深い。

(27)改めて、その部分を読んでみてください。

(引用開始)古事記偽書説の誤り:・・・(中略)、事実、古事記の序文の内容には古事記の本文とそぐわない点があるし、正史(続日本紀のこと)に古事記編集に関する記録もない。それで大正時代にに「古事記偽書説」を唱えた人(中沢見明のこと)があり、最近も平安時代初期、弘仁時代の偽作だと述べる人がある。(鳥越憲三郎、大和岩雄など)しかし8世紀の万葉仮名の研究(上代特殊仮名遣いの研究)から言えば、古事記の「本文」が平安時代の成立だとは決していえない。(引用終わり)

(28)伊藤睦月です。鳥越憲三郎(1914~2007)は、民俗学が専門で、日本古代史に関する著書も多いが、1971年に「古事記は偽書か」を著し、古事記序文、本文すべて偽書説を展開している。岡田英弘の古事記偽書説は、この鳥越の所説をほぼ全面的に採用しているので、岡田の著書を読めば、その概要がわかる。

(29)この鳥越と中沢以外はすべて、古事記序文偽書説である(折口信夫、松本雅明、松本清張、大和岩雄、三浦佑之など)彼らは、橋本=有坂説を受け入れ、本文は8世紀のものと認めている。

だから、国語学からの偽書説主張は無意味になった。したがって守谷君の主張も、その後の論争史を抑えていない、「不可」である。

(30)しかしながら、1979年に起こったある「事件」により、古事記偽書説は四半世紀にわたり、「沈黙」してしまう。それは国語学からではなく考古学から襲来した。それについては、次回説明する。

以上、伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2024/10/03 11:39

【435】思いて学ばざればすなわちあやうし(4)古事記偽書論争を概観する(2)

伊藤睦月です。小休止終わり。

(7)古事記序文偽書説を最初に提起したのは、江戸時代の国学者のビッグネーム、賀茂真淵である。京都の陰陽師の家柄だと思う。「ますらおぶり」や「たおやめぶり」のコンセプトで有名。知らない人は高校教科書(日本史、倫理、日本文学史)を復習してください。

(8)この賀茂真淵が、当時古事記研究をしていた、本居宣長(これも超ビッグネーム)にたいする書簡のなかで、「古事記序文は偽書だ」と断定した。

(9)本居宣長は、賀茂真淵と面識はなく、手紙で情報交換する関係だったが、宣長はこの書簡を受け、「序文」を無視し、本文だけを読み解いて、「古事記伝」を完成させた。これが大当たりした。

(10)実は、古事記はもともと漢字オンリーで、それを現在のような、漢字仮名交じり文に「翻訳」したのは宣長だ。

(11)さらに言えば、古事記序文は、四六駢儷体(しろくべんれいたい)という、平安初期の日本人(空海774年~835年が有名)が好んだ漢文(但しネイティブではないので、不自然な漢文)、古事記本文は、変体漢文(万葉仮名といって、日本語の音に一定の法則で漢字をあてた、漢字だらけの文)からなっている。

(12)賀茂真淵は、どういう理由かは不明だが、「序文」を偽書だと断定し、本居宣長は、「序文」は「漢文(カラゴコロ)だから、不純。本文は。漢字を使用しているとは言え、日本語だから、本文こそ、ヤマトゴコロを体現している(「儒仏以前」といって、外国文明に毒される以前の日本人の清純な精神世界を表している)として、古事記伝を完成させた。

(13)古事記伝は多くの学者や文化人に受け入れられ、定説化したために、「序文」「本文」ともまとめて、「偽書」と主張されなくなった。

(14)約200年ぶりに、古事記序文、本文偽書説が主張されたのは、昭和に入り、中沢見明の「古事記論」だが、太平洋戦争が勃発すると、中沢は「非国民」だと憲兵隊に拘束され、その著書は禁書扱いになり、絶版に追い込まれた。

(15)そして、終戦を迎え、そういうタブーはなくなったはずだが、「偽書説」は学会主流にはならなかった。

(16)学会主流は国語学の成果を取り入れ理論武装を強化したのだ。

次回につづく。以上、伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2024/10/03 10:17

【434】思いて学ばざればすなわちあやうし(3)古事記偽書論争を概観する。

 伊藤睦月です。今回は、古事記偽書論争を概観します。この論争は江戸時代(17世紀)から歴史上の有名人も巻き込んだ大論争ですから、ある程度詳細は知っておくべきと考えます。まず、偽書説の概要について、本物説の代表的論者である、倉野憲司(1902~1991、福岡女子大学名誉教授)の説明を引用します。

(岩波文庫解説文1963年から引用はじめ)

古事記は、8世紀初頭に成立した我が国最古の転籍である。ところが、古事記(序文、または序文も本文も)和銅(711年)成立に疑いを抱き、これを後の偽作であるとする説をなす者がある。それを列挙すると次の通りである。

①賀茂真淵(1697~1769)(宣長宛書簡)

②沼田順義(ぬまたゆきよし1792~1850)(「級長戸風」の端書)

③中沢見明(「古事記論」(1929年))

④筏勲(いかだいさむ「上代日本文学論集」(1955年)

⑤松本雅明(史学雑誌第64編第8、9号)1953年

 これらの説は、その論旨や論拠は必ずしも一様ではないが、一応もっともな疑問と思われる点を含んでいる反面、明らかに誤りと認められる点や論拠の薄弱な点も多く、今日これらの偽書説を(学会内で)是認する人はほとんどないといってよい。殊に上代特殊仮名遣からすれば、古事記が奈良時代の初期に成立したことは疑いないところである。但し偽書説が提示した正当と思われる疑義については、これを十分に取り上げて解明する努力が必要であろう。

(以上、引用終わり)伊藤睦月です。以下コメントします。

(1)古事記偽書説には、「序文のみ偽書」、「序文、本文とも偽書」の2パターンがあることに注意。

(2)倉野があげた1700年代から1950年代までの「偽書説」は中沢見明を除き、すべて「序文のみ偽書説」である。

(3)しかし古事記の成立事情や稗田阿礼の存在を示す史料が、「序文」しかないものだから、もし序文が偽書とすれば、本文も偽書である可能性が高くなる。

(4)そうなれば、いわゆる「古事記」研究村(伊藤の造語)が崩壊するため、学会主流は、「序文偽書説論者」も併せて、敵視した。それでも、1950年代はまだ余裕かましている。また倉野校注の岩波文庫は100万部のベストセラーとなり、一般読者にも「本物説」が普及した。

(5)なお、「偽書説」が提示した「正当な疑義」についてはその後、学会主流で検討されたかどうか不明です。

(6)さて、(1)にもどります。

小休止

以上、伊藤睦月筆

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/10/03 09:06

【433】1 思いて学ばざれば、すなわちあやうし(2)検証個所の特定

伊藤睦月です。最初に守谷論文の検証個所を、摘出します。(重たい掲示板3150)

(引用はじめ)※番号は伊藤

①『古事記』は日本書紀と比べるとコンパクトで『日本書紀』のダイジェスト版のような印象を与える故にに、②『日本書紀』より早く成立していたのはおかしい、としばしば③『古事記』偽書説が唱えられてきた。

④しかし現在では、『日本書紀』が先で『古事記』が後にできたという『古事記』偽書説は、国語学の観点から「完全に」否定されている。(⑤大野晋『日本語は如何にして成立したか』など参照)

(引用終わり)

伊藤睦月です。今回の守谷君の論考の目的は、上記にあるのではなく、古事記本物説を前提に、次の議論に進みたいのだろうが、特に「古事記偽書説」を採用している副島隆彦先生の掲示板に投稿するにしては、議論が簡単すぎます。これは副島先生にも失礼だろう。

だから少し足踏みに付き合っていただく。

さて、話は、②、③から入ります。①については、古事記偽書説をとる研究者(大和岩男、三浦祐之、岡田英弘、副島隆彦など)も、大野晋のような古事記本物説をとる研究者(古事記学会に所属する研究者の大半)も、「古事記」が「日本書紀」のダイジェストのような印象を持っている、という研究者の存在を知りません、むしろ「古事記」を「日本書紀」とは違う特別な存在、と見做している研究者が大半です。で終わり、で、むきになるのは大人げない気もしますが、これについては、②、③を概観してから、再度戻りましょう。

では、次回また。

以上、伊藤睦月筆