ふじむら掲示板
※ログイン後に投稿フォームが表示されます。
Loginはこちら【409】「晋書」について:小林恵子のファンタジー爆発につっこみを入れてみる
伊藤睦月です。2054様が、ご提示いただいた、小林恵子+井沢元彦の対談本の記事「「晋書」にみえる東倭の国」は、その根拠とする、「晋書・宣帝紀」と「冊府元亀」をその根拠としており、原文の該当部分を確認できていないので、正否は保留します。しかし、特に小林氏の発言をファンタジーとした場合、突っ込みどころ満載です。
まず、「晋書」の基本情報から。(鳥越健三郎「倭人・倭国伝全釈・東アジアのなかの古代日本」角川ソフィア文庫)
(引用はじめ)「晋書」は、帝紀10巻、志20巻、列伝70巻、載記30巻、合計130巻からなり、西晋4代・59年、東晋11代・120年間のほか、載記として5胡16国に関しても記している。編集の期間は、646年から648年のわずか3年に至らず、房玄齢、褚遂良、許敬宗(いずれも唐太宗皇帝の重臣。貞観政要の常連)の3人が監修にあたり、そのほか18人が参画して執筆した。多くの人の手によることで、前後の矛盾や錯誤をはじめ、手落ちも指摘されているが、唐代以前にあった晋書20余種が消失・散逸しているだけに、貴重な文献である。(もちろん1次史料)(引用おわり)
伊藤睦月です。宣帝紀は、所持していないが、手持ちの史料(巻97・列伝東夷倭人)を示す。
(1)倭人は、倭人は帯方東南の大海の中にあり、山島によりて国をなす。
(ここでいう国とは、「郭」と同じで、城郭、つまり城壁をめぐらした都市のことである:岡田英弘)
(2)地には山林多く、良田なく、海物を食す。
(3)旧百余国の小国ありて、相摂し、魏の時に至り、30国ありて、通好す。(朝貢使を送ってきた)
伊藤睦月です。小林=井沢の対談では、邪馬台国のほか、倭には他の国があるのが、さも大事そうに発言しているが、対談はいつのことだろう。倭地域には魏の時代には、30国余りが存在し、それぞれ、魏に貿易代表として、エントリーしていたが、結局、邪馬台国が「親魏倭王」になった、というだけのこと。
(4)(倭国は)もと男子をもって王となす。漢末に倭人乱れ、攻伐して定まらず、すなわち女子をたてて王となし、名づけて、卑弥呼という。
(5)宣帝(司馬仲達)の公孫氏を平らぐるや、(238年に公孫淵を滅ぼすと)(239年に)その女王(卑弥呼)は、使いを遣わして帯方に至り朝見し、(朝貢し)その後は貢聘絶えず。(貢物を絶やさなかった)。
(6)泰始のはじめ、(266年)、(台与が)使いを遣わして、重訳入貢す。(邪馬台国最後の通信)
伊藤睦月です。小林発言に突っ込みます。
(1)なぜ、「東倭」の場所が、「丹後から大和にかけて」とわかるのか。(手前の邪馬台国でさえ、わからず論争になっているので)
(2)239年に、邪馬台国が「親魏倭王」の金印を受けている。もう、倭国代表の指定は終わっているのに、240年に「YOUは何しに魏にきたの?」戦勝祝いなら、時機失してる。
(3)「東倭」が重訳を連れてきたのではなく、「台与が」というのが、素直な読み方。それに重訳を「通訳」としているが、ほかに用例があれば、納得しますが、よくわからん。
(4)高句麗の東川王が、台与を押し立てて、東遷したという説を自説のように紹介しているが、なにか、そんな記事が宣王紀にあるのだろうか。そういう倭国内の事情は本紀よりも、この東夷倭人編にかかれてこそ、ふさわしいと思う。
(5)266年は、台与が大和に移っていると考えているけど、それも(4)と同じ。
(6)ここで突然、冊府元亀がでてくるけど、なんの論拠としているのだろうか。266年の使いなら、すでに「晋書」に書かれているのだから、2次史料である、冊府元亀を取り上げる意図がわからない。
伊藤睦月です。小林氏のファンタジーは、ファンタジーとしても、破綻していると思う。
(以上、伊藤睦月筆)
【408】敗戦国の末路について
伊藤睦月です。665年、唐帝国、新羅王国、旧百済王国、との間で講和友好の盟約が締結されますが、その内容はともかく、史実としては、機能せず、結局百済王国は復活できませんでした。また、2054さんのいわれるとおりなら、同時に、唐帝国、新羅王国、倭(大和王朝)との間で、同様の盟約が締結されていないとおかしいですが、使者のやりとりはあったようですが、盟約の存在は、唐側、新羅側(新唐書、三国史記新羅本紀(羅紀))、日本側(日本書紀)からは確認できませんでしたので、別のファンタジーができそうです。
(引用はじめ)かくして、(盟約文を)鉄板に金字できざんだ、盟約の文をつくり、新羅の廟中に納めた。劉仁願が、唐に帰還すると、(旧百済皇太子)隆は、人民が手に手を取って逃散するのを畏れ、彼も都長安に帰った。(引用終わり)「倭人伝:講談社学術文庫」
伊藤睦月です。せっかく、講和の盟約が締結され、旧百済の民の安全は保障されているはずなのに、逃散、つまり大量の難民が発生し、隆も逃げ出して、旧百済地域は放棄されたも同然になったようです。旧百済民の多くは、新羅の進駐、略奪、報復を恐れたのでしょう。今現在でも世界中に起こっていることです。盟約は機能しなかったということです。
668年、唐帝国は高句麗を滅ぼしますが、新羅がそれを横取りし、旧百済をも手に入れ、朝鮮半島を統一してしまいます。(676年)
もちろん、唐帝国も放置せず、百済を回復しようとしますが、そのときも隆を利用して、失敗します。唐帝国は、「前漢武帝の版図の復活」(朝鮮半島全体の直轄地化)をねらっていますが、間接統治方式をとろうとしています。終戦直後の日本もこれです。ただ、その後の諸情勢により、米国の51番目の州にならなっただけです。(40年前までは、これを主張する有識者もいましたね)これも現代までよく見かけるパターンでです。
(引用開始)儀鳳年間(676~679年)、高宗は隆を「帯方郡王」(後漢時代に、平壌付近にあった、漢の出先機関)に昇進させ、領地へ戻らせた。このころ新羅は勢力が強かったので、隆はかつての故国に入ることができず、高句麗(平壌付近)に政庁を仮に置いたが、やがて没した。
則天武后は、隆の孫の敬に帯方郡主ののあとを継がせたが、その領地はすでに新羅と渤海(698年建国)の靺鞨(まっかつ:渤海の部族名)によって、分割されており、百済はかくして絶えたのである。(「倭人伝:講談社学術文庫)(以上、引用終わり)
伊藤睦月です。新羅はその後、唐と戦争したり、朝貢したり、また戦争したり、を繰り返して、936年、高麗に滅ぼされるまで、国を保ちます。
一方、わが国は、白村江の敗戦から、約40年後(なんでこんなに間が空いた?)、702年に粟田真人を遣唐使として派遣し、「日本」「天皇」を名乗って、後年には「日本書紀」を提出して、国交を回復しますが、朝貢しても冊封を受けず、日本国内向きには、「中国」と対等の関係を装います。このへんの話は、また深堀していきます。
次回こそ「晋書」の話に戻ります。結論を先取りすれば、小林=井沢は、対談本の注釈にでもよいから、原典の該当部分を明記すべきです。そうでないと我々素人と同じレベルだ、と言っておきます。
(以上、伊藤睦月筆)
【407】(493)冊府元亀について:まず、基本情報、関連情報、をおさえよう。
伊藤睦月(2145)です。2054様、表記投稿ありがとうございます。とりあえず、現時点で私がもっている関連情報、お知らせします。
(1)冊府元亀について
(引用開始)①さっぷげんき:中国の書名。王欽若(おうきんじゃく)、楊億(ようおく)、らが北宋の真宗の勅を奉じて1005年編集に着手、1013年に完成した。1000巻。皇帝の政治に資するために、古代から五代までの歴代の君臣の政治に関する事績を、帝王部から外臣部まで31部1115部門に分類して、列記。当時現存した各種の書冊の中から、政治の要項を広く集めて編集。「冊府元亀」と名付けられた。このような形式を類書とよび、「文苑栄華」、「太平御覧」などとともに、北宋期につくられた代表的な類書である。とくに唐・五代に関する部分は亡失して現在伝わっていない史料を含み、史料的価値が大きい。(日本大百科全書)
➁類書:中国独特の百科事典。多くの書物の中にみえる事項を項目別に分類編集したもの。唐代以降盛んになり、「芸文類聚」、「太平御覧」、「冊府元亀」、「永楽大典」、「古今図書集成」などがその代表である。(ブリタニカ国際大百科事典)
(引用終わり)伊藤睦月です。上記2事典は、カシオの電子辞書(高校生普通モデル)に標準搭載されているものです。私が、高校教科書レベルにこだわるのは、基本、学会通説なので、実証の手間を節約できると考えたからです。通説では、説明できないときに少数説を主張すべきと考えているからです。その分、手間暇かかってしまうのですが、単なるファンタジーで終わらせないための、知的態度です。私が基本、支持する副島説は大半が少数説ですから、私は学会の人間ではありませんのでなおさら、心意気としては、「素人のたわごと」と言わせない工夫でもあります。
伊藤睦月です。この「冊府元亀」は、2054様のいわれるように、「マイナーな扱いにしてしてよい史料ではないように思われる」、また、ある程度史料的評価も得ている。それではなぜ、「マイナー扱い」なのか、考えたことありますか。それは、この書物が、他書からの引用でしかない、「二次史料」の集まりだから。実証史学では、一次史料のほうが、史料的価値が高く、一次史料を補うことでしか、史料として認められてこなかったからだと思います。賛否はあるでしょう。小林恵子(多分学会主流ではない)や井沢元彦(歴史推理作家)はファンタジーの名手なので、そのルールからは自由な人たちだろうと思います。しかし、学会主流からは、野球の試合をやっているのに、ラグビーをやろうとしている人たち、ということになろうかと思います。「太平御覧」もしかり。私は副島史学を実証に耐えうるものにしたい、と分不相応な、野望を持っています。そのための「ふじわら掲示板」だし、2054様のような投稿は大歓迎なのです。
次回は、「晋書」について考えてみます。
(以上、伊藤睦月筆)
【406】劉徳高の足跡について
伊藤睦月です。日本書紀の講談社学術文庫版の日本語訳では、「劉徳高」が省かれていますが、中公文庫版(電子書籍版)では登場します。その部分を、私のコメントなしに、引用します。
(引用はじめ)
(1)天智4年(665年)9月23日に唐国は、朝散大夫キ州の司、馬上柱国「劉徳高」等を遣わしてきた。(等とは、右戎衛郎将上柱国「百済禰軍」とチョウ朝散大夫柱国「郭務棕」とをいう。計258人とをいう。7月28日に対馬に着き、9月20日に筑紫について、22日に上表文をおさめた函(はこ)をたてまつった。)
(2)冬10月の11日に、ウジ(京都府宇治市)で大掛かりな閲兵を行った。
(3)11月13日に劉徳高らに饗宴を賜った。
(4)12月14日に劉徳高らに物を賜った。
(5)この月に、劉徳高らは、帰途についた。
(6)この歳、小錦守の君大石等を大唐に遣わした。しかじかと伝える。
(等とは、小山坂合(さかい)部の連石積、大乙吉土岐弥、吉士針間、をいう。おそらく唐の使いを送るためであろう)
(引用終わり)
伊藤睦月です。伊藤としては突っ込みどころ満載なのだが、ここは我慢して(笑)、ただこの記事は、近江遷都の前年なので、唐の使いは、どの京に入ったのだろう。難波京でなくて、明日香か?劉徳高(文官)、百済禰軍(武官)が上柱国で正式の使者、郭務棕は柱国でナンバー3だが、実務上は郭が取り仕切っていたのであろう。270人余の従者は、文官の使者として多くもなく、少なくもなし。実際後年、郭務棕らが計2000人の兵を連れてきますが、最初の来日で講和が成立したなら、なぜ2000人の兵を連れてきたのか。
伊藤睦月です。2054様のいう、「懐風藻」(751年成立)に劉徳高が登場する場面です。
(引用はじめ)
一、淡海朝(あわみちょう=近江京)大友皇子二首
皇太子(大友皇子)は、淡海帝(天智天皇)の長子なり。
魁顔奇偉、風範弘深、眼中栄耀、顧瓣偉華、唐の使、劉徳高見て、異なりとして曰く、「この皇子、風骨世間の人に似ず、実にこの国の分にあらず」と。
劉徳高の発言部分を和訳(この皇子の風采・骨柄を見ると、世間並の人ではない。日本の国などに生きる人ではない」
伊藤睦月です。この部分をもって、講和の場面、と思ったとしたら、相当おつむが平和な方だなあ、と思います。見え透いたお世辞を真に受けるなんて、当時の天智天皇友皇子、日本側は、まずいなかった、と思います。それは、665年に旧百済の皇太子と新羅王金法敏に、唐軍の司令官、劉仁軌が近いの言葉(講和条約文)を作りますが、それは「城下の誓い」で、百済にとって屈辱的な内容であり、気楽なものではありません。私はサンフランシスコ講和条約を連想した。(引用はじめ)
(1)昔、百済の先王(義慈王、余豊璋の父親)は、順逆を顧慮することなく、隣国に誠意を示さず、身近な者と睦まじくせず、高句麗や倭国(原文は倭)と組んで新羅を侵略し、村や町を血祭りにあげた。
(2)唐の天子は、罪のない人民を憐み、外交使節に命じて百済と誼みを結ばせようとしたが、百済の先王は、険しい地勢を後ろ盾とし、唐からの道のりが遠いのをよいことにして、唐の使節に対して高慢無礼であった。
(3)これを聞いた皇帝は激怒し、かく討伐し、かく平定した。
(4)但し、亡国を再興して絶えた王の血統を継がせることは、王たる者の昔からの一貫したやり方である。
(5)それゆえに、前(さき)の太子隆を立てて、熊津都督とし、その祖先の祭りを維持させ、新羅に付き従って長く、その友好国となり、好誼を通わせ、怨恨を去り、天子(中国皇帝)の命をありがたくいただいて、長く中国の外藩(属国)となるようにさせたのである。
(6)右威衛将軍・魯城県公の劉仁願(劉仁軌の上役だが、格は仁軌のほうが上)は今親しくこの盟約締結の場に臨んだ。
(7)今後、心変わりして兵力を発動し、軍勢を動員することが、あったなら、英明なる神々は、これを見そわせはしない。
(8)多くの災害がふりかかり、その子孫は絶え、国家は守りを失うであろう。
(9)この盟約をゆめゆめ犯すことのなきよう。
かくして、鉄板に金字で刻んだ盟約の文をつくり、新羅の廟中に納めた。(新唐書東夷百済:講談社学術文庫訳)
伊藤睦月です。この盟約文、特に(5)以下を読んで、まともな(お互い対等な)講和条約と思うものは、はっきり言おう。馬鹿だ。それでもにこにこ笑いながら、はいつくばって、お礼を言って受け入れなければならない。そして、招宴をして裸踊りのひとつも披露しなければならない。敗戦国が結ばされる「講和条約」は、昔も今もこんなものだ。(吉田茂ならやりそうだ)
劉仁高たちが、中大兄皇子と大友皇子に突き付けた唐皇帝の内容はどのようなものだったのだろう。日本書紀は日本側が作成しているので、何も記載されていない。いつものせこいごまかしだ。白村江の敗戦から2年しかたっていない。「新羅、亡国の百済と仲良く」講和の誓文の内容を知りたいものだ。
日本書紀は、唐皇帝まで提出する重要アイテムなので、それに今回の講和の件が記載されていない、ということは、さすがにまずいだろう。せめて代替わりするまで、ほとぼりがさめるまで、唐太宗から高宗、そして、(一時唐王朝が絶える)則天武后の代まで、遣唐使を派遣できなかったのではなかろうか。それで、30年後になってしまったのではないか。
2054様のファンタジーを展開していくと、こうならざるを得ない(それよりも私の余豊璋捕縛のファンタジーのほうが面白いと思いますが。)
(以上、伊藤睦月筆)
【405】ちょっとブレイク、頭の整理。(続き)
伊藤睦月です。私のミスで、分割になってしまった。すみません。
1 通説(学者、ほとんどの作家、歴史愛好家の大多数)
(1)倭(広義の倭)=大和王朝(日本に改名前)
663年(白村江の戦い)の時点では、大和王朝による全国統一が完成していた。(4~5世紀ごろが有力)
※九州王朝が逆に全国統一した、という通説内少数説(神武東征)あり。
※白村江では、「倭・百済連合軍」とされる。
(2)副島説(少数説)
①663年の時点 倭(広義)=山門(やまと)国(=大和王朝)+倭国(狭義:九州王朝)
➁663年の敗戦後、実際に渡海した、倭国(狭義)が、消滅。山門国は後方支援のみで、唐・新羅連合軍とは戦わないまま、撤退。旧倭国領域を山門国が自然併合のかたちとなる。
➂その後、国号を「日本」と改称。
(3)伊藤説(私だけの超少数説)
①663年の時点 倭(広義)=大和王朝+旧倭国(=九州王朝)
※旧倭国は、648年に、倭国と唐帝国との連絡が途絶えたことにより、事実上消滅(百済亡命王子余豊璋=藤原鎌足が、旧倭国を支配)
➁663年白村江は、唐軍(新羅軍はほとんど参加していない)と旧百済(余豊璋)が、旧倭国兵を動員して戦い、全滅。
➂665年、郭務棕の旧倭国占領終了後、親新羅派の大海人皇子(もしくは高市皇子)に引き渡され、倭(大和王朝)領となる。
④倭(大和王朝)は国号を「日本」とした。
伊藤睦月です。私の理解で整理しました。あしからず。
(以上、伊藤睦月筆)
【404】ちょっとブレイク、頭の整理。
伊藤睦月です。2054様も気づかれたようだが、倭(広義の日本列島)倭国(日本と名乗る前の大和王朝)、倭国(九州王朝)の考え方にずれがあるようだ。そこで、ブレイクとして、その関係を整理します。
【403】かたせ2号さまへ。追加。
伊藤睦月です。かたせ2号様、戦前戦後の天皇の能動的役割、というのが、小室学の中心テーマかと。これについては、小室直樹著、天皇の原理、副島解説文が必読だと思います。
以上、伊藤睦月筆
【402】かたせ2号さんの投稿は楽しい
伊藤睦月です。かたせ2号様、即レス。多謝です。
今のところ、かたせさんにレスできるほど、私の知見がなくて、申し訳ないのですが、それでも楽しいですね。ありがとうございます。私は私でこの掲示板に戻ってきたテーマがありますので。悪しからず。
伊藤拝
【401】2054様、かたせ2号様、守谷健二君へ(ブレーク)
伊藤睦月(2145)です。
2054様、ご多忙中の中、私の投稿にお付き合いくださり、出典のご紹介までいただき、いまして、誠にありがとうございます。また、私の入院について、お気遣いいただき恐縮です。2054様の投稿はすべて読み切っておりませんが、貴殿の投稿は私にとって貴重なものですのでありがたいです。時間がかかってもかならず、お答えさせていただきます。
その際、ひとつだけ、私への疑問中、「根拠」がない、とよく言われてますが、「序論」でも書きましたように、2054様ご指摘箇所の大半は、「ファンタジー」(史料の裏付けのない、または乏しい、推理、仮説)でして、もとから根拠に乏しいものです。実証史学が主流である、現代におきましては、時代をさかのぼれば、のぼるほど、史料(文字情報)が乏しく、推理に頼るほかありません。したがって、推理の出来不出来や筋立ての面白さが、決め手となります。(これは、私、2054様、小林氏をはじめとする学者、作家(特に推理作家が活躍します)歴史作家、司馬遼太郎の作品なんか、典型的なファンタジーです。副島隆彦先生の作品もそう。われらのうち、誰のどのファンタジーが、真実に近づきえたか、真実をロックオンできたか、です。ですから、ファンタジーの批判、指摘に対しては、実証できないものは、ファンタジーでお答えすることになることを、ご理解ください。
〇かたせ2号さま。私のラテン語格言にいち早く反応いただき、ありがとうございました。
恐縮ですが、私は、かたせ2号様の投稿の内容がほとんど理解できません(汗)(苦笑)しかし、かたせ2号様の投稿の文面から見て、非常に楽しんでいる、ふじむら掲示板をとことん、遊んでいらっしゃる、と思います。楽しみにしています。
なお、あのラテン語の格言は、故近藤誠医師(「がんは治療するな」)の座右の銘だそうです。(和田秀樹医師による)
〇守谷健二君へ
私がこうして、投稿を始めたきっかけは守谷君の投稿です。ありがとう。君にかなり、突っ込みをいれてますが、この程度でふてくされたり、へたりこむ、守谷君では、ないですよね。これからも期待しています。
(以上、伊藤睦月筆)
【400】冊府元亀について
会員2054です。まず何度も回答のお付き合いをいただいている伊藤氏に御礼を申し上げます。伊藤氏の見解の全体像は、私の理解が及ばないため、疑問点についての言及は控えようと思います。また、学問道場の諸兄にも参考にならないと思いますので、これで(しばらく)最後の投稿にします。
なお、伊藤氏からご質問のあった「羅紀」は新羅本紀のことと思います。また、冊府元亀については、以下の記述が参考になると思いますので、ちょっと長いですが引用を記します。
小林恵子・井沢元彦対談本 『記紀』史学への挑戦状P203~205
(引用はじめ)
『晉書』にみえる東倭の国
小林 はい。それで『晉書』を見ますと、宣帝というのは司馬仲達のことなんですけど、その宣帝紀に正始元年、つまり240年に東倭が朝貢したと出ているんです。東の倭、これは初耳だと思うんですけど。
井沢 そうですね。
小林 この東倭というのが丹後から大和にかけての倭王の国なんです。
井沢 つまり、倭王、倭国は2つあってというか、倭人の国が幾つかあって――
小林 幾つかあって――
井沢 その中の1つということですね。
小林 そういうわけですね。特に東ですから本州の国ですね。東倭が重訳を連れてきたとあります。重訳っていうのは何人もの通訳を連れてきたという意味で、つまり、本州の中部にあった言葉と北九州にあった倭国語とは言葉が違うんですね。ですから東の国の言葉を一度西の方の倭国の言葉に訳して、それから中国語に訳すので何人もの重訳を連れてきたということでしょう。
井沢 今でも重訳といいますものね。
小林 重訳っていいますね。それから高句麗の東川王ですね、東に移った王は、毌丘倹(かんきゅうけん)という魏将に追われて列島に亡命してくるわけですね。北九州に来て、それで邪馬台国を滅ぼして、台与を押し立てて、つまり東遷ですよね、そういう説をとなえている人もいますけどね、東遷、北九州から東遷したというのは他にも何人もいます。
井沢 私もそうなんですけど、はい。
小林 それでもともと高句麗の東川王は東倭の国と連合していたわけですから、そこで台与という卑弥呼の一族の祭儀上の女王を押し立てて大和地方に移って、泰始元年、265年というのは、これは晉が建国した年なんですけれども、『冊府元亀』に倭の女王が朝貢したとあります。この女王が台与ですよね。だから、もうこのときは既に大和地方に移っている。『晉書』の方には266年11月になっていますけれども、倭人が来たとあります。
井沢 『冊府元亀』、これはどういう本ですか。
小林 『冊府元亀』というのは11世紀始めに書かれた本ですけれども、ものすごい量の本ですね。
井沢 それはだれが、どういう目的で書いた本なんですか。
小林 宋の時代です。宋の時代の王欽若(おうきんじゃく)等の編纂による書ですね。もうすべて森羅万象にわたっての中国史をかいてあるわけですよ。
井沢 じゃあもう百科全書みたいな。
小林 そうそう。そこの朝貢という場面です。もう何しろ当時の中国からみるとこちらは野蛮国ですから、朝貢しか載らないんです。この朝貢というところに――
井沢 あ、朝貢史の中にこれがあるわけですか。
小林 これが入っているわけです。『冊府元亀』を全部読む人ってあまりいないんですけど。
井沢 いないでしょうね。
小林 いないんです。
(引用終わり)
会員2054です。この対談では、240年前後当時、日本列島内には複数の国があり、そのなかに「邪馬台国」と「東倭」があっていずれも魏に朝貢していることが提示されています。また、晉建国直後の265年に朝貢していることが『冊府元亀』に示されている、とあります。
高校教科書がどうなのかはしりませんが、『冊府元亀』はあまり読まれていないとのこと。マイナーな扱いにしてよい史料ではないように思います。
最後に、伊藤氏に一言。精力的な投稿が続いておりますが、来月から長期入院されるとのこと。お体をお大事にお過ごしください。