ふじむら掲示板
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Loginはこちら【543】伊藤氏の投稿を批判します(【542】について)
2054です。
小林恵子さんは、(ご本人がどこかに書かれていましたが)生来、弱視のようです。
レーザー手術で直るかどうかなんてわかりませんし、そんなことは伊藤氏が論じることではありません。
そもそも他者の健康状態について言及・批判の対象とするのは、行儀がよくありません。学問道場の品位も下げます。
小林恵子の著作(現代思潮新社・祥伝社)は学会向けに論文として著しているわけではありません。自説を一般向けに紹介しているのですから、いちいち他の学者の主義主張に言及することはありません。私から見ると必要な限りで十分言及されていますし、参考文献も豊富に巻末にあります。あとは読者の判断に任せているのでしょう。
古田説(九州説)岡田説(華僑説)が正しいと思われるのであれば、小林説と比較して具体的な根拠をもって批判すればいいだけのこと。それは伊藤氏に是非期待したいと思います。学問道場の掲示板に投稿するなら、そういうハイレベルな論考が良いでしょう(読んでいて知的刺激があって楽しめます)。
伊藤氏は、あまり結論を性急に求めず、小林さんの現代思潮新社からの一連の著作を読まれてから判断されたほうが良いと思います。
【542】小林恵子説のプロトタイプとしての「騎馬民族征服王朝説」について(3)
伊藤睦月です。【541】の続きです。書く方も読まされる方も飽きてきた頃でしょうから、できるだけ手短に書きます。引用の煩を避けるため、あらかじめ、対象となる文献を列記します。
1 江上波夫『騎馬民族国家』(中公新書)
2 江上波夫・佐原真『騎馬民族は来た!?来ない!?(対談)』(小学館)
3 佐原真『騎馬民族は来なかった』(NHKブックス)
4 小林恵子『古代倭王の正体』(祥伝社新書)
5 小林恵子『江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武三世紀・三国時代(現代思潮社)
です。あとは私の考えを述べます。いきなり結論から。
1 21世紀に入り、「騎馬民族征服王朝説」の議論自体、事実上無意味になっている。副島「帝国ー属国理論」から派生する、「難民」理論で十分説明可能。
2 「騎馬民族征服王朝説」とは、邪馬台国九州論者たちによる、「邪馬台国東遷説」のバリエーションであり、その文脈で議論すれば足りる。
3 この説が発表された、1948年時点では、「民族」(ethnicity)の概念は、それほど厳密には定義されず、また、現在ではその概念を認めるべきかどうか人類学の分野では議論になっている。当時は「部族」(tribe)や氏族(clan)とほぼ同義のような使われ方をしているように思える。
4 であれば、「騎馬民族」ではなくて「騎馬の文化を身に着けた、部族、氏族、」とすれば、これは日本史学、考古学の主要テーマである「渡来氏族、帰化人論」として、日本列島征服後に騎馬民族なる部族がどう日本社会に入り込んだか、という従来研究にもつながる。
5 この「騎馬民族王朝征服説」は事の適否は別として、「日本考古学会内の議論」であり、学会村のよそ者である「小林恵子」が「ちょっかい」を出している構図だろう。だから、学問の常道からすれば、不当な取り扱いをうけているのだろう。(学者にとって自説を否定されるよりも無視される方がつらいのだと思う)
6 その小林恵子にしても、その著書の冒頭付近で、古田武彦(失われた九州王朝)、岡田英弘(倭国)を引用文献として掲載しながら、両者の主要主張部分には全く言及せず、私に言わせれば「不当に無視」している。これは、以前投稿したけど、「もっともやってはいけないこと(悪癖)BY安本美典」の最たるもの。古田はアマチュア歴史愛好家、岡田は東洋史学会の「よそ者」だからと無視しているんだ、と勘ぐっている。そうなると、三笠宮から可愛がられた、というエピソードも、本当だろうが、それが何か?と不審に思っている。
7 特に岡田は、ウィキペディアにも取り上げられるほどの、「騎馬民族征服説」否定論者で、小林が引用している『倭国』(中公新書)には、わざわざ『騎馬民族の時代』という一章をもうけ、いわゆる騎馬民族というのは、中国大陸や朝鮮半島の動乱から日本列島に逃れてきた「中国人(華僑)難民」たちであろう、という仮説をたてている。小林はこれに対して何の反応もしない。これでは、小林に対する学会村の連中の態度と変わらないではないか。自説を無視されることの悲哀はご本人が一番わかっているのではないか。
私は、子供の時に、親から「自分がいやなことは他人にしてはいけない」と教えられてきたので、こういう言動にはどうしても反応してしまう。「80歳の白内障のばあさん」であっても容赦しません。80歳なら、健康保険1割負担で、最新のレーザー手術で白内障治療できますよ、と憎まれ口をたたきたくなる。私の亡母もそうして、視力をとりもどしました・・・
少しエキサイトして横道にそれてきたので、それこそ少し、頭を冷やします。
以上、伊藤睦月拝
【541】小林恵子説のプロトタイプとしての「騎馬民族征服王朝説」について(2)
伊藤睦月です。前回の【536】の続きです。
まず、小林恵子の定義を再掲します。
騎馬民族征服王朝説とは、
(2)ー1:列島で巨大な古墳が作られた4世紀頃から
(2)ー2:大陸の遊牧民が大挙して、列島に押し寄せ、
(2)ー3:それまでの土着民を征服し、
(2)ー4:国家を建設した。
(2)ー5:このことは、巨大古墳や、
(2)ー6:発掘された武具や馬などの遺物から証明される、というもの。(小林同書、枝番は伊藤)
(3)ー1:伊藤睦月です。さらに小林は、「江上氏の学説の根拠は、日本人が自由に大陸に行くことができた1930年代に(注:江上説が発表されたのは。1948年、日本独立、日中国交回復前)
(3)ー2:大陸の古墳や出土品と日本の古墳時代の出土品を比較検討した結果、その「関連性」に注目したことにあった。(以上同書)
(4)伊藤睦月です。この定義は、江上の主張をよくまとめています。これに批判者がリマークするポイントがあって、
(2)ー7:江上のいう「騎馬民族」とは、騎乗をマスターした「遊牧民」を指し、「農耕民」(漢民族、日本人など)が、騎乗を覚えたり、文化遺物があっても、「騎馬民族」とは言わない。(江上波夫『騎馬民族』中公新書)この「騎馬民族」の定義は、融通無碍に論争する江上にしては、相当厳格な定義です。批判者の標的にもなりました。
(4)伊藤睦月です。この定義によると、江上説には、小林説との関連で、次のような特徴があります。
(5)「騎馬民族王朝征服」は4世紀(古墳時代)に起こったこと。
(6)江上波夫は、もともと考古学者であることから、考古学の成果を重視している。彼の主張をまとめた『騎馬民族国家』(中公新書)の論証のメインは古墳とその出土品分析である。
(7)また、江上が採用した、考古学分析は発表当時は、戦前からのオーソドックスなものだったが、のその後の発展、炭素21年代測定法など科学的分析手法の導入については、「消極的」(佐原真:元国立民族博物館副館長)である。
(8)そして、文献学的な面においては、自説を強調するにとどまっており、考古学のそれと比べ、実証に弱い。
(10)伊藤睦月です。以上のような方法を前提に、江上が描いた「騎馬民族征服」のストーリーはおおむね、次の通り。小林恵子が、どう継承、発展させていったかに留意。(以下佐原『騎馬民族はこなかった』1993年、江上『騎馬民族国家』などから、伊藤が要約します。)
(11)ー1:東北アジア等の騎馬遊牧民族の国々、
①扶余、②高句麗、③百済、の系統をひく王侯貴族が、「任那(みまな):伽耶、加羅」にきた。
(11)ー2:「任那」に「辰王朝」があった。
(11)ー3:崇神天皇(第10代)を主役として、騎馬民族軍団をもって、(朝鮮南部の)辰から、北部九州に上陸
(11)ー4:北部九州に扶余・韓・倭の連合の「日本国」をつくる。
(11)ー5:北部九州筑紫の勢力を加えて、
(11)ー6:応神天皇(第15代)のとき、東に進み、大阪平野へ進出
(11)ー7:ここで、日本列島の支配を目指して、「日本国」から「倭国」へと国号変更
(11)ー8:応神以降の「倭の五王」で、日本列島征服を成し遂げた
(12)ー9:雄略天皇(21代)の時代前後に「大和王朝」を始める。
伊藤睦月です。以上が江上説の概要、です。次回は、江上説にどのような批判がなされてきたか、を紹介します。細かすぎる議論かもしれないが、これでも乱暴なくらい、端折っています。あしからず。
以上、伊藤睦月筆
(10)-1
【540】ブレイク:史癖(しへき)は、佳癖(かへき)なり(続き)
伊藤睦月です。前回からの続きを書きます。まずは、引用から。(引用開始)
(古代の))推理においては、次の二つのことが大切です。
(1)得られた証拠は、確実なものか。
(2)証拠から、結論に至る推理の道筋はたしかか。
伊藤睦月です。次は「悪癖」について
(1)推理というよりも、想像や連想を大幅に重ね、トンデモ本と変わりがなくなっているもの。
伊藤睦月です。私のいう「ファンタジー」ですが、単なるトンデモ本と片づけられるのは、少し違うかな、と思います。これ以降は、(1)の各論です。
(2)たとえば、「邪馬台国の九州説」、あるいは「畿内説」などの、前提、思い込み、先入観を持っていて、得られた材料をすべてその前提に合うように、「解釈していくもの」
(3)多くの材料の中から、自説に有利なものだけを、証拠として取り上げ、自説に不利なものは、すべて無視するもの。
(4)「自説」がある特定の「学説」であって、その特定の学説を信じ込んで、すべてその学説によって説明できる、とするもの。なんだかカルトに近い。
(5)自分できちんと調べ、確かめ、考えようとせず、誰かが述べていることを適宜組み合わせてストーリーをつくり、それでよし、するもの。権威者の意見に従うようになりがち。
(6)きちんとした証明よりも、とにかくマスコミなどを通じた宣伝に腐心しているもの。プロの研究者にも時々見られるそうな。
(7)観測された事実についての、ある解釈において有力な反論がすでに出ていることを見落としているもの。
そして、最後に安本センセイいわく、「以上のような注意すべき諸点がたくさんあるため、古代史の諸論点を考えるのは本当に頭の体操になります」とさ。
(引用終わり。『古代史論争最前線』はじめに)
伊藤睦月です。書き写していて、なんだか自分のことを言われているようで、冷や汗がでてきた。(笑)
確かに正論だが、これでは委縮して書けなくなるなりそう。まず、とにかく、書いてみることが大事。以上のような批判は他人にやってもらえばよい。そしてその批判を甘んじて受ける、そういう胆力を養う、ということでよいのでは。そのために当掲示板がある。
私、伊藤は、そう考えます。批判、反論上等!!!!
(罵倒は勘弁してほしい・・・)遊びをせんとや生まれけむ、ですな。
以上、伊藤睦月拝
【539】ブレイク:史癖(しへき)は、佳癖(かへき)なり
伊藤睦月です。頭が冷える前にうずうずしてきたので、投稿します。
安本美典『古代史論争最前線』(2012年柏書房)から。
(引用開始)「歴史をたしなむのは、良い趣味である」というほどの意味でしょうか。
特に古代史については、調べて得られた証拠を元にして、推理をしていく楽しみがあります。手がかりを元に、さらに調べ、あれこれ推理していくと、あらたなことがわかり、推理小説の主人公の、探偵になったような気分が味わえるわけです。努力次第で、次々と新しい証拠を得ることができます。(引用終わり)
伊藤睦月です。安本は、以上の楽しみを得るために、大事なことや逆に良くないこと(悪癖)について、アマチュアにもわかりやすく説いています。それを次回以降、紹介します。安本氏とは直接面識はありませんが、従来「郷土史家」と呼ばれるような、アマチュアでも分け隔てなく、権威ぶらずに接し、全国にファンがいます。江上波夫もそういったタイプの人だったのではないか。そう思いたい。三笠宮、小林恵子もまたそう。そういった人たち、この人たちの本を読んで、自在に論ずることができる喜び、まさに、「史癖は佳癖なり」ですね。
まだ、調子が戻らないので、当面小休止
伊藤睦月拝
【538】ブレイク:ちょっとくやしい話。
伊藤睦月です。私、伊藤は従来から「遣唐使は、唐帝国に、日本書紀を持参しなかった」「天皇号は、中国皇帝(則天武后)には名乗れず、「スメラミコト」でごまかした」という説を今年5月以降、当掲示板で主張してきた。しかし、この説に類似の先行主張があることを、「発見してしまった」。くやしいが、紹介する。(涙)
この研究者の名は、倉本一宏、今年の大河ドラマ「光る君へ」の時代考証も担当し、山川日本史詳説の古代編を執筆している「正統派」日本史学者だ。世間一般的には、伊藤より、倉本の業績となってしまうだろう。『古代史から読み解く「日本」のかたち』43頁から47頁、倉本一宏・里中満智子2018年祥伝社新書、から引用する。
I(引用はじめ)遣唐使(702年粟田真人が派遣された第7回遣唐使のこと:伊藤)が、中国の王朝に報告する義務があったものとして、国号、君主号、元号、律令、都城、歴史書(日本書紀のこと:伊藤)を挙げましたが、このうち報告・持参しても差し支えなかったのは、どれか、ここで検討してみることにします。・・・中途省略・・・第六の歴史書は、前述のように国史『日本書紀』は完成していないので持参していません。問題は第二の天皇です。これも「日本の君主は天皇です」と報告したら下手をすると戦争になります。・・・途中省略・・・では、どのように報告したか。天皇渡いう漢字は見せずに、「すめらみこと」と読んで聞かせるにとどめたはずです。中国の歴史書には、「主命楽美御徳」という六文字の漢字で記されています。誰かの入れ知恵があったのか、遣唐使は苦肉の策で折合いをつけたのです。
(以上、引用終わり)
伊藤睦月です。書いてて脱力感を味わっていますが、ここでもう少し書き込みます。
(1)本書が一般向けの歴史素人漫画家との対談集(新書)なので、倉本氏の業績にカウントされない可能性がありますが、同テーマで、学術論文を発表されたりしたら勝負あったです。
(2)読んで聞かせるですんだはずはありません。それなら「主命楽美御徳」の文字が中国側資料に残されるはずはないのです。皇帝には原則口頭で話すことは許されず、大半は文書(上表文、書とかいう)で皇帝の部下スタッフに提出され、審査を通過したものが皇帝が見る。だから「天皇」という表記の入った書を見せられるはずはないのです。日本書紀も同様に「天皇」と表記されていますから、中国側に見せられるはずがない、というのも同じ理由です。「すめらみこと」というふりがなは、国内向けです。このことは、東洋史学者の西嶋定生が、1980年代から指摘していたことで、倉本は西嶋説を「採用」している可能性はあります。
(3)さらに、粟田真人が謁見した皇帝は、「則天武后」です。「天皇」という言葉は、則天武后が自ら名乗った言葉から、日本で作られたものです。なお、このことをおそらく初めて解明したのが、斎川眞、副島隆彦『天皇とは北極星のことである』です。私の知る限り。
(4)だから、則天武后の前で「日本天皇」と名乗るのはできなかった、と思われます。ちなみに、「天皇号」の使用を認めてもらったのは、唐滅亡後、北宋太宗皇帝のときからだと思われます。(新唐書日本伝、宋書日本伝)
伊藤睦月です。かねてから、「先行研究には十分注意と敬意を払え」と強調していた私が、このていたらくですから情けない。
これでは、この掲示板上で、えらそうにいう資格はありません。皆さんも「他山の石」にしていただければ幸いです。少し頭を冷やします。
以上、伊藤睦月拝
【537】急いで加筆します。倉本一宏は、日文研にも所属してました。
伊藤睦月です。以前言及していた、倉本一宏氏は日文研OBでした(2018年頃)。他の本を読んでいたら出てきましたので、備忘録として書き留めます。山川教科書にも「梅原一派」が・・・それがどうした?と言われそうだが。
伊藤睦月筆
【536】小林恵子説のプロトタイプとしての「騎馬民族国家」征服説について(1)
伊藤睦月です。小林恵子説について、副島先生の過去の投稿まで飛び出して、にぎやかになってきましたので、ここらで、私なりにまとめておきたい。
(1)小林恵子説だが、これは本人が明記しているように、「江上説の歴史版」(『古代倭王の正体』まえがき)だから、小林説を吟味(批判)するには、そのプロトタイプとなった江上説の吟味をするのが、順番であろう。長くなるのは仕方ない。
(2)騎馬民族王朝征服説の定義(小林による)
騎馬民族征服王朝説とは、
(2)ー1:列島で巨大な古墳が作られた4世紀頃から
(2)ー2:大陸の遊牧民が大挙して、列島に押し寄せ、
(2)ー3:それまでの土着民を征服し、
(2)ー4:国家を征服した
(2)ー5:このことは、巨大古墳や、
(2)ー6:発掘された武具や馬などの遺物から証明される、というもの。(小林同書、枝番は伊藤)
(3)ー1:伊藤睦月です。さらに小林は、「江上氏の学説の根拠は、日本人が自由に大陸に行くことができた1930年代に(注:江上説が発表されたのは。1948年、日本独立、日中国交回復前)
(3)ー2:大陸の古墳や出土品と日本の古墳時代の出土品を比較検討した結果、その「関連性」に注目したことにあった。(以上同書)
(4)伊藤睦月です。これは、江上支持者の小林の定義。次に江上批判者による、定義を紹介する。
ここで、小休止。
伊藤睦月筆
【535】かたせ2号さんへ:さらなる御礼
伊藤睦月です。「前原誠司」に関するより正確な情報、ありがとうございました。「前原誠司」の名前を憶えているのは、副島先生の口からその名が出たことです。
昔々、副島先生が、TVの不定期コメンテータをされていたころ、(笑い)、前原から、「ソエジマさんのように本当のことばかり言っていると、そのうち誰からも相手されなくなるよ」といった趣旨の「忠告」をうけたことがあるそうで、過去の「重掲」か「ぼやき」にも書かれていたような記憶が・・・記憶ばかりで恐縮ですが。
前原は、母子家庭で、苦学して京都大学を卒業したとか。それ自体は尊敬すべきことですが、それから、どういう経路で、ジャパンハンドラーズ(この言葉も最近、言われなくなりましたね・・・)にリクルートされたのか。高坂正尭がリクルータだったのか。そのところはよくわかりません。高坂も自分がそうだとは言わなかったでしょうから。
以上、年よりの昔話でした。
時節柄ご自愛ください。
伊藤睦月拝
【534】お礼_伊藤睦月さんへ。
伊藤睦月さんへ。
かたせ2号です。
多数の投稿ありがとうございます。刺激になります。
1.
ワタシが権利放棄した「本能寺の変の真実のフォーマット」は、煎じ詰めて説明すると、下掲の投稿で紹介済の3冊の書籍に記載の内容に、以下の2つの命題を付け加えただけです。なので、自分のオリジナルだ、などと、強く主張する気にもなれないわけです。
(1) 本能寺の変の直前まで、信長が朝廷に暦を改めるのをしつこく要請したのは、
「信長の墓穴を掘るために、イエズスが信長に命じて、信長自身にやらせたこと」。
(2) 本能寺の変後の、秀吉の「デウスの恩寵による」神速の動きは、秀吉を介してのイエズス会と毛利家との「権力者共同謀議」。
すなわち、秀吉が中国攻めを独断で中止し和睦(毛利家はすぐさま応じる)⇒中国大返し(毛利家は追撃を一切しない)⇒山崎の合戦(秀吉方の軍勢の先鋒で高山右近が戦う)
ですので、以上の内容は、どなたが使って表現いただいてもかまいません。
そもそも、歴史の真実に著作権者という者はいません。歴史の真実は模倣されるためにあります。真実は多くの人びとのためにあります。それを大いに多くのみなさんに使っていただいて結構なのです(強気やなああ 笑い)。
2.
高坂正堯が、松下政経塾入りを勧めたゼミ門下生は、おそらく、前原誠司だけだと思います。
ワタシは前原誠司のことが昔から大嫌いですが、そのキャリア形成において可哀想な面も、あったかなと推察しています。前原誠司は、松下政経塾8期生です。
というわけで、以下の英文は、単なるゲスの勘ぐりなので、エンタメ案件の扱いでOKですが、
Maehara is a “dedication” from Kosaka to Matsushita.
前原誠司インタビュー記事から。
http://www.maehara21.com/kiji/kiji25.html
(引用開始)
◆政治家の本棚――71 運命の高坂正堯『国際政治』との出会い 2/2
―――前原誠司という政治家のまさに骨格のところだ。京大を卒業してこんどは松下政経塾へ行く。なぜですか。
前原:将来は大学に残るか外交官か,もう一つは漠然と政治家にと。高坂先生は,学者は天才でなければならない,外交官は東大が羽振りをきかせていたのでどうか,おまえはおやじがいないからどうかと。それで「山田を紹介してやるから」と。いま杉並区長をしている山田宏さん,高坂ゼミから松下政経塾に行った先輩なんです。
(引用終わり)
かたせ2号です。
山田宏のサイトから。
結局、前原に(のみ)松下政経塾入りを強く勧めた高坂の真意は何だったのでしょう?
ちなみに、前原誠司は松下政経塾8期生、山田宏は2期生です。
https://www.yamadahiroshi.com/pickup03.html
(引用開始)
(山田宏は)親に内緒で(松下政経塾への)願書を出した。一次、二次試験を通り、最終の面接試験を迎える前、塾側から、ゼミの教官の推薦状をもらってくるように、との通達を受けていた。山田は躊躇した。なぜなら、ゼミの教官・高坂正堯は松下政経塾の理事でもあったからだ。理事に便宜を図ってもらって試験に有利にするような真似はしたくなかったのだ。
やむなく高坂に事の成り行きを説明し、推薦状をいただきたいと言った。喜んで書いてくれると思っていたのだが、答えは案に相違して「やめとけ」だった。「五年間そこで学んでも食いはぐれるだけや。京大を出てもムダになるだけ。愛するゼミ生をそんな目に遭わせたくない」。
それでも、山田は食い下がった。自分がやりたい道はこれだ、と確信があったからだ。
結果的に高坂は五年の間に会計士の資格を取るということを条件に推薦状を書いてくれた。設立間もない松下政経塾は、当の理事からさえ「海のものとも山のものともわからない」という程度にしか思われていなかったのだろう。
(引用終わり)
以上