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タイタン 投稿日:2011/05/11 01:51

【471】[522]レベルIAEAの意図は

1215の副島さんの動画を見て、素朴な疑問があったので書き込ませて頂きます。

■自己紹介
私は通信企業で働いており、社会人3年目になります。
副島先生の本から社会のことを学ばせて頂いております。
副島先生につきましては真実を追求する態度、国際社会への深い知識力、金融分析ができる能力を尊敬しております。
歴史や政治や金融に全く興味がなかった私が、興味を持たせて頂いたのは副島先生の本を読んでからです。
3年間ほどの間に、先生の本を10冊程度読ませて頂き、学問道場のサイトも拝見させて頂いております。

■質問内容
1215の副島さんの動画を見て、素朴な疑問があったので書き込ませて頂きます。
副島さんはIAEAが脅して福島原発事故をチェルノブイリと同じレベル7だと認定させたとおっしゃっておりますが、IAEAがレベル7認定させた意図は何なのでしょうか?

IAEAは本部がオーストリアにあるからロスチャイルドの人脈を持っており、原発を推進させたいはずです。従って、原発推進派のロスチャイルドがレベル7の通告をするのは原発推派にとって不利益になるのではないでしょうか?むしろ、ガスや石油や再生可能エネルギ‐の利権を拡大させることになりませんか?

どなたが教えて頂けませんでしょうか。
また、誤解や事実認識の間違いがあればご指摘願います。

茂木 投稿日:2011/05/10 10:27

【470】[521]日本語と自他認識

会員番号1149番の茂木です。

今回の東電原発事故を巡る動きを見るに付け、日本語で思考する人々の「環境への同調性」に驚きます。ここの会員が、作為の環境=風評に踊らされてどうするのか。副島氏の熱意を源はそこにあると思います。

日本語が内包する環境への同調性、自他認識の薄弱性について、以前私のブログ
http://celadon.ivory.ne.jp
に書いた「母音言語と自他認識」という記事を、一部加筆・再編の上転載させていただきたいと思います。

———————————————–
「母音言語と自他認識」(11/16/2010)

 日本語が母音語であることと、それに伴って起こる日本語的発想における「自他認識」の薄弱性は、

I 日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が多い
II 日本人は母音を左脳で聴く
III 日本語は空間の論理が多く、主体の論理が少ない
IV 日本語に身体性が残り続ける

という循環運動(IVから再びIへ)で説明できる。詳しくは「脳における自他認識と言語処理」や「社会の力」などの項を見て欲しいが、ここではすこし順番を変え、言葉をさらに補足しながら、この循環運動を説明してみよう。また仮説の域を出ないことも多いだろうが、興味深い理論だと思う。

1. 人の言語野は左脳にある
2. 子供ははじめ右脳経由で言葉を覚える
3. 習熟すると人は左脳(言語野)で言葉を処理するようになる
4. 人の脳の自他認識機能は右脳にある

5. 日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が多い
6. 英語は子音の比重が多い

7. 人は発話時に母音を内的に聴く
8. 社会と母国語の学習によって脳神経回路が組織化される
9. 母親と社会から日本語(母音語)を聞かされて育つと、母音に習熟し、発話時に母音を左脳で聴くようになる
10. 母親や社会から英語(子音語)を聞かされれて育つと、母音に習熟せず、発話時に母音を右脳で聞き続ける

11. 日本人は発話時に自他分離の右脳をあまり刺激しない
12. 欧米人は発話時に自他分離の右脳を刺激する

13. 日本語は容器(空間)の比喩が多く、擬人の比喩が少ない
14. 英語は擬人の比喩が多く、容器(空間)の比喩が少ない

15. 日本語は空間(環境や場)の論理が多く、主体の論理が少ない
16. 英語は主体の論理が多く、空間(環境や場)の論理が少ない

17. 日本語的発想は環境中心で、環境と一体化しやすい
18. 英語的発想は主格中心で、環境と一体化しにくい

19. 日本語に身体性が残り続け、母音の比重が多くあり続ける
20. 英語は子音の比重が多くあり続ける

 以上だが、ここで再び、上の言葉を補足しながら冒頭の循環運動(IVから再びIへ)を見てみよう。

I  日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が多い
(1)人の言語野は左脳にある
(2)社会と母国語の学習によって脳神経回路が組織化される
II  日本人は母音を左脳で聴く
(3)脳の自他認識機能は右脳にある
(4)人は発話時に母音を内的に聴く
(5)日本人は発話時に自他分離の右脳をあまり刺激しない
III 日本語は空間の論理が多く、主体の論理が少ない
IV 日本語に身体性が残り続ける

 いかがだろう。複雑で分りにくいかもしれないが、この循環運動が理解できれば、日本語が内包する環境への同調性、自他認識の薄弱性がよくわかるのではないか。さらに詳しくは「言葉について」の各項、「脳における自他認識と言語処理」でも引用した“日本人の脳に主語はいらない”月本洋著(講談社選書メチエ)などを参照して欲しい。
———————————————–

ブログからの引用は以上ですが、日本語という極めて環境依存性の高い言語を使って、どのように「公(おおやけ)」の議論の場を構築していくか、という難題を皆で一緒に考えましょう。Twitterも始めました。http://mobile.twitter.com/sanmotegi
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

川端優美子 投稿日:2011/05/09 23:26

【469】[518]福島旅行報告2:こんぐれーのちっとんべえの放射能、世話ねえよ。

群馬のゆみこ(川端優美子)です。5月3~5日に大川晴美さんと福島に行ってきました。[516]に続いて、5月3日(初日)郡山市在住の学問道場会員Yさんの案内で原発から20km地点、川内村の立入禁止看板前まで行った報告をします。

5月3日午前、東京からの大川さんと新幹線の車内で落ち合う。わたしと大川さんは、「ああ、どうも」と挨拶するくらいで、ほとんど前置きなく本題を話し始める。気が合う。
ゆみこ:「お、これは・・・ヘラルド・トリビューン!」
大川さん、英字新聞を読むインテリです。一面のビン・ラディン殺害のニュースで盛り上がる。「あれはもうとっくの昔に死んでいるのに、わざとらしい、やらせだ」「なんで死体を海に沈めるんだ」「ビン・ラディンはCIAのエージェントだ」などなど。

郡山駅に着くと、以前からメールで案内を申し出てくださっていた郡山市在住の学問道場会員Yさんと落ち合い、まずお昼を食べに行く(Yさんにご馳走になる)。『魚紋(ぎょもん)』というお寿司屋さんで、Yさんによると「たべログ」お寿司部門で一位になったお店で、震災前のお昼は外にずらっと行列ができたそうだけど、いまお店は空(す)いている。お寿司は新鮮でおいしかった。海のない群馬では、ちょっとこういうのは食べられない。
食べながら三人で原発のことや副島先生のことを話す。Yさんは、副島先生のと同じガイガーカウンターをお持ちで、郡山の自宅で測ると毎時1マイクロシーベルトくらいは出るそうだ。あとで行った川内村の原発から20km地点、立入禁止の看板と警官が6,7人いたところで測ったら、毎時1マイクロシーベルトだった。「同じ放射線量で、郡山市は住んでいてよくて、川内村は強制的に住民を追い出す(入ったら罰金)って、どういうことだ、ワケがわからない」と三人で言い合う。

話していて、郡山に住んでいるYさんと、原発から200km以上はなれて住んでいるわたしと大川さんには、やはりギャップがあることを感じた。三人とも副島先生の「大丈夫だ」というのを理解して信じているけれど、Yさんはお子さんがいるので、飲み水や料理にはミネラルウォーターを使っているそうだ。「大人だけならいいんだけどね」と言っていた。
心理学の実験で「ウソも7回言われると、本当かな、と思う」というのを聞いたことがある。あれだけマスコミで「危ない、危ない」と言われ続けると、やっぱり冷静ではいられない。わたしも福島旅行の前に、何度かふっと行くのが怖くなった。そういうときは「あのでたらめのマスコミ(電通)と、いつも本当のことを教えてくれた副島先生のどっちを信じるんだいね」と自分に問うた。

ところで、すごく不思議な感じがしたのは、三人とも初対面とは思えないほど、すぐに打ち解けあったこと。この世の真実を知っているという前提と、副島先生の下(もと)に集まった三人だから、そのように思えるのだ、と言い合った。だって、ふだんは職場でいろんな話をしても、「川端さん、また陰謀ですか」とか言われちゃう。みんなもそうでしょ。

『魚紋』さんを出て、Yさんの車で案内してもらう。まず有名な三春(みはる)の滝桜(樹齢千年)へ。桜はもう散ってはっぱが出ていたけど、大きくてりっぱな桜でした。「いつもなら観光の車で渋滞して動けないのだけど、原発事故があったから今はがらがらでしょ」とYさん。そのあたりは小さな山がたくさんあって、その合間に集落があって、昔話の挿絵(さしえ)のようでした。「これが里山(さとやま)だね」とYさんが教えてくれた。
その先の三春ダムの桜湖で放射線量を計測。 地上1m 毎時0.26マイクロシーベルト
(放射線の計測値は大川さんの【[506]福島からの報告(第一報)】と同じです。)

次々に移動して、放射線量を計測。
田村市都路行政局 地上1m 毎時0.61マイクロシーベルト
川内村JAふたば川内支店 地上1m 毎時0.35マイクロシーベルト

どこもかなり家が密集しているのに、がらんとしている。
Yさんが、「さて、どうしますか。20km地点に行きますか」と言うので、わたしは「行きましょう」と力強く答える。(大川さんはもちろん最初からYes。)

川内村の原発から20km地点に着いた。「災害対策基本法により立入禁止」の大きな看板が3枚、道を塞(ふさ)いでいる。神奈川県警の警官が6,7人。車を降りると、マスコミらしきわけえし(若い衆)が一人、わたしたちの前を通り過ぎようとするので「お兄さん、どこの人」と聞くと「毎日新聞です」。「毎日新聞が・・・一人、と」ゆみこメモを取る。向こうにはテレビカメラ1台を持った三人組のわけえし(若い衆)。「なに新聞ですか」と聞くと、「NHKです」。「えねえちけーが・・・三人」ゆみこメモを取る。「いつから来てるの?」「おとといからです。」「おととい・・・から、と。」NHKはメモを取られているのが嫌なようで、ぷいっと向こうに行ってしまう。

では、計測。川内村 原発から20km地点 地上1m 毎時1.09マイクロシーベルト、地面(芝生の上) 毎時11.07マイクロシーベルト、地面(アスファルトのくぼみ、雨が溜まって蒸発したであろう場所) 毎時13.04マイクロシーベルト

立入禁止の看板の前で、大川さんと代わる代わる証拠写真を撮って退散。大川さんが「突破しよう」と言わなくてよかった。

このあと、山道を抜けて海のほう(いわき市の新舞子海岸)へ案内してもらう。車の中でわたしと大川さんは「副島先生ってぇ」「副島先生がぁ」と盛り上がり(今日のぼやきの1215の動画がかっこよかったとか)、はしゃぎ疲れて眠ってしまう。ガタンとなって目が覚めると、海のそばの松林の間をゆっくり走っている。地震でアスファルトの地面がところどころ割れている。ああ、ついに来たなあ。

Yさんが「若いころよく来た」という新舞子(しんまいこ)海岸で車を止める。外に出ると、見渡す限り海が広がり、白い砂浜に波が打ち寄せていい音がする。群馬は海がないので、わたしは海にとても憧(あこが)れる。こんないい所ないな。でも、降り向くと、1階部分がぜんぶ水に浸(つ)かり中身や壁が津波に持っていかれて慚無(ざんな)い姿の家が並んでいる。道端には冷蔵庫やテレビ、ソファ、本棚などの家具が積み上げられている。
Yさんと大川さんが「屋根瓦(がわら)は無事だから、このあたりはそれほど高い津波じゃなかったようだ」などと話し合っている。「原発まで津波が来たのか」ということが気になっている様子。

いわき市平(たいら)新舞子海岸 地上1m 毎時0.49マイクロシーベルト

Yさんに、かなりの道のりを高速道路を飛ばして磐梯熱海の旅館まで送ってもらう。福島県ってすごく広い。

旅行を計画したときは、ただの観光旅行のつもりで、原発20km圏や津波の被災地まで来られるとは思っていませんでした。Yさんのお陰で、立派な調査旅行になりました。どうもありがとうございます。

タイトル解説「こんぐれーのちっとんべえの放射能、世話ねえよ。」=「これくらいの超微量の放射線は大丈夫です。」  以上

大川晴美 投稿日:2011/05/08 18:16

【468】[517]Re: 警戒区域の法的根拠を教えてください

福島における警戒区域の設定は、次の二段階で行われたと推測します。
1.原子力災害対策特別措置法に基づき、原子力災害対策本部長である内閣総理大臣が関係市町村長に対し、避難指示区域(福島第一原発から半径20キロ圏内がすでに避難指示区域であった)を警戒区域に設定するよう指示した。安全・治安を確保するためという理由による。
2.この指示に基づき、関係市町村長は災害対策基本法を根拠として、4月22日に上記1の区域を警戒区域に設定した。
専門家の皆様、もし間違っていたら教えてください。

5月の連休中に郡山の「ビッグパレット福島」を訪問し、被災者対象の法律相談を実施している弁護士のお話を伺いました。相談内容の多くは二重ローンの返済など、緊急の切羽詰まった内容とのことでした。ビッグパレット福島は避難所になっていて、多くの被災者が避難生活をしていますが、その生活は本当に厳しそうで胸が痛みました。根本的な解決策は、被災者への補償が早急に行われるとともに、放射能に汚染された土壌の除去などにより、自宅に帰りたい人は一日も早く帰って元の生活に戻ることだと思います。

川端優美子 投稿日:2011/05/08 01:10

【467】[516]福島旅行報告1:「放射能濃度が高いという話はだめですよ。住民の人たちが怖がるから。」避難所の男子高校生

群馬のゆみこ(川端優美子)です。2011年5月3,4,5日に[506]の大川晴美さんと福島県に行ってきました。3日は郡山在住の学問道場会員さんの案内で、ガイガーカウンターで放射線量を計りながら川内村の20km検問地点まで行き、4日午前は会員のあやめさんの案内で猪苗代の「世界のガラス館」へ、午後は裏磐梯の宿の避難者を訪問、5日は期せずして巨大避難所「ビッグパレットふくしま」を訪問しました。順序が逆になりますが、いま一番書きたい5日のビッグパレットふくしまでの体験から書きます。

5月5日、ニ泊した磐梯熱海(ばんだいあたみ)の旅館をチェックアウトしてコーヒーを飲んでいると、旅館のおじさんが「あの副島さんの報告文は、ここに置いていっていいんですか」と話しかけてきました。4月29日の副島先生の【[499](報告文 14) 原発事故の責任者たちを、どうしても裁判(刑事裁判も)に掛けなければいけない。住民が殺処分にされつつあるるのです。私は真剣に深刻にそう思います。】のことです。わたしが「当事者である福島の避難者に読んでもらわねば」と思って、7部コピーして持ってきたうちの2部を旅館のロビーに置いたものです。
(前日の4日に、わたしはその旅館に観光客風でない人たちがたくさんいることに気づき、一人に話しかけてみたところ、川内村から避難している人たちでした。その人に先生の[499](報告文14)を「これ読んで」と渡すと、食い入るように読んでいました。旅館のおじさんも、先生の報告文を見て、学問道場のウェブサイトを見たと言っていました。)

旅館のおじさんが、この旅館にも、周りの旅館にも避難者がたくさん滞在していること(福島民報より:「二次避難」始まる ホテル・旅館に県、宿泊費を負担:
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/04/post_104.html)、
郡山に「ビッグパレットふくしま」という避難所があることを教えてくれました。避難所で、旅館に避難したい人を募(つの)って、移動してくるそうです。「体育館のような避難所にいる人と、旅館に避難している人の違いは何ですか」と聞くと、「避難所からのほうが職場から近い、近所の人と離れたくない、子どもの学校があるから」などの理由だということでした。ビッグパレットふくしまにわたしたちが行ったら迷惑だろうか、とおじさんに聞いてみると「ん~、そんなことないんじゃない」と言われたので、思い切って行くことにしました。

磐梯熱海駅から郡山駅まで電車で15分、そこからタクシーで10分、ビッグパレットふくしまに到着。大音量でロックがかかっている。建物の外(前)の屋外展示場の端に自衛隊のお風呂があった。若い自衛隊員(じえたいさん)に声をかけると、練馬から来た第1師団だそうだ。福島は第12旅団の担当で、それの手伝いだとか。第12旅団って、群馬の自衛隊じゃないか。ありがとう。ご苦労様。

大音量のロックは鳴り止んでおり、自衛隊のお風呂の隣でプロレスをやってるのを見に行った。あの音楽は入場曲ね。リングの横断幕に「佐々木健介25周年記念 がんばれ東北」とあった。ああ、テレビで見たことある人だ。リングサイドには黒のジャージーを着た北斗晶(ほくとあきら・佐々木健介のお嫁さん)もいた。北斗晶って意外と小さいんだな。
取材に来ていたのは、脚立(きゃたつ)も用意している読売新聞(カメラ小僧のような望遠)、脚立なしの福島民友新聞、あとどこかのテレビ局。ボランティア・スタッフ風の黄色い上っ張りを着た若い男性に話しかけると、他府県から1週間派遣された市役所職員だった。「あなたは?」と聞かれたので「群馬から来た普通の人。マスコミがちゃんと取材しないから、あたしが来たんさ」と言うと、目が輝いて名刺をくれた。そして「マスコミはひどい。特にNHKが一番ひどい。避難している人に、どんな気持ちですか、とか無神経な質問をして、たくさん撮っていくのにひとつも放送しない」と教えてくれた。

次に、黄色い上っ張りのごく若いボランティア・スタッフ三人組に声をかけた。本人たちも富岡町からの避難者で、ボランティアをしている男子高校生。「ボランティアって、お金もらえるの」と聞くと、「無償です。ここにタダで泊めてもらって、食事ももらっているのに、そんなバイト代だなんて」と言う。こんなひどい目に遭(あ)っているのに、こんなこと言うんだ。でも、よくよく話を聞いてみると、やっぱり怒っている。「みんなイライラして、喧嘩(けんか)ばっかりですよ」と。そりゃ、そうだろうね。先の見通しもなく、もう二ヶ月近く経つんだもの。
富岡町の住人は福島県の三春(みはる)、郡山、大玉村、姉妹都市提携をしたばかりの埼玉県の杉戸町の四ヶ所の避難所に分かれているそうだ。高校生たちは原発から7kmとか1.3kmのところに家があるのだと言っていた。
「情報がないでしょう。みんなでまわし読みして」と、先生の[499](報告文14)をその子に渡した。するとその高校生は「放射能濃度が高いという話はだめですよ。住民の人たちが怖がるから」と言う(なんてしっかりした子だろう)ので、わたしは「違うよ、反対だよ。もう放射能はすごく低い数値なんだ。もう大丈夫なんだよ」と言った。「先生のレポート全部(ファイル3冊くらい)をここの人たちに読んでもらいたい。あなた宛に送っていいかな」とわたしが聞くと、「いいですよ。うちのお父さんは役場の職員だから、お父さん宛に送って」と言う。「お父さんがお役人なら、(内容が内容だけに)お父さんに迷惑がかかるんじゃないの」とわたしが聞くと、高校生は「役場の職員とか、避難者とか、そういうの関係ないですよ!」と言う。役場の職員も含めてみんなが避難民であり、同じつらい境遇なので連帯感が強いよう。

田舎は役場職員と言っても、みんなだいたいは住民と知り合い(同級生、ご近所など)なので、都市部とは感覚が違う。わたしも田舎に住んでいるので分かる。役場の人は基本的に住民に親切だ。わたしの父が確定申告に行くと、税務課の職員が「こうしたほうが得ですよ」とやり直してくれる。すると本当に何万円も税金が返ってくる。これを、一緒に旅行した東京在住の大川さんに話すと「税務課の人が税理士さんをやってくれるのね」とびっくりしていた。

プロレスも終わり、恐る恐る避難所の中に入ってみた。誰にも咎(とが)められずにどこへでも入っていけた。ちょうどお昼時で、食事の配給に長い行列ができていた。食事はコンビニのおにぎり、パン、カップラーメン、パック入りの野菜ジュースなどで、ニヶ月近く毎食これでは大変だなと思った。みんな廊下にダンボールでついたてをして住んでいた。まるで新宿のホームレスだ。わたしはこの二つを実際に見て、肌で感じて、先生が「戦争状態」と仰(おっしゃ)っていたのがやっと理解できた。本当に異常事態だ。

無料法律相談をやっているところにいった。日本弁護士連合会(日弁連)の弁護士さんが4人、東京から日替わりで来ているそうだ。大川さんが弁護士さんにいろいろと質問していた。どんな相談があるのか聞くと、国や東電を相手に住民が集団訴訟とかそいうのではなく、もっと細かい、住宅の二重ローンといった相談が主だという。わたしは「普通の人々は国や東電を訴えるとか、そんなこと考えられない、どうしたらいいか分からないのだ、だから弁護士さんたちが手伝ってあげてほしい」と訴えた。わたしは冷静に言えず、文句を言っているようだった。弁護士さん、ごめんね。日弁連では、今回の原発事故のことで国に対して提言をしている、というようなことを言っていた。わたしは興奮していたし、内容が難しいのでよく覚えていない。大川さんが「これは素晴らしい活動で、国民を代表してお礼申し上げます」と言い、わたしも一緒にお辞儀してそこを離れた。

すると、向こうから男性三人組が日弁連の弁護士さんたちに挨拶をしにやって来た。わたしたちは少し離れたところから様子をうかがっていて、挨拶が済んだ三人に「マスコミの人ですか」と話しかけた。すると、こちらも弁護士さんだった。さっきの日弁連の弁護士さんは「スーツを着た青白いガリ勉ちゃん」たち、こちらの三人は「日曜日のお父さん」二人と「日焼けしたチャラいお兄さん」一人。このお三人は人権擁護(ようご)派の弁護士だそうで、「さっき、わたしたちが入れる範囲で一番原発に近いJヴィレッジに行って放射線濃度を測ったら毎時1.2マイクロシーベルトだった。郡山でも毎時1マイクロシーベルトもあるのだから、住民の安全のためにもっと避難地域を拡大するべきだ」と言う。わたしたちが「国際基準で年間20ミリシーベルトまで大丈夫なんだから、毎時1マイクロシーベルトくらい大丈夫ですよ」と言うと、弁護士さんたちは「いや、年間1ミリシーベルトじゃなきゃだめだ」と言う。

弁護士さん:「親が放射線濃度の高い地域に残って住むと言ったときに、子どもを親の勝手で被曝させていいのか、という問題がある。」

ゆみこ:「子どもが親と離れて生きていけるわけないでしょう!」

この人、なに考えてるんだろう。まさか、子どもを親から引き離して集団疎開させるとか。もしかして、これがコミュニタリアン(代表・マイケル・サンデル)?「人権、人権」と叫(さけ)んで、よけいにひどいことをする人たち?不勉強でよく分からない。

弁護士さん:「20km圏外でも、20km圏内と同じか、それより放射線濃度の高いところがある。それなのに避難させないのは危ないでしょう。人権問題だ。」

ゆみこ:「ということは、原発から20kmで同心円を描いて避難させてるのは、放射線の濃度で区別してるんじゃないってことですよ!」

弁護士さん、ちょっとはっとする。

ゆみこ:「20km圏内に入らせない、罰則まで付けて入ってくるなと言うことは、あの中で、なにか日本国民に見せたくないことをやるんですよ!あそこに日本中の放射性廃棄物を持ってきてゴミ捨て場にするとか、米軍がやって来るとか、そういう話があるんです!」

すると、それまでわたしたちを「ダメだコリャ」という感じで引いてみていた一番年長の弁護士さんが「放射性廃棄物の処理場っていうのは、あるかもしれないな」と真剣な顔になって言いました。

そこで、弁護士さんたちは「マスコミの取材の時間だから」ということで、名刺をもらって別れの挨拶をしました。一番年長の弁護士さんは梓澤和幸(あずさわかずゆき)さんという、植草一秀先生の弁護士さんだそうです。「NPJ(News for the People in Japan)のウェブサイト見てよ」と言われたので、「じゃあ、副島先生の学問道場も見てください」と言うと、「ああ、副島さんとこの!」という反応でした。副島先生と植草先生は対談本出してるもんね(『売国者たちの末路』)。最後は和(なご)やかに挨拶できました。

もう帰ろう、ということで、外に出てタクシーに乗って走り出すと、もう避難所とは別世界の、群馬と変わらない普通の街です。郡山の市民からは、避難民は見えないようになっているみたいです。なんか、異常な感じです。

わたしが感じたのは、副島先生が学問道場で仰(おっしゃ)っていること(もう福島は大丈夫だ、家に帰ろう)は、まだ知らない人が多い、ということです。マスコミが使えないということは、わたしたちにできるのは草の根活動で広げていくことだと思います。副島先生はものすごい先生だけれども、わたしたちと同じ人間であり、一人しかいないのです。だから、みんなでお手伝いしないと!

わたしは、二年位前でしょうか、小沢一郎が西松問題(言いがかり)でひどい目に遭(あ)っているときに、はっと気づきました。いかに小沢一郎がすごい人であろうと、彼も一人の人間なのだ。体はひとつだし、選挙の投票権だって一票しか持ってない。議会で投票するときも一票だけ。だから、「小沢さん、お願いします」とスターにぶら下がってないで、わたしたち一人ひとりが具体的に小沢一郎を応援しないと、この革命を成すことはできないんだ。それで、わたしは陸山会に入りました。群馬の小沢ガール、三宅雪子衆議院議員の集会にも行きました。政治集会なんて怖かったけど、勇気を出して行ったら別に怖くなかった。原口総務大臣(当時)がゲストで来ていて、お話を聞くことができたし、それを報告文にして阿修羅サイトに投稿したら、みんながたくさん拍手してくれて、1位になりました。副島先生がそれを見ていてくださって、「これはいい」と、この重掲で紹介してくださいました。すごく嬉しかった。

それから、今日のぼやきの「1215」の動画(【動画】副島隆彦からの緊急提言。動物たちの殺処分だけでなく、福島の住民たちに対する、恐るべき政治的殺処分が行われようとしている。東電原発事故の責任者たちを追求せよ。)の全編をDVDに焼いて、たくさん焼いて、避難所の人や、旅館に避難している人たちに配ることはできないでしょうか。当事者があの先生の動画を見れば、何か思うはずです。  以上です。

長井大輔 投稿日:2011/05/08 00:03

【466】[515]福島県浜通り地方と原発巨大事故

長井大輔です。今日は5月7日です。

私はこれまで、重掲に福島報告文を3本書いた。
今回は自分の出身地である福島県浜通り地方について、書いてみようと思う。

【地図】原子力発電所立地地点の概要図(福島県のホームページから)
http://www.pref.fukushima.jp/nuclear/pdf_files/aramashi03.pdf

【相馬市と新地町】
私は福島県の相馬市(そうまし)というところで生まれた。相馬市街は中村(なかむら)と呼ばれ、沿岸の漁師町は原釜(はらがま)と呼ばれる。中村は江戸時代、相馬6万石の本拠地であった。相馬家は中村の前は、小高(おだか)に居城(きょじょう)を置いており、米沢(よねざわ)の伊逹政宗(だて・まさむね)と戦っても負けない、強い大名だった。相馬市は本当は、中村市と名のるはずだったが、高知県に同名の市があったため、相馬市と名のることになった。

日本政府の総務省が主導する「平成の大合併」のとき、相馬市は新地町(しんちまち)との合併をめざしたが結局、実現しなかった。新地町は現在は、福島県に組み込まれているが、かつては伊達領(仙台藩、62万石)で、方言的にも宮城県に近い。新地町には東北電力系の新地発電所(相馬共同火力発電株式会社)があり、その恩恵(おんけい)を受けているため、あまり相馬市とは合併したがらない。新地には立派な町役場と図書館が建っている。火発建設の際には、住民に多額の補償金(ほしょうきん)が支払われたと聞いている。

新地町には釣師(つるし)という漁師町があったが2011年3月11日の地震・津波により、潰滅(かいめつ)した。私のおばは釣師の水産業者で働いていたが、普通の揺(ゆ)れではないと思い、一目散(いちもくさん)に鹿狼山(かろうさん)という山にむかって避難した。ただ一旦、自宅に引き返したため、再度逃げる際には津波が到達し始め、津波と競争しながら、避難した。新地町では国道6号線まで津波が押し寄せている。

相馬市の原釜地区も同様に、津波によって潰滅した。私も何度も、現地に足を運んだが、津波による惨状(さんじょう)を目の前にしても、いまひとつ実感が湧(わ)かない。漁師町が瓦礫(がれき)の山と化してしまったことは、目の前の現実なので、信じられないということはない。だが「こんな風になるはずがない」「原釜に大津波が来るわけがない」とは、今でも思う。私の母親は「おれの故郷(ふるさと)がアフリカみたいになってしまった」と嘆(なげ)いている。母親の実家は高台にあるので、津波に流されることはなかったが、それでも床上まで浸水したらしい。

原釜地区には、松川浦(まつかわうら)という観光地がある。日本三景の松島になぞらえて、小松島(しょうまつしま)とも呼ばれる。ただ宣伝が下手なので、全国的な知名度は低かった。その松川浦には、松川浦大橋(まつかわうらおおはし)という橋がある。松川浦大橋は、斎藤邦吉(さいとう・くにきち)のおかげで、できたと言われている。

斎藤邦吉は自民党大平派(宏池会、こうちかい)の衆議院議員で、党幹事長や厚生大臣をつとめた。田中角栄に近かった。浜通りで力のあった政治家といえば、この斎藤邦吉ぐらいだ。田中角栄の女婿(じょぜい、むすめむこ)の田中直紀(たなか・なおき)が浜通りを選挙区としていたこともあったが、落選したために新潟に移って行った。

【南相馬市】
南相馬市は原町市(はらまちし)・鹿島町(かしままち)・小高町(おだかまち)が合併してできた市だ。当初は飯館村(いいだてむら)も合併するはずだったが、決裂した。「南相馬市」という名前は一般公募で決まった。一旦、「ひばり野市」という名前に決まったが不評だったので、再投票により、現在の名前に決まった。当時、原町市の住民だった私も「南相馬市」と書いて、投票した。

だが、「南相馬」という地名を使う地元民は皆無だ。みんな昔から使い慣れた「鹿島」、「原町」、「小高」を使う。南相馬市という名前に決まった理由は、「相馬野馬追(そうま・のまおい)」という伝統行事があるからだろう。神旗争奪戦(しんきそうだつせん)や騎馬武者競争が行われる。開催が危(あや)ぶまれたが、今年もやるらしい。南相馬市は相双地区(そうそうちく、相馬地方と双葉地方)の中心地ということになっているが、盛りを過ぎた、さびれた街だ。私は原町よりも、相馬の方が好きだ。

相双地区で進学校といえば、相馬高校( 相高、そうこう)と原町高校(原高、はらこう)だ。就職校として有名なのは、小高工業高校だ。小高区は1F(福島第一原発)から20km圏内の警戒区域に入っているため、授業が再開できない。相馬市にある相馬東高校で代替授業をする。小高工業の卒業生は技術者となり、優秀な生徒は原発関連企業に行く。

【相双地区といわき市】
浜通りにはJR常磐線(じょうばんせん)、国道6号線が走っている。近々、待ちに待った常磐自動車道も全面開通する予定だった。相馬地方の連中は、買い物や遊びに行くときは、仙台に行く。Wikipediaによれば、相馬地方は仙台大都市圏に組み込まれている。これは私の実感とも一致する。

福島県は会津・中通り・浜通りの3つの地方に分かれる。会津地方は福島県西部にある。東部地方は阿武隈高地(あぶくまこうち)を境にして中通り地方と浜通り地方に分かれる。中通り地方には、福島市や郡山市があり、福島県の中心部だ。私は、会津や中通りには、殆(ほとん)ど行ったことがない。小学校の宿泊訓練(修学旅行のようなもの)で会津若松市(あいづわかまつし)には1回行ったことがある。福島市には、免許の更新をしに行くぐらいだ。

ざっくり言って、新地町・相馬市・南相馬市は宮城県だ。同様にいわき市は茨城県(いばらきけん)だ。上野(うえの)始発のL特急「スーパーひたち」もだいたい、いわき終点だ。だから、いわきは関東地方だといってよい。たしか、TVも関東ローカルを受信できたはずだ。

となると、残るは双葉(ふたば)地方だ。ただ、双葉地方の最北端にある浪江町(なみえまち)は、相馬地方に組み込んでいいと思う。私も原町に住んでいる時は、浪江によく遊びに行っていた。また双葉地方の最南端にある広野町(ひろのまち)も、いわき市に組み込んでいい。ニューズを見ていると、広野の住民の勤務先はいわき市だ。

最後に残るのが双葉町(ふたばまち)・大熊町(おおくままち)・富岡町(とみおかまち)・楢葉町(ならはまち)であり、ここが「原発銀座」「原発海岸」だ。私は相馬地方に長年住んでいたが、双葉地方には殆ど、行ったことがない。用があるときは仙台に行く。東京に行くときも、双葉地方はただ通過するだけだった。何もないからだ。

ただ、私のおじが原発作業員なので、その送り迎えで大熊町には行ったことはある。今回の原発巨大事故に関して、おじに話を聞いてみたが、1Fでも、2F(福島第二原発)でも、勤務したことがあり、若いころは今回、水素爆発を起こした1Fの一号機の中で作業したことがあると言っていた。

【浜通りと原発】
3月11日の地震により、1Fで原発巨大事故が起きた。それにより、福島県は世界的に注目されることになった。私は一生、福島県、特に浜通りは有名になることはないと思っていた。あの地域は一生、あのままで終わっていくと思っていた。私の母親は「相双地区は日本で一番、遅れている」と言っていた。発展から取り残された「陸の孤島(ことう)」だとも言っていた。

今回の原発巨大事故が起きた時、「恐(おそ)れていたものがついに起きた」と私は思った。小学生のころ、NTV(日本テレビ)の『世界まる見え!テレビ特捜部』が、原発事故をシミュレイトしたドイツの番組を紹介しているのを見たことがあった。おそらく、チェルノブイリ原発事故に影響されてつくられた番組だったのだろう。

原発事故が起き、放射性物質が漏(も)れ、住民に避難命令が出る。避難民の車が長蛇(ちょうだ)の列をつくる。軍の検問所(けんもんじょ)で避難民がスクリーニングを受け、除染(じょせん)される。子供だった私にとって、その映像はショックだった。小学校の授業でも、原発事故について調べて発表した。原発作業員のおじがいたこともあって、他の人よりは原発に関心があったと思う。

ただ、福島県では、原発の小規模事故のニューズは日常茶飯事で、「原子炉は自動停止しました、微量の放射能が計測されましたが、環境には影響ありません」といった類(たぐい)のものばかりだった。だれも原発に関して、気にも留(と)めなかったと思う。双葉地方の連中は原発と共存していたのかもしれないが、相馬地方は原発と無縁(むえん)だった。まさか、本当に原発で事故が起きるとは思わなかった。私も人生の中で一番、神経をすり減らし、頭を悩まし、胃を痛めた。

双葉町と大熊町にまたがって1Fが、富岡町と楢葉町にまたがって2Fが建っている。調べてみるとTEPCO(テプコ[ウ]、東京電力)ではないが、東北電力が浪江町と南相馬市小高区にまたがって、浪江・小高原発を建てようとしていたらしい。完成すれば「福島第三原発」になったというわけだ。電力会社の元従業員の話によると、浜通りの北部にある相馬や原町、また南部のいわきは原発建設を断るのだが、その間にある過疎(かそ)地域が原発を受け入れてしまうのだ。

【原子力発電所建設の経緯と現状】
福島県による『原子力発電所建設の経緯と現状(以下、経緯と現状)』という文書を読むと、どうも地元の双葉・大熊にせよ、楢葉・富岡にせよ、原発建設に反対するどころか、むしろ、積極的に誘致している。福島県も原発誘致に協力的だ。『経緯と現状』の1Fの「誘致運動の発端」を引用する。

(引用開始)
[福島]県は、昭和35[1960]年5月10日、(社)日本原子力産業会議に加盟するとともに、県内数地点について、原子力発電所立地調査を行った結果、大熊、双葉地点が適地であることを確認した。同年7月には、通商産業省産業合理化審議会原子力部会の答申があり、原子力発電の民間開発の気運が高まる。

昭和36[1961]年9月には、東京電力(株)が、原子力発電所敷地を双葉郡大熊町、双葉町にまたがる太平洋岸長者原地内の元飛行場跡地を物色しているとの情報に、大熊町、双葉町では積極的協力の態度を示し、県及び東京電力(株)に対し、原子力発電所の設置について陳情するとともに、用地買収及び受入態勢の整備について協力することとした。また、大熊町議会においては昭和36年9月19日、双葉町議会においては同年10 月22 日に、それぞれ東京電力(株)福島原子力発電所誘致の決議を行った。
(引用終了)
①[]は引用者による補足
②読み易さを考えて、引用者が適宜、改行した。

つぎに『経緯と現状』から2Fの「(1)誘致運動の発端」と「(2)建設用地の買収」を引用する。

(引用開始)
(1)誘致運動の発端
 大熊町、双葉町の原子力発電所誘致運動が発端となり、富岡町、楢葉町においてもその気運が高まり、昭和42[1967]年11月には、南双方部総合開発期成会が企業誘致を知事に陳情し、43[1968]年1月、県は、東京電力(株)福島第二原子力発電所の誘致を発表した。なお、富岡町、楢葉町は協力の態度を示し、富岡町議会でも原子力発電所誘致促進の決議を行っている。

(2)建設用地の買収
 昭和43年6月、東京電力(株)は県に対し、富岡町、楢葉町の太平洋岸に原子力発電の第二地点の用地斡旋[あっせん]を依頼した。県はこれを了承し、県開発公社が同業務を引受けることとし、44[1969]年7月には、県開発公社と東京電力(株)との間に「東京電力(株)福島第二原子力発電所の用地取得等の契約」を締結したが、富岡町毛萱[けがや]地区では、原子力発電所設置絶対反対を決議したことなどもあり、富岡町議会では、原子力問題調査特別委員会を設置した。

昭和45[1970]年3月、楢葉町議会では、東京電力(株)福島第二原子力発電所建設用地の町有地処分を議決し、昭和46[1971]年3月、東京電力(株)福島第二原子力発電所地点の土地買収交渉がまとまり、昭和48[1973]年3月、県開発公社は、東京電力(株)に福島第二原子力発電所地点にかかる用地等(発電所用地132万m²、進入路用地3.7万m²)の引渡しを完了した。
(引用終了)
①[]は引用者による補足
②読み易さを考えて、引用者が適宜、改行した。

「原子力発電所建設の経緯と現状」は福島県が発行する「平成21年度版原子力行政のあらまし」の一部である。全文は福島県のホームページで読むことができる。

【資料】福島県原子力安全対策課
http://www.pref.fukushima.jp/nuclear/aramashi/index.html

【原発巨大事故について】
浜通りは田舎(いなか)だから左翼がいない。だから左翼的な原発反対運動が起こることもない。だいたい左翼は田舎では嫌われる。「何が何でも自民党」という土地柄だった。原発立地地域の双葉地方の連中は、各地に散らばって避難させられているから、いまどういう風に考えているのか、分からない。ただ、私の原町にいる親戚(しんせき)の話を聞いていると、TEPCOと福島県知事に対して、かなり怒っているようだ。また東京都民に対しても、「何であいづらに電気を送るために、おれらが犠牲にならなければならないのか」と憤慨(ふんがい)している。

現在は、これまで意識したことがない原発巨大事故が起き、原発というもの初めて意識し、その被害が自分たちに影響を及ぼし、怒りが湧(わ)き起こっているという段階だ。私は地震直後、仙台の避難所にいたが、その時から原発事故に最大限の注意を払っていた。3月の15日には仙台を離れ、16日に静岡まで避難した。原町にいる親戚が避難を考え始めたのは16日だ。それほど、原発に対する危機意識は、薄(うす)かったということだ。

TEPCOなり日本政府から少額なりとも見舞金をもらい、徐々に日常の生活にもどっていけば、その怒りも収まっていってしまうかもしれない。しかし、私の母親はいくら何でも、今回はそうならないだろうと言っている。住民たちの政治意識は低い。教育水準も低い。知識もない。たとえば、漁師(船方、ふながだ)なら漁業のことしか知らない。百姓なら農業のことしか知らない。何かに関心を持つこともない。よそ者は村八分(むらはちぶ)にする。趣味もない。どこかに行くといっても仙台くらいで、東京はもう外国だ。

ただし、今回ばかりは「原発事故、しょーねな(仕様がないね)」というわけにはいかないだろう。原発巨大事故によって初めて、TEPCOや日本政府、福島県庁というものを意識し始めた。政治的なものにめざめた。南相馬市で開かれた福島県による住民説明会は、住民のTEPCOや福島県に対する怒りで、大荒れになったと聞いている。原発建設の経緯(けいい)や原子力産業に対する正確な知識を身につければ、自分たちが住んでいた浜通り地方が、本当はどういう地域だったのか、初めて分かるようになるだろう。

菅間 しゅうこ 投稿日:2011/05/07 11:08

【465】[512]人工地震

副島 隆彦先生、

ショックドクトリンとは、方向性を失った心を、
都合良い方向に誘導することのようですが、

そうであれば、
今回の東北大震災はまさにチャンスであったと思います。

ところで先生は、リチャード輿水氏の人工地震説を、
明確に否定しておられますが、

私には人工地震は、非科学であると断じられません。
過去の報道を調べる限りにいては、そのオプションもありそうだと、
私は感じております。

けれどあるいは、
それこそが、
方向性を失った心への、まさにショックドクトリンの支配、
という事なのでしょうか。

副島隆彦 投稿日:2011/05/06 10:02

【464】[511](報告文 15) 「ショック・ドクトリン」というおそろしい支配の実行と、放射線医学者・中川恵一の文を載せます。

副島隆彦です。 今日は、2011年5月6日です。

 私は、現在、弟子ちたちと福島で、原発から21キロメートルぐらいのところに、福島復興活動の拠点となる現地本部を作ろうとして動いています。 原発から20キロ圏内は、完全に封鎖されました。

 もう裏の農道から、住民たち(原発避難者たち)が入ることも出来ません。いくら、「どういう法律の根拠で、立ち入りさせないのだ、と機動隊の警官たちに抗議しても、中に入れません。「災害対策基本法」だそうで、「何と言う災害だ」と問うと、「東日本大震災だ」とぼそっと警官が言ったので、「そうではないだろう。原発の事故と言う、災害だろう。この法律は、火山爆発の危険の為に作られた法律の、勝手な違法解釈の流用だ。一体、どこに危険があるのか」と下っ端の警官に言ってもどうにもならない。

 私は、3月末からの、国論の大転換で、政府自らが、世界中に風評被害を生み出して、日本国内にも、ヒステリーじみた、放射能への過度の恐怖感を煽る人々が出現している。
冷静な「科学的な事実(scientific facts サイエンティフック・ファクト)に基づく議論を、阻止して、「危険だ、危険だ。政府が勝手に変更した、20ミリシーベルト年間(毎時の1マイクロシーベルトを、8670倍に単純積算しただけの放射線量)を、「元の1ミリシーベルト年間 に戻せ」と騒いでいる。賢慮をすべき小沢一郎派の若手までは、この議論に巻き込まれて、「危険だ、危険だ」派の狂騒的(きょうそうてき)な集団ヒステリーで動いている。情けないことだ。

 放射線医学、放射線防護学の、長年の「放射線治療」の実績と、治療行為の中で、本当の専門家たちが、「ICRP(国際放射線防護委員会)が、3月21日に、日本に向けて、緊急で勧告したとおり、20ミリシーベルトから100ミリシーベルト年間総量まで上限の規制値を変えて、緊急事態でも、癌の発生率は増えない」(朝日新聞、3月26日)とはっきり言っているのに、まだ、「20ミリシーベルトを元の(事故の前の)1ミリシーベルトに戻せ」と、政府を困らせている。
この間の、3月末からの、どたばたの、国内の世論の混乱を、私は、現地の福島から、ずっと冷やかに見てきた。

 こういう議論が、どれほど、30キロ圏内の住民たちを、痛めつけているのかを、東京や、関西にいる人間たちは、全く自覚しようとしない。「放射線医学の医者たちは、家族を含めて、福島の原発のそばに住め。地面の土を舐めろ」と、ヒステリーを高じさせた、政府(政権)批判派で、放射能はどんなに微量(びりょう)でも恐い、恐ろしい、と言いさえすれば、自分たちの仲間である、それが賢明な考えである、と頭から信じ込んでいる、愚か者たちが、急にたくさん出てきた。 

 本当に危なかった、3月16日までの危機は、去ったのに、まだ、自分たちの勝手な恐怖感だけで、騒いでいる。こういう人間たちこそ、現地の福島に来て、避難者たち住民の意見を聞け。 「子供の健康が心配でならない」と言う前に、福島の現地に来て、彼らの姿を、自分たちこそ見よ。そうすれば事の真実は、分かる。私はそう断言する。

 私は、原発から4キロの双葉町(ふたばまち)に住もうと思って、住民から3軒の家の提供があって、使っていいですよ、言われていたのだが、ついにこの私でも20キロ圏には入れなくなった。双葉、浪江でも、放射能の量は、ごく微量(ほんのちょっと)であり人体には、何の被害も無い。子供たちでも大丈夫だ。 過剰に過敏になりすぎた神経質な日本国民の悪い面が出ている。

 どうせ、このあと2ヶ月で、今の集団ヒステリーは消えてなくなり他の議論に、いつの間にか移っているだろう。それは工程表(ロードマップ)どおりと言ってもいいぐらいのものだ。 今、盛んに、「放射能はどんなに微量でも危険だ」と煽っている人間たちのことを、私は、証拠集めして、必ず、半年後に、「あなたは、あの時(2011年4月に)こんなことを書いたのだぞ」と突きつけようと思う。

 今日は、「ショック・ドクトリン」という話を書こうと思った。ショック・ドクトリンとは、書名で、3年前に書かれた本だ。カナダ人の女性評論家のナオミ・クラインが書いた本だ。

 ’Shock Doctrine ‘ とは、
 
 大災害や戦争、権力者たちによって仕組まれたテロ事件などによって、民衆、一般大衆を、恐怖に陥(おとしい)れ、ショックとパニックで、正常な判断力を、国民から奪い取り、そうすることで、自分たち凶悪な支配者、権力者たちのいいように、非常事態を宣言して、国家を非合法的に支配し、他国を占領し、世界を操(あやつ)る
 
という 悪辣(あくらつ)なやり方だ。

 そのことを、著者のナオミ・クラインは、徹底的に暴いている。この「恐怖と扇動で国民を支配せよ」という手法の恐ろしい実験場が、今の福島原発の放射能漏れ事故を利用した、彼らのやり口だ。この「ショック・ドクトリン」は、日本語訳が出るはずだったが、3年経つのにまだ出ていないようだ。この本の書評だけを、今日の私のこの「報告文 15」の文末に載せる。

 以下に載せるのは、中川恵一(なかがわけいいち)という東大の医学部の放射線医療の専門学者の文である。彼は、3月中は、NHKテレビに出て、事故で放出された放射性物質の人体への影響、健康被害のことを話していた。しかし、その後、政府よりの御用学者の 枠に入れられて、テレビに出れなくなったようだ。 

 私は、まだ若そうな(40歳代)のこの中川恵一は、そんなに腐敗している人ではないと判断する。ひたすら放射線医学、放射線によるがん治療の成果を、厳密に語っている人だと思う。政府や大企業の金を貰いすぎて、ヨゴレまくっているくせに、今は、急に、「原発事故で放射能は人体に危険だ。原発反対」と言い出した、おかしな人物たちを、これから徹底的に検証する。

以下が、平易に書かれた中川恵一の文です。専門論文を、じっくりと読んでください。

(副島隆彦 5月7日追記:以下の文は、中川恵一氏の文章ではない可能性がある。調査中)

(転載貼り付け始め)

2011年5月03日

http://www.rist.or.jp/atomica/data/pict/01/01080428/02.gif
冒頭のURLの図の「人工放射性降下物の経年変化」にあるとおり、米ソなどの核実験により1960年代の東京でのセシウム137の最大値は約800,000mBq/m²であり、1985年以降2003年までの最大値約10mBq/m²の実に約80,000倍である。

チェルノブイリ原発事故の時でも東京でのセシウム137の最大値は約100,000mBq/m²強であったが、1985年以降2003年までの最大値約10mBq/m²の約10,000倍である。ただし、1年あまりで約100mBq/m²まで減少している。

つまり、チェルノブイリ原発事故の時よりも、米ソなどの核実験による1960年代のほうが、東京でのセシウム137は約8倍多かったことになる。

そして、今回の福島原発事故は、公式には「チェルノブイリ原発事故の10分の1」となっているが、西村肇(にしむらはじめ)東大名誉教授によると「チェルノブイリ原発事故で放出された放射能物質の総量の10万分の1の放射能物質が、福島原発事故では放出された。100日間の合計でも、千分の1の量である」としている。

http://onihutari.blog60.fc2.com/blog-entry-44.html
のとおりにカリフォルニアで検出されたプルトニウム239が福島原発事故によるものであれば、米ソなどの核実験により、1960年代の東京でのプルトニウム239は、今回の福島原発事故よりも多かったはずである。

しかし、私は、1960年代前半の生まれで30歳まで千葉・埼玉・東京で過ごしたが、一度も癌を発症したことはない。
これは一体どう考えたらよいのだろうか。
別に公式発表を100%信じているわけではないが、どうも釈然としない。

それでも福島原発事故は、チェルノブイリ原発事故と同じレベル7じゃないか、と主張する人もいるかもしれない。
しかし、結論からいうとあれは「ヤラセ」である。

そもそも安全だ、安全だと言いながら日本政府(原子力安全・保安院)が自らレベル5(2011年3月18日)からレベル7(2011年4月12日)へ引き上げると発表した時、何か矛盾を感じた。
そして、時系列で整理し考えた。

東京電力は2011年4月4日、福島第一原発から低濃度汚染水の海洋投棄することを発表・開始した。

西村肇(にしむらはじめ)東大名誉教授が、「福島原発事故の原因の究明」という論文を書き、2011年4月8日、記者会見した。

西村先生は、2011年4月8日に、はっきりと、「チェルノブイリ原発事故で放出された放射能物質の総量の10万分の1の放射能物質が、福島原発事故では放出された。
100日間の合計でも、千分の1の量である」ということを、厳密な計算式を使って証明した。

日本政府(原子力安全・保安院もそれぞれ独自に数値を2011年4月12日に発表した)は、嘘八百の発表を、西村論文のあとに、慌てて行った。
その内容は、「チェルノブイリ原発事故で放出された放射線量の10分の1が、福島原発事故で放出された。
だから、事故レベルは7だ」というものだった。

2011年4月12日、原子力安全・保安院と原子力安全委員会は合同会見を開き、従来の暫定評価のレベル5(2011年3月18日)からレベル7へ引き上げると発表した。
事故発生以降の放射性物質の総放出量は、原子力安全・保安院の推計で37万テラ(1兆倍)ベクレル、原子力安全委員会推計は63万テラベクレルで、レベル7(数万ベクレル以上)に相当するという。
チェルノブイリ原発事故は520万テラベクレルとされる。

その理由は、「震災発生当初、被災者の規律正しさや忍耐強さを称賛した海外メディアは、2011年4月4日に低濃度放射性物質汚染水の海洋投棄が始まったことを境に、日本政府の危機管理批判を強めていた。レベル5で低濃度放射性物質汚染水の海洋投棄をやれば、日本は、太平洋周辺国から袋叩きにされる。海洋汚染に対する膨大な賠償請求を避けるために、役人も東電も、何が何でもレベル7にする必要があった」、である。

国際原子力事象評価尺度の
「基準1事業所外への影響:放射性物質の重大な外部放出:ヨウ素131等価で数万テラベクレル以上の放射性物質の外部放出」
という尺度を悪用したのである。

海外向けには
「レベル7という重大な事故のため止むを得ず低濃度放射性物質汚染水の海洋投棄を行った」
と言い訳し、
国内向けには「でも福島原発事故はチェルノブイリ原発事故で放出された放射線量の10分の1だから、福島原発事故はチェルノブイリ原発事故ほどひどくない」
という二枚舌である。
つまり嘘の過大評価である。

仏アレバ社の高濃度放射性物質汚染水を処理できるシステムがもっと早く稼働できれば
「低濃度放射性物質汚染水の海洋投棄」は、やる必要がなかった措置である。

さらにいうと、チェルノブイリ原発事故は臨界爆発が起こって、放射線の中の中性子線までもが飛び交った。
福島原発事故はあくまでも中性子線以外の放射線(アルファ線、ベータ線、ガンマ線)が漏洩しているのをどう封じ込めるか、という問題である。

福島原発事故では、自衛隊員が22kgの鉛を装備して作業をしていた。鉛で防御できるのは、あくまで中性子線以外の放射線(アルファ線、ベータ線、ガンマ線)までであり、中性子線を防御することはできない。
中性子線を防御するには30cm以上のコンクリートや水などが必要である。
つまり、福島原発事故では、臨界爆発には至っておらず、作業できないほどの中性子線が飛散するまでの状況にはなっていない、ということである。

チェルノブイリ原発事故と福島原発事故は規模・内容とも違うのである。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。もう一本、中川恵一の文を短く重要な部分だけ載せます。

中川恵一・東京大付属病院准教授、緩和ケア診療部長 の文

(副島隆彦 5月7日追記:出典は、2011年3月20日 毎日新聞 「Dr.中川のがんから死生をみつめる:/99 福島原発事故の放射線被害、現状は皆無」から)

http://mainichi.jp/life/health/nakagawa/

(転載貼り付け始め)

(結論部分を、副島隆彦が、前に移した)

 耳慣れない「シーベルト」という言葉は、放射線が人体に与える影響の単位です。
ミリは1000分の1、マイクロは100万分の1を意味します。
1シーベルト=1000ミリシーベルト=100万マイクロシーベルトとなります。

 もう一つ分かりにくいのは、「毎時10マイクロシーベルト」という表現です。
これは、1時間あたり10マイクロシーベルトの被ばくがあるという意味で、線量率と呼ばれます。
毎時10マイクロシーベルトの場所に3時間いれば、30マイクロシーベルトを被ばくするという意味です。
線量率は「蛇口から流れ出るお湯の出方」、たまったお湯の量が「何ミリシーベルト」という数字で表されます。

 ◇発がんリスク、喫煙以下
 では、どのくらい放射線を浴びると身体に悪影響があるのでしょうか?
原爆の被害を受けた広島、長崎のデータなどから、100ミリシーベルト以下では、人体への悪影響がないことは分かっています。
このレベルの被ばく量は症状が出ないだけではなく、検査でも異常な数字は確認されません。

 100ミリシーベルト以上の被ばく量になると、発がんのリスクが上がり始めます。
といっても、100ミリシーベルトを被ばくしても、がんの危険性は0・5%高くなるだけです。
そもそも、日本は世界一のがん大国です。2人に1人が、がんになります。
つまり、もともとある50%の危険性が、100ミリシーベルトの被ばくによって、50・5%になるということです。たばこを吸う方が、よほど危険といえます。

 現在、文部科学省が、各地の線量率を測定しています。
最も値が高い福島県の数値でも、風向きなどで高めの地点もありますが、多くの地点で、毎時数マイクロシーベルト程度です。
測定は屋外で実施していますから、屋内に退避していれば、線量率は毎時1マイクロシーベルト以下です。
東京、埼玉、千葉などは、屋外であっても、その10分の1以下です。

 毎時1マイクロシーベルトの場所にずっといる場合、どのくらい時間がたつと身体に悪影響が出始める100ミリシーベルトに達するでしょうか?
なんと11年以上の月日が必要です。通常より高いといっても、現在の放射線のレベルは人体に影響を及ぼす
ものではないことが分かります。

 繰り返しますが、事故の現状では、発がんリスクの上昇を含め、一般の人たちの健康被害は皆無と言えるでしょう。
安心して、冷静に行動していただきたいと思います。

(転載貼り付け終わり)

(副島隆彦 5月7日追記:ここからは、野田英幸氏が書いた文章の引用)
(引用はじめ)

 今、東京都内の地面の上でガイガーカウンターを置いて計測したところ
「0.16μ㏜/h(マイクロシーベルト/時)」でした。
憶測で言うのではなく、ご自分で計測されたらどうですか。

 また、福島県の一部地域では線量が高いようですが、
「100ミリシーベルト以上の被ばく量になると、発がんのリスクが上がり始めます。といっても、100ミリシーベルトを被ばくしても、がんの危険性は0・5%高くなるだけです。そもそも、日本は世界一のがん大国です。2人に1人が、がんになります。つまり、もともとある50%の危険性が、100ミリシーベルトの被ばくによって、50・5%になるということです。たばこを吸う方が、よほど危険といえます。」
ということで、それほど心配しておりません。

また、「28. 」でも述べましたが、
①チェルノブイリ原発事故の時よりも、米ソなどの核実験による1960年代のほうが、東京でのセシウム137は約8倍多かったことになる。
②カリフォルニアで検出されたプルトニウム239が福島原発事故によるものであれば、米ソなどの核実験により、1960年代の東京でのプルトニウム239は、今回の福島原発事故よりも多かったはずである。
③私は、1960年代前半の生まれで30歳まで千葉・埼玉・東京で過ごしたが、一度も癌を発症したことはない
により、それほど心配しておりません。

以下、調べた情報を記載します。

①体内放射能は無限に蓄積される?
◆摂取と排泄はやがてバランスする。

 放射能で汚染された食品を、来る日も来る日も食べ続けたとしましょう。
この場合、体の中の放射線は、どんどん蓄積され続けるのでしょうか。
 たとえば、セシウム137の半減期は30年です。放射能が半分に減るのに30年もかかる。ちょっと考えると、こんなに寿命の長い放射性核種をつぎからつぎへと体内に取り込めば、どんどんたまっていきそうです。
本当はどうなのでしょうか。
 この問題を理解するには、生物学的半減期や有効半減期のことを知る必要があります。

 セシウム137を例にとりましょう。
たしかに、この核種の放射能が半分に減るのに要する時間は30年ですが、私たちの体の中に入ってきたセシウム137は、そこにいつまでもじっとしているわけではなく、尿や糞から排泄されることによって、体の外に追い出されていきます。
日本人の場合、セシウムを100だけ摂取したとすると、そのうちの半分を排泄によって体外に追い出すのに約3カ月必要です。
これを「生物学的半減期」というのですが、幸い、セシウム137の場合、物理的な半減期が30年と長くても、生物学的半減期が3か月程度と短いために、体内に取り込まれたセシウム137は、割合に速く追い出されてしまうのです。

 体内に取り込まれた放射能が100あった場合、これが、物理的減衰と生物学的排泄の両方によって、とにかく半分の50に減るまでの時間のことを「有効半減期」と言います。
物理的半減期と生物学的半減期と有効半減期の関係は、つぎのとおりです。
有効半減期=(物理的半減期×生物学的半減期)÷(物理的半減期+生物学的半減期)
=(30年×0.25年(3か月))÷(30年+0.25年(3か月))=0.247933884年

*0.247933884年=約3カ月

セシウム137の場合には、物理的半減期が生物学的半減期よりも圧倒的に長いので、このような場合には、有効半減期はだいたい生物学的半減期と同じになります。

◆摂取と排泄のバランス

セシウム137を毎日食べ続けると、体内量は無限に増えていきそうな気がしますが、実際には、ある時点までくると摂取量と排泄量がバランスして、それ以上は増えなくなります。
逆の言い方をすれば、摂取量と排泄量がつりあう状態になるまでは、体内量が増え続けると表現してもかまいません。
ちょっとした理論的考察によって、平衡状態での体内放射能(ベクレル)は、次式で求められることが知られています。

 体内放射能の平衡値=
1.44×(1日当たりの放射能摂取量、ベクレル/日)×(有効半減期、日)

◆カリウム40の体内量

私たちは天然の放射性核種であるカリウム40を、1日50ベクレル程度食べています。
この元素の生物学的半減期は約60日、物理的半減期12億6,000万年ですから、有効半減期は60日となります。
したがって、下に計算されているように、私たちの体内には、カリウム40が4300ベクレル程度は、たまっている計算になります。
実際には、1日当たりのカリウム摂取量や生物学的半減期にはかなりの個人差がありますので、誰でもピッタリ
4300ベクレルというわけではありません。
しかし、大人なら4,000~5,000ベクレルの体内放射能をもっていることは、実際に測定した結果としてもよく確かめられた事実です。
 当然、1日あたりの摂取量が多ければ多いほど、また、有効半減期が長ければ長いほど、平衡状態に達したときの体内放射能のレベルは高くなります。
しかし、それでも、無限に増えるわけではありません。

平衡時の体内放射能(ベクレル)=
1.44×(1日当たりの放射能摂取量、ベクレル/日)×(有効半減期、日)

(例)カリウム40(天然放射性核種)
    1日あたりの平均摂取量:約50ベクレル/日
    有効半減期:約60日
   ゆえに、私たちの体内のカリウム40の放射能は、
 体内量(ベクレル)=1.44×50(ベクレル/日)×60(日)=4,300(ベクレル)

◆放射性核種の種類と特徴

放射性核種:プルトニウム239、物理的半減期:24,400年、生物学的半減期:200年(骨)・500日(肺)、有効半減期:198年(骨)・500日(肺)

放射性核種:ストロンチウム90、物理的半減期:29年、生物学的半減期:50年(骨)・49年(全身)、有効半減期:18年(骨)・18年(全身)

放射性核種:ヨウ素131、物理的半減期:8日、生物学的半減期:138日、有効半減期:7.6日(甲状腺)

放射性核種:コバルト60、物理的半減期:5.3年、生物学的半減期:9.5日、有効半減期:9.5日(全身)

放射性核種:イットリウム90、物理的半減期:64時間、生物学的半減期:38年(全身)・49年(骨)、有効半減期:64時間(全身)・64時間(骨)

②何となく不気味な内部被曝

 放射線の浴び方には、いろいろあります。
時間的に言えば、一度にどっと浴びたのか、それとも、同じ線量をだらだらと少しずつ浴びたのか、という問題もあります。
また、全身に浴びたのか局所に浴びたのか、というのも重要な点です。
と同時に、体の外から浴びたのか、それとも体内汚染をおこした放射性物質によって、体の中から浴びたの
か、という分け方も重要です。

よく内部被曝の方が外部被曝より危険なのではないかという疑問を耳にします。
体の内側から浴びる方が不気味なので、その気分はわかるような気がします。
しかし、実際はどうなのでしょうか?

 たとえば、生殖腺が内部被曝で1シーベルト浴びた場合と、外部被曝で1シーベルト浴びた場合を考えてみましょう。
両者の影響に違いがあるでしょうか、それとも同じでしょうか?
 
 体の外から生殖腺が浴びる場合には、多分、ガンマ線のような透過性の放射線のことが多いでしょう。
稀には、かなりエネルギーの高いベータ線の被曝によることもないとはいえません。
その場合には、ベータ線は生殖腺に当たって主として表面近くで吸収される可能性が強いので、ガンマ線被曝の場合のように生殖腺全体がほぼ均等に浴びるということにはならないかもしれません。

一方、生殖腺自身に取り込まれた放射性核種による被曝の場合には、どういう放射性核種かに応じて、アルファ線の場合もあるだろうし、ベータ線の場合もあるだろうし、ガンマ線の場合もあるでしょう。あるいは、それらの組み合わせの場合もあるに相違ありません。
とくにアルファ線の場合などは、それを放出する放射性核種が、生殖腺内でどういう分布をしているかによって、被曝線量の空間分布もずいぶん違ってくる可能性があります。

 このように考えてくると、ひとくちに「生殖腺が1シーベルト浴びた」などと言っても、線量の分布などが微妙に異なる可能性があるので、そう簡単な話ではありません。
しかし、今のところ、同じ臓器が同じシーベルト浴びたのなら、それが外部被曝によるものであれ内部被曝によるものであれ、生物学的な障害度に基本的な差はないと考えられています。
とくに、浴びる放射線が両方ともガンマ線とかベータ線とか同じである場合には、そこにできた放射線の傷跡が外から来た放射線によるものか中から出た放射線によるものか、区別する根拠はまったくありませんので、同じものとして考えていっこうに差し支えありません。

 もちろん、かたや、骨に入り込んだプルトニウム239によって骨髄に1シーベルト浴びた、というケースと、かたや、外部被曝のベータ線によって皮膚に1シーベルト浴びた、というケースを同等に扱うなどということはナンセンスです。
同じ臓器がほぼ似たりよったりの浴び方で放射線を被曝した場合には、それが外部被曝によるものであれ内部被曝によるものであろうが、本質的な差はないのです。

◆全身線量の求め方

 いろいろな臓器が不均等に被曝したような場合、全身線量を求めるにはどうすればよいでしょう。
単純に各臓器の線量を加え合わせばよいでしょうか。
そう簡単ではありません。
なぜならば、臓器によって、遺伝的影響や癌の危険度が違うからです。
発癌の危険性が少ない臓器が1シーベルト浴びるのと、その危険性が大きい臓器が1シーベルト浴びるのとでは当然意味が違ってくるので、各臓器の重要性に応じて重みづけの係数(荷重係数)をかけて合計しなければなりません。
下の表は、国際放射線防護委員会がこうした目的のために設定した係数の値です。

◆実行線量当量とは?

 外部被曝であれ、内部被曝であれ、いろいろな臓器が異なる割合で被曝した場合には、この表の係数を乗じて重みづけをしながら合計線量として同じ尺度で比較することができます。
なかなか面倒なことですが、そのようにして計算された線量の値は共通に比較ができて便利なので、とくに「実行線量当量」と呼ばれています。
言うまでもないことですが、下表の係数を全部加え合わせると、当然1.0になります。

 *荷重係数
生殖腺:0.25、乳腺:0.15、赤色骨髄:0.12、肺:0.12、甲状腺:0.03、骨表面:0.03、残りの組織:0.30

(野田英幸氏が書いた文章の引用おわり)

(転載貼り付け始め:出典は、2011年3月20日 毎日新聞 「Dr.中川のがんから死生をみつめる:/99 福島原発事故の放射線被害、現状は皆無」から)

③◇対応は花粉症対策と同じ
 放射線とは、ものを突き抜ける能力が高い光や粒子のことです。
そして、放射線を浴びる(=被ばくする)と、遺伝子にダメージが生じ、人体に悪影響を及ぼすことがあり
ます。
放射線を出す能力を「放射能」、放射能を持つ物質を「放射性物質」と呼びます。

 今回の原発事故では、原子炉からヨウ素、セシウムといった放射性物質が漏れ出し、大気中にまき散らされています。たとえれば、スギから「放射線を出す花粉」が飛散している状態と言えます。
放射性物質も、そこから出ている放射線も目には見えません。

 窓を閉めて、家の中にいれば、吸い込む花粉の量が大幅に減ります。
放射性物質も同様で、屋外と比べ、屋内の被ばくは10分の1程度に減ります。
しかし、放射性物質から出る放射線の一部は、窓や壁を突き抜けますから、家にいても、放射線を完全に避け
ることはできません。

 放射性物質による被ばくには、「外部被ばく」と「内部被ばく」があります。
外部被ばくは、衣類や皮膚に付着した放射性物質から放射線を浴びることで起きます。
家に帰ったら、屋外で上着を脱ぎ、服はよくはたいて放射性物質を落としたうえで、シャワーを浴びれば問題ありません。
洗濯物は外に干さず、窓はできるだけ開けず、換気扇もなるべく使わないようにしましょう。
要は、花粉症対策と同様、「花粉」を寄せつけないことが大事なのです。

 雨が降った場合は、放射性物質を含んだ水滴が皮膚に付着しないように、レインコート(できれば使い捨て)を使うと安心ですし、折りたたみの傘を携帯するとよいでしょう。

 体内に放射性物質が入り、身体の中から放射線を浴びる「内部被ばく」は、より危険です。
身体の表面に付着した放射性物質と違い、体内の放射性物質は洗い流せないからです。外出するときは、ぬれたタオルなどで口や鼻をふさぐと安心です。
テーブルの上に置く果物などには、ラップをかけ、食べる前に洗うとよいでしょう。

◆日常生活でも自然被ばく
 ただし、現段階では、避難した原発に近い地域の住民の人たちを含め、一般の人の健康に悪影響が出るとは考えられません。
被ばくを心配し、「サーベイメーター」による検査を希望する人が増えていますが、そもそも「被ばくした」「被ばくしていない」という議論はナンセンスです。
なぜなら、私たちは、普通に生きているだけで、必ず「被ばくしている」からです。

 大気中には「ラドン」といった放射性物質が含まれますし、宇宙や大地からの放射線による被ばくもあります。
ホウレンソウなど食べ物にも放射性物質が含まれます。
世界平均では、年間約2・4ミリシーベルトの放射線を浴びます。
この「自然被ばく」の量も、場所によって異なります。
たとえば、イランのラムサール地方では、年間の自然被ばくが10ミリシーベルトを超えます。
日本から、この地方へ引っ越せば、被ばくが増えるわけですが、ラムサール地方でがんが多いというわけではありません。

中川恵一・東京大付属病院准教授、緩和ケア診療部長

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦から。ここから、前のほうに書いた、ナオミ・クライン著の「ショック・ドクトリン」の書評の文を、弟子の古村治彦くんがまとめてくれたものです。

(転載貼り付け始め)

副島隆彦先生へ

古村治彦から。

お電話をいただき、ありがとうございました。

ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』について、
日本語でまとめてあるものと、要約を訳した
ものを貼り付けと添付ファイルでお送りします。

以上、ご報告いたします。

(貼り付けはじめ)

Democracy Now! 日本語版ウェブサイト
●「ショックドクトリン 大惨事につけ込んで実施される過激な市場原理主義改革」
ナオミ・クライン新著を語る 1
http://democracynow.jp/video/20070917-1

●「ショックドクトリン 大惨事につけ込んで実施される過激な市場原理主義改革」
ナオミ・クライン新著を語る 2
http://democracynow.jp/video/20070917-8

●「ショックドクトリン 大惨事につけ込んで実施される過激な市場原理主義改革」
ナオミ・クライン新著を語る 3
http://democracynow.jp/video/20070917-9

※三つのアドレスにはそれぞれ別の動画が掲載されていて視聴可能です。
『ショック・ドクトリン』の文章での紹介は全て同じもので、以下に転載・貼り付けます。

(転載貼り付けはじめ)

1973年のピノチェト将軍によるチリのクーデター、天安門事件、ソ連崩壊、米国同時多発テロ事件、イラク戦争、アジアの津波被害、ハリケーン・カトリーナ。暴力的な衝撃で世の中を変えたこれらの事件に一すじの糸を通し、従来にない視点から過去35年の歴史を語りなおすのが、カナダ人ジャーナリストのナオミ・クラインの話題の新著The Shock Doctrine: The Rise of Disaster Capitalism(『ショック・ドクトリン:惨事活用型資本主義の勃興』)です。
ケインズ主義に反対して徹底した自由市場主義を主張したシカゴ学派の経済学者ミルトン・フリードマンは、「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」と述べました。この主張をクラインは「ショック・ドクトリン」と呼び、現代の最も危険な思想とみなします。
近年の悪名高い人権侵害は、とかく反民主主義的な体制によるサディスト的な残虐行為と見られがちですが、実は民衆を震え上がらせて抵抗力を奪うために綿密に計画されたものであり、急進的な市場主義改革を強行するために利用されてきたのだ、とクラインは主張します。

投資家の利益を代弁するシカゴ大学経済学部は、「大きな政府」や「福祉国家」をさかんに攻撃し、国家の役割は警察と契約強制以外はすべて民営化し、市場の決定に委ねよと説きました。でもそのような政策は有権者の大多数から拒絶され、アメリカ国内で推進することはできませんでした。
民主主義の下では実現できない大胆な自由市場改革を断行したのが、ピノチェト独裁下のチリでした。無実の一般市民の処刑や拷問を行ったことは悪名高いですが、それと同時にシカゴ学派による経済改革が推進されたのは、クラインによれば偶然ではありません。これがショック・ドクトリンの、最初の応用例だったのです。

ショックの効用を研究したもう一つの機関は、カナダのマッギル大学でした。同大学の精神医学科はCIAの資金で拷問手法としてマインドコントロールや洗脳の実験を行っていたようです。囚人に幻覚剤を投与し、近く刺激を奪って長期の孤立状態に置くことにより、精神を幼児まで退行させ、人の言いなりにさせる手法は、現在グアンタナモやアブグレイブで使われている拷問マニュアルに酷似しています。

戦後イラクで連合軍暫定当局(CPA)のブレマー代表は意図的に無政府状態と恐怖の蔓延を助長する一方で、急激な民営化を進めましたが、これを個人に対するショック療法のパラレルとしての国民レベルのショック療法とみることもできます。
人類最古の文明におけるゼロからの再出発、既存体制の完全な抹消という発想には、個人の精神を幼児に戻して言いなりにさせるCIAの拷問手法が重なります。
これはさらに、ハリケーン被害においても踏襲され、長年の放置により劣化したインフラが必然的に災害を招くと、それを口実に、まるごと民間に売り飛ばせという主張に拍車がかかります。

クラインを驚かせたのは、このようなことを公然と認める経済学者たちの発言が、たくさんの文献に残されていたことでした。自由市場経済を提唱する高名な経済学者たちが、急進的な市場経済改革を実現させるには、大災害が不可欠であると書いているのです。
民主主義と資本主義が矛盾することなく、手を携えて進んでいくというのは、現代社会における最大の神話ですが、それを唱導してきたまさにその当人達が、それは嘘だと告白しているのです。
この事実をふまえて、この数十年の歴史を振り返ってみることは、私たちがいま、どうしてここまできてしまったのかを理解する大きな手がかりとなるでしょう。

(転載貼り付け終わり)

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The Shock Doctrine の本のウェブサイト
http://www.naomiklein.org/shock-doctrine

●要約(Summary)のページ
http://www.naomiklein.org/shock-doctrine/the-book

(転載貼り付けはじめ)

The Shock Doctrine: The Rise of Disaster Capitalism

In THE SHOCK DOCTRINE, Naomi Klein explodes the myth that the global free market triumphed democratically. Exposing the thinking, the money trail and the puppet strings behind the world-changing crises and wars of the last four decades, The Shock Doctrine is the gripping story of how America’s “free market” policies have come to dominate the world– through the exploitation of disaster-shocked people and countries.

At the most chaotic juncture in Iraq’s civil war, a new law is unveiled that would allow Shell and BP to claim the country’s vast oil reserves…. Immediately following September 11, the Bush Administration quietly out-sources the running of the “War on Terror” to Halliburton and Blackwater…. After a tsunami wipes out the coasts of Southeast Asia, the pristine beaches are auctioned off to tourist resorts…. New Orleans’s residents, scattered from Hurricane Katrina, discover that their public housing, hospitals and schools will never be reopened…. These events are examples of “the shock doctrine”: using the public’s disorientation following massive collective shocks - wars, terrorist attacks, or natural disasters — to achieve control by imposing economic shock therapy. Sometimes, when the first two shocks don’t succeed in wiping out resistance, a third shock is employed: the electrode in the prison cell or the Taser gun on the streets.

Based on breakthrough historical research and four years of on-the-ground reporting in disaster zones, The Shock Doctrine vividly shows how disaster capitalism - the rapid-fire corporate reengineering of societies still reeling from shock - did not begin with September 11, 2001. The book traces its origins back fifty years, to the University of Chicago under Milton Friedman, which produced many of the leading neo-conservative and neo-liberal thinkers whose influence is still profound in Washington today. New, surprising connections are drawn between economic policy, “shock and awe” warfare and covert CIA-funded experiments in electroshock and sensory deprivation in the 1950s, research that helped write the torture manuals used today in Guantanamo Bay.

The Shock Doctrine follows the application of these ideas through our contemporary history, showing in riveting detail how well-known events of the recent past have been deliberate, active theatres for the shock doctrine, among them: Pinochet’s coup in Chile in 1973, the Falklands War in 1982, the Tiananmen Square Massacre in 1989, the collapse of the Soviet Union in 1991, the Asian Financial crisis in 1997 and Hurricane Mitch in 1998.

(転載貼り付け終わり)

(翻訳貼り付けはじめ)

翻訳者:古村治彦 2011年5月4日

『ショック・ドクトリン:危機・惨事利用型資本主義の出現と勃興』

著書『ショック・ドクトリン』の中で、ナオミ・クラインは、「世界を席巻する自由市場は民主的な大勝利を収めた」という神話に対して厳しい批判を加えている。クラインは、過去40年間に起こった世界を根底から変えてしまう危機や戦争の裏には、お金が動き、操り人形を操る人々が存在するという考えを出発点にしている。
そして、『ショック・ドクトリン』の中で、クラインは、アメリカが、様々な自然災害、危機や惨事を利用して世界中の人々や世界各国にショックを与えることで、「自由市場」志向政策をどのように世界に拡大させて、支配的な政策にしていったかを赤裸々に書いている。

イラクの内戦において最も混沌とし先行き不透明な時期に、イラク国内で一つの新しい法律が通った。その法律は、石油会社のシェルとBPに、イラクの豊富な石油資源にアクセスすることを認めるという内容だった。
911同時多発テロ事件の発生直後、ブッシュ政権は「テロとの戦い」の遂行をハリバートン社とブラックウォーター社に丸投げした。
2004年に東南アジアを大津波が襲った。津波が全てを流してしまった後、何もなくなったビーチは観光リゾート用に切り売りされオークションにかけられた。ニューオーリンズ市民はハリケーン・カトリーナに襲われ、散り散りになった。彼らはニューオーリンズに戻りつつあるが、ニューオーリンズでは市営住宅、公立病院、公立学校がいまだに再開されていないし、再開される見込みもなくなりつつある。
こうした事例は「ショック・ドクトリン」の具体例である。「ショック・ドクトリン」とは次のようなものだ。

多くの人々は戦争、テロリストによる攻撃、自然災害といった集団で受ける大きなショックの後に、物理的にも精神的にも方向性を失う。その状態を利用して、経済的なショック療法を用いて、人々をコントロールするというものだ。
1回や2回のショックでは完全なコントロールが達成できずに抵抗されることもある。その場合は3回目のショックを与える。刑務所で看守が持っている電気ショック棒や多くの人々が携帯しているスタンガンを想像してみたら分かりやすいだろう。

ナオミ・クラインはこれまで行われてこなかった切り口での歴史研究と災害や危機に見舞われた地域での4年間のジャーナリスト活動の成果を基にして、『ショック・ドクトリン』を書きあげた。
『ショック・ドクトリン』で明らかにしているように、危機・惨事利用型資本主義は2001年9月11日に始まったものではない。ちなみに危機・惨事利用型資本主義では、目端の利く企業は社会を自分たちに有利になるように再設計がショックな出来事を利用する。

この本では、危機・惨事利用型資本主義の起源を50年前に求めている。その時代、シカゴ大学ではミルトン・フリードマンが大きな力をふるっていた。フリードマンの影響下のシカゴ大学からは数多くのネオコン、ネオリベラルの思想家たちが巣立っていった。
彼らは現在でもアメリカ政治に大きな影響力を持っている。経済政策、「衝撃と恐怖」をもたらす戦争、1950年代にCIAが資金提供をした、電気ショックと感覚遮断に関する実験の間には、驚くべきつながりがあることがこの本で明らかになった。
ちなみにこうした実験で得られた結果を利用して拷問のマニュアルが作成された。このマニュアルは今日でもキューバのグアンタナモ基地で収容されているテロリスト容疑者たちの拷問に利用されている。

『ショック・ドクトリン』で展開されている主張は現代史を見ればその正しさは明らかだ。現代史において私たちが良く知っている事件や出来事を詳細に見ていくと、そこにはショック・ドクトリンが使われていることが明らかである。
そうした出来事や事件としては、1973年のチリで発生したピノチェト将軍によるクーデター、1982年のフォークランド紛争、1989年の天安門事件、1991年のソビエト連邦の崩壊、1997年のアジア通貨危機、1998年に発生し、ホンジュラスに大きな被害をもたらしたハリケーン・ミッチが挙げられる。

(翻訳貼り付け終わり)

副島隆彦拝

大川晴美 投稿日:2011/05/06 00:53

【463】[509]警戒区域の法的根拠を教えて下さい

大川です。
福島から第二報を投稿する予定でしたが、その前に、災害対策基本法第63条に基づいて福島第一原発から20キロ圏が警戒区域に設定されたことについて、法律の専門家がいらっしゃいましたらぜひ次の点を教えてください。

1.20キロ圏内と放射線量が高い地域は全く一致しませんが、20キロ圏全体を警戒区域に設定すると決めた理由は何でしょうか。
2.日本国憲法第22条「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」、第29条「財産権は、これを侵してはならない。 2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。 3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」という条文に反しないと言える理由は何ですか。警戒区域の設定によって、対象となる住民のこれらの権利は著しく侵害されるのではないでしょうか。なぜ強制力のない避難区域にしないのでしょうか。
3.警戒区域を設定し、立入の制限、禁止、退去を命じることができるのは市町村長であると規定されています。もし個別に市町村長が決定したのなら、20キロ圏が前提とはならないはずです。

法律の素人ですので、ぜひどなたか専門的な観点から教えていただきますよう、よろしくお願い致します。

井上 武人 投稿日:2011/05/05 16:20

【462】[508]会津に行ってきました

【474】、【492】で書いた通り、5月3日会津に行ってきました。小学生二人の子供連れという制約で、同じ福島県でも原発周辺や海岸沿いの津波被害を受けた地域へ一緒に行く計画は女房の猛反発に会い、どうしても説得できませんでした。

東京から会津行きの高速は郡山で一時渋滞した以外ほぼ順調でした。磐越自動車道会津若松ICで降りて、まずはJR会津若松駅前で休憩。駅舎のインフォーメーションで観光地図を入手。駅前の大きな「あかべこ(赤い牛型の張りぼて人形)」の前でビデオ撮影。あかべこが会津名物なのは知りませんでした。会津市街地の建物の状況を見たところ地震の被害はほとんど見られませんでした。やはり内陸部という立地が幸いしたのでしょうか。

突っ込み不足なのでしょうが、今回の旅で会津における地震被害を感じ取ることは出来ませんでした。町の人に「地震の影響はどうですか?」なんて聞くのは憚られるし、聞いてところで自分自身でどうすることもできないのですから。

幕末戊辰戦争の激戦地、会津鶴ヶ城はぜひ行ってみたかった場所。天守閣に登るのに周辺の駐車場が混んでいて、車を泊めるのに40分以上かかりました。行き交う車のナンバーは地元の「会津」と「福島」がほとんどで、他県のナンバーはほとんどなかったです。天守閣内もかなりの混雑で、一時は入場制限のアナウンスが流れるほど。息子がおしっこに行きたいと言い出したものの、建物内にトイレがなかったので、途中で見学をあきらめて出てきました。
天守閣付近の軽食店はどこも行列。日中は汗ばむほどの陽気で、冷たい飲み物やソフトクリームがよく売れていました。

次に訪れた飯盛山は白虎隊集団自決の墓所。当時16、17歳の若者が潔く切腹して、自分の信念を貫いたかと思うと、墓碑を前に涙が溢れて止まりませんでした。今の政治家、経営者にほんの少しでもこういうノブリス・オブリジェの感覚が残っていれば、今回の原発事故がこれほどまでに迷走することはなかったのではないでしょうか。

【506】の大川さんや群馬の川端さんのように綿密な計画を立てたわけではなく、行き当たりばったりの旅。1泊ぐらい当日探しても何とかなるだろうと思ったら、家族4人で泊まれる所は一杯で、結局日帰りのあわただしい旅になってしまいました。大震災後とはいえGWを甘く見ました、

会津から近いところでは喜多方や猪苗代にも行きたかったのですが、準備不足でした。反省しています。

お昼には現地の食堂でラーメンやそばを食べ、おみやげに和菓子、ゆべし、せんべい、まんじゅう、あかべこ人形、会津塗りのお椀・盃・箸、地酒や味噌をできるだけ買って帰り、軽自動車のトランクは溢れんばかりした。

全く無計画で恥しい限りですが、今回の旅で少しは福島にお金を落とせたのかなと。夏までにもう一度チャンスがありそうです。