「1479」 『英語国民の頭の中の研究』(副島隆彦・著、PHP研究所)発刊のお知らせ。大幅に加筆修正が加えられています。「まえがき」 と 「あとがき」 を掲載します。 2014.9.22

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副島隆彦を囲む会の須藤です。今日は2014年9月22日です。

副島隆彦先生の本『英語国民の頭の中の研究』(PHP研究所)が、9月17日に発刊されました。この本は、30年前に『道具としての英語 しくみ編』として書き下ろしたベストセラーに加筆修正を加えた復刊です。2006年に『BeとHaveから分かる英語のしくみ』として改題復刊されています」。
『英語国民の頭の中の研究』の「目次」と「まえがき」、「あとがき」を以下に掲載します。

書名:『英語国民の頭の中の研究』
著者: 副島隆彦
文庫: 239ページ
出版社: PHP研究所
ISBN-10: 4569821227
発売日: 2014/9/17

(目次ここから)

まえがき 1

■第1部 英語のしくみ、その基礎から考える
第1章 be 動詞とは「存在」のコトバだ! 8
第2章 be 動詞の秘密を、さらに深く探ってみる 31
第3章 have は be 動詞の兄弟だ!存在詞(そんざいし)だ 52
第4章 万能選手 get を使えば何でも言える 70
第5章 ていねいな英語は would を使う 92
第6章 英語の文は、「格(かく、ケイス)」と「相(そう、アスペクト)」
と「法(ほう、ムード)」の3方向から見るべきだ 111
第7章 現在完了形 について考える 117
第8章 時制(じせい)とは「時間の流れと幅」ということ 131

■第2部 英語のしくみを、さらに深く考える
第9章 比較表現はパッケージで覚える 162
第10章 a か? the か? 冠詞の用法とその本質を考える 176

■第3部 実践編 英語のしくみと格闘する
第11章 格文法理論(かくぶんぽうりろん)を紹介する
日本語も英語も「世界語」の一つ 188
第12章 マトリックス形式で英文がスラスラ書ける 208
第13章 英単語を覚えるコツは語源(ごげん、エチモロジー)を知ることだ 223
第14章 なぜスペリング・ミステイクをするのか? 229

あとがき 233

(目次ここまで)

(「まえがき」ここから)

まえがき   副島隆彦

■英語(英文)のしくみについて真剣に考える

この本は、じつは今から丁度30年前の1984年に書かれた本である。しかし内容は少しも古びていない。私が28歳の時に書いた、これは私の処女作である。
この本は宝島社から『道具としての英語 しくみ編』(別冊宝島 43、1984年)として出版され、その後10年間ぐらいよく売れた本だ。このあと2006年に『BeとHaveから分かる英語のしくみ』と改題して日本文芸社から再刊された。
日本の英語の勉強革命が、この本から始まったと当時言われた。私にとっても大変思い出深い本だ。私の人生の記念碑のひとつである。

この本は、英文( English sentences イングリッシュ・センテンシズ )というのが、そもそもどのような構造(structure ストラクチュア )即ち「しくみ」をしているかを解明した本だ。
きわめて単純に見える I have a child.(アイ・ハヴ・ア・チャイルド)「私には子供がひとりいます(‘‘‘)」や、 I am here.(アイ・アム・ヒア)「私はここでーす。ここに居ます(‘‘‘)」などの、「居る、有る、在る」 の 存在を示す be と have を使う、原始的とも言える英文がある。私は、この根本的な英語の文のしくみと、その本当の意味( meanings ミーニングズ )を、日本語との対比で徹底的に考えた。

(「まえがき」ここまで)

(「あとがき」ここから)

あとがき

日本文のしくみは、そのまま私たち日本人の思考のしくみだ。 言語 は 思考 そのものだからである。

このように決めつけた上で、英語国民の思考である英文と日本語のしくみのちがいを徹底的に考えた、この本は画期的な本である。

「ここがわかれば英語がわかる」式の、英語ハウツー本は、その後も山のように出版され、書店のコーナーに並んだ。私のこの本に触発されて似たようなアイデアの本もたくさん出た。そしてそれら英語勉強の実用書は栄枯盛衰ののちに消えていった。

それから11年後の1995年に、私は『英文法の謎を解く』(ちくま新書、3部作)の3冊を出した。これはベストセラーになった。『続・英文法の謎を解く』(1997年刊)と『完結・英文法の謎を解く』(1998年刊)で3部作だ。

日本の英語教師たちのほとんどがこの3部作を読んだはずである。私が予備校教師をしていた14年間の経験と思考の蓄積が、この新書3冊に凝縮されている。

このあと私は英語の勉強の本を書くことから離れて政治や経済の本を書くようになった。それでも、私ほど「英文のしくみ」にこだわりつづけた日本人はいない、と今でも自負している。私が生まれて13歳で、中学生になって習わされた英語という異国のコトバとの格闘は、その後も今に至るまで、私にとっても、もう50年続いている。
そしてつくづく思うが、私たち日本人はついにこの「英語の壁」を越えることができていない。

人工知能(A I エイ・アイ、 Artificial Intelligence アーティフィシャル・インテリジェンズ )の研究が30年前のあの頃盛んだった。その一環として重要視されたのが、「日英自動翻訳機」( Japanese-English simultaneous interpretation machine ジャパニーズ・イングリッシュ・サイマルテニアス・インタープリテイション・マシーン )の開発だった。 私がこの本を書いた1984年がその最盛期だった。だが自動翻訳機はその後も完成していない。技術翻訳の業界だけで、未完全品が連綿と使われている。

経済産業省の電子総合研究所(電総研 でんそうけん)は解体された。「第5世代=だいごせだい=コンピュータ開発プログラム」(ICOT アイコット、Institute for New Generation Computer Technology インシティチューション・フォー・ニュー・ジェネレイション・コンピューター・テクノロジー)も失敗して、消えた。

“語学(外国語)の勉強” はこれからも、こつこつとやる個人の努力としてしか進まないだろう。日本にも層として出現したはずのバイリンガル( bilingual、二か国語を同時に思考・会話できる人)と ポリグロット(polyglot、数か国語を操れる人)で、かつ日本人英語学者になった人たちが、日本の英語教育の絶望的なおかしさと欠陥を訂正し、克服するだろう、と、私はかつて書いた(1993年)。 しかし私の願望と予測は実現することはなかった。

私たち日本人は、外国語(異文化)との接触、格闘において、今も徹底的に臆病であり自己防衛的である。
おそらく、その前の中国との2000年にわたる政治と文化及び言語(漢字文明)との接触と軋轢(あつれき)で、日本人は外国語に同化することを徹底的に嫌い拒絶する、という強固な民族(文化)防衛感情を育てたからだ。

これが、150年前の幕末・明治維新の時からのヨーロッパ語の勉強(英語その他の西欧文化の輸入、取り込み)との関係でも、強烈に作動した。だから日本人は、英語をいくら勉強してもどうしてもできるようにならない。この悲劇的な現状が今も私たちの目の前にある。

一人ひとりの人間には個人の能力差があるから外国語適性のある人(たとえば聴力と音楽脳が発達している人は、外国語の音声の聞き取りで苦労が少ない)は、若い人ほど、日常生活用の英語ならずいぶん上手になった。両親に連れられて外国で暮らす機会のある日本人が、ものすごく増えたこともある。

それでも日本文との対比において、英文のしくみを考えるという初源の点では、私が執着したこの「 be とhave(という存在詞 そんざいし ) から日本語との共通の土台を作る 」という理論がどうしても必要だ。

英語の勉強の実用書で、そういうむずかしいことを書くな、専門的な話をするな、と言われそうだ。
しかし私は「この世の本当のことしか書かない」という、強い決意で生きてきた日本知識人だから、どうしてもこのように書く。

30年ぶりに再び、新しい羽をつけてPHP研究所から飛び立つこの本に、私は深い思い入れがある。
一冊の本には、本それ自身の命がある。本は書いた著者とは、別の生命と運命を持っている。できるだけ元の姿のまま生き続けて欲しいので、私の加筆訂正は最小限度に留めようと思った。が、どうしても時代に合わせて大幅に書き直した。

この本は、『道具としての英語 しくみ編』を引き継いで、親子二代で読み継がれる本になってほしい。

■英語のしくみを理解しなければ日本人にとって英語は永遠の謎だ

これまでの実用英語の本は、英会話の能力を伸ばすことを目的として書かれてきた。
その多くは、基本的には英文法を無視して、なるべく日常の生活に必要な英語の慣用的な表現と例文に慣れ親しむことが目的とされた。それが日本人が英語を上達する最上の方法であるという観点から書かれてきた。

私たち日本人の多くは、高校生時代の英文法の授業でやたらとむずかしい文法事項を習わされたので、いきおい英文法にイヤ気がさしている。だから、もう英語の試験を受けなくてもよい年齢に達すると、すぐさま「英会話」に飛びついて、新鮮な感じで英語をやり直そうとする。それは無理ならぬことである。

だが、その英会話にしても、多くの人はある程度までいくと、ある壁にぶつかって立往生してしまう。その壁は、いったいどういう壁なのか。私たち日本人の英語下手がいっこうに改善されないのは、なぜなのか。これが私がこの本を書いた動機である。

慣用的なパターン例文を、くりかえし暗唱し、それを対話形式に直した例文にして覚えようという従来のやり方(フレイザリスト 慣用句暗記主義者)だけ が今も切実に生き残っている。

■どうしようもなく分厚いコトバの壁

日本語と英語(あるいは広くヨーロッパ語)は、文字と発声を含めて そもそもの言語構造が異なっている。
だから、その異質さを、明確に浮き彫りにし、コトバとしての相違点をきちんと整理し直す作業からやり直すべきだというのが私の立場である。

一つの民族の言語を支えているのは、もとよりその国の国民の長い歴史時間のなかではぐくまれてきた“ 民族文化 ( culture  カルチュア、クルツーア)” である。
それぞれの国がそれぞれの文化を独自に形成してきたがゆえに、文化のちがいはそのまま大きな言語の壁となって私たちの前に立ちはだかっている。国民文化(クルツーア)のちがいの最大のものが、まさしく言語(コトバ)である。コトバの壁だけは、いまだにどうしようもなく分厚い。

大学教育を受けた人々にとっても、それなりの英語を「読み」、「話し」、「書き」、「聞く」ことは至難の業である。

■日本文法と英文法の「ちがい」に敏感になろう

私はコトバのしくみのちがいという観点、すなわち、コトバの規則性の同じ点と、くいちがっている点、を見つめ直すという地点に踏みとどまって、この問題を考え続けた。私たちが習った英文法の理論を再度検討し直して、日本人の身の丈に合った、日本語の理屈に合う英文法というものをつくり出すことができるのではないか、と考えた。

英語学習に関する各種の教材は、街の書店にあふれている。しかし、CDやDVDの教材は、日本語のしくみ、つまり日本文法と英文法のどこがどうちがっているのか、という視点を踏まえていない。

日本語という、外側(外国)から見たら非常に奇妙なコトバを母国語としている私たち日本人にとって、英文法といわれてきたものが、じつは英語をしゃべっている人たちのための文法であった、ということに気づくべきだ。そして、一方、日本国文法(にほんこくぶんぽう)とされているものも、日本人にだけわかりやすい理論に過ぎない。外国人にとっては「五段活用」とか「助動詞の用法」などは至難の業だ、ということにも思いいたる必要がある。日本人が英語を学習する際に心がけるべきことは、この点にある。

英語を母国語(マザー・ランゲッジ)とする人々のことを「英語国民(えいごこくみん)」と言う。このように決めてこの英語国民というコトバ を使い始めたのは、私である。今ではこのコトバが定着した。イギリス人、アメリカ人だけが英語国民(ネイティブ・イングリッシュ・スピーカー)ではない。

私は、native English speaker を英語国民と呼ぶことにした。
誰もが知っているとおり、コモンウェルス(英連邦)の国々(南アフリカ、オーストラリア、カナダ)も英語国家である。それだけではなくて旧大英帝国( だいえいていこく。 正式には、The Commonwealth of the Nations ザ・コモンエルス・オブ・ザ・ネイションズ と言う )の植民地は、英語が公用語である。香港やシンガポール、インドなどでは英語は共通言語になっている。

今日では、世界中のあらゆる地域で、さまざまの人種が英語で意思疎通(いしそつう。コミュニュケイション)している。だから私は英語を日常で使用する人びとまでを含めて英語国民と呼ぶことにした。

英語が白人種 だけのものでないことは、明白である。にもかかわらず、これまでの英語教育では上品な白人の典型的な英語(の表現と、語り口)だけが英語の模範とされてきた。ごくふつうの人々のごく一般的な英語は、もっと私たちの耳に優しい気がする。もちろん、粗野で下品な英語のしゃべり方を真似すべきではない。私が望むのは、世界語としての英語の、簡明で適切な語り口である。

英語国民と日本人の発想のちがいといわれるものも、つきつめると文章の構造のちがいに行きつく。 コトバのちがいは文化、生活習慣のちがいをひきずるから仕方がないと諦めてはならない。日本語と英語が両方の文のつくり方のどこがどのようにちがうかを考え、かつ共通の土台を作るべきだ。

この本では英文法を解剖する作業を詳細に行なった。この本の着眼点である「日本文法との対比から見た英文法理論の再検討」という企てに私は着手した。私が独力で築き上げてきたこの方法が、これから先、日本人が英語に近づく際の最良の道になってほしい。そしてより多くの賛同者を得ることを念願している。

ただでさえ下手くそな日本人の英語の発声(はっせい。 phoneme フォーニム。 ×「発音」は、誤用。自然界の音(おと)と 人間の声は異なる )を少しでも上達させ、世界市民としてふさわしい英語がしゃべれるようになることが私たちの目標だ。発音(発声)についても、従来の日本の音声学( phonetics フォネティクス )の立場とはちがう視点から、私の意見を書いた。

副島隆彦

(「あとがき」ここまで)

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