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副島隆彦 投稿日:2023/05/15 22:59

【3055】[3555]衝撃。ロバート・ケネディJr が、「世界中の米軍を撤退させる」と選挙公約した。

副島隆彦です。今日は、2023年5月15日(月)です。

 私は、以下のアメリカ政治のニューズに、大変、驚いている。
 あのロバート・ケネディ(1968年6月5日に、暗殺された)の長男 のRobert “ Bobby “ Kennedy Jr. (69歳)が、 先月の 4月19日(水)に、次の大統領選挙に立候補した、ことは知っていた。

 だが、彼、ボビー・ケネディ・ジュニア が、以下の載せる、5月12日の 次の記事に有る通り、
「 (米国の)国外にある 800の 米軍基地を(すべて)閉鎖し、直ちに米軍を帰還させて、米国を模範的な民主政 国家にする(戻す)」

と、演説で、語ったという。 この4月19日の 大統領選への立候補を表明した、選挙公約( ポリシー・プラットフォーム policy platform と言う )で、「アメリカ領土の外の、世界中に置いている 米軍の基地を、すべて、閉鎖して、即座に全面的に米国内に、撤退(ウイズドロー withdraw )させる」と、表明した、のである。

 これには、私、副島隆彦は、大変、驚いた。驚いて、この記事を読んだあと、そのまま、4日間、 私は、ほぼ、寝込んだに等しい。他の仕事に、ほとんど手が付かなくなった。自分の頭が、氷付いたようになった。

まず 記事の冒頭だけ載せる。

(転載貼り付け始め)

● 「当選したら世界中から米軍を撤退させる、ケネディ候補が衝撃の発言 
  米大統領選は意外な展開になる可能性も」

By 堀田 佳男  JBpress 2023.5.12
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/75144

(ここに、この記事の画像を貼ってください )

大統領選への出馬を表明したロバート・ケネディJr(4月19日、写真:ロイター/アフロ)

「米国の外交政策は破綻している。国外にある800の米軍基地を閉鎖し、直ちに米軍を帰還させて、米国を模範的な民主主義国家にすべき」こう断言するのは米民主党から次期大統領選に出馬しているロバート・ケネディJr(69)である。

 ケネディ氏といえば暗殺されたケネディ大統領の甥、そしてロバート・ケネディ元司法長官の息子という血筋で、米政界のサラブレッド的な人物である。 現在は環境問題を扱う弁護士をしている。・・・・
( あとの記事は、うしろに載せる)

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 この記事は、5月12日ヤフーの世界記事の中の、JBpress というネットの情報記事のサイトの会社 に、 堀田佳男(ほったよしお)というライターの記事として載った。私は、この堀田佳男という人が、どんな経歴の人か、知らない。

 12日に、この記事を、読んだ日本人は多いだろう。だが、それでも、ほとんど人は、へーと、思っただけで、それ以上の関心を持たないで、通り過ぎただろう。

私、副島隆彦は、そういう訳(わけ)には、行かなかった。 
 私は、この「在外(ざいがい)の世界中に置いている 800の 米軍の 軍事基地から、自分が、大統領に当選したら、ただちに、基地を閉鎖して、空軍も、海軍も、陸軍も、その他の軍隊も、全面的に、一気に、引き揚げる、というのである。

 ということは、沖縄と中心として、日本国内の 各地の駐留米軍 の 約6万人の米軍兵士・軍人が、米本国に帰る、ということだ。そのほかに、2万人の洋上(ようじょう)というか、実際には、横須賀と佐世保にいる、米海軍の空母と、原子力潜水艦(核兵器を、勝手に、日本政府には何も言わないで、搭載している)もイージス艦の艦隊も、撤収して、日本から、去る、というのである。

 東アジア(極東 Far East ファー・イースト )には、その他に、韓国に、在韓米軍が、約2万人いる。マッカーサー大将が、朝鮮戦争の時に、連れて来た、旧米陸軍第5軍(the Fifth Army ザ・フィフス・アーミー)を中心にしている。今は、在日米軍と合わさって、合計、10万人で、PACOM(パコム)と言って、大きくは、米軍の太平洋軍(パシフィック・コマンド)の一部となっている。 司令部は、ハワイの真珠湾に有る。

 それと、台湾にいる。 米軍の空軍のスクワドロン(最新鋭の 戦闘爆撃機が、16機と、16機の編隊からなる飛行大隊)を始め、軍事顧問団(ミリタリー・アタッシェ)のようなふりをして、おそらく、2万人ぐらいの米軍が、台湾に、隠れるようにして駐留(インストール)している。

 故ロバート・ケネディ司法長官 の息子 Bobby Kennedy Jr. が、4月19日に、「これらの在外米軍の 800基地のすべてを、ただちに閉鎖して、すべて、米国領土に帰還させる」と、選挙公約で言った、のである。

 私、副島隆彦は、うろたえた。うろたえて、その後、4日間、頭が、回らなくなった。
 私のこれまでの、人生の、自覚的に生きただけでも60年の人生で、こんな 発言が、アメリカ国内から、公然と、起きてこようとは、想像もつかなっか。

 想像がつかないのではない。 私は、「米軍は、日本から出て行け。いつまでも、外国の領土に、平気な顔をして居座って、日本から、巨額の おカネをふんだくって、のうのうと、のさばっているな ! 」 「米軍は、さっさとアメリカに帰れ !」 と、ずっと、自分の脳の中で、言い続け、ぶつぶつをしゃべり続けて来た。

 昔は、日本人もみんな知っていた、有名な ” Yankee , Go home . ”  「ヤンキー・ゴー・ホーム」 という言葉もある。これを、集会で、米軍基地の前で、叫んでいた、日本民衆が、50年前には、たくさんいた。今は、日本共産党でも言わなくなった。なぜ何だ。
 
 ある国に、外国の軍隊が、居座っていたら、それは、軍事占領(オキュペイション)だ。その国は、主権国家( sovereignty ソブリーンティ 国家主権もつ国 )ではない。すなわち、独立国(インデペンデント・ステイト)ではない。他の大国への従属国家、すなわち、属国(ぞっこく a tributary state トリビュータリー・ステイト  朝貢国 )である。

 私、副島隆彦は、この考えを、ずっとこの30年間、表明して来た。『属国・日本論』(初版は、1997年。25年前)、主張し続けて来た。だから、このロバート・ケネディの息子(69歳)の発言を知って、気が抜けた。それから、4日間、ものごとへの思考が定まらず、上(うわ)の空(そら)になった
 
 この 駐留米軍の全面撤退 が、東アジアでも、実現するかもしれない、のである。 今から、78年前の、1945年の8月の、第二次世界大戦の終結以来、ずっと、世界覇権国(ザ・ヘジェモニック・ステイト the hegemonic state )であり続けた、アメリカ帝国(アメリカン・エムパイアの 軍隊 が、続々と、米国内に、帰ってゆく、というのである。

 そのなことが、果たして、起こるのか? 私、副島隆彦は、自分が、この30年間、自分で勝手に、日本の民間人の国家戦略家(ナショナル・ストラレジスト)を名乗って、政治言論を、やって来て、本もたくさん書いてきて、それで、自分の冷静な客観予測ではない。願望、夢、希望でもない。私は、今、どう言ったらいいのか、分からなくなって、ひとりで考え込んでいる。

 それに対して、「いや、そんな現実味の無い、途方もない、考えは、全く成り立たない。ロバート・ケネディなど、大統領選挙に出る、と言ったって、有力候補にはならない。どうせ、バイデンが勝つんでしょ」 と、 したり顔で、あれこれ、言いたい人は、言えばいい。

 そんな事は、アメリカ政治と政治思想の研究を、40年間やってきた、私が、一番、知っている。「ボビー・ケネディは、民主党内の候補者決定(ノミネイション)の選挙では、10%も得票できない」と、ずっと、言われてきた。あれこれ、私、副島隆彦は、たくさんのことを知っている。

アメリカ民主党(デモクラット the US Democats ) というのは、本来、
アメリカの貧しい人々と、健全な労働組合と、移民たちが支えた、リベラル派の大衆政党だった。 それに対して、米(べい)共和党というのは、金持ちと企業経営者(資本家)と、農場経営者たちの党だ。

 ところが、この貧乏人たちの大政党である、米民主党は、邪悪な勢力に、乗っ取られている。 いつの間にか、軍産複合体(ぐんさんふくごうたい。ミリタリー・インダストリアル・コンプレックス。アイゼンハウワー大統領が、辞任間際に使ったコトバ)の大企業経営者たち、グローバリスト(globalist  地球支配主義者) 、それを、今の言葉で言えば、デープステイト(the Deep State) そして、カバール( Cabal  英チャールズ2世の 5人の極悪人の重臣たちの名から)に乗っ取られてしまった。

 それでも、それでも、アメリカ民主党には、汚れていない、本物の民衆が支える、本物の反(はん)保守のリベラル派が、厳然として、岩盤のような層として存在する。

 その真のアメリカ民衆の願いと、希望が、今、ロバート・ケネディの大統領選への出馬の表明(4月19日)となって、公然と現れた。素晴らしいことである。

  しかし、ロバート・ケネディの、この「在外米軍、全800基地の、世界中からの全面撤退」の公約は、抑えこなれ、押しつぶされて、日本の私たちまで、届かなった。届くのに、ようやく一か月かかった(5月12日)。 何と言うとだろう。

 このロバート・ケネディJrの、偉大な発言を、押さえつけ、押しつぶし、教えない為に、日本のメディア(テレビ、新聞、週刊誌、ネット記事)もある。何ということだろう。なんという、卑劣な連中だろう。
とりあえず、この記事を、日本で初めて書いて、私たちに知らせてくれた、堀田佳男氏に、敬意を表し感謝の言葉を送ります。

 自分のお父さんの ロバート・ケネディが、兄のジャック・ケネディ( JFK John F. Kennedy 1963年11月22日に暗殺された)の5年後に、同じように殺されて、それで、アメリカ合衆国から、本当のデモラクシー(民主政体。みんしゅせいたい)の 光が、消えて、60年が経(た)つ。 この60年間は、私の人生の60年間でもある。

 世の中は、苦しみに満ちている。どんな人の人生も、生きてゆくうえでの、苦しさを、たくさん背負って、そして、喘(あえ)ぎながら、我慢に我慢をしながら、踏ん張って、生きている。 その個々の人間の苦しみの 総和(そうわ)としての、国民政治、というものがあり、それらを、さらに世界中で合計した、世界政治(ワールド・ポリティックス)というものがある。

 その世界政治の頂点であり、中心であり続けた、アメリカ帝国の中から、自らの、「 帝国の終わり」 the end of American empire 「ジ・エンド・オブ・アメリカン・エムパイア」を、宣言するに等しい。しかも、それを、高らかに宣言して、「アメリカは帝国であることをやめるべきだ」 「在外米軍のすべてを、世界中から、撤収、撤退させる」という、コトバが、アメリカの有力な政治家の家系の人間が、言い放ったのだ。

 このロバート・ケネディJrの偉大なコトバの前に、愚劣な、人間どもは、心底、脅(おび)えるがいい。お前たちの、気色の悪い、言論など、人類史の闇の中に、突き落としてやる。 

 このケネディの選挙公約 の重要性に、私、副島隆彦は、たった、ひとりで静かに感動している。 確かに、私は、「米国の衰退(すいたい。デクライン decline )と共に、米軍の世界中からの撤退も起こる、と、私は、何十回も、これまでの自分の本たちの中に書いてきた。それらの本は、今も証拠として残っている。

 だが、私、副島隆彦の体も、頭も、年齢と共に、衰えて行く。「なにくそ。私は、あと、10年は、生きるぞ」と、最近、決意を新たにしたばかりだ。あと10年有れば、いろいろなことを見ることが出来る。自分が、予想して、書いた 予言たちが、次々と当たるだろう。

 私が、書いた予言たちに対して、「このバカは、何という、愚かなことを書くのだろう」と、随分と、あちこちで、蔑(さげす)まれて、アホ扱いされた。そういう、私の物書き人生の40年間(30歳から)だった。それらが、少しづつ、事実として目の前に現われることで、報われてゆく。私は、それらの事態を、毎日、横目でじっと睨(にら)みながら、静かに、死んでゆきたい。

 さあ、こんなに、私の 前書き が長くなった。 以下に、ロバート・“ボビー”・ケネディ・ジュニアの 「世界中の在外米軍の基地 800を閉鎖して、米軍人たちを、すべて、アメリカに帰還させる」の選挙公約の記事を、読んで下さい。

 あ、そうだ。米軍が自国内に撤収して、軍人たちが、「ああ、よかった。もう、軍人、兵士なんかやりたくない。人殺しの職業 は、まっぴらだ。もう、いやだ。自分が戦争、戦闘 で死ぬのも御免だ。自分の故郷で、静かに生きたい」と、 多くの米軍人が、ほっとして望む、として。

 それでは、殺し合い、戦いをしないでは済まない、人間という愚かな生き物の、その本性(ほんせい。nature ネイチュア)は、どうなるんだ。

 在外米軍が、本国に帰還して、それぞれ、自分の田舎の市 の外れの、連隊(れんたい。レジメント)に帰されて、そして、除隊(じょたい)して。それで、そのあと、何で食べて行くのか。どうやって家族を養ってゆけるのか。職は簡単には、見つからない。
・・・そうだ。その時、巨大な、失業(しつぎょう)の問題が、アメリカ社会全体に、待ち構えている。 

 兵士たちの兵役の終わりと除隊 の問題とは、そのまま、そのあとの巨大な失業(しつぎょう unemployment アンエンプロイメント )の問題だ。そんなことは、分かっている。人類(人間)は、いつも、どこの国でも、どんな時代も、この問題を抱えて生きて来たのである。  副島隆彦 記

(転載貼り付け始め)

● 「当選したら世界中から米軍を撤退させる、ケネディ候補が衝撃の発言 米大統領選は意外な展開になる可能性も 」

By 堀田 佳男  JBpress 2023.5.12
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/75144

(ここにも、記事の画像を貼る)

大統領選への出馬を表明したロバート・ケネディJr(4月19日、写真:ロイター/アフロ)

 「米国の外交政策は破綻している。国外にある800の米軍基地を閉鎖し、直ちに米軍を帰還させて、米国を模範的な民主主義国家にすべき」こう断言するのは米民主党から次期大統領選に出馬しているロバート・ケネディJr(69)である。

 ケネディ氏といえば暗殺されたケネディ大統領の甥、そしてロバート・ケネディ元司法長官の息子という血筋で、米政界のサラブレッド的な人物である。 現在は環境問題を扱う弁護士をしている。

 そのケネディ氏が大小合わせて800ほどもある国外の米軍基地を閉めるべきであると公言したのだ。再選を目指す現職バイデン大統領への強烈なカウンターパンチと受け取られているが、どこまで本気で米軍基地を閉鎖しようとしているのか。 国際関係のバランスを考慮すれば、国内だけでなく国外に米軍基地を置いておくことは半ば常識とされており、その反響は大きい。

  米メディアに発言した同氏の言葉をもう少し探ってみたい。 「米国の年間国防関連支出は1兆ドル(約135兆円)にもなり、世界中に800もの軍事基地を維持している」 「にもかかわらず、ベルリンの壁が崩壊した後にもたらされるはずだった平和は訪れていない」

 「大統領に当選した場合、私ロバート・ケネディJrは米国という帝国を解き放つ準備に入るつもりだ。米国は次から次へと起こる戦争のたびに返済不能な負債を積み重ねている」 

 「軍隊は国を守るという本来の役割に戻るべき。代理戦争をはじめとして、他国を空爆したり秘密工作をすることがあまりにも普通になってしまっている」 「戦争好きな帝国(米国)が自らの意志で武装解除をすれば、それは世界中の平和の雛形になるはずだ」 
「健全な国家として平和に奉仕するのは今からでも遅くはない」

 ここまでの言説を眺めるかぎり、理想を追求するケネディ家の人物らしさが見受けられるが、同氏の主張がどこまで有権者に受け入れられるかは分からない。

 ただ今回、1980年に現職カーター大統領に挑んだケネディ大統領の末弟エドワード・ケネディ上院議員のような役回りを果たすかもしれず、党内の反バイデン派をまとめ上げる可能性は捨て切れない。というのも、米NBCテレビが発表した最新の世論調査では、回答者の70%は「バイデン氏の再選を望まない」としているからだ。

 7割の有権者がバイデン氏の再選を望まない理由の一つが年齢である。 仮に再選を果たした場合、2期目が終わる時は86歳になっており、職務遂行に疑問を抱く人は多い。大統領としての支持率に目を向けても、バイデン氏に人気があるとは言いがたい。

 米世論調査の分析を行うウエブサイト「ファイブ・サーティ・エイト」によると、現在の支持率は42.5%でしかない。過去1年半以上、50%を超えたことはなく、不支持率の方が高くなっている。

 米民主党関係者に取材すると、次のように述べた。 「ロバート・ケネディJrは民主党主流派とは違う立ち位置で、ある意味で異端の意見をもつ人物といえる」 「しかし、同氏のもつ活力と『ケネディ』というブランドネームは魔法のような力があり、今後大統領候補として一気に求心力を得られるかもしれない」

 800もの米軍基地を閉鎖するというアイデアは誰しもが賛同するものではないが、選挙序盤にこうした大胆発言をすることで、バイデン大統領へのアンチテーゼとして一石を投じることはできそうだ。米国の国防予算は世界一でありながら内部から空洞化してきていると、ケネディ氏は述べる。 インフラ、産業、経済が脆弱では強い国家、安全な国家を維持することはできないとする。 
 
 さらに同氏はケネディ政権が発足した場合、米国を再び強い国にすることが最優先課題であると述べている。そのためには冒頭で記したように、帝国主義的な政策を終わらせる必要がある。それが国外の米軍基地の閉鎖なのだという。

 一見、矛盾するようにも思えるが、米国内の衰退した都市、老朽化した鉄道、腐敗したインフラ、低迷する経済に目を向けて再建することが強い国につながると捉えている。

 ウクライナでも同様の考え方を実践するつもりでいる。 ロシアに対して、ウクライナ国境付近から軍隊と核兵器搭載ミサイルを撤退させて、ウクライナの自由と独立を保証させるつもりだ。そして国連の平和維持軍が同地域の平和を保証すべきだと考える。

 ジョン・クインシー・アダムズ( 副島隆彦注記。アメリカ第6代大統領 )が、1821年の独立記念日の演説で使った「米国は怪物を退治するために国外に出ていくことはない」という言葉に立ち返り、交戦的な態度を改めるべきとのスタンスに立つ。そして世界を敵や敵対者という視点でみることをやめなければならないとする。

 これはある意味で理想論としての外交政策である。ケネディ氏が本気で取り組んだ時にどういった成果が出せるのか定かではないが、いまのケネディ氏の外交スタンスであることに間違いない。

 共和党に目を向けると、ドナルド・トランプ前大統領が再び選挙戦に舞い戻ってきている。 ただ世論調査では60%が「トランプ氏は出馬すべきではない」と回答しており、米有権者の過半数はバイデン大統領にもトランプ氏にも次期大統領になってほしくないとの思いであることが分かっている。

 理想論を掲げるロバート・ケネディJrが米国の表舞台に立てるのかどうかは、これからの選挙戦を見なくてはいけないが、バイデン大統領にはこういうことを述べている。「この国を建て直す方法を見つける時がきた。簡単なことであるとは言わない。しかし、少なくとも私には何が必要であるかが分かっている」 

  そう述べた後、父ロバート・ケネディ氏の言葉を引用して、いまの米国に必要なものを口にしている。 「互いを愛する気持ちと知恵、そして思いやりが重要」  今後、大統領選の民主党レースでケネディ氏がどこまで支持を伸ばし、本当に現職バイデン大統領の牙城を崩せるかが見ものとなる。 ケネディという魔法の力はどこまで通用するのか――。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 追加で、英文を載せます。 上記の 堀田 佳男氏の文の内容となった、
ロバート・ケネディ Jr の、選挙公約の 文章は、以下の通りです。
 堀田氏が、要約で書いている通りのことが、ケネディの 「 2024年 大統領選のためのキャンペーン・ウエブサイト」に載っています。 

(転載貼り付け始め)

 RFK Jr’s campaign website, Kennedy 2024.com, as follows:

  “Annual defense-related spending [by the US] is close to $1 trillion. We maintain 800 military bases around the world. The peace dividend that was supposed to come after the Berlin Wall fell was never redeemed. Now we have another chance.

 “As president, Robert F Kennedy Jr will start the process of unwinding empire. We will bring the troops home. We will stop racking up unpayable debt to fight one war after another.
“The military will return to its proper role of defending our country.

 We will end the proxy wars, bombing campaigns, covert operations, coups, paramilitaries, and everything else that has become so normal most people don’t know it’s happening. But it is happening, a constant drain on our strength. It’s time to come home and restore this country.

 “When a warlike imperial nation disarms of its own accord, it sets a template for peace everywhere. It is not too late for us to voluntarily let go of empire and serve peace instead, as a strong and healthy nation.”
 
 And on Ukraine:
   “In Ukraine, the most important priority is to end the suffering of the Ukrainian people, victims of a brutal Russian invasion, and also victims of American geopolitical machinations going back at least to 2014.

  “We must first get clear: Is our mission to help the brave Ukrainians defend their sovereignty? Or is it to use Ukraine as a pawn to weaken Russia? Robert F Kennedy will choose the first. He will find a diplomatic solution that brings peace to Ukraine and brings our resources back where they belong.

 “We will offer to withdraw our troops and nuclear-capable missiles from Russia’s borders. Russia will withdraw its troops from Ukraine and guarantee its freedom and independence. UN peacekeepers will guarantee peace to the Russian-speaking eastern regions.

 “We will put an end to this war. We will put an end to the suffering of the Ukrainian people. That will be the start of a broader program of demilitarization of all countries.
“We have to stop seeing the world in terms of enemies and adversaries. As John Quincy Adams wrote, ‘Americans go not abroad in search of monsters to destroy.’”

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝  

松永知彦 投稿日:2023/05/14 18:54

【3054】[3554][3550]築山殿(瀬名姫)とその息子の松平信康(のぶやす)の殺害の真実

会員番号2843 松永知彦です。

NKH大河ドラマ「どうする家康」が回を重ねるごとに評価を下げているようである。
ドラマの作りそのものがどこをとっても軽薄だ。脚本と演出が崩壊している。

( 副島隆彦です。5月14日です。私が、以下に、長々と、ここで、加筆します。松永君の文の冒頭を、内容を、読み易(やす)く、明瞭にするために、以下の通り、徹底的に、書き足して、書き変える。)

 今回は、私、松永知彦 は、三河守(みかわのかみ。三河大名)であった松平元康(もとやす。今川方に属した )が、1561年 に、岡崎城内で殺されて摩り替わられる前の、真実の正室(奥様)である、築山殿(つきやまどの=瀬名姫 せなひめ ) と このふたりの真実の息子であり嫡男(ちゃくなん)である、岡崎三郎信康(おかざきさぶろうのぶやす。 松平信康=まつだいらのぶやす=)のふたりの殺害のことを書く。

 父親である、三河大名、松平元康(岡崎城主) に、桶狭間(おけはざま)の合戦(1560(永禄3)年5月)のあと、「息子殿の信康を、無事にお連れしました。私共も家来になりまする」と、まんまと、岡崎城を入り込んだ男がいる。

 そして、この男が、その年のうちに、城主の元康(もとやす)の油断の隙と突いて、殺して、摩り替った。その後、この男は、すべて信長の指図で、とんとん拍子で、徳川家康に成り代わった。本名を、世良田元信(せらだもとのぶ)という。戦場忍者である。父親は、上州(群馬県)の世良田村から、駿府(すんぷ。今の静岡市)に流れてきていた同じ、戦場忍者(願人坊主、がんじんぼうず。ササラ者)である。 
 
 摩り替ったあとの元康(別人)は、それまでの、駿府(すんぷ。静岡県)を中心とした駿河(するが)の国の大(だい)大名だった今川(いまがわ)方 から離れて、尾張大名の 織田信長 の配下に入った(1561年4月)。

 従って、その翌年、1562(天正5)年1月の、清州城(信長の本拠。名古屋城はまだない)での、×「織田と徳川の 清州同盟」 というのは、?(うそ)っぱちの、歴史の捏造だ。 真実は、松平元康(もとやす)に摩り替った男が、清州城に出頭して、信長と、主従の、親分・子分としての固めの杯(さかずき)を、交わしたのである。

 今も、現在でもも、まだ尾張名古屋(おわりなごや)の徳川公爵家(とくがわこうしゃくけ)からの策謀と、歴史捏造の圧迫が、続いている。 それと、信長を、1582(天正10)年6月に、イエズス会(耶蘇=やそ=教。現在もローマカトリック教会の中心の宗教セクト) が爆殺したことを、覆い隠すために、 「ウソの家康」像づくりが、強力に進行している。だから、「どうする 家康」などという奇妙なNHKの大河ドラマになっているのだ。

 徳川公爵家 としては、自分たちの先祖で、創業者(ファウンダー)である家康が、下層の、賤民(せんみん)の出の、戦場忍者であった、と、日本史の知識として、大きく日本国民に、バレて、満天下に露見することが、物凄くイヤなことなのだ。 
 だから、NHKまで動かして(使嗾==しそう=して)、捏造の日本戦国史を、偽造し続けている。

 この歴史の真実の隠ぺいの努力 は、物凄いものであって、摩り替った 1561年から462年たった今 でも、まだ、頑強に、続いている。そのために、東大の国史(こくし。東大だけは、日本史学科と言わないで、威張って、国史科 と言う。東大史料編纂所も持つ )に、ひとり、家康像の捏造の係の教授がいる。代々、いる。 

 その背後に、ローマ・カトリック教会の本山のヴァチカンから派遣されている、日本語が出来る、神父(司教、ビショップ)がひとりいる。

 この男が、日本の文科省の、国語と歴史教科書の内容 を、監視していて、日本国民の教育場面からの、洗脳を、今の、今でも、実施している。恐ろしいことである。

 だから、1563年の9月から(翌年の2月に鎮圧された )、三河の国一帯で起きた、「三河一向一揆」と呼ばれる騒ぎも、ただの宗教一揆(民衆暴動)ではない。真実は、「あのお方は、我らのお殿様の、松平元康どの ではない。別人じゃ」と、騒ぎ出した、三河の地侍(国人=こくじん、くにうど)たちを中心とした、叛乱だ。

 戦国史のなかで、極めて不思議な動きをし続ける、家康が重用(ちょうよう)して、長年、失踪ののち、重臣に返り咲いた、本多正信(ほんだまさのぶ) も、石川数正(いしかわかずまさ。松本城主で終わった)も、この反(はん)家康の、反抗勢力の指導者だった。
 
 不思議な経緯で、秀吉と家康で、何からの手打ち(妥協)があったのだろう。
秀吉( 信長の草履(ぞうり)取り。小者=こもの=から這い上がった下層民の出)は、この家康の摩り替りを知っていたが、それを、不問にする、ということで、2人の重臣を、自分との2重スパイ(ダブル・ロイヤリティ。2重忠誠心)として、家康に送り返したのだろう。これは、今の時点での、私、副島隆彦の考えである。

 それから 17年経(た)って、もう、要らなくなった、築山殿と信康を、1579(天正7)年に、殺害した事件について、松永知彦君が、検証する。
 家康に、この年、浜松城で、西郷の局(お愛。伊賀忍者の棟梁、”掛塚(かけづか)の鍛冶屋の平太”  服部平太夫=はっとりへいだゆう=の娘)に男の子が産まれた。それが、秀忠(ひでただ)で、後の徳川2代将軍である。
 この秀忠が生まれたから、 もう、こいつらは、無用だ、で、築山殿と、松平信康(岡崎城主)は殺害された。

 以上、ここまでを、副島隆彦が、5月14日に、加筆も何も、全部書いた。ここから下の、以下の文が、松永友彦君の文です。 副島隆彦の加筆 終わり )

 松永知彦です。当初、NHK大河ドラマ「どうする 家康」の瀬名姫(三河大名で岡崎城主の 松平元康の正室 )が、今後を見極めてから書こうと思っていたが、先月の4月23日に、副島先生から、このことの真実を 書くように指示を頂いたので、ここに投稿することにした。

 本題に入る前にひとつおことわりをしておきます。
今回の投稿文は、今年の二月にわたし松永が投稿した「重たい気持ちで書く掲示板[3516]」の続編になります。さらに再掲載として「今日のぼやき[2039][2040]に過去の論文も掲載していただいております。

 重掲[3516]では、歴史の隠された真実として徳川家康と松平元康はまったくの別人であるということを説明している。正史では、「竹千代→松平二郎三郎元信(まつだいらじろざぶろうもとのぶ)→松平蔵人元康(まつだいらくろんどもとやす)→徳川家康」とひとりの人物が次々に改名していることになっているが、竹千代から元康までと徳川家康とは間違っても同じ人物ではない。絶対に、である。

築山殿(以下瀬名姫)と信康惨殺事件の鍵ともなる重要な真実である。未読の方は重掲[3516]だけでも先に目を通してもらえると、より理解していただけると思います。

瀬名姫と信康の惨殺事件は、間違いなく家康の生涯において、最大の事件のひとつであろう。(あくまで正史上では、だが。)
その正史上伝えられるこの事件は次のとおりである。

瀬名姫が、武田勝頼と内通し徳川・織田を亡きものにしようと謀り、未遂に終わるもその証拠となる瀬名姫の誓書(せいしょ)と武田勝頼の起請文(きしょうもん)を押収。幽閉先である築山に出入りしていたという唐人医師・?敬(げんけい)と瀬名姫との不義密通の疑い。及び信康の乱心ともとれる粗暴なる振る舞い。それらを徳姫(五徳;ごとく=織田信長の娘)が父信長に、いわゆる徳姫の『十二か条の書き立て』といわれる書状で訴えたことにより露見、信長が家康重臣の酒井忠次と奥平信昌に問い詰めるも十二のうち十までは否定しなかったため、信長の命により、ふたりを処分せざるを得なかった、というものである。

すぐにいくつかの疑問が生じる。
まず、そもそも瀬名姫と信康に謀反や反逆の意思があったのか、ということである。瀬名姫は正室であり信康は嫡男である。別段何もしなくてもその地位は安泰なのだ。何ゆえ謀反の謀事なのか。もし本当に謀反や反逆の意思があったのなら、家康とふたりの間にその原因となる何かがあったということになる。(史疑徳川家康事蹟)

次に、本当に家康に対する謀反・反逆の企てや?敬(げんけい)との不義密通があったのなら徳姫が直接信長に訴える前に当然家康の耳に入るであろう。身内の恥をみすみす信長に直訴させるであろうか。大事になる前に内々に処理をしようとするはずである。

そして、やはりいくら主君信長の命令(ということに正史上はなっている)とはいえ、果たして正室と、清康公(きよやすこう・松平元康の祖父)の再来とも言われ武勇の誉れ高い(※後述する)嫡男の二人を同時期に殺害するものだろうか。妻子である。

信長も本当にそのような命令を下したのであろうか。
ましてこの時代であれば、女人なら尼に出家させ、男子も同様に出家させ放逐することもできたであろう。還俗(げんぞく)し舞い戻る可能性もあるが。

これらは、最初にごく普通に持つ素朴な疑問である。だから多くの歴史学者や歴史愛好家らが皆同じ疑問を持ち長年首を傾げてきたのである。

これから、わたし松永がこれらの疑問に対するわたし自身の解釈を、文献を引用しながら書き述べていく。この事件の真実はどうであったのかを追求していく。

では、まず瀬名姫の名誉回復からおこなう。

瀬名姫・・天正七年(1579)八月二十九日、佐鳴湖(さなるこ;静岡県浜松市)湖畔で誅殺。罪状は徳川に対する謀反の企てと唐人医師・?敬(げんけい)との不義密通。
だが実際はこのような理由で殺害されたのではない。

ここに瀬名姫が唐人医師・?敬(げんけい)に託したという武田勝頼に宛てた誓書を『史疑・徳川家康事蹟(村岡素一郎(むらおかもといちろう)』から引用する。

<引用開始>

信康は我が子なれば、いかにも、徳川、織田の両将は、わらは計らう手立て候得ば、かまへて失い申すべし。此の事成就せむに於いては、徳川の旧領はそのまま信康に賜りなむ。又わらわ事は、御被官の内にて、さりぬべき人の妻となし給ふべきか、この願い事かなへ給はば、かたき御請文を賜るべし、いまより信康を教訓し、御味方につけ申すべき也との事也

(信康は我が子なれば、いかにも、徳川、織田の両将は、私が計らうてだてがございます故、かならず、亡きものにしてみせます。このことが成就したときには、徳川の旧領は、そのまま信康に賜りますよう。また私のことは、御家臣のうちで、適当なお方の妻にお世話くださいませ。私のこの願いをお受けいれくださるならば、固い御請文を頂きたく存じます。今より、信康を教訓して、お味方につかるように致します。)

<引用終了>

続いて、この誓書に対する返信である武田勝頼の起請文を、同じく『史疑・徳川家康事蹟(村岡素一郎』から引用する。

<引用開始>

今度?敬に仰越され候趣、神妙に覚候、何としても息三郎殿を勝頼が味方に申進め給ひ、はかりことを相構え、信長と家康とを討亡し給ふに於いては、家康の所領は申に不及、信長が所領の内何れなりとも望にまかせて、一か国新恩としてまいらすべく候、次に築山殿をば、幸いに郡内の小山田兵衛と申す大身の侍、去年妻をうしない、やもめにて候ば、彼が妻となしまいらすべく候、信康同心の御左右候はば、築山殿を先立て甲州へむかひとりまうらすべく、右之段相違するに於いては、
罸文略之
 天正六年十一月十六日                    勝 頼 血 判

(今度、?敬を通じて申し越されたことについては、しかとわかりました。何ともして、御子息三郎殿に、勝頼の味方になるよう説き進められて、謀をたて、信長と家康をうちほろぼしたうえは、家康の所領は申すに及ばず、信長の所領のうち、どこでも、お望みにに任せて、一カ国を、新恩としてさし上げましょう。つぎに築山殿は、ちょうど、小山田兵衛という大身の侍が、昨年、妻を失い、やもめでおりますので、その妻にお世話いたしましょう。信康に同心のご家来がいるならば、まず、築山殿を、先に甲州にお迎え入れいたしましょう。)

<引用終了>

松永知彦です。この誓書と起請文は現存していないため、原文がどのようなものであったかはわからない。また、信頼のおける一次資料にも記載がないので、現在手に入る書籍でしか確認できないし、ものによって若干表現の違いもある。
わたし松永は『史疑・徳川家康事蹟(村岡素一郎)』の文章がもっとも原文に近いと思うので、ここからの引用とした。

村岡素一郎氏は、その著書『史疑徳川家康事蹟』の中で、この誓書は瀬名姫が自ら書き記したものとし、「築山殿親子は、松平氏の孤児、未亡人なのであって、家康と夫婦骨肉の関係がないことは火を見るよりも明らかである」としている。

徳川とは関係ないと自ら書いているとの解釈に異論はない。だが、わたし松永はこの誓書は瀬名姫自身が書いたとは思っていない。勝頼の起請文は自筆であったと伝わってはいるが、こちらも勝頼が書いたものではないと思っている。

先に言っておくが、実はこの誓書と起請文は、高柳光寿博士(たかやなぎみつとし;1892.3~1969.1、歴史学者で國學院大學教授)が『青史端紅(せいしたんこう)』ですでに偽書との見解を示している。桑名忠親名誉教授(くわたただちか;1902.11~1987.5國學院大學)や、現在NHK大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を担当されている小和田哲男静岡大学名誉教授も、信頼のおける資料にこれらの記述はないとして、歴史学会では早くから偽書と判定している。

が、そこまでである。
そこから先は歴史学者の皆様方は絶対に踏み込めない。認められない、認めてはいけない真実に近づいてしまうからだ。書かれている内容を細かく読み解いていくと確かに徳川と松平が別のものであるという結論に至るのである。
わたし松永が詳しく解説し、その先の真実へ突き進んでいく。

第一に、この誓書では、「信康は我が子なれば、いかにも、徳川、織田の両将は、」との書き出しから始まる。信康は我が子であるから「信康」だが、徳川はなぜ「徳川」と苗字なのか。しかも「織田」と横並びで他家扱いである。夫であるなら、例えば「家康殿」とか「我が夫、家康」などではないのか。
この誓書を書いた何者かは、確かに、徳川と、瀬名姫、信康の二人がそれぞれ夫婦、嫡男ではないと、この冒頭ですでに告白してしまっている。

第二に、「徳川、織田の両将は、わらは計らう手立て候得ば、かまへて失い申すべし。(徳川、織田の両将は、私が計らうてだてがございます故、かならず、亡きものにしてみせます。)」というくだりについてだが、瀬名姫自ら策を計って両将を討つのなら、なにも武田に「徳川の旧領はそのまま信康に賜りなむ。(徳川の旧領は、そのまま信康に賜りますよう。)」などと断りを入れる必要はない。

しかもこのくだりは女性である瀬名姫が書いたとはどうしても思えないのだ。築山という幽閉先に蟄居(ちっきょ)させられ、侍女は居るが、たまに訪ねてくるのは信康と唐人医師・?敬(げんけい)ぐらいであったという。

そのような状況下で、徳川のみならず織田まで討ちとる計略がある、などと書けるであろうか。例えば、「家康をなんとかして討ってほしい」とか「信康と連絡を密にとって、構(かま)えてほしい」というような懇願であればわかる。それならば「討ち果たしたのちは、徳川の旧領を賜りたく」となるだろう。

それが、徳川だけでなく織田までも名指しながら、「計らう手立てがある」というが、そんな手立てなどあるはずがない。相手は家康と信長である。いくら戦国時代の女性とはいえ姫である。姫様が書くような文ではない。

第三に、「又わらわ事は、御被官の内にて、さりぬべき人の妻となし給ふべきか、(また私のことは、御家臣のうちで、適当なお方の妻にお世話くださいませ)」と再婚の希望を自ら書き記しているが、冒頭で徳川を他家扱いにしている以上、この誓書をしたためている時点ですでに(松平の)未亡人であると考えて差し支えない。

仮にその「謀事」が功を奏したとして、家康と信長までをも亡き者にできれば、信康が三河守(みかわのかみ)になる可能性が高い。嫡男だからである。実際、起請文に承諾の意として「家康の所領は申に不及(家康の所領は申すに及ばず)」と書いてある。これは容易に予想できるのに、早々に自らが岡崎を離れる意思表示などするわけがない。

見持が寂しいということであれば、信康の支えとなるため、尾張か三河のどこかの首領か、その縁戚に嫁ぐ方が余程よい。凋落著しい今川家とはいえ、あの今川義元公の養女であり、井伊の血筋を引く姫である。

松平諸家は、三河一向一揆で家康にほとんど滅ぼされて、各当主は皆、家康が子分に松平姓を勝手に名乗らせて入り込ませてしまったので、もはや別ものであり頼りにならない。それでも嫁ぎ先は他ですぐに見つかる。

もしくは、せめて武田家本家かその縁戚ならともかく、「大身の侍、小山田兵衛」といういかにも田舎侍の名の家系のわからぬ者のところへなど分不相応もいいところではないか。

つまりこの誓書は、場合によっては信長に見せることを想定して、その信長と武田を巻き込む形にして捏造されたものであり、瀬名姫を「徳川・織田の両将を亡きものにしようと企むとんでもない悪女」に仕立てるためのお粗末な偽書なのだ。

百歩譲って、この誓書を瀬名姫自身が書いたのだとしてもかまわない。これを書いた何者かは、徳川と松平が別のものであると裏書きしてくれていて、わたし松永としては、実にありがたい偽書なのである。

では誰がこのような偽書を書いたのか。やはり築山に出入りしていた唐人医師・?敬(げんけい)が怪しい。

唐人医師といえば当然、薬の調合もおこなうのだが、当時は薬草を使うだけでなく、たまに丸薬も製造していた。その原料は人間の遺体である。調達先のひとつは戦場(いくさば)。協力相手は比丘尼(びくに)。首級を洗い、遺体の残りを処分する、戦場での遺体処理班である。
そう、家康の祖母、於萬(おまん、もしくは於富)と同じ職だ。

徳川家康と改名する前、いや松平元康の死後、摩り替る前まで、願人坊主(がんじんぼうず)の親方、酒井常光坊(さかいじょうこうぼう)と一緒に世良田元信(せらたもとのぶ)として諸国を諜報活動しつつ練り歩いていたときから、唐人医師団との関係はあったとみるべきである。

また、家康は愛用の薬研と秤を持っていて、年若いころから亡くなる直前まで、生涯にわたり自身で調合した薬しか服用しなかったのは有名な話である。

片や、幼いころから十九歳(一説には二十四歳)まで人質生活であった松平元康に、一体だれが薬の調合方法など教えるというのか。そのような記録や記述は一切無い。それに生まれた時から将来の殿様である。

この唐人医師・?敬(げんけい)が家康に命じられて、筆跡を似せて書いたに違いないのだ。それを武田勝頼に届けたのか。いや届けなどしていない。届けたところで、笑止と言って破られたら終わりである。

勝頼の起請文も瀬名姫の誓書と対の内容で、同時に捏造したとみてよいだろう。ただし、瀬名姫の再婚候補の名を実名で出してきているので、甲州から何かしらの情報を得ていただろう。?敬(げんけい)は甲州から来た唐人医師ということになっている。
?敬(げんけい)はこの事件後、まんまと行方をくらませている。

そしてなんと、驚くべきことにこの誓書と起請文がふたつ揃って、築山にあった瀬名姫の文箱(ふみばこ)から見つかったというのだ。瀬名姫を佐鳴湖の湖畔で殺害した後(そりゃそうだろう、瀬名姫生前にこんなのものがでてきたら武田も巻き込み仕込み人の追求が始まって大騒動になる)、捜索し発見したのは家康家臣、平岩親吉である。
まさに噴飯ものである。

では、なにか。武田勝頼は瀬名姫から送られてきた誓書の返書として書いた起請文を、ご丁寧に届けられた誓書も一緒に入れ直して送り返したというのか。勘弁してほしい。
もしくは控えのために二枚目を用意してあったとでも言うつもりか。

もう一度書く。この誓書と起請文が、築山でふたつ揃って発見されたのは、瀬名姫が殺害された後のことである。
このことは信康自刃の経緯についても重要な意味を持つことになる。後述する。

瀬名姫惨殺の知らせは、近隣諸国にすぐに知れ渡ることとなる。家康は、瀬名姫を悪女に仕立てるため、あらゆる流言を垂れ流す。『玉輿記」には「生得悪質嫉妬深き御人也」と書かれ、『柳営婦人伝系』には「無類の悪質嫉妬深き婦人也」と書かれ、『武徳編年集成』では「其心偏僻邪侫(へんぺきじゃもう)にして嫉妬の害多し」と書いている。酷いものである。

だが、いくら貶めたところで世間の目はごまかせない。その後、庶民の同情が噂となって拡がり、瀬名姫を斬り殺した野中重政の家系では女人がすべて狂人となった、とされ、本人も逐電し故郷の遠州堀口村に隠棲した。

惨殺の場に立ち会った、石川義房と岡本時仲は癩病(らいびょう)を発し身体が爛れた、と伝わる。当の家康も、毎夜うなされて等膳(とうぜん;可睡斉=かすいさいの住職で、家康少年時代の恩人、静岡県袋井市)を招聘しお祓いを受けている(可睡斉起立并(ならび)開山中輿之由来略記)。

わたし松永は、いわゆる歴史評論家と称する人たちに、瀬名姫惨殺の理由とされたこの誓書と起請文の詳細な内容まで知っていてほしいとは言わない。が、少なくとも歴史学会では、昭和の中頃に、すでに偽書との判定を下しているにもかかわらず、今でもこれらを持ち出し、瀬名姫を悪女と喧伝する輩がいることに我慢ができない。
それは極めて不勉強であり、あまりに不誠実な態度である。

瀬名姫は、世良田元信(のちの徳川家康)によって、二歳の時に駿府から連れ去られた信康(当時竹千代;重掲[3516]参照)を追って自らの意思で岡崎に来たのだ。奪還されたのでも、連行されたのでもない。

家康が浜松城に自ら進んで移り住んだ際に帯同しなかったのは、不仲などではなく最初から夫婦ではないからである。

瀬名姫はとしては、信康の傍に居たいので当然岡崎からは動かない。
だが、天正七年(1579)の八月も終わりに差しかかる頃、瀬名姫は、家康に信康のことで話があると誘い出されて佐鳴湖(静岡県浜松市)の湖畔まで連れて来られたのである。

だが着くなり供廻りの野中重政が抜刀するのを見て、「命は惜しくないが、信康のことについて家康とどうしても話がしたいから、そのあと斬られて進ぜよう」と願ったと伝わっている。
だがその願いは聞き入れられず、無残にもその場で侍女ごと斬り殺されたのだ。

瀬名姫の本当の名はわからない。故郷が瀬名村(静岡市瀬名)だから瀬名姫と呼ばれている。
佐鳴湖を背景とした、その気高く美しい瀬名姫の姿が今日に伝わっている。(西来院所蔵)
元康を愛し、三河岡崎の復興を夢見て、ただひたすらに信康の身を案じながら、家康の手にかかり、はかなく散ったのである。

(法名:「西光院殿政岸秀貞大姉」御前谷埋葬時、 三年後に西来院(せいらいいん;静岡県浜松市)に改装され「清池院殿潭月秋天淑室」となる。)

次に信康の身になにが起こったのかを検証し、その冤罪をはらす。

岡崎三郎信康・・天正七年(1579)九月十五日、二俣城(ふたまたじょう)で自刃。罪状は徳川対する謀反の企てと家臣、使用人に対する暴虐な振る舞い。
だがこれらはすべて捏造でありどれも事実ではない。

信康が切腹を命じられる理由となったのが徳姫の『十二か条の書き立て』である。

この『十二か条の書き立て』は現在では八つしか伝わっていない。『参河志』では七つ、『三河後風土記』では八つである。参河志の三つ目が『三河後風土記』では二つに分かれている。

原文は『参河志』から、( )内の口語訳は『史疑・徳川家康事蹟・(村岡素一郎)』(三河後風土記)』からの重引用とする。

<引用開始>

一、築山殿お悪人にて、三郎殿と我身の中様々讒(ざん)し不和になりし玉ふ事。
(築山殿は悪人にて、三郎殿と私との仲をさまざまに悪く云い、仲違いさせようとしていること。)

一、我身女子斗(ばかり)産たる何の用にかせん。大将は男子こそ重宝なれば妾多く置て男子を設け玉へと、築山殿の勧めによりて勝頼が家人日向大和守が女を呼て信康の妾(めかけ)とし甲州へ一味(いちみ)する事。

(私が姫ばかり二人産んだのは、何の用にもたたぬ、大将たる者には男子こそ大事なもの、妾を多く召して男の子を設け給えとて、築山殿のおすすめで武田勝頼の家臣、日向大和守の娘を呼び出し、三郎殿の妾になされたこと。)

一、築山殿甲州の唐人医師?敬(げんけい)と言うものを密夫として剰(あまつさ)へ彼を使として勝頼に一味し、信康を申し勧め甲州方の味方として信長公家康公を亡(ほろぼ)し、信康には父の所領の上に織田家の知行の国を進せ、築山殿をば小山田といふ侍の妻にすべし約束の起請文を書き築山殿へ返事。

(・築山殿は、甲州の唐人医師?敬というものと密会され、あまつさえ、この男を仲介として勝頼に内通し、三郎殿も誘って甲州に味方しようとしていること。)
(・織田、徳川両将をほろぼし、三郎殿には父(家康)の所領のうえに織田所領の国を参らせ、築山殿をば小山田という侍の妻にする、と約束した勝頼の起請文が、築山殿のところに送られてきていること。)

一、三郎殿常々物荒く御座し、我身召使の小侍徒と申す女を我が目の前にて差し殺し其の上にて彼の女の口を引きさき玉ふ事。

(三郎殿は、つねづね、もの荒き所業が多い。私の召使の小侍徒という女を、私の面前で刺し殺し、その上、女の口をひき裂かれたこと。)

一、去る頃三郎殿おどりを好みて見玉ふ時踊り子の装束不宣(しょうぞくよろしからず)又踊り様も悪しくとて其のまま踊り子を弓にて射殺玉ふ事。

(先ごろ、三郎殿は踊りをお好きでご覧になっていたとき、踊り子の衣装がよくない、踊りもへただというので、その踊り子を弓で射殺されたこと。)

一、信康殿鷹野に出玉ふ折ふし道にて出家(しゅっけ)に出合ひたるに、今日殺生のあらざるは法師に逢ひたる故なりとて、彼の法師の首に縄を付け力皮(ちからがわ)とやかに結び付け馬馳せつすり殺し玉ふ事。

(三郎殿が鷹野へお出ましになった折、道で僧侶に出あい、今日、獲物がないのは、この僧侶に逢ったせいだといって、その僧の首に縄をつけ、力革とかいうものに結び付け、馬をはしらせ、その僧侶をひきずり殺したこと。)

一、勝頼が文の中にも一味したるとなし、何ともして勧め味方にすべしとの事に候へば御油断あらば末々は悪敵に与(くみ)し可申候存前申上候。

(勝頼の手紙のなかには、三郎殿がまだ一味になられたわけではないが、何としても進めて味方にしてほしい、とのことなので、御油断なさいますと、末々はおん敵に組するおそれがあろと思い、わざわざ申し上げましたこと。)

<引用終了>

松永知彦です。ここでわたし松永が特に問題にしたいのは三つ目である。
捏造された瀬名姫の誓書と勝頼の起請文の内容がまるで見てきたかのように書かれている。
しかし、だ。

勝頼の起請文の日付が天正六年(1578)十一月十六日であるから、徳姫が『十二か条の書き立て』を父、信長に送ったのは少なくとも天正六年(1578)十二月から天正七年(1579)七月の間のはずである。酒井忠次と奥平信昌がこの件で信長に呼び出されて行ったのが天正七年(1579)八月一日とされているからである。

ところが、何度も書くがこの誓書と起請文が発見されたのは瀬名姫殺害後の天正七年(1579)八月二十九日以降なのだ。徳姫はいつどこでどうやってこれを見て、瀬名姫と信康惨殺の理由となった、この『十二か条の書き立て』を書いて信長に送ったというのか。

十二か条のうち十か条まで認めたという酒井と奥平はなぜ肯定できたのか。
信長が本当にこの『十二か条の書き立て』を見て酒井と奥平に詰問したというのなら誓書と起請文より先にこれがあったということになる。もう無茶苦茶である。

この『十二か条の書き立て』についてさらに検証をすすめる。
この書き立ての全文(といっても四つは欠落である)が確認できる最も古い資料は、『三河後風土記』だけである。『三河後風土記』の成立は慶長十五年(1610)とされているが、昨今では、正保(しょうほう)年間(1644~1648)の作とも言われており、作者も平岩親吉となってはいるが、実際は不詳である。

後年、さらに徳川におもねる内容となった、『改正三河後風土記』(天保八年(1837)成立)と併せて、あまり良質な資料とは言えないのだ。特に『改正三河後風土記』は明治四十四年発刊の『体系図中断抄』で「沢田源内が金儲けのために仲間と作成した偽書であり、ゆめゆめ信じるなかれ」と断じられている。

『参河志』は、その前年の天保七年(1836)に渡辺政香(わたなべまさか;江戸時代の国学者)によって編纂されてものだが、『十二か条の書き立て』は『三河後風土記』から引用したに違いない。

他の文献では『松平記(巻六)』には鷹狩りの帰りに僧侶をしばり殺したこと、踊り子を弓で射抜いたこと、徳姫が女子をふたり続けて生んだので不仲であったことが書かれている。気がひけたからか、この三つのみだ。『当代記』では、家康の命に背き、織田信長を軽んじ家臣には情けをかけない、とある。

『松平記』は慶安(けいあん)三年(1650)よりも古い写本は未発見だし、『当代記』も寛永(かんえい)年間(1624~1644)の成立とされている。この二つの文献は年代も近いし、いずれも徳川家康側の資料である。やはり、どちらも『三河後風土記』を参考文献にしたと思われる。

よって、『十二か条の書き立て』は、その成り立ちや、不自然なほど描写が細かく具体的すぎる記述内容からして、信用できないのであり、わたし松永は、瀬名姫と信康惨殺の事件後、三十年ぐらいの間に、あらたに書き加えられたものと考える。徳姫が当時書いたものではない。信長は天正十年(1582)六月二日にこの世を去っている。

そもそも信長が、瀬名姫と信康の殺害命令を出したのではない。信長の死後、家康がその罪を信長に押し付けたのである。『松平記(巻六)』には「如何様にも存分次第」と信長は返事したと書いてある。

『当代記』にも「左様に父、臣下に被見限ぬる上は、不及是非、家康存分次第」とある。どちらも「家康の好きにするがよい」との返事と書かれており、信長が信康に、切腹を命じたなどと、どこにも書いていないのだ。徳川神話の補強材のような、これらの資料でさえこの程度の表現であるということは、この部分は信用してよいのではないだろうか。

さらに、書き立ての七つ目(八つ目)には「勝頼が文の中にも一味したるとなし、(勝頼の手紙のなかには、三郎殿がまだ一味になられたわけではないが)」とある。信康は謀反に加担していないとしっかり書いてあるではないか。謀反の事実が自刃の理由のひとつではなかったのか。話のつじつまが全く合わない。

信長は二人を殺せとは断じて言ってない。信長の返事に従って「存分に」殺害命令を下したのは当の家康本人である。

あまり知られていないが、岡崎三郎信康の三郎とは信長の幼名である。信康の信は信長の信であろうし、織田信秀の異母弟であり、織田家発展の柱となった織田与二郎信康からとったのかもしれない。

信康がまだ二歳で竹千代と呼ばれていたころ、後の家康となる世良田元信に連れられて、信長の家臣、加藤図書之助(ずしょのすけ)の家にて、弟の加藤隼人佐(はやとのすけ)とその妻の「よめ」が世話をしていた。(重掲[3516]参照)。

信康よりも二歳年下である徳姫(=五徳)が生まれたのもこの頃である。「五徳(ごとく)」とは鉄瓶などを置く三本足や五本足の台のことである。信長が娘に五徳と名付けたのは、信忠、信雄(のぶかつ)、と三人で織田家を支えよ、との意味であると『織田家雑録』にある。

しかし、八切止夫氏が主張するように、そこに信孝と信康も加えて五人で力を合わせて織田を支えよ、であったかもしれない。

信康は、天正三年(1575)十七歳の頃、「長篠の戦い」で勇猛果敢に戦い、勝頼をして「徳川は果報者なり。かの小冠者成長せば、かならず天下に旗を立つべし。」と言わしめたという(三河後風土記)。

ただしこれは『三河後風土記』に書かれていることなので、どこまで事実かは不明であるが、その後、家康が駿河に攻め入り各地の小城を次々と攻め落としていく中、小山城攻略の途中、勝頼の反撃を受け、その前月に攻め落とした牧野城への退却時、信康自ら殿(しんがり)をつとめて全軍無事に帰還させ勇名を馳せたという(信長公記)。これは信用できる。

家康は、そんな信康を疎んじて、「今度出過ぎたことを言ったら??りつけよ」(岩淵夜話)と家臣に言ったり、そうかと思えば、遠州中泉の別宅で信康を接待し、酒宴と美姫をはべらせ歓楽に溺れさせたりと、まるで骨を抜きたいかのように遊ばせている。
それでも信康は、真っ直ぐ立派な武将に育っている。

信長としては、幼児竹千代の頃から知っている信康に、自身の幼名や名の一文字に重ねて、叔父の名までも付けて、娘を嫁にも出しているのである。その娘婿が、武功目ざましいのなら何も言うことはないはずである。本当に徳姫から来た書状であれば、徳姫本人に確認するだろうし、直接信康にも会いに来そうである。

しかし、家康側から信康を処分したい旨の申し出があったことは事実であろう。
信長は相当悩んだはずであるが、今ここで三河を再び二つに割ることはできない。家康が三河一向一揆(駿府生まれのよそ者である世良田元信に対する西三河衆の反逆)でせっかく西三河衆を解体して統一したのに、松平直系で元康の遺児たる信康を擁立されては息を吹き返しそうである。

徳川率いる駿河州(東三河衆を含む)と岡崎の西三河衆との内戦など、今頃また起こされては目指す「天下布武」にも影響する。まして、駿府生まれの家康は関東にも縁があり、駿河国の攻略も進みつつある。徳川と北条との同盟も近い。願人坊主時代に培った服部党など乱破(らっぱ)素破(すっぱ)たちとの諜報網も持っている。

過去には桶狭間での一件(重掲[3516]参照)もあるし、選択するならやはり家康の方だ。だが信長は、家康が瀬名姫と信康のふたりを殺害するとまでは思っていなかったのではないだろうか。
信康殺害は、やがて西三河衆譜代筆頭石川和正の、秀吉の元への出奔にもつながっていく。

家康としては、この頃すでに西郷の方(実際は服部平太夫保彰(やすあき)=鍛冶屋の平太の娘の於愛、平太の家は世良田元信一党の掛川の拠点だった。重掲[3516]参照) を娶(めと)り、のちに二代将軍となる秀忠も生まれている。三河守(みかわのかみ)は、もともと信康成長までの代役であったが、せっかく手に入れた三河一国を手放すのももったいない。

しかし、このまま信康を立派に成長させてしまっては、自分が退かねばならない。かと言って、このまま三河国返却をつっぱね続けて、三河一向一揆の再来になっても困る。今度は松平直系の信康だ。信康を担ぎ出されてはたまったものじゃない。後ろ盾となる瀬名姫(=元康の正室)の存在も邪魔である。
ここで信長と家康の利害が一致したのである。

信康は家康の命令によって、天正七年(1579)八月四日、大浜城(愛知県碧南市)に移送。
同八月九日、堀江城(静岡県浜松市)に移送。
同八月十日に家康が岡崎衆に「信康に与しない」と起請文を書かせる。
同八月十一日、二俣城(静岡県浜松市)に移送、幽閉。
同八月二十九日、瀬名姫惨殺。
同九月五日、徳川・北条同盟成立。
同九月十一日、織田信長上洛。
そして、同九月十五日に二俣城内にて自刃。

信康は、切腹前に「いまさら、何も申すことはないが、自分が謀反して、勝頼に一味するということは、さらに思いもかけぬことである。このことだけは、自分が死んだのちにも、お前から、よくよく申し上げてくれ。」と言い残した、と伝わっている。

介錯をつとめたのは、服部半蔵正成だが、涙が溢れて視界がままならない。「手間取ってはご苦痛のほど、恐れ入る。」と立ち合いの天方山城守通経(てんほうやましろのかみみちつね)が代わって介錯を務めた。これらは『編年藩譜』『野中家譜』『大久保物語』に同様に書かれている。無実の罪であり、真実の言葉だからである。

全く理由なく自刃させられた信康の死をもって、松平入道信光より三河の長者として世にも聞こえた名家である松平の本家本流は、ここに途絶えたのである。

(法名;騰雲殿達岩善道大居士 埋葬地には後に清瀧寺(静岡県浜松市)が建立された。)
                                  
松永知彦筆

守谷健二 投稿日:2023/05/13 11:02

【3053】[3549]『原日本書紀』はどのように修正されたのか

大宝三年(703年)、粟田真人の遣唐使は、唐朝に日本国(壬申の乱で勝利した天武の王朝)の由来(歴史)を説明した。しかし『原日本書紀』では、唐朝を納得させることが出来なかったのです。
 修正する必要があった。「万世一系」の天皇の歴史でも、唐朝が納得できるように書き換えることに迫られていた。
 最新の正史である『隋書』倭国伝(640年成立)を徹底的に研究した。『隋書』
倭国(筑紫王朝)伝を、そっくり近畿大和王朝の歴史として移し替えることにしたのです。

 『原日本書紀』は、倭国(筑紫王朝)と日本国(大和王朝)の歴史を、一つの王朝に融合させて作った(歴史)です。日本には元々大和王朝しか存在しなかった、と。
 中国正史『隋書』の倭国(筑紫王朝)記事を、日本国(大和王朝)のものに組み替えることは必然の作業でした。
 『古事記』が推古天皇(在位592~628)で終わっているのは、隋朝の存亡に対応しています。『隋書』倭国伝を日本国の歴史として取り込むことが、『原日本書紀』修正のキモ、核心でした。

 その際、困ったことがあったのです。推古天皇は、女帝です。それに対し、その当時の倭国王は、明らかに男性と書かれているのです。この倭国王は、姓を阿毎(アマ・天・海人)、名を多利思北孤(タリシホコ)と書かれおり、開皇二十年(推古八年)と、大業三年(推古十五年)に遣唐使を派遣しています。

『隋書』倭国伝より

その朝貢使曰く、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興とす。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来たって仏法を学ぶ」と。その国書(倭国王が隋の皇帝に送った)に曰く「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、筒がなきや、云々。」と。
 帝、これを視て悦ばず。鴻臚卿にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ」と。

 歴史好きな人には、思い当たるでしょう。この倭国王・多利思北孤は聖徳太子のモデルであることが。推古天皇は女性ですから、そのまま倭国王(男性)に当てはめることが出来なかった。そこで特別な太子(聖徳太子)が創り上げられたのです。
聖徳太子の和名は『上宮の厩戸豊聴耳命(うへつのみやのうまやとのとよみみのみこと)』と言います、勘の鋭い人はお解りでしょう。イエス・キリスト誕生説話です。キリスト教は、六世紀の中国に到達していたのです。

 『古事記』の編者は、聖徳太子を、イエス・キリストをモデルに創れと命じているのです。嗚呼!
 

副島隆彦 投稿日:2023/05/10 16:27

【3052】[3548]この「どうかしている泉(いずみ)」という人が、次の日本の指導者になるべきだ。

副島隆彦です。 今日は、2023年5月10日(水)です。

 ウクライナ戦争で、東部ドネツク州の、大激戦地のバフムートが、まだ陥落しない。民間軍事会社(PMC、パラミリタリーの非正規軍、私兵の集団)のワグネルの指導者のエヴゲーニー・プリゴージンが、「ロシア軍から、砲弾が届かない。さっさと送れー」と、怒鳴り声をあげていた(5月5日)。
 このことは、バフムートが陥落した時点(あと、たったの1.5キロ四方。2.4平方キロメートルの面積だ)で、ここに集めた記事を貼り付ける。

 今日、私が書くのは、「どうかしている泉(いずみ)」と、この30年間、地元で呼ばれ続けた兵庫県 明石市(人口30万人ぐらい)の “名物市長” を3期、12年間やって、先月、引退した、泉房穂(いずみふさほ)(今、60歳) という 素晴らしい政治家のことです。

 私は、以下に載せるインタヴュー記事から分かる通り、この泉房穂が、おそらく、小沢一郎(もう83歳)のあとを継ぐべき、日本の真実の改革勢力 の 次の代表となるべき人物だと思う。 私は、この泉氏にこれまで会ったことがないし、つい最近まで何も知らなかった。「こんなすばらしい政治家(国民指導者)が、日本で育っていたとは」と、ひとりで驚いている。 

(ここに泉房穂=いずみ・ふさほ= の 写真を載せる)

副島隆彦です。 この下の方に記事 を載せる。この名物市長の引退と共に、彼のことをずっと描いた、朝日新聞の政治部あがりの記者が、泉にインタヴューして書いた『 政治はケンカだ!・・・』という本(ふたりの共著としてある)の出版の宣伝を兼ねての記事だ。

(ここにこの本のアマゾン・リンクを貼る)
政治はケンカだ! 明石市長の12年

 この元朝日新聞記者の鮫島浩(さめじまひろし、52歳)氏は、気合の入ったジャーナリストで、朝日をやめた(2021年)あと、泉房穂明石市長に取材している。
 鮫島氏は、朝日新聞政治部の中でひどいイジメにあったようだ。福島原発の報道で、2012年に記者協会の賞を貰(もら)っていたのに、朝日が、安倍晋三政権(2012年12月)が出来て、それ以来、朝日は、安倍長期政権(7年間。統一教会が乗っ取った、日本の政権)に狙われた。

 そのせいで、朝日新聞の報道姿勢は、どんどんおかしくなって、旧来の日本の反(はん)自民党の、護憲(ごけん)勢力の中心 としての地位を、完全に崩(くず)された。今の、朝日は、もう日本のリベラル派の 代表としての面影(おもかげ)も、残さない。それぐらいに身を滅ぼして、悲惨な保守反動メディアに、変質し尽くした。

 併せて、朝日内で、船橋洋一(ふなばしよういち)という、幹部記者が、アメリカの手先に成りきって、こいつの活動と暗躍が朝日を内部からおかしくした。 鮫島浩は、朝日内部で、こいつらと闘ってきたのだ。彼の、『朝日新聞政治部』(講談社、2022年刊)に、すべてが書かれている。

(転載貼り付け始め)

〇 「 明石の名物市長・泉房穂のヤバい東大生時代…「お前ら、中途半端な爆弾撃ってくんな」革マル派や中核派とケンカしていたあの頃 」

2023年4/28(金)   現代ビジネス(講談社の 週刊現代の ウエブ版) https://gendai.media/articles/-/109491


  泉房穂氏(左)と鮫島浩氏©Makiko

 自民党総理候補に泉房穂が圧勝! (2023年)4月23日に投開票された統一地方選。兵庫県明石市でこんな大事件が起きた。自民党は立憲民主に圧勝したと吹聴するが、明石市では泉房穂(いずみふさほ)氏が立ち上げた地域政党「明石市民の会」に完全に敗北した。

 明石市は泉房穂氏が3期12年にわたって市長を務めてきた。全国に先駆けて「異次元の子ども施策」 を実行し、市の出生数のみならず人口、税収も飛躍的に伸ばして「明石モデル」と称賛された。今回はその名物市長が、これまたお馴染みとなった「暴言」を理由に辞職(政治家引退)。今回の市長選に突入した。

 泉氏の市長任期は、この4月いっぱい。市長退任翌日の5月1日に出版される泉氏の著書『政治はケンカだ! 明石市長の12年』 がいま、話題を呼んでいる。市長在任中にはけっして口に出来なかった、改革に抵抗する勢力との闘いの内幕を明らかにしているからだ。

聞き手を 朝日新聞政治部 の著者で気鋭の政治ジャーナリスト・鮫島浩氏が務めている。  市議会、政党、宗教団体、マスコミ、市役所職員……。泉氏が「四面楚歌」の状態でいかに闘争してきたか、同書にはすべて記されている。前回記事に引き続き、発売に先駆け、同書の内容を特別に公開する。  

連載『政治はケンカだ! 』第2回後編 前回記事【「障害者は放置して死んでいくのを待て」…医者の言葉に、明石市長・泉房穂が抱えた「強烈な違和感」】

故郷の明石を誰よりも愛し、誰よりも憎んでいる
 鮫島 10歳で明石市長になることを決意した泉少年は、やがて東大に入学して故郷・明石を離れます。東大時代はどんな学生だったのですか?   

泉 18歳で大学進学と同時に上京し、故郷を離れるんですが、東京でも1日遅れで神戸新聞を取ってました。なぜかというと、神戸新聞の明石版を読むため。私はどこにいようが、ずっと神戸新聞の明石版を読み続けています。それは、世の中の誰よりも明石に詳しくなる必要があったから。おそらく、いまの私は全人類の中で一番明石に詳しいはずです。

だからこそ、私は故郷・明石のことを心から憎み、心から愛してるんです。誰よりも明石について知っているからこそ、まだ消えない理不尽に対して、誰よりも強い憎しみを抱いている。  

鮫島 それは凄い。本当に、明石市長になるために人生を懸けていたのですね。

泉 半端な思いでやってないんです。上海の北に人口750万人ほどの無錫(むしゃく)という市があり、1981年に明石市と姉妹都市提携をしました。1986年、5周年記念を祝う式典が催され、明石市民が無錫に招待された。当時22歳の私は、呼ばれてもないのに勝手にバックパックを背負ってその会場に行きました。そして、式典が開催されたホテルの壁画を見ながら、「次は市長としてここに帰ってきて、この壁画を見る」と心に誓いました。  

実際に、それから25年経った2011年、姉妹都市30周年の記念式典で明石市の吹奏楽団を引き連れて、市長として無錫に戻ることができました。その時は「25年かかったか」と感慨深いものがありました。  

鮫島 たくさんの政治家を見てきましたけど、自分の故郷を「心から憎み、心から愛している」と言い切れる人は初めてです。梶山静六(かじやませいろく)さんは、故郷・茨城への愛を「愛郷無限」と言いましたが、「故郷を愛する」と訴える政治家はたくさんいても、「心から憎み、心から愛している」という人はいない。

でも、憎しみがあったからこそ、「優しいまちに変えたい」という泉さんの政治家としての原動力が生まれた。これほど一貫した人生を歩んでいる政治家は他にいないかもしれません。

何より大切なのは、市民とともにいること
鯖島 学生時代、学生運動にも参加されていたそうですね?   

泉 学生運動のリーダーをやっていて、革マル派とも中核派とも喧嘩してました。中核派に「お前ら、中途半端な爆弾撃ってくんな」とかボロクソ言ってましたね。「どうせ撃つならしっかり狙って撃ってみい」と。我ながら、ホンマに危ない人やったんですよ(笑)。  

一応私は、駒場(こまば)寮(学生寮)の寮費値上げ反対の全学ストライキを決行した最後の実行委員長なんです。 結局、負けてしまい責任を取らないといけなくなり、20歳のころ、いったん大学に退学届けを出してるんですけどね。  

私が学生だった80年代は、ちょうど、ポーランドでレフ・ワレサが、民主化運動を引っ張っていた時代と重なってまして。ワレサが電気技師として働いていたグダニスク造船所に行ってしまうぐらい心酔してました。ワレサは、1980年に独立自主管理労働組合「連帯」を創設し、既存の社会主義体制を打倒すべく、民主化運動の先頭に立ち、1990年、ついに大統領になる。一人の労働者が一国の制度を変えていく過程を学生時代に見たことで「社会は変えられるんだ」と勇気をもらった。

同時期、チェコスロバキアでもヴァーツラフ・ハヴェルらが中心となり、民主化革命が成功しましたし、「民衆の力」というものを教えてもらいました。

 翻って日本を見ると、残念ながら民衆・市民・国民が、自分たちの力で社会を変えた成功体験を持っていない。歴史を遡っても、貴族階級や武士階級の中でのクーデター的な政権交代はありましたが、常に「上の」交代にすぎず、民衆が主体となった「下からの」社会変革や革命は起きませんでした。  

私は、これはすごく問題だと思っていて、大学生時代から、日本でも民衆の立場で政治を変えていくことが必要だと考えていました。本気で革命を起こしたいと思っていた。自分にできることとしては、生まれ育った明石市の市長として、実際に社会を変えたという成功事例を示したいなと。  

そういう私の政治的なスタンスからすると、何党に付くかは問題ではなく、市民とともに進んでいければそれで十分。まあ、様々な既存の政党からしたら面白くないでしょうから、冷たくされることも多いですけど、そんなことはどうだっていい。私にとって、何より大事なのは、市民とともにいることなんです。  

鯖島 なるほど。現在の政治的状況は、有権者の立場からすると、二大政党政治の行き詰まりというか、二大政党のどちらも選びようがない状況だと思うんです。どっちもどっちで差が見えず、大政翼賛的に与党一色に染まりつつあり、野党が「もうひとつの選択肢」になり得ていない。そういった閉塞感が日本社会を覆い、低い投票率と政治不信に繋がっている。  そんな状況のいまだからこそ、「市民とともに」独自の政策を貫く泉さん、そして明石市に注目が集まっていると感じます。

受理されていなかった東大の退学届け
鮫島 学生時代に話を戻します。大学に出した退学届けはどうなったんですか?   

泉 いったんは、完全に東京の家を引き払って明石に戻っていました。地元で塾でも開いて生活しなきゃいけない、ぐらいに思っていたんですね。結局、半年後に、当時の東大の学部長から「泉くん、何してる?」と電話がありまして。「自分らは負けたんだから誰かが責任を取らないと。だから退学して地元に戻った」と近況を伝えたところ、「本当にそれは君のやりたいことなのか。そうじゃないなら、君にはまだやるべきことがあるはずだ。みっともなくても恥ずかしくてもいいから、帰ってきなさい」と言われ、復学することになりました。 
   
 結局、退学届けは受理されてなかったんです。  涙を流しながら東京に戻り、卒業後NHKに入りました。その後、テレビ朝日に移り『朝まで生テレビ』の草創期を番組スタッフとして担当し、その後、石井紘基(いしいこうき)さんの本を読んで感動しまして。石井さんを国会に送り込むために、石井さんの近所に引っ越して秘書として選挙を応援しました。ところが、選挙で負けてしまい、石井さんに謝りました。

「私はあなたを(選挙で)通したかったけど、ダメでした。次こそ通しますから頑張りましょう」と。そしたら、(石井紘基 さんに)「これ以上、君を引っ張りまわすわけにはいかない。騙(だま)されたと思って、まず弁護士になりなさい。君はいつか政治家になる。でも急いではいけない」と強く言われ、司法試験を受け弁護士になったのです。  

 若くして立候補した政治家をたくさん見てきた石井さんは、「まずはちゃんと世の中を知るべきだ」とお考えだったんです。「弁護士として本当に困っている人を助けることで勉強しなさい」と。「いずれ政治家になった時に、弁護士としての経験が必ず生きてくる」というアドバイスだったのです。  

 1997年、33歳の時に弁護士資格を取得して、明石市に戻り、市民活動のお手伝いなどに奔走しました。2000年4月に法律事務所を開業した時には、市民の方々からたくさんの胡蝶蘭(こちょうらん)が送られてきました。その時、すでに明石の一定の方々からは、「あの泉がついに明石のために帰ってきた」と認識されていたんですね。まあ、私の場合、子どもの頃から「どうかしてる奴」として有名でしたから(笑)。

なぜ一度国会議員になったのか
 鮫島 明石市民からしたら、「どうかしてる泉が、とうとう明石市長になるために帰ってきた」ということですね(笑)。ところが、故郷に戻ってすんなりと市長選に出たわけではありません。2003年の衆院選に民主党から立候補して、国会議員になっています。これは、どういう流れだったのですか?   

泉 実は2003年の、私が40歳で迎える市長選に焦点を合わせて、そこから逆算して行動していたのですが、計算が外れてしまった。その前年には、実際に立候補しかけたんですけどね。当時の市長選には、親子二代で選挙に強い候補者が名乗り出ました。彼は当時、民主党系だったから、無所属の私が手を上げようとした時に、自民党とNPO関係者が私を担ごうと近付いてきた。  

私は一貫して、市長選挙に出るときは完全無所属で出馬すると決めていたのでお断りしました。NPOと言っても、結局は既得権益層だったりしますから、彼らの応援すらもいらないと考えていた。普通の市民とともに闘うことに意味があると、最初から考えていたんです。

 でも、当時はどうあがいても勝ちきれない情勢が明らかになり、やむなく手を下げた。まだまだ自分は無力だと痛感しましたよ。それで市長選を見送り、意気消沈していたところに国政への出馬要請があったのです。暗殺された石井(紘基)さんの遺志を継ぐよう仲間から強く言われたこともあり、「それだったらいったん国政にいこう」と考え、2003年に兵庫2区から民主党公認という形で出馬したというわけです。  

 あの時は、いわゆる落下傘候補で明石の隣の神戸市から出ることになったので、神戸市にも明石市にも後ろめたい気持ちがありました。「必ず明石市長として戻ってくるから」と心に誓い、再び東京に行くことになりました。  

 国会議員になると、得られる情報が増えます。国会図書館や官僚を活用しまくって、明石市長になったらやるべきことの整理を始めました。フランスの少子化対策なんかもその頃に勉強して、市長になったら参考にしようと決めていた。  

10歳から明石市長になることに懸けてましたから、カッコつけた言い方をすると「なり方」にもこだわりたかった。市民だけを味方にして勝たないと、私にとっては意味がなかったんですね。中途半端に既得権益に担がれたら、結局、何の改革もできないまま任期を終えることになります。それだけは避けたかったのです。

連載第1回から読む【「日本一の子育て政策」「暴言、毒舌」で知られた明石市長・泉房穂氏がいま「本音」で話すこと…「『人から嫌われたくない』なんて思ったことはない」】  鮫島 浩(ジャーナリスト)/泉 房穂

【前回記事】「障害者は放置して死んでいくのを待て」酷すぎる医者の言葉…明石市長・泉房穂が抱えた「強烈な違和感」

貧しい漁村の生まれ、小卒の父親と中卒の母親、障害を持つ弟…明石市の名物市長・泉房穂の「原点」

「日本一の子育て政策」「暴言、毒舌」で知られた明石市長・泉房穂氏がいま「本音」で話すこと…「『人から嫌われたくない』なんて思ったことはない」

小柄な暴言王・泉房穂明石市長、橋下徹元大阪府知事、古賀誠元自民党幹事長…元朝日新聞記者が語る3人の政治家の「似た匂い」

関西でジワジワ広がる「明石市改革」 国会議員は与党も野党も泉房穂市長を見習え!

最終更新:4/28(金) 7:03

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 以上の記事を読んだ人は、皆、本気で考え込むはずだ。そして分かる人は、分かる。この人物が、日本国の次の指導者になるべきだ。それだけの条件と、経歴と経験と、生来の優れた頭脳と、それから、政治指導者に何よりも必要な、我慢強さと、人々を説得(せっとく)する情熱と、それから、何が有っても、決して国民(市民、住民、人民)を裏切らない、という信念が、きっと、この泉房穂(いずみふさほ)には有る。

私は、この人に一度もあっていないし、これまで、誰からも評価、評判を聞いていない。だから、あんまり早急に、「この人が、小沢一郎を継ぐ、日本の次の民衆(国民)の指導者だ」と、決めつけはいけないのだろう。だが、私、副島隆彦の眼力から、私は、判断した。
この人は、素晴らしい人だ。こんな生き方をして来た、人間は、他にはいない。

私は、今日は、これ以上は、私の泉房穂論は書かない。これから追々(おいおい)書く。

 それでも、私が、一点、ビリビリ来たのは、上記のインタヴュー記事の中にある個所だ。

「 (東大を)卒業後 NHKに入りました。その後、テレビ朝日に移り『朝まで生テレビ』の草創期を番組スタッフとして担当し、その後、石井紘基(いしいこうき)さんの本を読んで感動しまして。石井さんを国会に送り込むために、石井さんの近所に引っ越して秘書として選挙を応援しました。・・・・・暗殺された石井(紘基)さんの遺志を継ぐよう仲間から強く言われたこともあり・・・」

とある。 私、副島隆彦は、ここで、完全に、この泉房穂 という男に、同調する。何があっても、この「どうかしている泉」が、東京に出てきて、60歳から国民政治活動をする、というのだったら、彼に、すぐに会いに行って、話して、何を、一緒に出来るかを、本気で考える。

指導者は、民衆(国民)が育てる。この泉房穂のことを、これまで知っていた、明石市や兵庫県の県民たちは、彼のことを何でも知っている。東京では、上記の鮫島浩(さめじまひろし)元記者のネット報道以外では、誰も知らない。意図的に、東京のメディア(テレビ、新聞、週刊誌)が、知らせない。

 自分たち、ただの市民(人民、people  ピーポウ)こそが、政治の主人公であるべきなのだ、と知っている。 このことを、既成(きせい)の、バカ野郎の、利権屋政治ゴロたち(自民党、公明党、他の腐った野党ども)と、労働組合、それから、気色の悪い宗教団体などが、激しく嫌う。そこを、泉房穂は、たった一人で、持ち前の不屈の精神と、優れた頭脳で、乗り越えて来た。それが、偉い。

そして、私、副島隆彦が、死ぬほど感動したのは、上記のインタヴュー記事の中の、

20歳台の終わりに、石井紘基(いしいこうき。民主党の衆議院議員だった)の秘書を自分から買って出て、彼を支え続けたことだ。

(ここの石井紘基の顔の写真を貼る)

石井紘基(1940-2002)

副島隆彦です。 石井紘基は、2002年10月25日に、東京世田谷の自宅を出たところで、刺殺された。61歳だった。 彼は、野党の政治家として、日本の政治の裏側の穢(きたな)い面を、徹底的に調べ上げて、国会で、まさしく追及している最中だった。石井紘基が暗殺された事件は、21年経(た)った今でも。

 私たち、本気で日本政治のことを考えている人間たちにとっては、最重要の事項だ。私たちの精神に、重苦しく圧(の)し掛かる。石井紘基(いしいこうき)は、日本の財政問題の裏側の、アメリカによる日本からの資金の奪い取りの調査を国会議員としてやっていた。

 それだけでなく、オウム真理教という凶悪な犯罪集団が、実は、統一教会(Moonies ムーニー)の、表面の団体(フロントという)であったことまでも、当時、すでに、自分の選挙区での活動も通して知っていた。それを防止するための政治家としての活動もしていた。だから殺されたのだ。

 石井紘基の殺人者として捕まって、21年の刑に服した右翼の男が、自白して、「4500万円貰(もら)って、殺した。誰の依頼かは、言えない」と、言い続けた。日本の政治警察と裁判所は、この右翼の男の単独犯行として処理した。

今も、石井紘基の、無念の霊魂(れいこん)が、怨霊、亡霊となって、私たちの頭上をさ迷っている。なんとかして、私たちは、彼の無念を晴らさないといけない。

 私の弟子のひとりは、この石井紘基の娘さんであるターニャさんと親しい。
泉房穂は、この殺された石井紘基の秘書を、自ら志願してやっていた。このことの、素晴らしさの前に、私、副島隆彦は脱帽する。だから、泉房雄を腹の底から信用する。

 このように、私、副島隆彦が、「この泉房穂が、日本の次の指導者であるべきだ」と、書くと、おそらく、このあと、日本国内で、10万人の、この国で、ヘンな歪(ゆが)みが無く、かつ一番、頭のいい人たちが、真剣に、考えるだろう。

 今日は、泉房穂が、市長時代に、実行し、実現した、明石モデルと呼ばれる、
「 1.18歳までの医療無償化  
2. 第2子からの保育料の無償化  
3. 中学校の給食の無償化 
4.公共施設の無償化  
5.おむつの 定期便 」
という政策に、ついて説明できない。こんな凄(すご)いことを、本当にやった地方政治家 が、日本にいたとは、と、私は驚いていている。だから、暮らしやすい明石市に、移り住む人たちが、どんどん増えているという。この「どうかしている泉」が、始めた明石モデルは、今、全国の他の自治体に、広がっているだそうだ。

 皆(みんな)の代表として、ひたすら民衆、市民の支持だけを頼りに、長い試練に耐えて、ここまでニコニコと(敵たちに向かっては、激しく口で批判するという)やってきた男を、私たち日本国民が、今から、上に押し上げないといけない。

 私、副島隆彦は、遅ればせなら、この泉房穂を、応援し、次の日本国の指導者となるべき人だと強く推薦する。 
 
https://gendai.media/articles/-/109491

副島隆彦拝

守谷健二 投稿日:2023/05/10 11:52

【3051】[3547]『古事記』と『日本書紀』の関係

今回は『古事記』と『日本書紀』の関係を書きます。

『古事記』は序文に、和銅五年(712)二十八日撰上の序文を持ちます。
いっぽう『日本書紀』は、養老四年(720)に撰上されました。(続日本紀)
『古事記』の方が『日本書紀』より六年前に成立していたのですが、『古事記』の方が『日本書紀』よりコンパクトであるが故に、『古事記』は『日本書紀』を見て書かれたものである、『日本書紀』の方が先に成立しており『古事記』序にある和銅五年は偽りであり、『古事記』の書かれたのは平安時代初期であると言う『古事記』偽書説なるものがしばしば登場するのです。

ここで私は断言します、『古事記偽書説』なるものは誤りであることを。『古事記偽書説』を唱える方々には共通する二つの欠落があります。
 一つは、万葉仮名(奈良時代の文献『万葉集』『古事記』『日本書紀』などの表記に用いられた漢字)に対する理解が欠けていることです。
 歌謡などの音を表すのに借用した漢字に対する理解の欠如です。明治の末期、橋本進吉博士は、全ての万葉仮名の分析から「上代特殊仮名遣い」と呼ばれるものを発見しました。七世紀から八世紀にかけての大和地方では八母音を区別して使われていたことを明らかにしたのです。(万葉集の東歌、防人歌にはこの区別はない)
例えば、上(カミ)と神(カミ)の(ミ)は異なる発音であったことを明らかにしました。両者の(ミ)は、異なる漢字で書かれており混同する事はない厳密性を持っています。
この「上代特殊仮名遣い」は、八世紀後半に崩れ、平安時代になると消滅します。この仮名遣いの有無が、文献が平安時代以前のものか、以後のものかのリトマス試験紙になります。
日本語学者は、『古事記』の方が『日本書紀』より古い語法で書かれていることを明らかにしています。

『古事記偽書説』を唱える人のもう一つの欠落は、『旧唐書』に対する無知です。日本では『唐書』と言えば『新唐書』を指し『旧唐書』は長らく隠蔽されてきました。『旧唐書』が再度日の目を見たのは第二次世界大戦の後です。
中国では『旧唐書』の方が信頼性が高く、『新唐書』はダメな史書と烙印が押されています。日本でも『旧唐書』を無視続けることが出来なくなったのです。それでも今も『旧唐書』の倭国伝と日本国伝の併記は、『旧唐書』編者のみっともない勘違いよる誤りである、と主張しています。

『旧唐書』は、七世紀半ばまで「倭国伝」(663年の白村江の戦まで)で作り、「日本国伝」が始められるのは、大宝三年(703年)の粟田真人の遣唐使記事からです。粟田真人等の使命は明確でした。天武天皇の命令で編纂した『日本書紀』(日本国の由来・歴史)を唐朝に説明し、承認して貰う事です。

つまり大宝三年まで天武の王朝(天武天皇を祖とする)を正統化する歴史は、一応完成していたのです。(これを今、原日本書紀と呼ぶ)
『原日本書紀』の歴史では唐朝を納得させることが出来なかった、天武の王朝の正統性を認めさせることが出来なかった。故に『原日本書紀』を修正する必要があったのです。
『古事記』は、『原日本書紀』のコンパクト版です、『原日本書紀』を修正する際の指示(命令)書です。

『旧唐書』日本国伝より

 日本国は倭国の別種なり。その国日の辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいは云う、倭国自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本となすと。あるいは云う、日本旧小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て応えず。故に中国是を疑う。・・・・

もう(青柳) 投稿日:2023/05/09 10:59

【3050】[3546]現代ジャーナリズムの問題についての勉強会

会員番号1855のもう(青柳)です。元横須賀市議の一柳洋さんと「温暖化とコロナに流されない市民の会」を主催しており、前回「コロナウイルスとワクチンの問題点」勉強会にも本道場から多くの会員の方の参加を賜りました。

このたび、来る5月21日日曜日13:30から前回と同じ神奈川県民センター会議室で(反)ジャーナリスト、高橋清隆さんを講師にお招きして、「誰も伝えないメディアの虚構」と題して現代メディアの根本問題について暴露していたく予定です。高橋さんは植草一秀冤罪事件や、コロナワクチン遺族の会の取材など、大手メディアが取り上げない問題を地道に報道しつづける稀有なジャーナリストです。高橋さんは副島先生の「属国日本論・幕末編」において我が国最初のジャーナリスト、ジョセフ彦蔵が、アメリカで教育を受け、横浜領事館で通訳をしながら新聞を発行し、言論の側から国際金融資本による日本乗っ取りである明治維新を後押しした、という指摘にインスパイアされたと仰っていました。歴史を踏まえた大きな視野からのメディア論を期待できると思います。御興味のある方は是非ご参加下さい。お申込みは同会のサイト(https://ondan567kai.wixsite.com/index/イベント)からお申込み下さい。

守谷健二 投稿日:2023/05/07 13:03

【3049】[3545]「ジパングは黄金の島」の根拠

マルコポーロの『東方見聞録』に「中国東方海上に、黄金と真珠を豊富に産出するジパングと言う島国がある」と書かれている。このジパングは日本のことだと言う。真珠の採取は、『万葉集』の歌にも多数あり納得のゆくものであるが、黄金の方はどうだろう、奈良時代東大寺の大仏を作る際、聖武天皇の悩みは、大仏を荘厳するための金が絶対的に不足していたことであった。

この時は、偶然に陸奥の国から黄金が発見され、黄金で飾ることが出来た。しかし奈良時代平安時代を通して、陸奥以外に大金鉱が発見された痕跡はない。

奝然が宋の皇帝太宗に献上した黄金(銅器十余事の中身)も、陸奥国からの貢物であった。(982年、陸奥国に宋人に給する答金を貢上させる。岩波・日本史年表第四版)
日本で、溢れるほどの金が取れてたとは考えられないのだ。ジパングの黄金伝承は、いったい何に基づいているのだろうか、これが私の少年時代からの疑問であった。

しかし今、正史『新唐書』・『宋史』の日本記事を知った。東大寺の僧奝然は、膨大な黄金を持って行ったのだ。『旧唐書』の日本記事は、平安時代の貴族に大衝撃を与えたのである。王朝の正統性の根拠は、神を祖とし、血の断絶のない「万世一系」の天皇の家系の歴史にある。つまり日王朝の交代)がなかったことである。

しかし『旧唐書』は、七世紀の後半に日本に王朝の交代があった、と書く。許せない事であった、見逃すことの出来る問題ではなかった。中途半端な対応では済まないことであった。王朝が存続出来るか否かの問題であった。

日本の王朝は可能な限りの黄金を集め奝然に持たせて宋に渡らせた。『旧唐書』の日本記事を書き換えてもらうために。日本の陸奥国には黄金があふれ出る金鉱山が存在する、と大言壮語して。新たな「史書」の完成時には今回以上の黄金を献上いたします、と。

988年には、奝然の弟子の嘉因に膨大な宝物を持たせて宋朝に派遣している(日本史年表)。日本の王朝は、何が何でも『旧唐書』の日本記事を否定する新たな「正史」を欲したのであった。
この日本の願いと、宋朝の台所事情(毎年膨大な金銀財宝や食料、美女などを北方の遊牧民国家に納めなければならなかった)がジャストマッチしたのだろう、宋朝は『新唐書』を編纂したのであった。

1060年の『新唐書』の完成は、天武十年(681年)、天皇の命令で始まった『日本書紀』編纂の完結を意味する。『日本書紀』は、その第一の読者に中国の唐朝を想定して創られた「史書」である。天武の王朝の正統性を唐朝に認めさせるために書かれた歴史だ。

日本では『唐書』と言えば『新唐書』を指し、『旧唐書』は、完全に隠蔽されてきた。
しかし中国では1065年編纂を開始された『資治通鑑』(史実に忠実であると極めて信頼性が高い)は、唐代の記事は『旧唐書』に依拠し、『新唐書』には目もくれていないように『新唐書』は完成当初から軽蔑の目で見られる歴史書であった。
奝然の献上した黄金と、日本の陸奥にある黄金を溢れるように産する大金山の話が三百年後のフビライハンの王朝まで伝わりマルコポーロの『東方見聞録』の黄金伝承に成ったのではないか。
 またフビライの日本に対する異常な執着(二度に亘る元寇)の根底にあったのも奝然の献上した黄金にあったのではないか。
仮に『新唐書』がなかったなら、天皇制の王朝は平安時代で終わっていたかもしれない。

守谷健二 投稿日:2023/05/01 11:00

【3048】[3544]中国(宋朝)は何故日本認識を変えたのか

〔3541〕の続きです。
『旧唐書』(945年成立)と『太平御覧』(983年成立)の日本認識は、七世紀の後半に王朝の交代があったというものです。
それに対し『新唐書』(1060年成立)の日本記事は、日本の開闢以来、王朝の交代はなく天御中主の神を祖とし今の天皇に至るまで血が途絶えた事はなく万世一系の天皇家の支配が続いて来た、と書く。983年から1060年の間に宋朝の日本認識に大きな変化が起きていたのである。今回はその原因を探ってゆく。

正史『宋史』より引用
 雍熙元年(北宋の第二代大宗の年号、984年)、日本国の僧奝然(ちょうねん)、その徒五、六人と海に浮んで至り、銅器十余事ならびに本国の『職員令』・『王年代紀』各一巻を献ず。・・・・
 
 四時の寒暑は、大いに中国に類す。国の東境は海島に接し、夷人の居る所なり、身面皆毛あり。東の奥州は黄金を産し、西の別島は白銀を出だし、以て貢賦となす。国王は王を以て姓となし、伝襲して今王に至るまで六十四世、文武の僚吏は、皆官を世々にすと。
 その年代紀に記する所にいう、初めの主は天御中主と号す。次は天村雲尊といい、その後は皆尊を以て号となす。・・・・

 太宗、奝然を召見し、これを存撫すること甚だ厚く、紫衣を賜い、太平興国寺に館せしむ。
 上、その国王は一姓継を伝え、臣下も皆官を世々にするを聞き、因って嘆息して宰相に言って曰く「これ島夷のみ、・・・・」

 984年に、東大寺の僧奝然が宋を訪れた記事が載せられている。小生が疑問に思ったのは、奝然が中国に着くや、いとも簡単に皇帝に拝謁を許されていることです。奝然は、日本国の正式な使者でも高名な学僧でもない、その彼が如何してやすやすと皇帝の拝謁を得ることが出来たのだろう。太宗が奝然の来朝を大いに喜んだ様子が書かれている。日本の『職員令』や『王年代記』に喜んだとは考えられない、事の核心は一緒に持って行った銅器十余事にあったのではないか。銅器十余事とは一体どの様な物だったのだろう。

 岩波書店の『日本歴史年表』(第四版)に次の記事がある。
 982年、陸奥国に宋人に給する答金を貢上させる。
 983年、奝然、宋商人の船で宋に渡り皇帝に拝謁。

 銅器十余事には、陸奥国で産した黄金がズッシリ詰め込まれていたのではなかったか。
 『旧唐書』が成立したのは945年である、既に海上交易は盛んになっていた。宋商人の船はたびたび博多を訪れるようになっていた。日本で最も喜ばれた品物の一つに経史があった。抜け目のない宋商人は、最新の歴史書『(旧)唐書』を運んで来ただろう。それは平安王朝に献上されたに違いない。
 王朝人は愕然としたのだ。平安王朝の正統性は、万世一系の神話と歴史にある。大宝三年(703年)粟田真人の遣唐使以降の遣唐使の使命は、唐朝に日本国の歴史(天武天皇の命令で定められた)を説明し、承認してくれるよう説得することを第一義とした。その為大きな犠牲も払っていた。ある程度成功したのではないかと言う手ごたえもあった。

 『(旧)唐書』は大きな衝撃を平安王朝に齎したのであった。時に平安王朝は全盛期を迎えつつあった。貴族は活力と自信に満ち溢れていた。来日する宋商人に中国の内情を聞き対策を考えたのであった。中国では商工業が活発になり庶民の生活は豊かになっていた。当然税収も増え宋王朝の威力も盛大であると考えられたが、実情は違うらしいことが判ってきた。
宋朝は、中国統一王朝であったが、北方の遊牧民国家遼の侵略を受け本来中国の固有の領土である長城の南の燕州十六州(今の北京周辺)を奪取され、回復を試みるも大敗を繰り返すだけであった。遼の更なる南化を防ぐため、毎年膨大な金銀財宝、食料、美女などを貢納せねばならなかった。宋朝は金で平和を買っていた。そのため宋朝の台所は常に火の車であった。

平安の貴族どもは、金で何とかなると考えたのだろう。奝然に持たせた黄金だけではない。彼の後にも膨大な金銀財宝を献上している。『旧唐書』の日本記事を否定する新たな『歴史書』の制作を依頼したのだ。完成の暁にはより多くの財宝の献上をちらつかせながら。(続く)

小生は『日本歴史年表』(岩波)を信頼している。

まさよし 投稿日:2023/04/30 19:20

【3047】[3543]最近の公明党

はじめまして。まさよしといいます。このたび副島先生の学問道場に入会させていただきました。

きっかけは副島先生と佐藤優氏の対談集です。
私は現在50歳で創価学会員です。19歳から今まで活動をしてまいりました。

創価学会では佐藤優氏は大変に評価されており、それがきっかけで佐藤氏の書籍も読むようになりました。

その流れで副島先生の存在を知ることになりました。
佐藤優氏は時に言い回しが難解なのですが、副島先生の語りは明快でわかりやすく、言葉は厳しい部分もありますが、とても共感が持てました。

話は本題に入りますが、コロナ禍に突入してから顕著に感じる
ことがあります。それは支援してきた『公明党の政策がおかしい』ことです。

ワクチン接種推進し始めたことは仕方ありませんが、副反応や死亡が出て 地元議員にも相談したのですが、まったく反対意見には取り合わなくなりました。 今まではどんなこともとりあえず意見は聞いていて そのような反応はありませんでした。

もともと公明党は国民の健康や命 生活に対しては少数派の意見も尊重する姿勢が党の基本理念でした。

ところが最近は率直に言うとディープステートの言っていることをそのまま言っていることに気がつきました。

違和感を感じてからTwitterや佐藤優氏 副島隆彦先生とたどり着き、その実態がようやく理解できた感があります。

なぜ そうゆうことになってしまったのか愕然としましたが、副島先生が統一教会がいろんな団体に入りこんで工作することやディープステートの暗躍などを学べば、そうゆうこともありうるかもと理解するにいたりました。

また池田先生(私たちはそう呼びます)創価学会の名誉会長も私は今は直接発信されていないか どこかで騙されているか…

どちらにせよ誰か邪なものが池田先生の権威を利用しているとしか思えない感じがします。

初めは「まさか」と思っていましたが、最近の公明党と創価学会の中枢には違和感しか感じません。

一般の会員さんは本当に純粋に国民の生活や幸せを願って活動する人が多いです。
ほとんどの会員さんは全く違和感なく活動されていて、私が政策のおかしさを意見しても村八分になる感じで、大きく騙されていると感じます。

しかし、学会員さんの中にも私のように違和感を感じている方もいないわけではなく、とにかくどんな団体であれ現在の政策を真剣に学び 議論していくことが急務だと感じています。

この学問道場もそうゆう場だと思い参加させていただきました。

日本国民を含め 世界の庶民が少しでも安心して暮らせる世の中のために私も少しでも学び 身近な人と語らっていきたいと思います。

副島先生 学問道場の皆様 いつも貴重な学びの場をありがとうございます。

まさよし

守谷健二 投稿日:2023/04/28 10:17

【3046】[3541]二つの正史(旧唐書と新唐書)について

お久しぶりです。また歴史について書かせていただきます。

中国正史『唐書』は、二つあります。西暦945年に成立したものと、西暦1060年成立したものです。両書を区別するため、先に出来た方を『旧』、後に出来た方を『新』と呼んでいます。両書とも奉勅撰のれっきとした「正史」です。

既に正史『(旧)唐書』が成立していたのに、どうして新たな「正史」を必要としたのか?
『(旧)唐書』は、唐末の戦乱で史料に欠損があり唐末期の記事が不十分であった。宋の時代に入り、新たな史料が多数発見され、より充実した「歴史書」の作成が求められた、と説明している。
日本では『唐書』と言えば『新唐書』を指し、『旧唐書』は無視されてきた。

豊富な史料を基に、宋朝と言う安定した政権のもと、当時の第一級の学者を集めて編纂したのだから『旧唐書』よりはるかに出来の良い「史書」が出来たはずである。
しかし『新唐書』の評判は極めて悪い。1064年に編纂を開始した『資治通鑑』の司馬光は、唐代の記事を『新唐書』に依らず『旧唐書』に依拠している。
考証学が盛んになった清の時代の学者たちも『旧唐書』の方が『新唐書』より信頼性に勝ると言う。これは現代の中国史学の定説でもある。
しかし、日本では『唐書』と言えば『新唐書』を指してきた、その理由を見て行きます。

両書の最も大きな違いは、日本記事にあります。以前に書いたように『旧唐書』は、七世紀半ばまで日本を代表していたのは倭国(筑紫王朝)と書き、八世紀初頭から日本国(大和王朝)と書く。つまり日本では七世紀の後半に代表王朝の交代があった、と。
663年の「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍と戦ったのは倭国(筑紫王朝)であったと明記する。
983年成立した『太平御覧』は『旧唐書』に基づき倭国と日本国の王朝交代説を採っている。つまり宋の代に入っても七世紀後半に日本では王朝の交代があった、と認識されていたのである。(宋の成立は960年)

いっぽう『新唐書』は、日本には開闢以来王朝の交代はなく、天御中主(あめのみなかぬし)の神を祖先とする天皇家が途絶えることなく今に続いているとする「万世一系」の天皇の歴史として書かれている。

つまり、宋朝では『太平御覧』が成立した983年から『新唐書』が成立した1060年の間に、日本に対する認識を変えたのである。驚くべきことである、中国は歴史の国である、何よりも歴史を重んずる。先の歴史書の記述を変えるなど絶対に許されることではない。しかし『新唐書』の編者たちは、先の「正史」の記載を捨て、やすやすと新しい認識を書いている。ただ事ではない、いったいどのような事件が在ったのだろう。
(次回につづく)