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処分場の件
読まれた方も多いと思いますが、時事通信にでていました。
筋書きはもうできているようです。
最終処分場、福島県内に=放射能がれき処理で―環境次官
時事通信 6月9日(木)17時4分配信
南川秀樹環境事務次官は9日、東京電力福島第1原発事故で放射性物質に汚染された、福島県内の災害廃棄物の焼却灰などを埋め立てる最終処分場について「県外は考えにくい」と述べ、同県内に整備する考えを示した。福島県庁で佐藤雄平知事と会談後、記者団の質問に答えた。
ただ、南川氏によると知事は会談で最終処分場の県内受け入れには「今『はい』と返事はできない」と即答を避けたという。
【516】[568]道場開きに参加しました
広島の西です。
6月4日(土)の福島復興事務所開きに参加しました。副島先生はもとより、準備をされたスタッフの方々、料理をして下さった副女の皆さん、ありがとうございました。広島くんだりから行った甲斐が十分ありました。
まず会の開始前に、道場から徒歩15分程の関所(?)まで歩いて行くことに。その途中、道場から目と鼻の先にある坪井モーターズという地元の自動車修理工場の事務所にいらっしゃった方と目が合いご挨拶。関所を見学した後、またご挨拶したら親切にも中にお招きいただき、お茶をご馳走になりました。
事務所はちょっとしたミニサロンのような状況で、地元の人達が立ち寄っては、今後のことも含めた話をされているようでした。私達がお邪魔した際も、オーナーご夫妻の他、非難区域20km圏内に家がある為、現在は別の地区のアパートで暮らしている方も来ておられました。その方は津波で被災した人達の住宅を作って受け入れることを考え、地元の若い人達に話をしてNPOを立ち上げる構想もあるとのことです。
またその後道場で話した、いわき市の男性は、地元で会社を経営しておられ、今後は自社製品は風評被害を受け県外での売り上げ減は避けられないとの見通し。しかし、それだからこそ、福島県内で持ちつ持たれつという精神でお互いに協力して流通させる仕組み作りに向けて話し合いを開始されているとのことでした。
このように地元では復興に向けて、自ら考え行動する気概を持つ人々もおられることが分かりました。いずれの方も「ここで生きていくわけですから」といったようなことを仰ったのは、あきらめという消極性ではなく、ある種の郷土愛に基づいた、腹の据わった考え方だというのが感じられました。恐らくは66年前の広島、長崎もこのようにして復興してきたのでしょう。私自身被曝2世ですので、私の祖父母の世代の人達が、当時は全く危険性が分かっていなかった放射能まみれの中、町や産業を復活させてきたその精神を福島の人達の中に見た思いがしました。
今回の原発事故やそれに至る道筋またその後の後始末などは、ここ何年か何十年かの日本で、小さいことから大きいことまで通奏低音のように響いていることが象徴的に凝縮されている感じがします。つまり、『面倒なことや考えたくないことは全て人に丸投げし、かつ、結果起こった不利益も人のせいにする、終始一貫して無責任』ということです。もちろんこれは私にも当てはまります。全く持って不徳と致すところです。政治家も企業も国民もいつの間にかこんな感じになっていた、、、そんな気がします。副島先生が「ヒトゴトとしてではなく、自分のこととして」と繰り返しおっしゃいましたが、福島に行ったことによって、私自身が責任感を持って復興するためのメンバーの一人であるという意識が高まりました。
続いて、一緒に参加した田端から一筆令状を。
ともあれ福島に行ってみよう見てみよう…との単純な動機による「福島復興活動本部」事務所開きへの参加でした。学問道場の会員ではありません。
遅蒔きながら3・11から副島隆彦氏の発信に共感するようになりました。そして導かれるかのように20キロ地点に…。今も残って頑張っている住民は「ここらは原発で生きてきたんだから、事故処理は住民もしなきゃ。それが落とし前よ」と力強く語り、事務所開きの講演会にも参加されていました。
美しい阿武隈山系に囲まれた緑豊かな田園地帯での暮らしを取り戻すには、住民自らの強い意志と行動力が何より大切だと思います。そのための支援をするのが学問道場福島復興本部なのだと認識しました。微力ながら奈良から応援を続けます。
【515】[567]活動本部に行きました
6月4日と5日、福島復興活動本部の事務所開きに参加しました大川晴美です。
活動本部では学問道場会員の皆様、地元の方々、スタッフの皆様とお会いして、原発や放射線のことなど様々なお話を伺うことができました。焼き鳥、おにぎり、福島県産のネギ、しいたけ、きゅうり、レタスも美味でした。そして!!!尊敬する副島先生にお会いして興味深いお話を伺ったり(人間よりも猫がお好きとか)、一緒に写真を撮ったり、最後は握手までしていただきまして、副島先生のファンとして夢のような時間を過ごすことができました。ありがとうございました!!!
ところで、年間の被爆放射線量は、何ミリシーベルトまでなら健康に影響がないと言えるでしょうか。
午後の講演会で、高野先生は年間20ミリシーベルトまで、副島先生は200ミリシーベルト以上でも大丈夫、と意見が分かれましたが、私は発がんリスクという観点から年間100ミリシーベルトまでが基準になると考えます。1つの根拠は、山下俊一長崎大学教授による「広島・長崎の調査では、年間100ミリシーベルト以下の被爆では統計学的に発がんリスクに明らかな影響は見られなかった」という説で、東京工業大学の松本義久准教授も同様の説明をされています。
しかしながら、がんのリスクは年齢、体質、生活習慣(たばこ、飲酒、食事、運動、ストレス)の影響も大きいうえに、同じ放射線量でも一回に浴びると影響が大きく、長期にわたって少しずつ連続的に浴びた場合は影響が小さいのだそうです。また、がん以外の不妊、胎児への影響、脱毛、白内障などでは、それぞれ「しきい値」(境目)が相当異なります。
結論:これらの情報を参考にしながら、各自のライフスタイルや価値観に基づいて、最後は自分で判断するしかありません。そのためには、避難するかしないかを含め、選択の自由も保証されるべきでしょう。
【514】[566]福島で見聞きしたこと。【第三部】
【第三部】
根尾知史です。福島復興活動本部として借りている元コンビニの建物の大家さんの奥さまが、震災当日の様子を話してくださいました。
大屋さんご夫婦も、福島第一原発から20キロ圏の検問所から、1キロくらい外側の場所に住んでいます。
3月11日(金)の地震があった日の夜は、富岡町や浜通りなど他の町からたくさんの人たちが、わっと避難してきたそうです。
その夜は、その人たちのためにおにぎりを握って、差し入れをしてあげたりしていたそうです。
ところが翌3月12日(土)になって、家の近くに見たこともないくらいたくさんの車が押しかけてきた。どうやらそれは、東電の職員たちで、彼らは住民よりも先に、逃げて行ったそうです。
そのうちに、町内放送で「集会所に避難してください!」と流れたので、自分たちも訳もわからず、着の身着のままで避難した。
そのときは、まさかそれから2ヶ月も避難所生活が続くとは、さすがに思わなかったわ、と言っていました。
このとき避難した地元の方たちの中には、原発20キロ圏内に住んでいた方たちもいて、その人たちは結局、3月11日以来いちども自宅に帰っていそうです。衣類とかを取りに帰りたいと言っているそうです。
福島第一原発から20キロ圏内の人口はおおよそ7万人で、約27,000世帯いるそうです。
復興活動本部がある福島県田村市の都路(みやこじ)という地区は、とてものどかな田園地帯で、海風も吹いてすがすがしく、夏もそれほど暑くはならず、自然が豊かで美しい場所です。
地震が起こる前は、田舎暮らしを求めて都会から移り住んでくる「リタイア組」に人気がある地域であったそうです。
坪当たり1万~5万円くらいの単価で一軒家を購入できるので、都会の人は喜んで家を購入していたということです。
地元の方と話していて、避難した地域の家庭で買われていたペットの話になりました。彼女はしみじみと、「犬、猫が一番かわいそうだったよ」と言っていました。
地震のあと飼い主が急にいなくなって、1ヶ月も2ヶ月も戻って来ないまま餌ももらえず、家の中に閉じ込められたり、鎖に繋がれたままにされていたからです。
知り合いのところで飼われていた犬は、地震のあと、20日間くらおいてけぼりにされたショックでボケてしまっていて、主人が戻っても分からなくなってしまっていたそうです。
名前を呼んでも、ぼーっとしているだけで反応を示さなくなって、感情が無い犬になってしまったそうです。ただ、餌をやると餌だけは食べるから本当かわいそうだ、と言っていました。
その女性の息子夫婦が、郡山(こおりやま)に住んでいて、奥さんが妊娠しているそうなのですが、震災後は、その息子夫婦の家を訪ねても、放射能が(移るから?)危ないから、嫁さんには近寄らないでくれ、と言われるのだそうです。
野菜などおみやげで持っていっても、「都路(みやこじ)の野菜は持ってこなくていい」と言われた、と寂しそうに言っていました。「都路の野菜だって、ちゃんと放射線量を測定してもらって、食べても大丈夫だと言われているのにねえ」ということなのです。
「とにかく、人が帰ってこないのよ。放射線量も測ってもらって大丈夫だと言われてるのに。もう帰ってきても大丈夫だよと、(政府に)言ってもらえたらいいのにねえ」と、やるせない表情でつぶやいていました。
調査や作業やに来ている東電の人や自衛隊の隊員たちも、20キロ検問所の警備のために全国から呼ばれている警察官たちも、20キロ圏の境界線から一番近い、この都路(みやこじ)にある旅館に泊まればいいのです。
それをわざわざ、これ見よがしに、そこからさらに車で一時間も離れた飯坂まで帰って、寝泊りしてるんだよ、とも言っていました。
都路の地元の方々は皆、あと1年は、今の状況が続くだろうと考えているそうです。
避難所生活では、朝昼晩の三食がただで食べられて、皆でいられて楽しい、と思ってしまって、おじいちゃん、おばあちゃんや、あるいは、もらえる物をできるだけもらおうとして居続けて、家も壊れてないし、放射能汚染ももう問題ない数値になっているのに、避難所からいつまでも離れない避難者たちもいます。
副島先生が、津波をかぶって家も何もすべて失った「被災者」と、原発のせいで無理やり避難させられている「避難者」とは、はっきり区別しなければならないと言っている意味を、もういちど、私たちも、自分たちの頭の中でもよく考えて、より正確な、現場の現実を理解する必要があります。
私が訪れた都路(みやこじ)の古道(ふるみち)の人たちは、家も壊れていなくて、放射線量も1日3回、各行政地区ごとの役場から公共放送が流れて公表されていて、数値的に問題ないレベルにまで下がっています。
それなのに、20キロの境界線のすぐそばの21キロの地点に住む住民は、まだ今でも半分以上が家に帰っておらず、30キロ圏内でもまだ不安だからといって、いつまでも政府が用意した避難所に住み着いて、自宅に帰ろうとしない人々が大量に出てきているのです。
こうした人たちが今後どのようになって行くのか。すでに現在でも、ただでもらえる支援物資や食料や、そして、一番問題の補償金をどれだけもらえるか、ということばかり考えるようになっているという現実があるのです。
周りから「かわいそうな避難民」というレッテルを張られて、そのなかで福島県民全体が、「かわいそうな県民」として、どんどん堕落していくことが恐ろしいと、副島先生が復興パーティーで話されたとおりです。
最後は、「世界のフクシマ」とおかしく世界に認識されるようになって、まるで他国から「チェルノブイリ」のように、扱われる地域になってしまうでしょう。
これが、世界が(アメリカが)、福島県を「世界の核廃棄物処理場」にすると決めた、恐ろしい計画を遂行するために利用されるのです。
これまでに繰り返し書いてきたとおり、福島県の20キロ地点の地域は、すでにすべてが平常に戻っています。
違うのは、20キロ地点に警察が勝手に検問所を置いて、法的にも科学的にも根拠が限りなく曖昧なままなのに、勝手に違法な立ち入り禁止命令を言い続けていることです。
そしてそのために、いつまでも避難所から帰ってこない住民が、まだ8割くらいもいるという事実です。
「避難所から避難してきたんだよー」と言っていた、元気な農家をやっているおばあちゃんの以下の言葉が、正しい真実を物語っています。
「あんなところにいたら、人間がおかしくなっちまうよ。とっとと帰ってこなきゃだめだ!おれは、先にさっさと逃げ帰ってきたよ。いま、自宅を掃除してきれいにして、野菜とか自分の分だけでも軒下で植えて、今年はダメだっけども、来年また、農作業を始められるように、今から準備はじめねばならねんだ。避難所で、ぼーとして、喜んでる場合でないって。だから、先に出てきたおれの方が頭いいんだってば」
根尾知史拝
【513】[565]福島で見聞きしたこと。 【第二部】
【第二部】
根尾知史です。次に福島に行ったのは、5月28日(土)、29日(日)でした。29日の日曜は、福島復興本部となる都路(みやこじ)の古道(ふるみち)にある元コンビニの建物の掃除や修復などをしました。
このときに、翌週末の6月4日(土)、5日(日)の二日にそれぞれで行われる、復興パーティのために用意する焼き鳥やバーベキューなどの食材の手配などもしました。
そのときに、ある地元の女性のかたに初めて聞いた、避難所にいる人々の実態が衝撃的でした。
その女性はすでに、自身の商売を再開しようとして避難所から戻って来ていました。都路の自宅に戻って、普通に生活をしていました。
彼女の第一声は、「とにかく、都路(みやこじ)は、家も壊れてないし津波があったわけでもなくて大丈夫なんだから、もう避難所にいることなんかないんだよ。だから、みんな早く帰ってきたらいいのよ」という言葉でした。
そして、避難所にいつまでもだらだらといる人たちは、「そこにいれば、朝昼晩のただで三食が食べられるし、お年寄りの仲間がみんないるし、わがままも聞いてもらえるし、企業からの支援物資ももらえて、たとえば、資生堂の椿シリーズの上等な化粧品とかスニーカーとか、色んなものがもらえるのよ。だから帰りたがらないんだ」と、避難所の実状を教えてくれました。
避難所は、実際それほど遠くない、20キロ地点の検問所から車で30分ほど走ったところにある、田村市船引町(ふねひきまち)の春山という地区にある春山小学校の体育館でした。
自衛隊が仮設のトイレや風呂を設営し、お湯を沸かしてくれて、湯あかをまめに取ってくれたり、きれいに掃除してくれたり、一生懸命やってくれるのだと、避難所から帰ってきたもう一人の年配の女性の方も話してくれました。
その方は、それが申し訳なくて落ち着かなかったと言っていました。
家も壊れてないし、直接の被災はも受けていないけど、食べ物や支援物資がもらえるから、自宅と避難所を何度も行ったり来たりしている人たちがいるのよ、と言っていました。
「そうやって、ただで援助物資を余分にもらって集めている人たちもいるんだよ。こういう人たちは、欲で動いているからどうしようもないね。家も流されて、もっとひどい目にあってる人が、浜の方にたくさんいるんだから、そっちのほうにあければいいのにね」と、やるせない風に言いました。
政府からの補助金が最近出て、地域住民には、避難していてもいなくても、とりあえず一律で75万円と40万円の合計115万円の補助金が、振り込まれたそうです。
この補助金の支払いは、田村市の船引(ふねひき)という駅前にある行政所の管轄で行われたそうです。住民票がなくても、1年以上この地域に住んでいる人たちには、同じように支払われたそうです。
それほど裕福ではない住民にとっては、普段、半年ぐらい働いても115万円も稼げないという人もいるから、とくに家が壊れたりとしなかった都路の住民は、口には出さなくても補助金がもらえるこをとても喜んでいるたち人もいるよ、とも言っていました。
いっぽうで、農家の人たちにしてみれば、放射能のために農作業がいっさい禁止されてしまっていて、その損害を考えると、115万円などでは全然足りないという現実もあるそうです。
個人に対する補償金のほかに、商店や中小企業、農業、旅館など、商売をやっている住民に対する「営業補償」は出るのだろうかと、みな心配しているということでした。
営業補償が支払われるとすれば、それぞれの業界団体を通してだろうと言われていました。だから、農家の場合はJA(農協)を通してということになると、また農協がお金を配る立場になって、さらに権力を握ってしまうことになりかねいという心配もあるようです。
6月3日(金)の夜には、復興活動本部から近くの旅館に、地元の商工会の幹部の方たちと、佐藤栄佐久元福島県知事とが集まって、何かの会合が開かれていました。
おそらく、国からの補償金をどう振り分けるかという話し合いではないか、と副島先生がおっしゃっていました。
一社あたり2億円とかそういう単位だろう、個人には百万、2百万円くらいで適当になだめて、それ以上は上の人間たちが全部持っていってしまうだろうから、払われないだろう、ということでした。
現在も、20キロ圏の外であるにもかかわらず、30キロ圏内までには含まれる地域の田畑では、「土を動かすこと」が禁止されているのだそうです。
そのため、新たに農作物を植えることができない状況のままです。
都路の付近で畑を持っている農家も多いのですが、皆、商売の農業ができず、収入がないまま、とりあえず蓄えを切り崩しながら不安な気持ちで暮らしているということです。
土を掘り起こしてはいけないと言われてるから、他の作物も作らせてもらえないということです。農家にしてみれば、畑の土というのは、何年もかけて耕したり肥やして作り上げてきた農業のための事業資産なのです。
放射能に汚染されているかも知れないから、などと言って、ブルトーザーで土をぜんぶ掘り返して持って行って、どこかよそから新しい土を持って来ればいいというものではないそうです。
同じ土をもう一度作るのにはまた何年もかかるそうで、そのことを考えると、「避難所でのんびりして、ただで暮らせると言って喜んでる場合じゃねぇべ、と言ってるんだけど、聞いてもらえないんだわ」と話していた、都路で農業をやっているおばあちゃんが正しいことがよく分かります。
彼女は、避難所生活がきつくて、「避難所から避難してきたんだわ」と言って笑っていました。
避難所はせまい体育館で、大人数が段ボールで仕切られて暮らしています。トイレや風呂もひ人を気にしながら、寝る時間やら起きる時間、外に散歩に出掛けたりするのさえも、いつも回りに気を遣いながら過ごさなければならなかったそうです。人と違うことをしたり言ったりすると、集中攻撃でいじめられるそうです。
こんな窮屈な避難所生活に耐えられなくなって、とっとと戻ってきたんだぁ、と言っていました。それでも、大震災の当日から2カ月は、避難所にいなければならなかったと言っていました。
だから「あんなところに今でもダラダラいて、三食ただでもらえるから楽しいとか言っているのはおかしいよー。人間がダメになるー」とも言っていました。
そのおばあちゃんに、補助金のことを聞いたら、「もらったよー。でも、お墓を修理するのでほとんど使っちまった」と言っていました。地震のせいで、墓地に建てられていた墓石はみな倒れたり崩れたりしていて、新しいお墓を作るのに全部で百万円近くかかるから、それで補助金は消えてしまったそうです。
もう仮設住宅が、60軒ぐらいは出来たけみたいだけど、そこではガス、電気、水道代は自分で払わねばならないから、避難所から移りたがらない人もいるだろうなー、とも言いました。
今この時期に収穫されたきゅうりなど野菜も、放射能汚染を怖がって誰も食べたがらないから売ることもできず、すべて余ってしまって困っているそうです。
だから、今回のバーベーキューのために、復興活動本部と同じ敷地内にある焼き鳥屋の女主人が、普段の半額ぐらいの値段でまとめて買い取ってくれて、今回、特性の味噌をつけて新鮮なまま食べられるように用意してくれました。私も食べましたが、とても美味しかった。あと、付近の山に採りに行った山菜やよもぎの天ぷらも旨かった。
政府が地元の農作物は「危ない危ない」とばかり言うから、地元の農家の方たちまでが、自分の畑で採れた作物なのぬ食べたがらない。
地元の人たちが、自分自身で安全性を確かめたり、考えることを放棄させられているのです。
地元から離れた東京や日本各地に住んでいながら、くだらないネット情報を信じ込んで真に受けて、「世界のフクシマはチェルノブイリ並みに危険な地域になったのだ」と、本気で思い込んで、「あぶない、あぶない、今でもまだ危ない」と、何か分かった気になって騒いでいる連中は、こうして現地の人たちの実情を知りもしないで、勝手なことを言い続けていることで、どれだけ地元の農家の人々を苦しめ続けているか。
東京で「放射能、こわいこわい、危ない危ない」 ばかり言い続けている人間たちは、とっとと気付かなければならないのです。
【第三部へ続く】
根尾知史拝
【512】[564]福島で見聞きしたこと。【第一部】
SNSI研究員の根尾知史です。
私は、5月7日(土)、8(日)、5月28日(土)~30日(月)、6月3日(金)~5日(日)にそれぞれ福島へ行きました。そのときに、私が見聞きした現地の状況を書きます。
その時々にメモした内容をまとめて文字に起こしているだけなので、詳細の情報に多少の誤りや誤差がある可能性もあります。
しかし、少しでも早いうちに、現地で見聞した現場の実際の情報を、記録として残すために、まずは文章にしたいと思います。
それぞれ、三回の訪問なので、第一部~第三部の三回に分けて投稿します。
【第一部】
震災後最初に福島を訪問したのは、5月7日(土)、6日(日)の二日間でした。
福島第一原子力発電所から約60km離れたJR福島駅に着いて最初に話をしたのは、駅の東側にある福島県庁のそばで事業をされている経営者の方でした。
震災から2カ月が過ぎた5月7日の時点でしたが、震災以来ずっと、放射能の汚染状況への不安が収まらないままです、と言っていました。
これからまだ、原発の新たな爆発や放射能漏れがあるのではないかと心配していて、今からでも避難をした方が良いのかどうか、迷っていると言っていました。
その方は、いてもたまらず、ご自身でガイガーカウンターを入手して、4月1日から毎日、室内、屋外、地面と三ヶ所の放射線量を測定して記録をつけ続けていました。
数値は、当初4月1日が、室内0.85マイクロシーベルト(μSV)、屋外が2.123μSV、地面が24.75μSVあったものが、日々、あきらかに減少しているのが分かり、5月6日の時点では、室内で0.239μSV、屋外0.874μSV、地面4.919μSVだと教えてくれました。
およそ1ヶ月の間に、放射線量は3分の1かそれ以下にまで減少していました。
この日の夜は、福島駅から車で40分くらいの場所にある土湯(つちゆ)という小さな温泉街の旅館に泊まりました。温泉旅館にはどこも、避難者の方たちが宿泊していました。
避難者の方々には、「三食・昼寝付き、5000円」という特別料金で宿を提供しているということでした(私はもちろん通常料金でした)。
私が泊まった旅館には、全30室ぐらいあるうち、半分の14室近くに波江町から避難されてきた方たち44名が、宿泊されていました。
旅館の廊下には、波江町の町内連絡掲示板としてホワイトボードが置かれており、泊まっている方たちの名前と部屋番号などの基本情報から、町役場主催する無料健康診断のお知らせや、無料法律相談会の案内などがありました。
さらに、町内会の行事やイベント予定や町役場の事務員募集の連絡、雇用相談の情報、新たに同じ旅館に宿泊しにくる避難者の方の紹介情報、波江町や双葉郡で保護された飼い犬や飼い猫たちの写真を集めて飼い主を探すポスターまで、ホワイトボードいっぱいに、所せましと張り出されていました。
宿屋にしてみると、避難者の方々でどこも満室であり、ちょっとした特需になっていて、「これで避難されている方たちが戻ってしまったら、また商売上がったりになってしまうよね」という、皮肉な本音も聞かれました。
翌5月8日(日)の夕方には、いわき市から国道6号線で、海岸線沿いの津波で被災した地域も車で見に行くことができました。
その惨状は、すさまじいものでした。戦争を知らない私のような世代の人間でも、町が一斉の空襲を受けるとこういう状態になるのだろうと、破壊された家々の残骸のなかを呆然と歩きながら、ただそういう考えが浮かんでいました。
この5月8日(日)の時点ではまだ、3月11日(金)に津波に襲われた当日から2ヶ月も経っていても、津波で廃墟と化した町並みは、そのままの状況でした。さらに一ヶ月後、震災から三ヶ月経ったいまでもそのままです。
保険金がおりるまではそのままだろうと言われました。お金がいつどれだけ流れてくるのかということが、すべての復興作業の工程を決めるのです。
いわき市から四ツ倉をとおって、6号線をさらに北上しました。原発から19キロの地点にあるJヴィレッジにたどり着きました。
Jヴィレッジは、20キロ圏内なので中に入ることはできないだろうと思っていたのですが、入り口が封鎖されているようなこともなく、人もいなかったので、そのまま車で敷地内に入りました。
敷地の道路わきの駐車場には、自衛隊の真っ赤な放水車や深緑の装甲車が5台ぐらいずつ停まっていました。時間も夕方5時ごろだったこともあったからか、人影があまりなく、ときどきすれ違う職員の方らしい車も、誰も私たちのことを気にする様子もなく、注意されて追い出されるだろうと構えていたので、拍子抜けしました。
Jビレッジを別の出口から抜けると、そのすぐ先の交差点には20キロ地点の検問所があり、そこからさらに北へ向かう道路に入っていくことはできないようになっていました。
しかし、20キロ圏内のJビレッジに一般人が自由に立ち入りできたことは、「20キロ」という立ち入り制限の規制が、Jビレッジ(政府側)の都合で恣意的に勝手に決められているかを物語る事実だと言えます。
原発からは50、60キロはなれた、福島駅周辺の地域に住むその経営者の方も、原発近辺の住民がみな東電で働いており、普通の東電職員よりもかなりいい給料(10倍?)という話は聞いていると言っていました。
その上役あたりになると、高級車を乗り回して、地元では「お大名様」みたいに威張っていたようだよ、と言っていました。
町に原発が来たことで、道路はきれいになるし、立派なグラウンドもできて、住民は電気代がただになるとか、補助金を受け取っていたとも聞いていたそうです。
そうやって、地元の人々にはいろいろな恩恵を与えて、いい給料の仕事まで与えて丸め込んで、という構図は「沖縄の米軍基地と沖縄県民の関係と同じだよね」と言っていました。
「だから、今回の原発事故はその見返りかも知れないね。最後には、必ず清算されるということだろうね」とも、言っていました。
同じ5月8日(日)には、福島第一原子力発電所から真西へ20キロにある、都路(みやこじ)の古道(ふるみち)という地区にある、福島復興事務所となった、元コンビニの空き家の建物を訪れました。
さらにその付近の宿屋をいくつか訪れて、次の週の週末、6月3、4、5日には、総勢100名近い人たちが訪れる復興パーティーを行うので、この日に営業しているかどうか、まとめて複数の部屋に宿泊できるかどうかを聞いて回りました。
この際に、原発20キロの検問所地点から1キロくらい外側の地区にある旅館を訪れました。復興活動本部となる建物からは、歩いても5分くらいのところでした。
付近の住民の8割くらいは避難しているそうで、町はがらんとして静まり返っていました。
この旅館は電気も看板もついておらず、営業していない雰囲気でしたが入り口からのぞき込むと、ちょうどその日に避難所から戻ってきたところだという、この宿屋の主人が出てきてくれました。
最初は不振そうな様子で私たちのことを見ていましたが、私たちがなぜ今のこの時期に、この場所にいるのか、その理由を話しました。
すると、とても気のいい親方で、その趣旨を理解してくれ、この宿の営業を再開するかどうかまだ迷っていたけど、それじゃ営業しなきゃなんねーなあ、と言っていました。
中にいれてくれて、色々と話をしてくれました。とにかく、宿屋の主人はいまはまだ、原発の状況がはっきり分からなくて、まだ放射能が漏れているとか、これからさらに大きな爆発があって、もう一度、避難しなきゃならなくなることもありうる、という噂を聞いていて、どうしていいかわからなくて、いまはまだ混乱しているんだ、と言っていました。
震災があってから、昨日まで、ずっと避難所にいたけど、たまたま今日、掃除でもしようかと思って戻ってきたところだということでした。
まかないができるから、避難所でもずっと調理を担当していたそうです。大きな鍋で何十人分の食事を作っていたんだ、と話してくれました。
この宿の主人が一番怒っていたのは、政府があいまいなことしか言わないから、逃げていいんだか、戻っていいんだか、それを決められなくて宙ぶらりんの状況にさせられてあいるということでした。
放射能が本当に危ないのなら、はっきり決断して、避難しろ指示を出してくれればいいのに、それも無いままで、すぐ数百メートル先の検問所では、放射能が危ない地区だから立ち入り禁止だといって住民はみな追い出されている。20キロ圏のぎりぎりのすぐ外側に住んでいて、こうして客商売をやっている人間にしてみれば、まわりの住民もみんな立ち退き命令がなくても、怖がって避難所に逃げたっきり戻ってこないし、もちろんお客さんも来ないし、商売を始めていいんだか、避難してるほうがいいのか、決めかねている、ということで悩んでいました。
政府や東電から補償金をもらうために、営業なんかしないで避難所にいる方がいいのかとか、そのあたりのことも考えなければならない、と言って、混乱して結構弱っている様子でした。
【第二部へ続く】
根尾知史拝
【511】[563]お世話になり、ありがとうございました。
都路の事務所開きにお伺いしましたが、色々と学ぶことがあり大変有意義な時間を過ごせました。
関係者の方々に感謝しています。有難う御座いました。
当方、車で行きましたが大震災の影響から高速道路の磐越自動車道では滑落の復旧工事も多く車線規制も多々あります。
すれ違う車も、自衛隊、警察車両も多く緊張感も出てきました。
当方、都路の道場事務所に一番近い船引三春インターで磐越道を降りましたが、しばらく走ると田村市の市街地に入ります。
こちらは、町全体の緊張感もあまり感じられません。
商店も結構賑やかに営業しており、ゴミ収集車もみかけるなど日常的な風景が続きます。
ところが、そこから10分ほど車を走らせると急にあたりの雰囲気が変わってきます。
人や車が突然蒸発したような感じです。
車で来られた方は、そのあたりの雰囲気を実感したと思います。
田植えをしなかった休耕田が広がり、すれ違う車も、ほとんどが自衛隊か警察車両になります。
対向車線ですれ違ったパトカーがいきなりUターンしてきて5分ぐらい後を付けられた時はさすがに緊張しました。
そんなところで、学問道場到着。
看板が大きくて見やすくすぐに場所がわかりました。
初対面の方ばかりでしたが、何となく話が通じたのが不思議でした。これが結構楽しかったです。
都路の学問道場は切り通しの上にあり、転落防止法の青いファンスがありましたが、フェンスには蓑虫数匹が元気にはりついていました。
蓑虫は絶滅危惧種だと聞いていたので意外なところでびっくりしました。
カマキリの卵、蓑虫は越冬するので、卵の高さで積雪が予測出来ると言われています。
蓑虫君は地上1メートル半ぐらいとかなり高いところにあったので、都路の昨年の積雪は50センチぐらいあったと推察されます。
このあたりは旅館の人に聞けばよかったと思いましたが失念しました。
11時頃から宴会が始まり、大量の焼き鳥、でっかい椎茸、山菜料理もあり、キムチも見た目よりも辛くなくおいしかったです。自家製で、多分、地元の白菜の品質がよかったのかと思いました。
講演会が1時でしたが、昼頃にはお腹が一杯になったので、そこいらを散策しました。
3月11日にはもの凄い地震がありましたが、都路あたりはあまり被害がなかったようです。
住宅数軒の瓦屋根の瓦が落ちていただけなので地盤が強いのでしょうか。
震源地から遠い、郡山、福島あたりのほうがよっぽどひどいなと感じた次第です。
閑話休題、道場本部から向かいにお寺が見えます。
一般の住宅に勝手に入ると処罰されますが、神社仏閣は、ごく一部を除いて無料で入ることが出来ます。
早速、お参りしてきました。
お寺は西側、南側の2カ所に入り口があり、どちらも結構勾配のきつい階段を登ることになります。
西側入り口には、白いペンキで塗られた木製の娑婆塔のようなものには「田村市有形文化財円寿寺の阿弥陀如来」と記載されていました。
その右にある立派な石碑には「円形が二つ交わる記号のようなもの(民主党のシンボルのようなもの)の下に 豊山派 不動産円壽寺」と記載してありました。
お寺様にはお地蔵様が6体並んでいます。
その左には弘法大師の石碑もありました。
多分真言宗なのかな。
お寺の屋根に家紋のようなものがありましたが、五三桐か、五七桐のようです。
家紋やらはあまり詳しくないので、よくわかりませんが個人的には何でもありの支離滅裂なお寺様だったようです。
境内に立派な鐘撞き堂もありました。
お寺に隣接したところの住居がありましたが、誰も住んでいる気配がなかった(一般論ですが、住職さんはお金持ちなので、どこかに避難したのでしょう)ので、一発鐘を思いっきりならそうかと思いましたが、おかしな人(当方)が都路あたりの意味不明の集会場にいると警察やらに通報されると大変なので自重しました。
そのあたりは心残りです。
鐘撞き堂からは、見晴らしも良く、学問道場が一望に見渡せることが出来ます。
見晴らしも良く、たばこでも一服と思っていたら、参加者の皆様が突然動き出したので、大急ぎでついていったら20キロ検問のところでした。
その近くに、ハム工場や、検問所の真上に民家もありました。
その民家に人が住んでいるのか確認したかったのですが、意味不明の集団の1人がおかしなことをやったと警察の方々に目をつけられると大変だと思いこれも自重。
後日、こそっと見に行きたいと思った次第です。
検問所のすぐ近くに緑色の公衆電話「田村郡都路村大字古道字戸屋42-1 村上ストア」と明記されたがありましたが、こちらは10円玉を入れたら通話が出来ました。
携帯が不通で駄目になっても必要最低限の通信インフラは大丈夫のようです。
道場近くには、きれいな水が流れる清流(地図的には夏川のようです)もありました。
今時は鮎、秋口には鮭が遡上すると思われます。
今度行くときには釣り道具は必需品になるのかな??
いつになるかはわかりませんが。
基本的に人間は燃料(副島論ではガソリン、電気、プロパンガス・プラス現況では通信インフラ)、その他、食糧、水があれば生きていけます。
燃料が心配でも、あたり一面雑木林なので、炭焼きでもやれば大丈夫でしょう。
以上です、
ところで、河東ご出身の方とお話しましたが、当方、河東2小、3小を完璧に勘違いしていました。
この場をかりてお詫びします。申し訳ございませんでした。
大熊の小学生は旧河東3小に通っています。大変失礼しました。
ついでになりますが、6月6付福島民報で原発20キロ圏内の一時帰宅者から、空き巣への被害届があったと記載されていました。
被害状況の全貌も明らかになってくると思います。地元の信用金庫とか地方銀行の被害状況も明確にでてくるでしょう。時間の問題です。
福島原発付近は放射能汚染やらの仮置き場になっています。
汚染されたがれきをもって行く場所がないので、こちらも地元業者から、中間処理やら、最終処分場でもなんでもいいから早く作れという話もでています。
処理場になると兆単位のお金が動き、スケールがでかすぎるので業界を仕切れるスーパーゼネコンの鹿島、大成建設あたりにやって欲しいというのが地元業者の本音のようです。
未だに情報は錯綜していますが、どうなることなりますか???です。
【510】[562]6月4日、5日の福島復興活動本部の事務所開きは無事に終了しました
5月23日から福島復興活動本部に現地入りしていた下仲もとゆきです。
6月4日、5日に行われた福島復興活動本部の事務所開きは会員のみなさま、地元の人たちのご協力のお蔭で、無事に終了しました。ありがとうございました。
最初は何もないところから始まった福島復興活動本部ですが、毎日掃除をしたり、生活に必要な物を買いそろえたりすることで、徐々に整っていきました。蜘蛛の巣がはっていた窓も、巣を払い、雑巾(ぞうきん)で磨けば磨くほど綺麗になっていきました。この土日にその本部を見て、「すごいですね」「立派ですね」と褒めてくださった会員の方もいました。
福島からの帰りに、郡山駅前の広間で、ヒロシマ、ナガサキの原爆被害を伝える展示会を見学しました。副島隆彦先生と新聞記事をまとめたようなポスターを見ながら、「5 Sv以上の光をピカッと浴びた人は死んでいるけど、1 Svより下の人は死んでいないな」「爆心地から2キロも離れたら、1 Sv を下回っている」「85%の人間は爆風と熱線で死んでいる。放射線が原因で死んだ人は実は15%しかいない」「放射線の恐ろしさを85歳の被爆者が語るというのはどういうことなのか。十分に長生きしているではないか。被爆者健康手帳をもらって補償を受け続けているから、今さら『放射線では何ともありませんでした』とは言えないのではないか」などという話をしました。
1日目の講演が終わった後、ヒロシマ、ナガサキの原爆被害を調べていた高野亮さんが、「この程度の放射線量では死ねないよな」と発表されている数字を見て、言っていました。明らかに健康に害を及ぼすほどの放射線量を浴びた人は少なく、それよりも放射線を怖いものだと思い、恐怖に怯(おび)えながら日々暮らしている方が、よほど健康に悪いと思います。今でも雨も濡れることを恐れるよりも、「無料で低濃度のラドン温泉に入れる!」と考えた方が健康的です。ラドン温泉で死んだ人はいません。
これから報告文が続々と書かれると思いますが、まずはこの2日間の速報をお知らせします。以下に、私がSNSIのメーリングリストに書いた文章の一部を転載します。
(転載開始)
Subject: 6月4日の福島復興活動本部からの報告
今日は、福島復興活動本部に現地入りして13日目です。
以下に、今日の活動記録を記します。
朝食は7時半に近くの旅館で食べました。
本部に移り、会場の準備をしました。
続々と会員の方が本部に到着しました。
お昼すぎにはだいたいそろい、みんなで焼き鳥を食べたりしました。
副島隆彦先生を先頭にして、近くの検問所ツアーに多くの人が行きました。
帰ってきたあと、50名ほどを前にして、副島隆彦先生、高野亮さんの講演が行われました。
その直前に機動隊の車が本部の前に止まりしたが、副島先生がすぐに追い払いました。
講演会は盛大に終了しました。
その後、焼き鳥などを食べながら歓談し、この日帰られる人たちは車で帰っていきました。
明日も活動本部にいる人たちは、夜はそれぞれ分かれて泊まりました。
今日のところは以上です。
福島まで来られた会員の方たちは、原発問題に関心のある方ばかりでした。
ガイガーカウンターを持っている人もたくさんおり、自分のガイガーカウンターで、活動本部の放射線量を測定していました。
この日の役場が発表した数値は、3回とも0.6マイクロシーベルト前後(γ(ガンマ)線の測定値)でした。
アポロ問題など、普段は口にすれば周りの人から変な目で見られるようなことも、学問道場の会員どうしだと共通の理解であるようで、笑顔で話をしている人が多かったことが印象に残っています。
(以下略)
2011年6月4日
(転載終了)
(転載開始)
Subject: 6月5日の福島復興活動本部からの報告
今日は、福島復興活動本部に現地入りして14日目です。
以下に、今日の活動記録を記します。
朝はそれぞれ泊まったところから本部に移り、会場の準備をしました。
基本的なスケジュールは昨日と同じです。
続々と会員の方が本部に到着しました。
お昼すぎにはだいたいそろい、みんなで焼き鳥を食べたりしました。
この日は焼きそばも出ました。
副島隆彦先生を先頭にして、近くの検問所ツアーに多くの人が行きました。
検問所に着くと、応援でパトカーが4台回っていきました。
帰ってきたあと、50名ほどを前にして、副島隆彦先生、高野亮さんの講演が行われました。
副島先生のサービス精神で、一度締めたあとに質問コーナーももうけられました。
これは好評で、これぐらいの人数で対話形式でたまにはやってほしいという要望もありました。
途中で雨が降ってきましたが、講演会は昨日以上に盛大に終了しました。
その後、焼き鳥などを食べながら歓談し、各自車で帰っていきました。
1000本注文した焼き鳥はほとんどなくなりました。
明日もいる人は、夜はそれぞれ分かれて泊まりました。
今日のところは以上です。
最初は過酷な環境だった福島活動本部ですが、二週間経って、車が到着したこともあり、かなり改善されました。
副島先生も、「みんなで掃除をやったら、こんなに綺麗になるんだなあ」としみじみと語っていました。
この二日間で、高野亮さん、六城さんら放射線に詳しい人の話をたっぷりと聞くことができました。
知識の不足しているところ、曖昧なところ、誤解しているところを埋めたり、正確にしたり、修正したりしてもらいました。
教科書的な知識で十分なこと、よほどの放射線量でない限り人間は死なないことがわかりました。
同時に、地元の人の話もたっぷり聞くことができました。
インターネット上にはないいくつもの現実、事実を知りました。
二次情報ばかりだと、ステレオタイプの発想にどうしてもなってしまいがちです。
自分の考えに合わない情報はこぼれ落ちていくからです。
福島活動本部にいたことで、フィルターのかかっていない生の情報を得ることができました。
その一部は、このメーリングリストに書きました。
人が来てくれること。
これが都路の人が一番喜んでいたことでした。
その意味で、今回の福島復興活動本部・事務所開きパーティは成功だったと思います。
副島隆彦先生、貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。
2011年6月5日
(転載終了)
下仲もとゆき拝
【509】[561]福島復興活動事務所開き 報告1:三直三現(さんちょくさんげん)
群馬のゆみこ(川端優美子)です。[560]の岸圭介さんの書き込みは素晴らしいです。そうですよね。1mSv/年というのはあくまでも平時の基準であって、しかも健康被害があるかどうかを判定するわけではない。どの程度の量まで大丈夫かは、山下俊一先生など放射線医療の専門家の話を聞くべきですよね。
それと、[559]のジョーさんの話もすごいです。やっぱり政府はわざと危ないと言って国民を怖がらせて、原発20km圏の広い土地を核処理場にする気なんでしょうね。
さて、わたしも6月4日、5日の学問道場・福島復興活動事務所の事務所開きに行ってきました。前日までは3月頃の寒い陽気でしたが、事務所開きの日は初夏のからっとした、少し暑いくらいのバーベキュー日和(びより)でした。さん・きゅう、神様。50人くらいは集まったのでしょうか、大盛況でした。そしてスター(お弟子さん)たちが勢ぞろい!皆さんに握手してもらって、わたしはもう興奮して声がうわずりっぱなし。そして大スター、我らが副島先生もご機嫌でわたしたちをもてなしてくださいました。副島先生には合計3回も握手してもらっちゃった。もう嬉しくて、今でもちょっと酸欠気味です。会員の皆さんとは、「そのとき、わたし急性アノミーになっちゃってぇ」「あぁ、そうですか」とか、下界ではとてもできない話ができ、本当に幸せでした。
家に帰って父にあーで、こーで、楽しかったよと話すと、父は「よかったなぁ。ほんで、これからそこ(福島復興活動事務所)で何すんにゃ?」と言いました。そうなんだいね。
ゆみこ 「そうなんさ。まあ、でもとにかく、まずは現場に行かなきゃってことで、行ってきたんさね。」
父 「三直三現(さんちょくさんげん)やな。」
ゆみこ 「何、それ。」
父 「直ちに現場へ行って、直ちに現場を見て、直ちに現実的対応をする。これが三直三現や。遠いとこからあーせぇ、こーせぇ言うても、うまいこと行かへんにゃ。現実的対応ゆうのんが、大事やな。」
例えば、工場でもう組みあがった製品がある。納期は明日なのに、仕様と色が違うことに現場が気づく。設計に電話で事情を伝えると、塗りなおせばいい、という返事。でも、実際には配線がびっしりで、それを外して塗りなおしてまた配線するとなると、明日の納期に間に合わない。そういう事情を電話で話しても、「そんなもん、徹夜してでもやったらええやないか」という話になる。
これが、設計が「直ちに現場に来て、直ちに現場を見た」とすると、「こら大変やな。ほんならこのカバーだけ塗りなおしたらええやないか」という「現実的対応が直ちに」できる。(いったいどういう製品なんだろうね。見かけは箱状なんだろうね。で、中に配線がびっしり。)
ゆみこ 「なるほど、現実的対応ねぇ。う~ん・・・。」
その現実的対応について、少し考えました。わたしは、自分が楽しいなと思うことをするのが良いことだと思うので、それを基準にしようと思いました。レポートを書いて重たい掲示板に載せて、皆さんに読んでもらうのが楽しいから、とりあえずそれをします。そして、わたしも自分の生活があるので、毎日ちゃんと仕事に行って、現実的に、お金を稼ぎます。そうすればまた福島に行けるしね。
で、まあ、ほかにもそういうことをいろいろ考えてみると、結局は自分をどうするか、ということしかありません。やっぱり他人(ひと)のことはどうにもできませんから、自分が幸せに生きたければそうすればいい、というだけです。原発がどうなろうと(核爆発=再臨界の可能性はありません、安心してください。事務所開きの講演で知りました。追って報告します)、福島県民がどうなろうと、日本国民がどうなろうと、わたしはわたしの人生をやるだけです。周り(環境)がどうであろうと、自分が幸せであることはできる。これがお釈迦さんやイエスさんが説(と)いていたことなんじゃないかなあ。 以上
【508】[560]平時基準1mSv/年について
事務所開きパーティに参加して、充実した時間を過ごしました。副島先生、お弟子さんの皆様、いっしょに参加した会員の皆様、ありがとうございました。
1mSv/年という基準へのこだわりを、放射能怖い怖いの方々にどう説明したら無くしてもらえるのかを考えていました。昨日帰りの車中で、
「1mSv/年という平時の基準は、何らかの異常事態が発生しているかいないかを判定する基準であって、健康被害があるかどうかを判定する基準ではない。健康被害があるかどうかを判定する基準は、放射線医療の専門家の調査がある。100mSv/年を超えても、リスクが0.5%高くなる程度で、100mSv/年以下では、健康被害はない。それに、1時間あたりの外気中の放射線量を単純に24時間×365日=8760倍する量の放射線を実際にあびるわけはない。副島隆彦という福島原発から20kmの場所で活動している著作家、評論家がいるが、その先生は計算値として200mSv/年になるくらいの放射線20μSV/時は、赤ちゃん含めて健康被害はないと言っているよ」
という説明をしようと決めました。放射の怖い怖い派に対向するべく、近くの人々に発信していきます。