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Loginはこちら【803】[906]福島本部活動日誌です71
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年2月23日の日誌です。
18日~22日の日誌は遅れてしまいますが、ご容赦ください。
郡山駅前のネットカフェを出ると、外は雨が降っていました。
郡山駅発6時57分の磐越西線で、会津若松駅に向かいました。
郡山駅のホームには、会津に観光に戻ってきて欲しい思いから描かれたと思われる看板が設置されていました。
磐越西線自体が標高が高い所にあるのか、周りの山は思ったより高くは感じませんでした。とはいえ、関東の感覚では非常に険しいものです。
午前8時8分に会津若松駅に着きました。
駅の土産物コーナーが既に開いていました。
駅の待合所で10人超が、NHKの朝の連続テレビドラマを観ていました。
会津若松駅前は歩道に氷がそのまま残っていました。雪は脇にうずたかく退かされていました。
昨日と今日で、かなり雪が融けたようでしたが、それでも大量の雪が残っていました。
会津の駅前にはリオンドールがありました。・・・羨ましいです。
どうにもお腹が空いたので、駅前のホテルに入っているレストランに入って、朝食を摂りました。他に開いている店がなかったとはいえ、無駄な金を使いました。
ホテルの10階から見た会津は、ほとんどの建物が2,3階建てでした。
ホテル1階には、放射線についての特別講演会を告知する張り紙がありました。
会津の道路は、少し奥に行くと、融けてなお大量の雪が積み上げられていました。
渡部恒三の古い看板もありました。
歩道に設置してある「目が不自由な方用の印」も剥がれてしまっていました。
更に奥の、日当たりの悪い歩道は、アイスバーン状態のままでした。
仮設住宅の脇の小さな崖になっているところは、大量の雪が退けられていました。
やはり仮設住宅は、工場脇の空き地に、砂利の上にアスファルトを敷き詰めて作っていました。
仮設住宅の隣には、市の除雪車両置場がありました。
ここの仮設住宅は82戸ありました。
建物の脇に、簡単な絵が描いてありました。
なお、ここはプレハブ型でしたが、木造型が会津では多いと、駅の売店で売店で聞きました。
集会場の屋根には30~40cmほどの雪が積もっていました。ここの建物の設計積雪量は1mでした。
集会場の掲示板には、除雪スタッフの呼びかけ、雪道に注意を促す張り紙、などがありました。
自治会の、犬の糞に関する張り紙がありました。
日当たりの悪い地面は雪がそのまま残っていました。
日当たりの良い地面も、車がアスファルトを通れるような雪の退け方をしてあり、雪が大きく残っていました。
会津若松駅に徒歩で戻って、磐越西線と磐越東線で船引駅に戻りました。
船引駅前は殆ど雪が残っていませんでした。
船引小学校の除染した土のところも、雪が融けて土が見えているところがありました。
船引公民館では、中高生の発表会をしているようで、たくさんの車がありました。
リオンドールとダイユーエイトまで歩き、半額の食料品を買い込みました。
リオンドールの駐車場も、会津の道路同様に「目が不自由な方用の印」が剥がれてしまっていました。
リオンドールのゴミ箱の上には電気工事業者のヘルメットが置いて(捨てて?)ありました。
ダイユーエイト入り口の道路は、少し陥没しているところがありました。
バスで古道車庫に戻りました。
バスから外を見ると、原発から24kmほどのところに、車が4台駐車してありました。
バスで岩井沢小学校付近に戻ってきた人が二人いました。
それなりに人が戻ってきたようです。
事務所に歩いて戻る途中、検問所前の通行止め標識前で、外国から来たと思われる2人と日本人2人が映像を撮影していました。
撮影し終わった後、288号線を帰っていきました。
車のナンバーは「福島300 わ 10-65」でした。
帰ってきた後、洗ったまま出て行った食器を片付け、急ぎ返信すべきメールを送信しました。
灯油を30リットル補給しました。
3日間ネットカフェに泊まり続けたので、お風呂に入って、歯を磨きました。
夕食は、Hさんの奥様から頂いたお弁当でした。
余っているご飯、豚肉、ブロッコリー、を炒めて、Yさんから頂いた焼き鳥のタレを混ぜて、明日の食事を作りました。
もっと色々やることがあったのですが、流石に3日間連続でネットカフェに泊まった影響か、いつの間にか寝てしまいました。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年2月24日の日誌です。
最寄のガソリンスタンドに行って、小銭を1万円札に両替しました。
ただで喜ばれている行動なので、今後も折を見てやっていきます。
洗濯をしました。
ソファーを外に干しました。
布団を4つ干しました。
夕食は、昨日作った炒飯もどきに大葉をあわせて食べました。
ここに居ると、いつか↓のような状況になってしまいそうで怖いです。
http://umashika-news.jp/archives/51998768.html
(転載終わり)
(転載始め)
2012年2月25日の日誌です。
かなり雪が降りました。積雪10cmほどです。
昨日もっと掃除をしておけばよかったです。
雪かきをしました。
・・・ただ、雪が日光で融けるところは20cmまでなら、しなくてもいいのだと思います。
やや風邪気味です。
東北本線で風邪を貰ってきてしまったようです。
夕食は、一昨日作った炒飯もどき、スパゲッティを茹でてルッコラとオリーブオイルと胡椒をのせただけのもの、納豆、煮干、でした。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年2月26日の日誌です。
水道代と電話代を振り込みました。
写真を500枚整理しました。
やっとこれで2/18からの日誌が書き始められます。
風邪でダウンしていたので、一日何もすべきではありませんでした。
人が街に居ないので風邪を引きにくい反面、一旦風邪になると寒さで重症化します。
雪は結構融けました。安心しました。
(転載終わり)
【802】[905]福島本部活動日誌です70
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年2月20日の日誌です。
午前0時、秋葉原駅に到着しました。
秋葉原のとらのあなは、既に営業時間が終わっていました・・・。
午前0時30分、ロイヤルホストに入り、午前4時50分までいました。
この間にZさんと携帯のメールで連絡を取りました。
午前5時から午前10時まで、マクドナルドにいました。
午前10時、開店と同時にとらのあなに入りました。
同人誌を購入しました。・・・購入し過ぎました。
午前11時半、神田のラーメン屋に入り、昼食を食べました。1050円も使ってしまいました。
正午頃に、ソフマップの18禁ゲーム売り場を覗きました。お昼時だろうが、平日だろうが、ここはいつも一定の客が居ます。
午後1時15分、経産省前の脱原発テントを見に行きました。
これが東京に出てきた本来の目的でした。
行く途中で霞ヶ関の地図を見て、本当に「赤れんが棟」という建物があるのか、と少しだけ驚きました。
脱原発テントは、小さなテントが2つ、経産省の近くにあるだけでした。
テントの前には10個ほど、パイプ椅子が並べられていました。
ギター等も置いてありました。
時々、白髭の人とスーツ姿の人が外のパイプ椅子で休んでいました。
経産省前は4ヶ月前で0.25μSv/hらしいです。
今の事務所と大体同じです。
小火が昨年末に出た事への警告がありました。
コミケの運営会は、消防庁にだけはコミケを中止させる権限があるので、相当に気を使って防火対策していた事を思い出しました。
本当は声をかけて中で話を聞きたかったのですが、
「どんな微量の放射性物質でも体に悪い」
と主張してある紙がありました。
手土産がラジウム温泉玉子とカイロというのは、揶揄になってしまっているので、自重しておきました。
話を聞きに行くのは、東京在住の別の方のほうが良いと思いますので、どうかお時間のある方、お願い致します。
(↑この写真の奥に人が居る感じでした。)
テント隣の地図に、自分たちのピンバッジを差していました。
うーん、これくらいの自己主張ならば、笑って見逃すべきもの、なのでしょうか・・・。
Zさんが交流のある明治大学の先生が、ゼミの卒論発表会をしていたので、私も午後4時から見させて貰いました。
卒論のテーマが、ボーカロイドやゲームなど、「そちら寄り」でした。
ちゃんと仮説を立てての検証もしてあり、明治大学は素晴らしい大学だと、感激しました。
(もう、東大とか早慶とか爆発してしまえばいいんです。
一橋大学は八橋大学と名前を変えてしまえばいいんです。)
今の時代に角材とヘルメットを持って大学構内に入るのも、大学側に禁止されているとはいえ、個性的な格好ではあるのでしょう。
友達は居なくなりそうですが・・・。
卒論発表会後にあった、居酒屋での打ち上げまで出てしまいました。
疲労が重なっていて、殆ど脇で寝ていました。
午後11時、秋葉原のネットカフェに入りました。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年2月21日の日誌です。
午前11時まで秋葉原のネットカフェに泊まっていました。
午前11時、遅めの朝食を、秋葉原駅一階のキッチンジローで食べました。550円でした。
秋葉原駅ビルの再開発で、朝の割と早い時間も休める場所ができました。
これは良い変化だったのだと思います。
駅前に新しくできたでっかいビルは、個人的には一寸あまり・・・、という感じですが。
午前11時半から秋葉原を見て回りました。
とらのあなの6階は、午前中にもかかわらず、人で一杯でした。
午後2時、メールで連絡していた通り、Zさんと神保町のラーメン屋で昼食にしました。
昨日の予定では、ここら辺で郡山に戻るはずだったのですが、どういう訳か、もう一日秋葉原に泊まるという判断をしてしまいました。
秋葉原は恐ろしい所です。「どんな判断だ、金を溝に捨てる気か」と言われれば、「秋葉原が眩しかったから」と答えるより他にありません。
何れにせよ、いつの間にか秋葉原に戻っていました。
戻ってからは、K-BOOKSなどをうろついていました。
午後4時前、ソフマップ前で漢らしいゲームの宣伝を見かけました。
午後7時半、Hさんのご自宅に、バイトの終わったばかりのZさんと一緒にお邪魔しました。
突然お邪魔してしまいましたが、お夕飯などの温かいおもてなしを頂き、大変恐縮です。
帰りがけに奥様から、お弁当まで頂いてしまいました。
午後10時、秋葉原のネットカフェに入りました。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年2月22日の日誌です。
午前10時まで、秋葉原のネットカフェにいました。
午後0時半、赤羽にある、まるます屋に行きました。
うな丼、ゆば刺し、すっぽん鍋、かきふらい、を注文しました。それぞれ1200円、500円、750円、550円、でした。
以前はうな丼は750円だったのに、大幅に値上がりしていました。
ゆば刺しを食べても、某漫画の主人公のように、「京都を思い出」すことはありませんでした。
300円の岩海苔は残さなければならなくなるので、注文しませんでした。
いくらのどぶ漬けはありませんでした。
午後1時半から午後5時半まで東北本線に乗って、郡山に戻りました。
途中の久田野駅では、駅が修理工事中でした。
郡山駅の駅ビルは、花屋や土産物屋が入っているなど、都心郊外にある、例えば船橋や松戸などと、余り変わらない感じでした。
郡山の駅前にあるビルには、アニメイトが入っていました。
なかなか客が入っていました。品揃えもなかなか良いものでした。
アニメイトの一階↓には、ゲームセンターが入っていました。
ここにあったピカチュウのぬいぐるみは、南相馬の原町シーサイドパークにずっと放置されたままのものと同じものでしょうか。
郡山駅の隣のビルは、食品が置いてありました。郡山は物資が豊富です。
ビールも、サタンやシメイブルーなど、良いものが置いてあって、大変羨ましいです。
3枚目の写真にある寿司が、半額になるのを見計らって購入し、夕食にしました。
福島県産の苺が、かなり売れているようでした。
郡山駅の東口にも、長い歩道橋を歩いて行ってみました。
西口とは違い、タクシー乗り場、ビジネスホテル、コンビニがあるだけの、寂しい状態でした。
歩道のごく一部が壊れていましたが、補修は後回しのようです。
東口には、放射線量の測定器が置いてありました。1.171μSv/hでした。
郡山のネットカフェに行ってみると、夜のパックが午後9時からだったので、マクドナルドでそれまで時間を潰さざるを得ませんでした。
隣では、アニメイトが店じまい中でした。
午後9時半、ネットカフェに入って、23日午前6時半まで泊まりました。
「ナポレオン~獅子の時代~」を読んで、
「・・・こいつら、ゲームだと、使えるキャラは半分くらいなんだよなぁ」
と、妙な慨嘆をしました。
長谷川哲也先生は、仏だけでなく、英、墺、露からどんな評価を貰っているのか、気になるところです。
http://www.amazon.fr/exec/obidos/ASIN/2351000692/
http://www4.ocn.ne.jp/~davout/NapoFrench.htm
(転載終わり)
【801】[904]福島本部活動日誌です69
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年2月19日の日誌です。
朝起きて、ストーブの灯油を補給しました。
台所の水道が凍ってしまっていたので、シャワールームのシャワーで皿を洗わなければなりませんでした。
いつもの3倍ほど手がかかりました。茶碗も一つ割ってしまいました。
朝食は、ご飯、コロッケ、ラム肉を炒めたもの、鶏の水炊き、キャベツ、豆腐、でした。、
殆どはYさんが作って下さいました。
食後には、昨日100円で買ってきたケーキをお出ししました。
実は、皆食べ過ぎて、正午まで動けませんでした。
朝食後、Kさんはバグパイプを駐車場で吹いていました。
午前11時、夜にKさん達が東京に帰る際に、私も一緒に連れて行ってもらう事になりました。
急いで東京に行く準備をしたのですが、持っていくのを忘れたものが大量になりました。
午後0時10分から、動き始めました。
まずは川内村に行ったのですが、蕎麦屋、かわうちの湯、共に休みでしたので、何もすることなく戻るしかありませんでした。
蕎麦屋の駐車場には、雪が残っていました。
川内村役場は修理中でした。
午後1時15分、船引の仮設住宅に行きました。
集会場を尋ねてみると、仮設住宅に居る人が、震災の写真を展示していました。
Kさん達のイベントの話も、前向きに受け入れられているようでした。
ちょうど、カメラを持った人が来て、写真を展示していた人と話していました。どうも地元の新聞社の人のようでした。
集会場の脇には、テレビが置いてありました。羨ましいです。
集会場の壁には、神戸女子大学文学部教育学科から送られたメッセージが貼り付けられていました。
この大学入りたいです。(・・・なんだか変質者の様な発言に聞こえてしまいます。)
集会場の窓は2重になっていました。
三春町にある葛尾村の仮設住宅に行きました。
Kさん達の炊き出しイベントについては、対応したのが村の職員だったからか、あまり上手くいかなかったようでした。
村の臨時の建物には、固定資産税が免除されたという掲示がなされていました。
引越し支援車の無料貸し出しもなされているようでした。
ここの仮設住宅は、商店が一店、別の商店兼食堂が一店、仮設住宅の一角を使って営業していました。
食堂の近くには、床屋もありました。
ただ、食堂は今日は休みで、食べられませんでした。
商店の品揃えは、石井魚店をかなり立派にしたものでした。
駐車場には「災害支援車両」と書かれた軽トラックが一台置いてありました。
三春町にある別の仮設にも行ってみました。
運動公園の隣にあった仮設で、立派なコテージ群の空き地に出来ていました。
日当たりの悪い通路は、雪が殆ど融けずに残っていました。
ここはどこを訪ねればいいのか、わかりませんでした。
(←これは、仮設ではなく、コテージの方の画像です)
近くに「三春の里」という、道の駅とも温泉ともつかない施設があったので寄ってみました(http://www.miharunosato.jp/)。
ここは宿泊も出来るようでした。
食事処の建物は、干し柿がぶら下げられていました。
観光客なのか仮設住宅の住民なのか区別はつきませんでしたが、マイクロバスから人が大浴場に向かっていました。
水車は凍結して面白い形になっていました。
船引三春ICから高速道路に乗って、いわき経由で、広野町のJビレッジに行きました。
今回も迷い込んでしまい、どこがどこなのか分かりませんでした。
(←見にくいですが「日本サッカー協会」と書いてあります)
奥の駐車場には、東電の車や建設会社の車が駐車してありました。
ただ、ほとんどの車は、普通の乗用車に見えました。
クレーン車やクレーン付大型トラックが置いてあるスペースは別に作ってありました。
Aさんと大晦日に行ったときも思いましたが、浄水槽は大型でした。
東芝本部の横にある駐車場からは、作業員がバスに乗っている、と聞きました。
いわきの駅前にあった日本料理屋で夕食にしました。
ロシア語翻訳業界の過去について話されていたようですが、私にはよくわかりませんでした。
食後、高速道路で東京の池袋に戻りました。
午後11時30分、池袋でレンタカーをKさんが返却し、駅前でKさん達と別れました。
私は秋葉原に向かいました。
(転載終わり)
【800】[903]福島本部活動日誌です68
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年2月17日の日誌です。
朝起きると、2cmの雪が積もっていました。
それでも日中の日差しが強かったので、完全に融けました。
2時間くらいの対応で済みました。
建物近くで、雪の塊が融け残ったものが道路に飛び出ていたので、除去しました。
昨日に曜日を間違えて出してしまっていたプラスチックゴミを、一旦取りに戻りました。
ポリバケツで保管しています。
生コン車が増えました。時折、検問所方面を出入りしています。
午後5時半、燃料車2台が検問所の方から帰ってきて、399号線に入っていきました。
(←写真は昨日のものです)
(転載終わり)
(転載始め)
2012年2月18日の日誌です。
2週間経ってしまったので、かなりの情報を忘れてしまいました。
午前7時半、事前の連絡通りに、Kさん、Yさん、Kさん、が来ました。
朝食として、ご飯、もずく、あさりの佃煮、ラジウム卵、をお出ししました。
インスタントの味噌汁は、水道が凍っていたので出せませんでした。
なお、2月19日の正午まで水道が出ませんでした。どういうことだったのか分かりかねます。
朝が早かったようで、2時間の仮眠を皆で取りました。
10時半くらいの外の天気は、晴れながら吹雪いていました。
11時に事務所を出て、都路を案内しました。
検問所、石井魚店、体育館、小学校、中学校、の順に案内しました。
石井魚店で明日の食材を買いました。
体育館で見張りの人に、入り口付近に近づかない様に言われました。
小学校の崖を崩す作業は更に進んでいました。
中学校の途中にある、建設中のはずのヘリポートは、雪で状況が良く分かりませんでした。
中学校はショベルカーが入っていて、平日は復旧工事をしています。
大きく損傷していた徒歩での通学路は、青いビニールシートがかかっていました。
また、応急処置で作ったと思われる仮の排水路は、埋められてなくなっていました。
399号線を北に向かい、津島に行きました。
途中の道路では、タヌキの死骸をカラスが食べていました。
津島の検問所から先には入れなさそうだったので、津島中学校に行ってみました。
なお、ここあたりで大成建設が「除染モデル事業」というものをしているらしいですが、どこなのかは分かりませんでした。
津島中学校の空間線量は1.69μSv/hでした。地面の線量は13.01μSv/hでした。
津島中学校は校庭に土嚢が大量に積まれていました。除染した土を置いているのではないでしょうか。
(土嚢の側で線量を測ったのですが、低かったです。空間線量と変わりませんでした。)
399号線で北に向かう途中、人がいて、話を聞けました。
「富岡町の町長は、6億金庫から裏金が出てきた」
「佐藤雄平現知事は、原発建設の際に、建設予定地を先に買い占めることで金を得た」
「川俣の仮設住宅のあたりは、何十人もストレスで死んでいる」
「戦時中の機銃掃射の方が怖かった(←?、放射性物質の方が、見えないから怖い、と言っていたかもしれません)」
「この先の399号線は本当に線量が高いので、君たちのような若者は行かない方がいい」
と言っていました。
ただ、訛がこれ以上ないほどにきつく、言っていることの半分もわかりませんでした。
少し先に進むと、車内の線量が4.30μSv/hに上がりました。
399号線を先に行くと、車内の線量が10μSv/hのところがありました。
ここの空気中の線量が17.68μSv/hでした。
ここの地面の線量が32.65μSv/hでした。
もう少し崖側の線量が60.72μSv/hでした。
浪江町と飯館村の境界線付近で測ってみました。
空間線量が10.02μSv/hでした。
そこの地面が29.01μSv/hでした。
また、そこの雪の上は6.46μSv/hと、空間線量より低くなりました。
飯館村長泥の十文字には掲示板が拡張されていて、各地の線量測定や長泥の過去の測定の結果が貼ってありました。
(←この細かい数字は、写真で撮ったものでは、結構詳細に読めました)
赤いビニールテープは、雪の影響か、白くなっていました。
飯館を更に北上すると、清涼飲料水の自動販売機で、地元の人がジュースを買っていました。
Kさんが声をかけましたが、「冷やかしですか?」と冷淡な反応が返ってきました。
ここからもう少し先に行くと、車がやや通っていました。実際、「渡部自動車」は営業しているように見えました。
このあたりは、車内で0.83μSv/hでした。
また、近くの民家にはのぼりが立っていました。
川俣町に行きました。
街の中心部にあった、休憩所兼町の物産置場では、子供達の写真の展示が行われていました。
川俣町体育館脇に出来ていた仮設に行きました。木造の仮設が40戸ありました。
つららが出来ていました。
集会所に行ってみると、担当者(自治会長)は農林広場の仮設住宅にいる、と言われました。
集会所の脇には雪が多量に残っていました。
農林広場の仮設住宅は、プレハブ型のコンビニが出来ていました。無料送迎バスも走っていました。
プレハブ型の仮設住宅で、丁度テープで空いている穴の部分を塞ぐ作業が行われていました。
農村広場の自治会長の仮設に行って連絡を取ると、集会所で話すことになりました。
Kさん達のイベントは、前向きに受け入れられました。細かい詰めは、別に電話等で行うようです。
自治会長は
「川俣町の山木屋は、他の仮設に比べると、明るい。川俣町で仮設に入っているのはごく一部で、恵まれている」
「東京からわざわざ来てくれて、炊き出しのイベントなどをしてくれるとか、本当にうれしい」
「こういったイベントなどで、全国からいつも色んなことで支援してもらうばかりで、申し訳なく思っている」
「みんなの色々なこれからの予定や生活設計が、あの原発事故以来台無しになってしまった」
と言っていました。
自治会長から別の仮設住宅の場所も聞かせてもらい、その仮設にも行ってみました。
しかし、そこの集会場は留守でした。
なお、奥にある仮設で、雪融けが非常に悪かったです。
また、「サウジLPガス災害支援基金」の表示がプレハブ型仮設住宅の目立つ所にありました。
川俣町の道の駅に寄りました。
中には、神戸から福島に送られた折り紙がありました。
名物らしい、かりんとう饅頭もありました。
私は半額になっていた豆腐を200円で購入しました。
川俣の中心部で、親子丼を食べて夕食にしました。
ケーキ屋では一個100円でケーキが処分されていたので、9個全部買いました。
その他に明日用の鶏肉なども買いました。おまけでコロッケがつきました。
都路の事務所に戻る途中で、船引のダイユーエイトに寄らせてもらって、半額の肉類を購入しました。
帰ってから冷凍庫に入れました。(味を考えれば冷凍は余りお勧めできることではないですが、私の料理だから、まあいいかな・・・と思っています。)
事務所に帰った後、私は疲労ですぐに寝てしまいました。
明日は船引の仮設住宅を回るそうです。
(転載終わり)
【799】[902]福島本部活動日誌です67
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(転載始め)
2012年2月12日の日誌です。
朝起きて、
「・・・船引のスーパーで4or5割引の豚肉を買って冷凍保存しておくのと、石井魚店で冷凍に近い状態の豚肉を買うのでは、どちらの方が得なのだろう」
と、妙なことを考えましたが結論は出せませんでした。
疲れが抜けていなかったのだと思います。
ちなみに両者の購入価格はほぼ同じです。
ずっと、雪かきというよりは、雪を陽の当たる所に移動させています。
建物の裏口がアイスバーン状態でしたが、やや改善されました。
288号線側は、ずっと雪が残ってしまいそうです。
外風呂のある崖側の方は、放って置いても雪が溶けるのですが、どうも水道管の凍結に関係しているようなので、一番注意が必要です。
駐車場は、陽当たりがいいです。ただ、車の陰とやきとり天国の建物の陰はほとんど融けません。
夕食は、蕎麦、蕎麦湯、鍋、牛肉と野菜を炒めたもの、でした。
余り物を使って料理するのは、やっぱり難しいです・・・。
陸前高田の写真をしばらく見ていました。
http://blog.livedoor.jp/rbkyn844/archives/5155955.html
時間ができたら、経済産業省前のテント(http://tentohiroba.tumblr.com/)に行ってみたいです。
どういう風な考えの人達なのかはわかりませんが、話を聞くだけ聞いてみたいです。
13日午前1時、警視庁の人が車を見ていました。その後、事務所を訪ねて来ました。
空き巣の見回りをしているそうです。ここにずっといることを伝えたら、すぐに帰りました。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年2月13日、14日の日誌です。
13日、14日、共に同じように過ごしていました。
2月5日の日誌を書いていたのですが、どうしても終わりません。
日誌で力尽き、何もしていないに等しいです。
しかも日誌の出来は、かなり悪いです。
ややスランプに近い状態なので、一回大きく休みます。
13日、14日で、蕎麦、蕎麦湯、ジェノベーゼのスパゲッティ、鍋、茹でたブロッコリー、ヨーグルト、煮干し、とろろ昆布、を食べました。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年2月15日の日誌です。
午前3時50分、検問所方面に車が走っていきました。
今日は暖かかったです。
午前9時に、車の一団が399号線を右折して、検問所に向かっていきました。
車の種類は前から順に、プリウス、Jリムーバーと書かれた車、燃料車2台、クレーン車、でした。
裏口の凍結していた氷を除去しました。これで一安心出来ました。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年2月16日の日誌です。
午前9時25分、昨日と同じJリムーバーと書かれた車が検問所に向かっていきました。
燃料車3台と作業車を載せたトラックと一緒でした。
明日は雪の予報なので、日当たりの悪い所にある雪を動かしました。
昼食は、ジェノベーゼのスパゲッティでした。
夕食は、鍋、蕎麦、でした。
最近は同じものばかり食べている様な気がします。
ひと段落したら、会津の仮設の状況も見てみたいです。
(転載終わり)
【798】[901]福島本部活動日誌です66
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年2月7日の日誌です。
雪かきを6時間しました。
昨日と今日の雨のお陰で、氷の塊を動かせるようになっていたので、日当たりが悪く凍結している氷を動せました。
その分5日、6日の日誌が進みませんでした。
今日も雪ではなく雨が降っていたので、雪融けが進みました。
明日からの再凍結がどうなるか心配です。
昼食と夕食はリオンドールで買ってきた半額の食べ物と福島駅の売店で売っていた玉子でした。
サンドイッチ、牛乳寒、さんまの蒲焼、ワンタンスープ、ラジウム玉子、サラダ、でした。
昨日の朝食の酷さを、これで忘れることが出来た・・・と思いたいです。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年2月8日の日誌です。
前に注文した寝袋が使えそうだったので、更に5個注文しました。
明日から雪が再び降る予報なので、雪を動かしました。
写真を整理しているのですが、200枚ほどでダウンしました。
明日は何枚できるでしょうか。
夕食は、鍋、温泉玉子、生のピーマン一個、でした。
鍋には駄目になりそうな野菜や筋子などを入れました。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年2月9日と2月10日の日誌です。
500枚の写真の整理がようやく終わりました。
一寸いま頭がおかしいです。寝て回復させます。
9日は天気が良いのに、吹雪いていました。
9日の夜から雪が降り出し、少しだけ積もりましたが、10日は日差しが強かったので融けました。
日当たりが悪い場所の雪は掃き出しておきました。
9日は何も食べませんでした。
10日は、鍋、Nさんから頂いたマカロニを茹でてジェノベーゼを乗せたもの、豚ハツを焼いて塩胡椒をしただけのもの、ヨーグルト、を一日中かけて食べました。
写真の整理をし続けるために、なんでもいいから食べ物を机に置き、それを出来るだけゆっくり食べました。
なんか体に悪そうです・・・。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年2月11日の日誌です。
洗濯をしましたが、来客があったので、干したのは午後6時になってしまいました。
午後2時、会員のHさんが来ました。いわきの人で、船引の親族の家に立ち寄ったついでに訪問したそうです。
昨年10月10日にも都路にいらした人です。その時は私は留守でした・・・。
お米と白出汁と佃煮を頂きました。大変有難く頂戴します。
お茶とチョコレートをお出ししました。
簡単に体育館を案内しました。
公民館前駐車場には、大宮ナンバーと長岡ナンバーの車がありました。
南相馬に行った時、Nさんが「作業員は全国から来ているようだ」と言っていたのを思い出しました。
夕食は、蕎麦、鍋、でした。
冬に食べる蕎麦が旬らしいと聞きました。ただ、自宅で茹でるレベルの蕎麦ですので、そんなことを気にすべきではないです。
(転載終わり)
Hさま、頂きました佃煮は、大変美味しく頂戴いたしました。
もう一個の方は、先生がお好きだと思うので、仕事場に持って行って食べるんじゃないかな・・・と思います。
【797】[900]福島本部活動日誌です65
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年2月6日の日誌です。
2月5日の日誌は、写真が530枚ほどあるので、遅くなります。
ホテルで寝るのに失敗しました。ほとんど寝られませんでした。
朝、原ノ町駅付近を、高校生が歩いて登校していました。
午前7時に朝食を食べにホテルの食堂に行きました。
普通の女性客も来ていましたが、会話から考えると原発の作業員と思われる人達10人ほどが、固まって食事をしに来ました。
「朝6時半に出ないと(不明)に間に合わないじゃないか」等と、仲間同士でじゃれあっていました。おかずの交換等もしていました。
山川純一先生の様な妄想はしませんでしたが、妙な気分になりました。私の背後の方での出来事で良かったです。朝から濃いものを見せられました。
なお、残念なことに、このホテルの朝食は、非常に不味かったです。私が不味いと言うのですから、どれほどのものかお察し下さい。
原発作業員が客の主だったものになってから食事がこうなったのか、それとも、最初から酷い食事だったのかは判断できませんでした。
(写真では酷そうに見えないかもしれませんが・・・)
午前8時15分にホテルをチェックアウトしました。ホテル脇には、わずかに雪が残っていました
いわき市で歩いてから左足が痛くなっているので、無理せずに南相馬市の図書館で休もうと思っていたのですが、行ってみたら休館日でした。
帰ろうかと思い、バス停に行って見ると、前の福島駅行きバスは午前7時に出発してしまっていました。
次のバスは、当初から予定した午後2時の便までありませんでした。
仕方が無いので、原ノ町近辺を徘徊しました。あわよくば、昨日行った渋佐海岸の近くまで行ければいい、と思っていました。
駅の近くにレオパレスの真新しいアパートがありました。
原ノ町駅には、原ノ町~相馬間の列車運行再開を祝う表示がありました。
南相馬市原町区付近は、普通の日常が過ぎているように思われました。
原ノ町駅付近は閑散としていましたが、午後になると高校生たちがいました。焼き鳥屋などに立ち寄っていました。
原町第二中学校は、教職員が校門でタバコを吸っていましたが、生徒は来ていないようでした。
第一生命は普通の民家に入っているようでした。
原子力事故救護NGOの車がありました。
県道12号線と国道6号線は通行量が多かったです。
おそらく検問所の交代に向かう機動隊車両が一台だけ県道12号線をとおりました。また、神奈川県警のパトカーが警戒で巡回していました。
海岸線沿いの上の辺りをヘリが飛んでいました。
南相馬の道の駅は、誰も人がいませんでした。ボランティア歓迎の垂れ幕がかかっていました。
南相馬市立総合病院の横を通りました。
総務省から出向している副市長が医師に送ったメールの問題で取り上げられた病院です。
http://medg.jp/mt/2011/12/vol35012.html
http://medg.jp/mt/2011/12/vol35122.html
運動公園を使って、仮設住宅が二箇所作られていました。
二箇所併せて100戸ほどでした。
半分ほどは使われずに空いているように見えました。冬で物が中にしまわれているから、その様に見えただけかもしれません。
南相馬市高見町第二仮設住宅の方は木造でした。
歩き回って疲れたので、午前11時に喫茶店に入って足を休めました。
なるべくゆっくり食べて、喫茶店の席が一杯になるまで粘りました。
喫茶店の扉には『「放射性物質を減らす食べ方」講演会』という張り紙がありました。
午後2時原ノ町駅前発のバスで福島駅に戻りました。
バスの中で寝られたので安心しました。
福島駅は、20分見ただけですが、県庁所在地らしく華やかな駅前でした。郡山や水戸、宇都宮と同じような感じの駅前でした。
気温が6.8度と大変暖かかったのに気づきました。
検察と税務署が近いところにあるのは偶然なのでしょうか。
アニメイト(というアニメグッズ等の専門店)も郡山同様にありましたし、住むのに不自由しない街の様に思いました。
福島駅の売店で「ラジウム温泉たまご」という商品を購入しました。
「セシウム温泉たまご」という商品があってはいけないのでしょうか。
店員さんにそう言ってみたところ、曖昧な営業スマイルを浮かべられてしまったので、すこし後悔しました。
郡山駅を経由して船引駅に戻りました。
船引駅まで戻ってみると、雨が降っていました。雪は融けるでしょうが、再凍結などの問題がありますので、良いことなのかわかりません。
バスで、船引駅から川代橋というバス停まで行きました。
それから急いでリオンドールで食料品を買い込みました。
豚肉等は冷凍して保管することに決めました。
リオンドール近くで建築中の住宅は、雨でも作業が続けられていました。
アパートで県の借り上げ住宅として使われている物件が一杯になっているらしいので、需要が足りないのだと思われます。
川代橋から古道車庫までバスで帰りました。
バスの中で一緒に乗った高校生三人のうち一人は、岩井沢小学校前まで行きました。家族で既に自宅に戻っているのだと思われます。
帰り道の途中で、旧街道の方は工事中でした。
古道車庫まで戻った後、歩いて帰りました。
途中の道が雪融によって凹凸が出来、危険になっていていました。
実際、一回転倒しました。頭だけは強打しないように気をつけたいです。
帰ってきてから、固まっている大きな雪を退かしました。
それからレシートを整理しました。
夕食はリオンドールで買ってきた出来合いのものでした。
サンドイッチ、牛乳寒、サラダ、でした。
全て半額の商品です。これらを1週間かけてゆっくり食べたいです。
小さなムカデの遺体が大広間にありました。
トイレの排水口付近が凍っているので、滑りやすくなってしまっています。
(転載終わり)
【796】[899]福島本部活動日誌です64
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年2月5日の日誌です。
どうしても写真が多くなってしまいますこと、情報量が多くて茫洋としか書けていませんこと、ご寛恕下さい。
今日は一日中Nさんにお世話になりっぱなしでした。
午前6時40分に起きて、急いで支度をして、午前7時のバスに乗りました。
道の途中で、民家に止まっている自動車は、雪が降ったときのためにワイパーを上げているものが多かったです。(後日、私も上げました。)
リオンドール近くの空き地では、アパートが建築中でした。
県の借り上げ住宅は一杯らしいので、需要に応じるために急いで作っているのでしょうか。
船引駅には、岩井沢小学校の社会化見学のお礼の張り紙がありました。
船引駅から電車で、郡山経由で福島駅に行きました。
東北本線から見える会津側の山は険しかったです。
9時25分に福島駅に着いた後、急いでバス停に向かいました。
途中にアニメイトの看板がありました。これだけで大変魅力的な街に思えてきます。
原ノ町駅前行きのバス停では、15人ほどが待っていました。
9時45分発のバスで原ノ町駅前に向かいました。
バスで酔いました。山の上から低地へ降りていく過程で、吐きそうになりました。
午前11時20分に原ノ町駅に到着しました。福島交通のサイトには所要時間が1時間50分と書いてありますが、道路の混雑を考慮した時間のようです。
(帰りにかかった時間も1時間30分でした。)
図書館が駅前にあったので、思わず入ってしまいました。
大変立派な図書館で、都内にある図書館と比べても遜色の無い、洒落ているものでした。
喫茶店も館内に併設されていましたが、営業はしていませんでした。
図書館の原発特集コーナーを回って見ていると、Nさんから携帯に連絡が来ましたので、原ノ町駅に戻って合流しました。
まずは、Nさんに車で渋佐海岸に連れて行って貰いました。
途中にあった2軒の民家は修理するようです。
海岸まで行く道路は、舗装し直されていました。
7月時点では剥がれている箇所が多く、通行するのが大変でした。
もちろん、土台だけが残っている家と、畑に瓦礫が集められているのが殆どでした。
渋佐海岸は以前より、かなり片づけられていました。
分別された瓦礫が小山となって積まれていました。ただ日曜だったので、重機を使っての作業は行われていませんでした。
瓦礫の脇に、流されてきた船がありました。
長距離にわたってパイプを設置中のところがありました。水道か何かを通すのでしょうか。
渋佐海岸の海岸部は、黒い土嚢が防波堤の代わりのようなものとして置いてありました。また、そこは仮の通行路にもなっていました。
防波堤は、ごく一部が取り壊されずに残っているだけで、残骸が少しあるだけでした。
以前は、このコンクリートブロックの土台の上に防波堤があったはずです。
コンクリートブロックも所々に破損がありました。
砂浜は小石や中型の石が混じっていました。防波堤の残骸や木片もありました。
ごく一部残されていた防波堤は、このまま使用するのか、それとも取り壊すのかわかりません。
ただ、後ろから見た限り、やはり取り壊すのではないかと思います。
なお、夏の頃は壊れた防波堤の後ろは、大きな水溜りになっていました。
(←壊れた防波堤を横から撮った写真です)
(←壊れた防波堤を後ろから撮った写真です)
(←壊れた防波堤を後ろから撮った写真です)
(←壊れた防波堤を後ろから撮った写真です)
海岸に近い道路は、今でも一部陥没しています。それでも夏よりはずっと通れるようになりました。
また、ごく一部ですが、今でも海岸に近いところでは水溜りが残っています。
砂浜近くから帰るときに、私たち同様に海辺を見に来た人がいました。
渋佐海岸に廃車が整理して並べられているところがありました。
新しくアスファルトを引いて、その上に置かれていました。
概算ですが、ボロボロの廃車は300台ほどです。
普通の乗用車は勿論、クロネコヤマトのトラック、郵便局の車、消防車、トラクター、などもありました。
近くには、水が溜まっているビニールの池がありました。ここに陸地に溜まった水を溜めて排水していたのかもしれません。
原町シーサイドパーク(http://seasidepark.heteml.jp/2011/04/post.html)に連れて行って貰いました。
原町火力発電所の脇です。なお、Nさんの話によると、原町火力発電所は来年再開予定とのことです。
途中の道にも瓦礫の集積場がありました。
瓦礫置場は、「洗浄所」「金属くず」「木質系」「コンクリートくず」「土砂混じり(混合)」の5つに分けられていました。
途中の道では田畑に電柱が倒れていました。
流されたガードレールは、反対側のガードレールに引っかかっていました。
交通標識の右下が凹んでいました。これは、いわき、相馬、でも同様でした。
原町シーサイドパークは、渋佐海岸とは違い、まだまだ片づけられていませんでした。砂浜に瓦礫が残っていました。
海水浴場のタイルが5分の1ほど剥がれていました。
(←剥がれた所に書かれている25という数字は、剥がれたタイルの数を数えて書いた数字と思われます)
上の方のタイルにも被害が出ていました。その隣はタイルが崩落していました。
また、そこを越えた下のところが水溜りになっていました。他の所には水溜りはありませんでした。
タイルがほぼ全て剥がれて、その上に大きな岩が乗っている箇所がありました。
シャワー室は、水道管が剥き出しになっていました。入り口の洗面所は海の方に流されていました。
シャワー室内部にはコンクリートなどの瓦礫が入り込んでいました。復旧は相当先になるのではないでしょうか。
水門だったような所もありましたが、今は用を成していません。
隣にあった建物はご覧の有様でした。
原町火力発電所内の敷地には、多数のドラム缶と瓦礫が置いてありました。
(←瓦礫が敷地内にある写真ですがわかりにくいかもしれません)
発電所前の川は、手摺りが激しく壊れていました。川に添って津波が陸地を溯って行ったように見えました。
(後でNさんが、「原町火力発電所で働いている人がいるけど、勤務中に目の前で同僚が流されたと言っていた」と言っていました。)
原町火力発電所の脇の崖に立っていた木は、津波の影響で根元しか残っていませんでした。
その隣の崖は、コンクリート壁が剥がれていました。
原町シーサイドパークから国道6号線に向かいました。
かなり奥に入った方に、まだ水が引いていない所がありました。
ここ辺り(多分海まで1.5kmほど)まで津波が来たので、信号がついていませんでした。また、船が放置されていました。
国道6号線沿いのラーメン屋で昼食にしました。量が多かったです。
(2店舗並んで営業しているのですが、席数が多いので、大人数で入っても大丈夫そうです。)
高速道路の建設現場に連れて行って貰いました。
Nさんによると、警戒区域内も、この高速道路は工事が進んでいるらしいです。
ダンプカーが頻繁に行き来していました。
中ではショベルカーが動いて、作業をしていました。
少し奥にはセメント工場のような施設ができていました。
相馬港に連れて行って貰いました。
途中に千倉の仮設住宅がありました。
相馬港の隣には、新地火力発電所とゴミの持ち込み場がありました。
ゴミの持ち込み場にも、廃車がまとめて置かれている所がありました。
そこには壊れてしまった、ガードレール、自販機、タンク、コンテナ、鉄柵、などもありました。
上の写真には「662」という数字が見えますが、廃車は大体1000台弱ありました。
入り口近くの木は、立ってはいましたが、途中から折れていたり、へんな立ち方をしていました。
相馬港では、電線の一部が切れていました。
近くの建物は大きく損壊していました。
入り口前交差点の信号はついていませんでした。
側溝や排水溝は、蓋が外れているところに泥や道路の破片が入っていました。
(←これはかなり海の方です)
信号のある辺りや、中には、意外と新しいビールの空き缶が落ちていました。
相馬港には大量の新しいテトラポットが置いてありました。
貨物船が停泊していて、アスファルトの原料と思われるものが大量に置いてありました。相馬港は再開したらしいです。
アスファルトの原料と思われるものが積んである辺りは、進入禁止になっていました。
また、そのあたりの道路はかなり劣悪になっていました。
港の先のほうでは、クレーンが動いていました。
やや奥の方に入りました。交通標識が根元から折れていました。
もう少し奥で、倒れていない交通標識もありました。
盛り上がった所は、津波の影響で地面が削れていました。
道路の脇には、流されたコンテナがそのままになっていました。
コンクリートの大きな破片がまとめて置いてありました。
埠頭では、瓦礫をやや小さめの船に積み込んでいるようでした。
岸壁の工事が行われていて、10月5日までと表示されていました。実際、埠頭で大きく陥没している所がありました。
港の倉庫は、建物が半分ほどなくなっていました。それでも屋根は残っていたので、中に鉄管などの資材が置いてありました。
倉庫脇の交通標識や街灯の柱は倒れていました。
相馬の以前の映像は以下で見られます。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14164259
松川浦マリーナに連れて行って貰いました。
松川浦マリーナへの途中の道路は修理されていました。
ですが、その脇の民家は、かなりが土台しか残っていませんでした。
少し高台の所にあったので、被害を受けていない家もありました。
松川浦マリーナ入り口は、近くで郵便局がプレハブの形で営業しているようでした。
入り口にある信号は新しくなっていました。
すぐ近くの民家は補修中でした。
松川浦マリーナは、護岸の一部が大きく陥没していました。そこから海水が入らないように、土嚢が積まれていました。
(40隻くらいの?)かなりの数の船が陸に上がっていました。
津波で上がったのか、修理のために上げているのかはわかりませんでした。
おそらくですが、津波で陸に上がってしまったものを、車が通れるように退けた状態だと思います。
いくつかはスクリューがなくなっていました。船底に穴が開いているものもありました。
護岸には使用可能と思われる小型船舶が並べられていました。
建物は大きく破損していました。
バンダイマリーンの車が来ていました。
奥では測量が行われていました。
無理を言って、松川浦大橋に連れて行って貰いました。
行く途中にあった水産会社の建物は一階が鉄筋だけになっていました。
港湾そばの倉庫群があったと思しき場所は、土台だけになっていました。
橋の入り口の交差点にある信号は新しくなっていました。
松川浦大橋付近には大きなコンクリートの残骸がありました。
船の残骸や岩が分別されて置かれていました。
プレハブ型倉庫が大量に港湾に置いてありました。
崖の岩肌は津波で削られていました
橋の手摺りが破損している箇所から考えて、二つある線の下の高さの所まで、津波が来たのだと思います。
しかし、松川浦大橋は立入禁止でした。
橋の根元の道路は、何かで強く削れていました。
松川浦大橋はyoutubeの動画でご覧になった方も多いのではないかと思います。
http://www.youtube.com/watch?v=Hr2pd3BbT8M&feature=fvwrel
http://www.youtube.com/watch?v=r4U0x8p-jGkの動画よりはずっと片づけられていました。
http://www.youtube.com/watch?v=BSbpCKUffoY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=fkmjXoILYto&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ibewcn1-mEI&feature=related
松川浦の動画は下のものもあります。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14169722
松川浦の旅館は、改修しながら営業している所が多かったです。
車も多く、客足もかなりあるようでした。
松川浦そばのガソリンスタンドは営業していました。
松川浦の奥の置くまで津波が来ていて、ガードレールが壊れていました。
相馬市のかなり内陸の畑に、船が流されてきたものがそのままになっていました。
おそらく2kmくらい内陸に入った所です。
(←見辛い写真です)
南相馬市原町に戻る途中でNさんが、
「反原発の団体の人達が南相馬に来ているが、おしゃれというかファッションっぽいらしい。地元の人は、彼らが完全防護で除染してるので、退いている」
と言っていました。
南相馬市原町に戻って、南相馬市放射線対策総合センターに行って見ましたが、人は居ませんでした。
短大脇の空き地を利用して、やや大きめのプレハブが設置されていました。
被災者支援なんでも相談会、というものをここでしているようでした。
これくらいのやや大きめのプレハブ型建物で物事が進むんだなぁ・・・と感心しました。
一番大きなスペースが被害・補償相談室兼会議室になっていました。
小さな部屋が、千代田テクノル、北里大学獣医学部、東北大学大学院農学研究科、福島大学、みなみそうま除染企業組合、不動産会社、電器工事店、放射能測定室、と割り振られていました。
駅前に戻ってから、無国籍料理屋に行って、夕食を食べました。
チーズフォンデュ、鳥の唐揚げ、パスタ、等を二人で頼んで5800円でした。
お洒落な、女の人が客として多く入っていた店だったので、私には場違いでした。
午後9時にホテルに入りました。
ネットには5700円と書いてあったのに、実際は6800円でした。チェックインの際の受付も余り良くはありませんでした。
しかもテレビは、衛星放送が映らないのにアダルトチャンネルを積極的に勧めてくるという困った仕様でした。
テレビには仙台の放送が多く入っていました。
6階が(しょぼいですが)外を展望できるお風呂になっていたので、2回入ってみました。・・・余り良くはなかったです。
Nさんからお勧めされていた別のもう一軒のホテルの方が良かった・・・と、結構後悔しました。
カメラの充電をして、ベッドに入りました・・・が、なかなか寝られませんでした。
(転載終わり)
【795】[898]「ギリシャはデフォルトしてない」ということに皆で決めたらしい。
SNSI研究員の根尾知史です。
ずるずると昨年から何か月も話し合われてきたギリシャ債務危機に対して、
ついに結論が出たようです。
国際スワップデリバティブ協会(ISDA)ののヨーロッパ側であるEMEA
(欧州・中東・アフリカ)決定委員会が、「ギリシャはデフォルトしてない」
と無理やり結論したようです。
ギリシャ国債のデフォルト(債務不履行)によって、その損害を補償する
保険商品である「CDS(クレディット・デフォルト・スワップ)」を大量に
保有して、ギリシャ国債の破綻(デフォルト)で支払われる保険金で、
リーマンショック以来の「一発逆転」の大儲けしてやろうと狙っていた
アメリカのロックフェラー(シティバンク)系のヘッジファンド勢は、
これに対して、まだ何らかの抵抗を仕掛けるのでしょうか。
先月2月27日には、アメリカの最大手格付け会社S&P社(スタンダード
・プアーズ)が、ギリシャ国債を、「SD(=選択的デフォルト、Selective
Default)」という格付けに、格下げをしています。
<参考記事>
●「S&P、ギリシャを選択的デフォルトに格下げ」 ロイター 2012年2月27日
http://jp.reuters.com/article/jp_eurocrisis/idJPTYE81Q06N20120228?pageNumber=1&virtualBrandChannel=0
この格付けを決定したのが、S&P(スタンダード・プアーズ)という、
同じ米ロックフェラー資本の配下にある格付け会社であるところが重要です。
米系ヘッジファンドからのプレッシャーか、あるいは<コンスピラシー
(共謀=共同謀議)>があったのかもしれない。
しかし、結局、ヨーロッパもECB(欧州中央銀行)がじゃぶじゃぶと
ユーロをまた5295億ユーロ(約57兆1900億円)も増刷して、昨年から
総額1兆ドル近い「公的資金(つまり税金)」のユーロを市場(銀行)に
供給して救済することを決めてしまいました。
だからこれで、ギリシャもスペインも、PIIGS諸国もすべて、ユーロの
救済資金の洪水で水浸しにして、ヨーロッパの銀行たちには、無理やり
ギリシャをはじめとするPIIGS諸国の国債の減額(53.5%、実質では
約74%!)も削減をのませて、借り換えや新規の買い取りをさせて、
「はい、デフォルトは起きませーん!」という、八百長金融バクチの
清算処理を、アメリカもヨーロッパもみんなでやることしたのでしょう。
だから、「ユーロ崩壊」など起こらないのです。
(転載貼り付け始め)
●「ギリシャの債務再編はCDSの信用事由に当たらず=ISDA」
ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 2012年 3月 2日
http://jp.wsj.com/Economy/Global-Economy/node_401505?mod=WSJFeatures
【ロンドン】国際スワップデリバティブ協会(ISDA)のEMEA(欧州・中東・アフリカ)
決定委員会は1日、ギリシャ国債に関するクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)
の支払いが発生することはないとの結論を下した。ギリシャは先週、民間債権者
に損失の受け入れを強いる法律を成立させていた。
ISDAのEMEA決定委員会はこの日、匿名の市場参加者によって今週提起された
「信用事由(クレジットイベント)」をめぐる2つの問題点で投票を行った。
いずれの点についても、15人から成るEMEA決定委員会の投票結果では、
信用事由が起きてはいないという見方が満場一致で示された。
27日に提起され、28日に受理された最初の争点は、ギリシャ法に準拠する国債に
付与された集団行動条項(CAC)が信用事由に当たるという見解に基づいたものだった。
1日に持ち上がった別の争点では、「満期や予定の償還期限に支払われる
元本や利息の減少」を導くギリシャと一定の民間債権者の間の債務交換計画が、
すべての国債保有者に対して拘束力を持つことは「リストラクチャリング
(債務の条件変更)信用事由」に相当するか否かが問われた。
EMEA決定委員会は、ギリシャの状況が依然として流動的であると強調。
信用事由が起きてはいないという今回の判断は、ギリシャの債務再編進行に
伴う今後の問題提起を阻むものではないと付け加えた。
CDSは国債や社債の保有者が発行体のデフォルト(債務不履行)に備える
保険の一種で、債務再編や、表面利率(クーポン)の支払いあるいは元本の
返済不能、破産となった場合にCDSの支払いが発生する。
米証券保管振替機関(DTCC)によると、ギリシャ国債に対するCDSの残高は約32億ドル。
ギリシャ政府と公的債権団の欧州連合(EU)と国際通貨基金(IMF)が1300億
ユーロの支援策で合意する傍ら、ギリシャ国債の民間保有者らは先週、
53.5%の元本減免を含む債務再編計画に合意した。
(ダウ・ジョーンズ)
(転載貼り付け終わり)
そしてこのあとの記事では、「ギリシャの債務削減を支援し、ギリシャ国内
銀行の資本を増強し、債務削減にユーロ圏が寄与するために欧州金融安定化
基金(EFSF)が債券を発行するという一時的メカニズムを認める」という
声明も発表された、と書かれています。
どんな手段を使ってでも、ユーロ資金をじゃぶじゃぶに増やしてギリシャに
手当てするということです。
これまで、ギリシャ救済策について強行に反対していたドイツやフィンランド
の財務大臣たちの態度まで、やわらいで協力的になってきた感じです。
あとは、それぞれの国内の議論が、ギリシャの支援のために自分たちが
「増税」されて、苦しい思いをさせられるのはごめんだ、というのを抑え込むことが
できるかどうかが争点になってくるのでしょう。
(転載貼り付け始め)
●「EU、ギリシャ救済策の最終決定は来週に持ち越し」
ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 2012年 3月 2日
http://jp.wsj.com/World/Europe/node_401612?mod=WSJWhatsNews
【ブリュッセル】ユーロ圏の蔵相は1日、ギリシャの債務削減を実現し、
同国銀行を支援するための金融インセンティブを承認した。
ただ、同国向けの総額1300億ユーロ(14兆円)の第2次救済策の実行は
ギリシャと民間債権者との間の債務削減交渉がまとまるまで待つこととした。
ドイツのショイブレ財務相は電話会見で、第2次救済策の最終承認は
ギリシャの債務削減期限が過ぎたあと、来週になる公算が大きいと述べた。
同財務相は「検討しなければならない事項がまだいくつかあるが、
われわれは前向きの決定を下すことができ、その結果、債務再編に
必要な資金を提供できるだろう」と話した。
また、「削減の結果を評価したあと第2次救済策に基づく資金供給に
ついて決める。ギリシャは大きく進展している」と述べた。
ユーロ圏の蔵相はこれより先、ギリシャは必要とされる全ての立法措置を
実行しているとし、ギリシャの債務削減を支援し、ギリシャ国内銀行の資本を
増強し、債務削減にユーロ圏が寄与するために欧州金融安定化基金(EFSF)
が債券を発行するという一時的メカニズムを認めるとの声明を発表した。
しかし、ユーロ圏は、債券の発行と第2次救済策の提供の最終的な承認
には債務削減を成功裏に完了させ、欧州委員会、欧州中央銀行(ECB)、
国際通貨基金(IMF)のトロイカによるギリシャの債務再編への最終評価が
出ることが必要だとしている。
フィンランドのウルピライネン財務相は、第2次救済策を得るためのギリシャの
措置に「私自身、それに私の全ての同僚は非常に満足している」と述べた。
ユーロ圏の財務相は1日午前、ブリュッセルでベニゼロス・ギリシャ財務相の
説明を聞いた。ウルピライネン氏によると、ユーロ圏財務相間で来週、
電話会議の開催が予定されており、ここではベニゼロス氏が債務削減に
ついて詳細を説明することになっている。
また、ユーロ圏財務相の声明では、トロイカは今後数日中に、ギリシャの
これまでの施策について詳細な評価を行うという。
記者: Flemming Hansen and William Boston
(転載貼り付け終わり)
そして以下が、この「ギリシャはデフォルトしない」決議のあとの、今朝の
最新のウォール・ストリート・ジャーナルの記事です。
「これから、ドルが上昇してユーロ安になるだろう。覚悟せよ。だがこれは、
ヨーロッパ諸国にとって大変いいことなのだ」
という内容です。
このユーロもじゃぶじゃぶにするという国際的な決定に当たって、
「ユーロ安はいいことだ、輸出でなりたつ欧州諸国にとって恩恵である」
という世論を、これから作り上げる狙いかもしれません。
(転載貼り付け始め)
●「【コラム】債務危機でも対ドルで強かったユーロもここまでか?」
ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 2012年 3月 3日
http://jp.wsj.com/Finance-Markets/Heard-on-the-Street/node_402098?mod=WSJFeatures
欧州債務危機発生後もユーロがずっと対ドルで強かったことは、謎だった。
通貨当局者らは、そのしぶとさをこの単一通貨に対する信認として歓迎していた。
しかしここに来て過去10年来の平均値である1ユーロ=1.285ドルを優に上回る
1.32ドル近い水準は、欧州の景気回復の期待に妨げになっていたのも事実だ。
ただ、幸運なことにこの不思議な強さにようやく終わりが見えて来たようだ。
鍵は米国の景気回復だ。バーナンキ米連邦準備理事会(FRB)議長の今週の
米議会証言を、市場は量的緩和策を拡大する可能性が低くなっていることを
示唆するものと受け止め、ユーロは軟化し始めている。その一方で欧州中央銀行
(ECB)は今週第2回長期資金供給オペ(LTRO)を実施、1回目と合わせ融資期間
3年の資金を1兆ユーロ(約107兆7000億円)以上も供給し、さらに政策金利を1%から
下げる用意があることをうかがわせる緩和姿勢をみせている。米景気回復の
勢いが今後も強まり続ければ、ドルが他のリスク資産などともに対ユーロで
上昇し始める可能性は十分ある。
つまりユーロ安の条件が整いつつあるということだ。市場は米国金利の上昇を
予想し始めており、実際ユーロとドルのスワップ金利は縮小し始めた。ドル以外の
通貨に対してはユーロは既に落ちている。過去3カ月で対豪ドルで6.6%、
対ポーランド・ズロチで8.2%、南アフリカ・ランドに対しては8.4%それぞれ
下落している。スイス金融大手のUBSの予想では、対ドルでも年内に1.15ドル、
2013年はさらに下落するとみられている。
ユーロが下落すれば、ユーロ圏経済の競争力は上がるはずだ。UBSの推計では、
ユーロが加重平均で10%下落すれば、1年目に経済成長率を0.2%ポイント、
2年目はさらに大きい0.6%ポイント引き上げるという。さらに良いことには
債務危機でより深刻な影響を受けているイタリアやスペインなど南欧の国々が
ユーロ安の最大の恩恵に与りそうなことだ。ユーロ高でも輸出好調なドイツや
オランダなどの生産品と比べこれらの国の製品はユーロ安による競争力の
上昇がより大幅になる可能性が高い。
昨年だったら急激なユーロ安は債務危機を深刻化させ、ユーロ通貨そのものの
存続さえ疑問視させる結果になっていたと思われる。しかし、ユーロ安は
今や債務危機が作り出したさまざまな経済問題に救いの手を差し伸べそうだ。
そうなれば、大きな前進といえるだろう。
記者: Richard Barley
(転載貼り付け終わり)
いずれにしても、このように、この数ヵ月続いていた【ギリシャの救済劇】の
一連の動きは、どこを見てもこうした茶番の、八百長のごまかしで塗り固め
られているのです。
「ユーロ崩壊」だ「ギリシャのデフォルト」だなどと大騒ぎしている人たちは、
この欧米の巨大な<コンスピラシー(共同謀議、「陰謀」は意図的な誤訳)>
に踊らされているピエロか、あるいはその手先の「扇動家(アジテイター)」
をやっているということになります。
「ユーロ危機」や「ギリシャ危機」を<金儲けのネタ>にしていた欧米の銀行
やヘッジファンドの「片棒担ぎ」をやらされているという自覚を持たなければ
ならないのです。
そして、こんな欧米の博打(ばくち)打ちの巨大銀行たちを救済するために、
ヨーロッパやアメリカばかりでなく、私たち日本人の国民が納めた「税金」
が、「公的資金」という名のもとに、今もじゃぶじゃぶと、ヨーロッパ救済の
ために注ぎ込まれています。
この八百長の救済劇は、まだまだ、私たちの「税金」を吸い上げながらこれから
何年も続いて行くでしょう。
根尾知史拝
【794】[897]李白社のCDの一部を聞いた感想とまとめたこと2
「副島隆彦の学問道場」学生会員 会員番号7416番
加地 龍太(かじ りょうた)です。
以下「~だ。~である。」調にて、李白社が出した「日中殴り合い対談 副島隆彦vs石平」という三枚組みCDの第3部を聞いた感想と、簡単にまとめたことを記載します。
~日中殴り合い対談を聞いた感想と、簡単にまとめたこと~
第3部
~現在の中国の軍隊である解放軍(中国人民解放軍)~
中国軍、と略称されている現在の中国の軍隊の正式名は「中国人民解放軍」という。
中国人民解放軍とは、「中国共産党中央軍事委員会」という最高軍事指導機関の指揮下にある中国共産党の軍事部門である。
この中国人民解放軍の統帥権(軍隊の最高指揮権)には、法的根拠が何もないという。
上記の通り、「中国人民解放軍とは中国共産党の軍事部門」であるゆえ、
現在の解放軍の統帥権を握っているのは、中国共産党の上層部である。
このように、中国軍は「中華人民共和国」という国家が所有する軍隊ではなく、
「中国共産党」という一つの政党が所有している私的な軍隊であるということだ。
これはどういうことかと言うと、たとえば中国で政権交代が起こり、共産党から別の政党に政権担当機関が変わった場合、その新しい政党は現在の中国軍である中国人民解放軍を使用することが出来ないということである。
~中国の国民暴動~
反・中国主義者である日本の右翼言論人たちが、「中国の国民の不平不満が爆発して、その怒りの鉾先が全て共産党に向けられて中国は崩壊する」と唱えているようだ。
現実的に、中国の各地で国民の小規模な反政府運動は起きている。しかし、これらは共産党政府により何とか宥められて鎮圧されているのである。
恐らく、中国全土を引っくり返すほどの力を持つ国民暴動を引き起こせる革命家は今の中国にはいないだろう。
国民暴動(反政府運動)が起きているといっても、実際には高度な性能を持つ兵器を使用した運動ではなく、政府の建物に石ころを投げたりする程度のものだそうだ。
しかし、その国民の姿にこそ、真のデモクラシー(民主政治)がうかがえるとも思える。
中国の国民は、言葉は悪いが最貧困層の人々もしっかりと食が取れているという。
現状に対する不平不満も無論あるのだろうが、現在の中国国民たちは「自分も自助努力をして運を掴めば金持ちになれる」と思っているという。
不平不満の鉾先が政府に対する小さな暴動になるよりも、目の前の自助努力をして金持ちになるという前向きな方向に向かう方が聡明だと考える中国国民が多く出ているようである。(副島隆彦先生 著作「中国は世界恐慌を乗り越える」 参照)
「西部大開発」という経済的刺激活動もこれから始まってゆくがゆえに、中国は崩壊しないで存続し、次の世界帝国にきっとなってゆくのだろう。
~世界の権力構造の枠組み~
この世では、「金銭を動かす権力者」が一番強いことになっている。
なぜなら、何をするにも資金がなければ何も出来ないからである。
資金源無しで行なうことは、単発であり継続的ではない。こういう非継続的な運動は基本的に、社会的に大きな意味をなさず、大きな影響を及ぼさない。
無論、何かの小さな単発的な運動がきっかけになり、巨大な運動に発展してゆくというケースもある。だが、そういうケースの場合は、その運動の主導者に必ず資金源が確保されている。
何をするにも継続的な資金源がなければ長く続かないのである。
この「この世の自明の原理」に従い、現在の世界権力構造の頂点はウォール街である。なぜなら、地球上で最も大きな額の金銭を動かす権限を持っているからだ。
そのウォール街の金融財界人どもの頭目であるデイヴィッド・ロックフェラーという男が、世界の頂点であり、実質上の世界皇帝(バイタル・ワールド・エンペラー)なのであろう。
中国共産党も、ソビエト帝国が存在していたときはコミンテルンの中国支部だったのである。そして、コミンテルンをも「金銭の力」を以って上から使役したのが
ウォール街である。
世界が冷戦だったとき、同じ共産主義の国同士であったソ連と中国の関係が戦争勃発寸前まで悪化した。ソ連は中国との国境に自国の陸軍をずらりと配置して、いつでも軍事衝突しても良いという状態になっていた。中国は今にもソ連軍の全面総攻撃を受けそうになっており、非常に困惑していたようである。
そのときに、アメリカの外交官だったヘンリー・キッシンジャーが
・ スパイ衛星から撮影した写真の束(ソ連と中国の国境に配置されたソ連軍の動きを正確に捉えた地図)
・ 弾道ミサイル技術
・ 最新鋭偵察機の技術
を外交材料に持ってきて中国の毛沢東と交渉したという。
交渉内容は、「上記の三つを中国にくれてやるから、中国はソ連と手を切ってアメリカ側につけ。」というものだった。
これを毛沢東が受け入れ、それから後は中国は共産主義の国ではあったがソビエト帝国側ではなくアメリカ帝国側の衛星国になったということだ。(副島隆彦先生 著作「改訂版 属国・日本論」 参照)
冷戦に勝利したのは、アメリカ帝国である。ソビエト帝国はアメリカ帝国との覇権争いに敗北して壊滅し、消滅した。
それからは、アメリカ帝国こそが覇権国家であり世界帝国になったのだ。
そして今、そのアメリカ帝国が帝国の幕を閉じようとしている。そして、中国が次の世界帝国になるべく国力を増強している。
しかし、現在、地球上で最も大きな額の金銭を動かす権限を持っているのはウォール街の権力者たち(アメリカ帝国の最高権力者たち)だ。「デイヴィッド・ロックフェラー」の次のロックフェラー家の当主になる「ジョン・ダヴィッドソン・ジェイ・ロックフェラー4世」は連邦上院議員であるゆえ政治家だ。だが、ゴールドマン・サックス社の真のオーナーである。そのゴールドマン・サックスのCEOをやり、ジョージ・ブッシュ・ジュニア政権で財務長官をやったヘンリー・ポールソンという男がジェイの家来であり、そのヘンリー・ポールソンが次の中国の国家主席になる習近平(上海閥の政治家)を育てた師匠であるという。(副島隆彦先生 著作「世界権力者人物図鑑」 参照)
このように、アメリカ帝国の最高権力者たちの手下が次の中国の最高指導者になってゆくのである。
それゆえ、当分の間は(恐らく、ジェイ・ロックフェラーが生きている間は)中国帝国はアメリカの最高権力者たちの傀儡帝国になるのではないかと思われる。
習近平のみでなく、江沢民や曾慶紅などの上海閥の政治家はアメリカ帝国の権力者たちの家来である。曾慶紅を育てた師匠がポール・ボルカー(デイヴィッド・ロックフェラーの直系子分)だという。(「世界権力者人物図鑑」 参照)
やはり、最も大きな額の金銭を動かす権力者がこの世では一番強いことになっているのである。現実的に考えて、金銭がなければ何も出来ないのだから当然だ。
ちなみに、ウォール街の次の世界経済の中心地は「カザフスタン」だという。
その根拠は、「カザフスタンに現在のIBRD(世界銀行)の次の世界銀行になる予定の建物が建設されるから」ということだそうだ。(副島先生 著作「中国は世界恐慌を乗り越える」 参照)
このような大きな諸真実をもっともっと知りたいと望んでいる。
私が自分自身の独自の意見・主張を唱えるのは、まだ少し先のことになるのだろう。
だが、いずれはきっとそうなる。パナソニックの創業者「松下幸之助先生」も
京セラの創業者「稲盛和夫先生」も、自分で何か新しいものを独創したからこそ偉大なのだ。
副島隆彦先生も、「属国・日本論」という独自の理論を独創したからこそ世間に認められているのである。
私も、今まで誰もやっていなかったものを、いずれ自分で創り出す。
その独創したものが「新しい産業」であるか何になるかは判らないが、私が創り出した「何か」に世間で需要が認められれば、加地龍太の人生は意義がある。
それが出来ねば、はっきり言ってこの世に生まれた意味がないと思えてしまう。
だが、もしそれが天命ならば、私はそれで構わない。ただ酔生夢死するのも良しだ。
人間の生死は天命だ。志の途中で死ぬのなら、それが天命だと割り切るべきだ。
何かご意見がある方は私のアドレスにメールを下さい。宜しくお願いします。
加地 龍太 拝