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Loginはこちら【907】[1023]「子宮頸がんは性病」というのは、ばーちゃんも言ってました。
群馬のゆみこ(川端優美子)です。
【[1021]子宮頸ガンは性病】の石川満章さんへ、
そうらしいですね。露天風呂でおばあさんも言ってました。「子宮頸がんっつうのは、アレをしなきゃあ、ならないんだって」と。あんまり何度も言うので、おばさんが、「アレってなんだい、アレってさあ」と笑っていました。(このおばさんは「若い人がいるから、あんまりこういう話しちゃあ、あれだいね」と気を遣ってくれる、いい人です。)
その、「アレ」を連発していたおばあさんが、最近は性交渉を持つ年齢がどんどん下がっていて、小学生や中学生が「まだなんかい」と言い合っている、とか言うので、わたしは「ええっっ!!」と悲鳴みたいなのを上げてしまった。でもよく聞いていたら、テレビでそういうことを言ってるんだ、ということで、わたしは「なんだ、テレビか」と思いました。
そういえば、わたしが大学生で東京に行ったころ、「田舎のコのほうが性交渉を持つ年齢が低い」と、事情通みたいな友達が言っていました(どうやって調べたんかね、でも次の話は、ありそうな話だいね)。それは、雑誌やなんかで「東京では、高校生はみんな経験済み」みたいなことが書いてあって、それを真に受けた田舎のコが、遅れてはいけない、となってしまう、ということでした。
だめだよ、ばーちゃん、テレビを真に受けちゃあ。まーず、テレビや雑誌はどーしよーもないやね。電通だろ!
【906】[1022]鎌倉仏教のなぞを解く
鎌倉仏教の謎を解く 第7回
前回までは自由に書かせて頂きましたが、このペースでやっていくと収拾がつかなくなり、読者諸兄にも失礼に当たりますので、大体以下の論点にしぼっていきたいと思います。
ポイントその1 慈円の「愚管抄」が、他の歴史書とどういう点で異なるのか?予言する未来記としての歴史書。東アジアに広がっていた「想像の共同体」について。
ポイントその2 比叡山の仏教(最澄)の真の伝統と法然の選択念仏(せんちゃくねんぶつ)の違い・・・聖俗一如の最澄(慈円もその継承者)と往相・還相浄土の法然・親鸞の浄土門。親鸞の教えは日本のプロテスタンティズム(梅原猛氏)か、それとも日本の唯名論(吉本隆明氏)か?
ポイントその3・・・政治家慈円と宗教家親鸞の決別。親鸞の前半生の謎を解く。
政治と芸術と宗教が交叉する一点。親鸞の悪人正機の起源についての仮説。浄土真宗が認めたがらない諸諸の点。
ポイントその4・・・頼朝から実朝へ・・・鎌倉将軍の宗教的霊威の没落。頼朝の公武合体策はいかにして失敗したか。
(以下本文です。)
奈良国立博物館で「頼朝と重源(東大寺再興を支えた鎌倉と奈良の絆)」という特別展が始まったので、早速休日を利用して見て参りました。鎌倉仏教史のなかでも重要な出来事のひとつが、1195年の東大寺再建の供養式(のあたり)であると私は考えていますので、ちょうどいいタイミングだなと思い、行ってきました。伝・源頼朝の肖像画(一番有名なやつです。)、や重源の彫像をはじめとした、東大寺再建に重要な役割を果たした人物たちの肖像画のほか、再建に関する記事が書かれた古文書群(九条兼実の「玉葉」、東大寺所蔵の文書群)などが展示されており、見た甲斐がありました。(特別展は9/17まで)
ただ、予想した通り、大檀越(だいだんおつ、寺社に莫大な寄進をおこなった檀家さん)と呼ばれた源頼朝であるが、その莫大な東大寺への寄進はどうして可能だったのか、言い換えれば金はどこから出たのかということ、これについてはほとんど説明がなかった。
史実は頼朝が1185年に東大寺大仏の金めっき代として1000両出していたのに対し、奥州藤原氏の秀衡(ひでひら 三代目)は金5000両を寄進している。ここまでは秀衡にも余裕があった。しかし、平家が壇ノ浦で滅んでしまうと、西の脅威がなくなったため、頼朝率いる関東武士団と奥州藤原氏の軍事力の均衡は崩れる。秀衡は翌年からの京都への貢納は頼朝を経由することを約することに同意せざるをえなくなる。さらに秀衡が病死して、1189年頼朝は奥州征伐を行う。平泉は、焼け野原となったが、それでも残された奥州藤原氏の財宝の多さに、頼朝は驚嘆するほどだった。これらの戦利品や、新たに任命された幕府御家人の東北経営によってあがった利益から、東大寺の再建の費用はまかなわれたのである。
(本郷恵子著「京・鎌倉二つの王権」小学館 p154を参考にした)
これはただの余談なんですが、福島県いわき市に白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)というのがありますね。(今年の福島合宿の時にバスは素通りしましたが・・)あれは奥州藤原氏の初代清衡の娘が建てさせたものだそうですが、白水というのは一字で書くと、「泉」になりますね。それといわき市の中心は平(たいら)という名前がついてますが、合体させると、「平泉」になるというのです。昔のテレビ番組の「トリヴィアの泉」の「へえ~」のレベルのことですが。
一方、「大勧進聖」(だいかんじんひじり)と呼ばれた重源(ちょうげん 1121~1206)の集金術については、天才詐欺師のような側面もあるし、いやそれは宗教的カリスマなのだという見方も成り立つ、つまり両義的だと私は思う。
特別展に展示されていた、重源が勧進(寄付をつのる活動)に用いた小道具群=漆塗りのひしゃく・杖、鉦鼓(どらのような小鐘)、仏舎利(釈迦の遺骨)を入れる水晶でできた容器などを見ていると、やはり「魔術の中世」という言葉もあながち死語とはいえないな、と感じた。重源は大嘘も交えた説法をやって、ひょいと漆塗りのひしゃくを民衆の前に突き出したのだ。これで成功した。また、自分の弟子を伊勢神宮や四天王寺に送り、仏舎利などを盗みださせるようなことも行った。けれども民衆は彼を崇拝していたのだ。彼が死んだときには、重源の形見の小道具に取りすがって、泣くものが続出したという。
頼朝と重源、この二人は1195年東大寺供養式で邂逅(かいこう、出会うこと)するのだが、
ここで法然が一役買っている。供養式の直前、重源が突然行方をくらましてしまうのである。頼朝は困ってしまった。彼がいなければ、頼朝の面子は丸つぶれとなってしまう。そこで法然に使いを立てた。法然には心当たりがあったので、京の四条河原を探させた。するとそこの河原にすむ乞食たちの群れの中に、重源はいた。(寺内大吉著「法然讃歌」中公新書)こうして供養式はあいにくの雨であったが、数万の鎌倉武士たちの護衛のもと成功裡に終わった。
(めくらの平景清による頼朝暗殺未遂事件もあったようだが。)
兼実は日記「玉葉」で「雨にずぶぬれになっても、まったくものともせずに護衛をつづける武士たちとはいったいなんとたくましい人々なんだ。武士が貴族よりも劣っているという見方を改めなければならないぞ。」という趣旨の感想を残している。
慈円もこのときに頼朝と会談したということである。二人は初対面であるにもかかわらず、百年の知己であるかのように、互いを理解しあった。(「慈円」吉川弘文堂より)
慈円も頼朝も東西の本当の政治、宗教の指導者としてお互いを認めあっていたのだろう。後白河法皇なんていうのは、予想外に天皇の位についた人間であり、付け焼刃的な政治能力しか持ち合わせていなかった。後白河のせいでずいぶんとわれわれは煮え湯を飲まされてきた。けれども本当に政(まつりごと)が何であるかということを深く知っているのは、われわれ二人だけだという、暗黙の了解があったものと思われる。
しかし二人の間で義経のことは話題になっただろうか?私はおそらく話題にならなかっただろうと思うのだ。義経を追捕せよという命令を頼朝は出した。九条兼実も義経が京中に潜伏していないか捜索を厳しくした。慈円も比叡山で形としては捜索を行わせただろう。
そして義経を裏で手を回して、奥州に落ち延びさせる協力をした。
頼朝もうっすらとそのことに気づいていたかもしれない。けれども「もうすんだことだ、そのことで慈円を責めまい。長く源氏を守ってくれていたのだから。」と思ったであろう。
私の頼朝と慈円の人間像はこのようなものである。
田中進二郎拝
【905】[1021]子宮頸ガンは性病
会員番号1602番の石川と申します。
もとより疑り深い性格でしたが、副島先生の著作と出会い、正しいものの見方が出来る様になりました。今後ともよろしくお願いします。
川端さんと同じく、私も子宮頸ガンワクチンのブームには疑念を感じています。
いろいろと言いたいことはありますが、ひとつだけ。子宮頸ガンは性感染症なのに、それがメディアで言われないのは何故だろう?ということです。
子宮頸ガンを性感染症と言うと、
「そんなことは無い!性交でなくても感染する!差別だ!」
と反論されるでしょう。けれど、ごくわずかの例外にとらわれていると、ものごとを見誤ります。
子宮頸ガンの予防には、他の性病と同じく、ちゃんとコンドームを使うよう教育する、など他の有効な手段もあります。それなしに、いきなり義務化(税金投入)に向かうのはおかしいです。
ワクチンを使えば100%予防できるガンということばかり強調されるので、一般の人の食いつきがいいですが、それに投じる税金とその効果を冷徹に評価しないと、いくら納税しても足らなくなるのですが。賛成派の皆さんは自分が払うとは思っていないのでしょうねぇ。
【904】[1020]カラダを鍛えるための本。古武術研究家・甲野善紀(こうのよしのり)を中心とする「武道系」の身体鍛練法を紹介する。
吉田祐二です。ぼやきに載せるほどのものではないのでこちらに載せます。
盛夏となりました。冷房で身体を冷やし過ぎて体調を崩すひとが多いようですので、ご注意ください。ここでは、カラダに関する本、特に身体を鍛えるための本を紹介しようと思います。
副島隆彦先生が講演でよく言うセリフのひとつに、「貧乏だが才能ある若いひとたちを助けることが学問道場の存在意義である」というのがあります。最近ではそのあとに「しかし、彼らももう若者ではなくおじさんだ」と続きます。 たしかに、私やアルルさんこと中田安彦や、囲む会代表の須藤喜直も気がつけば30代後半、四十路(よそじ)に手が届こうとしている。
もう言葉として古くなっているが、30代後半から40代前半を指す言葉に「アラフォー」という言葉がある。約40歳ということでアラウンド・フォーティー around 40 の略なのだそうだが、日本語圏以外ではまったく通じない、おかしな和製英語である。英語では30代はサーティーズ thirties 40代はフォーティーズ forties で、それぞれ30’s / 40’s と書く。35~44歳のような言い方は無い。それはともかく、35歳を過ぎると急に体調がおかしくなってくるのは確かなようだ。
私の場合では、20代からほとんど変わらなかった体重が5~6kg増えてきた。健康診断をすればどこかしら基準値に対して引っ掛かるようになった。そのような訳で、必要に迫られて2年ほど前から体調を改善するように努めることになったのである。私の場合は近所にあった加圧トレーニングジムとボクシングジムに通うようになって、身体も絞れてきて健診結果も良好になった。
●武道家・甲野善紀
身体を鍛えるというと、いかにも頭を使わない行為であると一般的には思われている。「体育(会)系」といえば、脳みそが筋肉でできているような、何も考えない人たちをイメージするようになった。特に文化系、さらには自称知識人のような人種は皆そう思っている。かくいう私が最もそう思ってきた。しかし、実際に自分でいろいろと体を動かしてみると、なかなか単純ではないというか奥深いことが分かってきた。
身体の動作を、極めてまじめに、そして日本古来の武道をベースにして思索したひとに甲野善紀(こうのよしのり)という人がいる。普段から和服を着て、日本刀をさげている、一見してあやしいひとである。著作も数十冊出しており、NHKではテレビ講座も務めたことがあるため、すでにご存じの方もいるだろう。
甲野善紀の著作(および映像)を読むと、人間の身体というのは単純な力学では解明できない複雑なものだということが分かる。現在は、スポーツなどの身体運動を科学的に測定して分析することが主流で、「スポーツ力学」なるものが大学でも講義されているらしい。しかし、甲野によれば、そのような単純な力学では身体の動きを理解することが出来ないという。
●「古武術」の提唱
甲野が提唱するのが「古武術」である。空手のように大会が開かれている武道や柔道のようにオリンピック種目にまでなっている武道とは異なり、甲野は古(いにしえ)の武道書を研究している。たとえば江戸初期の剣術伝書『願流剣術物語』に、立ち方は「薄氷を踏む如し」とあることを重視する。現在の剣道では思い切り足を蹴って踏み込むように教えられるが、昔の剣術ではそれとは逆だ。それはなぜか? 甲野によれば、昔の武術の動きは現在の動きとは根本的に異なっており、足で蹴るのではなく体ごと重心を移動させることにより素早く移動していたという。
こうした「身体動作」はいくら説明されても、なかなか頭では理解できるものではない。映像で見るか、実際にデモンストレートしてみるのが一番だ。甲野には映像作品もいくつかあるが、『甲野善紀身体操作術』(アップリンク)はドキュメンタリー的な手法で甲野を紹介している。YouTubeにも紹介映像があるので参照されたい。
しかし、甲野のいう「古武術」は、世間一般で言われている古武術とも異なることに注意しなければならない。一般的な古武術とは、もはや組稽古(くみげいこ)などもせず、古来から伝わっている「型」だけを後生大事に伝えているだけの、形式的なものが多い。甲野の述べる古武術とは、前述した通り古来の武道伝書などから甲野がヒントを得て、我流で再構成したものである。だから甲野は自分のやっていることを「創作武術」であるという言い方をしている。
●他のスポーツへの応用
甲野は古武術をベースにした身体操法を、他のスポーツに応用できるかを研究している。なかでも有名なのが、巨人の桑田真澄投手が甲野の教えを受けたことであろう。 全盛期を過ぎた桑田が、甲野の教えを受けた2002年にもう一度防御率のタイトルに返り咲いたという。このことはスポーツ紙などでは大きく報じられ、甲野の名前が広がる結果となった。
前掲のDVD『甲野善紀身体操作術』には、各地から講師として招かれた甲野の様子を映している。大学のアメフト部へ教えに行った甲野は、自分より倍以上の体格の者を簡単に押し倒し、まわりを唖然とさせている。そのような、マンガのような世界が本当にあるのである。
私自身も「ウソだろう」と思って、実際に確かめてみることにした。甲野善紀に影響を受けたひとが、自主的に「弟子」として各地で活動している。私の住む名古屋地区でも山口潤という人が甲野の教えを広めつつ、自らの研究会を主宰している。(詳細は山口潤公式サイト カラダラボwww.karadalab.com/ を参照のこと)
そこで私自身いくつか甲野の「技」を練習したのだが、少し練習すると出来るようになるものである。たとえば、甲野があみだした「浪之下」(なみのした)という技がある。これは、相手に腕をつかまれた状態から、自分の腕を下に向けることで相手の大勢を崩す技である。『古武術で蘇えるカラダ』(宝島社)などで図解で解説されているが、以下の動画でも見ることが出来る。
ふつうにやってみても、相手の体勢はなかなか崩れないのだが、自分の体重を一斉にかけるようにすると力を一気にかけることができ、相手の体勢が崩れるのである。
これは不思議な体験だ。自転車の練習のように、何回もやってみるとだんだんと「コツ」が分かってくるのだが、自転車と違うのは必ず毎回できるようにはならないということで、だから武道でも「練習」が必要なのである。
人間の身体の使い方というのは奥が深いらしい。それは、学校の体力測定のような、単純なモノサシでは測れない、精妙な動きなのである。
甲野はそのほかにも、介護の領域でも業績がある。介護の現場というのは体力仕事で、老人の体を抱え上げて移動させて下(しも)の世話などをする。そこではどんなに屈強な若者でもすぐに体を壊してしまうらしい。そこで、甲野は体に負担のかからない力の入れ方を、求めに応じて講習会の場でアドリブでいくつか考え出した。甲野の教えを受けた岡田慎一郎という方が「古武術介護」というジャンルを作り出し、現在普及中である。岡田慎一郎『古武術介護塾―日々の介護がラクになる!!』(スキージャーナル社)などを参照されたい。
●「体育」とは何か?
学校の体力測定とは異なる身体の使い方を甲野は模索しているのである。そのことがよく分かるのが甲野の初の著作となる『表の体育・裏の体育』である(1986年刊、現在はPHP文庫所収)。
甲野は一般的な、学校で習う体育を「表の体育」として、そうでない古来の武術的な身体操法を「裏の体育」と呼んでいる。
「裏の体育」の最たるものが、「丹田」(たんでん)である。丹田とはヘソの下三寸にあるという、カラダの中心とされていることである。ヨガの流行などで耳にすることが多くなったが、依然として通常の体育の授業ではまず聞かれない用語である。また、近代的なスポーツにおいても丹田という言葉が使用されることはまず無いといってよい。
「丹田」について徹底的に思索した人物が、明治期末から戦前にかけて活躍した肥田春充(ひだ はるみち、1883 – 1956)という人物である。
肥田は幼少から身体が弱く、強い身体にあこがれ、独自に健康法を生み出した。西欧の医学や東洋の武道からヒントを得た、「肥田式強健術」という一種の体操である。肥田は丹田を「聖中心」と呼び、丹田を中心とする身体の鍛練法を紹介する著作を発表して戦前期に一世を風靡したという。大川周明などの右翼と関係があり、政治的な影響力もあったようである。
この肥田春充に甲野は私淑(ししゅく)しており、『表の体育・裏の体育』は全編にわたって肥田の業績を紹介しているのである。つまり、「丹田」というキーワードを使用するかしないかで、現在主流の「科学的トレーニング」とあやしげな「武術」の違いが出てくることになる。しかし甲野はそうした武術にこそ、これから重要になってくる、未知なる身体の操作法があるのではないかと考え、自ら実験・実践しているのである。
●甲野善紀の思想
甲野がこのような武術研究家になるまでを、直截(ちょくさい)に語っている本に『武術を語る―身体を通じての学の原点』がある。原著は1987年刊だが、徳間文庫から2003年に再刊されている。この本のなかで、甲野はこれまでの軌跡を語っている。
内気な少年であった甲野は、動物を相手に暮らそうかと考え、東京農業大学の畜産科に入学するが、大学の畜産科は当然ながら現代食品産業に従事するための機関であるから、動物に対していかに効率的に食肉を供給できるかという、「文字通り血も涙もない搾取の現場だった」(20ページ)という。たとえば、飼料を有効に食肉に変換するために、運動を極度に制限したい。そのために翼のない鶏を作る研究をする、といった具合である。
現代の畜産業に嫌気がさした甲野は林学科に転身するが、畜産科時代に行った田舎の実習時に自然食や有機農法に目覚めたという。そうして、自然と人間のかかわり方を考えていくうちに、武道を始めようと決心したという。はじめは合気道を四年間、そのあとは剣道を習うことになる。剣道では鹿島神流という、国井道之が実質的に創設した流派で修業した。国井道之は現代の「達人」というべき傑物で、時代小説の眠狂四郎(柴田錬三郎の小説に登場する剣客)や、 中里介山『大菩薩峠』に登場する机竜之介のモデルになった人物と言われている。
武術に打ち込んだ甲野は30歳のときに自らの武術稽古研究会「松聲館」を創設するが、のちに解散している。いまはひとりで各地で講習会を開催したり、著述などの活動をしている。
甲野善紀とは何者なのか。一言でいえば、「武術オタク」なのである。古来の武術書を読み、それを自分で研究しているのである。そして甲野自身は「自分は最強である」というようなことは言っていない。人から聞いた話では、稽古で乱取りを挑まれて負けてしまうことも多いようである。しかし、甲野のスタンスはあくまでも「いち研究者」であり、自分の研究の結果分かったことを著作や稽古会などでオープンにしている姿勢は評価すべきだ。昔の武術家ならば、自分が分かったことを「秘伝」として、さも大事そうにしていただろう。こういうのは、本当は、ちょっとした「コツ」のようなものなので、それを繰り返し練習して身につくようにするのが「稽古」なのだ。
●養老孟司との出会い
ひたすら武術の研究に打ち込むひとは、現代では相当の変わり者であろう。その甲野が世に出るきっかけとなったのが、東大医学部解剖学者の養老孟司(ようろうたけし)である。養老はのちに『バカの壁』がベストセラーになるが、甲野と対談したときは養老も無名の存在であった。ふたりの対談『古武術の発見―日本人にとって「身体」とは何か』は光文社の新書(カッパ・サイエンス)として 1993年に刊行された。(のちに光文社文庫に収録)
甲野によると、武術家というあやしい人種が、世間に出られるようになったのは、東大教授の養老によるところが大きいという。この対談本は甲野にとって「名刺代わり」となったという。
養老の知遇を得た甲野は知名度もあがり、2003年にはNHK教育テレビ『人間講座』の講師として登場する。講義の内容は、DVD付きのムック本2冊にまとめられている。『甲野善紀古武術の技を生かす』(MC mook) と『古の武術を知れば動きが変わるカラダが変わる』(MC mook) だ。体系的に甲野を理解するのは必須の本である。
●高岡英夫の身体研究
以上、甲野善紀の武術系身体操作法の紹介をした。このように紹介すると、甲野だけが特殊なことを言っているのかと思われるかもしれない。しかし、甲野以外でも武術系または武術出身系の、身体に対して考えたひとがいる。
高岡英夫(たかおかひでお)は1948年生まれで東大教育学部、同大学院教育学研究科修了して運動科学総合研究所を主宰している。いわゆる運動科学を研究して、自身がかかわっていた武道を題材として研究をはじめたらしい。初期は『武道の科学化と格闘技の本質』(恵雅堂出版、1987年刊)のような、典型的な学者の悪文でつづった読みにくい本を出していたが、『意識のかたち』(講談社、1995年刊)のあたりから読みやすくなった。
高岡の業績は、「丹田」のようなあやしい概念を「身体意識」として理論化したことである。たとえば、ゴルフや野球などでは体の「軸」を意識しろと指導される。しかし、そんな「軸」のようなものは身体を解剖しても出てこない。背骨がそれに近いが、実際は背骨はS字型に湾曲しているので、「軸」というのは実体としては存在せず、「意識」として存在するのみである。
それならば、「丹田」もまた身体意識に過ぎない。高岡はこのように考えて、いわゆる「軸」を「センター」と呼び、「丹田」をさらに細分化させ「上丹田」「中丹田」「下丹田」として捉えなおす。そうした身体意識は高岡によれば大きくは7つ、細かくすると際限なく存在するのだという。そして、身体を鍛えるということは、すなわち、身体意識を鍛えることであるという結論に至るのである。たとえば『図解トレーニング 身体意識を鍛える』(青春出版社)などを参照のこと。
ここまでは私もなるほどなと思ったのだが、「意識」を研究領域にしてしまった高岡はさらにスピリチュアル系すれすれになるのである。上記のような「意識」を鍛えるためには、まずは身体をリラックスしなければならない、つまりは「ゆるむ」必要があるとのことで、高岡は「ゆる体操」なるものを考案する。そして、そのようにゆるめば万事うまく行くようなことを言いだすのである。
たとえば『仕事力が倍増する“ゆる体操”超基本9メソッド―「身体経営術」入門』(現代書林、2005年刊)や『頭が必ずよくなる!「手ゆる」トレーニング』(マキノ出版、2007年刊)のような、手にとるのを躊躇させるような本を書くようになるのである。
しかし、高岡の主著というべき『究極の身体』(講談社プラスアルファ文庫)などは、生物の進化の観点から、生物の運動の本質について論じている良書である。
●伊藤昇の「胴体力」
「胴体力」を提唱する伊藤昇(いとうのぼる)も紹介する必要がある。伊藤は人間の体の動きはすべて「胴体」によるので、手や足の末端を鍛えるのではなく、胴体を鍛えることを提案している。入門書として『気分爽快!身体革命』(BABジャパン、2005年刊)や詳細な技術書『天才・伊藤昇と伊藤式胴体トレーニング「胴体力」入門』(BABジャパン、2006年刊)がある。
伊藤にはまた『スーパーボディを読む』(マガジンハウス)という本があって、バスケットボールのマイケル・ジョーダン、ゴルフのタイガー・ウッズ、そしてなんと歌舞伎役者の坂東玉三郎(ばんどうたまさぶろう)などについて論評している。伊藤によれば、彼らはいずれも身体の「達人」なのだそうで、身体の操作が実にすばらしいと絶賛している。
●身体の鍛え方
この他にも、身体を鍛えるための類書が数多く存在する。しかし、私の見る限り、上記の3名がもっとも深く身体について思索した人たちである。彼らの共通点は、いずれも「武道」をベースにしていることである。そして、現在の主流派である、競技スポーツに対して対抗意識をもっていることでも共通している。現在の、筋力トレーニングを主軸とした主流派の身体理論に対して、武術的な身体操法を対抗させてパラダイムの変換を迫ろうとしている。こうした潮流に対して、一応の理解を持っている必要がある。
いわゆる「文化系」の人間は身体を動かすことに嫌悪感があるものだ。私も身体を「動かさない」ことにかけては自信があったのだが、冒頭に記した理由の通り、必要に差し迫られて動かすことになった。
身体を鍛える、というと機械的な、退屈でしんどいだけのように思われるかもしれないが、どのようにすれば身体がより早く、より強く動かせるのかなどを考えながら、「研究」するようにすれば、だんだんと面白くなってくることが実感として分かるものである。少しカラダを鍛えるつもりが、私の生来(せいらい)の凝り性のため、いろいろと文献で調べてしまうことになった。身体を鍛えるために、こうしたアプローチを取るひとは決して多くはないだろう。しかし、これから身体を鍛えようと思っている方の参考になれば、少しは役に立ったことになる。
吉田祐二筆
【903】[1019]露天風呂の社交
群馬のゆみこ(川端優美子)です。
今日はあんまり寒いんで、近所の温泉に行ってきたんよー。
露天風呂は声がよく通るんで、いっつも年寄りが集まって、話してるんさ。年寄りっつっても、今の年寄りは、まーず元気さねー。ずーっとくっちゃべってるよ。近所に店ができるとか、あそこに五軒、家が建つとかいう、身近な話から、いじめで自殺した中学生の話や、果ては国会中継の話まで、話題は豊富だいね。
あたしなんか、まだわけぇから、ときどき静かにうなずくだけで、隅のほうでおとなしくしてるんよー。でも、子宮頸がんワクチンの話が出たときに、思わず、「あれ、絶対おかしいですよ。製薬会社を儲けさせるためですよ。」って言ったんさ。そしたら、ばーちゃんたち、白けちゃってさあ。あれー、あたし、またやっちゃったんねー。
【902】[1018]フフホト通信(山東省青島市から)
山東省青島市から石井裕之がフフホト通信をお送りします。
本日は、「阿修羅」というインターネット投稿サイトに面白い投稿がありましたので、皆さんに御紹介させて頂きたいと思います。
フフホトの情報でも他の地方都市の情報でもございませんが、御付き合い下さいませ。
http://www.asyura2.com/12/hasan76/msg/904.html
↑この記事と、記事に対する色々な方々からの投稿を御覧頂きたいのです。
記事の申すところは、中国人はコツコツ働くよりも投資や投機によって一気に成り上がりたいと思っている、ということです。
実は、中国にもこれらの思想には二つのスタンダードが存在します。
と言いますのも、40歳代後半以上の年齢の人は毛沢東時代の思想を徹底的に刷り込まれておりますから、労働というものに対する意欲すら持ち合わせていないように思われます。この傾向は、実は漢民族ではなく、少数民族に顕著に観られるかもしれません。彼らは如何に毎日酒を飲んで美味い料理を食べるか、このことだけが興味の対象となっているようです。その源泉は「労働」による対価でなくとも良く、言ってみれば「たかり」の類でも一向に構わないのです。
これが30代前後の若者世代になってくると、状況は一変します。
彼らの功名心は非常に強いものがあります。兎に角何でも一番でないと気が済みません。他の人のことは余り気にしません。自分本位と言って良いでしょう。
実は私はこのことを余りネガティブに考えておりません。我々日本人が他人の目を意識し過ぎる余り、逆に萎縮してしまってどのような行動にも出れない状況を観るよりも、実は清々しいとさえ思ってしまうのです。
彼らの興味は只一つ、財を為すことです。
これは間違っても「コツコツ働いて貯金に貯金を重ねて」財を為す訳ではありません。
今の中国には、アメリカンドリームならぬチャイニーズドリームというものが存在します。数年前まで田舎の農民だったのに、石炭の炭鉱を掘り当てた途端に億万長者の仲間入り、等と言うのが一番の例でしょうか。
そのような例が本当に沢山存在するのです。そして、若者は皆「明日は吾身(非常にポジティブな意味での)」として、アンテナを張り巡らせるのです。
さて日本です。
1970年代に象徴される高度経済成長期に、日本は国全体が「工場」と化していました。資源の無い国が付加価値(利益)を得る方法は、加工貿易によって外貨を稼ぐ以外になく、全ての国民がその製品を生産することに「加担」していった時代です。為替相場も日本に有利だったことも手伝って、日本の製品は面白いように海外(主にアメリカ)で消費されていきます。それによって輸出企業は巨万の富を得、そこに働く労働者の所得も倍々ゲームで増えていったのは記憶に新しいところです。
要するに、政策(国歌戦略とでも言いますか)として、日本は国全体が工場になる必要があり、国民は須らく「機械の一部」として働かなくてはならない時代が存在したのです。
と、言いますか、「機械の一部」となることがどれほど素晴らしいかを、教育の分野で我々は洗脳されていたようです。日本に企業家が少ないのは、その弊害と思って間違いないでしょう。
中国の世代間の「労働」に対するギャップ。日本の「労働」に対する思想形成を思うと、全てはそのとき時の国家の思惑によって、我々の思想は絶えず「教育」されているのだと感じざるを得ません。
すると、今の日本に若者を嘆くことも、中国人に「一発逆転型」の思考法を持つ人が多いこをを揶揄することも実は無意味なことですね。
今の世界は、「資本主義」「民主主義」を共通のルールとしてゲームが進められております。今後もこのルールの統一化の方向にどんどん進んでいくのでしょう。
もし私が(あなたが?)ルールを決定出来る権者だとしたら良いのですが、概ねそうではありません。従って、どうあれこのルールの中で、個人としての「最大幸福」を見出さざるをえないのです。
では、その「最大幸福」を得る方法とは?!
これは私にもその答えは判りません。しかし、「大人」の「言われるがママに」、コツコツと真面目に単純作業を繰り返していくことでないことくらいは、判るつもりでおります。
はてさて、皆さんはどうお考えでしょう。
【901】[1017]労働者は、労働者?
加地龍太 様
ありがとうございます。私の拙い質問に答えてくださいまして。
ただ、死因は、不明でしょうか。まず、私は、副島隆彦の学問道場に新人賞があるのなら、貴方を推挙いたします。なぜなら、既存のルールに該当しないからです。それだけ、斬新さがあると私は思います。
私は、不動産業としてここ15年、地元で営業をしてきました。パートの社員も雇いました。両親の介護が必要になり、専業することができなくなり廃業し、今に至っています。 介護保険のお世話にはなっておりません。
こちらの暴力団は、住吉会系がメインで、まさか山口組がでてくるとは思っておりませんでした。ところが、山口組が進出してきたのです。8年位前、こちらの市議の従姉妹(水道業)が、闇金融から事業資金を借りましたが、市議に連帯保証人を要求し、融資しました。
原発の労働者(派遣労働者)を調べてくださいませ。暴力団関係の派遣があるでしょうね。(推測ですが) とにかく、加地龍太氏の勉学を応援します。
本多俊一
【900】[1016]ご質問感謝致します。
本多俊一 様
ご無沙汰しております。私が、「副島隆彦の論文教室」に文章を投稿させていただいた際には、その文をお読みいただきご質問をして下さったことを記憶しております。
文章を書くようになって感じることですが、自分が書いた文章に対してリアクションをして下さる人物の存在はとてもありがたいことだと思っております。
今回も、ご質問をしていただき、ありがとうございます。
ご質問の内容
>はてさて、どのような組織(山口組?)に、田中角栄氏が暗殺されたと思った経緯は、いかほどでしょうか?。
に対する返答をさせていただきます。
まず、私は2011年の6月に西日本のとある県に住む、とある人物と川崎でお会いしました。
その人物の職業は理科系の科学者で、その業界では有名な人だということです。
その人物と川崎でお会いしてお話をし、ありがたいことにそのお方が私にもう一度会ってみたいと仰って下さり、2011年の7月に私の実家で再びお会いしました。
そして、2度目にお会いしたときにその科学者さんから、「世間で陰謀論と言われている都市伝説があるが、あれは事実を曖昧にするためのカモフラージュだ。権力者側に金銭で買収されている都市伝説作り屋、いわゆる陰謀論者と言われる人間たちがいる。たとえば、ベンジャミン・フルフォードというのがそれだ。」
という話を直接お聞きしました。
私は、ベンジャミン・フルフォード氏の著作を何冊か拝読したことがありますが、その中に「私(ベンジャミン・フルフォード氏)は在日暴力団の組長さんたちにインタビューして聞いたのだが、ヤクザは大物政治家を暗殺するときに毒針付きの指輪を使うようだ。その指輪を指に嵌めて殺しの対象と握手をして毒針を刺す。その毒針を刺された人間は10日後くらいに脳梗塞やら心筋梗塞やらで死ぬのだそうだ。田中角栄などはそうやって殺されたという。」というような内容の文章が書かれてあったことを記憶しております。
フルフォード氏の著作は今は手許に無いのでどの本に書かれていたかは覚えていませんが、誰かとの対談形式で書かれた文章だったと思います。
私は、上記の科学者さんから「フルフォード氏は実は権力者側の人だ。」
という話を聞いて、いかにも正義の味方を気取るどうにも胡散臭さが消えないと感じていたフルフォード氏の存在が、実は権力者側の「隠れエージェント=都市伝説作り屋」なのだと考えるとしっくりくると考えました。
世界権力者の具体的な名前を挙げず、「闇の権力者」という曖昧な言い方で真実をカモフラージュする仕事をしているのではないかと私には思えてならなくなり、現在に至っております。
尤も、「フルフォード氏が隠れエージェントであるという客観的物的証拠を出せ」と言われましたら、ありませんとしか言えません。
田中角栄氏が暗殺されたと思った経緯は何か、ということですが、上記の
「事実を曖昧にするためのカモフラージュが都市伝説=陰謀論だ」という理解に則り思考しますと、「在日暴力団が大物政治家・田中角栄を暗殺した」という事実をカモフラージュするため「権力者側の隠れエージェント(とされる)フルフォード氏が、いかにも胡散臭そうな暗殺器具(毒針付きの指輪)で田中角栄を暗殺した」という都市伝説=陰謀論を創作し、世間に流したのではないか、と私は考えた次第です。
それともう一つ、私の知人に山口組の枝の組(きっと第三次団体くらいです)に関係を持っていた者がいるのですが、その者から「暴力団がやった社会の表に出してはならない事柄は、わざと都市伝説にして世間に流す。都市伝説にすれば、世間の人は胡散臭がって信じなくなるから。」という話を聞きました。
しかし、その男は「山口組と兄弟盃を交わしたのは俺が関係を持っている組だけだ。」などと言っていました。
山口組の組長と兄弟盃を交わした第二次団体の直参組長は日本全国に多々いるのだという事実を知らずに「俺んとこの組は凄いんだぞ。」的な態度で威張って私に話してきました。
しかも、その男が関係していた組の名前を調べましたが、山口組の直参に名を連ねていませんでした。
その程度の男が言っていたことゆえ、2つ目の理由は少々信憑性が弱いかもしれません。
しかし、1つ目の理由の根拠になっている話をして下さった科学者さんは、
その業界においては世界的に知人がいて有名な人であり、言っていることも(私としては)筋が通っていて辻褄が合っていると感じることが出来ました。
以上、私が田中角栄氏が在日暴力団によって暗殺されたのではないかと思うに至った経緯です。
説明に必要であると判断したため暴力団の話を多くしましたが、もしそれによって気分を悪くされましたら大変申し訳ありません。
私は、暴力団(副島先生いわく、社会の問題児を拾う福祉団体)の存在を肯定する気はありませんし、ヤクザがやっている黒いこと(暴力を伴う債権強制回収など)を肯定する気は断じてありません。
これらは、リバータリアニズム違反ゆえ。
上記の組に少し関係していた者との関係も完全に断ち切りました。
しかし、この世に人種差別と愛情の欠如というヤクザ・マフィアを生む基盤が存在する以上、必然的にその人々を受け入れる場所=暴力団が必要になってくるのだろうと客観的に判断しています。
この世に差別がある以上、きっと暴力団はなくならないのだと思います。
以上です。長くなりまして申し訳ございません。
尚、今回はメールではなく重たい掲示板にて質問を受けましたので、重たい掲示板に投稿する形で返答させていただきました。
それでは、失礼します。
加地龍太 拝
【899】[1015]病死?、事件死?
加地龍太様は言いました。
>故・田中角栄氏は病死したと報道されたが、実際は在日暴力団によって暗殺されたようである。
加地龍太様、私の疑問は、この一点です。その当時は、日本全国、病死と認識しました。それ以前に、たしか脳梗塞をおこされ、その後、すべての活動を停止していったと記憶しております。
はてさて、どのような組織(山口組?)に、田中角栄氏が暗殺されたと思った経緯は、いかほどでしょうか?。
本多俊一
【898】[1014]偉大なポピュリスト
こんばんは、加地 龍太(かじ りょうた)です。
以下に思考したことを記述します。
先週、大学で政治学の授業を受けていたときに教授がポピュリズムの話をした。その教授は、他の例に漏れずポピュリズムを「大衆迎合主義」と訳していた。私の知人が受講している他の政治学の授業で配布されたプリントを見せてもらったが、そのプリントにもポピュリズムは大衆迎合主義と訳されていた。
私が受講している政治学の授業を担当している人間の経歴を直接本人に尋ねたら、元・読売新聞の政治部記者であり、若い頃に渡邊恒雄(ナベツネ)氏の直接の部下として働いた経験を持っていた。
田中角栄は、ポピュリストである。ポピュリズムという用語は、上記のように日本では「大衆迎合主義」と訳されている。
その意味の概略は、「国民の支持を得て選挙で票を獲得するために国民に媚び諂うやり方で政治をする思想をポピュリズムと言い、それを主義とする政治家をポピュリストという」という理解になっている。
ポピュリストに対するこのような理解を広めたのは、グローバリストである。
ポピュリズムの真の意味は、「その国・地域に住む人間たちの政治的意思の集合体」のことである。
そのポピュリズムを代弁して政治をする政治家をポピュリストというのである。
これに対してグローバリストが主義としているグローバリズムという思想は、「各国の市場に自国のコングロマリット(複合企業)を参入させ、他国の各市場を牛耳ることによって実質的にその国家を乗っ取ることを肯定する地球支配主義の思想」である。
このグローバリストの思想は、マイケル・サンデル ハーバード大学教授が代表するコミュニタリアンが主張する「強大な権限を握る一部の集団が社会=世界を管理する方が世の中は良くなるのだ」という考えとイコールだと私は思う。
上記のグローバリスト(地球支配主義者)に取って、国民の政治的意思の集合体を代弁するポピュリストは邪魔者である。
それゆえ、グローバリストの代表の1人であるアメリカの高級外交官ヘンリー・キッシンジャーが、敵対するポピュリストに対して「大衆迎合主義者」というレッテルを貼る言論攻撃を掛けたのである。
そして、キッシンジャーの家来として日本におけるポピュリストに対する言論攻撃を主導したのが渡邊恒雄氏(読売新聞主筆)と中曽根康弘氏(元・首相)である。
田中角栄は日本のポピュリストとして、第二次オイル・ショックの際に世界覇権国アメリカの世界戦略を無視し、中東の石油産出国との間に独自の石油売買ルートを確保したことにより、ネルソン・ロックフェラーに睨まれ、彼の弟子として育てられていたヘンリー・キッシンジャーとその他によってロッキード事件で政治スキャンダル攻撃を仕掛けられ失脚させられたのである。
ちなみに、故・田中角栄氏は病死したと報道されたが、実際は在日暴力団によって暗殺されたようである。これは、故・中川昭一氏についても同様に言われている。
日本国民の実生活を守るため、命を懸けてポピュリストとして行動した田中角栄は偉大であったと私は思う。
以上、大学の政治学の講義でポピュリズムの話を聞いて私が考えたことです。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
何かご意見・批判等がありましたら私のアドレスにメールをお送りいただけると幸いです。
加地龍太 拝