重たい掲示板

書き込みの連番がリニューアルによりリセットされております。
旧サイトの書き込みの連番は[●●]で表示されております。ご了承ください

書き込みの連番がリニューアルによりリセットされております。旧サイトの書き込みの連番は[●●]で表示されております。ご了承ください

田中進二郎 投稿日:2012/07/11 08:42

【891】[1007]鎌倉仏教の謎を解く

鎌倉仏教の謎を解く (訂正の回)
ここまでのところで事実誤認や訂正を要するところがいくつかありますので、お詫びして訂正します。

第二回(重掲999)より  後半「慈円の心を歌った和歌には宋学の影響が見られると思う。・・・北宋の思想家 周敦頤(しゅう とんい1017-1073)の存在を慈円(1155-1225)が知らなかったとは考えにくい」と書きましたが、宋学の祖といわれる周敦頤の存在が知られるようになったのは、彼の死後南宋の朱熹(しゅき1130-1200)によって、評価された後だということである。
宋学を最初に日本にもたらしたのは真言宗の僧俊芿(しゅんじょう)で1199年ともいうが明らかではないそうだ。ちなみに周敦頤については、時代ははるかに下るが、江戸末期の陽明学者大塩平八郎が「洗心洞箚記」(せんしんどうさっき)で取り上げている。
やはり慈円の「無技巧の技巧」(「慈円」多賀宗準著 吉川弘文堂)ともいうべき自由闊達な和歌の表現の源を宋学にもとめるのは厳しいか?私には慈円において突如として個人の志操が和歌で詠まれるようになったことが不可思議に思えてならない。
間違いの上塗りになるかもしれないが、漢詩に対する対抗意識が慈円の中で強く作用していたせいかも知れない。ちなみに慈円の和歌は伝存するもので六千首あり、七、八万ぐらい詠んでいたのではないかと推定されているそうだ。慈円にとっては和歌を詠むのは「息をすることと同じようなもの」と上記の慈円の伝記には書かれていた。(人間じゃない)

第四回(重掲1002)より 「ちんちくりんの陳和卿(ちんなけい)は坊主」であるだけではなく宋から渡ってきた工人で、大工の棟梁のようにグループを率いていた。学僧でもあり、また南宋のスパイであるという可能性も高い。平家の兵火によって焼けた大仏と大仏殿の再建に重源とともに活躍した。時代が下り、三大将軍源実朝に鎌倉で謁見したあと、
実朝の渡宋計画を実現すべく唐船を建造するが、船は海に浮かばなかった。(吾妻鏡 1216年)これは北条義時と大江広元による妨害工作にあったためであり、実朝暗殺後、陳和卿も火事のどさくさの内に殺されたという説もある。(いいだもも著「日本」の原型 p227)
吾妻鏡では「渡宋計画」のくだりは実朝の乱心のように書かれているが、愚管抄では大江広元、北条義時が、実朝をじわりじわり追い詰めていって、最後に御家人三浦義村と手を組んで殺したという見方を記している。(巻第六)頼朝の不審死に始まり、頼家、実朝、公暁ら源氏の血脈を次々と消し去っていった裏には北条時政、義時のほかに、大江広元がいる。その大江広元は実朝暗殺事件の前に、失明したと愚管抄には記されているが、慈円は「ふふ、悪行の報いよ」とでもいいたげな口調である。

訂正については以上です。いろいろ調べているうちに頭が混乱してきましたので、残念ながらきょうはここまでです。ご不満な方は、「副島隆彦の論文教室」にある長井大輔さんの「日本権力闘争史」をお読みください。副島先生の仏教論もそこにあるよ。それでは。
田中進二郎拝

田中進二郎 投稿日:2012/07/07 07:09

【890】[1006]鎌倉仏教の謎を解く

鎌倉仏教の謎を解く 第6回
今回以降二、三回の主なテーマ
・愚管抄(ぐかんしょう)執筆の動機とその転換
・慈円はなぜ、源氏の血につらなる、親鸞や九郎義経をかくまったのか?
・「未来記」にとりつかれた人々。慈円、重源(ちょうげん)、後白河法皇について
・唯円著「歎異抄」(たんにしょう)の永きにわたる誤読の伝統

「愚管抄」の全体の中で慈円の筆は、ものの道理をわきまえない同時代の人間に対する冷たい侮蔑などが、散見できるのであるが、慈円が冷血人間であったと考えるのは間違いである。仏教用語では、すぐれた洞察力をもつことを天眼、法眼などというが、慈円の目がまさにそういうものなのだ。

「愚管抄」はおそらくもともとは新「日本書紀」のつもりで書き始められたものではないか、原文をざっとみてみると、全7巻の中で巻一と巻二が歴代天皇の年代記(84代)となっている。
そしてこの部分は、今の若い日本人がみればゲッとなる、ほとんど漢字だけの世界である。巻二の終わりから突然、カナ文字(片仮名は寺の僧侶たちの発明品である。)の世界が姿をあらわし、冴え渡る口調で進んでいく。それが巻七の最後まで続く。巻三からは、歴代天皇の治世からみた「ものの道理」の考察を行っている。巻三が藤原道長の治世の最後まで、巻四が保元の乱まで、巻五の最後が、前回とりあげたが義経の死と頼朝の奥州制定までである。巻六が源実朝の暗殺と後鳥羽上皇が挙兵を決意するまで。そして最終巻がこの本の執筆の動機と慈円の歴史観の総括、そして末法の世への嘆きとなって、最後は世の中を立て直す案を自問自答しながら、途中でしりきれトンボのように終わる。
(現代語訳は講談社学術文庫で、原文は「ひらがな愚管抄」でグーグル検索したら読める。)

興味深く思えるのは、漢文オンパレードの巻二の終わりに、突然いきいきした日本語を用いることの重要性を述べ始めていることで、同時にここが文体の転換点ともなっていることである。してみると、「愚管抄とはなにか」を問うときの重要な章といえるだろう。
本稿の第二回(重たい掲示板999)で「後で引用する」といったままだったので今度は引用しよう。(これより「愚管抄」巻第二の終わりを原文のひらがな変換したものを引用する。)

「ひとえに仮名に書つくることは、是も道理を思ひて書るなり。先是をかく書かんと思ひよることは、物しれる事なき人の料也。此末代ざまのことをみるに、文簿にたづさわれる人は、高きも卑も、僧にも俗にも、ありがたく学問はさすがする由にて、わづかに真名(まな 漢字)の文字をば読ども、又其義理をさとり知れる人はなし。男は紀伝・明経の文多かれども、みしらざるがごとし。僧は経論章疏あれども、学するものすくなし。日本紀以下律令はわが国の事なれども、今すこし読とく人ありがたし。(だからといって今度は)仮名に書くばかりにては、やまと詞の本体にて文字にえ書からず。
仮名に書たるも、猶よみにくき程のことばを、むげの事にして人是をわらふ。はたと・むずと・しゃくと・どうと、などいふことばども也。是こそ此やまとことばの本体にてはあれ。此詞どもの心をば人皆是を知れり。
あやしの夫とのゐ人(殿上人)までも、此の言の葉やうなることぐさにて、多事をば心得らるるなり。
是をおかしとて書かずはばた(結局)、真名をこそ用いるべけれ。此道理どもを思ひつづけて、是は書き付け侍りぬるなり。」(以下略 引用おわり)

上の文章には、より多くの人々に自分の言葉を届けようとする慈円の熱意が感じとれよう。
また慈円はこの後、漢文調をぴたりとやめているのであるから、自分に向けて書いているようにも取れる。ただ研究家の中では、この箇所は後から追記した文であることのようだが、前か後かなどということはあまり問題ではない。サルトルの言葉に「批評とは自分を変えることだ。」というのがあるが、慈円も古色蒼然たる紀伝体に自分から、一気に別れを告げていったのだ。

田中進二郎拝

田中進二郎 投稿日:2012/07/05 08:42

【889】[1005]鎌倉仏教の謎を解く 

鎌倉仏教の謎を解く 第5回
悪人正機説は法然が創始した教えであるということを、前回、前々回から書いてきていますが、「証拠があるのか。」と文句を言いたい方もおられるでしょう。
私も前々回の法然と親鸞の悪人正機説の違いを述べたところがまだ歯がゆいと感じており、
くどくなってしまうことを承知でもう一度根拠をあげ、説明を試みてみます。ここらへんが浄土宗、浄土真宗解明のひとつの鍵と私は考えます。

前回、平重衡(しげひら)の最期について述べた箇所で、「法然讃歌」(寺内大吉著 中公新書)という本をおすすめしましたが、この本がなぜ書かれたのかというと、浄土宗の宗務総長の地位にいた著者が浄土宗の教条主義化に危惧を抱いて、法然像の見直しを図ったとあとがきにかかれていた。「愚痴の法然房」(愚痴とは愚かで知恵がないこと。愚禿親鸞と同じである。)を自称していた法然がニーチェの「超人」のように自説を高唱するはずがない、聖人化されてしまった法然をある意味でひきづりおろそうという試みであるとも。

1916年(大正5年)に真言宗醍醐寺で勢観房源智(せいかんぼうげんち 法然の最期をみとった弟子)によって書かれた「法然上人伝記」(醍醐本ともいう)が発見された。
それには「善人尚以往生、況悪人也」(善人なおもて往生す、いわんや悪人をや)と記されていて、善人は善人なりに悪人は悪人なりに念仏を唱えれば往生するという法然の教えから飛躍がある。記した源智自身この意味が理解できず、三日三晩熟考したという。そして、「悪の機縁を持つ者が往生を遂げるということが道理にかなっている、ということを習い得た者は良く浄土宗を学んだことになる。浄土門は悪人を手本として善人をも救う。聖道門(しょうどうもん 自力本願を旨とし、聖人になることをめざす)は善人を手本として悪人をも救うという違いである。」という法然の言葉に腑に落ちたという。

「選択本願念仏集」(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)は法然の主著とされるが、
九条兼実(くじょうかねざね)が関白職を解かれて失脚した時期に、法然に専修念仏の奥義をまとめてもらいたいと頼まれて著した書である。易行道が聖道門よりもすぐれていること、易行道の念仏を唱えれば、十悪のものも往生を遂げることなどが説かれる。これだけでも、十分に危険な書とされ、法然一門の後鳥羽上皇による弾圧の一因となっていく。法然は危険を十分に承知していて、源智に言ったような悪人正機説は口で伝えていたのであろうと、私は推測する。

親鸞の悪人正機について述べる前に。
ここで副島先生からのメールを一部紹介します。以下は、「その1」(重たい掲示板990)を書いた後でいただいたものです

「愚管抄を書いた 天台座主でもあった慈円の目はものすごく重要です。兄の 九条兼実と共に 冷ややかに全てを見通しています。 しかも自分たちが 危険な中で 源氏を支え続けていることにも自覚があった。 がんばりなさい。」
以上、引用おわり。

慈円の目は恐ろしい。親鸞が源義朝の娘の子である(つまり源頼朝の甥にあたる)という梅原猛氏の説を第一回でとりあげたのですが、(その後どうも、親鸞と義経がダブって見えてならなかった。)義経は兄頼朝に追われる立場に立ったとき慈円にかくまわれて、その後奥州平泉までたどりついたと「愚管抄」の中にきちんと書いてあった!

(慈円 「愚管抄」巻第五 大隈和雄訳 講談社学術文庫p306より引用)
「九郎義経はしばらくの間時節を待とうと、身を隠しながらあちこちと移動していた。無動寺(延暦寺東塔にあった別院で、当時は慈円が管理していた 訳者注)に財修という下級の僧がいたが、その僧房にしばらくの間九郎をかくまっていたと、のちになって伝えられた。こうして九郎はついに逃げおおせて、陸奥国の藤原泰衡のところに行ったのである。この逃亡のことは驚くべきことであると評判されたが、泰衡は九郎を討ち取ってそのことを頼朝に報告した。しかし、陸奥国の人々は「殺さなくてもよかったのに、悪いことをしたものだ」と語りあったということである。」(引用 ここまで)

さらに、このページには、九郎義経に逆心を植えつけたのは御白河法皇で、義経を利用して頼朝追討の宣旨(せんじ)を出したのであるが、法皇に「宣旨を出す理由などどこにもない」と反論したのは、公家の中で九条兼実だけであったということもかかれている。
慈円はのちの後鳥羽上皇の起こした承久の乱との関連で、義経の没落を記述しているのだろう。承久の乱よりずっと以前に、律令国家と天皇が早晩没落することを、慈円は見据えていたであろう。慈円は歴史を書きながら未来を見ていたのである。

田中進二郎拝

津谷 侑太 投稿日:2012/07/04 13:40

【888】[1004]はじめて投稿します

 はじめて投稿致します。私は会員番号6524番の津谷侑太(つやゆうた)と申します。現在22歳で2012年3月に愛知県のある大学の文学部歴史学科を卒業しました。現在はフリーターをしています。

 副島先生の御著書は50冊ほど拝読させていただいております。私はインターネットで2009年あたりから植草一秀氏のブログに傾倒していた時期があり、植草氏がしばしば副島先生の「副島隆彦の学問道場」のサイトの文章を引用して紹介されていたので興味を持ち、会員となった次第です。

 私が現在、最も関心があるのは、歴史についてです。

 日本での歴史研究はレベルが高いと賞賛されてきました。しかし、一部のおかしな歴史研究者(半藤一利や秦郁彦ら)たちによって日本の歴史研究が事実とかけ離れた創作の世界にいこうとしているとのだと副島先生の著作『時代を見通す力 歴史に学ぶ知恵』を読んで気づかされました。

 阿川弘之(あがわひろゆき、91歳)や司馬遼太郎のような史実無視の捏造作家に洗脳された読書人階級を救い出して、阿川や司馬たちに誹謗中傷を受けた日本国民の側に立って闘った偉人である近衛文麿(このえふみまろ)や乃木希典(のぎまれすけ)の名誉を回復する必要性を強く感じている次第です。

 これから学問道場で勉強させていただこうと思っています。どうぞ、ご指導のほどよろしくお願い申し上げます。
 

 津谷侑太拝
 
 

 

松尾 雄治 投稿日:2012/07/02 09:21

【887】[1003]野村証券が機関投資家営業部を廃止

ウォール・ストリート・ジャーナル日本版から転載します。

(貼り付け始め)

機関投資家営業部を廃止=CEOは減俸6カ月、50%―インサイダー問題・野村HD
2012年 6月 29日 18:46 JST

野村ホールディングス(HD)は29日、子会社の野村証券社員がインサイダー取引につながる情報を漏らした問題を受けて、国内外の投資ファンドなどへの株式売買を担当していた「機関投資家営業部」を廃止し、業務を新設部署に移して管理を厳格化すると発表した。同部や法令順守を担当する役員2人を退任させるとともに、渡部賢一グループ最高経営責任者(CEO)の報酬を6カ月間、50%減らすなどの処分も行う。

 野村HDはまた、社内調査委員会による調査報告を発表。報告書は、担当部署が収益至上主義に陥ったことや、社内の情報管理に関係する社員の自覚不足などがあったと指摘した。 

[時事通信社]

(貼り付け終り)

松尾 雄治 拝

田中進二郎 投稿日:2012/07/01 11:00

【886】[1002]鎌倉仏教の謎を解く4

鎌倉仏教の謎を解く 第4回  (重たい掲示板990,999,1000の続き)
悪人であることの象徴的、言語的意味について~1195年東大寺再建供養式 
前回キリスト教における悪と親鸞の悪人正機説のちがいについて、具体例をあげる前におわってしまいました。日本の文化の型式において、悪であることをみとめるということ、簡単にいえば謝罪するということがどういうことなのか、多田道太郎(ただ みちたろう言語社会学者)が日本とフランスの違いで説明しています。

フランスから日本に来た留学生が日本のやくざ映画とフランスのやくざ映画を比較研究して面白いことに気付いた。やくざ組織を裏切った人間が、組織に捕まってピストルを頭につきつけられたときに、日本人とフランス人とではいうせりふがまったく違うというのである。どちらも結果的にはバン、バンと撃たれて殺されてしまうわけであるが、日本人の
やくざは「おれが悪かった。すまねえ。許してくれ。」と言って許しを乞う。
フランス人のやくざは「おれは悪くない。聞いてくれ。おれはただ・・・しただけだ。(・・・にはさまざまないいわけがくる。)だから撃たないでくれえ。」という言葉を吐く。

この文章を読んでいる人の中に「いや、そんなことはないよ、いろいろ屁理屈こねてから死んでいったやつもいるぜ。」なんて言う御人はまさかいないと思いますが、屁理屈をこねる場合でも、「悪かった、許してくれ。」という言葉が最初にくるでしょう。それが日本の文化の型であり、個人差はないでしょう。
ところがフランスのやくざが「おれが悪かった。」と謝ったらどうなるか、これは命乞いのせりふにはならないという。神の前で自分の非を認めること、自分が悪だと認めること。これは大変勇気のある行為となる。そのような勇気のあるやくざは尊敬されながら殺されるだろう、と。フランス人にとって、自分の罪を認めることは、罪の赦しを求めることとは異なるのだということです。

上のようなすさんだ世界の非現実的な例ではなくて、われわれまじめな労働者階級(読者にはこれにあてはまらない方もいると思いますが)が日々直面する、ただひたすら「すみません」をいわなければいけない場面で、仮に上司が「すみませんですむか!」と言ったりすると、「だから謝ってるじゃん。すみませんですまないならどうしろって言うんだよ。」と口には出さないまでも、憤懣と反抗心が沸き起こってきたりします。
(ここまで多田氏が言っていることをまとめました。)

また謝って気持ちが晴れ晴れとするという誰にでもきっとある経験、あれは一種の呪術的なものであるかもしれない。結局禊(みそぎ)やお祓いと同じことなのかもしれない。なぜそんなことをいうか?
樋口清之(ひぐち きよゆき)の「日本人はなぜ水に流したがるのか」(たしかPHP文庫)には「すみません」の語源は水を汚してしまうことで、それを水に流して元通りにすることを「すます」といい、漢字をあてると「済む」は「澄む、清む」であると書かれている。「これでやっと気が済んだ」というときと、「済みません」というときは根源的にはつながっているのであろう。
(ちなみに私はこの「日本人はなぜ水に流したがるのか」を福島第一原発の高濃度汚染水を海に捨てたというニュースを聞いたあと読んだのだが、複雑な気分でした。しまった、これは「架空対談」ではなかった。脱線してすいません。)

話を鎌倉時代に戻しますが、平重衡(しげひら)という人物について。重衡は清盛の五男で南都攻撃の際、東大寺や興福寺を兵火によって焼いてしまったときの平家方の総大将である。しかし源平の戦いの中で、平家が一時的に勢力を巻き返したのは、墨俣川(岐阜県)の戦いや、水島の戦い(岡山県)で勝利した後ぐらいであるが、その両方の戦いで平家を率いていたのは重衡である。しかし一の谷(兵庫県)の戦いで義経に敗れ、捕らえられた。

京都から鎌倉に護送され、首をはねられる運命を待っていた重衡は「自分は善行を何一つ
おこなわなかった。このまま処刑されたら地獄にいくことは必定である。」とすでに死人の顔をしていた。彼は戒師(死ぬ心構えをつける説教師)として法然を指名し面会を許された。法然は「罪深ければとて卑下し給うべからず。十悪五逆の者も廻心すれば往生を遂ぐ。」と言い、浄土の法門を説いた。

鎌倉に護送されてきた重衡を見た源頼朝は驚いた。生来の凛々しい表情と、その奥に確信に満ちた人生を歩む人間が放つ輝きがそこにあったからである。頼朝は重衡を殺すことはできなかった。といって鎌倉にいさせることもできないので、京都に送りかえした。重衡はそこで興福寺の僧侶たちにリンチされ殺された。(以上 寺内大吉著「法然讃歌」中公新書より。この本は法然の専修念仏の流行と鎌倉王権成立の関係を知るには非常に有益だ。おすすめする。)

1195年、東大寺再建に莫大な寄進を行った源頼朝は上洛を果たす。そこで大仏像修復に活躍した宋人の陳和卿(ちんなけい)に面会を求めた。(注:この陳和卿は、ちんちくりんのはったり屋の坊主である。彼だけはスケールが小さいと思う。)ところが陳は日本の当時最高権力者である頼朝の申し出を再三にわたって断り、しかも手紙で「国の敵を討つにあたり、貴公は多くの人間を殺した。その罪は非常に重い。そのような大罪人と私は会うことはできない。」と書いた。頼朝はこれを読んで感きわまって泣いたという。(『吾妻鏡 建久六年三月』 河合正治著「武士の生活と鎌倉仏教」より。これはグーグル検索で読めます。)
鎌倉初期において武士たちの罪悪感はみな強かったことをうかがうことができる。

このころ法然の活動もピークを迎えており、法然の門人たちが、次々と鎌倉に入った。
兼実は法然とつながりが強く、鎌倉の情報を法然の弟子たちから、キャッチしていた。また熊谷直実(くまがい なおざね)のように、法然に全面的に帰依した御家人もかなりいたことだろう。頼朝が三ヶ月の京都滞在を終え、帰郷してしばらくして熊谷直実(蓮生房と出家後は名乗っていた)が後を追うようにして、鎌倉にやってくる。そして将軍に面会を求め、念仏義を説いたという。(『吾妻鏡』)源頼朝は直実の講義を一生懸命聞いたと推察される。妻の北条政子もまた熱心な法然信徒で、夫亡き後、剃髪し尼将軍と呼ばれるようになるが、法然と手紙をやりとりしていた。

悪人正機説とは親鸞ではなく、法然がもともと最初に唱えた考えである。そして末法思想と悪人正機の二つがきわめて時代にかなっていたので、武士階級のみならずあらゆる階級の支持を得て、一大集団になっていった。この聖(ひじり)パワーに慈円は苦々しい心境でいた。もともと比叡山で学んだ超エリート僧の法然が、いまや戒律など無視してよいという教えを公然と説いている。そして将軍や、兄の兼実もが法然義に耳を傾けている。さらに後に(1201年)自分が育てた親鸞は慈円のもとを離れ、法然の弟子となった。こうした法然に対する怒りを『愚管抄』でぶちまけている。
今日はここまでです。  
田中進二郎拝

泉浩樹 投稿日:2012/06/30 13:41

【885】[1001]『サクランボ』追加受付。約30箱 出ました。

学問道場 会員 福島県出身の泉浩樹です。
福島県須賀川市「有我果樹園」より お客様にお知らせです。

 ・『サクランボ』追加受付。約30箱 出ました。 ご報告7。

※『紅秀峰 サクランボ』ご予約ありがとうございまいた※
 『サクランボ』紅秀峰がご予約にて予定数完売でしたが、出荷の取り消しが出た模様です。(6/30朝 現在)
 ・従いまして、追加受付。約30箱が お受け可能です。
  あと約一週間で収穫は終わります。

 ・有我より、『サクランボ』は良い品質で、ご贈答にも利用出来ますと 報告が有りました。

 ・一部のお客さまに 手違いにより ご迷惑をお掛けしました。
  この場を借り お詫びを 申し上げます。
 
 有我果樹園のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/ariga0729

 ・FAXにての ご連絡を お願い申し上げます。FAX:0248-76-7384
  福島県 須賀川市 浜尾 「有我果樹園」

 『サクランボ』は、日持ちがしにくい為「ご予約」という形をとらせていただいております。
 FAXにてお客様の 『お名前、ご住所、郵便番号、電話番号』をご記載の上、ご希望をご注文ください。
 なお、「贈答用の場合は送り先と送り主さまの記載」を忘れずにお願い申し上げます。
 ご注文の先着様順に 朝に収穫したものを即日発送いたします。

 サクランボの特性上、配達日指定はなるべくお断りしております。どうしてもというお客様はその旨ご相談願います。
 到着時間帯の ご希望/ご指定は承って居ります。

 *1kg/バラ詰め3500円 プラス送料、(クロネコヤマト)で承ります。
  1kg化粧詰め(ご贈答用)は 1kg/5000円 プラス送料となります。

 なお、代金は昨年と同様に「請求書と郵便振込用紙を同封さしあげます」。
 お手数をおかけしますが、到着後のお振込を お願い申し上げます。
 (贈答用の場合、送り主様に請求書を 送らせていただきます)。

 みなさま、福島の初夏の味覚をお楽しみください。

 ご注文を ありがとうございました。

 ⁂次回の「桃」の案内も ご期待いただきます様 お願い申し上げます。
 『もも (アカツキ)』を7月後半に ご案内致します。
————————————————————————————————–

 『副島隆彦「学問道場」』をご覧の皆様からは ご理解とご愛顧をいただき 厚く感謝を もうしあげます。

 福島県人は皆元気にしております。風評には負けません。
 ご理解を頂き ありがとうございました。

泉浩樹 拝

田中進二郎 投稿日:2012/06/30 07:02

【884】[1000]鎌倉仏教のなぞを解く その3

鎌倉仏教の謎を解く 第三回       (重たい掲示板990,999の続き)
重たい掲示板1000回に到達です。記念すべき第1000回を書かせていただき光栄です。
「ふじむら掲示板」に藤村甲子園さんが吉本隆明「最後の親鸞」を読んで、という記事を書かれているのを、私は今日拝読しました。

実は巻末の最晩年の親鸞のところが難解で、一回読んだだけでは吉本氏の結論がつかめなかったので、藤村さんの記事は大変参考になりました。感謝します。吉本氏はやはりマルキストなので、親鸞の思想は宗教の存在意義の否定だということが書かれていて、難しく考えすぎていた私にとって示唆に富んでいました。確かに吉本氏の「真贋」(しんがん)という本にも、「浄土真宗は実体としての浄土がないということをはっきりいっている点で、宗教を否定するところに成立した宗教である。」ときちんと書いてありました。

あの本の最後の章は言葉こそ「即自的」、とか「対自的」という言葉は使われていないけれど、ヘーゲルの弁証法を駆使していると思います。ヘーゲルの論理学を読んでいるようで、これは抜け出られなくなるぞ、投げ捨てないと、と私は思いました。ヘーゲル左派のフォイエルバッハが「ヘーゲル批判」の中で「論理学は一回読んだら捨てろ、でないと堂々めぐりでヘーゲル学者になって一生終わるぞ」と書いているのを読んだ記憶を思い出しました。「最後の親鸞」もそういう構造になっていると。

ところで実際に吉本隆明のいうように、「実体としての浄土はない」と浄土真宗では教えているか、というと答えは否であろう。800年も昔から浄土真宗のお坊さんは「南無阿弥陀仏を唱えれば阿弥陀仏に救いとられる」と教えてきただろう。一方、吉本氏も「浄土真宗が無神論である」ということを述べているのではない。

ここからは私の考えであるけれども、法然と親鸞の悪人正機説(あくにんしょうきせつ)には質的な違いがある。法然の悪人正機説は、いかなる衆生の罪悪も阿弥陀佛の慈悲によって救われるという「許し」を前提として、専修念仏によって往生を遂げるという教えである。これはわかりやすいと思われる。だから法然の念仏と、穢れたものとされた女人の念仏とに一切の区別はない、みな同じと、法然は力説した。法然の念仏は晩年になるにつれて激しい行となっていった。けれども、門人には誰であれ自分ができるだけの念仏でよい(易行道)をといていた。法然は仏教の厳格な戒律も決して破らなかった。だから聖人カリスマである。慈円も法然に近いタイプだったろう。

一方の親鸞は歎異抄で「いづれの行も及び難き身なれば、地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」と言った。自分のことを凡夫といい、また愚禿親鸞と名乗った。1204年後鳥羽院のもとで出された、法然一門の念仏停止(ちょうじ)と京都追放令(承元の法難)で親鸞は越後国に流される。が、これを機として、あるいは奇貨としてというべきか、自ら非僧非俗であるといい始める。自分は悪を背負う人間である、と。

親鸞の悪人正機の場合は、親鸞自身の悪の自覚によって、往生を遂げることが可能となる。
「自分が一番ワルである。自分が一番弱い。だが阿弥陀如来は救ってくださる。よって心配ない、あなたがた皆も救われる。」
というわけである。だから親鸞の存在と、その神話化が浄土真宗にとっては決定的に重要になっていくのです。私は義経伝説との類縁性まで感じます。義経は弱い、というだけですが、親鸞は悪人でしかも弱いカリスマなのです。

また越後配流後の親鸞はイエスと似ている、と吉本氏も言っています。けれどももちろん罪悪といっても文化的な働きが全然違います。これだけを言ってもあまりピンとこないですよね?
これは日本文化の独特の形式と関連していると思いますので
2つほど面白い例をあげたいと思います。が今日はこの辺でいったん終わりにさせていただきます。 
田中進二郎拝

田中進二郎 投稿日:2012/06/28 04:40

【883】[999]鎌倉仏教の謎を解く 第二回

「 鎌倉仏教の謎を解く」(前回990の続き)

関連する主な出来事年表
1192年  1月 源 実朝生まれる。 3月後白河法皇死去。 7月源 頼朝征夷大将軍に任命される。慈円延暦寺座主(ざす)となり、宗教界のトップにつく。前年に九条兼実は関白に就任。
     (源頼朝 45歳 北条時政 54歳 北条政子 35歳 後鳥羽上皇12歳 法然59歳 
     九条兼実(くじょう かねざね)44歳 慈円37歳 親鸞19歳 源頼家10歳)

1195年  6月 奈良の東大寺の再建供養式が頼朝、後鳥羽上皇らの参列のもとでおこなわれる。    
頼朝3ヶ月在京する。
1198年  法然「選択本願念仏集」(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)著す。     
1199年 1月 頼朝死去。頼家が後を継ぐ。 4月 頼家の親政が制限され、北条時政が13人の御家人による合議制を定める。
1201年  親鸞、慈円の下を去り、法然の弟子となる。
1203年  9月幕府有力御家人で頼家の義父、比企能員(ひき よしかず)討たれる。北条時政・
      政子親子、頼家を伊豆の修善寺に幽閉。
1204年 実朝、坊門信清(ぼうもん のぶきよ)息女と結婚。
1205年 3月「新古今和歌集」なる。幕府有力御家人 畠山重忠(はたけやま しげただ)討たれる。
1206年 (モンゴルでチンギス・ハンの即位)
1207年 法然 土佐に、親鸞 越後に配流される。
1213年 和田合戦、和田義盛(わだ よしもり)敗死。北条義時(よしとき)が執権と侍所を兼任
実朝、藤原定家(さだいえ)より、相伝の万葉集が贈られる。このころ金槐和歌集(きんかい わかしゅう)がなったとされる(金は鎌倉、槐とは槐門(だいじん)の意味で、鎌倉右大臣実朝の歌集の意味だそうだ。)                                      
1218年  12月、実朝右大臣になる。 
1219年  1月実朝、鎌倉の鶴岡八幡宮にて暗殺される。 6月京から九条            頼経(よりつね)が鎌倉に迎えられる。(九条兼実の孫)
1220年ごろ 慈円「愚管抄(ぐかんしょう)」を著す。
1221年   承久の乱。後鳥羽上皇軍、北条氏率いる幕府軍に敗れる。    
1225年   慈円死去。
(日本の歴史「武者の世に」 集英社を主に参考にしました。)

(これよりその1の本文)
慈円(1155年~1225年)という人物について、日本史研究家はあまり注目してこなかったらしい。というのは、摂関藤原家の血をひくエリートであったせいで、判官びいきの日本人に受けが悪かったからだ。源義経の生没年を調べると、1159年~1189年で義経の生きた時代と前半生は一致している。それゆえに義経伝説の裏に隠れて不人気であった時代が長く続いた。たとえば慈円の和歌は百人一首の中に入っている。
「おほけなく 憂き世の民に おほふかな わがたつそまに 墨染めの袖」
(身の程知らずの私であるが、この世の民をおおってやることにしよう。
私の立つ比叡山の墨染めの衣でもって)
この一句には慈円の為政者=宗教界の支配者としての意気込みが歌われているのであるが、多くのひとびとはカチンときてしまうらしい。「なんて傲慢なやつなんだ。」と。

だがそれは権力者、上流階級、栄達をきわめた人間=悪という図式でしかものをみることのできない間違った歴史認識である。そのくせ判官びいきの人間には、「弱いけど本当は血筋の良い人(貴種)」に対する憧憬(しょうけい)がいつもある。素朴で・頑固で・単純な人間の特質である。

一方、和歌が好きな人間で、源実朝の金槐和歌集の素晴らしさにケチをつけたりする人はいないでしょう。「あの暗殺された悲劇の将軍ね」それだけでかなり色眼鏡がついているでしょう。けれども、慈円の和歌が果たして実朝に劣るとはいいきれないのではないか。慈円の歌には、実朝に強烈な影響を与えていたであろう、と思える歌がいくつもあるし、現代でも、くちずさむように歌われていいと思えるようなものがある。

みな人の知りがほにして知らぬかな
かならず死ぬるならひありとは
(新古今和歌集832 無常)これは「メメント・モリ」(死を忘れるな)だ。

明けばまず木の葉に袖をくらぶべし
夜半(よわ)の時雨(しぐれ)よ
夜半の涙よ
(拾玉集)
これなんかは意味はどうでもいいが、明らかに民謡の歌詞だ。イタリアのカンツォーネだと思えばいいんじゃないか?この句の「~よ、~よ」という呼び方は今でも生きている。「浜辺の歌」の原型か、もしかすると?「愚管抄」の中には大和言葉の特徴を論じた箇所もあり、いきいきとした日本語を用いることの重要性を800年も前に指摘している。これは後ほど引用する。
慈円は日本のマキャベリだと思ってかきはじめたこの原稿であるが、芸術の世界をもリードしていっている、慈円の姿をみつけてしまった。

貴族階級の人間は余計なことで神経をすりへらしたり、ニーチェのいうようなルサンチマンに苦しめられることがないから、ダイレクトに言葉を伝えることができる。それを享受する庶民は「自分と同程度の人間だ」という思い込みから、「傲慢な人間だ、いけすかないなあ。」等と言って自分も偉いつもりになってみたりする。それがニーチェのいう小人である。

慈円の「心」を歌ったものには宋学の影響がみられる。(と思う。)宋学は日本ではもう少し時代が下ってから、後醍醐天皇のころに朱子学として本格的に日本に輸入されてくるのであるが、北宋時代の思想家、周敦頤(しゅう とんい1017年-1073年)の道徳的価値の「誠」を唱えた「通書」などを慈円が知らなかったとは想像しにくい。平清盛が行った日宋貿易により輸入された書物を、慈円は経典のみならず、歴史書や道家(どうか)も読んだことだろう。比叡山の想像しがたい冬の寒さの中でも、若き慈円の厳しい修行は続けられていった。

世の中を心高くもいとふ(厭う)かな
富士のけぶりを身のおもひにて (新古今和歌集1614)

厭世を歌っているのですが、志は高いのだといっているのです。次の歌と変わらないですね。
わが胸のもゆる思いにくらぶれば
煙はうすし桜島山(坂本竜馬)
次はごぞんじの方も多いだろう。Go my way! だ。

わが心奥までわれがしるべせよ
わが行く道はわれのみが知る  (拾玉集)

山里にひとりながめて思ふかな 
世にすむ人の心強さを  (新古今1661)

最後の「心強さを」がストレートに響いてきませんか?
新古今和歌集には92首も採られており、西行法師に次いで多いそうだ。そんなこととは
私も知らなかったのですが。今回は和歌の巨匠慈円について書いてみました。 田中進二郎拝

泉浩樹 投稿日:2012/06/28 02:07

【882】[998]『サクランボ』予約販売終了 ご報告6

『サクランボ』完売 ご報告6

学問道場 会員 福島県出身の泉浩樹です。
 『サクランボ』完売 ご報告6 申し上げます。

※『紅秀峰 サクランボ』ご予約ありがとうございまいた※
「有我果樹園」より お客様にお知らせです。『サクランボ』紅秀峰がご予約にて予定数完売です。
 
>次回は『もも (アカツキ)』を7月後半に ご案内致します。
 『副島隆彦「学問道場」』をご覧の皆様からは ご理解とご愛顧をいただき 厚く感謝を もうしあげます。

 一部のお客さまに 手違いにより ご迷惑をお掛けしました。
 ここで お詫びを 申し上げます。
 
有我果樹園のブログ
 http://blogs.yahoo.co.jp/ariga0729

 FAXにての ご連絡を お願い申し上げます。FAX:0248-76-7384
 福島県須賀川市浜尾 「有我果樹園」
 

 みなさま、ご注文を ありがとうございました。

⁂次回の「桃」のご案内も ご期待いただきます様 お願い申し上げます。
————————————————————————————————–

 福島県人は皆元気にしております。風評には負けません。
 ご理解を頂き ありがとうございました。

泉浩樹 拝