重たい掲示板
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Loginはこちら【1084】[1227]総理一任
「TPP バスに飛び乗る 火縄虫 夏を待たずに 参加表明」
一部の人間の合理的選択が、多くの人にとって不合理だとしたら、
説得力に乏しい「ロゴス」を用いて、あとは「パトス」に訴えるということでしょうか。
タテマエが「国益」で、本音は「耐えがたきを耐え」となるのでしょうか。
「属国であるということ」が、読むべき空気。
最初から参加ありきなら、長老に一任して、落としどころを探すだけ。
「ルールを作る側」という、早期参加の正当性は、説得力があるのでしょうか。
中国の国家資本主義と対峙して、どのように中国の成長を取り込んでいけるのでしょうか。
中国へはまた別のアプローチをするのでしょうか。
(以下すべて引用。)
『それでも中国は巨大な成長を続ける』副島隆彦
まえがき
「果たして、中国からの撤退など簡単にできることか? できるはずがない。
今も成長し続ける巨大な中国市場を無視して、日本国が生きていく道はない。」
『その言い方が人を怒らせる』加藤重広
第三章 ロゴスとパトスを使いこなす
論理を意味する英語のロジック(logic)は、古代ギリシャ語のロゴス(logos)と語源
が同じである。ロゴスは、「理法」と訳すこともあるが、「論理」であるとともに、「理
性・真理」であり、「言語」、特に「神のことば」でもある。神のことばは真実を語る論理
であり、理性のことばだと考えると、ロゴスのなかにいくつもの意味がとけ込んでいるの
も当然だと思えてくる。唯一神的な世界では、神こそが理性であって真理であって、神の
ことばこそが論理として正しいことを伝えると考える。しかし、日本のような多神教的な
世界では、唯一の真理を表すことばという発想は出てきにくい。八百万の神々は、それぞ
れに合理性と正しさを持っているかもしれないが、すべての神々の言う真理が矛盾なく成
立するとは限らない。唯一の≪真理=論理=言語≫であるロゴスが世界を支配する西欧世
界に対して、日本をはじめとする汎神的な世界では個々の≪真理≫が世界の中で調整され
て均衡して安定を得ていると言えるだろう。
私たちは、自分たちがどう感じているかを人に伝えようとすると、それがことばで思い通りに表
現できなくてもどかしく思う。これは、ロゴスに対して、気持ちや感情を表すパトスとい
う言い方で象徴することができるものだ。
第四章 読むべき空気と読まざるべき空気
「場の空気」は、特定の集団や地域や文化ごとに決まっている常識のような
ものであり、その決まりを知らない者にはわからないことが多い。
「人が作り出す空気」とは、いわば聞き手が望んでいることや想定していることの総体である。
ことばにして口に出すのはロゴスだけだが、そこからパトスを推測して読み取れ、と言い換えていいか
もしれない。この場合、ロゴスは建前に、パトスは本音に近い。
終章 時代の求めることばのありかた
かつて、日本の共同体がムラ社会のあり方を基本にしていたころには、いちいちロゴス
として説明しなくとも、みんなが納得しているというパトスのレベルの一体感さえあれば、
物事はつつがなく動いていったのかもしれない。いまでもよく「(最終的に)一任する」
という決定方法が日本ではよくとられるが、実はロゴスのレベルで考えてもうまくいかな
い場合や、単純に結論が得られない場合には、パトスとしてみんなが受け入れられるかた
ちにすることで、落としどころを得るのが日本人にとっては丸く収まるからだろう。
【1083】[1226]南相馬の近況
震災から2年が経とうとしています。
震災当初は1万人まで減った市の人口も、5万人近くまで回復してきました。
他地域からの被災者も滞在しているので、もう少し多い実感です。
雪の多い会津にあった大熊町の仮設住宅は、分解されて市内に運び込まれ再築されています。
http://1.bp.blogspot.com/-47LaACqHh8U/UTsT6YsO1uI/AAAAAAAAAbs/p-LKxQclspc/s1600/IMGP0724.JPG
ただ、若い人はまだ戻ってきてません。震災前はコンビニなどで働いていた中国人の出稼ぎ労働者も戻りません。
津波による損傷が酷かった市内の火力発電所はすっかり復旧し、2月からは試験運転が始まっています。
http://1.bp.blogspot.com/-vVVCXUeLSk0/UTsT7ONJAdI/AAAAAAAAAb4/DrUyNfqLyic/s1600/IMGP1024.JPG
同じく津波で被災した真野川河口の漁港も復旧しました。
http://3.bp.blogspot.com/-6VsTVFXDW-Y/UTsT7TyZnvI/AAAAAAAAAb8/V18Yyc90iIQ/s1600/IMGP1034.JPG
町中では新しい飲食店なども開店し、少しだけ復興ムードが出てきています。
もともと潰れるべきだった工務店や建設会社までが、
社員への給与補償や、除染などの復興関連事業でゾンビのように息を吹き返してます。
休眠状態のまま、賠償金だけもらっているような会社もあるようです。
農業の方は、市内での稲作が今年も耕作中止となりました。今の状況では、風評で作っても売れないだろうという理由です。
それと、現在、農地から宅地への転用が被災者の住宅建設目的の場合のみ、認められやすくなっており、
跡継ぎもいない老齢の農家は、農地を宅地化して売り払う動きが多くある事情もあるんだろうと思います。
昨年は人手が入らなかった田んぼや畑で、外来種のセイタカアワダチソウという植物が在来の植物を駆逐し生い茂っている様子をよく見かけました。
この黄色い花を咲かせる植物は、根から微量の毒をだし、他の種の植物を根絶やしにし、最終的には自分の毒で自家中毒となり枯れてしまいます。
そういった毒のため、田んぼの土が使い物にならなくなってしまうそうです。
http://2.bp.blogspot.com/-q0Fn0sMjPtI/UTsa0kTadiI/AAAAAAAAAcU/Gf2sGgP1bIs/s1600/IMGP0378.JPG
最近の新聞折り込みの求人チラシです。
こちらの生活感覚がいくらか伝わるでしょうか。
http://1.bp.blogspot.com/-q8VsUNzHMW8/UTxeDzS979I/AAAAAAAAAck/g2kTG8h7ul8/s1600/IMGP1095.JPG
http://4.bp.blogspot.com/-GOacx5E9ies/UTxeD37qA-I/AAAAAAAAAco/868LnPtFFUE/s1600/IMGP1094.JPG
<除染事業について>
市内の幾つかの仮置き場がようやく決まり、来年度から本格的に除染事業が始まるようです。
南相馬市の除染事業は提案コンペで竹中工務店が請け負うことになりました。結局、予算規模は400億円程になったようです。
埃よりも小さい物質を地面から取り除くという公共事業をどこまで本気でやろうというのか、私は半信半疑です。
<住宅事情について>
相変わらず市内では賃貸物件が足らず、被災者の生活再建や復旧・復興事業の足かせとなっています。
少ない空き部屋を被災者と復興事業者で取り合っている状況です。
物件が足りない理由として、借上げ制度による物件の差し押さえ状態があります。
借り上げ契約だと、どんなオンボロな物件でも最低6万円の補償金が県から貸主へ支払われ、
借主は家賃負担がないので、一度借りると元の家に帰還しても借りっぱなしのままでいるようです。
この補償金を当て込んでか、一棟7千万円から一億円ほど建築費のかかる集合住宅が、市内のあちこちで建設中です。
復興補助金が200万円ほど出るものの、元が取れるかは疑問です。
警戒区域の帰還困難の被災者がそろそろ帰還をあきらめて、中古住宅を購入したり、
土地を買って新築するケースも増えています。
少し前は、大工や、特に内装の請負人員が足らず、購入の契約をしても引き渡しまで3年待ちと言われてましたが、
今は全国規模の工務店では人員を増強して、早く引き渡しできるようになったと聞きました。
<隣の小高区や浪江町の状況>
市の南部の小高区では、水道工事で掘り起こした土を置いておく仮置き場が昨年終盤にようやく決まったので、
復旧はまだまだこれからです。
国指導のがれきの撤去作業が2月1日から始まりました。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG3104F_R00C13A2CC0000/
http://www.kfb.co.jp/news/index.cgi?n=201301303
小高区や隣の浪江町の賠償は、住民の帰還できない警戒区域指定から5年間を経過すると住宅については全損扱いになり、
全額賠償される事になっています。(5年間に満たない場合は年数で比例した分が支払われる)
しかし実際は、人の手が入らずに1年半放置された住宅は、相当損傷が進み、大がかりな改修をしなくては住めなくなってしまっているそうです。
小高の住人の話では、水道管が鉄管の場合は、錆びて使い物にならなくなっており、
屋内の家財や畳は、雨漏りやカビで損傷して、またネズミが繁殖して家の中が荒らされていて柱がかじられるなどの被害もあるそうです。
その人は相当不満が高まっているようでした。
また、野生のイノシシと家畜の豚の合いの子のイノブタ(猪の凶暴性と豚の繁殖力と食欲を併せ持つ)により屋内が荒らされるケースもあると聞きました。
近況は以上です。
【1082】[1225]第4回投稿(私の基本戦略[序文])の投稿遅延について
会員番号6720の岡 末雄です。
[1214]第3回目投稿で「私の基本戦略―日本人民が日本国民となり、真に自由であることを追求していくために」の序文の投稿を予告しておりましたが、3週間余を経過した現在でも脱稿に至っておりません。私が長年在籍した地方公務員の世界でも、事案によりましては許されざる咎です。ましてや、多士済々の学問道場の会員の皆様の心中におかれましては。
今回は3つのやんぬるかなの言い訳をもって、会員の皆様に対する「私の基本戦略」序文投稿遅延の弁明といたしたいと思います。
言い訳その1
平成22年3月末日をもって福岡県職員を定年退職し、公的年金満額支給の65歳を限りとする再任用職員(一兵卒)の職にありましたが、故あって2年2か月を残し、この2月8日辞表を叩き付けました。(叩き付けると言っても、もはや若造ではありませんから徐に丁重に職を辞しました。驚いた管理職の上役は、当然のごとく上役預かりとされましたが、一日たりとも出勤する気はありません。故ありの退職ですから。
翌2月9日から晴れて“毎日が日曜日”の身分となり、昨年3月10日発表の維新八策に対抗すべく、「私の基本戦略」(当然ながら維新八策を多くにおいて拒否するものです。)として、事に触れ折に触れて考察して来た提言を、「重たい掲示板」に投稿することを決意し、満を持して2月13日に第1回目を投稿した次第です。
辞表提出とその余勢を駆って投稿を開始したものの、ハッと虚空を見上げると、己には妻と身体障害者の娘と孫娘を食べさせて行く義務があることに再びハッと気付きました。急遽再就職口を探した結果、私でも務まりそうな職がありましたので、早速応募したところ、選考試験に論文(作文)がありました。合否はともかく論文で人後に落ちては沽券に拘わると思い、受験勉強を開始しました。
これが、投稿遅延の第1の言い訳です。
言い訳その2
投稿する以上、何かepochmakingな発表をして注目を浴びることが得策と考えていたところ、次の重大事に気付きました。すなはち、2015年が終戦70年、2045年が終戦100年!
よって、「私の基本戦略」の発射台は2015年8月15日、設定目標年を2045年末と決めました。投稿遅れを棚に上げて、急がずともよいとする私の勝手な言い訳ではあります。
言い訳その3
2月13日に、初めての投稿・第2回目投稿・第3回目投稿をしたところ、ある会員の方から2月15日に返信メールを頂きました。その方とは、現在も(現在と言ってもまだ2週間余ですが)間断なくメール交換をさせて頂いております。その方のメール内容に幾度となく眼を通していると、私の中に重大なかつ思いもよらなかった心境の変化というよりも心境の激変が生じました。[1211]初めての投稿で触れて置きましたが、天上天下唯我独尊・天の邪鬼を自他共に認めてきた私に、次のような疑問が湧いて来たのです。「序文に限らず現在考えている戦略23策について、原稿を提示し忌憚のない意見を貰って、意見調整・修正加筆のうえで投稿すべきではないか!」と。
己の信念に自信あり、余人の意見聴くに足らずと実践してきた私には、まさに驚天動地の心境でした。その方の承諾を得ましたので、今後、かかる重要な検討作業が加わります
投稿遅延の3っ目にして決定的な理由(言い訳)です。
未だ全容を明らかにしていませんが、「私の基本戦略」は、苦悩・苦悶・苦闘して来た60年余の私の信念・信条の集大成となるものです。
副島先生の著書「The road to hell is paved with good intentions」との出会い以後、先生の山よりも高く海よりも深い造詣に接し、多くを学ばせて頂いたことが、その根底に有ることは論を待ちません。
同時に、素晴らしい博学多識の方の協力を得て、揺るぎない戦略に仕上がることを確信しています。
因みに、「私の基本戦略」は、昨年7月5日付け日本経済新聞電子版にあった「維新八策」改訂案(衆議員選挙用にと、あちらからこちらからと政策を切り取ってきて、まるで山羊の小便のようにダラダラダラと総花的に美辞麗句を並べたもの・・維新の会支持者の方、ごめんなさい。)とは、ひと味違うスッキリしたものとなるでしょう。
平成25年3月4日 早朝東雲の時刻 岡末雄 拝
【1081】[1224]安倍首相のオバマ政権への賄賂(わいろ)日米密約。やはり「50兆円の米国債買い」である。
副島隆彦です。 今日は、2013年2月25日です。
「行きはよいよい、帰りはコワイ」 と 一昨日、植草一秀氏が私との講演会での対談の席でも言っていました。 現在、急激に降って湧(わ)いたような、「円安、株高、土地値上がり」の 浮かれ騒ぎの ようになって、まるでこれで日本の景気が回復する、というような 「花見酒(はなみざけ)の経済学」を日本の 富裕層と 経営者たちはやっている。
安倍首相はアメリカでのオバマ大統領との日米首脳会談(2月22日)の、”意気揚々たる”成果をひっさげて帰ってきて、早速、日銀総裁人事をやっている。
黒田東彦(くろだはるひこ)アジア開銀総裁(元財務省 財務官=No.2)が日銀総裁になり、岩田規久男(いわたきくお)学習院大教授が、副総裁になりそうだという。 岩田規久男は、ジャブジャブマネーの推進者で、日銀攻撃の急先鋒だった。
すべてのシナリオが、日本の財務省を屈服させる形で、安倍首相を操る竹中平蔵のシナリオどおりに進んでいる。 以下の新聞記事が、一番重要だ。 注意深く読んでほしい。
(転載貼り付け 始め)
「 首脳会談、米側は抑えた反応 メディアの関心も低調 」
朝日新聞 2013年2月24日(日)
22日、ホワイトハウスでオバマ大統領(中央右)と会談する安倍晋三首相=ワシントン、樫山晃生撮影
【ワシントン=伊藤宏】 安倍晋三首相とオバマ米大統領の初の首脳会談をめぐり、米政府はオバマ大統領の発言をほとんど発表せず、米メディアの関心も低調だった。実務的に会談に臨んだオバマ氏の姿勢は、政権交代の成果を政治的にアピールした安倍氏とは対照的だった。
22日午後、ホワイトハウスの大統領執務室。会談を終えた安倍、オバマ両氏が記者団の前に姿を現した。両首脳が会談内容について説明した後、米メディアからオバマ氏に飛んだ質問は、日本とは関係ない米政府支出の強制削減について。オバマ氏は質問に答えた後「これは米国内向けの質問だから、次の質問は安倍首相に」と促したが、米側記者から会談に関する質問は出なかった。
そのオバマ氏も、日本の記者からの「尖閣問題についての考えを説明してください」という問いかけには答えなかった。米政府は会談後、環太平洋経済連携協定(TPP)についての共同声明の文書を発表しただけで、会談全体の意義については触れなかった。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。 TPPについて、安倍首相が強く取引としてアメリカに要求した、「例外なしですべての項目で完全の撤廃ということはない」ということをアメリカは、日本が差し出した50兆円分という 巨額のアメリカ財政へのわいろ金の 見返りとして認めた。
この記事の中の「 ・・・・米メディアからオバマ氏に飛んだ質問は、日本とは関係ない米政府支出の強制削減について。
・・・・・米側記者から(日米首脳)会談に関する質問は出なかった。」 の部分が重要だ。
米メディア と野党である 共和党の議員たちの関心 と疑惑は、「日本は一体、いくらの貢ぎカネをオバマに差し出したのか。それで、アメリカの財政破たんの危機は、何か月先延ばしされるのか」 である。
日本の安倍首相が、オバマ政権に持ってきた「日本政府による50兆円の 米国債買い」 という日本からの米財政への支援金の話である。これは日米密約となっている。そしてこの50兆円で、安倍政権は、アメリカからのTPPの厳しい要求を回避し、かつ、 尖閣問題での 日本の苦しい立場 (中国政府は、本気で怒りだしている) を、オバマが、知らん顔をして、「日本側の要求を、関知しない態度ということで、飲む」 という 態度に出た。
今年中に、中国との軍事衝突( conflagration コンフラグレイション)の可能性が出てきた。そして米軍のこれへの支援はない。「日本は、アメリカに頼らないで自分でやる」と 安倍晋三は、質疑に対して口を滑らせてしまった。以下の記事の中にある。
「行きはよいよい、帰りはコワイ」である。日本の自民党支持の資産家や経営者たちの90% は、今、好景気になりそうだと、浮かれ騒いでいる。 これが、いったい 秋ごろからどういうことになるか、本当に、私たちはこのあとの無様な 日本の衰退国家への道を 凝視(ぎょうし)しなければいけない。
ヒラリーはもういない。だからアメリカは日本を助けない。ホワイトハウスのカーニー報道官は、そのことをはっきりと言っている。
(転載貼り付け始め)
「 米報道官、尖閣問題で返答に窮し「知らない」 」
読売新聞 2013年2月23日(土)21時4分配信
【ワシントン=中島健太郎】 沖縄県の尖閣諸島に関する米政府の立場について、カーニー米大統領報道官が22日の記者会見で米記者の質問を理解できず、返答に窮する一幕があった。
尖閣問題でクリントン前国務長官は今年1月、「日本の施政を害しようとするいかなる一方的行為に反対する」 と、従来より踏み込んだ表現で中国をけん制し、日本政府はこれを歓迎した。同日の日米首脳会談直前の記者会見でクリントン発言に関する質問を受けたカーニー氏は、「クリントン氏はもう長官ではないが……」 などと的はずれの回答をしたうえで、「その発言は知らない」と述べた。
同日の日米外相会談では尖閣諸島への日米安全保障条約適用を再確認したが、大統領の考えを代弁する立場の報道官の関心は低いことが露呈した形だ。
「 日米首脳会談 首相、米の「衝突」懸念に配慮
毎日新聞 2013年2月23日(土)
安倍晋三首相は22日のオバマ米大統領との首脳会談で、沖縄県・尖閣諸島の国有化を巡って関係悪化した中国との対話促進に意欲を示した。中国に対し「日米連携」で対処するのが、日本政府の基本戦略。しかし、肝心の米国は東アジアの安定に向け、中国を過度に刺激しないよう日本側にシグナルを送る。首相は中国や韓国との連携に前向きな姿勢を強調し、米側に配慮した。【松尾良】
対中対話を強調
「(日中対立を)エスカレートさせるつもりはない。対話の窓、ドアは常に開かれていると申し上げたい」
首相は日米首脳会談後の記者会見で、中国の習近平総書記に首脳会談の実現を呼びかけた。中国による尖閣周辺での領海・領空侵犯を受けて、米国では日中間の偶発的な衝突に対する懸念が拡大。首相は尖閣を日本の領土と強調しながらも、冷静に対応する考えを示した。
この日の日米外相会談で、ケリー国務長官は岸田文雄外相に対し、「尖閣は日米安全保障条約の適用範囲」との見解を改めて表明。しかし、首相は米戦略国際問題研究所(CSIS)での質疑で「米国にこれをやってくださいということはない。尖閣は私たちの力で守る」と述べ、米国を巻き込む事態は招かない考えを示唆した。・・・
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
【1080】[1223]石堂清倫の陸軍批判・情報武官小野寺信について
前回の訂正、石堂清倫の陸軍批判と情報武官小野寺信について
田中進二郎です。二週間前に投稿した『アジア人同士戦わず』の思想の源流を探る、についていくつかの間違いがありました。遅くなりましたがお詫び、訂正します。
(前回の間違い箇所1)
「1941年12月8日の真珠湾攻撃の当初から、「八百長」戦争であったわけで、フランクリン・D・ルーズベルトはハワイのパールハーバーに、太平洋艦隊を囮(おとり)として攻撃させる戦術(作戦)を用いた。また日本軍は日本軍で、太平洋艦隊を「奇襲」攻撃した後、第二次攻撃の命令を待っている航空隊に、「攻撃は終了、帰って来い」という命令を出している。
そのころ、ルーズベルト大統領はパーティーで婦人たちに、「もうすぐ、日本が攻撃してくるころだ。ハハハ」と笑みをうかべていた。
そして、その後にあの有名な“Remember Pearlhabour”の演説となるのである。
(参考 「真珠湾の真実」(ルーズベルト欺瞞の日々)ロバート・スティネット著 文芸春秋 ほか この本は副島先生も「必読だ。」と著書で書かれている。)」
と書きましたが、「もしや」と思って調べてみたら、上に書かれていること全てが副島先生の『時代を見通す力』(PHP研究所)のP296~298に書かれている事柄でした。
(ただし「八百長」戦争という言葉は私田中が勝手に書いたものです。)
(前回の間違い箇所2)
「石堂清倫(いしどう きよとも 1904~2001年)が97歳の高齢でなくなられるまえに
グラムシ・シンポジウムというのがあった。アントニオ・グラムシ(イタリア共産党の創設者のひとり ベニト・ムッソリーニのライヴァルだった。)研究家や社会思想家が石堂さんを囲み、グラムシ思想について研究の発表をするという会で、確か、ロマーノ・ヴルピッタ氏が開会の辞を述べていた。ヴルピッタ氏というのは「ムッソリーニ」(中公叢書)の著者で、昨年の六月に「今日のぼやき」(1310 広報ぼやき)で吉田祐二さんが紹介されたの
でご記憶の方も多いだろう。また石堂さんはまさにロシア革命からソ連邦崩壊までの社会主義の世界をずっと生きてきたような、日本の左翼知識人の元祖である。」
と書きましたが、ロマーノ・ヴルピッタ氏ではなく、、グラムシ・ローマ研究所所長ジュセッペ・ヴァッカ氏の間違いでした。(ヴルピッタとヴァッカを間違えるなんて私もバカである。失礼しました)
石堂清倫が日本の軍部がいかに戦略を持たずに、日中戦争を行ったかについて批判している文章があったので、引用します。
(「ヘゲモニー思想と変革への道』~革命の世紀を生きて 第一章より
引用開始)
日本の中国侵略戦争の教訓
第二次世界戦争は世界史におけるひとつの転折点であったといわれる。その一方の主役である日本の、十五年にわたる中国侵略について、戦後いくたの研究がなされ、日本帝国主義の特殊侵略的な性格に反省が加えられたことは事実である。その一方で、歴代の内閣閣僚が戦没者の英霊を慰めると称して、靖国神社に示威的に参拝していることに象徴されるように、形をかえた侵略思想が維持されていることもまた事実である。
一九三一年九月一八日に始まる満洲の軍事占領の結果として、カイライ国家満洲国が建設されたとき、軍部はこれを王道楽土と称した。満洲は実態としては軍事国家であったが、侵略当事者が「王道」、すなわち道徳による統治の看板をあたえたのは痛烈な皮肉であった。われわれの世代のものは、軍民を問わず、青年期に儒教的教養を身につけている。孔子や孟子を大なり小なり読んでいるのである。その孟子は、武力統治を覇道として斥け、道徳による統治を王道として尊重した。関東軍首脳の人びとは陸軍幼年学校、士官学校、そして陸軍大学で何回も王覇の別を教わったはずである。彼らが何ひとつ学ばなかった例はこれだけでなく、とりわけ、教科として重視された孫子や呉子の兵法に反する戦略をとりつづけて敗戦に至ったこととあわせて、よく記憶すべきことであろう。
ついでに言えば、政治における理と力は孟子に始まるわけでなく、彼より三世紀も前にすでに墨子にその兼愛説にもとづく「非攻」すなわち戦争反対論の一節がある。孟子や墨子ほど有名でないが後漢の王充(二七-七七?)の『論衡』巻十に、国を統治するには第一に徳を養い、第二に力を養うことであり、徳を尊ぶならば戦うことなしに同意させることができるという一節がある。
日本人のあいだに普及していた王覇の論が道徳的・倫理的同意形成の政治理論に発展しなかった経過は別に論じなければならないが、このヘゲモニーの事実は日本の中国侵略戦争の経過でも見聞することができたのである。とくに三〇年代後半の日本軍と中国軍との交戦が、しだいに後者に有利に傾き、時がたつにつれ中国軍が個々の会戦に勝利していることをわれわれは知っていた。国民政府軍と人民解放軍との内戦段階では、それがいっそう際だつようになった。
勝利がたんに軍事技術的に得られるだけでなく思想戦としても展開され、戦闘開始以前に「民心」がすでに解放軍に集まっている状況が新聞報道をつうじてよくわかった。ただ、われわれにはそれを道理と暴力の弁証法として理解する力がなかった。国内に居たものもそうであろうが、中国から帰還した兵士たちはもちろんのこと、居留民たちも、軍事に従属した日本の政治しか知らないものが、新しい中国に生まれている「軍事を自己に従属させる政治」に触れて何を感得したであろうか。
三〇年代の末に、中国各戦線の指揮官たちがもはや軍事的成功の展望をもてなくなったとき、満鉄調査部が、おそらく支那派遣軍総司令部の内面的示唆に応じて、「支那抗戦力調査」として中国の抗戦能力を分析したことを想起したい。その結論は、日本と中国の関係問題はもはや軍事的には解決の可能性はなく、政治的に打開する外はないということである。新しく政治的外交的に中国と交渉を開始するには、当然の前提として、日本軍部隊をすべて中国から引きあげることが含意されていた。言いかえればこれまでの軍略を新しい政略に従属させることがその前提であった。
軍内部にはこの選択を期待する状況があったにもかかわらず、どのような機微の逆転によるかまったく不明であるが、東條英機らの強硬派の主動によって満鉄調査部関係者の大量検挙のような奇襲によって、軍略が政略を圧倒した。しかし、十五年戦争における軍部は、日露戦争時代とちがい統帥権の独立の建前から政治を軍事に完全に従属させていたのであって、このことは『統帥綱領』(一九四七年復原版)の解説が、国家戦略不在のせいぜい野戦軍レベルの戦術の硬直した形式化にとどまり、クラウゼヴィッツが戒めた「依法主義」(Methodismus)に囚われていたのである。
その結果、わが陸軍が養成した将帥は、せいぜい方面軍の指揮官にすぎず、国家の運命を左右する国軍の指揮官は生れる由もなかった。(クラウゼヴィッツ生誕二百周年記念論文集『戦争なき自由とは』五二五頁)。軍事思想の根幹がそうであったから、「調査」を局面転換の一手段として利用することは結局失敗したのであろう。
いしどう・きよとも 一九〇四年、石川県生まれ。二七年東京帝国大学文学部卒。在学中東大新人会に入り、日本共産党に入党し、二八年治安維持法で検挙。三三年転向し三八年まで日本評論社に勤め、三八年満鉄調査部に入社して大連に渡り、大連図書舘などに勤務。四三年満鉄調査部事件第二次検挙で逮捕、四五年懲罰応召、敗戦を関東軍二等兵としてハルピンで迎え、大連に戻った後、四九年まで労働組合で働く。帰国後日本共産党に入り、六〇年頃離党。七七年には荒畑寒村らと運動史研究会を結成し、『運動史研究』(全一七巻)を刊行。グラムシ研究会を創立、グラムシ思想の普及に努める。おびただしい訳書以外の著作に『わが異端の昭和史』(正・続)『異端の視点』『中野重治と社会主義』『大連の日本人引揚の記録』等がある。
(引用終わり)
田中進二郎です。前回「戦略なき戦争に突っ込んでいった日本軍部」と私は批判しました。上の石堂さんの文章にも納得するところが大ですが、「方面軍の指揮官程度しかいなかった」、という指摘については、うーん、どうなんだろう?あとクラウゼヴィッツの「依法主義」という言葉もよくわかりません。
副島先生の「時代を見通す力」には次のような記述があります。
(p294より引用開始)
・石原莞爾(いしはら かんじ)の警告「間違ってもアメリカとは戦争するな」
米内光政(よない みつまさ)海軍大将(37年の近衛文麿内閣では海軍大臣)はアメリカとひそかに連動していただろう。右腕だった井上成美(いのうえ しげよし)次官も、その五年先輩の山本五十六(やまもと いそろく)大将も当然ながら常に米内と共同歩調をとっている。彼ら海軍のトップたちは三国軍事同盟に反対し、ロンドンとワシントンの軍縮条約に賛成した「条約派」であり平和主義者だということに評価が戦後できてしまった。
今の今でも日本の戦争史や政治評論界では「アメリカと戦っても勝ち目はないと正論を言っていたのに、陸軍がそれに聞く耳を持たず暴走した」ということになっている。そんなものは真っ赤なウソである。ここで私ははっきり書く。後の東京裁判でA級戦犯として絞首刑にされた軍人たちのなかに海軍は一人も入っていないのである。
関東軍参謀だった「戦争思想の天才」石原莞爾陸軍中将も、日本の満州権益を守るために、彼自身が初期にかなり謀略的なことをした。けれども石原は戦争不拡大派だった。「中国本土には手を出すな」といい続けた。石原はアメリカに対しても冷静だった。綿密で詳細な国力比較した結果から、海軍の米内や山本たちよりずっとはやくからから「絶対に負けるから間違ってもアメリカとは戦争をしちゃいかん」と言っていた。
それもあって左遷され、満州から日本に早々と帰された。東条英機首相と
ぶつかって、満州国の設計者の地位を追われた。49歳で京都師団長となって、このあと退役、昭和十六年(1941年)には予備役に編入だ。石原たち「不拡大派」は主導権争いに敗れたのだ。
(引用おわり)
田中進二郎です。『消えたヤルタ密約緊急電-情報士官・小野寺信(おのでら まこと)の孤独な戦い』岡部 伸 (おかべ のぶる)著 (新潮選書) によると、日中戦争開始後一年半近くたった、1938年12月に日中和平工作が水面下で始まったという。日本軍が中華民国の首都南京を占領した後のことである。
(以下要約・引用します。p120~132)
情報士官の小野寺信は南京におかれた総司令部から、国民党の蒋介石との直接和平の可能性を探るよう命を受ける。陸軍参謀本部は支那課とロシア課で作戦が違っていた。
支那課は南京攻略前から汪兆銘(精衛)の傀儡(かいらい)政権をたてることによって、蒋介石国民党政府を弱体化させて、和平にこぎつけようとしていた。陸軍参謀本部は圧倒的にこの考えが強かった。この作戦は「梅工作」
と呼ばれた。
一方、ロシア課の小野寺はハルビンで情報武官として教育を受けたあと、ポーランドやバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、スウェーデンなどの情報武官と厚い信頼関係を築き、ソ連やナチス・ドイツの軍の動向をつかんでいた。その小野寺は、「傀儡政権は世界史的にみても多くの場合は失敗する。」ということをヨーロッパの民族の興亡を肌で学んでいた。「中国のナショナリズムを考えると、傀儡の汪兆銘政権では、中国の民衆の信頼を得られない。重慶の蒋介石政権に直接和平交渉を開くしかない。」と考えた。
また蒋介石の国民党の背後に、敵対関係にありながら「抗日」で合体を模索する中国共産党がいて、それを操っているのは、世界に共産主義を浸透させようとしていたソ連のコミンテルンであることを見抜いていた。
英米が支持する国民党政府は国共合作を進めていて、日本軍が侵攻を続ける限り泥沼になるだろう。戦争が長期化すれば、利するのは中国共産党であり、ソ連である。そこで小野寺は早急に蒋介石と和平を結ぶことを考えたのであった。
この工作機関は「小野寺機関」と呼ばれ、『魔都』上海の外灘(通称バンド)のクラシック・ホテルに事務所と住居が置かれた。陸軍の総司令部も板垣征四郎陸軍大臣以下、小野寺に期待するところ大だったのである。この機関には、二十人ほど起用されたが、軍人はひとりもおらず、ソ連や中国共産党の事情にくわしい転向者を多かった。また近衛文麿の息子文隆も加わっていた。
小野寺は蒋介石との会談相手を、近衛文麿首相か板垣征四郎陸相のどちらかにすると構想していたようだ。しかし、陸軍参謀本部はそこから小野寺を支援しなくなる。近衛文麿も積極的ではなかったという。そして支那課の汪兆銘傀儡政権工作派が巻き返していき、小野寺機関は解体される。小野寺信は左遷され、近衛文隆は上海で軟禁された。その他の日本人は逮捕され、中国人工作者は処刑の憂き目にあう。
結局、日本の陸軍参謀本部は片方で傀儡政権を樹立し、片方で蒋介石との直接和平を模索するというダブル・スタンダードを行ったのである。これでは交渉相手の信頼は勝ち取れなくて当たり前である。機関を解体され、上海を去ることになった小野寺に対して、蒋介石は部下を通じて、金製のカフスボタンを贈った。それには「和平信義」と彫られていたという。
(要約・引用終わり)
田中進二郎です。ながく引用を繰り返してしまいました。泥沼の日中戦争をなんとか食い止めようという動きがあった、ということは少しは日本人として明るくなれることではないでしょうか。
また今も尖閣問題でゆれる日中関係をどこかで、誰かが立て直そうとがんばっているだろうと思い、そういう人の応援になれば、と思い書きました。
ちなみに私は左翼活動家ではありませんので、その点はどうか誤解されないように。「アジア人同士戦わず」の精神を守ってゆきましょう。
田中進二郎拝
【1079】[1222]Global trends 2030
中長期の世界情勢予測について5年ごとにアメリカ大統領にペーパーを上げている国家情報会議が最新版の「Global trends 2030」を昨年末に公開しています。
http://www.dni.gov/index.php/about/organization/national-intelligence-council-global-trends
エグザクティブサマリーの訳はこちらでも読めます。
http://www.mod.go.jp/msdf/navcol/SSG/topics-column/016.html
引用はじめ
アジアは、グローバルパワーの観点で、GDP、人口、軍事支出、テクノロジー投資額等を合わせると北米、ヨーロッパをしのぐであろう。中国は、2030年までに数年を残して、アメリカを超え、おそらく単独で世界最大の経済大国となるであろう。
引用終わり
シンプルな話ですが、中国に抜かれることはアメリカもすでに織り込み済みで動いているというのが印象的でした。
【1078】[1221]辺野古と核兵器
こんな記事がありました。次のラジオ番組で解説します。
Okinawa’s Henoko was a “storage location” for nuclear weapons: published accounts 沖縄・辺野古は核兵器貯蔵地 公開された文書 :: JapanFocus http://japanfocus.org/-Steve-Rabson/3884#
【1077】[1220]OZのボス
OZ(オージー)庶民ニュースの寺平浩です。
今年は水害からスタートしたクィーンズランド州ですが、ゴールドコーストは無事でした。中部バンダーバーグは一帯が水びたしになり今はどうにか水が退いたようですが、家々ライフラインともに大きなーダメージを負い、復興にはまだまだ時間とお金がかかるようです。
今回のテーマは一転かわりまして政治経済です。
「OZ(オーストラリア)のボスは誰ですか?」
ということに焦点を合わせようとおもいます。最初にイメージするのはジュリアギラード首相、いやいやあそこは英国連邦だからエリザベス女王に違いない(ちなみに2018年にコモンウェルスゲームはゴールドコーストで開催予定です。)と思われますがこれも違います。答えは大手資源採掘会社のオーナー達です。2011年輸出統計からみる鉱物、燃料の構成費はなんと64.7%鉄鉱石、石炭だけでも42.4%あります。
なぜOZのボスが民間会社の社長達かというのに一つの面白い事例があります。2008年総選挙で政権を奪取した労働党ケビン=ラッド前首相は、目玉の政策に鉱山超利潤税を提案し、その財源をもとに国民の福祉やインフラに分配するとして資源採掘会社達と戦いました。結果はケビンの惨敗。彼らは一斉に反鉱山利潤税キャンペーンを 貼り、ロビー活動で与党の重鎮までも動かしました。その後ケビンはみなさんご存知のジュリア=ギラード首相にすり替えられました。後にジュリアは鉱山資源使用税を前鉱山税のかわりに発表しましたが資源採掘会社に配慮した結果、抜け穴だらけで30億ドルを2012年後期に予定していたが実際は1億2600万ドルだったと今月に修正している。
2012年は鉄鉱石、石炭を採掘会社にとって苦難の年でした。中国、インドを中心とする需要が急激に落ちこみ、そのことが価格に反映され一時は売るに売れず港に山積みになっている鉄鋼石、石炭をニュースでよくみたものです。これによってOZ経済は実質2012年7月から不況に突入したと思われます。後にファーガソン資源大臣がここ数年の資源ブームにより経済を強力に牽引し、人々がその恩恵を受けたが、ついにこの資源ブームは終わったと率直に認めました。ところがどこかから横槍がはいり翌日訂正している。
今までOZの資源は鉄鉱石、石炭のことを指していましたがこれからは天然ガスとウランが加わります。これは鉱物から燃料に変わることを意味します。天然ガスは3.11震災後我が国日本の需要によるもので国際石油開発帝石(インペックス)、ガス会社、電力会社そして商社がこぞってダーウィンからブルームにかけての新しいプロジェクトに参画しています。ウランに関してはまだ未知数なところがあります。なぜならこれまでOZはウランの輸出を原則禁止していましたが昨年のジュリアのインド訪問でウランのトップセールスを始めたことで解禁となりました。ただいま天然ガスとウランのプラントを建造中で2015~2017年に主なプラントが創業予定となるためこれが軌道に乗るまでは不況が続きそうです。
最後になりましたがOZの都といえばシドニーもしくはメルボルンでしたがこれにも変化が現れています。天然ガス市場の活況により西のパース(ダーウィンも)の人口そして地下上昇率、そして人手不足ととんでもないことになっています。現在オーストラリアの経済を牽引しているのはまぎれもなくウェスタンオーストラリア(首都パース)とノーザンテリトリー(首都ダーウィン)
でしょう。これにより経済の軸足も東海岸から西海岸へと大移動中という意味ではOZはまだまだ発展の余地がありそうです。
ということで今日のOZ庶民ニュースは終わりにします。
Hiro Teradaira
【1076】[1219]福島本部活動日誌です113
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年12月24日~26日の日誌です。
(ほぼ福島関係有りませんが、書きます。こんなにも難産だったのは、初めてです。)
24日は、疲労で二人とも正午前まで寝てしまいました。
午後1時、外に昼食に行きました。
ここら辺でストラスブールの店の料理の事が、大体わかりました。
私には量が多く、決して安くはなく、塩気が足りない・・・というよりは日本の料理の方が塩分を使いすぎ、なのだと思います。
ドイツとの国境にあるからか、兎に角、量がありました。特に、肉とチーズやクリーム等の結構重いものが多かったです。
はっきり言って、ストラスブールの人、食べ過ぎです。(パリなんかは、また違って、美味しいけど少ないらしいですが・・・)
隣の席に、巨体の女の人が二人で、ずーっと食べていましたが、周りの人もこの人たちのような状態にいつかなるんじゃないかと心配してしまいます。
価格は、二人で7000円位でした。日本の観光地ならば、もう一寸低く抑えられる筈です。
(築地で寿司屋に行って、一人3500円位だと考えれば、適正かもしれませんが。)
誰かのサイトで、この10年のヨーロッパの物価上昇について言及している人がいましたが、私にとっては、最初のヨーロッパなので比較しようがありませんでした。何れにしても、お金が日本よりもずっとかかる印象でした。
(私が覚えているのは、1991年の深圳が、舗装道路が一本もなく、軽犯罪者を押し込んでいた牢屋の人が、賄賂として紙幣一枚を格子越しに押し付けようとするのを無視する光景です。
それと、深圳は1000円のチップで、普通の労働者の月収に相当していたことです。他のことは、日本の田舎との類推しか出来ないので、よくわかりません・・・。)
(Zさんによると、ヨーロッパだと、金がないと本当に人間扱いされないそうです。)
味付けは、マスタードやオリーブオイル、香草、香辛料、等でなされていて、塩控え目でした。
どこの店も化学調味料がほぼ無かったのが嬉しいです。(人によっては、パンチが足りないなんて言うんでしょうけど・・・こっちのほうが地味に美味しいと思います。)
食後、クリスマスミサまでストラスブールの街を歩きました。
中華料理の店と日本料理の店が並んでいました。
実際は台湾あたりの人のやっている店のようでした。
Zさんは自宅に帰った後、自分のブログに「日中友好」という文字と共に、同様の写真を上げていました。
(今は、Zさんの為に、紛争が起きて欲しくないものです。
例のゲームのセリフを借りれば
「せっかくここまで引っ張ったんだから、どうせなら、このまま綺麗な物語のまま突っ走って、完結させて欲しい」
ということです。)
入りはしなかったのですが、マルコ・ポーロというレストランがありました。
例のゲームのシナリオを書いた人の同人小説の中に、「丸子 望楼」という、「東方見 聞録」をインスパイ『ヤ』したキャラが出ていた事を思い出しました。
全く、丸子望楼氏のお陰で、黒と白の争いをする羽目になってしまい、挙句にストラスブール巡礼をする事になるとは・・・、とんでもなく酷い人です・・・。
(↑満面の、下卑た狂信者の顔で。なお、ネタがわかる人は余りいないと思いますので、どうか読み飛ばして下さい。)
ショッピングモールの中にトイザラスが入っていました。同じショッピングモールに、もう一店ゲーム関連の店がありました。
もちろんトイザラスには、ゲームソフトや玩具が置いてありました。
ベイブレードやWWEのフィギュアなど、色んなコンテンツがありました。
http://4.bp.blogspot.com/-Z2tPbsSRwe0/URwVk68z5mI/AAAAAAAACgI/qDcVPXH5NuI/s1600/P1110608.JPG
http://1.bp.blogspot.com/-3mVI_Du68dY/URwVk5NkMmI/AAAAAAAACgM/2ur3uJyT9RI/s1600/P1110607.JPG
http://4.bp.blogspot.com/-RUj0NI32snw/URwVkb5Q-jI/AAAAAAAACgE/JKJV-fYZ3eQ/s1600/P1110606.JPG
少なくとも、フランスの店の中では、綺麗に商品を陳列してありました。
秋葉原よりも、ずっとゆったりと商品が置いてあり、これはこれで良いことだと思います。
ただ、仕方ないことなのかもしれませんが、日本より、商品の価格が高いです・・・。
ひょっとしたら、こういった場所で任天堂等の企業は、美国や法国の企業と、知らず知らずのうちにソフトパワーによる文化的な国際間戦争を行っていたのかもしれない、・・・などと考えるのは大袈裟に過ぎるでしょうか・・・。
もしも、このトイザラスにあるゲームなどで楽しんだ人たちの中から、10年後くらいにps3とエロゲの古典の一つとして、私たちがやったゲームをプレイしてくれる人がいたら、そしてこの街が舞台として取り上げられたのだと知ってくれる人がいたら、まして、2012年だけで舞台探訪をした人間が最低でも6人いるのだと知ってくれたら、・・・そんな行き着き果てた狂いかけのファンの一人として、望外の悦びです。
Zさんと、二人で「絶対にありえない未来だけど、18禁ゲームが、もう少し人口に膾炙した世界があったらね・・・」なんて話していました。
きっと、裏で澱んだ輝きをしているのが、本当は良い事ではあると、頭では理解はしているのですが、・・・まあ、心情的なものです・・・。
18禁ゲームが、いい意味(?)で陽の目を見るのは、アニメ化、一般ゲームへの移植、漫画版アンソロジー発売、くらいしかないですので。
どちらかといえば、悪い意味で陽の目を見る事が多いです。177問題とか、沙織事件(別名、フェアリーテール・ジャスト事件)とか、レイプレイ問題とか・・・。
なお、例のゲームのライターさんの同人小説に出てくる丸子望楼氏という漢は、作品中で、○織事件を無意識のうちに裏から操り、ヒロインを京都の未成年の代わりに補導させた真の黒幕として、「時空のデーモン めもらるクーク ○織事件」に出てきますので、・・・興味のある奇特な方以外は読まれない方がいいと思います・・・・・・。
(↑ネタわかる人は余りいないと思いますので、どうか読み飛ばして下さい。)
http://www.suruga-ya.jp/database/ZHORO9596.html
大聖堂前の売店を回って、時間を30分だけ潰しました。
写真の印象よりはずっと人が多かったです。
午後5時から、大聖堂でのクリスマスミサの一回目に出ました。
やっぱりZさんが「ジャポネ?」と声をかけられていました。
ゲームの舞台になったからここに今いる事をZさんが伝えると、ものすっごく微妙な顔をしていました。
http://youtu.be/VAD4MxLmVuo
http://youtu.be/Myw2e2dfCj4
http://youtu.be/itSuogguFUI
午後6時半、一度ホテルに戻り、この後のミサに備えました。
帰り道にはいっぱいの日本人観光客がいました。
レストランがなかなかやっていなくて、難儀しているようでした。
・・・実はツイッターでリアルタイムで知って後悔したのですが、ゲームのパッケージに写っているレストランは、42ユーロでクリスマス限定の特別メニューを出していました。
しかも、日本からの2人のゲーム巡礼者の方々が、それを食べていました。完敗です・・・。
午後11時、大聖堂でのクリスマスミサの二回目の開場に並びました。ものすごい人でした。
後ろの方に着席しました。
30分後、コンサートから始まり、前の方を見ては
「あそこらへんにヒロインの一人の母親が・・・」
や
「ヒロインの怪我がなければ、主人公と2人のメインヒロインはどんな行動を取ったんだろう」
と考えていました。
やっぱり脳内でゲーム関連のことばかり考えて、まともにミサに出ていませんでした。
もしもフランス語がわかったら、一生懸命ミサの内容に騙されようと頑張ったのかもしれません。
http://youtu.be/VAD4MxLmVuo
http://youtu.be/JbcZaxMiKkc
http://youtu.be/838NJCacYJY
http://youtu.be/XL4UcocNV9E
http://youtu.be/5KxsuuB0g4c
ミサの後、Zさんが、ゲームの曲を大聖堂近くで流していました。
・・・もう私たちには、何も怖いものはないです・・・、殆どヤケクソですが。
ホテルに帰って、Zさんのとっておきのアイスワインで乾杯しました。
絶対にやっておくべきエロゲを、6本ほど教えて貰いました。
ちなみに、まだやってません・・・。秋葉原へは遠いですので・・・。
25日、泥酔に近かったので、正午過ぎまで起きられませんでした。
午後1時40分、ゲームのパッケージに「kohkas」とある看板は、レストランのものなのですが、そこに食べに行きました。
伝統的なアルザス料理の店らしく、やっぱり肉を食べることになりました。
この時、「ゲームのあの絵のレストラン」だと認識できれば、人参の皮のような廃棄物でも食べられる狂信者の状態でした。
が、そんな変な補正をせずとも、とても美味しい料理でした。
ただし、返す返すも、地味な料理でもあります。
食べ終わった後、幸運にも二階の席だったので、窓からゲームのパッケージ絵の所を写真に撮りました。
自分で言うのもなんですが、この時の私、目が逝ってたはずです。
もう一度、ストラスブールの街中を適当に歩きました。
ある教会では、クリスマスにミサがあるようで、その予行演習をやっていました。
ゲームの舞台探訪とは関係がないのですが、欧州評議会の建物を見に行きました。
ヨーロッパの過去について、変わった展示の仕方をしていました。
↓の写真の様に、柱に展示してあり、妙に感心しました。
Zさんはここに2回ほど通訳の手伝いで来た事があるそうです。
外交官特権は、手荷物検査等がチェック無しになるなど、相当に凄いものだ、と言っていました。
一部の展示に大変面白い「英語」が書いてあって、爆笑しました。
こういう表記ミスも、いっそそのままにしてしまった方が、ひょっとしたら大らかで良いのかもしれません。冗談でなくそう思います。
路面電車で中心部に戻った後、午後8時から10時まで、大聖堂近くのレストランで、ストラスブール最後の食事をとりました。
肉、エスカルゴのパスタ、サラダ、ポテト、と、孤独のグルメという漫画の言葉で言えば
「ソースの味って男の子だよな」
と言いたくなるような、ジャンク一歩手前に思える食事でした。
ただ、肉を控えめにすれば、塩分も抑えてあるし、意外と健康的な食事になるんじゃないか、とも思います。
ちなみに、ここでズブロッカ(40度のウォッカ)飲みました。
・・・明日帰る人間のやる行動ではないので、くれぐれも反面教師にして下さい。
酔っ払ったまま、ホテルに帰って、風呂入って寝ました。
26日、午前8時に起き、帰る準備をしました。
午前9時40分、ホテルをチェックアウトし、ストラスブール駅に路面電車で向かいました。
ストラスブール駅で、最後の写真撮影をしました。
ストラスブール駅のプラットフォームでZさんと別れました。
(これからパリに電車で行って、新年を過ごすそうです。
「これで地元の人に案内して貰えるから、これからは安心だよ」と冗談を言っていました。
後日、三ツ星のレストランやエッフェル塔の写真を、Zさんはネット上に上げていました。
ただ、パリ滞在中に、近くで強盗事件があったらしく、「ストラスブールとは違っておっかね~」と言って、予定を早く切り上げてドイツに戻ったそうです。)
アンツハイム空港駅で電車を降り、空港で搭乗手続きをしました。
正午から1時間の飛行時間で、スキポール空港に着きました。
行きとは違い、乗り換えの時間が1時間しかないので、空港内を急いで移動しました。
そのせいで、カートのようなものに轢かれかけました。
成田行きの搭乗手続きを済ませ、席について、やっと落ち着けました。
隣の席の女の人が、イギリス在住の音楽関係の方で、結構話し込みました。
なかなか優れた人で、3時間くらい話していました。
その後、6時間は浅い眠りのままになってしまいました。
行きも帰りも、KLMは良かったです。
何よりも、KLMのスタッフ自身が基本リラックスしているのが、私にはとても好ましく思えました。
(↑一般の日本人の感覚っぽくない感想だとすれば、それはストラスブールの空気に染まったせいです。)
着陸の少し前、福島第一原発と福島第二原発と思われる建物を、ぼんやり眺めてみました。
白河やいわきの位置から類推して、それっぽい建物が確かにありました。
なお、Google Earthの福島第一原発近辺は、2011年の3月12日や3月19日に画像が取得されており、今見直すと、当時の状況が偲ばれる写真が所々にあります。
日本時間27日午前10時、成田空港に到着しました。
ストラスブールに行ったというより、Zさんと一緒に聖地巡礼をした、という方が正確になってしまいました。
実は日本もそうなのでしょうが、偉い人達は、私のような人間とは、スタート地点から大きく違いました。
スマートフォン複数とnexus等のタブレットを最低限のものとして所持し、中、日、英、徳語(※繁体字で記載)が話せて、食事のマナーもちゃんとしていて、人間的にも優れていました。
そして何より、「ああ、16色のゲームは、ホントいいよね」とも言っていました(←これ以上なく酷いオッサンホイホイです)。
最低限の中国語だけはやっていったのですが
「中国語は難しいし、どんなに頑張っても、私の日本語くらいにしか上手くならないから、私が変な日本語話して誤解された方がまし」
と笑っていました。
彼らの様な価値観が近い人たちとさえ、どうやって繋がっていったらいいのかわからないまま、もうすぐ通貨の差による優位性も無くなり、日本の絶対優位は「変態(※繁体字で表記)」(http://japanese.joins.com/article/544/147544.html)くらいしか残らない状況がまもなく来るのだな、と思うと、焦りを通り越し、諦めの気持ちになりました。
(Zさんは、次のサイトを証拠に挙げていました。
http://blog.livedoor.jp/geek/archives/51381786.html )
日中間での、一般にサブカルチャーと言われるもの関係は、この十年以上の積み上げが、2012年9月の一週間で駄目になったそうです。
あの時丁度、清華大学のアニメ・ゲームサークルの前ボスが、ご自分のなさってる会社の関係で日本にいらしてたのですが、一日中泣いていたそうです。
https://twitter.com/briansakana/status/247732087342374912
どこかの経済誌の評論にあったように、日中の関係改善にはあと20年くらいかかるのかな、と思います。
2008年からの私の経験も、もう余りできることは残っていないのかなと思います。
例のゲームの表現を借りれば「・・・・・・・・・私の冒険はここまで」となるのでしょうか。私は気づくのが5年遅かったです。
後は、Zさんに酔っ払って言ったように
「コンテンツは面白ければどの国の創作だって構わない」
のであり、ほんの少しだけ表現の自由が許されるようになれば(←本当は、これが一番むずかしいんでしょうが・・・)、そして資金の手当が付くようになれば(←なぜ中小エロゲメーカーが延期を繰り返すかといえば、銀行からの融資をまずは取り付けなければいけないので、最初に無理にでも計画をOHPで発表しなければならないから、と聞きました)、中国やインドネシアのコンテンツが、日本に来てくれるようになるのかな、と思います。
それが10年後なのか20年後なのか100年後なのかは、またどうやった手段で来るのかは、私にはわかりませんが、それまで待つのみです。
そしてその時は、日本を追い越していって欲しいです。
一言で言えば「後は若い人に任せて・・・」となります。既に私は旧世代に属するんだなぁ、としみじみ思いました。
ほんの少しでも彼らに追いつきたいので、いつかは軒轅剣(※繁体字で表記)3(http://baike.baidu.com/view/6443716.htm?fromId=1947578)をやって、「小ピピン、ブッヒィィィィ」と叫びたいです。
(↑ここで、14年前の古いゲームを持ち出すのは、更なる感覚の隔絶をもたらすような気がします・・・。同ジャンルなら日本の、戦国ランスや恋姫無双をやった方がいいのかもです。)
嗚~呼、15年前に今で言うネトウヨだったはずの私は、何の因果か、こんなにまで、考えが変わってしまいました。
(転載終わり)
【1075】[1218]福島本部活動日誌です112
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年12月22日、23日の日誌です。
(ほぼ福島関係有りませんが、書きます。こんなにも難産だったのは、初めてです。)
午前7時前後に、半分寝たまま、ホテルのwi-fiからtwitterを見てみると、確認できるだけでも私たち以外に、日本人で3人、中国人で1人、同様のゲームの舞台探訪目的でストラスブールに来る予定の人がいました。
うち一人の方は、ps3のゲームを10本購入する等、計60万円くらいこのゲーム関連で使っている筈です。
22日の午前8時に起きました。
とりあえず挨拶をした後、
「ストラスブールの税関は、CDG空港と比べると、緩すぎるねー。最悪、追い返されたりするのに」
「物語のヒロインの一人、電子辞書だけでよく入れましたね」
「あ、いや、それは、ほら、美人にはどこの国の人も寛大だから」
等と、気の抜けた会話をしました。
すぐに準備をして、地元のパン屋さんにパンを買いに行きました。とは言っても、Zさんに全て任せてしまいました。
ホテルに戻って、買ったばかりのパンを食べ、外出する準備をしました。
ゲーム中では、ストラスブールは雪が降っている設定だったのですが、大変残念ながら、現実のストラスブールは2012年のクリスマスの時期のみ、雪がとけてしまっていました・・・。
午前9時半、二人でゲームの舞台探訪に出発しました。
普通の人ならば、ホテルの近所の↓のような風景に観光の意義を見出すのでしょうが、余り私には訴えるものがありませんでした。
といいますか、Zさんによりますと、ストラスブールにもプロテスタントの聖堂はあるのですが、観光地になっている大聖堂付近にばかり人が集まるようです。
ストラスブールとは、カトリックのプロテスタントに対する防波堤の一つだったのかな、等と、どうでもいいことを思いました。
私、ストラスブールの大聖堂の威容には騙されることは無いです。
なぜならば、このゲームに喜んで騙されているから、です。
これってWA2という宗教だよね、と、舞台探訪中に、二人で何度か笑いました。
・・・兎に角、ゲームの舞台になった箇所に価値を置いていました。
10kmほど歩いて、途中に遅い昼食を挟みつつ()、
「主人公が宿泊したホテル」
「ストラスブールの大聖堂」
「大聖堂内の、椅子の最前列」
(ゲーム内に大聖堂の描写は直接は出てこないのですが、ヒロインの一人の母親が、音楽関係者のコネを生かして最前列でミサに出ていた、という設定になっています。
なお、ゲーム内の設定が、2012年のクリスマスにストラスブールで主人公とヒロインの一人が再会したことになっているので、
『あと58hくらいしたら、この近くの椅子にあのキャラが居たんだなぁ』
と、しみじみしながら椅子で休んでいました。
・・・本当に、私達は、何を、やって、いたのでしょうか・・・・・・。
自分のことは一番自分がわか「らない」のかもしれません。)
「ゲームの起動画面になっている、ストラスブールの街の一角」
「ゲーム内でヒロインの一人が『偶然』主人公と再開した広場」
「ストラスブール駅」
「ストラスブール駅のタクシー乗り場」
を訪問出来ました。
特に、ゲームの起動画面の近辺には、鴨のマークの看板があり、そこのお店がフォアグラを売っていました。
日本に帰った後、そこで買った缶のフォアグラ(を食べたあとに残った空き缶)が、記念品になりました。
ストラスブールにも、「Superdry極度乾燥(しなさい)」というブランドの服が店を構えていました。
向こうの人には、これがいいらしいです。訳わかりません・・・。
かなり格好良い若者が、『SAMURAI72』といったロゴの服を着ていると、なんとも言えない気分になります。
また、多民族国家の地方都市だからか、いろいろな人種の人がいました。
ホームレスの人たちが、かなり立派な身なりをしていました。
街中を歩いていて、「ダサいとお洒落の変な線上にある人が多い」印象でした。(←変な言い方で済みません・・・)
ただ、どちらであっても、格好良さに重きを置いているような印象でした。
こっちの青果屋さんでも蜜柑を探してみましたが、オレンジと変わらないものでした。
Zさんが持ってきた蜜柑も、デコポンに相当近いものでした。
私は広島のNさんから頂いた蜜柑を持って行きました。
・・・いずれにしても、冷凍庫がなかったので、ゲーム中の様に冷凍ミカンを食べる事はストラスブールでは出来ませんでした。
なお、ゲームと全く同様に
「ウィーンから電車を乗り継ぎ、その道中の夜行列車内で冷凍ミカンを食べ、ストラスブールに行く」
という行動を、前出の60万円使っているであろう方はされたそうです。
・・・頭が下がります。2013年もストラスブール聖地巡礼に行かれるそうで、既にホテル等の予約を進めてあるそうです。
青果屋さんにスペイン産の柿が置いてありました。
ギリシャとは違い、スペインには、なんとか最低限の輸出をしていくものはあるのかもしれません。
(Zさんは、ギリシャ人ってのは、本当にどうしようもない、と言っていました。)
午後4時に駅前のカルフールで、ミネラルウォーターやミニトマト等の食料品を買いました。
午後5時、路面電車と徒歩でホテルに戻って、休みました。
少しずつ雨になりだしました。
勿論旅行は、雪がない方が本来は都合がいいのですが、今この時期この街だけは、雪が降っていて欲しかったです。
午後6時から外へ夕食を食べに出かけた・・・のですが、ちょうど小雨が降り出した上に、行くレストランは次々に満席で、いつの間にか駅前まで歩いてきてしまいました。
1時間半近く経って、8件目でようやく入ることができました。
クリスマスの季節はこんなものだとZさんに言われました。
私は飲めないのに、ワインしか飲み物がなかったので、無理矢理飲みました。
変な妄想をZさんに話していた様な記憶があります。
スパゲッティを頼んだのですが、物凄い量で・・・唖然としました。
かなり残してしまいました。
ホテルに戻ってみると、自分達の宿泊したホテルが、ゲーム中に出てきたホテルそのままであることに改めて気づきました。
風呂等を済ませて、ベッドに入りました。
寝る前にエロゲの話をしたのですが、プレイ総数で10倍以上の差があるので、私ではとても相手になりませんでした。
23日、午前10時に起き、残っていたパン等で食事にしました。
疲労が溜まっていたので、正午まで休んでいました。
正午、ゲームのps3版のパッケージに描かれている場所を探しに出発しました。
Zさんのnexus(タブレット端末)に残っている記録だけで20km、記録に残っていない距離も含めると30km、歩く事になりました。
それでも、5時間と少し歩き続けて、やっと該当する場所を見つけられました。
(↑二枚目の方は、24日に撮影した昼間の写真です。) 近くに、「部屋の内装が、『ゲーム内でヒロインの一人が母親と宿泊した部屋』と同じホテル」がありました。
(↑二枚目の方は、24日に撮影した昼間の写真です。)
こちらのホテルに泊まれば良かったかもしれない、と少しだけ後悔しました。
23日になると、途端に外国籍の観光客が増えました。
「あの人は多分台湾の人」、「あの人は韓国人」、「あー、ドイツの団体だ~」、とZさんに言われても、私には全然区別がつきませんでした。
付言しますと私には、ストラスブールにいた、台湾、韓国、日本、の人達の区別が付きませんでした。
記念のコインを作った所で、私たちの前に居た女の人たちから、「どこ出身ですか?」と尋ねられました。
その人たちは、Zさんが予測した通り、台湾の人たちでした。
探す途中で、休憩も兼ねて、「ゲームの主人公が宿泊した設定のホテル」の一階で、コーヒーを飲みました。
普通の人にはただのコーヒーなのでしょうが、思い入れがあると、味は五十割増しくらいになります。
たとえ、このカップの中にスピリタスが入っていたにせよ、気持ちの上では、一気飲みが可能です。
(↑本当にやるのは止めといたほうがいいです。死にます。)
郵便局にZさんが用事があったので立ち寄りました。
係員の人と会話になり、
「戦争間近の日本人と中国人が、今の時期に一緒にいる事が、とても変わった組み合わせだ」
と言われました。
福島から来た事が伝わると、最初はジョークだと思われたようですが、その後は爆発のジェスチャーをして笑って誤魔化していました。
街を回っていて、Zさんの方が3回ほど、日本人と間違われていました。
中学生くらいの男子が、Zさんに向かって、両手に手を合わせた状態で、「日本人ですか?」と言っているのは、なかなか面白い光景でした。
(↑一緒だったお母さまが、すっごい美人でした。)
「Jap」がどうこうといった陰口は、街ですれ違いざまに、一度だけ聞きました。
(・・・実はその時は、人が多い中、写真撮影で手一杯で、周りに気を払えていなかったので、一寸言われても仕方のない状態だったかとは思います。)
Zさんは、
「昔日本に住んでいたからか、日本人に間違われる事が多い。その後、中国人だって言うと、『別枠の中国人』として扱われる。なんか、すごく微妙な気分になる」
と言っていました。
夜にZさんから、一寸だけドイツに行ってみないか誘われたので、電車で25分のドイツの町へ行きました。
フランス領のストラスブールよりも、圧倒的に街が綺麗で、行き届いていました。
もう少し細かい所を言えば、駅の切符販売機が、ストラスブールとは違い、素早く確実に動作していました。
(↑というか、Zさんが『空港の件といい、まったくフランス人は・・・』と溜め息ついてました。)
木々になされていたクリスマスの飾り付けも、ちゃんとしていました。どこか日本の感覚に近かったです。
イタリア料理の店に入って、夕食を食べました。
イタリア人の店員さんのドイツ語は、なかなか聞き取り辛い、と言っていました。
電車の時刻の関係上、すぐに戻らざるを得ず、結構急いで食べました。
ストラスブール駅に戻ってから、夜のストラスブール駅の写真を撮りまくりました。
撮影中に「ィヒヒヒヒ」という変な声が出ました。
ホテルに戻って、風呂に入りました。
それからゲームの音楽を聞いて、twitterを見て、寝ました。
(日本と中国の企業同士の提携が、こんな単純な、どんな創作物でも没になりそうな、ベッタベタな結末だったのか、と思うと大変に感慨深いです。)
(今の私は、「スイーツ(笑)」とか言われても堪えないと言いますか、韓流メロドラマだろうがなんだろうが、ラノベの腐った展開だろうが、受け容れて楽しめる状態になりました。
現実の方が、もっと単純で、俗に言う「王道」・・・つまりありがちなベタなもので、多分いい大人からすれば笑ってしまうようなもので、・・・それでもどうしようもないものでした。)
(転載終わり)