重たい掲示板
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Loginはこちら【1230】[1422]日本書紀と天武の正統性の問題
1415の続きです。
学問道場と名乗っていますが、あまりにも反響の無さにガッカリしています。日本にとりかなり重要なことを書いているつもりなのですが、書き方が悪いのか、注目理解されないのでしょうか。
十年前に、今私が書いている文章を見たら、私自身でもこの男は何を妄想しているのだ、と考えたと思う。それ程教科書で習った日本史の常識とかけ離れていることは自覚している。しかし、私の判断の根拠としているのは『日本書紀』『万葉集』『懐風藻』『古事記』『旧唐書』であり、総て第一資料と呼ばれるものばかりである。後世のインチキ学者の孫引きで組み立てた説ではないのだ。私の説に、文句があるなら第一資料を根拠に言って欲しい。日々の生活に追われる身では、パソコンに向えるのは二時間が限度だ、かなり切羽詰った気持ちで書いている、遺言のつもりで書いている。学歴の無い者が、偉そうなこと言っても誰も相手にしないのが日本の社会だ。だからこそ、この学問道場を発見したのは、喜びである。道場なのだから、目先のことだけに囚われず、お互いに鍛えるために忌憚の無い論を戦わせようではないか。お互いこの場を育て上げようとする覚悟がなければ、学問道場など名前だけのものに堕っしてしまうだろう。
目先のことは切羽詰って何より重要である、その判断を誤らないためにこそ根源を知ること、歴史を学ぶことが大事なのだと思う。
しかし、日本史学はあまりにもインチキが多いのだ、特に古代史に於いては。江戸時代以前の皇国史観と、江戸時代の皇国史観と、明治以降の皇国史観の違いを述べよ、出題されてキッチリと答えられる史学者がいるとは思えない。解る人がいれば、この掲示板に書いてほしい。これが日本史を理解する根源的な問の一つであるから。
今回は、あまりにも反応の無さに、愚痴を述べました。学問道場の発展を心から願っているものです。
【1229】[1421]匿名
この掲示板は匿名での投稿を許さない。本名を出せ。
馬鹿者。
【1228】[1420]組織の運営にはお金がかかります
1418に私は異議あります、いくら世の中不況といえども
組織の運営にはそれなりのお金がかかります。
言わんとすることは少しはわかりますがやはりお金は必要です。
【1227】[1419]グッドネイチャー パーソン 殿
匿名で書き込みさせていただきます。
この世には、お金よりも大切なものはありません。右を向いてから左を向いてだけでもお金がかかる世の中です。御託をならべる前にせめて1億円でも学問道場に寄付されるべきだと思います。 ^^
【1226】[1418]学問道場の会費を無料 もしくは年間1000円に値下げするべきです。
匿名で書き込みさせていただきます。
この世には、お金よりも大切なものがあります。 副島先生が本当に「貧しいが前途のある、優秀な若者たちを育てている」つもりがあるなら、本当に優秀な人間に育てるために、お金よりも大切な物があるということを徹底して教える必要があると思います。そのためには、年会費の値下げをするか無料にすればいいのではないでしょうか。
清潔で品のある弟子達も、コンビニの おにぎり を2個食べて本が読めれば十分でしょう。お金は必要ないはずです。それに、優れた知識は みんなの物です。是非 無料で ぼやき を公開してほしいですね。現在 会員になっている人たちは、会員を止めることをオススメします。
福島で困っている人たちを助けるためにも、復興増税は大賛成です。 将来は、国が国民の財産をすべて税金で徴収して、国民は配給で生活するのが理想ではないでしょうか。
【1225】[1416]『税金官僚から 逃がせ隠せ個人資産』(幻冬舎刊)が、快調な売れ行きを記録しています
副島隆彦を囲む会・須藤です。
いよいよ今週末(10/26(土))に迫りました、副島隆彦先生、孫崎享先生による渾身の講演会、
「『戦後史の正体』と『属国・日本論』を語り尽くす」(10/26(土)、会場:東京・御茶ノ水「全電通労働会館ホール」)を、再度ご案内いたします。
お席はあと少しですが、まだ残っておりますので、この機会に是非ご参加、御検討下さい。
・「副島隆彦の学問道場」第31回定例会
演題:「『戦後史の正体』と『属国・日本論』を語り尽くす」
講師:孫崎享、副島隆彦
開催日:2013年10月26日(土)
会場:東京・御茶ノ水「全電通労働会館ホール」
開場:12:15~
・上記定例会(10/26)へのお申し込みはコチラ↓
http://soejima.to/cgi-bin/kouen/kouen.html
今月に発刊した副島先生の新刊『税金官僚から 逃がせ隠せ個人資産』(2013年10月、幻冬舎刊)が、Amazon で早々と1位を獲得するなど、全国の書店で大変な勢いで購入されているようです。
・新刊のお申し込みはこちらへ⇒https://snsi.jp/shops/index#book
今回の10/26の定例会に参加されるお客様からも、『逃せ隠せ』の過激な内容についてご感想をいただきました。
(転載はじめ:10/26定例会にお申込された方からの伝言)
※コメント:
ほとんど本を読まない主婦でしたが、夫が購入した『逃せ隠せ』本が、この本を手に取りなさいと訴えかけるので2日で読み上げました。震えが止まらず、唇がワナワナし恐怖しました。夫婦で参加させていただきます。
入会も考えております。
(転載おわり:10/26定例会お申込者からの伝言)
今後も再燃することが確実視されている、アメリカ国債の債務不履行問題でも、その中心となった茶会党(ティーパーティ)と、その背景思想・リバータリアニズムに、日本国内で最も早くから言及していたのが副島隆彦です。
ここにきて再び注目を集めている副島隆彦・孫崎享両先生の「生の言論」に触れる、貴重な機会を是非ご活用下さい。
・「副島隆彦の学問道場」第31回定例会
演題:「『戦後史の正体』と『属国・日本論』を語り尽くす」
講師:孫崎享、副島隆彦
開催日:2013年10月26日(土)
会場:東京・御茶ノ水「全電通労働会館ホール」
開場:12:15~
・上記定例会(10/26)へのお申し込みはコチラ↓
http://soejima.to/cgi-bin/kouen/kouen.html
副島隆彦を囲む会
須藤喜直拝
【1224】[1415]日本書紀と天武の正統性の問題13
1413の続きです。
大宝三(703)年の粟田真人を大使とする遣唐使の派遣。これが日本統一王朝の第一回目の遣唐使である。粟田真人は天武の方針(日本列島では、開闢以来大和王朝しか君臨した王朝はなく、その王である天皇が代々途切れることなく即位し統治してきた)で作られた歴史を携えて唐の都長安を訪れ、日本国の由来を報告した。これには唐の史官たちは吃驚(ビックリ)したであろう。僅か40年前に倭国と戦争していたのだ。倭国王は、長安で捕虜生活を送っていたのである。日本列島の記録は十分すぎるほどあった。それなのに日本国の使者たちは、奇妙な歴史を語るのであった。
『旧唐書』日本国伝より
日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本国は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国是れを疑う。また言う、その国の堺、東西南北各々数千里あり、西界南界は皆な大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。
非常に簡潔で明快な文章である。唐の史官と日本国の遣唐使の遣り取りが目に浮かぶようではないか。
しかし、日本史学者たちは、この『旧唐書』の倭国伝、日本国伝の並記は、編者の不体裁な誤りである、と決め付け、否定し無視してきた。日本史学は、その上に構築されてきたのである。
【1223】[1414]『税金官僚から逃がせ隠せ個人資産』がアマゾンランキング総合1位!
前田和寿です、
副島先生の新刊『税金官僚から逃がせ隠せ個人資産』(幻冬舎)が現在時点でアマゾンランキング総合1位です。
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ぜひ、amazonから手に入れて下さい。
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前田和寿
【1222】[1413]日本書紀と天武の正統性の問題Ⅻ
1412の続きです。
前回書き残したこと三点書きます。
一つは、天武軍の勝利が確定した後、尾張国司守少子部連鋤鉤(ちいさこべのむらじさひち)と言う人物が自決した、という記事があることです。鋤鉤(さひち)は、6月27日、尾張・美濃で徴集されていた二万の兵団を引率していた責任者でした。天皇の言葉として「鋤鉤は有功の者なり。罪無くして何ぞ自ら死なむ。それ隠れる謀有りしか。」と、もっともらしい発言を載せているが、鋤鉤の自決は自ら率いていた兵団が、天武の手に落ちたことに対する後悔責任、滅ぼされた近江朝に対する殉死以外に考えられようか。
しかし、『日本書紀』は、天武を天智の実の弟と書く。それなら「壬申の乱」は叔父と甥の争いに過ぎない。カップの中の嵐である。一地方官が、そんな争いの結果に自決するほどの責任を感ずるはずがない。
二つ目は、天武軍が赤色をシンボルカラーに採用していたことです。これは『古事記』序文、『万葉集』の人麻呂の挽歌も明らかにしていますが、学者たちは誰も問題視していません。当時の東アジアで、赤色をシンボルにしていたのは唐朝なのです。当時大量の百済難民が日本列島に漂着していましたし、倭国は朝鮮半島で直接唐軍と戦っていたのです。赤色が唐のシンボルであることは、だれもが知っていることでした。私が美濃・尾張で徴集されていた集団が唐朝に味方するためのもの、と考えるのはこのためです。予め武装されていなければ、天武の手に落ちて五日後には進撃を開始する、など云う早業はとても無理でしょう。
三つめ、鏡王女のことです。
天武紀、十二年七月四日「天皇、鏡姫王の家に幸(いでま)して、病を訊ひたまふ。五日、鏡姫王薨せぬ。」(日本書紀では、姫王と表記する)
鏡姫王に関する『日本書紀』の記事は、これだけです。現代に生きる我々は『万葉集』の歌から、鏡王女と額田王の関係、天智天皇との歌の遣り取り、中臣鎌足に降嫁させられた時の歌などから鏡王女の姿を思い描いていますが、『万葉集』は公式(勅撰)の歌集ではありません。私的な大伴氏の私家歌集です。(これは論を改めて証明します)当時の人は、『万葉集』を誰も知りません。日本書紀の天武紀十二年七月四日の記事は、天皇が誰ともわからないご婦人を見舞った。日本書紀からだけでは、鏡姫王は、素性のわからない一貴人と言う以外にありません。天皇が素性のわからない危篤のご婦人を見舞った記事など『日本書紀』これ以外に見出すことが出来ません。後世栄誉を極める藤原氏の祖・中臣鎌足の正室であったから見舞った、と考える方もいるかもしれませんが、この当時(壬申の乱の記憶がまだ生々しかった時期)中臣の人々は、じっと身を潜めていた。右大臣の中臣金だけが斬首されたのは、天武天皇に中臣だけは許せない強い気持ちがあったのではないか。鎌足の次男で藤原氏繁栄の礎を築いた藤原不比等は、幼時の折、難を避けるため身を隠していた、との伝承を持つ。中臣から藤原に改姓したのは難を避け、身を欺くためだったのではないか。
天武天皇は、鏡姫王の危篤の席に赴き、詫び、赦しを請うたのではないか、中臣鎌足に降嫁させたことを。
【1221】[1412]日本書紀と天武の正統性の問題Ⅺ
1410の続きです。
『日本書紀』は、天武天皇の巻を上下二巻に分け、上巻全てを「壬申の乱」の記載にあて、戦いの功績を顕彰しています。一つの事件に一巻を立てる事は他に例はなく全くの異例です。天武の王朝にとり「壬申の乱」は偉大なる聖戦でした。「乱」などと貶めて云う事は決して許される事ではないのです。『日本書紀』は「乱」とは一言も用いてはいません。
しかし、奈良時代半ばでは誰憚ることなく「乱」と呼んでいた、これは非常に不可解で重大なことです。権力は、正統性が何より重要です。正統性を失った権力は滅びるしかありません。天武の王朝は、奈良時代半ば、すでに正統性を失っていた。
671年五月始め、大友皇子(弘文天皇)、美濃・尾張国で徴兵を開始する。
五月三十日、唐使・郭務宋、筑紫より帰路に就く。
六月二十四日、大海人皇子一行、ひそかに大和、伊賀路を執り東国に
向う、夜を徹する強行軍。
二十六日、伊勢桑名に入る。
この日、近江朝、大海人皇子(天武)が東国に走った 事を初めて知る。近江朝、吉備国と筑紫国は、元より 天武の家臣である、との見解を示す。
二十七日、大友皇子が徴集していた二万の兵を支配下に置く。
高市皇子(天武の長男)に、戦の全権を与える。
二十九日、大伴氏、大和古京にて天武方で蜂起する。
七月 二日、天武の軍勢、不破関(関ヶ原)より近江に向けて進撃 開始。赤色を天武軍のシンボルカラーとする。
二十二日、瀬田に至りて両軍の最後の決戦、近江軍敗れる。
二十三日、大友皇子、自害。
八月二十五日、近江朝の重臣に罪を言い渡す。右大臣中臣連金、斬 首。左大臣蘇我臣赤兄、大納言巨勢臣比等、及び子孫 悉く流罪。
以上「壬申の乱」の簡単な推移です。天武が東国を目指して出発した六月二十四日から、進撃を開始する七月二日まで僅か八日しかないのです。伊勢国に入った翌日には近江朝の徴集していた二万の軍勢を何の抵抗もなく手に入れている。ものすごく用意周到な計略の下に進めていたとしか考えられません。留意していただきたいのは、総ての指揮を、天武の長男である高市皇子が執っていること。『万葉集』の柿本人麻呂が高市皇子に捧げた挽歌は、天武・持統朝の政治は高市皇子が執っていた、と歌っている。しかし、万葉学者たちは、天武・持統の共治体制と言い天皇親政に最も成功した時代と説く。天武朝は「壬申の乱」と呼ばれる戦争で成立した政権である、軍事政権であった、故に、軍権を握る高市皇子が最高実力者であったはずだ。『万葉集』の史料価値は非常に高いのである。高市皇子の存在は非常に重たい。
また、吉備国と筑紫国は「元より大皇弟に隷(つ)きまつる」と、近江朝の認識が書かれている。天武は倭国(筑紫王朝)の大皇弟なのだから当然である。
また、六月二十九日、大和の名門大豪族大伴氏が天武方で決起したのも重要である。近江朝は、この時になっても大和では全く警戒していない、大和で天武に付くものなどいるはずがない、と考えていた。大伴氏の決起は、近江朝に対する裏切りである。このことが奈良時代が深まるにつれ大伴氏を苦しめることになる。事実、延暦四年、藤原種継暗殺事件で、大伴家持は既に死んでいたにも関わらず事件の首謀者にでっち上げられ、屍骸は掘り起こされ、絶海の孤島隠岐に流された。栄光に輝く氏の名・大伴は剥奪され、それ以降は伴氏を名乗るのみ。
近江朝の重臣で極刑・斬首にあったのは右大臣・中臣連金のみである。中臣つまり藤原氏が天智系勢力の中心である。
「壬申の乱」と言うのは、倭王朝の大皇弟・大海人皇子による大和王朝乗っ取り事件のことであった。天武は、正統性を何より欲した。天武を正統とする歴史を創造せねばならなかった。