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守谷健二 投稿日:2013/12/26 19:08

【1271】[1499]柿本人麻呂の正体を暴くⅨ

「石川の貝」とは「石川郎女」のことである。

  今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に(或は云う)交りて ありといはずやも(224)

 今日おいでになるか、今日おいでになるかと、私がお待ちしている貴方は、石川の娘(郎女)と、よろしくなさっていると言うではありませんか。

  直(ただ)の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ(225)

 直接お逢いすることは、不可能なことです。石川に炊事の煙りを立ち昇らせてください、それを見てお偲びいたしましょう。

 人麻呂は、石見国で死んでなどいない。石川郎女と出逢い、新たな愛の生活を出発させたのである。あの世の妻は、人麻呂を許し、新生活に祝福を送っている。
 石川郎女は、万葉集の中心ヒロインである。しかしその素性は、人麻呂同様秘密のベールで覆われている。しかし、考えればこれは当然で、人麻呂を秘密のベールで覆い隠した以上、その相方である石川郎女も、秘密のベールで覆い隠す必要があったのだ。人麻呂の正体が謎の中にあるのは、万葉集の編者たちが意図して人麻呂を秘密の中に置くことに決めていたからである。これは(207)~(225)までの歌の題詞の不自然さに如実に表れている。題詞は、本当のことを述べていない。編者たちが、何故こんな選択をしたのか、後々明らかになるだろう。
 さて、石川郎女を検証しよう。彼女が『万葉集』に登場するもっとも有名な場面を見てゆこう。   

   大津皇子、石川郎女に贈る御歌
  あしひきの 山のしづくに 妹待つと われ立ち濡れるし 山のしづくに(107)

   石川郎女、和(こた)へ奉る歌
  吾(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを(108)

 この二人の相聞歌は、万葉集の中で最も鮮やかで艶やかな場面です。しかし、二人の逢瀬が公けになったことは、当時の王朝に衝撃を走らせた。何故なら、石川郎女は皇太子・草壁皇子の寵愛を一身に受けていた女性でした。

   大津皇子、密かに石川郎女に婚(あ)ふ時、津守連通その事を占へ露はすに、皇子の作りましし御歌
  大船の 津守の占に 告(の)らむとは まさしに知りて わが二人寝し(109)

   日並皇子尊、石川郎女に贈り賜ふ御歌(郎女、字を大名児といふ)
  大名児を 彼方(をちかた)野辺に 刈る萱の 束の間も われ忘れめや(110)

 皇太子の愛する女性(石川郎女)を、大津皇子が奪った、と言うのだ。
 次回は、この事件の顛末を検証する。

守谷健二 投稿日:2013/12/23 20:24

【1270】[1495]柿本人麻呂の正体を暴くⅧ

 鎮魂の旅を続ける人麻呂

 「吉備の津の采女の死(みまか)りし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌(217~219)」の次に配置されるのが「讃岐の狭岑(さみね)の島に、石の中に死れる人を視て、柿本朝臣人麻呂の作れる歌(220~22)」である。  

  ***をちこちの島は多けど 名くはし狭岑の島の荒磯面(ありそも)に いほりて見れば
  波の音(と)の繁き浜辺を 敷きたへの枕になして 自伏(ころふ)す君が
  家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉鉾の道だに知らず
  おぼぼしく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは (220)

 必死に捜索したが、妻の遺骸さえ見つけ出せなかった人麻呂である。狭岑島の荒磯に横たわる死骸に、何処で果てたかしれない妻の面影が重なるのであった。「家知らば 行きて告げけむ 妻知らば 来も問はましを 玉鉾の道だに知らず おぼぼしく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは」
 ここでも死者の無念を思い、残された者への深い同情、強い共感を歌い上げている。故にこの歌も妻に捧げたレクイエムである。深く傷ついた人麻呂は、苦しく長い懺悔の旅を続けねばならなかった。
 この歌の直後に置かれているのが「柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死(みまか)らむとする時、自ら傷みて作る歌(223)」である。

  鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ

 人麻呂辞世歌として、あまりにも有名な一首である。あれ!と不思議に思った、死に臨んだ人麻呂が語り掛けている妹とは、いったい何者だろうか、と。
何故なら、この直前まで、失踪し、何処で果てたかしれない妻にレクエイムを捧げていた。その流れで考えれば、人麻呂が語り掛けているのは、あの世の妻と云う事ではないか。この世で生きている人麻呂が、あの世の妻に語り掛けている。
「鴨山の岩根を枕に旅を続けている私を、そうとも知らずに、今来るかと待ち続けているのでしょうね」と。
 それならば、次の「柿本朝臣人麻呂の死りし時、妻依羅娘子(よさみのおとめ)の作る歌二首」の妻とは、あの世の妻と云う事ではないか。あの世の妻の情(こころ)に擬(なずら)へて作る歌、と云う事だ。

  今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に(或云、谷に)交りて ありといはずやも

  斎藤茂吉翁は、「石川の貝に」の注記にある(或は云う、谷に)とあるのを重視し、「貝」は「峡(かひ)」であるとして、石見国の山間部に人麻呂終焉の地を求めたのであった。
 しかし、この日本では「貝」と「谷」とくれば「女性を指す隠語」と決まっている。四周を海で囲まれた日本では「貝」は、縄文時代以来最も安定して手に入れることが出来る食糧であった。貝は、日本民族に親しい存在であった。つまり「石川の貝」とは、「石川の娘さん、石川郎女」と云う事だ。
 「今日来るか、今日来るか、と私が待っている貴方は、石川の郎女とよろしくやっている、と言うではありませんか」と云う事になる。
 長い苦悩の旅の末、人麻呂は石川郎女と出会い、その愛を得、結ばれていた、戸云う事ではないか。

  直(ただ)の逢ひは 逢かつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ(225) 

 「直接お逢いすることは、到底出来ないでしょう。石川に炊事の煙りを立ち昇らせなさい、それを見ながらあなたのことをお偲びいたしましょう。」まるであの世の妻は、人麻呂を許し、新たな生活に祝福を与えているようではないか。
 皆さんはお気付きではないが、石川郎女とは『万葉集』の中心的ヒロインです。中心的ヒロインであるが、その素性は、秘密のベールで包まれ人麻呂同様謎めいている。ちなみに石川氏と言うのは、「壬申の乱」以前の蘇我氏だ。石川の郎女は、以前であれば「蘇我の娘さん」と云う事である。次回は石川郎女の正体を検証する。

 

三浦芳信66歳 投稿日:2013/12/21 18:48

【1269】[1494]「外務省の正体」DVD感想文

本日午前、DVD受領。メチャクチャおもしろかった。面白い、という表現は幅が広すぎるが、感動的、と言う表現でもしっくりこない。両方足して二で割るやつだ。上品でユーモアがある講演が、一人でも面白いのだが、二人のコラボになるとより面白くなる。

守谷健二 投稿日:2013/12/19 18:07

【1268】[1490]柿本人麻呂の正体を暴くⅦ

  妻を見殺しにした人麻呂

 人麻呂は必死に妻を捜索した。妻のお気に入りであった軽の市、奥山で妻を見かけたと聞けば、岩を踏み砕き難儀して捜しに行ったが、生きている姿はおろか遺骸にすら再開することが叶わなかった。或る時は、この灰があなたの妻のなれの果てだ、と言われるしまつ。人麻呂は、長い間妻の死を受け入れることが出来なかった。

  去年(こぞ)見てし秋の月夜は照らせれど相見し妹はいや年さかる(211)

  衾道(ふすまぢ)を引出の山に妹を置きて山路を行けば生けりともなし(212)

  去年見てし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年さかる(214)

  衾路を引出の山に妹を置きて山路思ふに生けるともなし(215)

  家に来てわが屋を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕(216)

 (207)(210)(213)の三首の長歌の後半は全て妻を捜索していることを歌っているのに、私の目にした注釈書は、一つとして「妻は失踪した」と論じたものはない。(207)と(210)は、別の妻を歌っているのだ、と主張する人も多くいる。三つの長歌の連続性を読めないのだろうか、非常に不思議な感じがする。
 この歌群の後に「吉備の津の采女の死(みまか)し時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」が置かれている。吉備の津の采女の死に妻の面影を重ね、若く美しい采女の突然の死を悼み、残された夫に対する深い同情と強い共感を歌い上げた美しく悲しい歌である。
 人麻呂は妻の死の衝撃から解放されていなかった。依然として妻に対しレクエイムを捧げる旅を続けていた。

守谷健二 投稿日:2013/12/16 13:53

【1267】[1481]柿本人麻呂の正体を暴くⅥ

   覚悟の出奔を遂げた人麻呂の妻

 うつせみと 思ひし時に 取り持ちて わが二人見し 走り出の 堤に立てる
 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きが如く 思へりし 妹にはあれど
 たのめりし 児らにはあれど 世の中を 背きし得ねば かぎろひの 燃ゆる
 荒野に 白たへの 天領巾(あまひれ)隠り 鳥じもの 朝立ちいまして
 入日なす 隠りにしかば 吾妹子(わぎもこ)が 形見に置ける みどり児の
 乞ひ泣くごとに 取り与ふる 物し無ければ 男じもの 腋はさみ持ち
 吾妹子と 二人わが寝し 枕づく 嬬屋の内に 昼はも うらさび暮らし
 夜はも 息づき明し 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふ由を無み
 大鳥の 羽易(はがひ)の山に わが恋ふる 妹は居ますと 人の言へば
 岩根さくみて なづみ来し 良けくもそなき うつせみと 思ひし妹が
 玉かぎる ほのかにだにも 見えぬ思へば (210)

これまでの全ての注釈書は、題詞の「柿本朝臣人麻呂、妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌」に呪縛されて「人麻呂の妻は、死んでしまっているのだ」との解釈一辺倒である。その為非常に可笑しな解釈を下している。例えば「世の中を 背きし得ねば」を「人が死ぬという摂理には、逆らえないので」と解釈している。
 しかし(207)の歌で、人麻呂は世間の目を畏れて妻に逢いに行くことが出来なくなっていた状況を述べていた。愛が冷めたのではない、ほとぼりが冷めたらまた逢える日が来るから、私を信じて待ってほしい、と歌っていたではないか。何か重大な事件に巻き込まれて妻の実家は、村八分のような窮地に立たされていたのではないか。人麻呂の妻は、実家でひっそりと暮らすのも世間の冷酷な目の中にあったのではないか。「世のなかを背きし得ねば」は「世間を欺けないから」の意味で十分だ。
 大鳥の羽易の山で「あなたの奥さんを見かけた」と伝え聞くと、岩を踏み分け難渋して捜しに行ったが、良いことなど何もなかった、生きていると信じている妻を、ほんの僅かも見出すことが出合いなかったのだもの。
 人麻呂は妻の死を受け入れることが出来なかった。妻を見かけた、とのうわさを聞けば、険しい山道を踏み分け捜しに行ったのです。しかし、生きている妻にも、亡骸をも探し出すことが出来なかったのです。
 この後に「或る本の歌に曰く」としてもう一首の長歌(213)が配置されています。内容は(210)の歌とほぼ同じですが、最後だけ大きく異なっています。

 大鳥の 羽易の山に 汝が恋ふる 妹は居ますと 人のいへば 岩根さくみて
 なづみ来し 良けくもぞ無き うつそみと 思ひし妹が 灰にてませば

 難渋して捜しに行ったら、「この灰が、あなたの妻のなれの果てだ」と言うのだ。
 人麻呂は、失踪した妻を必死に捜索したのでした。しかし見つけ出すことが出来なかった。妻が苦しい状況に堕ちていたことは分かっていた。手を差し伸べて援けてやる事も出来なかった。人麻呂の家と妻の実家の間に深刻な争いが生じていたのだろう。人麻呂本人は、変わらずに愛していると歌っているが、妻の苦悶を知っていた。それなのにほとぼりが冷めれば、また逢えるようになるさ。と放って置いたのです。あるいは、妻の失踪、自死を畏れていたのかもしれない。しかし、取り返しの付かない事実が目の前に突き付けられた。後悔先に立たずであった。狼狽せざるをえなかった。吾を責めざるを得なかった。
 人麻呂と言う詩人は、妻を見殺しにした。「妻殺し」と言う原罪を背負って出発した詩人ではないか。

守谷健二 投稿日:2013/12/12 17:02

【1266】[1480]柿本人麻呂の正体を暴くV

   人麻呂の妻はなぜ死んだのか(1478)の続きです

 妻が窮地に堕ちていたことを人麻呂は知っていた。しかし、世間の目を恐れて逢いに行くことが出来なかった。手を差し伸べ救うことが出来ずにいた。ほとぼりが冷めるまで自分を信じて待っていてくださいと祈るばかりであった。そんな中、妻の里から使いが来て「妻が、紅葉に 過ぎて去(い)にき」と伝えて来た。私が目にしたすべての注釈書はこれを、妻が死んだ、と訳している。それならばどうして人麻呂は妻の死体が横たわる妻の里に走って行かなかったのだろう。もしかしたらと微かな希望を胸に、妻のお気に入りの場所であった「軽の市」に行って妻を捜しているのだろう。人麻呂の妻は失踪したのだ、と解釈せねば話は通じない。これまでの注釈者は、題詞の「妻死(みまか)りし後」に呪縛されているのである。しかし、歌が主で、題詞は従の関係である。歌と題詞の間に矛盾のあるときは、歌の内容の方が優先され。人麻呂は、妻の死を受け入れてはいない、だから妻のお気に入りの軽の市に捜しに行ったのだ。

  秋山の黄葉(もみち)を茂み迷ひぬる妹を求めむ山路しらずも(208)

  黄葉の散りゆくなべに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ(209)

 妻が失踪したと云う事は、次の(210)の歌を検討すると、より明快になる。

守谷健二 投稿日:2013/12/10 18:23

【1265】[1478]柿本朝臣人麻呂の正体を暴くⅣ

  人麻呂の妻はなぜ死んだのか?

   柿本朝臣人麻呂、妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌二首
  天飛(あまと)ぶや 軽の路は 吾妹子(わぎもこ)が 里にしあれば
  ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み 数多く行かば
  人知りぬべし 狭根葛(さねかづら) 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて
  玉かぎる 磐垣淵の 隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の
  暮れ行くが如 照る月の 雲隠るが如 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉の
  過ぎて去(い)にきと 玉梓の 使の言へば 梓弓 音に聞きて 言はむ術  為むすべ知らに 音のみを 聞きてあり得ねば わが恋ふる 千重の一重も  慰むる 情(こころ)もありやと 吾妹子が 止まず出で見し 軽の市に
  わが立ち聞けば 玉襷 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉鉾の
  道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて
  袖そ振りつる(207)

 (解説)
「人麻呂の妻は、何故、どのようにして死んだのか」このようなアプローチは、まだ誰もしていないと思う。(207)の歌で、まず目に付くのは題詞の「泣血哀慟」の仰々しさである。『万葉集』にはこの熟語はあと一か所にしかない。巻一六の、「一人の乙女に二人の男が求愛し、どちらも譲らず、命を懸けた争いに発展した。乙女は、それを見て悲嘆し、林の中へ入って首を吊って死んでしまった。それを聞いた二人の男は泣血哀慟して歌を作った。」と。尋常でない死に対してこの熟語を用いている。人麻呂の妻の死も尋常ではなかったことを暗示しているのではないか。
 歌の内容を見る。
人麻呂は、妻のもとに行きしっとりと逢いたいのだけれど、人目があり、人に知られるのが怖くて行くことが出来ない。さねかずらのように蔓別れしても蔓の先がまた絡み合うように、また逢える日が来るから大船に乗っているように安心して待っていてください。私の心は少しも変わらずに愛し続けているのですから。 そんな中で、妻の里から使いが「あなたの妻が『黄葉(もみちは)の 過ぎて去(い)にきと』と伝えて来た。私が目にした注釈書すべては、これを妻が死んだと解釈している。それが妥当か否か、保留し先に進む。人麻呂は、使者の報告を聞き愕然としている、何をしてよいか、何を言ってよいかわからず、と。それで「千重の一重も 慰もる 心もありやと」これを「もしかしたら慰められることもあろうかと」と、妻のお気に入りの軽の市に行き、妻を偲んで慰めにしよう、と解釈しているが、使者の伝言を聞き愕然とした人麻呂が、妻の亡骸が横たわる妻の実家に走って行かなかったのだろう。
 「千重の一重も 慰もる 心もありやと」は、「万が一、かすかな希望を抱き」という意味ではないか。「黄葉の 過ぎて去にき」は、妻が失踪した、と云う事ではなかったのか。(つづく)  

6555 田中 栄 投稿日:2013/12/09 08:53

【1264】[1477]「対談」ができないものか!?

私が最近(~5年)認識した現在考えられる最高の著名人である。
 ・副島隆彦先生(評論家)
 ・植草一秀先生(評論家)
 ・孫崎 享先生(評論家)
 ・山崎行太郎先生(文藝評論家)
 ・岩田 温先生(政治哲学者・大学専任講師)
 ・佐藤 優先生(作家・元外務省主任分析官)

「対談」ができないものか!?

守谷健二 投稿日:2013/12/08 12:58

【1263】[1476]柿本朝臣人麻呂の正体を暴くⅢ

 人麻呂の終焉の土地の考察を続けます。この問題は、日本史を考えるうえで避けて通れない問題と信じているからです。

   柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて死に臨みし時、自ら傷見て作る歌(223)
  鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ」

   柿本朝臣人麻呂の死に時、妻依羅(よさみ)の娘子の作る歌二首(224,225)
  今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に(一に云う、谷に)交りて ありといはずやも

  直(ただ)の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲ばむ

   丹比真人、柿本朝臣人麻呂の意(こころ)に擬して報(こた)ふる歌
  荒波に 寄り来る玉を 枕に置きて われここにありと 誰か告げなむ

   或る本のうた
  天離(あまざか)る 夷(ひな)の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生けるともなし

 終焉地考察には、現在二つの流れがあります。伝承を継承する、海岸部で亡くなった、とするものと、茂吉が提唱した、山間部で亡くなった、とするものです。
 茂吉の提唱した説の強みは、妻の歌(224)に「貝に(一に云う、谷に)」とあることから、「貝(かひ)」を「峡(かひ)」と同音特定することが出来ることです。「峡」と「谷」は同義ですから。
 しかし、茂吉の説が正しいとすると、(226)と(227)の歌の配置が全く説明できないのです。そのため、茂吉は、(226)と(227)の歌は、『万葉集』の編者が誤って挿入したのだと決め付けるしかなかった。
 その点海岸部で亡くなった、とする説は、(223)から(226)までの歌で、「人麻呂は、石見国の鴨嶋で亡くなり、石川の河口付近に運ばれ、荼毘にふされ、河口で散骨された。」という物語を作り、(226)の歌まで取り込むことに成功している。(226)を取り込むことが出来るのが、海岸部で亡くなった、とする説の強みと言える。
 しかし、海岸部説でも(227)が配置されている説明はつかないのである。両説から、(227)の歌は、邪魔者扱いにされてきた。何かの間違いで挿入されたのだろう、と。
 しかし、私は、これを『万葉集』の編者の間違いとは考えず、編者の意図的な指示である、と考えたのです。何故なら、『万葉集』を最初から順番に読んでゆけば誰で気付くことですが、(226)の歌「荒波に 寄りくる玉を 枕に置き われここにありと 誰か告げなむ」は、(223)「鴨山の 岩根し 枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ」の直前に置かれている「讃岐の狭峯(さみね)の島に、石の中に死にし人を見て、柿本人麻呂の作る歌(220~222)の反歌の一つとするとピッタリするのである。
 また、(227)の歌「天離(あまざか)る 夷(ひな)の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生けるともなし」は、「柿本朝臣人麻呂、妻死にし時、泣血哀慟して作れる歌二首(207)~(216)」の反歌と見ると、ぴったりするのです。  
 ここから、私は、茂吉が邪魔者扱いにした(226)と(227)の歌は、本来は積極的な存在理由を持ち、人麻呂の生と死を(227)から(227)までの歌の中で考えよ、と指示しているのだと考えた、『万葉集』の編者は(207)から(227)までを、一つのシリーズとして読むことを示唆している、その中で人麻呂の生と死を考えることを強要していると考えた。そこで(227)の歌から丁寧に読むことにしたのです。次回から(207)の歌から検討します。

 
 

会員番号3217番 投稿日:2013/12/06 15:17

【1262】[1475]人類の救済は本当はなかったんじゃないですか・・・

「こら!!なにやってんだ!」という発声を聞くとみなさん!シュンー・・・ってなりますよね???あるいは、「うっふん・・・あ・な・た・・・」という発声を聞くと、もやもや、っていう気持ちになるでしょう???発声って不思議ですよね???地鎮祭???(本当かな???この、文字、いつ、誰が、造語したんですか・・・みたいな)辞書引くと「土木・建築工事にとりかかる前に土地の神???を祭って工事の安全や無事を祈る???式典」と載っているんですけどね・・・・
 地鎮祭???の時、やってきた神主さん???は、普段着から束帯に変身し、いそいそと、神???棚の準備をしていましたよ・・・四方に笹をたてて、縄を張って白い紙をヒラヒラさせて・・・それから、住宅メーカーの営業マン(シメシメ・・・鬼として、一応、ノルマをこなせそうだ!!!!)と工事現場監督(=1級建築士????・・・大変だ!!!設計からはずされたら、売れっこない2千万円・3千万円の家を騙す仕事になっちゃう・・・僕には・・・妻と子供が・・・)出席して始まりました。
 神主さん???が神様????に向かって発声を始めました・・・しかし、聞いていると、中国語の四声のように、音調に変調はなく、「あっ!な~るほど!!!この人・・・丸暗記しているんだ!!!何だかわからないことを!!!!」ただ、それだけなんです!!!!ほら、高校の時、暗唱したでしょう???「ユク、カワノ、ナガレハ、タエズシテ・・・」と、同じなんです!!!同じ!!!
 神主さん????の暗唱が、終わると、現場監督の人が、鍬を持ち、地面に向かって「エイッ!」「エイッ!」「エイッ!」と3回振っていましたよ!!!!1回、、鍬を振るごとに、「1000万円!!!!よこせ!!!」「1000万円!!!自分の生活費のため・・・」「1000万円!!!!・・・妻・・・子供のため・・・」としか聞こえませんでしたけどね・・・・
 地鎮祭????(誰がそう決めたんですか????)が終わると、神主さん????が「5万円ください!!!」っていうんですよ!!!5万円ですよ!!!5万円!!!!福沢諭吉さん5枚!!!この、恐慌の時に!!!恐慌!!!儲かりますよね!!!神主さん???丸暗記した文章を読んでいる振りをしていれば、5万円なんです!!!10件やって、50万円ですよ!!!この、恐慌のときに!!恐慌の時に!!!
 ちらっと、聞いた話では、インドやネパール、タイ、チベット、モンゴルでは、「オン・マニ・パドメ・フーム」とひたすら発声するんですって!!!!「On-ma-ni-padme-hum)というお経を、僧たちが、ずっと、発声するんですって!!!!日本語に訳すと「蓮華の宝珠よ、幸いあれ」という読経がずっと、発声されるそうですよ!!!中国(15億人も人が住んでいるんですよ!!!!)語でも、母音と子音と四声を組み合わせて「オン・マニ・パドメ・フーム」と発声されているんじゃないですか・・・・世界基準ではそういうことになっているそうなんです・・・・こんな小さな島国でやっている現象なんて・・・一体なんなんでしょうか????と疑ってみてはいかがですか????世の中、全て、騙しですよ!!!・・・だまし!!!!・・・・
 では、日本のくされ坊主たちの「ナムアムダブツ・・・」(浄土宗)と「ナムミョウホウレンゲキョウ・・・」(天台法華宗)の発声は、一体なんなんでしょうか?????
 なんでもないんです!!!くされ坊主は、この、文字を丸暗記して、50万円!!!100万円!!!のお金を檀家からふんだくって、自分たちは、豪勢なお寺????自宅????「コラ!!!!くされ坊主!!!!自宅まで建てるな!!!!くされ坊主!!!!この、恐慌の時に!!!!恐慌の時に!!!!5億円くらい賭けているんじゃないの・・・お寺と自宅に・・・」少しは、反省しなさいよ!!!!!騙し続けられませんよ・・・いつまでも・・・恐慌ですから!!!!恐慌!!!!!誤ったらどうですか????「じつは・・・あの~・・・・みなさん・・・ありたがって・・・きいていただけるので・・・つい・・つい・・」とか言って・・・・
 みなさん!!!許せませんよね!!!ニヤニヤ笑いながら優雅に生きているくされ坊主!!!くされ坊主なんかに、1銭も払う必要なんかないんです!!!意味のない丸暗記した作文聞かされて・・・50万円!!!100万円!!!じゃあね!!!
 なんで、くされ坊主の生活費・・・出してあげなくちゃならないのですか????遊興費まで????
 もういいんです!!!団地・アパートで、孤独死・・・遺体は、市役所の職員(税金で食べているんですから!!!!)片付けさせれば!!!!
 神様???仏様????といっても、結局、人類の救済はなかったんですから!!!!救済はなかったんですよ!!!!!だから、みなさん、苦しいですよね!!!生活!!!生活!!!!・・・税金で食べている1000万人の公務員とその家族たち2000万人を除いては・・・・