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Loginはこちら【1334】[1615]「インドネシア 1965年9・30クーデター事件」について考えたこと
「インドネシア1965年9・30事件の謎について考えたこと」
投稿者 田中進二郎
今日は2014年6月8日 です。
ちょうど一ヶ月前の「今日のぼやき」(会員ページ 1447)に副島先生の、「『デヴィ・スカルノ回想記』からみるインドネシア戦後史の悲惨」という文章があります。
これに関連した映画『アクト・オブ・キリング』(The Act of Killing)が現在上映されています。副島先生も見られたそうです。この映画が公開になる前に、特別試写会でデヴィ夫人が、インドネシアで1965年のクーデターのあとに起こったことを話しています。この映画を私も見ました。また、デヴィ夫人の以下の文を読みました。
この大虐殺には日本も関与していた─映画『アクト・オブ・キリング』デヴィ夫人によるトーク全文 より前半部分を引用します。少し長くなります。
(引用開始)
60年代にインドネシアで行われた100万人規模の大虐殺。その実行者たちにカメラを向け、虐殺の模様を映画化するために彼らに殺人を演じさせたドキュメンタリー『アクト・オブ・キリング』が4月12日(土)よりロードショー。公開にあたり、3月25日にシネマート六本木で行われた特別試写会で、元インドネシア・スカルノ大統領夫人のデヴィ夫人、そしてジョシュア・オッペンハイマー監督が登壇した。デヴィ夫人は1962年、当時のインドネシア大統領スカルノと結婚し、第三夫人となった。1965年9月30日に、後に「9.30 事件」と呼ばれる軍事クーデターが勃発。夫スカルノは失脚し大統領職を追われ、デヴィ夫人自身も命からがら亡命した。今作は、その「9.30 事件」によって起こった100万とも200万とも言われる虐殺を描いている。試写会当日、映画評論家の町山智浩(まちやま ともひろ)さんの司会により、デヴィ夫人は自らが体験したクーデターの現場の模様や、アメリカや日本が当時の政権を支持することでクーデターや虐殺に関与していたことを生々しく語った。
「デヴィ夫人によるトーク」
デヴィ夫人: スカルノ大統領は別に共産主義者ではありませんし、共産国とそんなに親しくしていたわけではありません。あの当時(この映画の背景となっている1965年9月30日にインドネシアで発生した軍事クーデター「9・30事件」)、アメリカとソ連のパワーが世界を牛耳っていた時に、スカルノ大統領は中立国として、アジアやアフリカ、ラテンアメリカの勢力を結集して第三勢力というものをつくろうと頑張っていた為に、ホワイトハウスから大変睨まれましておりました。太平洋にある国々でアメリカの基地を拒絶したのはスカルノ大統領だけです。それらのことがありまして、ペンタゴン(アメリカの国防総省)からスカルノ大統領は憎まれておりました。アメリカを敵に回すということはどういうことかというのは、皆さま私が説明しなくてもお分かりになっていただけるかと思います。
1965年の10月1日未明にスカルノ大統領の護衛隊の一部が6人の将軍を殺害するという事件が起きてしまいました。(この事件は)その6人の将軍たちが、10月10日の建国の日にクーデターを起こそうとしているとして、その前にその将軍たちをとらえてしまおう、ということだったんですが、実際には、とらえただけではなく殺戮があったんです。建国の日には、大統領官邸の前にインドネシアの全ての武器、全兵隊が集まり、その前で立ってスピーチをする予定だったものですから、そこで暗殺をするというのは一番簡単なことだったわけなんです。エジプトのアンワル大統領(アンワル・アッ=サーダート)も軍隊の行進の最中に暗殺されたということは皆さまもご存知かと思いますが、そういったことが行われようとしていたということなんです。
7番目に偉かった将軍がスハルト将軍で、10月1日の朝早くに、インドネシアの放送局を占領しまして、「昨夜、共産党によるクーデターがあった」「将軍たちが殺害された」と言って、すぐに共産党のせいにしました。そして赤狩りと称するものを正当化して、国民の怒りを毎日毎日あおって、1965年の暮れから1966年、1967年にかけまして、100万人とも200万人ともいわれるインドネシアの人たち、共産党とされた人、ないしはまったく無関係のスカルノ信仰者であるというだけで罪を着せられて殺されたといった事件が起こりました。この度、この映画で初めてそれが事実であるということが証明されて、私は大変嬉しく思っておりまして、ジョシュア・オッペンハイマー監督には、その偉業を本当に心から心から感謝してやみません。何十年間と汚名を着たまんまでいたスカルノ大統領ですが、この映画で真実が世界的に広まる、ということにおいて、私は本当に嬉しくて、心より感謝をしております。
「当時日本の佐藤首相はポケットマネー600万円を、
殺戮を繰り返していた人に資金として与えていた」
町山:クーデターが起こった時、どちらにおられましたか?
デヴィ夫人:私はジャカルタにおりました。大統領もジャカルタにおりました。(スハルト将軍は)大変頭の良い方で、それがクーデターだとなったというのは結果的なもののわけで、要するに、その当時のインドネシアの情勢を完全に彼が握ってしまったということなんですね。そして当時の空軍、海軍の指導者たちにも国民から疑いの眼を向けられるようにしたりしました(*スハルトは陸軍大臣兼陸軍参謀総長)。その当時のアメリカ、日本はスハルト将軍を支援しています。佐藤(栄作)首相の時代だったのですが、佐藤首相はご自分のポケットマネーを600万円、その当時の斉藤鎮男大使に渡して、その暴徒たち、殺戮を繰り返していた人に対して資金を与えているんですね。そういう方が後にノーベル平和賞を受けた、ということに、私は大変な憤慨をしております。
(以下略 引用終わり)
http://www.webdice.jp/dice/detail/4161/ (以下こちらをご覧ください)
田中進二郎です。デヴィ夫人の以上の話を読み、私は佐藤栄作首相(当時)や、インドネシア大使斉藤静男(当時)という人物が、クーデター計画に加担していたことにショックを受けた。しかし、「スカルノ大統領が共産国とそんなに親しくしていたわけではありません。」というところは、「それは違うのでは?」と思いました。
映画『アクト・オブ・キリング』では、虐殺して回った民軍は、パンチャシラ青年団といい、インドネシア全土に現在も300万人の団員がいるという。オレンジ色の迷彩服を着て、集会を開く。この映画の主人公も、この団員であり、約1000人の華人や共産党員(PKI)を自らの手で殺したというチンピラヤクザである。 「パンチャシラ」―(インドネシアの建国五原則)の掛け声のもと、9・30事件のあと、スハルトの命令に従い、金で大量虐殺を実行した集団である。彼らは、1998年にスハルト独裁体制が終焉したあとも「国民的英雄」とされてきた。政府軍が手がけるとまずいという汚い仕事(暗殺)を、民兵に代わりにやらせる。インドネシア政治研究家の本名純(ほんな じゅん)氏によると、「国家暴力のアウトソーシング」だということだ。だから、完全に組織されている。
本名純氏の『民主化のパラドックス―インドネシアにみるアジア政治の深層』という本によると、このパンチャシラ青年団というのは、1954年に陸軍のナスティオン将軍によって組織された。ナスティオン将軍は、インドネシア独立当時(1945年)の国民軍を再び民兵として組織していった、ということである。
これは、インドネシア共産党の躍進をスカルノ大統領が応援し、自分の権力基盤を固めようしたことに対する、軍部の対抗策だったのである。
ナスティオン将軍は1965年の9月30日のクーデターの際に、邸宅を襲撃されたがかろうじて脱出に成功している。PKI寄りの左派軍人が起こしたとされるクーデターで、まっさきに命を狙われたのだ。
デヴィ夫人の自伝『デヴィ・スカルノ回想記』(p149~151)には、PKI派のクーデター部隊があっけなくスハルト将軍率いる国軍に鎮圧されたあと、デヴィ夫人はナスティオン将軍の妻と極秘で連絡を取り合い、情勢を把握しようとした、と書かれている。このときには、すでにイスラム団体や学生団体が国中で反スカルノ・デモを展開していた。ナスティオン将軍を、スカルノ大統領と軍の間のキャスティング・ボートになってもらおうと、デヴィ夫人は必死でスカルノ大統領の説得にあたった。が、彼女の願いは大統領には聞き入れられなかった。スカルノ大統領にとっては、1950年代に軍が彼にたてついたこと、その裏にいつも、アメリカのCIAがいたことが脳裏から離れなかったのだろう。
千野境子(ちの けいこ)著『インドネシア9・30クーデターの謎を読み解く―スカルノ、スハルト、CIA,毛沢東の影』という本では、クーデターの直前に、CIAがインドネシア共産党とスカルノ大統領を追い詰めていくために、偽造文書を作成したことが書かれている。この偽造文書は、「近くインドネシア国軍が武力で共産党を弾圧することが、『将軍評議会』において決まった。」という内容のものだったという。この文書をスカルノ大統領や、PKI議長のアイディッドが目にして、PKI側は先にクーデターを仕掛けることになったのだ、と千野氏は指摘している。
(同書 第四章「アメリカの工作」を参照した。)
1950年代からのCIAの次々と行われる工作に対して、「共産主義者ではなかった」スカルノ大統領も、PKIのクーデターを容認したのであろう。しかし、軍事行動に打ってでたPKIは、その動きをもつかんでいたスハルト将軍に逆にパクリとやられてしまったのだ、と私は考える。このあとは、アメリカCIAにとっては、やりたい放題だったろう。新聞紙、テレビなどメディアを総動員して、共産党員は吸血鬼か悪魔であるかのように、宣伝した。「残虐な共産党員」という映像をCIAは9・30事件の時までにすでに製作していたからである。デヴィ夫人が『回想録』の中で書いている。「こんなものは今までインドネシアのメディアにはなかったものですから、おそらくアメリカによって、準備されていたのでしょう。」と。
ここから、インドネシア全土で「赤狩り」虐殺が始まり、共産国以外では最大勢力(350万人の党員を擁していたという)インドネシア共産党は壊滅した。アイディッドPKI議長も逃亡後、銃殺された。また、このアイディッドを後ろから「武力革命をせよ」とけしかけていたのは、ほかならぬ毛沢東であった。毛沢東は大躍進運動に失敗し、劉少奇(りゅうしょうき)や鄧小平らが中国共産党を現実路線に移行させていくのを、黙って許すことはしなかった。PKIが壊滅していく中、「盟友」だったはずの中国は動かなかった。国連(United
Nations 連合国)もまた動かなかったけれども。9・30事件から二ヶ月もたたない十一月に中国では文化大革命が始まるのである。毛沢東はアジアへの「革命の輸出」に失敗したとみてとると、次は中国国内の現実路線の政治家たちを追い落とすことに本格的に動きだしたのである。毛沢東にとっては、PKIの党員や、インドネシアにいる華人たちの運命や、
ましてや、インドネシアの農民たちがどうなろうとどうでもよかっただろう。もう用済みだ、と考えていただろう。文革の始まる前に、『毛沢東語録』(the Red Book)をなんと5億冊も印刷させている。(このことは新刊『野望の中国近現代史―帝国は復活する』オーヴィル・シェル、ジョン・デルリー著 古村治彦 訳 のp281 にありました。)
これは中国とインドネシアの関係に今でも影響を及ぼしているという。つまり、スカルノ大統領の時のように、中国を政治の世界で全面的に信頼してはいかん!という教訓が後々のインドネシアの政治家たちに引き継がれている、ということである。
大変長々と書いてしまいました。恐縮です。
●参考文献
『デヴィ・スカルノ回想記―栄光、無念、悔恨』 (草思社 2010年刊)
千野境子著『インドネシア 9・30クーデターの謎を解く』(草思社 2013年刊)
本名純著『民主化のパラドックス―インドネシアにみるアジア政治の深層』(岩波書店 2013年刊)
オーヴィル・シェル、ジョン・デルリー著 古村治彦訳『野望の中国現代史―帝国は復活する』(ビジネス社 2014年6月刊)
追記:映画『アクト・オブ・キリング』はまだ上映されているようです。
田中進二郎 拝
【1333】[1614]日本の読書人階層の結集である伊藤律生誕百周年シンポジウムに行ってきた感想③
津谷侑太(つやゆうた)です。今日は2014年6月7日です。
3月6日に重たい掲示板に投稿した文章の続きの報告文です。
前回から間が空いたので説明します。戦前の日本の中枢に入り込み、スパイ活動をしていたドイツの外交官・ゾルゲ。そのゾルゲの下で働いていた評論家の尾崎秀実(おざきほつみ)を友人の伊藤律が警察に密告し、尾崎は逮捕され、死刑となります。しかし、この伊藤律は警察のスパイというのは嘘ででっちあげでした。
本当のスパイは伊藤はスパイだと証言した川合貞吉(かわいさだきち)です。伊藤と日本共産党指導者になるのを競っていた野坂参三(のざかさんぞう)は中国に伊藤を拉致監禁し、自分は日本に帰国しました。尾崎秀樹(おざきほつき)、松本清張らと野坂らは伊藤律はスパイだったとの大嘘を日本中に出版物などで宣伝工作しました。そのため伊藤律=裏切り者のイメージが定着しました。
これに伊藤律に取材し、スパイ説が嘘であると気づいていた渡部富哉(わたべとみや)氏が1993年6月、『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』(五月書房)を書いて、副島先生や篠田正浩が衝撃を受けたんです。副島先生の属国日本論はこのあとの出版ですが、渡部氏の前掲書が紹介されています。
つまり、流れが変わったんです!もう伊藤律スパイ説を唱える者たちが大手を振って歩く時代は終わったんです。副島先生の属国日本論を読んで、日本国内の空気が変わってきた。伊藤律をスパイ扱いしたおかしな者たちの責任が追及されはじめた、ということです。
ではシンポジウムの続きを書いていきます。
そして篠田正浩監督の講演のあとは岐阜県瑞浪市(みずなみし)市議会議員で井澤議員が司会でパネルディスカッションがはじまりました。井澤議員は軽妙な感じの司会ぶりでさすが政治家の方だな、と思いました。
パネルディスカッションの参加者は旧制恵那(えな)中学後輩の加知弘至(かじこうじ)氏、在野の研究者・渡部富哉(わたべとみや)氏、篠田正浩氏、愛知大学の鈴木規夫(すずきのりお)教授、伊藤律の次男・伊藤淳(いとうじゅん)さんでした。
加知氏は伊藤律の旧制中学時代のエピソードが紹介され、抜群の成績で秀才として地元では有名だったらしいです。何で官僚や学者など、何でもなれたのに共産党に入ったんだ・・・と中学時代の伊藤律の先生は残念がっていたそうです。
渡部富哉さんは現在は野坂参三の本を書こうと構想中らしいです。石堂清倫(いしどうせいりん)や埴谷 雄高(はにわゆたか)ら左翼言論人の大物たちから「野坂の本を書いてくれ!」と言われたのにまだ書いてない。今度こそ書く!と力強く宣言していらしゃって、会場からは万雷の拍手でした。しかし、石堂や埴谷 雄高も野坂が大嫌いなんですね。左翼言論人たちの間では野坂は好かれているのかと思っていましたが。
私が最近読んでいる田中清玄自伝(1993年9月、文藝春秋)でも田中清玄(たなかきよはる、せいげん)という実業家で昭和の政財界を操った人物が野坂についてぼろくそにこき下ろしています(笑)
やはり事情通たちの間では野坂参三は要注意人物だったのでしょう。
ちなみに田中清玄といえば、副島先生の『日本の秘密』で学生運動のパトロンだった事実が暴かれていますね。最近では孫崎享(まごさきうける)さんが『戦後史の正体』という本で田中清玄について触れています。
話を戻すと渡部さんは八十四歳というのに意気軒昂(いきけんこう)で矍鑠(かくしゃく)としていました。どんな困難が来ようとも弾き返す!地底のド迫力の勢いが渡部さんにはありました。「おお、これが副島先生がおっしゃっていた言論人の姿か。凄まじいな」と私はただただ迫力に圧倒されました。渡部さんの周りに井澤議員、鈴木教授など、たくさん人が集まるのも納得です。
井澤議員はゾルゲファンということで若いころに渡部氏に会いに行って、そして伊藤律の名誉回復を地元・瑞浪で開きたいと思っていたそうです。今回は二十年ぶりにその夢がかなったのだとか。
会場には私よりも若い二十歳そこそこの中国人の大学生が招かれていました。彼は現在、中国で伊藤律の研究をして、論文を執筆しているそうです。中国国内で伊藤律は知られていないそうですが、これからは日中友好の架け橋として再評価される存在に伊藤律はなっていくんでしょう。
シンポジウムには高齢の方が多く見られました。五十代、六十代、七十代、八十代の人たちです。皆さん、ゾルゲ・尾崎ファンなんでしょう。もしかしたら、共産党を伊藤律が動かしていた頃を知っていた方も居たのかもしれません。ゾルゲ・尾崎ファンの世代ももう終わっていくのでしょう。
残ったのが竹田恒泰(たけだつねやす)氏らに煽動された反中国・韓国に凝り固まった十代・二十代のネトウヨ世代というわけです。瑞浪の商店街では竹田恒泰氏がゲスト出演したラジオが丁度流れていました。
そしてシンポジウムの話を聞いているうちに私は、二・二六事件の真相により一層迫ることができました。その成果の一つが今日のぼやき「1450」【昭和戦前史の謎を暴く】「二・二六事件」は、木戸幸一が仕組んだ~本当に狙われたのは最後の元老・西園寺公望(さいおんじきんもち)だ~ 津谷侑太・筆 2014年5月17日に掲載されております。
講演会が終わったあと、私は控え室に直行しました。そして、鈴木規夫教授にお会いし、学問道場の重たい掲示板にシンポジウムの報告文を書いても良いですか?とお尋ねしました。そうしたら、鈴木教授は寛容にも許可してくださいました。
以上で報告を終わります。
ああ、それとこれを見た方で伊藤律の共産党時代を知っている方はおられますか?もしくは野坂参三の共産党時代でも構いません。重たい掲示板に書き込むか、もしくは私のメールアドレスにご一報ください。
津谷侑太拝
【1332】[1613]天武天皇正統性について
『古事記』偽書説の誤りについて、Ⅱ
二十世紀での国語学の最大の発見は、橋本進吉博士(1882~1945)の「上代特殊仮名遣」の発見である。これは『万葉集』『古事記』『日本書紀』では、キ、ヒ、ミ、ケ、ヘ、メ、コ、ソ、ト、ノ、ヨ、ロ、を現す万葉仮名(漢字の音を借りたもの)が、二つのグループに厳密に書き分けられていることを明らかにした。
例えば、神(カミ)のミには、微・未・味・尾などが使われ、上(カミ)のミには、美・弥・邇・民などが使われ、両者が混線することはないことを明らかにした。この違いは、当時の漢字の音韻を徹底的に調べることで発音の違いであることを突き止めたのである。つまり、キ、ヒ、ミ、ケ、ヘ、メ、コ、ソ、ト、ノ、ヨ、ロは、二種類の母音を持っていたことを明らかにした。
それ以前には、神は、上に居りますから神と呼ばれるのだと信じられていたのだが、この「上代特殊仮名遣い」の発見により「神」と「上」を同源の言葉と見ることは出来なくなった。
また「許久波(コクハ)」は「小鍬」と解釈されてきたのだが、小を現す万葉仮名は「古」「固」などが使われ「許」が使われているのを一例も見つけることが出来なかった。いっぽう「木の間」の「コ」には「許」が使われており「許久波(コクハ)」は、小さな鍬ではなく「木の鍬」であることを明らかにすることが出来た。
つまり、七世紀、八世紀の大和地方の言葉には、八母音を持ち、87音節の違いがあったことを明らかにしたのである。大和地方と限定したのは、『万葉集』十四巻の東歌と二十巻の防人歌には、この上代特殊仮名遣いが見られないことから、東国は八母音の世界ではなかったと考えられている。
この八母音は、奈良時代末期に崩れ、平安初期には六母音70音節を区別するだけの言語世界に代わっていた。平安時代に書かれた史料で、八母音、87音節を区別してあるものは一つも発見されていない。70音節しか言い分け、聞き分けることの出来ない人が、87音節の言葉を、一つの間違いもなく書くことは不可能である。またその後の研究で『古事記』は、「モ」音も二種類の母音で書き分けてあることが明らかにされ、『日本書紀』『万葉集』より古格を保っていることが明らかになった。国語学上では、『古事記』の方が『日本書紀』より古いと云う事は、解決済みの問題です。
橋本進吉博士の明らかにした「上代特殊仮名遣い」は、日本の知識人の基本教養として身に付けるべきものである。
【1331】[1612]天武天皇の正統性について
『古事記』偽書説の誤り
岡田英弘先生は『日本史の誕生』で『古事記』は、平安朝になってから書かれたもので、古事記序文の「和銅五年(西暦714)に太安万侶によって書かれた」と言うのは誤りであると述べられている。この説は古くは江戸中期の賀茂真淵に始まり根強く支持されてきたものである。
しかし、この『古事記』偽書説は、完全に否定されている。これは二つの立場から立証できる事である、一つは、奈良朝(天武天皇を祖とする王朝)と平安朝の性格の違いから立証する事と、国語学から立証する事である。
今日は、王朝の性格の違いから『古事記』偽書説の誤りを指摘したい。『日本書紀』『古事記』を一読すれば明らかなように、天武の王朝の修史事業の目的は、天武天皇の即位を正統化する為にあった。「壬申の乱」で天智天皇の長男・大友皇子を滅ぼして皇位に就いた天武を正統化する事であった。
以前、私は天武天皇(大海人皇子)は、近畿大和王朝の人間ではなく、筑紫に都した倭国の大皇弟であることを立証した。倭国の大皇弟が、自らを近畿大和王朝の天智天皇の実弟と挿入することで、「万世一系」なるドグマ(教義)を作り上げたのであった。
天武の修史は、単なる歴史の記述ではなく「正統性の創造」にあった。『古事記』『日本書紀』また『万葉集』も天武天皇の正統性、「壬申の乱」での天武の決起の正統性を全力をこめ高らかに主張している。
しかし、平安の王朝は、天武の王朝ではない。奈良時代末期天武の血を継ぐ皇孫達は、強制的に排除され、天武の血の混じらない天智天皇の後胤が探し出され擁立されたのである。光仁天皇である。光仁天皇が皇太子に擁立された時は、すでに六十歳を過ぎていた。平安京を開いた桓武天皇の父である。
天武の血の排除は、天智天皇の片腕であった中臣鎌足の子孫・藤原氏よっておこなわれた。奈良王朝と平安の王朝は、異なった王朝である。天智天皇の血が復活した王朝で、天武天皇を正統化する歴史など作られるはずはないではないか。
今日は、王朝の性格の違いから『古事記』偽書説は成立しないことを述べた。次回は国語学から『偽書説』が成立しないことを説明したい。
【1330】[1611]”Re : [1609]結構身近かな問題提起をしてみます
磯貝さん。こんにちは。
栃木の石井 利明です。
簡単ですが、思ったことを書いてみます。
買い物難民の問題とは、少子高齢化による人口減少に原因がある、と考えます。
私は、磯貝さんが書かれているように、買い物難民の問題は、自動車のような個人の移動の手段、食料が栽培できる個人の土地を持っている、地方の住民より都会の高度成長期に造られた大規模団地の住民にとって、より深刻な問題なのではないでしょうか?
多摩ニュータウンの建て替えに見る 団地再生の未来
http://sumai.nikkei.co.jp/edit/kanri/detail/MMSUm0000002032012/
石井の意見
少子高齢化で、都市部の人口も大きく減少をする(土地が安くなる)、という前提で考えると、地方に移住する若者は、急増することは無い、と思います。
確かに、価値観の多様化で、田舎のライフスタイルを求めて、移住する人はいるでしょう。
問題は、そのような価値観の若者を引き付ける環境(自然・人材)があるかどうかでしょう。
指摘
食品の長期保存は、マイナス40度以上、出来ればマイナス60度が必要でしょう。
マイナス20度なら、普通の冷蔵庫の温度です。
以上です。
【1329】[1610]慰安婦問題についての若干の考察 (2)
私は約30年間を首都圏で暮らしました。その間、毎年のように京都に遊びに来て、名所と呼ばれる寺院や庭園を訪れ、ついでにその周辺を当てども無く歩くのが好きでした。比叡山にも二度、京都側からケーブルカーとロープウェーを乗り継いで登りました。その頃は延暦寺は京都のお寺だとずーっと思い込んでいました。
六年前に大津に住むようになって、延暦寺は本当は大津市にあるのだと知って驚きました。比叡山に登るには大津市の坂本からケーブルカーに乗って登るルートもあります。そしてこの終点の駅であるケーブル延暦寺駅の側(そば)の標高800メートル位の所に第二次世界大戦末期の昭和20年(1945)何と「桜花」の発射基地があったという事を知り、二度驚きました。
「桜花(おうか)」というのは特攻兵器として開発された人間爆弾の事です。これがそれまでの零戦などの戦闘機を転用した特攻兵器と根本的に違うのは、着陸するための車輪が無いという事です。勿論脱出する為のパラシュート等もありません。要するに爆弾に翼とロケットエンジン又はジェットエンジンを付け、人間が操縦して敵艦に体当たりをするという代物(しろもの)です。
沖縄を失い、いよいよ本土決戦というところまで追い込まれた当時の日本人にとっては、大阪湾や伊勢湾に攻めてくるアメリカの軍艦を沈める為には標高800メートルの比叡山からカタパルト(=射出機 滑走路を使わずに離陸する為の装置)によって発射され、プロペラ機よりはるかに高速のジェットエンジンで体当たりするというアイディアに、光明を見出したのでしょうか?
生還の可能性を全く考えない飛行体を設計した技術者は、いったいどんな心境で設計図を引いたのだろうか?比叡山に基地を構想した人物は、ケーブルカーがすでにそこにあり、建設資材を運搬するのに好都合だと気付き、比叡山を候補地に推薦したに違いない。ましてや、目の前の空間は眼下800メートルまで広々と拡がる琵琶湖に面しているのだから、これ以上の立地条件はないと満足し、着眼点の良さを自慢さえしたかもしれない。
日本の宗教界で最高の権威と伝統を誇る延暦寺の高僧たちは、特攻の基地に付いて何か言わなかったのだろうか?特攻隊員に選ばれた若者たちは何を考えただろうか?敵弾に当たって死ぬのも、自ら敵艦に体当たりして死ぬのも同じ死、どうせ死ぬのなら大きな戦果に掛けようと、自らを追い込んだのかも知れない。そして、これらの奇怪(きっかい)な思考から生み出された構想が現実のものとなり、基地が完成したのは皮肉なことに1945年8月15日だったと知り、私はまた驚いたのです。(大津市歴史博物館に写真などわずかな資料が残っています。)
基地に関係した人々は、どんな思いでこの日の正午の玉音放送を聞いたのだろうか?その時代を生きた人々の想いを想像してみる事は出来るが、戦時下のその時代の空気を70年後の今を生きる私たちが感じる事は不可能な事で、それは戦時下に生きた人達にしか感じる事が出来なかった重たい空気なのだ。
さて、以下の文章は2ページ位前に投稿した1552番(3月22日)の続きです。
【慰安婦制度の構図】
1860年の長崎において日本国の慰安婦制度の原初の形態が出現した経緯は前回述べた通りですが、この時の規模は原初と呼ぶにふさわしく、ごく小規模で約100名のロシア水兵を相手にする慰安婦10数名というものでしたが、小規模であるが故に、その構図は逆に解明し易い。
明治以後の日本国の海外での戦争は日清戦争に始まり、その後、軍隊の規模と戦場が拡大するにつれて、軍隊と共に存在した慰安婦制度も、その規模や形態が、その時々の状況に応じて変化していくのですが、基本的な構図は同じなのです。
まず、話の大前提として「男は常に女を必要とする」というごく当たり前の事実があります。次に必要な需要には必ず供給が行われるという経済原則が働きます。そして、軍隊の管理者の立場にあるものは兵力の低下を恐れるために兵士の健康管理を重視し、それは逆に、兵士と関係する慰安婦の性病管理をするという事でもあるので、少なくともその分野については軍隊がその管理を主体的に行う、という構図が常にあるのです。
更に言及しておくべきは何十万、何百万の兵士に一体何万人、何十万人の慰安婦が必要とされたのか?という事です。これは例えば、衣料品の業界が軍隊の発注する軍服、冬季の外套や毛布などの特需に沸きたった様に、この業界(売春宿を兼ねる飲食店の経営者、女衒(ぜげん 人身売買の仲介業者)や売春婦)にとって正に特需だったのです。
平時において、軍隊が自国内の駐留地に存在する限り、兵士は定期的に与えられる休暇に各家庭に帰るなり、歓楽街に繰り出すなりして、その欲求を満たす事が出来るので、特に軍隊に従属する様な慰安婦の存在は必要ではありません。しかし、軍隊が外国に駐留した場合や、戦争で外国領に侵入した場合においては、万延元年のロシア軍艦ポサドニク号艦長ビリーリョフが直面したのと同じ問題、すなわち①現地人とのトラブルを避ける事が統治する為や現地政府との交渉を滞りなく行う為に必要であり、その為に②兵士が現地女性に対して不用意に性的衝動を起こさないように厳格に兵士を管理する事が③性病の感染を防ぐ為にも必要であり、④相手となる女性の性病管理を軍が行う必要から慰安婦制度が生まれたと、前回の文(1552番)で述べました。
そして、慰安婦制度は次の様な過程を経て実現されます。その基本となる構図を見てみると、まず㋑軍隊からの要求がある。(先の①~④の理由で)㋺その要求は行政当局に伝えられる。さらに㋩行政当局は業者(売春宿の経営者等)に㊁慰安婦となる女性を募集させ、慰安所となる建物の建設と運営を行わせる。(この場合、行政が業者に金を出す場合もあるだろうし、金は出さずにその様な事を行う権利ないし便宜を与える等、状況によってさまざまなグラデーション(段階)があると考えられます。さらに、重要な要素である㋭検黴(けんばい 性病の管理)は軍のコントロール下にある医者(軍医など)に行わせました。
ここで一つの仮説が立ちます。『慰安婦制度は軍隊から行政当局への要求(通知、要請、指示、命令など)があってから、実現の為の動きが始まる。』ここで言う行政当局とは自国の行政当局の場合もあれば、外国の行政当局の場合もあります。万延元年の長崎の事例ではロシア軍が外国の行政当局(長崎奉行)に要請する事から始まりました。昭和十年代の朝鮮半島における慰安婦募集の事例は、日本の軍当局から日本の行政組織である朝鮮総督府に要請があった事から始まります。そして、これを特需の発現と嗅ぎ分ける業者は当然のことながら、行政当局が言いだす前から、役所に問い合わせをするという様な事はごく普通に有ったのです。
【敗戦国の慰安婦募集】
さて、ここで時代は一気に飛んで、万延元年から85年後の昭和20年(1945)9月2日です。東京湾に浮かぶアメリカ戦艦ミズリー号の甲板で降伏文書調印式が行われ、日本は敗戦国としての困難な時代を迎えました。それ以前の8月14日に日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日の玉音放送によって日本国民は敗戦を知り、厳しい戦後の現実に立ち向かわなければならなくなりました。そして、なんと玉音放送の三日後の8月18日には、内務省が各府県の県知事や警察本部長に慰安婦募集の指示を出しています。この辺りの経緯を半藤一利(はんどう かずとし)の「昭和史 戦後編」平凡社 の15ページから引用してみます。
(引用はじめ)
・・・・内務省が中心となり、連合軍の本土進駐を迎えるにあたって十八日に打ち出した策に出ています。戦時、「負けたら日本女性はすべてアメリカ人の妾(めかけ)になるんだ。覚悟しておけ」と盛んにいわれた悪宣伝を日本のトップが本気にしていたのか、いわゆる「良家の子女」たちになにごとが起こるかわからないというので、その“防波堤”として、迎えた進駐軍にサービスするための「特殊慰安施設」をつくろうということになりました。そして早速、特殊慰安施設協会(RAA)がつくられ、すぐ「慰安婦募集」です。いいですか、終戦の三日後ですよ。
「営業に必要なる婦女子は、芸妓・公私娼妓・女給・酌婦・常習密売淫犯らを優先的に之を充足するものとす」
そういうプロの人たちを中心に集めたということです。内務省の橋本政美警保局長が十八日、各府県の長官(当時は県知事を長官といいました)に、占領軍のためのサービスガールを集めたいと指示を与え、その命令を受けた警察署長は八方手を尽くして、「国家のために売春を斡旋してくれ」と頼み回ったというのです。・・・・
(引用おわり)
ここでは天皇の玉音放送で敗戦を知ってわずか三日後の8月18日に内務省の中枢から各府県の知事や警察本部長あてに占領軍(当時は進駐軍と呼ばれていた)向けの慰安施設を作る為に慌(あわ)ただしく指令が出されたと述べられています。
まるで、人体に侵入した黴菌(ばいきん)に身体中の免疫機能が素早く反応して防疫体制を構築するように、各府県のトップに出された指令が末端の警察官(行政官)に至るまですぐさま伝わり、アメリカ軍が進駐する予定日までに特殊慰安施設の開業を目指して走り出す様子は見事というほかなく、驚嘆してしまいます。
滋賀県と大津市の場合を見てみると、(大津には9月30日に第一陣が進駐し、本格的には10月4日、5日に進駐しました)9月10日付けで県進駐軍連絡事務所が設けられ、特別施設係(占領軍の宿舎、慰安施設等の建設担当)、庶務係(通訳を含む)、物質係、設営係、連絡係等が新設されました。また、市民に対して「連合軍進駐地付近住民の心得帳」を配布して、特に婦女子の服装に注意を喚起しています。大津市内には日本軍の施設がたくさん在ったこともあり3000名のアメリカ兵が駐留しました。それは、昭和26年(1951)の講和条約締結後も続き、完全に基地が返還されたのは昭和33年の事でした。
この辺の状況を知るために「新修 大津市史 6」の275ページから一部を引用してみます。
(引用はじめ)
占領軍将兵の慰安施設も、駐留地に課せられた問題であった。二十年十月五日、滋賀県商工経済会では琵琶湖観光協会を発足させ、その経営で、大津市小唐崎町に、将兵相手に土産品、記念品を売る物産委託販売所を開店している。アメリカ兵に人気の品は、近江八景入りのハンカチであった。その後、十月二十五日には、占領軍への観光サービスを行う滋賀県物産販売株式会社に発展した。また、十月六日(引用者注:10月5日に進駐が完了した)には、大津市内40カ所で、将兵相手の特殊飲食店・ビヤホールも県の営業許可をうけて開店し、尾花川の紅葉館別館に琵琶湖ダンスホールも開設の運びとなった。特殊飲食店・ビヤホールには「美女特攻隊」と呼ばれる酌婦がおかれた。その総数は130名で、うち数十名が将兵相手の売春要員とされたという。県旅館飲食業統制組合では、早く九月十一日頃から、「憂国ノ女性集リ来レ」「三食共美食」「収入多大」との新聞広告を出し、占領軍将兵相手の酌婦を募集していた、特殊飲食業の総売り上げは、開店以来40日間で40万円を超えたという。(引用者注:当時の物価 白米10キロ=6円 ハガキ=5銭)
(中 略)
昭和二十七年四月の講和条約(の発効)で、アメリカ軍の「占領」は終わったが、安保条約により、アメリカ軍は三十二年まで大津に駐留しつづけた。進駐以来、キャンプ大津に隣接する三井寺下一帯は、「三井寺下租界地」といわれ、アメリカ軍相手のバーやレストランが栄え、GI(引用者注:下士官以下のアメリカ兵の愛称または時に卑称)の袖を引くパンパン(街娼)が多かった。娼婦たちは最盛期には千人を数えたといい、三十一年でも、街娼68人、レストラン従業員兼売春婦106人、特定のGIがいるオンリー164人の計338人いたという。山上(やまがみ)から大門(だいもん)にかけて、彼女らは間借り生活をしていたが、部屋代は平均四畳半で月額四、五千円という高い相場(引用者注:昭和31年の国家公務員の初任給は8千円)であり、付近の農家(引用者注:貸家をしている農家)をうるおしていた。敗戦と占領軍進駐がもたらした、戦後大津の特異な風俗であった。
(引用おわり)
一言でいうなら、餓死者が出るほどの厳しい食糧難の時代に勝者(アメリカ兵 お金を持っている)に、なびいた人たちは特需で潤ったという話である。8月15日に玉音放送を聞いた日本人のほとんどは悲しさと、悔しさで涙を流したと思う。それは偽りではなく本物の涙だった。しかし、アメリカ軍が進駐するまでの2~3週間の間に、昨日まで鬼畜米英と叫んでいた人が、御主人様アメリカという態度にすっかり変心してしまったのだ。それは恐らくアメリカという勝者の最前面に立たざるを得なかった人々(政治家、外交官、役人など)、困難な時代の最先端に運命的に立たされた人々(慰安婦など)から始まり、その周囲の人たちも徐々に同調していくという形で、ほとんどの日本人がアメリカという勝者を受け入れて行ったのだろう。
内務省の中枢にいた役人が各府県のトップに占領軍のための慰安施設を準備せよと指令を出した問題。このことを何と卑屈で恥ずかしく、情けない態度だと非難するか、それとも厳しい現実を受け止めた役人の冷静な判断で、社会混乱を出来るだけ少なくするための現実に即した止むを得ない選択だったと考えるか、重たい気持にさせられる問題です。
ところで、「敗戦国の慰安婦制度」を先に立てた仮説(軍隊が行政当局に要求することからすべてが始まる)を当てはめてみるとどうなるだろうか?この場合は軍隊とはアメリカ軍であり、行政当局とは当然日本政府のことです。(あるいはアメリカ軍当局とアメリカ行政当局の間で協議があり、アメリカの行政当局から指示された日本政府の可能性もある)ポツダム宣言を受諾する交渉の過程で、中立国を通して日本の外交当局とアメリカの外交当局が非公式の交渉の中で、慰安施設の問題が話し合われたのだと想像します。あるいはアメリカ側から言い出す前に御用聞きの様に、へりくだった態度で、慰安施設の問題を日本側が言い置いただけなのかも知れません。いずれにせよ、慰安施設の問題が何らかの形で取り上げられたに違いないと考えています。外交官同士は極めてクールに、事務的にこの問題に言及したのでしょう。
(つづく)
【1328】[1609]結構身近かな問題提起をしてみます
最近、内容的にかなり重圧感のある投稿が多いようです。
そのような中、たまには、社会問題提起型も楽しめるかと思ったので投稿してみますのでよろしくお願いいたします。
タイトル:買い物難民問題について
平成26年5月22日
磯貝 太
【問題の定義】
少子高齢化、大型店の進出から日本で600万人の「買い物弱者」あるいは「買い物難民」と称する国民が発生している。
経済産業省商務情報政策局 商務流通保安グループ 流通政策課
電話:03-3501-1708(直通)
FAX:03-3501-6204
によると、
「引用開始」
高齢化や人口減少等を背景に日常の買い物に不便を感じている買い物弱者等が増加しており、こうした地域コニュニティのニーズに対応する、国や地方公共団体が行っている買い物弱者支援関連制度(25年度版)を取りまとめましたので、公表します。
「引用終わり」
発表されている一般的な解決策の情報では対処療法しかない。
根本的な問題を解き明かすことが解決につながるのではないか。
対処療法を続けていても、根本的な解決は無理だろう論を展開していき、根本的な解決法を探る。
【買い物弱者について】
2010/05/14 19:19 【共同通信】によると、
「引用開始」
見出し「高齢者層「買い物難民」6百万人 経産省が宅配への支援提言」
経済産業省は14日、近隣の商店街の衰退や交通手段の不足によって日常の買い物が不自由になっている高齢者層の「買い物難民」が全国で約600万人に上ると推計した報告書を発表した。
報告書は過疎地や高度成長期に建てられた大規模団地で、買い物に困る層が増えていると指摘。宅配や移動販売といった買い物の利便性を高める取り組みを、地方自治体が補助金などを用意して支援する必要があると訴えた。
高齢者らの買い物を支援する各地の取り組み例も紹介。スーパーがインターネットで注文を受け、食品や日用品を宅配する「ネットスーパー」や、トラックで山間部や福祉施設へ販売に出向く移動販売などのケースを挙げた。
報告書は支援に取り組む多くの事業者で採算が厳しく、事業の継続や発展が難しくなっているとも指摘した。車両購入などの費用に対する補助の実施や、販売拠点としての公民館の活用など、自治体と事業者の連携強化を求めている。
「買い物難民」の人数の推計は、全国の60歳以上の計3千人を対象にした内閣府の調査結果を基に実施。調査では地域の暮らしで不便に感じる点についての設問に「日常の買い物」との回答が16・6%を占めた」
「引用終わり」
【買い物弱者について】
1 問題が発生する条件
2 問題が発生している具体例(アメリカ、日本)
3 対処法など
4 極度に貧困が進んでいる地域(消費する物がもともとないので比較が難しい)を除き、アメリカ、日本の2国以外の国では全く発生していない。
少子高齢化が進むヨーロッパの田舎町でも、買い物弱者は発生していない。オーストラリアのでっかい農場の一軒家に住む農家の人も該当しない。
5 そこで、日米2国のみに特化した問題を解析する。
6 問題がない国との差異を問題提起し、解決案を提示する。
7 おそらく買い物弱者対策をこのような視点で問題提起し、解決案を提示するのはこれが、日本、もしくは世界でも初めてだろう。その世界初だろう論を展開する。
【言葉の定義】
買い物弱者、買い物難民(かいものなんみん)とは、「従来型の商店街や駅前スーパーなどの店舗が閉店することでその地域の住民が生活用品などの購入に困るという社会問題、またはその被害を受けた人々を指す言葉」(ウキによる)
従来型の商店街を定義づける文章がなかったが、米屋や酒屋、八百屋、魚やのたぐいを指すと思われる。
【発生する要件、条件、環境など】
*米国の事例
■ウォルマート進出による問題の発生
典型的事例は、ウォルマート現象と呼ばれるものと親和性がある。
ウキからウォルマートの「反対・批判」から引用する。
「1 アメリカにおいては、個人商店(小規模商店)や地元資本の小規模スーパーマーケットしか存在しないような小都市に進出し、安売り攻勢で地元の競合商店を次々倒産に追い込んだ挙句、不採算を理由に撤退するという形(いわゆる焼畑商業)で地元の経済を破壊する事例、いわゆる買い物難民の発生が相次いだため、進出計画を反対される案件が相次いでいる。
2 また、安価な輸入品(特に中華人民共和国製)を多く販売するため、アメリカの製造者団体等から「自国の雇用をないがしろにして自社の利益の向上のことしか考えていない」という批判を受け、積極的に自国製品(外国においてはその国の製品)を取り入れるという姿勢を取り始めている。
3 従業員の労働条件の悪さも有名であり、低賃金の非正規雇用従業員を多用して、正社員としての本採用に消極的な上に、労働組合がないうえ、組合結成の動きがあれば社員を即刻解雇するなどの不当労働行為が後を絶たない」
3つの問題の記載があるが、1番目にでてくる「焼畑商業」で地元経済を破壊する事例が端的に説明されている。
次に記載される、2販売商品、3労働条件については、必要に応じて考察する。
要するに、アメリカの事例は、郊外に大型店が出来る。近所のお店が壊滅する。
生き残るのはジャンクフード店だけ。
過剰カロリーとりすぎでスーパー肥満がうまれる。
医療費が急騰する。
ということだろう。
【推察】
1 アメリカ型の買い物弱者問題は大型店の薄利多売で地域経済を壊滅させたあと、その大型店の撤退が主因になる。
ただし、アメリカは国土も広く、日本と住環境が著しく異なり、自動車がないと生存出来ない住民も多い。
2 日本の場合は、従来あった米屋、魚や、肉や、八百屋などがスーパーの進出などから、廃店に追い込まれるケースもある。
しかし、小売店の廃店は、著しい売り上げの現象よりも、後継者がいないため廃店するケースも多い。
また、販売が免許制だった米、酒、塩販売に安泰していた小売店の廃店も相次いでいる。
3 しかし、一昔前のスーパーは午前10時頃開店午後7時頃には閉店しており、お正月の三が日は休業があたり前だった。ということで、当時の消費者は買えないもの買えないと諦めていた。ところが、今では営業時間の延長し8時開店夜12時閉店も珍しくなくなった。
24時間営業のコンビニの異常な発達などから、日本の消費者は、小売店に対する要求自体が高くなりすぎたことが主因ではないか。
4 政府が買い物難民を定義し、その表現を公然と使うようになっているが、定義によると600万人が該当する。
一方で、ネット販売、訪問販売業者にとっては、600万人の消費者が新たに発掘されたことから大きなビジネスチャンスととらえる向きも多い。
5 一方、ヨーロッパ、オーストラリア、アジア、中東、南米、米国を除く北米など世界各国では深刻な貧困地帯を除くと日本で定義された「買い物弱者」に該当する人が1人もいない。
6 各国との比較になるが、ヨーロッパの小売店は営業時間が極端に短い。午前10時開店し、正午から約2~3時間の休憩時間。そして、午後5時には閉店する。
カソリックが主流の国では日曜日は労働しないので店が開いていない。ちなみにフランスにはコンビニが一軒もない。(2013年01月16日付け東洋経済オンラインによる)以下も引用する。
「パリの中心部でもなければ店は9時には閉まり、週末は総じて営業していない。昼も3時間くらい一時閉店されることも多く、夏にでもなれば2カ月くらい夏休みをとっている店も多い。驚いたことに正社員は年間6週間くらいの有給休暇が法律で定められており、これだけ休んでいたら消費も上がるんと違うか、と思いきや、物を買いたくても店が休んでいて買えないのだ」
7 ドイツでは休日営業の禁止、営業時間も法律で厳しく決められている。(ドイツにおける「閉店法」の歴史と緩和の動き 日本貿易振興機構(ジェトロ)海外調査部欧州課闍塚一による。日付記載なし)
以下も引用。
「日本人にとって、24時間営業の店が身近にないことは、極めて利便性が悪いように感じる。しかし、長い間「閉店法」に合わせた生活をしてきたドイツでは、その生活スタイルが深く定着している」
8 以上を鑑みると、日本で定義される「買い物弱者」は日本国内の小売業態の激変からコンビニの出現前にはあたり前だった買いだめ、漬物など保存食を自分で作る、冷凍庫の有効活用、当時当たり前だったそば屋やラーメン屋の出前の消滅などの当時当たり前だった「生活スタイル」を根本から変えてしまった事から発生したものと結論づけられる。
9 以下、生活スタイルを見直し、個人で解決できるもの。
1 庭で野菜を作る。庭がなければプランターで作る。(新鮮な野菜は自分で調達する)
以下、参考資料を添付する。
贈答用のような仕上がりでなければほとんどすべての野菜が家庭で作ることが出来る。
室内でもレタス程度は簡単に出来る。室内は虫の被害がないので、逆に豆類など室内栽培に適した野菜も多い。
キッチン菜園もある程度の道具が揃えば、出来ない野菜を取り上げる方が難しくなるほど種類の野菜が栽培できる。
2 余った野菜は調理後冷凍するか、漬物など発酵食品にして保存する。
3 食肉、鮮魚、などは買いだめ出来るよう冷凍庫を設置する。2~3万円程度でマイナス20度程度のものが購入できるので、必要な量を取り出し調理していく。もちろん、調理した余り物も冷凍保存できる。
4 コメは玄米で保管し、家庭用精米機で精米し必要分だけ食べていく。
参考資料
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による。
主な野菜の栽培難易度
栽培が簡単な野菜
とうもろこし
ダイコン
さつまいも
かぶ
ほうれんそう
コマツナ
栽培がまあ簡単な野菜
きゅうり
ミニトマト
ナス
ピーマン
かぼちゃ
じゃがいも
にんじん
キャベツ
レタス
栽培がやや難しい野菜
イチゴ
スイカ
メロン
エダマメ
そらまめ
たまねぎ
ハクサイ
ブロッコリー
大玉トマト
白ネギ
【日本型買い物弱者の例外】
実体験として実家を例に上げる。
82歳の父、79歳の母親の2人暮らしだった。
買い物は父親が運転する軽自動車で行っていたが、4月末に脳梗塞で倒れ、自動車移動が出来なくなった母親が「買い物難民」に定義される状況になった。
早速、生協の配達の申し込みし利用している。急な来客などがあれば、勤め帰りに息子の私に買い物を頼み調達している。
とはいえ、徒歩10分、自転車で3分以内のところにコンビニ2軒、中規模のスーパーも2軒ある。
外食では同じエリア内にマクドナルド1軒、ラーメン屋4軒、そば屋1件、居酒屋5~6軒、すし屋1軒。
そこに生協の配達、一戸建ての家の庭では家庭菜園でトマト、きゅうり、なすレタスなども栽培している。
商店街構造の変化とは全く関係がない事例だが、このような形で当面の問題は解決させているのが現状だ。
【個人的な希望】
経済産業省が定義づけたとされる「買い物弱者」対策以前に、集落全体の住民が80歳を超えるような限界集落での耕作放棄地などを活用した若者の雇用創造、その若者に住居などを提供し、買い物依頼などの業務で収入も得られるようにする。
災害の多い日本では、相当以前から過度な人口集中が危機管理の面で問題となってきた。
大不況で仕事のない若者、労働条件が厳しい割に低賃金の若者の地方への分散化移住があれば頼もしい。
そうなると地域住民の期待も大きいので、豪雪時の除雪など生活環境改善策にも期待できる。
限界集落を含めた地域の活性化にもつながる施策も可能な事案になると思われる。
以上です。
皆様のご批判等ありましたら、ご遠慮なくお願いいたします。
【1327】[1604]今日のぼやき の 広報ページに たくさん書きました。
副島隆彦です。 私は、たった今、今日のぼやき の 広報ページ(だれでも読めるページ)に、たくさん書いたことを、載せました。
あまり書かなくて申し訳ない。
私は、決して悩んで書けなくなっているのではなくて、ただ、考えているのです。 会員ページに面白い文がたくさん載っていますから、会員は、そちらもお楽しみ下さい。 これからも会員ページに 重要な文をどんどん書いて載せます。
副島隆彦拝
【1326】[1598]勝海舟のパトロンは関西の豪商たちだった
「幕末の英傑」勝海舟はパトロンの論文を剽窃(ひょうせつ)して出世した
田中進二郎です。ひさしぶりの投稿です。よろしくお願いします。
二か月ほど前に、副島先生から幕末・明治の日本についての集中講義を受けました。その中で、幕臣の大久保一翁(いちおう 忠寛 ただひろ 1816~1887)が裏方(あるいはボス)として果した役割が非常に大きい、ということに気付かされました。副島先生が「幕末のミッシング・リングが解けた!」とおっしゃっていました。
そこで古川愛哲(ふるかわ あいてつ)著の『坂本龍馬を英雄にした男 大久保一翁』を読んだところ、大久保や勝海舟らにも影響を与え、陰で資金も出していた豪商たちがいたことが分かりました。
上記の本には、勝海舟のパトロンとして、函館の豪商、渋田利右衛門(しぶた りえもん)、伊勢松阪の竹川竹斎(たけかわ ちくさい 1809~1883)、紀州湯浅の浜口梧陵(はまぐち ごりょう)、摂津の灘の嘉納次郎作(かのう じろさく)の名があげられている。
浜口梧陵は安政の大地震(1854年)の際に、津波から村人たちを救ったという『いなむらの火』の話で有名だ。東日本大震災の後、小学校の教科書にこの話が復活した。(ただし、話と実態は少し違うそうなのだが。)
嘉納次郎作(じろさく)は「姿三四郎―講道館物語」の嘉納治五郎(じごろう)の父である。
彼らは勝海舟(麟太郎 りんたろう)に、自由に勉学するだけの資金を共同で出していた。この資金援助は、黒船来航(1853年)より十年ほども前から始まっていたという。
海舟20代前半の頃だ。
海舟は自伝の中で、高価なオランダ語の辞典である『ヅーフ・ハルマ』58巻を持っている蘭医のところに毎日通って、筆写したと得意げに語っている。いかにも苦学をしたように言っているが、それは事実ではなかったのだ。生活苦からこのころにはすでに解放されていたのだ。海舟には多いウソ・ハッタリの一つなのだ。
竹川竹斎や浜口梧陵ら、勝のパトロンになった豪商たちは、ただの学問好きであるだけでなく、諸外国の勢力が日本に伸びてくることを真剣に憂慮していた。竹川は日本は開国をして、貿易で利益をあげることを目指さなければならない、と考えていた。そして、その輸出品を作り出す産業育成を幕府に求める提言を行っていた。それが1851年に竹川が著した『護国論』である。江戸時代の在野の知識人たちの中に、幕藩体制の危機を意識し、具体的政策を論じた経世家(けいせいか)とよばれる人たちがいる。本多利明、佐藤信淵(のぶひろ 1769~1850)、林子平らである。竹川竹斎は佐藤信淵の門人であった。
勝海舟はパトロンの竹川から『護国論』を受取り、これをパクッて自分の『海防意見書』に組み込んで幕府に提出した。
通説では『海防意見書』は、日米和親条約締結後、老中阿部正弘が幕臣たちに意見を公募したのにこたえて、勝が提出したものとされている。それを幕府の老中たちが読んで、感心して勝の幕府登用がきまったことになっている。
しかし上記の古川愛哲氏の『坂本竜馬を英雄にした男-大久保一翁』には次のように述べられている。引用する。
(引用開始)
語られなかった勝海舟の幕府登用の真実
海舟の『海防意見書』の発想は、それほど独創的なものではない。「強力な海軍を作れ」とは、井伊直弼(いい なおすけ)も書いているが、それ以前から、師の佐久間象山の持論である。(中略)
また海舟の「西洋学問の学校を造れ」との主張は、一翁が自ら建白したことである。
(田中進二郎です。この西洋学問の学校を造れ、という建白は1856年に蕃書調所【ばんしょしらべしょ】の設立で実現している。大久保一翁は勝海舟をこの蕃書調所御用に登用したのだ。引用を続けます。)
さらに「積極的な貿易論」も、海舟独自のものではない。竹斎は嘉永四年(1851年)に『護国論』という一冊を書いて、それを海舟に献呈していた。『護国論』とは、貿易で国を富ませて護ることを説いた書である。
「人材登用」を主張する海舟の意見は、一翁との合作だろう。
海舟の「海防に関する意見書」は、一翁が海舟を幕府に登用するために、津田真道(まみち 真一郎 岡山の津山藩士 蘭学者)と三人で合作したと思われる。すべて老中・阿部が求めていたことばかりである。 (p64より)
(引用終わり)
田中進二郎です。
つまり老中の気に入る案を大久保は勝に書かせて、それを阿部正弘に回し、阿部は勝を抜擢することになっただけのことである。勝はこのあと下田取締掛手付 兼 蕃書調所御用という任務を幕府から命じられ、百俵五人扶持の俸禄を与えられている。
勝海舟は自分のパトロンや先生の業績を剽窃(ひょうせつ)したのだ。だからとても「幕末の英傑」と呼べる柄ではないのだ。
●幕末の憂国の豪商たちの活動は歴史から抹殺されている
ところで、勝海舟のパトロンの一人であった竹川竹斎とはどのような人物だったのだろうか?上野利三著『幕末維新期 伊勢商人の文化史的研究』という本は、竹斎の日記を十年がかりで解読して、彼の行動とネットワークを明らかにしている。
私はこの本を読んで、彼の邸宅と私設図書室がまだ保存されていることを知り、三重県松阪市の射和(いざわ)地区を訪ねた。そこで竹斎のご子孫の方に会って、お話を伺うことができた。
射和(いざわ)というのは、松阪市から10キロほど南西にいったところ(JR紀勢本線相可駅の近く)の集落である。松阪市の有名な史跡である、本居宣長の鈴屋(すずのや)や三井家発祥の地、三井高利(みつい たかとし)の屋敷跡などがある松阪城下ではない。
ではなぜ、町外れの射和という集落に富が集積することになったのか。それは丹生山(にぶやま)という水銀の採掘場が近くにあったためである。水銀といっても、無機水銀であり少量の人体への摂取は新陳代謝をよくするものとされてきた。(過度に摂取すると中毒死するという。)
だから、水銀の原鉱物(朱砂 しゅさ)を独特の製法で、白い粉(白子 しろこ、軽粉 かるこ)にし、女性の用いるおしろいや漢方薬にもなっている。
竹川竹斎の師であった経世家の佐藤信淵が射和の丹生山について、『経済要録』(文政十年 1827年刊行)という論文の中で次のように紹介している。引用する。
(引用開始)
不昧軒翁(ぶまいけんおう 佐藤信淵の祖父)いわく、土地赤色なるところには必ず水銀ありと。予(佐藤信淵)あまねく四海を遊歴して、翁の説を推究するに、奥州の朱沼山、羽州の鹿内(しかない)山、勢州(伊勢)の丹生山、阿州の丹生谷などの土地赤色なるところには、果たして水銀気を含有せり。
(中略)
続日本紀(しょくにほんぎ)の元明天皇の和銅六年(の項)に、伊勢国井沢(射和 いざわ)より初めて水銀粉を(朝廷に)献り(たてまつり)たる由を載す。いわゆる粉とは軽粉のことなり。これは勢州丹生山より掘り採れる水銀にて製したる軽粉なり。
丹生山には中古にはすこぶる水銀を多く出せしが、近来山崩れてついに廃山に及べり、惜しむべきことかな。そもそも水銀は薬物となり、白粉(ここではおしろいをさしているだろう 田中注)となり、朱を製し、鏡を明にするのみならず、その他鍍金(ときん メッキ)をなし、諸金を粉末にするなど、人生の要用きわめて多きものなり。然るに今の世に当たって、皇国の諸州に絶てこの物を出すの地なし。開物に従事する者は、心を細かにして此を探索するを専務とすべし。又もし国土を持つ者、よくその領内の地方を(調べ)尽くして、物産(会)を開くことあらば、この物(水銀)もまた出でまじきものにもあらざるなり。
(佐藤信淵著『経済要録』巻の四-開物上篇 岩波文庫p70より引用した)
(引用終わり)
田中進二郎です。このように佐藤信淵は、竹川竹斎の商家のある射和に足を運び、丹生山を探索していることがわかる。中世から江戸時代にかけて、射和には水銀加工場が80軒もたちならんでいた。そこでつくられた白子は伊勢湾から回船で各地に運ばれた。三重県の鈴鹿市には今も白子(しろこ)という海に面した町がある。きっとここから運ばれていったに違いない。ここは江戸時代は紀州藩の飛び地で、回船問屋を紀州藩が統制していた。
また大黒屋光太夫は、ここの回船問屋の家に生まれている。そして沖船頭として、白子-江戸間の千石船(せんごくぶね)に乗って航海中に嵐に遭って漂流し、一行はロシア人のいるアリューシャン列島に漂着した。(1782年)
竹川竹斎のご子孫から直接伺ったのだが、水銀を白い粉にした白子(しろこ)は梅毒の特効薬としても珍重されたという。梅毒の水銀治療というのは、オランダでも行われていたようだ。オランダから1775年に出島にやってきた、医師チュンベリーが梅毒の水銀療法を幕府の長崎通詞たちに教えた。(中西啓著『長崎のオランダ医たち』 岩波新書p82より)
長崎には、日本三大遊郭のひとつ、丸山遊郭というのがあって身売りした遊女たちがそこにたくさんいた。梅毒の患者もかなりいたのだろう。だから、きっと射和の白子は長崎でも用いられたはずだ。
こうしてみてくると、射和の商家群が、時代時代の封建領主に重税をとられながらも、新しい知識を導入して、水銀を改良しながら、財を築いていったことがおぼろげながらわかってくる。
そして、木綿問屋から出発し、江戸の伝馬町に本店を構えていった、伊勢松阪城下などの長谷川家や、三井家などに負けないほどの両替商に発展していったのだろう。
竹川家は勝海舟のパトロンであっただけではなく、幕府の為替御用商人として、幕府に金を出資していた。また大名貸しも行っていた。明治維新でこれらの投資はすべて新政府に没収されたため、三つもあった竹川家は没落して、今は分家の竹川竹斎の家がかろうじて残ったという。
勝海舟は自分のパトロンの竹川家が没落しても、それを内心苦にしていなかったようだ。義のために苦しむという人間ではなかっただろう。本当にひどいやつだと思う。
田中進二郎拝
●参考・引用文献
古川愛哲著『坂本竜馬を英雄にした男 大久保一翁』(講談社プラスアルファ新書 2009年刊)
上野利三著『幕末維新期 伊勢商人の文化史的研究』(多賀出版 2001年刊)
佐藤信淵『経済要録』(1827年刊 岩波文庫所収)
中西啓『長崎のオランダ医たち』(岩波新書 1975年刊)
【1325】[1597]西欧神秘主義とフリーメイソン
大川晴美です。今日は2014年4月27日です。
最近、吉村正和著「フリーメイソン 西欧神秘主義の変容」(講談社現代新書、1989年)を読んで、西欧神秘主義と呼ばれる思想に関心を持ちました。
以下、この本から引用しながら、考えたことを述べます。
著者の吉村氏は、フリーメイソンを論じる視点として、
「私のフリーメイソンへの関心も、古代から連綿と続く西欧神秘主義の文脈にフリーメイソンがどのように接続するかという問題意識からはじまっている。」(p.98)
といいます。そして、フリーメイソンとは何かについて、次のように述べます。
(引用開始)
注意しなければならないのは、フリーメイソンという組織が独自の思想・主張をもっていたわけではないということである。フリーメイソンは、さまざまな思想を包み込む「受皿」に似ていた。十八世紀のフリーメイソンにおいては、その受皿に盛られる内容が、啓蒙主義・理神論(引用者註、りしんろん)・科学主義という十八世紀を代表する思想であったということになるのである。(前掲書、p.54)
(引用終わり)
私・大川も、啓蒙主義・理神論・科学主義が十八世紀フリーメイソンの中心的な思想であったと考えます。そして、著者は続けて次のように述べます。
(引用開始)
十八世紀のフリーメイソンには、さらにもうひとつの傾向を認めることができる。十八世紀は、啓示宗教としてのキリスト教が退潮期にあり、その影響力が著しく後退していく時代であり、それまでキリスト教が満たしていた、人々の超自然世界への欲求を吸収するかたちで、さまざまな神秘主義・心霊主義が登場してくる。(中略)神秘主義的フリーメイソンも、啓蒙主義・理神論・科学主義を中心とするフリーメイソンと並んで、十八世紀を代表するフリーメイソンであることは間違いがない。(p. 55 – 56)
(引用終わり)
(引用開始)
一般的には、神秘主義は非合理的思考の代表的な例と考えられ、啓蒙主義は合理主義的思考を代表するものと考えられており、両者はともに相容れないとされている。ところが、フリーメイソンにおいては、この神秘主義が合理化されているのである。
すなわち、フリーメイソンの秘密を解く鍵は、一方において自由・平等・友愛を目標とする啓蒙主義運動があり、また一方において古代の密儀宗教に遡る(引用者註、さかのぼる)神秘主義運動があって、この両者の融合を見極めることにある。(p. 114 – 115)
(引用終わり)
大川です。フリーメイソンの神秘的な特徴は、メンバー同士の秘密の合言葉、秘密の参入儀礼、さまざまな起源説などに見られます。合理主義的なはずのフリーメイソンがなぜこのような特徴を持つのか、以前から疑問に思っていたので、この吉村氏の説明で少し納得できました。
けれども私が最も驚いたのは、吉村先生による西欧神秘主義の解説でした。
(引用開始)
西欧文明は周知のように、ギリシア=ローマ文明とユダヤ=キリスト教文明の二つの軸を中心として形成されている。西欧神秘主義は、その二つの焦点をひとつにつなぐような思考法であり、西欧文明のいわば地下水脈・地下茎(けい)として命脈を保ってきた。私にとって西欧神秘主義は、この西欧文明の秘密を解き明かしてくれる聖なる鍵(かぎ)のような存在に思われた。
西欧神秘主義の本流を形成する二つの流れがある。ひとつは、ギリシアの密儀宗教からピュタゴラス=プラトン=プロティノス=マルシリオ・フィチーノとつながる系譜であり、もうひとつはキリスト教神秘主義の系譜である。占星術・魔術・グノーシス主義・ヘルメス主義・カバラ・錬金術は、この二つの系譜の傍流として位置づけることができる。
(引用者註 原文ではここで改行していないが、このほうが理解しやすいので改行する。)
西欧神秘主義の根底に、神的世界への夢と憧れがあり、古代から中世、そして近代における宗教・思想・文学・芸術など、さまざまな分野で西欧的な花を咲かせてきた。神的世界への夢は、始原(アルケー)への夢といい換えてもよい。始原=根源=彼方=永遠の観念が、地下水脈・地下茎として数千年におよぶ西欧文化を支えてきたのである。
始原(アルケー)への夢とは、簡単にいうと、人間が神と一体化しようとする試みである。(中略)人間が、最終的に神と化して、この世(よ)的な世界から叡智的(引用者註、えいちてき)な世界へと立ち帰ることが目標となる。(p. 95 – 96)
(引用終わり)
大川です。「始原(アルケー)への夢とは、簡単にいうと、人間が神と一体化しようとする試みである。」・・・しばしの間、呆然・・・。しかし、気を取り直して続けます。
吉村氏による西欧神秘主義の説明が、世界の学界において多数派なのか少数派なのか、素人の私にはわかりません。この本は1989年に出版されたもので、最新の研究成果とは異なる可能性もあります。しかし、たとえばイタリア・ルネッサンスの時代に新プラトン主義が盛んに論じられたのはなぜか、とか、アイザック・ニュートンが万有引力の法則を発見するのと同時に、現代では非科学的といわれる錬金術(れんきんじゅつ、alchemy、アルケミー)も熱心に研究したのはなぜなのか、について、西欧神秘主義がヒントを与えてくれるような気がします。(ちなみに、私にはプラトンの思想や新プラトン主義がまったく理解できないのです。)
そして、この神秘主義は、今の時代にも通じる思想でもあると思います。最先端の軍事技術は秘密・秘儀として扱われ、科学技術の一種であるにも関わらず、近代科学の一般原則である公開性の原則は適用されません。この問題は、思想の面から取り組むべき重大な課題だと感じています。
それでは今日はここまでで失礼します。
大川晴美