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短いですが、義務教育で中学3年となっている英語を小学校から取り入れようと文部科学省がしていましたが、根本的な英語教育が義務教育からなっていなければ、
高等教育の高校、大学で勉強しても身につかないのもわかります。
その証拠に大学入試センター試験の英語の試験問題を英語圏の人に見てもらったところ今では、ほとんど使わない英語や通じない英語があると言っていたそうです。
巽一朗著の英会話とっさのひとこと辞典の前書きに今現在の英和、和英辞典にある
ものでも通じない英語があると書いてありました。
会員番号7791
【1382】[1678]幕末思想家を動かした清末知識人魏源と林則徐
幕末思想家を揺り起こした清朝知識人-魏源の『海国図志』
(その一) 田中 進二郎
・魏源と林則徐-アヘン戦争後に深刻に危機感を抱いた、数少ない清朝の知識人
・梁啓超の著作『清代学術概論』で高く評価されている魏源
・日本でもっとも早くに『海国図志』を読んだのはわずか齢二十の吉田松陰である
・海国図志は、強盛な西欧諸国のパワーの根源にサイエンスがあると説いた
・幕末三大思想家- 吉田松陰・佐久間象山・横井小楠をつなぐ『海国図志』の影響
・漢籍『海国図志』が幕末知識人に与えた衝撃は、幕末に翻訳された『聖書』や『万国公法』に匹敵する
・魏源と林則徐-アヘン戦争後に深刻に危機感を抱いた、数少ない清朝の知識人
魏源(ぎげん Wei Yuan 1794-1856)という中国人の名前はあまり知られていないだろう。が、英雄・林則徐(りん そくじょ Lin Zexu 1785-1850)なら有名だ。アヘン戦争(第一次アヘン戦争 1840-1842) の引き金となった、広東でのイギリスの倉庫からのアヘンの押収、処分を指揮した、当時の清朝の欽差大臣である。
一方の魏源は、アヘン戦争勃発より前に、清朝がすでに衰退をはじめている、と洞察した儒学者だ。そして、清朝の政治改革の必要性をもっとも早くに、『皇朝経世文編』(1826年刊)という書物で説いていた。日本では、異国船打払い令が出された翌年のことだ。
魏源は、科挙の殿試(最終試験)には、なかなか通らなかったが、著作を通して清の政府高官(経世官僚たち)に影響を与えた儒学者だった。
副島学問道場の古村治彦氏が今年の春に翻訳された書『野望の中国近現代史-帝国は復活する』(原題:Wealth and Power-China’s Long March to the 21st century オーヴィル・シェル、ジョン・デルリー共著 ビジネス社刊)。この本の第二章「行己有恥-魏源」が彼についての優れた解説になっている。(写真↑)
この本で、魏源は近現代中国の先駆的な改革者(reformer)として登場している。この章を参照、引用しながら『海国図志』(Illustrated Treatise On Sea Powers ,1843)
に関する考察を試みる。
中国で最初の麻薬取締官となった欽差大臣(特命を与えられた大臣)・林則徐はイギリスのヴィクトリア女王に書簡を送り、アヘン貿易を中止するよう求めた。しかし、当時のイギリスはパーマストン卿に代表される、強硬派の砲艦外交(Gun-boat Diplomacy)が優位を占めた。グラッドストーンらの出兵反対派を抑えて、議会で清への出兵が可決された(賛成271票、反対262票)。こうして軍艦14隻を中心とするイギリス東洋艦隊が中国に向かった。
林則徐は広東に要塞を作って、イギリス艦隊を迎え撃とうとした。しかし、イギリス艦隊は、広東を通り過ぎて、さらに北上、アモイ、上海に砲撃を加えた。さらに清の道光帝ののど元に刀を突きつける形で、北京の外港である天津に姿を現した。
このことに動揺した清の道光帝は林則徐を解任して、イギリスとの和平を求めた(1840年9月)。林則徐は、北京に召喚され、敗戦の責任をとらされることになる。
翌1841年に、林則徐は(現在の新疆ウイグル自治区の)イリに追放されることになる。がその前に林則徐は、揚州にいる盟友の魏源に、イギリスをはじめとする西欧諸国の情報・資料を与えた。林則徐と魏源に共通する考えとは、この敗北の屈辱をよくかみしめて、西洋の進んだ科学技術を進んで取り入れることが急務だ、ということだった。
しかし、二人の考えを理解する人間は、非常に少数だった。清政府内には、和平派、主戦派がいた。だが双方とも、清国が重大な危機に陥っているということ、イギリス帝国が科学の発展を基盤とした強国であるということを認めなかった。
やがて、主戦派が清政府で主導権を握ると、戦争が再開される(1841年春)。林則徐の後任の司令官は無謀にも、イギリス艦隊に奇襲攻撃をかけ、反撃され広東を落とされてしまう。
魏源はこのときの模様を「海国図志」に次のように記述している。
-清政府からの資金が途絶えて、清軍の兵士に食料費も支払われなかった。広東の虎門を守る提督の関天培は自分の財産から、兵士に銀二円を支給した。一方、イギリス(英吉利)軍は漢人の賊徒三千人を銀三十円で雇っている。
(英夷攻広東時、募漢奸三千人。毎人給安家銀三十円、毎月工食銀十円。而我守虎門兵月餉不及三両。提督関天培憫兵之窮苦。自捐賞血欠、毎兵銀二円。-「海国図志 巻一」より)
インドの傭兵部隊(セポイ)や本国からの増援部隊でさらに強化されたイギリス艦隊は、今度は長江に侵入した。清国の物流の大動脈を断ち切って、一国の経済を恐慌に陥れていく。穀倉地帯の中国南部の米の輸送路が分断される。ジャンク船は次々と沈められていく。アヘン戦争を描いた、あの有名な絵のとおりだ。長江の沿岸都市は砲撃で破壊された。80隻のイギリスの戦艦が暴れまわった、と魏源は書く。
魏源の住む揚州は南京に近い、長江の北岸にあった。塩商人が多く裕福な町だった。だから、イギリス軍に50万両の銀を払って、なんとか街は砲撃を免れることができた。しかし、揚州以外の周辺の都市はかたっぱしから砲撃されたのだ。それを魏源は茫然と眺めるよりほかなかった。この戦場のありさまを魏源は、『海国図志』の第一巻(60巻本。最後には100巻になる。)にありありと描いた。
イギリス艦隊が長江を遡上して、鎮江を陥落させ南京に近づいたとき、道光帝は戦意を失い、和平のための交渉団を南京に送った。屈辱的な南京条約はこうして、締結された。(1842年8月)
魏源は、ちょうどこの月に揚州で、十年にわたる著述である「聖武記」(Records of conquest )を完成させた。こちらは、「海国図志」と異なって、清朝の初期の統治(盛世)を讃えたものだ。
しかし、すでに清朝の威信は地に落ちている。清が衰退している今、これまでの清朝の対外政策を一新せよ、と説得するために「聖武記」は書かれたのである。
だから、魏源はこの本の前書きに、「恥辱を感じれば努力するようになる。」「恥辱を感じることで勇気が生まれる」と書いた.
アヘン戦争の敗北のあと、中国近現代史の中で改革者(reformers)たちが少しづつ現れてくる。彼らは魏源の「聖武記」、「海国図志」から影響を受けた。しかしアヘン戦争後もまだ多くの官僚は、「清は世界の中心」と考えていたことも確かである。
・梁啓超の著作『清代学術概論』
梁啓超(りょう けいちょう Liang Qichao 1873-1929)は魏源の死後、17年後に生まれた清末・民国初期の政治家、啓蒙的ジャーナリスト、学者である。前掲の『野望の中国近現代史』でも第5章で取り上げられている。ここで、清代後期の学者だった魏源はどのような学者であったかを知るために、梁啓超の『清代学術概論』を見てみよう。
梁啓超は、『清代学術概論』(1921年刊 東洋文庫所収 副題:中国のルネサンス 訳:小野和子)で清代の学問(以下、清学と書く)の総括的、体系的な歴史を書いた。ここには、清代の儒学者たちの考証学が中国の近代化の土台となったことが解説されている。魏源も登場している。この著作よりも以前に、梁啓超は魏源の『皇朝経世文編』の新版に寄せた序文を書いている。そこで彼は、ヨーロッパはまったく新しい科学・技術・哲学・政治・法律のもとに産業革命を進展させたのだ、と書いた。フランシス・ベーコン(1561-1626)の『ニュー・アトランティス』というのはそのことを指し示すことばなのだ、と書いた。ルネサンス時代のヨーロッパで大きな正体のわからない社会変動が起こっている。その総体を「新大陸」とベーコンは命名した、と梁啓超は言った。その後、梁啓超はヨーロッパのルネサンスについての概説書を書いた。その余勢を駆って、たったの15日間で、清代約300年の学術の総括の『清代学術概論』を書き上げた。まさに驚異的なことである。
因みに、この著作の中で、梁啓超は自らを、師の康有夷(こう ゆうい Kang Youwei 1858-1927 )とともに清の儒学の大きな伝統の最後をしめくくる人間である、と書いている。
『清代学術概論』の中で、梁啓超は清学の起源が、朱子や王陽明をあがめる学者たちへの批判・攻撃なのだ、と説いている。宋代、明代の学者は孔子・孟子の思想よりも、朱子や王陽明を重んじた。驚くことに、陽明学ですらも、中国にあってはすでに体制側の学問に変質していた、という。この思想的状況は、実にヨーロッパにおいて、イエス・キリストの教えが忘れられて、ローマ・カトリック教会が民衆を支配したのとおなじだった。宋、明の儒学者たちが奉じる理学(朱子学・陽明学)に共通していたのは、孔孟をあげつらうことはしても、朱子・王陽明を批判することは絶対にしない、という宗教的ドグマ(教義)だ。
イタリアのルネサンス(リナシメント)がカトリック教会の教義に対して、懐疑し、古代ギリシャ・プラトンの源流にさかのぼっていったこと。これとおなじ運動が清代中国で行われたのだ。その火蓋(ひぶた)を切っておとしたのが、顧炎武(こ えんぶ1613-1682)だった。彼は「経世致用」をスローガンに掲げ、理学に対して自分の学問を経学と称した。
この学派は考証学派と呼ばれている。顧炎武は「経学の祖」であり、同時代の黄宗羲(こう そうぎ 1612-1695)はこれに歴史学を加えた。だから「史学の祖」だと、梁啓超はいう。
以下、『清代学術概論』(p42)より引用する。
(引用開始)
黄宗羲は、史学を根底としていたために、経世致用を論じてとりわけくわしい。その近代思想にもっとも影響を与えたものは、『明夷待訪録』である。その言にいう。
後世の人君(君主 田中注)たるものは,・・・天下の利をすべて自分に収め、天下の害はすべて人に帰せしめて、・・・天下の人をして、みずから私するを得しめず、みずから利するを得しめず、自分の大私を天下の大公にしてしまい、・・・天下を莫大の財産と心得る。・・・およそ天下の地で安寧なところとてないのは、君の故である。・・・天下の人が「その君を憎悪すること寇(こそ泥 )のごとく」、また「独夫」よばわりしているのは、故なきことではないのである。
天地の広大さから考えて、万人の中でただ一人だけが勝手なことをしてよいのだろうか。だから、暴君を誅した武王は聖人であり、革命を認めた孟子の言葉は、聖人の言葉なのである。(湯武放伐論)
しかるに、くだらぬ学者がこせこせとし、「君臣の義は天地の間に逃るるところなし」と為し、はなはだしきは桀王・紂王のような暴君に対しても、湯王や武王は彼らを誅すべきではなかったといい、・・・「父のごとく天の如し」との空虚な名辞をもって、他人が君位をうかがうことを禁じようとする。彼らは孟子の言を不都合だとして、廟から孟子を除外したのだが、それは小儒の言葉が発端なのだ。・・・
(引用終わり)
黄宗義『明夷待訪録』原君(↓)より加筆した部分もあります。www.geocities.jp/ichitsubo_de_gozaru/col002.html
田中進二郎です。梁啓超は清の末期に、この『明夷待訪録』を簡略化したものを数万部印刷して秘密裏に配布した。
また梁啓超が、黄宗羲の思想を重視していたことは、副島先生と石平氏の対談本『中国人の本性』(徳間書店刊)の終章「中国を根底で動かした愛国思想家の系譜」でも書かれている。副島先生は強調している。
(以下、『中国人の本性』p235より引用する。)
副島―『明夷待訪録』という本は、明から清への交替を経験した黄宗義が、明朝末期の社会混乱の原因や理由を考察し、君主専制の否定、「民本重民」の思想をのべたものです。この時代の政治評論集として白眉(はくび)であると評価されています。黄宗義の『明夷待訪録』は中国のルソー、中国の「民約論」として清朝末期にもてはやされ、「排満興漢」の起爆剤になった。
(引用終わり)
田中進二郎です。黄宗羲の父親は、明の復興を企てる政治結社・東林党に属していたために清の政府によって殺されている。その仇を討つために彼は生涯懐に刀を入れて持ち歩いていた、という。黄宗義の『明夷待訪録』によって、湯武放伐論という革命思想が生まれたのだ。
また幕末日本でも、湯武放伐論を援用した人物がいた。それは吉田松陰である。彼は、アメリカ船ポーハタン号に乗り込み、密航を企てたとして幕府に罰せられた。(1854年)長州の萩の野山獄に入獄中に、おなじ囚人たちを前に孟子を講義している。この講義録として、『講孟箚記(こうもうさつき)』が著された。この本の中でも吉田松陰は「漢土における湯武放伐論は、至極理にかなっている。しかし、わが国日本の場合、日本の国土は天皇が末永く守られるものである。漢土における天が日本では皇室だ。だから皇室を倒すなどという他念を持ってはならない。しかし一方、征夷大将軍の地位は皇室に任命されたものである。これは堯・舜・禹(ぎょう・しゅん・う)や桀・紂(けつ・ちゅう)と同じ立場である。征夷大将軍の職責を果たすことが出来ない者はすぐに廃しても構わない。
けれども、皇室の命を奉じないでこれを討とうとすれば、これは義戦ではない。」と言っている。
(『講孟箚記』巻の一 第八章より要約)
ところで吉田松陰と梁啓超には隠されたつながりがあるようだ。時代は下って 1898年に、梁啓超は光緒帝から召しだされ、清国の大胆な改革に協力することになった。が、この改革はわずか百日で終わり、西太后(せいたいごう)は保守化し、梁の逮捕を命じた。梁啓超は北京の日本の領事館に逃げ込んだ。彼を保護するように命じたのは、当時日本の総理大臣の大隈重信であった。伊藤博文も亡命に協力した。梁啓超は天津から軍艦「大島」に乗って、日本に亡命することになる。この時からの日本での亡命生活は14年に及んだ。梁啓超は日本名を「吉田晋」と名乗った。この吉田晋という名はおそらく吉田松陰と高杉晋作を合成したのだろう。
(前掲書 古村治彦訳『野望の中国近現代史』p114かいた116を参照)
このように黄宗義に始まって、梁啓超にいたるまで清代(1644-1912)を通じて、知識人は清朝政府から弾圧を受け続けていた。
だから知識人たちは、清が繁栄している間はおおっぴらな政治運動は行わなかった。
清の康煕帝(こうきてい)が召喚しても、重病を装い、固く門を閉ざして皇帝に拝謁することを断る、という人物もいたという。清代の考証学者の多くは、浙江省・江蘇省など華南地方の出身であった。弟子などは取らないで、ごく限られたネットワークのなかで、師友関係を保っていた。
そして、『海国図志』を著した魏源も、故郷の揚州でそのようなネットワーク、同志を持っていたようだ。「海国図志」にはそうした、少数の人々が作成に加わっていたと考えられる。
魏源が『聖武記』や『海国図志』を完成させたのは揚州(現・江蘇省揚州市)においてだった。この地で、清朝の最初の時期に「揚州十日事件」という悲惨な虐殺事件がおきている。アヘン戦争の200年ほど前だ。明が1644年に滅亡した後も、明の遺臣たちは、南京を拠点として清に抵抗した。長江流域の諸都市もこれにならった。が、1645年、順治帝の送り込んだ清軍が揚州を包囲して攻め落とす。その直後、80万人という住民の大殺戮がおこなわれたという。
(『蜀碧・揚州十日記(しょくへき・ようしゅうじゅうじつき)』東洋文庫所収。『揚州十日記』は1805年(文政 年)日本でも刊行されている。)
清代の史学者であった魏源の心中には、清朝政府に対して穏やかならざるものがあったと推測される。
●清の知識人たちにアメリカのユニテリアン教会が世界の情報を提供していた
魏源の『海国図志』(60巻、のち100巻になる。)の中には、当時最先端の世界情勢が含まれていた。林則徐が魏源に、海洋大国イギリスを分析するように、情報・資料を大量に渡したからである。その中にはアメリカ公理会(美国公理会 the Congregation church, 副島先生は「Public Beneficiary Societyのことではないか」とおっしゃっています。)の宣教師があらわした事典の翻訳があった。
アメリカン・ボードが初めて中国に送った最初の宣教師、ブリッジマン(Bridgman 1801-1861)が、1830年に中国の広東に来ていた。彼はアメリカのマサチューセッツ州の生まれで、ヨーロッパ各国や、日本・中国などアジアの地誌を手当たりしだいに読み、世界に飛び出していった。ジャカルタ・シンガポールで華人に会って、彼らが世界をまったく知らないことに驚き、漢字版『アメリカ合衆国全図』や『地球図』を製作した。そして、世界地理の百科事典を出版する。このブリッジマンが当時の典型的なアメリカのユニテリアンだろう。彼のような人にとっては、キリスト教の伝道はさほど意味を持たなかった。むしろ科学(science)を探求する方に熱心だったはずだ。また、林則徐・魏源のような、当時の優れた清の知識人たちも、イギリス帝国がいかにして強国になりえたのか、その根本原因を科学の発達に求めていたのである。
(注)アメリカン・ボードの宣教師ブリッジマンの百科事典が『海国図誌』になった、というのがこれまでの説でした。『鎖国時代 日本人の海外知識』(開国百年記念文化事業会 1953年刊)はブリッジマン説です。が、最近の『海国図誌』の研究者は、イギリス人のヒュー・マレー(Hugh Murray )が1834年に刊行した地理事典(The encyclopedia of Geography)が『海国図誌』の元だと書いています。欽差大臣・林則徐はこの地理事典を英語から中国語に翻訳して『四洲誌』と題して、魏源に渡した。こちらの説が有力なようです。その一例としてセルゲイ・ヴラディ氏(ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古学・民族学研究所)の論文を挙げておきます。↓また、こちらを読むと、林則徐が当時の清朝の国家戦略を考える知識人であったことがうかがえます。
―「19世紀の中国における世界地理への関心と林則徐著『俄羅斯国(オロシャ国)記要』http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/news/116/news116-09essay1.html
スラブ研究センターニュース季刊2009年秋号NO116
ところで、ブリッジマンが広東にやってきた二年後の1832年に、ポーランド人のギュツラフ(Karl Friedlich Gutzulaff 1803-1851)がマカオにやってきている。キリスト教のアジア宣教が目的でやってきているが、この人物には裏がある。ジャーディン・マセソン商会の手先として、林則徐に対しアヘンの持込みを認めるよう、強硬な要求を突きつけている。またアヘン戦争の南京条約締結の際、通訳をしている。つまり、イギリス帝国が送りこんだワルの一人だ。幕末に武力倒幕を裏でしくんだイギリス外交官アーネスト・サトウの先輩のような人間だ。驚くべきことに、ギュツラフの甥が、幕末日本の英国大使だったハリー・パークス(1882-1885)そのひとである。
ギュツラフは天才的な語学力を生かして、シンガポールで日本語訳聖書を著して本にした。1832年10月、尾張国(愛知県)の船乗りたちが遭難して、十四カ月も漂流した後アメリカ西海岸に漂着した。岩吉、久吉、音吉の三人である。彼らはなぜか汽船でイギリスに送られ、さらにそこからマカオに送られている。これはイギリスが日本に開国を迫るための材料として、漂流民をとどけるという名目を必要としたからである。
ギュツラフは彼ら三人から日本語を学び、1837年に上述の日本語訳聖書(『約翰福音之傳』(やくかんふくいんのでん-ヨハネ福音書の訳書)を完成した。これが出来上がると、彼らのほか新たに肥後の漁師の漂流民4名を加えて、モリソン号(アメリカの商船)でマカオを出発した。岩吉、久吉、音吉たちはまったく自分の意志とは無関係に地球を一周させられたのだ。しかし、彼らは日本の土を踏むことはできなかった。浦賀にやってきたモリソン号を幕府が砲撃したからである。幕府は当時「無二念打ち払い令」をしいていた。彼らはどこにも上陸することを許されなかった。この時の幕府のやり方を批判したのが、渡辺崋山と高野長英である。これは蛮社の獄へつながっていく。
それからはるかに時がたって、1862年にシンガポールにいた音吉を訪れたのが、幕府の第一次遣欧使節団の一行である。福沢諭吉もこの中に加わっていた。ここで音吉からじかに、イギリス帝国の外交のすさまじさを聞くことができた。福沢はその二年前にアメリカに咸臨丸で渡っている。その航海中にジョン万次郎から聞いた話と、重ね合わせたはずだ。当時の覇権国イギリスに日本が植民地にされてしまわないためには、アメリカのユニテリアンの力を借りなければとても無理だ、と考えただろう。
(ギュツラフについては、島根慶一氏のサイトより「ギュツラフとその時代(1)」
上海ビジネスフォーラムを参考にした。→)http://www.sbfnet.cn/useful/history/41.html
海洋大国イギリスが東アジアに勢力を急速に伸ばしていくなかで、危機を抱いた中国、日本の知識人たちが、イギリスやアメリカから最新の海外知識を得ようとしていた。
次回は、幕末日本人、吉田松陰、佐久間象山、川路聖あきら(かわじ としあきら)らが魏源の『海国図誌』を読んで、どのように思想を変容させていったかについて、書きます。
田中進二郎拝
【1381】[1677]思想対立が引き起こした福島原発事故(第4回)
みなさんこんにちは。
相田です。
あと何回かこちらに書かせて下さい。
前回[1671]の投稿では、実は副島先生に文章を少し直して頂きました。
最初はふにゃふにゃした処があった文章を、背筋がびしっと入ったものに変えて頂きました。
ありがとうございました。
今回は、武谷の思想に関するルーツと影響を与えた人物たちに触れます。
++++++++++++++++++++++++++++++++
思想対立が引き起こした福島原発事故
第1章 素粒子論グループの栄光とその影
1.3「哲学者」武谷三男と三段階論
(前回[1671]の続きです)
三段階論に代表される武谷の学説に関しては、発表当時からその真贋をめぐって多くの論争が繰り返されることとなった。いかにも大風呂敷を広げたかのような武谷の考えには、突っ込みどころも数多いと思える。しかしマルクス理論に加えて、湯川仕込みの素粒子物理学の専門用語を交えて繰り出す(煙に巻く?)武谷の説明に対し、真正面から論破するのは、通常の学者では相当に困難なことであったようである。それでも後年になると、武谷の最大のライバルとして、広重徹(ひろしげてつ)というひとりの科学史(かがくし)家が登場した。
広重は京大の湯川の下で素粒子物理学を学んだ武谷の同門であり、後に専攻を科学史に鞍替えした直接の後輩にあたる学者である。学生時代は武谷理論に心酔していた広重であったが、物理学者の主導による社会改革の必然性を訴え続ける、武谷のあまりにも素朴すぎる考えから、広重は徐々に距離を置くことになり、最終的に武谷理論の最大の批判者として対立することとなった。
広重はその登場により、日本の科学史研究を世界レベルまで引き上げたとも言われる、科学史の分野ではカリスマ化されている人物である。広重の著作の一つ「戦後日本の科学者運動」(1960年、中央公論社)は非常に優れた内容であり、本論考を書く際にも多くを参考にさせてもらっている。
武谷と広重の間では度重なる論争が行われた(私はここまでフォローしきれていません)。その中で広重は「三段階論は中間子論に代表される素粒子物理学の発展に有効であったか」という問題に対し、丹念な歴史の検証を行うことでこれを否定し、歴史法則としての三段階論にも有効性は認められない、と結論付けたとされる。そして、広重以降の科学史のフィールドでは、三段階論を始めとする武谷のほとんどの学説は、主要な研究テーマとしては取り上げられなくなった、ということらしい。
実は武谷の思想が近年なかなか話題にならない理由はこれだけではない。もう一つ大きな事情があるのだが、これについては後で説明する。
広重は思想家として非常に才能に恵まれた人物であったが、70年代初めに体調を崩し、40代半ばの若さでガンによりで夭折している。広重に大きな影響を受けたことを自認しているのが、九州大学副学長で原子力開発への批判的論考を数多く発表している吉岡斉(よしおかひとし)である。
吉岡の「原子力の社会史 その日本的展開(朝日選書)」(1999年の旧版、福島事故後の2011年10月に改訂・追記版が出た)は、日本の原子力開発の歴史を網羅した現状では唯一の本である。吉岡はこの本の内容について、広重の後期の代表作である「科学の社会史」(1973年、中央公論社)を念頭において書いたと述べている。
広重は1960年の「戦後日本の科学者運動」において、茅―伏見提案から東海第一原発建設までの関係者達について鋭い批判を加えているが、その後に書かれた「科学の社会史」では、原子力については何も記述しないまま、広重は世を去った。吉岡の研究はその広重の意思を継いだものだという自負があるようである。
しかし私が吉岡の「原子力の社会史」読んだ感想では、広重の「戦後日本の科学者運動」に比べると、内容がかなり深みに欠けるように思える。広重が感じていた「科学者としての悩み」のような重さが、吉岡の本には見当たらず、膨大な記述があっさりと進んでゆくだけなのが、私には不満である。
吉岡のこの本については、私は他にも不満がある。それは戦後の原子力開発の歴史の中で、3.11福島事故の直接の引金をひいたともいえる、「ある出来事」について全く書かれていないことである。正確には少しだけ触れてはいるのだが、吉岡の説明ではその本当の重要性は全く読者には理解できない。
福島事故以来、TVや書籍等では戦後日本の原子力開発についての相当な報道がなされている。そのほとんどは、茅-伏見提案から中曽根予算、正力CIA、東海第一原発と続いたあとで、東電福島原発建設に話が進む構成になっている。しかし、正力・東海第一原発から東電福島原発建設の間に、誰もが何故かほとんど触れない、一つの重要な事件が起こっているのである。
本論考の真の目的は、その「事件」の全貌を、包み隠さず明らかにすることにある。そこに行くまでには、もう少し説明が必要である。3.11福島事故は東電という一民間企業の管理の甘さで起きた訳等ではなく、歴史の必然であったことを誰もが理解するだろう。
1.4エンゲルス、レーニンの自然科学論
武谷が拠り所とする物理学とマルクス理論とは、そもそも全く異なる分野の学説であり、両者の組み合わせには一見奇異な感じを抱く方も若い年齢の方には多いと思う。しかしこのような考えは武谷の独りよがりでは決してなく、実は偉大な先例がある。
19世紀末にマルクスの盟友であるエンゲルスは「自然の弁証法」という未完の論説集の中で、多くの自然科学者の研究例について引用、考察して、自然科学の発展における唯物論的弁証法の重要性について論じている。それから20年ほど後の1909年にかの革命家レーニンは、「唯物論と経験批判論」いう著書を出版し、左翼活動家としての観点から当時の自然科学の状況についての詳細な分析と批判を行っているのである。
レーニンの「唯物論と経験批判論」における「批判」は、19世紀後半から20世紀初頭に活躍した物理学者であり哲学者でもあるエルンスト・マッハに向けられている。流体物理の研究家であったマッハの名前は音速の単位「マッハ」の呼称として用いられている。
先に述べたように19世紀の後半は、従来の物理法則では説明できない現象が数多く見出されたことから、物理学への信頼が大きく揺らいだ時期であった。この状況に対しマッハは人間の感覚で認識できない現象は実体ではなく、物理の法則は人間の感覚で直接経験出来る関係の組み合わせのみで再構築するべきである、と強く主張した。
当時、英国のマックスウェルとドイツのボルツマンにより、気体の分子運動論(ぶんしうんどうろん)を基礎とした統計力学(とうけいりきがく)が提案されていたが、分子や原子等の人間が直接認識できない要因を仮定して物理法則を構築することをマッハは強く批判した。マッハの分子運動論への執拗な攻撃により精神を病んだボルツマンは、20世紀初頭に入ると自殺してしまう。統計物理学というアインシュタインの相対性理論(そうたいせいりろん)と並ぶ理論体系を確立したボルツマンは、もう数年生きていれば間違いなくノーベル賞を受賞したであろう偉大な物理学者であった。
マッハ哲学は当時のヨーロッパ知識人の多くの支持を集めており、革命前のロシアにも影響が及びつつあった。人間に認識できない事象を否定するマッハ哲学は、唯物論を基盤とするマルクス主義への信頼を揺るがすと考えたレーニンは、マッハの考えを詳細に研究して反論を行った。
レーニンは、当時の物理学が抱える問題は人間の知見がより深まることで、物理学が新たなレベルに到達したことが理由であるとした。そして、より優れた物理法則を導入することで、自然現象の矛盾のない説明が可能になることと、物理法則は実際に存在する物質を対象として取り扱うことが出来ることを、この本でレーニンは強く主張した。即ち唯物論的弁証法の勝利をレーニンは高らかに宣言したのである。レーニンの予測に従うように、同時期のヨーロッパでは、量子力学やアンシュタインの相対性理論等の革新的な理論が出現して、物理学は新たな時代を迎えることになる。
正直に言ってしまうと、私は今までマルクス、エンゲルス、レーニンの難解な本など熟読した事はない。それでも弁証法とはA B = C, 即ち安定した状態:Aに問題が生じた場合に、異なる考え:Bを加えることで、新たな解決策:Cを見出すこと、この過程が延々ときりがなく繰り返されてゆくことだと、ざっくりと考えている。この考えを自然界の物質や社会現象に適用し生かすことが、武谷、坂田が何度も主張する「唯物論的弁証法」であると、私は最近ようやく理解した所である。
後に示すように坂田昌一は「自然はそれ自身の中に無限の階層性を有しており、それを一つ一つ明らかにすることが物理学者の使命である」という考えを自らの哲学としていたという。坂田のこの考えはレーニンに大きな影響を受けていると私は思う。
1.5素粒子論グループの形成
京大の湯川の同期生の朝永も、大学卒業後の数年は無休副手として過ごした後に、仁科芳雄に請われて東京の理研に移籍し、理論物理のリーダーを任されることとなった。1938年に阪大の湯川研究室が解消された後に、日本の理論物理の研究グループは湯川、坂田の京大(関西)と、朝永、武谷等の理研(東京)とに分かれることとなったが、武谷の提案により京大と理研の研究者同士の交流の場として「メソン(中間子)の会」と呼ばれる会合が、定期的に開催されるようになった。
メソンの会は「中間子討論会」と名を変えつつ、中間子論をはじめとして、当時の有力な実験ツールである霧箱(きりばこ)から得られる宇宙線の観測データや、「電磁場の量子化」等の話題について、学会とは別に自由闊達な議論が交わされた。後者の問題は、マックスウェルの電磁場方程式を量子力学で書き換えて、電子の質量やエネルギーを求める際に、数式上に無限大の発散(はっさん)が生じるもので、当時の物理学上の最大の難題であった。後に記すように朝永は「くり込み論」と呼ばれる考えにより無限大の発散を解決することに成功し、湯川に続き1965年に日本人二人目のノーベル物理学賞を得ることになる。
戦中、終戦直後は仁科、菊池等を除き、旧帝大の物理学会には量子力学に理解を示す学者は非常に少ない状況であった。しかし、湯川、朝永、坂田、武谷等の当時30代前半の才能あふれる若手研究者に率いられたグループの活躍は、次第に世の中の注目を集めることとなった。武谷、坂田の当時のファシズムに抵抗する「民主的な」言動に共感する研究者も多かったようである。
戦後になると、次々に出版された武谷の一連の著作物により、新しい時代の風を感じた多くの理科系学生達が、素粒子物理学を目指すようになった。1949年に湯川が中間子論により日本人初のノーベル賞を受賞すると、その流れは頂点に達し「素粒子論グループ」という数百人規模の若手物理学者の集団が形成された。素粒子論グループの位置づけについては、湯川の最後期の弟子でもある女性物理学者の坂東昌子(ばんどうまさこ)氏が、御自身のブログで以下のように触れられている。
-引用始め-
物理の世界では、デンマークのボーア研究所を中心にして、学問の前では対等平等な科学者たちが自由に忌憚のない議論を戦わせる気風があった。ボーアは、「科学こそ、人間の協力の最も進んだ形の1つである」と確信していたという。国境を越え性差を超えた人類の純粋な共同作業ができるネットワークが形成されていた。
そこに根付いた、コペンハーゲン精神は、先輩たちが日本に持ち帰った。この気風は、大学の枠を超えたネットワークを作り、目的のために助け合った。そして、その水先案内をしたのは、湯川秀樹・朝永振一郎であったと誇り高く思ってきた。
そこでは、学問の前では、老いも若きも上下の区別なく対等平等だという研究者集団の原則が生きた科学者の世界があった。その先取の気風が、日本における輝かしい物理学の成果を生み出したのだ、と私はずっと思っていた。
(南部モード・・・南部先生の物理、2013年8月01日、より)
-引用終わり-
相田です。
しかし素粒子論グループには、坂東氏が述べられたような表向きの意味合いの他に、もう一つの姿が実はあった。戦後に素粒子論グループに参加した若手研究者の多くは学生時代に武谷、坂田の著書を熟読しており、相当に濃い左翼思想に染まっていたという。彼らは「紙と鉛筆のみで新しい理論を作り出すことで、世界をより良い方向(即ちマルクスの予言する労働者の理想社会)に変えられる」と本気で信じる、強烈な自負心を持つ集団でもあった。
戦後の素粒子論グループが強固な左翼思想を持つに至った背景として、自らも左翼系学者を自認されている西村肇(にしむらはじめ)先生は、副島先生との幻の対談で次のような指摘をされている。1925-27年にヨーロッパで見出された量子力学は、物理学史上の最大の革新であった。ニュートンの古典的な運動方程式を波動方程式や行列を用いたエレガントな数学形式に組み替えることで、物質内部を構成する原子、電子、その他の未知の素粒子の挙動が、堰を切ったように解明された。
量子力学を初めとする近代物理学の威力を目の当たりにした学者たちは、「頭の中で高度な理論を構築し応用することで、数多くの未知な現象が解明できる」ことを経験した。彼らはさらに考えを推し進めて「正しい理論さえ与えられれば、頭の中で世の中の全ての問題は解決できる」という、強烈な自負心を持つに至った。そして1930~50年代に量子力学に相当する社会科学の理論的支柱として存在した唯一の思想が、マルクス理論であった。
「優れた理論を用いて頭の中で論理的な考察を行うことで、世の中の全ての問題の解答を得る事ができる。量子力学とマルクス理論によりそれを実現する」という思想が、戦後の素粒子論グループの隠れた教義(アクシオム)となったのである。このような考えは、物理を勉強しない人には単なる戯言でしかないように思える。しかし戦争によりインフラを破壊された荒廃した環境で、闇物資を頼りながら厳しい生活を続ける若者にとって、「自らの思考の力だけで社会をより良い方向に変えられる」と強く主張する武谷の考えは、明るい希望の道筋に見えたであろうことは、私にも想像できる。
(続く)
【1380】[1675]Re :
副島先生、はじめまして。
会員番号3265番の市川と申します。
この掲示板には、過去に2回投稿しています。
新ベンチャー革命というブログを書いているのは、山本尚利(やまもと ひさとし)さんです。
こちらに経歴があります。
http://sangakukan.jp/journal/center_contents/author_profile/yamamoto-h.html
彼は技術経営の専門家ですが、技術経営というのが何なのかは、私には説明できません。
何冊か著書があり、私は「情報と技術を管理され続ける日本」という本を読みました。
副島先生の属国論に近い考え方で書かれた、素晴らしい本です。
【1379】[1674] 「 習近平は必ず金正恩を殺す 」(近藤大介 著)という本が出ています。
副島隆彦です。 今日は、2014年9月30日です。
私が気になる本が一ヶ月前に、出版されていた。その書名は、「 習近平(しゅうきんぺい)は必ず金正恩(キム・ジョンウン)を殺す 」である。何とまあ、こんなセンセーショナルな本を、わざと出すと却って世の中は相手にしない。
しかし、出版業界のウルトラ専門職の人間たちだったら、こういうオカシナ手にわざと出る。 私が、この衝撃的な書名の本の存在を知ったのは9月25日だ。以下に、この本のアマゾンの自著宣伝の文を載せる。
(転載貼り付け始め)
「 習近平は必ず金正恩を殺す 」 単行本 2014/8/28 発売
近藤 大介 (著) 講談社 刊
中朝開戦の必然――アメリカがバックに控える日本、ベトナム、フィリピンとは、絶対に戦争ができない中国……国内に鬱積する不満を解消するためには、中国で最も嫌われている人物、すなわち金正恩を殺すしかない !
1989年の天安門事件や1990年の金丸訪朝を直接取材し、2002年と2004年の小泉訪朝団に随行した著者の、25年にわたる中朝取材の総決算!!
著者について
近藤大介(こんどう・だいすけ) 1965年生まれ、埼玉県出身。東京大学卒業後、「月刊現代」「週刊現代」「フライデー」などで記者・編集者を務める。2009年から2012年まで講談社(北京)文化有限公司副社長。現在、「週刊現代」編集次長、明治大学講師(東アジア論)。中国を中心とした東アジア問題の研究をライフワークとする。
著書には、『日中「再」逆転』『対中戦略』(以上、講談社)、『深紅の華』(廣済堂出版)、『中国人の常識は世界の非常識』(ベスト新書)、『「中国模式」の衝撃』(平凡新書)などがある。
この他に、同じ著者の最新刊の予定の本として、
「 金正恩の正体: 北朝鮮 権力をめぐる死闘 」 (平凡社新書) 新書 2014/9/12発売近藤 大介 (著) がある。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。 近藤氏は、1964年生まれだからまだ48歳の若さだから、「そろそろ編集者を定年で引退して、大学教授になって独立した言論人になろう」というような人ではない。 私は、近藤氏は、「日本よ中国と同盟せよ」(光文社刊、 2006年刊)を書いた人なので、決して、そこらにウヨウヨいる反中国、反韓国(嫌韓、けんかん)の人種差別主義者たちと同類だとは思わない。
彼は、現実の東アジア政治の中の、極めて複雑なかつ重要な立場を生きている人だ。それが、「 習近平は必ず金正恩を殺す 」 という 本を出した。この本の存在を知るまで、私、副島隆彦が一ヶ月掛(かか)かったということは、世の中から放ったらかしにされている、ということだ。
私は、今も現職の講談社の副編集長である、近藤大介氏にこれまでに2回お会いしたことがある。 近藤氏の本のことについては、私は、今日は敢えて触れない。
私が、今日、急いで、書いておくべきことは、今の中国政府は、北朝鮮と険悪な関係になっていて、中国としては、今の北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)体制を崩壊させて、作り変える、という決断を既にしている、ということだ。
一言で、端的(たんてき)に言うならば、習近平の中国政府は、今の北朝鮮を、ミャンマー(テイン・セイン政権)のような、西側世界に広く開いて、資本主義の制度を導入して、外国の資本をどんどん入れて(来てもらって)一気に経済成長して、国民を貧困から脱出させる、という体制に変更してもらいたい、ということだ。
中国としては、北朝鮮が、今のまま、中国のお荷物となって、経済・軍事援助で生き延びる旧式の独裁国家であってもらっては困るのだ。
私、副島隆彦は、今から8年前に 自分の中国研究本を書き始めた時から、「北朝鮮が持っている4発の核兵器のうち、2発は、北京を狙っている」とずっと書いた。私がこのように書いても、ほとんど相手にされなかった。まさかそんな、そんなことがあるのか、という反応だった。
私は、その頃から気づいていた。私は、4年前に、中国と北朝鮮の国境の町で、鴨緑江(おうりょくこう)の河口にある 丹東(タントン)の町に調査に行った時に、「あ、そうか。朝鮮族は、たとえ民族の半分が殺されても、それでも、漢民族の中国に屈服することはない。だから、朝鮮・韓国族は、今も、12世紀から作られた、ハングルという表音文字の言語を絶対に死守する。満州族のように民族言語を失って、漢民族(漢字文明)に同化し消滅することを絶対に拒絶する」と分かった。
中国と北朝鮮の対立はどのようにして起こったか。この大きな課題(テーマ)については、今日はここでは書かない。 私が、把握している この数年の、中国の北朝鮮への怒りは、以下のものだ。
1.昨年2013年の2月に、北朝鮮が、3回目の核実験を行った。それに対して中国が怒って、北朝鮮の銀行の口座を凍結する、という経済制裁の手段に出た。
2.張徳江(ちょうとっこう)という今の中国のトップ7(7人。政治局常務委員)のNo5だと思われる(中国の本当の秘密警察のトップでもある)人が、彼は、金日成総合大学を卒業していて、朝鮮語が出来るので、おそらく朝鮮人や満洲人の血が入っている人だろうが、彼が、韓国に行って、朴槿恵(パク・クネ)大統領と、話し込んでいる。
3.2013年の12月12日に、北朝鮮の、立派な幹部で、重厚な政策を実行していた、中国寄りの張成沢(チャン・ソンテク)が銃殺刑にされた。これに中国が怒った。
4.2014年3月の全人代(ぜんじんだい。中国の国会)で、香港政策を管轄する張徳江(ちょうとっこう)から、「一国二制度」(鄧小平とサッチャーの約束で2047年までだから、あと33年ある)の柱である「高度の自治」というコトバが消えた。それ以来の、香港への締め付けである。今、香港の学生たちが抗議して騒いでいるのは、ここから始まった。
5.習近平 が、朴槿恵(パク・クネ)と北京で、2013年7月初めに、親密に話している。 この時に、北朝鮮の体制を変更する、という話をしたようだ。そして、それは、韓国に北朝鮮を、穏(おだ)やかに合併させて、南北の分裂国家の統一をさせる、という方針だろう。
私、副島隆彦は、北朝鮮の高官の中に、アメリカのネオコン派と統一教会系の者たちが入っていて、それで東アジア(極東、ファー・イースト)でも、中東(ミドル・イースト、アラブ世界)と同じように、戦乱、戦争を引き起こそう、としていると書いてきた。そのように8年前から分析している。 それの、日本国内の親密な勢力が、だから、言わずと知れた・・・の人びとだ。
6.そして今年の7月に、北朝鮮が、急に態度を軟化(なんか)させて、日本の安倍政権と親密に話を持つようになった。拉致問題を解決しようとした。それは同時に日本と北朝鮮との平和条約の締結だ。
7.その前に、3月10日から14日にかけて、モンゴルのウランバトールで、「横田夫妻とヘギョンさんが面会した」という事実が17日になってから公表された。かつてのモンゴル出身力士の旭鷲山(きょくしゅうざん。現在は、モンゴルの国会議員)が仲介したそうだ。
私は、北朝鮮が、日本政府(安倍政権)に接近して自分たちの生き残りを賭けての変化、を凝視していた。もし、まだ生きている拉致(らち)日本人全員(13人の2004年に帰ってきた5人を除く8人。死んでいる者が多い。および2万人と言われる 北朝鮮に渡った日本人妻たち)の日本への一斉帰国を、安倍首相が実現したら、日本外交の大成果となって、安倍政権の長期政権が実現しそうだった。
ところが、このあと、8月になって急激に事態が、またしても動いた。オバマ政権が動いた。そして、中国の習近平政権と、直接、北朝鮮問題で、徹底的に話し合ったようである。オバマ( 戦争を避けるハト派、CFR派、オフショア・バランシング理論派。後継者は、バイデン副大統領)は、習近平と組んで、極東での安定、平和の維持を決断したようだ。よかった。これで、中東に続く、極東(東アジア)での、戦乱が避けられた。
ヒラリーたち(好戦派=ジンゴウイスト=。インターベンショニスト=外国への干渉主義者=。彼女につながる米国内のネオコン派、狂信的宗教諸団体、反共主義者たちの群れ)は、東アジアでも戦争を起こさせようとしている。
それの、先手を取って、オバマと習近平が動いた。それで、安倍首相の北朝鮮の平壌(ピョンヤン)行きの話が、8月末に一気に消えた。ロシアのプーチンを北方領土問題(平和条約締結)で、10月に日本に招く計画も失敗したから、安倍首相本人の敗北感は、相当なものである。つまり安倍内閣の長期政権化は、なくなったのだ。
このように、オバマと習近平が組むことで、北朝鮮(キム・ジョンウン体制)と安倍政権が組むこと(ネオコン派の極東版。戦争開始勢力 ) を阻止した。取り敢えず喜ばしいことだった。
テレビのニューズをじっと見ているだけでも分かる。中東の、あの IS(アイス。「イスラム国」)の、イラクやシリアの砂漠の中の道路を走る、 あのトヨタ製の新車 のランドクルーザー(トヨタのテキサス州のサンアントニオ工場製だ ) の白い車体を、300台もずらりと連ねて、機関銃の銃座を後部座席に据えて、示威行動のように行進するのを見ていると、よく分かる。
あれらの大量の トヨタ( トヨタのマークが光っている) の新車のランクルは、一体、どこに陸揚げされて、どうやって北イラクやシリアに移送されたのか。
それは、サウジアラビアだ。あるいは、イスラエルのハイファHifa 港だ。それ以外には有り得ない。北の方のトルコやイラクから入ってきたはずがない。
IS(アイス)の「イスラム国」の、あの狂信的な戦闘員たちは、あれは、全員が傭兵(ようへい、マーシナリー)だと、考えるべきなのだ。カネで雇われてきた、サラフィー(セラフィスト)の若者たちだ。 これからの世界中の 戦争は、傭兵部隊(マーシナリー)がやるのだ。
アル・カイーダまでは、アラブ世界の国際義勇軍すなわちボランティア(義勇兵、ぎゆうへい)たちだった、という体裁(ていさい)を取っていた。アメリカの最高級の戦略思想家であるズビグニュー・ブレジンスキー(ヘンリー・キッシンジャーと同格)が発案し企画、実行した。あそこまでは、国際法(ハーグ陸戦協定)に基づく義勇軍としての運動だった。 しかし、これからは、傭兵たちが戦争をするのだ。
各国の正規軍の軍隊ではなくて、得体の知れない者たちがする戦闘だ。そして、この者たちは、いいように世界政治の 罠(わな)にはまり、狂信的な集団生活運動として存在し、いいように背後から操(あやつ)られて、殲滅、駆除されてゆく。 世界中の人々が、「あんな、首を切断をする、残虐な者たちは、爆撃で、殺してしまっていい」という、巧妙に作られて流される映像・メディアを使った、世界民衆への扇動と洗脳を上手に受けて、「イスラム国」への爆撃と派兵が実行されてゆく。このように上手に仕組むことで、世界権力者たちは、自分たちにいいように世界を動かしてゆく。
「どうして、急に、イラクで、あんなヘンな連中が、降って湧いたように、登場してきたのだろう。まるでハリウッド映画が次々と作る暴力映画のようだ。ヘンだなあ 」
と、気づくべきなのだ。 この大きな世界規模の騙(だま)し構造を見抜くだけの、優れた知性と頭脳を、私たちが持つことだけが、私たちが生き延びる道だ。
今日は、もうこれぐらいにしておきます。
近藤大介氏が、「 習近平は必ず金正恩を殺す 」という物騒(ぶっそう)な書名(タイトル)の本を、ワザと出して、何かを喚起してるので、私も、それに思わず、直(ちょく)対応したくなったので、このように書いた。
たしかに、金正恩(キム・ジョンウン)は、若いのに長年の美食と不摂生で、糖尿病と痛風(つうふう)のようだから長くはないのだろう。中国が、北朝鮮の体制をどのように作り変えるのかは、まだ、分からない。
それでも、歴史に学ぶなら、隋(ずい)の煬帝(ようだい。彼に、日本の蘇我入鹿(そがのいるか)=聖徳太子が、朝貢した )は2回,朝鮮族と戦争して負けている。これで隋(ずい)帝国は滅んだ。 次の 唐(とう)帝国も新羅(しらぎ、シンラ)に勝っていない。だから中国帝国であっても、朝鮮族や、高句麗(こうくり、満州族だろう)との戦いでは、歴史上おおいに手を焼いている。だから、今の中国が、朝鮮族を、そんなに簡単に服従させることは出来ない、と考えるのが、優れた政治分析だ。
今日は、もうこれぐらいにしておきます。
最新の北朝鮮情勢を 最新情報で伝えている優れた文章がネット上にあった。この「新ベンチャー革命」という文章を書いている人が一体誰なのか、私は知らない。それでも、かなりの確度(かくど)で、日本人知識人なのに、この人は、現状を正しく見抜いている。優れた書き手だ。ハフィントン・ポスト紙 の記事から学んだと明記している。
内容は、ズバリ、「米オバマ政権と中国・習政権の 米戦争屋ネオコンと組む北朝鮮キムジョンウン体制を崩壊させる極東戦略」 である。以下に転載して終わりにします。
(転載貼り付け始め)
「親中の米オバマ政権は中国・習政権と結して、北のキムジョンウン体制を崩壊させる」
新ベンチャー革命 2014年9月21日 No.979
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/34164606.html
タイトル:アメリカの変化に日本の外務省混乱。 米ジャパンハンドラーの頭目ジョセフ・ナイが沖縄から米軍は撤退すべきと唱え始めた
1.ジョセフ・ナイ同調。 米オバマ政権と中国・習政権は米戦争屋ネオコンと組む北朝鮮キムジョンウン体制を崩壊させる極東戦略。
本ブログのメインテーマである米戦争屋のジャパンハンドラーの頭目・ジョセフ・ナイ・ハーバード大教授が私見を公表(注1)。
主張は、今の日米同盟を見直し、在沖米軍の前線後退と日本の自衛隊による自主防衛に移行すべし。この主張に腰を抜かしは、日本の外務省。 この主張と北朝鮮脅威問題はリンク。
さて、本ブログ前号No.978、米国戦争屋ネオコンによって創出されている北朝鮮脅威について(注2)。
今年7月、北朝鮮が唐突に軟化し、一時、拉致被害者の帰国が実現しそう。安倍自民党の支持率上昇に有効な、拉致被害者帰国劇を安倍首相は歓迎、早速、対朝制裁解除を決定し、拉致被害者家族は今度こそと期待。
しかしながら、9月中下旬、北は一転、軟化姿勢を翻し、拉致被害者帰国劇は遠のく。7月の北の豹変は何だったのか、拉致被害者家族も狐につままれた。北の拉致被害者帰国容認姿勢が急にトーンダウンし、安倍のメンツが丸つぶれとなった。
米政府高官が8月中旬に、米軍機で内密に訪朝した(注3)。この米高官は、米政権から下野中の米国戦争屋エージェントではない、米オバマ政権の人間。この後、北の対日軟化姿勢がトーンダウンした。オバマ政権は、拉致被害者帰国と引き換えに安倍政権が巨額の軍資金を北に提供することを拒否した。
親中の米オバマ政権は中国・習政権と結して、北のキムジョンウン体制を崩壊させる。
2.オバマ・習氏に接近する韓国・朴大統領。 米国戦争屋ネオコンと対立。 セウォル号撃沈はその意趣返し韓国・朴政権は米オバマ政権と中国・習政権に接近。上記、米高官の内密訪朝にも協力(注3)。つまり、韓国もキムジョンウン体制崩壊に協力。この韓国・朴政権の姿勢は、米戦争屋ネオコンを激昂させる。セウォル号撃沈事件は、米戦争屋ネオコンの朴政権への嫌がらせ。
米戦争屋ネオコンの奴隷安倍は、ネオコンの意思に沿って、キムジョンウン体制の維持に協力。だから、安倍は、アンチ米戦争屋ネオコンのオバマ政権から強く叱られた(注4)。
ジョセフ・ナイの直近の主張を合わせると、近未来、米国政府の極東戦略が大きく変わる。
3.ジャパンハンドラー・ジョセフ・ナイが在沖米軍の撤退と米軍基地の自衛隊移管を唱え始めた。ジョセフ・ナイの主張は、今の日米同盟を見直し、在沖米軍の前線後退を前提に日本の自衛隊による自主防衛に移行すべし。同氏の発想は彼独自のものでもない、すでに2006年以降に存在している米国防総省の穏健派(非ネオコン)の長期計画案(注5、注6)と同じ。
米国防省内の非ネオコンの発想、それは、近年の中国の軍事技術力向上、中国のミサイル射程距離が大幅に伸びている(注7)、中国ミサイル基地に近い在沖米軍はすでにその射程内に入っていて、危険に晒されているという認識。
もし、米中戦争が起きれば、在沖米軍基地のみならず、駐日米軍基地も駐韓米軍基地も簡単に破壊される。一方、極東米軍は中国攻撃用の長距離ミサイルはもっていない。対中競争優位ではない。
2009年1月に米大統領に就任したオバマは、在沖米軍基地のグアム後退を決定すべく、2010年にグアム訪問を計画。それに反対する米戦争屋ネオコンによって、この訪問は妨害(注5)。
4.ジョセフ・ナイの主張とオバマ政権の極東米軍前線後退案は一致。 ジョセフ・ナイは米戦争屋の中でも、ネオコンとは一線を画している。だから、彼の主張は、米国防総省の穏健派から支持されるオバマ政権の極東米軍前線後退案と一致。米ジャパンハンドラーの言いなりに動いて、アメリカ様の御威光を利用してきた日本外務省(日米安保マフィア)は苦境に。
今、普天間基地の辺野古移転で沖縄はもめている、沖縄国民の反対を押し切って辺野古整備に血道を上げているのは、日本外務省とそれに同調する日米安保マフィア連中(親米の防衛省官僚含む)。
オバマ政権下の米国防総省穏健派が極東戦略の大転換を成功させる。北朝鮮脅威の除去が必要。すでに始まっている。オバマ政権と同調する中国・習政権は、中国内で暗躍していた米戦争屋ネオコンのエージェントと疑われる周永康(しゅうえいこう)一派を駆逐した(注8)。この事件の背景をジョセフ・ナイはよくわかっている。周一派は、中国内で対米挑発を繰り返し、米中対立を煽る。
ネオコンの意向に沿って、尖閣周辺での対日挑発と中国内の反日暴動を扇動、日中戦争の火種に着火したい。南シナ海でも対・東南アジア諸国への挑発も行う、習政権はその芽を断ち切った。これで、オバマ政権の極東戦略の転換がやりやすく。このような情勢変化を安倍政権は読めていない。政権を漠然と支持している一部のお人好し国民。
注1:ハフィントンポスト“Joseph Nye: Japan’s Robust Self-Defense Is Good for Asia” 2014年8月7日
http://www.huffingtonpost.com/joseph-nye/japan-self-defense_b_5658883.html
注2:本ブログNo.978 『安倍首相を操る米国某勢力は拉致被害者身代金で北朝鮮の軍資金を確保しようとした。が、米オバマ政権に阻止された模様』 2014年9月20日
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/34161421.html
注3:“安倍訪朝に米国務長官が再度懸念を表明:16日に米国政府高官が軍用機で訪朝:日朝国交正常化を求めてきたのは米国” 2014年8月29日
注4:ハフィントンポスト“安倍首相の訪朝、アメリカが自制を要求「日米韓の連携が乱れかねない」 ”2014年7月16日
http://www.huffingtonpost.jp/2014/07/15/abe-north-korea_n_5589776.html
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
【1378】[1673][1672]の訂正
下の[1672]の投稿で、9/28からNHKの朝ドラ「マッサン」が放映されると書いてしまいましたが、9/29からの誤りです。失礼しました。
【1377】[1672]「フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした」を読んで
「フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした」を読んで
どの執筆者の方の作品からも、新たな知識を得ることができ、興味深く拝読させていただきました。ありがとうございました。今回は一部についてですが、感想などを述べたいと思います。
[第3章]オランダ軍人にあやつられた榎本武揚‐長井大輔
が特に興味深かったです。
私は北海道に住んでいますが、昨年9月に、北海道の江差町に行って「復元された開陽丸」を見てきました。
また、函館市にも行って、土方歳三函館記念館の展示も見ましたが、ここには榎本武揚の経歴がパネルに展示されていました。榎本は、蝦夷島(北海道)政府を樹立し新政府に反抗したのに、敗北後、なぜ新政府の重臣に登用されたのか不思議でした。いくら黒田清隆に才能を惜しまれたとしてもです。
本章を読むとその謎が解けました。
やはり、最初からフリーメーソンとのつながりで、イギリス=薩長同盟勢力の新政府が勝つように仕組まれていたということがわかりました。
榎本武揚は反乱のふりをしただけで、最初から新政府が勝利するように動いていたのですね。
さらに土方歳三を背後から撃ち殺したようだ(P97)という話はショッキングです。裏切りの歴史が暴かれています。
「イギリス戦略に乗せられて秘密の開国派のインナーサークルに入った者たちは、表面上はずっと尊皇攘夷のふりをしたのである。そして本物の尊皇攘夷派の純真な者たちが次々に殺されて死んで行ったあとに、日本の権力者になっていったのである。」という副島先生の文章([第8章]P214~215に「属国・日本論」からの引用文あり)が、ここでも思い出されます。
これでは、北海道独立論の参考になりません。
榎本が本気で独立を考えて、新政府に寝返ることがなければ、独立自尊のリバタリアンとして歴史に名を残せたでしょうが、当時の榎本の胸中は、知り得ません。
ウィキペディアで検索して「榎本武揚」のページを見たところ、下記の福澤諭吉の評があり、おもしろいと思いました。
(転載開始)
福澤諭吉が評して言うには、「江戸城が無血開城された後も降参せず、必敗決死の忠勇で函館に篭もり最後まで戦った天晴れの振る舞いは大和魂の手本とすべきであり、新政府側も罪を憎んでこの人を憎まず、死罪を免じたことは一美談である。勝敗は兵家の常で先述のことから元より咎めるべきではないが、ただ一つ榎本に事故的瑕疵があるとすれば、ただただ榎本を慕って戦い榎本のために死んでいった武士たちの人情に照らせば、その榎本が生き残って敵に仕官したとなれば、もし死者たちに霊があれば必ず地下に大不平を鳴らすだろう」と「瘠我慢の説」にて述べている。
(転載終了)
福澤もフリーメーソンであれば、榎本の裏切り行為の事情は、わかっていたであろうと思われます。
しかし、上記の福澤の言葉は、仕組まれていたことを知らないふりをして皮肉を述べているようです。
それとも、仕組まれていたことまでは知らなかったが、榎本の身の処し方について批判せずにいられなかっただけなのでしょうか。
また、これも余談になりますが、ウィキペディアによると、
映画「ラストサムライ」で、トム・クルーズが演じる主人公ネイサン・オールグレンのモデルは、江戸幕府のフランス軍事顧問団として来日し、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加して箱館戦争(戊辰戦争(1868年 – 1869年))を戦ったジュール・ブリュネであるということです。
[第8章]ジャーディン=マセソン商会が育てた日本工学の父・山尾庸三‐下條竜夫
も興味深く読みました。
スコットランドのグラスゴーで多くの日本人技術者が学んでいたことが示され、「日本の工業技術は、グラスゴーから輸入されたと表現しても、あながち間違いではない。逆にイギリスから見れば、グラスゴーの産業革命そのものを日本に輸出したということになる。」(P209)という箇所は、非常にすっきりする考え方だと思いました。
この輸入は日本の近代化に貢献するとともに、当然ながら、イギリスの利益にもなっていたことを再認識させてくれます。
グラスゴー大学にはニッカウヰスキーをつくり、日本のウィスキーの父と呼ばれた竹鶴政孝も留学したと書かれています。たまたまでしょうが、もうすぐ(9/28から)竹鶴とそのスコットランド人の妻リタをドラマ化したNHKの朝ドラ「マッサン」が放映されます。
竹鶴が余市町に作った竹鶴シャンツェ(ジャンプ台)から、札幌オリンピックの笠谷選手(ニッカウヰスキーの社員)や長野オリンピックの船木選手といった金メダリストが育ちました。
宇宙飛行士の毛利衛氏も余市のニッカウヰスキー工場の目の前に住んでいたそうです。
竹鶴がニッカウヰスキーの拠点とした余市町から、上記の国際的な人物が輩出されたことは、竹鶴とフリーメーソンリーに関係があったからでしょうか。
スコットランドといえば、9/18の住民投票で、独立は果たせませんでしたが、より大きな権限を手に入れたようです。
ここでもフリーメーソンが関わっているかわかりませんが、フリーメーソンの一つの故郷といわれるスコットランドに関する情報が最近は目立ちます。
日経新聞 2014年9月24日(水) P4 国際1面から転載します。
(転載開始)
スコットランド 賢明な選択 独立せず権限を手中に ルモンド(フランス)
スコットランドの多数派は自身のアイデンティティーは連合王国内にあっても両立できると判断した。自分たちはスコットランド人でもあり、英国人でもある。ウイスキーも好むし、紅茶も好む。英国議会があるロンドンのウエストミンスターからは安堵(あんど)のため息が聞こえる。スコットランド人は18日、賢明にも英国からの独立にノーと投票した。307年の歴史を持つ古き連合は維持された。
しかし、恐れていたのはロンドンの人々だけではない。ブリュッセルでも、欧州連合(EU)各国の首都もスコットランドの独立を恐れていた。独立は英国を弱体化させただろう。多くが「親欧州」であるスコットランド人を失えば、2017年に予定される英国のEUへの帰属の是非を問う国民投票で帰属賛成派が過半数を取る見込みは小さかった。
スコットランドの独立が達成されれば、EU28カ国のなかで小国主義(マイクロナショナリズム)の台頭を招くところだった。このところ、いくつかの国の指導層は寝付きが悪かった。特にスペインだ。スコットランドは独立すればEUへの加盟を求める構えだったが、スペインの中央政府は同意するだろうか。
住民投票が否決されたからといって、スコットランドの有権者は現状維持を選んだわけではなく、英国の制度は変わり、以前と同じようにはならない。英国の三大政党である保守党と労働党、自由民主党はスコットランド人により広い自治を約束した。
1998年のブレア英元首相による改革以降、スコットランド人やウェールズ人、北アイルランド人は十分に広い権限を認められてきた。しかしここ最近スコットランド人に大急ぎで約束したことは、ウェールズ人も北アイルランド人も要求するはずだ。ロンドンではもはや以前のように英国を統治できなくなるだろう。
スコットランド独立賛成派は通貨ポンドを維持し、EUや英連邦にとどまり、英女王を元首とすると考えていた。もちろん予算に関する完全な権限も手に入れようとしていた。結局、彼らは英国への帰属で、すべてを手に入れることになった。なるほど啓蒙思想家で経験主義の父である偉大なスコットランド人のデビッド・ヒュームを輩出した国である。
(20日付)
(転載終了)
ほかにも、いくつか考えるところがあるのですが、またの機会とさせていただきます。
【1376】[1671]思想対立が引き起こした福島事故(題3回)
みなさんこんばんわ
相田です。
この内容での3回目の投稿です。
ついに、というか前半の山場なのかもしれない「武谷(たけたに)三段階(さんだんかい)論」について紹介します。ただし、内容にガチに踏み込まずに簡単に紹介するだけです。
武谷三男(たけたにみつお)はものすごく懐が深い人物だ。だから、今の私が彼の思想をどうこう言えるレベルには、とてもありません。立花隆(たちばなたかし)が以前「知の巨人」などと呼ばれていました。が、武谷三男、坂田昌一(さかたしょういち)の前では「雑巾掛けからやりなおせ」というくらいの人物です。本当は。原子力開発について書くのが私の目的なので、いろいろと細かいところには目をつぶって下さい。
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思想対立が引き起こした福島原発事故
第1章 素粒子論グループの栄光とその影
1.2大阪大学の湯川研究室
(前回の続きです)
大学卒業後の武谷三男は、京大に無休副手といて籍をおいていたが、京大をほったらかしにして、専ら阪大の湯川研究室に出入りするようになる。湯川の下で計算等を手伝いながら討論等にも参加していた武谷であったが、1938年4月に無給副手として阪大に正式に採用された。1936年にアンダーソンらによる宇宙線の観察から、湯川が予測した中間子(ちゅうかんし)と同じ質量を有する未知の粒子が発見されたことで、湯川の理論には海外からも注目が集まりつつあり、研究にドライブがかかり始めた時でもあった。
坂田昌一(さかたしょういち)、武谷三男らの協力もあり、1937から38年にかけて湯川を筆頭として坂田、武谷等を連名とする中間子の論文が3報続けて発表され、阪大の湯川グループの活動は最盛期を迎える。しかし、学生時代から左翼活動に加わっていた武谷は、38年9月に特高(とっこう)警察に逮捕され、程なくして阪大副手を辞職する。また翌39年には、湯川も坂田と共に阪大を辞めて、教授として古巣の京大に移ることが決定した。阪大における湯川グループの研究は終焉を迎えることとなった。
釈放された武谷はその後、仁科芳雄(にしなよしお)のいた理化学研究所(りかがくけんきゅうじょ)に移った。当時の理研には京大から仁科に招かれた朝永振一郎(ともながしんいちろう)が、理論物理学のリーダーとして活躍していた。理研での武谷は陸軍から依頼された原爆開発計画 (仁科の頭文字から二号計画と呼ばれる) に従事する。しかし、1944年に再度特高に逮捕されて、またしても研究中断の憂き目にあう。
獄中生活で体調を崩した武谷は自宅に戻ることを許され、その後は自宅から取り調べのため警察に通う日々を過ごしていた。45年の夏に広島への原爆投下の知らせを聞いた武谷は、警察に呼び出され、取り調べ官の前で、原爆の原理について黒板を使って講義を行ったそうである。感心された武谷はそのまま釈放されたという。
1.3「哲学者」武谷三男と三段階論
武谷の名を一躍高めたのは、終戦後の46年に出版された論文集「弁証法(べんしょうほう)の諸問題」である。
この本はタイトルから明白なとおり、彼の本業の素粒子(そりゅうし)物理学の本ではない。そうではなくてマルクス経済学の思想である唯物論(ゆいぶつろん)的弁証法を自然科学の分野に応用することで、洗練された科学思想体系を作り上げることを目的とした「哲学書」である。この本の中で武谷は後(のち)に「武谷三段階論(たけたにさんだんかいろん)」と呼ばれる有名な方法論(メソドロジー、諸学問の土台となる学問)を提案した。
武谷は中世のコペルニクスから天文学の変革が起こりニュートン力学に至るまでの過程を考察した。
① ティコ・ブラーエによる星の運行に関する観測データの集積、 ② ケプラーによる惑星運動のモデル化、
③ ニュートンによる力学原理の確立、の 3段階を経て物理学が進むことに大きな意味があるとした。
武谷はこれらの段階を、① 現象論的段階(ティコ)、② 実体論的段階(ケプラー)、③ 本質的段階(ニュートン)と定義し、この3段階の思考を繰り返すことで自然現象の理解が深まる、とした。これが三段階論の趣旨である。
武谷が特に重要視したのは、② 実体論的段階のモデル化であり、ここで正しいモデルの提案と考察を行うことが肝心である、と武谷は主張した。
武谷によると、「自分の師である湯川秀樹は『中間子』という実体を導入することで、当時の量子力学(りょうしりきがく)の抱えていた限界を打ち破り、素粒子物理学という新たな領域を開拓した。これこそが三段階論の成果である」ということになる。湯川のノーベル賞受賞(1949年)には、自分の三段階論も幾ばくかの貢献をしている、と訴えたかったのだろう。
しかし、私自身が最初にこの三段階論を知った時には、大変失礼ながら、云われるほどにそんなに凄い内容なのか、と正直思った。私が理工系の研究者として自分で行う実験も、結果を考察する際に、データを見ながら頭の中でモデルを考えることは当たり前のことであり、研究者として言わずもがなであり、そんなことは別に誰から云われずに自分でやっていたぞ、という考えが、私には今でも拭えない。
私のこのようなレベルの低い意見は別に置くとして、終戦直後に出版された「弁証法の諸問題」を初めとする武谷の一連の著書は大きな評判を呼び、理工系の学生達にとっての必読書、バイブルとみなされるようになった。戦後の武谷は素粒子物理学の理論研究の傍(かたわ)らで、雜誌や新聞等にも科学技術に関する一般大衆向けの平易なエッセイ等も数多く執筆し、文壇のスターの一人として一躍名を広めた。
今でも60歳以上の理工系に詳しい方々のブログ等を拝見すると、武谷理論を信奉する人々が多くおられるのを目にする。 武谷の盟友で最大の理解者でもあった坂田昌一(さかたしょういち)は、三段階論について以下のようなコメントを残している。
-引用はじめ-
彼(武谷)はこの研究を通じて自然弁証法の最も高い段階とされる『三段階論』に到達した。この『三段階論』の発見は、私たちのその後の研究にたいしてあたかも羅針盤のごとき重要な役割を演じた。
(中略)
物理学が量子力学に限らず、ニュートン力学にしても、相対性理論にしても、全てこのような段階をへて発展してきていることはすでに武谷君の詳細な科学史的研究によって明らかにされているところであるが、自然認識がつねにこのような経路をへて行われるのは全く自然自体がかかる弁証法的構造を持っていることに由来している。
(中略)
真に理論を鍛え、正しい認識に導く冒険は、何よりもまず的確な見通しをもたなくてはならない。見通しのある冒険は、たとえ失敗することがあっても、失敗の中から必ず教訓を学びとる能力をもち、次の冒険での成功を確実にする。このような見通しを与える羅針盤、それが「三段階論」を頂点とする科学的な哲学である。
(「素粒子の探求」 湯川秀樹、坂田昌一、武谷三男、勁草書房、1965年 から)
-引用終わり-
相田(あいだ)です。
上の坂田の話からわかるように、武谷の三段階論が有効性を発揮できる要因は何か、というと、「自然自体がかかる弁証法的構造を持っている」からであるという。「本当にそうなのか? お前は見たのか? 」と誰もが疑問を抱くであろうが、その話を突き詰めると無駄に文章が長くなるのでここではやらないことにする。
そもそも「弁証法的構造」というのが一体なんであるのか、今の我々にはピンとこないのであるが、後で説明するようにどうやらこれは「自然は玉ねぎの皮を剥くような、何層にも折り重なった構造を有すること」であるらしい。
後に武谷は、「弁証法的構造というのは自然界だけでなく、人間社会にも当てはまる特徴であることから、三段階論は社会科学の手法としても有効だ」との領域まで話を膨らませることになる。三段階論万能説である。
終戦直後に三段階論を持って文壇にデビューした頃の武谷には、過激なまでの自己正当化を主張する論説が多く見られる。1946年に発表された武谷の論文「自然科学者の立場から ― 革命期に於ける思惟(しい)の基準 ― 」には、以下のような記述がある。
―引用はじめ―
自然科学は最も有効な、最も実力のある最も進歩せる学問であることは万人が認める所である。かかる優れた学問を正しくつかみ、正しく推し進めて居る自然科学者は最も能力のある人々であり、これらの人々の考えは必ずや一般人を導くものでなければならぬ。
(中略)
恐らく自然科学者達は社会科学や宗教のどんな本でも簡単に理解してしまう。しかるに宗教家や社会科学者は逆立ちしても量子力学の本などオイソレとは読めないであろう。
(中略)
自然科学者は自己の判断が科学的になされたものであると確信を有する限り、もっと自信を持ち、もっと勇敢であってもよいのだ。
―引用終わり―
相田です。
同じく1946年に、雑誌「思想の科学」創刊号に掲載された武谷の論文「哲学は如何にして有効さを取り戻しうるか」にも、以下のような趣旨のコメントが述べられている。
―引用はじめ―
科学が現実に対して有力であり有効であることは皆が認めている。一方、科学論や認識論が今まで全く有効性を示したことはない。
(中略)
哲学者たちは自然科学の前進に寄与したことはなく、自然科学の前進をさまざまに解釈するにすぎなかった。
(中略)
物理学を論じる哲学者が物理学を理解していないという事はこれは致命的である。
―引用終わり―
相田です。以上に抜粋した武谷の文章を読むと、自然科学者としての恐ろしいまでの自負心と自己肯定にあふれていることがわかる。「自然科学者に任せていれば、世の中すべてうまくいく。物理を勉強していない奴らは黙っとれ」ということである。自然科学に関係しない哲学者や宗教家が、この武谷の記述を読んだら、怒り心頭になっただろう。
端的に言えば、文壇デビュー当時の武谷の考えの骨子を形成するものは、「自分の思想は、マルクス、レーニンにより創られた 唯物論的弁証法 と、素粒子物理学(量子力学)という、社会科学と自然科学の最先端にある2大理論を突き詰めて、このふたつを融合することで、生み出した成果である。よって自分は、時代の最先端を進む知識人である」という強烈な自信と自負心である、と言えるだろう。
もっと単純化すると「世の中では自分が一番頭が良くて、あとのやつらは皆アホである」、という、身も蓋(ふた)も無いものとも言っても良い。それまでの戦時下の封建的体制から解放されて、自由に言論を発表できるようになった解放感が、武谷を必要以上の過激な発言に走らせたのだろう。
上の引用からもわかるように、武谷の論評には、この他にも他人への歯に衣着せぬ辛辣な言い回しや、人を小馬鹿にしたような皮肉な記述が多く見られる。文章自体にもあまり品が良いとは思えない表現も多い。武谷自身はロマン・ロランを愛読する非常に繊細な性格の持ち主であったらしいが、一連の彼の論考を読むと、私にはどうしても武谷の文章の端々に現れるエキセントリックさ、奇矯さが気になってしまう。
本論考の前書きで述べたように、今に至る益川敏英(ますかわとしひで)氏や小出裕章(こいでひろあき)氏らの反体制左翼学者の原点は、私には武谷にあるように思えてならない。 別に反体制学者の全てが「おかしな人」という訳では勿論ない。反原子力研究者として名高い高木仁三郎(たかぎじんざぶろう)氏 (彼も武谷の影響下にある学者の一人である)のような、一般常識を良くわきまえた普通の性格の(ように思える)方もおられる。
(続く)
相田英男 拝
【1375】[1670]テロ資金凍結新法案 政府、提出検討 金融取引を規制
国内でテロ行為に関与する恐れのある人物らを対象に、金融取引などを規制して資産を凍結する新法案が臨時国会に提出される。
規制対象となった場合、送金が許可制となり、実質的に資産凍結が図られる。
(転載はじめ)
テロ資金凍結新法案 政府、提出検討 金融取引を規制
2014年9月25日 東京新聞朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014092502000157.html
政府は二十四日、国内でテロ行為に関与する恐れのある人物らを対象に、金融取引などを規制して資産を凍結する新法案を二十九日召集の臨時国会に提出する方向で調整に入った。国際社会とともに「テロとの戦い」に臨む姿勢を示す狙いだ。菅義偉(すがよしひで)官房長官が記者会見で明らかにした。捜査当局による恣意(しい)的なテロリスト指定への懸念が出るのは必至。憲法で保障された「財産権」の観点からも議論を呼びそうだ。
菅氏は二十四日の記者会見で新法案について「関係省庁で、臨時国会に提出すべく検討している」と明言。テロ資金の根絶を目指す国際機関「金融活動作業部会」(FATF)が日本政府に対し、マネーロンダリング(資金洗浄)やテロ資金対策を強化するための法整備を進めるよう求めていると説明した。
政府内では新法案の適用対象について、国連安全保障理事会決議でテロリストに指定された場合などを想定している。規制対象となった場合、送金が許可制となり、実質的に資産凍結が図られる。
国連は二〇〇〇年十一月に「国際組織犯罪防止条約」を採択。日本政府は翌十二月、条約に署名した。条約加入には、重大犯罪の謀議に加わっただけで処罰対象となる「共謀罪」規定や、テロ資金を断ち切る法制が不可欠とされる。日本はいずれも不備があると指摘され、条約加入に至っていない。
政府は世論の反発を懸念し、共謀罪新設の関連法案については臨時国会提出を見送る方針を既に固めた。一方、新法案に関しては「対象がテロリストだけで極めて限定的」(政府筋)としており、国民の理解獲得が可能と判断したとみられる。
(転載おわり)
【1374】[1669]新刊本注文しました
「英語国民(ネイティブ・イングリッシュ・スピーカー)の頭の中の研究 ーなぜ日本人はコトバの壁を越えられないないのか」を、自分自身の今現在とこれから先をも含めた英語勉強のために読んでみようと思いました。
日本は諸外国間の外交下手(へた)と言われているので、そのことも考えて読んでみます。
読後に感想を再度重たい掲示板に書き込みますので、よろしくお願いいたします。
会員番号7791