「1721」 忍者の歴史と全体像について説明します(第2回・全2回) 2018年2月5日

 副島隆彦です。今日は2018年2月5日です。今日は忍者論の第2回目です。

 私、副島隆彦にとってもう50年来の不思議だったのは、柳生家というのがあって、柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし、1527-1606年)といいますが、柳生家と伊賀忍者の関係がよくわからなかった。柳生の里というのは今でも奈良県の山のほうにある。柳生は忍者ではなく、徳川将軍家の剣術使い、指南だった。指南というのは、北側に自分がいて下の者に南を指差すから偉いという意味で、徳川将軍の剣術指南役である柳生と伊賀がどういう関係になっているのかわからなかった。


柳生の里の地図(東に伊賀、北東に甲賀)

 柳生だって忍者なんです。信長が大和、今の奈良県に行ったときの大物に松永弾正久秀(まつながだんじょうひさひで、1508-1577年)がいた。彼は信長が嫌いでありながら屈服したけれども、最終的には信長に殺されてしまった。結局、信長は筒井順慶(つついじゅんけい、1549-1584年)という大名に任せた。筒井順慶の養子が筒井定次(つついさだつぐ、1562-1615年)でキリシタン大名でした。奈良市でなく、明日香のほうの古い奈良でも真ん中あたりの大和郡山市があって、そこにお城があります。

柳生石舟斎宗厳は筒井に仕えていたのではないかと思うんですが、1527年に生まれて1606年に死んでいる。その五男が柳生宗矩(やぎゅうむねのり、1571-1646年)です。柳生宗矩の長男が柳生十兵衛三厳(やぎゅうじゅうべえみつよし、1607-1650年)です。

■柳生三代
①柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし、1527-1606年)
②柳生宗矩(やぎゅうむねのり、1571-1646年)
③柳生十兵衛三厳(やぎゅうじゅうべえみつよし、1607-1650年)

 昔は貸本屋というのがあって、漫画本を10円か20円で貸してくれた。そこに行くと、汚い紙に刷った講談本というのがあった。私より10歳から20歳上のじいさんたちは漫画は読まないけれども、講談本の中に武芸帳とか忍術物とか、武士の物語を書いた小説がたくさんあって、その中にこの柳生十兵衛というのがあって、それを読んでいた。『子連れ狼』の中で、柳生にずっと狙われる話です。


柳生宗矩の像

 柳生石舟斎はもう引退してしまいますが、柳生宗矩は剣術指南役である兵法指南役(ひょうほうしなんやく)として家康に仕えた。柳生宗矩が書いた『兵法家伝書』が巻物になっていて、刀の振り回し方とか切り殺し方とかが残っている。これはNHKでも時々やります。


『兵法家伝書』の巻物

 私は、伊賀者が江戸幕府の中で秘密警察長官として徳川氏に仕えたという話をしました。服部半蔵正成の後です。ただ、あまり伊賀者が活躍しなくなったという大きな事実がある。

 ところが、柳生石舟斎宗厳の関係で、日本には古くからの武芸帳物とか講談本の中の剣術物、剣豪物の小説がたくさんあって、それを読んでいる人たちがいます。私の中で、この服部半蔵系と同じ徳川氏(江戸幕府)に仕えた柳生石舟斎宗厳がどういう関係になっているかがわからなかった。柳生石舟斎の息子が柳生宗矩で、その息子、石舟斎の孫が柳生十兵衛です。これは、将軍家の剣術指南役という武士としての取り立てをされている。ところが、やっていることはどうも秘密警察で公儀隠密みたいなことで、この関係がわからなかった。

 しかし、この際もう決めつけなければいけない。1579年の伊賀攻めで、織田信長は伊賀を滅ぼす攻撃をかけたけれども、その前に、その手前にある大和の国(奈良)を攻め取るときに信長を案内して大和に導いたのが実は柳生石舟斎宗厳です。その後、1582年、信長が爆殺された後は秀吉に仕えた。しかし、秀吉に嫌われて、1594年から家康に仕えた。息子の宗矩を、1600年の関ヶ原の合戦に参加させた。だから、柳生家は生き延びて、大和柳生藩一万石として、幕末まで続きました。

 柳生の本拠地は大和盆地の奈良県添上郡で、場所をはっきりしなければいけないけれども、どうも三重県の伊賀と名張の忍者たちの里の山一つ向こう側です。だから、簡単に言うと、伊賀者、甲賀者は柳生のことが大嫌いなんです。

なぜなら、柳生が信長を導いて大和の道案内をしたということは、伊賀者たちから見たら伊賀攻めのときにも同じようにした柳生が裏切り者として許せないという理屈があって、伊賀者系として忍者の系譜を名乗っている人たちは今でもきっと柳生のことが嫌いだろうと思う。だから剣術物の世界でも柳生は悪役になる、このことがようやくわかった。もうこれでいいと思います。

 もとの話に戻りますが、柳生宗矩は後に大和の添上郡の柳生の里に隠居して、『兵法家伝書』という本を書きました。これはNHKなどでも割に昔から時々出てくる、本物の剣術の古典的な重要な史料です。


兵法家伝書―付・新陰流兵法目録事 (岩波文庫)

 柳生石舟斎宗厳は新陰流という流派を受け継ぎました。これが、日本の剣道よりもっと古い、剣術における最も中心的な武道の流派です。まず新陰流を知らなければ、その後の日本国内の剣道の話は成り立たない。

 2002年にオープンしたワシントンD.C.の国際スパイ博物館では、日本の忍者5人、加藤段蔵、百地丹波三太夫、高坂甚内(こうさかじんない、?-1613年)、服部半蔵正成、藤林正保が紹介されました。筆頭の加藤段蔵が仕えていた長野業正は上杉家の家臣で、関東地方の北のあたりにいました。彼は大名待遇で、上杉は何とか生き延びたけれども徳川にかなり追い詰められていったあたりで、この長野業正に仕えた剣豪上泉信綱(かみいずみのぶつな、1508?-1577年)という人がいます。この信綱がつくったのが新陰流です。これが非常に大事なことです。


国際スパイ博物館

 上泉信綱は「上州一のやり(上州一槍)」と呼ばれました。さっき言ったように、信綱は日本の忍者の創始者である加藤段蔵と同じように、長野業正の子分です。このことがわからないと、日本における忍者研究は成り立たない。この大きな柱をようやくつかまえたということが、今日話したことの最大の業績です。上泉信綱の新陰流が柳生家に伝わったということです。

 そんなことはチャンバラだからどうでもいいじゃないかと言ってはいけない。日本における忍術と武術、武道の両方を世界に向かって、外国人たちに向かって説明しなければいけない時代がものすごく重要な問題として来ている。なぜなら、日本の忍者の研究に本気になって取り組んでいるフランス人、ドイツ人、アメリカ人はインテリですから、日本の国の本当の歴史を知りたいと思っている人たちです。日本人のほうはすっとぼけてわからなくなって、忍者ハットリくんレベルの知能しかなくなっていることに問題がある。急いで対応しなければいけない。

 前のほうでしゃべったように、藤林正保長門守の孫の保武がつくった『万川集海』という忍術界唯一の古典以外に、武術や武道の世界も合わせて一緒に研究しなければいけない。そうすると、日本人が武道、武術で知っているのは宮本武蔵です。宮本武蔵は鹿島新當流を起こした塚原卜伝に習ったことになっていますが、本当は時代が全然違って、出会っていません。日本の武道、武術は、茨城県の鹿島神宮の神職、神官であった家柄から始まっており、それが塚原卜伝(つかはらぼくでん、1489-1571年)です。

 塚原卜伝は、1540~1550年代に、第一三代将軍足利義輝(あしかがよしてる、1536-1565年)に「一の太刀」のわざを授けています。あと北畠家八代当主だった北畠具教(きたばたけとものり、1528-1576年)にも教えた。それから細川幽斎(ほそかわゆうさい、1534-1610年)や山本勘助(やまもとかんすけ、1493-1561年)にも教えた。これが戦国時代初期です。後に徳川家康の兵法師範と呼ばれた松岡則方(まつおかのりかた)とか、今川氏真(いまがわうじざね、1538-1615年)にも仕え、「鬼真壁」と呼ばれた真壁氏幹(まかべうじもと、155-1622年)にも教えています。これが、日本の武術、武道の始まりです。

 宮本武蔵(みやもとむさし、1584?-1645年)は傍流というか、義理の父と伝わっている新免無二斎という人物から剣術を習って、二刀流の二天一流を編み出したと言われている。宮本武蔵は実在の人物で、傭兵として関ヶ原の戦いにも出ていると言われ、豊臣家が滅んだときの大阪城の夏の陣、冬の陣にもいたと言われている。彼は播磨の国(兵庫県)で生まれ、幼いころは「たけぞう」と呼ばれた、武士の出ではない人ですが、傭兵として強かった。そして、京都の兵法家のやりの吉岡一門と激しい戦いをやって勝ち、巌流島で佐々木小次郎に勝った。


宮本武蔵

やがて徳川の時代になって、熊本の細川藩に雇われた。彼は『五輪書』を書いている。この本は、儒教道徳の中国系の思想とは全く無関係な日本の徹底した戦場の中で編み出した合理主義の精神で、神がかってはいない。主君に仕えるという思想だけは言うけれども、あとは徹底的に現場で鍛えた合理精神で書いている本です。これも、日本人は読みませんが、アメリカのビジネスマンたちに大変よく読まれています。


五輪書 (講談社学術文庫)

 だから、宮本武蔵の流派は塚原卜伝系で、鹿島新當流です。何で茨城県の鹿島のあたりが日本の武道、武術の始まりかというと、どうも700年代、800年代ごろ、霞ヶ浦という大きな湖があって、京都の朝廷の命令でそこに200~300隻ぐらい小舟を並べて、奥州のえびすであるアイヌの平定に行かせた。坂上田村麻呂たちも今の福島県とか宮城県の仙台、石巻、多賀城のあたりにとりでをつくって、えびす、アイヌを平らげに行くときの拠点になったところが鹿島神宮です。その流れから、日本における武術が生まれた。

 話はもうこれ以上飛ばしませんが、まとめていくと、あと、人殺しのための刀の使い方の流れは、幕末になってからまた復活します。その間、一生に一度も刀を抜いたことのない腰抜け侍たちがたくさんいたわけで、平和な時代のサラリーマン化した武士たちがたくさんいたわけです。

幕末になって、どうもまた刀を抜いて人殺しに行かなければいけないのではないかという時代が来たときに、坂本龍馬や後藤象二郎や西郷隆盛たちが江戸の於玉ヶ池の千葉道場で習う。撃剣というんですが、本当に人殺しのための剣術がはやった。そのときにまた本気で剣術が復活する。それも、江戸の金持ち町人、商人たちがお金をたくさん出してくれて、剣術の思想が復活していく。

 そこに出入りしていたけれども本当は百姓の出の三多摩郷士と呼ばれ、どうしても侍になりたいと死ぬほど望んだ人たちが刀を振り回し始めたのが新選組の連中です。近藤勇(こんどういさみ、1834-1868年)、土方歳三(ひじかたとしぞう、1835-1869年)、沖田総司(おきたそうじ、1842-1868年)、永倉新八(ながくらしんぱち、1839-1915年)たちが、武士ではないのに侍に取り立てられたかったというところから、幕末の剣術が起きた。


近藤勇(左)と土方歳三

 話が広がったのでもとに戻しますが、このように、日本における忍者の系譜の全体像を私がようやく大きくつかまえたということでもう終わりにします。

(終わり)

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