重たい掲示板
書き込みの連番がリニューアルによりリセットされております。
旧サイトの書き込みの連番は[●●]で表示されております。ご了承ください
書き込みの連番がリニューアルによりリセットされております。旧サイトの書き込みの連番は[●●]で表示されております。ご了承ください
※ログイン後に投稿フォームが表示されます。
Loginはこちら【1397】[1704]私事を申し上げ恐縮ですが
10/26(日)にTOEIC受験が終わりましたので、時間のある時には重たい掲示板に参加させていただきますので、よろしくお願い致します。
偉そうなことを言っていたらすみません。
受験するたびに思うのですが、日本の島国根性の考えが国際標準についていけずに
外交下手だとつくづく感じています。
会員番号7791
【1396】[1703] 仲井眞(なかいま)沖縄県知事をはじめ、歴代の知事は、久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)の末裔。
副島隆彦です。 今日は、2014年10月28日です。
私が、先月の9月22日に、この 重たい掲示板に書きました 次の沖縄知事選挙 (11月16日)についての 分析と予測 の文の中で、「沖縄在住の私たちの会員に教えてほしい」と書いたことで、私にメールで教えてくれた会員がいます。 貴重な情報と知識を送ってくれました。
「 重掲 「4193」番 2014-09-22 次の沖縄の知事選挙は、出来(でき)レースで八百長で、もう終わっている。 副島隆彦 筆 」
その人に、ご自分でそのメール文を、この重たい掲示板(通称、重掲=おもけい=)にそのまま載せてください、皆で共有したいので、と私からお願いしたのですが、、そのままになりました。きっと億劫(おっくう)だったのでしょう。
それで、その会員の名前は伏せ字にして、私の判断でここに載せます。Iくん。ご理解ください。どうもありがとう。 副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
From: *********
Sent: Friday, October 17, 2014 9:47 PM
To: snsi@mwb.biglobe.ne.jp
Subject: 沖縄県知事選挙その他について
会員番号****番 ****と申します。
学生時代に、アホな名前のメールのアカウント(アドレス)を作ってしまったせいで、それを今でも引きずっています。
数年前、副島先生に2~3回メールを差し上げた事があります。
あの時は、SSRI(向精神薬)の薬害や、人類の月面着陸問題の事でメールさせて頂きました。
現在、私は南大東島(みなみだいとうじま)と言う所におります。
ここは、最初は無人島からの開拓(八丈島からの移民)、次に製糖会社(大日本製糖)の支配、そして現在と、大きく3つの年代に分ける事ができる島です。
ヤマトと琉球の混在する島ですので、御弟子さんと遊びにいらして下さい。
美味しい深海魚(バラムツ、インガンダルマ)もあります。下痢しますが。
さて、副島先生の重たい掲示板の書き込みについて、
>> [1668]次の沖縄の知事選挙は、出来(でき)レースで八百長でもう終わっている。
現在沖縄移住者である私が感じた事を書きます。
地元民ではないので、不正確な所もあると思います。書くかどうか迷いました。
ウチナーンチュの人からの意見を優先されて下さい。
以下、コソコソ話されている事をまとめてみました。
島社会は人間関係が狭いので、大っぴらにすると非常に暮らしづらくなります。
仲井眞(なかいま)知事をはじめ、歴代の知事は、久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)の末裔と言われています。地元の先輩からの伝聞です。
久米三十六姓について
明(みん)の時代に琉球王国へ中国人の学者や技術者が来て、那覇の久米村(くめそん)と言う海沿い地域に住んでいたそうです。「三十六」とは数が多い、つまり、AKB48の「48」みたいな意味でしょう。
その頃の中国姓を久米三十六姓の末裔の皆さんが持っているかは、確かめていませんが、恐らくあるのでしょう。しかし、ウチナーンチュ全員が中国姓を持っているわけではないです。
琉球王朝時代の士族は苗字ではなく地名を名乗っていたそうですし、琉球処分後の明治頃からも、やはり地名を名乗ったそうです。
戦後に創氏改名(そうしかいめい)と言って、苗字を本土みたいにしたり、色々いじった人はいるのですが、地名由来の苗字が多数を占めています。
下地幹郎(しもじみきお)氏の(兄・米蔵氏の)会社は「大米(だいよね)建設」です。創業者である幹郎氏の父(昨年逝去)の名前が「米一(よねいち)」で、会社の名前もそこから来ています。なお下地(しもじ)と言う苗字は宮古島に多いです。
下地米一(しもじよねいち)の生涯を読むと、田中角栄と神内良一(じんあいりょういち)を足した人だったようです。
http://www.miyakomainichi.com/c/shimoji_yoneichi/
宮古島には商売で成功する人が多く、例えば沖縄を代表するスーパー「サンエー」の社長も宮古島出身です。自営業者も多く、沖縄版リバータリアンの多い島です。ただし、独立論は聞いた事がありません。どこへでも働きに行って、そこに住んで頑張る人たちなので、そういう事に拘っていないように感じます。
来月の県知事選は、宮古島では保守系を中心に、下地氏を応援しているようです。ただし、下地氏は公明党と沖縄1区(那覇周辺)の国政選挙でやりあった事があり、公明党からは蛇蝎のように嫌われています。
社民党系の大田昌秀元(おおたまさひで)知事や東門美津子(とうもんみつこ?)元沖縄市長は、那覇市長選挙で翁長(おなが)氏と軋轢(あつれき)があり、下地氏の応援に回ったらしい、と言われています。今度のインチキ選挙の構造を咄嗟に見抜いていたのだと思います。
もう一つ。「日米地位協定」本の前泊博盛(まえどまりひろもり)先生(沖国大)も、宮古島出身です。西辺(にしべ)と言う、独特の場所ですが、長くなるのでやめます。
以上です。雑然とした文章になってしまいましたが、学問道場のますますの発展を祈念しております。
****拝
From: 副島隆彦
Sent: Sunday, October 19, 2014 9:18 AM
Subject: [ml:00576] Re: 沖縄県知事選挙その他について
****さまへ
副島隆彦から
メールをありがとうございます。お久しぶりです。
**くんは、今は、南大東島(みなみだいとうじま)にいるのですか。
私は、今、地図で場所を確認しました。 沖縄本島から、東へ 400キロメートルの 絶海の諸島ですね。 そこから 沖ノ鳥島(おきのとりしま) までは、さらに 南東へ800キロですね。 その 真東 のほうに、 北マリアナ諸島がありました。
**くんは、ここから メールを送って来たのですね。 「お弟子さんと遊びにいらして下さい 」との ことですので、今すぐにでも私は行きたい。しかし、どうせ行けません。 弟子たちも自分の生活を抱えて、動けません。 よっぽどの 冒険野郎で、 放浪人間 でないと、南大東島 までは、思いつきでは行けません。
私は、自分なりに達観して、もう世捨て人だと、思ったら、そちらに 行きます。おそらく那覇から、飛行機が出ているのでしょう。 定期航路の船なら10時間ぐらいでしょうか。
**くんは、若くして きっと それなりの達観のある人でしょう。 そのことを私は尊敬します。
それで沖縄人、琉球人の 血筋と中国系の家系、家名の件ですが、これで、私なりによく分かりました。 どうも貴重な知識をありがとう ございます。
「仲井眞(なかいま)知事をはじめ、歴代の知事は、久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)の末裔」とのことで、沖縄人の名家、貴族階級 の人々は、そういう長い歴史を持っていることが、私に分かりました。
併(あわ)せて、沖縄本島からさらに離れた、宮古島 の人たちが、独特の 立場を築いてきたことが、なんとなく分かりました。
鹿児島県の南の離島群のなかで、奄美大島(あまみおおしま)からさえ、さらに差別のような ものを受けながら特異な這い上がりの根性を持っている 徳之島(とくのしま)の人たちと同じ感じでしょう。 徳洲会(とくしゅうかい)病院グループの 徳田虎雄(とくだとらお)が徳之島の人です。
私は、同じ先島(さきしま)、あるは、南西(なんせい)諸島の 石垣島(いしがきじま)には7年ぐらい前に行きました。 一週間いました。 すぐ先の 西表島(いりおもてじま、ヤンバルクイナで有名)には行けませんでした。 さらに 与那国(よなぐに)島まで行けば、台湾 まで100キロですから、島影が見えると聞きました。
**くん。 どうか、この文を、このまま 君が自分の力で、重たい掲示板に 載せて(アップロードして) ください。 私の文も おしまいにくっつけてください。
私たち 学問道場には一切のウソと秘密がありません。 私たちは、自分の名前で、堂々と自分自身の生きている姿 と 自分の考え を披露して、他の人たちと 団結しようと思います。 私たちの会員は、私と似て、所謂(いわゆる)生き方上手ではないので、きっと恵まれた人生ではない、貧しいままの生き方をする人が多いでしょう。しかし、そういうことは、ものともせず、私たちはこの世の真実の知識と言論、学問を求めて 、生きてゆきましょう。
東大東島からのご連絡をどうもありがとう。 暮らしぶりもそのうち、教えてください。 副島隆彦拝
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
【1395】[1702]思想対立が引き起こした福島原発事故(第6回)
みなさんこんにちは、相田です。
しつこいですが、前回[1694]に続いて投稿します。
今回は、武谷哲学の暗黒面(ダークサイド)の話です。
本論考の最初に、「左翼思想と自然科学の関係を纏めた論考はない」と書きました。しかし、実はそれは正確ではなく、今回触れる伊藤康彦(いとうやすひこ)氏、泊次郎(とまりじろう)氏により、それぞれ、生物学、地学における左翼思想の影響についての、詳細な研究をおこなった本が出版されています。私の話は、御二方に続く「原子力技術」の観点からの論考になるはずです。
ただし、伊藤、泊の著作は共に、御本人達の半生を通じての深い思いと経験を纏めたものであり、ここでの私の話とは緻密さとスケールの大きさは比較にならないレベルにあります。それでも、私の方も、インパクトの大きさは御二方に負けない内容を目指して、書いているつもりです。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
思想対立が引き起こした福島原発事故
第1章 素粒子論グループの栄光とその影
1.7ルイセンコ論争と武谷
戦後から70年代にかけて文壇のスターの一人として、膨大な著作やエッセイを発表した武谷三男(たけたにみつお)であるが、今では都内の大きな書店に行っても武谷の本を見かけることはほとんどない。知識人として今や完全に忘れ去られつつある武谷であるが、この理由として先に触れた、広重徹(ひろしげてつ)により武谷三段階論が否定されたことが、表向きにはある。しかし実はもう一つの理由が存在しており、それは武谷が「ルイセンコ学説」の積極的な支持者であったことである。
ルイセンコ学説とは、スターリン時代のソビエトにおいて広く流布されていた生物学説で、その趣旨は「生物が後天的に獲得された性質(獲得形質、かくとくけいしつ)が遺伝される」というものである。よく言われる例えとして、「鍛冶屋(かじや)は仕事を続ける内に腕力を鍛えて筋肉質になるので、その息子も父親と同じく腕力が強くなる」とか、「一生懸命勉強した学者の息子は、勉強しなくても生まれつき頭が良い」というもので、当時研究が進んでいた遺伝子(いでんし)の作用を真っ向から否定する学説である。ルイセンコ学説はスターリン政権下において「弁証法的唯物論(べんしょうほうてきゆいぶつろん)の証明」であるとされ、それに異を唱える学者達は逮捕され収容所に送られたという。
ルイセンコ学説は日本においても戦前から左翼系自然学者達により少しずつ紹介されていた。武谷は戦後の文壇デビューした当初からルイセンコ学説に注目しており、論文「哲学は如何にして有効さを取り戻しうるか」の中で、ルイセンコの学説について「これは唯物弁証法の方法に立ち、この方法を武器としてこの仕事を完成し、またこの成果によって唯物弁証法を豊富にしたのである。」と述べている。
武谷のルイセンコ学説への傾倒に関しては、中部大学生命健康科学学部長で医師でもある伊藤康彦(いとうやすひこ)氏の著作「武谷三男の生物学思想」(風媒社、2013年)の中で、余すことなく論じられているので、ご参照されたい。以下の内容は伊藤氏の本からの引用である。
武谷の一連のルイセンコ支持の論説に対して、有名なオパーリンの「生命の起源」の翻訳者で哲学者でもある、山田坂仁(やまださかひと)からの反論が行われた。山田は当時の遺伝学の成果に基づきルイセンコの業績を考察して、その結果は遺伝学には関係がないこと、獲得形質の遺伝については生物学的に証明されていないこと等を、現在の視点から見ても非常に正しく指摘した。山田と武谷の間では激しい論争が幾度も行われたが、生物学的な根拠を特に示すことなく哲学(弁証法)的な観点からの抽象的な批判に終始した武谷に対して、山田の説明は生物学の正確な理解に基づいた具体的な内容であったことから、武谷の劣勢は明らかであった。
しかしながら学術的立場とは異なる方向から、この論争への介入が行われた。1950年に日本共産党の機関紙「前衛」に突如として「ルイセンコ学説の勝利」という論文が掲載される。筆者は中井哲三という人物であるが架空名であるらしい。その論文の中では、メンデル・モルガンの遺伝学説に対するルイセンコ学説の優位性、ソビエトにおけるルイセンコ論争の経緯とその成果がソ連の農業生産の増大に大きく貢献したこと(これは事実ではなかったのだが)等が、詳細に論じられており、最後に武谷と山田の論争について言及している。
山田はその論文の中で、ルイセンコを批判する山田の姿勢はマルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないもので、山田が幹部となっている民主主義科学者協会(みんしゅしゅぎかがくしゃきょうかい、戦後に組織された左翼思想を啓蒙・普及させるための科学者の団体のこと、略称:民科〔みんか〕)の哲学部会では、なぜ山田の誤りを問題にしないのか、と厳しく糾弾(きゅうだん)された。終戦直後からしばらくの間は、共産主義は進歩的な文化人や科学者の間で広く支持されており、共産党は強い影響力を持っていた。この共産党の論争への介入以来、山田のルイセンコ批判は徐々に後退して行き、武谷を支持する学者が数多く現れるようになった。
その後もルイセンコへの支持表明を度々繰り返す武谷であったが、1960年代になるとルイセンコ学説が真実ではないことが生物学者の間で共通認識となり、一方で、ソビエト農業でも何の貢献も無かった事実が明らかにされた。そのような状況でも武谷は、自らのルイセンコへの支持についての反省、批判を一切行うことが無いままで押し通し、結局はその生涯を終えることとなる。単なる疑似科学に過ぎなかったルイセンコ学説への過剰なこだわりと、対立者への容赦ない批判、そして自らの発言への反省の無さが、武谷三男の科学者、思想家としての位置付けを危うくさせ、後世の研究者からの真面目な評価を敬遠される一因であることは、明らかである。
この論考を書きながら知ったことであるが、地学の分野でも同様な左翼学者グループによる活動が、戦後に広く行われて来たらしい。東大理学部で地球物理学を学んだ後に朝日新聞の記者となった泊次郎(とまりじろう)という方が、2006年に「プレートテクトニクスの拒絶と受容」(東京大学出版会)という著書を出版されている。私はこの本をまだ読んでいないが、本論考に関係する大変興味深い内容のようである。
1960年代のアメリカでプレートテクトニクス(以下PT)という、地球内部の活動を描写する革新的な学説が発表され世界中に広まっていった。地球の表面は固い岩盤(プレート)で構成されており、このプレートが対流するマントルに乗って互いに動いて山脈が形成されたり地震が起こるという学説である。
我々の世代は小松左京(こまつさきょう)の小説を題材とした映画「日本沈没」の中で、小林桂樹(こばやしけいじゅ)が扮する、京大地球物理学教室の田所教授(たどころきょうじゅ)による、PTについての丁寧な説明を聞いた記憶がある。おかげで我々は、PTは70年代から日本で広く認知されていた学説であると思っていたが、実はそうではなかったらしい。
戦後すぐに地学研究者の中でも左翼系の学者が集まって、地学団体研究会(ちがくだんたいけんきゅうかい、略称:地団研)という集まりを結成した。地団研(ちだんけん)は今でも健在している組織である。初期の地団研のリーダーを務めた井尻正二(いじりしょうじ)は、素粒子論グループの武谷、坂田に匹敵する影響力を持っていた「自然科学系左翼」の巨人である。井尻は強固なスターリン主義者であった。
泊氏の本によるとPT学説が発表されて以来、地団研はPT学説を一貫して否定し続けており、PT支持派の研究者との間で長年の論争が続いているとのことである。地団研の立場では、旧ソビエトの学者が主張する「地向斜造山論(ちこうしゃぞうざんろん)」という学説が真実であり、アメリカ生まれの学説など信用できない、と云う事らしい。地団研の介入により日本の地学界では、PT学説についての学術的な妥当性を議論する前に、政治思想的な信条を重要視する非生産的な議論が繰り返されているようなのである。
最近、停止中の原発が再稼働するか否かの問題がマスコミで扱われる際に、「活断層(かつだんそう)」の危険性について盛んに報道されるようになっている。しかし、そもそも原発付近の「活断層」の存在について地道なフィールド調査を行って、「あっちは何万年、こっちは何十万年・・・」といった結果をまとめて公表しているのは、専ら地団研の方々であるらしい。
彼等「地団研」の活断層調査に関する情熱は、学術目的だけではなく、左翼思想集団としての反原発活動の一環であることは明らかである。電力会社側も彼等共産主義者たちの反論に対しては、一歩も引かない覚悟のようである。「活断層」の危険性については、電力会社と田中俊一氏が率いる原子力規制委員会との間で、かみ合わない議論が延々と続いている。しかしながらその裏で、地団研のような、左翼思想に強く影響された団体の活動が存在することは、マスコミでは全く話題にされない事実である。
以上の内容からわかるのは、社会科学のフィールドではいざしらず、自然科学でもどういう訳か「左翼的な学説」なるものが存在することである。物理学では武谷三段階論、生物学ではルイセンコ学説、地学では反PTと地向斜造山論、がこれに該当する。ついでに「原発直下の活断層の危険性」も、おそらくは含まれるのであろう。自然科学者(と呼ばれる人物達)が主張する話の中にも、政治思想的なバイアスがかかった、相当にいかがわしい内容もあることが、段々見えてくるであろう。
最近の話題の中では、低線量放射線(ていせんりょうほうしゃせん)の人体への影響に関する「LNT(直線しきい値なし)仮説」が、自然科学系左翼学説の最たる物だと思われる。LNT仮説にこだわる方々は、左翼系の科学者、工学者、マスコミ人、弁護士、音楽家、… 等などが多い。具体的にここでは誰とは言わないが…。一方で本格的に放射線医学を学んだ研究者からの、LNT仮説への全面的な支持は、ほとんど見られないようである。
低線量放射線の問題について私は、ルイ・パストゥール研究センター所属で免疫学の専門家である宇野賀津子(うのかつこ)氏の書かれた本の、「低線量放射線を超えて」(小学館101新書、2013年)の内容を全面的に支持している。宇野氏のこの本を熟読すればよくわかるように、年間100mSv未満の放射線の人体への影響については、「ほとんど存在しない」ということで、学術的な決着は付いているのである。それを信じるか、信じないかの判断基準は、自然科学ではなく政治思想の問題のように私には思える。
あからさまに書くと言葉は悪いが、「自然科学よりも自分の政治思想を優先するのかどうか?」ということが、放射線問題の本質であるのではないのだろうか。要するに「私は左翼思想を信じているので、放射線が怖いのです」ということである。「何をふざけたことを言うのか」と思う方は、自分の頭の中にある考えをよく見つめなおしてみるべきだと思う。
宇野氏の本によると、放射線生物学におけるDNA障害や修復に関する研究は、2000年以降に急速に進歩しており86%の論文が2000年以降に発表されているという。その中では、放射線で傷ついた細胞の修復機構、ガン化のメカニズムと免疫(めんえき)機構、ストレスによる免疫機能の低下、等についての膨大な知見が報告されているそうである。これらの近年の研究内容を把握することなく、低線量放射線の危険性を強調する研究者や医師達に対して、宇野氏は「(彼らの)知識は、せいぜいビキニの灰事件(1954年)頃のままではないのか」と、看過(かんか)されている。
ちなみに武谷には1954年のビキニ事件の直後に、関係者へのインタビューなどを纏めて出版した「死の灰」(岩波文庫)という有名な著作がある。この中では、被曝(ひばく)により亡くなった第5福竜丸船員の久保山愛吉(くぼやまあいきち)さんの症状と死に至るまでの変化が、担当した三好医師のコメントとして克明に記録してある。現在の医学知識でこの記述を見直すと、久保山さんの症状は放射線の影響ではなく、輸血による肝炎ウイルスの感染によるそうである。放射線の影響により体力が一時的に低下した際にウイルスが体内に入ることで、急速に肝炎が進行して久保山さんは亡くなったらしい。
第5福竜丸の乗組員の多くは肝炎、肝臓癌を発症しているが、いずれも放射線の影響ではなく輸血後肝炎によると見られている。輸血などせずにそのまま体力の回復を待てば、彼らは普通に完治したとみられている。この事実をどのように解釈すればよいのであろうか?言葉は悪いが「核実験による被曝を大々的にイベント化することで、過剰な医療(大量の輸血)処置を行った結果」が、思わぬ悲劇を招いたのではないのだろうか。左翼主義者達はこの「科学的事実」から逃げることなく、しっかりと受け止めるべきだと、私は思う。
(もう少し続きます)
相田英男 拝
【1394】[1700]副島先生ありがとうございます。
↓の(1695 海国図志が幕末日本の思想家を動かした 第2回 )の文に副島先生に手直しを入れていただきました。
難読漢字および人名等にルビを、またいくつか、赤ペン(添削)を入れていただいたので分かりやすくなりました。
副島先生ありがとうございます!
(一度お読みになった方も、「あれっ、なんか印象違うぞ。」と気付かれるでしょう。)
田中進二郎拝
【1393】[1699]市場(マーケット)を権力者、政府が、管理、支配=相場操縦(そうばそうじゅう)することは出来ない。
副島隆彦です。 私の次の金融本、『官製相場(かんせいそうば)の 暴落が始まる ー 相場操縦(そうばそうじゅう)しか脳がない 米、欧、日 経済』(祥伝社 刊) は、10月4日から全国の書店に並びます。都内の書店は1日から入るでしょう。
今度の本の中に載せようと思って、載せなかった一文が有ります。それは、私が、今から17年前に書いた『悪(あく)の経済学』(祥伝社 1998年5月刊) の 中の1節です。 私にとって重要な文なので、以下に転載します。
(転載貼り付け始め)
● 権力者といえども市場を操(あやつ)ることはできない
私が、小室直樹(こむろなおき)先生から教えられたことで、あと重要なのは、
カルヴァンの「神の予定調和(プレデスティネーション)」と「市場(マーケット)」と「疎外(エントフレムデゥング)」は同じものだ、ということを大きく知ったことだ。
これに「構造(ストラクチュア)」という言葉(ターム)を追加してもよい。
ヨーロッパ近代政治思想の基本骨格と土台を為しているこれらの大きな文字(ビッグ・ワード)が全て同じものであり通底(つうてい)していることを小室先生から、ふと教えられた時の驚きは今でも忘れられない。
小室先生はヒントしか与えて下さらなかった。私は「これらは全て同じものですか」と恐る恐る尋ねたら「そうだよ」とボソッと答えてくださった。
この時の私の驚きは神の啓示(レヴェレーション)を受けた時のキリスト教徒に似ている。
なぜ市場を特定の人間が支配(コントロール)してはならないのか。いや、どうせ支配することはできないのか。市場を支配しようとする者たちは必ず市場から復讐される。
「市場( market マーケット)という言葉を経済思想の中心に押し上げたのは、アダム・スミスである。アダム・スミスは、「神の見えざる手 」 invisible hand of God インヴィジブル・ハンド・オブ・ゴッゴ という中核となる言葉で、「生産物は市場(﹅﹅)で、商品となる」ことを証明した。市場を通すことで始めて生産物は商品となる。公正な価格を付けるには、生産物は一度は必ず市場を通らなければならない。
このことは『諸国民の富』(国富論) ‘The Wealth of the Nations, 1776’ 「ザ・ウエルス・オブ・ザ・ネイションズ」 に書かれている。 アダム・スミスは、スコットランドのカルヴァン派である長老派(プレズビテリアン)プロテスタントの神学者である。
この前に、ジャン・カルヴァンが、「神の予定調和」(predestination プレデスティネーション )というキリスト教の本性(ネイチャア)を解明した宗教指導者である。
この「神の予定調和」という思想は、「ある人間が救済されるか否(いな)かは、予(あらかじ)め、神によって決定(プリデスティネート)されている」という思想である。
「神の予定調和」とは、怒った神(ゴッド)が、
「おまえが救済(きゅうさい、サルベイション)されるか否かは、予(あらかじ)め、神である私が決めるのである。すべては私が決める。神を条件(コンデション)づけるな。 神に命令するな。 神を試(ため)すな」
という旧約聖書のヨブ記のなかの言葉によって説明した。
プロテスタント運動が、ローマ・カトリック教会と5〇〇年間闘いつづけて負けなかったのは、カルヴァンがこの“キリスト教の本性”である神の予定調和の思想を『キリスト教神学(しんがく)綱要(こうよう)』 ‘Institutio Christianae Religionis 1536’ 「インスティチュティオ・クリスティアネ・レリジオニス」を書いて以来、堅持したからである。
そして、この「神の予定調和」とは、そのまま、アダム・スミスの説いた「神の見えざる手」である「市場」のことである。
「市場」とは、「個々の人間の主観(しゅかん)や願望などによっては、絶対に動かすことのできないルール、掟(おきて)、法則が有り」、それは「人間の外側にそびえたつもの」のことである。
たとえ、国王や独裁者や世界皇帝によっても変えることのできない、人類社会を貫(つらぬ)く鉄の法則である。米や小麦の値段は、国王が下げろと命じても下がらない。
このアダム・スミスの「市場」と同じものを、ヘーゲル学派から習ってカール・マルクスは、エントフレムデゥング Entfremdung =「疎外」(そがい、外化)と呼んだ。
「疎外」とは、「個々の人間の主観(しゅかん)や意思などによっては動かし得ないもの」という意味である。そして、「人間社会には社会を貫く冷酷な法則性がある」と言うことである。だから、神の予定調和=市場=疎外(外化)なのである。
ところが、カール・マルクスの 初期(26歳のとき)の著作である『経済学・哲学草稿』(1844年)を、偏重(へんちょう)して持ち上げる者たちが後に出て、その一部である日本の左翼知識人たちは「主体性(しゅたいせい)マルクス主義」という後進国特有の理論を作った。
そしてこのマルクスの「疎外(そがい)」を「高度産業社会と資本主義の発達にともなう人間の非人間化」と考え、「外々(よそよそ)しく人間の外側に立つもの」とした。そしてここから の 「本来の人間の主体的な回復」などと考えた。
これを「主体性マルクス主義」という。この理解は、日本のほとんどの左翼知識人だけでなく左翼でない知識人たちまでも今も同様に理解されている。
それでは、この「疎外からの回復」を説く「主体性マルクス主義」は、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)の「主体(チュチェ)思想」とどれほど違うのか、と問うと何も変わらない。「人間の解放」を唱える東アジア型の劣等政治思想である。マルクスの考えた「疎外」というのは、そのようなものではない。
さらに、八〇年代の日本の知識思想界までも席巻したのがフランスの「構造主義(ストラクチュアリズム)」という現代思想である。ユマニスト(人文=じんぶん=学者)のミシェル・フーコーが代表した。
この構造主義の「構造」(structure ストラクチュア)と言うのも、実は、「神の予定調和」と同じものである。各国それぞれの婚姻や家族の規範のように「構造」は、人間たちの意思で変えることのできない、冷酷に社会を貫く法則性のことである。変えることはできないし、かつ変わらない。だから「構造」と言うのだ。
だから「構造改革」というのは奇怪な言葉である。できもしないことをやろうとする愚かな考えだ。「構造改革派」とかつて呼ばれた一九三〇年代のイタリア共産党(反ソビエト派)発祥の日本の改革派の思想だ。
「構造」を「改革」できると思いちがいし、「市場」を自分たちの意思で支配(コントロール)できると考えることは愚かなことである。
今も衰退を続けるアメリカ帝国が、日本にも厳しく命令して 神の予定調和=市場=疎外 への違反である「金融市場の統制(ファイナンシャル・マーケット・コントロール)を押しつけて、やらせている。やがて崩れるだろう。
私はこれらのことを小室先生から教えて頂いたのである。
『悪の経済学』副島隆彦著(祥伝社、1998年刊)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。 現在、日本とニューヨークの株式相場は、激しく500円、500ドルとかで、乱高下を繰り返しています。 この動きを、私は、じっと見つめてながら、今度の本を書きました。
(転載貼り付け始め)
◯「米国株、5日続落 ダウ173ドル安、米景気への不安 一時1万6000ドル下回る」
2014/10/16 日経新聞
10月15日の米株式市場で、ダウ工業株30種平均は5日続落した。前日比173ドル74セント(1.1%)安の1万6141ドル74セントと、4月11日以来およそ半年ぶりの安値で終えた。米景気の先行きへの不透明感から、米株式を売却する動きが加速。
ダウ平均は下げ幅を460ドル超に広げ、1万5855ドル12セントと取引時間中としては約8カ月ぶりに節目である1万6000ドルを下回る場面もあった。
朝方発表された9月の米小売売上高は前月比で0.3%減と市場予想よりも悪化した。ニューヨーク連銀(れんぎん)が公表する景況感指数や9月の卸売物価指数(PPI)などの経済指標も軒並み市場予想を下回った。世界的な景気減速懸念が強まるなか、底堅く推移するとみられる米経済に対しても不安感が強まり、米株式には売りが増えた。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
【1392】[1698]将来 学問道場に110万円を贈与する事にします。
私は、会員を辞めますが 将来110万円を贈与する事にします。
やはり、私には産まれながらの温厚篤実の性格が合っているようです。
【1391】[1696]例大祭の閣僚の靖国参拝
高市早苗と山谷えり子が秋の例大祭に便乗して靖国参拝をしました。
特に高市早苗は国家社会主義日本労働者党(日本のネオナチ)党首と写真に写っていて世界からも問題視されています。
また、首相、閣僚の靖国参拝をやめるように文書を提出した一般財団法人全日本仏教会のことを知っているのかといいたいです。
なぜなら、彼女は略称全仏の会員でもあるからです。
ただ単に国会議員になりたいだけのために票欲しさだけのために会員なっているとしか思えません。
靖国参拝までしたことをマスコミに対して堂々とコメントをするなら、全仏の会員であるべきことが節操がないと思います。
会員番号7791
【1390】[1695]魏源 『海国図志』 が幕末日本の思想家を動かした(2回目)
魏源 の『海国図誌』が幕末日本の思想家を動かした-その2
田中進二郎
●幕末の志士・吉田松陰は魏源の『海国図志』を誰よりも早くに読んでいた
前回は、私は、ここに 魏源(ぎげん)や林則徐ら清末知識人が、イギリスを始めとするヨーロッパ列強の侵略に対して、世界情勢の知識を紹介して、清朝の改革を訴えていたことを書いた。
(重たい掲示板 「1678」番 10/5付)
彼らの著述は、清朝の中国人知識人たちよりも、幕末の日本人によってむさぼるように読まれたという。このことは重要なことであった。1843年に、魏源の『海国図志(かいこくずし)』が清国の揚州(南京の近くの都市)で出版されると、その翌年にはもう長崎に貿易船で運ばれてきていた、という。
1850年には、三部が長崎にあったという。しかし幕府は『海国図志』(60巻)の内容に、キリスト教の内容が含まれていることから、禁教であるのために、この本を日本で刊行することを禁じた。こうして、最初に輸入されたものは、幕府が没収するところとなった。
ところが、このうちの一部を平戸藩家老・葉山佐内(はやま さない、1796~1864)が入手したのである。
葉山佐内は陽明学者・佐藤一斎(1822~1859)の門下生で、指折りの逸材といわれた。佐藤一斎の弟子の数は三千人いたといわれた。佐藤一斎は幕府の学問所である昌平黌(しょうへいこう)の教授として昌平黌を統括する立場にいた。幕府は官学として朱子学を学ばせたので、佐藤も表向きは朱子学を標榜(ひょうぼう)した。が、王陽明(おうようめい)の思想を信奉した。だから、『陽朱陰王(ようしゅいんおう)』といわれた。
昼間は幕府の昌平黌(今の東京ののお茶の水の東京医科歯科大のある所)で、朱子学を講じて、「本邦(我が国)は、徳川家のご恩顧で太平の世が続き・・」と教えた。ところが、夜になると、自分の私塾で、顔つきが変わったようになって、目を輝かせて陽明学を教えたのだ。
彼の門下生に、渡辺崋山、安積艮斎(あさか ごんさい 後述)、佐久間象山、横井小楠(よこいしょうなん)らがいる。だから幕末の偉人たちの先生の先生にあたるのが、佐藤一斎である。西郷隆盛も佐藤一斎の主著の『言志四録(げんししろく)』を繰り返し読み、精神を鍛えたといわれている。西南戦争の最後で、鹿児島の城山で死ぬときまで、西郷はこの書を肌身離さず持っていたという。
佐藤一斎の門下生たちは、非常に知識欲が強かった。だから、清(しん)国から最新の漢籍が届くと、その情報はひそかにただちに共有されたのであろう。
葉山佐内は平戸藩の家老職にあって、魏源(ぎげん)をはじめとする漢籍を蔵していた。吉田松陰に、直接か間接にかこの情報はもたらされた、と考えられる。吉田松陰は長州藩の許しを得て、平戸に遊学した。嘉永三年(1850年)8月末のことである。松陰は下関で、同じ長州藩士の伊藤静斎(いとうせいさい)から葉山佐内への紹介状をもらっている。伊藤静斎は長府(ちょうふ)藩(下関の南の支藩)の本陣(宿場町で一番格式のある宿舎)の家柄であった。後に、坂本竜馬も下関滞在では、お龍(りょう)とともにここを常宿としていたという。
吉田松陰はここから船で長崎に行ったあと、平戸まで徒歩で行った。悪路でへとへとになったらしい。9月14日に平戸に到着すると、その日のうちに葉山佐内の屋敷を訪れている。自分の吉田家の家学である山鹿流軍学の宗家・山鹿万介(やまがまんじょう)が平戸にいたが、そこを訪れるのは、一週間もあとになってからだ。
魏源の著作を一刻も早く読みたい、という松陰の思いがここから伝わってくる。
このときの吉田松陰の遊学の記録が『西遊(さいゆう)日記』に記されている。以下引用する。
(引用開始)
(嘉永三年 1850年)
九月十四日
・・・葉山佐内先生宅に至り拝謁し、その命に因って、紙屋という(ところ)に宿す。(王陽明の)『伝習録(でんしゅうろく)』を借りて帰り、その著(あらわ)すところの(葉山が著した)『辺備摘案(へんびてきあん)』を借り、摘案を夜間に謄写(とうしゃ)す。この夜雨ふる。
九月十五日
・・・午後、葉山(邸)に至る。野元弁左衛門(のもとべんざえもん)もまた至る。談話夜に入る。(魏源の)
『聖武記附録(せいぶきふろく)』四冊借りて帰る。
九月十六日
・・・申時(さるのとき、午後2時)、野元(邸)に至る。又葉山(邸)に至り『聖武記附録』を読む。
老師(葉山が)中に記す。「古にならえばすなわち今に通ぜず、雅を択べばすなわち俗にかなわず。」の語に至り、嘆賞(たんしょう)して欄外に標す(書き込みをなさったようだ)。他日の考索(こうさく)に易(やす)からしむ。老師陽明学を好み、深く(佐藤)一斎先生を尊信し、言(げん)(が)一斎のことに及べば、必ずその傍らに在るか(の)如し。実に敦篤謙遜(かくあつけんそん)の君子なり。
-『吉田松陰全集 第七巻「西遊日記」岩波書店刊』p107から引用 ( )内は筆者が加えた。
(引用終わり)
田中進二郎です。このように葉山佐内は、その時わずか19歳(数え年21歳)の吉田松陰を暖かく迎え入れ、かれの学問を大いに支えたのである。吉田松陰は幼少時から、叔父の玉木文之進(たまきぶんのしん)のスパルタ教育を受けて育てられていたから、葉山佐内の人柄に接して、人間的にも成長した部分があった。
吉田松陰は五十日に及ぶ平戸遊学の間に、魏源の『聖武記附録』以外にも、『皇朝経世文編(こうちょうけいせいぶんへん)』(1826年刊 魏源著)を読んだ、と記録している。しかし、『海国図志』を読んだ、とは松陰は『西遊日記』の中に記さなかった。当たり前である。この書物は禁書だったのだから。しかし、葉山佐内は松陰の人物を見込んで、特別に閲覧を許可したであろう。松陰は、葉山に懇願し、葉山は、「それでは、このことは他言をしてはならぬぞ」と言って、『海国図志』を松陰に貸し出した、と考えられる。
この年、幕府の頑迷な鎖国のやり方に公然と反論した蘭学者・高野長英(たかのちょうえい、1804~1850)は、松陰が平戸遊学をした1850年の翌月の10月に、江戸で幕府の捕吏に発見されて捕縛され、殺されている、そういう緊迫した時世だった。
だが、多くの歴史家は、「史料に書かれていることがすべて」と考えるので、このことに踏み込まない。松蔭の『西遊日記』に明記されていないから、この時、『海国図志』を松蔭が読んだことを史実と考えない。それが、今の幕末史の歴史家の多くの姿勢である。
これに対して、陳舜臣(ちん しゅんしん 作家、 ー )は、歴史小説『実録 アヘン戦争』( 刊)も書いた大家だからわかっている。次のように言っている。引用する。
(引用開始)
『海国図志』が出たのは1843年ですが、その翌年にはもう長崎に入ってきています。幕府の老中が『聖武記』と『海国図志』を注文しています。偉い人がいたんですね。(筆者注:阿部正弘=あべまさひろ=のことだと思われる。1843年閏9月に 老中の座に就いている) 個人でも、平戸の家老の葉山佐内という人が注文しています。このことはみんなよく知っているわけです。『海国図志』を平戸の葉山さんが入れたぞ、というので吉田松陰が平戸まで行って読んでいるんですね。
たまたま林則徐(りんそくじょ)という偉い人がいて、その人が非常に強い危機感を持って、自分が左遷される前に一番信頼していた魏源(ぎげん)に、それまで集めた資料を預けた。その人が徹夜を重ねて書いた本が、もちろん中国語で書いたんですが、すぐ翌年に入っている。日本に入ったばかりではない。日本で復刻されるんですね。まあ、海賊版ですが、何軒もの本屋がやってるわけですね。ですから、これをたくさんの人が読んだわけです。間違いがかなりあるわけですけれども、情報に対する熱意は日本では非常に高かった。
引用元:陳舜臣『中国の歴史と情報』-日本記者クラブ第26回通常総会記念講演(1985年5月20日)PDF
http://www.jnpc.or.jp
(引用おわり)
田中進二郎です。付記すると、吉田松陰は安政元年(1854年)の11月以降の日記である、『野山獄(のやまごく)読書日記』に、魏源の『海国図志』を読んでいることを数回、書いている。この年には、幕府の重臣の川路聖○(ごんべんに莫の字、 かわじとしあきら)が、この本を江戸に持ち帰って蘭学者の箕作阮甫(みつくりげんぽ )らに命じて、翻訳と出版を開始させている。松陰が萩の野山獄で入手して読み直したのはこの版であろう。
だが、『野山獄読書日記』は、松陰が中間(ちゅうげん)の金子重輔(かねこじゅうすけ)と伊豆の下田で、アメリカに1854年密航を企てて失敗して、長州藩に犯罪者の籠(かご)で送り返されて、投獄されたときの記録である。
だから野山獄に入れられたあと、松陰が『海国図志』をはじめて読んだとすると、アメリカに決死の覚悟で渡ろうとした、彼の動機がどこからでてきたのか説明しきれない。だからやはり、1850年9月の平戸遊学のときに松蔭はすでに読んでいたと考えるべきだ。
●幕末の陽明学者たちは、開国思想を抱いていた
田中進二郎です。このように、『海国図志』は幕府の禁制をかいくぐって、陽明学者のネットワークの中でひそかに熱烈に読まれていたのである。
松陰はこの平戸遊学の後、長崎に行き、オランダ船に試乗している。ここで肥後(ひご)勤皇党の宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)と出会っている。そしていったん長州の萩に帰ったあと、翌年(1851年)に江戸に出た。4月江戸に到着すると、そのまま安積艮斎(あさか ごんさい 1791~1861)の門をたたいた。安積艮斎が佐藤一斎を師としたことは、最初に書いた。艮斎は、当然、一斎の「陽朱陰王(ようしゅいんおう)」の姿勢も引き継いでいた。
(幕末の儒学者と陽明学者たちについては、副島隆彦先生の『時代を見通す力-歴史に学ぶ知恵』(PHP研究所、2008年刊)を改題した『日本の歴史を貫く柱』(PHP文庫刊、2014年)をごらんください。)
1848年(嘉永元年)には艮斎は漢文で『洋外紀略』(ようがいきりゃく)を著して、世界の地誌、世界史、そして開国して貿易することの利を説いた。アヘン戦争の顛末(てんまつ)についての記述などが、読者に大きな衝撃を与えた。出版はされなかったが、写本がたくさん出回って艮斎の知名度は高かった。彼は、蛮社の獄(1839年)で弾圧された蘭学者たちの集まりである「尚歯会」(しょうしかい)にも加わっていた。彼の門人の川路聖謨(かわじとしあきら)も同じだ。
陽明学者たちは蘭学者たちから西洋の科学や思想を吸収していたのである。もともと陽明学を学んでいる人間たちのネットワークのなかに蘭学がどんどん流入している。彼らは、漢籍(中国文)を読む力があったから、清国から長崎に輸入されてくる書物を読んだ。そして、アヘン戦争後のイギリス、アメリカ、フランス、ロシア、プロシャなどの列強の進出に対して、開国の政策を研究していたのである。これはペリーの黒船来航よりも前のことである。
安積艮斎は1850年に昌平黌(昌平坂学問所)の教授となった。師の佐藤一斎とともに幕府の教育機関のトップで教えつづけた。 今で言えば、東大教授であり東大総長の地位に彼らはいた。ところが、佐藤一斎は、大塩平八郎の乱のとき(1837年)、同じ陽明学者である大塩から「共に立ち上がれ」という檄文(げきぶん)を受け取っている。佐藤一斎は感動した。感動したが、呼応しなかった。後進を育てることをより重視したためだろう。安積艮斎も教育に力を尽くしていた。私塾「見山楼」(けんざんろう)でも教え続けたから掛け持ちで激務だった。
彼は門人たちの長所をとにかく褒(ほ)めた。長所がなければ、その人が持っている筆(ふで)や硯(すずり)をほめた、という。「長所をみつけてそれを伸ばす」という教育方針からは、タイプの違った人間が生まれた。
小栗忠順(おぐりただまさ、江戸幕府最後の勘定奉行 上州権田村=ごんだむら=に所領。赤城山の埋蔵金の話で有名)、川路聖謨(幕府の勘定奉行、外国奉行などを歴任)、清河八郎(きよかわはちろう、新撰組の前身・浪士組を結成した)、岩崎弥太郎(三菱の祖)、高杉晋作・・・など2282名が見山楼の門人帳に名を連ねている。
吉田松陰が江戸に出てすぐに安積艮斎の門をたたいたのは、海外知識も持っている儒学者として艮斎の名前がすでに全国にとどろいていたからだ。松陰が艮載のもとで学んだのはわずか二ヶ月ほどだ。その後は佐久間象山(さくましょうざん)の砲術塾に行き、象山に心酔することになる。象山と松蔭は、1854年に連れ立って下田の黒船を見に行ったのだ。 艮斎の私塾・見山楼の教育方針はのちの「松下村塾」に引き継がれている。
●川路聖謨が『海国図志』の重要性に着目して翻訳・刊行を開始
1854年、幕臣の能吏の川路聖謨(かわじとしあきら)は、ロシアとの日露間の修好通商条約の交渉の幕府の代表として、長崎にいく。交渉の相手はプチャーチンだった。長崎でなければ交渉しないと、回航させられたプチャーチンが持参した、ロシア皇帝からの国書に対する幕府の返書を起草したのは、安積艮斎である。
プチャーチンと川路との会談は、川路の「ぶらくら」(あるいは「ぶらかし」)戦術にもかかわらず、和やかであった。それは川路のもつ人間の大きさにプチャーチンが敬服したから、といわれている。この交渉は、幕府が勝手にアメリカにだけ「最恵国待遇」を与えてしまったため、川路が先にプチャーチンに約束したことが反故(ほご)となって失敗に終わる。
このとき川路は交渉が行われた長崎で、魏源(ぎげん)の『海国図志』を発見する。対露交渉団の一員だった箕作阮甫(みつくりげんぽ、 1779~1863 津山藩士、蘭学者)とともにこの本を読み、その重要性に気づいた。そこでこの『海国図志』を江戸に持ち帰り、塩谷宕陰(しおのやとういん 儒学者)と箕作阮甫に訓点(くんてん)を施させた。それが幕府公認で複刻されるや、『海国図志』は全国の知識人層からむさぼるように読まれた。ここで本当に日本国に火がついたのである(嘉永七年1854年)。
儒学者の塩谷宕陰と蘭学者の箕作阮甫は仲むつまじく、この仕事をしたという。
塩谷がこの複刻版の終わりに次のように書いた。引用する。
(引用開始)
この書、客歳清商(きゃくさいシンしょう)初めて舶載(はくさい)するところなり。左衛門尉(さえもんのい)川路君これを獲、その有用の書なるを謂(い)えり。?かに(すみやか)に翻栞(ほんじ)せんことを命ず。原刻ははなはだ精ならず。すこぶる偽字多し。予をしてこれを校せしむ。その土地、品物の名称はすなわち津山の箕作ヨウ(?)西、洋音を行間に注す。嗚呼 忠智の士(林則徐・魏源)、国を憂い、書を著し、その君の用を為さずして、かえって他邦(日本)にせらる。吾(われ)独り黙深(魏源の別名)の為に悲しまず。而(しこう)して並(ならび)に清主(シンしゅ)の為に文を悲しむ。
( )内は田中が入れました。
引用元;『鎖国時代 日本人の海外知識』(開国百年記念文化事業団 1978年刊 p140から
(引用終わり)
田中進二郎です。このように塩谷宕陰(しおのやとういん)も『海国図志』が、清国でよりも日本において受容されていくであろうことを、清国にとっての悲劇だ、と書いている。「海国図志」はこのあと安政二年(1855年)までに20種類もの翻刻版(ほんこくばん)が出されている。このことは、この本が幕末の日本で武士階級だけでなく町人層や富農層にまで爆発的に読まれたことを物語っている。
私は ↓のサイトも、参考にした。
『幕末日本人の海外知識-海国図志と横井小楠を中心に』
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/51555/49482/1624024
田中進二郎拝
【1389】[1694]思想対立が引き起こした福島原発事故(第5回)
みなさんこんにちは、相田です。
今回は武谷の生涯の盟友ともいえる坂田昌一について触れます。
坂田といえば最初に言うべきことは、物理学者としての能力の高さです。坂田の物理学者としてのスキルは、湯川、朝永と全くの同格でした。ということは坂田は、ノーベル物理学賞を受賞する資質が十分にあったのです。事実、坂田は1960年代初めに自らが「ウルバリオン」等と呼んでいた、クオークに相当する粒子についての論文を提出していれば、かなりの確率でノーベル賞を得ていた筈です。
しかし坂田は、素粒子物理学の画期的な成果を挙げることだけでは飽き足りませんでした。坂田の真の目的は、武谷の提唱した唯物論的弁証法による哲学に従って物理学上の発見を積み重ねることで、マルクス、エンゲルス、レーニンによる思想の正統性を、自らの手で実証することにあったのです。
このように、物理学と哲学の両方の分野で、高い目標を自らに課していた坂田でしたが、その晩年には思いがけない悲劇が訪れます。
+++++++++++++++++++++++++++++++++
思想対立が引き起こした福島原発事故
第1章 素粒子論グループの栄光とその影
1.6 坂田昌一、哲学にこだわり過ぎた巨人の挫折
武谷は文筆家、思想家として名を挙げた反面、素粒子物理学の分野では実は世界レベルの目立った成果を残していない。その一方で盟友の坂田昌一は、本業の方でも大きな成果をあげている。1936年にアンダーソンらによる宇宙線の観察から、湯川の中間子と同じ質量の粒子が発見されたことで湯川グループの研究に大きな注目が集まった。しかし観測された粒子の寿命は、湯川が予言した中間子よりも遥かに長かったことから、湯川理論の修正が要求されていた。
京大の湯川の下を離れて新設の名古屋大学に移った坂田は、後輩の谷川安孝(たにがわやすたか)が出したアイデアを元に、湯川の予言した粒子(π中間子〔パイちゅうかんし〕)が極短時間でニュートリノ(質量を持たない微粒子)を放出して、寿命の長い別の粒子(μ粒子〔ミューりゅうし〕)に変化した後に観測に捉えられるという「2中間子論」を1942年に提唱し、実験結果との矛盾について見事な説明を与えた。また坂田が同時期に発表した「C中間子」の理論は、電磁場の量子化を行う際の「無限大の発散」を一部解決できるアイデアを提供したことから、朝永の「くり込み論」の完成につながる優れたモデルとして評価されている。
京都大学で晩年の湯川に学んだ物理学者の佐藤文隆(さとうふみたか)氏の著書「破られた対称性」(PHPサイエンスワールド、2009年)の中に、坂田の生い立ちについての簡単な説明がある。坂田の父は戦前の愛媛県、香川県知事を務めた高級官史であり、大阪の経済人としても活躍した要人であった。
兵庫県の高級住宅街の自宅から甲南高校に通っていた坂田の先輩に、加藤正(かとうただし)という人物がいた。数か国語をマスターした語学の達人であった加藤は、高校時代からエンゲルスの「自然の弁証法」を翻訳しており、後に岩波文庫から加藤の訳本が出版されたという。坂田は出版前から加藤を通じてその内容を聞かされており、「日本人としても非常に早く自然弁証法になじむことができた」そうである。
その後の京大時代の武谷との交流等を通じて、坂田は武谷を凌ぐ強固な左翼主義に染まって行った。坂田は日頃から共産主義者であることを公言しており、名古屋大学の研究室でのとある親睦会の際には「スターリンに乾杯」と挨拶したという。1963年に中国が自国の科学研究をPRするために開催した「北京シンポジウム」には、坂田は日本代表団の団長として参加し毛沢東とも会見している。
また、坂田や彼の弟子たちが執筆した論文や学会講演の発表の冒頭には、物理とは直接関係しない、弁証論的唯物論に関する哲学的な論考を述べることが多々あった。物理学とは無関係な哲学思考を持ち込む坂田グループのスタイルには、当時から賛否両論の意見があった。海外の研究者達は坂田のグループを「共産主義思想を自然科学に持ち込む異分子たち」とみなすケースもあり、研究成果も無視されて論文引用されないこともあったらしい。
前述したように、坂田はかねてより武谷の三段階論の有効性を信じており、三段階論を用いることで誰もが自然科学の真実を明らかにできると公言していた。武谷自身は自分の主張を素粒子物理学の成果として残すことはできなかったが、坂田による一連の優れた発見が、武谷の主張に強い説得力を持たせていた。終戦直後からしばらくの間の、左翼思想全盛期の日本においては、坂田こそが物理学者としてのあるべき理想像を提示していたともいえる。
しかし物理的な考察よりも哲学に固執する傾向のある坂田は、その生涯の最後に自らの研究の判断を誤ってしまい、尻尾を捕まえていた大魚を逃してしまう羽目となる。それは坂田が「クオーク」モデルの発見に至らず、ノーベル物理学賞を受賞せずに終わってしまったことである。
以下の話は、広島大学出身の素粒子物理学者の小出義夫(こいでよしお)氏が、静岡県立大学出版の「経営と情報」という雑誌に書かれた論考「なぜ坂田学派はクオーク模型にたどりつけなかったのか」(1995年)からの引用である。クオークとは陽子、中性子等の内部に存在するとされる微細粒子であり1964年にM.ゲル・マンというアメリカの物理学者により存在が予言されたものである。しかしゲル・マンの発表に先立つこと9年前に、坂田はクオーク模型に限りなく近いモデルを発表していた。にもかかわらず最後の詰めを誤った坂田とその弟子達は、みすみすゲルマンに栄冠をさらわれることとなる。
1955年に坂田は、素粒子の中でも中性子・陽子・ラムダ粒子(1947年に宇宙線から発見された)の3種を基本粒子とし、他の粒子はこの3つの素粒子とそれらの反粒子で組み立てられるという「坂田模型」を発表した。この考えは坂田の物理学上の最大の成果とされており、「自然はそれ自身の中に無限の階層性を有する」という、坂田の哲学が強く反映されたモデルでもあった。
坂田模型はその発表当初においては、当時知られていた素粒子の挙動を良く説明出来ることから、高い評価を得られた。しかし1960年頃になり、海外での最新の加速器を用いた研究から新たな多くの素粒子が発見されると、坂田模型では説明出来ない現象が多く存在することが明らかになった。
1960年代当時の米国では、このような多数の素粒子の特性を記述するモデルとして、J.チューにより提唱された「ブートストラップ(靴ひも)理論」という考えが、学会の主流を占めていた。チューの理論では「発見された多数の素粒子は、実際はどれも同じで区別することはできない」とし「実験や観測条件の違いにより、素粒子の状態が異なって見えるだけである」とされていた。異なる特性を持つように見える素粒子の間は「靴ひも」で相互に結ばれており、それぞれは平等、対等なのだ、という考えである。
ブートストラップ理論では実験等による素粒子の変化を、量子力学の立役者の一人であるハイゼンベルクの提唱した「S行列」と呼ばれる数学により記述する。チューによると「S行列」を展開して得られる反応前後の粒子状態を知ることが重要であり、反応メカニズムの詳細や素粒子内部の構造を逐一議論することは無意味であると考えられていた。これは、人間が認識できない現象を仮定して議論することは無意味であるとするマッハの考えに近く、坂田の主張する「素粒子の持つ無限の階層性」を真っ向から否定する理論でもあった。
1960年代になると日本の素粒子論グループの中にも、自然科学の中に左翼思想を持ち込む武谷、坂田の考えに辟易して、米国から「S行列」理論を導入して研究を行うグループが、関東の大学に広まっていた。この状況に危機感を抱いた坂田は、坂田模型の提唱後は自らでの研究を行うことを控えて、自分のシンパを全国の大学に広めるための政治的な活動に注力するようになったという。
そうこうする合間に、ブートストラップ理論全盛とみられた米国の研究者の中に、秘かに坂田模型に着目して改良する動きがあることを、坂田とその弟子達は不覚にも見逃していた。
1964年にゲル・マンは坂田模型のような既知の粒子ではなく、今まで知られていないクオーク呼ぶ新たな粒子3個の組み合わせにより、既存の素粒子は構成されるというモデルを発表した。クオークが坂田模型と異なる点は、1個の電子が持つ電荷の1/3、2/3という「分数電荷」を有するという、単純ではあるが革新的な条件を加えたことにある。3個のクオークが結合することで、見かけ上の分数電荷は相殺されて、通常は見えなくなるのである。
しかし1/3の電荷を持つなどという粒子は、それまで実験からも理論からも提唱されたことは無かった。それでもゲル・マンは、アメリカでの最新の原子核実験データに基づき、坂田模型が持つ矛盾を数学的な妥当性から丹念に検証した結果として、これしかないという新たな理論に至った。
ゲル・マンの論文から一月後に、ツヴァイクという学者もまた「エース」と呼ぶクオークと全く同一の理論を纏めた論文を完成させた。しかし素粒子の内部に未知の粒子が存在するという理論は、「S行列」全盛の当時はあまりにも斬新すぎたことから、ツヴァイクの論文は当時の主要な学会誌の全てから掲載を拒否されてしまう。一方でこのような状況を予測していたゲル・マンは、自らの論文を創刊間もない歴史の浅い欧州の論文誌に投稿することで、発表を許されたという。
このような周到な配慮の甲斐もあり、1969年にゲル・マンはクオークモデルとそれ以前の素粒子物理学への貢献を併せて、ノーベル物理学賞を単独で受賞することになる。論文の掲載を拒否されたツヴァイクは、ゲル・マンと全く同じアイデアを持っていたにも係らず受賞無しに終わった。
クオークモデルが発表された直後の日本では、武谷等により、「クオークは坂田模型の一つのバリエーションに過ぎず、独創性に欠ける」という、坂田の優位性を主張するコメントが数多く展開された。また実験でクオークが単独で確認されない(現在でも未確認である)ことから、「クオークの妥当性には未だに疑問がある」とも言われた。
しかし、クオークモデルは坂田模型の抱えていた全ての欠点を解決すると共に、その後の加速器による実験や新たな理論による検証にも耐え抜き、70年代後半になるとその存在について疑う研究者はほとんどいなくなった。それとともに坂田模型は忘れられることとなってしまった。
「クオークと坂田模型の間には本質的な差異などない」という、武谷等の主張にも一理あるとも思えるが、今になると結局は負け犬の遠吠えでしかない。そもそも坂田模型の提案からクオークの発表まで10年近くのインターバルがあった。その間に実験データとの矛盾を埋めるモデルを提案する機会は、坂田達には幾らでもあった。
実際に坂田の弟子達の間では、電荷が1/3の仮想粒子を置くと、数式上では実験結果が上手く説明できるとの認識はあったらしい。しかし、「実体」を重要視する三段階論の思想から、このモデルは単なる数学的な辻褄合わせに過ぎないとされ、「実在する粒子」の組み合わせによる坂田模型を修正するには至らなかったという。また坂田達の師である湯川が、分数電荷を持つ粒子の存在を頑に否定していたことも、論文化が見送られた理由の一つであるらしい。
それでも「正しい方法論を用いるならば、誰もが優れた研究成果を見出すことが出来る」ということが、かねてからの坂田の主張であるならば、湯川が反対したために正しい発見に至らなかったことは、理由にはならないと私は思う。結局は自らの哲学に執着しすぎたことで、「ありのままの」自然を謙虚に観察する姿勢に欠けたことが、坂田グループの敗因に繋がったといえる。
坂田は1970年に59歳の短い生涯を失意の中で終える。しかし、その数年後に坂田の薫陶を受けた、益川、小林のコンビが「CP対称性の破れ」と呼ばれる現象を見出して、2008年のノーベル賞受賞に繋がることになる。坂田自身は栄光に至ることはできなかったが、偉大な物理学者として残したその功績は、後世まで受け継がれるであろう。
(続く)
相田英男 拝
【1388】[1691]メールもスマートフォンもまだまだです
会員番号2947です。須藤様よろしくたのみますこれからも