重たい掲示板
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Loginはこちら【1394】[1700]副島先生ありがとうございます。
↓の(1695 海国図志が幕末日本の思想家を動かした 第2回 )の文に副島先生に手直しを入れていただきました。
難読漢字および人名等にルビを、またいくつか、赤ペン(添削)を入れていただいたので分かりやすくなりました。
副島先生ありがとうございます!
(一度お読みになった方も、「あれっ、なんか印象違うぞ。」と気付かれるでしょう。)
田中進二郎拝
【1393】[1699]市場(マーケット)を権力者、政府が、管理、支配=相場操縦(そうばそうじゅう)することは出来ない。
副島隆彦です。 私の次の金融本、『官製相場(かんせいそうば)の 暴落が始まる ー 相場操縦(そうばそうじゅう)しか脳がない 米、欧、日 経済』(祥伝社 刊) は、10月4日から全国の書店に並びます。都内の書店は1日から入るでしょう。
今度の本の中に載せようと思って、載せなかった一文が有ります。それは、私が、今から17年前に書いた『悪(あく)の経済学』(祥伝社 1998年5月刊) の 中の1節です。 私にとって重要な文なので、以下に転載します。
(転載貼り付け始め)
● 権力者といえども市場を操(あやつ)ることはできない
私が、小室直樹(こむろなおき)先生から教えられたことで、あと重要なのは、
カルヴァンの「神の予定調和(プレデスティネーション)」と「市場(マーケット)」と「疎外(エントフレムデゥング)」は同じものだ、ということを大きく知ったことだ。
これに「構造(ストラクチュア)」という言葉(ターム)を追加してもよい。
ヨーロッパ近代政治思想の基本骨格と土台を為しているこれらの大きな文字(ビッグ・ワード)が全て同じものであり通底(つうてい)していることを小室先生から、ふと教えられた時の驚きは今でも忘れられない。
小室先生はヒントしか与えて下さらなかった。私は「これらは全て同じものですか」と恐る恐る尋ねたら「そうだよ」とボソッと答えてくださった。
この時の私の驚きは神の啓示(レヴェレーション)を受けた時のキリスト教徒に似ている。
なぜ市場を特定の人間が支配(コントロール)してはならないのか。いや、どうせ支配することはできないのか。市場を支配しようとする者たちは必ず市場から復讐される。
「市場( market マーケット)という言葉を経済思想の中心に押し上げたのは、アダム・スミスである。アダム・スミスは、「神の見えざる手 」 invisible hand of God インヴィジブル・ハンド・オブ・ゴッゴ という中核となる言葉で、「生産物は市場(﹅﹅)で、商品となる」ことを証明した。市場を通すことで始めて生産物は商品となる。公正な価格を付けるには、生産物は一度は必ず市場を通らなければならない。
このことは『諸国民の富』(国富論) ‘The Wealth of the Nations, 1776’ 「ザ・ウエルス・オブ・ザ・ネイションズ」 に書かれている。 アダム・スミスは、スコットランドのカルヴァン派である長老派(プレズビテリアン)プロテスタントの神学者である。
この前に、ジャン・カルヴァンが、「神の予定調和」(predestination プレデスティネーション )というキリスト教の本性(ネイチャア)を解明した宗教指導者である。
この「神の予定調和」という思想は、「ある人間が救済されるか否(いな)かは、予(あらかじ)め、神によって決定(プリデスティネート)されている」という思想である。
「神の予定調和」とは、怒った神(ゴッド)が、
「おまえが救済(きゅうさい、サルベイション)されるか否かは、予(あらかじ)め、神である私が決めるのである。すべては私が決める。神を条件(コンデション)づけるな。 神に命令するな。 神を試(ため)すな」
という旧約聖書のヨブ記のなかの言葉によって説明した。
プロテスタント運動が、ローマ・カトリック教会と5〇〇年間闘いつづけて負けなかったのは、カルヴァンがこの“キリスト教の本性”である神の予定調和の思想を『キリスト教神学(しんがく)綱要(こうよう)』 ‘Institutio Christianae Religionis 1536’ 「インスティチュティオ・クリスティアネ・レリジオニス」を書いて以来、堅持したからである。
そして、この「神の予定調和」とは、そのまま、アダム・スミスの説いた「神の見えざる手」である「市場」のことである。
「市場」とは、「個々の人間の主観(しゅかん)や願望などによっては、絶対に動かすことのできないルール、掟(おきて)、法則が有り」、それは「人間の外側にそびえたつもの」のことである。
たとえ、国王や独裁者や世界皇帝によっても変えることのできない、人類社会を貫(つらぬ)く鉄の法則である。米や小麦の値段は、国王が下げろと命じても下がらない。
このアダム・スミスの「市場」と同じものを、ヘーゲル学派から習ってカール・マルクスは、エントフレムデゥング Entfremdung =「疎外」(そがい、外化)と呼んだ。
「疎外」とは、「個々の人間の主観(しゅかん)や意思などによっては動かし得ないもの」という意味である。そして、「人間社会には社会を貫く冷酷な法則性がある」と言うことである。だから、神の予定調和=市場=疎外(外化)なのである。
ところが、カール・マルクスの 初期(26歳のとき)の著作である『経済学・哲学草稿』(1844年)を、偏重(へんちょう)して持ち上げる者たちが後に出て、その一部である日本の左翼知識人たちは「主体性(しゅたいせい)マルクス主義」という後進国特有の理論を作った。
そしてこのマルクスの「疎外(そがい)」を「高度産業社会と資本主義の発達にともなう人間の非人間化」と考え、「外々(よそよそ)しく人間の外側に立つもの」とした。そしてここから の 「本来の人間の主体的な回復」などと考えた。
これを「主体性マルクス主義」という。この理解は、日本のほとんどの左翼知識人だけでなく左翼でない知識人たちまでも今も同様に理解されている。
それでは、この「疎外からの回復」を説く「主体性マルクス主義」は、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)の「主体(チュチェ)思想」とどれほど違うのか、と問うと何も変わらない。「人間の解放」を唱える東アジア型の劣等政治思想である。マルクスの考えた「疎外」というのは、そのようなものではない。
さらに、八〇年代の日本の知識思想界までも席巻したのがフランスの「構造主義(ストラクチュアリズム)」という現代思想である。ユマニスト(人文=じんぶん=学者)のミシェル・フーコーが代表した。
この構造主義の「構造」(structure ストラクチュア)と言うのも、実は、「神の予定調和」と同じものである。各国それぞれの婚姻や家族の規範のように「構造」は、人間たちの意思で変えることのできない、冷酷に社会を貫く法則性のことである。変えることはできないし、かつ変わらない。だから「構造」と言うのだ。
だから「構造改革」というのは奇怪な言葉である。できもしないことをやろうとする愚かな考えだ。「構造改革派」とかつて呼ばれた一九三〇年代のイタリア共産党(反ソビエト派)発祥の日本の改革派の思想だ。
「構造」を「改革」できると思いちがいし、「市場」を自分たちの意思で支配(コントロール)できると考えることは愚かなことである。
今も衰退を続けるアメリカ帝国が、日本にも厳しく命令して 神の予定調和=市場=疎外 への違反である「金融市場の統制(ファイナンシャル・マーケット・コントロール)を押しつけて、やらせている。やがて崩れるだろう。
私はこれらのことを小室先生から教えて頂いたのである。
『悪の経済学』副島隆彦著(祥伝社、1998年刊)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。 現在、日本とニューヨークの株式相場は、激しく500円、500ドルとかで、乱高下を繰り返しています。 この動きを、私は、じっと見つめてながら、今度の本を書きました。
(転載貼り付け始め)
◯「米国株、5日続落 ダウ173ドル安、米景気への不安 一時1万6000ドル下回る」
2014/10/16 日経新聞
10月15日の米株式市場で、ダウ工業株30種平均は5日続落した。前日比173ドル74セント(1.1%)安の1万6141ドル74セントと、4月11日以来およそ半年ぶりの安値で終えた。米景気の先行きへの不透明感から、米株式を売却する動きが加速。
ダウ平均は下げ幅を460ドル超に広げ、1万5855ドル12セントと取引時間中としては約8カ月ぶりに節目である1万6000ドルを下回る場面もあった。
朝方発表された9月の米小売売上高は前月比で0.3%減と市場予想よりも悪化した。ニューヨーク連銀(れんぎん)が公表する景況感指数や9月の卸売物価指数(PPI)などの経済指標も軒並み市場予想を下回った。世界的な景気減速懸念が強まるなか、底堅く推移するとみられる米経済に対しても不安感が強まり、米株式には売りが増えた。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
【1392】[1698]将来 学問道場に110万円を贈与する事にします。
私は、会員を辞めますが 将来110万円を贈与する事にします。
やはり、私には産まれながらの温厚篤実の性格が合っているようです。
【1391】[1696]例大祭の閣僚の靖国参拝
高市早苗と山谷えり子が秋の例大祭に便乗して靖国参拝をしました。
特に高市早苗は国家社会主義日本労働者党(日本のネオナチ)党首と写真に写っていて世界からも問題視されています。
また、首相、閣僚の靖国参拝をやめるように文書を提出した一般財団法人全日本仏教会のことを知っているのかといいたいです。
なぜなら、彼女は略称全仏の会員でもあるからです。
ただ単に国会議員になりたいだけのために票欲しさだけのために会員なっているとしか思えません。
靖国参拝までしたことをマスコミに対して堂々とコメントをするなら、全仏の会員であるべきことが節操がないと思います。
会員番号7791
【1390】[1695]魏源 『海国図志』 が幕末日本の思想家を動かした(2回目)
魏源 の『海国図誌』が幕末日本の思想家を動かした-その2
田中進二郎
●幕末の志士・吉田松陰は魏源の『海国図志』を誰よりも早くに読んでいた
前回は、私は、ここに 魏源(ぎげん)や林則徐ら清末知識人が、イギリスを始めとするヨーロッパ列強の侵略に対して、世界情勢の知識を紹介して、清朝の改革を訴えていたことを書いた。
(重たい掲示板 「1678」番 10/5付)
彼らの著述は、清朝の中国人知識人たちよりも、幕末の日本人によってむさぼるように読まれたという。このことは重要なことであった。1843年に、魏源の『海国図志(かいこくずし)』が清国の揚州(南京の近くの都市)で出版されると、その翌年にはもう長崎に貿易船で運ばれてきていた、という。
1850年には、三部が長崎にあったという。しかし幕府は『海国図志』(60巻)の内容に、キリスト教の内容が含まれていることから、禁教であるのために、この本を日本で刊行することを禁じた。こうして、最初に輸入されたものは、幕府が没収するところとなった。
ところが、このうちの一部を平戸藩家老・葉山佐内(はやま さない、1796~1864)が入手したのである。
葉山佐内は陽明学者・佐藤一斎(1822~1859)の門下生で、指折りの逸材といわれた。佐藤一斎の弟子の数は三千人いたといわれた。佐藤一斎は幕府の学問所である昌平黌(しょうへいこう)の教授として昌平黌を統括する立場にいた。幕府は官学として朱子学を学ばせたので、佐藤も表向きは朱子学を標榜(ひょうぼう)した。が、王陽明(おうようめい)の思想を信奉した。だから、『陽朱陰王(ようしゅいんおう)』といわれた。
昼間は幕府の昌平黌(今の東京ののお茶の水の東京医科歯科大のある所)で、朱子学を講じて、「本邦(我が国)は、徳川家のご恩顧で太平の世が続き・・」と教えた。ところが、夜になると、自分の私塾で、顔つきが変わったようになって、目を輝かせて陽明学を教えたのだ。
彼の門下生に、渡辺崋山、安積艮斎(あさか ごんさい 後述)、佐久間象山、横井小楠(よこいしょうなん)らがいる。だから幕末の偉人たちの先生の先生にあたるのが、佐藤一斎である。西郷隆盛も佐藤一斎の主著の『言志四録(げんししろく)』を繰り返し読み、精神を鍛えたといわれている。西南戦争の最後で、鹿児島の城山で死ぬときまで、西郷はこの書を肌身離さず持っていたという。
佐藤一斎の門下生たちは、非常に知識欲が強かった。だから、清(しん)国から最新の漢籍が届くと、その情報はひそかにただちに共有されたのであろう。
葉山佐内は平戸藩の家老職にあって、魏源(ぎげん)をはじめとする漢籍を蔵していた。吉田松陰に、直接か間接にかこの情報はもたらされた、と考えられる。吉田松陰は長州藩の許しを得て、平戸に遊学した。嘉永三年(1850年)8月末のことである。松陰は下関で、同じ長州藩士の伊藤静斎(いとうせいさい)から葉山佐内への紹介状をもらっている。伊藤静斎は長府(ちょうふ)藩(下関の南の支藩)の本陣(宿場町で一番格式のある宿舎)の家柄であった。後に、坂本竜馬も下関滞在では、お龍(りょう)とともにここを常宿としていたという。
吉田松陰はここから船で長崎に行ったあと、平戸まで徒歩で行った。悪路でへとへとになったらしい。9月14日に平戸に到着すると、その日のうちに葉山佐内の屋敷を訪れている。自分の吉田家の家学である山鹿流軍学の宗家・山鹿万介(やまがまんじょう)が平戸にいたが、そこを訪れるのは、一週間もあとになってからだ。
魏源の著作を一刻も早く読みたい、という松陰の思いがここから伝わってくる。
このときの吉田松陰の遊学の記録が『西遊(さいゆう)日記』に記されている。以下引用する。
(引用開始)
(嘉永三年 1850年)
九月十四日
・・・葉山佐内先生宅に至り拝謁し、その命に因って、紙屋という(ところ)に宿す。(王陽明の)『伝習録(でんしゅうろく)』を借りて帰り、その著(あらわ)すところの(葉山が著した)『辺備摘案(へんびてきあん)』を借り、摘案を夜間に謄写(とうしゃ)す。この夜雨ふる。
九月十五日
・・・午後、葉山(邸)に至る。野元弁左衛門(のもとべんざえもん)もまた至る。談話夜に入る。(魏源の)
『聖武記附録(せいぶきふろく)』四冊借りて帰る。
九月十六日
・・・申時(さるのとき、午後2時)、野元(邸)に至る。又葉山(邸)に至り『聖武記附録』を読む。
老師(葉山が)中に記す。「古にならえばすなわち今に通ぜず、雅を択べばすなわち俗にかなわず。」の語に至り、嘆賞(たんしょう)して欄外に標す(書き込みをなさったようだ)。他日の考索(こうさく)に易(やす)からしむ。老師陽明学を好み、深く(佐藤)一斎先生を尊信し、言(げん)(が)一斎のことに及べば、必ずその傍らに在るか(の)如し。実に敦篤謙遜(かくあつけんそん)の君子なり。
-『吉田松陰全集 第七巻「西遊日記」岩波書店刊』p107から引用 ( )内は筆者が加えた。
(引用終わり)
田中進二郎です。このように葉山佐内は、その時わずか19歳(数え年21歳)の吉田松陰を暖かく迎え入れ、かれの学問を大いに支えたのである。吉田松陰は幼少時から、叔父の玉木文之進(たまきぶんのしん)のスパルタ教育を受けて育てられていたから、葉山佐内の人柄に接して、人間的にも成長した部分があった。
吉田松陰は五十日に及ぶ平戸遊学の間に、魏源の『聖武記附録』以外にも、『皇朝経世文編(こうちょうけいせいぶんへん)』(1826年刊 魏源著)を読んだ、と記録している。しかし、『海国図志』を読んだ、とは松陰は『西遊日記』の中に記さなかった。当たり前である。この書物は禁書だったのだから。しかし、葉山佐内は松陰の人物を見込んで、特別に閲覧を許可したであろう。松陰は、葉山に懇願し、葉山は、「それでは、このことは他言をしてはならぬぞ」と言って、『海国図志』を松陰に貸し出した、と考えられる。
この年、幕府の頑迷な鎖国のやり方に公然と反論した蘭学者・高野長英(たかのちょうえい、1804~1850)は、松陰が平戸遊学をした1850年の翌月の10月に、江戸で幕府の捕吏に発見されて捕縛され、殺されている、そういう緊迫した時世だった。
だが、多くの歴史家は、「史料に書かれていることがすべて」と考えるので、このことに踏み込まない。松蔭の『西遊日記』に明記されていないから、この時、『海国図志』を松蔭が読んだことを史実と考えない。それが、今の幕末史の歴史家の多くの姿勢である。
これに対して、陳舜臣(ちん しゅんしん 作家、 ー )は、歴史小説『実録 アヘン戦争』( 刊)も書いた大家だからわかっている。次のように言っている。引用する。
(引用開始)
『海国図志』が出たのは1843年ですが、その翌年にはもう長崎に入ってきています。幕府の老中が『聖武記』と『海国図志』を注文しています。偉い人がいたんですね。(筆者注:阿部正弘=あべまさひろ=のことだと思われる。1843年閏9月に 老中の座に就いている) 個人でも、平戸の家老の葉山佐内という人が注文しています。このことはみんなよく知っているわけです。『海国図志』を平戸の葉山さんが入れたぞ、というので吉田松陰が平戸まで行って読んでいるんですね。
たまたま林則徐(りんそくじょ)という偉い人がいて、その人が非常に強い危機感を持って、自分が左遷される前に一番信頼していた魏源(ぎげん)に、それまで集めた資料を預けた。その人が徹夜を重ねて書いた本が、もちろん中国語で書いたんですが、すぐ翌年に入っている。日本に入ったばかりではない。日本で復刻されるんですね。まあ、海賊版ですが、何軒もの本屋がやってるわけですね。ですから、これをたくさんの人が読んだわけです。間違いがかなりあるわけですけれども、情報に対する熱意は日本では非常に高かった。
引用元:陳舜臣『中国の歴史と情報』-日本記者クラブ第26回通常総会記念講演(1985年5月20日)PDF
http://www.jnpc.or.jp
(引用おわり)
田中進二郎です。付記すると、吉田松陰は安政元年(1854年)の11月以降の日記である、『野山獄(のやまごく)読書日記』に、魏源の『海国図志』を読んでいることを数回、書いている。この年には、幕府の重臣の川路聖○(ごんべんに莫の字、 かわじとしあきら)が、この本を江戸に持ち帰って蘭学者の箕作阮甫(みつくりげんぽ )らに命じて、翻訳と出版を開始させている。松陰が萩の野山獄で入手して読み直したのはこの版であろう。
だが、『野山獄読書日記』は、松陰が中間(ちゅうげん)の金子重輔(かねこじゅうすけ)と伊豆の下田で、アメリカに1854年密航を企てて失敗して、長州藩に犯罪者の籠(かご)で送り返されて、投獄されたときの記録である。
だから野山獄に入れられたあと、松陰が『海国図志』をはじめて読んだとすると、アメリカに決死の覚悟で渡ろうとした、彼の動機がどこからでてきたのか説明しきれない。だからやはり、1850年9月の平戸遊学のときに松蔭はすでに読んでいたと考えるべきだ。
●幕末の陽明学者たちは、開国思想を抱いていた
田中進二郎です。このように、『海国図志』は幕府の禁制をかいくぐって、陽明学者のネットワークの中でひそかに熱烈に読まれていたのである。
松陰はこの平戸遊学の後、長崎に行き、オランダ船に試乗している。ここで肥後(ひご)勤皇党の宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)と出会っている。そしていったん長州の萩に帰ったあと、翌年(1851年)に江戸に出た。4月江戸に到着すると、そのまま安積艮斎(あさか ごんさい 1791~1861)の門をたたいた。安積艮斎が佐藤一斎を師としたことは、最初に書いた。艮斎は、当然、一斎の「陽朱陰王(ようしゅいんおう)」の姿勢も引き継いでいた。
(幕末の儒学者と陽明学者たちについては、副島隆彦先生の『時代を見通す力-歴史に学ぶ知恵』(PHP研究所、2008年刊)を改題した『日本の歴史を貫く柱』(PHP文庫刊、2014年)をごらんください。)
1848年(嘉永元年)には艮斎は漢文で『洋外紀略』(ようがいきりゃく)を著して、世界の地誌、世界史、そして開国して貿易することの利を説いた。アヘン戦争の顛末(てんまつ)についての記述などが、読者に大きな衝撃を与えた。出版はされなかったが、写本がたくさん出回って艮斎の知名度は高かった。彼は、蛮社の獄(1839年)で弾圧された蘭学者たちの集まりである「尚歯会」(しょうしかい)にも加わっていた。彼の門人の川路聖謨(かわじとしあきら)も同じだ。
陽明学者たちは蘭学者たちから西洋の科学や思想を吸収していたのである。もともと陽明学を学んでいる人間たちのネットワークのなかに蘭学がどんどん流入している。彼らは、漢籍(中国文)を読む力があったから、清国から長崎に輸入されてくる書物を読んだ。そして、アヘン戦争後のイギリス、アメリカ、フランス、ロシア、プロシャなどの列強の進出に対して、開国の政策を研究していたのである。これはペリーの黒船来航よりも前のことである。
安積艮斎は1850年に昌平黌(昌平坂学問所)の教授となった。師の佐藤一斎とともに幕府の教育機関のトップで教えつづけた。 今で言えば、東大教授であり東大総長の地位に彼らはいた。ところが、佐藤一斎は、大塩平八郎の乱のとき(1837年)、同じ陽明学者である大塩から「共に立ち上がれ」という檄文(げきぶん)を受け取っている。佐藤一斎は感動した。感動したが、呼応しなかった。後進を育てることをより重視したためだろう。安積艮斎も教育に力を尽くしていた。私塾「見山楼」(けんざんろう)でも教え続けたから掛け持ちで激務だった。
彼は門人たちの長所をとにかく褒(ほ)めた。長所がなければ、その人が持っている筆(ふで)や硯(すずり)をほめた、という。「長所をみつけてそれを伸ばす」という教育方針からは、タイプの違った人間が生まれた。
小栗忠順(おぐりただまさ、江戸幕府最後の勘定奉行 上州権田村=ごんだむら=に所領。赤城山の埋蔵金の話で有名)、川路聖謨(幕府の勘定奉行、外国奉行などを歴任)、清河八郎(きよかわはちろう、新撰組の前身・浪士組を結成した)、岩崎弥太郎(三菱の祖)、高杉晋作・・・など2282名が見山楼の門人帳に名を連ねている。
吉田松陰が江戸に出てすぐに安積艮斎の門をたたいたのは、海外知識も持っている儒学者として艮斎の名前がすでに全国にとどろいていたからだ。松陰が艮載のもとで学んだのはわずか二ヶ月ほどだ。その後は佐久間象山(さくましょうざん)の砲術塾に行き、象山に心酔することになる。象山と松蔭は、1854年に連れ立って下田の黒船を見に行ったのだ。 艮斎の私塾・見山楼の教育方針はのちの「松下村塾」に引き継がれている。
●川路聖謨が『海国図志』の重要性に着目して翻訳・刊行を開始
1854年、幕臣の能吏の川路聖謨(かわじとしあきら)は、ロシアとの日露間の修好通商条約の交渉の幕府の代表として、長崎にいく。交渉の相手はプチャーチンだった。長崎でなければ交渉しないと、回航させられたプチャーチンが持参した、ロシア皇帝からの国書に対する幕府の返書を起草したのは、安積艮斎である。
プチャーチンと川路との会談は、川路の「ぶらくら」(あるいは「ぶらかし」)戦術にもかかわらず、和やかであった。それは川路のもつ人間の大きさにプチャーチンが敬服したから、といわれている。この交渉は、幕府が勝手にアメリカにだけ「最恵国待遇」を与えてしまったため、川路が先にプチャーチンに約束したことが反故(ほご)となって失敗に終わる。
このとき川路は交渉が行われた長崎で、魏源(ぎげん)の『海国図志』を発見する。対露交渉団の一員だった箕作阮甫(みつくりげんぽ、 1779~1863 津山藩士、蘭学者)とともにこの本を読み、その重要性に気づいた。そこでこの『海国図志』を江戸に持ち帰り、塩谷宕陰(しおのやとういん 儒学者)と箕作阮甫に訓点(くんてん)を施させた。それが幕府公認で複刻されるや、『海国図志』は全国の知識人層からむさぼるように読まれた。ここで本当に日本国に火がついたのである(嘉永七年1854年)。
儒学者の塩谷宕陰と蘭学者の箕作阮甫は仲むつまじく、この仕事をしたという。
塩谷がこの複刻版の終わりに次のように書いた。引用する。
(引用開始)
この書、客歳清商(きゃくさいシンしょう)初めて舶載(はくさい)するところなり。左衛門尉(さえもんのい)川路君これを獲、その有用の書なるを謂(い)えり。?かに(すみやか)に翻栞(ほんじ)せんことを命ず。原刻ははなはだ精ならず。すこぶる偽字多し。予をしてこれを校せしむ。その土地、品物の名称はすなわち津山の箕作ヨウ(?)西、洋音を行間に注す。嗚呼 忠智の士(林則徐・魏源)、国を憂い、書を著し、その君の用を為さずして、かえって他邦(日本)にせらる。吾(われ)独り黙深(魏源の別名)の為に悲しまず。而(しこう)して並(ならび)に清主(シンしゅ)の為に文を悲しむ。
( )内は田中が入れました。
引用元;『鎖国時代 日本人の海外知識』(開国百年記念文化事業団 1978年刊 p140から
(引用終わり)
田中進二郎です。このように塩谷宕陰(しおのやとういん)も『海国図志』が、清国でよりも日本において受容されていくであろうことを、清国にとっての悲劇だ、と書いている。「海国図志」はこのあと安政二年(1855年)までに20種類もの翻刻版(ほんこくばん)が出されている。このことは、この本が幕末の日本で武士階級だけでなく町人層や富農層にまで爆発的に読まれたことを物語っている。
私は ↓のサイトも、参考にした。
『幕末日本人の海外知識-海国図志と横井小楠を中心に』
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/51555/49482/1624024
田中進二郎拝
【1389】[1694]思想対立が引き起こした福島原発事故(第5回)
みなさんこんにちは、相田です。
今回は武谷の生涯の盟友ともいえる坂田昌一について触れます。
坂田といえば最初に言うべきことは、物理学者としての能力の高さです。坂田の物理学者としてのスキルは、湯川、朝永と全くの同格でした。ということは坂田は、ノーベル物理学賞を受賞する資質が十分にあったのです。事実、坂田は1960年代初めに自らが「ウルバリオン」等と呼んでいた、クオークに相当する粒子についての論文を提出していれば、かなりの確率でノーベル賞を得ていた筈です。
しかし坂田は、素粒子物理学の画期的な成果を挙げることだけでは飽き足りませんでした。坂田の真の目的は、武谷の提唱した唯物論的弁証法による哲学に従って物理学上の発見を積み重ねることで、マルクス、エンゲルス、レーニンによる思想の正統性を、自らの手で実証することにあったのです。
このように、物理学と哲学の両方の分野で、高い目標を自らに課していた坂田でしたが、その晩年には思いがけない悲劇が訪れます。
+++++++++++++++++++++++++++++++++
思想対立が引き起こした福島原発事故
第1章 素粒子論グループの栄光とその影
1.6 坂田昌一、哲学にこだわり過ぎた巨人の挫折
武谷は文筆家、思想家として名を挙げた反面、素粒子物理学の分野では実は世界レベルの目立った成果を残していない。その一方で盟友の坂田昌一は、本業の方でも大きな成果をあげている。1936年にアンダーソンらによる宇宙線の観察から、湯川の中間子と同じ質量の粒子が発見されたことで湯川グループの研究に大きな注目が集まった。しかし観測された粒子の寿命は、湯川が予言した中間子よりも遥かに長かったことから、湯川理論の修正が要求されていた。
京大の湯川の下を離れて新設の名古屋大学に移った坂田は、後輩の谷川安孝(たにがわやすたか)が出したアイデアを元に、湯川の予言した粒子(π中間子〔パイちゅうかんし〕)が極短時間でニュートリノ(質量を持たない微粒子)を放出して、寿命の長い別の粒子(μ粒子〔ミューりゅうし〕)に変化した後に観測に捉えられるという「2中間子論」を1942年に提唱し、実験結果との矛盾について見事な説明を与えた。また坂田が同時期に発表した「C中間子」の理論は、電磁場の量子化を行う際の「無限大の発散」を一部解決できるアイデアを提供したことから、朝永の「くり込み論」の完成につながる優れたモデルとして評価されている。
京都大学で晩年の湯川に学んだ物理学者の佐藤文隆(さとうふみたか)氏の著書「破られた対称性」(PHPサイエンスワールド、2009年)の中に、坂田の生い立ちについての簡単な説明がある。坂田の父は戦前の愛媛県、香川県知事を務めた高級官史であり、大阪の経済人としても活躍した要人であった。
兵庫県の高級住宅街の自宅から甲南高校に通っていた坂田の先輩に、加藤正(かとうただし)という人物がいた。数か国語をマスターした語学の達人であった加藤は、高校時代からエンゲルスの「自然の弁証法」を翻訳しており、後に岩波文庫から加藤の訳本が出版されたという。坂田は出版前から加藤を通じてその内容を聞かされており、「日本人としても非常に早く自然弁証法になじむことができた」そうである。
その後の京大時代の武谷との交流等を通じて、坂田は武谷を凌ぐ強固な左翼主義に染まって行った。坂田は日頃から共産主義者であることを公言しており、名古屋大学の研究室でのとある親睦会の際には「スターリンに乾杯」と挨拶したという。1963年に中国が自国の科学研究をPRするために開催した「北京シンポジウム」には、坂田は日本代表団の団長として参加し毛沢東とも会見している。
また、坂田や彼の弟子たちが執筆した論文や学会講演の発表の冒頭には、物理とは直接関係しない、弁証論的唯物論に関する哲学的な論考を述べることが多々あった。物理学とは無関係な哲学思考を持ち込む坂田グループのスタイルには、当時から賛否両論の意見があった。海外の研究者達は坂田のグループを「共産主義思想を自然科学に持ち込む異分子たち」とみなすケースもあり、研究成果も無視されて論文引用されないこともあったらしい。
前述したように、坂田はかねてより武谷の三段階論の有効性を信じており、三段階論を用いることで誰もが自然科学の真実を明らかにできると公言していた。武谷自身は自分の主張を素粒子物理学の成果として残すことはできなかったが、坂田による一連の優れた発見が、武谷の主張に強い説得力を持たせていた。終戦直後からしばらくの間の、左翼思想全盛期の日本においては、坂田こそが物理学者としてのあるべき理想像を提示していたともいえる。
しかし物理的な考察よりも哲学に固執する傾向のある坂田は、その生涯の最後に自らの研究の判断を誤ってしまい、尻尾を捕まえていた大魚を逃してしまう羽目となる。それは坂田が「クオーク」モデルの発見に至らず、ノーベル物理学賞を受賞せずに終わってしまったことである。
以下の話は、広島大学出身の素粒子物理学者の小出義夫(こいでよしお)氏が、静岡県立大学出版の「経営と情報」という雑誌に書かれた論考「なぜ坂田学派はクオーク模型にたどりつけなかったのか」(1995年)からの引用である。クオークとは陽子、中性子等の内部に存在するとされる微細粒子であり1964年にM.ゲル・マンというアメリカの物理学者により存在が予言されたものである。しかしゲル・マンの発表に先立つこと9年前に、坂田はクオーク模型に限りなく近いモデルを発表していた。にもかかわらず最後の詰めを誤った坂田とその弟子達は、みすみすゲルマンに栄冠をさらわれることとなる。
1955年に坂田は、素粒子の中でも中性子・陽子・ラムダ粒子(1947年に宇宙線から発見された)の3種を基本粒子とし、他の粒子はこの3つの素粒子とそれらの反粒子で組み立てられるという「坂田模型」を発表した。この考えは坂田の物理学上の最大の成果とされており、「自然はそれ自身の中に無限の階層性を有する」という、坂田の哲学が強く反映されたモデルでもあった。
坂田模型はその発表当初においては、当時知られていた素粒子の挙動を良く説明出来ることから、高い評価を得られた。しかし1960年頃になり、海外での最新の加速器を用いた研究から新たな多くの素粒子が発見されると、坂田模型では説明出来ない現象が多く存在することが明らかになった。
1960年代当時の米国では、このような多数の素粒子の特性を記述するモデルとして、J.チューにより提唱された「ブートストラップ(靴ひも)理論」という考えが、学会の主流を占めていた。チューの理論では「発見された多数の素粒子は、実際はどれも同じで区別することはできない」とし「実験や観測条件の違いにより、素粒子の状態が異なって見えるだけである」とされていた。異なる特性を持つように見える素粒子の間は「靴ひも」で相互に結ばれており、それぞれは平等、対等なのだ、という考えである。
ブートストラップ理論では実験等による素粒子の変化を、量子力学の立役者の一人であるハイゼンベルクの提唱した「S行列」と呼ばれる数学により記述する。チューによると「S行列」を展開して得られる反応前後の粒子状態を知ることが重要であり、反応メカニズムの詳細や素粒子内部の構造を逐一議論することは無意味であると考えられていた。これは、人間が認識できない現象を仮定して議論することは無意味であるとするマッハの考えに近く、坂田の主張する「素粒子の持つ無限の階層性」を真っ向から否定する理論でもあった。
1960年代になると日本の素粒子論グループの中にも、自然科学の中に左翼思想を持ち込む武谷、坂田の考えに辟易して、米国から「S行列」理論を導入して研究を行うグループが、関東の大学に広まっていた。この状況に危機感を抱いた坂田は、坂田模型の提唱後は自らでの研究を行うことを控えて、自分のシンパを全国の大学に広めるための政治的な活動に注力するようになったという。
そうこうする合間に、ブートストラップ理論全盛とみられた米国の研究者の中に、秘かに坂田模型に着目して改良する動きがあることを、坂田とその弟子達は不覚にも見逃していた。
1964年にゲル・マンは坂田模型のような既知の粒子ではなく、今まで知られていないクオーク呼ぶ新たな粒子3個の組み合わせにより、既存の素粒子は構成されるというモデルを発表した。クオークが坂田模型と異なる点は、1個の電子が持つ電荷の1/3、2/3という「分数電荷」を有するという、単純ではあるが革新的な条件を加えたことにある。3個のクオークが結合することで、見かけ上の分数電荷は相殺されて、通常は見えなくなるのである。
しかし1/3の電荷を持つなどという粒子は、それまで実験からも理論からも提唱されたことは無かった。それでもゲル・マンは、アメリカでの最新の原子核実験データに基づき、坂田模型が持つ矛盾を数学的な妥当性から丹念に検証した結果として、これしかないという新たな理論に至った。
ゲル・マンの論文から一月後に、ツヴァイクという学者もまた「エース」と呼ぶクオークと全く同一の理論を纏めた論文を完成させた。しかし素粒子の内部に未知の粒子が存在するという理論は、「S行列」全盛の当時はあまりにも斬新すぎたことから、ツヴァイクの論文は当時の主要な学会誌の全てから掲載を拒否されてしまう。一方でこのような状況を予測していたゲル・マンは、自らの論文を創刊間もない歴史の浅い欧州の論文誌に投稿することで、発表を許されたという。
このような周到な配慮の甲斐もあり、1969年にゲル・マンはクオークモデルとそれ以前の素粒子物理学への貢献を併せて、ノーベル物理学賞を単独で受賞することになる。論文の掲載を拒否されたツヴァイクは、ゲル・マンと全く同じアイデアを持っていたにも係らず受賞無しに終わった。
クオークモデルが発表された直後の日本では、武谷等により、「クオークは坂田模型の一つのバリエーションに過ぎず、独創性に欠ける」という、坂田の優位性を主張するコメントが数多く展開された。また実験でクオークが単独で確認されない(現在でも未確認である)ことから、「クオークの妥当性には未だに疑問がある」とも言われた。
しかし、クオークモデルは坂田模型の抱えていた全ての欠点を解決すると共に、その後の加速器による実験や新たな理論による検証にも耐え抜き、70年代後半になるとその存在について疑う研究者はほとんどいなくなった。それとともに坂田模型は忘れられることとなってしまった。
「クオークと坂田模型の間には本質的な差異などない」という、武谷等の主張にも一理あるとも思えるが、今になると結局は負け犬の遠吠えでしかない。そもそも坂田模型の提案からクオークの発表まで10年近くのインターバルがあった。その間に実験データとの矛盾を埋めるモデルを提案する機会は、坂田達には幾らでもあった。
実際に坂田の弟子達の間では、電荷が1/3の仮想粒子を置くと、数式上では実験結果が上手く説明できるとの認識はあったらしい。しかし、「実体」を重要視する三段階論の思想から、このモデルは単なる数学的な辻褄合わせに過ぎないとされ、「実在する粒子」の組み合わせによる坂田模型を修正するには至らなかったという。また坂田達の師である湯川が、分数電荷を持つ粒子の存在を頑に否定していたことも、論文化が見送られた理由の一つであるらしい。
それでも「正しい方法論を用いるならば、誰もが優れた研究成果を見出すことが出来る」ということが、かねてからの坂田の主張であるならば、湯川が反対したために正しい発見に至らなかったことは、理由にはならないと私は思う。結局は自らの哲学に執着しすぎたことで、「ありのままの」自然を謙虚に観察する姿勢に欠けたことが、坂田グループの敗因に繋がったといえる。
坂田は1970年に59歳の短い生涯を失意の中で終える。しかし、その数年後に坂田の薫陶を受けた、益川、小林のコンビが「CP対称性の破れ」と呼ばれる現象を見出して、2008年のノーベル賞受賞に繋がることになる。坂田自身は栄光に至ることはできなかったが、偉大な物理学者として残したその功績は、後世まで受け継がれるであろう。
(続く)
相田英男 拝
【1388】[1691]メールもスマートフォンもまだまだです
会員番号2947です。須藤様よろしくたのみますこれからも
【1387】[1690]私の次に出る本のこと。および、去年のシリアでのサリン・ガス撒(ま)きの事件の真実
副島隆彦です。 今日は、2014年10月13日です。
( あ、今、投稿しよと思ったら、もう 14日になっていました。)
台風が大阪に上陸して、中部地方に向かって移動しています。これが明日、過ぎ去れば日本全国、きれいな秋晴れになるでしょう。
私は、先おとといの10月10日に、自分の秋の恒例の金融本を書き上げてホッとしているところです。 書名は、『 官製相場(かんせいそうば)の暴落が始まる 』(祥伝社=しょうでんしゃ=刊)で、11月の初めには書店に並びます。 私は、この金融・経済 本を書くことで、生活費を稼ぎだしています。出版社の編集長に断(ことわ)りなしに、さっさと書名とかの公表をしていいのか、分かりません。が、まあ大丈夫でしょう。
青色LED(エル・イー・ディー 発光ダイオード)の発見と発明で、先日、ノーベル賞を受賞した 中村修二(なかむらしゅうじ)氏 が、受賞の挨拶で、英語で、相当に厳しい日本批判、すなわち、日本国の理科系の技術者、学者たちへのものすごい劣悪な研究環境を大企業群と 政府が強制していることへの、強い抗議を込めた発言をしているらしい。私は、すぐにそれらを入手して、この学問道場にも転載します。
中村修二の生き方を、私は、尊敬しているので、20年前から、私は、新聞記事とかを追いかけています。中村修二博士についてのは、私たちの学問道場に、彼の研究業績について、紹介、評論した文が有ります。それを、もう一度、皆さんに読んでもらうと思います。
私は、今度の自分の金融本でもたくさんの事を書きました。いちいち、ここで紹介できません。ただひとつ、以下に載せる新聞記事で、分かることですが、 「アメリカ(あるいは北米=ほくべい=)でこの3年間、大騒ぎで開発されてきた、シェール・ガス、シェール・オイルが、案の定、大失敗で、そもそもインチキであることが、満天下に露見しつつある、ということだけ、今度の本にもしっかり書いた、とお伝えします。
(転載貼り付け始め)
●「 住友商事:損失2400億円、来年3月期計上 米のシェールオイル失敗」
2014年9月30日 毎日新聞
http://mainichi.jp/shimen/news/20140930ddm002020183000c.html
住友商事は9月29日、米国でシェールオイルと呼ばれる新型原油開発事業などで失敗し、2015年3月期に計2400億円の損失を計上する見通しと なったと発表した。これに伴い連結最終(当期)利益を従来予想の500億円から(引用者注。たったの)100億円 に下方修正した。
子会社を通じ、米開発会社と共同で12年から手掛けている米テキサス州での原油事業で、回収量が想定を下回る見込みとなった。従来は採掘が難しかった地層から、石油やガスを採掘する事業だが、当初の見込みより地層が複雑で、効率的に採取できないことが分かった。
開発エリアの一部を残して 撤退し、リース権や井戸などの関連施設を売却するが、約1700億円の損失が生じる見込みだ。
また、鉄鉱石や石炭の価格下落により、ブラジルの鉄鉱石事業で約500億円、豪州の石炭事業で約300億円、米タイヤ小売り事業で約200億円 の損失を計上。さらに権益を持つ豪クイーンズランド州の炭鉱を15年1月に休山する。
住商は社内に特別委員会を設置し、投資判断や今後の資源事業のあり方などを検証する。中村邦晴社長は29日記者会見し「体質の再強化を行い信頼 回復に努める」と述べた。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。この記事にあるとおり、住友商事は、アメリカのテキサス州でのシェール・オイルの油田の掘削に失敗して、1700億円の損失を、さっさと今期の決算に計上した。
他の日本の大手の商社や資源開発会社が、北米でのシェール・ガスやシェール・オイルの開発失敗で、大損をしてどんどん撤退を開始している。 ただし、このニューズは、まだ日本国内では、ほとんど明らかになっていない。
あれほど、「アメリカはシェール・ガスで、自力でエネルギーを確保できるから、アメリカ経済は立ち直り、アメリカの繁栄は続く」と鳴り物入りで、騒いだのに、この始末だ。日本の大手の商社たちまでが、またしても騙されたのだ。
私、副島隆彦は、日本ではたったひとりだけ、自分の本で、シェールガスの騙(だま)しに着いて書いて警告を発してきた。
例えば、私が昨年(2013年)の11月に出した、『 帝国の逆襲 金(きん)とドル最後の戦い』(祥伝社 刊)で、
「シェールガス革命はインチキだ。水を汚すのだ」 「アメリカはシェール ガスでエネルギー(燃料代)の自立ができるから大きく復活する、というの はウソである。あと一年したら世界中にバレるだろう。まあ待っていなさ い。ドイツはビール用の水を汚す、と中止したのだ。6章で説明する」と、 まえがき のあとの 9ページ目で書いた。
“ Don’t Frack California . “ 「カリフォルニア州をフラック鉱 法で台無しにするな」の抗議の集会の様子の写真も載せた。
今、アメリカで、どんどんシェールガス、オイルのウソがバレつつある。さあ、日本国内で、公然とこの事が騒がれるまで、あとどれぐらい掛かるか。「このことで、絶対にメディアで騒がせるな」 という言論統制をやってい る連中の顔が、私、副島隆彦に見える。
以上で、今日のお知らせを終わりにしようと思ったのですが、どうしても書いておきたいことがあったので、以下に、長々と、新聞記事をたくさん転載します。
それは、昨年の2013年の4月に、シリアの首都ダマスカスの近くで、サリン兵器が撒かれた。それで1300人とかの現地のシリア人が死んだ。
その犯人は、シリア政府(バシャールアサド政権)だ、とされた。しかし、真実は、そうではなかった。 このサリンガス兵器を撒(ま)いた犯人は、シリアの反政府勢力の方だった。その背後には、イスラエルと、サウジアラビア(バンダル王子というサウジの内務省警察のトップ。サウジの謀略人間の親玉。最近、辞任して後ろに引っ込んだ )がいる。
なんとか、オバマ政権を騙して、シリア政府(バシャール・アサド政権)に対する、アメリカ軍の爆撃と軍事侵攻をさせようと画策した。
しかし、バラク・オバマ本人は、真実の報告を受けて、 シリア政府への軍事攻撃をしないことを、 2013年9月 に最終判断した。 正しい判断だった。
この4月のサリン撒き のあと、さらに続けて、8月21日にも、The U.N.( 連合諸国 、×「国連」の調査団が入っていた、その最中(さなか)に、2回目の、今度は、サリン砲弾(ほうだん)を炸裂させる形で、サリンガスを撒いた。
ネット上に動画で、子供たちがたくさん苦しんで死んてゆく姿が写った。今もこの映像はたくさん残っている。これも、オバマ政権にシリア攻撃をさせるためのマニューバー(謀略)での 足掻(あが)きだった。 オバマは、真実を知ったので、騙されなかった。
以下の記事にあるとおり、 国連人権委員会のカーラ・デルポンテ調査官(Carla Del Ponte) という女性が、すばらしい。 彼女は、オランダのハーグの国際刑事(けいじ)裁判所の 検察官だ。同じハーグにある国際司法(しほう)裁判所とは別である。国際紛争での戦争犯罪(ウォー・クライム)を調べるための国際機関である。
カーラは、そこの高等検察官である。 私は、彼女の仕事と生活を描いた 映画 を すでに3年前に見ている。その映画も入っている評論本を近く出版する。カーラは すばらしい女性だ。
私は、カーラ・デルポンテ検察官がこの世の真実を守ろうとする 生き方に最大限の敬意を表し、彼女の無事を祈る。
私は、今年の7月17日の ウクライナ上空での、マレーシア機MH17便の撃墜(げきつい、airplane crash by a shoot down )の真実も、ここの重たい掲示板に、ずっと書いた。 あれは親ロシア勢力(Pro-Russian separatists プロウ・ラッシアン・セパレイティスト)による 地上からの「ブーク」地対空ミサイルに因(よ)るものではなくて、ウクライナ政府軍のミグ25戦闘機2機によるマレーシア機の正面操縦席に向かっての、機関胞(きかんほう。cannon )に因るものだ、と 多くの証拠、証明の声明文とかを付けて書いた。
西側諸国の政府(アメリカと、イギリス、フランスなど)は、この事件の真実も、闇に葬った。 私は、こういう穢(きたな)い政治謀略を、西側諸国の正統(レジティメット)の政府たちが、やるとこが、不愉快でならない。
今でも、シリアで、サリンガスを撒(ま)いたのは、アサド政権のシリア政府だ、と信じている人々が、世界中のほとんどだ。日本人は、遠いところでの戦争の一コマであるから、あまり関心を持たない。 皆、自分の目先の生活のことで、手一杯だ。
私、副島隆彦は、日本に生まれた、世界基準の知識人だから、そういうわけには行かない。
私だって、普通の日本国民としての生活の苦労がある。が、私の頭は、常に、世界を向いていて、それとの関連における日本の運命を、じっと考える。
このシリアの内戦(ないせん)の最中(さなか)に於(お)ける昨年の2回のサリン・ガス兵器でのシリア民衆への殺傷事件の責任追及は、きっと、今も、カーラ・デルポンテ女史とそのまわりの、世界の正義を守ろうとする人々によって、続けられているだろう。
私が、このシリアでの昨年(2013年)の4月と8月のサリン・ガス事件を、ずっと気にしているのは、不思議なことに、日本でだけ、今も販売されている「週刊ニューズウイーク誌の日本語版」だけが、公然と、大きな真実を書いたことだ。不思議な気がする。
私が、長年、“ Weekly CIA ” 「ウイークリー・CIA」、「週刊CIA」と呼んできた、実際、多くのCIAのエイジェント(アメリカ国家スパイたち)が、ジャーナリスト、雑誌記者のフリをして、動いている(全部とはいないが、半分以上がそうだ)ニューズ報道誌が、稀有(けう)なことに、本当のこと(=真実)を報じたのだ。
この事実には、私、副島隆彦は驚いた。そのことが、気になっていたので、このシリアのサリンガス(謀略)事件 についての関連の記事を、以下に全て並べて、載せておく。
副島隆彦だけは、世界の出来事の真実を、日本国内に、書いて残してゆくための、重要な頭脳である。私が斃(たお)れたら、そのあとを継ぐ若い日本人知識人たちが、私を手本にして、私のやり方から学んで、私に倣(なら)って続けてほしい。
それでは、この「2013年のシリア・サリン・ガス事件」の 全体像を、新聞記事の集合体、集積体(しゅうせきたい)を使って証明してゆきます。
(転載貼り付け始め)
◯「 化学兵器使用「強力な証拠」=シリアのアサド政権がサリン 」
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201305/2013051100059&g=int
2013年5月11日 ワシントン、時事通信
ケリー米国務長官は10日、シリアの アサド政権が化学兵器の サリン を 使用した「強力な証拠がある」と述べた。インターネットを使用した一般市民らとのやりとり の場で発言した。オバマ政権は化学兵器の使用が確認された場合、 …
◯「アサド政権が「サリン使用」 イスラエル軍情報部幹部」 http://sankei.jp.msn.com/world/news/130423/mds13042322100002-n1.htm
2013年4月23日 – MSN産経ニュース
イスラエル軍情報部の幹部は23日、安全保障に関する会合で、内戦が続くシリアの アサド 政権側が反体制派に対し「化学物質を使用した。恐らく サリン だ」と述べた。詳細 は不…
◯ 「米、裏付けに期限設けず シリア・アサド政権のサリン使用疑惑 」 -
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130430/crm13043007350001-n1.htm
2013年4月30日 ワシントン 共同通信
カーニー米大統領報道官は26日の記者会見で、シリアの アサド 政権側が化学兵器の サリン を使用した可能性があることについて、その裏付け作業には 期限を設定せず…
◯「 サリンを使ったのはアサドか反体制派か 」
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2013/05/post-2917.php
2013年5月7日 ニューズウィーク日本語版
・・・だが、 アサド 政権の暴走だと決めつけるのは早計だ。 シリア問題に関する国連調査委員会のカルラ・デル・ポンテ調査官は5月5日、 サリン を使用したのは反体制 派だった可能性が高いことを、スイスのラジオ局のインタビューで明かし た。・・・
◯ 「米パネッタ国防長官「重大な結果をもたらす」 アサド政権が
http://unkar.org/r/liveplus/1354879007
パネッタ国防長官「重大な結果をもたらす」 アサド 政権が サリン 使用なら武力行使も視野に入れる。・・・
◯「 仏政府「アサド政権がサリンを使用」 」
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130605/k10015078091000.html
フランス政府は、内戦が続くシリアで採取されたサンプルを分析した結果、 アサド 政権が国際法で禁止されている化学兵器の サリン を使用したことは明らかだと結論づけ、・・・
◯「 サリンを使ったのはアサドか反体制派か 」
Syrian Rebels Used Sarin Gas
(副島隆彦注記。 バカ。この英文タイトル自身が、見出しで、
Syrian Rebels Used Sarin Gas 「 シリアの反体制派が、サリンガスを使った」と はっきり書いているじゃないか。 なんで、お前たちは、CIAの手先だからと言って、こんなわざとらしい誤訳を、わざとやるのだ。
ニューズウイーク誌日本語版は、かわいそうな人たちだ。きっと、「見出し付けは、編集長が勝手にやるんだよ」 と、 現場の 日本人編集者と記者たちは、言い訳するだろう。 それぐらいは、私、副島隆彦だって分かる。 副島隆彦注記終わり)
2013年5月7日(火) ニューズウイーク誌 日本版
シリア内戦で猛毒ガスを使用したののはアサド政権ではなかった可能性が浮上
アサド政権と反体制派の攻防が続くシリア内戦で、政府軍が反政府軍に対して猛毒ガスのサリンを使用した疑いがある──。イギリスやフランス、イスラエル、アメ リカは先月、相次いでそう警告した。
だが、アサド政権の暴走だと決めつけるのは早計だ。シリア問題に関する国連調査委員会のカルラ・デル・ポンテ調査官 は 5月5日、サリンを使用したのは反体制派だった可能性が高いことを、スイスのラジオ局のインタビューで明かした。
「さらに調査を続け、検証・確認を重ねる必要があるが、現時点で得た情報によれば、サリンガスを使用したのは反体制派だ」
反体制派への武器供与を検討している米政府は、デル・ポンテの発言について「非常に疑わしい」と反論し、アサド政権によるサリン使用の可能性を示唆。デル・ポンテも調査は始まったばかりで、今後アサド政権側のサリン使用を示す証拠が見つかる可能性もあるとも指摘している。調査委員会は6月に、国連人権委員会に報告書を提出する予定だ。
サリンは1930年代にナチスによって開発された、強い殺傷能力をもつ神経ガス。 無色無臭の液体で、吸い込んだり肌に触れれば、ごく微量でも死に至る恐れがある。イラクのフセイン政権は88年、イラク北部のクルド人地区ハラブジャをサリンなどの毒 ガスで攻撃し、5000人を殺害した。日本でも94?95年にオウム真理教によるサリンテロ事件が発生した。
オバマ政権は、シリア政府による化学兵器の使用が確認されれば、軍事介入に踏み切る可能性もあると示唆してきた。サリンを使用したのは誰か。その答えによって、シリアの運命は大きく変わる。
(副島隆彦注記。 以下の記事を載せた、International Business Times というサイトは正しい。優れている。 )
◯「 シリアで化学兵器サリンを使用か 人体への影響は? 内戦の続くシリアの反政 府勢力がサリンを使用しているという情報を、国連が調査している 」
2013年5月8日 International Business Times
記者: ROXANNE PALMER 翻訳者: 加藤仁美
フランス通信(AFP)によると、国連人権理事会が設置したシリア問題を担当する国連人権委員会のカーラ・デルポンテ調査官(Carla Del Ponte)は5日、「シリア反体制派武装勢力がアサド政権側 との戦闘で化学兵器のサリンを使用した可能性が高い」とスイスのラジオ局のインタビューで語った。
2012年以降、化学兵器の使用がシリアで疑われてきた。米諜報機関は、これまでアサド大統領側の部隊による化学兵器使用を指摘してきた。
一方で政権側は、反体制派がサリンを使用していると主張していた。今回の情報が事実とすれば、国際社会による反体制派支援にブレーキがかかる可能性もある。
ロイター通信によると、デルポンテ調査官はインタビューで、医療関係者らの証言などから反体制派によるサリン使用は「確実な証拠は出ていないものの、非常に強い疑いがある」と述べたという。
2010年末から12年にかけて、北アフリカ、中東アラブ諸国で一連の民主化要求運動が起こった。いわゆるアラブの春と呼ばれるものだ。デルポンテ調査官は、調査団が2011年のアラブの春の抗議活動中に反抗勢力による神経剤を浴びた被害者と医師に対して、シリアに隣接する国で聞き取りを行ったと説明した。
サリンは、口、鼻、皮膚から吸収され、シアン等の500倍の有毒性があるとされる。無色、無臭の物質で、殺虫剤と同様のメカニズムにより神経系を攻撃する。
サリンは1902年には既に作られていた。4名のドイツ人化学者が合成に成功し、4名の名前からサリン(SARIN)と名づけられた。シュラーダー氏(Schrader)=S、アンブロス氏(Ambros)=A、ルドリガー氏(Rudriger)=R、ファン・デア・リンデ氏(Van der LINde)=INである。
作る途中の段階で猛烈な毒性を持つ中間物質が生成され、廃棄物にも猛毒性がある。その毒性に最初に注目したのはドイツ軍だった。第二次世界大戦中に量産し、ナチスは敗戦までに7,000トン以上のサリンを貯蔵していたとされる。1950年代にNATO(北大西洋条約機構)はサリンを標準的な化学兵器に採用した。そしてソビエト連邦と米国は、軍用にサリンを生産した。
戦争時における化学兵器の使用禁止は、1925年のジュネーブ議定書で謳われている。しかし開発・生産・貯蔵といった行為は禁止項目にはなかった。第二次世界大戦後の米ソの冷戦の激化にともない、大量の化学兵器が両国によって開発・生産・貯蔵される状態が続いた。
◯「 シリアのアサド政権、サリン使用なら国際法上の一線越える=米大統領 」
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE93P07A20130426
(副島隆彦注記。この記事のオバマの発言は、オバマが、4月にダマスカス近郊でサリンを撒いたのは、反体制派の方だと、真実を知ったからだ。だから、オバマは、最終的に、この9月に、シリアへの軍事介入をしないと決断し、米軍の投入をしなかった。オバマの正しい判断だった。 副島隆彦注記終わり )
2013年4月26日 ワシントン、 ロイター
オバマ米大統領は26日、シリアの アサド 政権が サリン とみ られる化学兵器を使用した可能性があるとの分析結果が報告されたことについて、「 国際基準、および国際法上の一線を越えるもの」とし、これにより今後の 展開が大きく変化する可能性があるとの見方を示した。
オバマ大統領はホワイトハウスで記者団に対し、「大量破壊兵器を一般市民に対して使用することは、国際基準、および国際法上の一線を越えるものだ」と懸念を表明。その上で「これにより今後の展開は大きく変わる」とし、「組織的に化学兵器などを一般市民に対して使用することは容認できないと誰もが認識していると思う」と述べた。
◯「 国連調査官「シリア反体制派がサリン使用との証言」 – YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ESRzPnEnyHY
「 シリア反体制派がサリン使用」国連調査委員会(130507)
http://news.tv-asahi.co.jp 再生時間:0:32 2013年5月23日
◯ 「シリア政府は本当に化学兵器を使ったのか」
Who Did What in Syria?
(副島隆彦注記。 このニューズ記事の 英文の原題は、Who Did What in Syria? だから、正しく、「 誰が、何の ためにサリンを使ったのか?」としなければならない。ところが、上記の見出しのように 、始めから、頭から、シリ ア政府(アサド政権)のせいにするように、わざとこのように 誤訳している。
ニューズウイーク誌というのは、このように、CIAの日本版だ、と私が書いてきたとおりだ。ところが、今回だけは、事情が違う。ニューズウィーク日本語版の 山田敏弘という日本人記者が、真実をしってしまったので、ウソが書けなくなって、以下のように正直に報道している。快挙と知っていい。 副島隆彦注記終わり )
「 国連調査団が滞在する最中に発生した「化学兵器攻撃」に付きまとういくつもの疑念」
2013年9月5日(木) 2013年9月 3日号掲載
山田敏弘(本誌記者)
内戦状態が2年以上も続くシリアで 先週(引用者注記。すなわち8月21日)、アサド政権側から放たれたとされるミサイルが首都ダマスカス近郊のゴウタに着弾した。化学兵器とみられる爆弾はガスを吐き出し、スンニ派の反体制派が支配する同地域で数百人規模の死亡者が出た、と報じられている。
現場の惨状は、シリアの反体制派が撮影した映像で世界中に拡散された。病院でけいれんする女性と子供、口や鼻から泡を吹く男性……。今回の攻撃が大きく報じられているのは、被害者の多さ故という面もある。
ただ化学兵器は本当に使われているのかといぶかしむ声もある。ジャーナリストが誘拐や殺害されるなど報道が制限されるなかで、メディアは現地にいる反体制派の活動家、または人権団体の情報に頼らざるを得ない。そうした状況が、化学兵器の使用に対する疑念を生んでいる。
そもそも私たちが目にする映像は、どこまで現場の全体像を伝えているのか。反体制派が政府を非難するための偏った情報だけを出し、被害を大げさに発表しているとみる向きもある。現在シリアにいる国連調査団のオーケ・セルストロム団長は、反体制派が主張する1300人の死者数は「疑わしい」と語り、いまメディアなどで出回っている映像を見た限りでは死傷者数が多過ぎると指摘する。
メディアも、化学兵器使用について事実関係の裏付けはできないでいる。いつどこで撮られたのかも分からない。結局、過去に反体制派から出された映像などと同様、大手メディアは必ず「独自で事実関係は確認できない」という一文を加えて、今回も映像を報じている。
反体制派がサリン使用か
欧米の医療専門家の間では化学兵器使用について、「治療に当たる医療関係者の対応が不自然」「サリンによる攻撃だ」といったコメントが飛び交っている。ただ犠牲者が出ているのは確かだろう。
現在、化学兵器使用疑惑を調べる目的で国連調査団がシリア入りしているが、攻撃を受けたとされる地域に彼らが入ることはアサド政権が許可しない。結局、化学兵器が使われたのかどうかは判然としないままだ。
今回の攻撃のタイミングに首をかしげる専門家もいる。シリアにいる国連調査団は、攻撃の3日前に入国していたからだ。国連のイラク大量破壊兵器査察委員長を務めた ロルフ・エケウスは、「国際的な調査団が国内にいるときに、シリア政府が こんな攻撃するのは奇妙だ」 と、疑問を投げ掛ける。もちろんアサド政権がそれを逆手に取って攻撃を行った可能性もある。
一方、正しい調査で致死的な化学物質の使用が証明されても、誰がその攻撃を行ったのか判明しそうにない。アサド政権が反体制派を虐殺するのに使ったのか、もしくは反体制派が欧米の軍事介入を促すために自作自演したのか。その問いにも、簡単には答えが出ない。
誰が化学兵器を使っているかについては、国連内でも意見が割れている。今年5月、 シリア問題に関する国連調査委員会のカーラ・デルポンテ調査官は、「化学兵器のサリンガスを使っているのは反体制派だ」 と指摘して、反体制派を支援するアメリカなどから批判された。
オバマ米大統領は昨年(2012年)8月、化学兵器の使用は軍事介入も考慮される「レッドライン(越えてはならない一線)」 だと発言。一方のシリア政府も、反体制派による化学兵器の使用は彼らにとっての「レッドライン」だと言う。政府と反体制派のどちらが今回の攻撃を行ったのだとしても、シリア情勢がさらなる泥沼にはまることは間違いない。
◯「 シリア:政府による化学兵器の使用 可能性大 ロケット弾の分析と 目撃者の証言に基づく新証拠 」
(副島隆彦の注記。 この記事は、ヒューマン・ライツ・ウォッチ という国際人権団体=NGO=のものだ。が、以下のとおり、ものすごく偏(かたよ)っている。公平なふりをして、事実だけを報道していることを装っているが、シリア政府の犯行だと匂わせるように書いている。ここもおかしな国際人権団体だ。副島隆彦注記終わり)
2013年09月10日 Human Rights Watch
A mother and father weep over the body of their child, who was killed in an Alleged chemical weapons attack on Ghouta, Syria, on August 21, 2013.
C 2013 Associated Press
Analysis of Alleged Use ofChemical Weapons in Syria
2013年09月10日
8月21日のグータ攻撃で使用された兵器システムの動かぬ証拠は、ロケット弾の残骸と被害者の症状にある。あの恐ろしい朝に政府軍がダマスカス近郊に向けて化学兵器を装填したロケット弾を発射したことを、証拠が強く物語っている。
2013年8月21日に首都ダマスカス近郊のふたつの居住区で起きた化学兵器攻撃は、シリア政府軍が行なったものであることを、入手可能な証拠が強く示唆している。多数の子どもを含む何百人もの一般市民が殺害されたこれらの攻撃では、おそらくサリンとみられる兵器用神経ガスが使われたとみられる。
報告書「グータの攻撃:シリアにおける化学兵器使用疑惑の分析」(全22ページ)は、8月21日未明、反政府勢力の支配下にある東グータと西グータが、化学兵器による攻撃を受けた疑惑を調査してとりまとめたもの。東西グータは16キロ離れている。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、ロケット弾攻撃に関する目撃者の証言、確実性の高い攻撃元の情報、使用された兵器システムの残骸、そして医療従事者が記録した被害者の医学的症状を分析した。
ヒューマン・ライツ・ウォッチ緊急対応部門のディレクターであり、本報告書を執筆したピーター・ブッカーは、「8月21日のグータ攻撃で使用された兵器システムの動かぬ証拠は、ロケット弾の残骸と被害者の症状にある」と述べる。「あの恐ろしい朝に政府軍がダマスカス近郊に向けて化学兵器を装填したロケット弾を発射したことを、証拠が強く物語っている。」
ロケット弾とその発射装置の型式が強く示すのは、これらは政府軍のみが保有・使用可能なことで知られている兵器システムだったということだ。
Special Feature: Map of Impact Zones, Photo Essay, Diagram of Chemical Rocket >>
ヒューマン・ライツ・ウォッチは、YouTubeに投稿・公開されている攻撃地域のビデオ映像と、東グータの地元活動家から提供された兵器残骸の高解像度映像を分析。化学物質を散布したと考えられる2種類の地対地ロケットシステムを特定した。最初の型式は東グータ攻撃の現場で発見されたが、大量の液体化学物質を積載し、散布するよう設計された弾頭を備えていたとみられる330ミリロケット弾だった。
2番目の型式は、西グータ攻撃で発見された旧ソ連製140ミリロケット弾で、参考文献によれば3タイプの弾頭のなかからひとつを装填可能で、これには、2.2キロのサリンを運搬散布するよう特別に設計されたものも含まれる。
シリア政府は化学兵器による攻撃を否定し、反政府勢力の行いと非難しているが、その主張を裏づける信頼性の高い証拠は全く提供していない。ヒューマン・ライツ・ウォッチと、シリアでの武器使用を監視してきた兵器専門家陣は、攻撃で使われた140ミリと330ミリのロケット弾とそれらに付随する発射装置を、反政府軍が保有しているという事実をこれまで確認していない。
ヒューマン・ライツ・ウォッチは、化学物質の検査に必要な兵器の残骸、環境試料、生理学的試料などの収集のためにグータ入りすることはできなかったが、化学兵器剤の検出と影響分析を専門とする人物から技術的助言を求めてきた。専門家は、地元住民の説明および医師が詳述した臨床的症状や兆候、8月21日の攻撃による被害者を撮影した多くのビデオ映像を検証した。
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グータで人びとを治療した医師3人がヒューマン・ライツ・ウォッチに伝えたところでは、みな共通して、窒息、気管狭窄、不規則呼吸、低呼吸、筋肉痙攣、吐き気、口角の泡、鼻や目からの体液流出、全身痙攣、目眩、視力低下、目の充血と痛み、瞳孔縮小(縮瞳)などの症状がみられたという。
これらの症状は、神経ガスの中毒症状と一致する。若い被害者の一部には顔面が青紫色になるチアノーゼの症状が出ており、これは窒息の症状と一致する。爆発系あるいは焼夷系の兵器を用いた攻撃の場合に通常受けるはずの外傷は、被害者の誰にもみられなかった。
これらの症状と外傷の不在は、サリンのような神経ガスに曝露した時の症状と一致する。4月に首都ダマスカス近郊のジョバルで起きた攻撃でサリンガスが使われた、という臨床検査上の証拠もある。この時現場にいたフランス・ルモンド紙のカメラマンが後に検査した結果、サリンに曝露していたことが判明している。
化学兵器の使用は国際人道法の重大な違反である。シリアは、189カ国が加盟する1993年の「化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約(化学兵器禁止条約)」の締約国ではないが、1925年のジュネーヴ議定書(窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書)の締約国だ。また、国際慣習法はあらゆる武力紛争における化学兵器の使用を禁じている。
グータにおける8月21日の攻撃は、25年前にイラク政府がハラブジャで同国のクルド系民間人に化学兵器を使って以降、初めての大規模な化学兵器使用となった。
「シリアの恐るべき内戦で化学兵器の使用がますますはっきりとしてきた現在、こうした兵器の使用制御と、シリア民間人のより広範な保護に、国際的な議論の焦点を再び絞るべきだ」と前出のブッカーは述べた。
( 転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。以上です。ものごとの真実を追求するには、忍耐力だけではなく、時間の経過と共に剥(はが)がれ落ちて来て、新たに見えてくるものへの穏(おだ)やかさ が必要だ。
私、副島隆彦は、「この世の中は、いろんな人がいるから、自分が真実だと、考えることが、通用しないことがたくさんある」と、さすがにこの歳になれば、噛み締めるようにして分かる。 優れた見識(けんしき)や意見が、そのまま、世の中で認められることはない。
世の中には、ヘンな宗教や信念に凝り固まった人たち、というのが、ものすごい数でいて、その人たちとの共存、ということもある。 どうせ、あの人たちとも、同じ日本人として、同じ日本語を使い、同じ日本文化の中で、生きてゆくしかない。
最後に、 下 ↓ の 方の 「 」番の、書き込みをしている、大重俊(おおしげしゅん)君に対してだが、以前、私から、「大重くん。君は、学問道場の会員のままでいてもよいですが、投稿は控えてください。不愉快に思う人が多いので」と書きました。それでも彼は、性懲りもなく、こうして書き込んできます。
彼のようなやや偏向した性格の人は、自分の持って生まれた病気だから、治らないでしょう。 しかし、まわりを不愉快にさせる文をどうしても書いてしまうのですから、やはり、遠慮しなさい。
それから、大重くん。君は、以前、小幡績(おばたせき)という財務官僚上がりで今は慶応大学の准教授をしていて、「リフレはやばい」という本で評判を取った人の名前を、勝手に騙(かた)って、ここに投稿したでしょう。 事務所がIPアドレスを追跡したので、すぐに君だと分かりました。おそらく、小幡績氏 がどこかに書いた文を、そのまま、君が貼り付けたのでしょう。文体と内容からして、小幡績のものだと分かります。
大重くん。こういう ことをすると、虚偽の言論になり、かつ、他人の文章の勝手な盗用、間違った目的での使用となりますから、やめなさい。このことを含めて、謝罪しないなら、大重くん。すぐに学問道場から出てゆきなさい。
副島隆彦拝
【1386】[1689]大重俊氏の投稿についての苦情があります。
2つ下↓の大重氏の記事について、学問道場の会員外の方から苦情が寄せられています。学問道場のスタッフの方よろしく善処下さい。
以下のような苦情です。
(引用開始)
大重氏の投稿文を読むと、投稿者名に「資産額」などと書き込んでいる。あなたのような差別主義者は大嫌いだ。
きちんと、学問道場の方々に認められるような文章を書いてみろ。大重氏のような稚拙な文は文章とは言わない。学問道場の品位を下げるだけだ。
Appleの創業者スティーブ・ジョブズでも、物理学のアインシュタインも学習障害を持っていたと、いわれているではないか。
(引用終わり)
田中進二郎です。私も、差別主義者をけなすふりをしながら、差別主義を絶えず振りまく大重氏の投稿はいつも不愉快です。
なお、スタッフの方による対処等があった時点でこの投稿文も消しますので。
田中進二郎拝
【1385】[1688]囲む会須藤様え
日本の宝副島隆彦様は日本1愛国者です私は全力でおおえんします