重たい掲示板

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副島隆彦 投稿日:2023/03/10 10:21

【3031】[3526]ウクライナ戦争の、目下の大(だい)激戦地であるバフムートの戦いの概要を書きます。

副島隆彦です。 今日は、2023年3月10日(金)です。

藤森かよこ さんの 新刊書「ニーチェの ふんどし」 の 宣伝を、今日のぼやき でしています。 読みに行ってください。明日、私がここで、私からの掩護射撃(えんごしゃげき)の応援の文を書いて載せます。

 ウクライナ戦争での、東部ドネツク州の 要衝(ようしょう)で、要塞都市化して、ウクライナ軍の防御が堅かった、バフムートBakhmut の陥落が間近に迫っている。

 下に載せる ブルーンバーグの 記事 「 バフムトは近く陥落の可能性も - ストルテンベルグNATO事務総長」( 昨日、3月9日) の 通りである。ただ、ウクライナ軍の降参、降伏、投降がまだない。ウクライナ軍の西方への退却・撤退も見られない。だからバフムートは、3月10日現在でも、まだ陥落していない。

(ここに ウクライナの、目下の戦場になっている主要都市の載っている地図を貼る)

(転載貼り付け始め)

〇 「 バフムトは近く陥落の可能性も - ストルテンベルグNATO事務総長」
Ukraine Latest: NATO Chief Warns Bakhmut May Fall Soon UN’s Guterres Visits Kyiv as Crop-Export Deal Talks Continue
2023年3/9(木)   ブルームバーグ

 北大西洋条約機構(NATO)のストルテンベルグ事務総長はウクライナ東部の要衝バフムトが「数日以内」に陥落する恐れがあると指摘、その上で陥落してもウクライナでの戦争の転換点を意味することにはならないだろうと述べた。

(ここに、ストルテンベルグの写真を貼る)

 ストルテンベルグ氏はスウェーデンでの欧州連合(EU)国防担当相らとの会合を前に「ウクライナへの支援を継続しなければならない」と述べた。
ウクライナ軍のシルスキー陸軍司令官はバフムト近郊で展開する部隊を訪問。今週2回目の訪問となる。レズニコフ国防相はEUの草案で提示された10億ユーロ(約1440億円)の支援では弾薬購入に不十分だとして、その約4倍が必要だと訴えた。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 欧州のNATO軍を率いる ストルテンベルグは、他の将軍たちと同じく、対(たい)ロシアでの戦争の遂行の強硬派だ。彼は、統一教会(Moonie ムーニー)と同格の、ヨーロッパの反共右翼の結集軸である、WACL(ワックル。ワールド・アンタイ・コミュニスト・リーグ。世界反(はん)共産主義同盟 )の大幹部である。 これは、デープステイト deep state = Cabal カバール が世界の表面に出ている一角である。

 それでも、ストルテンベルグは、最初からの計画通り、NATO軍とロシア軍が、直接、ぶつかる(開戦する)ことは絶対に避ける。だから、ウクライナ人とウクライナ軍は、初めから、捨て駒だから、どれだけ、死んでも構わない、と考えている。自分たちが洗脳して、ロシアとの戦争に嗾(けしか)けた者たちだから。 

 だが、ウクライナ軍が、このドネツク州の要衝(ようしょう)で、大敗北を喫して戦力を消耗するのは避けたい。だから、早く、撤退して、ウクライナ軍を、ドネツク川の西側に撤退させて、戦力を温存したい、と考える。
だから、ゼレンスキーに、「バフムートが陥落する前に、主力を後退させて、撤退せよ」と命じているのだが、どうもウクライナ軍がその言うことを聞かないようだ。

 バフムートから西方向への、撤退の為のウクライナ軍の、補給路であり、かつ撤退路は、あと一本しか残っていない。 南北の幅が5キロぐらいしかない。そこも既にロシア軍の砲撃も射程の範囲に入っている。ロシア軍によるバフムート包囲(シージ siege ) は、バフムート市内の東部(ワグネルが制圧した)だけでなく、西部も大きく封鎖されたらしい。

 バフムート市内の東部分 にあったはずの、巨大な要塞は、もう落ちたはずなのに、その地下にウクライナ軍の残存兵力が、岩塩の堅い岩盤の中に掘られた複雑な堅固なトンネルの中に、残っているのか、分からない。このままでは最低5千人の精鋭のウクライナ軍が、捕虜になるはずなのだ。

 だが、ウクライナ軍の総司令部が撤退命令を出しても、現場の司令官たちが、撤退しようとしない。死ぬ気で戦う(死守する)という覚悟のようだ。

 もうゼレンスキーと、彼を、大統領官邸の地下壕で、毎日、操(あやつ)っている英の国家情報部のMI6(エム・アイ・シックス)の責任者(ジェームズ・ボンドのような男)の言うことも聞かない、ということだろう。 
 
 英米の指導者たちは、「さっさとバフムートからウクライナ軍を撤退(リトリートretreat )させろ」と、2月の終わりから命令していた。

 いつ バフムートが陥落するか。バフムートの東(ここにウクライナ軍が 8年かけて作った強固な要塞が有る)は、3月6日の時点で、ワグネルに制圧、占領された。だが、その下の 塩鉱山にかなり深くまで、トンネルが掘ってあって、そこにまだウクライナ軍がいるようだ。地下トンネルが、西部にまで繋(つな)がっていて脱出出来るのかも。

 バフムートの真ん中を流れるバフムートカ川の西には、まだ、ロシア軍が出ていない。 ただし、ここももう、さらにその外側から、大きく市の西側も道路がロシア軍の砲撃の射程内にあって、ほぼ遮断されている。だからもう、ここまで来ると、退却、撤退 はできない。 

 西側指導層の判断でのゼレンスキーの撤退命令にも、ウクライナ軍の総司令部の命令にも、バフムートの司令官たちが応じなかったようだ。 だから撤退命令を出しても、最前線の現場のウクライナ兵たちが、動こうとしなかったようだ。 玉砕(ぎょくさい)する気なのか。

 すでに、ロシア軍の大攻勢が始まった1月末から2か月で、最低でも、どちらの軍隊も、1万人ずつの戦死者が出ている。負傷兵はその3倍だ。この他の死体の確認が取れない戦場での行方不明者たちは、ほとんど戦死者だ。

 あと1万人にぐらい残っているバフムートのウクライナ軍が、徹底抗戦する、と言っても、補給路も負傷兵の後方への搬送路も断たれたら、あとどれだけもつか、の問題だ。援軍が、北方から、ロシア軍を砲撃しながら、向かっている、というが、それはバフムートには到達していない。

 次に載せるのは、今や、ロシア国 全体の、戦争の英雄になりつつある、このワグネルの創立者の、プリゴジンの発言だ。彼のPMCの傭兵の部隊は、多大の死者を出している。彼は、最前線のバフムートの北の村に自ら来ていて(400メートル先にウクラナイナ軍がいて、砲撃の音がずっと聞こえる)、そこから兵士たちを鼓舞しながら発信している。偉いものだ。

(転載貼り付け始め)

〇 「 要衝バフムトの「東部制圧」 ロシア側主張、陥落の危機 ウクライナ 」
2023年3/8(水)  AFP 


 ロシア軍陣地に向け砲撃を加えるウクライナ兵ら=3月4日、ウクライナ東部バフムト近郊(AFP時事)

【イスタンブール時事】ロシアの民間軍事会社「ワグネル」創設者のエブゲニー・プリゴジン氏は8日、通信アプリ「テレグラム」に音声メッセージを投稿し、ウクライナ東部の要衝バフムトの「東部を制圧した」と主張した。  

(ここにプリゴジンの、この記事に付いている写真を貼る)


ロシアの民間軍事会社ワグネル創設者のプリゴジン氏。ワグネルの戦死者を集団で埋葬している墓地に来ている。=2022年12月24日

 事実なら、徹底抗戦を訴えるウクライナ側にとって打撃となる。  一方、北大西洋条約機構(NATO)のストルテンベルグ事務総長は3月8日、訪問先のスウェーデンで、ロシア部隊の猛攻で「バフムトは数日で陥落するかもしれない」と危機感を示した。  

 プリゴジン氏はこの中で、バフムトを南北に流れる川の東岸をワグネルが完全に支配下に置いたと説明した。ロシアのショイグ国防相は3月7日、「(バフムト)制圧により、ウクライナ軍の防衛ラインからより深い位置での作戦が可能になる」と述べ、攻略の重要性を改めて強調していた。  

 ウクライナのゼレンスキー大統領は3月6日のビデオ演説で、バフムトから撤退しない方針を確認した。ただ、ロシア側は激しい交戦で大きな打撃を受けたとみられるものの、作戦の手を緩めていない。昨年5月にウクライナ側の激しい抵抗の末、ロシアの手に落ちた南東部マリウポリと同様、陥落は不可避との見方も強まっている。

(別の記事)  ・・・ロシア側は攻撃する際、10人単位の五つのグループを次々と送り込んでくるという。ウクライナ側の狙いは、その波状攻撃の第1波を一掃することだ。「第5波が来る頃には、銃の装填(そうてん)が間に合わなくなり、塹壕(ざんごう)にたどり着かれてしまう。とにかく殺している時間がないからだ。相手側は兵士の命など何とも思っていない」

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 この他に、目下、ウクライナ戦争の天王山(てんのうざん)になっている、バフムート戦の記事を載せる。 私、副島隆彦の、この戦争の、停戦(シース・ファイア cease fire )の 予測については、次の機会に書きます。おそらく、中国が仲裁する形で、8月ごろに停戦するだろう。

(転載貼り付け始め)

〇 「 NATOトップ、バフムト「近く陥落も」 ウクライナは抗戦姿勢 」
2023年 3月8日 キーウ 、 ロイター

 北大西洋条約機構(NATO)のストルテンベルグ事務総長は3月8日、激戦が続くウクライナ東部の要衝バフムトについて、今後数日で陥落する可能性があるとの見方を示した。

 バフムトを巡っては、ロシアの民間軍事会社ワグネルの創設者エフゲニー・プリゴジン氏が同日、市の東地域を完全に制圧したと表明した。 ウクライナ軍は抗戦を続ける姿勢を崩しておらず、軍や政府の幹部はロシア側にできるだけ多くの負傷者を出し、戦闘能力を低下させる戦略に言及している。

 ウクライナ軍参謀本部は、3月8日の報告で「敵は大きな損失を負いながらもバフムトへの猛攻を続けている」と述べた。 バフムトが陥落しても、必ずしも戦争の転換点になるわけではないとしながらも、ロシアを過小評価すべきでないと警鐘を鳴らした。

 ウクライナ国家警備隊の衛生兵トップは、バフムト近郊で7日、市外に出る全ての道路が常に激しい砲撃を受けているとロイターに述べた。救急車などが砲撃を受けるため人々を避難させるのが非常に難しく、特に衛生兵(えいせいへい。 副島隆彦注記。パラ・メディック para medic )の間で負傷者が多数出ていると語った。

〇 「 ウクライナがバフムト撤退の可能性 」
 2023年3月8日 水曜 午後2:51 FNN(フジテレビ)

 ウクライナ大統領府の高官が、近くウクライナ軍がバフムトを撤退する可能性があることを示唆しました。アメリカのCNNによりますと、ウクライナ大統領府のポドリャク顧問は、まだ決定されていないことを強調したうえで「バフムトの防衛に関しては、その目的を1000%達成した」と述べました。

 一方で、ポドリャク顧問は、あくまで「戦略的撤退だ」と、バフムトを含めてロシアが占領した地域を奪還する準備をしていることも明らかにしました。ポドリャク顧問は、「戦略的撤退」をアピールすることで国民の士気を維持する狙いがあるとみられます。

〇 「 東部前線で戦うワグネルの「使い捨て兵士」 ウクライナ 」
 2022年11月1日 発信地 バフムート/ウクライナ  AFP
 
「そこにあるのは恐怖だ。地面はアスファルトのように真っ黒で、すべてが破壊された。遺体があちこちに散乱していた」

 AFPの取材に応じたウクライナ兵のエウヘンさん(38)は、ロシア軍が撃ち込む砲弾が付近でさく裂する中、地下トンネルに退避した。そして、わずか1キロしか離れていない東部ドネツク(Donetsk)州バフムート(Bakhmut)の前線の状況を振り返った。
 
 ロシア軍はウクライナ各地で防戦を強いられているが、バフムートに対しては過去数か月間、攻撃の手を緩めていない。

 軍事専門家やウクライナ軍によると、暗躍しているのはロシアの民間軍事企業ワグネル(Wagner)だ。 ワグネルの創設者は、ウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領に近い実業家のエフゲニー・プリゴジン(Yevgeny Prigozhin)氏(61)。ロシアによるウクライナ侵攻を機に存在感を強めており、政治的野心を抱いている可能性があるとの見方も出ている。

 ウクライナ当局者によると、プリゴジン氏はロシア国内の受刑者に対し、報酬や恩赦という条件を提示してワグネルの兵士として採用し、数千人を前線に送っているという。
 数人のウクライナ兵は、こうした元受刑者が「人間の餌」のような使われ方をしているとAFPに証言した。

 ウクライナ軍第93旅団に属するアントンさん(50)は、「暗くなる午後6時前後から、経験のない兵士たちがわれわれの陣地に向けて前進を命じられ、ある地点で数分間とどまる」と説明する。こうした兵士が毎晩7、8人前後、ウクライナ部隊に向かってやって来るという。

 第53旅団の少佐セルヒーさんは、「一行の任務は、前進してわれわれが発砲せざるを得ない状況を生み出し、陣地の場所を探り当てることだ」と話す。「その後、ロシア側は(われわれの陣地に向けて)大砲を撃ち込み、より経験豊富な精鋭部隊を送り込んでくる」という。

■ワグネル創設者に政治的思惑
 ウクライナ側の説明によると、このようなロシア軍の「使い捨て兵士」の大半が戦死する運命にある。中には、負傷したり、拘束されたりする者もいる。
 セルヒーさんはある朝、こうしたロシア兵のうち生存者1人を発見した。セルヒーさんが撮影した動画で、1か月前にワグネルに加わったという傭兵(ようへい)は、仲間もワグネルに採用された元受刑者だと語っていた。
 
 ロシアは戦線で後退を強いられており、約30万人の徴兵に踏み切ったことで社会の動揺を招いた。専門家は、受刑者を兵士として採用しているのは、ロシアが弱点を露呈し始めたと兆候とみている。

 ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelensky)大統領は、プリゴジン氏は元受刑者を最大2000人採用した可能性があるとの見方を示している。
 ここで、同氏はなぜ戦略的に重要でもない都市を掌握するのに固執するのだろうかという問いが生じる。
  ウクライナ軍の退役大佐であるセルゲイ・グラブスキー氏はバフムートについて、「ロシア軍は技術的には同市を掌握できる。ただし、近い将来の話ではない」との見方を示した上で、多大なる犠牲を伴うため、割に合わない「ピュロスの勝利」になるだろうと述べた。

 プリゴジン氏には、ロシア軍の将軍よりも頼りになる人物との評を得るという、政治的な利得に対する思惑があるのではないかと専門家は指摘する。

 ウクライナ国立戦略研究所(National Institute for Strategic Studies)のミコラ・ビエリスコフ氏は、「ロシア軍は防戦状態にあるが、プリゴジン氏は攻勢に出ているように振る舞っている。これが同氏の最大の関心事であり、戦いを政治的な影響力、そしてカネに変えるのが目的だ」と分析する。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。今から10日前に、このようにゼレンスキーは、自分が最高司令官である大統領の命令として、以下のように、バフムートからの撤退を、軍の総司令部に命令していた。それを軍が聞かない、という事態のようだ。

(転載貼り付け始め)

〇 ウクライナ軍、バフムートから「戦略的撤退」も ゼレンスキー氏顧問
2023年3/1(水)  CNN
 ウクライナのゼレンスキー大統領の経済顧問を務めるアレクサンドル・ロドニャンスキー氏
(この記事の 若い経済顧問の写真を貼る)

(CNN) ウクライナのゼレンスキー大統領の顧問は2月28日、ロシア軍との激戦が続くバフムート周辺の戦況について、ウクライナ軍は必要なら「戦略的撤退」を行う可能性があるとの認識を示した。 【映像】ロシアの燃料気化爆弾発射装置、破壊の瞬間

 経済顧問を務めるアレクサンドル・ロドニャンスキー氏は民間軍事会社ワグネルの傭兵(ようへい)に言及しつつ、「ロシアはバフムートの包囲を試みており、そのために最も練度が高く経験豊富なワグネルの部隊を使っている様子だ」と述べた。

 「我が軍はもちろん全ての選択肢を検討する。今のところ彼らはバフムートで持ちこたえているが、必要なら戦略的に撤退するだろう。全員の命を無駄にするわけにはいかないからだ」としている。 今後の予定についてさらに質問したところ、ロドニャンスキー氏はCNNに対し、撤退が必要かを判断するのは軍だと説明した。

 また、バフムート西部は要塞(ようさい)化されているため、「たとえ我々が撤退しても、ロシアがその後すぐに進軍できるとは限らない」とも指摘した。 バフムートを巡る戦闘はウクライナにとって最大の軍事的課題だ。ロシア軍が圧力をかける中、現地のウクライナ兵からは状況悪化を訴える声が上がっている。ゼレンスキー氏は2月28日夜の動画で、「最も状況が難しいのは依然バフムートだ」などと述べた。

〇 ロシア国防相がマリウポリ視察…露主導の再開発を内外に誇示か
2023年3/7(火)   ロイター

 ウクライナ南東部マリウポリを視察するロシアのショイグ国防相(中央)=露国防省提供、ロイター

 ロシア国防省は3月6日、セルゲイ・ショイグ国防相がウクライナ東部ドネツク州視察の一環で、ロシアが昨年5月に完全制圧を宣言した港湾都市マリウポリを視察したと発表した。ウクライナ東部で露軍が攻勢拡大しているのをアピールする狙いがあるとみられる。

 発表によると、ショイグ氏はマリウポリでロシアが新設した医療施設や12階建ての集合住宅などを訪れた。露主導で進めているマリウポリの再開発を国内外に誇示する意図があるようだ。露国防省は昨年12月にも、ショイグ氏がウクライナ侵略の前線地帯を視察したと発表していた。

 一方、ドネツク州の要衝バフムトで戦闘に参加する露民間軍事会社「ワグネル」は3月5日、新たな志願兵募集の案内をSNS上に投稿した。バフムトで消耗戦となり、多数の戦死者が出たためとみられる。モスクワやサンクトペテルブルクなど30都市に募集センターを設け、22~50歳の志願兵を募っていると呼びかけた。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦 拝

かたせ2号 投稿日:2023/02/26 17:55

【3030】[3525]「実質上のTwitterファイル」である、「戦争挑発屋(ウォーモンガー)ビクトリア・ヌーランドの行状(罪状)紹介」が出て来ましたので、「ふじむら掲示板」で紹介しました。

かたせ2号です。

(1)
イーロン・マスクのツイート(2023年2月24日)で
https://twitter.com/elonmusk/status/1628876008656105473
「Interesting thread(興味深いスレッド)」と紹介されたスレッド(連なった複数のツイート)があります。

「ネオコン、戦争挑発屋(ウォーモンガー)ビクトリア・ヌーランドの行状(罪状)」について時系列で記載し、かつ、非難する内容です。2023年2月23日から発信が開始されました。
このツイートを、「ふじむら掲示板」でご紹介しましたので、よろしければご参照ください。
(掲示板リンク先⇒https://www.snsi.jp/bbs/page/16/

(2)
なお、イーロン・マスクはまた、2023年2月23日のツイートでも
「Nobody is pushing this war more than Nuland(ヌーランドほど戦争をひき起こした人物はいない」とコメントしています。

ですので、(1)にあるヌーランド非難のツイートは、実質上、これが新たなTwitterファイルになったと見なしてもよいでしょう。

そしてこれは、日本国内で一番声高にヌーランド批判を展開する副島隆彦先生の主張、その正しさを裏書きする内容にもなっています。こちらの主張の補足ともなりますので、ぜひ、ご参照ください。
(掲示板リンク先:再掲 https://www.snsi.jp/bbs/page/16/

(3)
副島隆彦先生のご発言を引用します。

重たい掲示板「[3519]谷崎潤一郎の亡霊に、私は神戸まで連れて行かれた。投稿者:副島隆彦 投稿日:2023-02-17」から。

(抜粋開始)
以下に載せる、ユーチューブの動画は、おそらく、自衛隊関係者たちが、広く全国の自衛隊の基地で、毎日、食い入るように見ているものだ。
「 真・防衛研究チャンネル チャンネル登録者数 15.1万人 」
と言う。軍事もの、兵器ものが、大好きな人々にとっての、毎日、定番のウエブサイトだ。

https://www.youtube.com/watch?v=01M2xXs9u10
【ウクライナ戦況】2023年2月15日。バクムット方面ロシア軍の攻撃が弱る、損害が激しく戦力不足か! – YouTube

 この「真・防衛研究チャンネル」の 情報源は、明らかに、アメリカのワシントンから毎日発信されている、 今や、ムーニー Moonies 統一教会のアメリカの、公然と表面に出ている キンバリー・ケイガン(ケーガン)という、まだ30代の凶悪な、若い女が代表である、「戦争研究所」 ISW (アイ・エス・ダヴュリュ 。インスティチュート・オブ・スタディ・オブ・ウォー )からの情報提供だ。

キンバリーの兄は、ワシントンのムーニーの大幹部で、第3次ネオコンに潜り込んでいる凶悪な高官のロバート・ケイガン(ケーガン)である。そして、その奥さんが、まさしくこの世に生きている悪魔女でビクトリア・ヌーランド(ニューランド)だ。

 今では、私、副島隆彦の本、その他で、知らぬ者はいない、最強のキチガイ女だ。今も米国務省のアンダー・セクレタリ―(国務次官)という、国務長官(ステイト・セクレタリー)に次ぐ権力者だ。

このケーガン一家が運営している、NGOの組織であるISW「戦争研究所」は、ワシントンのムーニー(統一教会)の非営利組織のふりをしながら、ペンタゴン(米国防総省)から、公然たる支援を受けている。
(抜粋終わり)

(4)
なお、「ヌーランドの華々しい政治的キャリアの終わりが、今月(2023年2月)から、始まったのではないか?」という仮説も最後に提示しましたので、もしよろしければ、そちらもご参考ください。
(掲示板リンク先(再掲)⇒https://www.snsi.jp/bbs/page/16/

以上

久我 潔 投稿日:2023/02/21 20:16

【3029】[3524]『世界覇権国アメリカ』

会員番号8712の久我 潔と申します。初めての投稿です。
副島隆彦先生の二大主著『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』を、僭越ながらTwitterにて触れさせていただきました(https://twitter.com/KugaKiyoshi/status/1627824436434059265)。正に混迷の時、今こそ先生の卓越した先見性と深い洞察に触れるべきとの思いです。プロモーションも掛けています。

ちなみにTwitterは、イーロン・マスクが買収してから格段に風通しが良くなり、彼の言う「言論の自由」に大きく近づいてきた気がします。どうか学問道場の皆様、そしてできましたら副島先生御自らにおかれましても、Twitterへの登場をご再考いただけないものかどうか、切に望む所です。今後ともよろしくご指導をお願い致します。

古村治彦(学問道場) 投稿日:2023/02/20 20:57

【3028】[3523]「副島隆彦の学問道場」のホームページ管理のお手伝い(アルバイト)を募集します(学問道場・古村)

 SNSI・副島隆彦の学問道場の古村治彦(ふるむらはるひこ)です。2023年2月20日です。

ウェブサイト「副島隆彦の学問道場」のホームページ管理をどなたかに手伝っていただきたく、お手伝い(アルバイト)を広く募集します。

仕事内容は下記の通りですが、ホームページを円滑に機能させることが大きな目的です。私がこの方面の知識や経験が足りないために、知識と経験のお持ちの方に是非助けていただきたいです。

週1回程度、事務所に来て、ホームページの管理やデータのバックアップなどの作業をしてもらいたいと考えています。アルバイト、副業を探している方には最適だと思います。アルバイト代(日給2万円)と交通費をお支払いします。

【仕事内容】
・ソースコードの管理
・問題なく機能するかどうかのホームページの管理・チェック
・「今日のぼやき」の文章の保存・バックアップ
・画像の保存・バックアップ
・ホームページ全体のデザインについての助言
・ホームページの運営についての助言
・パソコンやインターネットの使い方についての助言
など

【来ていただきたい方の条件】
・「副島隆彦の学問道場」会員の方(望ましいです)
・SEの資格をお持ちの方
・SEの実務の経験をお持ちの方
・企業・団体などでのウェブサイト管理の経験をお持ちの方
・20代、30代の男性の方(望ましいです)
・JR大宮駅から徒歩圏内にある事務所に週に1回通える方(アルバイト代、交通費支給)
・職務上知ったホームページや学問道場の情報を口外しない方

※希望者の方は履歴書をEメールに添付してお送りください。その後、こちらから連絡を差し上げて、実際に面談をして手伝っていただくかを決定します。
※募集は締め切りました。ご応募をありがとうございました。

【連絡先】
副島隆彦の学問道場
電話:048-788-1837
ファックス:048-788-1854
Eメールアドレス:snsi@mwb.biglobe.ne.jp

以上、よろしくお願いいたします。

副島隆彦の学問道場
古村治彦拝

もう(青柳) 投稿日:2023/02/20 09:00

【3027】[3521]新型コロナ感染症とワクチンの問題点について勉強会を開催します

副島先生の投稿後に失礼します。会員番号1855のもう(青柳)です。来る3月4日(土)に横浜駅近くの神奈川県民センター301会議室にて(14:00−15:40)、元横須賀市議の一柳洋氏の主催する「温暖化とコロナに流されない市民の会」勉強会「わかってきた新型コロナ感染症とワクチンの問題点」を開催します。私が公開されている論文、資料と10年以上医療安全の立場から勤務する病院内の全ての死亡例、救急に心肺停止で搬送された例の検証を行って来た経験から新型コロナ感染症とワクチンの問題点を実臨床の立場から検討します。概要は医療掲示板に掲載しました。横浜近傍にお住まいの方は是非ご参加下さい。間違った事態を「おかしい」と言える社会を目指したいと思います。

土井としき 投稿日:2023/02/17 15:14

【3026】[3520]谷崎潤一郎の神戸市芦屋の住まい。

谷崎潤一郎の神戸市岡本の家。
サニーサイドNNCorporation
http://sunnyside-nn.net/old/sarankaku/phpto.htm

旧山邑家住宅 – Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/旧山邑家住宅

副島隆彦 投稿日:2023/02/17 08:37

【3025】[3519]谷崎潤一郎の亡霊に、私は神戸まで連れて行かれた。

副島隆彦です。今日は、2023年2月17日(金)です。

 私は、今も、霊魂に導かれて、自分が出会った、ギリシア彫刻の女神像(3美神像とか)の100体ぐらいある、本物の大理石で出来ている彫像(トルソtorso 。ただし中国製の精緻で優美な模造 )の亡霊、怨霊に憑りつかれている。

 この美神(びしん)たちの霊から囁(ささや)かれて、私は、先週、神戸市の東灘区(ひがしなだく)で、芦屋(あしや)の隣りの一帯の、文学者、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)の旧宅たちを探して、その辺りを見て回った。私は、谷崎の亡霊とも対話した。

倚松庵(いしょうあん)

 谷崎は、昭和の始めに、日本が戦争にのめり込んでゆく、その頃もずっと、自分の文学の信念である、耽美(たんび)と女性崇拝と女体の窃視(せっし)のエロスの世界を描き続けた。谷崎は、戦争中もずっと、「細雪(ささめゆき)」を書き続けて、自分の奥さまの松子(まつこ)夫人への愛と、さらにその実の妹たちへの愛を作品にし続けた。

谷崎と松子夫人

 谷崎には敗戦後の日本が分かっていた。戦争肯定、皇国への賛美と、戦争への追随と、ひたすら八紘一宇(はっこういちう)の思想にのめり込んだ、他の知識人や文学者とは異なった。

 女流文学者たちで、ずっと虐(しいた)げられた女たちのために言論で闘っていた、与謝野晶子(よさのあきこ)でも、平塚雷鳥(らいてふ)でも、市川房江(いちかわふさえ)でも、翼賛(よくさん)体制を支持した。
 女たちの銃後(じゅうご)の守りで、切実な愛国と、兵士たちへの慰問の活動を続けた。国民も、自分たちも兵隊さんたちのあとに、日本本土での戦いで死ぬのだ、と、脅えながら覚悟していた。

 そしてやって来た無残な敗戦後に、戦争を扇動した指導者たちと、さらには言論人たちまでもが、指弾(しだん)され、文学者の戦争責任も問われた。かつ責任を感じて、女流文学者たちも自分たち自身で鬱屈(うっくつ)した。

 高村光太郎のように、己の戦争翼賛 を自己処罰をして、岩手の 花巻(はなまき)の山荘のあばら家で生きて、死んでいった誠実な者もいた。だが、恥知らずのまま、戦後は反共右翼(はんきょううよく)となって、今度は、敵であったアメリカの忠実な、手先、子分になって、変節し尽くした、厚顔無恥な者たちも大勢いる。

 それに較(くら)べて、谷崎は、戦争反対も言わず、だた、ひたすら、英人オスカー・ワイルド張りの、人間の女性の美と、男女の愛の世界を肯定して、そのことのための文学作品を黙々と書き続けた。この態度が偉くて素晴らしい。 
そして敗戦後に、「細雪」を始めとして、谷崎の作品は、日本国民に改めて高く評価される。
 
 私は、谷崎が、太平洋戦争(昭和16年、1941年)の前(昭和11年)から昭和18年(戦争の待っただ中も)ずっと住んだ、倚松庵(いしょうあん。神戸市が、移築、復元している)に行って、本当に谷崎の霊魂と話してきた。 私が、昔から予想していた以上に、谷崎はこの家で、7年間、松子夫人(細雪の、主人公。御寮人=ごりょん=さん、2女の幸子)と。

 妹の3女の重子(しげこ。細雪のヒロイン、雪子。きあんちゃん)と、4女の信子(細雪の妙子。恋さん)と、さらには松子の連れ子の、恵美子(えみこ。松子と前夫の根津清太郎=ねずせいたろう=の娘)と、それから女中たちと、この倚松庵のお屋敷(と言っても、今では小ぶりの和洋折衷の家。住吉川河畔)をハーレムにして、びったりと女たちと寄り添うように暮らしている。

 

 美しい日本女性の、上流商家の4姉妹(英語のタイトルは、槇岡家の Makioka sisters )の娘たちとの恐ろしいぐらいに密着していた、半裸体の暮らしぶりだ。私は、谷崎潤一郎という、非政治的(エイポリティカル apolitical 、政治無関心)を装っていた、真の政治的な日本の知識人の生き方に死ぬほど感動した。
今の
 戦争と、大震災と、経済恐慌(きょうこう)の予兆で、不安に打ちひしがれ、揺れ動く、今の日本民衆の気持ちを、あの時の、谷崎の遺志を継いで、一体、誰が、今、描くことが出来るだろうか。私は、すでに、自分の谷崎追慕の評論文を書く準備に入った。

 谷崎は、戦争前も、戦争中もそして、戦後も寒い冬には、必ず毎冬、熱海にいた。大金持ちと文学者は、熱海にいる。今も、おそらく往年の大女優たちが、老婆になり果てて、その半数は、熱海に隠れ住んでいる。だから、私、副島隆彦は、熱海にずっと、もう18年も棲んでいる。そして東京と行ったり来たりしている。自分でも何故だか分からなかったが、ようやく彼ら先人の知識人たちの霊魂、亡霊が、たくさんここに居るからだと分かった。

 さて。 ウクライナ戦争での、ロシア軍が開始した、大攻勢(グランド・オフェンシヴ)は本当のようだ。プーチンが、3月までに、ウクライナ東部の2州と南部の2州の合計4州 を完全に制圧するようにと命令を出している。

 このことは、ロシア国内だけでなく、西側(欧米、デープステイト=カバール側)の諸国でも、当然の成り行きだ、と、自然に受けとめている。ロシアはこの目標を達成するだろう。だから、東部のルハンスク、ドネツクの2州で、今も激しい戦闘が続いている。

 ロシア軍の大攻勢で、ウクライナ軍の兵士と、突撃を繰り返すロシア軍の双方の兵士が、合計で毎日、800人ぐらいが戦死している。この数字は、この戦争の情勢に注目している専門家たちが誰も否定しない。

 ロシア軍の 地上軍の 歩兵部隊(グラウンド・インファントリー。英語ならGI=ジーアイ=)が、人海戦術で、突撃を繰り返している。どれだけ死んでも突撃をやめない。その真上を、ウクライナ軍の砲兵部隊の、155ミリ榴弾砲とハイマースHIMARS (高機動(こうきどう)多連装(たれんそう)ロケット砲システム)の誘導ミサイル(ロケット弾に目が付いているようなもの。正確に目標に当たる)が、激しく飛び交っている。 

 ロシア軍は、ウクライナ軍に英米から供給されている、肩掛け式(携行式)の「聖(セイント)ジャベリン」の対戦車の誘導ミサイルからの攻撃を避けるために、その攻撃範囲の外から、戦車砲の 直劇弾で、このジャベリン と ドローンの上空からの正確な爆弾投下の精密攻撃から、何とか身を守りながら、一歩ずつ前進している。

 文字通り、1日に1キロメートルとかの前進をしている。大量の死者を出しながら。死ぬのは、ほとんどが、最前線に駆り出される、戦闘経験のない新兵と囚人兵たちだ。「古参兵(ヴェテランズ)は死なず。ただ、(戦争が終わったあと)消えゆくのみ」と、マッカーサー大将が、ウエストポイント(米陸軍士官学校)での自分の引退演説でしたとおりだ。

 18歳から20歳ぐらいの新兵の部隊が攻撃を受けてたくさん死ぬ。その瞬間に、攻撃してきた敵のウクライナ軍の陣地を正確に計測して、そこに向かって、ロシア軍の誘導ミサイルの野戦砲が飛んで行く。 古参兵(ヴェテランズ veterans  )である、ワグネルのPMC(ピー・エム・シー、民間軍事会社)に再雇用されている30代、40代の強兵たちだ。それと、ロシア正規軍の中でも、最強の空軍空挺部隊(パラトルーパーズ)が、混成旅団を作って戦っている。今、まさに、激戦地で天王山となりつつある ウクライナ軍が死守している、要衝(ようしょう)バフムートの攻略、包囲戦を やっている。

 ネオナチ思想で狂っている(英と米に狂わされている)前線のウクライナ兵も、もう死ぬ気だから、勇敢だ。だが、ロシアも、今やロシア国民の多くが、自分も死ぬ気になって、

 一致団結して、銃後の守りをしている。息子たちが前線に行くことを、ロシアの母親たちは、「それが、ロシア人として、一人前の男になることだ」と送り出している。日本の愛国の母たちもそうだったのだ。

 私、副島隆彦の母親は、戦中派で、モンペを履いた女学校の生徒だったから、女子挺身隊(じょしていしんたい)になって、防空訓練や、「エイ、ヤー」と、竹やり訓練をしている。私の母は、私に、「愛国の花」という昭和18年頃の歌を、教えてくれた。
「真白き 富士の気高さを、心の強い盾)たて)として、・・・銃後(じゅうご)に映(は)える女(おみな)らは、地に咲き匂う、国の花」という 歌だ。あの時の、日本人は、皆で狂っていた。

 それが人類(人間)という愚かな生き物の、することだ。
人間は、共同幻想( きょうどうげんそう。mass illusion マス・イルージョン)に狂う生き物だ。宗教とか、国家とか、芸能、スポーツとか。私の先生の吉本隆明(よしもと りゅうめい)が提唱して論究した。

これをヨーロッパ最高の精神医学者(psychiatrist サイカイアトリス))だった、ジークムント・フロイトが、解明した。
 フロイトは、何千人もの精神病の患者を見続けた。だが、フロイトが、真に偉大だったのは、個々の精神病者の治療と症状の改善のために、精神分析学(psycho-anarysis サイコ・アナリシス)という、精神病の臨床医学を築いたことではなく( 治療はうまく行かなかった)、それよりも、 人間という生き物は、集団で発狂する、ということを発見したことだ。

 人間(人類)は、個々の遺伝子性の精神病だけでなく、集団で発狂するということを解明した。このことフロイトは、「モーセと一神教」( 年刊)という本で書き始めた。
このことで、ジークムント・フロイトは、ただの精神医学者(サイカイアトリスト。大学の精神科の医師)ではなく、世界レベルの 思想家(スインカー thinker ) になったのだ。
日本の知識人たちは、このことが分かっていない。なぜ、フロイトがこれほどに、いまも重要視されているのか。人間の本性の一部のエロス、やエゴ の研究ではない。

フロイトが真に偉大なのは、人間は個々人だけでなく、集団で発狂する生き物だ、ということを分かったからだ。そして、まさしく、1930年代の、ナチス・ドイツ政権という、集団発狂のさ中(なか)に、ウイーン大学のフロイトの研究所が、ナチスの突撃隊に襲撃を受けて、研究所ごと荒らされ、フロイトの著作をまとめて燃やされる、という、学問弾圧を受けながら、フロイトは生きた。それでもフロイトは国外に脱出しなかった。

 人間は、個々の精神病者(psyhopath サイコパス )だけでなく、民族や部族や国民国家 が丸ごと、集団で妄想(もうそう)を起こし発狂する生き物だ。 
 強度の被害妄想(ひがいもうそう。パーセシューション・マニアック)に陥って、集団で精神病に罹(かか)る生き物だ。この大きな事実を解明したがゆえに、フロイトは、人類の20世紀の大思想家のひとりになったのである。

 日本では、フロイトの全集の翻訳をしているフロイト学を専攻していると、自分では思い込んでいる学者たち自身が、このことに自覚がない。日本と言う国は、今も、その程度の知能の国だ。 日本人の精神医学者は、今も、誰も、このことで重要な研究をしている、イギリスのタヴィストック精神医学研究所(Tavistock clinic ) の存在を知らない。日本人には、教えないことになっている。

 人類(人間)が、集団で陥る、幻想 の病状が進行して、さらに症状が高(こう)じると、それは、集団発狂状態(しゅうだんはっきょうじょうたい)となる。今のウクライナ国民の400万人ぐらいがそうだ。 英と米によって計画的に、狂わされた。
 
 今、ウクライナには、もう半分の2400万人の国民(以前は4400万人の人口)しかいない。いなくなった半分のうちの、1000万人は、隣りのポーランドと西側諸国に。そして1000万人ぐらいの、ロシア語をしゃべる者(ロシア系ウクライナ人)たちは、ロシア側に国境線を越えて脱出し避難している。

 以下に載せる、ユーチューブの動画は、おそらく、自衛隊関係者たちが、広く全国の自衛隊の基地で、毎日、食い入るように見ているものだ。

「 真・防衛研究チャンネル チャンネル登録者数 15.1万人 」

と言う。軍事もの、兵器ものが、大好きな人々にとっての、毎日、定番のウエブサイトだ。

https://www.youtube.com/watch?v=01M2xXs9u10
【ウクライナ戦況】2月15日。バクムット方面ロシア軍の攻撃が弱る、損害が激しく戦力不足か! – YouTube

 この「真・防衛研究チャンネル」の 情報源は、明らかに、アメリカのワシントンから毎日発信されている、 今や、ムーニー Moonies 統一教会のアメリカの、公然と表面に出ている キンバリー・ケイガン(ケーガン)という、まだ30代の凶悪な、若い女が代表である、「戦争研究所」 ISW (アイ・エス・ダヴュリュ 。インスティチュート・オブ・スタディ・オブ・ウォー )からの情報提供だ。

(ここにキンバリーの顔写真を貼る)

キンバリーの兄は、ワシントンのムーニーの大幹部で、第3次ネオコンに潜り込んでいる凶悪な高官のロバート・ケイガン(ケーガン)である。そして、その奥さんが、まさしくこの世に生きている悪魔女でビクトリア・ヌーランド(ニューランド)だ。

 今では、私、副島隆彦の本、その他で、知らぬ者はいない、最強のキチガイ女だ。今も米国務省のアンダー・セクレタリ―(国務次官)という、国務長官(ステイト・セクレタリー)に次ぐ権力者だ。

(ここにロバートと ヌーランドの顔写真を貼る)

ヌーランド

ロバート・ケーガン

 このケーガン一家が運営している、NGOの組織であるISW「戦争研究所」は、ワシントンのムーニー(統一教会)の非営利組織のふりをしながら、ペンタゴン(米国防総省)から、公然たる支援を受けている。米軍の軍事スパイ衛星を、管理している米宇宙軍(スペイス・フォース。今も空軍の一部でありながら、今や米第5軍)のサイバー通信情報部の、全面協力を受けている。

 そして、毎日、毎日、世界中に、その画像を垂れ流している この凶悪な「戦争研究所」からの公開情報を、そのまま鵜呑みにして、そのまま日本語に翻訳して、日本のメディア、テレビ各局、そして自衛隊関係者 および、ウクライナ戦争ウオッチャー たち(だから、この真・防衛チャンネルにチャンネル登録をしている15万人と、その倍ぐらい)が、毎日見ている。

 テレビに、この1年間、出まくりの、防衛研究所の 高橋杉雄も、・・・も、・・・も、 ・・・小泉悠(こいずみゆう)ちゃん(奥さんはロシア人)も、慶應大学の今や公然とムーニーである広瀬陽子(ひろせようこ)も、・・・筑波大学=ムーニー大学の、ミルからの目が飛んでいる、キチガイの中村逸郎も・・・

 みんな、みーんな、このISW「戦争研究所」からの公開の戦争報道の、米軍事スパイ衛星からの動画配信に頼って、偉そうにテレビで発言している。 

 ・・・・そろそろウクラナイナ軍が、押されて、ボロボロになって来ましたが、皆さん、お元気ですか。まだ強気で、「ウクライナ軍が勝つ。反攻を開始してロシア軍を国境線の外まで追い落とす」と、言い続けるのですか。 ・・・このことに関心のある国民が皆さんの顔を、じーとテレビの画面で見ていますよ。このテレビ政治報道番組を飽きずに見ている国民というのも、かなりおかしな人たちだ。

 大半の国民は、もう、あまりテレビのウクライナ戦争報道を見なくなっている。ただ、時々、ニューズ報道が有ると、不安そうに聞いている。民衆と言うのは、いつの時代も、こういうものだ。
 だから、皆さんも、たまには、この戦争報道の、今では、こんなに便利な、宇宙衛星からの画像を使った戦況(せんきょう)報告の、ユーチューブ を見て下さい。これが、今、私たちの世界で、毎日、起きていることだ。 実際に毎日800人ぐらいの兵士、軍人(下士官から上)が死んでいる。

 地球のほぼ反対側(ウクライナから8000キロぐらい離れている)私たちの日本の、今の平穏無事な平和な暮らしがある。それでも、やはり、ふわふわした奇妙な感じが、私たちの日常にも、どこかから伝わってきて付きまとう。 今、世界は戦争をしているのである。
そして、ますます、大きな戦争に繋(つな)がって行きそうなのである。

 だから、私は、自分が、戦争に向かう時の知識人としての心構えを習う(倣う)ために、谷崎潤一郎の霊魂、すなわち、魂(スピリット)と霊(ソウル)に、誘(いざな)われて、神戸の彼の旧宅の辺りをさ迷った。

 「死ぬのが いいわ」 という 若者の世界で、大ヒットした歌が有る。
 年末のNHKの紅白歌合戦に、NHKの決断で、急に出場が決まって、藤井風(ふじいかぜ)という、まだ20代のロック歌手(だろ?)の若者が、この「死ぬのが いいわ」を歌った。最後は、ステージに倒れて動かなくなった芸をやった。驚いた視聴者たちから、

「こんな気持ちの悪いのを紅白に出すな」の抗議の電話がNHKに殺到したらしい。だが、多くの国民は、「なんだ、これは。でも、若い人たちの中から、こんなやつが出て来て人気を取るのだろう」と受け入れた。

( ここに、「死ぬのが いいわ 」の ユーチューブを貼り付ける)
https://www.youtube.com/watch?v=6ZxsuFajQDo

藤井 風 – 死ぬのがいいわ(Visual) – YouTube

が、今の日本人の気持ちをよく表している。

「死ぬのがいいーわ、死ぬのがいいーわ」 
「あんたと このまま おさらばする よか(よりも) 死ぬのが いいーわ」

と歌っている。この歌は、一昨年から、東南アジア諸国にも広がって、ヒットしている。特にタイ国で大ヒットしている。東アジアで、2億人が見ている、と。 

 この曲と歌の感じが、今の地球(=世界)を覆(おお)っている。明らかにこれから、「ロシアと中国 対(たい) アメリカおよびヨーロッパ諸国」とで、始まりそうになってきた、第3次世界大戦への突入を予感している。そして、そこに向かって、人類の一挙の大量死(すなわち核戦争 ニュークレア・ウォーフェア nuclear warfare  )の恐怖を感じ取り、戦争を予感して、この世界から吹いている風を、皆が肌で感じている。

 
 特に、若い人たちほど、敏感にこの戦争の予感を感じている。若い人たちほど、死にたくない。だが、戦争になれば、どうしても若い人たちから先に大量に戦場で死んでゆく。私が、前の方に書いた通りだ。

 私たちは、今、ウクライナ戦争(実際には、米欧 対 ロシアの戦争)が起きている現実の世界を包む、不安な空気の中で生きている。

 それでも、それでも、だ。 私たちは日本人として、世界に向かって、大きな指針を示さなければいけない。
 日本は、露と中 (ロシアと中国)帝国 に 付くことなく。かと言って、アメリカ帝国 の忠実な家来、子分(すなわち属国)を今のまま続けることもなく。

 アメリカが密かに置いている核兵器を、日本から撤去させて。 そろそろアメリカの支配から、身を振りほどいて、私たちの日本国 は、世界に向かって、今、私たちが持っている、この 平和憲法(憲法9条。戦力不保持。交戦権の否定。そして戦争そのものの放棄 )という明文を振りかざして、

 「世界戦争に向かっている、2つの勢力に向かって、言います。日本は、先に、もう戦争をしないと決めました。だから、どちらの勢力にも付きません。日本は中立国です。ですから、どうか、東京で和平交渉(わへいこうしょう。ピース・トークス peace talks )の為の、話し合いをして下さい。何十回でもしてください。核戦争で、人類を滅ぼしてはいけない 」 という 声を上げるべきだ。 

 それが、私たち日本人に 課されている、世界に向かって日本が貢献できる、これからの日本の、唯一の 大きな仕事だ。 私、副島隆彦は、今、真剣にこのように考えています。

 副島隆彦拝  

かたせ2号 投稿日:2023/02/13 19:11

【3024】[3518]PR:イーロン・マスク「Twitterファイル」のわかりやすい解説記事を、「ふじむら掲示板」に紹介・引用しました。

1.
さて先日、イーロン・マスクの「Twitterファイル」に関するわかりやすい解説記事を見つけました。そこで、本日、2023年2月13日、「副島隆彦の学問道場」内にある「ふじむら掲示板」の[544]から[537]に、解説記事の紹介と引用を行ない記録・保存しました。
(掲示板リンク先)https://www.snsi.jp/bbs/page/16/

この、Twitterファイル(ファイルは現時点で、1から12まであります)解説記事は、匿名の情報提供者から、とあるサイトの管理者にリークされ、2023年1月27日から2月8日にかけて、サイト管理者の手を経て、配信されました。
Twitterファイルについて、日本のマスコミが一切とりあげていない中、今回紹介する解説はとてもわかりやすいので、大変に貴重です。
この情報を日本国民が広く知ることは、日本国民および世界にとっても有益なことだと考えます。
ご興味のある方は「ふじむら掲示板」にある紹介記事([544]から[537])を、ぜひ、ご参照ください。
(掲示板リンク先 再掲) https://www.snsi.jp/bbs/page/16/

2.ご参考:Twitterファイルとは

(紹介記事の中から抜粋開始)
Twitterを買収してCEOに就任したイーロン・マスク氏は「Twitter内部では民主党支持層の力が圧倒的に強く、バイデン大統領の息子の汚職を隠していた」ということを「Twitterファイル1」で公表したことを皮切りに、Twitterがひそかに実施しているとされる「シャドウバン【※】」の実態について明かす「Twitterファイル2」などを次々に公表しています。

(【※】シャドウバン:ソーシャルメディアの運営側が悪質なユーザーのアカウントの投稿をタイムライン等に表示させないように設定して(公の目に触れないようにして)半ばアカウント凍結(ban)に近い状態にする措置のこと。)

ツイッターファイルの目的は、ツイッター社と左翼思想及び政府による監視の影響を過去のコンテンツモデレーション(不特定多数のユーザーによって投稿されたインターネット上のコンテンツ【書き込み・画像・動画】を監視する「モニタリング業務(=投稿監視)」のこと)から精査し、暴露することでした。

また、ツイッターファイルの公開と同時に、コンテンツ モデレーション チームを含むツイッター社の大規模な解雇も行われました。
しかも、Twitter ファイルの特徴は、CEO のイーロン マスク氏によって選ばれたジャーナリストが、みんな反トランプ、非常にリベラルな価値観を持った人たちであるということにつきます。
(紹介記事の中からの抜粋終わり)

3.
この解説記事で一番の肝(キモ)となる、情報提供者の主張は、ここだと、わたくし、かたせ2号は判断したので、以下に抜粋します。

(抜粋開始)(ふじむら掲示板、[541]から。)
要するに、(Twitter社は)自分たちのリベラルな価値観で、左翼的な価値観で、それに一番反対しているトランプ、トランプ支持派、これはけしからぬということで、事実を歪めて言論弾圧、検閲をやっていた。そして、反トランプの急先鋒であるFBIと表裏一体で、権力と一体となって権力を行使して、民間人の言論まで弾圧していたという、明らかに憲法違反、アメリカの法律に違反することをやっていました。

いわゆるプラットフォームとしての資格がここで完全になくなっているってことは確かですね。メディアとプラットフォームというのを区別するのは大事なことで、メディアは、例えばニューヨークタイムズはニューヨークタイムズの意見があって、それを言っていい。ウォールストリートジャーナルはウォールストリートジャーナルの意見を言っていい。自分たちの意見に合わない投書なんかは載せなくてもいい。

しかし、プラットフォーム企業というのは独占企業、独占寡占状態にありながら、独占禁止法を適用されて分割とかされていません。なぜそうかと言えば「ここに入ってくる言論は、全部自分たちは単なるプラットホームを提供しているだけですから出しますよ。ですから、自分たちの意見を反映させません。自分たちの意見によって、この意見はいいから載せます、この意見は悪いから載せませんということはいたしません。」というのが、プラットフォーム企業として独占禁止法分割なんかの適用を免れている非常に大きな理由でもあるんですね。

また、それによって言論の責任からも解除されているということですが、自分たちの好みの意見は載せて、そうじゃない意見は載せないということであれば、プラットフォーム企業としての資格がないということになります。ここら辺は2022年12月15日にやったトランプさんの演説が鋭くついているところです。
(抜粋終わり)

かたせ2号です。上記文面に対する、わたくしの解釈を述べます。

「Twitterファイルで事実が明らかになったので、2022年12月15日付トランプ演説の内容通りに、これからアメリカが動いていく」という宣言になっています。

そう解釈する理由は、Twitter ファイル爆弾の投下開始日が2022年12月20日で、トランプ演説(12月15日)から、スケジュールがそのまま地続きでつながっているからです。
ドナルド・トランプとイーロン・マスクは緊密に連携して、行動をとっています。これは、もう間違いない。そのことを、上の文面は、暗に認めています。

4.
最後に。
2022年12月15日付トランプ演説全文の和訳を、以下のサイトから引用します。
今後、ホワイトハットの手によりアメリカで実現されるであろう、重要な法的仕組みとなります。
よろしくご参照ください。

https://ameblo.jp/trump123456/entry-12779789683.html

トランプ応援ブログbyいけさんのサイトから。

(引用開始)
2022年12月15日。トランプさんの重大発表ありましたね!トランプカード発売発表!
からの
『デジタル権利章典』の詳しい計画の発表。

トランプさんが大統領に就任した直後に既存メディアは存続できなくなるという事ですね。

以下、全文を載せます
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
言論の自由がないのなら、自由な国とは言えないだけだ。それはとてもシンプルなこと。この最も基本的な権利が失われれば、他の権利や自由も崩壊してしまうだろう。ドミノ倒しのように、ひとつひとつが崩れていくのだ。

だからこそ今日、私は左翼の検閲体制を打ち砕き、すべてのアメリカ人のために言論の自由の権利を取り戻す計画を発表する。

この場合、取り戻すという言葉は非常に重要である。なぜなら、彼らはそれを奪ってしまったからだ。

ここ数週間、ディープステートの官僚、シリコンバレーの暴君、左翼活動家、堕落した報道機関の邪悪な集団が、米国民を操作し黙らせるために共謀していたことが、衝撃的な報告で確認された。

彼らは選挙から公衆衛生に至るまで、あらゆる重要な情報を抑圧するために協力してきた。検閲カルテルは解体され破壊されなければならず、それはすぐにでも実現されなければならない。

そして、これが私の計画だ。

まず、私の就任後数時間以内に、私は大統領令に署名し、連邦省庁がいかなる組織、企業、個人と共謀して、アメリカ市民の合法的な言論を検閲し、制限し、分類し、妨害することを禁止することにする。

そして、連邦政府の資金が国内の言論封鎖に使われることを禁止する。そして、国土安全保障省、保健福祉省、FBI、司法省の誰であろうと、直接的、間接的に国内検閲に関与した連邦官僚をすべて特定し、解雇するプロセスを開始する。

第二に、私は司法省に、絶対的に破壊的で恐ろしい新しいオンライン検閲体制に関わるすべての関係者を調査し、特定されたあらゆる犯罪を積極的に起訴するよう命じる。

これには、連邦市民権法、選挙資金法、連邦選挙法、証券法、反トラスト法、ハッチ法、その他多くの潜在的な刑事民事規制法および憲法違反の可能性がある。これらの取り組みを支援するため、私は下院共和党員に直ちに保全の手紙を送るよう促している。

そして、バイデン政権、バイデン陣営、シリコンバレーのあらゆる技術大手に対して、検閲の証拠を隠滅しないよう命令することを、今すぐ実行しなければならないのである。

第三に、私が大統領に就任した暁には、通信品位法230条を改正し、大手オンライン・プラットフォームを検閲ビジネスから解放する法案を私の机に送るよう議会に要請する。

中立性、透明性、公平性、無差別性などの高い基準を満たせば、これらのプラットフォームに対して、児童搾取やテロリズムの助長などの違法コンテンツを取り締まる努力を強化するよう求める一方で、合法的な言論を勝手に制限する力を劇的に抑制する必要があるのだ。

第四に、いわゆるデマや偽情報に取り組むという偽りの口実の下に生じた有害な検閲産業全体を解体する必要がある。

連邦政府は、この権威主義的プロジェクトを支援するすべての非営利団体と学術プログラムへの資金提供を直ちに停止すべきである。もしアメリカの大学が過去に検閲活動や選挙妨害、例えばソーシャルメディアのコンテンツにフラグを立てブラックリストに載せるようなことをしたことが発覚したら、その大学は5年間、あるいはそれ以上、連邦政府の研究費や学生ローンの支援を失うべきだ。

私たちはまた、民間団体と提携して憲法を回避し、アメリカ人から憲法修正第14条および第5条の権利を奪う連邦官僚に対する明確な刑事罰を定めた新しい法律を制定すべきだ。

言い換えれば、投票権を奪うのだ。そして、その選挙を失い、私たちのように国境を失えば、もはや国とは言えない。さらに、主要なプラットフォームが浸透している問題にも直面する。元政府高官や情報機関の職員が大勢入り込んでいるという問題にも直面する。FBI(連邦捜査局)、CIA(中央情報局)、NSA(国家安全保障局)、DNI(国家情報長官)、DHS(国土安全保障省)、DOD(国防総省)の職員が、膨大な量のユーザーデータを保有する企業に就職する前に、1年間の冷却期間を設けるべきである。

第五に、ついに議会がデジタル権利章典を可決するときが来た。

これには、デジタル・デュープロセスの権利も含まれるべきである。
つまり、政府関係者がオンラインコンテンツを削除するには、裁判所の命令が必要であり、FBIがTwitterに送っていたような情報提供の要請は必要ないはずだ。

さらに、大きなオンラインプラットフォームのユーザーがコンテンツやアカウントを削除、シャドーバン、その他の制限を受けた場合、それがどのような名前であっても、それが起こっていることを知らされる権利、その理由の具体的な説明を受ける権利、タイムリーに訴える権利を持つべきだ。

さらに、18歳以上のすべてのユーザーは、コンテンツの検閲や情報操作を完全に排除し、操作されない情報の流れを受け取る権利を持つべきだ。

言論の自由のための戦いは、アメリカにとって、そして西洋文明の存続そのものにとって、勝利か死かの問題だ。
私が大統領になったら、この検閲と情報統制の腐ったシステム全体がシステム全体からはぎ取られ、言論の自由を回復することによって何も残らなくなり、民主主義を取り戻し、国を救うことができるようになる。

ありがとう。そして、アメリカに神の祝福を。
(引用おわり)

以上

副島隆彦 投稿日:2023/02/09 17:27

【3023】[3517]副島隆彦の金融セミナーが開催されます。

副島隆彦です。 今日は、2023年2月9日(木)です。

 今から1か月余先ですが、3月19日(日)に開催される、私の 金融セミナーの 宣伝をします。
 そろそろ、世界が本当の激動期に入ります。ここから先は、視界不良となって、暴風雨の中を、突き進む感じになります。みんな、気を引き締めてください。
 金融の予言者(プレディクター)を公言している、私の言葉と理論に、真剣に耳を傾けて、しっかり付いて来てください。

 私の予言と忠告に従わないで、いい加減な、甘えた考えのままでいると、自分自身が、ひどい目に遭うでしょう。現実から振り切られて、投げ捨てられます。だから、金融のことに関心が有って、お金に余裕のある人は、私のこの金融講演会に参加してください。

 あるいは、オンライン配信の 動画でも見れます。セミナーの翌日に配信するそうです。このオンライン配信を見て、私、副島隆彦が、本気で何を話すのかを、聞いてください。

詳細は、以下のとおりです。

===============================
「副島隆彦(そえじまたかひこ)の“予言者”金融セミナー 第25回」
*会場:イイノホール&カンファレンスセンター 東京都千代田区内幸町2-1-1
*日時:2023年3月19日(日) 
 開場・受付/11:00~ 終了/17:30 (予定)
*受講料:15,000円(税込)/指定席  または オンライン
===============================

申し込みは、コチラから ↓↓↓
https://kokc.jp/e/ba8247699b634ffb67ca7c6b7bf32f5d/

副島隆彦拝 

1つ前の松永知彦 君の文。 本人が加筆訂正した。 投稿日:2023/02/09 11:57

【3022】[3516]真実の徳川家康  加筆後の 松永知彦君の文の 再掲載

副島隆彦です。今日は、2023年2月9日(木)です。

 以下に載せる文は、この重たい掲示板の 「3515番」の文を、書き直して、加筆して、載せ直したものである。書いた人は、名古屋市に在住の、私たちの会員の松永知彦(まつながともひこ)君です。

 以下のとおり、今日のぼやき の 方を読みに行ってください。一体、歴史の真実とは何か、を、皆で、真剣に考えましょう。

現在、毎週放送されている、NHKの大河ドラマ「どうする家康」のウソつき に対して、私たちの学問道場は、真実暴(あば)き刀(とう)を振りかざして突撃してゆきます。 奮闘する 松永君の歴史研究の精緻な腕前と能力に、皆さんも声援を送ってください。ここに至る、松永君の古文書(こもんじょ)収集と、その読み込み、そして現地調査の労苦に思いを致しましょう。 

 今日のぼやき 「2039」番  【再掲載】「1456」番の   村岡素(もと)一郎 著 『史疑(しぎ) 徳川家康事績』(1902年刊)についての 松永知彦氏の長文の歴史論文を載せます。 2014年6月10日【再掲載】(第1回・全2回)  2023年2月8日

 私は、松永君とは、8年前(2014年)に名古屋市でお会いして、「真実の徳川家康は、こういう人物だった」の話をしました。 あれから8年が経(た)ちました。昨日、松永君と久しぶりに電話で話しました。
全くもって、歳月(さいげつ)は慈悲(じひ)を生(しょう)ず、で有ります。

 以下の文は、おととい松永君が投稿した重たい掲示板の文を、一昨日、彼から送って来た、新しい文に、私が、張り替えます。

 以下の松永君の文に、さらに私が、少しだけ手を入れます。そうしないと、ただでさえ、「隠されれている歴史の真実 を 表に出す」と言っても、興味も関心もない人たち(その程度の頭、思考力)を、文章で説得することは難(むずか)しい。それでも、真実を(は)明らかにしなければいけない。何100年も、そして今猶(いまなお)、ウソが堂々とまかり通ってはいけない。それが私たちの学問道場に集まる者たちの信念であり、深い決意である。

(転載貼り付け始め)

学問道場の会員で、名古屋の松永知彦 と言います。
  今年のNHKの大河ドラマ 「どうする家康」が1月から始まった。
今までとは違うあらたな家康像を描いているということで、表面上は好評のようだ。
ドラマはドラマという創作なので、その構成や筋書きに対して、私はあれこれと書くことはしない、と思っていた。

 しかし、放送5回目にして、私は、もう我慢ができなくなってしまった。
清州城(きよす)で、松平元康(まつだいら・もとやす)と 、お市の方が婚姻を結ぶ寸前までいったり、服部正成が忍びの姿で瀬名姫を救出しに駿府へ向かったりと色々驚かせてくれるのだが、だからといって通史をもとに構成、脚色されているドラマに目くじらを立ててあれこれ批判したところで、やはりどうしようもないと思い直した。

 それで、ここでは、今年のNHKの大河ドラマの初回放送から5回目までに描かれた時代背景を中心に、ドラマでは描けるはずもない真実の家康の姿をざっと書いていきたいと思う。

 ただし出典からの引用文や結論に行き着くのまでの解釈などを書いていると長大になってしまうので、ここでは真実のみを極力簡潔に書いていきます。時々脱線するかもしれませんが。

 最初に、大きな真実として、(副島隆彦注記。三河(みかわ)大名だった)松平元康(まつだいらもとやす)と、のちの徳川家康とはまったくの別人ということを再確認しておく。ここでは松平元康が、摩り替った、徳川家康は、当時、自身をどのように名乗っていたかははっきりしないので、先駆者たる村岡素一郎(むらおかもといちろう)に、敬意を表し世良田次郎三郎元信(せらだ・じろうさぶろう・もとのぶ) とする。

 世良田元信(せらだもとのぶ)の生まれは、駿府(すんぷ。今の静岡市)であり、祖母の於岩(於万=おまん=とする説もある)と、府中少将の井宮前(ふちゅうしょうじょうのいみやのまえ)町 に居住していた。 (『三河紀』『岡崎物語』『松平開運録』『駿河誌』『駿河近在巡見集』)

 この府中少将の井は、少将井の 社前(やしろまえ)の、下層民の、ささら者 の集団や、願人坊主(がんじんぼうず。 諸国を旅してまわる遊行=ゆぎょう=僧、隠密=おんみつ=の役目も負っていた ) が居住していたところだ。

(副島隆彦加筆。NHKのテレビで描かれているような)宮ケ崎にあった今川の人質館 (駿府城の北側の武家屋敷の中の、立派なお屋敷 )とは場所が違う。(『武徳編年集成』『烈祖成績』『逸史』)

(副島隆彦加筆。それに対して、駿府城の東の方の、下層民が住んでいた)この宮の前町に住んでいた ささら者たちの集団は「お社(やしろ)の前にて不浄なり」とのことで天正年間に八幡小路(はちまんこうじ)に移転させられ、のち、延宝(えんぽう)年間に、川の辺・馬淵に移転させられている。

 於岩(副島隆彦加筆。のちに源応尼(げんのうに)と名乗らされた、真実の家康の、祖母の於万=おまん)である。この祖母は、近くの、刑場であった、狐ケ崎(きつねがさき)の傍らにある末寺の知源院(のちの華陽院(けいよういん) = 現在の誉田町(ほんだちょう)にある府中寺 。副島隆彦注記。現在も残っている。皆で見学に行くべきだ。私は行った。この於まん(源応尼)の墓が有り、幼稚園も経営している。江戸時代の大名たちは、参勤交代の時に、この華陽院の前で降りて参拝したという)に、ほとんど住み込みのようにして出入りしていた。

(副島隆彦注記。。静岡市=駿府(すんぷ)の 華陽院に引き換え、今の愛知県の三河岡崎城の松平氏の累代の居城の方は、大名たちに忌避され、素通りされた。岡崎城は、深い謎が有って煙たがられた。私、副島隆彦が40年前、1980年頃に訪れた時には、岡崎城の周囲は、草ぼうぼうの荒れ放題だった。 ) 

  お岩(真実の家康の祖母)は、(刑死者を弔う)比丘尼(びくに。尼さん)だったからである。世良田元信は幼少期を八幡小路にある円光院(えんこういん)の智短上人(ちたんしょうにん)のもとで、読み書きを習いながら元気に暮らしている。 (『咬雑物語』)

 これは竹千代( 松平元康の方、当時8歳 ) が 、天文十八年(1549)十一月に人質として初めて駿府に送られる(副島隆彦加筆。 ことになっている。おそらく岡崎上の中で、殺されて摩り替られた、三河大名・松平元康=まつだいもとやす=)方のよりも、一世代、前の話である。村岡素一郎氏は根拠を示していないものの松平元康は世良田元信よりも4歳年上だとしている。

 駿府到着後の竹千代は、(三河松平氏 から、駿府今川家への少年人質として)宮ケ崎の今川館に居住している。松平元康が教えを受けたのは、(立派で高名な )禅宗の僧侶の、太原雪斎(たいげんせっさい)で 清見寺(せいけんじ)もしくは、臨済寺でのことである。
 
 元康は病気がちで終始元気がないため世話役として祖母の於富=源応尼(げんのうに) が岡崎から呼ばれている。(『府中寺々記』)  徳川家康となって以降、各々の祖母である於岩(真実の家康の祖母) と、於富(源応尼。三河大名松平元康の祖母 )がひとりの人物となってしまった。

 のちに家康によって慶長十四年 (西暦1609年)に立派に建て替えられた華陽院(けよういん)には「家康生い立ちの地」の立て看板があったが、今もあるかどうかはわからない。加えて『大日本駿州城(すんぷじょう)府分(ふぶん)時鐘銘(じしょうめい)』には、「そもそも駿府というは、なかんずく東照大権現(とうしょうだいごんげん)垂迹地(すいじゃくのち)なり 」と書かれている。

 垂迹(すいじゃく)とは、仏教用語で、出現とか生誕の意味である。『駿河誌』にも、その場所は「今の華陽院境内なり」と書かれている。すなわち華陽院の前身である知源院の境内こそが、真実の徳川家康生誕の場所なのである。

(副島隆彦注記。 真実の家康の真実の父親は、上州=今の群馬県=世良田村から、駿府=静岡市=に流れ着いていた、下層民の 願人坊主(がんじんぼうず)の江田松本坊=えだまともとぼう=である。当時の戦国の世の、荒くれ者の流浪人だろう)

(副島隆彦加筆。1560年5月の桶狭間の戦いの直後、総大将の今川義元を失って、困り果てて)大高(おおたか)城から岡崎に戻った時点で松平元康は亡くなっている。(家康研究家の)木宮高彦氏 が主張する瘴癘(しょうれい。現代のマラリアにあたる)だったかもしれないし、大樹寺(だいじゅじ)到着後、自害したのかもしれない。

 あるいは世良田元信に誘い出されて小幡が原(名古屋市守山区)で暗殺されたのかもしれない。いすれにせよ桶狭間の戦いの後(あと)で、松平元康は、世良田元信と入れ替わったのである。その証拠がある。

 永禄三年(1560)六月七日付けで地元、中山庄(なかやましょう)の、天野与惣(あまのよそう)と、鈴木右衛門三(すずきうえもんざ) のふたりにあてたお墨付きの書状である。

 これは桶狭間の戦い以後、最初の元康の花押(かおう)入り書状である。その字体はのちの徳川家康時代の花押とその字体や筆裁きがそっくりである。それなら問題ないではないか、とはならない。

 桶狭間の戦い直前の、永禄三年四月七日付けの書状でほぼ同じ内容のお墨付きが前述のふたりに対して元康の花押で出されているのである。問題はその花押である。桶狭間の戦い前の元康の花押は、丸く線の細い、駿河大名の今川義元(いまがわよしもと)の花押によく似たものである。

 だが、桶狭間の戦いの後に出された書状の元康の花押は、のちの家康と花押と字体もよく似た角張った字で筆の太い花押である。しかもこの花押はその後6通出されたあとしばらく姿を消し、また元の丸く細い花押に戻っている。(『徳川家康・下巻(木宮高彦)』) 家臣がこれはまずいと世良田元信に練習でもさせたか。

 木宮高彦氏は、このお墨付きをもらった天野与惣と鈴木右衛門三が桶狭間の戦い後、お家の大事と岡崎城へ駆け付けたら、なんと主人が変わっていたので慌てて同じ内容の書状を再度もらったのであろう、と推測している。

 これが6通あるということは同様のケースが6回あったということであろう。だが家康風元康の花押の書状について説明されている公式の資料や専門家の方々の意見はこれまでまったくない。この二通りの書状は『参河誌』にも記載されているし大変重要な歴史資料だと思う。だから 歴史学者の皆様方、自説でよいのでいつか必ず説明してくださいね。素通りなどせずに。

 NHKの大河ドラマ「どうする家康」では描写はなかったが、桶狭間の戦いは、実は桶狭間ではおこなわれていない。主戦場は、田楽ケ窪(でんがくがくぼ。田楽久保または田楽坪)である。 田楽狭間とする文献もあるが田楽ケ窪が正しい。田楽ケ窪は桶狭間道からは鎌倉街道を挟みかなり離れている。その田楽ケ窪の南側周辺に桶狭間山(おけはざまやま) はある。 だが桶狭間山というのは固有の山の名称ではなくこのあたりの山々の総称である。

 そもそも狭間とは山と山の谷間のことであるから山の名称にはなり得ない。このあたりは桶のように見えるので桶狭間と呼ばれるようになった。今川義元が討たれた場所は田楽ケ窪からさらに北西2百メートルほどであろうか。

 地形的に今では織田軍は今川軍に対し奇襲ではなく正面衝突だったというのが通説であり、わたしもその説に異論はない。ではなぜ古来より奇襲説が語られ桶狭間の戦いではないのに桶狭間の戦いと言われているのか。

 それはこの時、世良田元信一党が、今川家臣が宴会をしていた田楽ケ窪か、もしくは今川義元の休息地を見下ろせる桶狭間山のどこかに潜んでいたからである。そこから戦況を見極め、好機とみるや、一気に山を駆け下り織田側に加勢をしたのだ。このことが「桶狭間の戦い」と伝わり、「山を駆け下る奇襲」の口伝の元となったとわたしは考える。

 今川義元に一番槍をつけた服部小平太(はっとりこへいた)も首級をとった毛利新介(もうりしんすけ)も、織田氏の家臣ではない。『尾張誌』には、服部小平太は今川軍に最初から従軍していたかのような記述もある。織田信長も一番の功労者であるこのふたりに何の恩賞も与えていない。服部小平太はこの戦いののち徳川家康に仕え、その後、豊臣の家臣として送られている。毛利新介は、そのまま残り、織田信長の嫡男、信忠(のぶただ)の家臣となった。ふたりとも(副島隆彦注記。以前から今川方に潜り込んでいたスパイであり、尾張大名の織田信長の忠実な家来だったのだ。そしてこのあとの人生は)徳川方の間諜の役目を担ったであろう。

 第八代将軍吉宗(よしむね)公の時世に、堀杏庵(ほりなんあん。きょうあん?)が、『庚申闘記(こうしんとうき)』に「神君家康公のお力添えとお導きがあってこそ、織田信長公は今川義元公を討ちとり徳川家も開運の基をひらいた。」と書いてしまっている。

 しかもそれを書物(しょもつ)奉行の堀田恒山(ほったこうざん)が後押している。そればかりか、堀田恒山(ほったこうざん)は、『石ガ瀬 合戦 始末記』で、松平元康と徳川家康は、石ガ瀬と和田山で二度対戦しているとまで書いてしまって、大岡越前守忠相(ただすけ)から発禁処分を受けたあげく、尾張七代宗春(はるむね)も謹慎処分となっている。『松平紀 徳川合戦資料大成(八切止夫)』

 桶狭間の戦いで、世良田元信が織田勢に加勢したことは間違いなく、松平元康と徳川家康が別人であることは、実は尾張では昔から言われていたことなのである。

 ちなみに桶狭間の戦いの後、松平元康が大高城から岡崎城へ戻ったルートは2説ある。一般的に言われている大高から池鯉鮒( ちりふ。現在の知立(ちりゅう)市)、今村、大門などを通る陸上の鎌倉街道説と、大高から大野浦、常滑(とこなめ)、亀崎、高浜から船で岡崎、という海上ルートである。

 どちらの説もその途中の寺社に家康公が立ち寄った時のことを詳細に記されたものが残されており、ここ愛知県の地元では、各ルートの支持者の間で論争が続いていて未決着である。だが、何のことはない。陸上ルートが松平元康で、海上ルートが世良田元信(副島隆彦注記。摩り替わる前年の、戦場スパイの一団を率いていた)である。

 ここでは書かないが、それぞれに付き従った家臣の名を確認すればわかるのだ。(歴史研究家の)木宮高彦(きみやたかひこ)氏は、別の海上ルートの方を「知多半島横断説」と名付けて『徳川家康・上巻』の中でそちらを主に紹介している。だが、わたし松永は、大高から大野浦、常滑(とこなめ)、亀崎、高浜から船で岡崎、が世良田元信のルートだと思っている。

 その桶狭間の戦いの約1ケ月前の永禄三年(1560)五月六日、今川義元が上洛するにあたって狐ケ埼で(副島隆彦加筆。尾張の信長勢に対する)戦勝を祈念する祭事があった。そこで軍神の血祭として処刑されたのが、世良田元信の祖母の於岩(松平元康に摩り替わる前の世良田元信の真実の祖母 )である。

 『松平啓運録』に「狐ケ崎の知源院に尼公を葬り去る。慶長十四年これを移す」とある。処刑の理由は、その数日前、世良田元信とその一味が、今川館から竹千代( 副島隆彦注記。のちの岡崎三郎信康=のぶやす= 。

 殺されて摩り替られた、三河大名・松平信康の長男。2歳の幼児 )を 誘拐したことが露見したからである。於岩の甥であり、のちに大河内(おうこうち)姓を引き継ぐ源三郎の妻が乳母として今川館に仕えていた。この女が手引きしたのだ。源三郎もこの時、捕らえられ8年後の駿府落城まで牢に入れられている。
 
(副島隆彦注記。この時、家康の真実の母である、於大=おだい=、のちの江戸(東京)に今も有る文京区の伝通院=でんつういん=さま のこと )も、一緒に8年間、とらわれていた。家康の実の弟たちも、駿府で捕まっていた。たとえば、のちに沼津城主、大名になる 久松正俊 =ひさまつまさとし)=がいる。おかしいだろう。家康の真実の母親である於大が、このあと久松・・と結婚して、この弟たちを生んだのだ。だから、16家ある松平氏の中に、久松松平家がある。今も続いている。実の母親のお大=伝通院=は、慶長7(1602)年に死んでいる。

 コラー、 歴史学者ども。これらの事実を、辻褄が合うように、きちんと説明、釈明、白状せよ。いつまでも、大ウソがまかり通ると思うな。 副島隆彦は、ずっと怒り狂っている。

 困り果てた、江戸時代から『徳川実紀(とくがわじっき)』を書き続けて、家康の経歴について、ウソの上塗りを続けた、歴史学者たちは、家康の母親が、三河の境川(さかいがわ)沿いの水野家から松平氏に嫁いで、出たり、入(はい)ったりする、ヘンな書き方をして、ウソを取り繕(つくろ)っている。全く、ご苦労なことである。あの、嘘八百の「小説徳川家康」の大著(? ハ? )を書いた、バカ野郎の本は、今では、もう誰からも、見向きもされない。さすがに 史実捏造加担歴史学者たちでも、困り果てて、一切、言及しない。

 家康の真実の弟のひとりは、牢屋で、足が萎えて障害者になった。母親は、この息子をずっと不憫がった。8年後に、大名になっていた家康が、掛川城まで進軍して、ようやく、今川から自分の真実の母や弟たちを捕虜交換で取り戻したのである。副島隆彦注記終わり )

 世良田元信が、血祭りに挙げられた、実の祖母の於岩(於まん)の死の知らせを聞いたのは、浜松城(当時は曳馬城=ひくまじょう=) を攻める陣中である。 「幼少のころ父母のように慈愛を受けた祖母の訃報を聞いても駆け付けることもかなわず、使者を送り葬った」と、征夷大将軍になったあと催した於岩の五十回忌の折、華陽院(けよういん)の扁額(へんがく)に、自らの筆で書き記している。 この時に知源院を格上の立派な華陽院 に建て替え改葬したのだ。

 この家康自筆の扁額(へんがく。横文字の額=がく=の漢文)は、「この寺は、禅尼(自分の祖母) の旧地である」から始まり「この府下で禅尼の家に住んだ」そして「はじめて(私が)浜松に義軍(ぎぐん)を発し数州を征した」とも書き記している。はじめて旗揚げしたのは ( 副島隆彦加筆。だから、三河大名の松平氏の居城の三河岡崎ではなく ) 浜松だ、と本人が書いている。徳川家康の真実に迫る重要な記述がいくつもある。 

 (副島隆彦注記。松平元康を殺して、摩り替ったあとの、家康は、ほとんと岡崎城にいない。家康は18年間ほとんど浜松城にいる。なぜなら、三河の松平の家臣団に摩り替ったと、バレているから遠慮したのだ。)

 この扁額は、昭和15年の大火で焼けてしまったが、徳川家正(いえまさ)公が、自筆で一字一句正確に書き写してくれていたおかげで現在に伝わっている。

 世良田元信一党(副島隆彦注記。戦場スパイの一団。凶悪な野武士の集団のように動いた)は、この時、駿府で誘拐した竹千代( 岡崎三郎 松平信康=のぶやす= 2歳 )を、掛塚(かけづか)の鍛冶屋の平太の家に預け隠した。『阿部家夢物語』にその時の記述がある。この鍛冶屋の平太がのちの服部平太夫(はっとりへいだゆう)でありその娘の於愛(おあい)がのちの西郷の局、すなわち、2代将軍秀忠(ひでただ)と 次男・・の生母である。「西郷弾正左衛門員の養女、実は服部平太夫保章が女(むすめ)なり」と『泰平年表』にある。

(副島隆彦注記。私は、この忍者の頭目の服部平太夫が拠点にしていた掛塚=かけづか=の港に行った。暴れ川だった天竜川の河口だ。浜松から東に10キロぐらい。三方ヶ原(みかったぱら)の戦いに敗れて、武田信玄の猛攻を受けて、真実は、浜松城も落とされた。城兵は皆殺しにされた。家康が、ここで立て籠もって生き延びた、というのはウソだ。家康は、共の者、数名とだけ、東の方に落ち延びた。家康はこの掛塚に逃げ込んだ。そして船で沖に出ただろう。それで生き延びた。信長の援軍は、浜松のそばまで来ていたが、間に合わなかった。これが歴史の真実だ。このことは、私の信長、家康本に現地の写真と共に、書いた。皆さんも、この掛塚に行ってみてください。)

 その後、潮見坂(しおみざか)で、織田側に信康(三河大名松平元康の嫡嗣=ちゃくし=。20歳まで生きて、殺された) を引き渡している。清州同盟(この言葉は、ウソ)の際、信長と交渉して、あたかも元康の遺児を、自分の力で取り戻してきたかのごとく凱旋し瀬名姫と 、三河武士たちの信望を得たのである。

( 副島隆彦注記。瀬名姫(せなひめ)とは、築山殿=つきやまどの=のことで、三河大名・松平元康の正室である。瀬名川は、静岡市の東側で、清水市に近い。この川のそばに有る私立大学に、私、副島隆彦は、12年間、勤務した。

 その築山殿は、息子の信康と共に、用済みになって、摩り替りの隠滅のために、浜名湖の畔(ほとり)で、首を絞められて殺された。20歳になっていた岡崎城主の信康は、二股城(ふたまたじょう)で殺された。 家康にとっては、自分の長男の秀忠が、西郷の局(お愛)との間に、生まれたからでもある。信長の許可を取って、家康がやった。2代目服部半蔵が、自分の主君である松平信康を、泣きながら殺した。副島隆彦注記、終わり )

 すべては三河を今川から切り離し織田側につけるための信長と世良田元信の筋書きである。
 (副島隆彦注記。真実の徳川家康を追究した、優れた小説家の)南條範夫(なんじょうのりお)氏によると、世良田元信が清州城に入場する際、集まった群衆の中に、松平元康の顔を知る者がおり、あれは元康どのではない、と叫んで騒ぎになりかけたところ、本田(平八郎)忠勝(ただかつ)が一喝しておさめた、という記述が『大成記』に書かれてあるとしている。

 岡崎三郎信康が一時、織田家の人質となっていたことは、寛政二年(1790)四月付、加藤忠三郎の「雛人形二対」という書き出し書に書かれている。(『尾州藩資料』)
 
 それによると、「東照宮御幼年の時、」という書き出しではあるが「塩見坂(潮見坂)で内府(ないふ)織田信長公の元に送られ加藤図書之助(ずしょのすけ)宅 にて六歳~八歳までいたが、日夜泣くので加藤隼人佐の妻である於与女(およめ)が、幼君を御守りし雛人形で慰めた。賜(たまわ)った桐の紋の盃(さかづき)も所蔵している。」とある。

 何かおかしいと気づく。織田信秀時代の竹千代(松平元康)のことであるようにこじつけたいが、はっきりと 内府織田信長公 にと書かれ、しかも八歳になる武将の男子を雛人形であやすわけがない。これはこの時二歳だった岡崎三郎信康のことである。

  紋といえば、NHKの初回の放送で、主演の松本潤氏(松平元康)が、大高城を目指して駆けているシーンなどで、家臣ののぼり旗に三葉葵紋が描かれていたが、あれはいただけない。
 松平家の家紋は代々「五々の桐」をはじめとする桐紋(きりもん)である。広忠(ただひろ。元康の父 )の家紋は「剣銀杏紋」だったとの説もあり、清康( 元康の祖父。いずれも三河大名 )が、伊奈(いな)城主 (愛知県宝飯郡(ほいぐん)) の本田正忠から葵紋(あおいもん)を譲り受けたという伝承もあるにはある。

 だが家紋として使われた形跡はない。徳川家が三葉葵紋(みつばあおいもん)を家紋として使うようになったのは、世良田元信が徳川家康と改名してからであり、その由来は、上野国(こうづけのくに。今の群馬県)の 新田庄(にったのしょう)の 得川郷(とくがわごおり)の世良田村 ( 別名葵村 ) である。

 この得川(とくがわ、あるいは、とこがわ)郷の満徳寺から天海(てんかい)僧正が、公儀御用と称して新田氏の系図を(自分のものにするからと)召し上げた、のは有名な話である。

 ここで、どうしても松平清康の身におこった「森山崩れ」について述べておきたい。 徳川の通史では、天文四年(1535) 十二月、春日井(かすがい)郡 森山(現在の名古屋市守山区 )の陣中で、清康(きよやす )が、家臣阿部大蔵定吉(あべだいぜん・さだきち)の息子弥七郎(やひちろう)に惨殺されたという事件である。

事件のあった場所は現在の小幡が原(おばたがはら)とされている。

 (副島隆彦加筆。真実の徳川家康を書いた)村岡素一郎(むらおかもといちろう)は、『史疑(しぎ)』の中で、実際は、永禄四年(1561)に、世良田元信に誘い出された元康の身に起こった事件であるとしている。世良田元信が元康をここで暗殺したかどうかの判断は難しいが、清康の森山崩れなど、ここではおこっていない。これは確かである。

 『岡崎領主古記』に清康公は「上野(うえの)広久手(ひろくて)の合戦の時に戦死され、之により、西三河の御一門をはじめ、御譜代(ふだい)衆も面々心々になりぬ」と書かれており、欄外には朱文字で「広久手は山の名、上野は地名という」という但し書きまである。

 「面々心々」とはどう読むのか、礫川全次(こいしかわぜんじ)氏は読み方も意味も不明としている。だが、榛葉英治(しんばひではる)氏は、「譜代の家来は散りぢりになった」と訳している。

  わたし、松永知彦は、平成27年(2015)に運よく『岡崎領主古記』の写しを手に入れることができ、この原文に初めて触れた時は、感慨深いものがあった。だが、写本入手前、平成18年(2006)に初めて『史疑』でこの一文を読んだときには、大変驚き、いずれ上野・広久手 (現在の豊田市=とよだし= トヨタ自動車の本社がある )を訪れたいと思っていた。私は、翌平成19年8月頃、ようやく現地に行くことができた。

 上野町、広久手町は双方小高い丘陵地帯で住宅や工場、商店街が立ち並び活気に溢れた町であった。その後、清康と縁深い安祥城(あんしょうじょ。愛知県安城市 )に向かい、そこで読んだ地元の歴史書に、「この地方では林や森はヤマと呼ぶのが普通である」という記述を見つけた。また本丸跡の大乗寺の看板には「安祥城は別名森山城と呼ばれていた」と書かれてあった。

 この後、長縄観音院( 愛知県西尾市 )へ向かい清康の仮墳(かりのはか)を確認した。上野・広久手の合戦で討ち死にした清康の亡骸を家臣の大河内喜平次 がここまで運んで密葬した、と伝わっている。地理的に妥当である。

 この仮墳は、寛政七年(1795)、清康の死から実に260年後に、時の住職が偶然見つけて掘り起こしたものだ。当時の寺社奉行から元のように埋め戻し内密にするよう命じられたと『朝野旧聞裒(ほう)稿』にある。今は手厚く改葬されて、わたしも墓前に手を合わせることができた。

 わたしは清康(きよやす。真実の松平元康の祖父 )の森山崩れの真相にかなりこだわっている。
 なぜならこの事件の書き換えが、徳川神話の遡りと改竄(かいざん)作業の最終点であり、今は逆に、神話の起点になっていると思うからである。家系図の詐称もあるが、それはこの時代はよくあることで、さほど問題ではない。多くの武家が源平藤橘( 平はないか )に自分の先祖を繋(つな)げたい、と系図を書き替えたことはよくあったという。
 けいず屋という商売も成り立っていたぐらいだ。それに松平初代親氏(ちかうじ)と、二代泰親(やすちか)が何者かということは、私は、以前の調査で明らかにしている。

 いまの通説では、徳川家康は新田源氏の子孫でない、としている。松平初代親氏(ちかうじ)を無理に、新田氏と繋げた系図詐称との見解だが、それは徳川家康と松平元康を同じ人物としているからである。松平家が新田源氏と無関係なのは間違いない。

 だが、家康の実父は上野(こうずけ。今の群馬県)の新田庄(にったのしょう。新田義貞=にったよしざだ=の一族の地。その南側の、利根川沿いの湿地帯が、世良田郡であり、その一部にある) 得川郷(とくがわのさと)の出身だったかもしれないので、徳川家康個人に限って言えば新田源氏の子孫である可能性はある。

(副島隆彦注記。だから、真実の徳川家康の実父は、この上州世良田(せらだ)郷から、流浪して来ていた願人坊主という、勝手に僧を名乗って、買っての門付け=かどづけ=をして、経文を唱えて金持ちたちからカネを強請(ゆす)ることを生業=なりわい=とする下層民である。)

 話を戻す。この松平清康(まつだいらきよやす。三河大名。松平元康 の祖父 )の討ち死に の真実を、私が、明かし正史とすることが、江戸幕府が開かれてから400年以上たった現在まで続く徳川神話を糺(ただ)す、第一歩になると信じている。

 松永知彦です。結局、長文になってしまった。しかも一部の内容は、今回、今日のぼやきの「2039番」として、再掲載として、昨日、載せていただいている拙文と重複している。ご容赦ください。

さあ私は、次は何を書きたくなるか。
 大河ドラマの流れだと、次は永禄六年(1563)の三河一向一揆か、もう少しあとの天正七年(1579)の築山殿(つきやまどの)と息子の信康(のぶやす)事件か。三河一向一揆も築山殿・信康事件もドラマの構成によっては書きたくなる。

  いや、この三河一向一揆は、複雑な話ではないので、私は、以下に要点を先に書く。この一揆は、このままでは、駿府生まれのよそ者である世良田元信に、三河が乗っ取られると危惧した西三河(にしみかわ)衆の反乱である。だから、松平元康に摩り替った世良田元信が、用意周到に準備して挑発し、計画どおり鎮圧したのだ。

最後にこれを書いて終わりとしよう。
 実は徳川四天王は、4人とも三河出身ではない。榊原康政(さかきばらやすまさ)は伊勢、井伊直正(いいなおまさ)と酒井忠次(さかいただつぐ)は駿府、本田忠勝(ほんだただかつ)は遠江である。出身地までの描写はほとんどの文献で、まずない。だから、なんとなく皆、三河出身と思っているが違う。
 三河出身者は、世良田元信が徳川家康となったのち、皆、石高を低く抑えられ、戦では常に前線に向かわされ、ことごとく冷遇されている。  松永知彦筆  
( おわり)