重たい掲示板
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Loginはこちら【1650】[1986]なるほど
澤田様のご指摘が正しいが正しいのかもしれません。
一度、国税局の納税支援調整官に電話して聞いてみます。
澤田様、有難う御座いました。
会員NO1035 中野 誠
【1649】[1985]ドメインがヤフーでは国ではない.
会員番号2953の澤田正典です.今日は平成28年9月3日です.
現状についてよく把握できている者ではありませんが,東京国税局といった国家機関から,ヤフーのドメイン@yahoo.co.jpで日本国民に連絡をするということが,果たしてありうるのかどうか,正直,疑問に感じます.それは,おそらく,謀略メールというやつでしょう.
今,「副島隆彦の学問道場」だけでなく,他にも,日本国民の利益に直接的に繋がる大切な情報をインターネット上で広く発信している方たちは,どうやら同じような被害や妨害を受けているようです.
あまりひどい内容であれば,警察に届けることも含めて対策を進めたほうが良いかもしれません.東京国税局自身も,そのように名をかたったメールがネット上に流れていることに対処したほうが良い可能性があります.
澤田正典 拝
【1648】[1984]また東京国税局からメールが来ました
東京国税局には、領収書など見たこともないし、署名捺印などしていない。
学問道場の人間が勝手に、私の名前を使ってしたことだと返信しました。
会員の名前を勝手に使い、ニセ領収書を税務署に提出するなんてあまりにも
幼稚な安易な手段だと思います。税務署もプロですから、騙されません。
副島さん、どうなっているのですか?会員にまで迷惑をかけてどうするのですか
御説明をお願いします
会員NO1035 中野 誠
【1647】[1983]天武天皇の正統性について
1977の続きです。
自ら正体を隠した柿本人麿
柿本人麿の正体を明らかにすることが何故重要か?
天武天皇の命で始まる「歴史編纂作業」と人麿の作歌活動は同じ時期に重なり合っている。
人麿が作歌活動をしているのは、持統朝(687~697)・文武朝(697~707)である。
修史作業も、この持統朝・文武朝で精力的に進められていたのである。大宝三年(703)の粟田真人の遣唐使は、日本国の由来を唐朝に説明するのが主任務であった。
つまり、この時まで「日本史」の大枠は完成していたと考えねばならないのである。この「日本史」は、天武天皇を正統化する為のものであり、唐朝にそれを認めてもらうために創られたのである。唐朝を読者に想定して作られたのだ。
七世紀の後半まで、日本列島には未だ統一王朝は成立していなかった。天智天皇の時、初めて統一王朝が成立したのである。倭国の朝鮮半島出兵の惨敗による自滅で、それは可能になった。
天智天皇の和風諡号(おくりな)は、天命開分天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)である。初めての統一王者に相応しい諡号である。
「壬申の乱」は、倭国の大皇弟による近畿大和王朝(日本国)乗っ取り事件であった。
朝鮮半島では、668年に高句麗が唐・新羅連合軍に滅ぼされる。唐は大帝国である。朝鮮半島の植民地化を企てていた。新羅が勝者として強大化するのを望まなかった。百済残党を援助して、新羅に対抗させるような策謀を巡らしていた。
遂に新羅は正面切って唐に反旗を掲げたのです。そんな中、671年(天智十年)十一月、唐使・郭務宋が二千の兵を率いて四度目の来日を果たしている。この来日の目的を、倭国に再度の新羅討伐軍の派兵の要請以外に考えることが出来るのか。要請と云うより、命令であった。
しかし、今や倭国は日本国の臣下である。唐の命令を、日本国に取り次ぐしかなかった。この十二月三日に、天智天皇が亡くなっている。皇位を引き継いだのは、天智天皇の長子の大友皇子(明治になって諡号を送られた弘文天皇)であった。
大友皇子は、唐の要請を受け入れ、半島に新羅討伐軍を送ることに決めた。
郭務宋は、672年の五月の末日に帰途についている。
この五月に、大友皇子は、美濃・尾張両国で徴兵を開始している。この兵達の服に赤い色を目印に付けさせていたという。赤のシンボルカラーは、帝国唐のものであった。周辺の属国は、赤を勝手に用いることなど許されることではなかった。
天武の勝利は、大友皇子の徴集していた兵を、何の抵抗を受けることなく手に入れたことと、名門大豪族大伴氏が一族を結集して天武の味方に付いたことによる。
しかしあくまでも乗っ取りであり、騙し討ちであった。天武の勢力は、勝者ではあったが、少数者であった。天智系勢力から見れば、大伴氏は裏切り者であった。大伴氏は、勝者であったが、すみ安い世ではなかった。
さて人麿である、彼は天武の王朝に全力で賛歌を捧げている。
大君は 神にしませば 天雲の 雷(雷)の上に 庵らせるかも(235)
人麿は、明らかに天武勢力の一員である。また七世紀後半まで日本列島には統一王朝は成立していなかったのであり、統一神話も統一歴史も持っていなかったのである。
天武の命による「修史事業」で始めて「統一神話・統一歴史」が編み出されたのだ。人麿の王朝賛歌は、まだ日本人が知らなかったことを元にして謳われている。彼が修史事業の真っただ中に居なければ不可能である。
人麿は、それまでにある日本人の信仰を謳ったのではなく、人麿が歌った故に日本人の信仰になったのである。
【1646】[1982]中野誠様ありがとうございます
夏休み中に弟と2人で徳力本店で200万円を超過する金塊取引をしていたので、しかも地元市役所から配布されたマイナンバー票の原本提示をしていたので、私の取引情報が漏れたかと最初は思いました。
過去にも地元税務署から金塊についての追跡調査文書が来て、抗議文を送付したので、報復かと思いました。
会員番号7791 庄司 豊明
【1645】[1981]私にも来ました
今朝、メールを見ると東京国税局からお尋ねしたいことがありますとの
題名で届きました。ニセメールだと思い開けずに消しましたが
念のため、東京国税局に朝一番、電話で問い合わせをしょうかと
思っておりました。今朝7時半ごろ、重たい掲示板を見ましたら
庄司様の投稿が載ってあり、アドレスも同じninnfu4545でした
内容は、庄司様が書いておられるので、私に来たメールも同じだと
思います。会員の個人情報が持ち出されていますね。
会員NO1035 中野 誠
【1644】[1980]相手方アドレスの訂正です
度々すみません。
相手方メールアドレスが間違っていたので訂正致します。
ninnfu4545@yahoo.co.jp
会員番号7791 庄司 豊明
【1643】[1979]国税局からの不愉快なメールです
内容は以下の通りです。
庄司 豊明様にお聞きしたいことがあります。
贈与税、所得税の申告はお済でしょうか。
副島隆彦の学問道場の領収書に、庄司豊明の名義で、200万円の受領領収書をお書き
になりましたでしょうか。
お手数ですが10月1日までにお近くの税務署までお越しください。
東京国税局 藤井健一
以上がその内容です。
相手方のメールアドレスはninnfu@yahoo.co.jp
私は相手方のメールアドレスに以下のように返信しました。
そのようなことは一切なく事実無根です。
何の証拠や捜査令状もなく、わざわざ仕事時間を割いて税務署まで出頭する義務
は一切ないと思いますがいかがなものですか?
国家権力の濫用はやめていただきたいものです。
会員番号7791 庄司 豊明
【1642】[1978]SMAP解散を予言していた副島先生
くだらない話をします。「副島隆彦の人生道場」(平成20年刊行)中に、以下の記述があります。「一番控えめでまじめそうだったのは(紅白出演者中)SMAPの5人組で、彼らが一番深刻そうな表情をしていた。今の不景気で、将来の不安に包まれている若者、学生たちの感じは、SMAPのあの仲間割れして互いに口も利きたくないのに、いっしょに踊っています、という感じによく表れていた。よっぽどジヤニーズ事務所と各自が険悪な関係になっているのだろう。」ああ!8年も前に、こんな事迄、ここ迄見抜いていたとは!と、副島先生の偉大さに、改めて感動している次第です。
【1641】[1977]天武天皇の正統性について
1966の続きです。
自ら正体を隠した柿本人麿
『万葉集』巻二「柿本朝臣人麿、妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌」(207~216)と「吉備の津の采女の死(みまか)りし時、柿本朝臣人麿の作る歌」(217~219)「讃岐の狭岑島(さみねのしま)に、石の中に死かれる人を視て、柿本朝臣人麿の作る歌」(220~222)は、人麿の亡き妻に奉げた鎮魂の歌であったことを明らかにした。
人麿の妻の死は、病死などの自然な死に様ではなかった。追い詰められて覚悟を決めた秋の山への出奔であった。
人麿は、必死に探し求めたが亡骸にすら巡り合うことが出来なかった。
***大鳥の 羽易(はがひ)の山に 汝(な)が恋ふる 妹は居ますと 人のいへば 岩根さくみて なづに来し 好(よ)けくもぞ無き うつそみと 思ひし妹が 灰にてませば(213)
人麿は、妻に懺悔し、鎮魂しなければならなかった。妻が追い詰められ窮地に堕ちていることを十分認識していたのである。
天飛ぶや 軽の路は 吾妹子(あぎもこ)が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ 狭根葛(さねかづら) 後も逢はむと 大船の 思ひたのみて 玉かぎる 磐垣淵(いはかきふち)の 隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに ***(207)
人麿は、窮地に堕ちていた妻に、手を差し伸べて救ってやることが出来なかった。人目が怖い、と。世間にばれるのが恐ろしい、と。
時間が経ち、ほとぼりが覚めたら、また逢えるようになるさ、と。自分の恋心は少しも変わらないのだから、と。
そんな中、突然妻は失踪したのであった。必死に捜索したが、遂に見つけ出すことが出来なかった。亡骸さえ捜し得なかったのであった。
人麿は、妻殺しの原罪を負って出発した詩人である。懺悔し、鎮魂する長い旅路を歩まなければならなかったのだ。
「讃岐の狭岑島に、石の中に死(みまか)れる人を視て、柿本朝臣人麿の作る歌」(220~222)までは、明らかに妻に奉げた鎮魂歌と読める。
この歌の直後に配置されるのが「柿本朝臣人麿、岩見国に在りて臨死(みまか)らむとする時、自ら傷(いた)みて作る歌」である。
鴨山の 岩根し枕(ま)ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ(223)
日本人誰でもが目にしたことのある歌である。この歌の直前まで、人麿は亡き妻に鎮魂の歌を捧げていたのである。であるならば、この歌でも、人麿の語り掛けているのは、失踪を遂げ、何処で果てたかもしれない亡き妻に対してではないのか。
鴨山の岩根を枕にして旅を続けている私を、あなたは何時来るかいつ来るかと待ち続けているのでしょうね。
つぎの「柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時、妻依羅娘子(よさみのおとめ)の作る歌」(224,225)
今日今日(けふけふ)と わが待つ君は 石川の貝に(一に云ふ、谷に) 交(まじ)りて ありといはずやも(224)
直(ただ)の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ(225)
この妻依羅娘子は、失踪を遂げ、今やあの世の人である亡き妻を想定して歌を作っているのだと、私は読んだ。亡き妻に成り代わって詠んだ歌であると。この歌の直後に置かれている「丹比真人、柿本朝臣人麿の意(こころ)に擬(なづら)へて報(こた)ふる歌」の題詞からも、他人に成り代わって歌を作る伝統があったことが明らかである。
〔224,225〕の歌が、人麿の亡き妻に成り代わって詠まれた歌であったとすると、それはどのように理解すれば良いのか。
次回、必ずここから始めます。