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Loginはこちら【1667】[2004]ヒラリーに、嫌々(いやいや)ながらNYで会った安部首相。
副島隆彦です。今日は、2016年9月21日です。
台風16号は、昨夜、名古屋のあたりから木曽山脈にぶつかって消えてしまった。温帯低気圧に変わったのだそうだ。嵐(あらし、大風)がなくなってただのじゃぶじゃぶ雨になっ
た。 台風は、日本列島を過ぎたあたりで、力がなくなって消えてしまうもののようだ。
私は、3年前に、台湾に行った時に聞いたが、台湾や、フィリピンそれから、沖縄などは、台風が生まれたばっかりだから、物凄い風だそうだ。生まれたばっかりの台風の強大なエネルギーを、日本本土の人間たちは、知らない、らしい。台風は、日本まで来ると(あるいは、中国大陸に上陸すると) 一気に、力がなくなるものらしい。それでも、あの強さだ。
自然との付き合いでは、とても人間は未(いま)だに勝てない。 自然(災害)をサイエンスの力で、制御しようとする試みはこれからも、じわじわと進んでゆくのだろう。
台風(タイフーン)というのは、北米大陸の東岸では、これをハリケーンという。名前が違うだけで、まったく同じ現象だ。インド亜(あ)大陸の東岸にも熱帯性のモンスーンがある。きっとアフリカ大陸の東岸にもあるだろう。
さて、以下に載せる記事は、日本時間で、昨日20日の午前7時ぐらいだろうから、ニューヨークでは、午後5時ぐらいだと思うが、安倍首相が、ニューヨークで、ヒラリーに会った、という。記事を読むと、「ヒラリーの方から要望があって」、「ヒラリーの方から、ホテルに会いに来た」 という形になっている。 中身なんか何もない。
ヒラリーにしてみれば、「せめて、日本 (安倍政権) だけは、私を見捨てないで」という感じだ。 ヒラリーは、国際社会(=世界政治)では、もう誰からも相手にされていないのだ。それなのに、日本の安部晋三だけは、義理立てして、自分が所属する 世界ネオコン勢力の、弱々しい、今の代表である ヒラリーからの誘いが有れば、会わないわけにはゆかない。
安倍たちは、日本国内は、自分たちのやりたい放題の、いつもの謀略政治で、圧倒的に強い。しかし、日本を一歩出たら、何の力も無い。貧乏な国にお金をばらまいて歩かないと、どこの大統領も相手にしてくれない。
安倍晋三だって、いくら、アホでも、「次はトランプ大統領で決まり」(日本では私、副島隆彦がこの5月から使い始めた標語)だ、と分かっている。だから、なんとか次のトランプ政権との人脈作りのために、動き回らないと、いけないのだ。
それなのに、日本の首相はヒラリーと会ったそうだ、となったら、トランプ派の高官や、米財界人たちから、疑われる。日本は何を考えているのだ。世の中の動きが、何も分かっていないのか、と。
次はトランプだ、と判断したら、トランプとNYで、会うのが筋(すじ)だ。それを、負け犬の老女(ろうじょ)のヒラリーと会う、会わざるを得ない、ということは、安倍政権にしてみれば、イヤなことなのだ。 第一、トランプ政権になったときに、東アジア政策の安全保障(=軍事、国防 )チームになるであろう 高官たちから、ものすごく嫌われる。
もう、リチャード・アーミテージ(たこ坊主の、外国謀略の親玉)とマイケル・グリーンは、お払い箱だ。安部晋三の 助言者たちは、もうワシントンで失業するのだ。
3月2日と、8月に、この二人は、それぞれ、100人、50人の、外交政策の専門家集団 (foreign policy experts フォーリン・ポリシー・エキスパート)として、オープン・レター (公開意見表明)に自分も参加して、「トランプ氏は大統領にふさわしくない。その能力が無い」と公然と叩いて、反旗を翻した。だからワシントン政治で、お払い箱だ。
次の東アジア政策の主要な人物は、マイケル・フリン(中将。DIA=防衛情報研究所長官あがり)だ。こういうことを、私の「トランプ大統領」本(7月1日刊)で細かく、書いた。
そのあとのことは、この10月11日には、全国で発売される「(入院しても)ヒラリーは逮捕、投獄される」本(光文社刊)に書いた。 たった3週間の 突貫工事=緊急出版で、この「副島隆彦のヒラリー予言本」を書いた。この3ヶ月の間に大量の情報をアメリカから入手して必死で分析して書いた。そのために、かなり体に無理が出た。が、もう元気になった。私の次の予言 が当たるか、乞うご期待だ。
だから、安倍晋三たちは、世界から見たら、ただの“お上(のぼ)りさん”の“田舎者”だ。田舎者(いなかもの)は、なぜ、田舎者であるか。 私、副島隆彦は、10年前に、九州の福岡で講演したときに言った。「なぜ、田舎者は田舎者であるか。 それはですね。田舎に住んでいるからです」と。
ただし、私はそのあと、急いで付言(ふげん、付け足し)して、「私も九州の出身です。九州から東京に出て苦労しました。なぜなら、何の伝手(つて)も、守ってくれる人たちも、所属する集団もなかったから。自力で這い上がるしかなかった。だから、私が田舎者をただ、軽蔑する、ということはありません」と。
日本国政府は、アメリカから命令で、「アメリカ研究( American studies 、アメリカン・スタディーズ)をさせて貰(もら)えないのだ。ウソだと思うだろうが、本当だ。日本には、現在のアメリカを、最先端の世界基準での研究をしている者はいない。外務省の中にもいない。だから、アメリカの政治世界の本当のところを、誰も何にも知らないのだ。
だから、首相が ニューヨークとワシントンに行くと、世界の田舎者(かっぺ)だから、何にも知らない。どうしていいか、分からなくて右往左往する。 「誰か、本当にアメリカの政治の動きを知っている日本人はいないのか。ヒラリーはどうもダメじゃないか。トランプが勝つじゃないか」と、補佐官たちが大慌てだ。だから、彼らは、私、副島隆彦の本を読むしかないのだ。 それが、今の日本の 国際政治であり、外交の実態だ。哀れなものだ。
日本でも「アメリカ学」 や、「日米外交史」をやっている学者たちがいて、日本の主要な大学に必ず居ることになっている。が、実際にはいない。暗愚(あんぐ)の人間たちだけだ。もし、いるのなら、私、副島隆彦の仕事がなぜ必要なのか。
誰も本当のアメリカ政治分析、アメリカ国内の政治勢力、政治思想 の動向調査を、全くやってないから、出来ない、から、その穴を埋めるために、仕方なく、私がやっている。 これが現実だ。 副島隆彦 記
(転載貼り付け始め)
●「 首相、ヒラリー・クリントン氏と会談 日米同盟の重要性確認 」
2016/9/20 日経新聞、ニューヨーク
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS20H08_Q6A920C1EAF000/
訪米中の安倍晋三首相は19日午後(日本時間20日朝)、米大統領選の民主党候補、ヒラリー・クリントン前国務長官とニューヨーク市内で会談した。首相は「安全保障環境が厳しさを増し、日米同盟の重要性は高まっている。さらに強化したい」と指摘。日本側によると、クリントン氏は「日米関係は地域、世界の平和や繁栄にとって重要だ」と応じた。
環太平洋経済連携協定(TPP)を巡っても意見を交わした。会談後の日本側の説明によると「それぞれの基本的な立場を述べた」という。首相が早期承認をめざしているのに対し、クリントン氏はTPPに反対の立場をとっており、こうした姿勢を示し合ったとみられる。
北朝鮮の核実験や中国による海洋進出問題などでも意見交換した。ニューヨークで起きた爆破事件を巡り、首相は「犠牲者が出たことにお見舞い申し上げる」と伝え、クリントン氏は「直面する脅威への取り組みを強化しなければいけない」と語った。
会談はクリントン氏側が申し入れた。クリントン氏が大統領選に勝利した場合に備え、関係を深める狙いがあるとみられる。両氏は2014年9月にも国連総会を利用し、女性関連イベントで対談した。クリントン氏は内閣改造などで積極的な女性起用をしている首相を「有言実行の人だ」と評価していた。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦 記
【1666】[2003]Re:『明治を創った幕府の天才たち』誤記訂正
六城雅敦です。
第三章でP67に和算学者(天文学者)の一覧表があります。
江戸時代の暦の変遷に
宣命暦(862-)→貞享暦(1683-)→宝暦暦(1755-)→天保暦(1844-)→太陰暦(1872-)とありますが
明治4年(1872)の改暦は太陽暦(グレゴリオ暦)です。
お詫び申し上げます。
【1665】[2002]天武天皇の正統性について
唐と赤色の関係
640年代の前半、高句麗、百済の侵略に苦しめられていた新羅王朝は、唐に救援を願い出た。
それに対し唐の太宗は三つの策を示した。(朝鮮史書『三国史記』による)
第一策「契丹(きつたん)や靺鞨(まつかつ)の兵を遼東半島に入れよう。それで新羅は一年ぐらいは楽になるかもしれないが、平和な二国を戦争に巻き込むし、恒久的な解決にはならない。」
第二策「唐の標識である赤い上着と赤い旗を数千あげよう。戦争にこれを用いれば唐軍が援軍に来たと思い敵は逃げるだろう。」
第三策「まず百済を攻めよう。ただし新羅は女王国である故、隣国から軽視されている。自分の一族を送るから新羅の国王にしてはどうか、王一人だけを送るわけにはいかないから軍隊を派遣し、これを守ろう。そうすれば新羅国は安泰であろう。」
このような三策を唐の太宗は新羅に提示したと『三国史記』は記している。当時の東アジアでは、赤色が唐のシンボルカラーであることが常識であったことを示している。唐は帝国であった。世界の中心であったのです。その赤色を周辺の属国群が勝手に使用することなど許されることではなかった。
「壬申の乱」で美濃・尾張両国で近江朝・大友皇子が徴集していた二万の兵が唐軍を助けるための援軍ではなかったかと考える根拠は、彼らが赤色をシンボルカラーに用いたことです。
天武天皇の勝利は、一にも二にもこの大友皇子(弘文天皇)の徴集していた軍隊を、何の抵抗も受けずに手に入れたことにあります。
天皇制の歴史の研究は「壬申の乱」を基点に始めなければなりません。天武の王朝は、大きな不安を抱えて出発しました。唐との約束を反故にしたのです。唐の襲来に備えなければなりませんでした。
早急に日本国内を団結させなければならなかったのです。いつまでも倭国勢力だ、近畿大和王朝だ、といがみあっている余裕はなかった。天武の王朝は強い危機感、緊張を以て出発した。
そんな中で天武天皇を正統化する歴史・神話は創られていきました。
【1664】[2001]Re:『明治を創った幕府の天才たち』誤記訂正。執筆者のひとりより
田中進次郎さん
六城雅敦です。訂正箇所の指摘ありがとうございます。
開陽丸が沈没したところは江差(函館の西側)でしたね。車で札幌から小樽を経て江差はすぐという感覚があったので、こんな勘違いをしてしまったのですね。
たしかに沈没した場所は江差(今では小さな港しかない寂しい町)沖でした。
千利休がプロテスタントかという点は、時期的に確かにおかしいく先走った記述でした。
当時の堺では千利休の屋敷のそばに、フランシスコ・ザビエルが大阪の布教の拠点としていた日比屋了慶という豪商の屋敷(現在ザビエル公園となっている)があります。
商人でもあった千利休との交流もあったでしょう。鎖国前の人ですから。
西洋数学が輸入されて算学好きの大坂商人らによって伝播していったのが、早くても1700年以降、八代将軍吉宗(在位1717-1745)の洋書解禁の時期以降です。
千利休=堺の鉄砲商人=西洋科学信奉=プロテスタント?
非常に雑な連想でした。
信長=秀吉時代はイエズス会、フランシスコ会といったカトリック海外布教を目的とした組織が日本国内では力をもっていたのですから、カトリックの影響が大なのは当然ですね。
私の感覚では雑器や雑木を見立てる茶の湯のわびさびは、内村鑑三らがひろめようとしたプロテスタントの反権威主義に重なって見えてしまうのです。
皮肉にも利休は茶道具の目利きの権威となってしまったのですが・・・
私はクリスチャンではないので、浅はかで短絡的な感覚で判断してしまいました、反省します。
「プロテスタントだったろう」は削除です。
> P95 「江戸時代の蘭学者の系譜」の図より
> ×古河謹一郎 →○古賀謹一郎(こが きんいちろう)
提出した原稿は古賀でしたが、写植時で誤変換されたようです。気づきませんでしたorz
【1663】[2000]清野眞一さま 名前間違えて失礼しました。
↓の投稿で肝心の清野眞一さんの名前を間違えてしまいました。お詫びして訂正します。
【1662】[1999]『明治を創った幕府の天才たち』誤記訂正。執筆者のひとりより
新刊『明治を創った幕末の天才たちー蕃書調所の研究』の誤記訂正 筆・田中進二郎
2016年9月18日
本日は副島隆彦先生の金融セミナーに参加できず、誠に残念でした。副島先生ならびにスタッフの方々お疲れさまでした。次回の鳩山由紀夫・元総理をお招きする定期講演会には必ず出席いたします。大いに楽しみにしております。
さて、成甲書房刊・SNSI第8論文集『明治を創った幕府の天才たち』が発売されてから1週間がたちました。すでに、この本を読んで頂いた方々、ありがとうございます。
↓の清野眞一様の誤記訂正を読みまして、私田中進二郎も、執筆陣の一人(第3章を担当)として、この本に間違いは他にないか、よく見直してみました。以下、明らかな誤記または事実誤認と思われるところをあげておきます。(1~4章まで)
第1章石井利明氏 ー「尊王攘夷」から「開国和親へーその歴史の秘密」ーより
清見眞人氏の指摘された個所については省略。そのほか明白な間違いは見つからなかった。
第2章六城雅敦氏 ー明治の国家運営を担った旧幕臣の数学者たちーより
P95 「江戸時代の蘭学者の系譜」の図より
×古河謹一郎 →○古賀謹一郎(こが きんいちろう)
P99 ・・・逃走した榎本(武揚)の開陽丸(幕府の主力艦)は、残念ながら、×小樽沖で座礁し沈没してしまった。・・・
→○江差(えさし)沖で座礁し沈没してしまった。
(田中進二郎注 この開陽丸の謎の沈没については、本書の姉妹編『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』成甲書房2014年刊 の長井大輔氏の『榎本武揚』の章で論じられています。榎本脱走艦隊は、勝海舟に説得されて、江戸の品川沖で待機を続けた。奥羽越列藩同盟の敗色が濃くなったところで、敗残兵を仙台で拾って、箱館に向かった。
開陽丸を温存したのちに、戦略的に意味のない江差攻撃に向かわせ、これを沈没させた。)
P83 ・・・(千利休の)茶の湯にはキリスト教(それもプロテスタント)の影響があると言われている。たぶんそうだ。・・・
ーここは、六城さんの見解であり、間違いというわけではないが、かなり唐突に思える。千利休は当時急速に信者を増やしていた、キリスト教(イエズス会)の洗礼の儀式を真似て、茶の湯の作法を作った、という説が近年注目されている。ローマのバチカンには、日本の茶道成立についての文書が保管されているそうだ。
千利休はイエズス会の巡察使・オルガンティーノのつながりが疑われる。副島隆彦先生著『信長はイエズス会に爆殺され、家康はすり替えられた』(PHP刊)には、本能寺の変(1582年)の直後、オルガンティーノがポルトガル語の手紙を高山右近に送った。そこには「明智光秀につくな。光秀を討て!」と書かれていた。高山右近は、大返しをしてきた秀吉軍の先陣をつとめ、光秀本隊を撃破した。と副島先生はお書きになっている。これは、明智憲三郎氏の著作『本能寺の変 431年目の真実』を下敷きにしている。
でこの時、高山右近の茶の湯の師であった千利休(宗易 そうえき)はどこにいたかというのを調べてみると、山崎の天王山のすぐ南にいた。合戦後、秀吉から山崎の土地を拝領している。ということは、高山右近をはじめとするキリシタン大名とイエズス会と秀吉の間の連絡係を務めていたのではないか?と私田中は考えている。
ということで、千利休がプロテスタントという根拠を六城氏に示していただきたかった。
第3章 田中進二郎 -蕃書調所の前身・蕃書和解御用(わげごよう)と初期蘭学者たち
より
P108 ・・・徳川吉宗自身が、江戸の×浅草(鳥越)に天文台を作って天体観測を行った。
→吉宗自身が天文台を○神田・佐久間町に新たに設計し、移した(1746年)。また江戸城内にも天文台を設計した、といわれている。浅草(鳥越)に天文台が移されたのは、前章・六城氏が記述されているように、1782年である。
つまり、幕府の天文台(天文方)は、新宿牛込~神田~神田佐久間町~浅草鳥越と移転している。
P110 松平定信は8代将軍吉宗の×息子といわれている。
→松平定信は、徳川吉宗の○孫である。吉宗の子・田安(徳川)宗武の三男(あるいは七男)である。
P139 (山田方谷は) ×1876(明治9)年に没するまで毎年、閑谷(しずたに)学校で陽明学を講義している。
→「1877年に没するまで」に訂正。
P140 海老名弾正(えびな だんじょう 明治時代のプロテスタント)は、横井小楠の肥後実学党で学んだことについて、のちに次のように述懐している。
→海老名弾正はクリスチャンになってから、横井小楠の実学精神をまなんだ。そして肥後実学党の設立者・小楠の教えを次のように述懐している。
( 田中進二郎注 横井小楠は1869年に京都で暗殺されている。当時まだ海老名弾正は13歳なので直接の面識はなかった、と考えられる。)
第4章 津谷侑太氏 ー幕府の科学研究所・蕃書調所で起きていた権力闘争ーより
P160 古賀謹一郎(蕃書調所の初代所長)の父親の×(古賀洞庵の影響が強い。
→○古賀侗庵(とうあん)
P160 ×鳥居輝蔵
→鳥居燿蔵(とりい ようぞう)
この章については、津谷氏の言葉の使い方、あるいは記述方法に疑問を感じざるを得なかった。
津谷氏の論文には、これまでの彼の「今日のぼやき」掲載論文と異なり、大げさな形容が多い。そのことで論旨が見えにくくなった。前半部分の古賀謹一郎が昌平坂学問所と蕃書調所の両方で活躍した才人であったことを、もっとシンプルに書けばよかっただろう。これは彼の大きな発見である。私田中が趣旨をまとめると、こうなる。
ー寛政の改革を行った老中・松平定信は、最近では評価が低い。重商主義政策を行った老中・田沼意次の評価が近年高まっているので、緊縮政策を実施した松平定信は旗色が悪い。
定信は「寛政異学の禁」を行って、昌平坂学問所での朱子学以外の講義を禁じた。幕府体制の引き締めだ。だから徳川家の支配を強化しただけのように見える。
しかし、定信は、確かに徳川吉宗のDNAを受け継いでいた。さすがに吉宗の孫だけのことはある。彼は吉宗と同様に蘭癖(らんぺき)大名の一人だった。
1790年に定信が江戸の昌平坂学問所を正式に幕府の学問所とした。このとき、林羅山以来の官学の権威であった林家(りんけ)のほかに、全国から優秀な儒学者(漢学者)を招いた。この中に古賀精里(せいり)がいる。彼は佐賀藩から招かれた。佐賀藩は長崎の防衛役にまかされるなど、海外の状況に鋭敏であった。長崎に入ってくる輸入の漢籍を読むのが、古賀精里の仕事だった。この中には、漢訳洋書も含まれていた。長崎経由の漢籍を通じて、西洋の情報がもたらされていた。古賀精里はただの儒学者ではなく、国際情勢に通じている知識人だった。
古賀精里ー侗庵(とうあん)-謹一郎の三代が、昌平坂学問所の教官として、漢訳洋書の研究を行っていたのだ。林家の朱子学は、表向きの昌平こう(学問所)の姿であって、奥では教官たちが洋学を学んでいたのである。実は、昌平こうの内部が『陽朱陰王』(ようしゅいんおう 昼間は官学を講義し、夜になると人が変わったように陽明学を教える)だったのである。
この流れは西洋列強の脅威が増すにつれて、本格的になる。
蕃書調所ができると、そこで翻訳された書物は昌平こうで教えられていたのである。
だから、儒学者たちが蘭学者(洋学者)とどんどん交流を深めている。そして、1856年古賀謹一郎が初代蕃書調所の頭取になっている。これは、勤一郎が押しも押されもしない洋学者であったことを意味している。
(以下は田中進二郎の考察)
1854年に幕府の能吏・川路聖謨(かわじ としあきら 当時勘定奉行)が日露和親条約の交渉のために、長崎に行った。そして、ロシア人プチャーチンと交渉した。その後、川路聖
謨は通訳だった箕作阮甫(みつくり げんぽ)とともに、魏源の『海国図志』を見つける。これは、当時最先端の東アジアで最初の地政学の書物だった。この書物の意義を察知した川路は、江戸に持ち帰ると、漢文で書かれた『海国図誌』に訓点を打つように儒学者・塩谷宕陰(しおのやこういん)に命じた。塩谷は昌平坂の教官であった。蘭学者・箕作阮甫と塩谷が仲良く仕事をして、『海国図志』が出版されている。
この例のように、昌平こうの教官たちが漢訳洋書を翻訳できたのは、昌平坂学問所内で、古賀謹一郎たちの指導のもと、西洋学問が学ばれていたからだろう。
蕃書調所との知的な分業体制があった、ということだ。そのことを津谷侑太氏が明らかにした。
冷静な津谷君に早く戻って、斬新な論文で刺激を与えて欲しいと思っている。
最後に皆さん、『明治を創った幕府の天才たち』をどうぞよろしくお願いします。
田中進二郎拝
【1661】[1998]Re : 1997
清野様へ
間違いのご指摘、ありがとうございます。
版を改める時に訂正します。
【1660】[1997]山本覚馬は山本八重の父親ではない
最新刊『明治を創った幕府の天才たち』54ページに誤りがあります。
「山本覚馬は山本八重の父親で」はなく兄です。
この件について「新島八重と同志社ホーム)ページから引用します。
(転載貼り付け開始)
兄・山本覚馬について
兄・山本覚馬の生涯をご紹介します。
山本覚馬(やまもと かくま)
文政11年1月11日(1828年2月25日)生まれ、明治25年(1892年)12月28日永眠。
会津藩士、砲術家。 明治維新後は、京都府顧問として主に殖産興業に貢献。新島襄の同志社英学校の開業に協力した。
山本覚馬
生涯
会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の長男として誕生。4歳から唐詩選の五言絶句を暗誦するなど、幼少から頭角を現し、藩校日新館で学びました。22歳で江戸に出て、武田斐三郎や勝海舟などとともに佐久間象山の塾で学び、江戸で蘭書や洋式砲術の研究を深め、28歳の時会津に戻り、藩校日新館の教授となって、蘭学所を開設しました。藩内の保守派からの批判・禁足処分を受けながらも、改革の意見が取り入れられ、軍事取調役兼大砲頭取に抜擢されました。1862年、京都守護職に就任した藩主松平容保に従って、京都に入り、西洋式軍隊の調練と洋学所を主宰しました。このころから眼病を患い、失明同然になりました。
鳥羽伏見の戦いで薩摩藩に捕らわれましたが、幽閉中に口述筆記した「山本覚馬建白(通称、管見)」が認められ、明治3年(1870年)、京都府顧問として迎えられ、府政に貢献しました。初期の京都府政の勧業政策を推進し、京都の近代化に大きく貢献しました。東京奠都で、京都の衰退を危ぶむ空気の中、覚馬は、日本初の博覧会(京都博覧会)を開催するなど、先進的な都市への礎を築きました。
1875年に宣教師ゴードンを通して、キリスト教を学び、キリスト教こそが日本を根底から動かし、進歩を促進する力だと信じるようになりました。そして、ゴードンの紹介で知り合った新島襄の計画を知り、維新後購入していた旧薩摩藩邸の敷地を学校用地として新島に安価で譲渡します。 さらに新島と連名で「私学開業願」に署名して、新島の同志社英学校設立に協力しました。明治10年(1877年)に、府顧問を免職されましたが、2年後の第1回京都府会選挙で選出され、最初の府会議員の一人となり、初代議長になりました。明治18年(1885年)には、京都商工会議所会頭に就任しました。この年、妻の時栄とともに受洗しています。 新島襄が永眠した後は、同志社臨時社長を務め、同志社の発展に尽力。明治25年(1892年)に自宅で永眠しました。
ちなみに覚馬だけでなく、妻時栄、母さく、娘のみね、久栄、そして妹の八重と、すべてがクリスチャンとなりました。
(転載貼り付け終了)
【1659】[1996]クリントン候補の病状
会員の中山です。
どうもヒラリー女史はパーキンソン病の疑いがあるようです。
肺炎とはいってもパーキンソン病特有の、そして同病患者の死亡率が高い種類の肺炎のようです。
メインストリーム・メディアではないのですが、
http://www.wnd.com/2016/09/hillary-suffers-epic-coughing-fit-on-labor-day/
あくまで参照に
【1658】[1995]私の予言どおり、ヒラリーが倒れた。だからトランプの勝利が確実になった。
副島隆彦です。 今日は、2016年9月12日です。
昨日(11日)、NYの「9.11(やらせ)から15周年の追悼会」で、ヒラリーが熱中症で倒れた。 痛々しく支えられて、車に運び込まれるヒラリーの姿が、すべてのメディアで、全世界に放送された。
ほら見ろ。副島隆彦が、予言してきたとおりだ。 私は、ここの重たい掲示板に、8月22日に書いた。 「1971」番 「ヒラリーよ、お願いだから、病気で倒れて、逮捕・投獄から逃げる、というのだけはやめてくれ」 と私は書いた。
私は、今、「 Lock Her Up ! (ロック・ハー・アップ) ヒラリーを逮捕、投獄せよ」 (光文社 刊) を書いている。 こうなったら、いよいよ時間との勝負だ。 私は、眦(まなじり)を結(けっ)して、自分の言論の闘いを前に押し進める。 日本国内の すべての敵対勢力、ゆがんだ精神をした者たちを、蹴散らしてみせる。
ここで、はっきり次の予言をしておく。 アメリカの司法当局(しほうとうきょく。刑事法の執行機関、law enforcement officers ラー・エンフォースメント・オフィサーズ )は、容疑者が病院に逃げ込んでも、逮捕 ワラント、warrnt) 勾留(こうりゅう、 detention) する。 証拠が挙がったら役人は動く。動かざるを得ない。
だから、このあと、ヒラリー・クリントンが、2週間後に、急病で病院に入院しても、「ヒラリー・メール問題の、国家機密の漏洩事件(その真実は、5年前のカダフィ殺しから、IS[イスラム国」凶暴集団作りまで)」で、証拠が揃(そろ)い次第、必ず、逮捕する。
だから、これから10月までに、ヒラリーが入院した病院から、ヒラリーはストレッチャーに載せられたまま、ワシントンDCの、議会廷吏( bailiff ベイリフ、刑事強制執行官)とDC地区の警察官(刑事)と、FBIの捜査官と 米司法省の連邦検察官(フェデラル・アトーネイ、プロセキューター)が揃(そろ)って、逮捕状を執行して、ヒラリーを拘置所の病院に収監する。一般、日常用語では、牢屋(ろうや、jail ジェイル)という。まだ、刑務所(プリズン)ではない。 私、副島隆彦は、このようにはっきりと予言する。
日本の政治、思想、言論の世界は、私、副島隆彦が今や、現に牽引(けんいん)している。たかが、東アジアのはずれの、島嶼(とうしょ)国の運命を、私が、自分の予言、予測、近未来予測の力で、引っ張ってゆくだけのことだ。私にとっては、朝飯(あさめし)前だ。
(転載貼り付け始め)
●「クリントン氏、肺炎に=同時テロ式典で体調崩す―米」
2016年9月12日 時事通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160912-00000020-jij-n_ame
ロイター通信によると、米大統領選の民主党候補ヒラリー・クリントン前国務長官(68)は11日、ニューヨークで開かれた同時テロから15年の追悼式に参列した際、暑さで体調を崩し、早めに式典会場を離れた。
医師はクリントン氏が9日に肺炎と診断されていたと明らかにした。ただ、医師によれば「順調に回復している」という。
クリントン氏は式典会場を離れた後、ニューヨークにある娘のチェルシーさんの自宅で休息。(副島隆彦割り込み、加筆。2時間後に、アッパーイースト、フィフス・アヴェニューの娘のアパートから出てきた) チェルシーさん宅を後にする際、報道陣に「気分はとても良い」と話した。
ニューヨークの追悼式には共和党候補ドナルド・トランプ氏(70)も参列していた。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。 このすぐ下 ↓ の 副島隆彦の金融セミナーが、この日曜日(9月18日)にあります、 の 宣伝文も読んで下さい。 私が、ワンワン、ガンガン、喚(わめ)きます。
ただし、これは 投資家と小金持ち、小資産家層相手の金融・経済の講演会です。
政治、思想、言論の 学問道場の 講演会は、11月20日に 予定しています。 会員は、こっちに結集して下さい。 皆がびっくりするほど、すばらしい人物が登場する、強力な講演会になるでしょう。楽しみにしていてください。
副島隆彦拝