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Loginはこちら【1664】[2001]Re:『明治を創った幕府の天才たち』誤記訂正。執筆者のひとりより
田中進次郎さん
六城雅敦です。訂正箇所の指摘ありがとうございます。
開陽丸が沈没したところは江差(函館の西側)でしたね。車で札幌から小樽を経て江差はすぐという感覚があったので、こんな勘違いをしてしまったのですね。
たしかに沈没した場所は江差(今では小さな港しかない寂しい町)沖でした。
千利休がプロテスタントかという点は、時期的に確かにおかしいく先走った記述でした。
当時の堺では千利休の屋敷のそばに、フランシスコ・ザビエルが大阪の布教の拠点としていた日比屋了慶という豪商の屋敷(現在ザビエル公園となっている)があります。
商人でもあった千利休との交流もあったでしょう。鎖国前の人ですから。
西洋数学が輸入されて算学好きの大坂商人らによって伝播していったのが、早くても1700年以降、八代将軍吉宗(在位1717-1745)の洋書解禁の時期以降です。
千利休=堺の鉄砲商人=西洋科学信奉=プロテスタント?
非常に雑な連想でした。
信長=秀吉時代はイエズス会、フランシスコ会といったカトリック海外布教を目的とした組織が日本国内では力をもっていたのですから、カトリックの影響が大なのは当然ですね。
私の感覚では雑器や雑木を見立てる茶の湯のわびさびは、内村鑑三らがひろめようとしたプロテスタントの反権威主義に重なって見えてしまうのです。
皮肉にも利休は茶道具の目利きの権威となってしまったのですが・・・
私はクリスチャンではないので、浅はかで短絡的な感覚で判断してしまいました、反省します。
「プロテスタントだったろう」は削除です。
> P95 「江戸時代の蘭学者の系譜」の図より
> ×古河謹一郎 →○古賀謹一郎(こが きんいちろう)
提出した原稿は古賀でしたが、写植時で誤変換されたようです。気づきませんでしたorz
【1663】[2000]清野眞一さま 名前間違えて失礼しました。
↓の投稿で肝心の清野眞一さんの名前を間違えてしまいました。お詫びして訂正します。
【1662】[1999]『明治を創った幕府の天才たち』誤記訂正。執筆者のひとりより
新刊『明治を創った幕末の天才たちー蕃書調所の研究』の誤記訂正 筆・田中進二郎
2016年9月18日
本日は副島隆彦先生の金融セミナーに参加できず、誠に残念でした。副島先生ならびにスタッフの方々お疲れさまでした。次回の鳩山由紀夫・元総理をお招きする定期講演会には必ず出席いたします。大いに楽しみにしております。
さて、成甲書房刊・SNSI第8論文集『明治を創った幕府の天才たち』が発売されてから1週間がたちました。すでに、この本を読んで頂いた方々、ありがとうございます。
↓の清野眞一様の誤記訂正を読みまして、私田中進二郎も、執筆陣の一人(第3章を担当)として、この本に間違いは他にないか、よく見直してみました。以下、明らかな誤記または事実誤認と思われるところをあげておきます。(1~4章まで)
第1章石井利明氏 ー「尊王攘夷」から「開国和親へーその歴史の秘密」ーより
清見眞人氏の指摘された個所については省略。そのほか明白な間違いは見つからなかった。
第2章六城雅敦氏 ー明治の国家運営を担った旧幕臣の数学者たちーより
P95 「江戸時代の蘭学者の系譜」の図より
×古河謹一郎 →○古賀謹一郎(こが きんいちろう)
P99 ・・・逃走した榎本(武揚)の開陽丸(幕府の主力艦)は、残念ながら、×小樽沖で座礁し沈没してしまった。・・・
→○江差(えさし)沖で座礁し沈没してしまった。
(田中進二郎注 この開陽丸の謎の沈没については、本書の姉妹編『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』成甲書房2014年刊 の長井大輔氏の『榎本武揚』の章で論じられています。榎本脱走艦隊は、勝海舟に説得されて、江戸の品川沖で待機を続けた。奥羽越列藩同盟の敗色が濃くなったところで、敗残兵を仙台で拾って、箱館に向かった。
開陽丸を温存したのちに、戦略的に意味のない江差攻撃に向かわせ、これを沈没させた。)
P83 ・・・(千利休の)茶の湯にはキリスト教(それもプロテスタント)の影響があると言われている。たぶんそうだ。・・・
ーここは、六城さんの見解であり、間違いというわけではないが、かなり唐突に思える。千利休は当時急速に信者を増やしていた、キリスト教(イエズス会)の洗礼の儀式を真似て、茶の湯の作法を作った、という説が近年注目されている。ローマのバチカンには、日本の茶道成立についての文書が保管されているそうだ。
千利休はイエズス会の巡察使・オルガンティーノのつながりが疑われる。副島隆彦先生著『信長はイエズス会に爆殺され、家康はすり替えられた』(PHP刊)には、本能寺の変(1582年)の直後、オルガンティーノがポルトガル語の手紙を高山右近に送った。そこには「明智光秀につくな。光秀を討て!」と書かれていた。高山右近は、大返しをしてきた秀吉軍の先陣をつとめ、光秀本隊を撃破した。と副島先生はお書きになっている。これは、明智憲三郎氏の著作『本能寺の変 431年目の真実』を下敷きにしている。
でこの時、高山右近の茶の湯の師であった千利休(宗易 そうえき)はどこにいたかというのを調べてみると、山崎の天王山のすぐ南にいた。合戦後、秀吉から山崎の土地を拝領している。ということは、高山右近をはじめとするキリシタン大名とイエズス会と秀吉の間の連絡係を務めていたのではないか?と私田中は考えている。
ということで、千利休がプロテスタントという根拠を六城氏に示していただきたかった。
第3章 田中進二郎 -蕃書調所の前身・蕃書和解御用(わげごよう)と初期蘭学者たち
より
P108 ・・・徳川吉宗自身が、江戸の×浅草(鳥越)に天文台を作って天体観測を行った。
→吉宗自身が天文台を○神田・佐久間町に新たに設計し、移した(1746年)。また江戸城内にも天文台を設計した、といわれている。浅草(鳥越)に天文台が移されたのは、前章・六城氏が記述されているように、1782年である。
つまり、幕府の天文台(天文方)は、新宿牛込~神田~神田佐久間町~浅草鳥越と移転している。
P110 松平定信は8代将軍吉宗の×息子といわれている。
→松平定信は、徳川吉宗の○孫である。吉宗の子・田安(徳川)宗武の三男(あるいは七男)である。
P139 (山田方谷は) ×1876(明治9)年に没するまで毎年、閑谷(しずたに)学校で陽明学を講義している。
→「1877年に没するまで」に訂正。
P140 海老名弾正(えびな だんじょう 明治時代のプロテスタント)は、横井小楠の肥後実学党で学んだことについて、のちに次のように述懐している。
→海老名弾正はクリスチャンになってから、横井小楠の実学精神をまなんだ。そして肥後実学党の設立者・小楠の教えを次のように述懐している。
( 田中進二郎注 横井小楠は1869年に京都で暗殺されている。当時まだ海老名弾正は13歳なので直接の面識はなかった、と考えられる。)
第4章 津谷侑太氏 ー幕府の科学研究所・蕃書調所で起きていた権力闘争ーより
P160 古賀謹一郎(蕃書調所の初代所長)の父親の×(古賀洞庵の影響が強い。
→○古賀侗庵(とうあん)
P160 ×鳥居輝蔵
→鳥居燿蔵(とりい ようぞう)
この章については、津谷氏の言葉の使い方、あるいは記述方法に疑問を感じざるを得なかった。
津谷氏の論文には、これまでの彼の「今日のぼやき」掲載論文と異なり、大げさな形容が多い。そのことで論旨が見えにくくなった。前半部分の古賀謹一郎が昌平坂学問所と蕃書調所の両方で活躍した才人であったことを、もっとシンプルに書けばよかっただろう。これは彼の大きな発見である。私田中が趣旨をまとめると、こうなる。
ー寛政の改革を行った老中・松平定信は、最近では評価が低い。重商主義政策を行った老中・田沼意次の評価が近年高まっているので、緊縮政策を実施した松平定信は旗色が悪い。
定信は「寛政異学の禁」を行って、昌平坂学問所での朱子学以外の講義を禁じた。幕府体制の引き締めだ。だから徳川家の支配を強化しただけのように見える。
しかし、定信は、確かに徳川吉宗のDNAを受け継いでいた。さすがに吉宗の孫だけのことはある。彼は吉宗と同様に蘭癖(らんぺき)大名の一人だった。
1790年に定信が江戸の昌平坂学問所を正式に幕府の学問所とした。このとき、林羅山以来の官学の権威であった林家(りんけ)のほかに、全国から優秀な儒学者(漢学者)を招いた。この中に古賀精里(せいり)がいる。彼は佐賀藩から招かれた。佐賀藩は長崎の防衛役にまかされるなど、海外の状況に鋭敏であった。長崎に入ってくる輸入の漢籍を読むのが、古賀精里の仕事だった。この中には、漢訳洋書も含まれていた。長崎経由の漢籍を通じて、西洋の情報がもたらされていた。古賀精里はただの儒学者ではなく、国際情勢に通じている知識人だった。
古賀精里ー侗庵(とうあん)-謹一郎の三代が、昌平坂学問所の教官として、漢訳洋書の研究を行っていたのだ。林家の朱子学は、表向きの昌平こう(学問所)の姿であって、奥では教官たちが洋学を学んでいたのである。実は、昌平こうの内部が『陽朱陰王』(ようしゅいんおう 昼間は官学を講義し、夜になると人が変わったように陽明学を教える)だったのである。
この流れは西洋列強の脅威が増すにつれて、本格的になる。
蕃書調所ができると、そこで翻訳された書物は昌平こうで教えられていたのである。
だから、儒学者たちが蘭学者(洋学者)とどんどん交流を深めている。そして、1856年古賀謹一郎が初代蕃書調所の頭取になっている。これは、勤一郎が押しも押されもしない洋学者であったことを意味している。
(以下は田中進二郎の考察)
1854年に幕府の能吏・川路聖謨(かわじ としあきら 当時勘定奉行)が日露和親条約の交渉のために、長崎に行った。そして、ロシア人プチャーチンと交渉した。その後、川路聖
謨は通訳だった箕作阮甫(みつくり げんぽ)とともに、魏源の『海国図志』を見つける。これは、当時最先端の東アジアで最初の地政学の書物だった。この書物の意義を察知した川路は、江戸に持ち帰ると、漢文で書かれた『海国図誌』に訓点を打つように儒学者・塩谷宕陰(しおのやこういん)に命じた。塩谷は昌平坂の教官であった。蘭学者・箕作阮甫と塩谷が仲良く仕事をして、『海国図志』が出版されている。
この例のように、昌平こうの教官たちが漢訳洋書を翻訳できたのは、昌平坂学問所内で、古賀謹一郎たちの指導のもと、西洋学問が学ばれていたからだろう。
蕃書調所との知的な分業体制があった、ということだ。そのことを津谷侑太氏が明らかにした。
冷静な津谷君に早く戻って、斬新な論文で刺激を与えて欲しいと思っている。
最後に皆さん、『明治を創った幕府の天才たち』をどうぞよろしくお願いします。
田中進二郎拝
【1661】[1998]Re : 1997
清野様へ
間違いのご指摘、ありがとうございます。
版を改める時に訂正します。
【1660】[1997]山本覚馬は山本八重の父親ではない
最新刊『明治を創った幕府の天才たち』54ページに誤りがあります。
「山本覚馬は山本八重の父親で」はなく兄です。
この件について「新島八重と同志社ホーム)ページから引用します。
(転載貼り付け開始)
兄・山本覚馬について
兄・山本覚馬の生涯をご紹介します。
山本覚馬(やまもと かくま)
文政11年1月11日(1828年2月25日)生まれ、明治25年(1892年)12月28日永眠。
会津藩士、砲術家。 明治維新後は、京都府顧問として主に殖産興業に貢献。新島襄の同志社英学校の開業に協力した。
山本覚馬
生涯
会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の長男として誕生。4歳から唐詩選の五言絶句を暗誦するなど、幼少から頭角を現し、藩校日新館で学びました。22歳で江戸に出て、武田斐三郎や勝海舟などとともに佐久間象山の塾で学び、江戸で蘭書や洋式砲術の研究を深め、28歳の時会津に戻り、藩校日新館の教授となって、蘭学所を開設しました。藩内の保守派からの批判・禁足処分を受けながらも、改革の意見が取り入れられ、軍事取調役兼大砲頭取に抜擢されました。1862年、京都守護職に就任した藩主松平容保に従って、京都に入り、西洋式軍隊の調練と洋学所を主宰しました。このころから眼病を患い、失明同然になりました。
鳥羽伏見の戦いで薩摩藩に捕らわれましたが、幽閉中に口述筆記した「山本覚馬建白(通称、管見)」が認められ、明治3年(1870年)、京都府顧問として迎えられ、府政に貢献しました。初期の京都府政の勧業政策を推進し、京都の近代化に大きく貢献しました。東京奠都で、京都の衰退を危ぶむ空気の中、覚馬は、日本初の博覧会(京都博覧会)を開催するなど、先進的な都市への礎を築きました。
1875年に宣教師ゴードンを通して、キリスト教を学び、キリスト教こそが日本を根底から動かし、進歩を促進する力だと信じるようになりました。そして、ゴードンの紹介で知り合った新島襄の計画を知り、維新後購入していた旧薩摩藩邸の敷地を学校用地として新島に安価で譲渡します。 さらに新島と連名で「私学開業願」に署名して、新島の同志社英学校設立に協力しました。明治10年(1877年)に、府顧問を免職されましたが、2年後の第1回京都府会選挙で選出され、最初の府会議員の一人となり、初代議長になりました。明治18年(1885年)には、京都商工会議所会頭に就任しました。この年、妻の時栄とともに受洗しています。 新島襄が永眠した後は、同志社臨時社長を務め、同志社の発展に尽力。明治25年(1892年)に自宅で永眠しました。
ちなみに覚馬だけでなく、妻時栄、母さく、娘のみね、久栄、そして妹の八重と、すべてがクリスチャンとなりました。
(転載貼り付け終了)
【1659】[1996]クリントン候補の病状
会員の中山です。
どうもヒラリー女史はパーキンソン病の疑いがあるようです。
肺炎とはいってもパーキンソン病特有の、そして同病患者の死亡率が高い種類の肺炎のようです。
メインストリーム・メディアではないのですが、
http://www.wnd.com/2016/09/hillary-suffers-epic-coughing-fit-on-labor-day/
あくまで参照に
【1658】[1995]私の予言どおり、ヒラリーが倒れた。だからトランプの勝利が確実になった。
副島隆彦です。 今日は、2016年9月12日です。
昨日(11日)、NYの「9.11(やらせ)から15周年の追悼会」で、ヒラリーが熱中症で倒れた。 痛々しく支えられて、車に運び込まれるヒラリーの姿が、すべてのメディアで、全世界に放送された。
ほら見ろ。副島隆彦が、予言してきたとおりだ。 私は、ここの重たい掲示板に、8月22日に書いた。 「1971」番 「ヒラリーよ、お願いだから、病気で倒れて、逮捕・投獄から逃げる、というのだけはやめてくれ」 と私は書いた。
私は、今、「 Lock Her Up ! (ロック・ハー・アップ) ヒラリーを逮捕、投獄せよ」 (光文社 刊) を書いている。 こうなったら、いよいよ時間との勝負だ。 私は、眦(まなじり)を結(けっ)して、自分の言論の闘いを前に押し進める。 日本国内の すべての敵対勢力、ゆがんだ精神をした者たちを、蹴散らしてみせる。
ここで、はっきり次の予言をしておく。 アメリカの司法当局(しほうとうきょく。刑事法の執行機関、law enforcement officers ラー・エンフォースメント・オフィサーズ )は、容疑者が病院に逃げ込んでも、逮捕 ワラント、warrnt) 勾留(こうりゅう、 detention) する。 証拠が挙がったら役人は動く。動かざるを得ない。
だから、このあと、ヒラリー・クリントンが、2週間後に、急病で病院に入院しても、「ヒラリー・メール問題の、国家機密の漏洩事件(その真実は、5年前のカダフィ殺しから、IS[イスラム国」凶暴集団作りまで)」で、証拠が揃(そろ)い次第、必ず、逮捕する。
だから、これから10月までに、ヒラリーが入院した病院から、ヒラリーはストレッチャーに載せられたまま、ワシントンDCの、議会廷吏( bailiff ベイリフ、刑事強制執行官)とDC地区の警察官(刑事)と、FBIの捜査官と 米司法省の連邦検察官(フェデラル・アトーネイ、プロセキューター)が揃(そろ)って、逮捕状を執行して、ヒラリーを拘置所の病院に収監する。一般、日常用語では、牢屋(ろうや、jail ジェイル)という。まだ、刑務所(プリズン)ではない。 私、副島隆彦は、このようにはっきりと予言する。
日本の政治、思想、言論の世界は、私、副島隆彦が今や、現に牽引(けんいん)している。たかが、東アジアのはずれの、島嶼(とうしょ)国の運命を、私が、自分の予言、予測、近未来予測の力で、引っ張ってゆくだけのことだ。私にとっては、朝飯(あさめし)前だ。
(転載貼り付け始め)
●「クリントン氏、肺炎に=同時テロ式典で体調崩す―米」
2016年9月12日 時事通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160912-00000020-jij-n_ame
ロイター通信によると、米大統領選の民主党候補ヒラリー・クリントン前国務長官(68)は11日、ニューヨークで開かれた同時テロから15年の追悼式に参列した際、暑さで体調を崩し、早めに式典会場を離れた。
医師はクリントン氏が9日に肺炎と診断されていたと明らかにした。ただ、医師によれば「順調に回復している」という。
クリントン氏は式典会場を離れた後、ニューヨークにある娘のチェルシーさんの自宅で休息。(副島隆彦割り込み、加筆。2時間後に、アッパーイースト、フィフス・アヴェニューの娘のアパートから出てきた) チェルシーさん宅を後にする際、報道陣に「気分はとても良い」と話した。
ニューヨークの追悼式には共和党候補ドナルド・トランプ氏(70)も参列していた。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。 このすぐ下 ↓ の 副島隆彦の金融セミナーが、この日曜日(9月18日)にあります、 の 宣伝文も読んで下さい。 私が、ワンワン、ガンガン、喚(わめ)きます。
ただし、これは 投資家と小金持ち、小資産家層相手の金融・経済の講演会です。
政治、思想、言論の 学問道場の 講演会は、11月20日に 予定しています。 会員は、こっちに結集して下さい。 皆がびっくりするほど、すばらしい人物が登場する、強力な講演会になるでしょう。楽しみにしていてください。
副島隆彦拝
【1657】[1994]私の間近の 金融セミナー(9月18日)に来てください。
副島隆彦です。今日は、2016年9月11日です。
NY株の下落がついに始まった。この9月9日(金)、NYの株価が、今年2番目の下げである400ドル 下落した。これは、6月の「英EU離脱(Brexit、ブレグジット)」のときの600ドル下落に続くものだ。いよいよヨーロッパ発金融危機(ユーロ恐慌)が始まる。私の金融セミナーがこの日曜日にあります。期日が迫りました。
(9月15日、追加加筆、副島隆彦 → 当日券の用意があるそうですから、来てください。)
■「副島隆彦(そえじまたかひこ)の“予言者”金融セミナー 第12回」
セミナーの申し込みは以下から行ってください。
http://kokucheese.com/event/index/420995/
(引用はじめ)
「NYダウ平均株価 終値は400ドル近く値下がり」
2016年9月10日 NHK
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160910/k10010679331000.html
9月9日のニューヨーク株式市場は、アメリカの追加の利上げが近づいているという見方から、(副島隆彦の割り込み注記。イエレンは、9月21日に利上げできない、と私は予言する)警戒感が広がって売り注文が加速し、ダウ平均株価は400ドル近く値下がりした。
9日のニューヨーク株式市場は、ボストン連邦準備銀行の総裁がこの日の講演で発言した内容を手がかりに、アメリカの追加の利上げが近づいているという見方が広がりました。・・・・
(引用おわり)
副島隆彦です。この9月に大きな金融変動が始まると私が予言したとおりになりつつある。
私は今度の9月18日(日)の金融セミナーで、世界中の最新の金融情報を集めて分析し、激しく近(きん)未来予測(予言)を行います。
受講料は、当日払いでもいいそうです。自分の資産を必死で守りたい人は参加してください。ただし、座席にもう限りがあるので、以下のサイトから申し込みの手続きだけはしてください。
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■「副島隆彦(そえじまたかひこ)の“予言者”金融セミナー 第12回」
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*会場:イイノホール&カンファレンスセンター 東京都千代田区内幸町2-1-1
*日時:2016年9月18日(日)
開場・受付/11:00~ 終了/17:00(予定)
*受講料:15,000円(税込)/全指定席
以下から申し込んでください。
http://kokucheese.com/event/index/420995/
副島隆彦 拝
【1656】[1993]天武天皇の正統性について
大宝三年(703年)の粟田真人の遣唐使について
この遣唐使は、重大な役割を担って派遣されました。「壬申の乱(672年)」の後三十年ぶりの唐との交流です。「壬申の乱」の年の五月の末日に唐使・郭務宋が離日して以来です。
『旧唐書』日本国伝は、粟田真人の報告を受けて書かれています。
「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。或は曰う、倭国自ら雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。或は云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。
その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。
また云う、その国の堺、東西南北各々数千里あり、西界南界は皆な大海に至り、東界北界は大山在りて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。
長安三年(703)その大臣朝臣真人、来たりて放物を貢す。朝臣真人とは中国の戸部尚書のごとし。進徳冠を冠り、その頂に花を作り、分れて四散せしむ。
身は紫袍を服し、巾を以て腰帯となす。
真人好んで経史を読み、文を属する解し、容姿温雅なり。***」(『旧唐書』より)
唐の史官たちは、粟田真人の能力、人柄を最大級に称賛している。それでも真人は、唐の史官たちを説得することが出来なかったのである。
「入朝する者、多く自ら矜大、実を以て応えず。故に中国是を疑う。***」
日本国の使者である粟田真人には、日本国の定めた公認の歴史しか述べることが許されなかったのだ。
しかし、唐は日本列島情報を豊富に詳細に持っていたのである。倭国は四十年前に戦争した相手国だ。その倭国はどうなったのか、問いただしてものらりくらりと返答を濁すばかり。倭国など知りませんともいう。唐の史官たちは呆れるしかなかった。
大宝三年の遣唐使の派遣までに、天武天皇を正統化する歴史は完成していたのである。その歴史を携えて説明すべく粟田真人は唐に赴いたのである。
持統朝・文武朝で歴史編纂は精力的に進められていた。またこの時期は柿本人麿の作歌活動時期に完全に重なるのである。
天武の命で始まる歴史編纂は、それまでにあった歴史を書き残すのではなく、天武を正統化する為の歴史創造であった。捏造ともいう。
神話も創り直されたのである。人麿は、それまであった神話を歌ったのではない。人麿が歌った故に神話になり、歴史になったのである。
『万葉集』では、人麿は奈良遷都(和銅三年・710年)以前に死んでいるように作られている。大宝三年の遣唐使の派遣が文武朝では非常に大きなイベントであった。唐朝が日本の朝貢をすんなり受け入れてくれるか、心配しなければならなかった。三十年前に、唐の要請(命令)、新羅討伐軍の派兵の約束を反故にしていたのだ。
唐の史官たちを十分に納得させることは出来なかったが、朝貢を快く受け入れてもらった。唐の襲来の心配から完全に開放されたのである。大きな成果であった。
因みに、新羅の唐への朝貢が回復するのは、天平七年・735年である。それまで唐と新羅の戦争状態は続いていた。
人麿は、唐に朝貢を受け入れられたことを一区切りと考えたのではなかったか。自分の役割は終わった、と。
確認できる人麿の最後の歌は「明日香皇女(文武四年・700年没)に奉げた挽歌」である。
【1655】[1991]先生からご注意がありました
余計なことを書かずに今、自分が出来ること、やるべきことに専念します。
会員番号7791 庄司 豊明