「1786」 ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』の書評を掲載します(第1回・全2回) 2018年11月10日

 副島隆彦です。今日は2018年11月10日です。

 今回はユヴァル・ノア・ハラリ教授の『サピエンス全史』の本についての私の書評(ブックレビュー)を掲載します。ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari、1976年-)は42歳の人で、イスラエルのヘブライ大学の教授で歴史学者です。


ユヴァル・ノア・ハラリ


サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 私は最新刊『日本人が知らない真実の世界史』(日本文芸社、2018年10月)を書くにあたり、ハラリ教授の『サピエンス全史』の業績を一部利用しました。今回は私が読み破った『サピエンス全史』の内容を紹介したいと思います。


日本人が知らない 真実の世界史

 このハラリの『サピエンス全史』は今でも大変よく売れている。今日の『サピエンス全史』への私の評論は、12章「宗教という超人間的秩序(The law of religion)」のところを中心とします。lawというのは法則のことですが、これを柴田裕之という訳者は超人間的秩序とか訳していますが、宗教という法則という意味で訳しているのだろうと思います。

 それでその下巻なんですけれども、ここは、宗教は人類を統一する三つの要素の一つだという考え方をしている。で、あとは実はこの貨幣(お金)と帝国というものです。で、宗教について論じていますが、そういうこと言うとすぐ古臭くなるけれど、ハラリの説の斬新さは、宗教によって人間が統一されていったという大きな観点に立っている。それで後のほうでわかってくるんだけど、エンパイア(帝国)というものが各王国、それぞれの国全体をまとめていくことによって、大きな統一性をつくっていったことと同時並行で起きていたと副島隆彦は思う。

 つまりそれぞれの国の宗教が、帝国の支配によってスタンダーダイゼーション(standardization)を起こすわけです。スタンダーダイゼーションは規格化というか統一化ということで、一番わかりやすく言うと、今はアメリカ帝国が世界を支配したので、American way of lifeと言いますが、アメリカ白人的な生活様式が世界中に広まったんです。


アメリカの生活様式の漫画

 アメリカ人のように自動車を持って、電気製品を持って、コンピューターを持って、アメリカの都市にある高層ビルと同じものを世界中につくっているわけです。日本もそうです。だからこの統一化というのは恐ろしいもので、今や世界中がアメリカ化しているわけです。次の帝国を目指している中国も一生懸命アメリカの都市、ビルや道路や文化そのもののつくり方をしているわけで、これが帝国というものの恐ろしさなんです。それとお金についてはまた別のことで話しますが、どうも宗教というのと帝国は同じことなんだと。

 宗教とは何か神秘的なわけのわからないことを信じる、信じ込むことによってつくられた人間の集団みたいに言いますけれども、宗教は帝国を前提にして存在するのではないかと副島隆彦はハラリの本を読んで考えた。そのことを説明していきますが、最初はこの下巻の第12章13ページ辺りで豊穣の女神という考え方、豊穣神といいますが、これはお乳がたくさん出るとか、豊かな実りがあるということですが、作物がたくさんとれるという考え方から出てきて、ここがこの古代エジプトのイシス(Isis)、オシリス(Osiris)のイシスという女神がいて、これをみんなで拝むわけです。


イシス

 これは豊穣神といいまして、日本なんかでもお米がたくさんとれますようにという祈りの神様のように考えればすぐわかる。伝染病の病原菌というか、イナゴとかの虫にやられないように必死で農業を守らなければいけないんだけど、とにかく動物からの肉やミルクと同じように、畑からの作物そして小麦、米がとれること、あと羊をいけにえに捧げるというのがメソポタミア中東全体にあった風習です。

 それに対してもっと古いのは、川をさかのぼったところにある大きな岩とか湖とか、あるいは太陽崇拝や神秘的な山を崇拝するアニミズム(animism)の思想があるわけで、アニミズムは呪術と訳して、宗教以前ということに普通はされています。

 このそれぞれの小さな国で崇拝していた山とか石とか大きな岩とかあるわけですが、それが広域のネットワークができるようになって農業が少し発達してくると、多神教が出現すると13ページに書いてある。このポーリーシィーイズム(polytheism)と。なかなかこのシィー(the)という言葉が日本語に翻訳できない。発声が難しいものだから、日本人はこのシィーイズム(theism)という言葉がどうしても知識人層が輸入できなかったんですね。

 シィーというのはtheなんです。英語で言えばザですけれども、このtheにismでシィーイズム(theism)といいます。それにポーリー(poly)がつくと多神教になるんです。それに対して一神教というのはモノシィーイズム(monotheism)です。ユダヤ教やキリスト教も一つの神を、イスラム教もアッラーという神を崇拝するわけですが、この一神教については後で述べますが、この多神教というこのポーリーシィーイズム(polytheism)がある。

 日本はやおよろずの神だということで多神教だというけれど、それは嘘で、アニミズムなんです。山とか岩とか富士山とかを拝むわけです。これアニミズムも消えません。後で多神教と混在しながらいるんですが、実はこの多神教というのはオリュンポスの十二神というんだけど、ギリシャ神話の中に出てくるゼウスという大きな神、大神がいて、この奥さんがヘラというのがいて、その他12人の息子、娘たちがいて、その12神を中心にしたギリシャの古代の神話(myth)というのがあって、そこがいわゆる12人も大きな神様がいれば多神教ですね。


ゼウス

 それが人間と交わったりけんかしたりしてでき上がっている世界が典型的に多神教です。そしてそれをギリシャを深く尊敬していて、激しい劣等感を持っていたローマ人たちがギリシャを打ち倒してローマ帝国をつくっていくときに、例えばゼウスがアポロンというローマ人にとっての大きな大神がいて、それと全く相似形でギリシャの神々の思想を受け継ぐ。

 そしてこのハラリの本では、16ページにインドもヒンドゥー教はインド教ですから、もっとさかのぼると、それはウパニシャッド思想(Upanishads)というのと、梵語と日本語では訳すけれどサンスクリット(Sanskrit)で書かれた思想です。サンスクリットって、文字で書かれている古いインドの思想というけれども、実はこれもギリシャ神話に非常に近くて、後で表にしてもいいぐらいだけど、ヒンドゥー教の神々というのはもうゼウス以下のギリシャの神話とそっくりなんです。

 例えば、ガネーシャ(Ganesha)という象の頭をした子供がいまして、それがヒンドゥー教の大神、ゼウスとその奥様の子供なんですが、寝ているときわあわあ泣くもんだから、首をはねられちゃったりしたのがガネーシャ。象の頭をしている。あと、ラクシュミーという女神もサラスヴァティーという女神もいますが、こういうのは、ギリシャ神話そっくりなんです。その話はしませんが、これが多神教です。


ガネーシャ

 ですから、そのころは何が問題かというと、ポーリーシィーイズム、すなわち多神教対モノシィーイズム、一神教の戦い問題は大事なところだけど、善悪についての態度のとり方で、ここで分裂が起きます。

 私、副島自身はもう太陽崇拝で古代エジプトのRaという太陽神を崇拝するという思想でいいと思う。それがBalという思想になって、エジプトだけじゃなくずうっと「肥沃なる三日月地帯」というんですけれど、Fertile Crescentですね、繋がっていまして、同じBal神、これは豊穣神ですけれどね、豊穣の女神と太陽神が合体したような神々がいたと最近わかってきた。そこに戻ればいいんだという気がします。


エジプトとメソポタミアの「肥沃なる三日月地帯」

 それでその偶像崇拝という問題が出てきて、アイドラトリー(idolatry)というんですけれども、偶像というのがあって、ドイツではGodに対してGoettinと言うんだけど、偶像を崇拝してはいけないという思想が一神教の中に強くありましてね、日本の仏教はブッダーズイメージ(Buddhist image)といって、仏像というのがあるわけです。お釈迦様の姿を像に、土や金や木でできた仏像にかえる、それをものすごく嫌う思想になる。ですからこの偶像をものすごく嫌うということになるんですが、でも偶像であることが実は古代の世界にとっては非常に大事なことで、拝む対象がはっきりするわけです。

 一番偶像崇拝を嫌うのはイスラム教なんですが、ところが神は見えないもので、形で描いてもいけない。だから絵画が、そして画家が発達しなかったんですけれど、じゃあ偶像崇拝を徹底的に嫌って何をやったかといったら、神殿、モスクをつくるわけです。


モスク

 モスクの壁をきれいに紫色のタイルで張ったりする。黄金で。モスクそのものが、偶像を拒否したがゆえにでき上がった一つの信仰の物質化なんですね。一緒と言えば一緒なんですよ。キリスト教でも十字架ぐらいは認めるけど、十字架すら否定したらあと何を拝んだらいいかわからなくなるという問題が実はあります。だから偶像というか物質化した神の姿ってあるんですよ。それを勝手に否定してはいけないと思う。


モスクのタイル

 それで、一神教は多神教から生まれたと。22ページにハラリは、多神教は一神教を生んだだけでなく、デュアリズム(dualism)の宗教を生んだと。デュアリズムは二元論といいまして、二つの元素から世界は成るという考え方で、デュアリズムはモニズム(monism)とは違うんで、一番わかりやすく言うと、善と悪というものを認めると、これがデュアリズムの宗教ということになります。

簡単に言えば、これゾロアスター教(Zoroaster)ですが、このゾロアスター教が善と悪の戦いという形でこの世界を描いたと。そうすると非常に簡潔でわかりやすい。善と悪というのがあって、善のGodと悪のGodがいるわけです。ゾロアスター教では善の神はアフラ・マズダ(Ahura Mazda)ですが、それに対して悪の神はアングラ・マイニュ(Angra Mainyu)といいます。これは24ページに書いてある。この二つの激しい戦いとしてこの世界があるということになっていて、そう考えると非常に楽です。


ゾロアスター教の二元論を示す図

 それに対して、そこから生まれてきて一神教になっちゃったキリスト教なんかは、非常にその説明が困る。なぜなら全能の神の全てをつくった神は善だけをつくったはずなんだと。ところがなぜ悪が生まれたんですかということで説明が実はできないんです。困ってしまう。あるいは善人たちになぜ悪いことが降りかかるんだということです。だからここでものすごく困って、中世キリスト教の神学はものすごく苦労するんです。いろんなばかみたいな説明をたくさんやって、うまくいかない。

 途中でカソリックは人間の自由意思というのを認めることで、human free willといいますが、自由意思を認めることで、人間は悪を選ぶことができるという考え方で、実はつじつまが合わない。多くの人間が悪を選ぶことで必ず神によって罰を受ける。ところが、自由な意思を選び取った人間が、あらかじめそのことを神が知っているのなら、何で神はその人をつくったのかと。このことにtheologist(神学者)たちは答えられなかったということなんです。

 それに対して、二元論宗教であるゾロアスター教などでは、善と悪が最初から存在するわけですから非常に説明が簡単なんです。この世界が善と悪の戦いで、善の神に味方しなければいけないという考え方で成り立っているわけです。だから悪が存在するのは当たり前だという考え方で、だからこの善と悪の問題というのは非常に大事で、もう悪の存在を認めた上で、この世界は悪であって、その悪が支配するという考え方をとればみんなが大人になるというか、わかりやすくなる。

 それに対して24ページでハラリは、一神教は秩序を説明できるが、悪について当惑してしまうと書いています。二元論の宗教、すなわちゾロアスターなどは、悪を説明できるが秩序がなぜ生成されるかと悩んでしまう。この謎を論理的に解決する方法が一つだけある。それは、全宇宙を創造した単一の全能の絶対神が、その絶対神自身が悪であると主張する。

 だがそんな信念を抱く気になった人間は史上一人もいないと書いています。しかしもういるんじゃないかと私は思い出した。この世界は悪で成り立っているという考え方をすると。だから自分が悪人で人をたくさん殺していいとか、人のお金を盗んでいいと言い切れる人がいるかどうかはわからない、確かに。だから悪の存在を正面から人類がそろそろ認めた上で考えたほうがいいのではないかと私は思います。

(続く)

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