「1789」 ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』の書評を掲載します(第2回・全2回) 2018年11月21日

 副島隆彦です。今日は2018年11月21日です。

 前回に引き続き、『サピエンス全史』の書評を行います。

 善悪の対立がないはずのキリスト教でも、平均的なキリスト教徒は、一神教のGodを絶対的に信じているのに、二元論的な悪魔とか多神論的な聖人たちとかアニミズム(呪術)、宗教の段階の前のやつ的な死者の霊とかを信じている、とハラリは26ページに書いています。だから、このように矛盾する考え方を同時に公然と認めていて、それに基づく儀式や慣行を組み合わせて実際に行っている。だから、実際にはキリスト教でも悪魔を認めているわけです。

それをデビル、あるいはサタンとか呼ぶのでしょうが、あるいはダイアボラ、ディアボラ(diavolo)と呼ぶ悪魔がちゃんといる。だからそういうのを現実にはごっちゃにして使っていると。これをシンクレティズム(syncretism)といいます。混合主義と訳すんですが、ごちゃまぜですね。非常に劣った宗教団体、新興宗教の団体はこういうシンクレティズムを平気でやりながら世の中に広まります。

 それでハラリの日本語本の26ページで、次はnature lawという自然の法則という考え方で説明がしてあって、ここはずっとこの章の中の節ですけれど、ここは実はずっと仏教について説明しています。仏教というのは神を持っていないんですね。お釈迦様、ゴータマ・シッダールタ(Gautama Buddha)という人物そのものの思想なんです。それをみんなで拝むようになったわけです。


釈迦の像

お釈迦様を拝んだんだけど、この人は29歳で家族とか財産、ブッダの一族を捨てて、インドの北のルンビニというところを離れて、6年修行をして36歳で悟ったわけですが、その悟りというのが何かが今でもわからない。――いや、わからないと言っちゃいかんな、ニルバーナ(Nirvana)というのは解脱、涅槃というのはお釈迦様、ゴータマ・ブッダが死ぬことなんです。


釈迦の修行の地図

 四苦八苦と日本語でいうけど、四つの苦しみと八つの苦しみがあると。生・老・病・死ですけれど、生まれたことも苦しみ、病気とそれから年をとることとそれから死ぬことですね。四苦ですね、四つの苦と八苦があとあるわけですが、これらからどのように逃れるかということを仏教の基本にして、ここでは渇愛という言葉で、仏教用語でも使いますが、わかりやすく言えば煩悩のことで、人間が持つ欲望のことです。


四苦八苦

渇愛、これを英語でクレーヴィング(craving)と言いますが、この渇愛から逃れ出るということで平静の心を保った悟りの状態に行ける。そこに向かって修行をすることが仏教の僧侶になる決意です。一般人でも渇愛、すなわち煩悩から逃れることを仏教は根本に置いていると。ところが普通の人は実際は逃れられないわけです。だから悟るということはないのですが、それが仏教の目的のようになっている。

 だから実は、Godが仏教にはない。ゴータマ・ブッダそのものを拝むという形になるわけですが、そしてその瞑想術をブッダはつくって、メディテーション(meditation)というのをやるということになります。仏教の世界の中に住んでいる日本人から見れば、それは只管打座と禅宗では言いますが、観念の打座、座っていることで、簡単に言えば禅の座禅のことですが、これが瞑想術で、それはヨガ行というのは仏教の中のヨガ派という派閥があるんですけれども、主にその座禅を組み続けること、これはヨガ行を行うことを重視する宗派です。

 あとは仏教にはダルマ(dharma)というのがあって、法と漢字では書きますが、真理のことですけれど、この真理を追い求めるわけですけれども、何が真理かは実はわからない。仏教の第一原理はあくまで苦しみ、さっき言った四つの苦しみからどのように逃れ出るかということを中心に置いている。ハラリもそのようにはっきり書いている。

 それで、32ページが非常に大事で、この自然の法則(nature law)を大事にする宗教である仏教なのだが、近代に入って強烈な自然の法則を大事にする思想、思考が生まれたとハラリは書いています。

1500年代からヨーロッパでモダンが生まれたんですが、それは自由主義と共産主義と資本主義と国民主義(nationalism)そしてナチズムと、これらも実は宗教なんだと、はっきりとハラリが言い切ったところが非常に新しいところで、nature law、自然の法則を信じる宗教、新しい宗教だと書いています。

ですから私たちにとって当然のように見える平等主義や自由主義やデモクラシーもそうですが、これらも実は宗教なんだということをはっきり言います。例えば共産主義者、共産主義、コミュニズムは自分のことをイデオロギーだとは認めています。イデオロギーというのは観念と訳したりするけれども、思想の一つの体系のことがイデオロギーなんですが、しかしこれも、ただの言葉のあやで、これも宗教なんだ。

ですから、1991年に滅んだロシアのソヴィエトの共産主義というコミュニズムも、これは宗教だった。今も共産主義者というのがいたら、これは共産主義という宗教を信じている人々という意味だと、そう考えると非常にわかりやすい。これをもう世界全体で認めなければいけない段階に来ているというふうに考えるべきなんです。


ソヴィエト連邦の崩壊

 副島隆彦もこの考えが非常によくて、だからゴータマ・ブッダを拝むことや、アッラーを拝むことと同じように、キリスト教とかGodあるいはイエス・キリストを拝むのと同じように、共産主義思想の創業者、つくった人であるカール・マルクス(Karl Marx、1818-1883年)を拝むという考え方で構わないわけです。


カール・マルクス

ですから、共産主義にも革命の記念日という祝祭日があって、マルクスのMarxist dialecticというんだけれども、マルクス思想を解釈する神学者がいるし、ソヴィエトの軍隊には必ずコミッサール(commissar)と呼ばれる人民委員と訳すんだけど、本当はこれは従軍牧師と一緒なんです。規律統制をするわけです。牧師さんと同じ仕事をしていた。そしてコミュニズムにも殉教者(マーター、martyr)、そのために命をささげる人々とか、holy war(聖戦)、イスラム教でいうところのジハードですけれども、それと同じような思想もあるし、トロツキズムという異端の思想もあると。

そのような宗教なんです。ところがさらにそれを拡大視すると近代の自然法則宗教であるものが資本主義なんだと。キャピタリズム(capitalism)もまた宗教にすぎないと、はっきりと言い切ったところが非常に『サピエンス全史』のすごさです。

 それ以前に自由主義とか、人間至上主義と訳していますけれども、ヒューマニズム(humanism)ですね、人命尊重主義と言ってもいいけれども、これを徹底的に崇高な理念だと思い込んでいるのが今の私たちなんですが、それも宗教なんだ。そんなものを信じていることが。過剰な人命尊重で、100歳になってもまだ死ねないみたいな、あれは重度の苦しみを抱えた障害者たちを死なせるというという考え方もできないぐらいに追い詰められてしまっているわけです。

 だからこのことを、ヒューマニズムや平等主義や自由主義さえも宗教であると言うことによって次の時代が出現する。これはこの本の16章で資本主義についてハラリがさらに言及しています。ここがその宗教というものの恐ろしさで、副島隆彦もこの10年くらいで、共産主義、社会主義も宗教だけれども、資本主義も宗教であると、これは小室直樹先生がそのように言っていたということもあります。ただ、それに平等主義や自由主義やデモクラシーさえも宗教であると言うことによって、人類が次の段階に行けると私も思います。

 あとは人権主義です。ヒューマニズムと同じことだけれど、Human rightsをものすごく大事にして、動物はたくさんたたき殺して食べてもいいのに、人間は殺してはいけないという思想がはびこっている。この人権思想もまた宗教であり、現代の宗教でこの人権思想のために人間が非常に苦しい思いをしなければいけなくなっています。いかにもこれは宗教であると言い切ることで次の段階に進めると思います。もうこれで終わりにします。

(終わり)

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