重たい掲示板

書き込みの連番がリニューアルによりリセットされております。
旧サイトの書き込みの連番は[●●]で表示されております。ご了承ください

書き込みの連番がリニューアルによりリセットされております。旧サイトの書き込みの連番は[●●]で表示されております。ご了承ください

松永知彦 投稿日:2023/05/14 18:54

【3054】[3554][3550]築山殿(瀬名姫)とその息子の松平信康(のぶやす)の殺害の真実

会員番号2843 松永知彦です。

NKH大河ドラマ「どうする家康」が回を重ねるごとに評価を下げているようである。
ドラマの作りそのものがどこをとっても軽薄だ。脚本と演出が崩壊している。

( 副島隆彦です。5月14日です。私が、以下に、長々と、ここで、加筆します。松永君の文の冒頭を、内容を、読み易(やす)く、明瞭にするために、以下の通り、徹底的に、書き足して、書き変える。)

 今回は、私、松永知彦 は、三河守(みかわのかみ。三河大名)であった松平元康(もとやす。今川方に属した )が、1561年 に、岡崎城内で殺されて摩り替わられる前の、真実の正室(奥様)である、築山殿(つきやまどの=瀬名姫 せなひめ ) と このふたりの真実の息子であり嫡男(ちゃくなん)である、岡崎三郎信康(おかざきさぶろうのぶやす。 松平信康=まつだいらのぶやす=)のふたりの殺害のことを書く。

 父親である、三河大名、松平元康(岡崎城主) に、桶狭間(おけはざま)の合戦(1560(永禄3)年5月)のあと、「息子殿の信康を、無事にお連れしました。私共も家来になりまする」と、まんまと、岡崎城を入り込んだ男がいる。

 そして、この男が、その年のうちに、城主の元康(もとやす)の油断の隙と突いて、殺して、摩り替った。その後、この男は、すべて信長の指図で、とんとん拍子で、徳川家康に成り代わった。本名を、世良田元信(せらだもとのぶ)という。戦場忍者である。父親は、上州(群馬県)の世良田村から、駿府(すんぷ。今の静岡市)に流れてきていた同じ、戦場忍者(願人坊主、がんじんぼうず。ササラ者)である。 
 
 摩り替ったあとの元康(別人)は、それまでの、駿府(すんぷ。静岡県)を中心とした駿河(するが)の国の大(だい)大名だった今川(いまがわ)方 から離れて、尾張大名の 織田信長 の配下に入った(1561年4月)。

 従って、その翌年、1562(天正5)年1月の、清州城(信長の本拠。名古屋城はまだない)での、×「織田と徳川の 清州同盟」 というのは、?(うそ)っぱちの、歴史の捏造だ。 真実は、松平元康(もとやす)に摩り替った男が、清州城に出頭して、信長と、主従の、親分・子分としての固めの杯(さかずき)を、交わしたのである。

 今も、現在でもも、まだ尾張名古屋(おわりなごや)の徳川公爵家(とくがわこうしゃくけ)からの策謀と、歴史捏造の圧迫が、続いている。 それと、信長を、1582(天正10)年6月に、イエズス会(耶蘇=やそ=教。現在もローマカトリック教会の中心の宗教セクト) が爆殺したことを、覆い隠すために、 「ウソの家康」像づくりが、強力に進行している。だから、「どうする 家康」などという奇妙なNHKの大河ドラマになっているのだ。

 徳川公爵家 としては、自分たちの先祖で、創業者(ファウンダー)である家康が、下層の、賤民(せんみん)の出の、戦場忍者であった、と、日本史の知識として、大きく日本国民に、バレて、満天下に露見することが、物凄くイヤなことなのだ。 
 だから、NHKまで動かして(使嗾==しそう=して)、捏造の日本戦国史を、偽造し続けている。

 この歴史の真実の隠ぺいの努力 は、物凄いものであって、摩り替った 1561年から462年たった今 でも、まだ、頑強に、続いている。そのために、東大の国史(こくし。東大だけは、日本史学科と言わないで、威張って、国史科 と言う。東大史料編纂所も持つ )に、ひとり、家康像の捏造の係の教授がいる。代々、いる。 

 その背後に、ローマ・カトリック教会の本山のヴァチカンから派遣されている、日本語が出来る、神父(司教、ビショップ)がひとりいる。

 この男が、日本の文科省の、国語と歴史教科書の内容 を、監視していて、日本国民の教育場面からの、洗脳を、今の、今でも、実施している。恐ろしいことである。

 だから、1563年の9月から(翌年の2月に鎮圧された )、三河の国一帯で起きた、「三河一向一揆」と呼ばれる騒ぎも、ただの宗教一揆(民衆暴動)ではない。真実は、「あのお方は、我らのお殿様の、松平元康どの ではない。別人じゃ」と、騒ぎ出した、三河の地侍(国人=こくじん、くにうど)たちを中心とした、叛乱だ。

 戦国史のなかで、極めて不思議な動きをし続ける、家康が重用(ちょうよう)して、長年、失踪ののち、重臣に返り咲いた、本多正信(ほんだまさのぶ) も、石川数正(いしかわかずまさ。松本城主で終わった)も、この反(はん)家康の、反抗勢力の指導者だった。
 
 不思議な経緯で、秀吉と家康で、何からの手打ち(妥協)があったのだろう。
秀吉( 信長の草履(ぞうり)取り。小者=こもの=から這い上がった下層民の出)は、この家康の摩り替りを知っていたが、それを、不問にする、ということで、2人の重臣を、自分との2重スパイ(ダブル・ロイヤリティ。2重忠誠心)として、家康に送り返したのだろう。これは、今の時点での、私、副島隆彦の考えである。

 それから 17年経(た)って、もう、要らなくなった、築山殿と信康を、1579(天正7)年に、殺害した事件について、松永知彦君が、検証する。
 家康に、この年、浜松城で、西郷の局(お愛。伊賀忍者の棟梁、”掛塚(かけづか)の鍛冶屋の平太”  服部平太夫=はっとりへいだゆう=の娘)に男の子が産まれた。それが、秀忠(ひでただ)で、後の徳川2代将軍である。
 この秀忠が生まれたから、 もう、こいつらは、無用だ、で、築山殿と、松平信康(岡崎城主)は殺害された。

 以上、ここまでを、副島隆彦が、5月14日に、加筆も何も、全部書いた。ここから下の、以下の文が、松永友彦君の文です。 副島隆彦の加筆 終わり )

 松永知彦です。当初、NHK大河ドラマ「どうする 家康」の瀬名姫(三河大名で岡崎城主の 松平元康の正室 )が、今後を見極めてから書こうと思っていたが、先月の4月23日に、副島先生から、このことの真実を 書くように指示を頂いたので、ここに投稿することにした。

 本題に入る前にひとつおことわりをしておきます。
今回の投稿文は、今年の二月にわたし松永が投稿した「重たい気持ちで書く掲示板[3516]」の続編になります。さらに再掲載として「今日のぼやき[2039][2040]に過去の論文も掲載していただいております。

 重掲[3516]では、歴史の隠された真実として徳川家康と松平元康はまったくの別人であるということを説明している。正史では、「竹千代→松平二郎三郎元信(まつだいらじろざぶろうもとのぶ)→松平蔵人元康(まつだいらくろんどもとやす)→徳川家康」とひとりの人物が次々に改名していることになっているが、竹千代から元康までと徳川家康とは間違っても同じ人物ではない。絶対に、である。

築山殿(以下瀬名姫)と信康惨殺事件の鍵ともなる重要な真実である。未読の方は重掲[3516]だけでも先に目を通してもらえると、より理解していただけると思います。

瀬名姫と信康の惨殺事件は、間違いなく家康の生涯において、最大の事件のひとつであろう。(あくまで正史上では、だが。)
その正史上伝えられるこの事件は次のとおりである。

瀬名姫が、武田勝頼と内通し徳川・織田を亡きものにしようと謀り、未遂に終わるもその証拠となる瀬名姫の誓書(せいしょ)と武田勝頼の起請文(きしょうもん)を押収。幽閉先である築山に出入りしていたという唐人医師・?敬(げんけい)と瀬名姫との不義密通の疑い。及び信康の乱心ともとれる粗暴なる振る舞い。それらを徳姫(五徳;ごとく=織田信長の娘)が父信長に、いわゆる徳姫の『十二か条の書き立て』といわれる書状で訴えたことにより露見、信長が家康重臣の酒井忠次と奥平信昌に問い詰めるも十二のうち十までは否定しなかったため、信長の命により、ふたりを処分せざるを得なかった、というものである。

すぐにいくつかの疑問が生じる。
まず、そもそも瀬名姫と信康に謀反や反逆の意思があったのか、ということである。瀬名姫は正室であり信康は嫡男である。別段何もしなくてもその地位は安泰なのだ。何ゆえ謀反の謀事なのか。もし本当に謀反や反逆の意思があったのなら、家康とふたりの間にその原因となる何かがあったということになる。(史疑徳川家康事蹟)

次に、本当に家康に対する謀反・反逆の企てや?敬(げんけい)との不義密通があったのなら徳姫が直接信長に訴える前に当然家康の耳に入るであろう。身内の恥をみすみす信長に直訴させるであろうか。大事になる前に内々に処理をしようとするはずである。

そして、やはりいくら主君信長の命令(ということに正史上はなっている)とはいえ、果たして正室と、清康公(きよやすこう・松平元康の祖父)の再来とも言われ武勇の誉れ高い(※後述する)嫡男の二人を同時期に殺害するものだろうか。妻子である。

信長も本当にそのような命令を下したのであろうか。
ましてこの時代であれば、女人なら尼に出家させ、男子も同様に出家させ放逐することもできたであろう。還俗(げんぞく)し舞い戻る可能性もあるが。

これらは、最初にごく普通に持つ素朴な疑問である。だから多くの歴史学者や歴史愛好家らが皆同じ疑問を持ち長年首を傾げてきたのである。

これから、わたし松永がこれらの疑問に対するわたし自身の解釈を、文献を引用しながら書き述べていく。この事件の真実はどうであったのかを追求していく。

では、まず瀬名姫の名誉回復からおこなう。

瀬名姫・・天正七年(1579)八月二十九日、佐鳴湖(さなるこ;静岡県浜松市)湖畔で誅殺。罪状は徳川に対する謀反の企てと唐人医師・?敬(げんけい)との不義密通。
だが実際はこのような理由で殺害されたのではない。

ここに瀬名姫が唐人医師・?敬(げんけい)に託したという武田勝頼に宛てた誓書を『史疑・徳川家康事蹟(村岡素一郎(むらおかもといちろう)』から引用する。

<引用開始>

信康は我が子なれば、いかにも、徳川、織田の両将は、わらは計らう手立て候得ば、かまへて失い申すべし。此の事成就せむに於いては、徳川の旧領はそのまま信康に賜りなむ。又わらわ事は、御被官の内にて、さりぬべき人の妻となし給ふべきか、この願い事かなへ給はば、かたき御請文を賜るべし、いまより信康を教訓し、御味方につけ申すべき也との事也

(信康は我が子なれば、いかにも、徳川、織田の両将は、私が計らうてだてがございます故、かならず、亡きものにしてみせます。このことが成就したときには、徳川の旧領は、そのまま信康に賜りますよう。また私のことは、御家臣のうちで、適当なお方の妻にお世話くださいませ。私のこの願いをお受けいれくださるならば、固い御請文を頂きたく存じます。今より、信康を教訓して、お味方につかるように致します。)

<引用終了>

続いて、この誓書に対する返信である武田勝頼の起請文を、同じく『史疑・徳川家康事蹟(村岡素一郎』から引用する。

<引用開始>

今度?敬に仰越され候趣、神妙に覚候、何としても息三郎殿を勝頼が味方に申進め給ひ、はかりことを相構え、信長と家康とを討亡し給ふに於いては、家康の所領は申に不及、信長が所領の内何れなりとも望にまかせて、一か国新恩としてまいらすべく候、次に築山殿をば、幸いに郡内の小山田兵衛と申す大身の侍、去年妻をうしない、やもめにて候ば、彼が妻となしまいらすべく候、信康同心の御左右候はば、築山殿を先立て甲州へむかひとりまうらすべく、右之段相違するに於いては、
罸文略之
 天正六年十一月十六日                    勝 頼 血 判

(今度、?敬を通じて申し越されたことについては、しかとわかりました。何ともして、御子息三郎殿に、勝頼の味方になるよう説き進められて、謀をたて、信長と家康をうちほろぼしたうえは、家康の所領は申すに及ばず、信長の所領のうち、どこでも、お望みにに任せて、一カ国を、新恩としてさし上げましょう。つぎに築山殿は、ちょうど、小山田兵衛という大身の侍が、昨年、妻を失い、やもめでおりますので、その妻にお世話いたしましょう。信康に同心のご家来がいるならば、まず、築山殿を、先に甲州にお迎え入れいたしましょう。)

<引用終了>

松永知彦です。この誓書と起請文は現存していないため、原文がどのようなものであったかはわからない。また、信頼のおける一次資料にも記載がないので、現在手に入る書籍でしか確認できないし、ものによって若干表現の違いもある。
わたし松永は『史疑・徳川家康事蹟(村岡素一郎)』の文章がもっとも原文に近いと思うので、ここからの引用とした。

村岡素一郎氏は、その著書『史疑徳川家康事蹟』の中で、この誓書は瀬名姫が自ら書き記したものとし、「築山殿親子は、松平氏の孤児、未亡人なのであって、家康と夫婦骨肉の関係がないことは火を見るよりも明らかである」としている。

徳川とは関係ないと自ら書いているとの解釈に異論はない。だが、わたし松永はこの誓書は瀬名姫自身が書いたとは思っていない。勝頼の起請文は自筆であったと伝わってはいるが、こちらも勝頼が書いたものではないと思っている。

先に言っておくが、実はこの誓書と起請文は、高柳光寿博士(たかやなぎみつとし;1892.3~1969.1、歴史学者で國學院大學教授)が『青史端紅(せいしたんこう)』ですでに偽書との見解を示している。桑名忠親名誉教授(くわたただちか;1902.11~1987.5國學院大學)や、現在NHK大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を担当されている小和田哲男静岡大学名誉教授も、信頼のおける資料にこれらの記述はないとして、歴史学会では早くから偽書と判定している。

が、そこまでである。
そこから先は歴史学者の皆様方は絶対に踏み込めない。認められない、認めてはいけない真実に近づいてしまうからだ。書かれている内容を細かく読み解いていくと確かに徳川と松平が別のものであるという結論に至るのである。
わたし松永が詳しく解説し、その先の真実へ突き進んでいく。

第一に、この誓書では、「信康は我が子なれば、いかにも、徳川、織田の両将は、」との書き出しから始まる。信康は我が子であるから「信康」だが、徳川はなぜ「徳川」と苗字なのか。しかも「織田」と横並びで他家扱いである。夫であるなら、例えば「家康殿」とか「我が夫、家康」などではないのか。
この誓書を書いた何者かは、確かに、徳川と、瀬名姫、信康の二人がそれぞれ夫婦、嫡男ではないと、この冒頭ですでに告白してしまっている。

第二に、「徳川、織田の両将は、わらは計らう手立て候得ば、かまへて失い申すべし。(徳川、織田の両将は、私が計らうてだてがございます故、かならず、亡きものにしてみせます。)」というくだりについてだが、瀬名姫自ら策を計って両将を討つのなら、なにも武田に「徳川の旧領はそのまま信康に賜りなむ。(徳川の旧領は、そのまま信康に賜りますよう。)」などと断りを入れる必要はない。

しかもこのくだりは女性である瀬名姫が書いたとはどうしても思えないのだ。築山という幽閉先に蟄居(ちっきょ)させられ、侍女は居るが、たまに訪ねてくるのは信康と唐人医師・?敬(げんけい)ぐらいであったという。

そのような状況下で、徳川のみならず織田まで討ちとる計略がある、などと書けるであろうか。例えば、「家康をなんとかして討ってほしい」とか「信康と連絡を密にとって、構(かま)えてほしい」というような懇願であればわかる。それならば「討ち果たしたのちは、徳川の旧領を賜りたく」となるだろう。

それが、徳川だけでなく織田までも名指しながら、「計らう手立てがある」というが、そんな手立てなどあるはずがない。相手は家康と信長である。いくら戦国時代の女性とはいえ姫である。姫様が書くような文ではない。

第三に、「又わらわ事は、御被官の内にて、さりぬべき人の妻となし給ふべきか、(また私のことは、御家臣のうちで、適当なお方の妻にお世話くださいませ)」と再婚の希望を自ら書き記しているが、冒頭で徳川を他家扱いにしている以上、この誓書をしたためている時点ですでに(松平の)未亡人であると考えて差し支えない。

仮にその「謀事」が功を奏したとして、家康と信長までをも亡き者にできれば、信康が三河守(みかわのかみ)になる可能性が高い。嫡男だからである。実際、起請文に承諾の意として「家康の所領は申に不及(家康の所領は申すに及ばず)」と書いてある。これは容易に予想できるのに、早々に自らが岡崎を離れる意思表示などするわけがない。

見持が寂しいということであれば、信康の支えとなるため、尾張か三河のどこかの首領か、その縁戚に嫁ぐ方が余程よい。凋落著しい今川家とはいえ、あの今川義元公の養女であり、井伊の血筋を引く姫である。

松平諸家は、三河一向一揆で家康にほとんど滅ぼされて、各当主は皆、家康が子分に松平姓を勝手に名乗らせて入り込ませてしまったので、もはや別ものであり頼りにならない。それでも嫁ぎ先は他ですぐに見つかる。

もしくは、せめて武田家本家かその縁戚ならともかく、「大身の侍、小山田兵衛」といういかにも田舎侍の名の家系のわからぬ者のところへなど分不相応もいいところではないか。

つまりこの誓書は、場合によっては信長に見せることを想定して、その信長と武田を巻き込む形にして捏造されたものであり、瀬名姫を「徳川・織田の両将を亡きものにしようと企むとんでもない悪女」に仕立てるためのお粗末な偽書なのだ。

百歩譲って、この誓書を瀬名姫自身が書いたのだとしてもかまわない。これを書いた何者かは、徳川と松平が別のものであると裏書きしてくれていて、わたし松永としては、実にありがたい偽書なのである。

では誰がこのような偽書を書いたのか。やはり築山に出入りしていた唐人医師・?敬(げんけい)が怪しい。

唐人医師といえば当然、薬の調合もおこなうのだが、当時は薬草を使うだけでなく、たまに丸薬も製造していた。その原料は人間の遺体である。調達先のひとつは戦場(いくさば)。協力相手は比丘尼(びくに)。首級を洗い、遺体の残りを処分する、戦場での遺体処理班である。
そう、家康の祖母、於萬(おまん、もしくは於富)と同じ職だ。

徳川家康と改名する前、いや松平元康の死後、摩り替る前まで、願人坊主(がんじんぼうず)の親方、酒井常光坊(さかいじょうこうぼう)と一緒に世良田元信(せらたもとのぶ)として諸国を諜報活動しつつ練り歩いていたときから、唐人医師団との関係はあったとみるべきである。

また、家康は愛用の薬研と秤を持っていて、年若いころから亡くなる直前まで、生涯にわたり自身で調合した薬しか服用しなかったのは有名な話である。

片や、幼いころから十九歳(一説には二十四歳)まで人質生活であった松平元康に、一体だれが薬の調合方法など教えるというのか。そのような記録や記述は一切無い。それに生まれた時から将来の殿様である。

この唐人医師・?敬(げんけい)が家康に命じられて、筆跡を似せて書いたに違いないのだ。それを武田勝頼に届けたのか。いや届けなどしていない。届けたところで、笑止と言って破られたら終わりである。

勝頼の起請文も瀬名姫の誓書と対の内容で、同時に捏造したとみてよいだろう。ただし、瀬名姫の再婚候補の名を実名で出してきているので、甲州から何かしらの情報を得ていただろう。?敬(げんけい)は甲州から来た唐人医師ということになっている。
?敬(げんけい)はこの事件後、まんまと行方をくらませている。

そしてなんと、驚くべきことにこの誓書と起請文がふたつ揃って、築山にあった瀬名姫の文箱(ふみばこ)から見つかったというのだ。瀬名姫を佐鳴湖の湖畔で殺害した後(そりゃそうだろう、瀬名姫生前にこんなのものがでてきたら武田も巻き込み仕込み人の追求が始まって大騒動になる)、捜索し発見したのは家康家臣、平岩親吉である。
まさに噴飯ものである。

では、なにか。武田勝頼は瀬名姫から送られてきた誓書の返書として書いた起請文を、ご丁寧に届けられた誓書も一緒に入れ直して送り返したというのか。勘弁してほしい。
もしくは控えのために二枚目を用意してあったとでも言うつもりか。

もう一度書く。この誓書と起請文が、築山でふたつ揃って発見されたのは、瀬名姫が殺害された後のことである。
このことは信康自刃の経緯についても重要な意味を持つことになる。後述する。

瀬名姫惨殺の知らせは、近隣諸国にすぐに知れ渡ることとなる。家康は、瀬名姫を悪女に仕立てるため、あらゆる流言を垂れ流す。『玉輿記」には「生得悪質嫉妬深き御人也」と書かれ、『柳営婦人伝系』には「無類の悪質嫉妬深き婦人也」と書かれ、『武徳編年集成』では「其心偏僻邪侫(へんぺきじゃもう)にして嫉妬の害多し」と書いている。酷いものである。

だが、いくら貶めたところで世間の目はごまかせない。その後、庶民の同情が噂となって拡がり、瀬名姫を斬り殺した野中重政の家系では女人がすべて狂人となった、とされ、本人も逐電し故郷の遠州堀口村に隠棲した。

惨殺の場に立ち会った、石川義房と岡本時仲は癩病(らいびょう)を発し身体が爛れた、と伝わる。当の家康も、毎夜うなされて等膳(とうぜん;可睡斉=かすいさいの住職で、家康少年時代の恩人、静岡県袋井市)を招聘しお祓いを受けている(可睡斉起立并(ならび)開山中輿之由来略記)。

わたし松永は、いわゆる歴史評論家と称する人たちに、瀬名姫惨殺の理由とされたこの誓書と起請文の詳細な内容まで知っていてほしいとは言わない。が、少なくとも歴史学会では、昭和の中頃に、すでに偽書との判定を下しているにもかかわらず、今でもこれらを持ち出し、瀬名姫を悪女と喧伝する輩がいることに我慢ができない。
それは極めて不勉強であり、あまりに不誠実な態度である。

瀬名姫は、世良田元信(のちの徳川家康)によって、二歳の時に駿府から連れ去られた信康(当時竹千代;重掲[3516]参照)を追って自らの意思で岡崎に来たのだ。奪還されたのでも、連行されたのでもない。

家康が浜松城に自ら進んで移り住んだ際に帯同しなかったのは、不仲などではなく最初から夫婦ではないからである。

瀬名姫はとしては、信康の傍に居たいので当然岡崎からは動かない。
だが、天正七年(1579)の八月も終わりに差しかかる頃、瀬名姫は、家康に信康のことで話があると誘い出されて佐鳴湖(静岡県浜松市)の湖畔まで連れて来られたのである。

だが着くなり供廻りの野中重政が抜刀するのを見て、「命は惜しくないが、信康のことについて家康とどうしても話がしたいから、そのあと斬られて進ぜよう」と願ったと伝わっている。
だがその願いは聞き入れられず、無残にもその場で侍女ごと斬り殺されたのだ。

瀬名姫の本当の名はわからない。故郷が瀬名村(静岡市瀬名)だから瀬名姫と呼ばれている。
佐鳴湖を背景とした、その気高く美しい瀬名姫の姿が今日に伝わっている。(西来院所蔵)
元康を愛し、三河岡崎の復興を夢見て、ただひたすらに信康の身を案じながら、家康の手にかかり、はかなく散ったのである。

(法名:「西光院殿政岸秀貞大姉」御前谷埋葬時、 三年後に西来院(せいらいいん;静岡県浜松市)に改装され「清池院殿潭月秋天淑室」となる。)

次に信康の身になにが起こったのかを検証し、その冤罪をはらす。

岡崎三郎信康・・天正七年(1579)九月十五日、二俣城(ふたまたじょう)で自刃。罪状は徳川対する謀反の企てと家臣、使用人に対する暴虐な振る舞い。
だがこれらはすべて捏造でありどれも事実ではない。

信康が切腹を命じられる理由となったのが徳姫の『十二か条の書き立て』である。

この『十二か条の書き立て』は現在では八つしか伝わっていない。『参河志』では七つ、『三河後風土記』では八つである。参河志の三つ目が『三河後風土記』では二つに分かれている。

原文は『参河志』から、( )内の口語訳は『史疑・徳川家康事蹟・(村岡素一郎)』(三河後風土記)』からの重引用とする。

<引用開始>

一、築山殿お悪人にて、三郎殿と我身の中様々讒(ざん)し不和になりし玉ふ事。
(築山殿は悪人にて、三郎殿と私との仲をさまざまに悪く云い、仲違いさせようとしていること。)

一、我身女子斗(ばかり)産たる何の用にかせん。大将は男子こそ重宝なれば妾多く置て男子を設け玉へと、築山殿の勧めによりて勝頼が家人日向大和守が女を呼て信康の妾(めかけ)とし甲州へ一味(いちみ)する事。

(私が姫ばかり二人産んだのは、何の用にもたたぬ、大将たる者には男子こそ大事なもの、妾を多く召して男の子を設け給えとて、築山殿のおすすめで武田勝頼の家臣、日向大和守の娘を呼び出し、三郎殿の妾になされたこと。)

一、築山殿甲州の唐人医師?敬(げんけい)と言うものを密夫として剰(あまつさ)へ彼を使として勝頼に一味し、信康を申し勧め甲州方の味方として信長公家康公を亡(ほろぼ)し、信康には父の所領の上に織田家の知行の国を進せ、築山殿をば小山田といふ侍の妻にすべし約束の起請文を書き築山殿へ返事。

(・築山殿は、甲州の唐人医師?敬というものと密会され、あまつさえ、この男を仲介として勝頼に内通し、三郎殿も誘って甲州に味方しようとしていること。)
(・織田、徳川両将をほろぼし、三郎殿には父(家康)の所領のうえに織田所領の国を参らせ、築山殿をば小山田という侍の妻にする、と約束した勝頼の起請文が、築山殿のところに送られてきていること。)

一、三郎殿常々物荒く御座し、我身召使の小侍徒と申す女を我が目の前にて差し殺し其の上にて彼の女の口を引きさき玉ふ事。

(三郎殿は、つねづね、もの荒き所業が多い。私の召使の小侍徒という女を、私の面前で刺し殺し、その上、女の口をひき裂かれたこと。)

一、去る頃三郎殿おどりを好みて見玉ふ時踊り子の装束不宣(しょうぞくよろしからず)又踊り様も悪しくとて其のまま踊り子を弓にて射殺玉ふ事。

(先ごろ、三郎殿は踊りをお好きでご覧になっていたとき、踊り子の衣装がよくない、踊りもへただというので、その踊り子を弓で射殺されたこと。)

一、信康殿鷹野に出玉ふ折ふし道にて出家(しゅっけ)に出合ひたるに、今日殺生のあらざるは法師に逢ひたる故なりとて、彼の法師の首に縄を付け力皮(ちからがわ)とやかに結び付け馬馳せつすり殺し玉ふ事。

(三郎殿が鷹野へお出ましになった折、道で僧侶に出あい、今日、獲物がないのは、この僧侶に逢ったせいだといって、その僧の首に縄をつけ、力革とかいうものに結び付け、馬をはしらせ、その僧侶をひきずり殺したこと。)

一、勝頼が文の中にも一味したるとなし、何ともして勧め味方にすべしとの事に候へば御油断あらば末々は悪敵に与(くみ)し可申候存前申上候。

(勝頼の手紙のなかには、三郎殿がまだ一味になられたわけではないが、何としても進めて味方にしてほしい、とのことなので、御油断なさいますと、末々はおん敵に組するおそれがあろと思い、わざわざ申し上げましたこと。)

<引用終了>

松永知彦です。ここでわたし松永が特に問題にしたいのは三つ目である。
捏造された瀬名姫の誓書と勝頼の起請文の内容がまるで見てきたかのように書かれている。
しかし、だ。

勝頼の起請文の日付が天正六年(1578)十一月十六日であるから、徳姫が『十二か条の書き立て』を父、信長に送ったのは少なくとも天正六年(1578)十二月から天正七年(1579)七月の間のはずである。酒井忠次と奥平信昌がこの件で信長に呼び出されて行ったのが天正七年(1579)八月一日とされているからである。

ところが、何度も書くがこの誓書と起請文が発見されたのは瀬名姫殺害後の天正七年(1579)八月二十九日以降なのだ。徳姫はいつどこでどうやってこれを見て、瀬名姫と信康惨殺の理由となった、この『十二か条の書き立て』を書いて信長に送ったというのか。

十二か条のうち十か条まで認めたという酒井と奥平はなぜ肯定できたのか。
信長が本当にこの『十二か条の書き立て』を見て酒井と奥平に詰問したというのなら誓書と起請文より先にこれがあったということになる。もう無茶苦茶である。

この『十二か条の書き立て』についてさらに検証をすすめる。
この書き立ての全文(といっても四つは欠落である)が確認できる最も古い資料は、『三河後風土記』だけである。『三河後風土記』の成立は慶長十五年(1610)とされているが、昨今では、正保(しょうほう)年間(1644~1648)の作とも言われており、作者も平岩親吉となってはいるが、実際は不詳である。

後年、さらに徳川におもねる内容となった、『改正三河後風土記』(天保八年(1837)成立)と併せて、あまり良質な資料とは言えないのだ。特に『改正三河後風土記』は明治四十四年発刊の『体系図中断抄』で「沢田源内が金儲けのために仲間と作成した偽書であり、ゆめゆめ信じるなかれ」と断じられている。

『参河志』は、その前年の天保七年(1836)に渡辺政香(わたなべまさか;江戸時代の国学者)によって編纂されてものだが、『十二か条の書き立て』は『三河後風土記』から引用したに違いない。

他の文献では『松平記(巻六)』には鷹狩りの帰りに僧侶をしばり殺したこと、踊り子を弓で射抜いたこと、徳姫が女子をふたり続けて生んだので不仲であったことが書かれている。気がひけたからか、この三つのみだ。『当代記』では、家康の命に背き、織田信長を軽んじ家臣には情けをかけない、とある。

『松平記』は慶安(けいあん)三年(1650)よりも古い写本は未発見だし、『当代記』も寛永(かんえい)年間(1624~1644)の成立とされている。この二つの文献は年代も近いし、いずれも徳川家康側の資料である。やはり、どちらも『三河後風土記』を参考文献にしたと思われる。

よって、『十二か条の書き立て』は、その成り立ちや、不自然なほど描写が細かく具体的すぎる記述内容からして、信用できないのであり、わたし松永は、瀬名姫と信康惨殺の事件後、三十年ぐらいの間に、あらたに書き加えられたものと考える。徳姫が当時書いたものではない。信長は天正十年(1582)六月二日にこの世を去っている。

そもそも信長が、瀬名姫と信康の殺害命令を出したのではない。信長の死後、家康がその罪を信長に押し付けたのである。『松平記(巻六)』には「如何様にも存分次第」と信長は返事したと書いてある。

『当代記』にも「左様に父、臣下に被見限ぬる上は、不及是非、家康存分次第」とある。どちらも「家康の好きにするがよい」との返事と書かれており、信長が信康に、切腹を命じたなどと、どこにも書いていないのだ。徳川神話の補強材のような、これらの資料でさえこの程度の表現であるということは、この部分は信用してよいのではないだろうか。

さらに、書き立ての七つ目(八つ目)には「勝頼が文の中にも一味したるとなし、(勝頼の手紙のなかには、三郎殿がまだ一味になられたわけではないが)」とある。信康は謀反に加担していないとしっかり書いてあるではないか。謀反の事実が自刃の理由のひとつではなかったのか。話のつじつまが全く合わない。

信長は二人を殺せとは断じて言ってない。信長の返事に従って「存分に」殺害命令を下したのは当の家康本人である。

あまり知られていないが、岡崎三郎信康の三郎とは信長の幼名である。信康の信は信長の信であろうし、織田信秀の異母弟であり、織田家発展の柱となった織田与二郎信康からとったのかもしれない。

信康がまだ二歳で竹千代と呼ばれていたころ、後の家康となる世良田元信に連れられて、信長の家臣、加藤図書之助(ずしょのすけ)の家にて、弟の加藤隼人佐(はやとのすけ)とその妻の「よめ」が世話をしていた。(重掲[3516]参照)。

信康よりも二歳年下である徳姫(=五徳)が生まれたのもこの頃である。「五徳(ごとく)」とは鉄瓶などを置く三本足や五本足の台のことである。信長が娘に五徳と名付けたのは、信忠、信雄(のぶかつ)、と三人で織田家を支えよ、との意味であると『織田家雑録』にある。

しかし、八切止夫氏が主張するように、そこに信孝と信康も加えて五人で力を合わせて織田を支えよ、であったかもしれない。

信康は、天正三年(1575)十七歳の頃、「長篠の戦い」で勇猛果敢に戦い、勝頼をして「徳川は果報者なり。かの小冠者成長せば、かならず天下に旗を立つべし。」と言わしめたという(三河後風土記)。

ただしこれは『三河後風土記』に書かれていることなので、どこまで事実かは不明であるが、その後、家康が駿河に攻め入り各地の小城を次々と攻め落としていく中、小山城攻略の途中、勝頼の反撃を受け、その前月に攻め落とした牧野城への退却時、信康自ら殿(しんがり)をつとめて全軍無事に帰還させ勇名を馳せたという(信長公記)。これは信用できる。

家康は、そんな信康を疎んじて、「今度出過ぎたことを言ったら??りつけよ」(岩淵夜話)と家臣に言ったり、そうかと思えば、遠州中泉の別宅で信康を接待し、酒宴と美姫をはべらせ歓楽に溺れさせたりと、まるで骨を抜きたいかのように遊ばせている。
それでも信康は、真っ直ぐ立派な武将に育っている。

信長としては、幼児竹千代の頃から知っている信康に、自身の幼名や名の一文字に重ねて、叔父の名までも付けて、娘を嫁にも出しているのである。その娘婿が、武功目ざましいのなら何も言うことはないはずである。本当に徳姫から来た書状であれば、徳姫本人に確認するだろうし、直接信康にも会いに来そうである。

しかし、家康側から信康を処分したい旨の申し出があったことは事実であろう。
信長は相当悩んだはずであるが、今ここで三河を再び二つに割ることはできない。家康が三河一向一揆(駿府生まれのよそ者である世良田元信に対する西三河衆の反逆)でせっかく西三河衆を解体して統一したのに、松平直系で元康の遺児たる信康を擁立されては息を吹き返しそうである。

徳川率いる駿河州(東三河衆を含む)と岡崎の西三河衆との内戦など、今頃また起こされては目指す「天下布武」にも影響する。まして、駿府生まれの家康は関東にも縁があり、駿河国の攻略も進みつつある。徳川と北条との同盟も近い。願人坊主時代に培った服部党など乱破(らっぱ)素破(すっぱ)たちとの諜報網も持っている。

過去には桶狭間での一件(重掲[3516]参照)もあるし、選択するならやはり家康の方だ。だが信長は、家康が瀬名姫と信康のふたりを殺害するとまでは思っていなかったのではないだろうか。
信康殺害は、やがて西三河衆譜代筆頭石川和正の、秀吉の元への出奔にもつながっていく。

家康としては、この頃すでに西郷の方(実際は服部平太夫保彰(やすあき)=鍛冶屋の平太の娘の於愛、平太の家は世良田元信一党の掛川の拠点だった。重掲[3516]参照) を娶(めと)り、のちに二代将軍となる秀忠も生まれている。三河守(みかわのかみ)は、もともと信康成長までの代役であったが、せっかく手に入れた三河一国を手放すのももったいない。

しかし、このまま信康を立派に成長させてしまっては、自分が退かねばならない。かと言って、このまま三河国返却をつっぱね続けて、三河一向一揆の再来になっても困る。今度は松平直系の信康だ。信康を担ぎ出されてはたまったものじゃない。後ろ盾となる瀬名姫(=元康の正室)の存在も邪魔である。
ここで信長と家康の利害が一致したのである。

信康は家康の命令によって、天正七年(1579)八月四日、大浜城(愛知県碧南市)に移送。
同八月九日、堀江城(静岡県浜松市)に移送。
同八月十日に家康が岡崎衆に「信康に与しない」と起請文を書かせる。
同八月十一日、二俣城(静岡県浜松市)に移送、幽閉。
同八月二十九日、瀬名姫惨殺。
同九月五日、徳川・北条同盟成立。
同九月十一日、織田信長上洛。
そして、同九月十五日に二俣城内にて自刃。

信康は、切腹前に「いまさら、何も申すことはないが、自分が謀反して、勝頼に一味するということは、さらに思いもかけぬことである。このことだけは、自分が死んだのちにも、お前から、よくよく申し上げてくれ。」と言い残した、と伝わっている。

介錯をつとめたのは、服部半蔵正成だが、涙が溢れて視界がままならない。「手間取ってはご苦痛のほど、恐れ入る。」と立ち合いの天方山城守通経(てんほうやましろのかみみちつね)が代わって介錯を務めた。これらは『編年藩譜』『野中家譜』『大久保物語』に同様に書かれている。無実の罪であり、真実の言葉だからである。

全く理由なく自刃させられた信康の死をもって、松平入道信光より三河の長者として世にも聞こえた名家である松平の本家本流は、ここに途絶えたのである。

(法名;騰雲殿達岩善道大居士 埋葬地には後に清瀧寺(静岡県浜松市)が建立された。)
                                  
松永知彦筆

守谷健二 投稿日:2023/05/13 11:02

【3053】[3549]『原日本書紀』はどのように修正されたのか

大宝三年(703年)、粟田真人の遣唐使は、唐朝に日本国(壬申の乱で勝利した天武の王朝)の由来(歴史)を説明した。しかし『原日本書紀』では、唐朝を納得させることが出来なかったのです。
 修正する必要があった。「万世一系」の天皇の歴史でも、唐朝が納得できるように書き換えることに迫られていた。
 最新の正史である『隋書』倭国伝(640年成立)を徹底的に研究した。『隋書』
倭国(筑紫王朝)伝を、そっくり近畿大和王朝の歴史として移し替えることにしたのです。

 『原日本書紀』は、倭国(筑紫王朝)と日本国(大和王朝)の歴史を、一つの王朝に融合させて作った(歴史)です。日本には元々大和王朝しか存在しなかった、と。
 中国正史『隋書』の倭国(筑紫王朝)記事を、日本国(大和王朝)のものに組み替えることは必然の作業でした。
 『古事記』が推古天皇(在位592~628)で終わっているのは、隋朝の存亡に対応しています。『隋書』倭国伝を日本国の歴史として取り込むことが、『原日本書紀』修正のキモ、核心でした。

 その際、困ったことがあったのです。推古天皇は、女帝です。それに対し、その当時の倭国王は、明らかに男性と書かれているのです。この倭国王は、姓を阿毎(アマ・天・海人)、名を多利思北孤(タリシホコ)と書かれおり、開皇二十年(推古八年)と、大業三年(推古十五年)に遣唐使を派遣しています。

『隋書』倭国伝より

その朝貢使曰く、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興とす。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来たって仏法を学ぶ」と。その国書(倭国王が隋の皇帝に送った)に曰く「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、筒がなきや、云々。」と。
 帝、これを視て悦ばず。鴻臚卿にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ」と。

 歴史好きな人には、思い当たるでしょう。この倭国王・多利思北孤は聖徳太子のモデルであることが。推古天皇は女性ですから、そのまま倭国王(男性)に当てはめることが出来なかった。そこで特別な太子(聖徳太子)が創り上げられたのです。
聖徳太子の和名は『上宮の厩戸豊聴耳命(うへつのみやのうまやとのとよみみのみこと)』と言います、勘の鋭い人はお解りでしょう。イエス・キリスト誕生説話です。キリスト教は、六世紀の中国に到達していたのです。

 『古事記』の編者は、聖徳太子を、イエス・キリストをモデルに創れと命じているのです。嗚呼!
 

副島隆彦 投稿日:2023/05/10 16:27

【3052】[3548]この「どうかしている泉(いずみ)」という人が、次の日本の指導者になるべきだ。

副島隆彦です。 今日は、2023年5月10日(水)です。

 ウクライナ戦争で、東部ドネツク州の、大激戦地のバフムートが、まだ陥落しない。民間軍事会社(PMC、パラミリタリーの非正規軍、私兵の集団)のワグネルの指導者のエヴゲーニー・プリゴージンが、「ロシア軍から、砲弾が届かない。さっさと送れー」と、怒鳴り声をあげていた(5月5日)。
 このことは、バフムートが陥落した時点(あと、たったの1.5キロ四方。2.4平方キロメートルの面積だ)で、ここに集めた記事を貼り付ける。

 今日、私が書くのは、「どうかしている泉(いずみ)」と、この30年間、地元で呼ばれ続けた兵庫県 明石市(人口30万人ぐらい)の “名物市長” を3期、12年間やって、先月、引退した、泉房穂(いずみふさほ)(今、60歳) という 素晴らしい政治家のことです。

 私は、以下に載せるインタヴュー記事から分かる通り、この泉房穂が、おそらく、小沢一郎(もう83歳)のあとを継ぐべき、日本の真実の改革勢力 の 次の代表となるべき人物だと思う。 私は、この泉氏にこれまで会ったことがないし、つい最近まで何も知らなかった。「こんなすばらしい政治家(国民指導者)が、日本で育っていたとは」と、ひとりで驚いている。 

(ここに泉房穂=いずみ・ふさほ= の 写真を載せる)

副島隆彦です。 この下の方に記事 を載せる。この名物市長の引退と共に、彼のことをずっと描いた、朝日新聞の政治部あがりの記者が、泉にインタヴューして書いた『 政治はケンカだ!・・・』という本(ふたりの共著としてある)の出版の宣伝を兼ねての記事だ。

(ここにこの本のアマゾン・リンクを貼る)
政治はケンカだ! 明石市長の12年

 この元朝日新聞記者の鮫島浩(さめじまひろし、52歳)氏は、気合の入ったジャーナリストで、朝日をやめた(2021年)あと、泉房穂明石市長に取材している。
 鮫島氏は、朝日新聞政治部の中でひどいイジメにあったようだ。福島原発の報道で、2012年に記者協会の賞を貰(もら)っていたのに、朝日が、安倍晋三政権(2012年12月)が出来て、それ以来、朝日は、安倍長期政権(7年間。統一教会が乗っ取った、日本の政権)に狙われた。

 そのせいで、朝日新聞の報道姿勢は、どんどんおかしくなって、旧来の日本の反(はん)自民党の、護憲(ごけん)勢力の中心 としての地位を、完全に崩(くず)された。今の、朝日は、もう日本のリベラル派の 代表としての面影(おもかげ)も、残さない。それぐらいに身を滅ぼして、悲惨な保守反動メディアに、変質し尽くした。

 併せて、朝日内で、船橋洋一(ふなばしよういち)という、幹部記者が、アメリカの手先に成りきって、こいつの活動と暗躍が朝日を内部からおかしくした。 鮫島浩は、朝日内部で、こいつらと闘ってきたのだ。彼の、『朝日新聞政治部』(講談社、2022年刊)に、すべてが書かれている。

(転載貼り付け始め)

〇 「 明石の名物市長・泉房穂のヤバい東大生時代…「お前ら、中途半端な爆弾撃ってくんな」革マル派や中核派とケンカしていたあの頃 」

2023年4/28(金)   現代ビジネス(講談社の 週刊現代の ウエブ版) https://gendai.media/articles/-/109491


  泉房穂氏(左)と鮫島浩氏©Makiko

 自民党総理候補に泉房穂が圧勝! (2023年)4月23日に投開票された統一地方選。兵庫県明石市でこんな大事件が起きた。自民党は立憲民主に圧勝したと吹聴するが、明石市では泉房穂(いずみふさほ)氏が立ち上げた地域政党「明石市民の会」に完全に敗北した。

 明石市は泉房穂氏が3期12年にわたって市長を務めてきた。全国に先駆けて「異次元の子ども施策」 を実行し、市の出生数のみならず人口、税収も飛躍的に伸ばして「明石モデル」と称賛された。今回はその名物市長が、これまたお馴染みとなった「暴言」を理由に辞職(政治家引退)。今回の市長選に突入した。

 泉氏の市長任期は、この4月いっぱい。市長退任翌日の5月1日に出版される泉氏の著書『政治はケンカだ! 明石市長の12年』 がいま、話題を呼んでいる。市長在任中にはけっして口に出来なかった、改革に抵抗する勢力との闘いの内幕を明らかにしているからだ。

聞き手を 朝日新聞政治部 の著者で気鋭の政治ジャーナリスト・鮫島浩氏が務めている。  市議会、政党、宗教団体、マスコミ、市役所職員……。泉氏が「四面楚歌」の状態でいかに闘争してきたか、同書にはすべて記されている。前回記事に引き続き、発売に先駆け、同書の内容を特別に公開する。  

連載『政治はケンカだ! 』第2回後編 前回記事【「障害者は放置して死んでいくのを待て」…医者の言葉に、明石市長・泉房穂が抱えた「強烈な違和感」】

故郷の明石を誰よりも愛し、誰よりも憎んでいる
 鮫島 10歳で明石市長になることを決意した泉少年は、やがて東大に入学して故郷・明石を離れます。東大時代はどんな学生だったのですか?   

泉 18歳で大学進学と同時に上京し、故郷を離れるんですが、東京でも1日遅れで神戸新聞を取ってました。なぜかというと、神戸新聞の明石版を読むため。私はどこにいようが、ずっと神戸新聞の明石版を読み続けています。それは、世の中の誰よりも明石に詳しくなる必要があったから。おそらく、いまの私は全人類の中で一番明石に詳しいはずです。

だからこそ、私は故郷・明石のことを心から憎み、心から愛してるんです。誰よりも明石について知っているからこそ、まだ消えない理不尽に対して、誰よりも強い憎しみを抱いている。  

鮫島 それは凄い。本当に、明石市長になるために人生を懸けていたのですね。

泉 半端な思いでやってないんです。上海の北に人口750万人ほどの無錫(むしゃく)という市があり、1981年に明石市と姉妹都市提携をしました。1986年、5周年記念を祝う式典が催され、明石市民が無錫に招待された。当時22歳の私は、呼ばれてもないのに勝手にバックパックを背負ってその会場に行きました。そして、式典が開催されたホテルの壁画を見ながら、「次は市長としてここに帰ってきて、この壁画を見る」と心に誓いました。  

実際に、それから25年経った2011年、姉妹都市30周年の記念式典で明石市の吹奏楽団を引き連れて、市長として無錫に戻ることができました。その時は「25年かかったか」と感慨深いものがありました。  

鮫島 たくさんの政治家を見てきましたけど、自分の故郷を「心から憎み、心から愛している」と言い切れる人は初めてです。梶山静六(かじやませいろく)さんは、故郷・茨城への愛を「愛郷無限」と言いましたが、「故郷を愛する」と訴える政治家はたくさんいても、「心から憎み、心から愛している」という人はいない。

でも、憎しみがあったからこそ、「優しいまちに変えたい」という泉さんの政治家としての原動力が生まれた。これほど一貫した人生を歩んでいる政治家は他にいないかもしれません。

何より大切なのは、市民とともにいること
鯖島 学生時代、学生運動にも参加されていたそうですね?   

泉 学生運動のリーダーをやっていて、革マル派とも中核派とも喧嘩してました。中核派に「お前ら、中途半端な爆弾撃ってくんな」とかボロクソ言ってましたね。「どうせ撃つならしっかり狙って撃ってみい」と。我ながら、ホンマに危ない人やったんですよ(笑)。  

一応私は、駒場(こまば)寮(学生寮)の寮費値上げ反対の全学ストライキを決行した最後の実行委員長なんです。 結局、負けてしまい責任を取らないといけなくなり、20歳のころ、いったん大学に退学届けを出してるんですけどね。  

私が学生だった80年代は、ちょうど、ポーランドでレフ・ワレサが、民主化運動を引っ張っていた時代と重なってまして。ワレサが電気技師として働いていたグダニスク造船所に行ってしまうぐらい心酔してました。ワレサは、1980年に独立自主管理労働組合「連帯」を創設し、既存の社会主義体制を打倒すべく、民主化運動の先頭に立ち、1990年、ついに大統領になる。一人の労働者が一国の制度を変えていく過程を学生時代に見たことで「社会は変えられるんだ」と勇気をもらった。

同時期、チェコスロバキアでもヴァーツラフ・ハヴェルらが中心となり、民主化革命が成功しましたし、「民衆の力」というものを教えてもらいました。

 翻って日本を見ると、残念ながら民衆・市民・国民が、自分たちの力で社会を変えた成功体験を持っていない。歴史を遡っても、貴族階級や武士階級の中でのクーデター的な政権交代はありましたが、常に「上の」交代にすぎず、民衆が主体となった「下からの」社会変革や革命は起きませんでした。  

私は、これはすごく問題だと思っていて、大学生時代から、日本でも民衆の立場で政治を変えていくことが必要だと考えていました。本気で革命を起こしたいと思っていた。自分にできることとしては、生まれ育った明石市の市長として、実際に社会を変えたという成功事例を示したいなと。  

そういう私の政治的なスタンスからすると、何党に付くかは問題ではなく、市民とともに進んでいければそれで十分。まあ、様々な既存の政党からしたら面白くないでしょうから、冷たくされることも多いですけど、そんなことはどうだっていい。私にとって、何より大事なのは、市民とともにいることなんです。  

鯖島 なるほど。現在の政治的状況は、有権者の立場からすると、二大政党政治の行き詰まりというか、二大政党のどちらも選びようがない状況だと思うんです。どっちもどっちで差が見えず、大政翼賛的に与党一色に染まりつつあり、野党が「もうひとつの選択肢」になり得ていない。そういった閉塞感が日本社会を覆い、低い投票率と政治不信に繋がっている。  そんな状況のいまだからこそ、「市民とともに」独自の政策を貫く泉さん、そして明石市に注目が集まっていると感じます。

受理されていなかった東大の退学届け
鮫島 学生時代に話を戻します。大学に出した退学届けはどうなったんですか?   

泉 いったんは、完全に東京の家を引き払って明石に戻っていました。地元で塾でも開いて生活しなきゃいけない、ぐらいに思っていたんですね。結局、半年後に、当時の東大の学部長から「泉くん、何してる?」と電話がありまして。「自分らは負けたんだから誰かが責任を取らないと。だから退学して地元に戻った」と近況を伝えたところ、「本当にそれは君のやりたいことなのか。そうじゃないなら、君にはまだやるべきことがあるはずだ。みっともなくても恥ずかしくてもいいから、帰ってきなさい」と言われ、復学することになりました。 
   
 結局、退学届けは受理されてなかったんです。  涙を流しながら東京に戻り、卒業後NHKに入りました。その後、テレビ朝日に移り『朝まで生テレビ』の草創期を番組スタッフとして担当し、その後、石井紘基(いしいこうき)さんの本を読んで感動しまして。石井さんを国会に送り込むために、石井さんの近所に引っ越して秘書として選挙を応援しました。ところが、選挙で負けてしまい、石井さんに謝りました。

「私はあなたを(選挙で)通したかったけど、ダメでした。次こそ通しますから頑張りましょう」と。そしたら、(石井紘基 さんに)「これ以上、君を引っ張りまわすわけにはいかない。騙(だま)されたと思って、まず弁護士になりなさい。君はいつか政治家になる。でも急いではいけない」と強く言われ、司法試験を受け弁護士になったのです。  

 若くして立候補した政治家をたくさん見てきた石井さんは、「まずはちゃんと世の中を知るべきだ」とお考えだったんです。「弁護士として本当に困っている人を助けることで勉強しなさい」と。「いずれ政治家になった時に、弁護士としての経験が必ず生きてくる」というアドバイスだったのです。  

 1997年、33歳の時に弁護士資格を取得して、明石市に戻り、市民活動のお手伝いなどに奔走しました。2000年4月に法律事務所を開業した時には、市民の方々からたくさんの胡蝶蘭(こちょうらん)が送られてきました。その時、すでに明石の一定の方々からは、「あの泉がついに明石のために帰ってきた」と認識されていたんですね。まあ、私の場合、子どもの頃から「どうかしてる奴」として有名でしたから(笑)。

なぜ一度国会議員になったのか
 鮫島 明石市民からしたら、「どうかしてる泉が、とうとう明石市長になるために帰ってきた」ということですね(笑)。ところが、故郷に戻ってすんなりと市長選に出たわけではありません。2003年の衆院選に民主党から立候補して、国会議員になっています。これは、どういう流れだったのですか?   

泉 実は2003年の、私が40歳で迎える市長選に焦点を合わせて、そこから逆算して行動していたのですが、計算が外れてしまった。その前年には、実際に立候補しかけたんですけどね。当時の市長選には、親子二代で選挙に強い候補者が名乗り出ました。彼は当時、民主党系だったから、無所属の私が手を上げようとした時に、自民党とNPO関係者が私を担ごうと近付いてきた。  

私は一貫して、市長選挙に出るときは完全無所属で出馬すると決めていたのでお断りしました。NPOと言っても、結局は既得権益層だったりしますから、彼らの応援すらもいらないと考えていた。普通の市民とともに闘うことに意味があると、最初から考えていたんです。

 でも、当時はどうあがいても勝ちきれない情勢が明らかになり、やむなく手を下げた。まだまだ自分は無力だと痛感しましたよ。それで市長選を見送り、意気消沈していたところに国政への出馬要請があったのです。暗殺された石井(紘基)さんの遺志を継ぐよう仲間から強く言われたこともあり、「それだったらいったん国政にいこう」と考え、2003年に兵庫2区から民主党公認という形で出馬したというわけです。  

 あの時は、いわゆる落下傘候補で明石の隣の神戸市から出ることになったので、神戸市にも明石市にも後ろめたい気持ちがありました。「必ず明石市長として戻ってくるから」と心に誓い、再び東京に行くことになりました。  

 国会議員になると、得られる情報が増えます。国会図書館や官僚を活用しまくって、明石市長になったらやるべきことの整理を始めました。フランスの少子化対策なんかもその頃に勉強して、市長になったら参考にしようと決めていた。  

10歳から明石市長になることに懸けてましたから、カッコつけた言い方をすると「なり方」にもこだわりたかった。市民だけを味方にして勝たないと、私にとっては意味がなかったんですね。中途半端に既得権益に担がれたら、結局、何の改革もできないまま任期を終えることになります。それだけは避けたかったのです。

連載第1回から読む【「日本一の子育て政策」「暴言、毒舌」で知られた明石市長・泉房穂氏がいま「本音」で話すこと…「『人から嫌われたくない』なんて思ったことはない」】  鮫島 浩(ジャーナリスト)/泉 房穂

【前回記事】「障害者は放置して死んでいくのを待て」酷すぎる医者の言葉…明石市長・泉房穂が抱えた「強烈な違和感」

貧しい漁村の生まれ、小卒の父親と中卒の母親、障害を持つ弟…明石市の名物市長・泉房穂の「原点」

「日本一の子育て政策」「暴言、毒舌」で知られた明石市長・泉房穂氏がいま「本音」で話すこと…「『人から嫌われたくない』なんて思ったことはない」

小柄な暴言王・泉房穂明石市長、橋下徹元大阪府知事、古賀誠元自民党幹事長…元朝日新聞記者が語る3人の政治家の「似た匂い」

関西でジワジワ広がる「明石市改革」 国会議員は与党も野党も泉房穂市長を見習え!

最終更新:4/28(金) 7:03

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 以上の記事を読んだ人は、皆、本気で考え込むはずだ。そして分かる人は、分かる。この人物が、日本国の次の指導者になるべきだ。それだけの条件と、経歴と経験と、生来の優れた頭脳と、それから、政治指導者に何よりも必要な、我慢強さと、人々を説得(せっとく)する情熱と、それから、何が有っても、決して国民(市民、住民、人民)を裏切らない、という信念が、きっと、この泉房穂(いずみふさほ)には有る。

私は、この人に一度もあっていないし、これまで、誰からも評価、評判を聞いていない。だから、あんまり早急に、「この人が、小沢一郎を継ぐ、日本の次の民衆(国民)の指導者だ」と、決めつけはいけないのだろう。だが、私、副島隆彦の眼力から、私は、判断した。
この人は、素晴らしい人だ。こんな生き方をして来た、人間は、他にはいない。

私は、今日は、これ以上は、私の泉房穂論は書かない。これから追々(おいおい)書く。

 それでも、私が、一点、ビリビリ来たのは、上記のインタヴュー記事の中にある個所だ。

「 (東大を)卒業後 NHKに入りました。その後、テレビ朝日に移り『朝まで生テレビ』の草創期を番組スタッフとして担当し、その後、石井紘基(いしいこうき)さんの本を読んで感動しまして。石井さんを国会に送り込むために、石井さんの近所に引っ越して秘書として選挙を応援しました。・・・・・暗殺された石井(紘基)さんの遺志を継ぐよう仲間から強く言われたこともあり・・・」

とある。 私、副島隆彦は、ここで、完全に、この泉房穂 という男に、同調する。何があっても、この「どうかしている泉」が、東京に出てきて、60歳から国民政治活動をする、というのだったら、彼に、すぐに会いに行って、話して、何を、一緒に出来るかを、本気で考える。

指導者は、民衆(国民)が育てる。この泉房穂のことを、これまで知っていた、明石市や兵庫県の県民たちは、彼のことを何でも知っている。東京では、上記の鮫島浩(さめじまひろし)元記者のネット報道以外では、誰も知らない。意図的に、東京のメディア(テレビ、新聞、週刊誌)が、知らせない。

 自分たち、ただの市民(人民、people  ピーポウ)こそが、政治の主人公であるべきなのだ、と知っている。 このことを、既成(きせい)の、バカ野郎の、利権屋政治ゴロたち(自民党、公明党、他の腐った野党ども)と、労働組合、それから、気色の悪い宗教団体などが、激しく嫌う。そこを、泉房穂は、たった一人で、持ち前の不屈の精神と、優れた頭脳で、乗り越えて来た。それが、偉い。

そして、私、副島隆彦が、死ぬほど感動したのは、上記のインタヴュー記事の中の、

20歳台の終わりに、石井紘基(いしいこうき。民主党の衆議院議員だった)の秘書を自分から買って出て、彼を支え続けたことだ。

(ここの石井紘基の顔の写真を貼る)

石井紘基(1940-2002)

副島隆彦です。 石井紘基は、2002年10月25日に、東京世田谷の自宅を出たところで、刺殺された。61歳だった。 彼は、野党の政治家として、日本の政治の裏側の穢(きたな)い面を、徹底的に調べ上げて、国会で、まさしく追及している最中だった。石井紘基が暗殺された事件は、21年経(た)った今でも。

 私たち、本気で日本政治のことを考えている人間たちにとっては、最重要の事項だ。私たちの精神に、重苦しく圧(の)し掛かる。石井紘基(いしいこうき)は、日本の財政問題の裏側の、アメリカによる日本からの資金の奪い取りの調査を国会議員としてやっていた。

 それだけでなく、オウム真理教という凶悪な犯罪集団が、実は、統一教会(Moonies ムーニー)の、表面の団体(フロントという)であったことまでも、当時、すでに、自分の選挙区での活動も通して知っていた。それを防止するための政治家としての活動もしていた。だから殺されたのだ。

 石井紘基の殺人者として捕まって、21年の刑に服した右翼の男が、自白して、「4500万円貰(もら)って、殺した。誰の依頼かは、言えない」と、言い続けた。日本の政治警察と裁判所は、この右翼の男の単独犯行として処理した。

今も、石井紘基の、無念の霊魂(れいこん)が、怨霊、亡霊となって、私たちの頭上をさ迷っている。なんとかして、私たちは、彼の無念を晴らさないといけない。

 私の弟子のひとりは、この石井紘基の娘さんであるターニャさんと親しい。
泉房穂は、この殺された石井紘基の秘書を、自ら志願してやっていた。このことの、素晴らしさの前に、私、副島隆彦は脱帽する。だから、泉房雄を腹の底から信用する。

 このように、私、副島隆彦が、「この泉房穂が、日本の次の指導者であるべきだ」と、書くと、おそらく、このあと、日本国内で、10万人の、この国で、ヘンな歪(ゆが)みが無く、かつ一番、頭のいい人たちが、真剣に、考えるだろう。

 今日は、泉房穂が、市長時代に、実行し、実現した、明石モデルと呼ばれる、
「 1.18歳までの医療無償化  
2. 第2子からの保育料の無償化  
3. 中学校の給食の無償化 
4.公共施設の無償化  
5.おむつの 定期便 」
という政策に、ついて説明できない。こんな凄(すご)いことを、本当にやった地方政治家 が、日本にいたとは、と、私は驚いていている。だから、暮らしやすい明石市に、移り住む人たちが、どんどん増えているという。この「どうかしている泉」が、始めた明石モデルは、今、全国の他の自治体に、広がっているだそうだ。

 皆(みんな)の代表として、ひたすら民衆、市民の支持だけを頼りに、長い試練に耐えて、ここまでニコニコと(敵たちに向かっては、激しく口で批判するという)やってきた男を、私たち日本国民が、今から、上に押し上げないといけない。

 私、副島隆彦は、遅ればせなら、この泉房穂を、応援し、次の日本国の指導者となるべき人だと強く推薦する。 
 
https://gendai.media/articles/-/109491

副島隆彦拝

守谷健二 投稿日:2023/05/10 11:52

【3051】[3547]『古事記』と『日本書紀』の関係

今回は『古事記』と『日本書紀』の関係を書きます。

『古事記』は序文に、和銅五年(712)二十八日撰上の序文を持ちます。
いっぽう『日本書紀』は、養老四年(720)に撰上されました。(続日本紀)
『古事記』の方が『日本書紀』より六年前に成立していたのですが、『古事記』の方が『日本書紀』よりコンパクトであるが故に、『古事記』は『日本書紀』を見て書かれたものである、『日本書紀』の方が先に成立しており『古事記』序にある和銅五年は偽りであり、『古事記』の書かれたのは平安時代初期であると言う『古事記』偽書説なるものがしばしば登場するのです。

ここで私は断言します、『古事記偽書説』なるものは誤りであることを。『古事記偽書説』を唱える方々には共通する二つの欠落があります。
 一つは、万葉仮名(奈良時代の文献『万葉集』『古事記』『日本書紀』などの表記に用いられた漢字)に対する理解が欠けていることです。
 歌謡などの音を表すのに借用した漢字に対する理解の欠如です。明治の末期、橋本進吉博士は、全ての万葉仮名の分析から「上代特殊仮名遣い」と呼ばれるものを発見しました。七世紀から八世紀にかけての大和地方では八母音を区別して使われていたことを明らかにしたのです。(万葉集の東歌、防人歌にはこの区別はない)
例えば、上(カミ)と神(カミ)の(ミ)は異なる発音であったことを明らかにしました。両者の(ミ)は、異なる漢字で書かれており混同する事はない厳密性を持っています。
この「上代特殊仮名遣い」は、八世紀後半に崩れ、平安時代になると消滅します。この仮名遣いの有無が、文献が平安時代以前のものか、以後のものかのリトマス試験紙になります。
日本語学者は、『古事記』の方が『日本書紀』より古い語法で書かれていることを明らかにしています。

『古事記偽書説』を唱える人のもう一つの欠落は、『旧唐書』に対する無知です。日本では『唐書』と言えば『新唐書』を指し『旧唐書』は長らく隠蔽されてきました。『旧唐書』が再度日の目を見たのは第二次世界大戦の後です。
中国では『旧唐書』の方が信頼性が高く、『新唐書』はダメな史書と烙印が押されています。日本でも『旧唐書』を無視続けることが出来なくなったのです。それでも今も『旧唐書』の倭国伝と日本国伝の併記は、『旧唐書』編者のみっともない勘違いよる誤りである、と主張しています。

『旧唐書』は、七世紀半ばまで「倭国伝」(663年の白村江の戦まで)で作り、「日本国伝」が始められるのは、大宝三年(703年)の粟田真人の遣唐使記事からです。粟田真人等の使命は明確でした。天武天皇の命令で編纂した『日本書紀』(日本国の由来・歴史)を唐朝に説明し、承認して貰う事です。

つまり大宝三年まで天武の王朝(天武天皇を祖とする)を正統化する歴史は、一応完成していたのです。(これを今、原日本書紀と呼ぶ)
『原日本書紀』の歴史では唐朝を納得させることが出来なかった、天武の王朝の正統性を認めさせることが出来なかった。故に『原日本書紀』を修正する必要があったのです。
『古事記』は、『原日本書紀』のコンパクト版です、『原日本書紀』を修正する際の指示(命令)書です。

『旧唐書』日本国伝より

 日本国は倭国の別種なり。その国日の辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいは云う、倭国自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本となすと。あるいは云う、日本旧小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て応えず。故に中国是を疑う。・・・・

もう(青柳) 投稿日:2023/05/09 10:59

【3050】[3546]現代ジャーナリズムの問題についての勉強会

会員番号1855のもう(青柳)です。元横須賀市議の一柳洋さんと「温暖化とコロナに流されない市民の会」を主催しており、前回「コロナウイルスとワクチンの問題点」勉強会にも本道場から多くの会員の方の参加を賜りました。

このたび、来る5月21日日曜日13:30から前回と同じ神奈川県民センター会議室で(反)ジャーナリスト、高橋清隆さんを講師にお招きして、「誰も伝えないメディアの虚構」と題して現代メディアの根本問題について暴露していたく予定です。高橋さんは植草一秀冤罪事件や、コロナワクチン遺族の会の取材など、大手メディアが取り上げない問題を地道に報道しつづける稀有なジャーナリストです。高橋さんは副島先生の「属国日本論・幕末編」において我が国最初のジャーナリスト、ジョセフ彦蔵が、アメリカで教育を受け、横浜領事館で通訳をしながら新聞を発行し、言論の側から国際金融資本による日本乗っ取りである明治維新を後押しした、という指摘にインスパイアされたと仰っていました。歴史を踏まえた大きな視野からのメディア論を期待できると思います。御興味のある方は是非ご参加下さい。お申込みは同会のサイト(https://ondan567kai.wixsite.com/index/イベント)からお申込み下さい。

守谷健二 投稿日:2023/05/07 13:03

【3049】[3545]「ジパングは黄金の島」の根拠

マルコポーロの『東方見聞録』に「中国東方海上に、黄金と真珠を豊富に産出するジパングと言う島国がある」と書かれている。このジパングは日本のことだと言う。真珠の採取は、『万葉集』の歌にも多数あり納得のゆくものであるが、黄金の方はどうだろう、奈良時代東大寺の大仏を作る際、聖武天皇の悩みは、大仏を荘厳するための金が絶対的に不足していたことであった。

この時は、偶然に陸奥の国から黄金が発見され、黄金で飾ることが出来た。しかし奈良時代平安時代を通して、陸奥以外に大金鉱が発見された痕跡はない。

奝然が宋の皇帝太宗に献上した黄金(銅器十余事の中身)も、陸奥国からの貢物であった。(982年、陸奥国に宋人に給する答金を貢上させる。岩波・日本史年表第四版)
日本で、溢れるほどの金が取れてたとは考えられないのだ。ジパングの黄金伝承は、いったい何に基づいているのだろうか、これが私の少年時代からの疑問であった。

しかし今、正史『新唐書』・『宋史』の日本記事を知った。東大寺の僧奝然は、膨大な黄金を持って行ったのだ。『旧唐書』の日本記事は、平安時代の貴族に大衝撃を与えたのである。王朝の正統性の根拠は、神を祖とし、血の断絶のない「万世一系」の天皇の家系の歴史にある。つまり日王朝の交代)がなかったことである。

しかし『旧唐書』は、七世紀の後半に日本に王朝の交代があった、と書く。許せない事であった、見逃すことの出来る問題ではなかった。中途半端な対応では済まないことであった。王朝が存続出来るか否かの問題であった。

日本の王朝は可能な限りの黄金を集め奝然に持たせて宋に渡らせた。『旧唐書』の日本記事を書き換えてもらうために。日本の陸奥国には黄金があふれ出る金鉱山が存在する、と大言壮語して。新たな「史書」の完成時には今回以上の黄金を献上いたします、と。

988年には、奝然の弟子の嘉因に膨大な宝物を持たせて宋朝に派遣している(日本史年表)。日本の王朝は、何が何でも『旧唐書』の日本記事を否定する新たな「正史」を欲したのであった。
この日本の願いと、宋朝の台所事情(毎年膨大な金銀財宝や食料、美女などを北方の遊牧民国家に納めなければならなかった)がジャストマッチしたのだろう、宋朝は『新唐書』を編纂したのであった。

1060年の『新唐書』の完成は、天武十年(681年)、天皇の命令で始まった『日本書紀』編纂の完結を意味する。『日本書紀』は、その第一の読者に中国の唐朝を想定して創られた「史書」である。天武の王朝の正統性を唐朝に認めさせるために書かれた歴史だ。

日本では『唐書』と言えば『新唐書』を指し、『旧唐書』は、完全に隠蔽されてきた。
しかし中国では1065年編纂を開始された『資治通鑑』(史実に忠実であると極めて信頼性が高い)は、唐代の記事は『旧唐書』に依拠し、『新唐書』には目もくれていないように『新唐書』は完成当初から軽蔑の目で見られる歴史書であった。
奝然の献上した黄金と、日本の陸奥にある黄金を溢れるように産する大金山の話が三百年後のフビライハンの王朝まで伝わりマルコポーロの『東方見聞録』の黄金伝承に成ったのではないか。
 またフビライの日本に対する異常な執着(二度に亘る元寇)の根底にあったのも奝然の献上した黄金にあったのではないか。
仮に『新唐書』がなかったなら、天皇制の王朝は平安時代で終わっていたかもしれない。

守谷健二 投稿日:2023/05/01 11:00

【3048】[3544]中国(宋朝)は何故日本認識を変えたのか

〔3541〕の続きです。
『旧唐書』(945年成立)と『太平御覧』(983年成立)の日本認識は、七世紀の後半に王朝の交代があったというものです。
それに対し『新唐書』(1060年成立)の日本記事は、日本の開闢以来、王朝の交代はなく天御中主の神を祖とし今の天皇に至るまで血が途絶えた事はなく万世一系の天皇家の支配が続いて来た、と書く。983年から1060年の間に宋朝の日本認識に大きな変化が起きていたのである。今回はその原因を探ってゆく。

正史『宋史』より引用
 雍熙元年(北宋の第二代大宗の年号、984年)、日本国の僧奝然(ちょうねん)、その徒五、六人と海に浮んで至り、銅器十余事ならびに本国の『職員令』・『王年代紀』各一巻を献ず。・・・・
 
 四時の寒暑は、大いに中国に類す。国の東境は海島に接し、夷人の居る所なり、身面皆毛あり。東の奥州は黄金を産し、西の別島は白銀を出だし、以て貢賦となす。国王は王を以て姓となし、伝襲して今王に至るまで六十四世、文武の僚吏は、皆官を世々にすと。
 その年代紀に記する所にいう、初めの主は天御中主と号す。次は天村雲尊といい、その後は皆尊を以て号となす。・・・・

 太宗、奝然を召見し、これを存撫すること甚だ厚く、紫衣を賜い、太平興国寺に館せしむ。
 上、その国王は一姓継を伝え、臣下も皆官を世々にするを聞き、因って嘆息して宰相に言って曰く「これ島夷のみ、・・・・」

 984年に、東大寺の僧奝然が宋を訪れた記事が載せられている。小生が疑問に思ったのは、奝然が中国に着くや、いとも簡単に皇帝に拝謁を許されていることです。奝然は、日本国の正式な使者でも高名な学僧でもない、その彼が如何してやすやすと皇帝の拝謁を得ることが出来たのだろう。太宗が奝然の来朝を大いに喜んだ様子が書かれている。日本の『職員令』や『王年代記』に喜んだとは考えられない、事の核心は一緒に持って行った銅器十余事にあったのではないか。銅器十余事とは一体どの様な物だったのだろう。

 岩波書店の『日本歴史年表』(第四版)に次の記事がある。
 982年、陸奥国に宋人に給する答金を貢上させる。
 983年、奝然、宋商人の船で宋に渡り皇帝に拝謁。

 銅器十余事には、陸奥国で産した黄金がズッシリ詰め込まれていたのではなかったか。
 『旧唐書』が成立したのは945年である、既に海上交易は盛んになっていた。宋商人の船はたびたび博多を訪れるようになっていた。日本で最も喜ばれた品物の一つに経史があった。抜け目のない宋商人は、最新の歴史書『(旧)唐書』を運んで来ただろう。それは平安王朝に献上されたに違いない。
 王朝人は愕然としたのだ。平安王朝の正統性は、万世一系の神話と歴史にある。大宝三年(703年)粟田真人の遣唐使以降の遣唐使の使命は、唐朝に日本国の歴史(天武天皇の命令で定められた)を説明し、承認してくれるよう説得することを第一義とした。その為大きな犠牲も払っていた。ある程度成功したのではないかと言う手ごたえもあった。

 『(旧)唐書』は大きな衝撃を平安王朝に齎したのであった。時に平安王朝は全盛期を迎えつつあった。貴族は活力と自信に満ち溢れていた。来日する宋商人に中国の内情を聞き対策を考えたのであった。中国では商工業が活発になり庶民の生活は豊かになっていた。当然税収も増え宋王朝の威力も盛大であると考えられたが、実情は違うらしいことが判ってきた。
宋朝は、中国統一王朝であったが、北方の遊牧民国家遼の侵略を受け本来中国の固有の領土である長城の南の燕州十六州(今の北京周辺)を奪取され、回復を試みるも大敗を繰り返すだけであった。遼の更なる南化を防ぐため、毎年膨大な金銀財宝、食料、美女などを貢納せねばならなかった。宋朝は金で平和を買っていた。そのため宋朝の台所は常に火の車であった。

平安の貴族どもは、金で何とかなると考えたのだろう。奝然に持たせた黄金だけではない。彼の後にも膨大な金銀財宝を献上している。『旧唐書』の日本記事を否定する新たな『歴史書』の制作を依頼したのだ。完成の暁にはより多くの財宝の献上をちらつかせながら。(続く)

小生は『日本歴史年表』(岩波)を信頼している。

まさよし 投稿日:2023/04/30 19:20

【3047】[3543]最近の公明党

はじめまして。まさよしといいます。このたび副島先生の学問道場に入会させていただきました。

きっかけは副島先生と佐藤優氏の対談集です。
私は現在50歳で創価学会員です。19歳から今まで活動をしてまいりました。

創価学会では佐藤優氏は大変に評価されており、それがきっかけで佐藤氏の書籍も読むようになりました。

その流れで副島先生の存在を知ることになりました。
佐藤優氏は時に言い回しが難解なのですが、副島先生の語りは明快でわかりやすく、言葉は厳しい部分もありますが、とても共感が持てました。

話は本題に入りますが、コロナ禍に突入してから顕著に感じる
ことがあります。それは支援してきた『公明党の政策がおかしい』ことです。

ワクチン接種推進し始めたことは仕方ありませんが、副反応や死亡が出て 地元議員にも相談したのですが、まったく反対意見には取り合わなくなりました。 今まではどんなこともとりあえず意見は聞いていて そのような反応はありませんでした。

もともと公明党は国民の健康や命 生活に対しては少数派の意見も尊重する姿勢が党の基本理念でした。

ところが最近は率直に言うとディープステートの言っていることをそのまま言っていることに気がつきました。

違和感を感じてからTwitterや佐藤優氏 副島隆彦先生とたどり着き、その実態がようやく理解できた感があります。

なぜ そうゆうことになってしまったのか愕然としましたが、副島先生が統一教会がいろんな団体に入りこんで工作することやディープステートの暗躍などを学べば、そうゆうこともありうるかもと理解するにいたりました。

また池田先生(私たちはそう呼びます)創価学会の名誉会長も私は今は直接発信されていないか どこかで騙されているか…

どちらにせよ誰か邪なものが池田先生の権威を利用しているとしか思えない感じがします。

初めは「まさか」と思っていましたが、最近の公明党と創価学会の中枢には違和感しか感じません。

一般の会員さんは本当に純粋に国民の生活や幸せを願って活動する人が多いです。
ほとんどの会員さんは全く違和感なく活動されていて、私が政策のおかしさを意見しても村八分になる感じで、大きく騙されていると感じます。

しかし、学会員さんの中にも私のように違和感を感じている方もいないわけではなく、とにかくどんな団体であれ現在の政策を真剣に学び 議論していくことが急務だと感じています。

この学問道場もそうゆう場だと思い参加させていただきました。

日本国民を含め 世界の庶民が少しでも安心して暮らせる世の中のために私も少しでも学び 身近な人と語らっていきたいと思います。

副島先生 学問道場の皆様 いつも貴重な学びの場をありがとうございます。

まさよし

守谷健二 投稿日:2023/04/28 10:17

【3046】[3541]二つの正史(旧唐書と新唐書)について

お久しぶりです。また歴史について書かせていただきます。

中国正史『唐書』は、二つあります。西暦945年に成立したものと、西暦1060年成立したものです。両書を区別するため、先に出来た方を『旧』、後に出来た方を『新』と呼んでいます。両書とも奉勅撰のれっきとした「正史」です。

既に正史『(旧)唐書』が成立していたのに、どうして新たな「正史」を必要としたのか?
『(旧)唐書』は、唐末の戦乱で史料に欠損があり唐末期の記事が不十分であった。宋の時代に入り、新たな史料が多数発見され、より充実した「歴史書」の作成が求められた、と説明している。
日本では『唐書』と言えば『新唐書』を指し、『旧唐書』は無視されてきた。

豊富な史料を基に、宋朝と言う安定した政権のもと、当時の第一級の学者を集めて編纂したのだから『旧唐書』よりはるかに出来の良い「史書」が出来たはずである。
しかし『新唐書』の評判は極めて悪い。1064年に編纂を開始した『資治通鑑』の司馬光は、唐代の記事を『新唐書』に依らず『旧唐書』に依拠している。
考証学が盛んになった清の時代の学者たちも『旧唐書』の方が『新唐書』より信頼性に勝ると言う。これは現代の中国史学の定説でもある。
しかし、日本では『唐書』と言えば『新唐書』を指してきた、その理由を見て行きます。

両書の最も大きな違いは、日本記事にあります。以前に書いたように『旧唐書』は、七世紀半ばまで日本を代表していたのは倭国(筑紫王朝)と書き、八世紀初頭から日本国(大和王朝)と書く。つまり日本では七世紀の後半に代表王朝の交代があった、と。
663年の「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍と戦ったのは倭国(筑紫王朝)であったと明記する。
983年成立した『太平御覧』は『旧唐書』に基づき倭国と日本国の王朝交代説を採っている。つまり宋の代に入っても七世紀後半に日本では王朝の交代があった、と認識されていたのである。(宋の成立は960年)

いっぽう『新唐書』は、日本には開闢以来王朝の交代はなく、天御中主(あめのみなかぬし)の神を祖先とする天皇家が途絶えることなく今に続いているとする「万世一系」の天皇の歴史として書かれている。

つまり、宋朝では『太平御覧』が成立した983年から『新唐書』が成立した1060年の間に、日本に対する認識を変えたのである。驚くべきことである、中国は歴史の国である、何よりも歴史を重んずる。先の歴史書の記述を変えるなど絶対に許されることではない。しかし『新唐書』の編者たちは、先の「正史」の記載を捨て、やすやすと新しい認識を書いている。ただ事ではない、いったいどのような事件が在ったのだろう。
(次回につづく)

副島隆彦 投稿日:2023/04/26 02:54

【3045】[3540]今度のNHKの大河ドラマはヒド過ぎる。それと過去の60年間のNHK大河のこと。

副島隆彦です。今日は、2023年4月25日(火)です。ああ、もう、26日(水)だ。

 以下の文は、私が、2日前の 23日(日曜日)に書いた文だ。
午後6時半ごろ、NHKBSで 今年のNHKの大河ドラマ の 1日遅れの再放送の分の 「どうする 家康」を、私は、たまたま初めて見た。たった30分だけ見た。それで十分に判定が付いた。 いやー、酷(ひど)い。

 こんな、ヒドい作りの、NHK大河(歴史もの)ドラマ番組を、私は、生まれて初めて見た。呆(あき)れ返ったよ。

 この回は、1570(元亀1)年4月の 織田信長の、朝倉義景(あさくらよしかげ。越前=今の福井県 の 戦国大名)を攻めた時のことを扱っていた。この時の、信長と、家来の家康のそれぞれの陣中の様子だった。ヒドい作りだ。

 これでは、NHKの歴史もの作り陣(部署)への、風当たりが強まって、すでに 非難 囂々(ごうごう)が、沸き起こっているはずだ。もう4月も終わりだ。どうして、まだ「コラー、NHK。 こんな歴史ドラマを作るな―。受信料、返せー」の嵐が起きていないのか、私、副島隆彦には不思議でならない。

 このあと、信長は、自分の妹のお市の方が嫁いでいた浅井長政(小谷城主。近江半国の大名)の裏切りで、挟み撃ちに遭いそうになったので、京都に、一旦、逃げ帰った。

 これが、有名な信長の ” 金(かね)ヶ崎(城)の退き口(のきぐち)” 、1570(元亀1)年4月だ。金ヶ崎城は今の福井県の敦賀市(つるがし)だ。ここで信長は、挟み撃ちに気づいた。

 これは、天下人(てんかびと)に成り始めの、信長にとって、初めての命がけの退却、退(の)き陣であった。この時、木下藤吉郎が、尻払(しっぱら)い、殿軍(でんぐん)で、しんがり、とも言うが、一番、最後に退却した。

 木下藤吉郎(このあと羽柴秀吉だ。のちの太閤さまだ )は、背後から追いかけて来る、敵の追撃を防ぎながら、朝倉、浅井の連合軍に、自分の手兵の部下の多くを死なせながら、京都まで逃げ延びて来た。自分と周りの共の者たちだけが、生き延びた。その時いた主要な部下たちは、ほとんど死んだだろう。軍隊は、幹部たちでも使い捨てだ。秀吉は、この時、信長から褒(ほ)められた。

 信長は、このあとすぐに岐阜に戻り、一気に 討(う)っ手(て)返して(反転攻勢して)、早くも2か月後の6月には、この両軍を、琵琶湖の東岸の姉川(あねかわ)の合戦で破った。それでも、このあと3年かけて、ようやく1573年8月に、浅倉義景(よしかげ)を、一乗谷(いちじょうだに)城で破り、戻って浅井長政を、小谷(おだに)城で、打ち破って敗死させた。

 長政に嫁いでいた、お市の方は、兄の信長の下に、無事、連れ帰された。この時、3人の娘も、助け出された。長女が、お茶茶(のちの淀君、よどぎみ)で妹のお江(えよ。豪姫=ごうひめ=、2代将軍、徳川秀忠 の正室。歴史で 重要な女性 )だ。
お市の方は、このあと、重臣の柴田勝家(しばたかついえ)に下げ渡され、再婚した。夫婦仲はよかったが、信長が死んだあと、越前の国の大名になっていた柴田勝家(権六、ごんろく)が、秀吉に、攻められて、お市と共に、越前の北の庄城(きたのしょう)城(今の福井市の福井城)で自害した。

  ここからが、大事だ。今の今でも 徹底的に、びっしりと、ひた隠しに、隠されている、この500年間の日本史の真実がある。 この時の、家康は、本当は、信長によって、三河大名(みかわだいみょう)の松平元康(まつだいらもとやす。岡崎城主)が、暗殺されて、今川義元との2重スパイだった、喇叭(らっぱ。戦場忍者)によって、摺り替えられた。

 1561(永禄5)年1月の、信長と家康の ×清州同盟(きよすどうめい)などと、歴史学者たちよ、よくも、ウソを言い(書き)続けるものだ。信長と家康が、対等の関係であるわけがない。家康は、このときはっきりと、信長の家臣団の武将のひとりになったのだ。

それから9年後(1570年4月から)が、朝倉、浅井攻めであるから、家康は、完全に信長の家来だ。
 
 1561年1月の名古屋の 清州城(信長の本拠)での対面 では、信長が、這い蹲(はいつくば)る家康に向かって、「おお、お前は、よくもまんまと三河大名に摩り替ったな。誉めてやろうぞ 」と言った、顔見世の、改めての主従の誓い(固めの杯、さかづき)だ。信長は、部下たちに甘い態度は見せない。 

 この時、清州城に入ろうとした、松平元康(に摩り替った男)を、城門の外に集まって見ていた民衆の中から、「あのお方は、松平元康どのではないぞ。別人じゃ」と、声が上がって、騒ぎになった。このとき、本多忠勝(ほんだただかつ)が、「黙れ、黙れ。下郎ども、解散せよ」と追い払った、という伝えが、文書(もんじょ)に残っている。

あれこれ、真実は、この500年間の間に、露見している。
今の今でも、東大教授に、ひとり、『徳川実記(とくがわじっき)』という、ウソで塗り固めた、虚偽の 家康像を、守り抜く係の者がいる。 東大の国史(こくし)科の教授で、お東大・史料編纂所(しりょうへんさんじょ)の教授でもある。 
徳川公爵(こうしゃく)家としては、今の今でも、真実の家康もまた、下層民から這い上がった人間だ、という真実が、日本国民に、バレたら(露呈したら)、まずい、という判断。いい加減にしろ。

私は、上記の、自分の本で、 松平元康の正室の、瀬名姫(せなひめ。築山殿=つきやまどの=)と、息子の、信康(のぶやす)が、 摩り替った家康によって、18年後に、惨殺されたことも、書いている。本当の、本当のことを知りたかった、私の本を読みなさい。

そんな、、自分の頭がおかしくなるそうなことを、今頃、言われても、困ります。ただでさえ難(むずか)しそうな本を読むのは、苦手です。そんな生活の余裕が、自分には、ありません。という人は、私は、放(ほお)っておく。 これ以上の、説得(せっとく)は、出来ない。私は、誠心誠意、どこまでも真面目に、本当の。知識と思想と言論の力で、この国に、大きな真実を、浮かび上がらせる。

 家康が摩り替った、その1年前が、桶狭間の戦いだ。 1560(永禄3)年5月に、尾張に越境(境川=さかいがわ=が今もある。代々、忍者の家系である水野氏の領地だ )してきた、今川義元は、桶狭間の戦いで、待ち構えていて奇襲をかけた、信長によって、横っ腹から突かれて、敗れた。

 その翌年、義元の先陣(最前線の突撃隊長 格)だった、三河大名、松平元康 (まつだいら・もとやす)は、桶狭間のそばの丸根、大鷹(おおたか)砦から、居城の岡崎城に、急いで逃げ帰って立て籠もっていた。「これから、俺たちはどうしたものか」と、松平の家臣団と、主従で深刻に考え込んでいた。

 その岡崎城に、1年後に、「息子の信康=のぶやす=2歳」殿を、助け出して参ったぞー。城門をお開けてくだされー」と、松平信康( このあと20歳まで城主。そして、殺された。幼児から三河大名になっていた )を、 この戦場忍者は、息子を生きて連れて来たことを口実にして、岡崎城に、まんまと入り込んだ。そして三河大名(みかわだいみょう)松平元康(まつだいらもとやす)を、城中で隙(すき)を見て、殺して摩り替った。 本名を、世良田元信(せらだもとのぶ)と言う。父親は、上州の世良田村の出身だ。同じく、戦場のヤクザ者だ。

 この男 が、このあと、コロコロと、家康に変名し、そして、徳川に変名した。すべて信長が、京都の藤原摂関(せっかん)家の “氏(うじ)の長者”で、左大臣の藤原前久(まえひさ)に働き掛けて、朝廷から新しい名前を貰ってやったのだ。 信長は、これで、自分の 東海道の東の守りを、自分の腹心の戦場忍者(間諜、願人坊主)上がりで固めた。自分の東側の憂いを無くした。

 私、副島隆彦が、三河大名(みかわだいみょう)松平元康、と書くと、日本の歴史学者たちと、NHK好みの歴史評論家の連中は、震え上がる。 有名人で、売れっ子の、今や、日本の筆頭の、若手歴史学者の磯田道史(いそだみちふみ)は、馬鹿でなければ、かつ、私、副島隆彦の書く、真実の 日本史の 戦国時代もの、を知っているだろうから、顔を顰(しか)めるだけなのか?  おい、磯田よ。

 私、副島隆彦を、お前たち程度 の、「歴史が動いた」とかのNHKBSの 番組に、呼べ。そうしたら、大きな真実を、たくさん、教えてやる。バカでなければ、お前らは、揃(そろ)って、私、副島隆彦の本 

 『 信長は、イエズス会に爆殺され、家康は、(忍者だったのだが、松平元康に)摩り替った』( PHP研究所、2013年刊) (ここで、この本の、アマゾンのリンクを貼る)

信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた

 を、読んでいるだろう。そして、この本が、日本史への核爆弾級の破壊的な、真実暴きの攻撃だと分かっている。歴史の専門家なのだから。私のこの本が、日本史の分野でも、どうせ、時間をかけて、このあと数十年かけて、作り変える。 このことを、私、副島隆彦は、腹の底から分かっている。

 織田信長が尾張大名だ、それでは、三河大名は、居るだろう、誰(だーれ)だ? と 、私、副島隆彦が、聞くと、歴史研究を真面目にやっている者たちなら、蒼褪(あおざ)める。

 なぜなら、尾張と三河で、それで今の愛知県なのだ。 今、三河に住んでいる愛知県の東部(尾張名古屋よりも面積が倍ぐらい広い)の人たちも、そろそろ、真剣に考えなさいね。

 自分たちの体に流れている、その血の中の、真実を。500年前の、ご先祖さまたちの亡霊、怨霊に囁(ささや)かれて、思い出しなさい。
以上が、副島隆彦が、暴き立て続けている、日本史の戦国時代の、大きな、真実だ。 

 この作業は、このあとは、名古屋在住の、私の弟子の松永知彦(まつながともひこ)君が、 徹底的に、細かい証拠と共に、真実の歴史研究として、暦年のウソつきのNHKと歴史学者たちに、さらに真実を突き付ける。「そういう説もあるよね」などと、逃げを打たれるものか。お前たちの、その 歪んだ虚偽(きょぎ)歴史家たちの、息の根を止めてやる。真実というものの、恐ろしさを、十分に思い知らせてやる。 

 お前たちは、知識人のくせに、ウソつきだから、反省して、自分の本心をそろそろ書かないと、自分の業績までも歴史の藻屑となって消えるぞ。

 ところが、こういう戦国時代の、信長、秀吉(彼は、素性が、すべて暴かれている。徳川時代に。中村 = 今のJR名古屋駅の辺り = の湿地帯の 下層民の出。名古屋の人は皆、この真実を、知っている。中村区は、ついこの間まで、ブタと牛の品評会をやっていた場所だ )、家康の3人の、「おみゃーさんよー。・・してちょーよ。たー(わ)けー。本当は、クソ田分けー 」まで、名古屋弁では言う。この地域から出てきて、名古屋一体の生産力の高さを背景に、日本の権力者にまで成り上がった、この3人の男の生きた、当時たった合計50年間の真実を、私たち日本国民のすべてが、知るべきだ。

 私、副島隆彦の本の愛読者だったら、そろそろ、上記の、『信長はイエズス会に爆殺され‥・ 』本を、真剣に読みなさい。そんな人生時間の余裕が自分にはない、それに、そんなに自分は、頭が良くない、と言う人は、それならそれでいい。私も、あまりにも、「私の本を読め、読め」と、私の書いていることを信じてくれる人たちにまで、しつこく言うのが、イヤなのだ。

ところが、今度の、NHK大河の作り は、あまりにヒドい。
 
 家康と周りの家臣団の描き方が最低だ。 ジャニーズの嵐の、カっちゃんだか、ミーちゃんだか知らないが。 美人のテレビ女優の 北川景子のゴハンの食べ方が、下品極まりない(いいとこのお嬢さんの出なのに)と、皆、知っている。この女優まで含めて、全く、ガキの集まりの俳優たちで、ガキの演出だ。よくも、こういうジャリたれ(ント)を集めたものだ。 若い俳優たちを使わないと、視聴率が上がらないので、人気が出ないのは、困るので。とか、いい加減にしろ。私は、怒った。

 あのなあ、全国の、じいさん、ばあさんで、歴史好きの人たちを、ここまで、がっかりさせるとな、あとが怖いぞ。 NHKも、経年劣化で、潰(つぶ)れかかっていて、内部は腐敗(ふはい)と堕落(だらく)が、酷(ひど)くて、大変なんですよ、と、屹度(きっと)言い合っているだろう。

 これは、私だけの、今度のNHK大河 への思い付きの怒りでないことが、以下の週刊誌記事で分かる。 

(転載貼り付け始め)

〇 「どうする家康」で感じる大河ドラマの難しさ  豪華キャスト、売れっ子脚本家起用で見えるNHKの思惑 」

2023年4/23(日)  デイリー新潮編集部  新潮社

 4月16日のNHK大河ドラマ「どうする家康」は、前週が 統一地方選挙の開票特番だったため2週間ぶりの放送だった。この日の 第14話「金ヶ崎でどうする!」は、いわゆる“金ヶ崎の退き口”を 描いた織田信長(岡田准一)の退却劇。 徳川家康(松本潤)はもちろん後の豊臣秀吉(ムロツヨシ)も登場する戦国三英傑の揃い踏みで、見所も多かった。もっとも、視聴率はいまひとつで……。

【写真を見る】見てるこちらも笑ってしまう 「北川景子」渾身の変顔  

 ところが、4月16日の視聴率は、世帯11・4% だった (ビデオリサーチ調べ、関東地区:以下同)。 世帯視聴率20%超 が当たり前だった大河が、いまや二桁がやっとだ。

 民放プロデューサーは言う。 「これまでの大河は、いわば中高年向けの時代劇でした。お金をかけた重厚な作りがウリで、1963年の第1作『花の生涯』は尾上松緑(おのえしょうろく)が、幕末の大老・井伊直弼(いいなおすけ) を演じて、平均視聴率20・2%。第2作『赤穂浪士』は、長谷川一夫 が主演で、平均31・9%、最高53・0%を記録。

 その後もほとんどが歴史上の人物を描いていて、87年の『独眼竜(どくがんきゅう)政宗』(主演・渡辺謙)では平均39・7%という大記録を打ち立てた。平均20%を超えた最後は、2009年に妻夫木聡 が上杉家の家老・直江兼続(なおえかねつぐ)を演じた『天地人』の21・2%でした」  

 このあと 15年近く20%超はなく、19年に明治から昭和を描いた「いだてん~東京オリムピック噺~」(主演・中村勘九郎、阿部サダヲ)は、遂に平均8・2%(の最低)を記録した。

「大河のみならず『紅白歌合戦』など看板番組がことごとく数字を落としていることに、NHKは危機感を抱いています。高齢世代がメイン視聴者層のNHKとしては、なかなか受信料を払ってもらえない若い世代に番組を見てもらい理解を得ることが最重要課題となった」  NHKの番組は大きく変わった。

若者迎合  「『紅白』は大御所の演歌歌手に代わって若手アーティストを出場させ、『ガッテン!』などの長寿番組も相次いで打ち切り。また、午後11時台に“若年層向けゾーン”を設け、ドラマを放送。もちろん大河も若年層をターゲットに変えた。

『どうする家康』の主演は、嵐(あらし)の活動休止後も人気が衰えない松本潤。女優陣も有村架純や北川景子など民放連ドラの主演級を揃え、脚本にはフジテレビの『リーガル・ハイ』や『コンフィデンスマンJP』で知られる古沢良太 を起用した。

タイトルバックも今風にしてCGも多用。まさに不退転の布陣で挑んだ」  大河ドラマとしての出来が良くないか。 「作品のクオリティが低いわけではないと思います 」  今回の“金ヶ崎の退き口”は、1570年(元亀元年)、織田・徳川の連合軍が越前(福井県)の朝倉家を討ちに行ったが、信長の妹・お市(北川景子)の夫である 浅井長政(大貫勇輔)の裏切りに遭い、挟み撃ちを避けて撤退した。

 時代劇としては、お市が袋(ふくろ)の両端を縛った小豆(あずき)を兄の信長に贈ったことで、挟み撃ちを知らせるというのが通例だ。ところが、脚本の古沢は大きくアレンジして見せた。

北川景子の変顔も 「お市は最初、小豆袋を兵士に託したが、それが捕まった。次いで侍女の阿月(伊東蒼)が夜通し走って、家康に『おひき候へ(逃げろ)』という言葉を伝えて息を引き取るという設定に。 伊東は子役出身の17歳で今後の活躍が期待されますが、彼女が走る間にはお市との回想シーンが入り、北川との変顔対決シーンを盛り込むなど現代ドラマ的な要素もありました」

 ところが、11%台だった。 「昨年の『鎌倉殿の13人』と同時期の視聴率を比べてみる。22年4月17日放送の第15話『足固めの儀式』の視聴率は、世帯12・9% 」 ・・・ 問題は視聴者層だという。

 視聴者層は変わらず 「視聴率が落ちても、若者層が見てくれればNHKの目的は達せられる。ところがコア層(13~49歳の男女)で見ると、『鎌倉殿』は3・0%だったが、『家康』は2・5%に落とした。松潤ファンが多いF2層(35~49歳の女性)も、3・6%から3・2%へと落とした。 F1層(20~34歳の女性)、M1層(20~34歳の男性)ともに1%台で見向きもされていない。

一方、F3層(50歳以上の女性)とM3層(50歳以上の男性)は、昨年より若干落ちてはいるものの二桁をキープ。結局、出演者や内容を若者向けに変えても、うまくいかないということだ」

 こんなに頑張っているのに、なぜ見てもらえないのだろう。 「放送の翌日、“ねぇねぇ、昨日の『どうする家康』見た?”と友達や知人に話したくなる内容がまったくない。 2022年10月期の『silent』(フジ) や 今年1月期の『ブラッシュアップライフ』(日本テレビ)にはそれが満載だった。共有できる生活感も多かった」

 「“金ケ崎の退き口”のアレンジなんて若い人は話題にしない。小豆袋(あずきぶくろ)の件を知らないから楽しめない。だから、大河ドラマで若い人を取り込もうという考えが無理なのだ。NHKの看板ドラマなら、堂々とこれまで通り続ければいい。それを見失って、若い人からも見てもらえず、高齢の視聴者層からも見放されることになって、本末転倒だ」   デイリー新潮編集部  

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 ほら、こういう風に、週刊新潮に書かれている。この記事の書き方も、かなり遠慮がちで、ジャニーズ事務所の同性愛者系 暴力団からの抗議が、新潮社でも怖いから遠慮して書くのか。 私は、この番組のあまりに低劣な作り方に、私は、唖然を通り越した。もう、NHK大河ドラマは、これで崩壊だ。

 去年の 「鎌倉殿の13人」は、素晴らしかった。 NHKの 歴史ドラマの 知性 の 歴史が感じられた。しっかりと歴史考証(こうしょう)も、若手の歴史学者たちを使って、やっていた。私は、2月末からウクライナ戦争が始まって、その追いかけで忙しくなって、それで、全48回のうち、20回分ぐらいしか見ていない(200円払って、あとで見たのが3回)。

 何なんだ、今年の、この バカ大河は。目も当てられない。 あまりの酷(ひど)さに、歴史ものの本読み読者や、蘊蓄(うんちく)傾け人間たち、日本全国の 歴史好きたちは、呆(あき)れかえって、コトバを失っているはずだ。

 これまでの、NHKの大河の、 戦国時代もの や、平家物語や、鎌倉時代もの(吾妻鑑。=あずまかかみ=) や、太平記(足利氏を描く)や、 応仁の乱(戦国時代の始まり)やら、そのあとの、江戸時代もの の重厚なつくりを、全部、これで、壊してしまった。

 今年一年このヒドいのに 付き合っていたら、非難の嵐が、NHKに対して、歴史好きたちから沸き起こるだろう。戦争の合戦(戦闘)のシーンは、ほとんど、過去のNHKの映像財産か、CG(シージー)の合成でやって、粗雑極まりない作りでも仕方がないや、カネがないのだから、でやるのは構わない。だが、ほんとに、いい加減にしろよ。

 信長役の岡田准一(おかだじゅんいち。こいつもジャニーズ事務所だが、今では、立派な俳優になった )が、ひとり困り果てている感じがよく分かる。何なんだ、他の、私は、誰も名前も顔も分からない、ガキの役者どもの顔ぶれは。 私が、もうジジイだから、どうにもならないのか。 

 “ 歴女(れきじょ)” と呼ばれる、歴史ものをこの好む、女たちが層として出現していると言われて久しい。本当に、この女たちは、少しは、難しい歴史の事実を知ろうとしているのか。やっぱり、どうしても、総体としての女の頭は足りない。思考力がない。その足りない頭( 私、副島隆彦は、公然と、女性差別主義者である)が、問題なのか。

 国民の半分は、女だ。そして、今、女たちが、激しくすべての産業の分野(フィールド)で台頭しているというのに。長年、バカ扱いされ来てた者たちが、下から這い上がって来る勢力は強い。

 この 頭の軽い、歴女たちの、目的は、やっぱり、自分の好きな、かっこいい若い男の俳優が出ていれば、それだけで、うっとりと見つめて、それでいい、ということらしい。 NHKも、時代に合わせてどんどん、変わる、ということを目指している。

 私は、日本の 歴史の重厚さを、すっかり、かなぐり捨てた、極度の 軽薄(けいはく。ケーハク )番組を否定し、糾弾する。 驚いた、を通り越した。 

 思い出したが、 NHK大河で、幕末の 新選組 を描いて、ケーハク極まりない、若い俳優たちを使って、ちゃらちゃら、馬鹿な演技を続けさせて失敗した、あの大河(調べたら、2004=平成16=年だった )の再来だ。 これも、三谷幸喜(みたにこうき)が、シナリオ・ライター(脚本家)だった。が、あれは、いくら喜劇作家だからと言って、ヒドかった、と、私は記憶する。

 今度の、「どうする家康」(題名からして、最低だ) を、何と言う、愚か者のシナリオ・ライターと 演出家( NHKのたただの職員だ)を使って作ったのか、私は、知らない。あまりのヒドさに、私は、コトバを失った。
 
 とても史実 (歴史の文献証拠などの事実に基づくこと、との、ある程度の照合 ) がどーの、というレベルではない。ただ、低劣で、あまりに不出来(ふでき)だ。

 これは、NHKが、死につつあることの現象のひとつだろう。スマホと、ユーチューブと、SNS にやられて、民放を含めてテレビ局全体が、国民文化として、不用になり、死につつある。 「NHKをぶっこわす党」(この党名に戻すべきだ) の 立花孝志(たちばな・たかし)は、国民政治なんかやらなで、ただ、己れの怨念(おんねん)一筋に、「NHKを、ぶっ壊す」をやりさえすればいいのだ。それだけを国民は期待している。 立花よ、お前の、その激しいまでの図太い度量と胆力でも、国民政治は無理だ。 

 私は、立花孝志が、裏のある、黒川敦彦(くろかわあつひこ)と政治女子48 とかの女たち(おそらく統一教会からの潜り込み分子たちだろう)に、まんまと嵌(は)めれて苦境にあるのが、分かる。 
 だが、立花を含めて、黒川も、統一教会のカルト集団と関係がる者たちだから、私は、近寄らない。かつ、彼らは、憲法改正派だ。絶対に話しが合わない。彼らは、決して、日本の反(はん)自民党リベラル派 ではない。

 健全な野党の国民政党であるべき、立憲民主党も、国民民主も、あの党首の、泉健太も、玉木雄一郎も、統一教会の臭(にお)いがする。 こうなったら、野党の組織丸ごと、叩き潰すしかない。そして、健全な、反(はん)自民党の国民勢力を、作り直すしかない。

 日本維新の会(党)は、笹川財団(ささがわざいだん)という、統一教会と同格の反共右翼(はんきょううよく)が、資金源だ。やっぱり、気色の悪い政党だ。今は、温和そうにしているが、そのうち本性を剥(む)き出しにするだろう。

 笹川良一から、全部、笹川一族は、朝鮮系、韓国人だ。と、私、副島隆彦が書いてどうにもならない。こういう事実は、韓国の方から、どんどん流れてきて、韓国人が、日本に、ワーワー伝えるから、隠しようがない。

 私は、左翼言論人 だから、人種差別を煽るようなことを書いてはいけないのだが、遠慮しないで書く。とにかく、統一教会(世界基準では、Moonies ムーニーと言う)どもが、日本民族主義や愛国者のふりをして、日本の愛国運動を、おかしな、反共右翼運動に、変質させるのが、私は、我慢出来ない。
だから、私、副島隆彦は、人種問題、民族問題も、ガツガツと書く。チョーセン人と、気色の悪い宗教人間どもが、愛国者を名乗るのが、許せない。

私、副島隆彦の真意は、統一教会(反共右翼。今も自民党の安倍派の勢力 )に、相当に搦(から)め取られている、日本の保守勢力を、何とか、元の健全で、穏健(おんけん)で、温厚な保守の、金持ち、経営者たちに、戻したい。

 反共右翼と、温厚で素朴な愛国保守の人たちの 間に、ガシッと楔(くさび)を打ち込んで、メリメリと、切り分けて、日本の健全な保守勢力を、再興しなければいけいない。

よくもまあ、韓国(本当は北朝鮮)発祥の、気持ちの悪い、統一教会の悪口も言わないで、
あれほど、韓国人、中国人(チャンコロ)、ロスケ(ロシア人)差別を、長年、ずっとやって来たのに、それなのに、自分たちの頭が、朝鮮・韓国で生まれた、奇妙奇天烈の、
政治宗教団体の、統一教会と、今の、ほとんど、頭が繋(つな)がっている、というのは、どういうことだ。 私は、激しく、この「保守と反共」を気取る者たちを、糾弾する。
私のまわりにの、まだまだ、居る。こいつらの頭を、叩きのめしてやる。

まさしく、有田芳生(ありたよしふ)が、言う通り、「(山口県の)下関は、統一教会の聖地(せいち)だ」だ。 この通りだ。

 この件で、有田に対して、「下関の住民たちが、有田に怒っている」と、書いて有田攻撃をしている、産経新聞や、夕刊フジの、この統一教会(安倍派)の片割れ共を、私は、攻撃する。こいつらは、自分たちの親分で総大将だった、安倍晋三が処分されて(死亡した)して、旗色(はたいろ)が、随分と悪くなっただろうに。ところが、それでも、まだ、安倍を旗頭(はたがしら)にして、自分たちの意地張りだけの、闘いを続けている。

 お前たちは、大きな世界、というのもが、見えない、愚鈍な、バカ右翼に過ぎないのだ、ということが、どうしても分からない、生来、愚劣な人間どもだ。 

 これは、言論の戦いであり、政治闘争だから、「自分たちの方が、余裕をもって正しい」とか思い込むなよ。これ以上、有田芳生 や、島田雅彦(しまだまさひこ)を、陰湿にイジメるようだと、私、副島隆彦が、出てゆくかなら。

どこへだ? お前たちの目の前にだよ。

 前にも書いたが、参政党(さんせいとう)は、幸福実現党が姿を隠して、変身しただけの政党だ。議員になった 党首の 神谷宗幣(かみやそうへい)は、おとなしそうにしているが、本性は、統一教会だ。始めから操(あやつ)られ人形(puppet パペット)だった、

 大川隆法(おおかわりゅうほう)が、勝手な事ばかりするものだから(国連職員だった若い女と結婚した。その前 の、あの目の吊り上がった、奥さんが、本当の狂気の教祖だ)、用なしになったので、大川隆法を、死なせたのだろう。白金(しろがね)一丁目の、あの宮殿のような御殿の中で。急に死んでいる。今も死亡届を出さないらしい。 だから、大川の次の表面の顔が神谷宗幣だ。よく出来ている話だ。

 もう一つ。 ガーシー(東谷・・・)が、もう元気がなくなった。インターポール(国際刑事機構)の指名手配を、警察庁から受けたから、今も、ドバイにいるのだろうが、きっと、身動きが取れない。トルコとかレバノンに逃げることも出来ないだろう。

 ガーシーを、あれほど、日本の政治権力者たち(政治家たち)が、嫌(きら)って、恐れたのは、それは、政治家(国会議員)たちの、私生活の秘密(カネと女だ)が、ガーシーによって、国外からユーチューブで、どんどん、証拠付きで、暴かれるのが、政治家たちは、死ぬほど怖かった。ガーシーに情報と証拠 を垂れ込んで、その数、数万件あると、ガーシー本人が言っていた。

 ガーシーは、日本の最(さい)下層階級の、貧乏人たちで、不満分子の人間たちの、一瞬の希望の星(スター)だった。 ガーシーが、芸能人と、IT企業の成り上がり者で、若い経営者・金持ちたちの素行を暴いているうちはまだ、よかった。それが、政治家(国会議員)たちまで標的(ターゲット)なると、本当に自民党は困るのだ。

 政治家たちは、スキャンダルが一本出ただけで、選挙で、転げ落ちる。このことが、死ぬほど怖い。 20年前の、2ちゃんねる (西村ひろゆきが主宰した)に、政治家たちのスキャンダルを、どんどん彼らの身近にいる者たちが、匿名で投稿した。警察官や公務員もいる。それで、自民党が、真っ青になった。

 それで、世耕ひろしげと、 平井・・(デジタル大臣をした。香川県を支配してる田舎財閥。電通の謀略部隊上がり)と、高市早苗 たちが、自民党ネトサポ・クラブ を作って、自民党が、ネオウヨ たちを大量に雇って、お金を出して、もの凄い量で、2ちゃんねるに、きたならしい投稿文の嵐を作った。

 それで、政治家スキャンダルの、覆面(アノニマス、仮名)のネット投稿を叩き壊した。 あまりものキタナイ言葉の渦を作って、何が何だか分からなくした。あれと、同じことが、今回もガーシー事件でも起きたのだ。

 だから、ガーシーを、あれほどに、本気になって、自民党が、参議院議院の議員から除名、追放した。 ガーシーは、アカウントを取り上げれて、かつ、自分の仲間の、反グレかチンピラ上がりの、アテンダー( 港区女子を有名人たちにデリバリーして、あてがう仕事だそうだ)の 仲間たちも、生来の犯罪性人間たちだろうから、自分も、犯人隠匿罪で、警察に狙われるのは、本当にきついから、遂にガーシーから離れて、皆、散り散りバラバラになって、逃げているはずだ。 闘いというのは、どうしても孤立無援になるものだ。

 ガーシーに大きく期待した、日本の下層の、生活苦でうめき声をあげている人間たち、おそらく300万人ぐらいが、失望している。私、副島隆彦も、一瞬は、「ガーシーは、石川五右衛門=いしかわごえもん=(秀吉に釜茹(かまゆで)にされた。これが、五右衛門風呂だ)や、鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち)のような、貧民に金持ちから盗んだカネ(小判)をばら撒いた、義賊(ぎぞく)の、思いやりのある人間実のある男なのだろう」と思った。上州(今の群馬県)赤城(あかぎ)村の博徒、国定忠治(くにさだちゅうじ)のような感じかな、とも思った。

だが、やっぱり、それなりの政治知識と、人生経験からにじみ出る、指導者としての知恵がないから、ガーシーでは、政治権力とは闘えない。 ガーシーが、「おっかあ(自分の母親)まで、(警察が呼び出して調べたという)イジメないでくれー」と、画面で泣いたときに、この男の闘争本能の限界に、皆、気づいてかっがりした。 まだ立花孝志のほうが、やっぱり、腹(はら)が座っている。

 NHKにとっては、今も、立花が最大の脅威だ。立花は、高卒で、NHKに入り、下積みで、ずっと内部にいて、”エビジョンイル(正日)” と呼ばれた、NHK会長の海老沢勝二(かつじ。民衆宰相の田中角栄と仲が良かった)の、御庭番で忠臣で、芸能界や、スポーツ界に、毎年、何億円ものカネ配り をやっていた、裏方だから、NHKの中枢の 何でも知っている。

 NHKの歴代幹部たちからすれば、立花孝志 は、必ず絶対に殺さなければ済まない男だ。立花の存在が、今もNHKの最大の危機だ。立花が始めた、受信料を払わない運動は、NHKにとって、今も死活問題だ。

 私は、立花が、3年前に、Youtube で、堂々としゃべっていて、白板にどんどん書いていった、NHKの内部の、お金の動きや、幹部たちの人間関係のことを、すべて、メモして、30分ものを10本分ぐらい、しっかり保存している。このメモがある限り、立花の真実の暴きの活動の、そのあとを、たとえ立花が、殺されたあとでも、私が、言い(書き)続けることが出来る。  

 立花が、出色(しゅっしょく)で、傑作だったのは、ユーチューブの動画の画面に出てきて、NHKの裏門(西門)の、渋谷駅からずっとつながっている大通りで、「 NHKのアナウンサーの有名な女たちでも、NHKの、この 、こっちの方の建物の中で、夜中に、セックスをしているんですよ」、と、立花がバラしていた。

 NHKの女の有名アナウンサーのお局(つぼね)さまが、今は、経営幹部にまでなっている女たちで、背中を冷や汗が流れて、顔が引きつっただろう。

 私は、今度のNHKの大河ドラマに怒った、ついでに、この60年間の、すべてのNHKの大河の、すべての60個を、以下に転載して、10個づづの表のまま載せて、以下の通り、それらに、私自身の、短い評価、寸評(すんひょう)を書いてゆく。

 NHKの大河60年分 は、私のこれまでの人生の60年と重なる。私は、今や、勝手な自称だが、日本国の総合プロヂューサーだから、日本人の国民文化(ナショナル・カルチュア)の重要な一部を構成していて、国民的な共通了解事項になっている、このNHK大河を、無視しては、国民文化人としての、自分の立場が成り立たない。

 だから、私は、NHKの大河の過去の60本を、論じないわけ内は行かないのだ。前記(上記)のデイリー新潮のネット記事の中にも、主要な作品の名前が、8作ぐらい出ていた。

(転載貼り付け始め)

1-10作

副島隆彦です。 第一作の、1.の 「花の生涯」(1963年)を、10歳だった私が、見ている。ぼやっとした白黒の画面のテレビで見た。家具調(かぐちょう)とか言って、これが、やがて仏壇を、日本の家庭から、追い出してそこに鎮座した。

 幕末の大老(たいろう)井伊直弼(いいなおすけ)を主人公に描いていた。私は、生来、頭のいいガキだから、井伊直弼の行動 を、10歳で理解したのだ。 東神奈川(今の横浜)をさっさと開港して、欧米白人 、すなわち、毛唐(けとう) の手先となった、井伊は、尊王攘夷(そんのうじょうい)の武士たちと、激しい憎しみ合いになった。

 「安政の大獄」の大弾圧をやった。 それに水戸藩と薩摩藩が中心となって、血だらけの、殺し合いになった。それが、最後のシーンの、桜田門外の変(へん)(今の警視庁の前)だ。

 私、副島隆彦が、ここで、毛唐(けとう)というコトバを使うと、多くの日本人の、体の奥の方から、何かが湧いて来る。 「けとー(毛唐)ども、断じて、許さん。我らが、神州不滅の土地を、お前たち汚れた白人どもに、踏まして、蹂躙(じゅうりん)されてなるものか」の、欧米白人たちへの、怒りがある。そこには、南蛮人、紅毛人(こうもうじん)と四が、16世紀(1500年代)以降に、日本に来た、スペインやオランダ商人たちへの、恐怖感と劣等感も 混ざっている。こういう排外主義(はいがいしゅぎ)の、何かが、沸き起こっている。 

私、副島隆彦は、何でも分かる。

 私は、NHKの大河は、だいたい一本当たり、一年間(50回か49回ぐらい)のうち、5回ぐらいしか見ていない。それでも、全体像は掴(つか)まえられる。それは、私、副島隆彦の頭が、スバ抜けて、少年時代から、いいからだ。私は、この国の、生来の知識人(インテレクチュアル(英)、インテレクティーエレン(独)、インテリゲンツア(露))だからだ。

 さらには、再放送のものを、ちらちらを、この60年間に、あちこちで見ているからだ。私の頭は、ハエ取り紙のように、歴史事実とかをすべて、頭に吸収して、残している。

 この歴史ドラマの、重厚な役の、歌舞伎俳優の尾上松緑(おのえしょうろく)の役回りを覚えている。

2.の赤穂浪士(1964年)は、二枚目俳優の長谷川一夫の、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の討ち入りの場面の、「各々(おのおのがた)、ご油断なさるな」の言葉と共に、日本人の魂の中に、残っている。大ヒットした作品だ。 原作は、大佛次郎(おさらぎじろう)だ。 山鹿(素行。やまがそこう。軍学者でもあった)流儀 の陣太鼓、 1打ち、2打ち、3流れ のトン、トン、トーンの、小さな太鼓の音も覚えている。播州赤穂(ばんしゅうあこう)の浅野家にも、山鹿流は伝わっている。

もっと、本当のことを書くと、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)(今の岡山県)の、池田氏(大名家)と同じく、浅野家にも、隠れキリシタンのキリスト教が、深く根付いていた。

 赤穂浪士=忠臣蔵 の 物語 は、主君の江戸城での刃傷(にんじょう)の事件と切腹(ではない。真実は、籠から引きづり出されて、そのまま打ち首だった)の事件から、たった一年のうちのことで、すべては、仕組まれていた。大石以下、全員、切腹まで、初めから仕組まれていた。柳沢よしやす(5代将軍綱吉の、お側=そば=用人 )に。 大石たちが、しまった、自分たちは、計られた、と気づいたときは、もう、遅かったのだ。

 京都の花魁(おいらん)たちまでが、囃(はや)し立てて、「敵討ちは、いつおやりですか」と、催促した。警戒の厳しい、江戸を夜を、番小屋(ばんごや)の厳しい監視が有るのに、集団で徒党を組んで、武器を持って移動することなどできない。すべて周到に、彼らに突撃させるように準備されていたのだ。これまでの赤穂事件の研究者たちの本は、駄目だ。

3.の太閤記(1965年)は、新国劇(しんこくげき)出身の俳優、緒形拳(おがたけん)が、実に貧相に、貧乏人の出の、秀吉を、上手に演じて、日本国民を泣かせた。

 原作者の吉川英治は、「宮本武蔵 」(みやもとむさし。大阪城に中に雇い入れられた、雑兵、足軽になった、今の兵庫県の宮本村の百姓の武三、たけぞう )という、戦争肯定の、虚無(きょむ)思想で、真珠湾攻撃のその日も、日本全国の、それこそ、官僚たちまでが、朝日新聞の、「宮本武蔵」連載小説を、皆で、食い入る様に読んで、「自分も、この戦争で、死ぬのだ」と、思い詰めさせた、だけの迫力を、この小説は持ったのだ。だから吉川英治は、戦後は、戦争体制を翼賛(よくさん)ことで、評判を落とした。

4.源義経(1966年)は、主役の尾上菊五郎が、あまりにもハンサムだった。これで、きれいごとが過ぎた。本物の義経(よしつね)は、チビで、出っ歯である。 このドラマの上記の解説にもある通り、共演した藤純子(やくざ者映画の「緋牡丹(ひぼたん)お竜」の役だ。背中に唐獅子牡丹(からじしぼたん)入れ墨をした女ツボ振り師 )と結婚した。ああ、きれいなものだなーと、まだ少年だった、私は、遠くの遠くから見ていた。

5.三姉妹(1967年)を、私は、まったく記憶がない。江戸幕府が崩壊する時の旗本の娘たちだそうだ。どうでもいい。

6.竜馬が行く(1968年)は、主役の北大路欣也が、立派な感じで堂々とし過ぎていて、あまり真実味が無かった。 原作の × 司馬遼太郎 が、本当に、ワルい作家で、とんでもない歴史の偽造をする悪質(あくしつ)作家だ。

 私は、少年ながらに、このヒットした、坂本竜馬に、強い違和感を持った。 マリウス・ジャンセンというアメリカのダートマス大学? の 日本史学者の本から、司馬が、剽窃(ひょうせつ)で書かれた、坂本龍馬ものの走りだ。本当に司馬遼太郎と言うのは、今からでも、成敗(せいばい)しなければいけない、悪質作家だ。

 真実の 坂本龍馬は、脱藩浪人ではない。土佐藩主の山之内容堂(やまのうちようどう)の御庭番(おにわばん、青年スパイ)として、18歳の時から、江戸に送られた人間だ。そして、ジャーデン・マジソンという今も有る、イギリス国策会社で、アヘン(阿片、オピアム)を中国人に大量に売って、中国を崩壊させた、かつ、その武器商人として、日本にやってきた、グラバーの手先として動いた男だ。本当は、竜馬は、才谷屋(さいたにや)梅太郎(うめたろう)と呼ばれていた。

 戦略外交官で、日本語が出来て、日本国内の、ふたつの勢力を、いいように 操(あやつ)った、アーネスト・サトウの「日記」に、はっきりと書かれている。
 ただし、竜馬は、最後に、イギリスを裏切った。「議会制の日本となって、独立国になる」という考えを持った。だから、イギリスから捨てられて、殺されたのだ。

 こういう、真実を、私の名著(笑い)『属国・日本論』(初版、1997年)に、はっきりと書いている。私、副島隆彦が、切り開いた、真実の歴史と言論の意義を、まだまだ、多くの人が知らない。私への正しい評価がまだ、ない。

7.「天と地と」は、原作の海音寺潮五郎(かいおんじちょうごろう)を、生前、少年だった私は、見ている。よかった。この歴史作家は、本当に真面目(まじめ)だった。ウソを書かなかった。 

 上杉謙信と 武田信玄の 川中島の合戦ものは、38年後に、46.「風林火山(ふうりんかざん)」として再度、現れた。上杉謙信は、本気で神懸(が)かりの武将で、毘沙門天を真剣に信じていた当時の、武家の棟梁だ。石坂浩二が上手に演じていた。

 武田信玄は「風林火山」で一番、有名だ。「べん声粛々(しゅくしゅく)、夜、河を渡る」 の、幕末の有名文化人、頼山陽(らいさんよう)の「日本外史」の漢詩(崩れ漢文)が有名だ。 本当にあの時、戦っていたのは、百姓たちだ。彼らは、刀や槍(やり)なんか持っていない。ただの農具で、額に、堅い鉢巻をしただけの、みすぼらしい農民の姿のままだ。

 4列縦隊で、ザクザクと整列して行進する、などということはない。それは、明治になって西欧式の近代軍隊になってからだ。そこら中に、騎馬に乗った御屋形さま(村の領主、侍)ごとに集まって、ぐるりとそれを取り囲んで動いた。若い元気な農民たちだ。

 今のウクライナ戦争でも、地下足袋(じかたび)のようなものを履いて、ゲートルのようなものを足に巻いて、手甲脚絆(てっこうきゃはん)を絞めている、両軍の兵隊たちの姿が有る。いつの時代も、どこの国でも、最前線で戦うのは、ああいう、百姓の子供たちだ。

そして、その多くは死ぬ。 英雄物語など、すべて、ウソだ。

 NHKは、大河ドラマで、戦争、戦闘シーン、すなわち、合戦(かっせん)のシー ンを、毎週、歴史のお勉強のふりをして、国民に見せる。NHKは、日本国民に、戦争を、扇動する権力メディアなのだ。

 合戦の勇ましい姿と、そのあと、兵士たちに死体が、転がって散らばっているシーンも、ちらりと、5秒間ぐらいは、見せる。 NHKは、日本国民に、計画的に、戦争を脳に、刷り込ませている。 

8.「 樅(もみ)ノ木は残った」(1970年)は、伊達(だて)騒動という、今も、ストーリーがよく分からない、歴史事件を扱っている。山本周五郎の原作だ。どうも、企業が生き残って行くために、経営者たちが、苦労に苦労で、かつ、内部の人事を巡る、複雑な権力闘争があって、それを、このドラマから学べ、という感じだった。幕府が、伊達藩を、取り潰したい、という計画だった、というのが、歴史の真実だろう。

 江戸時代の、260年間の 太平の世 で、何がきつかったか、といって、大企業になりあがった、組織の中で、どうやって、会社(企業)が、生き延びてゆく かの、切実な、去らr?マンたちの 企業人生の苦労話だ。 本当は、アメリカの属国として、アメリカに這い蹲(つくば)って生きている、日本の上の方の人たち(支配階級)の苦しみを、NHKの大河は、たいてい、描いているのだ。私、副島隆彦には、この事がイヤ(嫌)と言うほど
分かる。 

9.春の坂道(1971年)は、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)と十兵衛(じゅうべえ)の親子が、忍者系の、武道家として、徳川家の中で、権謀術数を使いながら、生き延びたかの、話で、組織人間(会社勤め)の厳しさを描いていたのだろう。忍者は、隠密(おんみつ)だから、絶対に、自分たちのことを書いて残したらいけない。

松尾芭蕉(まつおばしょう)は、公儀隠密 だ。その弟子たちの、与謝蕪村も、向井去来(むかいきょらい)もそうだ。彼らは、一体、武士なのか、商人なのか、上層農民なのか、分からない人たちだ。だから、公儀隠密(忍者)なのだ。

 彼らは、連歌師(れんがし、ここから俳句になって行った)の、俳諧師(はいかいし)で、皆、全国を徘徊(はいかい)する者たちだ。彼らが、全国に連歌の会をもって、隠密の拠点を作り、暗号のような俳句を書き、情報交換をしている。 

 私は、20年前、伊賀上野市と、隣りの名張(なばり)市のロータリークラブに呼ばれて、講演して、それから、翌日、あちこち案内してもらった。伊賀ものたちの中に、百地三太夫の百地一族もいた。

 山を越した向こう側の、奈良の方に、柳生の里が有る。大きくは、伊賀者(いがもの)でも、使える主君が違って、生き延びるために、分裂していった。それが、伊賀者(隠密)たちで、今も、それと同じような、公安警察官で国家公務員くせに、言論人を名乗っている者たちが、たくさんいる。
 
 柳生の新陰流の奥義(おうぎ)は何なのか、と、若かった私は、興味を持ったが、そんなものは、ない、と分かった。秘儀秘伝は、「どうやって、自分が、苦しいところを、生き延びるか」だけだ。

10.「新・平家物語」(1972年)は、私は、全く覚えていない。平清盛を仲代達矢が演じたと書いてい有るが、見た記憶がない。それよりも、あとの29.の「太平記」(1991年)の出来が大変良くて、こっちの、足利尊氏(今は、高氏と教える) を演じた、真田広之が好演していた。 どっちに転んでも、厳しいところを、ずっと生きなければいけない、
会社経営者の苦しみのように描いて、大人のドラマだった。 
綺麗(きれい)ごとで、歴史の事件や、争いを、見るわけには行かない。

 実際の歴史事件の時は、ほとんど人間は、下っ端の、下々(しもじも)の、一般庶民であるから、恒に、権力者たち主役である、大河ドラマなんか、お前たち、お庶民(一般ピーポー)には、何の関係もないのだ。 それでも、私たちは、本読みだから、歴史ものの小説も読むから、こうして、やっぱり、NHKの大河の話をするしかない。

副 島隆彦です。ああ、もう、こんなに書いた。もうやめる。あとの50本に、ついては、後日、少しずつ、私の感想、寸評を、書き加えて行く。 
「今日は、ここまでといたし候(そろ)」  副島隆彦拝 

加筆。副島隆彦です。 私は、明治4(1871)年7月 の、廃藩置県(はいはんちけん) で、日本全土を、46個の、おかしな名前の、 県や府 にした者たちを、必ず、引きづりだす。 彼らは、これまで、絶対に表に出て来ない。一体、明治新政府の中の、誰たちが、こんな、ヘンな地名にしたのか。それを決定した責任者たちの名前が分からない。私が、必ず、探し出して、筆誅( ひっちゅう)を加える。

一番ひどいのが、茨城(いばらぎ)県だ。茨(いばら)とは、棘(とげ)だらけの、最悪の雑木である、茨(はぜ、うるしの木)だ。この名を水戸に、付けた。 よっぽど、水戸の徳川氏 の人間たちが、憎かったのだろう。 群馬 (上州。かみつけ、上の毛 の国)も、栃木(下野、しもつけ。下の毛の国)も元に戻せ。
神奈川県は、相模(さがみ。しゃがむ、から来た )の国に戻せ。 昔からの、歴史のある土地名に今からでも、皆で決めて、戻せ。 

東京と京都は、どう考えてもこれでいい。北海道も今のままでいい。
しかし、埼玉(武州。武蔵の国)も、福島(会津と、常陸の国)とか、島根も鳥取(因幡の国)もヒドい。越後の国である新潟県もよくない。秋田とか、岩手とかも、よくない。広島は、安芸(あき)の国だ。九州の県名もヒドい。今からでも、みんなで考えて、元に戻せるものは、戻せ。 こういう提案は、国家戦略家(ナショナル・ストラテジスト)を自認し自任している、私にしかできない。
 
 愛知県は、「知を愛する」だ。フィロ・ソフィーだ。フィロ(愛すること)をソフィア(知、知恵を)だ。 いい名前だが、誰が決めたのだ。前の方で書いた通り、愛知とは、尾張の国と、三河の国を合わせたものだ。 私が、愛知はフィロソフィーから付けだろうと、
本に書いたら、「いや、昔から、愛知の名前があります」と即座に、反論が有った。

それは、旧名の ちふり を、今、知立(ちりゅう)市に変えた、あの辺だ。愛知という
地名はない。 同じく、江戸には、江戸(えど)氏という名の古い、地侍(じざむらい)一族はいない。 江戸は、本当は、厭離穢土(おんりえど)と、言って、穢土(えど)という、キタナイ土地のことを、言ったのだ。秀吉が、家康に、「お前は、あの、穢土(えど)に行け」と使ったのだ。

 大阪府もひどい。浪速(なにわ、難波) の国でいい。摂津の国が、大きく上の方にはいっているが。 その他も。 副島隆彦記

11-20作

21-30作

31-40作

41-50作