気になる記事の転載掲示板

◆巻頭言◆

新設されたこの掲示板(BBS)は、私、副島隆彦宛ての読者からの個人メールの転載サイトです。私の「今日のぼやき」ではとても対応できない状態になりましたので、このように拡張しました。

学問道場への入門許可の意味も含みます。別に自分は入門したい訳ではないという人もいるでしょうが。私宛てに挨拶を兼ねた簡略な自己紹介文を寄せてくれた人々と、ここの先進生たちとの情報共有の意味と更なる情報開示方針決定に従う趣旨もあります。以後は積極的に各掲示板の方へ書き込み投稿して下さい。(2001年4月1日記)
会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/27 01:16

【105】文書の倉庫 (2)政治評論 (3)金融・経済分析 (4)法律学・法制度論 (5)日本戦後史・日米外交史 転載貼り付け

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 引き続き「文書の倉庫」から転載貼り付け致します。各個人掲載のEメールアドレス及びURLは省きます。

 

 文書の倉庫 (2)政治評論
http://www.soejima.to/souko/text_data/wforum.cgi?room=2

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/10/31(Tue) 20:47
投稿者名:志村
タイトル:『日本の秘密』内「私の政治思想の全体枠が完成した」

(本文始まり)
  私の政治思想の全体枠が完成した―一九九一年から考え始めて、一九九六年に完成した

一九九七年五月十九日記

1 ソビエト・ロシアを一九九一年十二月に打倒したあとは、アメリカ合衆国が世界覇権国となった。

2 周辺属国は、覇権国アメリカの意思に従って生きるしかない。

3 日本も、属国のひとつであり、極東(東アジア)地域(リージョン)五国のうちのひとつに過ぎない。

4 日本が繁栄を続けてゆくためには、アメリカの意思――これが world values(世界普遍価値)でもある――に従って生きてゆくしかない。

5 経済的繁栄をつづけることが、全てに優先する。国民生活が貧しくなったら、何のための国家運営か分からなくなる。経済が第一であり、政治はそのあとからついてくるものである。

6 アメリカに、世界平和維持負担金を要求されるのであれば、払えるかぎり払いつづけねばならない。兵隊を出せ、と言われれば、出すしかない。ただし、日本側にも出せる限度というものがあるから、代表者(国民指導者)は、真剣に、アメリカ政府と交渉しなければならない。

7 ドイツ(日本と同様に敗戦した。ドイツの場合は、罰として連邦制(八つの州政府)に解体されて今日に至る)だけでなく、イギリスや、フランスでさえ、実は一九七〇年代に入ってアメリカの部分的属国(従属国)になってしまっていたことを、私は独力で解明した。従って、日本が属国だという事実を卑下することはない。

8 今や、アメリカのドル(紙幣、通貨)が世界の通貨である。ロシア・東欧でも、中国でも、南米でも、アフリカでも、アジア諸国でも、ドルが国内貨幣と同様に通用している。弱小国の場合、自国通貨の通用力が弱いので、米ドルがそのまま通貨となっている。日本の円も、実質的には、ドルとの高い兌換性(交換性)によって支えられている。

9 日本は、覇権国アメリカから見れば、先端産業の生産工業地帯である。日本は"アメリカの工業地帯"なのだ。だから日本人は、アメリカのワーキング・ロボットである。日本が安価で秀れた工業製品を製造することを、アメリカは大きく上から保護すればよい、と考える。そして、イザという時には、この生産システム(人と技術と設備)そのものを上から抑えてしまえばよい、と考えている。日本は言うことを聞くしかない。

10 ところが、世界帝国(世界覇権国)なるものは、内部から崩壊するという歴史法則を抱えている。帝国内部に抱える要因によって、崩壊に至る。世界中から流れ込んでくる、大量の移民たちが生みだす国内の人種対立と、銃・麻薬犯罪と、過度の訴訟と、不健全なマネー・ゲームと化した金融資本市場と、進歩しすぎた個人主義と過度の人権思想による社会機能の低下と、それから各種の度を超した文化的腐敗・退廃によって、帝国内が一種の分裂状態に陥る。
 毎日、小さな戦争(内戦)が起きているようなものだ。その大きな要因は、やはり、世界帝国には、世界中から、移民・難民がおしよせ、帝国の首都には、それぞれの出身国、あるいは人種ごとのゲットー(居住区)ができるからだ。
 ローマ帝国(紀元前後)、スペイン海洋帝国(一五世紀~一八世紀)、イギリス大英帝国(一九世紀)もそうだった。中東地域のペルシア帝国やオスマン・トルコ帝国もそうだ。歴代の東アジア帝国だった、漢、唐、宋、明、清の王朝もそうだ。日本は、二千年に渡って、その属国(朝貢国、藩国、冊封国)であった。ユーロ・アジア(ユーラシア)を支配した一三世紀のモンゴル帝国こそは、人類の歴史上、唯一の、遊牧民による世界帝国である。岡田英弘東京外国語大学名誉教授の学説に賛成する。

11 今や地球上に、アメリカに対抗できる勢力はいない。ただ、アラブ・イスラム文化圏だけが、唯一アメリカの覇権に屈伏しない頑強な勢力である。中国は、現在、周辺異民族諸国を使っての、アメリカの厳しい包囲網にあっている。中国をグルリと取り囲む形で、モンゴル、新疆ウイグル、チベット、雲南、ベトナム、(香港)、台湾、日本、韓半島、(満洲)というような国々に包囲された形になっている。中国の指導者たちは、そのように考えている。アメリカとしては、共産主義の旗を降ろそうとしない中国を、アメリカにとっての"現在の敵"に数えている。

12 従って、我々日本人としては、今のところ、アメリカの意思と命令に従って、徹底的に親米派 pro-America でなければならない。反米的 な態度をとってはならない。国の経済的繁栄が、国民生活にとって、何よりも大切だからだ。この点で「NOと言える日本」とか、「アメリカは、日本国に名誉を返せ」という反米民族主義の直情的な言論は、抑えなければならない。日本は、町人国家論(故・天谷直弘・通産審議官)の立場を、これからも守るべきだ。ただし、アメリカの覇権から、なるべく自立・独立する道をさぐる努力は、しなければならない。

13 従って、我々(日本の知識人と指導者層)は、アメリカ帝国内部の思想的な対立軸を、徹底的に研究し、アメリカ内部の勢力的対立構図をよくよく理解した上で、そこに、日本国の活路を見つけなければならない。

14 私自身は、既に、共和党内の一大勢力であるリバータリアニズムという民衆的保守思想に接近しつつある。リバータリアニズム Libertarianism は、「反過剰福祉、反官僚制、反税金、反国家、海外内に駐留している軍隊を国内に撤退させよ」論を唱える強固な、個人主義的、古典自由主義者たちである。リバータリアンは徹底して、経済法則(市場原理)重視である。国家が、個人の生活に要らぬおせっかいや干渉をすることを拒絶する。彼らは、現在のアメリカを支配し、民主党リベラル派を操っているグローバリスト(globalist 世界を管理・支配しつづけようとする人々)たちと闘っている。

15 従って、若手評論家としての私は、①属国・日本論と、②リバータリアニズムの日本立てを、自分の政治思想の根幹にすえて、この二つの大柄な、大枠での思想的立場から、全ての出来事を説明してゆく。私は、遂には、「民間人・国家戦略家」 Japan’s National Strategist を自 称するに至った。やがて、この私の肩書きを嘲笑する者はいなくなるだろう。

16 もし、この二つの私の思想的な柱が、現実に妥当せず、かつ、激しい反論を浴びて、自分でも敗北を認めざるを得なくなるときには、私は、潔く、評論家(言論人)を廃業する。英語屋さんに撤して、英語勉強啓蒙書でも書いて糊口をしのぐ(その自信なら十分ある)か、田舎あるいはアメリカで家族といっしょにのんびりと暮らすさ。

17 そのかわり、日本国内の各種の無能な文科系の学者、評論家たち全員は、私の思想的刃を真っ正面からうけることを覚悟しなければならない。これから、各個撃破してゆく。
 左翼くずれのくせに、「真性保守」を名乗る集団。今だにゴキブリホイホイのように、朝日新聞の左翼リベラル派に結集している愚鈍な連中。自分の内心が、ただの反米(反アメリカ)民族主義(=周辺属国特有の反発)でしかないことに気づかない連中。個人主義など一度も成立したことのない、この前近代社会で、勝手に、性風俗化した、反社会秩序的個人欲望を賞賛する連中。日本は今だにモダン(近代)になったこともないのに、ポストモダン(近代のあと)を吹聴するおフランスかぶれたち。日本は今だに近代社会でも、資本主義でも、デモクラシー(民主政体)でもない。部族社会のままの伝統社会(トラディショナル・ソサエティ)である。ただし、私は、生来の、本来の素朴な愛国・民族主義者たちに対しては、一目おく。

18 日本の左翼たちの本質は、反米(反アメリカ)民族主義者に過ぎなかった。それと旧来の吉田茂・宏池会系の官僚保守派(原の底では反米だが、表面上は親米、というよりグローバリストの受け皿)が合体・野合したのが、自民党と社会党(社民党)の野合連立政権であり、この本質は「反米愛国民族統一戦線内閣」である。

19 ナショナリズム(民族主義)というのは、それぞれの国にある素朴な愛国感情のことではない。世界帝国(ヘジェモニック・ステイト)の支配に反発する周辺属国の内部に自己保存を求めて、自己防衛的に発生する感情の総称のことである。従って、世界帝国の本国の市民たち(たとえば、ローマ帝国下のローマ市民たち)には、ナショナリズムなるものはない。彼らは帝国領域内のどの属州・属国や半服属国にも自由に行き、暮らすことができる。そして、帝国の言語と文化(古代ローマ時代なら、ローマ語(ラテン語)。現代ならアメリカ英語)が全体に行きわたるのは当然のことだ。

20 従って、ナショナリスト(nationalist)というのは、そこらの右 翼・民族主義者や、「私はナショナリストだ」と、馬鹿の思いつきのように、一般庶民が口にする言葉のことではない。ナショナリストとは、周辺属国の各々の民族指導者(国民政治家)のことであり、世界帝国の皇帝と交渉する役割を負った人間のことだ。それを王、あるいは国王という。

21 従って、現在の日本国王は小沢一郎である。彼は、小学生の頃から、アメリカのグローバリストの教育係に育てられてきた。王子としての教育を与えるために、ルイーザ・ルービンファインという女性学者が派遣されている。属国の王子(クラウン・プリンス)には、このように帝国公認の養育係がつく。映画『王様と私』や『ラスト・エンペラー』と同じだ。
 小沢一郎は、世界帝国アメリカから属国証明書をもらっている正統の王であるから、国内の各部族の族長や大臣たちが、この国王に反旗を翻えして追放しても、小沢一郎を負かすことはできない。小沢にはアメリカの政官財界からの後ろ楯がある。もっとはっきり書くと、小沢一郎を支えているのはロックフェラー家である。従って、一九九四年の日本の政変(自社さ連立政権の誕生)は、国王(あるいは皇太子)である小沢に対する族長たちの反アメリカ的反乱だった、と考えるのが正しい。小沢はこのあとしばらく、"流浪の王子"の立場におかれるが、やがて国王の地位に戻るだろう。従って、現在の王権簒奪者は長らく竹下登である。問題は、短命である小沢一郎の次の日本国王は、誰なのか、ということだ。

22 このように、王 King とは、「漢の倭の奴の国王」の金印のように、世界皇帝から、属国(同盟国とも言う)の首長としての地位を認められる存在である。従って、日本の天皇は、そもそも英語で皇帝 emperor などと名乗るべき存在ではなかった。この二千年来、漢王朝のころから、日本は中国の属国であるのに、日本の天皇は、この日本が中国の属国であるという事実を絶対に認めないで、頑強に抵抗しつづけた、南方ポリネシア系の神聖体である。それに対して、歴代の武家政権の将軍たちが、平清盛も、足利義満も、徳川家康も、中国皇帝から、秘かに、「日本国王」の称号をもらっている。

23 従って私は、world values (世界普遍価値)と、nationalistic values (民族固有価値)の対立を、七耐三の割合だと考える。どうしても、どうせ世界普遍価値の方が日本国内を圧倒して勝ってしまうのである。それは、洋服の方が、和服(着物)を圧倒していったのと同じことだ。しかし、私は、残りの三割の民族固有価値を大切にする。ある小国で生活することになれば、どうしてもその国の民衆の暮らし方に従わなければならない。それが最も合理的だ。しかし、その民族固有価値が、世界普遍価値と衝突する場面では、大きくは、世界普遍価値の方がどうせ勝つ。それは愛とか、平和とか人権とかヒューマニズムとかのことだが、日本人としての民族固有価値が持つ切実な真実性をも、決して捨て去ることはできない。もしこれを嫌って捨て去れば、世界帝国の第二級市民(ザ・セカンド・シチズン、下層民)となって、帝国の方に流出してゆく人間になる。現に、そのような日本人がたくさんいる。

24 従って、王というのは、この二つの価値観の衝突する場面で、自国の利益を守ろうとして、その対立の板ばさみになる人間のことである。この板ばさみで苦しむところに小国の運命がある。
 故に、繰り返すが、民族主義者というのは、本当は、小国の国民政治家=民族指導者のことであって、そこらの右翼たちのことではない。ましてや、ある日、急に勝手に、ナショナリストを自覚して自称するような、アホな知識人たちのことでもない。

25 世界帝国の支配者たち(この内部が、帝権を求める皇帝と、共和政を死守しようとする元老院の議員たちで対立する)は、周辺属国が、自分たちの支配に、反抗したり支配から脱出しようとするのだということをよく知っている。
 世界帝国の支配者たちは、むしろ、このような、反抗や反乱を抑え込むために、代表者あるいは交渉係としての国王の存在を認めている。
 従って、次の王となるべき人間を、帝国の首都で育てる。日本の江戸時代の徳川氏が、各大名に課した「参勤交代」を想起すればよい。大名の奥方と長子は、人質としてずっと江戸にいなければならなかった。
 人類の歴史というのは、いつもこのようなものだ。ただし、私は、ここでは全てを徹底的に現実主義政治学と権力理論で説明していることを認める。理想主義の政治思想など、もうこのあと少なくとも数十年は存在しない、と判断しているからだ。

26 従って、私は、日本の現在の文科系の学者知識人集団というのは、この大きな事実を知らないのだから、ほとんどがアホだと判定している。たとえアメリカ・ヨーロッパ帰りの秀才であっても、少なくとも日本の文化的劣等を書かず、日本もまた属国のひとつに過ぎない、とわずかでも自覚して、告白して書かない限り、私は、その能力を一切認めない。

27 私は、日本のごく普通の国民大衆の生きている現実を、何よりも尊重する。この人々の中のひとりとして、自分もまた生きて死んで行ければそれでいいと思っている。だから反対に、日本国内でしか通用しない、愚かな国内言論の類の一切を軽蔑している。

28 私は、自分のことを、日本という「猿の惑星」‘The Planet of the Apes’ に生まれた若い猿だと思っている。そして、この若い猿は、ここが、「猿の惑星」であることに、他の猿たちよりも早く気づいてしまったのだ。もはや、私は、あれこれの虚偽の言論を撒き散らす者たちの列に加わることはできない。

(本文終り)

副島隆彦『日本の秘密』/_My Country, Right or Wrong_, 弓立社、1999年5月、pp.243-251.

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

 文書の倉庫 (3)金融・経済分析
http://www.soejima.to/souko/text_data/wforum.cgi?room=3

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/06/28(Wed) 23:29
投稿者名:荒木章文
タイトル:小室直樹のシステム論について

小室直樹のシステム論について

SNSI
荒木章文

システム論について考えていきたい。
何故、システム論を考えるてみようと思ったのか?
それは、システム論を理解することによって、小室直樹を理解できるからである。
小室直樹の学問と業績を理解することによって、その方法論を学ぶことによって、自分が存在する社会を理解することができるからである。
その自分が存在する社会を理解することによって、その時間的延長線上にある未来についてのなんらかの示唆を得ることができるからである。
自分が存在する社会の過去(歴史)を観ることによって、自分のアイデンティティを確認することができるからである。
それでは、システム論について考えていくことにする。

そもそも、小室直樹の学問と思想の中で一つのキーワードがでてくる。
それは「システム」である。
この小室直樹の学問と思想を理解するということは、その膨大な業績を理解するということである。
ここで、小室博士の弟子筋にあたられる、橋爪大三郎氏は次のように述べられている。

小室さんの仕事はあまり多岐にわたっていて、統一的な像がつかみにくい、と思っている人が多いのではないでしょうか。でも、私からみれば、話しは簡単です。全ての学問の中心にあるのは、システムの考え方である。そう押さえれば、すっきり理解できると思う。
(小室直樹の学問と思想 橋爪大三郎+副島隆彦著 弓立社 P.64)

つまり、システム論を理解すれば、小室直樹の学問を理解したと言えるのである。
ところがこのシステム程、訳のわからないものも無い訳である。
このシステムについて言えば、現実にシステムエンジニヤやシステム工学等という職業や学問が存在する。
また、一般的な言葉として、制度や仕組みという意味でシステムという言葉は使われている。
さてそこで、システムとは何か?について次のように述べられている。

…システムとは「多数の変数がお互いに複雑に結びついている全体」という意味だと考えればいいのです。
ある対象をシステムとみなすという事は、いくつもの変数が結びついたものとしてとらえることですから、その対象がどういう変数(どういう要因)の集まりなのかを、はっきりさせるのがまず第一です。一番大事な要因としてこういう要因があり、二番目に大事な要因としてこういう要因があり、…ずっと追いかけていって、n番目の要因までなるべく多く押さえようとするのがシステム的な考え方の特徴です。
(小室直樹の学問と思想 橋爪大三郎+副島隆彦著 弓立社 P.)

このシステム論について
1. 定量分析
2. 定性分析
の場合が考えられる。
定量分析のうまくいったのが「一般均衡論」の経済学、定性分析としてうまくいったのが社会学におけるマックス・ベーバーの理論といえる。
ここでさしあたり、システムについての定義をしておくことにする。
何故なら、システム論を理解する上でシステム論があまりにも多岐な話題に広がっているのでそれがシステムとどう関係があるのか?の根本的な問題を理解できなくなる可能性があるからである。

システムは、多くの要素が互いに関連を持ちながら、全体として共通の目的を達成しようとしている集合体という事ができます。
(システムのはなし 大村平著 日科技連 p.13)

システムは多くの関連要素のが、ある一定の目的の達成の為に存在する集合体の事である。
但し、ここで注意しなければならないのはこのシステムとは人為的な目的の元にシステム・エンジニヤがシステムを構築する場合を前提にしている事である。
システムを考える時、人為と自然(与件)ここの違いは明確にしておかなければならない。
目的と言った場合、人為的な目的を達成するために、各構成要素を関連づける。
それが狭い意味での、システムと言える。
(ここで出た目的、目的-手段選択の問題と原因-結果の問題については別途、稿を改めたい。)
それではシステム論として考えた時、定量分析としての事例を概要ではあるが引用してみることにする。

経済理論が取り扱わねばならぬ、幾多の変数をもつ問題の大部分は、調べてみると、諸市場の相互連関の問題であることが判明する。たとえば、賃金理論の比較的複雑な問題は、労働市場、消費財市場、および(おそらくは)資本市場の連関を含んでいる。国際貿易の比較的複雑な問題は、輸入品および輸出品の市場との相互連関を含んでいる。等々。われわれが主として必要とするのは諸市場の相互連関を研究するための手法である。
(価値と資本(上)J.R.ヒックス著 安井琢磨・熊谷尚夫訳 岩波文庫 p.33)

つまりこれらの分析を通して、言えることは其々の構成要素(諸市場)の相互連関分析なのである。
そしてたまたま経済学の場合には、価格という媒介変数が存在したからその構成要素間の関係を方程式で表現できた。
そういうことである。
(これらの個別具体的な事については、少しずつ作業を進めていくことになるだろう。)

次に定性分析の例として、マックス・ベーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を挙げることになる。少し長めであるが引用することにする。

この研究の表題には、「資本主義の精神」というやや意味深げな概念が使われている。この言葉はいったい、どういう意味に解すべきなのか。「定義」というべきものをあたえようとすると、われわれはただちに、研究目的の本質に根ざすある種の困難に直面することになる。
およそ、このような名称の使用が何らかの意味をもちうるような、そうした対象が見出されうるとすれば、それは必ず一つの「歴史的固体」《historisches individuum》でなければならない。すなわち、歴史的現実のなかの諸関連をそれの文化意義という観点から概念的に組み合わせて作り上げられた一つの全体というか、そのような歴史的現実における諸関連の一つの複合体、つまり、「歴史的固体」でなければならない。
ところで、このような歴史的概念は内容的にみて、その固体的特性が成り立つために有意義であるようなそうした現象にかかわるものだから《genus proximum,differentia specifica》「直近の類、種差」という図式に従って定義する(ドイツ語でいえばabgrenzen限定する)ということは不可能で、むしろ、歴史的現実のなかから得られる個々の構成諸要素を用いて漸次に組み立て行くという道を取らねばならない。だから、その確定的な概念的把握は研究に先立って明らかにしうるものではなくて、むしろ、研究の結末において得らるべきものなのだ。言いかえるなら、ここで資本主義の「精神」と呼ばれているものの最良の-すなわち、われわれがここで問題としている観点にもっとも適合的な-定式化は、究明の過程を経てはじめて、しかもその主要な成果として提示することができるのだ。
(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ベーバー著 大塚久雄訳 岩波文庫 p.38-39)

はじめてこの文章に出会った時、その意味するところが理解できなかった。つまり学問をするにあたってその学問の言葉の定義ができない。言葉の定義ができないものについて論じていくのは非常に理解に苦しむ。そいう印象をもっていた。
しかし、システム論の定義「システムは、多くの要素が互いに関連を持ちながら、全体として共通の目的を達成しようとしている集合体」これを前提にして考えるとすっきりと理解できる。
つまり、「資本主義の精神」はシステムなのである。
故に、システム全体に、「資本主義の精神」というラベルは貼るのであるがシステムであるから、システムを定義するという事は事実上できない。
私は、そのように理解した。
歴史的固体としての全体は、諸構成要素の関係性を解明していくことによって現れてくる。
そういうことである。

システム論として、ヒックスとベーバーの理論は理解する事ができる。
そしてこの理論を其々の、具体的な事例で学ぶことによってシステムとはなにか?
の具体的実感が得られるのではないだろうか?
2000年6月28日(水)つづく

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

 文書の倉庫 (4)法律学・法制度論
http://www.soejima.to/souko/text_data/wforum.cgi?room=4
(投稿文章無し)

 文書の倉庫 (5)日本戦後史・日米外交史
http://www.soejima.to/souko/text_data/wforum.cgi?room=5

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/10/31(Tue) 20:24
投稿者名:志村
タイトル:『切り捨て御免!』内「米軍は撤退し、日本の核武装が始まる」

(自分の意見始まり)
「米軍は撤退し、日本の核武装が始まる」は、その後に展開されたアメリカ政治思想論の序曲をなすものだと思います。

(自分の意見終り)

(副島隆彦の本文始まり)

  米軍は撤退し、日本の核武装が始まる

   過去五十年間置き去りにされた沖縄

 沖縄駐留米軍の海兵隊員三名による小学生膀胱事件に端を発した米軍基地に対する抗議行動は、現地沖縄で激しくなっている。今日の新聞(九五年十月二十二日)も、宜野湾市での県民総決起集会が六万人(主催者発表八万人)の人を集めて開かれたことを伝えている。沖縄の人々にしてみれば切実な気持ちにかられた血の叫びであろう。在日米軍基地の七五%が沖縄にあり、沖縄の面積の二〇%が基地なのである。日本駐留軍四万八千人のうちのじつに、二万七千人が沖縄にある。これまでに数多くの駐留兵士たちによる暴行事件を体験し、あるいは身近で聞いてきた人々にとっては、このような痛ましい事件は、まさに、まさに、怒り心頭に達するものであろう。
 もちろん、沖縄の不幸は現在だけではない。太平洋戦争最後の激戦の果てに戦死した日本海軍沖縄方面根拠地隊司令官太田実少将は、「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と海軍次官宛てに打電した。それから米軍基地が二十七年間居座り、沖縄はグアムやサイパンのようなアメリカの「信託統治領」となってアメリカ化し、米軍基地に依存して生活する多くの人々を抱えることになった。一九七二年に本土復帰が実現したが、これで沖縄の米軍基地が撤去・縮小されたのではなく、そのまま基地を抱え、日本に返還されたのである。
 日本は「非核三原則」という政府方針を貫いているので、米軍が沖縄の基地に核兵器を持ち込むことはできないはずである。だが、日本政府にそれを検証する権限は与えられておらず、「アメリカ側が『核はない』と回答しているので核の持ち込みはない」という態度で、この五十年間終始してきた。日本国内に米軍がいる限り、核兵器が存在することもまた当然のことなのに、である。
 核兵器は、どこに存在するのかが分からないからこそ兵器として威力を発揮するのであり、やったらやりかえすぞという、核抑止戦略(nuclear deterance starategy ニュークレア・デターランス・ストラテジー)に守られて日本という国が存在してきたという、厳然たる事実がある。アメリカの世界戦略の一部として、東アジア地域におけるソビエト連邦(ソビエト帝国)や共産主義・中国と対抗するための「反共の防波堤(breakwater ブレイクウォーター)」として、日本は位置づけられてきたという冷厳たる事実が、一方にあるのである。

   「地位協定」は不平等条約

 今回の沖縄の小学生暴行事件では「日米地位協定」のなかの、「刑事犯罪容疑者の捜査取調べ権と処罰権はまず米国にある」と定めた台一七条が議論の的となっている。この「地位協定」というのは、アメリカが世界中に軍隊を派遣している先の国々と締結している条約の一種である。日本の場合は、当然、「日米安全保障条約」の附属条約として定められた。
 アメリカは、このような安全保障条約や軍事基地協定を世界中六十個ほども抱えている。こられの国々は、友好国とか、同盟国(allies アライズ)と呼ばれるが、じつは、もっと簡単に言うと、アメリカから見れば、自分の支配下に入って、アメリカの軍事力の保護下にある属国(あるいは植民地)ということである。
 外国に派遣された軍隊は、当然に自治行動をとる。その軍隊の指揮権も命令系統も派遣国のものである。たとえば、PKOでカンボジアに派遣された自衛隊員の現地での犯罪行為を処罰する権限は日本側にあり、カンボジア政府にはなかった。今回の沖縄の事件でも同じことが問われているのである。
 日米地位協定の見直しを主張する人々の間で、「日本の領土内で行なわれた犯罪は、日本の法律で裁かれるべきだ。そうでなければ、これは、明治のはじめの不平等条約と同じではないか」という声があがった。日本とアメリカは、もしかしたら、ほんとうは不平等なのではないか、とう疑問が私たち日本人の脳裏をかすめ、もやもやした気持ちが私たちの胸のなかにわだかまっている。「日米平等」「日米同盟」というのは嘘なのではないか、という疑問が、日本人の心をとらえるようになってきた。
 日本もアメリカも、政策当局者たちは、今回の事件を、なんとかうまい具合に収めたいと考えている。九五年十一月に大阪で開かれるAPEC(エイペック=アジア太平洋経済協力会議)にはクリントン大統領も来る。村山首相もこれを花道にして引退し、いよいよ総選挙ということに政治日程はすでに決まっている。それまでに沖縄の人々の怒りを鎮め、日本国民の心のなかに広がっている「日本はアメリカの言いなりなのではないか」という疑念を抑え込んでフタをしようと考えている。
 アメリカ側にしてみれば、九月二十一日にモンデール駐日大使がこの件で謝罪したし、同じ日にラジオ番組のなかでクリントン大統領も遺憾の意を表明している。これでおしまいにしたいのである。「アメリカは日本を外敵から守ってやるために軍隊を日本に駐留させているのだから、感謝されるべきであっても嫌われるべき筋合いではない」というのがアメリカ政府の、それからアメリカ国民の基本的態度であるから、もうこれ以上謝罪を繰り返す気はない。
 あとは、日本側の態度である。沖縄の人々の基地撤去・縮小を求める直接的な怒りを別にすれば、日本人の大方は日米関係については、あいかわらずムッツリ・ダンマリというのが今回の態度であろう。地位協定の見直し、すなわち、せめてドイツ並みのものに変更しろとか、那覇軍港の縮小予定を早めようという対応問題を政府間では協議するだろうが、私たちの気持ちはこれでは済まなくなっている。

   朝日新聞も安保は必要?

 あるいは現在、その支払いが年間四千五百億円にも達している、駐留米軍への経費負担問題がある。これを日本では「思いやり予算」とか称している。この莫大な出費こそは、アメリカの軍事力に日本が頼って生きていることの証拠でもある。用心棒代ということである。
 このアメリカ軍の経費もまた、じつは、日米地位協定二四条を勝手に変更したものである。この経費負担問題を日本に有利に運ぶために、日本政府はアメリカ側に対し、今回の事件を交渉のカードとして使うだろう。あるいは、日米自動車交渉の際にCIAが動いて日本側の通信を盗聴したという最近のスキャンダルがあるが、これもまた、事実とすれば主権侵害行為であるから、日本としては断固抗議していいはずである。しかしこのスキャンダルも日本政府側は取引のカードに使うだけで、うやむやに決着するだろう。
 逆に、大和銀行ニューヨーク支店の損失隠蔽疑惑に対して、アメリカ側はこの問題を日米交渉のテーブルに乗せて、「大和銀行の日本人経営トップをアメリカに連行して処罰するぞ」と圧力をかけることもできる。アメリカの圧倒的に強い力という現実を前提にしてしか、これらの問題も観察できない。
 このように、すべては外交交渉上の駆け引きに使われる。日本からすれば、なるべくアメリカに金をセビられないようにするためにこれらのカードを切るのである。
 日本の政府に近いところにいる人々は、今回の米軍兵士による少女暴行事件の処理を穏便に済ませ、日米関係にヒビがはいらないようにしなければ、と力説している。たとえば、「基地問題への冷静な対応を望む」(志方俊之、『産経新聞』十月十二日)、「日米地位協定見直しに反対」(岡崎久彦、同紙十月七日)、「日米安保に代わる選択肢はない」(椎名素夫、同紙十月十七日)がその代表的なものである。
 また『朝日新聞』社説(九月三十日)も、「戦後五十年もたちながら、こうした現実が続く沖縄の姿を日本政府や政党をはじめ、本土の人々はどれほど理解しているだろうか。安保体制の必要性をいうなら、日本政府は、地位協定の見直しは無論のこと、基地の縮小に動くべきであろう」(傍点筆者)と書いてある。長年、安保条約反対のはずだった『朝日新聞』ですら「安保体制の必要性」を前提として、そのうえでアメリカに対してもっと強い態度に出るべきだ、という論調なのである。
 これら日本側の態度が一様に煮えきらないのは、今やほとんどの日本人が、アメリカの軍事力によって日本が守られているという現実を、一方で肯定し受け容れていることを示している。ただそれは、アメリカが勝手に日本を占領しそのまま居座った、つまり、われわれ日本人が守ってほしいと頼んだわけではない、という前提に立ったうえでの肯定であり、受容である。ここにおいて日本人は、右翼も左翼も保守も反保守もなく、同じ考えに立っている。

   国際政治学のなかの日本

 戦後五十年目に噴き出しつつあるこうした諸事件によって、日本人がなるべく見ないようにしてきた日本の真の姿が、徐々に露わになりつつある。
 国際政治学(international relations インターナショナル・リレーションズ)という学問分野がある。この国際政治学(国際関係論とも言う)には、「日米関係」などという言葉はない。この学問をキチンとたどるならば、存在するのは、「世界覇権国・アメリカによる東アジア戦略の一環としての対日本管理政策」でしかない。これ以外には存在しない。
 学問というのは世界性を前提にして、どこでも通用する事実に基づいて組み立てられている知識の集積のことであるから、当然このような理解になる。それを、まるで日本とアメリカが対等の立場であらゆることを決めているかのように、日本国内では教えられてきた。そのような見方は世界的な知識と学問に反する。冷酷に事実を見つめるならば、世界政治の一部分として日本も連動しているにすぎない。日本があって世界があるのではない。世界があってその一部として日本があるのである。
 国際政治学は、リアリズム(realism 現実主義)という根本的学問方法から始まる。ある国家の運命は、たとえるならば、ビリヤードの球のようなものである。球が打たれると別の球に当たって弾けてゆく。その球に相当するある国の内部構成がどのようなものであり、どのような深刻な国内問題を抱えていたとしても、そのこととは無関係に、その国の運命は、他の球、すなわち、周りの国とのぶつかりかたによって決まってゆくのである。これは、結局弱い国は強い国の力に支配されて生きざるを得ないということである。この考え方がリアリズムである。日本は世界帝国であるアメリカの要求に屈伏しないわけにはゆかないのである。そうやってなんとか生きのびてゆくしかないのである。だからみんな沖縄問題にムッツリとなるのである。
 戦後の日本の首相では、吉田茂がこのことをじつによく分かっていた。ナショナル・インタレスト(国家の重大な利害)とか、ナショナル・セキュリティ(国家安全保障。と訳すより国家存亡の軍事国防問題と訳すべきだ)がよく分かっていた人だ。
 吉田はアメリカに選ばれたあやつり人形だと悪口を言われた首相である。だが彼は、日本が生き残ってゆくためには、アメリカの要請に応じて自衛隊は持つけれどもそれ以上の軍備は持たない、経済復興にだけ力を注いで国を豊かにし、国民を幸せにするのが日本の戦後戦略だ、と定めた。これが「吉田ドクトリン」である。だから日本は、武士の名誉を捨てて、アメリカの要求に屈伏して、ソビエト・中国封じ込め戦略(containmento policy コンテインメント・ポリシー)を東アジアで分担した。これが、軍事同盟条約としての日米安保条約である。
 私は、吉田茂はたいへん偉かったと思う。この冷厳な事実自体には賛成も反対もありえない。それに対して、六〇年代の岸信介、佐藤栄作あたりから、日米は「イクォール・パートナー」だとか、「太平洋の架け橋」だとかさかんに言いだした。この頃から「日米対等」幻想が広がり始め、「アメリカ何するものぞ」という勇ましい掛け声があちこちで聞かれるようになった。世界の現実をあえて見ないことを前提にした、日本国内だけで通用する考えがどんどん強くなった。八〇年代の中曽根康弘首相も「ロン・ヤス関係」などと言って、レーガンに頼みこんで日米が対等なふりをしたので、アメリカでの発言と日本に帰って来てからの発言が違うじゃないかとボロを出した。

   平和主義者は日本優越主義者

 さらに困ったことは、この「日米対等」という幻想を、日本国内のオピニオン・リーダーである財界人や官僚や新聞記者や学者知識人たちが勘違いして信じ込み、それを自明のこととして自分たちの思考の土台に置いてしまったことである。これで、日本人は国際問題を理解する能力を失った。
 アメリカで暮らして、向こうの友人たちと少し本気になって議論すれば、こんな事実は、すべて明らかになることなのに、この現実をなるべく見ないようにして生きてきたのが私たち日本人なのである。原爆を落とされてボロボロに打ち破られて、ポツダム宣言を受け入れて無条件降伏をしたとき、日本民族は世界に向かって命乞いをしたのである。世界中の人々は今でもそう思っているが、日本人はそうは思わない。あれは、ただの「終戦」だと思っている。
 日本の国際政治学者たちが私たちに本当のことを教えないからいけないのである。彼らは、主権国理論の一部としてしか「日米関係」が存在しないことを重々承知している。ところが、「日本はアメリカの支配下にある属国のひとつだから、どうせアメリカの言うことを聞かなければいけないのだ」などと言ったら、日本国内では保守派からも反保守派からも総スカンを食い、イヤがられて、どの新聞・雑誌にも論文を載せてもらえなくなるのを心配するのである。だから勝手に遠慮して「日本の今後とるべき道」とか「アメリカの対日戦略はどうなるか」というようなタイトルになるのである。
 日本では、民族主義あるいは愛国主義を土台にした文章のスタイルしか長年受け入れられてこなかった。そのことをボソボソとこぼしているのが、たとえば、入江昭ハーヴァード大学教授である。入江氏はアメリカ歴史学会会長も務めたのだから優れた学者なのだろうが、彼が英語で書く論文と、それを日本向けにリメイク(改作)して日本で出版するときの書き方のズレのなかにことの事実が見て取れる。
 その他に、日本国内にはリアリズムと対立するアイデアリズム(理想主義)に立脚する国際政治学者たちがゴロゴロいて、彼らが、私たちが真実を理解することを邪魔してきた。この人たちは現在は「平和学(ピース・スタディーズ)」というのを唱導している。国益主義に対抗して、「ヒューマン・インタレスト」を唱えている。このアイデアリズムに立つ人々は何でもかんでも国連中心の平和・人権優先主義であり、そもそも戦争なんかこの地球に存在すべきでないという考えである。「日米対等」という幻想を日本国内にはびこらせたのも、じつはこの学派の人々である。彼らはアメリカ留学時代にはちっともそんなことは習っていないのに、日本に帰ってきたとたん、日米対等、日本優越主義者に変身してしまうのだ。
 私は何も、自虐的になって、日本人であることを自己卑下して、日本国をことさら貶めようとしてこのように書いているのではない。もっと大きな世界規模の見方をすれば、当然こうなると説いているにすぎない。自分たちの国や社会を尊敬することと、もっと大きな現実を直視することは矛盾しない。ただ、もっと大きな現実のほうを考え方の基本として優先させるべきだと主張しているのである。
 私は学生だった七〇年代に各地の反対運動やさまざまな政治運動に参加したが、やがてそれらの運動に強い限界を感じた。「もっと大きな現実」を見ようとせずに、己れの正義感に駆られ直情的な怒りをぶつけるだけでは、問題は解決しない。各種の政治的反対闘争が敗れざるを得ないのは、自分の側の正義だけを主張してこの「大きな現実」を見ようとしないところに原因があると気づいたので、政治運動から足を洗った。だが、後遺症は長く残った。

   米軍はいずれ撤退する?

 安保条約の見直し問題については、保守派か反保守派かの違いなく、日本人は一様にためらっている。
 自民党と社会党が合体した村山連立政権は、九四年八月にものの見事に「社会党の一八〇度政策転換」というハレンチ極まりない大転向劇をやって「日米安保堅持」を宣言した。私は先に、この内閣はその本質において「反米愛国・民族統一戦線内閣」であると書いたが、日本国民の多数意見を代弁しているという意味ではきわめて柔軟な対応のできる優れた内閣であるとも思う。今や自民党も社会党(現社民党)も、それから反対党である新進党も、こと対米交渉や安保問題においては、本質的なところでは政策的に何の対立もないのである。「アメリカとの交渉をなるべく有利に無難に継続し、米軍基地をなるべく縮小してもらう」というのが彼らの本音であり、またそうした政策は国民の多数の支持を受けている。
 ではなぜ、私たちは日米安保条約について考えると、一様にムッツリしてしまうのか。それは、米軍の日本駐留に反対し、出ていってもらおうと思いながら、その一方で、米軍にこのまま留まっていてもらわなければならないとも感じるために、思考の分裂を起こしてしまうからである。
 昨今の安保条約をめぐる論議や安保反対運動のほとんどは、米軍はどうせ日本から撤退などしないだろうということを前提として行なわれているように、私には見受けられる。それは、米軍撤退後の具体的なプランについて何ひとつ議論も提案もなされないまま、情緒的に反安保が唱えられていることを見ても、明らかであろう。私たちの国際政治感覚は、六〇年代や七〇年代と少しも変わっていない。最後は止めてくれるとわかっていて、親に向かって「家出するぞ」と駄々をこねる子どものようなものである。
 だが、私たちは変わらなくとも、世界の状況は大きく変わっている。もはや、米軍が日本に駐留していることですら、国際政治のうえでは自明のことではなくなっている。
 アメリカ国内の現在の政治勢力を簡潔に述べると、まず「現行の世界秩序をアメリカの力で維持・管理する」と考えるグローバリスト(globalist 世界管理主義者)がいる。この勢力は、アメリカの軍事力を展開することによって、アメリカの国際的大企業群が世界中に持っている金融資産や利権を守ることを決意している。意外なことに、この世界管理主義者は、平和愛好的なはずの民主党を支持する人々のなかに多い。表面上は、「民主主義と人権を守るためにアメリカは積極的に世界秩序の維持・管理に関与すべきである」という思想に立脚するからである。
 このグローバリズムを代表する学者・政治家は、ジーン・カークパトリック女史やウォルター・ラキュール、エドワード・ルートワックらである。彼らはネオ・コンサヴァティズム(neo-consavatism 新保守主義)通称"ネオ・コン"と呼ばれ、ジョージタウン大学のCSIS(戦略国際問題研究所)に結集している。最近、ガリ国連事務総長に圧力をかけて明石康旧ユーゴ特使のクビを切らせたのもジーン・カークパトリック女史であり、彼女はレーガン政権の国連大使(閣僚待遇)を務めていた人物である。
 それに対して、「アメリカはもう家に帰ろう。(ソビエトを倒して)戦いは終わったのだから」と主張しているのが、アイソレーショニズム(isolationism 孤立主義、国内優先主義)である。代表は、共和党大 統領選挙戦に嵐を起こしたパット・ブキャナンである。彼らは、「アメリカが外国にまで出て行って、他国の経済まで支配することはない。それよりも山積みする国内問題の解決のために努力しよう」と考える。このアイソレーショニズムの伝統を引き継ぐのは、なんと、共和党のほうなのである。
 アメリカ国民は現在、この考えに傾き、ますます「内向き」になりつつある。この孤立主義を強固に支持して、反福祉・反税金・大きな政府反対の思想を体現している勢力をリバータリアン(libertarian 強固な個人主義的自由主義者)と呼ぶ。もしこのアイソレーショニズムとリバータリアンの勢力がアメリカで政治権力を握ることになったら、アメリカは、日本の事情などおかまいなしに、さっさと基地を撤退し、安保条約を廃棄し、アメリカに帰っていくだろう。

   そして核武装の時代へ

 キッシンジャー元国務長官が、最近「日米安保条約は将来、廃棄されるだろう」と各所で発言している。キッシンジャーはニクソン政権の閣僚だから保守的な共和党支持者に見えるが、本当はネオ・コン派のグローバリストである。そのキッシンジャーですらこのように明言するのだから、四年後(二〇〇〇年)は一部改定で済んだとしても、十四年後(二〇一〇年)の安保条約更新ののち、二〇一〇年にはもうないと、私たちは考えないわけにはいかない。アメリカ軍が撤退し、安保条約がなくなった後の日本の現実ということを、どうしても考えなければならなくなるのである。
 安保条約を廃棄したら、日本を軍事的に守るのに今の日本の軍隊(自衛隊)で充分だろうか、という疑問がすぐにわき起こってくる。「軍隊なんか不要だ。戦争には絶対反対だ」と言う人々の主張はここではあえて考慮しないことにする。絶対平和などとうい理想主義が通用しない現実からすべての話は始まっているのであり、沖縄や日本各地の米軍基地の存在の重大さやその必然性もそこにあるからである。
 もし安保条約が廃棄されることになったら、日本はただちに核武装を開始するだろうと、私は考える。私たちがどうこう主張し、反対し、異議を唱えることとは別個の冷酷な世界的現実として、日本は国家として核兵器を持つようになるだろう。日本が国民国家(ネイション・ステイト)であり、国家主権(ソブランティ)論に立脚した世界のなかの現実のひとつの国として存在していくかぎり、この事態の推移は、ほとんど不可避のものだと私は考える。
「世界の人々はもう戦争をイヤがっているから、これからは世界中から戦争がなくなるのだ」と考えたい気持ちは理解できるが、同時に、そんなに世界がうまい具合に進んでいくものか、と私は考える。人間(人類)という生き物は、まだそれほど賢くなっていない。なぜなら、私たちの身の回りの生活ひとつをとっても、人間同士の憎しみあいやだましあいや争いごとで満ちている。これを国家次元でだけ、私たちは平和国家になりましたと、宣言してみてもどうなるものではない。世界中の人々は、だいたいこのように考えている。
 少なくとも、曲がりなりにも戦後半世紀間、日本は平和な国であって、日本人は他の国の人々に比べれば平和で繁栄した生活を送ることができてよかった、と考えるべきである。それも、私たちの親や祖父母の世代が戦乱のなかで殺されたり逃げまどったりした体験のおかげであると言わなければならない。
 五十年間、平和が続いたのだから、そろそろまた悲惨な目に遭う順番が自分たちに回ってくるのではないか、と考えて私たちは心の準備を始めるべきだと思う。それが、歴史から学ぶ知恵というものではないだろうか。

(副島隆彦の本文終り)

副島隆彦『斬り捨て後免!-天に代わりて不義を討つ』/_SOEJIMA Takahiko’s Anthology of Political Essays_, 洋泉社、1996年6月、pp.171-186.

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/27 01:15

【104】文書の倉庫 (1)日本政治分析・国家戦略研究 転載貼り付け

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 引き続き「文書の倉庫」から転載貼り付け致します。各個人掲載のEメールアドレス及びURLは省きます。

 

 文書の倉庫 (1)日本政治分析・国家戦略研究
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(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/06/17(Sat) 21:52
投稿者名:荒木章文
タイトル:派閥政治の一考察

派閥政治の一考察
SNSI
荒木章文

派閥政治は、第二次世界大戦後に発生した。
これは片岡鉄哉教授の説である。以下その引用である。

1956年の師走に自民党は、鳩山の後継総裁を選ぶ選挙を行った。すでに、緒方が1月に死んだ翌月に総裁選挙があったが、これは鳩山の独壇場だったから、12月の選挙が本当の選挙であった。この選挙は自民党史の中で、一つの分岐点になる選挙だった。
というのは、この選挙で自民党の派閥が正式に登場したからである。
(日本永久占領 片岡鉄哉著 講談社α文庫 p.374)

ここで対立軸を明確にしていきたい。
戦後日本の政治史分析の中で、派閥と政党の関係性を明確に提示されたのは片岡教授の分析による。
それでは、派閥と政党の関係性の中で湧いてくる疑問について以下整理しておく。

1. その派閥の特徴とは何なのか?
2. 何故に政党の中に派閥という組織が誕生したのか?
3. その誕生の秘密は何なのか?
4. 日本以外における政治的派閥と、日本における派閥との違いとは何か?
これらの疑問について、以下の記述の中で解答を探していくことにする。

派閥とは、首相の座を狙う候補者を領軸とし、独立した本部、選挙組織を持ち、かなり安定した資金源を握っている集団である。そのメンバーは、普通、年功序列に従って、内閣や党務のポストを狙う国会議員によって構成されている。そういう集団が数え方によって、八つか九つ誕生した。永田町界隈では「七師団三個連隊」とか「八個師団」と言われたものである。
(日本永久占領 片岡鉄哉著 講談社α文庫 p.376)

以上の記述から、派閥の特徴を箇条書きにすると以下のようになる。
Ⅰ.首相の座を狙う候補者を領軸とする集団である。
Ⅱ.独立した本部、選挙組織を持っている。
Ⅲ.安定した資金源を持っている。
Ⅳ.そのメンバーは、普通、年功序列に従って内閣や党務のポストを狙う国会議員によって構成される。

という特徴がある。
さて、ここで注目して頂きたいのが、Ⅳ番の年功序列によって内閣や党務のポストが決定されていく仕組みである。
この特徴は、共同体の特徴である。
(共同体論については、別途、稿を改めて整理していきたい。)
日本における機能集団が共同体化する、傾向にある事例にもれず、やはり派閥においても同様の現象がみられるという事である。
機能集団であると同時に、共同体でもある。
そして、やがて自己組織保存の要請が、本来の機能集団の目的より優先される。
その結果として、機能不全に陥って機能集団は崩壊する。
そんな危険性をはらんでいるのである。

以上「派閥の特徴」とそれが内包する問題点について述べてきた。
それではこれから、2番~4番の疑問についての解答を探していくことにする。
片岡教授は次のように主張されている。
それは、自民党の派閥政治は、よその国の政治的派閥と異なる。
その異なる点は何で、何故戦後派閥が誕生したのかについて論じられている。

まず、自民党の派閥は、上述したように、独立した政党のような組織を持っている。だから自民党政権は、分立した小党の連立政権によくたとえられる。しかし自民党は連合政権ではないのである。
自民党はいくら内部でもめても、ある特定の争点(issue)については、必ず党としての規律に従うのである。自民党は党自体にレーゾンデートルがあるといえる。だから自民党は、党と派閥の二本立てだといってよい。
では自民党のレーゾンデートルとは何か。自民党が党として果たす機能とは何か。自民党の一番、肝心かなめの機能と任務は何か。
それは安保体制を握り、運営することである。この機能に関しては、鳩山派と吉田派が必ず一致団結して、社会党の攻撃と反対から身を守のである。それ以外の争点(issue)、たとえば、憲法については、自民党は割れるが、こと安保になると団結するのである。
言葉をかえていうと、自民党は、占領の落し子である政治三極構造を前提として成り立つ。鳩山派と吉田派が安保を守り、吉田派と社会党が憲法を守る、これで三極構造が成り立つ。
(日本永久占領 片岡鉄哉著 講談社α文庫 p.376・377)

この派閥政治の分析は、選挙制度つまり中選挙区制・小選挙区制が問題ではないことを示している。戦後日本の政治史の中で、自民党内での鳩山派(党人派)と吉田派(官僚派)の対立構図と、自民党と社会党の対立(?)構図の政治三極構造の中で生れてきたのである。
それでは、それ以前の政治においてはどうであったのだろうか?
2000年6月17日(土)つづく

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/09/07(Thu) 02:59
投稿者名:管理人
タイトル:副島本からの抜粋

日本人は、敗戦後、マッカーサーのSCAP(通称、GHQ)によるマインド・コントロールにより、「国家=悪」との考えを刷り込まれてしまった。
 以来、半世紀以上にわたって、夢遊病者のように、冷厳な国際政治の舞台をさまよい歩いている。今まで、その舞台から落ちて大怪我しなかったのは、 一握りの優れた人々の存在と、たまたま降り注いでくれたいくつかの僥倖のお蔭である。

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  現在、日本は、輸出と輸入の四割を、米国に頼っている。
 日本は、経済的に米国に依存しているのである。
 経済の生命線である石油の確保を、米国の国際石油資本に握られている。中東からのオイルの輸送ルートも米軍の海洋支配力に守られているのである。経済が何より重要なのだ。

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 日本では「政治思想」なるものはいつも断片的にバラバラに、前後の脈略なしに、適当に外側(欧米世界)から翻訳文として押し寄せ、流れ込む。しかも、世界の知識人たちが理解している全体構図とは関係なしに自分勝手な理解を国内に広める。
 そしてやがて捨て去り、次の新しいものにまた飛びつく。

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(以上『属国・日本論』『日本の秘密』『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』から抜粋)

※当文章の副島系サイト外への無断転載を禁ず。

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/11/04(Sat) 15:19
投稿者名:かたせ
タイトル:2000年8月時点の日本の政治状況

(注:この文章は、2000年前後の日本史を研究する、後世の歴史研究者に読んでもらう目的で、あるいは、そういうレトリックで書いております。その点を、ご了解の上、読み進めてください)
 副島隆彦先生の「ハリウッドで政治思想を読む」の中で、2000年8月現在の日本の政治的状況を説明する最良の文章が載っています。
2000年前後の日本史を研究している後世の研究者のみなさんの目にとまることを願ってやみません。以下に紹介します。
 なお、歴史研究の盲点として、その時代に、マスコミがどのような報道をして世の中にどのような影響を与えたかの研究がおそらく手薄になると思いますので、後世の研究者のために、説明しておきます。
 現在、2000年11月です。
 田中真紀子という田中角栄元首相の娘がヒロイン扱いになっております。自由民主党(なんとか政権を維持しています)の上層部(野中広務氏)とけんかして、仲間内でグループを作ったが、また、そこを脱退したとかそんなことが、サラリーマン向けの夜のニュース番組で大々的に報道されています。また、森首相という方(在任期間は短いと推定されます)が、側近の愛人スキャンダル等で、マスコミによって血祭りにあげられております。支持率が落ちております。
 一方、芸能番組では、「モーニング娘。」というアイドルグループに、「つんく」というプロデューサーが誰を加入させたとか、あと、誰がどんな理由で脱退したとかでいつも盛り上がっています。また、田代まさしという息の長いタレントが、カメラを使って破廉恥な行為をしたとかで、たたかれてます。
 そんな状況です。日本国内で一つの「世間」をつくっていて、仲間内の人間関係で盛り上がっています。外には関心が向きません。そこには「政治」と「芸能」との区別は一切ありません。どちらも同じ扱いを受けています。「芸能」とは、本来どうでもいいものであると日本国民は気づいております。ですので、「政治」もそれと同じくらいに、どうでもいいものだと、おそらく認めてしまっています。ただし、誰もそれを口にはしません。うまく気づいていません。これは、「自分たちの国のことを自分たちで決めなくてよい」という大きな現実、大きな制約条件に対する日本国民の見事な対応です。問題は、うまく対応しすぎて、日本国民自身がそれに気づいていないことだけです。ですから後世のみなさま方も、なんてあの時代の日本国民はあほ、馬鹿だったのだろう、なぜ、あそこまで追い詰められないと気づかなかったのだろう、などと結果論でもって嘲笑しないでください。安易な批判はつつしんでください。副島先生のように、日本のために苦しむ使命を帯びた人は、現時点において、すでに十分に苦しんでおられるのですから、それで勘弁してください。
 なお、この国が形づくる「世間」では、いまだに、ねたむ側に正義が託されております。ねたむ側の意見を代表して、もしくはそれに先んじて、マスコミが国民を誘導しております。ある人を利用して、まず、ほめまくります。もちあげます。そして、儲けます。そして、潮時を見計らって、ささいなことを口実に、たたきにかかります。ぼろぼろになるまでたたきます。そして、儲けます。これを私は「一粒で二度おいしい」作戦と名づけます。この作戦にすべての有名人がもてあそばれます。大きなところでは田中角栄元首相をはじめ、相撲の若乃花・貴乃花兄弟、その他、数え上げればきりがありません。
 田中真紀子さんもご自分が、この作戦のベルトコンベアーの上にのってしまっていることにいつ気づくか、それがこれからの人生を決めることでしょう。ぼろぼろにたたかれた後で気づくようでは、親父さんの人生から教訓を学べていないことになります。この件の結果については、後世のみなさまの方がよくご存知のはずですから、これ以上は申しません。
前口上が長くなってしまいました。

以下、副島隆彦先生著「ハリウッドで政治思想を読む」(2000年8月20日初版)248ページから引用します。現在の複雑な政治的状況について、安易な単純化をせずきちんと整理して、ここまでわかりやすく表現できている論者は副島先生の他にはおりません。

(引用開始)
 日本は、文明の周辺属国だから、特に知識人と呼ばれる輸入業者たちが、世界を流れる優勢思想の方に簡単に押し流される。それも上手な生き方であり商売だ。日本の戦後の知識人や学者たちの実に九五パーセントは、左翼あるいは反体制リベラル派だったのである。
(略)
 ソビエト型共産主義の運動は一九九一年一二月に、この地上から大きくは崩れ去っていった。そして、資本主義的な生産システム(市場経済)でだけが私たちの現実である。そこでは、冷酷な貧富の差のある実利的な世界が、そおまま私たちの現実である。今や誰もこのことは否定できない。
 しかし、問題は、左翼イデオロギー、あるいは社会主義思想が滅んだ後に、次の新たなる人類の大テーマがどこに存在するかということである。その際には、愚鈍なだけの反共保守思想をのさばらせる必要はない。巧妙に生き長らえただけの愚劣な保守的な現状肯定の思想を、批判していく道も、また正義である。愚かな宗教的な信念にとりつかれてきたリベラル派の旧式人間たちを冷笑し、嘲笑したからといって、何も生まれない。微妙に保守化しつつある朝日新聞や、残党社会党(社民党)を「あわれだな」と侮蔑する時期は過ぎた。朝日新聞も、最近、急激に反米(アンチ・アメリカ)民族主義的(ナショナリスティック)になりつつある。グローバリストと闘う勢力になれるかもしれない。それに比べれば、日本の民族保守、のふりをし愛国者のふりをしながら、その実態はアメリカの手先である「世界反共保守派」系の保守派の方が、はるかに悪質であり危険である。
 人類が掲げるべき、次の大きな理想が何であり、実現していくべき人間社会とは、どのようにあるべきか、という問いかけがやはり重要である。保守雑誌が、自分たちの勝利を祝って左翼叩きだけをやっていればいい時代は、今や過ぎ去った、と理解すべきなのだ。次の大敗北はいつも「勝った勝った」と騒いでいる者たちの足元から、始まる。
(引用終わり)

 このような、後世の研究者のみなさまもうならせるような、しっかりとした分析ができるのは、副島先生の、以下のようなものの見方によります。副島先生の才能を真似することはできませんが、ものの見方は、後世の研究者のみなさまにも十分参考になるはずです。

250ページから引用します。
(引用開始)
私が、自分の政治思想体験の中から言えることは、左(左翼)にも右(保守)にも、それぞれにりっぱな人々と、愚劣な人々がいたという事実である。私は、右(保守)だから正義で、かつ、優秀であり、左(左翼)だから愚かで、狂信的であると決め付けることはできないことをよく知っている。政治イデオロギーをめぐって、人間はこれからもいがみあいを続けていくのだが、その場合にも、個別の一人一人に着目しながら、判断を下していきたいと思う。
(引用終わり)
以上

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/27 01:13

【103】文書の倉庫 (0)アメリカ政治思想・アメリカ政治分析 転載貼り付け2

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 引き続き「文書の倉庫」から転載貼り付け致します。各個人掲載のEメールアドレス及びURLは省きます。

 

 文書の倉庫 (0)アメリカ政治思想・アメリカ政治分析
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(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/08/25(Fri) 00:05
投稿者名:荒木章文
タイトル:「フランシス・フクヤマ氏≠レオ・シュトラウス派」仮説

副島隆彦の「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人達」講談社α文庫P.111 において次のように解説されている。

《フランシス・フクヤマの著作『歴史の終わり』The End of History and the Last Man(1992年 渡部昇一訳 三笠書房刊)は、ヘーゲリアン・モデルによる人類史の精神史的な全体スケッチである。この優れた本の中でフクヤマは自分の、レオ・シュトラウス派としての信念表明を行った上で、さらに「この地上のすべての国家が、結局最後には、アメリカ型のリベラル・デモクラシーに到達するのだ。それで人類の歴史はひとまず終わるのだ」という挑戦的な世界モデルを提示した・・・・。》

まずここで確認しておかねばならないことは
「フランシス・フクヤマ氏=レオ・シュトラウス派」・・・①
ということである。

 次に自然法(natural law)について前掲書P.193において次のように説明されている。

 《①自然法natural lawというのは、ギリシア古典哲学のアリストテレスAristotle(BC384-322)まで遡る大思想であり、その内容は「人間社会には、それを成立させて、社会を社会、人間を人間たらしめている自然のきまり・おきてがある」というところから始まる。》
「世界覇権国アメリカ動かす政治家と知識人たち 副島隆彦著 講談社α文庫 p.193

《アメリカの政治思想家で今、このナチュラル・ローを最も強く主張するのは、シカゴ学派のハリー・ジャファーHarry Jaffa教授である。彼は現在、カリフォルニア州にあるクレアモント大学の法哲学研究所の所長である。そしてこのハリー・ジャファーの先生が、レオ・シュトラウスである。》
「世界覇権国アメリカ動かす政治家と知識人たち 副島隆彦著 講談社α文庫 p.194

つまり、このナチュラル・ローの思想は、アリストテレス以来の大思想である。
また、このアリストテレスの思想を研究しているシカゴ学派の創始者であり、アメリカ哲学界の大御所にレオ・シュトラウスがいる。
このレオ・シュトラウスのことを「永遠の相の下の保守思想家たち」・・・・②
と副島隆彦は、「現代アメリカ政治思想各派の見取り図」で分類している。
「世界覇権国アメリカ動かす政治家と知識人たち 副島隆彦著 講談社α文庫」

《エドマンド・バークの①ナチュラル・ローの思想は、このようにして、現代につながる保守の思想として、「近代民主主義憲法体制そのものと対決するものとして生まれたのである。だから、この世の中を表面的なキレイゴトとしてではなく、もっと深く深く考えようとする、優れた保守的人格の人々が今も世界中にたくさん存在して、彼らは「我れはバーキアンBurkean(バーク主義者)なり」と言うのである。彼らは、利権や現実勢力に結びつく現実的保守主義者たちとは違って、「永遠の保守的態度の人々」と呼ばれるべきだ。》
「世界覇権国アメリカ動かす政治家と知識人たち 副島隆彦著 講談社α文庫 p.200

ここで整理すると次のようになる。
バーキアン=ナチュラル・ロー思想=永遠の保守的態度の人々・・・③

《本書の第三部では、この秩序の根源の過去と今後のありかたを見ていきたいと思う。社会の倫理的な秩序が崩れつづけて久しいという見方は、一部の保守主義者が昔から唱えてきたものだ。イギリスの政治家エドマンド・バークは、伝統や宗教にかえて理性を重視しようとした啓蒙主義そのものが問題の根源であると論じたし、バークの後継者にあたる現代の論客達も、やはり世俗的な人間主義が今日の社会問題の根底にあると主張している、この60年間に道徳意識がいちじるしく衰えたという面はたしかにある。その意味では、保守主義者の言い分は正しいかもしれない。だが、彼らはある一点を見落としている。社会秩序は衰える一方というわけではなく、長い目でみればまた盛り返してくるものだ。》
「フランシス・フクヤマ 鈴木主税訳 大崩壊の時代(上)早川書店」P.18

この中で、フランシス・フクヤマ氏は「バークの後継者である現代の論客達」「保守主義者の言い分は正しいかもしれない」「彼らはある一点~」と表現している。
 これは、明らかにこれらの人々とフクヤマ氏は思想的異なることを意味する。
バーキアン≠フクヤマ氏・・・④

以上②③より
バーキアン=ナチュラル・ロー思想=永遠の保守的態度の人々=レオ・シュトラウス派・・・⑤

④⑤よりフクヤマ氏≠レオ・シュトラウス派になる。

これは①と矛盾する。
従って、背理法により①の「フランシス・フクヤマ氏=レオ・シュトラウス派」という前提自体がおかしかったことがしめされた。

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2001/01/28(Sun) 04:24
投稿者名:かたせ
タイトル:映画の題名「怒りのぶどう」とは誰が怒っているのか?

かたせと申します。
「ハリウッドで政治思想を読む」(副島隆彦著、2000.8、メディアワークス)の201ページから引用します。映画「怒りの葡萄」の解説です。
(引用開始)
アメリカの一九三〇年代の大不況のさなかの、中西部農民たちの悲惨な生活を描いた名作『怒りの葡萄』The Grapes of Wrath(1940)は、古い映画だか、アメリカの政治シーンを語る上では、きわめて重要な映画作品である。あまりに古いので、この映画を最近の新しい政治映画とからめて話そうと思ったが、それではとても語りきれないと判断したので、古い映画なのだが、独立させてこれ一本で論じて、アメリカの社会の今につながる本当の姿という観点から解説することにした。
まずタイトルの『怒りの葡萄』だが、これは、原作者のジョン・スタインベックの小説そのままである。原タイトルが” The Grapes of Wrath”『ザ・グレイプス・オブ・ラス』で、そのまま『怒りのぶどう』であり、昔から日本でも文学作品としてはたいへんよく知られている名前だ。ところがその意味が分かっている人はほとんどいないのではないか。「ぶどうが怒ってどうするの」ぐらいのことであろう。全く、「うさぎおいしあの山」で、「どうしてうさぎを食べたらおいしかったのだろう」と、同じ世界である。少年時代の私がそうだった。『怒りのぶどう』とは、聖書(バイブル)の中から取られた言葉である。なぜ、葡萄が出てきて、これがWrath(ラス、怒り)なのかという素朴な疑問が、まずあるべきだ。こういう基本のところの理解を、一つづつ、ちゃんとやらないから、日本人の西洋理解は足元からふらつくのである。
 この映画は、カリフォルニア州でとれる葡萄農園のぶどう摘みの最下層労働が、背景にある。この映画でも、中西部の自分の畑を捨ててカリフォルニアに流れ込んできた、葡萄摘みの日雇いの移動労働民が主人公だ。収穫された葡萄から葡萄酒(ワイン)を作る工程では、古くから、葡萄を人間たちの足で踏み潰してきた。そして、実は「この踏み潰される葡萄たち」とは、我々哀れな人間たちのことなのである。ある時、神の怒りを買って、神の足で、ぐちゃぐちゃに踏み潰された人間ども、ということなのである。これが「怒りの葡萄」という言葉の意味なのである。
(引用終わり)

次に、キリスト教の経典から引用します。葡萄のたとえで一番有名な箇所である、旧約のイザヤ書第五章から。
紀元前七〇〇年代、現在のイスラエル地域にあった、ユダという国の預言者(神の言葉を預かる者)であったイザヤ。彼が、首都エルサレムの住民に語りかけます。最初は、とても楽しそうに。。。
(引用開始)
「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。 彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。
わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。
さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。 わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」
まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。
ああ。家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち。あなたがたは余地も残さず、自分たちだけが国の中に住もうとしている。
私の耳に、万軍の主は告げられた。「必ず、多くの家は荒れすたれ、大きな美しい家々も住む人がなくなる。 十ツェメドのぶどう畑が一バテを産し、一ホメルの種が一エパを産するからだ。」
(引用終わり)
(注)最後の文。「四千平方メートルのぶどう園から、たった四リットルのぶどう汁もとれず、三百六十リットルの種をまいても、たった三十六リットルの収穫しかあげられないからだ。」

 原作者スタインベックは、この箇所を念頭に置いて「怒りのぶどう」というタイトルをつけたのでしょう。神が人間に対し怒っている、ぶどうのように踏み潰す、のです。
こんな考え方は日本人の感覚からは絶対に出てきません。その証拠に、映画の題名でつまずいています。
西洋の理解を足元からきちんと固めるためには、聖書にどんなことが書かれているのか勉強して、日本人にとって異様な、これらの考え方を理解しておく必要があります。

続いて、「ハリウッドで政治思想を読む」202ページから引用します。
(引用開始)
しかし、ここ(かたせ注:「怒りのぶどう」という題名)では、単にキリスト教という宗教が固有に持つ、自虐性をことさら愛する性格が強調されているだけではない。ここには、人間社会(人類)を貫く、冷酷な法則性としての、現実の過酷な世界、ということが含意されているのである。すなわち、人間とは、自分の夢や希望や願望通りに生きていける存在ではない。冷酷に、この人間世界を外側から支配している自然のルール、あるいは神のルールに屈従しながら、生きていかねば済まないのである。
(引用終わり)

続いて210ページから引用します。
(引用開始)
アメリカの政府累積債務は、十二兆ドル(千三百兆円)ある。日本の政府累積債務は、九九年末現在で、国の分に地方政府(県や政令市)のものを合わせると、六百八十兆円である。これらは全て赤字国債と政府借入金の形になっている。この借金を一体、誰が返すのか?増税して税金で穴埋めしようとすると、国民が反対する。そこで、更に、ずるずると赤字国債を発行し続けることになる。一体誰がこれらの国家の負債を将来返すのだろうか。借金を踏み倒して、無しにしてしますということはできないのである。もし、そういうことをしたら、そのときに私たちは、まさしく神の怒りによって、踏み潰される葡萄となるであろう。借金を踏み倒したら、そのときは、戦乱か、人間の大量死が待ちかまえている。
(引用終わり)

最後に、私が上記文章を要約してみます。一面的ですが、ご容赦ください。

「『自分の夢や希望や願望とは全く関係ないところで、人間世界を外側から支配しているルールがあることを認める』。
神の意志から自然の法則へと内容の変化はあるが、西洋思想の歴史ではこの考え方が、旧約聖書の時代からぶれることなく一貫している。しかし、日本人にとりなかなか理解しがたい考え方のはずである。だから私が解説する。」
これが、副島先生が日本人にわかってもらおうとしている大きな事実だと考えます。

以上

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2001/01/31(Wed) 01:35
投稿者名:かたせ
タイトル:俳優クリント・イーストウッドは、アメリカ民衆の保守思想リバータリアニズムを体現している。そして、日本では?

「アメリカの秘密」(副島隆彦著、発行:メディアワークス、発売:主婦の友社、1998.07)から引用します。クリント・イーストウッド主演の映画「許されざる者」(1992)の解説の文章です。
まず、リバータリアニズムの総論説明です。35ページから。
(引用開始)
 アメリカ共和党の保守主義者の中から、「リバータリアニズム」という思想を掲げる人々が出現して、やがて三十年ほどになる。リバータリアンの主張は簡潔に言えば、「反過剰福祉・反税金・反官僚統制」である。リバータリアンは、「アメリカ連邦政府の政治家や官僚たちが、社会福祉を推進するという主張を口実に、我々市民から様々な名目で税金を取り立て、カネを巻き上げて自分たちで勝手に使い散らしているのだ」と考える。
 現代の官僚主義においては、官僚たちは自分を「福祉のための公務員」だと偽り、社会のニーズに応え、「福祉社会」を実現するために自分たちは存在するのだと半ば信じきり、その実、社会に取り付いて「自分たち公務員のための福祉」に没頭する。
 欧米では、現在、「公務員とは社会の寄生虫parasite(パラサイト)である」という理解が広まりつつある。「理屈はもうどうでもいいから、とにかく官僚はいなくなってくれ。大量の公務員を養うために、巨額の税金が自分たちに掛けられるのはもうゴメンだ」という真の民衆の保守思想が、ここから生まれた。
(引用終わり)

次に、クリント・イーストウッドとリバータリアニズムとの関係について。36ページから引用します。
(引用開始)
 クリント・イーストウッドは、一九七〇年代に映画『ダーティハリー』シリーズで、初期のリバータリアンとして華々しく登場した俳優である。大都市の悪人たちを、サンフランシスコ警察殺人課のハリー・キャラハン刑事(ダーティハリー)がマグナム44で撃ち殺す映画である。リベラル派の人権団体は「犯罪者の人権を守れ」と主張して、クリント・イーストウッドを激しく嫌った。しかし、今やアメリカの大衆は、あまりに社会に蔓延(はびこ)る凶悪犯罪者に対して、厳しい刑罰と制裁を加えるべきだと考えている。
 映画『許されざる者』では、暗闇の物陰に隠れてから傍観している町の人間たちに向かって、殺し屋ウィリアム・マーニーが放ったあの言葉がやはり圧巻である。
「お前たちが蔑(さげす)みながら、そのくせ必要悪として存在させている、この町の売春婦たちをもっと大切に人間として扱え」
 ここに、本物の保守思想がある。民衆の生活の汚らしい部分を含めた全場面を心から愛し、一切の偽善を拝し、ありのままの人間像をみつめようとする新しい思想の姿がここに浮かび上がって来る。ビル・クリントン大統領のような、ハンサムで好人物ぶった男の虚飾の仮面の皮を剥ぎ、その薄っぺらな思想や人生観をはっきり見抜いている本物のアメリカの中年オヤジたちの世界こそが、リバータリアン保守思想の世界なのである。
(引用終わり)

 アメリカのビル・クリントン大統領(民主党)が偽善者呼ばわりされています。なぜでしょう。実は、映画「許されざる者」では、それとわかる人物を保安官(その名もビル!)として登場させて、露骨に非難しているからです。政治映画の面目躍如。
 副島先生の解説から、非難の理由となる部分を引用してみましょう。34ページから。
(引用開始)
 本物の民衆が生きる世界には、売春婦もヤクザ者も詐欺師も生きている。それに対してリベラル派の人間たちが支配する社会では、「人間はみな平等」というスローガンのもとに、社会の表面から差別が消えて、差別なき差別が水面下に薄暗く広がるのである。
 保安官ビルは、確かに町の正義と治安のために尽くしていた。紛れもなく、現代アメリカの民主党政治家のような男である。彼らは人間を差別しないという政治思想に忠実で、現実に存在する実社会の様々な醜いものを、制度的に解決できると信じている。しかし、実際にはそんなことができるワケはないから、醜いものの表面を偽善的な正義の思想で覆い隠す。
 このリベラル派の思想は、日本にも広く蔓延している。「反戦平和、護憲、人権、平等、環境保護、海外派兵反対」を叫んでさえいれば、自分たちが正しいと思い込んでいるウスラ馬鹿たちである。さらに困ったことに、この者たちはそのような自分を、社会的には高学歴で知的で賢い人間であると思い込んでいるのである。現在ではさらに悪賢く、保守派のフリをする連中まで出てきた。こうしたリベラル派Liberalsは、アメリカにも山ほどいる。彼らは、本来の本物の古典的リベラリズム(=自由主義)とは、実は縁もゆかりもない人々なのである。
(引用終わり)

なお日本では、副島先生がリバータリアニズムを提唱されています。以下はその宣言です。
36ページから。
(引用開始)
 私は、目下、このリバータリアニズムを日本に紹介・導入するという任務を帯びている。
 私の考えでは、公務員の数は現在の五分の一にまで減らすべきである。日本はもちろん、どこの国も余計な公務員があまりにも多すぎる。私たちの周りにいる公務員たちの、あの自分たちの人権と福祉だけが実現された、あのふてくされてヒマそうな感じを見よ。あれが「社会の役に立ちたい」と考える公僕(パブリック・サーバント)を自ら志した人間たちの姿であろうか。この本の読者にもし公務員がいるとしたら、そのフザケきった職務内容を自ら恥じよ。「自分は民間企業のサラリーマンと同じぐらい懸命に働いている」という公務員がいたら、私と論争せよ。私は、日本にも山ほどいるリベラル派の偽善的な態度の一切を拒否している、この国で初めてのリバータリアンである。
(引用終わり)

以上

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2002/02/06(Wed) 22:04
投稿者名:ジーラ
タイトル:宇野正美講演会・傍聴記 「反ユダヤ伝道師」かく語りき

 宇野正美講演会・傍聴記
「反ユダヤ伝道師」かく語りき
副島隆彦(評論家)

 世にも恐ろしい「ユダヤの陰謀」を説く男は、
 ただの中年オヤジに見えたが……。
 軽妙な語り口がもつ「説得力」と話の中身を真正面から検証する

 7月20日(1995年)に、神田の日本教育会館・一ツ橋ホールで開かれた、宇野正美氏の「1996年 国家存亡の危機が来る」という講演会を聴きに行った。そうか。この人物が、H氏やA氏やY氏と並んで、「ユダヤによる世界支配の陰謀」を唱えて、日本の言論界の一角で、異様な気炎をはいてきた宇野正美氏か。私は視線を凝らして講演を待った。ふと横を見たら、近くに新右翼「一水会」の鈴木邦男氏の顔が見えたが、なんとなく挨拶しそびれてしまった。

「日本を支配する闇の秘密組織」の真実?

 宇野氏は丸々と太った、中年ハゲおやじふうの中堅企業の経営者然とした、ひとあたりの良い人だった。物腰の柔らかい、かつ軽快な語り口に、少し拍子抜けした。この人が「ユダヤの陰謀」という恐ろしいテーマをひっさげて,もう二十年も言論活動をやっている人なのか。もし本当に氏が「陰謀」なるものを暴いてしまった人だったら、とっくの昔に殺されていないのはなぜだろうという疑問が脳裏をかすめた。
 宇野氏ら陰謀評論家は、世界の一般民衆を操る支配階級の人びとの、さらにそのまたごく少数の限られた人びとの秘密クラブの存在を確信することから、自分たちの言論活動を開始する。彼らの言論は、日本の公共言論(大新聞、テレビ、大手雑誌)に登場する機会はきわめて少ない。そのチャンスはほとんどあたえられていないといってもよい。しかし、単行本の形でなら、どの書店の棚のなかにもたくさん見つけることができる。出版物としての表現の自由の機会は奪われていない。むしろ、一定の固定読者を抱えて、静かな人気がますます高まっている。
 宇野氏は、少し早口でしゃべるので、はじめは、少し聞きずらかった。集まった聴衆は40歳代から50歳代が目立ったが、彼らは宇野氏の講演会の常連らしく、場内に違和感はない。だからといって、なごやかに打ち解けあった雰囲気というのでもない。政治団体や宗教団体が主催する講演会とも違う。ひとり2000円也の入場料を払って、自分の考えを作るうえでの貴重な情報を入手して、ビジネス・商売・人生の役にたてよういう人びとの集まりである。800人収容のホールは9割方埋まっていたので、今どきの講演会としては成功している部類に属するのだろう。35万円払えば、出前・出張講演もするそうだ。
 陰謀評論家・宇野氏の講演がこのように盛況だということは、彼が時代の流れ、時流の波に乗っているということであって、この一点はけっしてあなどれない。ビジネスマンや企業経営者ふううの人びとを多く徴収として抱えているということは、そこに何かしらの真実が含まれていると考えないわけにはいかない。

 小気味よく語る宇野氏の推理にのめり込む聴衆

 丸々2時間の講演を聞かされる方には、それなりの笑いがほしい。「日本を支配する闇の秘密組織」の話だけでは、その場がもたない。宇野氏はすっかり場なれした話芸で、巧みに聴衆の息を抜いて笑いをさそってくれる。長野県出身だが、関西で育ったらしい。関西弁で、現在の日本経済が陥ってしまったバブル破裂後の困難な状況を、わかりやすく解説していく。体験談も適当に盛りこまれている。
 小学生の頃、終戦直後の買出し列車に乗り合わせて、警察のヤミ米狩りの「臨検」にあった。バッグのそこに祖父が詰めてくれた貴重な米袋を、警察の職務質問からうまい具合に守り抜き、米を没収されずに済んだエピソードを語って、私たちの笑いをさそった。この人には、「ユダヤの陰謀」を説く深刻さは、みじんも感じられない。私は軽い失望を覚えた。「ユダヤの秘密組織による、日本支配・制服の野望」という、およそ日常の言論のなかでは聞くことのできない、あるいは公言することが強く憚られる内容が、ここでならたっぷり聴けるぞと予測したのだが、それほどでもなかった。
「1990年にバブル経済が破裂したあとの5年間で、世界で、日本で、〇〇、〇〇の事件がありましたね。これは、〇〇が〇〇して、〇〇になったものでした。その背後に、世界を操る〇〇〇〇の存在があるのです」。要約するならば、宇野氏の話は、このスタイルに終始している。「〇〇という事実がありました。これは、皆さんもご存知のとおり〇〇〇〇だったのですが、これも実は〇〇〇〇がからんでいるのです」。
 この語り口調は、なかなか小気味よいのである。そうか、あの事件も、この事件も、やっぱり裏に秘密があったのか。自分もヘンだな、と思っていたんだ。聴衆は、宇野氏の推理いつしかのめり込んでいく。開場は静まり返って、みんな真剣に聴き入っている。いろんな厳しい人生経験を積んでそれなりの生き方をしてきたあとでも、人間はこの程度のホラ話に一気のめり込むことができるのである。

 宇野理論が人びと心を魅了する素地

「この1月17日の関西大地震は、人工地震の可能性が、1%はあります」
「3月のオウム事件は、地下鉄サリン事件は、北朝鮮が裏で糸を引いているのです」
「最近起きたソウルのデパートの倒壊事件。奇妙でしょ。ビルの中央部分だけが、一気に崩れ落ちるなんて。これは、低周波兵器でズーンと低周波をかけると、起こるのです」
 こういう与太話にまでは、私はつき合いきれない。私は「ユダヤによる世界支配の陰謀」など信じない。人種差別を煽って自分の見識を疑われるようなことは望まない。
 しかし、である。私は、「陰謀」の存在自体は否定しない。世の中に「陰謀」の類はたくさんあると思っている。日本の建設業界の官僚・政治家をまき込んだ各種の「大型談合」も陰謀(共同謀議)であるとえばそういえる。日本よりも何倍も規模が大きく、かつ、世界覇権国であるアメリカ合衆国の、政治・経済の実権を握っている支配層の人びとの間に、多くの「陰謀」があるのは当然のことだと思う。
 そして、1990年以来の、日本のバブル経済の崩壊によって深刻な不況に陥っている現状は、やはりニューヨークの金融界が、日本の経済膨張を抑え込むために陰に陽に仕組んで実行したものであると信じないわけにはいかない。薄々とだが、ビジネスマン層を中心にこのような話は語られ広まっている。
 私の友人のなかに銀行員が何人かいる。昔、いっしょに『ニューヨーク・タイムズ』紙の早朝読み合わせ会という勉強会をやっていた友人のひとりは、ニューヨーク駐在勤務から帰ってきた後に、私にははっきりと語ってくれた。
「ニューヨークの金融センターは、ユダヤ系の人びとに牛耳られており、彼らの意思に逆らうと商売ができない恐ろしいところだ」
 彼は、宇野理論のような直接的なユダヤ陰謀論は説かないが、そのような傾向が存在することを信じている。株式の大暴落を引き起こし、ついで地価の下落、そして円高による波状攻撃で日本の大企業の力を弱体化させ、日本国民の金融資産の3分の1は、ニューヨークで解けて流れて、消失してしまった。日本の資産の運用先の大半は、その金利の高さゆえに、アメリカの政府債(TB、トレジャリー・ビル)や社債で運用されてきたからである。それが、円高で元金の方がやられてしまった。
 偉そうに日本経済の先行きを強気で予測していたタレント経済学者や官庁エコノミストや、経済評論家たちの信用はガタ落ちになった。本人たちがいくら居直って、過去の言動を隠そうとしても、自分の財産を吹き飛ばされた人びとはもう彼らの言うことなど信じない。それではこんな時、誰を信じたらいいのか。ここに宇野正美氏のような人物の、実に
わかりやすい世界経済の動きについての意思的分析が、人びとの心を魅了する素地が生まれる。理論経済学の基礎知識も怪しい宇野氏の経済予測で「この先、日本経済は、もっともっと悪くなりますよ」と聞かされて、人びとは身構えるようにして聴き入るのである。

 宇野氏が”ユダヤと闘って”見えてきたもの

 この三年ほどで、宇野氏の考えは二つの点で大きく変化している。かつて文芸春秋系のネスコ社から出していた本では、単純素朴な、ユダヤの秘密組織による日本征服説が説かれていた。これは、若い頃からの氏の聖書研究と愛国感情が混じり合った産物だった。最近は、「ユダヤ人には、アシュケナージ・ユダヤ人というニセものがおり、スファラディ・ユダヤ人という本物のユダヤ大衆を抑圧するためにイスラエルを建国したのだ。そしてこのイスラエル建国主義者たちがシオニストであり、国際陰謀をめぐらす諸悪の根源である」という考え方をしている。
 かつての論調ではフリーメーソン、ビルダーバーグ、イルミナティ、TC(米欧日三極会議)、CFR(外交問題評議会)などの秘密結社や国際機関と、ユダヤ人の秘密結社との関係がどうなっているのかはっきりしなかった。ところが、今回の講演では、「ザ・クラブ・オブ・アイルズ」というヨーロッパの旧来の王侯貴族達の裏結社が、これらすべての秘密クラブの上に君臨し、序列を作りそのずっと下の方で使われているのがユダヤ人たちである、という簡単な理論になっていた。この論旨は、今回読んだ『ユダヤと闘って世界が見えた-白人支配の崩壊と「二つのユダヤ人」』(宇野正美著、1983年、カッパ・ビジネス)でも確認できる。
 日本は、マスコミ(メディア)の情報統制の厳しい国である。私たちは、日頃、日本は表現の自由が完備している自由主義国だと信じているが、けっしてそのようなことはない。日本の大メディア(大新聞、大出版社、テレビ局)は、国民生活にとって本当に大切なことは報道しない。たとえば、今度の40兆円とも100兆円ともいわれている不良債権の問題でも、誰に責任があり、どのようにコソコソと処理してしまおうとしているのか、「お上」にとって都合の悪い記事は、どこでも突っ込んでは書かないのである。大企業も自分たちのスキャンダルを必死でおおい隠すので、「社会の番犬」としてのジャーナリズムの出る幕は限られる。記者クラブ制度という「談合」組織とサラリーマン化した記者たちがほとんどの情報を自分たちでいいように握りつぶし合っている。このような息苦しい雰囲気にあっては、宇野氏のような陰謀理論家たちの、規制の枠を踏みはずした野武士のような行動が、頼もしく見えないはずがない。
 文芸春秋が、95年2月に「マルコポーロ廃刊事件」を起こした。ナチスのホロコースト・毒ガスによる大量ユダヤ人虐殺に疑義を提起した記事掲載に対して、サイモン・ビーゼンソール・センターとうユダヤ人の「ナチス・ハンター」の人種差別監視団体からの抗議で、あっという間に腰砕けになって全面謝罪し、雑誌そのものを廃刊してしまったという驚くべき事態が生じた。
 その後も文芸春秋は、坊主ザンゲの「研修会」を受けさせられたりしているというが、この事実は、宇野氏の主宰・発行する情報誌『エノク』三月号(144号)でも報告されている。ちなみに、この『エノク』はかつて、なぜか知らないが、私の家にも勝手に送られてきた時期がる。サイモン・ビーゼンソール・センターのやり口はやはり批判されるべきだった。言論に対して言論で応じずに、いきなり、フォルクスワーゲン社やフォード社の役員会議に通報して、そこから文春に対する広告の停止という圧力をかける手段に出たのである。何十社ものアメリカの大企業(およびその日本法人)にその動きが連動し、広告停止の圧力を受けて文春の経営陣がおびえあがらなかったはずがない。このようなうやり方は、「陰謀」があろうがなかろうが、許すべからざる所業である。文春の屈服ぶりも見事なものだったが、圧力をかけた側のユダヤ人人権組織の人々の高圧的な態度は、日本人の識者の大方の重低音の怒りを十分に買っただろう。
 ADL(アンタイ・デファメーション・リーグ、名誉毀損防止同盟)やブナイ・ブリスなどの同種のユダヤ人権組織のアメリカ本国での「反差別糾弾」のやり方を今回実体験し、あるいは目の当たりにして、「陰謀」があろうがなかろうが、日本人はかなり賢くなったことだけは確かである。
 以下では、宇野氏の陰謀理論から、その荒唐無稽な部分を取り去り、なるべく事実の部分だけを拾いあげて、私なりの謎解きをやってみよう。

 宇野「陰謀理論」の誤り

 フリーメーソンやイルミナティなどの秘密結社の存在はさておくとして、TC(トライラテラル・コミッション、米欧日三極会議)は公然と存在する。現在の議長はポール・ボルガ-前FRB(連邦準備制度理事会)議長である。日本人の政財界人たちの委員の名前もなかば公にされている。渡辺武(大蔵官僚、IMF・世界銀行理事会等を歴任した人)や大来三武郎氏(官庁エコノミスト、元外相)、宮沢喜一氏など親日派の人々である。CFR(カウンシル・オン・フォーイン・アフェアーズ、外交問題評議会)も、WJC(ワールド・ジューイッシュ・コングレス、世界ユダヤ人会議)も、アメリカの有力団体として存在する。日本の保守党大分裂・新党運動を始めた小沢一郎氏などは訪米すれば必ず、CFRに出向いて会談する。ちなみにアメリカの政財界・言論界は、1993年に日本の自由民主党を見捨てた。要するに、日本が業界利権の官僚統制をやめて欧米並みの規制緩和を行わないと許さないと決断して、「もう自民党を放置しない」として以来、小沢びいきである。
 「世界ユダヤ人会議」の現在の議長は、エドガー・ブロンフマン氏である。この人の息子で同名の人物が,最近、松下電産が、映画監督のスティーブン=スピルバーグ(同じくユダヤ人)らの叛乱にほとほと手を焼いた末に、泣きついてMCA(ユニヴァーサル映画)の株を売却した相手である。酒造メーカーのシーグラム社の社長で、強硬なイスラエル支援を行う有力財界人のひとりである。副議長は『ワシントン・ポスト』紙社主のキャサリン・グラハム女史である。松下をブロンフマンに紹介したのは、CFRの議長を務め、ブラックストーン・グループという大企業の合併・買収(マージャー・アンド・アクイジッション)を取りしきる金融法人の会長であるピーター・ピーターソンだった。これらのニューヨークの財界人の総帥は、やはり、デイビット・ロックフェラー氏であることは誰もが認めることである。その他、アメリカの政財界内部抗争等については、拙著『現代アメリカ政治思想の大研究』(筑摩書房)を参照いただければ、幸いである。
 宇野氏の主張の誤りは、同じユダヤ系の人びとであっても、グローバリスト(アメリカの力で、世界の金融および政治の秩序を守っていくべきだとする人びと)と、ザイオニスト(Zionist・シオニスト、イスラエル建国・支援主義者)とでは思想が異なるという事実を混同している点である。宇野氏はグローバリスト(世界管理主義者)の財界人たちを全てザイオニストが悪玉で、貧しいユダヤ大衆はそれに抑圧されてる善玉のかわいそうな人々だ,という理論にすり替わっているところがおかしい。グローバリストのユダヤ財界の人びとの多くは、イスラエルとパレスチナの平和共存策を支持して、歴史的和解を唱えている。
 宇野氏の見解は、氏がアメリカのメディアから「日本の反ユダヤ主義者たち」としてヤリ玉に上げられて孤立していた時期に、反ザイオニズムのユダヤ人の政治運動家たちから支援の申し出を受けて、彼らと手を結び団結し、彼らから情報を得られるようになったことによってとるようになった新しい立場である。
 この新版・宇野理論は、「アシュケナージ・ユダヤ人=ニセ者ユダヤ人=改宗カザール人」説を採用している。8世紀頃、中央アジアにカザール王国があったことは、世界の歴史学者たちが認めている。そしてカザール国の国教がユダヤ教であり、周辺国に猛烈に布教していた。この国が12世紀にイスラムに滅ぼされ、東欧のロシア、ポーランド、ドイツ国境あたりに多く移り住むようになった。これが現在、私たちがヨーロッパ系ユダヤ人として典型的に思い描く人びとである。
 たとえばそれは、森繁久彌氏のロングラン・ミュージカル『屋根裏のヴァイオリン弾き』に描かれる、迫害されながらも気高く生きる人々によくあらわされている。このアシュケナージ・ユダヤ人を宇野氏はとにかく悪者に仕立て上げ「彼らはユダヤ人ではない、カザール人だ」という理屈で攻撃し、それに対して、もともとアラブにいた(?)スファディ・ユダヤ人たちが本物のユダヤ人だと主張する。そして、アシュケナージ・ユダヤ人がザイオニストとなってイスラエルを建国し、スファラディ・ユダヤ人たちを支配して抑圧している、と主張するのである。ここまでくると、もともとの「ユダヤ陰謀説」はどうなってしまったのだろうか、といささか心配になってくる。ジュダイズム(Judaism・ユダヤ思想)は、世界中のいろいろな人種が信じたであろうし、ユダヤ人という人種がそもそもどのような人種であるのか、歴史学、人類学、考古学上でもいまだにはっきりしないのである。もしかしたらユダヤ人とうのは、人種ではないのかもしれない。突き詰めれば、ジュダイズムを信じる人びとが、すなわちユダヤ人なのである。宇野理論は、それを「二つのユダヤ人」にまとめることによって、自分の思想の核心点にまでしてしまっている。それらの個々の現象と理論のつじつまが合わなくなったり、かつ事実証明ができなくなると、いきなり『旧約聖書』の記述のなかに根拠を求めようとする。若い頃に聖書研究家として出発した人であれば、事故の信仰による確信もあるのだろうから、余人がとやかく言うことではないが、できることならば、これらの宇野「陰謀」理論を克服して、もっと事実証明力のある陰謀理論にしてほしい・そうなれば、評論家やジャーナリストたちに騙されて怒っているビジネスマンたちの共感をもっと集めるだろう。
 ただその場合でも、聖書研究から始まった経済分析の手法と、日本愛国主義の感情がどこで、どうつながっているのか、が私には理解できない。『ニューヨーク・タイムズ』紙などの記者たちからの悪意のインタヴューをこれまでに多く受けて、悪口や曲解記事を書かれたことを好評しながら、同時に宇野氏は「日本人に受けるように話すには、自分が信じていないことでもそれらしくおもしろく説くのである」というようなことまで外国人記者にしゃべっている。もし、これが宇野氏の真意であるなら、その話芸巧みなパフォーマンス化した伝道者としての姿は、氏の嫌うアメリカのテレヴァンゲリスト(テレビ伝道師として有名なサザン・バプチスト系の説教師たち)と少しも変わりないことになる。

『別冊宝島223 陰謀がいっぱい!
―世界にはびこる「ここだけの話」の正体―』
p112-p119
(1995年 宝島社)

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2003/08/30(Sat) 02:48
投稿者名:金の子守熊(no2145)
タイトル:フランシスフクヤマ『歴史の終り』を読む(1)

金の子守熊(no2145)です。副島隆彦著「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」(講談社+α文庫1999年3月)から、フランシス・フクヤマに関する記述を転載します。(109p~113p)
(転載開始)
 フクヤマ 「歴史の終わり」の衝撃

 次にフランシス・フクヤマFrancis Fukuyamaについて述べる。1989年に「歴史の終り?」“The End of History?”という評論文を表①のネオ・コン派の「ナショナル・インタレスト」誌に書いて一躍有名になったのが、日系人知識人フランシス・フクヤマである.現在彼は、カリフォルニア州サンタモニカにあるランド研究所
RAND Corporationに籍を置いて主任研究員をやっている。以前は国務省の政策企画部次長をしていた。
(中 略)
 フランシス・フクヤマはソビエト研究が専門で、ハーヴァード大で博士号Ph.Dを取った人だが、ギリシア古典政治哲学のプラトンやアリストテレス研究の政治哲学者(ポリティカル・フィロソフィアー)であるアラン・ブルームの弟子である.そして更にそのアラン・ブルームの先生が、これまで何度も言及した政治哲学界の大御所、レオ・シュトラウスである.レオ・シュトラウスはアリストテレス研究という古典学問の背景を持つ強固な保守主義者である。
(中 略)
 フランシス・フクヤマの著作「歴史の終り」The End of History and The Last Man(1992年、渡部昇一訳三笠書房刊)は、へーゲリアン・モデルによる人類史の精神史的な全体スケッチである。この優れた本の中でフクヤマは自分の、レオ・シュトラウス派としての信念表明を行った上で、更に「この地上の全ての国家が、結局最後には、アメリカ型のリベラル・デモクラシーに到達するのだ.それで人類の歴史はひとまず終わるのだ」という挑戦的な世界モデルを提示した.アメリカ知識人の間で大きな話題となった.この「歴史の終り」には世界の終末についての重要な問題提起がいくつかあるが、ここではこれ以上は触れられない.ところで、この論文が先の表の①のネオコン派の重鎮のアーヴング・クリストルの「ナショナル・インタレスト」誌に掲載されたということに、極めて重要な意味が含まれている.
 この本の訳書は渡部昇一氏の正確な監訳で92年に出たので、日本でも読むべき人は読んでショックを受けている.この本を読んだ人は、ヨーロッパ政治思想とアメリカ現代思想の共通土壌を改めて知っただろう.ついでに世界の大きさ・広さと日本の国内知識人の劣勢を自覚し、自分たちが世界の思想水準からどれほど遅れているかということに少しは気づいたのではないか.ニュージャーナリズム系の大御所文芸評論家トム・ウルフTom Wolfがこの本の書評文を書いて絶賛したりした。
 フクヤマが、カント、ヘーゲル、ニーチェ、マルクスなどドイツ系の哲学を連続的に鮮やかに叙述したことが、そもそもアメリカ人知識層にとっては驚きであった.アメリカではドイツ観念論哲学系は、ドイツ人家系のへそ曲りで偏屈な、老人大学教授がやるものだという一般的な印象がある.日本人はドイツ観念論哲学なら読み込みに年季と自信を持っているし、福山はもちろんホッブスやロックやスピノザについても論じているから、この「歴史の終り」をドイツ、フランス系と英米アングロサクソン系の近代政治思想の交流・融合の場として読むと、極めておもしろい。
 ちなみに、このレオ・シュトラウスのフランスの親友が、アレクサンドル・コジューヴAkexandre Kojeveである。彼は、1930ー50年代のヨーロッパ最大のヘーゲル・コメンテーター(ヘーゲル哲学解釈者)である。コジューヴはパリ実業高等研究院Ecole Pratique des Hautes Etudes de Parisで哲学教授を務めた人で、後には、EU(ヨーロッパ統合)運動の推進役としての役人になった。コジューヴこそは、戦後ヨーロッパ最大の知識人だったのではないか.彼の講義を受けて影響を受けたのがレイモン・クノーRaymond Queneau、ジャック・ラカンJaques Lacan、ジョルジュ・バタイユGeorges Bataille、レイモン・アロンRaymond Aron、エリック・ヴェイユEric Weil、モーリス・メルロ・ポンティMaurice Merleau-Ponty、ミシェル・フーコーMichel Foucaultであり、彼らが後に「フランス構造主義」哲学を作ったのである。

 国際政治の”リアリスト”たち

 フクヤマは、実際上ネオ・コン派に加担しているくせに、この国際政治におけるいわゆる“リアリスト“Realist(現実主義者)と、自分の対立線も明らかにしている.ハンス・ヨアヒム・モーゲンソーHans Joachim Morgenthau(1904-80)こそは、アメリカのリアリズム国際政治学を築いた人物だ。

(転載終り)
 金の子守熊です。次に「歴史の終り?」“The End of History?”についてフクヤマ自身が要約している部分を転載する。

(転載開始)
 本書(注:The End of History and The Last Manのこと)執筆のきっかけは、私が「ナショナルインタレスト」誌に書いた「歴史の終り」(”The End of History?”)という題の論文である。その中で私は、一つの統治システムとしてのリベラルな民主主義の正当性をめぐって、ここ数年にわたり世界中で注目すべきコンセンサスが現れている、と論じた.それはリベラルな民主主義が伝統的な君主制やファシズム、あるいは最近では共産主義のような敵対するイデオロギーを打ち破ってしまったからだ、と.だが、それ以上に私は、リベラルな民主主義が「人類のイデオロギー上のシンポの終点」及び「人類の統治の最後の形」になるのかもしれないし、リベラルな民主主義それ自体がすでに「歴史の終り」なのだ、と主張したのである.つまり、それ以前の様々な統治携帯には、結局は崩壊せざるを得ない欠陥や不合理性があったのに対して、リベラルな民主主義には、おそらくそのような抜本的な内部矛盾がなかったのだ.
 もちろん私は、アメリカやフランス、スイスのような今日の安定した民主主義諸国には不正や深刻な社会問題がなかったというつもりではない.けれどもこうした問題は、近代の民主主義の土台となる自由・平等という「双子の原理」そのものの欠陥でなく、むしろその原理を完全に実行できていないところに生じたものなのだ.現代の国々のいくつかは、安定したリベラルな民主主義を達成できないかもしれない.中には神権政治や軍事独裁制のような、もっと原始的な支配形態に後戻りしかねない国もあるだろう.だが、リベラルな民主主義の「理念」は、これ以上改善の余地がないほど申し分のないものなのである。
(以上「歴史の終り・上巻」はじめに13p~14p 三笠書房1992年)

(転載終り)
 金の子守熊です。また同じことをフクヤマはこうも書いている。

(転載開始)
 『歴史の終り』で、私が論じたのは、こういうことだった。ヘーゲルは、「歴史は1806年に終わった』と言ったが、これは正しい.1806年、イエナの戦いにナポレオンが勝ったとき、ヘーゲルは自由主義の原理が統合されたのを目の当たりにした.革命の原理を越える政治的進歩は本質的に起こらなかった。1898年共産主義の崩壊は、全世界がリベラル民主主義に向けさらに収束するという大団円を知らせたに過ぎない。
(以上『人間の終り』はじめにから ダイヤモンド社2002年)

(転載終り)
金の子守熊です。他の掲示板で、フクヤマの「歴史の終り」に対する評価をきっかけに活発な議論がなされている。彼らの、フクヤマの著作を引用せず、自らの記憶だけで議論を展開しているのを見ると、彼らの知力に感心しながらも、フクヤマの著作をじっくり読み、その主張を吟味してみたいという思いが強くなってきた。お釈迦様ではないが、結局はフクヤマの手の中で踊っているのではないか?
そこで、自分の非才ゆえ、時間がかかるかもしれないが、これから「歴史の終り」をはじめとするフクヤマの著作を吟味し、小文にまとめていきたいと思う。

以上 金の子守熊 拝

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/27 01:12

【102】文書の倉庫 (0)アメリカ政治思想・アメリカ政治分析 転載貼り付け1

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 今年の「副島隆彦の学問道場」リニューアル後に行けなくなったと思ってい「文書の倉庫」を発見、全部残っていた。1人の会員として書くが、一体ここの閲覧管理はどうなっている? 幽霊掲示板群と同じく入り口を表示させるつもりもないだろうから、優れて貴重な文章が無くなる前に転載貼り付けして、転載掲示板に保存しておくことにする。同じ学問道場内なので問題ないでしょう。

 それでは「文書の倉庫」から転載貼り付け致します。各個人掲載のEメールアドレス及びURLは省きます。

 

 文書の倉庫 (0)アメリカ政治思想・アメリカ政治分析
http://www.soejima.to/souko/text_data/wforum.cgi?room=0

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/06/05(Mon) 01:59
投稿者名:荒木章文
タイトル:-列強政治(Powers politics)とは「社会的事実」であり「疎外」である。-

-列強政治(Powers politics)とは「社会的事実」であり「疎外」である。-
SNSI研究員
荒木章文

「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」の中、ハンス・ヨアヒム・モーゲンソー(Hans joachim mogenthau1904~80)の記述がる。
ハンス・ヨアヒム・モーゲンソー(Hans joachim mogenthau1904~80)はアメリカの「リアリズム国際政治学」を築いた人物である。
では、この「リアリズム国際政治学」とは何なんだろうか?
それは次のように説明されている。

「ある国の国内問題のゴタゴタの内容がどのようなものであれ、そのことと国際政治は無関係だ。それらの国内問題とは無関係にその国の国家的運命は周りの国々、とりわけ強大な国との関係によって決定される。」
(世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち 副島隆彦著 講談社α文庫 p.114)

冷戦下の現実の政治においては
「小国と普通の国の運命は、アメリカ・ソビエトという覇権国どうしの国際的な覇権抗争の中で決定されていく。」
(世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち 副島隆彦著 講談社α文庫 p.114)

という訳である。
モーゲンソーのこの理論は「超大国均衡理論」と呼ばれている。
この「超大国均衡理論」とは、単純に言えば“列強政治(Powers politics)が超大国アメリカ・ソビエトに2極化した版”と言い換える事ができる。
それでは、この列強政治(Powers politics)とは何なんだろう?
整理していくことにする。
国際政治の世界において、全ての国々は、列強(Powers)とそれ以外の国に二分法的に分類される。
つまり、超大国アメリカ・ソビエトとそれ以外の普通の国・小国に分類される。
それではこの列強(Powers)の政治の特徴とは何なのか?

① 国際政治に発言力を有するのは、列強(Powers)に限られ、それ以外の国が口を挟む余地は無い。
列強(Powers)は合従連衡を繰り返すが一度、列強(Powers)の意志が一致すれば、すべての国がこれに従わなければならない。
② 列強政治(Powers politics)とは、列強(Powers)が相互に連関しあう(interdependent)政治という事である。列強諸国(Powers)はお互いに他の全ての諸国と連関しあっている。それゆえ一国だけが勝手に動くということはできない相談なのである。
(社会主義大国日本の崩壊 小室直樹著 青春出版社 p.7)
(世紀末戦争の構造 小室直樹著 徳間文庫教養シリーズ p.133)

以上の2点つまり、列強政治(Powers Politics)とは列強(Powers)のみの意志によって国際政治が動かされる。
しかし、だからと言って列強(Power)一国の自由意志によって勝手に動くことはできない。
何故なら、列強(Powers)の間には相互連関関係があるからである。

この国際政治における、列強政治(Powers politics)と普通の国・小国の関係はデュルケムの言うところの「社会的事実」と「個人の行動」の関係と同型である。
またマルクスの言うところの「自然発生的分業」と「生産活動を行う生きた緒個人」との関係と同型である。
つまり「疎外」である。
それではこの「社会的事実」と「疎外」について順次説明していく事にする。
まず、「社会的事実」とは何なのか?
これについて2つの特徴が挙げられる。

①「社会的事実」とは個人の外にあって、個人がどうしようもないもの。個人にとって所与のもの。
「社会的事実」の例としては、未開社会(あるいは前近代社会)における慣習。
かかる社会における個人とは、慣習とは、当然そこにある所与のものとしかみてません。個人の力で慣習を動かすなんて考えてもみないでしょう。個人の行動で動かす事はできません。
②「社会的事実」によって、個人の行動が決定される。「社会的事実」が変われば(違えば)、個人の行動も変わる(違う)。
(国民のための戦争と平和の法 小室直樹・色摩力夫著 総合法令 p.221)

つまり、未開社会(あるいは前近代社会)の例では、慣習はそこに存在する所与の条件であり、それによって個人は行動を規定されているのである。

次にマルクスの言うところの「疎外」とは何か?について説明していく事にする。
この「疎外」いう現象は、自然発生的分業において起きている。
ではこの「自然発生的分業」とは何か?

自然発生的分業とは、その分業と共働の仕方が計画的でなく、偶然的なこととして行われるという事を意味している。
つまり、それぞれの人間緒個人が特定の生産部門ないし職業部門に携わる場合に、なんらか社会全体として計画がありそれによって、意識的にそれぞれの部門に割り当てられるというのではなくて、ただ偶然的に、いわば与えられたものとして受け入れるというような仕方で、その分業関係の中に入り込み、そしてその上で、こんどはそれを推進していくことになるようなそういう社会的分業。
(社会科学の方法 大塚久雄著 岩波新書 p.13)

このような自然発生的分業関係において、生産に携わる生きた緒個人は「疎外」されている。
ではこの「疎外」は自然発生的分業関係の中でどのような状態の事を指しているのか?

ほんらい、人間緒個人の力の総和にほかならない社会の生産力が、そしてその成果たる生産物が、人間自身からまるで独立してしまって、その全体を見渡すことができず、また人間の力ではすぐさまどうすることもできないような動き、そういう客観的な過程と化してしまう。
つまり、経済現象というものは、ほんらいは人間緒個人の営みであり、その成果であるにもかかわらずそれが人間緒個人に対立し、自然と同じように、それ自体頑強に貫徹する法則性をそなえた客観的な運動として現れてくる。
(社会科学の方法 大塚久雄著 岩波新書 p.15)

これらの「国際政治」「社会的事実」「疎外」を整理すると、以下のようになる。

———国際政治—デュルケム—マルクス
全体—列強政治—社会的事実—自然発生的分業
部分—普通の国—個人の行動—生きた緒個人
小国

つまり、これらの関係は部分は各々相互依存している。
しかし部分の行動は、全体を所与として受入れ、全体によって決定される。
という事である。

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/06/22(Thu) 23:05
投稿者名:荒木章文
タイトル:仮面を被った帝国主義-1

仮面を被った帝国主義
SNSI研究員
荒木 章文

レーニンの帝国主義論、旧ソビエトが崩壊以後これ程読まれなくなったものもないだろう。
古本屋に行けば二束三文の値段で平詰みされている。
しかし、この論理は正に現代の世界を表現しているのではないか?
私は特に、思想的に共産主義に近い訳ではない。むしろ最も遠いところに位置する。
ここで何故「レーニンの帝国主義論」なのか?という疑問が湧いてくる。
それは以下に述べていくことになるのだが、この理論が現実の世界を説明するのにちょうど適当であるからである。
ではこの「レーニンの帝国主義論」の要旨を以下に引用していくことにする。
と言っても、そのままの引用ではない、小室直樹博士の要約による。

資本主義最後の発展段階たる帝国主義においては、金融資本の独裁が成立する。国家の意思決定も金融資本の意のままだ。最後の発展段階にいたるほど成熟しきった、資本主義諸国においては、資本蓄積は膨大となり、利潤率(利益率)は低下する。これ、先進資本主義諸国共通の現象である。
他方、後進諸国においては、まだ資本蓄積は乏しく、まだ利潤立(利益率)は高い。先進資本主義諸国の資本は、ここに目をつける。高利潤を求めて資本は、後進国へと出かけていく。先進国(帝国主義国)から後進国へ資本は輸出される。
ところで後進国の治安は乱れやすく、企業活動の安全は保障されにくい。これは困るから、帝国主義国は後進国を征服して植民地とし、自分の武力をもって治安を維持し、企業活動の安全を保障し、もって高利潤を享受しようとする。
これ新帝国主義時代における植民地の効用である。
帝国主義諸国の植民地獲得の動機は、いまや経済的なものとなった。植民地へ資本を輸出して高利潤を稼ぎまくるというのだ。
(国民のための経済原論 Ⅱアメリカ併合編 小室直樹著 光文社 P.85)

さてここで上記のテキストを元に、考えていくことにする。
帝国主義の言葉をグローバリズム、つまり「帝国主義者=グローバリスト」と置き換えてみる。
さらに
1.「先進国(帝国主義国)=世界覇権国」
2.「後進国(植民地)=属国」
と置き換えてみる。
するとこの構図は正に副島氏の主張する、現代の世界の構図と同型であることがわかる。
ただ現代は、high politics(軍事力)を前面にしていた時代からlow politics(経済力)に重点をおいた時代に変わっている。ということに過ぎない。
しかし、それでも最終的にそのlow politics(経済力)を担保する力はhigh politics(軍事力)であるのが現実の世界なのである。
小室直樹博士の「仮面を被った共産主義=日本」のならいで言えば
「仮面を被った帝国主義」の世界が現実の世界なのである。
以前として仮面をかぶった帝国主義時代は終わりを告げていないのである。
しかしここで一つ注意しなければならないのは、「先進国から後進国へ資本は輸出される。」という記述である。
これについては、一般的にはそう言えるがここを
1.「先進国=アメリカ(覇権国)」
2.「後進国=日本(属国)」
の場合を考えると多少事情が変わってくる。
何故なら、日本という国家はアメリカ国債(資本)を大量に買わされているからである。
日本が先進国であるが故に、資本を後進国であるアメリカに輸出しているのではない。
日本は属国であるが故に、政治的に金融政策をコントロールされてアメリカと日本の間に4%のカントリーリスクを超える金利が設定されている訳である。
(これについては、日本の危機の本質 副島隆彦著 講談社 p.117に詳しく説明されている)

ともかく以前として世界は「仮面を被った帝国主義」の世界なのである。
さて、それでは「国家の意思決定も金融資本の意のままだ。」という部分については現実の世界はどういう構造になっているのだろうか?
アメリカの政党特に民主党についての副島氏は以下のように説明している。

アメリカの民主党は労働者や貧しい人々の支持する政党である。ところが事実を見極めてゆくと、民主党の政治家達に影響を与え選挙資金を提供しているのはロックフェラー財閥を中心にしたニューヨークのユダヤ系の財界人たちである。民主党という大政党が、労働者から集めた献金で成り立っている訳ではない。ニューヨークの財界人たちは決して共和党員ではなく、むしろ民主党員なのだ。
(世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち 副島隆彦著 講談社α文庫 p.269)

民主党系の政財界人は世界各国に金融資産を持っている。この勢力の人々が多国籍企業(マルチ・ナショナルズ)として国際的なビジネスを行い、世界に分散して保有している自分達の金融資産と、石油やウラニウムやその他の鉱物資源の利権を守ためにこそ、アメリカの軍隊を外国に駐留させ、いざというときに使うのである。この立場をグローバリズム(globalism)と言い、こういう考え方を持つ人々をグローバリストというのだ。
(逆襲する「日本経済」 副島隆彦著 祥伝社 P.223)

つまり話しとしては、資産を持っている財閥にとって、資産を一個所に持っていることは危険である。
そこで危険の分散の発想から、世界各地に自分の資産を分散させている。
またもう一つの発想つまり、利潤率低下の発想から世界各地に自分の資産を分散させている。
この世界各地に分散させた、自分の資産を守らなければならない。
その為には、何らかの担保が必要である。
それが、アメリカの軍事力である。

このことに関して「アメリカの経済支配者たち 」集英社新書の中で広瀬隆氏は具体的に記述している。
ロックフェラー家はどういう形で今日の資産を形成してきたのか?
1. スタンダード石油財閥としての資産形成
2. シティバンクとチェースマンハッタン銀行をスタンダード・バンクとする金融事業による資産形成
があげられる。

ここで予め断っておかなければならない事がある。
私は「ユダヤ陰謀論」(コンスピラシー・シオリー)をここで展開するものではない。
という事である。これは副島氏も名言しているように、ユダヤ人の陰謀というものは存在しない。
何故なら、彼らの内部での対立が存在しているようであるから。である。
私の理解では、遺産相続人(財閥・富豪)による金融・産業界の支配しようという圧力が存在する。
それが、「アメリカを中心としたグローバリズム」なのか「ヨーロッパを中心としたグローバリズム」なのかの違いに過ぎない
そしてその遺産相続人(財閥・富豪)が結果としてみた時「ユダヤ人」と呼ばれる人々であったという事である。
つまり、「世界を支配・管理・統制しよう」という行動様式は、ユダヤ人だからとる行動様式なのではない。
という事である。
これを動かすのは、資産を形成し維持していく「遺産相続人」としての行動様式なのである。
そしてたまたま、その遺産相続人がユダヤ人であった。

それでは具体的に、金融資産を持つグループがアメリカの政治とどのように関係しているのか?の記述を広瀬氏の記述から引用することとする。

スタンダード石油が生み出した富は、ロックフェラー一族の資産だけではなかった。
ロックフェラーと手を組んだスタンダード石油幹部の内、ヘンリー・ペインは1880年と84年に民主党大統領選に出馬し、息子オリヴァー・ペインはスタンダード石油トラストを動かす本部で監査役となったあと、ニューヨークで利権を拡張し、もう一つの巨大トラストであるアメリカン・タバコの独占利権者10人のうちに数えられた。
(アメリカの経済支配者たち 広瀬隆著 集英社新書 p.93)

次男のネルソン・ロックフェラーだけは、ロックフェラー家のなかにあってなぜか長年、共和党員だった。ネルソンは戦後、長いことニューヨーク州知事をつとめた後、74年にニクソン失脚の跡を継いだフォード政権の副大統領となった。
(世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち 副島隆彦著 講談社α文庫 p.258)

スタンダード石油創業時代からの幹部チャールズ・プラットの孫娘は、モービル重役となったクリスチャン・ハーターと結婚し、ハーターが1959年から61年まで共和党のアイゼンハワー政権の国務長官となって米ソ冷戦時代に全世界の外交を動かした。
(アメリカの経済支配者たち 広瀬隆著 集英社新書 p.94)

初代D・ロックフェラーの孫ネルソン・ロックフェラーが共和党のフォード政権で副大統領となり、
その弟ウィンスロップJrが99年現在アーカンソー州副知事となっている。
この州のロックフェラー家は共和党員だが、一方で、ネルソンの弟デヴィト・ロクフェラーが資金を提供する民主党では、ビル・クリントンをアーカンソー州知事としてから、ホワイト・ハウスに送り込み、
ウエスト・ヴァージニヤ州知事となったジョン・D・ロックフェラー4世は、民主党のカーター大統領の時代に、ホワイト・ハウスで数々の委員甲会を主宰した。
(アメリカの経済支配者たち 広瀬隆著 集英社新書 p.94)

こうした両政党にまたがる政治活動は、ロックフェラー・ファミリーと呼ばれる人脈において枚挙にいとまがない。
とりわけスタンダード石油カリフォルニヤ(現シェヴロン)重役のカーラ・ヒルズが、ブッシュ政権時代に日本経済界に不当な圧力をかけた通商代表であった。
ブッシュ本人は、テキサス州でロックフェラー財閥に利権を売っていた石油採掘業者であり、
ネルソン・ロックフェラー副大統領によって中央情報局(CIA)長官から大統領に栄進したからである。
レーガン政権の大統領顧問をつとめたエドウィン・ミーズと労働長官ウイリアム・ブロックもエクソンの大株主であった。
(アメリカの経済支配者たち 広瀬隆著 集英社新書 p.94)

今回は特に、ロックフェラー財閥という遺産相続人に焦点を絞って事例を挙げてきた。
そしてここにおいてもう一つ大切な観点がある。
それは、「CIA」と「シンクタンク」と「遺産相続人」の関係である。
また、「財務長官」と「投資銀行」と「遺産相続人」の関係である。
これを、広瀬氏は「アメリカの経済支配者たち」の中でこう述べている。

日本の金融界は、アメリカに動かされてきた。
…中略…
大きな力を持つ集団として、“7つのメカニズム”があることを確認できる。
第一は、…
…中略…
第三は、「CIAの経済戦略」である。
アメリカの国家的金融作業は、情報機関がホワイト・ハウスに報告する世界的メカニズムの分析に基づいて実施に移される。
重要な戦略は、通例、軍事シンクタンクによって青写真が描かれる。
(アメリカの経済支配者たち 広瀬隆著 集英社新書 p.15)

どうやら、アメリカという国家においては民主党・共和党という政治勢力として考えるよりもその他の力が働いていると考える方が現実に近いと思われる。
まず、構造図として階層構造を次のように考えると説明がつきやすい。
一番下の根本を押さえているのが、遺産相続人たちである。
その上に、軍事シンクタンク他シンクタンク群が存在する。この階層におそらく投資銀行も位置するのだろう。
その上にCIAやペンタゴンが存在する。
その上に民主党・共和党という政党が存在する。政府ホワイトハウスが存在する。
上部構造は下部構造に支配されている。
従って、アメリカにおける最も影響力がある存在は、アメリカ大統領ではない。
という結論になるのである。
ここからは、私の理解した整理にしかすぎないのであるが次のように考えられる。
遺産相続人たちの行動様式は、資産を減らすことなく増やし続けなければならない。
この命題が一番の要請である。
そこにシンクタンクという存在が必要になってくる。
これらは、世界における彼らの資産を守ることと増やす為の世界戦略を立案する。機能をもつ。
それはhigh politics(軍事)とlow politics(経済)の総合的な戦略立案である。
それを実際に実施するのが「CIA」であり「ペンタゴン」である。
ここで疑問に考えられるのが、「投資銀行」と「シンクタンク」と「CIA」の関係である。
単純に考えるなら、
1. CIAが情報収集・分析(公機関)
2. 投資銀行がlow politics(経済)の分野を担当(私企業)
3. シンクタンクがhigh politics(軍事)の分野を担当(私企業)
という機能分担であれば、仮説としてはかなりすっきりする。
ここのところを解明していきたいのであるが、どうも広瀬氏の著作全体の文章構成からして解読しにくいものになっている。
(ここらへんの分析については稿を改めて、整理していきたい。)

ここでアメリカ政府の東アジアにおける管理戦略をもとに、政府とシンクタンクの関係性を考えてきたい。
「日本の秘密」の中でこう記述されている。

アメリカ国務省内の東アジア地域担当の国務次官補(アシスタント・セクレタリー・オブ・ステート)は、現在ウィストン・ロードWinston Rhodeです。…
この国務省の高官である次官補は、世界の各地域ごとに分担されています。全部で10人おり、10番目が東アジア担当です。つまり、クリストファー国務長官(ステート・セクレタリー)の下に、次官補が10人いてそれぞれ欧州とか南米とかを、自分の管理地域として、上から監視し、その地域全体の問題にはりついているわけです。
この次官補が、アメリカ政府の政策立案・実行上の、実質的な最高責任者です。…
…もう1人、安全保障(軍事)問題担当官が各地域ごとにいます。それは国防総省(ペンタゴン)の国防次官補という役職で、現在の東アジア(極東)地域担当は、カート・キャンベルKart Cambellです。この2人が中国を含めた極東全域を、アメリカの世界支配力を背景にして管理しているのです。
(日本の秘密 副島隆彦著 弓立社 p.130・131)

つまり、極東におけるアメリカ管理戦略を考える上で押さえなければならない存在が2人いる。
① 国務省内の東アジア地域担当の国務次官補(ウィストン・ロードWinston Rhode)
② 国防総省内の東アジア地域担当の国防次官補(カート・キャンベルKart Cambell)
である。
この2人が中国を含めた極東全域を、アメリカの世界支配力を背景にして管理している。
それでは、この東アジア担当官とシンクタンクとの関係はどんな関係なのでしょうか?
具体的に、1994年10月の北朝鮮の核疑惑問題から解明される。

まず、90年ごろから、バリバリの、ネオ・コン=グローバリストである、ウィリアム・ティラーCSIS(戦略国際問題研究所)副所長が、度々、北朝鮮を訪ねて、向こうの高官たちを説得しています。「アメリカの言うことを聞けば、経済援助を行うからそのかわり核開発をやめなさい。世界の孤児になるのはやめるべきだ」という具合です。北朝鮮としては旧ソ連や中国からの援助が途絶えはじめ、困り果てていたところですから、徐々にアメリカの懐柔策に乗るようになりました。CSISというのはワシントンのシンクタンクの中の最大手のひとつで、軍事・外交・戦略問題に関して具体的な政策提言できる戦略学者をたくさんそろえている研究所です。
もう1人セリッグ・ハリソンというカーネギー財団(Carnegie Endowment)の東アジア専門家の主任研究員がいます。カーネギー財団とはいうものの、ここも大手のシンクタンクです。このセリッグ・ハリソンがニューヨークの国連本部に来ている北朝鮮の外交官に接近して、仲良くなり、しばしば北朝鮮を訪れては、「自分はジャーナリストだから、中立の立場だ」というような、ソフトなハト派の立場から「世界を敵にまわして孤立するな」と説得を重ねました。ウィリアム・ティラーにしろ、セリッグ・ハリソンにしろ、本当はもっと裏のある人間たちで、本当はCIAの情報将校(インテリジャンス・オフィサー)の高官なのです。ただのシンクタンクの研究員なのではありません。
この2人の情報将校からの情報や、その他の北朝鮮専門の戦略学者たちの研究論文の形で提言を受けて、先のウィンストン・ロード国務次官補が、最も優れた意見を国務省(日本の外務省にあたる)の政策として採用し、やがてこれが「米朝合意」に結実したのです。

ここまでのところから推測すると、先程の仮説の修正をしなければならない。
1. CIAが情報収集・分析(公機関)
2. 投資銀行がlow politics(経済)の分野を担当(私企業)
3. シンクタンクがhigh politics(軍事)の分野を担当(私企業)
と暫定的に仮説をたててみたが、実は1.番と3番は同じなのである。
「民間のシンクタンクの研究員」=「CIAの情報将校」なのである。
卑近な例で言えば、「遊び人の金さん」=「お奉行様」一人二役なのである。

「国務省・国防総省」と「CIA・シンクタンク」の関係ははっきりした。
それでは、政府と「投資銀行」がどういう関係になるのだろうか?
もっとも象徴的な人物は、ロバート・ルービン元財務長官だろう。
彼は、ゴールドマン・サックスのCEOからクリントン政権下で財務長官になった人物である。
財務省(政府)とウォール街(投資銀行)の関係を、悪の経済学から引用することにする。

財務省は、アメリカ最高の官僚組織である。いざとなったら国務省なんかより強い力を発揮する。このことは例えば、1920年代の禁酒法時代に、FBIや警察さえ手を出せなかった、シカゴ・マフィアの大ボス、アル・カポネを、1932年に脱税の罪で逮捕投獄したのが、財務省シークレット・サービスであったという有名な事実からもわかる。財務省は全米最強の官僚組織なのである。財務省シークレット・サービス(理財局)という情報組織は、CIA(米国中央情報局)や海軍情報部(シールズ)よりも格が上だとされる。
米国はこの財務省を中心に、ウォール街と連携して精密な日本分析をおこなった。そしてその膨大かつ詳細な分析データをもとに「対日金融市場開国戦略」を策定し、実行に移したのである。
(悪の経済学 副島隆彦著 祥伝社 p.128)

まず考え方として
1. high politics(軍事):シンクタンク(CIA)→国務省・国防総省
2. Low politics(経済):投資銀行(財務省シークレット・サービス)→財務省
この二つの前提には遺産相続人の存在がある。
という構図を考えることができる。

さてここで韓国の金融危機のおけるグローバリスト(帝国主義者)の行動を観察してみよう。
「日本の危機の本質」副島隆彦著からの引用である。

…その裏側の真相は、さらに驚くべきものである。どうやら、韓国への緊急金融支援というのは、アメリカのグローバリストの国際投資家たちによる、韓国の財閥系(と言っても、貧弱なものだが)大企業群の直接的な乗っ取りとセットであるらしい。
…中略…
韓国の大企業は、日本の大企業の30分の1ぐらいの値段しかない。だから現在ニューヨークの財界人たちの間を、超安値で買える韓国大企業の一覧表が出回っているという。…
アジア通貨危機の真実の一側面をここにうかがいしることができる。大きな意味では、日本の金融機関をはじめとする大企業群も狙われているのである。しかし、日本は金融大国であるから、日本の企業の値段は、アメリカのグローバリスト財界人たちにとってもあまりに高すぎる。そこで、実に巧妙に、力の衰えた大企業を倒産させて、死体処理して、人材と商権だけを超安値でかっさらう、ということを現在つづけているのである。
(日本の危機の本質 副島隆彦著 講談社 p.179・180)

アジア通貨危機というイベントをとうして、グローバリスト(帝国主義者)は韓国という国家に進出したのである。
レーニンの言うところの「先進国から後進国に資本が輸出」されたのである。
以上のことより
世界覇権国アメリカにおける、金融資本の世界支配体制のメカニズム。の解明と
その金融資本がとる行動様式、つまり「先進国から後進国に資本が輸出される」行動様式の現状を示した。

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/06/22(Thu) 23:00
投稿者名:荒木章文
タイトル:仮面を被った帝国主義-2

さてここでヘクシャー・オリーン・サムエルソンの定理 を紹介しよう。
この定理を何故ここに至って、突然説明するのか?

冒頭の「レーニンの帝国主義論」を、思い出して頂きたい。
何故、帝国主義者は、後進国に資本を輸出するのか?
それは、先進国においては資本蓄積が膨大となり利潤率が低下する。一方後進国においては資本蓄積が未だなされていないから高利潤率である。
従って、資本は先進国から後進国に移動するのである。
しかし、後進国においては治安が乱れやすいから、企業活動の安全を保障できない。
故に、帝国主義国は後進国を植民地化するのである。

この議論の前提にある、
先進国=利潤率低下
後進国=高利潤率
という関係性が否定されるからである。

ヘクシャー・オリーン・サムエルソンの定理は、はじめ要素価格均等化の理論として注目を惹いた。そのパンチの利き方おもわずクラクラっとくる。
要素価格均等化について、ヘクシャー・オリーン・サムエルソンの定理は、なんというか。
要素移動がなくても、商品移動が自由に行われれば、要素価格は国際間に一定する。(どこの国でも同じになる。)
ここに要素とは生産要素。生産要素としては、労働、土地、資本、が考えられる。要素価格は、賃金率、地代、利子率。ただし、「地代」とは、とくに断らなければ、単位面積あたりの地代のことを言う。
つまり貿易が行われれば、どの国の賃金率、地代、利子率も等しくなるというのである。(なお「貿易」とは、以後特に断らなければ、自由貿易を意味することにする。また、しばらく、輸送費、関税、などの緒制約は捨象、つまり無視する。)
(国民のための経済原論 Ⅱアメリカ併合編 小室直樹著 光文社 P.68-69)

このことにより、グローバリスト(帝国主義者)による、後進国経済に対する進出は自由貿易体制を保つ限り意味をなさない。
何故ならば、ヘクシャー・オリーン・サムエルソンの定理より
自由貿易が行われている限りにおいて、利潤率は国際間において一定に収束していくからである。

だからと言って管理貿易体制になった方が、有利かと言えばそうでもない。
何故なら、比較優位説によって自由貿易体制の方が利益があることは証明されているのだから。
従って、グローバリストにとって今後も自由貿易体制を続けていく方が得策なはずである。
その自由貿易体制を維持する為には、high politics(安全保障)において秩序維持を図らなければならない。
何故なら、例えば国際石油資本のタンカーが海賊に襲われたとしたら、まともな企業活動が即できなくなってしまうからである。
その一方、low politics(経済)においては「世界を管理・支配する」のではなくて、自由貿易経済を推進していくことが得策のはずである。
何故なら、それは上述したように比較優位説によって証明されているのだから。

但し、植民地(属国)を獲得しにいく経済的動機はなくなっていく。
何故なら、利潤率が一定に収束していくのだから。
しかし、自由貿易体制を保つ為には、high politics(安全保障)のコストを負担しなければならない。
この植民地(属国)における高利潤率の利潤率低下とhigh politics(安全保障)のコストの損益分岐点がマイナスになった時グローバリストはどういう行動をとるのだろうか?
また、産軍複合体(死の商人)が現れて利益を上げていくのだろうか?

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/07/25(Tue) 00:29
投稿者名:荒木章文
タイトル:-R&Bとゴスペル-

-R&Bとゴスペル-

SNSI研究員
荒木章文

R&Bやゴスペルという音楽に限らず、音楽は人其々に、其々の感性で受け取られる。
それは音楽の受け取り方としては当然と言えば当然の事である。
何故なら、それは主観に関することであり、他人がとやかく言う筋合いの事ではないからである。
それでは、私は今回何を伝へようとしているのか?

それは、その音楽の背景や思想を、もうそろそろ知ってもいいのではないか?という年代層に伝えたいからである。

日本には常に海外から、文化・文明・情報が輸入されつづけられている。
そしてそれをコピーして輸出モドキまですることさえある。
しかし、ここでもう表面的にだけ受け入れるのではなくて、実感するのは難しくとも、思想や背景を理解するべき秋(とき)なのである。
そう思想的人間である私は考えている。

音楽には必ず何かしらのメッセージが含まれているはずである。それが重厚か薄っぺらいかの違いはあるものの…。
そのメッセージが生れてきた、思想的・歴史的背景を理解していく。
それが今回のレポートの核である。
そこでさしあたり「R&Bとゴスペル」について考えていきたい。
但し、はじめに断っておくが私は音楽について言えば素人である。
故にこのレポートも最初から完成されたものではない。
“完成されていくもの”と考えて頂きたい。
欧米社会における、人種差別の図式や宗教理解については、全面的に私の師である(勝手に私が思っているだけではあるが…)小室直樹・副島隆彦の著作に負っている。

まず、大まかなアメリカ社会における人種差別図式を理解しておかなければならない。
「アメリカの秘密 」副島隆彦著 メディアワークス P.257の図式を参照されたい。
このアメリカ社会の、もっと大きくは欧米社会の分裂図式から全ては始まる。
(ここからしかはじめようがないし、類似言論が出現したとしたら全てこのパクリだと判断しても間違いないそれだけの事実がここに含まれているのである。)
音楽をDJの感性で羅列して、随想風に書かれた書物は世の中に存在する。
しかしこのような欧米世界の分裂線を、明確に提示して解説した書物には出会ったことがない。
また、この欧米社会の分裂線を大枠でとらえられる知識人も日本にはそう存在しない。
仕方がないから私が、作業することにした。
また、思想特に宗教についてまで大枠で理解できている知識人となると更に少なくなる。
日本においては、私の師である小室直樹と副島隆彦だけである。

副島隆彦の著作「アメリカの秘密」メディアワークス P.258の中で彼はこう述べている。

「アメリカ社会は、①人種(民族)ethnicと、②宗教religionと、③政治思想politicsの3つの対立軸で考察されなければならない。」

この中で①の人種等の物理的条件については比較的簡単に認識できる。
しかし②宗教③政治思想については、普通の日本の知識人では歯がたたない。
小室直樹と副島隆彦の業績をもってはじめて理解できるのである。
ここから出発できるのである。
故に私のこの作業は、小室直樹・副島隆彦読者層にとっては何ら目新しい事実を与えるものではないだろう。
しかし、「R&Bやゴスペル」その他、欧米輸入音楽を楽しんでいる聴取者層の中で、ほんの少しでもその社会の背景や思想を知りたい人にとっては、驚きを与えるだろう。
何故なら、それは小室直樹や副島隆彦という日本で最も優秀な、サイエンティストがつきつける事実だからである。
2000年7月24日(月)つづく

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/08/18(Fri) 16:29
投稿者名:管理人
タイトル:「アメリカの秘密」からの抜粋

この本は、今の時代には珍しく極端に政治的な本である。
『地獄の黙示録』や『ゴットファーザー』、あるいはクリント・イーストウッド、オリバー・ストーン、スパイク・リーなどの監督作品は、ハリウッドで制作された商業映画でありながら、アメリカ知識人の文脈では「政治映画」というジャンルに分類される。本書はこれらの優れた政治映画映画を導きの糸として、そこから、欧米の白人社会内を分断するカトリック対プロテスタントの激しい対立や、リベラル対保守という政治的対立のほんとうの意味を、明らかにしていく。なぜなら、そこにアメリカ社会を理解するための確信があるからだ。
同時に、欧米の白人社会の間にプロテスタントとカトリックという深い対立と差別の構造があることが本書によってはじめて明らかにされる。こんなことは欧米の知識人の間では常識なのだが、彼らは絶対にそのことを口にしないから、日本人はこれまで誰もはっきりと理解できなかったのだ。
『アメリカの秘密』2~3ページより抜粋

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一九八四年にスピルバーグは、『グレムリン』Gremlinsという映画をプロデュースしている。珍獣「モグワイ」が、凶暴なグレムリンに変身して暴れ出す映画である。
 グレムリンとは、飛行機や自動車の中に隠れ住んでいて突発的事故を起こさせる小悪魔のことで、アメリカ社会が生んだ幻想小動物である。実は、このアメリカの企業の建物の中で暴れ出す可愛らしいペット怪獣モグワイとは、日本人のことである。日本からアメリカに押し寄せてきてアメリカの企業社会の秩序を乱す、訳の分からない言葉を喋る日本人ビジネスマン(企業戦士)たちのことなのである。この映画は、「日本人というのは、大人しく飼いならしているときは、まじめによく働いて飼い主アメリカの役に立つのだが、もしうっかり飼育条件に反することをやると、突如暴れ出す。気を付けろ」という教訓話である。

「アメリカの秘密」75ページより抜粋

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映画『猿の惑星』は、日本文化論として重要である。一言で言えば、日本国あるいは日本社会こそが、この映画で描かれた「猿の惑星」そのものではないか、というのが私の理解である。
「日本は猿の惑星である」と私が書いて、それに反感を覚えない日本人はいないだろう。ほとんどの日本人は、自分たちが欧米社会と肩を並べている立派な先進国に暮らしていると思い込んでいる。しかし、彼ら欧米近代社会の方はちっともそんなことは思っていない。それは、向こうで暮らしてしばらく生活すれば分かることだ。技術の類は、今やおそらく日本の方が上かもしれない。工業製品においてはすべてを欧米から泥棒して、さらにそれを改良して最良の製品にしたからである。しかし、それだけのことである。日本は近代でもなければ民主政体でもない。「猿の惑星」である。

「アメリカの秘密」123,125ページから抜粋

(以上は、廣瀬哲雄氏に抜粋して頂いたものです)

※当文章の副島系サイト外への無断転載を禁ず。

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/25 12:00

【101】『沈黙』

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 以下、基本「だ・である」口調の文体でいきます。

『沈黙』(遠藤周作著、新潮社刊、昭和五十六年十月十五日 発行、平成九年四月二十五日 二十八刷)未読のかたは以後、ネタバレ注意で悪しからず。

 

 ● 神の沈黙と人の沈黙

 私はこのあいだの定例会の道中で、はじめて遠藤周作著『沈黙』を読んだ。遠藤だけでなく内村鑑三、賀川豊彦、曽野綾子さんや渡部昇一氏など、クリスチャンが書く作品は小説・一般関わらず読むのを避けて通ってきたというか、後回しにしてきたところもあって少々反省している。

 私は『沈黙』については作者と題名だけ知っていて、内容のことはキリスト教が主題だということや実在の人物(クリストヴァン・フェレイラ、ジュゼッペ・キアラ、井上政重等)がモデルであるらしいこと以外、ほとんど聞いたことがなかった。

 せっかくなので面白さ半減防止の観点から、ネットで時代背景や人物を事前に詳しく調べたりせずに、そのまま読み通すことにした。が、予想以上に陰鬱だったので新幹線の中にいながらにして気分が沈んだまま落ち込みそうなくらいである。暗くなることに耐えられない時には読まない方がいいだろう。あえて暗くなりたい時に読めばいいと思う。

 さらに私にはやはり多少の先入観があったようで、てっきり殉教の物語だと思い込んでいたのである。まさか棄教の物語(少なくとも表面上)だとは、正直びっくりした。なるほど、壮大で美しい殉教の物語よりも、苛烈でみじめ極まりないだけの宗教弾圧という、苦悩に満ちている末に生きて棄教に到るという物語を書いて、しかもそれを名作に仕上げる方がよっぽど難しいだろう。

 谷崎潤一郎賞を受賞している遠藤だが、ノーベル文学賞を受賞しなかったのは美しい殉教者像を描かなかったからか。井上靖著『天平の甍』もそうだが宗教関係は難しいものがある。大江健三郎は平和・理想の観点からで、川端康成は民族というか部族的文学の評価ということなのだろう。

 私はこの本だけしか読んでいないながらも、遠藤周作という人間に少なからず好感を抱いた。やはり代表作を1冊も読まずして「キリスト教の単なる偽善者」などと、安易なイメージ先行で決め付けてはいけない。ここも反省。

 マーティン・スコセッシ監督が『沈黙』を制作しているというがもう撮影しているのだろうか。篠田正浩監督の映画『沈黙 SILENCE』は鑑賞していないが、篠田と遠藤が共同脚本だというから原作者公認ということだろう。ウィキペディアを見ると松村禎三台本のオペラ化もされているという。スコセッシの方は生前の作者公認なのか非公認なのか分からないが、2011年公開予定らしいので期待して待ちたい。

 非クリスチャンである私が2010年の今頃になって『沈黙』を取り上げ批評してみたところで、世の中に何ら益するところはない。だから読書感想程度に留めることにするが、読み終わった後に時間をおいて考えてみて、静かな驚きが沸き起こった。

 それはキリシタン禁令と弾圧について全くといって差し支えないほど、何の罪悪感も感じていないということである。

 種子島と鉄砲伝来(世界史的意義は日本発見)、イグナチオ・デ・ロヨラ初代総長と同じくイエズス会の創設者の1人であるフランシスコ・ザビエル、天正遣欧少年使節、支倉常長と慶長遣欧使節、キリシタン大名の出現、天草四郎と島原の乱(殉教者と認定されていない?)や踏み絵のことを、学校の授業で習ったから、みんな知識としては知っている。

 ただし、単なる歴史上の出来事として。太平洋戦争(大東亜戦争)みたいに、反省すべきだなどという教師もいることはいるのだろうが、私は聞いたことがない。だから表面をなぞっているだけということである。天正遣欧使節の伊東マンショ、千々石ミゲル(棄教)、中浦ジュリアン(殉教)、原マルティノ達ですら人物1人1人の最期には迫らない。

 江戸時代の禁教令は明治に入ってからしばらく経って解除されたが(幕末はなし崩しでうやむやだが)、別に当時の日本人が反省したわけではないことは現代日本人でも肌身で実感出来る。開国による列強諸国との外交という、外側世界との付き合いが不可避となったせいで外来宗教も仕方なく認めなければならなくなったという現実からきているだけであって、宗教・信仰・信教の自由という強固な考え方が形成されたわけではない。

 私はいわゆる平均的日本人であり、ごく普通の生活感覚を持っていると自覚しているから、おおかたの日本人が普段からどういう思考をしているかについては、結構自信がある。

 日本人は宗教弾圧・信者迫害について、ほとんど反省していないし、そもそも最初から意識することがない。歴史の話題が日常会話に出る機会だってたまにはあるが、キリシタン弾圧を批判する言葉を耳にしたことはない。元よりどうでもいいのである。

 最近になって侵略目的の伝道(侵略者の尖兵)のことや何十万人もが売り飛ばされたという奴隷貿易のこと、旧教と新教の対立が及ぼす世界政治戦略の影響が、当時の日本列島にまで及んでいたことなどが詳しく知られてきた。プロテスタントが異教徒とすら手を組むのも反宗教改革と宗教戦争のことを考えれば無節操とだけ言い切ることは出来ない。

 鎖国は日本の防衛戦略であった。先生の本を読むのが歴史学者の本を読むより理解しやすい。スペインもポルトガルも、艦隊を派遣して司祭や受難者達の救出作戦を敢行することはなかった。支倉常長はサン・ファン・バウティスタ号での洋行の甲斐なく軍隊などを動かせず、伊達政宗(隠れ切支丹大名であったかどうか)は覇権を奪えなかった。百戦錬磨のローマカトリックは慎重である。動乱の戦国時代がが終わっていき、安土桃山時代を経て江戸時代になると徐々に安定期に入っていくことになり、キリシタン弾圧体制も安定して確立する。

 日本人は深いところで布教の悪の部分について敏感に感じていたのであろう。しかもそれは現在まで続いている。実情を知らなくとも感じとってている。日本人にとってはキリスト教はいまだに外来宗教扱いであり、イスラム教・ユダヤ教などの一神教に至ってはまるで未到達宗教である。日本は天皇以下、公式にも非公式にもカトリック教国にならなかったし、カトリッ征服され植民地となる事態も未然に防いだ。

 無論、私も彼等の世界制覇の野望を知っている以上、無条件にカトリック側に立ったりなどはしない。先生の言を用いれば、当時の世界普遍価値と民族固有価値の衝突である。

 しかしそれでも、日本人は宗教弾圧について無頓着に全く考えないか、当時の時代情勢にあっては正当な政策であったのだと軽く考え過ぎている気がする。負の側面があるとしても宗教弾圧を加えたという史実に変わりはない。カトリック達がこれをどう思っているか、相手の立場に立って考える。一度は想像してみるべきだ。

 私が現代において考えるところは、ヴァチカンやカトリック陣営は日本を守らないが、そもそも守らなくて当然なのだというところに結論が辿り着いた。これは第二次世界大戦で一度起きているから分かっている。

 戦前・戦中の日本は満州国で満足せずに暴走してプロテスタント陣営である英米をも敵に回して戦ったことがあるが、別段カトリック側についたわけではない。ドイツとイタリアは戦略上同盟を組んだだけの話であることは明らか。アジアの植民地の多くを失ったのも日本のせいだし、その後の世界各地の植民地独立気運を作ってしまったのも、日本に淵源がある(良い側面ではあるが)。

 しかも無条件降伏後、命乞いをして連合国、実質上アメリカ合衆国の軍門にくだった。ここから東西冷戦を挟み紆余曲折あったが、現在に至るまでヨーロッパ世界やカトリックとは距離をおいている。単に地理的に距離が遠すぎるということもある。

 ヨーロッパ諸国には世界の戦略と均衡を保つということを除けば、体を張って日本の味方をする理由はない。ましてや異人種であるどころか異教徒が大多数を占める国だ。なんとなくヨーロッパは日本の味方をするような気がしているが、クウェートの如くどこかからの武力攻撃から日本を守ること考えにくいわけだ。まぁアメリカにしたってどこだってそうなのだが。

 それでも日本は敗戦後、プロテスタントの国にならなかった。日本人は意外にもすごい宗教保守派である。確かに土壌が違いすぎてなじまないし、東アジアの島国の原住民がキリスト教などと称しても違和感がある。発祥の地としてはインドの仏教がギリギリでアジアであり、そこから向こうの中東となるともはや異世界である。日本人にはアラブ・イスラム世界が同じアジア人であるという実感や連帯は抱けない。

 朝鮮戦争や仏教国であり共産主義国となっていたヴェトナムが侵略されている時は、少しは良心の呵責という抵抗があっただろうが、イスラム教国のアフガニスタンやイラクが侵略されても日本人は沈黙していた。未だに沈黙している。

 小泉純一郎首相(当時)が支持・協力・加担した責任は元駐レバノン大使の天木直人氏や元大蔵官僚で経済学者の植草一秀氏、元外務官僚の佐藤優氏(クリスチャン)たちが声高に追求するものの、日本国民は一向に弾劾も断罪もしようとしない。イギリスのブレア首相(当時)の境遇とは大違いである。

 子息で後継者の4世までちゃんと国会に送り込んでいるではないか。まぁ親が手先だからって、その子供に罪や責任があるわけではない。何故ならば、貴族院の世襲議員であれば親の罪や責任も世襲されますが、現代日本では世襲議員といったってちゃんと選挙で国民の投票により当選しているのですからね。選挙を洗礼とはよく言ったものです。

 本当の世襲の場合は権力を継承する以上、責任も継承されますから、先祖の責任を子孫が取らされてもいいのです。失政によって迷惑をかけられた人民に引き摺り下ろされて私刑(リンチ)を受けて虐殺されても文句を言ってはいけません、本当の世襲政治の場合に限ればね。

 日本の世襲議員は選挙を経ているので本当の世襲とは言えず、正当な国民の代表であるということを忘れてはなりません。有権者が当選させている以上は投票者は世襲という批判を言えません。何故なら世襲にあたらないので批判にも値しません。

 国民の指導者が本当の世襲であってはならないというのはそういうことです。選挙を経ていない代表が失政をすると、人民が引き摺り下ろして殺さなければならないのです。その上に世襲の場合は責任も世襲されます。

 指導者は常に国民から選ばれた国民のための国民の代表、つまり正当な国民指導者でなければならないのです。だからこそ国民がいい加減でなくて、ちゃんとした人物選びをしなければならないのです。

 それにしても小泉政治を未だに清算出来ない日本。総決算はなし崩し。なにせあの時は騙されて国民が大絶賛してしまったものだから、今更批判しだすのは自分の過去の否定に繋がる(私もその部類に入ってしまうだろう)。湾岸戦争以来、アメリカの言い成りになるしかないという、公然たる暗黙の支持が国民のあいだにある。沈黙は追認と同義となる。日本人はイスラム教国侵略に手を貸したという意識はあるだろうか? 総括せよ!

 話が逸れてしまいましたが、結論=今後日本国がどこかから武力攻撃や侵略を受けた時、ヴァチカン・ローマ・カトリック諸国の人々とイスラム教諸国の人々は、何ら異議を唱えることなく沈黙する正当な権利を有する。

 

 ● ここから先は寄せ集めのため文脈定まらず、読んでいただける方がいらっしゃいましたらということで、どうぞ

『沈黙』で意地悪い筆致で描かれる悪辣な役人と日本仏教の坊主どもの、支配者側の醜さには異論はない。こんなもんだったのだろう。私は役人と同等の日本仏教を軽蔑している。最初から全て間違っていただけのことだろうと思う。だから日本仏教史には歴史の一面としての興味あるのみである。

 ヨーロッパでは長らくカトリック教会が支配者だったが、日本の場合は日本仏教が体制支配者側に大衆監督役として組み込まれていた。仏教伝来としての聖徳太子(に該当する、それらしき人物)以来、段々強化されていった。この辺の事情も全て先生が書いている。仏教の中にキリスト教が混入しているとすると、弾圧の協力者としての仏教徒は滑稽を通り越して哀れそのもの。

 江戸時代はそれぞれの寺のクソ坊主が人別帳という台帳管理で住民を管理把握していて、俗世の支配者の支配体制に協力して何が仏教だお前ら。その前は僧兵だの、肉食妻帯革命だの、中間飛ばしてその後はなし崩しの檀家制度で葬式仏教だの、大学出て高級車乗り回して豪遊するが、やがてドラ息子に住職を世襲させるだの、平信徒組織が反乱を起こして新興カルト宗教が蔓延して、総本山を乗っ取れなかったからといって政党作って政治に口を出すだの、ふざけるのもたいがいにしろよ。有害無益とはお前らのことだ。

 開き直って葬式仏教に専念するならそれでもいいが、政治に口を出すのなら税金払えよ。ご先祖様の墓参りはしても、俺は在家信者じゃないからな。

 日本の仏教で本当の仏教があった試しが一度でもあったのか。この日本列島に真の仏教があった期間がほんの一時でもあるのか。日本の明治時代初期の廃仏毀釈運動ごときで法難も何もあるか阿呆らしい。腐り果てたという表現はかなり現実に即しているが、ある意味では当てはまらない。腐る前の、立派だった時期が日本には一瞬も無いだろうが。だから今は末法の世、末世か。日本人が単に初めから末法しかやってこなかっただけの話じゃないのか。当時の日本人が心底みな仏教徒だったのだとしたら、仏教は拷問を肯定しているということになる。最初から仏教を名乗るな。

 日本の軍部や官僚と同じで、立派だった時期があったようにも見えるのは、かつては国の威勢がよかったからそう見えるというだけの見せかけだろう。かつては盛んだったり流行したことがあるからといって、真理がもたらされているというわけではない。

 それにしても、故・小室直樹先生と副島隆彦先生が織田信長による比叡山延暦寺焼き討ちと、そこからうじゃうじゃ出て来たという女子供をキレイサッパリ集団殺戮した話をする辺りの部分は、両人とも怖い先生だなぁと心から思います。人類の革新者は虐殺と粛清を普段から脳内で本気で考えていたりするから、冗談ではなく恐ろしい。

 私には本能寺の変の真実が、まだ飲み込めていない。明智光秀ではなく、密かにイエズス会が謀議実行の主体だったとしたら、暗殺には成功しても戦略としては失敗ではないか? 豊臣秀吉、徳川家康と順次反キリシタンが天下をとっていった。その後の趨勢からの結果論とはいえ、比較すれば信長はずっと好意的な方だったろうに。政宗がキリシタンではないとすると、他に誰か天下のとれそうなキリシタン大名はいただろうか。

 神道は元々中身が無いから仏教の大量の経典には圧倒されてしまうし、理屈では適わない。神主は何の自論も論理もてんで持ち合わせていないから、無学そのもので論争にもならない。だから負けてしまって、ずっと偉そうな仏教に屈従していた。仏教と論理で張り合えるのは儒教であるが、日本では仏僧が儒学をしている。これぞまさしく茶坊主だ。

 日本には儒教徒がいないのは、必要ないからである。仏教徒が同時に儒学者だったりするので間に合っているということだ。僧侶階級は役人階級と一緒も同然なのである。外来宗教は全部特殊日本流に変質していく。富永仲基、内藤湖南、そして副島隆彦先生という大きい系譜で真実が伝わり暴露、露呈されている。遠藤周作もそれを小説での表現ということで指摘していた。まさに日本は「すべてのものを腐らせていく沼」である。外来文化は全て沼に浸かって腐蝕させてから取り込まれる。それが日本独自の国風文化でありオリジナリティの源泉ならぬ源沼の正体である。

 日本では天皇ですら引退したら仏教徒として法皇になったりする。もし神道の頂点としての祭主なのであれば、何故仏教に帰依する? 神道と仏教は根源は一緒、か? つまり明治維新以後の国家神道は、元勲達が目的を持って新しく作った国家体制(国体)である。王政復古の原点回帰などと言ってみても虚しい。

 神話というのは民族というか部族ごとに伝統ということで大抵持っているものであって珍しくもない。神道は八百万の神というくらい多神教の中でも神が多い上に、死んだ人も祟り神はじめ神様になっていって、際限なく増え続けるので総数は不明であり、定義も曖昧なので数えようがない。あまりに多過ぎるので、かえって現世においては現人神の今上天皇1人に信仰対象をまとめて結束出来るという、なんとも日本らしいご都合主義である。

 私見では神道は仏教に従属する必要はなく、解放されたのはいいが国家神道などと言って二度と威張りだすんじゃない。アホだら仏教に自分達が取って代わったのが良くない。神道は年間行事だけやって、参拝客の相手をして、後は何もしないのが一番いい。

 カトリックにおいてローマ法王は神の代理人だが、国家神道(日本教、天皇教)において今上天皇は現人神・神であるから、昭和天皇の人間宣言(したと思われているので、本当は意図が違っていたとしても同じこと)などで神性を否定されると急性アノミーが発症する。山本七平や小室先生が日本の宗教の奇妙さを解明している。

 ローマ法王は最初から100パーセント人間なのでそもそも神性の否定問題などない(はず)。それよりもイエスの神性という教義上の問題が最重要である。神道には神義論も何もない。

 だからダン・ブラウン著『ダ・ヴィンチ・コード』(The Da Vinci Code)とその映画は甚大な影響を及ぼすのは理解出来る。近代人だから表面上では平気な人達だけど。

 別に完全な神であると同時に完全な人でもあるんだったら、奥さん(マグダラのマリア)と子供(サラ)がいたっていいじゃないかと私なんかは率直にそう思いますけどね。仮の父親(だとして)のヨセフも聖母マリアもただの人なんだから、子供や子孫だってただの人でしょうに。ヨセフの(前妻との?)子供である女子2人(?)のうちの1人がマリアなのか?

 この時代の人達は安易に女子に「マリア」という名前を付けすぎだと思う……3人のマリアどころじゃなく紛らわしい。とにかく先生の阿弥陀如来、観音菩薩、マグダラのマリアは3位1体ではないが大変重要。

 釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は出家する前、耶輸陀羅(ヤショーダラー)という人と結婚して、羅ご羅(ラーフラ。「ご」は偏が「目」で旁が「候」)という男児がいるが、何の問題もないし取り立てて秘密でもない。神ではなく人であったからだろう。

 青森県のキリストの墓は発掘調査しても仕方ないと思うけど、ルーブル美術館のガラス逆さピラミッドの下がどうなってるのかは気になって仕方がない。設計者のイオ・ミン・ペイは何か知っているのだろうか。フランソワ・ミッテランも世を去っていることですし、工事の際にどうしたのかなど、是非とも教えてほしい。っていうか今のシオン修道会の総長、誰なんだろう。解散してなければ。

 

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遠藤周作 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/遠藤周作

沈黙 (遠藤周作) – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/沈黙_(遠藤周作)
クリストファン・フェレイラ – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/クリストファン・フェレイラ

ジュゼッペ・キアラ – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジュゼッペ・キアラ

井上政重 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/井上政重

内村鑑三 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/内村鑑三

賀川豊彦 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/賀川豊彦

曽野綾子 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/曽野綾子

渡部昇一 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/渡部昇一

谷崎潤一郎 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/谷崎潤一郎

アルフレッド・ノーベル – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/アルフレッド・ノーベル

天平の甍 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/天平の甍

井上靖 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/井上靖

大江健三郎 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/大江健三郎

川端康成 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/川端康成

マーティン・スコセッシ – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/マーティン・スコセッシ

篠田正浩 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/篠田正浩

松村禎三 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/松村禎三

イグナチオ・デ・ロヨラ – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/イグナチオ・デ・ロヨラ

フランシスコ・ザビエル – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/フランシスコ・ザビエル

天草四郎 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/天草四郎

伊東マンショ – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/伊東マンショ

千々石ミゲル – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/千々石ミゲル

中浦ジュリアン – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/中浦ジュリアン

原マルティノ – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/原マルティノ

支倉常長 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/支倉常長

伊達政宗 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/伊達政宗

小泉純一郎 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/小泉純一郎

天木直人 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/天木直人

植草一秀 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/植草一秀

佐藤優 (外交官) – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/佐藤優_(外交官)
トニー・ブレア – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/トニー・ブレア

小泉進次郎 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/小泉進次郎

聖徳太子 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/聖徳太子

富永仲基 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/富永仲基

内藤湖南 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/内藤湖南

小室直樹 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/小室直樹

副島隆彦 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/副島隆彦

織田信長 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/織田信長

明智光秀 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/明智光秀

豊臣秀吉 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀吉

徳川家康 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家康

昭和天皇 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/昭和天皇

山本七平 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/山本七平

ダン・ブラウン – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/ダン・ブラウン

ダ・ヴィンチ・コード – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/ダ・ヴィンチ・コード

ダ・ヴィンチ・コード (映画) – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/ダ・ヴィンチ・コード_(映画)

イエス・キリスト – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/イエス・キリスト

マグダラのマリア – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/マグダラのマリア

ナザレのヨセフ – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/ナザレのヨセフ

聖母マリア – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/聖母マリア

イエスの兄弟 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/イエスの兄弟

阿弥陀如来 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/阿弥陀如来

観音菩薩 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/観音菩薩

釈迦 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/釈迦

耶輸陀羅 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/耶輸陀羅

羅ご羅 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/羅ご羅

イオ・ミン・ペイ – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/イオ・ミン・ペイ

フランソワ・ミッテラン – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/フランソワ・ミッテラン

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/20 21:59

【100】立法における国民の代表と行法における国民の代表の違い

 会員番号4655の佐藤裕一です。
 
 

東京新聞ベラルーシ大統領4選 野党抗議デモ強制排除国際(TOKYO Web)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2010122002000177.html

ベラルーシ大統領、4選果たす 反体制デモに1万人 – MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/101220/erp1012201320010-n1.htm

ベラルーシの大統領選、現職4選確定 国際 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20101220-OYT1T00512.htm

ベラルーシ大統領選、野党候補9人中7人が拘束か 写真4枚 国際ニュース AFPBB News
http://www.afpbb.com/article/politics/2780180/6600062?utm_source

時事ドットコム:欧州監視団、票集計を批判=野党集会弾圧に非難相次ぐ-ベラルーシ
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010122000793

 

 私はあまりベラルーシ共和国の事情に明るくないので、本当に票操作などの不正がなされたのか、どのぐらいの規模の不正だったのか詳細不明ですが、私にも分かるのは大統領などの首長選挙における憲法の多選制限規定を決して改正・廃止してはならないということです。むしろ制限規定がない国は積極的に憲法に導入した方がいいくらいです。

 そうでないと毎度おなじみの水掛け論、与野党支持者衝突での暴動や混乱、野党候補の不当拘束による強権発動的な事態収拾、そして結果的に不満が残り慢性的政治不信や恐怖政治に繋がります。暴力革命でないと政権交代が出来ないという不健全な状態に陥ることも懸念されます。そうすると国軍や警察が間にあって勢力を伸ばしたりします。悪循環です。

 また、いくら鋭意精査しても不正疑惑なんてそうそう晴れませんし、こういう国の選挙管理委員会や確定を判断する政府の御用裁判所なんて元より国民から信用されていません。今回のベラルーシとアレクサンドル・ルカシェンコ大統領が露呈した現実も、典型的な政治後進国の共和制半独裁国にみられる事例です。

 共和制半独裁国というのは、形式上の建前は立憲共和政体を採用していて憲法に則った政治を行っているように見せ掛けながら、実質上は強権的な専制政治体制を維持して独裁体制を敷いている国のことです。半分は一応民主国です。だからまぁほとんど独裁の共和制イスラム教国(イラン除く)なども数えていけば、かなり多い政治体制でしょうかね。

 憲法を停止したり廃止したりするともはや完全独裁ですが、それをするとあえて国内だけでなく国際的批判までをもわざわざ率先して浴びるようなものです。ペルー共和国のアルベルト・フジモリ元大統領なんかがそうですね。彼は政治姿勢や手法が正直過ぎたのかも。

 有名な共和制半独裁国を現在世界の例で挙げると、ジンバブエ共和国のロバート・ムガベ大統領やエジプト・アラブ共和国のムハンマド・ムバーラク大統領、ベネズエラ・ボリバル共和国のウゴ・チャベス大統領、カザフスタン共和国のヌルスルタン・ナザルバエフ終身大統領など。度合いの差こそあれ、掃いて捨てるほどあります。

 ジンバブエなどは凄まじいハイパーインフレとデノミネーションのイタチごっこにみられるように極端に経済が破綻していますが、半独裁国のなかには強権的な手腕の発揮による経済政策と国家目標の設置によって経済発展を成し遂げる国もあります。それが政情不安を起こさない免罪符というか、現行の政治体制を国民が受け入れることと引き換えのようになっているのです。国家の保護を受ける産業政策の推進も開発独裁国の方が指導者が終始一貫した方針を示せるのでやり易いのです。

 それにしても冒頭5番目のネット記事、欧州安保協力機構(OSCE)選挙監視団副団長のトカエフ・カザフスタン上院議員による批判などはお笑い種ですね。自分の国には初代から終身大統領が居るのですから。

 それから共産主義を捨てたも同然の北朝鮮も、正式国名が朝鮮民主主義人民共和国というくらいですから、金正日国防委員長(朝鮮労働党総書記)も実際上は完全独裁の世襲王朝ですが、形式上は依然として共和制です。今のところは。中華人民共和国は個人ではなく事実上共産党の一党独裁支配体制なので、毛沢東国家主席以後はちょっと個人の独裁や半独裁体制とは違います。でもやはり開発独裁型ですね。

 選挙の話に戻りますが、国連や国際的選挙監視団にしたって中立で公正公平なのかというと、実態は怪しいものです。なので最初から複数回当選している人物の立候補自体を制限すべきなのです。不正工作で自分の後継者や子供などの親族を大統領職につけることもあるでしょうが、現職が何十年も続く半独裁状態よりは幾分マシであることは明白です。

 副大統領・副首長から昇格した場合などの規定も含め憲法条文の具体例は様々ですが、だいたい2回選出(大統領だと約2期8~10年ほどの任期)されたらもう強制的に禁止すべきです。さすがにフィリピンや大韓民国のような1回選出・1期のみは、ちょっと少な過ぎる気がします。当選したらもういいやで、任期中の再選に向けての国民向け努力というものがなくなってしまうからです。

 もっとはっきり踏み込んで書くと、「3選禁止規定」が素晴らしいのです。「連続3選禁止規定」は中途半端で、ロシアのプーチン首相みたいなのが操り人形を一旦大統領にして院政を敷き、虎視眈々と復権を狙うことになります。もちろんメドヴェージェフ大統領は単純な傀儡というほどではないでしょうけれども。

 ここで注意ですが、多選制限は行法府(法を執行する機関。「行政」という日本語には「法」を行うという観点が抜けている)の大統領選挙や地方公共団体などの首長選挙において適用すべきこととして書いています。立法府の議員選挙については逆であり、多選制限すべきではありません。全て有権者国民の投票意思(民意)に任せるべきです。

 同じデモクラシー・代議制民主政体国の国民の代表でありながら何故違うかというと、立法府の議員は複数で議会を構成していますので政治権力の度合いも分散されており、その実力差は先生が仰せのように何票集める力が各人にあるかどうかということであります。

 しかし行法府における国民の代表は共和国の場合、基本的に国家元首・統治者・最高指揮監督権者である大統領は常に1人なので、当然に強大権力が集中しますから憲法条文という法規で掣肘して強制的にバランスをとるのです。これにより政党選択は国民の意思であっても、人物単位では必ず政権交代がなされます。英雄だから何十年でも生きている限り支配者であってほしいというのは政治後進国です。

 なお日本国は立憲君主制であり、内閣総理大臣(首相)は議院内閣制、首班指名は国会議員間の互選なので、憲法を改正して首相公選制度(国民による直接選挙)を導入・実施しない限りはあまり関係ありません。

 日本の問題点は「政党」の政権交代が健全に定着していないということであり、多選制限するまでもなく細切れに「首相」の交代はしていますので、この点は問題ないといえます。議会での投票選出という衆人環視で、議員総数や投票総数、定数も決まっていて国民より少ないわけで不正もしにくいので、そこが議院内閣制による首班指名の数少ない利点ですね。ヴァチカン市国のローマ法王と似たような選出方法です。立候補なくして互選ですからね。首相の方は別段完全な秘密投票というわけではありませんが。

 他国の政治制度がもたらす混乱も、自国の政治制度との比較により学ぶべきところは沢山あるということです。

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/19 07:59

【99】気鋭の警察ジャーナリストに何が…黒木昭雄さんの死から見えてくるもの

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 故・黒木昭雄氏についてのインターネット・ニューズの続報です。

 

気鋭の警察ジャーナリストに何が…黒木昭雄さんの死から見えてくるもの (1-5ページ) – MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101218/crm1012181201008-n1.htm

気鋭の警察ジャーナリストに何が…黒木昭雄さんの死から見えてくるもの (2-5ページ) – MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101218/crm1012181201008-n2.htm

気鋭の警察ジャーナリストに何が…黒木昭雄さんの死から見えてくるもの (3-5ページ) – MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101218/crm1012181201008-n3.htm

気鋭の警察ジャーナリストに何が…黒木昭雄さんの死から見えてくるもの (4-5ページ) – MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101218/crm1012181201008-n4.htm

気鋭の警察ジャーナリストに何が…黒木昭雄さんの死から見えてくるもの (5-5ページ) – MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101218/crm1012181201008-n5.htm

 

 県警は件のチンピラヤクザを捜査してるんでしょうか。何の進展の話も聞かれませんね。

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/18 17:00

【98】ビッグバンとカトリック

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 映画は観ていないんですが、本の方の『天使と悪魔』(上)(下)(ダン・ブラウン著、越前敏弥訳、角川書店刊、2003年10月30日初版発行)は読みました。

 一番驚いたのはビッグバン理論とカトリックの教義・神学とが矛盾しないということです。それどころか他の宇宙論(天動説除外)と比較すると親和性がある方です。宇宙を創ったのは唯一の創造主である神なので、ビッグバンを引き起こすことが出来るのも神です。神以外でビッグバンを起こす「きっかけ」は、どれも説得力に欠けるのが現状です。ジョルジュ・ルメートルさんの真意は分かりませんが。

 今まで深く考えてきませんでしたが、さすがはダン・ブラウン、色々なことを気付かせてくれます。これは特異点というよりも、むしろ妥協点ですね。

 

asahi.com(朝日新聞社):バチカン舞台の映画「天使と悪魔」 宗教と科学緊張なお – 文化トピックス – 文化
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200906160086.html

ビッグバンから数マイクロ秒後の宇宙は液体だった?
http://www.astroarts.co.jp/news/2010/12/01liquid-universe/index-j.shtml

ニュース – 科学&宇宙 – 誕生直後の宇宙は超高温の“液体”(記事全文) – ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20101203002&expand&source=gnews

反水素原子ビーム生成装置が稼働開始へ|2010年 プレスリリース|理化学研究所
http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2010/101206_2/

周期表にある元素118種類を全部混ぜてみたいなぁ ギズモード・ジャパン
http://www.gizmodo.jp/2010/12/what-happens-when-you-mix-every-single-element-together-at-once.html

ワームホールの探し方:名古屋大研究者の新論文 WIRED VISION
http://wiredvision.jp/news/201012/2010120323.html

 

 なおビッグバンが起きると、「クォーク・グルーオン・プラズマ」(QGP)というものが出来るそうです。

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/18 08:59

【97】2010年12月18日雑感

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 ツイッターじゃないですけど、口調や文体など気にせず雑然といきます。

 

 訃報 リチャード・ホルブルック死去 享年69歳

 お悔やみ申し上げます。

 

死去したホルブルック米特別代表、医師団に「戦争を終わらせて」 国際ニュース AFPBB News
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2779532/6586001?utm_source=afpbb&utm_medium=topics&utm_campaign=txt_topics

訃報:リチャード・ホルブルック氏 69歳=米アフガニスタン・パキスタン担当特使 – 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/world/news/20101214dde007060057000c.html

Richard Holbrooke – Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Holbrooke
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
検事総長、年内に辞任 改ざん隠蔽事件で引責 – 中国新聞
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201012160181.html

検事総長辞任に「当然だ」と与野党 検察改革に冷めた見方も – MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/101216/stt1012162031013-n1.htm

次期検事総長に笠間氏内定 補佐役は異例の同期 – 47NEWS(よんななニュース)
http://www.47news.jp/news/2010/12/post_20101218020301.html

 

 なにも、大林さん……。検察庁は独人官庁なのだそうですから、犯罪検事各人を全員引責で懲戒免職処分にした上で彼等を起訴すればよろしいのでは? 大林さんご本人が罪を犯したわけではないでしょう。なんか不安になってしまうな。。。

 もちろん官庁トップとしての責任は常にありますが、なにせあなたの部下達が所属する組織自体が年中冤罪発生機関なのですから、一日ごとにトップを交代しなければなりませんよ。冤罪で監獄に入り続けている人達の刑期のことまでを考えれば、あなたの部下達が罪を犯していない日は一日たりとて無いのですから。責任をとるべき者、さらには投獄されるべき者はもっと沢山のさばっているでしょう。それらの犯罪事実を徹底調査してその連中に全員引導を渡した上で引責して頂きたかった。伊藤鉄男次長検事は即時辞任としても。

 完全にご本人だけの意向なのか圧力がかかっているのか不明ですが、翻意されたとしても別に私は咎めませんけれど。固い決意ということなれば無理にお引止めは致しますまい。……って言っても私は法務大臣でもなんでもないですが。後任が取り沙汰されているのは笠間治雄東京高等検察庁検事長ですか、あまりよく知りませんが残存検事どもの焼け太りだけは許せませんからね。

 他人の犯罪の全責任を1人に追い被せられて潔く辞めていっても断じてこの国は良くならない。クビの挿げ替えだけで改革事足れりとしてしまうのが駄目なのです。第一最も責任を負うべき立場の前任者は定年前の退任とはいえ勇退みたいなものでしょう。その後何の責任も追及されていない。真っ先に糾弾されるべきは大林さんではないのでは?

 大林さん、極めて短期間でしたが難儀なお役目、ご苦労様と申しますか、お疲れ様と申しますか……日本語でなんと書けば適切な表現なのでしょうかね。なんにせよまぁ、歴代検事総長に比べれば、較的まともな仕事をして下ったとは存じまして、ありがとうございました。

 

大林宏 (検察官) – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/大林宏_(検察官)
樋渡利秋 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/樋渡利秋
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
 その大林さん、あの伊藤律に事情聴取したことがあるそうです。田井中律じゃなくて、伊藤律の方ね。

 尾崎秀樹、松本清張らによる事実誤認流布によって定説化したスパイ・ゾルゲ事件における伊藤律ユダ説を覆したという、渡部富哉著『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』を読まなければ。といっても積読を消費する方が先なのですが。

 

伊藤律 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤律

リヒャルト・ゾルゲ – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/リヒャルト・ゾルゲ

尾崎秀実 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/尾崎秀実

尾崎秀樹 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/尾崎秀樹

松本清張 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/松本清張

渡部富哉 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/渡部富哉

Amazon.co.jp: 偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊 渡部 富哉 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4772702881/
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
[101]「Re:[98]硬貨論」投稿後から思ったけど、ハードカレンシー(hard currency)とソフトカレンシー(soft currency)って、ハードウェア(hardware)とソフトウェア(software)みたいな関係性からきているのか。でも経済じゃなくて機械の話だもんなぁ。はじめから別の新語を造らなかったのが用語混乱と思考混濁の原因なんでしょうね。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
朝日新聞主筆、退任 人事ニュース 企業ナビ マネー・経済 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/enterprises/jinji/20101215-OYT8T00670.htm

 

 船橋洋一さんと山本正さんって、どっちが上なんだろう?

 あと山本さんってウィキペディアの独自項目編集されてないのかな。とにかくキーワード検索で検出しにくいね。船橋さんはとても検出しやすい。

 

船橋洋一 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/船橋洋一
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
黒い砂状物質の正体は「火山灰」の可能性 富士山から飛来? – MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/kanagawa/101217/kng1012172306004-n1.htm

 

 なぜに火山灰が? 休火山(死語)富士山が活発化の予兆か。アイスランドのエイヤフィヤトラヨークトル火山みたいに盛大に噴火しないといいけど。ベンジャミン・フルフォードさんじゃないけど、どこまでも掘っていけばいつかは当たるんだから、人為的に起こそうと思えば出来るよな。熱いけど。

 

古歩道ベンジャミン – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/古歩道ベンジャミン
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
東京新聞35人学級は小1限定 30年ぶりの見直し社会(TOKYO Web)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2010121802000047.html

 

 むしろまだ40学級基本でやってたことが不思議。詰め込み教育を止めるのもいいが、その前に子供達をブタ箱に詰め込むのを止めたらいい。少子化してるんだから教員人数増やさずに出来るんじゃないの? 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【取手駅・無差別襲撃】将来の夢は小説家 「友人のいない孤独な男」斎藤容疑者 – MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101217/crm1012172239059-n1.htm

 

 卒業文集ってこれが目的でやってるんじゃないの? いい加減やめりゃいいのにね。どんな子供時代だったかなど関係ない。実際に引き起こした犯罪について淡々粛々と裁判にかければいいだけの話。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」 
リコール成立は「民主主義の曙」 河村たかし名古屋市長が講演 「いよいよ関ケ原」 – MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/101217/lcl1012171936002-n1.htm

 

 素晴らしいことだ。名古屋市民が羨ましいね。市議なんてどこも実情は似たようなもんだろうから、どういう市区町村長を選出しているかどうかなんだよね。まさに「民主主義の曙」は適格な表現だ。まぁ本当は「デモクラシーの曙」か「民衆支配政体の曙」とすべきなんだれけども。

 

河村たかし – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/河村たかし
 
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 そのうち朝鮮民主主義人民共和国じゃなくて本当に大朝鮮帝国という国名に変わるかも。その方が名が体をあらわしていて相応しいわけだが。

 

飯山一郎のLittleHP
http://grnba.com/iiyama/
 
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12月19日午後2時半日比谷公会堂で死刑反対集会 植草一秀の『知られざる真実』
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/12192-bf2e.html

 

 全く賛同出来ない。私は個人が復讐することを禁止している現行の法制度の前提において死刑制度を肯定している。身勝手なだけの殺人犯には死刑以外に相応しい応報刑は無い。私欲で他人を殺しておいて何が矯正・更生だ。
 
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(引用始め)

国会は行政権力を牽制する存在であり、国会議員には強い身分上の権利が保障されている。これを無視して、国会が国会議員の基本的人権に踏み込むのは、国会の自己否定そのものである。
(引用終わり) 

菅直人内閣小沢一郎氏政倫審招致強行は憲法違反 植草一秀の『知られざる真実』
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-a74f.html

 

 他ならぬ現職国会議員がこれを理解していなかったりする。元大蔵官僚である植草一秀氏に指摘されてしまうとはね。いっぱいいるど~でもいいヤツのかわりに植草さんや天木直人さんが議員だった方がどれだけこの国にとって有益なことか。

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/16 19:01

【96】Re:[98]硬貨論

 菊地研一郎さんへ

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 投稿[98]「硬貨論」ですが金貨1枚を購入されたそうで、「人生で最も虚しかった経験」とのことですが、いいではないですか。「虚しい」どころか「実のある」行為ですよ。「紙ペラ」を「実物」にかえたのですから。近い将来に訪れる経済体制の大変動と新体制移行に備えての資産防衛は各人当然の行動であり、私はむしろ積極的に肯定致します。

 件名の「硬貨論」も素晴らしい着眼ですね。インターネットのキーワード検索ではまとまった単語として全然ヒットしませんでしたので、おそらく日本語としては菊地さんが元祖「硬貨論」の造語でしょう。

「貨幣論」は沢山ありますが、「貨幣」はかなり語義が広いので「紙幣」の対義語としては「硬貨」が区別として分かり易いかと存じます。いちいち広義の・狭義のと断りを付けなくて済みますからね。

 ウィキペディアの項目「硬貨」には経済学用語として、

 

(引用始め)

硬貨(こうか)は金属で作られた貨幣である。コイン (coin) ともいわれる。ただし、経済学では硬貨とはハードカレンシー(国際決済通貨)や本位貨幣を指すことばである(逆に「軟貨」ソフトカレンシーとは国際決済に用いられない・用いることが出来ない通貨)。一般には硬貨はコインのことを表すので、この項目ではコインについて述べる。ハードカレンシーや本位貨幣については各々の項目を参照されたい。

(引用終わり)

硬貨 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/硬貨

 

 とありますが、「軟貨」っていう言葉があるとは初めて知りました。

 正直、この辺では英語の多義語ハード(hard)・ソフト(soft)の語義変遷に付き合わなくてもいいかなぁ。単に物質として硬い・軟らかいということと、通貨の国際決済能力の有る・無しは、関係が薄いのではないでしょうか。実際、硬いコイン(coin)よりも軟らかいペーパーマネー(paper money)の方が軽いし運び易くて便利なので、国際的にも流通しているのですから。

 ということで「硬貨」はコイン(coin)として従来通りの使い方に限るとすると、ハードカレンシー(hard currency)が「国際決済通貨」で、キーカレンシー(key currency)が「基軸通貨」なら、ソフトカレンシー(soft currency)は……「国際通用能力無し通貨」とか「国際決済不能通貨」とか「国際的信用力無し通貨」かな。

 ストロングカレンシー(strong currency)とウィークカレンシー(weak currency)の方が語意が明瞭でよほど実態を表しています。やはり強い・弱いをハード・ソフトの語義に含めることが混乱の元なのだと感じます。強いということと硬いということは違うし、弱いということと柔らかいということも違う。アメリカ人はこの区別が出来ているのでしょうか、多少不安になります。

 ところで引用文中の「コペイカ」は何だか懐かしいと思ったら、ドストエフスキーの『罪と罰』に頻繁に出てくるお金の単位でしたね。ロシア文学だから当然ですが。確かあっちは「カペイカ」表記だったかと記憶しています。

 グレシャムの法則で「悪貨は良貨を駆逐する」というのがありますが、これは額面が同じ貨幣での質の良し悪し(金の含有量の違い等)が流通に影響するということですけれども、現代の補助貨幣の場合は使い勝手が悪いのが悪貨ですね。あんまり悪貨過ぎるとかえって誰も市場で使いたがらないので「悪貨は自然淘汰される」でしょうか。誰も資産保全策で退蔵しているわけでもない2000円札みたいなものですね。とっておくでもなし、放っておくみたいな。まぁあれは記念紙幣みたいなもんですが。

 ついでに「悪銭身につかず」という諺もありますが、こちらは元来の「良銭」「悪銭」という質を表す言葉に倫理を持ち込んでしまって、思考を混濁させている典型ですね。気に食わない。実際の世の中は「悪銭身につく」。「悪銭」が倫理的語意を前提とするならば。

 さて菊地さんの金貨は日本国法定通貨としての流通貨幣ではありませんでしょうから、コレクターが収集している記念硬貨なんかより価値がありますね。もっとも先生が仰せのように、金貨や銀貨は作るのに技術や手間がかかっているということでの値段の分も含まれていて、ほかの金地金とは違って半分趣味の要素もありますから、買うとしたら最初からそのつもりで買えばいいのだと思います。

 硬貨はペーパーマネーの紙ペラ経済と実物経済の中間に位置していますが、これからは紙幣の補助という役割から変わっていく可能性もありますでしょうか。考えられる案としては現行の紙幣の換わりに高級金属を含有する硬貨を導入する。しかし引用文中にあるように私的に熔解して地金に戻されてしまうのが難点でしょうか。現行の補助硬貨の場合はそんな手間をかけても元が取れないということで誰もしませんからね。

 菊地さん、これまで存じ上げませんでしたが引用元サイト、面白い文章がありますね。ありがとうございます。

 

戦闘教師「ケン」 激闘永田町編
http://kenuchka.paslog.jp/

戦闘教師「ケン」 激闘永田町編 ロシアは財政難で悪鋳?
http://kenuchka.paslog.jp/article/1709850.html

 

ロシア・ルーブル – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロシア・ルーブル

グレシャムの法則 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/グレシャムの法則