ふじむら掲示板
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Loginはこちら【31】息子が父に語る吉本隆明
1.プロローグ
私の父は定年退職以降、もう10年以上も念仏に凝っている。元々、我が家の宗旨は浄土真宗だったのだが、父は念仏に凝りに凝った挙げ句、とうとう在家のまま僧籍まで取ってしまった。最近では我が家の旦那寺の若いご院家さん(住職のこと)に法論を挑んだり説教したりする始末である。全くどうしようもないバカ親父である。
10年ほど前、父に吉本隆明の親鸞論を紹介した。父はなぜか食いついてきた。「この人はとても頭の良い人だなあ」とえらく気に入った様子であった。
ところが最近、父は生煮えな吉本批判を口にするようになった。吉本の仏教全般に対する造詣は認めざるを得ないが、異教徒にあれこれと偉そうなことを言われるのが気に食わなくなったということらしい。父いわく「吉本は望遠鏡で親鸞を見ているような気がする」だそうだ。「吉本は国訳大蔵経を全巻読破したらしいよ」と言ってやったら、父はビビッていた。ざまあみろ。
ご院家さんから「吉本隆明の『最後の親鸞』とは一体どういう本なのですか」と問われたので、私は以下のように答えた。
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人類の世界認識は段階を踏んで発展してきた。社会科学というものが成立する以前に「世界とは何か。この世の中に違いを作り出して行くにはどうすれば良いのか」と言った問題に対処するには、宗教という形でそれをせざるを得なかったのだと吉本は考えた。
だから、鎌倉時代の日本人が何を考え、何をどうしようとしていたのか知りたければ、親鸞が書き残した著作を読むのが早道なのだと。
ここから先は私、藤村の解釈なのだが、吉本の以上のような論を踏まえると、宗教独自の存在意義はどうなるのか。吉本説に従えば「それは無い」ということになる。それじゃお坊さんがやる気を無くしてしまうだろう。ずいぶんな言い草もあったものではないか。
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ご院家さんには以上のようにお答えしたが、それから先も「吉本隆明って、結局どういう人だったのだろう」という問題が頭から離れなかった。ずっとあれこれ考え続けていた。
本日、その思いを断ち切るため私なりのメモを記す。
吉本の原文は確認していないので、私なりに言い換えた箇所もあり、またおそらく思い違いもあるだろう。その点はどうかご海容いただきたい。
2.<大衆の原像>について
吉本思想のよく知られたキー・ワードは<大衆の原像>である。それは概略、以下のようなものだ。
人類史を発展させてきた原動力は政治でも経済でも思想でも法律でもなく、大衆の営々たる生活の営みなのだと吉本は説く。
大衆とは子を産み育て、やがて死んで行く、後世顧みられることのない人々のことである。自分の家族を養い守ることに自分の全てを注ぎ込んで生きている人々であり、世間に向かって言葉を発することもなく、また文字を書き残すこともなく去って行く人々である。
知識人や知識人の集団(宗派や党派)も、元はと言えばこの大衆の中から生まれ出てきたものなのだが、自らの知的能力で世界(時間と空間)を把握しようとした時点で、そしてそれを文字にして残そうとした時点で、知識人やその集団は既に大衆から浮き上がった存在になっている。
大衆はそんなカネにもならないことには興味を示さないからだ。自分の生活でイッパイイッパイだからだ。
知識人とは要するにヒマ人のことなのである。知識人の集団(宗派や党派)とは、自分たちの利害と直接関係ないことに余計な口を挟みたがるお節介焼きのことである。小さな親切、大きなお世話なのである。
だから知識人やその集団は、自らの世界観の中に<大衆の原像>を繰り込む努力を常にしていないと、必然的に独りよがりな視野狭窄に陥って腐敗堕落してしまう。以上の論拠から、吉本は日本共産党の硬直して独善的な世界観を批判し続けた。
これが吉本の言う<大衆の原像>のあらましである。
3.大衆の戦争参加について
さて<大衆>の定義が以上のようなものだとすると、昭和戦前の日本の大衆が率先して戦争に参加したのはなぜなのか。
蒋介石やルーズベルトが、今すぐにでも日本の大衆を虐殺しに来るという状況でもなかったのに、なんで日本の大衆は見ず知らずの他人を殺しに行くのに抵抗を感じなかったのか。
「大衆は自分の家族を養い守ることに自分の全てを注ぎ込んで生きている。カネにもならないことには興味を示さない」という、最前の定義と矛盾しているではないか。
この点については、戦後になって以下のような説明がされることが多い。
(説明A)私は本当は戦争に反対だった。でも、それを口にできるような雰囲気ではなかったのだ。だからイヤイヤ従っていたまでのことである。
(説明B)私は<無辜(むこ)の民>だ。私は軍国主義者やそれに追随したマスコミにまんまと騙されていたのだ。いわば私は軍国主義の被害者だ。だから、もう騙されないぞ。
(説明C)わが日本共産党は戦争に一貫して反対してきた唯一の党である。だからこそ、非転向のわが党員はみな獄に投ぜられていたのだ。
吉本は(説明A)を「戦争傍観者の言い訳、自己正当化に過ぎない」と切り捨てる。
(説明B)は「床屋政談の類だ。こういうカマトトぶって訳知り顔をしたがるヤカラに限って、今度はマッカーサーやスターリンにまんまと騙されてしまうのだ」と言う。
(説明C)に至っては「要するに獄中にいたので何もできませんでしたというだけのことではないか」と切って捨てた。
吉本は本当はこう言いたいのである。
「国民はみな、熱狂して戦争に協力したではないか。軍国少年だった私はその様子を目撃している。私もまた、祖国の勝利を心から信じていたのだ」と。
それじゃあ再度聞くが、大衆が熱狂して戦争に協力したのはなぜなのか?自分のトクには金輪際ならないことなのに、進んで我が身を危険に曝したのはなぜなのか?
ここで吉本思想のもう一つの顔が現れる。余り指摘されることはないが、吉本という人の地金なのである。
いわく、人間は一人で生まれて一人で死んで行く。その限りでは孤独な存在である。
だが、生きている間は決して一人では生きて行けない。どんな人間でも、自らの家族と、友人、隣近所、祖国と、そして全人類とつながりあっているからこそ生きて行けるのだ。
つまり人間は、ある時には孤独な存在だが、またある時には家族の一員であり、良き隣人であり、忠実な臣民であり、さらには<人類の一員>でもあるのだ。
このことは哲学だの思想だのに関心も知識もない大衆でも、みなが理解していることなのである。
逆に、イイ歳したオトナになってもそういった自覚と責任感が持てない者は、世の中からハジき出されてしまう。これは小林秀雄の言葉だが、「世捨て人とは世を捨てた人のことではない。世に捨てられた人のことなのである。」
以上を踏まえて吉本は言う。
人間というものは、自分の身の丈よりも大きな価値、たとえば「会社のため」、「おらが村のため」、「祖国のため」、「人類のため」といったものを持ち出されると、みんながみんなそちらに靡いてしまうのだと。逆に言えば、そういった大きな価値、大きな正義に身を預けるのでなければ、見ず知らずの他人を殺すため鉄砲担いで海を渡ることなどできはしないと。
なんだか純真無垢な軍国少年そのまんまの言い草である。実際、吉本の青春時代は太平洋戦争の期間とピッタリ重なっている。つまり吉本隆明という人は、戦争中の軍国少年がそのままオトナになってしまったような一面もある人なのである。
4.吉本隆明はなんで仏教やキリスト教に<浮気>したがるのか。
吉本隆明は軍国主義にまんまと一杯食わされた。もちろんその事に対する反省はある。
それで戦後、吉本は一転してアカになった。だが、「もう騙されないぞ。今度は革命だ」と思い込めるほど単純バカでもなかった。おまけに組合活動のやり過ぎで会社をクビになってしまった。これじゃあ誰だって反省するだろう。
もちろん問題は「反省したかどうか」じゃなくて、「何をどう反省したのか。反省した結果、何をどう是正処置するのか」であることは言うまでもない。
ここで吉本さんがユニークなのは、その反省の仕方である。吉本さんはこう考えた。
人間というのは、一見すると自らの家族を養うことしか眼中にないように見えるが、実は普遍的な(全人類に直結するような)大きな価値基準、大きな正義なしには生きて行けない生き物なのではなかろうか。これは知識人であると大衆であるとを問わない。また、古今東西も問わない。
では、人間にとって思想とは一体何なのか。どうして人間が頭の中でこしらえた観念に過ぎないものが、大衆の大多数を動かすほどの力を持ってしまうのか。
いや、そもそも「人間は考える葦である」とは一体どういう意味か。考えること、そしてそれを言語で表現することを通して、人間は世界(人類の総体)とどのように関わっているのか。
かくて吉本さんの<自分探しの旅>が始まった。
軍国主義はダメだった。共産主義もイマイチ肌に馴染まない。
だから吉本さんは、キリストだの親鸞だの良寛だの麻原彰晃だのに<浮気>したがるのではなかろうか。それらのものを、無理矢理ヘーゲル流に捻じ曲げて、近代合理主義的に解釈したがるのではなかろうか。
吉本さんは一面、多芸多才な雑食性のジレッタントのようにも見えるが、「世界思想とはどんなものであるか、思想の世界基準とは何か」に拘り続けたという意味では、一貫している人だったと私は思う。
今日では、上記のような問題意識を抱いた人は大学に留まって思想史、比較思想または言語学の研究者にでもなるのではなかろうか。
だが、吉本さんは腐ってもアカである。かつては「おれが革命といったらみんな武器をとってくれ」(恋唄)と詠った人である。到底大学の枠内に納まるような人ではなかったということなのだろう。吉本さんもまた、時代の子だったのである。
ちなみに吉本さんはクラウゼヴッツの「戦争は他の手段をもってする政治の継続である」を踏まえてこう言った、「戦争は他の手段をもってする大衆弾圧の継続である」と。私はこの言葉が好きだ。
司馬遼太郎は昭和の軍国主義を親の仇と怨む余り、日露戦争を持ち上げたりした。私はこれに同意しない。203高地で機銃掃射されて死んだ日本兵だって、なにも喜んで死んで行った訳じゃなかろう。
「戦争は他の手段をもってする大衆弾圧の継続である」とは、私が同意・承認できるほとんど唯一の歴史観である。
5.再読・吉本隆明『最後の親鸞』
『最後の親鸞』を再読して思った。吉本隆明は<歪んだ真珠>のような人である。
親鸞に対する評価が歪んでいるのではなく、評価軸そのものが歪んでいるである。そしてその歪みこそが、吉本思想の魅力の源泉にもなっている。カリスマとはかくの如きか。
ここまでは誉めた。ここから先はクサす。
私見では、吉本は西洋近代合理主義の台木の上に、仏教を接ぎ木したのだと思う。西洋近代合理主義と仏教とでは、プロブレマティーク(注)がまるで違うというのに。
(注)プロブレマティークは問題構制と訳されている。ここでは「最初にどういう問題設定をしたかによって、導き出される答えも自ずと制約されてしまう」という意味でこの言葉を用いている。
吉本は国訳大蔵経を全巻読み込んだとのことだ。その労力たるや恐るべきものである。そこまでやった上で、なおかつ仏教を自分流に捻じ曲げてしまうのだから、まるで法廷闘争に長けた共産党のラツ腕弁護士のようではないか。
私の心の中に、西洋近代合理主義と仏教という全く別種の木が二本並んで生えていても良いではないか。私はそう思っている。どちらにせよ、仏教オンチはとても恥ずかしいことである。
(以上)
【30】NHKの片棒かつぎます。
NHKの片棒かつぎます。別に「受信料払え」という積もりはありませんが。
[61]で取り上げた高橋優が、NHK総合の20分ドキュメンタリーで取り上げられます。ご興味がおありの方々はどうぞ。
(引用、始め)
http://www.nhk.or.jp/program/20min/
NHK総合、1月16日(月)【15日深夜】午前0時40分~1時00分
ドキュメント20min.
「“今”伝える~シンガーソングライター 高橋優~」
デビュー2年目にしてCMやドラマに楽曲が次々と採用される、いま期待のシンガー・ソングライターの高橋優。その魅力は、力強くまっすぐな歌詞。ライブでは、若者たちが共に歌い・笑い・涙し、熱狂の嵐に包まれる。なぜ、そんなにも若者の心をひきつけてやまないのか。高橋の歌に励まされている若者の目線から、その魅力に迫る。さらに、歌詞が生み出される現場にも密着し、言葉へのこだわりを探る。
(引用、終わり)
(以上)
【29】年頭所感・プラハの春44周年に当たって
謹賀新年。
せっかくの正月休みなので、スメタナの交響詩「わが祖国」より第2曲「モルダウ」を聴いた。事のついでにシベリウス「フィンランディア」も聴いた。
1942年生まれの母はご幼少のみぎり、「キィタは樺太、千島よりぃ、ミィナミ、台湾、膨鼓島ぅ」なる歌(注1)を、いつとはなしに聞き覚えたという。
また、旧軍時代の絵ハガキ(たとえば帝国海軍練習生がハツラツと訓練に励んでいる様子を描いたものなど)が家の中にゴロゴロしていて、子供のオモチャになっていたという。
もちろん戦後の話である。
(注1)この歌の素性はネットでは分からなかった。この領土範囲だと1905~1919年の間の歌のように思える。父母によると、同一メロディの歌を他にも聴いたことがあるので、替え歌の可能性もあるという。
わが祖国は戦争に負けてアメリカの属国にされた。占領中、政治・軍事・経済に関してはアメリカの手で徹底的に外科手術を施された。だが、文化的同化までは強制されなかったと私は考える。
もちろん占領期間中は旧内務省=特高警察より厳しい報道統制を敷かれ(注2)、一般大衆の郵便物まで開封・検閲された。だが、あの自爆テロ讃美ドラマ「仮名手本忠臣蔵」が、まだ占領中の1947年に復活上演されているのである(占領軍の中に日本オタクがいたらしい)。
(注2)旧内務省=特高警察による検閲はヤバイ文字を伏せ字にしただけで、前後の文脈を踏まえれば「××主義」とは「共産主義」のことかと容易に推測できる間の抜けたものだった。
一方、占領軍の検閲では気に食わない文言を丸ごと削除し、ズタズタになった文章を文意が通るよう書き直してもう一度持って来いと命じる、ご念の入ったものだったという。
1942年生まれの母の生活環境に戦前文化の残り香がプンプンしていたというのは、それらのものが「そのスジに発覚すれば手が後ろに回りかねないほどヤバイもの」ではなかった証拠とは言えまいか(注3)。
(注3)旧軍の武装解除(1945)、日本共産党員釈放(1945)、農地解放(1946)、東京裁判(1946~8)、財閥解体(1946)、憲法改正(1946~7)、ドッジライン(1949)、シャウプ勧告(1949)等の政治・軍事・経済イシューは、文化イシューとはまた別の話である。
そもそも戦前と戦後の文化的断絶を、あまり過大に評価すべきではないと私は考える。すめろぎは退位も廃位も強制されず、人間(ひと)となりたまひて強かに生き延びたではないか。
我々は英語のアメリカ式発音やコカ・コーラやエルビス・プレスリーを、そしてレジスターや品質管理ノウハウやオペレーションズ・リサーチを、自ら進んで取り入れたのであって、CIAに強制された訳ではない。アメリカの奴隷ではあっても、囚人ではない。アメリカは「男子は全員、弁髪にしなければ首を切るぞ」とまでは言わなかった。
それでは、アメリカ人に征服された訳でもないのに、なんで私はStandard Jazzを流暢な英語で歌いたいとdesperately願うのか。
NHK・Eテレの「3か月トピック英会話 歌って発音マスター!~魅惑のスタンダード・ジャズ編~」を毎回イソイソと見て、[p][b]、[f][v]とかいったアメリカ式発音練習に、なんで私はセッセと励むのか。
http://www.nhk.or.jp/gogaku/english/3month/
おリコウさん(複数形)は言う、バカモノ(複数形)だけがアメリカ文化に殺到すると。それでもボクはElvis Presleyの流し目と美声を愛さずにはいられないんだよ。
お隣りさんの韓国人は「有史以来1000回以上も侵略され、すべて撃退してきた」そうだ。韓国の人たちがあんなギトギトした、物事をドライに割り切る事大主義者になってしまったのはそのせいだろうか。韓国ドラマをほんのちょっとでも見れば、納得はできることだが。
対するにわが祖国はと言うと、緑は今もみずみずしく、乙女はあでやかで、人の心はカモメのように真っ白である(今のところは)。愛するひとは美しく、愛するひとはすこやかである(今のところは)。
実は我々日本人は、異民族による征服というものを、ただの一度も経験していないのではなかろうか(今までのところは)。
(本文、終わり)
[ヘレニズム文化とは]
紀元前334~323年、アレキサンダー大王の征服によりオリエント全域にギリシャ文化が強制され、その結果生じた東西折衷文化のことである。
たとえばインド亜大陸北西部では、こいつらに征服されるまで仏教徒は「法輪」というシンボル・マークをおシャカさまに見立てており、偶像崇拝を厳しく禁止していたという。そう思って見ると、ガンダーラの仏像というのはギリシャ人の仮装大会のように思えて来る。ウソだと思ったら、上野の東京国立博物館・本館に行って見給え。
1066年 イギリス、ノルマン・コンクェスト。
英語にフランス由来の外来語が残存しているのはこのためだという。
1453年 オスマン・トルコによる「イスタンブルの開拓」または「イスタンブルの征服」。
メフメト2世はただちに同地に遷都。
1492年 スペイン・グラナダ陥落によりレコンキスタ完成。
同地のイスラム教徒およびユダヤ教徒はキリスト教への改宗を強制され、これを嫌う者は追放された。
1532年 神聖ローマ皇帝カール5世のフィレンツェ制圧より、フィレンツェ共和国は世襲のフィレンツェ公国となった。
チェーザレ・ボルジア(1475~1507)、ニコロ・マキアヴェッリ(1469~1527)は遠くなりにけり。
1618~1766年 三十年戦争、ファルツ継承戦争、ポーランド継承戦争等を通じ、ブルボン朝フランスは神聖ローマ帝国領アルザスを徐々に蚕食していった。
1871年 普仏戦争によりドイツ帝国が第三共和政フランスからアルザスを獲得。
1910年 日韓併合。
その後、何が起きたかはご存じの通り。
1919年 第一次世界大戦により第三共和政フランスがドイツ・ワイマール共和国からアルザスを獲得。
アルザスの争奪劇は第二次世界大戦でも繰り返される。
1932年 満州国建国。
その後、何が起きたかはご存じの通り。
1956年 ハンガリー動乱
1968年 チェコ・プラハの春
もっこ (東北地方の子守歌)
寝んねこ
寝んねこ
寝じゃろえ
寝んねば
山から
もっこ(注4)来らね
それでも泣けば
山さ捨ててくる
寝ろじゃヤエヤエヤエ
(注4)「もっこ」とはお化けのことだとも、蒙古のことだとも言う。
なお、この歌には下記のような別バージョンがある。
http://komoriuta.cside.com/nenneko/nekoview.cgi?mode=V&num=53
(以 上)
【28】映画「源氏物語 千年の謎」感想
<映画データ>鶴橋康夫監督、2011年12月公開、東宝
<私 見> ホラー仕立ての源氏物語であった。
怖い怖いオバケ女(源氏の愛人の生霊)がバンバン出て来るが、一番怖いのは、実は作者の紫式部だったという話。
古典文学の近代的再解釈(商業化?)としては、まあイイ線行ってる方だと思う。
おいしい役(悪役、コワイ役)は、六条御息所を演じた田中麗奈が独り占めしていた。
平安貴族を演じた女優陣が(役目がら、)皆フリの小さい、表情に乏しい演技に終始していた中、紫式部役の中谷美紀だけは如何にも自意識の強そうな「近代女性」と見える役作りをしていた。
そもそもこの映画は、以下のような見立てに基づいている。
「紫式部は、自分が仕える主君である藤原道長への激しい思いを胸に秘めていた。実は『源氏物語』とは、紫式部が胸の中の苦しい思いを、そのまま草紙にぶつけたものなのである。」
創作がそんな単純なものであれば誰も苦労しないと思うが、まあ俗受けしやすい設定ではある。
この設定に基づき、道長役の東山紀之、そして紫式部役の中谷美紀も、極力、感情を内に秘めたような演技をしている。この二人が前に出すぎると、話の本筋である光源氏の方が霞んでしまうからだ。
東山と中谷だけの見せ場はいくつかあるのだが、注意していないとそのまま見過ごしてしまうほど控えめなものであった。
そして、二人の抑えた演技を見ていると「紫式部・片思い説」というのは案外、事実だったんじゃなかろうかとも思えて来るから、全く大したものである。
東山紀之は、バカにできない良い役者に育った。
***************************************
『源氏物語』のキーとなっている怨霊信仰について、私の見解を述べる。
平安貴族の平均寿命は40歳程度だったという説を聞いたことがある。
つい最近までピンピンしていた人物が、ふとした病で空しくなってしまう。そういうことが頻発する日常だったと思われる。
「なんであいつは、いきなり逝ってしまったのか。」
「××の怨霊のせいじゃないのか。」
そうでも考えなければ合理的に説明できない、やりきれないような気持ちだったのではなかろうか。たかが雷がなっただけでも「怨霊だ怨霊だ」と騒がずにはいられなかったのではなかろうか。
人知を超えたものには祈るしかない。謙虚であるしかない。
これは我々現代人だとて、同じことなのではなかろうか。私はこのことを、東日本大震災と、その後も打ち続く余震の中で痛感した。停電にせよ断水にせよ、もう手の打ちようがなかったのである。
我々が祈ること、謙虚であることを忘れたシッペ返しが、福島第一原発の「想定を超えた」事故だったのではなかろうか。
もしもそうだとするなら、福島第一原発の件は決して偶然ではない。我々はもう既に、取り返しのつかない道を歩んでしまったのかもしれない。
(以 上)
【27】恐らく、ごくごく一部の興味しか引かないだろう話
<書誌事項> 『置文21』編集同人・編「回想の全共闘運動(副題)今語る学生叛乱の時代」彩流社、2011年、318ページ
<本書の内容> (版元のサイトより)
第1章 いかに顧みるか●視点と方法
1、導入─大学闘争を振り返ることの意義と意味 大石和雄
2、いま全共闘をどう扱うか?方法の問題 神津陽
3、学生運動と社会主義の結合としての全共闘運動 大石和雄
第2章 東京教育大●筑波移転闘争の記録
1、かつて教育大闘争があった〈16の断章〉 水沢千秋
2、全学闘と廃校と─東京教育大65~70年私史─ 前田浩志
第3章 慶應大●68年・69年バリスト闘争の記録
1、六八年・六九年─慶應大学バリスト闘争回想記 三森義道
第4章 日大●正義の百姓一揆の記録
1、思想性なき正義の百姓一揆 太郎良譲二
2、日大全共闘にとっての東大闘争共闘とは何だったのか 太郎良譲二
第5章 筆者座談会●全共闘運動を検証する
大石和雄、佐野正晴、太郎良譲二、前田浩志、三森義道
<私 見> 本書は、中央大学、東京教育大学(現・筑波大学)、慶応大学、日本大学と、各校の「校風」、「風土」または「学生気質」の違いに踏み込んだ点が、従来の類書と比べて異色である。
学生運動にも各校それぞれのスクール・カラーが反映することは、体験的に知ってはいたが。
さて、本書によって初めて知った驚天の知見が二つあった。
今となっては、恐らくごくごく一部の興味しか引かない話だと思うが、ここにご紹介したい。
1. 東大・安田講堂の攻防戦は「アッツ島の玉砕戦」だったという話
東大・安田講堂の攻防戦は1969年1月18日から19日にかけて行われた。戦術的には学生側のボロ負けだったが、マスコミには大きく取り上げられて、以降は「学生運動の殉教・受難」のシンボルみたいになった。
証言者は日大全共闘OBの太郎良譲二氏。以下が証言である。
(引用、始め)
(藤村注;安田講堂攻防戦の際、他大学の学生は後方霍乱のため「神田カルチェラタン闘争」を仕掛けた。)
出発の際、執行部メンバーから「今日の日大全共闘の役割は、御茶ノ水防衛である」と厳命された。中央大学中庭での集会を終えてデモに入ろうとすると外は機動隊が幾重にも取り囲んでいた。一時の投石戦の後、機動隊が靖国通り方向に後退し、御茶ノ水一体(原文ママ)は解放区カルチェラタンと化した。当然、その勢いで安田講堂陥落阻止の支援に向かうと思っていたら、再度「日大全共闘は、防衛に徹しろ」と指示が来た。御茶ノ水交番前でたむろしていると、他のセクト諸君が順天堂病院方向に進撃し、機動隊と対峙している様が遠目に見えた。しばらくして、本郷まで様子を見にいった行動隊の一人が「本郷まで機動隊はいない」と言い、「東大に向かおう」と提案した。しかし、執行部メンバーからまたまた「御茶ノ水橋を渡るな」との指示。(実はこの頃、機動隊は催涙弾を使い果たしていた。日大情報局による無線傍受で情報をつかんでいた)結局、午後七時頃までぶらぶらして学部バリ(藤村注;バリケード封鎖された学部棟のこと)に戻った。
翌一・一九においても、日大全共闘は「御茶ノ水防衛」とのことで、東大本郷に向かうことはなかった。夕方に「安田講堂陥落」との情報が入り、気が抜けたように学部バリに帰った記憶がある。
当然、皆から不満の声が漏れ始めた。「なぜ東大に向かわなかったのか」
(中略)
「なぜ東大に向かわなかったのか」のなぞは、一○年ほど前から解き明かされてきた。その切っ掛けは、日大情報局担当だった学友から当時の無線傍受記録の一部を耳にしたことにある。前記のように一八日の午後には東大攻防戦で催涙弾を使い果たし、無駄に催涙弾を使うなと指示が出ていた。御茶ノ水一体(原文ママ)が解放区になっているのに機動隊が規制に来ない理由が判明した。
また、当日の学生側指揮本部は全学連各セクト幹部が仕切っており、特に日大全共闘を東大に行かせまいとした。なぜなら安田講堂は一八日の午前中には陥落させる予定で、各セクトは全国からパクラレ要員を募り籠城させていた。安田講堂は日大全共闘がバリケードを補強強化したお蔭で予想外に陥落が遅れた。機動隊との戦闘になれた日大全共闘が安田講堂の機動隊と直接対峙すれば更に陥落が遅れ、下手をすれば安田講堂のバリ撤去が中止されると考えていたのだ。味方に敵がいたのである。
何の目的で画策したのか。マスコミで大きく取り上げられることで大衆の関心を引き、七○年安保闘争勝利の布石を打ったと耳にした。この件は、旧ブント幹部や日大全共闘幹部の口から同じ内容を聞いた。知らぬは○○ばかり也。当事者日大全共闘ばかりか、少なからずいた東大全共闘のノンセクト学生が利用されただけだったのか。(前掲書、249~251ページ)
(引用、終わり)
1943年5月29日、アリューシャン列島アッツ島で、帝国陸軍守備隊2,700名が全滅した。
元々はミッドウェー作戦の陽動のため占領したので、米軍に反攻されたら一溜りもないことは分かっていた。
そして実に、このアッツ島攻防戦こそが我が「玉砕戦」の第一号であり、このため戦死者たちはマスコミを通じて軍神と称えられ、「必勝報国」(早い話が、戦争に行って死んで来いということ)のシンボルとなった。
なお、隣接するキスカ島にいた陸海軍守備隊6,000名は、霧に紛れての撤退に成功している。
安田砦に立て籠もった学生たちは神風特攻隊、またはアラモの砦のつもりだったのだろうか。彼らはその結果に満足したのか。
2.東大全共闘の実態は、セクトの寄り合い所帯だったという話
同じく、日大全共闘OB太郎良譲二氏の証言である。
(引用、始め)
数年前に山本義隆氏(藤村注;元東大全共闘議長。左翼業界では有名な人)から聞いたことがある。彼は次のようなことを言っていました。
「東大全共闘は、党派同士が共に闘うもので、対日共ということで体制を固める必要があり、それで誰か中立的なやつを議長にしようということで自分が指名された。東大全共闘というのは全共闘ではないよ。なぜって、自分は学生ではなく、助手という学校側の人間だよ、それが議長だよ」と。
それで私は、一・一八~一九決戦では各セクトが各施設に陣取っていたことへの疑問が解けたんですよ。(前掲書、281ページ)
(引用、終わり)
私が未だバカタレ学生だったころ、「60年代末頃、東大駒場キャンパスには新旧左翼・全セクトの支部が出揃っていた」と聞いて、内心羨ましく思ったものである。選択肢は多いに越したことはない、さすが東大駒場だけのことはあると。
だが、「ノンセクトが全共闘の主導権を握れず、セクトに牛耳られてしまった」という所に、私は東大生の悲しさを感じる。
頭が良過ぎる人間というのは、ナニをするにしても理屈や損得勘定が先行してしまうからだ。だから、東大駒場がセクト支部の花盛りになるのである。
なまじ頭が良いために、なまじ自分の知的能力に自信があるために、「学生運動をするんだったら、まずはセクトの言い分を聞いてみなくっちゃ」と思う。クソ真面目な人間ほどそう思う。そして、それが躓きの石になるのである。時には頭でっかちが禍して、ハムレットみたいにニッチもサッチも行かなくなるのである。
バカタレはなんにも考えずにバカなことをしでかす。だから、バカほど怖いものはないのである。まさに魯迅の小編「賢人と馬鹿と奴隷」にある通りである。
ちなみに我が母校は、隣近所の2校とセットで「ホーチミン大学」と呼ばれ、世間の顰蹙を買っていたが、利口にもバカにも徹し切れなかったのが我が母校のダメな所だと、本書を通読して思った。
それにしても、当事者たちの回想を読んで、60年代の運動シーンは未だ随分と牧歌的だったんだなと思わずにはいられなかった。
70年代以降の新左翼は、ただの人殺し、またはギャング集団と代わらないではないかと言われたら私には返すべき言葉がない。
(以 上)
【26】高橋優「少年であれ」ほか
<高橋優・略歴> たかはし ゆう。歌手。男性。1983年生。秋田県出身。自称「今思ったことを今歌う、リアルタイム・シンガーソングライター」。
<山本幸治氏による紹介記事>
(藤村注;富野由悠季や宮崎駿といった「大御所」から見ると、最近のクリエイターたちが小粒に見えてしまうのは致し方ないことだ、と認めた上で、)
今この時代にとっての真ん中のテーマって何だろうと考えたとき、2つの曲が頭に浮かんだ。「素晴らしき日常」(高橋優)と「3331」(ナノウfeat.初音ミク)だ。
真正面から描くというよりは自分自身を相対化しているように見えるかもしれない。でも、ダイレクトに時代を歌っていると言えるだろう。
そして、そういうスタンスが今の真ん中なのだとしたら、大御所たちにも新しい創作意欲を持ってもらえるかもしれない。
(出典)「SPA!」 Vol.60 No.42 (2011.12.13) P101、山本幸治「アニメ定量分析」Vol.45、扶桑社
<事務所宛・ファンレター>
拝啓 高橋優様
藤村甲子園と申します。「SPA!」12月13日号、山本幸治氏の連載コラム「アニメ定量分析」で、貴台のお名前を初めて知りました。
そこで、You Tubeにアップされている音源を、片っ端からチェックしてみました。久しぶりに新鮮さを感じさせる才能に出会ったと思いました。
小生のこれまでの不明を恥じます。やはり、地上波テレビの歌番組をチェックしているだけでは、本当に新しいものを見逃してしまうんだなあと痛感しました。
小生は「少年であれ」が一番好きです。歌詞と曲のバランスがよく取れていると思います。貴台の「私小説的メッセージ・ソング」系統では、この曲が一番、完成度が高いと思います。ピアノとチェロのアレンジも良いと思いました。
「誰もいない台所」、「虹と記念日」、「靴紐」も好きです。これらは、誰が聴いても「いいな」と思えるだろう、素直なラブ・ソングスですね。
「現実という名の怪物と戦う者たち」、「こどものうた」は、曲のテンポが良いので好きになりました。そうか、こんなアゲアゲの曲も作れる人なんだと思いました。
貴台は、才能に幅のある作家だと思います。これからの人だと思います。まだまだ伸びて行く余地のある人だと思います。
ここ10年ほどはリズム全盛、ダンス全盛の時代でしたが、そろそろ音楽好きの聴衆に飽きられて、これからメロディ・メーカーたちの巻き返しが始まるのでしょうか。
早速、最寄のCDショップにアルバムを注文します。貴台の今後益々のご清栄をお祈りします。 敬具
<アルバム「リアルタイム・シンガーソングライター」感想>
藤村です。
アルバム聴いて思いました。
これはなんと、性急で生硬な「異議申し立て」系メッセージ・ソングの連発ではないか。まるで40数年前の全共闘のアジ演説みたいだ。
でも、それこそが高橋優の楽曲の魅力ナンデス。
高橋は現在27歳。こういった青臭さが許されるギリギリの年齢だと思います。
もしもの話、48歳の小生が、これと似たようなメッセージ・ソングをこしらえて人前でシャウトしようものなら、良くて「さんまのSUPERからくりTV」の「サラリーマン替え歌選手権」、ヘタすりゃただの「頭のおかしいデブ男」扱いです。
性急で生硬。これは決して短所ではありません。実にこれこそが青年の特権なのであります。
ああ、「青年」なんて言葉、久しぶりに使うなあ。
天は高橋優に、イケてる歌詞とイケてるメロディの「二物」を与えました。
でも惜しいかな、美声は与えませんでした。ダミ声ナンデス。
声の良し悪しも、もちろんサウンドの一部です。スーザン・ボイルみたいなタダのオバハンでも「天使の歌声」ひとつで成り上がったのに、実に実に残念なことです。
ルックスの方は、まあ、スガシカオ程度にはイケてると思うンデスが。
「負けるな、少年よ。」©高橋優
(以 上)
【25】突破マンガ「くすりポン吉」
<書誌事項> 伊東あきを・作「長篇マンガ くすりポン吉」1949年発行
<伊東あきを・略歴> 不明。「狼少年ケン」等の作者、伊東章夫と同一人物か否かも不明。
<情報源> 「SPA!」 Vol.60 No.42 (2011.12.13) P103、岩井道「マンガ極道」其の一四三、扶桑社
<岩井道・略歴> いわい みち。まんだらけ中野店副店長として多忙な日々を送る。まんだらけのサイト( http://www.mandarake.co.jp )にて、コラム「岩井の本棚」を連載中。独自の視点で注目マンガを紹介する。(上記SPA!による)
<私 見> 「くすりポン吉」は異色の時代劇マンガ、またはナンセンス・ギャグ・マンガである。
主人公はヒロポン中毒と思われる少年剣士。そのストーリーたるや、下記の如きである。
(1)主人公は、襲撃してきた強盗に「クスリ」をかけて無力化する。強盗はこの「まぼろし薬」によって幻覚症状を発し、そのまま昏倒してしまう。
(2)催眠強盗に遭って眠り込んでいる町の人たちを、主人公は覚醒剤で一人残らず起こしてあげる、
と言った、「喜劇新思想体系」(1972~4)時代の山上たつひこでもやらなかったような外道マンガなのである。
念のためにお断りしておくと、「喜劇新思想体系」は青年劇画である。対するに「くすりポン吉」は、どこからどう見ても子供向けのオモチャ漫画である。「あんみつ姫」や「轟先生」と同時期のマンガなのだ。
本作が刊行された1949年当時、ヒロポンは未だ合法ドラッグだったとは言え、余りにもアブナい内容を余りにもアッケラカンと描いているので、上記・紹介記事を読んで、小生はおかしくて大笑いしてしまった。この作者、気は確かか。
この時代、児童マンガに注がれる世間の目は殊の外キツかったと聞く。当時のわが国は、教養主義・善導主義の全盛時代だったのである。あの手塚治虫ですら、何度も不買運動の槍玉に挙げられているのである。
しかるに「くすりポン吉」たるや、「荒唐無稽」、「俗悪」、「子供の教育に良くない」どころの話ではない。ただひたすらアブナいのである。
しかもその絵柄が決してデンパ系ではなく、杉浦茂ばりのホノボノ系という所が何とも味わい深い。
本当は「SPA!」誌上の岩井道の図版入り記事をご紹介したいところなのである。是非とも最寄のコンビニでチェックしていただきたい。
小生が子供だった1970年代初頭は、価値紊乱・秩序破壊を意図したかのようなアナーキーなマンガが大挙して出現した時期であった。山上たつひこ「喜劇新思想体系」を横綱格として、小生は下記のような作品群を直ちに思い出す。
手塚治虫「やけっぱちのマリア」(1970)
ちばてつや「餓鬼」(1970)
谷岡ヤスジ「メッタメタ ガキ道講座」(1970~1)
赤塚不二夫「レッツラゴン」(1971~4)
石森章太郎「劇画 家畜人ヤプー」(1971)
永井豪「オモライくん」(1972)
ジョージ秋山「ゴミムシくん」(1972~3)
ところがどっこい「くすりポン吉」を前にすると、上記の傑作群が「学研の学習マンガ」みたいな、クソまじめだけが取り柄の退屈なマンガと思えてくる。
アナーキストと言うのは、実は意外と謹厳実直なカタブツが多いものである。「最初からオカシナ奴」の破壊力には、到底敵わないのだ。
「くすりポン吉」は珍本には違いないが、内容が内容だけに復刊は金輪際ないだろう。なお、本書はマンガ専門古書店「まんだらけ」に、現在1万2千円で出品されているとのことである。
「ならば、このオレが」と、ほんの一瞬だけ魔が差してしまったが、すぐに思い直した。
こんなものに1万2千円を払う余裕があるなら、それをそっくり共同募金でもした方がはるかに意味があるだろう。
(以 上)
【24】カエサルのものはカエサルに
<書誌事項> 2011年12月5日、読売新聞「解説」欄、「論点スペシャル・ヨーロッパの行方」
(インタビュー1)遠藤乾「統合の利、今も大きい」
(インタビュー2)橋爪大三郎「将来からの逆算、大切」
<遠藤乾・略歴> えんどう けん。1966年、東京都生まれ。北海道大教授。欧州委員会・専門調査員の経歴を持つ。専門は国際政治学・EU研究。編著に「ヨーロッパ統合史」「複数のヨーロッパ」など。(前記・読売による)
<私 見> 新聞で遠藤乾氏のEU論を読む。同氏の論により「補完性原理」なる言葉を初めて知った。
(引用、始め)
理念から見れば、EUには補完性原理という考えがある。
「より小さい単位が自らの目的を達成できる場合は、より大きな単位は介入してはならない」とする消極的原理と、「小さな単位が自らの目的を達成できない場合は、大きな単位が介入しなければならない」とする積極的原理からなる。
もともと軍隊の正規軍と予備軍の関係を指し、のちにキリスト教会の小教区と大教区の関係、市民社会と国家の関係に適用され、今は加盟国とEUの関係に応用されている。
(引用、終わり)
小生の理解では「補完性原理」とは、主権国家と欧州流個人主義が折り合って行くための屁理屈と思われる。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」というわけである。
私の見るところ「補完性原理」には、カエサルそのものを相対的・歴史的とみる姿勢は感じられない。これはゲスの勘繰りだが、「補完性原理」と「大きな政府」論は相性が良いのではなかろうか。
「補完性原理」の由来をたどると、元々はローマ法王が言い出したことらしい。マルクスやハイエクのような極論に走らなかったところは、さすがアッパレな政治家ぶりではある。
こうやってカエサルに「補完」されるのにウンザリした人々が、新大陸に渡って一旗あげるとリバータリアンになるのだろうか。「補完性原理」と「リバータリアン」を並べて検索してみたが、めぼしいものはヒットしなかった。先学のご教示を賜りたい。
ふと小生は、旧ソ連のスパイで御用作家、イリヤ・エレンブルグの一節を思い出した。あるアメリカ人実業家の問わず語りを書き留めたものである。
(引用、始め)
ふじむら掲示板[1398]人生意気に感じる話 投稿者:藤村甲子園 投稿日:2002/03/30(Sat) 16:45:20
(前 略)
<書誌事項>イリヤ・エレンブルグ「わが回想(副題)人間・歳月・生活」木村浩訳、全三巻、1853p、朝日新聞社、1968~69年(改訂新装版)
(中 略)
<「人生意気に感じる話」の前口上>
エレンブルグは1946年4月から数ヶ月、アメリカ、カナダを公費旅行している。(中 略)旅も終わりに近づき、乗り継ぎのため立ち寄ったニューヨーク州オールバニで、エレンブルグはとても印象的な体験をすることになる。以下に、エレンブルグ「わが回想」から該当部分を引用する。
<人生意気に感じる話>
私がオールバニでのこの晩を記憶に留めたのは、そこでバーの客の一人と突然、話し込んでしまったからであった。見たところ、その男は五十歳以下であった。彼の赤銅色の顔は汗で光っていた――その晩は暑かったのだ。彼は二年間ブリュッセルで暮らしたので、フランス語をよく話した。(中 略)
私は、彼がそのような不安な生活に疲れていないかどうか、たずねてみた。彼は軽蔑するような微笑を浮かべた――「私は、ベルギー人でもなく、フランス人でもなく、ロシア人でもありません。私はほんとうのアメリカ人ですよ。五月に私は五十四歳になりましたが、これは男ざかりの年齢です。私の頭はいろいろなアイデアでぎっしりです。私はまだ上にのぼっていけますよ」それから彼は理窟を並べはじめた――「私は何もロシア人に反感なぞもってはいませんよ。ロシア人はしっかり戦いましたからね。きっと彼らはりっぱなビジネスマンにちがいありません。しかし私は『タイムス』で、お国には個人の創意というものがない、自由競争がない、出世できるのは政治家と建設者だけで、他の者は労働し給料をもらうだけだ、という記事を読みました。これは世にも退屈な話です!もしも大不況(二十年代末の経済恐慌を彼はそうよんでいた)の際、おまえに相当の給料を出すが、それはおまえが州から州へ移らず、職を変えないという条件づきでだ、といわれたとしたら、私は自分で自分の命を絶ったことでしょう。あなたには、この気持ちがおわかりにならないでしょうね?もちろんですよ!私はブリュッセルで、人びとが平穏無事に暮らし、万一に備えて貯蓄し、退化していくさまを見ました。あそこでは、どの青年も精神的インポテントですよ・・・・・」(中 略)
私はある夜、旅行についての私の思いをメモし、そのメモの中でオールバニで出会った赤銅色のアメリカ人のことに戻った。(中 略)アメリカでは資本主義が、青春ではないにせよ、オールバニであの男がいったごとく『男ざかりの年齢』を送っているのだ。彼は偶然の冒険家ではなく、冒険主義的世界の生んだ人間なのである。彼が重んじているいっさいのものは、彼にとっては終わりかけているのでなく、はじまりかけているのだ。アメリカとは協定しなければならない――革命は、あそこでは近々数十年のうちにはおこらないだろうから。アメリカ人を抑制しなければならない。彼らは概して温和な人間だが、たいそう冒険的な連中だから・・・・」(「わが回想」第三巻、346p~349p)
(後 略)
(引用、終わり)
ところでこの「補完性原理」、元々個人主義の土壌がない日本国では、なんと民営化推進論者の旗印になっているらしい。これには恐れ入った。やれやれとんだサルどもである、もちろん小生も含めてだが。
(以 上)
【23】愛と死を見つめて(1/4)
<書誌事項> 猪俣津南雄『踏査報告 窮乏の農村』岩波文庫、1982年、P244。原著は1934年、改造社刊。
<私 見> Ⅰ.プロローグ
帯状疱疹で一週間、入院した。ヒマだから、ミコちゃんみたいに本ばかり読んでいた。
2011年10月8日(土)、猪俣津南雄『窮乏の農村』(岩波文庫)読了。思わぬ拾いものだった。
私はこれまで、昭和戦前期の日本の農村について、具体的で生き生きとしたイメージを与えてくれる本と出合ったことがなかった。
農業経済学は大枠の知識は与えてくれたが、そこから農民のナマの声は聞こえて来なかった。
民俗学はどうか。柳田国男は昔へ昔へと遡ることに興味が行ってしまう人であった。宮本常一が書き残した農村同時代史は、主に戦後以降を記述対象としたものである。
ならば文学はどうか。漱石・鴎外以来の日本近代文学は、もっぱら都市の風俗ばかりを描こうとしてきた(少数の例外を除いて)。
たとえば堀辰雄が描いた昭和戦前期の軽井沢は、あれはありのままの農村などではない。別荘地/サナトリウムという都市風俗の後景として登場する「まるでおフランスみたいな田園風景」の代用品にすぎない。
小林多喜二の農村プロレタリア小説なんて、読まなくたって何が書いてあるのか想像がつくようなシロモノだ。
猪俣津南雄『窮乏の農村』は、欠点も多いが、誠実で率直なルポルタージュである。
本書の序に「私の報告は、真実を伝えたい一念で書いた。誇張歪曲は極力避けた」(岩波文庫、P6。以下、引用は岩波文庫から)とある。まさにその通りの本だと思う。
昭和戦前期の日本の農村について、私は
「クラい、クラい、クラい、クラい、クラい、クラい、クラい。」 ああ、いやだ、いやだ、(サゲサゲ)
といった貧困なイメージしか持っていなかった。
具体的には、黒澤明のモノクロ映画「七人の侍」、あるいは白土三平の階級闘争マンガ「カムイ伝」みたいな、ドツボな感じ。
決してそうではなかったのである。確かに昭和戦前期の日本の農村は、貧しいは貧しい。
でも、生身の人間である。人間が生きていれば、そこに必ず喜怒哀楽がある。来る日も来る日も哀しみや怒りばかりで、喜びや楽しみの全く欠落している人生などというものがあるだろうか。もしあったら、過酷な農業労働に耐えて行ける筈がない。首をくくるか、さもなきゃ夜逃げでもした方がまだマシというものである。
人間がいるところには必ず喜怒哀楽がある。考えてみれば当り前のことである。
これまで私が、昭和戦前期の日本の農村のことを暗黒世界のようにイメージしていたのは、単に私の無知のせいだということがよく分かった。
(続く)
【22】愛と死を見つめて(2/4)
(承前)
Ⅱ.著者の人となり。および本書の時代背景について
ここから先、この一章は、少々ガマンしてお付き合いください。
『窮乏の農村』の著者、猪俣津南雄(1889~1942)は戦前に活躍したマルクス経済学者である。裕福な商家の生まれだが、実家は後に破産した。苦学の末、32歳で早稲田大学講師となるが、第一次共産党に入党して検挙された。以降は、講座派とも労農派とも一線を画す一匹狼的な論客として、そこそこ売れたらしい。彼の所説は当時のジャーナリズムから「イノマタイズム」と称されたそうだ。
さて昭和9年ごろ、日本の農民運動は第二のピークを迎えつつあったという。
運動の第一のピークは、大正末年ごろだった。これは中農下層および貧農上層を中心とした「モノ取り主義」的闘争で、一定の成果を勝ち取った途端に運動は沈滞し、村会議員に成り上がった運動指導者の中には、ダラ幹と化した者もいたという。
昭和5年、昭和恐慌はじまる。当時、日本の主要農産物は米と繭だった。
繭価(春まゆ)の推移を昭和元年を100とする指数でみると、昭和6年は33.2、昭和7年は27.4に下落した。
同じく米価指数の推移は、昭和元年を100とすると、昭和6年は49.2、昭和7年は56.3である。
当時、米穀統制法に基づく政府買い上げ米制度は既にあったが、朝鮮・台湾から入ってくる安価な米を流通規制しないなど、戦後の食糧管理制度に比べればチャチなシロモノであった。
本格的な食糧管理制度は戦争のおかげで整備された。これもまた、皮肉な話ではある。
恐慌は万人を苦しめる。だが、ワリを食うのはもっぱら下の方である。
昭和恐慌のおかげで、地主も中農も貧農上層も借金まみれになった。儲けたのは目端の利く商品ブローカーばかりである。
だが、貧農下層は借金まみれどころではない。なにしろ食べる米がない(自分で作った米は、前借金のカタに取上げられてしまうのである)。農村には日雇取りの仕事もなくなってしまった。都会に出ても、既に失業者で溢れ返っている。
かくして昭和9年ごろ、日本の農民運動は第二のピークを迎えた。今度は生活防衛闘争である。また、従来は何かと軽く見られ勝ちだった貧農下層が、運動の中で大きな部分を占めるようになってきた。
このように、農民運動の質が変化してきた。一方で状況は切迫している。ファシズムや農本主義右翼に吸引される農民も出てきた。「このままではいけない。何とかしなければ」という問題意識が、当時の農民運動の指導者層に共有されていたようである。
(引用、始め)
それに、こういう意見の人もあった。貧農の下層が黙って引き込んでいるのは、上層の者が組合支部を切り廻しているからだ、どこの村にも格とか席順とかいうものがあって、村の集まりには下の者は口を利かないしきたりになっている、その慣行が組合支部の集会や活動に際しても現われるのだ、下層の者は有能者でも自己の才能を隠そうとするほどだ、こんな姑息(こそく)な家長制的伝統を打破しなくては組合の本当の活動は出来るものでない、また組合においてはそれを打破することも決して不可能ではない、と。
右の意見は、自身も貧農の下層に属する人の意見であった。それだけに余計傾聴に価するものがある。(P221-222)
(引用、終わり)
昭和9年当時、猪俣津南雄は全国農民組合(全農)の顧問的立場にあった。運動方針転換のための基礎調査として、猪俣は全国2府16県の農村を踏査した。実質的な調査期間は2~3ヶ月を超えない程度と思われる(注)。その調査報告が本書である。本書の内容は全農の新方針にも影響を与えたとのことだが、時流には抗し切れず、結局、全農は昭和12年に壊滅した。
(注)調査期間推測の根拠は以下の通り。
1.昭和9年の「五月初旬に東京を立ち、」(P5)と、猪俣自身が書いている。
2.本調査の一部は、最初、雑誌『改造』の昭和9年7月号、8月号、および9月号に発表されている。
3.本書の序には「一九三四年九月」との日付がある。
1~3より、本書執筆の途上で調査旅行が継続していたとしても、調査期間は2~3ヶ月を超えない程度と推測した。
(続く)