ふじむら掲示板
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Loginはこちら【386】伊藤睦月氏に答えるに答える(とりあえずのラスト):フビライカーンは「東方見聞録」を読んでいない。守谷君の雑な思考が彼の論文を台無しにした。
伊藤睦月(2145)です。守谷君の私に対する。投稿文の検証で、残っているものに、コメントします。
(引用はじめ)奝然は、普通だったら中国の皇帝に謁見できるはずがない。そんなことは誰にでも解ることだ。尋常でないことがあったのだ。尋常でない黄金を運んで行ったのだ。
これがマルコポーロの『東方見聞録』のジパング黄金伝説の元ネタになり、フビライハーンの日本に対する異常な執着(元寇)の原因となったのである。
(引用終わり)伊藤睦月です。この投稿文の前半部分はさんざんコメントしましたので、繰り返しません。
で、後半部分(マルコポーロ)については、簡単でした。「東方見聞録2・東洋文庫版」(平凡社ライブラリー)の該当部分を一読すれば、秒殺、です。
(引用開始)
ところで、無尽蔵なこの島国の富を伝え聞いたクビライ現カーンは、武力をもってこれを征服せんものと決意し、二人の重臣に歩騎の大軍と大艦隊を授けてこの島国に向かわしめたのである。(同書184,185頁)(引用終わり)
伊藤睦月です。この後、この島国で暴風雨にあって、全滅した、という記事が続きます。この戦いの描写から、「弘安の役」(1281)のことだとされています。つまり、クビライカーンは「東方見聞録」を読んでません。このことから、守谷健二君は、「東方見聞録」の本文を確認せずに、上記のでたらめを書いていたことになります。これで守谷論文のすべてが、不可、になりました。典型的なオウンゴールです。もったいない。守谷健二君は、多少とも学問的な論文を書く上での初歩の初歩をわきまえていない、「イタイヒト」でした。(しかも高校日本史の教科書レベルの知識もないくせに、むやみに歴史文献を振り回して得意になっている、アブナイヒト、でもありあます)この点私は妥協しません。顔洗って出なおしてこい。
とここで終わるのも、なんですから、いくつか補足します。
(1)まずこの出典をチェックする、という作業は、あの羽生教授が、あの「マックスウェーバーの犯罪」を暴いた手法です。シンプルだけど破壊力抜群、です。(もしよかったら、通称「ユダヤ本」(祥伝社新書)を参照してください)「東方見聞録」は、古フランス語で書かれていますから、日本語版でチェックしても許容範囲でしょう。
(2)マルコポーロは、ベネチアに戻った、1295年以降に、元を拠点に商業活動をしたときの各国、各地域事情を書いたといわれています。(債務が返済できずに牢獄に入れられた間に書いたとも。これも興味深いですが、今回は割愛)その内容の奇抜さから、最初は信用されませんでしたが、ユーラシア事情が判明するにつれ、その正確さが再評価されました。チパング(日本)の記述もその文脈で考えるべきです。完成は、1299年頃、だと思います。当時は印刷、でなく写本、でしたから、ベネチア共和国の情報機関(塩野七生によると、当時ベネチアは欧州最強のインテリジェンス機関でもあったようです。)や商人仲間で秘蔵されていて、フビライカーン(元王朝)のもとには届いていない。そもそも、フビライカーンは、1294年に死亡していますから、完成していない「東方見聞録」を読めるはずもありません。守谷健二君の妄想でしょう。(やさしく「勘違い」とでも言って差し上げましょうか?)
(3)では、フビライカーンは、日本に関するどんな情報をもっていたのか、マルコポーロは、「東方見聞録」で、日本の「黄金伝説」をこう書き残しています。
(引用はじめ)①この国ではいたるところに黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大なな黄金を所有している。この国へは、大陸から誰も行った者がない。商人でさえ訪れないから、豊富な黄金はかつて一度も国外に持ち出されなかった。右のような莫大な黄金がその国に現存するのは全くかかってこの理由による。
②引き続いて、この島国の国王が持ってる一宮殿の偉観について述べてみよう。この国王の一大宮殿は、それこそ純金づくめでできているのですぞ。・・・(中略)げにこの(黄金)宮殿はかくも計り知れない豪奢ぶりであるから、たとえ、誰かがその正しい評価をしようとも、とても信用されえないに違いない。(同署183,184頁)(引用終わり)
伊藤睦月です。これらの記述から、①「いたるところにある」砂金の産出がメインだったことがわかります。
毎度おなじみ、奝然坊主も、入国時の事情聴取で、「陸奥の金、対馬の銀」と(筆談で)言っていますので、陸奥の金は当時から有名だったのでしょうが、金鉱山でありませんから、見た目よりは産出量は少なかった、と思われます。銀に至っては、対馬の銀は「水銀」のことだと思われます。東方見聞録では、黄金と並ぶお宝として、「真珠」をあげていますが、日本のお宝として、こちらの方がリアリティがある、と思いますが、どれくらい価値があったのか。意外となかったのでは。黄金宮殿は中尊寺金色堂のことだと、いう研究者もいますが、実際中尊寺を見ると、意外としょぼいことが分かります。しかも金箔貼ってあるだけです。伝聞ですが、数キログラムの金箔で、東京ドームのグランド部分(約1ヘクタール)をカバーできるそうで、黄金の場合は見た目と、実際の分量とのギャップに注意すべきです。
②「東方見聞録」は、チパング(日本)に黄金があふれていたのは、後年の江戸時代のように鎖国体制をとっていて、黄金の海外持ち出しができなかったからだ、産出量が多かったからではない、という解釈をしています。これは、奝然坊主の話とは矛盾しますし、守谷健二君の論考とも矛盾しますが、私、伊藤はビジネスマン・マルコポーロの方が正確だったのではないか、と思います。とにかく日本の金が有名になるのは、金鉱山が開発された、16、17世紀以降であって、それまでは、東北の砂金は有名だったけど、中国皇帝が驚くほどではなかった(だから、黄金献上の話は、中国側の史料に出てこない。現時点の見解)と考えます。
伊藤睦月です。それよりも、東方見聞録で、私が注目している記述を紹介します。
(引用はじめ)しかし、この一事だけは是非とも知っておいてもらいたいからお話しするが、チパング諸島の偶像教徒は、自分たちの仲間でない人間を捕虜にした場合、もしその捕虜が身代金を支払えなければ、彼らはその友人・親戚のすべてに「どうかおいでください。我が家でいっしょに会食しましょう」と招待状を発し、かの捕虜を殺して、むろん料理してであるが、皆でその肉を会食する。彼らは人肉がどの肉にもましてうまいと考えているのである。(前掲書196頁)(引用終わり)
伊藤睦月です。これは、当時の貿易商人たちにとっても、黄金伝説より重要な安全情報です。「黄金の国ジパング」は、「食人族の国チパング」だったわけです。うっかり商売にいけば、食われる。鎖国よりもよほど怖い。私、伊藤は、漫画「北斗の拳」の修羅の国を連想しました。以前、別の論考で、7世紀の日本人に食人の習慣があったのではないか、と推測しましたが、それは、この個所を読んだからです。私は、「東方見聞録」の方が正確だったと思います。
(3)伊藤睦月です。ここから先は、伊藤のファンタジーです。
①食人の習慣が亡くなったのは、仏教教育によるものでしょうが、個人救済の思想の先駆け、浄土教が登場した平安中期以降(11世紀)だと考えます。教育の始まりは、8世紀の持統天皇のころからだと考えますが、当時は「鎮護国家」の仏教で、個人救済の思想はなかったか、あっても乏しかったとみています。戒律を授かった、正式の僧侶(国家公務員)は、肉食妻帯を禁じられていたと思いますが、「人を食ってはいけない」という戒律は明文化されていなかったのでは、とみています。(未確認)だから中国で食人の習慣が残ったのではないかと。
②日本で、食肉、食人の風習が亡くなったのは、恐らく12世紀、日本に禅宗が伝わり、いわゆる精進料理が普及してからではないか。それでも当時の支配階級(公家、僧侶)の間だけで、被支配階級の間では、長く食肉・食人の習慣は残っていて(餓死よりはまし)、完全に消えたのは、17世紀、江戸時代、徳川綱吉の「生類哀れみの令」以降だと、私、伊藤は考えます。(今のところ、100%伊藤のファンタジーですが。内心自信あります)
伊藤睦月です。「東方見聞録」については、まだまだ、書きたいことがあるので、また投稿します。
また、守谷論文の最大の致命的欠陥について、稿を改めます。守谷健二君、君の論考に対する批判はまだ始まっていません。今までは、単なる「指摘」に過ぎません。これからが本番、です。
(以上、伊藤睦月筆)
【385】【475】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(5)
伊藤睦月(2145)です。今回も副島先生の文章の引用から始めます。それにしても、20年前は副島先生の文章を引用してコメントするなんてだいそれたこと、副島推しとして、恐れ多すぎ、と思っていました。しかし、今では割と平気でやっている。これも年寄りになった功罪と、この副島系掲示板の「補集合」のおかげだ。だから、ほかの副島推しみなさんも、「重たい掲示板」に無理して投稿するのでなく、もっと気軽に(この掲示板に)投稿したらよいのに、と思います。(あくまでも個人的意見です)
さて、続きを始めます。
(20)(引用はじめ)・・・ところが、ここでどんでん返しが起きた。新羅が、唐帝国の言うことを聞かなくなって、唐を裏切った。そこで唐としては、倭国は滅んだので、今度は日本(山門国)と付き合おうとした。そこで2000人の軍隊兼使節を2回、博多に送り込んできた。665年と669年の2回である。中国の文献にある。使節の名は劉徳高(りゅうとくこう)と郭務棕(かくむそう)である。いかにも将軍の名だ。(引用おわり)前掲書274頁
伊藤睦月です。ここで「どんでんかえし」というのは、前頁からの流れで、633年の白村江の戦いの後、
唐の同盟国(属国)であることをやめて、朝鮮半島統一に方針転換をした、またその動きを始めたので、それを警戒した唐帝国が、新羅をはさみうちにするため、日本と友好関係(つまりは朝貢して唐の属国になれよという誘い。当時はそして今も対等な同盟なんてほとんど存在しない)を結ぶべくすりよってきた、ということであろう。そうなると、665年と669年の軍隊兼使節の来日は、日本に朝貢を促すための、使者を派遣してきた、ということになる。そうなると恐らく3度目(の誘い)はない。すなわち今度は唐帝国が日本(大和王朝)を滅ぼしに来るぞ、という恫喝、(まるで500年後のモンゴルみたいだ)ということになる。で、なぜ唐は攻めてこなかったのか。天智天皇が、厭戦気分マックスになって、唐の誘いに乗らなかったのなら、なぜビビりの天智はすぐに朝貢使を出してとりあえず、その場をとりつくろわなかったのだろうか。もしそういう意図を持った使者ながきたのなら、なぜ30年以上放置していたのだろう。間に新羅が邪魔して遣唐使を派遣できなかった、というだけでは、私、伊藤は、もやもやしてしまうのです。
(21)実際、唐帝国が、高句麗を滅ぼしてから(668年)、新羅は火事場泥棒みたいに高句麗と、百済の故地を奪って、朝鮮半島を統一するが(676年)、それに怒った唐帝国は何度も懲罰戦争をしかけて、新羅王を殺したり、捕縛したりしている。しかし、新羅はすぐに朝貢使をだして唐に許しを請い、ほとぼりのさめたころに、また、反乱を起こし、を繰り返している。
そして、とうとう、「会昌年間(841~846年)以降は新羅からの朝貢は二度と来なかった」(新唐書東夷新羅)と中国正史にも書かれたように、唐をあきらめさせ、完全独立を果たしている。(高麗に滅ぼされたのは、936年のこと)
伊藤睦月です。だから、唐からの2回にわたる使者は、日本(大和王朝)に唐への朝貢を促すことではなく、当時行方不明であった百済反乱の主犯、余豊璋=藤原鎌足(及び中大兄皇子=天智天皇)の捜索と捕縛が目的であったという(私だけの)ファンタジーを現時点では私、伊藤は、支持しております。
(22)(引用開始)なお、倭国地域の管理は、隣接する地域(福岡県宗像市一帯)を支配していた、親新羅派の海洋民族、宗像氏と縁が深い、大海人皇子(天武天皇)か、高市皇子(母親は宗像氏の族長の娘)に引き継がれた、とみるべきだ。そうしてまもなく壬申の乱が勃発する。(引用終わり)
伊藤睦月です。これは、史料の裏付けの全くない、完全なファンタジーです。しかし、高市皇子の母親が宗像氏の出でわることは、日本書紀にも出てきますし、当時の沖ノ島経由の新羅ルートの存在も事実のようです。(これらを評価されて、ユネスコの世界歴史遺産に登録され、同地域にある「光の道」(宮地嶽神社参道)とあわせ、観光資源として、地元ではかなり盛り上がっています。(もちろん学術調査研究も地道にされているようです)今後、高市皇子(息子は長屋王)の勢力範囲や、宗像氏の事跡などが解明されるといいな、と思っています。
以上で、「白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。」の補足説明を終わります。ご一読くださった方には深く感謝します。
(以上、伊藤睦月筆)
)
【384】【474】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(4)
伊藤睦月(2145)です。パラグラフ(2)の補足を続けます。
(16)関裕二説(余豊璋=藤原鎌足説)の骨子は以下の通り
(引用はじめ)すなわち、中臣(藤原)鎌足は百済王子・豊璋で、「人質として来日していた豊璋は、全方位外交を展開する蘇我系政権を打倒しようと暗躍し、のちに親百済派の中臣氏の系譜に紛れ込み中臣鎌足を名乗るようになったのではないか(引用終わり)(関裕二「豊璋 藤原鎌足の正体」)またそう推理する根拠としては、①藤原鎌足が活動している間は、余豊璋は史書に登場せず、余豊璋が活動している間は、藤原鎌足は行方不明になり、白村江の戦いの後、余豊璋がいなくなって、鎌足が史書にでてくること。
②藤原鎌足は、人肉の塩漬けや政敵を平気で殺す等、当時の日本人にない、風習、残酷な行いをしており、日本人らしくないから。
としています(伊藤要約)
伊藤睦月です。私は②には疑問です。日本人は、原住民と華僑で構成されているとすれば、当時の日本にも中国の食習慣である、人肉食の習慣が少なくとも華僑たちになかった、とは言いきれません。塩漬けもしかり。後年藤原氏は、政権をにぎりますが、そのときに人肉や肉の塩漬けを食べる習慣を日本に持ち込まなかったのはなぜでしょう。仏教教育の賜物とも考えられますが、じゃあ、本場の中国やインドではなぜ、という疑問は残ります。仏教説話に残ってないものか。また関氏は、別著で、藤原氏は中国伝統の政治術「外戚政治」で天皇家を乗っ取ったと主張していますが、それでは、中国のもうひとつの伝統的政治術「宦官政治」を取り入れなかったのはなぜでしょう。宦官は遊牧民族特有の文化だから、では論拠弱いです。江戸時代では「宦官」にかわるものとして「茶坊主」を採用します。が、「それで?」と言われれば困ります。これ以上うまくつながりません。
(17)その点①はアリバイ問題なので、検証可能です。、私、伊藤は詳細に検証したわけではないですが、ざーと一読した限りで、納得しました。ファンタジーですから。お許しを。有力な反証がでてこない限り、関裕二説を支持します。
(18)伊藤睦月です。それではパラグラフ(3)の補足説明に移ります。
(引用はじめ:パラグラフ(3))
3)日本書記によると、戦後、671年、壬申の乱(672年)の直前、「郭務ソウ」という唐帝国からの使者が2000人の兵とともに、47艘の船で、来日し、筑紫(倭国地域)に翌年まで駐留している。その来日目的は、百済残党の頭目、余璋(=藤原鎌足)と共犯者中大兄皇子の捕縛及び、百済残党の兵站基地であった、倭国地域の占領と地域内での備蓄物資や女の略奪、戦いの犠牲者のための報復、である。ところが、余璋(藤原鎌足)は、すでに死亡しており(669年)、中大兄皇子は、日本王(天智天皇)に即位していて、うかつに捕縛できなくなっていた。そのうえ、重病で死にかかっていたため、天智天皇の監視に切り替え、翌年天智天皇の死亡を確認してから、(略奪・報復を完了した)兵士たちを引き連れ、帰国した。
なお、倭国地域の管理は、隣接する地域(福岡県宗像市一帯)を支配していた、親新羅派の海洋民族、宗像氏と縁が深い、大海人皇子(天武天皇)か、高市皇子(母親は宗像氏の族長の娘)に引き継がれた、とみるべきだ。そうしてまもなく壬申の乱が勃発する。
(引用終わり)伊藤睦月です。この項は、副島説の引用から始まります。
(引用はじめ)・・・ところが、ここでどんでん返しが起きた。新羅が、唐帝国の言うことを聞かなくなって、唐を裏切った。そこで唐としては、倭国は滅んだので、今度は日本(山門国)と付き合おうとした。そこで2000人の軍隊兼使節を2回、博多に送り込んできた。665年と669年の2回である。中国の文献にある。使節の名は劉徳高(りゅうとくこう)と郭務棕(かくむそう)である。いかにも将軍の名だ。(引用おわり)前掲書274頁
伊藤睦月です。副島先生のいわれる「中国の文献」を現時点では確認できていませんので、この記述の賛否は保留させていただきます。そのうえで、日本書記には、「郭務棕」は3か所でてきます。
(引用開始①:以下日本書記(下)全現代語訳:宇治谷孟:講談社学術文庫)(天智)3年(664年)夏5月十七日、百済にあった鎮将(占領軍司令官か)劉仁願(りゅうじんがん)は、「朝散太夫郭務棕」(ちょうさんだいぶかくむそう)らを遣わして、表函(ふみひつ:上表文を収めた函)と献物をたてまつった。
六月、嶋皇祖母命(しまのすめみおやのみこと:天智天皇の祖母)が薨じた。
冬十月一日、(天智天皇は)郭務棕らをおくりだす勅をお出しになった。この日鎌足は、沙門智祥(しゃもんちしょう)を遣わして、品物を郭務棕に贈られた。
十月四日、(鎌足は)郭務棕らに饗応された。
十二月十二日、郭務棕らは、帰途についた。(以上引用①おわり)
(引用②開始)
天智4年(671年)九月、(天智)天皇が病気になられた。・・・
十一月十日、対馬国司が使いを大宰府に遣わして、「今月の二日に、沙門道久(どうく)・筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)(百済救援の役(=白村江の戦い)で唐の捕虜となった)、韓島勝娑婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのきのおびといわ)の四人が唐から帰ってきて、
「唐の使人(しじん)、郭務棕ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、総計二千人が、船四十七隻に乗って比知島(ひちじま:対馬のなかの島のひとつか?:伊藤)に着きました。(彼らと語り合って)今吾ら(われら)の人も船も多い。すぐ向こうに行ったら、恐らく向こうの防人は驚いて射かけてくるだろう。まず道久らを遣わして、前もって来朝の意を明らかにさせることにいたしました」と申しております」と報告した。
(引用②おわり)
(引用③はじめ)
(天智)四年(671年)十二月、天智天皇はお崩れ(おかくれ)になった。
(天武)元年(672年)春三月十八日、朝廷は、内小七位安曇連稲敷(あずみのむらじいなしき)を筑紫に遣わして、天皇のお崩れになったことを郭務棕らに告げさせた。郭務棕らはことごとく喪服を着て、三度挙哀(声をあげて哀悼を表す礼)をし、東に向かって拝んだ。
三月二十一日、郭務棕らは再拝して、唐の皇帝の国書の書函(ふみばこ)と信物(くにつもの:その地の産物)をたてまつった。
夏五月十二日、鎧(よろい)・甲(かぶと)・弓矢を郭務棕らに賜った。この日、郭務棕らに賜ったものは、合せて、太𥿻(ふとぎぬ)千六百七十三匹、布二千八百五十二端、綿六百六十六斤であった。
夏五月三十日、郭務棕らは帰途についた。(引用③終わり)
伊藤睦月です。これから次のことがわかります。
(19)
①副島説では、唐の「軍隊兼使節」が来日したのは、2回、665年(劉徳高)と669年(郭務棕)です。いづれも、2000人の軍隊を連れています。
②日本書記によれば、2回、664年と671年の2回、664年のときは、「朝散太夫」郭務棕。軍隊を連れてきたとは記されていません。「太夫」という職名から、文官だったと考えられます。(武官が文官に転換したかもしれません)文官の資格なら軍隊を連れていかなくても、不自然ではありません。644年といえば白村江の敗戦の翌年。669年の時点で、捕虜の返還などしていますから、まだいわゆる戦後処理は終わっていない。664年のときは、郭務棕は、文官として、わずかな供を連れて来日し、大津京まで行ったと思います。それでも日本側は手を出せない。天智天皇には拝謁できなかったでしょう。ビビりの天智いや中大兄皇子は、郭務棕に逮捕されるのが怖かったのでは。伊藤の空想ですが、このとき提出された唐皇帝の手紙の内容は、余豊璋及び共犯者中大兄皇子の逮捕協力依頼状だったのでは。中国側はこのときは、天智天皇=中大兄皇子とは、気づいていなかったかもしれません。大津京では、郭務棕は接待を受け、贈り物をもらい、天智天皇の祖母の死を名目に体よく帰ってもらいました。このとき、宴会接待を受けたり、招いたりしていましたが、その中になんと藤原鎌足もいたのです。なんと大胆な、ビビりの中大兄皇子とちがって、大胆というか、ばれないと思ったのか、このときは、郭務棕側が、鎌足を招いていますので、今でいう任意事情聴取というか、腹の探り合いをしたのでは。ここで郭務棕は確信した、と思います。藤原鎌足こそ、あの行方知れずの余豊璋に違いない、と。しかし、捕縛隊を連れてきてませんでしたので、いったん国に戻って、皇帝に報告し、出直すことに決めたと思います。そして、671年満を持しての来日です。
このときは、(皇帝の)使人「郭務棕」です。600人というのは、捕縛隊(軽装備)でしょう。送使「沙宅孫登」ら1400人は護衛部隊(重装備)でしょう。対馬の港に入ったところで、防人に攻撃されないように安全通行許可を求めています。当時の国際慣習にならった、もう本格的な警察部隊です。名目は捕虜返還。今回こそ、部隊を引き連れて大津京まで行きたかったでしょうが、さすがに筑紫(旧倭国地域。大宰府政庁がありました)で止められました。そして筑紫から先に行けないように、しかし刺激しないように、防人で包囲したと思います。あとは大津京とは手紙のやり取りが続いたのでは。その間、郭務棕の部下たちは、筑紫での略奪に切り替えたと思います。日本側はそれを制止できなかった。敗戦国の悲哀です。日本書紀にその記事がでていないのは、唐に朝貢したときの忖度とあまりに屈辱的だったからだと、私、伊藤は面ます。
日本側にとって幸運だったとのは、今回の逮捕目的である、余豊璋=藤原鎌足が、すでに死亡していたことです。(669年)息子の不比等をはじめ一族は行方不明。また中大兄皇子=天智天皇であることは、筑紫についてから知ったと思います。捕虜たちも知らなかったと思います。即位したのは668年だから。しかも郭務棕は、天皇(国王)逮捕までの権限は与えられていなかったでしょうから(国王逮捕は宣戦布告を意味すると思います)改めて皇帝の判断を求めることになったと思います。そうこうするうちに天智天皇も死んでしまいます(671年)郭務棕は、失敗しました。彼はむなしく帰途につきました。(おそらく百済?本国に召還されたかも)郭務棕のその後の消息は、わかっていません。(補足説明続きます)
(以上、伊藤睦月筆)
【383】【473】【472】【471】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(3)
伊藤睦月(2145)です。パラグラフ(2)の補足説明を続けます。
(6)倭国が消滅した648年前後は、後年の百済滅亡(660年)、白村江(663年)にいたる伏線としてなかなか忙しい時期です。一応チェックしておきましょう。
(7)まず、日本国(大和王朝)
大和王朝では、厳しい政争の末、645年蘇我入鹿(=聖徳太子:副島、関説)を中大兄皇子、藤原鎌足のグループが暗殺し、政権獲得のきっかけをつかみます。(岡田説(日本は原住民と華僑の協働でつくられた説)からの展開で原住民(排外派)が華僑(国際派)を倒した、とされていますが(引用はすべて私の記憶に頼っていますが、ふじわら掲示板に免じて、ご容赦ください)、関裕二説では、親百済路線をとる豪族(原住民とほぼ同義)代表の中大兄皇子・藤原鎌足(=余豊璋)が、全方位外交路線をとる豪族(原住民)代表の蘇我入鹿(聖徳太子)を倒した、としています。
(8)伊藤睦月です。私は、関裕二説の、藤原鎌足=余豊璋説、蘇我入鹿=聖徳太子説を支持しております。但し蘇我入鹿は、副島説とは、少しニュアンスが違ってまして、蘇我氏は、天皇家の譜代の家臣である、大伴氏や物部氏と同じくらい古い時代に、新羅地域から渡来し、ほとんど土着化した華僑、だと考えております。(親新羅派の原住民代表)
(9)日本書記をみると、継体朝(6世紀初め)のころから、大和王朝は、新羅に厳しく百済に甘いです。このころから、百済派の華僑たちが、入り込んでいることがわかります。大和王朝では、政治権力は原住民の王が握り、華僑には渡しませんでしたが、権力基盤強化に、華僑の技術力、財力を利用したのです。(後年、渡来人系の貴族は5位の国司クラス以上の氏族はおりません。有名な秦氏も官位は低いです)華僑側も利益確保のため、原住民の王とズブズブの関係になりました。
(10)華僑(すべて朝鮮半島経由で渡来しました。自分たちの先祖は中国の名家だと自分で言っているだけです)たちも、また出自により、百済系と新羅系に別れ、それを百済、新羅本国の争いに利用され、大和王朝の原住民の王(豪族)たちも、親百済、親新羅系に別れて、権力闘争をやっていたわけです。昔も今も属国の政局なんてこんなものでした。
(11)高校レベルのテキストを見ますと、百済系渡来人の氏族名は結構でてきますが、新羅系渡来人の氏族は、山城の秦氏くらいです。これは、蘇我氏の方が百済系より早くから渡来し、土着化していく過程のなかで、他の新羅系華僑を取り込んでいったと思います。だから、政治勢力としては、より強力で、継体朝以降の政局をリードしていったわけです。これを「ライバルのヘッドをつぶす」ことで、形勢逆転を狙ったのが、百済王子余豊璋と、中大兄皇子で、彼らは賭けに勝ったわけです。
(12)蘇我入鹿は、「鞍作臣(くらつくりのおみ)とよばれ、法隆寺の仏像をつくったのも、「鞍作鳥(くらつくりのとり)でした。二人は同族だったのでしょう。私、伊藤は、蘇我氏は華僑とはいっても、商業系ではなく、産業系、職人系よりだと思います。意外と実直な人たちだったのではないか、仏像という「きらきらし」ものにも、職人的なマインドに刺さったのだと思います。意外といけてる一族だったのでしょう。だから、意外と早く原住民ともなじんでいったのではないか、法隆寺の仏像を拝みながら想像しています。
(13)また、「鞍作」なら馬具ではないですか。その彼らが、古くから日本にいる、ということは・・・・?あれ、副島=江上説「騎馬民族征服説」までつながるかも。このファンタジーは保留しときます。
(14)このころは、古くから対立関係にあった、百済と新羅は、互いに戦争準備を始めました。そのため。(倭の五王以来)軍事力では定評のある、大和王朝の取り込みを図りました。(支配者として大陸に来るのは困るが、傭兵としてなら、大いに歓迎する。明治大正期の朝鮮、中国と日本との関係を想起させます。白村江の「倭人」も連合軍ではなく「倭人傭兵部隊」(フランス外人部隊、ロシア軍事顧問団のような存在)だったのでないか。だから中国側の史料には残っていない。
(15)そのため、新羅側は、大谷翔平クラスのエース級人材を投入しました。その人の名は金春秋、新羅の英雄王、武烈王、と新羅の民から尊称された人です。この人は「人質:日本書記」の名目で大和王朝に入り込み、多数派工作をしました。しかし失敗しました。彼が来日したのは、647年。多数派工作の頼みのつなであった、蘇我入鹿(聖徳太子)はすでに暗殺され、余豊璋(藤原鎌足)に取り込まれた、中大兄皇子が、自らの権力基盤を固めるべく、蘇我派の残党(蘇我倉山田石川麻呂、孝徳天皇、有間皇子など)を排除していたころです。また、余豊璋(藤原鎌足)は倭国を乗っ取り、戦争準備を始めていました。金春秋はあっさり諦めました。そして彼はなんと唐帝国に向かいました(648年)そして唐軍の出兵を実現させました。これで新羅と百済の運命は決まりました。
(引用はじめ)新羅は、官人の衣冠のきまりを改め、中国の制度にならいたい、と申し出たので、唐太宗皇帝は宮中秘蔵の官服を出して(金春秋)に賜った。(新唐書東夷新羅)(引用終わり)とあります。もうなりふり構わずです。あの「貞観政要」の伝説的名君、太宗李世民まで動かしたのですから、金春秋、デカイ、デカすぎる、ただ者ではない。660年、唐・新羅連合軍(これは中国正史に明記されています)は百済を滅ぼしました。それを見届けて、662年金春秋は亡くなります。その後「武烈王」の称号が追贈されました。白村江の戦い(663年)では、唐軍主体で、新羅は登場しません。新羅は百済の残党なんて眼中になかったのです。朝鮮統一の方に関心が移っていったと、私、伊藤は考えます。世界史的に見れば、660年の百済滅亡が重要です。白村江は、愚かで悲しきエピソード、に過ぎない、とあえて決めつけます。
この補足説明、次回も続きます。
(以上、伊藤睦月筆)
【382】【472】【471】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(2)
(引用はじめ:第2パラグラフ)
2)白村江の戦いのとき、倭国(福岡市博多、糸島、佐賀県唐津市一帯)はすでに存在せず、百済の一部となっていた。来るべき新羅、そして背後にいる唐帝国との戦いを想定していた百済側にとって、倭国地域は、兵站基地として必要だったからだ。百済側は、‘遅くとも648年までには、倭国を手に入れ、660年の百済本国滅亡には間に合わなかったが、失地回復の戦い(663年白村江)には間に合わせた。日本(大和王朝)を取り込むのに時間がかかりすぎた。だから「旧唐書倭国は、648年で終わっているのだ。この年をもって、唐帝国は倭国が消滅したことを確認したのであろう。最後の使いが知らせたのであろう。なお、倭国乗っ取りの首謀者は、百済王子豊璋(=藤原鎌足:関裕二説)である。
(引用終わり)
伊藤睦月です。
(1)倭国の範囲ですが、副島先生の本(副島隆彦の歴史再発掘「邪馬台国はどこにあったのか、最新の話題」)にもありますように、「福岡市博多」ですが、もう少し補足しますと、西側は、福岡市に隣接する福岡県糸島市、佐賀県唐津市。南側は、太宰府市(博多平野から、少し高台になっている:大宰府政庁がありました)北側は海。そして東側は、これも博多平野からみて高台にある、立花山、名島、博多湾の先端にある志賀島。までの範囲を指すと考えられます。西側の糸島や唐津は、魏志倭人伝のいう、「伊都国」にあたりますが、倭国の領域に含めました。この地域は、昔から舟の材料である良質な木材がとれ、後年豊臣秀吉が朝鮮出兵の前線基地(名護屋城)をこの地に作っています。そして重要なのは、東側。立花山、名島は古来より、博多平野を押さえる軍事的要衝、とされ、戦国時代には、島津、大友、毛利、の争奪の地となり、江戸時代初期に、黒田長政が、福岡平野に福岡城を築くまで続きました。
(2)そして、さらにその東側に注目してください。福岡市福間、赤間、遠賀川までの広大な地域は。「胸形」(むねかた)とよばれ、天然の良港があり、そこから、沖ノ島もしくは対馬経由で朝鮮半島東側に到達する航路(これを仮に新羅ルートとします)を押さえていたのが、海洋民族「宗像(むなかた)」氏の勢力範囲でした。大海人皇子(天武天皇)の長男、高市皇子の母親は宗像氏の族長の娘です。一方で西側博多湾、糸島、松浦を出発して、壱岐、対馬、を経由して朝鮮半島西側に到達するコース(これを仮に百済ルート)とします。このルートを押さえていたのが、倭国です。中国側からは「奴国の後継」とみなされていました。ここまで書くとなにかぷんぷんにおいませんか?
(3)かように倭国の地は、日本側から百済への最短、最適地なので、兵站基地として最適です。(豊臣秀吉も同じ考えでした)そこで百済側としては、どうしても確保しておきたい。それは、倭国を百済のものにしてしまうのが、一番です。そこで、余豊璋はなんらかの方法で、倭国を乗っ取ったと思います。史料が見つからないので、私の想像にすぎませんが内心自信を持っています、。
(4)当時の倭国に王はいたのか、さらに私の想像が続きます。中国正史(旧唐書東夷倭国)に倭国王の名前が一人も記されていないのはなぜか。それは倭国には王がいなかったからだ、と考えます。倭国は華僑が合議制で運営していた国だったと、私、伊藤は考えます。その代表者をとりあえず。「王」としたにすぎない、と考えます。中世以降、博多は商人たちの合議制で運営されていました。少し後の堺も同じことです。商人は華僑の末裔です。日本という国は、原住民と華僑の協働でできた国だとすれば、(副島隆彦、岡田英弘)、倭国はまさに華僑の国です。そして倭国の華僑たちをまとめていたシンボルが「漢委奴国王」の金印でした。これは、倭が中華帝国の日本におけるカウンターパートの証です。いちいち朝貢しなくても、この印が押印された文書があれば、合法的に中国と貿易ができたスーパーアイテムでした。これを、余豊璋はなんらかの方法で手に入れ、倭国の華僑たちを支配したのでしょう。だから、私、伊藤は、いわゆる金印はこの時代まで存在していた、と考えております。江戸時代に金印が志賀島で埋もれていたのは、白村江の敗戦や郭ムソウの占領などの混乱期に華僑たちが取り戻し、宗像までもっていこうとしたのではないか。志賀島から宗像までは、舟で大変近い距離です。しかしここで力尽き、埋もれてしまった、のではないか、と考えております。空想するのは実に楽しい。
(4)百済に乗っ取られた後の倭国は、百済の兵站基地として開発されました。兵糧、武器、武具その他軍事物資、金品の備蓄、渡海用ジャンク船の建造、のちに唐の郭ムソウは、2000人の兵を47僧のジャンク船に乗せて来日しますが、一艘あたりの積載人員は約50名。これを基準にすれば、白村江のときは、2万8千以上の倭人兵が渡海したそうですから(副島隆彦)、少なくとも560艘以上必要で、これは、中国正史(新唐書東夷百済)では、(唐水軍から、百済水軍の舟が)400艘以上焼き払われた、という記述からみて、そんなにおかしな推計ではないと思います。これらを準備するためには、倭国という豊かな地域で十数年かかった、と私、伊藤は考えます。660年の百済本国の滅亡には間に合いませんでした。でも663年、3年後には間に合いました。日本(大和王朝)は、あまりやる気はなかったようです。余豊璋(藤原鎌足)の政治工作で斉明天皇と中大兄皇子をなんとか、朝倉宮(大宰府の南側)まで引っ張ってこれましたが、そこまでで、軍事物資や兵士の大半は倭国の男子を徴用しなければなりませんでした。一応大和朝廷の指揮官がついたようですが、意外と士気は低かったのではないかと思います。
(5)倭国から唐帝国への最後の通信は、648年、「新羅に付して(こと付けて)表を奉り、」新羅の唐帝国への使者にこと付けた、とのことです。命がけだったでしょう。おそらく宗像氏を通じて送ったでしょう。このころはまだ、唐新羅関係は良好でした。その手紙には、倭国の現状、余豊璋(=藤原鎌足)のことも書いてあったでしょう。白村江の敗戦後、唐から郭ムソウが早々に来日してきうたのも、そのことを確認するためだったかもしれません。2000名の兵というのは、戦闘員ではなく。(本当に日本と戦争する気なら、兵士の数が足りません)特別機動隊、といった。捕縛部隊であるとすれば、納得できる、と私、伊藤は考えます。
(以上伊藤睦月筆)
【381】【471】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。
伊藤睦月(2145)です。今回は、第1パラグラフに関して補足説明します。
(引用はじめ:パラグラフ1)
白村江の戦い(663年)は、当時の世界覇権国、唐帝国とすでに滅亡した百済の残党との戦いである。唐帝国にとっては、辺境の部族反乱の鎮圧、百済を滅ぼした後の掃討戦、という程度の認識でしかなかった。だから、中国正史では、皇帝本紀でなく、当事者の「新唐書東夷百済」や、部下の手柄話(劉仁軌列伝)にしか、この戦いの記事が記載していないのだ。「東夷日本」、「東夷新羅」にも記事がない。日本書紀では、唐・新羅連合軍対日本・百済連合軍といった、まるで日本が戦いの当事者、主役であるかのように描かれているが、日本側の印象操作であろう。
(1)中国正史(新唐書東夷百済)では。白村江の戦いよりも、百済本国の滅亡(百済王。皇太子の敗北)の方が記述量が多いです。また、「新唐書東夷新羅」では、白村江の戦いのことは、一行も出てきませんが、百済滅亡のことは3行くらい出てきます。
(2)また、「旧唐書東夷日本」「新唐書東夷日本」では、百済滅亡も、白村江の戦いの戦いも一行もでてきませんが、日本側が編纂した、「日本書紀」には、両方の記述があり、白村江の戦いとその関連のほうが、記述量が多いです。
これからみても、中国側は、百済滅亡を重要視し、日本側は、白村江の戦いの方を重要視しています。中国側の方が、優先度のつけ方が適切だと思います。
(3)日本側が百済側を支援始めるのは、660年の百済滅亡以後です。日本の人質であった、百済王子余豊璋を王位につけ、失地回復のための戦いに臨ませます。余豊璋は百済内の支配権を確立するため、自分を擁立してくれた、福信を殺しました。日本水軍は、唐水軍と戦って負けます。そして日本水軍に同乗していた余豊璋は高麗(高句麗)に逃れます。ここまでが、日本書紀が描く白村江の戦いです。陸戦はおきてませんが、百済に残った人々は、各地でゲリラ戦を行い、結局は殲滅されてしまいます。(新唐書東夷百済)なお、新唐書東夷百済では、余は、「行方知れず」とされます。余の高麗での足跡はわかっていませんから、新唐書のほうが、より信用できると思います。
伊藤睦月です。この日本書記の記述が本当なら、唐と日本(大和王朝)は、対等(?)に戦ったことになりますが、中国側に全くそれに関する記述がないのは、なぜでしょう。日本書紀が「日本水軍」と書いているのは、実は「百済水軍」で構成員が倭人だった、というにすぎないのでは、と私、伊藤は疑っています。
(引用はじめ)
百済の扶余方豊(=余豊璋)の軍勢は白江口(=白村江)に駐屯していたが、唐軍はこれと四度にわたって合戦し、いずれも百済軍を」打ち破り、舟四百艘を焼き払った。豊は逃げてゆくえもしれなくなった。偽王子の・・・・は。敗残の手勢と倭人を率いて命乞いをした。(新唐書東夷百済)
(引用終わり)
伊藤睦月です、これで中国側が誰を「敵」とみなしていたか、わかります。唐帝国は、あくまでも「百済」と戦ったのであって、倭国や大和王朝と戦ったという認識はありません。せいぜい「百済軍倭人部隊」「倭人義勇軍」といったところでしょう。ところで、渡海用の船や兵糧、倭人兵士はどこで調達したのでしょう。それは、「倭国」だと思います。大和王朝からの援軍や支援物資は意外とすくなかった。(唐軍がそれろ気づかないくらい)しかも「百済軍」として調達可能なくらい。それは百済と倭国が一体化してないとできないこと。そうなると、旧唐書倭国の記述、その終わった年と終わり方が気になってきます。私のファンタジーはますます膨らむばかりです。
(以上、伊藤睦月筆)
【380】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(サマリー)
伊藤睦月(2145)です。昨日予告していた、伊藤のファンタジー、そのサマリー(要約)をまず投稿します(表題を短めにしています)
1)白村江の戦い(663年)は、当時の世界覇権国、唐帝国とすでに滅亡した百済の残党との戦いである。唐帝国にとっては、辺境の部族反乱の鎮圧、百済を滅ぼした後の掃討戦、という程度の認識でしかなかった。だから、中国正史では、皇帝本紀でなく、当事者の「新唐書東夷百済」や、部下の手柄話(劉仁軌列伝)にしか、この戦いの記事が記載していないのだ。「東夷日本」、「東夷新羅」にも記事がない。日本書紀では、唐・新羅連合軍対日本・百済連合軍といった、まるで日本が戦いの当事者、主役であるかのように描かれているが、日本側の印象操作であろう。
2)白村江の戦いのとき、倭国(福岡市博多、糸島、佐賀県唐津市一帯)はすでに存在せず、百済の一部となっていた。来るべき新羅、そして背後にいる唐帝国との戦いを想定していた百済側にとって、倭国地域は、兵站基地として必要だったからだ。百済側は、‘遅くとも648年までには、倭国を手に入れ、660年の百済本国滅亡には間に合わなかったが、失地回復の戦い(663年白村江)には間に合わせた。日本(大和王朝)を取り込むのに時間がかかりすぎた。だから「旧唐書倭国は、648年で終わっているのだ。この年をもって、唐帝国は倭国が消滅したことを確認したのであろう。最後の使いが知らせたのであろう。なお、倭国乗っ取りの首謀者は、百済王子豊璋(=藤原鎌足:関裕二説)である。
3)日本書記によると、戦後、671年、壬申の乱(672年)の直前、「郭務ソウ」という唐帝国からの使者が2000人の兵とともに、47艘の船で、来日し、筑紫(倭国地域)に翌年まで駐留している。その来日目的は、百済残党の頭目、余璋(=藤原鎌足)と共犯者中大兄皇子の捕縛及び、百済残党の兵站基地であった、倭国地域の占領と地域内での備蓄物資や女の略奪、戦いの犠牲者のための報復、である。ところが、余璋(藤原鎌足)は、すでに死亡しており(669年)、中大兄皇子は、日本王(天智天皇)に即位していて、うかつに捕縛できなくなっていた。そのうえ、重病で死にかかっていたため、天智天皇の監視に切り替え、翌年天智天皇の死亡を確認してから、(略奪・報復を完了した)兵士たちを引き連れ、帰国した。
なお、倭国地域の管理は、隣接する地域(福岡県宗像市一帯)を支配していた、親新羅派の海洋民族、宗像氏と縁が深い、大海人皇子(天武天皇)か、高市皇子(母親は宗像氏の族長の娘)に引き継がれた、とみるべきだ。そうしてまもなく壬申の乱が勃発する。
次回から上記サマリーの補足説明を投稿します。
(以上、伊藤睦月筆)
【379】守谷論文を検証する(5)ブレイク:白村江の戦いでは、倭国及び日本(国)は唐から戦争当事者とみなされてなかった(序論)
伊藤睦月(2145)です。「守谷論文を検証する」は、前稿で、一区切りつきましたので、今回から、私のファンタジーを投稿させていただきます。私のいう「ファンタジー」とは、歴史分野において、「資料的裏付けに乏しい、筆者の推測、推理だけで持論を展開している文章」のことを言います。歴史分野では、史料(文字情報)が最優先ですが、過去にいけばいくほど、史料が少ないため、「資料」(文字情報以外の遺物)及び「推理」に頼ることになります。例えば邪馬台国論争が典型で、副島先生もその著書で、箸墓古墳を取り上げておられますが、論争になっているのは、その古墳及び同時代の文献(中国正史など)がでてこないからです。だから箸墓古墳から、「親魏倭王」の金印や「卑弥呼とか台与」とか記された木簡とか出てくれば、(捏造でなければ。この点において、日本の考古学学会には前科があります)。その時点で「邪馬台国論争」は終わります。そうでなければ、後は推理するしかない。ファンタジー祭りの開催です。その推理が「合理的推論」で破綻しなければ、「真実、真説、有力な仮説」、になり、破綻すれば、「憶測、妄想、空想、独りよがりの独自説」となり、真偽はともかく、話の展開として面白ければ、「物語、伝説、小説」になるわけで、いずれも広義の「ファンタジー」です。そういう意味では、守谷さんの論考、私の論考も「ファンタジー」であることは同じです。なお、私のファンタジーとしては、「邪馬台国なんて、本当はなかったろう論(仮称)」を構想しています。だから、守谷さんも、ほかの歴史愛好家の方々も、もし多少とも関心をもっていただけたら、どうぞご遠慮なくご批判ください。もっとも私は「議論とは自分の弱点を徹底的に考え得ることだ」をモットーに随時自己修正をしていますから、その点多少のズレはご寛恕ください。
それでは、次回から、「白村江の戦いでは、倭国及び日本(国)は、唐から戦争当事者とみなされていなかった」論を「ふじむら掲示板」に投稿させていただきます。批判もここでお願いします。「重たい掲示盤」はあくまでも、副島先生の投稿がメインであるべきで、会員・読者各位もそれを渇望しているはず。それ以外は、「副島系掲示板」の「補集合」である。ふじむら掲示板が私を含め、大多数の投稿者にふさわしい。
(あくまでも私独自の意見です)
(以上、伊藤睦月筆)
【378】守谷論文を検証する(5)
伊藤睦月(2145)です。私の不慣れで活字ポイントバラバラ
なことあらかじめ、お断りします。
さて、やっと、本来の検証に戻れます。1パラフレーズごとに検証させていただきます。
また守谷さんが答えやすいよう、できるだけ1問1答方式で書きますので、端的にお答えください。また、私なりの考え、回答案(代案)あがればお示しします。
【3128】十世紀末期~十一世紀初頭(源氏物語の時代)の藤原道長ら高級貴族の最大の悩みは『(旧)唐書』の出現である。
(1)①藤原道長ら高級貴族の・・・:(伊藤):藤原道長は旧唐書成立時には、生まれてないので例示としては、不適。「高級貴族」だけで十分。
②「最大の悩みなら」それを明示、あるいは示唆するような、史料をお示しください。
(2)『(旧)唐書』の成立は西暦945年、当時日本と中国は民間貿易が盛んになっており、宋船が盛んに博多を訪れるようになっていた。
伊藤:・・・894年(遣唐使の廃止)あるいは907年(唐滅亡)以降当時日本と中国は、とすれば、高校テキストとも整合します。
(3)『(旧)唐書』は成立ほどなくして日本に齎(もたら)されただろう。
(伊藤)これも傍証史料で結構ですからお示しください。なお。私、伊藤は「ほどなくしては」もたらされなかっただろう、という考えです。たぶん史料はみつからないと思います。旧唐書成立の1年後、946年に、編纂している後晋が滅亡しているから、と私伊藤は考えます。
(4)平安王朝は、それに激しい衝撃を受けたはずである。
(伊藤)激しい衝撃を受けたかは、私には確認できません。945年頃といえば、村上天皇の時代。平将門の乱があったりして、地方では騒がしくなっているようですが、都では、紀貫之「土佐日記」、「伊勢物語」「竹取物語」が成立し、969年の安和の変で、藤原摂関家の最期のライバル、源高明(大河ドラマの藤原道長の2番目の奥さんの父親)を失脚させ、藤原摂関家の全盛期が始まろうとしていたころです。
もし衝撃を受けたなら、書名くらいは、高級貴族や高級僧侶の日記にでてきそうなものだ。旧唐書は17世紀、清の乾隆帝が始めて正史に加え。四庫全書に納めており、四庫全書の一部は、写本が民間に出ていますから、日本にもたらされたのは、江戸時代だと、私、伊藤は、考えております。そのころは、考証学がさかんだったから、旧唐書の資料的価値も評価されたのではないかな。
(5)『(旧)唐書』は、日本記事を倭国(筑紫王朝)と日本国(大和王朝)の併記で作っている。
(伊藤)旧唐書(東夷)は、「倭国」そして「日本」の順で書かれております。「日本国」でないことに注意。細かいようですが、唐王朝は「倭」を「国」と呼び、「日本」は国をつけておりません。「日本国」となるのは「宋史」からです。これは思いのほか、あとから効いてきます。それから「筑紫王朝」「大和王朝」の区別の出典をお示しください。
(6)663年の「白村江の戦い」までを「倭国伝」で作り、八世紀初頭703年の粟田真人の遣唐使の記事から「日本国伝」を始めている。
(伊藤)「倭国」(伝は列伝の伝ですから、「倭国伝」は標記として不適切です。それに「倭国」は648年で記述が終わっており、663年の白村江の戦いの記述が一切ありませんので、前半は間違いです。後半はは「日本国伝」を「日本」にすれば、そのとおり。守谷さんにおかれては、この「空白の15年」についてご説明ください。
(7)『(旧)唐書』は、七世紀の後半に日本では代表王朝の交代(革命)があったと言っているのだ。筑紫王朝から日本国(大和王朝)へと。
(伊藤)日本語の「革命」には、2通りの意味、「易姓革命(政権交代)」と「社会革命(レボリューション:フランス革命やロシア革命)があります。ここでは、文脈上、前者の意味で使っておられると拝察しますが、それでよろしいですか。これは確認です。
筑紫王朝から、日本国(大和王朝)へと、とありますが、「日本国」ではなく「日本」です。理由は、旧唐書では、「日本」と表記しているからです。当時の世界覇権国の基準からみて、「日本」は、「国」とは言えなかったのでしょう。帝国ー属国論の視点からするとそうなる、と思います。「王朝(ダイナスティ)というのは、「同じ家系の人が連続してその国を治めている状態」をいいますから、この語を使用することは、守谷さんの主張とも整合します。
(8)日本の王朝の生命線は、「万世一系」の天皇の歴史です。日本には革命など一度も起きた事がなかった、と云う歴史です。その歴史だけが天皇(王朝)の日本支配の正統性を保証している。
(伊藤)これは、話盛りすぎ。「万世一系」という言葉(思想)が初めて公式に登場したのは、1889年(明治22年)大日本帝国憲法(明治憲法)第1条(大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス)です。
平安時代には「万世一系」という言葉(思想)がありませんので、この用語を使用するのは不適切です。
この「万世一系」の思想は、憲法政治において、欧米のキリスト教のような「基軸」が必要と判断した、伊藤博文が、スタッフである井上毅などの国家主義者たちに命じて、「現人神」とともに、過去の歴史や、水戸学などの研究成果を取り入れ。人工的に作ったものです。
もちろん、昔から、似たような考え方はありました、日本書紀(天ジョウ無窮の神勅」とか、「神皇正統紀」、あるいは、一姓がずっと統治していることを誇りに思ったり、などは、よく知られていたようです。(北宋太宗皇帝とチョウネンとの筆談)しかし、ないものはない。
(9)『(旧)唐書』は、この生命線を侵し、天皇の正統性を否定する。貴族たちの高貴性の否定である。王朝を支える貴族たちが『(旧)唐書』の存在を放って置くことは出来なかった。
(伊藤)まず、旧唐書にそこまで影響力があったとは考えていません。私は旧唐書は江戸時代に清から入ってきたと考えております。正史に加えられたのが、その頃ですから。また「万世一系」が「生命線?」になったのは、明治時代からだと考えています。「貴族の高貴性」というのはよくわかりませんが、当時藤原摂関家は(旧唐書が成立したころは、ほかの有力貴族はいなくなっていた。)自分の娘に、天皇の男子を産ませることで、みずからの権力基盤を固めていますから、(外戚政治)外国の歴史書よりも、こちらの方がよほど「高貴性」を担保しています。守谷氏の過剰反応、だと思います。守谷さん、あなたは何を心配されているのですか。
それから、守谷さんは何か誤解されているようですが、当時から江戸時代まで、天皇は、中国に正統性を求めていません。よろしいですか。中国皇帝に正統性を担保してもらうには、二つの方法があります。一つは中国に朝貢し、属国として「倭国王」「日本国王」に柵封してもらうこと。(このとき金印などをその証としてもらいます)これが最もオーソドックスです。もう一つは「青史(正史)に名を残す。」チョウネンが怪我の功名でやってのけたやつです。中国正史に日本側が希望する歴代天皇の名前や事績を載せてもらう。当時もそしていまも。中国人(君子=支配階級)は、正史にどう書かれるかを異常に意識するそうです。(小室直樹、岡田英弘)また日本人でもそういう人がいたらしく、作家の司馬遼太郎は、徳川(水戸)慶喜が「朝敵」の汚名を着ることを異常に嫌がったのは、歴史にそう書かれたくなかったからだ、と指摘しています。遣唐使のときでも、日本は朝貢(ご機嫌伺)はしていますが、柵封は受けていません。わが国で初めて柵封(日本国王)を受けたのは、1402年足利義満です。(1369年懐良親王という説もあり)
つまり天皇家は中国皇帝をまったくあてにしていません。あてにしていたのはむしろ、足利氏や徳川氏といった武士たちの方です(副島隆彦説)武士たちが天皇の正統性に対抗するために、中国皇帝に使者を出し、正当性を担保してもらい、あわせて貿易利権の独占を図ったのです(勘合貿易、朱印船貿易)(高校テキストでは後者が強調されています)
(10)703年の粟田真人の遣唐使以来、度重なる遣唐使たちの一番の使命は、唐朝に「万世一系」の日本の歴史を何とか認めてもらうことにあったのです。
(伊藤)これも間違い。遣唐使朝貢だけして柵封をうけていませんから、守谷さんが、いわれるような成果を上げていません。柵封を受けなかったのは、あくまでも日本側であって、中国皇帝ではありません。こうやっってやせ我慢を重ねてきたのだと副島隆彦先生は主張しています。それに当時そもそも「万世一系」という言葉は、この時代に存在しませんので、ナンセンス。
(11)平安王朝は、或る程度それが成功を収めているという思惑があったのかもしれない。
(伊藤)成功も何もそんな思惑はありません。中国正史では、宋史より前は、東夷(野蛮人扱い)が続いていましたから。日本側の独りよがりでしょう。
(12)しかし、それは完全に裏切られた。裏切られたからと言って放って置ける問題ではなかった。「万世一系」の天皇の歴史こそが日本の王朝の生命線なのですから。
(伊藤)誇大妄想。
(13)『日本歴史年表』(歴史学研究会編・岩波書店)から引用
982年、陸奥国に宋人に給する答金を貢上させる。
983年、奝然(ちょうねん)、宋商人の船で宋に渡り、皇帝に拝謁。
988年、僧嘉因らを宋に派遣する。
(引用終わり)
『宋史』日本伝より
雍熙元年(984)、日本国の僧奝然、その徒五、六人と海に浮かんで至り、銅器十余事ならびに本国の『職員令』・『王年代記』各一巻を献ず。***
(伊藤)これらに関しては以前の投稿で説明済み。
(14)後数年にして、奝然その弟子嘉因を遣わし、表を奉じて来り謝せしめて曰く「***
(引用終わり)
奝然と云うのは、東大寺の一学僧でした。その一学僧が、宋に渡るや直ちに皇帝に拝謁を許されているのです。尋常なことではありません。
『宋史』の書き方は、銅器十余事の献上が主役で、『職員令』・『王年代記』などまるで付録のような扱いです。
銅器十余事の中には、982年、陸奥国に貢上させた黄金が詰め込まれたとみるべきです。
988年、奝然の弟子・嘉因に持って行った献上物の豪華であったことは空前絶後です。『宋史』は、その一々を記録しています。
道長ら日本の王朝人は、『(旧)唐書』に代わる新たな『唐書』の制作を嘆願したのだと思う。
(伊藤)これらに関してもすでに説明済み。一言加えるとしたら、藤原道長のようなリアリストは上記のような誇大妄想家ではない。
(15)次回は、宋朝の思惑を考えたい。続く。
(伊藤)どんなファンタジーを語ってくれるのか、楽しみです。私の論考以上のものを期待しています。
(以上 伊藤睦月筆)
【377】守谷論文を検証する(4)チョウネンの大手柄(功績)
伊藤睦月(2145)です。今回は守谷論文のチェックではなくて、自説を述べさせていただきます。
守谷論文にも登場したチョウネン坊主は、6位の身でありながら、中国皇帝との謁見を果たすという「尋常でないこと」をやってのけてたのですが、(宋史外国七日本国)それよりも、もっとすごいことをやってのけたのです。以下、列挙します。
〇チョウネンの功績(後世の日本に対する貢献)
1 当時の覇権国家、北宋太宗皇帝に日本に対する関心を持たせたこと。
2 新唐書以降中国正史に日本正史の記述を採用させたこと。(天皇の正統性を公認してもらった)
3 宋書から、日本を蛮族扱いから国扱いに昇格させたこと。(中国世界の文明国として認めてもらった)
以下、補足説明します。
1 当時の派遣国家、中国皇帝に日本に対する関心を持たせたこと。
1)「宋史外国七日本国」の記述(「倭人伝」(講談社学術文庫))によると、チョウネンは、皇帝拝謁前に中国役人から尋問を受け、手荷物検査みたいなことをされています。そして、あることがきっかけで皇帝との拝謁に成功している。このチョウネンの話は、不法入国外国人の取り調べのようなものと考えればわかりやすい。半分罪人扱いです。この取り調べを行った中国役人は、明州(寧波)、杭州といった、今の中国浙江省の港町に駐在していた「市泊司」のスタッフでしょう。高校テキストでは、貿易管理、税関機能が強調されてますが、当然人の管理、出入国管理機能も果たしていました。当時の中国への出入国は皇帝の許可状か、派遣側の国書(上表文、表)が必要でした。また中国国内の旅行、移動も皇帝の許可状が必要でした。
それ以外の入国、市泊司が駐在している港町以外の場所から上陸することはすべて不法入国です。その場で殺されても文句は言えない。出入国管理の決裁権は、皇帝にありましたから、市泊司で取調の後は、身柄の取り扱いについて必ず、皇帝まで報告、指示をあおいだはずです。そのときに没収(いや献上)された、銅器十余事、職員令、年代記は皇帝のスタッフのもとに送られたと思います、この時点ではまだ皇帝はチョウネンのことを知らない。(しつこいようですがもし、銅器のなかに黄金が詰められていれば、金の分量含めて、この時点で必ず皇帝まで報告されていたはずです。そうでないと、役人が処罰されます。役人がピンハネして全部わがものにした可能性は否定できませんが、守谷説だと量ははっきりしませんが、多少ピンハネしてもしきれない量だと思いますので、やっぱり黄金献上の記事がないのはおかしい)
(補足)チョウネンは、「その徒(従者や弟子)5,6人と海に浮かびて至る」とあり、乗ってきた皇帝公認の宋商人の名前が記されていないので、おそらくは密航でしょう。また宋船しか中国への渡航が許されず、日本船の入港は許されなかったので、もしかしたら、日本商人の密輸船だったかも。そうなるとかなりのリスクを負って渡航してきたと思われます、船はジャンク船、大きさは推測ですが、外洋航海可能な船となると最低500トン以上はあったでしょう。(補足終わり)
(補足②)チョウネンが献上した職員令と日本王の年代記は、超重要です。職員令は我が国の行政組織を記したもの。これは、日本が中国並みの、つまりグローバルスタンダードの社会制度を整備した、ちゃんとした国ですよ。ということを証明するものです。明治時代に、日本が西洋並みの国であることを示すため、憲法、民法、刑法といった社会制度を急いで整備して。欧州列強にアピールしたのと同じです。大事な書物です。また年代記は、日本書紀やその後の日本正史、それから今に至るまでの、歴代天皇の名簿です。守谷さんが主張されている、天皇の支配の正統性を宗主国である、中国(北宋)に認めてもらう必須アイテムであり、これらに比べれば、銅器や黄金(仮)など、どうでもよいのです。(補足終わり)
2)チョウネンに会いたがったのは北宋太宗皇帝の方である。だから「尋常でないこと」が起きた。
宋史には、「太宗、チョウネンを召見(呼び寄せて面会)し、これを存撫(ねぎらう)することはなはだしく・・・」とあります。チョウネンは6位の僧侶ですから、チョウネンがいくら希望しても皇帝には会えない。でも皇帝側が呼べば、話は違います。市泊司からの報告を受けた皇帝は、なんらかの理由で日本に関心をもち、チョウネンからもっとその話を聞きたいと考えたのです。それは銅器や幻の黄金、ではない。それなら話を聞く必要はない。
皇帝は、チョウネンが献上した、「王の年代記」と「職員令」のある部分に関心を持ったのです。チョウネンは空海のような能書家ではありませんから、上表文で皇帝を感動させたわけではない。尋問調書だけ。(チョウネンは中国語がしゃべれなかったので。すべて筆談です。皇帝との会見もすべて筆談。最も中国の公用語は書き言葉の漢文ですから、皇帝と会話することはそもそ許されていません)
皇帝は、日本の何に関心を持ったか。宋史にはこう記録されてます。
(引用はじめ)上はその国王、一姓伝継にして、臣下皆官なりと聞き(筆談だから読み:伊藤、因りて嘆息してして、宰相に言いて(たぶんしゃべった、と思います)曰く、「・・・日本の年代記のように一姓の天子が続いていることは、(伊藤要約)・・・これ朕の心なり」(引用終わり)
伊藤睦月(2145)です。「万世一系」という言葉は明治時代の造語であり、平安時代の歴史を語るに使用すべきでない、と考えてますので、「万世一系(仮)」としますが、中国皇帝は日本の「万世一系(仮)」の天皇と(一姓の)家臣たちで治めている、日本の国のありようを、私の理想だ、(朕の心)と言ったのです。これは中国スタンダード、易姓革命論からすれば、驚天動地の発言です。北宋史官(歴史記録官)に強い印象を与え、中国正史(宋史)に記録されたのです。その願いは、1060年に成立した、新唐書でかなえられました。新唐書の編集代表者の欧陽脩は、この太宗皇帝とチョウネンの歴史的な会見を尊重して、新唐書の大半を、日本書紀をはじめとする日本正史に記録された歴代天皇の名前で埋める、という作業をしたのです。このことは日本の歴代天皇が中国皇帝から正当性を承認された、ということを意味します。でも、後世からみれば、史料的価値に乏しく、面白みのない文章、ということになりましたが、そんなことは当時の人々からすれば、どうでもよいこと。それよりも、「万世一系(仮)」が生命線である天皇家の正統性が中国に担保されたことが超重要ではないですか。守谷さん。あなたの主張されている目的は、旧唐書でなく、新唐書で果たされたのですよ。なのになんで旧唐書なんていう、10年余りで滅亡した地方政権が編纂した歴史書にこだわるのか、私には理解できません。
(補足③)チョウネンが北宋太宗皇帝に拝謁したとき、会見まえにチョウネンに紫衣と当時の五つ星ホテルに泊まらせ、3位の日本僧チョウネンとして会見(筆談)しています。つまり、皇帝に拝謁できる日本の使者は、3位であるという、粟田真人から菅原道真までの慣例は守られています。あーめんどくさい。(補足終わり)
3)そして、このチョウネンの大成功(ケガの功名)は、意外な副次効果を持ちます。チョウネンの帰国後も、日本の僧たちによる中国訪問が続きます。そして日本の情報もだんだん中国に知られるようになりました。当時は藤原氏ら高級貴族たちは、守谷説のような危機感もなく、もちろん、旧唐書を読んで衝撃を受けることもなく、というか、読んだはずもなく、(太平御覧を読んで知ったという可能性はあります。藤原行成とか藤原公任、藤原実資あたりなら、読んでるかも、それならそんなに衝撃的な内容なら、彼らの誰かが日記に書いていそうなものだ。守谷さん、探してみませんか。)安和の変(969年)で最後の賜姓源氏のライバルを蹴落とした後は、藤原摂関家の中で骨肉の争いを始めたころです。藤原道長の祖父や父たちの時代です。そんなとき、5位の中級貴族を父に持つ6位の僧侶(当時正式の僧侶は国から官位をもらった。いわば国家公務員でした)が、なんの偶然か、中国皇帝に拝謁がかない、3位の官位(紫衣)までもらってきたのです。賞賛するよりむしろ当惑したでしょう。今のサラリーマン社会と同じです。
そして、最期の功績。チョウネンの足跡は次の元の時代に編纂された「宋史」(1345年成立)に詳しく記録され、次の明代に編纂された「元史」(1369年成立)にまで引き継がれた。そして、宋史にてはじめて、外国七日本に分類された。それまでは、例えば、隋書東夷倭国、旧唐書東夷倭、同じく日本、新唐書東夷日本、とすべて東夷(東の野蛮人)という冠がつく。日出所の天子、日没するところの天子に云々とか、虚勢をはっていても、中国からみれば東夷(野蛮人)扱い。遣唐使で何度朝貢してあたまさげても、野蛮人扱い。私はいままで「倭国伝」とか「日本伝」とか「伝」を使用するのに慎重になっていたが、伝は列伝の伝。それをチョウネンの訪中、皇帝との会見がきっかけとなって、外国扱いにまで昇格したのだから、これもチョウネンの、ケガの功名であろう。だから倭王、日本王というのは、少なくとも唐史以前では、倭族長、倭酋長、と言った方が、中国側から見えた日本の姿であろう。
(補足:さらに脱線)後世、足利義満が明王朝から、日本国王に柵封を受けたが、これもチョウネンらの努力により、日本が、蛮族扱いから外国扱いになっていたからかも、という想像を楽しんでいます)(補足終わり)
(更に補足)元史外夷1日本(また外夷に戻っているが、次の明史では外国扱いになっている。その理由は現時点では不明)のチョウネンの記事では、
「職貢を奉り、並びに銅器十余事を献ず」となっている。職貢とは、貢物という意味なので、黄金であれば、守谷説の支援になるのに。また、皇帝との会見は省略されている。外夷に格下げしたことと話のつじつまが合わなくなるからであろう。
今回はここまで、次回から、また守谷論文の検証に戻ります。実は、これからが本番、です。
(以上、伊藤睦月(2145)筆)