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伊藤 投稿日:2024/11/17 13:47

【485】ブレイク(:九州王朝説(日本古代史研究のトリックスター、古田武彦ら「在野の巨人たち」について)

 伊藤睦月です。今回は「古田武彦」について。この人はちょっと厄介だ。古田は、1926年生まれ、東北大日本思想科を卒業したあと、高校教師をしながら、日本古代史、親鸞の研究、発表を続け、1984年からは、昭和薬科大学の教授に迎えられている。2015年死去。

 伊藤睦月です。「古田武彦」といえば、『邪馬台国はなかった』(1971年)『失われた九州王朝』(1973年)で、「魏志倭人伝には、「邪馬台国」は存在せず、「邪馬壱国(やまいちこく)」としか書いていないので。ヤマタイコクと書いている先行研究はすべて誤りだ」「卑弥呼女王の都は、魏志倭人伝上博多湾周辺しかありえない」という主張で、業(学)界を震撼させたらしい。  また当時としてはいち早く「九州王朝説」を唱えて話題をさらうなど、歴史研究者や愛好者間ではかなり有名な人物だ。彼の「九州王朝説」については、学会内での支持者、と思われる、若井敏明(関西大学非常勤講師)の要約を紹介します。

(引用開始)※番号は伊藤付加

(1)古田氏は、邪馬台国(氏の主張では、やまいちこく)が九州にあったことと、『三国志』の『魏書』東夷伝倭人条(以下、『魏志』倭人伝)以降の中国史書に見える倭には、連続性が認めれることを主な根拠として、九州を領土とする王朝が弥生時代初期から七世紀末まで、存在したとする。

(引用終わり:『謎の九州王朝』祥伝社新書2021年)

(2)伊藤睦月です。この7世紀末というのは、633年の白村江の戦いで、「旧唐書倭国伝」の倭国、すなわち、「九州王朝」が滅んだとし、その最後の王が665年に郭務綜が来日した際に、捕虜として返された「筑紫君」だとする。

(3)そして、天武天皇の即位後に、焼失後再建された法隆寺が「九州王朝」の都、「大宰府」の寺院から、飛鳥に移築された、という考古学の成果などを根拠に、実は、天武天皇は、天智天皇の弟でなく、「九州王朝」の王族であり、672年の壬申の乱で、大和王朝系(古田は、近畿天皇家、九州天皇家、両方とも同じ「アマ」氏だとする)の大友皇子を倒して政権を簒奪、その孫の文武天皇のときに、反天武系がクーデターを起こして、国号を「日本」と改め、粟田真人が、遣唐使で、則天武后に報告、日本国号の使用と合わせて、王朝の正当性の承認を得た、という。

(『古代は輝いていたⅢ法隆寺の中の九州王朝』)1985年)

(4)そして、「日本書紀」に「九州王朝の歴史書(日本旧紀)」を大幅に取り入れ、日本書紀の神代編に「一書」という形で九州王朝の神話を取り入れたとする。そのことによって、天武系の正当性を主張しようとした、とする。(『盗まれた神話 記・紀の秘密』1983年)

(5)伊藤睦月です。以上を読まれた方、以前の私の投稿をご覧になった方は「あれ、どこかで見たような見解だな」と思いませんでしたか?アイデアてんこ盛り。古田の学説は、今まで学会でまともに取り上げられることはなかったが、一部の学会や歴史愛好家には、未だに熱烈な支持者がいるようで、彼らは「古田学会」という自主研のようなグループを結成し、機関誌も発行しているようだ。彼の単行本は400ぺージくらいで27冊あり、そのすべてが、ミネルヴァ書房という書店から「古田武彦古代史セレクション」という全集本で復刊されている。ちなみに、この機関誌の存在は、昨日(11月17日)福岡市の大型書店で見つけた。その横に、下條氏の本が平積みで3冊ほど積んであって正直じわった。ちなみにその機関誌は買ってない。

(5)伊藤睦月です。古田とは生前親交があり、良き論争者であった、「家永三郎」(1913年ー2002年、東京教育大名誉教授、専門は日本古代史、「家永教科書裁判」という憲法訴訟の分野では有名な判例で、昭和や平成前半期の法学生には有名だった)は古田のことを、「精緻な論証と主観的独断の共有する古田学説」と評したが、日本史学会の学者たちの大半が古田を無視したなか、ただ一人、論争に応じ、共著までだしている。この家永三郎、学者としての業績評価は知らないが、なかなかの人物、だと私、伊藤は思います。

(6)伊藤睦月です。古田は47冊の本を通じてありとあらゆる、大量の仮説を書き散らし、いや提示してきているので、九州王朝に関する仮説は、たいがいは、古田の本から見つかるだろう。

(7)私の経験を言えば、かつて、「白村江の戦いは、残敵殲滅戦」だと書いて、少し悦に入っていたが、後日、同じ文章を古田本のなかから見出して、テンション下がった記憶がある。「自分の頭で考える」ことなど、たいていは、思い上がりでしかない「中二病」であろう。もちろん、自分の頭もその程度だ。

(8)1970年代~80年代の「古代史ブーム」の立役者といえば、ほかに、松本清張、高木彬光、宮崎康平、梅原猛、江上波夫、などが、よく読まれた。井沢元彦は松本、高木の系統であろうこれらのスターたちは、学会では、江上を除き、あまり取り上げられることはないし、学者たちの重箱の隅をつつくような議論、論文はさほど気にしなくても、こういう在野の歴史マニアが信奉する論者たちの見解には、注意を払う必要があると思う。

以上、伊藤睦月拝

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/11/16 10:32

【484】天才・岡田英弘の孤独(5):おまけ

伊藤睦月です。おまけ2つ

(1)「岡田英弘イジメ問題」については、ウィキペディア「岡田英弘」に本人と弟子のコメントを参照。読んでて切なくなった。

(2)それから、下條本に岡田英弘著作集全8巻を、中国の要人が読んで、絶賛し、その評価が日本に逆輸入されるだろう、という旨の、文があるが、楽観視が過ぎる、と考える。

(3)伊藤睦月です。上記「中国要人絶賛」の記事もウィキペディア(岡田正弘)に掲載されているが、この記事が事実だとしたら、そのポイントは、次の4点

(1)この記事は2015年、出元が「福嶋香織」であること。

(2)この福嶋香織がインタヴューした中国要人が「王岐山」であること。

(3)王岐山は、2014年の1年間にわたり、岡田博士の本を読んでいること。

(4)王岐山は、岡田英弘博士を「蔑視派」の歴史学者と認定していること。

(5)そのうえで、岡田博士は素晴らしい、とほめていること。

私は、この記事を読んで背筋が寒くなった。以下私の考えを簡潔に述べる。

(1)福嶋香織は、元産経新聞中国特派員で、現在フリー。新疆ウイグル自治区やチベットの人権弾圧に関する著書があるようだ。(私は、読んでいない)そんな「好ましからぬ人物」が介在している岡田本を彼らは歓迎するだろうか。

(2)この「王岐山」という人物の現在の政治勢力、パワーはどれくらいあるのだろう。これが習近平が読んで、褒めたのなら、その翌日には、中国中の本屋に岡田先生の本があふれかえっているはずだ。中国には「出版の自由」はほとんどない。そのほとんどすべては、なんらかの「政治色、政治的意図」があると見た方がよい。そんな「色」がつくことを岡田先生は望まれただろうか。

(3)この「王岐山」は、日本語の本は読めたのか、読めなくて、中国語に訳させて読んだのか、その辺は明らかではないが、それにしても、「1年間にわたって読んだ」ということは、著作集8巻を読んだ、ということだけではなく、それを含め、「岡田英弘」の「人物と思想調査」が完了した、ということだ、と思う

(4)一番の問題は「蔑視派」という認定だ。「蔑視派」とは何のことか、誰が誰を「蔑視」しているのか。そう、これは「日本人」が「中国人」を蔑視する歴史観という意味だと思う。そうだとするなら、岡田先生の本の随所に出てくる、「漢民族は、2世紀にはその大半が死に絶えた」とか「中国の近代化はすべて日本経由」みたいな見解を一貫して主張している、岡田英弘、という学者の本を中国で広めようとするだろうか。また逆輸入が実現するだろうか。

(5)そんな岡田先生を「王岐山」が褒めたという。それはいわゆる「ほめ殺し」とうもので、これを解読すれば「岡田英弘博士は、「蔑視派」として正々堂々と持論を展開している。それは、敵ながらあっぱれである。岡田先生は、われわれ、中華帝国に堂々と逆らった「国士」だ。国士には礼をもって、国士にふさわしい「名誉の死」をあたえよう。かの文天祥や方抗儒のように」

 伊藤睦月です。これって私の考えすぎだろうか。なお、岡田先生は、台湾の大学の先生をしたことがあるが、1980年に北京図書館に自分の業績論文を寄贈し、「林彪事件」の現場を視察(著作集第5巻にその時の写真が掲載されている)した以降は、中国に入国された、できた、のであろうか。

 そのへんの状況は私にはわからないが、そんなに中国に褒められることが、めでたいことなのだろうか。私にはよくわからない。アメリカに代わり、我々の宗主国になるかもしれない、国とつきあうことはそれはそれでやっかいだな、と正直に思う。

以上小休止。伊藤睦月筆

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/11/15 21:41

【483】天才・岡田英弘の孤独(4)

伊藤睦月です。暑苦しい議論で恐縮ですが、続けます。

(1)大学教科書として編纂された、『世界史の誕生』とは違って、『日本史の誕生』は、一般読者向きの、教養、娯楽本として企画編集されたものだと、私、伊藤は考えます。

(2)手元に弓立社版の単行本を持っていないので、自分の記憶に頼ってますが、写真、地図、イラスト、講演、シンポジウムの発言録などが、通常本とは違う、図鑑や雑誌のような段組で、載せられて、読み物というよりも、見て楽しい本だったと思います。

(3)文章も、学術論文調ではなく、たとえば、「駐在員」とか「パレード」とか一般読者がイメージしやすい表現を用い、「真実なるものはえてしてほろ苦い」といった、情緒的、文学的なフレーズを入れるなど、普通学術書にはみられない工夫が随所にみられる。

(4)その反面、学術書なら当然あるべき、引用・参考文献リストが付されていない。

(5)以上から、明らかに一般書の体裁であり、当初、岡田博士の業績にはカウントされず、したがって日本史関連の論文で引用もされなかったと考えられる。これはいわゆる「無視」とか「いじめ」

とは違うのではないかと思う。(「無視」とか「いじめ」と自他ともに認めるのは、西嶋定生を筆頭とする、日本東洋史学会の主流派学者たちのことだろうと思う)というか、岡田博士にとって、日本史に関する諸論考は、本気でなくて息抜き、余興のようなものであったろう。私、伊藤は、同書からは岡田先生がくつろいで議論を楽しんでいるようにどうしても思えるのです。

 それでも、岡田博士は天才だから、天才にとってはほんの余技でも、それをライフワークとしている学者たちとそん色ないレベルのものであるとするなら、並みの学者たちはどういう思いだったろうか。

 なお、岡田学説は学会的には『倭国の時代』で躍動することになる。下條氏も紹介している、渡邊義浩『魏志倭人伝の謎を解く』(中公新書2012年)である。『倭国の時代』の巻末には、「参考にした資料について」と題した、参考文献リストが文庫版から付されており、学術書でも引用可能になった。

 渡邊義浩は、三国時代を中心とする中国古代史や儒教などの中国思想史を専門とする、いわば岡田博士と同業者で、日本史の専門家ではないが、魏志倭人伝に関する論考で、岡田説をほぼ全面的に展開している。こんな本は、私は初めて見た。渡邊は、『倭国の時代』について、「親魏大月氏王に着目し、曹爽と司馬イとの抗争のなかに、親魏倭王の贈与の原因を求める」と簡潔に要約している。

 そして、その隣に、西嶋定生『邪馬台国と倭国ー古代日本と東アジア』を置いている。渡邊なりのバランス感覚の発露、とみるのは、考えすぎだろうか。

 もう一つ、強調しておきたいのは、『日本史の誕生』を見つけ、称揚し、その名声を高めるのに、一役買ったのは、副島隆彦先生そしてその弟子たち、すなわち私たちではなかったのか。

 岡田英弘先生は、2017年に亡くなられているが、いわば人生の晩年あたりに、最良の理解者とその読者たち、を得て、孤独な天才の心は少しは慰められたのではなかろうか。僭越ながら、そう思いたい。

以上、伊藤睦月拝

 追伸:岡田先生の「聖徳太子実在説」をしりたかったなあ。

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/11/15 10:21

【482】天才・岡田英弘の孤独(3)

 伊藤睦月です。寄り道が過ぎるようですが、このまま、行っちゃいます。

(1)現在、『世界史の誕生』、『日本史の誕生』及び『倭国の時代』は、ちくま文庫に似たような装丁でならんでいる。しかし、その成り立ちは、前者と後2者とで全く違う。

(2)『世界史誕生』は将来この分野での専門家を目指す学生のための入門テキストとして企画された。たしか、「ちくまプリマー双書」とかというシリーズだったと思う。私はその中の「法哲学」とか「法思想史」とか「民法」などを読んだ記憶がある。

(3)この『世界史の誕生』の本文は、文章に「遊び」がない。論文、教科書スタイルである。ぎっしりと硬質な文章で埋められている。

(4)巻末に、「参考文献の解説」があり、各章ごとに必読の文献(日本語と英語)が、その解説(というか、読みどころ)とともに、紹介されている(全100本くらい)この本に取り組む者(学生)は、著者のナビに従って、、この100冊を読破、習得すれば、この分野での、必須文献をマスターし、専門家(大学院)への道が開ける、といった趣向である。これは決して一般向きの本ではない。

(5)伊藤睦月です。私はこのリストと解説をみて、驚愕した。岡田博士は、研究者としてだけでなく、教育者(メンター)としても優れた方だったんだろう、と痛感した。

(6)なお、私はこのリストにある文献を一冊も読んでないし、これからも手にすることすらしないだろう。私には無理。しかしこの分野では、入門中の入門文献なのだろう。せいぜい本文を読んでその雰囲気を味わうだけだ。

(7)また、この本は、私の知る範囲では、この分野の学術論文や、一般向けの本でも、必ず、参考文献として挙げられ、引用もされている。言及すらされない「日本史の誕生」とは好対照だ。この『世界史の誕生』を一般読者むきにかみ砕いて語っているのが、「歴史とは何か」(文春新書)である。これには、参考文献や引用はほとんどない、岡田先生の語りおろしである。

(8)だから、岡田先生が生涯かけて、言いたかったことを手っ取り早く知りたいのであれば、『歴史とは何か』、世界的な学者としての、「岡田英弘」をその雰囲気だけでも知りたい方は、『世界史の誕生』に取り組まれてみたらどうだろう。あなたも「モンゴル史」の専門家になれるかも?信じる信じないはあなた次第です・・・?(どこかで聞いたようなフレーズ・・・)

ここで小休止、以上。伊藤睦月筆

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/11/14 22:29

【481】前項の訂正・補足

 伊藤睦月です。

『日本史の誕生』単行本の初出は、1994年でした。だから大山氏が同書を読んでいた、そして、その2年後に、自説として発表した、という疑いは、否定できません。しかし、それは証明可能でしょうか。

 ところで、古田武彦氏は、1970年代には、九州王朝説の立場から、タリシヒコと聖徳太子は別人だと、主張しています。「聖徳太子実在問題」を論ずるのに、古田説(本人は故人ですが、未だに熱烈な支持者が学会や歴史愛好家に存在しています)も議論の遡上に載せないのは、不当な取り扱いだと思います。最も早く、聖徳太子の存在に疑問を抱き、具体的な仮説を提示したのは、私の知る限り、古田です。岡田博士は、文章表現上は疑問を呈しているだけです。

以上、誤りの訂正と補足説明でした。古田武彦については、後日取りあげます。

伊藤睦月筆

伊藤 投稿日:2024/11/14 22:07

【480】天才・岡田英弘の孤独(2)

伊藤睦月です。最初にお断りを・・・全稿で「倭国」は「倭国の時代」の間違いです。両書は別個に存在します。失礼いたしました。

さて、議論の補助線として、2つ。

1,「聖徳太子存在問題」を指摘した岡田博士の立論の要素分解をすると、3つになります。

(1)「隋書倭国伝」と「日本書紀の記述」は矛盾する。

(2)両者が矛盾した場合、「隋書倭国伝」の記述を優先する。

(3)その結果、推古と聖徳太子の実在があやしくなった。

伊藤睦月です。(1)は、学会でも1960年代から指摘されてきた。

(2)は、岡田説のような考え方は「日本史を世界史の中で考える」という、西嶋定生以来、東洋史学会の共通認識だと思われます。(『古代東アジア世界と日本』)それに対し、日本史学会の考えは逆です。(1)は十分認識しながら、海外史料でなく、国内史料にとことんこだわって、(3)という結論にならないよう、「努力・工夫」を重ねてきたと考えられます。

(3)で、学会誌で「聖徳太子は実在しない」論を証拠付きで主張したのが、大山誠一氏です。この大山氏の動きが、日本史学会の学者たちにとって、いかに唐突だったか、前に紹介した「東大教授」の反論文を見れば、十分うかがえます。大山氏の「反乱」は1996年から、とされていますから、2004年に公刊された「日本史の誕生」を読んで、「聖徳太子非実在説」の着想を得た、という疑いを持つことは、可能です。しかし、果たしてその実証は可能でしょうか。実際大山氏は、学会主流から猛反発を受けながらも、史料証拠を指摘し続け、学会主流が懸念するほど、賛同者を増やし続け、教科書の表記を変えさせました。その点には正当な評価が与えられべきかと思います。なんだか日米特許論争みたいな話ですね。大山氏が「自白」すればよろしいでしょうが、それが無理である以上、「疑わしきは罰せず」で、納めるしかないのでは。これ以上追求すると、それこそ「誹謗中傷」といわれても、反論できなくなると思います。

そして、泉下の岡田先生も、そんなこだわりはお持ちではなかった、と思います。彼の「主敵」はあくまでも、西嶋定生をはじめとする「東洋史学会」だと考えています。

 もう一つの補助線、それは『世界史の誕生』と『日本史の誕生』という2冊の小さな本が、その似通った題名と違って、岡田先生における、重要度が全然違う、という話です。『世界史の誕生』が「本命、本気、真面目」、『日本史の誕生』は「余暇、遊び、戯れ」、だった論、とでも言いましょうか。

以下、次回、伊藤睦月筆

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/11/14 14:33

【479】天才・岡田英弘の孤独(1)

伊藤睦月です。前回からの続きを書きます。

要旨:

(1)岡田英弘先生は、「日本史の誕生」を一般読者向けに「遊び半分」に書いた。

(2)そして、同書を学術書でなく、歴史雑誌やムックのような体裁で単行本を作った。

(3)だから、参考・引用文献リストなど、学術書として当然あるべき、体裁を整えてなかった。

(4)そこに、同書及び「倭国」、「歴史とは何か」の3冊の「古事記偽書説」部分について、日本史学会古事記部会から、「盗作疑惑」のクレームをうけた(多分、弓立社版の単行本や「倭国」中公新書版は事実上の絶版状態に追い込まれた)

(5)同書及び「倭国(倭国の時代と改名)」を、ちくま文庫に採用するにあたって、該当部分に対する、コメントを付し、文庫版あとがきで、初出情報を付すなど、学術書として、最低限度の体裁を整えて、ちくま文庫版で世に出すことができた。(その際、当時ベストセラーとなっていた「英文法の謎を解く」シリーズで筑摩書房に発言力をもっていた、副島隆彦先生のかなりのサポートがあったのではないかと推測している。邪推かも・・・)

(6)聖徳太子非実在説については、学会側から、クレームはこなかったと思われる。学会側も歴史ムック扱いだからそんなに目くじらたてなかったのだろう。もしくは、学会の関係者は読んでいないのではないか。(だから、古事記偽書説で、クレームを出した学者にはなんかうさんくさいものを感じている)

(7)一方、岡田先生にしても、日本史分野は自分の領分でないので、クレームが来てもあまり感じなかったのだろう。そもそも、日本史学会なんて眼中になかったのだ。

(8)だから、「日本史の誕生」「倭国の時代」をちくま文庫に入れる際、意外とすんなり釈明コメントを入れたのだろう。(ちくま文庫編集部および副島先生の説得もあったのだろう)一方、「歴史とはなにか」(文春新書)では、釈明はしていないので、この本は岡田先生なりにこだわりがあったのだろう。(東洋史と先生の歴史哲学に関する内容なので、先生なりの矜持もあったのだろう)

以上、あくまで、伊藤の推測でした。次回から上記に補足します。

伊藤睦月拝

 

 

伊藤 投稿日:2024/11/14 09:32

【478】下條さんの誠実な対応にまず感謝します。こういう反応をいただいたのは今までなかったので、少々うるっと来ています。

 伊藤睦月です。只今、2024年11月14日8:15です。まず、下條様へ。表題にも書きましたが、誠実なご対応ありがとうございます。私の投稿に対しては、会員、非会員とわず、(20年前は非会員でも投稿できました)今まで、反発,無視、罵詈雑言、逆切れという対応ばかりだったので、下條様のファクトに基づく冷静な対応にはいささかとまどっているくらいです。それでも、副島先生がこれまで経験されてたであろう、(と想像していますが)仕打ちに比べれば、はるかにましでしょうが。なにはともあれ、今後ともよろしくお願いいたします。

 さて、下條様がご指摘されている、大山誠一とその仲間の学者たち、彼らについては、私は態度を決めかねています。

(引用開始)ちなみに、私は副島先生と同じく、聖徳太子=蘇我入鹿+蘇我馬子説で、アマタリシヒコ=蘇我馬子だと思います。(引用終わり)

伊藤睦月です。実は、大山誠一もアマタシリヒコ=蘇我馬子説です

(引用はじめ)

 聖徳太子が架空の人物であったとなると、直接の影響を被るのが推古である。・・・疑問なのは推古だけではない。用明も崇峻も、大王として疑問がある。・・・私はこの3人は大王でなかったと思う。そのことを証明するのは難しいが、基本的な考えかたは示しておきたい。・・・大王という地位にこだわらなければ、この時代の最大の権力者は明白である。もちろん、蘇我馬子である。では、彼は、大王だったのではないか。それは、飛鳥における彼の権力の質にかかわる問題であろう。(引用終わり:大山誠一『日本書紀』の構想、『聖徳太子の真実』2014年平凡社ライブラリー初出1994年ごろ)

伊藤睦月です。「ごろ」と書いたのは、大山氏の書き方がその辺が分かりにくい書き方になっている。1994年は学術論文として発表した年。それを一般書に書き直したのが、1999年の『聖徳太子の誕生』だそうだ。しかし、学会的には、大山誠一氏が「聖徳太子はしなかった論」を唱えだしたのが、1996年ごろ、とされている(下記東大教授の反論参照)だから、下條様、副島先生が,タシリヒコ=馬子説を言われだしたのはいつごろでしょうか。

(引用開始)日本の歴史家は隋書のアマタリシヒコの記述を指摘しません。大山誠一氏の本も読みましたが、本来、隋書の記述から聖徳太子存在しなかった説が始まっているはずなのに、この記述を本に掲載しません。これはおかしいのではないかというのが私の文の意味です。(引用終わり)

伊藤睦月です。この問題は、「倭国伝と推古紀の違い、矛盾」は、1960年代から、日本歴史学会のテーマです。

この問題を取り上げる研究には、

(1)坂本太郎「『日本書紀』と『隋書』」(坂本太郎著作集第二巻古事記と日本書記吉川弘文館、1988年初出1976年)

(2)増村宏「隋書と日本書紀、遣隋使をめぐって」(『遣唐使の研究』同朋社1988年、初出1968.1969年)

などがあります。(大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』平凡社2011年)

伊藤睦月です。『倭国の時代』は1976年、『日本史の誕生』の第5章「日本建国前のアジア情勢」は1981年の講演会の記録がもとになっているそうです。私は上記先行論文はタイトルだけで内容をチェックしていないので、断定は避けますが、岡田先生が日本歴史学会の論文をチェックしていないとは、思えないのですが。(後で述べますが、岡田先生は、チェックしていないか、引用を明記していない、ありていに言えばパクったのではないか、それはありえる、と思っています)

取り急ぎ、ご指摘させていたきます。

以上、伊藤睦月拝

 

ジョー(下條竜夫) 投稿日:2024/11/13 17:35

【477】「【474】【至急】ここで、下條さんにコメントを求めます」にコメントします

伊藤睦月様

「【474】【至急】ここで、下條さんにコメントを求めます」にコメントします。

「後年大山誠一氏などの歴史家は、この指摘をしりながら、引用せず、あたかも別の説として、聖徳太子=厩戸皇子説を作り上げていった。」

これは私の書いた解説文で、引用ではありません。副島先生もぼやきで同じことを言っていたと思いますが、出典が不明なので、私下條の意見としておいてください。

日本の歴史家は隋書のアマタリシヒコの記述を指摘しません。大山誠一氏の本も読みましたが、本来、隋書の記述から聖徳太子存在しなかった説が始まっているはずなのに、この記述を本に掲載しません。これはおかしいのではないかというのが私の文の意味です。

ちなみに、私は副島先生と同じく、聖徳太子=蘇我入鹿+蘇我馬子説で、アマタリシヒコ=蘇我馬子だと思います。

下條竜夫拝

伊藤 投稿日:2024/11/13 16:58

【476】日本古代史備忘録(7)東大教授による大山誠一’「聖徳太子は存在しなかた説」批判

 伊藤睦月です。先に予告していた、東大教授による、大山誠一批判文の一部を紹介します。筆者の大津透氏は、『日本史の現在2 古代』(山川出版社)の編者です。この本は山川高校日本史に掲載されている論点について、若手研究者(将来の教科書執筆候補者)が最新の学説の状況と今後の展望を描く、という趣向の本、(考古から近現代まで全6巻)問うことは、近い将来、本書における議論を踏まえて、教科書が書き直される、かも・・・という論文集です。

 大津教授の大山誠一批判は、第2巻古代編のあとがきに5頁にわたって書かれていますが、冒頭の1頁強を引用します。少しでも読みやすくするために、小分けにして番号を振ってます。あえてコメントや注釈はつけません。各人各様の感想はあると思いますが、とにかく、現役の学者先生たちが、大山誠一の見解の何を問題にしているのか、ある程度はわかると思います。では・・・

(1)執筆者が得られず、残念ながら立てられなかったテーマがある。それは聖徳太子であり、なぜ近年の高校教科書では、「厩戸王(聖徳太子)」と表記するのかという問題がある。

(2)筆者(大津)は専門ではないが、少しだけここで触れておきたい。

(3)そもそもは、大山誠一氏が『聖徳太子の誕生』(吉川弘文館、1999年)などにおいて、「聖徳太子は存在しなかった」と論じたことに始まる。

(4)法隆寺金堂釈迦三尊像と薬師如来像の後背銘、天寿国繍帳などは、天皇号(天武朝成立とする)がみえることから、推古朝の史料として使えず、

(5)『日本書紀』に記される聖徳太子の事績も、奈良時代に道慈(どうじ)によって捏造されたものだとする。

(6)聖徳太子の事績とされるものはすべて創作で、

(7)偉大な政治家・文化人である太子は実在せず、

(8)厩戸皇子(うまやどおうじ)という王族がいただけであり、

(9)斑鳩寺(いかるがでら)くらいしか事績はないとした。

(10)そこで、聖徳太子の本名である「厩戸王」を用いる方が学問的に見える。

(11)確かに一度それまでの歴史観を否定するのは意味があるが、

(12)聖徳太子はいなかったという全面否定的な議論には批判も多く、

(13)議論に根拠があるかは個別の史料の検討が必要であろう。

(14)又問題なのは、教科書で「厩戸王(聖徳太子)と記すと、「聖徳太子は存在しなかった」との説を認めているようにみえることにある。

(15)確かにかつて推古朝は、天皇に代わって摂政となった聖徳太子の政治といわれ、

(16)遣隋使など外交を主導したとされてきたが、

(17)現在では、聖徳太子がどこまで政治を主導したかは不明で、

(18)推古朝の政治は蘇我馬子が中心か、馬子と太子との協調だろうといわれている。

(19)ただし憲法17条については、「皇太子自らはじめてつくる」と聖徳太子の作だと『日本書紀』は記す。

(20)その捏造説に対しては、曽根正人氏が反論し、

(21)推古朝のものとして整合的だとしている。(『聖徳太子と飛鳥仏教』吉川弘文館2007年)

(22)そして教科書では、604年に憲法17条が定められたと明記するので、「厩戸王」とする記述と矛盾するようである。

(23)聖徳太子とは、聖人の徳を備えた皇太子の意味である。

(24)皇太子制はもっと後の時代にできた制度だから、「太子」は存在しないとの議論もある。

(25)しかし、吉村武彦氏は、『隋書』倭国伝に「太子を名付けて、ワカミタフリとなす」とあることから太子の存在は疑いないとする(『聖徳太子』岩波新書。2002年)・・・以下省略

(以上引用終わり)

伊藤睦月です。どうです。感想、意見は各自さまざまでしょう。私は、個人的には「岡田英弘先生をえこひいきしたい人」なのだが、副島先生の「議論とは自分の弱点を徹底的に考えることである」(覇権アメ第4章)、「相手の立場にたって物事を考える」(『法律学の正体』)という掟に縛られているので、どうしても逆の立場で考え、議論してしまう。かなりめんどくさい奴だな。とわれながら思いますが、もうこれは死ぬまで治らないでしょうな。

以上、伊藤睦月筆