ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
伊藤 投稿日:2024/12/12 09:27

【523】ブレイク:「人生を狂わす読書」「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」で自分の平凡さを思い知らされる。

伊藤睦月です。歴史もののネタ切れしそうで、現在充電中。雑談っぽい話。

 私は、年少のころから、「友達ができないタイプ」で、いつのまにか、「本がともだち」状態だったが、それでも、大したことはない。ふりかえれば、質量的に大したことがない。謙遜ではなく、実感。

 例えば、作家の開高健は、家が貧乏だったので、小中高の図書館の本を全部読み、若いころから本の収集家だった友人の谷沢永一の蔵書を読みつくした、とか、佐藤優氏や副島先生が、中高生のころに読んでいた本について語っている文章などを読むと、あまりの格差にため息も出ない。そういう人たちと比べること自体間違いなんだろうけど、上には上がいる、と改めて、思う。

 自分の頭、才能、使える時間、お財布の限界、などの制限のなかで、なんとかこれまでの人生、本嫌いにならずに、楽しめたのは、読む本、書き手たちのチョイスを自分相応に、間違えなかった、間違えてもすぐに修正できたからだと思う。

 それでも、私の読書遍歴なんぞは、振り返ってみれば実に平凡なもので、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』にまとまってしまうような、ものらしい。

 この著者の本は、SNSの投稿をまとめた『人生を狂わす読書』が好きで、この手の書評だと、もう紹介された本を読まなくてよくて・・・、という著者の意図とは、違う読み方をして、それですませる、という横着をしているが、それでよい、と思う。1994年生まれの、読書オタクな女の子に刺さった作品を知るだけでも、トクした気分になる。息抜きにはちょうど良い。

 今後、こういう「ダレトクデスカネ?」という雑文も書かせていただきます。それが「ふじむら掲示板」だからいいだろう。

 とりあえずの小休止でした。

伊藤睦月拝

 

伊藤 投稿日:2024/12/09 09:07

【522】2054さんへ。対等なご議論をしていただき、まずは感謝です。

 伊藤睦月です。2054さんへ。

 私の半年も前の稚拙な議論(「409」2024.6.26)を拾っていただき、ありがとうございます。2054様は相当な「小林恵子推し」のようで、「推し」の闘争心に火をつけたようですね。わくわくします。

 小林恵子説に関する、レスについては少しお時間ください。今彼女の著作を少しづつですが、入手して読み始めており、ある程度考えが固まったら、必ず、投稿させていただきます。

 私、伊藤の、現在の関心事は、前回投稿しました、「見取り図」のピースを埋めることです。

 これに対するご意見や参考情報等いただけると、ありがたいです。

 それに、歴史ものも少し、煮詰まってきたので、他の分野の本にも手を出し始めています。例えば、

『記者と官僚 特ダネの極意、情報操作の極意』佐藤優・西村陽一中央公論社2024年、といったもの。先日地元の大型書店をぶらぶらしていて、偶然見つけました。まだ、表紙カバーしかみていないのに、衝動買いしてしまいました。佐藤優氏の「悪人顔」、いいですねえ。

 ま、そういう次第でマイペースでやらせてもらいますので、2054さんも、お気楽におつきあいしていただければ、ありがたいです。

時節柄、ご自愛くださいませ。

伊藤睦月拝

 

会員番号2054 投稿日:2024/12/09 06:12

【521】東川王の東遷(神武東遷)について(【409】への返信:その6)

2054です。今回は、東川王による東遷について考察したいと思います。この点について、伊藤氏による疑問が提示されました。伊藤氏によれば、もしそのような東遷の史実があるのであれば、その事情が中国正史に記載されているはずではないか?とのこと。

(伊藤氏の疑問提示:抜粋はじめ)
高句麗の東川王が、台与を押し立てて、東遷したという説を自説のように紹介しているが、なにか、そんな記事が宣王紀にあるのだろうか。そういう倭国内の事情は本紀よりも、この東夷倭人編にかかれてこそ、ふさわしいと思う。(抜粋終わり)

2054です。伊藤氏が「自説のように紹介している」と言及している説が小林説になります。小林説では、高句麗の東川王は九州にある邪馬台国(卑弥呼)を滅ぼし、台与を押し立てて近畿地方に向けて東遷したとします。神武東遷には何人かの史実が投影されていますが、東川王による東遷もその1つで、東川王は初代天皇である神武天皇となります。

そして、晋書に東川王による東遷が記載されていない理由は、晉にとって「都合が悪い」からです。その背景には、晉と敵対関係にある高句麗勢力(東川王系)が東アジアで勃興しており、倭国における東川王系の伸長を認めるわけにはいかない事情が控えています。
(引用はじめ 『興亡古代史』p97 小林恵子 文芸春秋)
この後(※266年の送使後)、晋は晋末の413年まで列島と交渉していない。『晋書』には倭人の条はあっても倭国の条はないのである。結局、晋は倭国の存在を認めなかったようだ。それは高句麗にもいえ、『晋書』には高句麗条そのものがない。その理由は244年に毌丘倹が高句麗を攻めて、東川王が逃亡した時、高句麗は消滅したというのが表向きの理由だろう。
しかし実は逆だったのである。250年前半に毌丘倹(かんきゅうけん)が幽州を去ると、再び高句麗が勃興していたのだ。東川王が高句麗を去った後、東川王の子の中川(ちゅうせん)王が高句麗に残っており、259年12月には魏勢と鴨緑江の支流で戦って圧勝し、再び高句麗は勢力を盛り返していたのである。この時点で半島中、南部は、ほとんど神武勢力下(※東川王勢力下)にあったから、列島を含めた極東地域は、東川王の子供か、その配下の者の国になっていたのである。
晋は晋に反抗した東川王の系統が極東で勢力を伸ばすことを認知するわけにいかなかった。だからこそ晋はその後、長期にわたって高句麗や半島中・南部、及び列島と国交を断絶したのである。
(引用ここまで)

2054です。当時の東アジア情勢に鑑みれば、晉が高句麗や倭国を「国家としてはなかったことにする」のもあり得る話です。高句麗は滅亡していることにしていますが実際には国力を増大させています。その高句麗系の東川王が「倭国で絶賛拡大中」とは認められません。そのような事実を記載するなど「もってのほか」です。
伊藤氏は【513】において「東倭はなぜ1回しか登場しないのか」と疑念を呈されていましたが、東川王と連合する東倭は東川王東遷の後盾になっていたことは想像に難くありません。しかし、高句麗は滅んだ、倭国?知りませんよ、そんな国というのが晋側の「大本営」のスタンスです。東倭について言及がないのはそれが理由と考えられます。

倭との交流はあくまで倭人だけということで「高句麗条」「倭国条」をつくらず「倭人」だけ東夷倭人編に記した。武帝紀にも「倭人が来た」としか記しません。そもそも国として認知・承認していません。そして、晉末期の413年まで国交を断絶しました。

東川王が神武天皇になって倭に乗り込むなんて夢物語(トンデモ)じゃないの?と見る向きもあると思います。しかし当時の東アジア情勢を見れば十分起こりうるシナリオです。
前回の投稿でも言及しましたが、朝鮮半島では土着勢力を巻き込んだ争乱が起こり、帯方太守や楽浪太守が殺害され、辰韓王も報復されています。隣接する日本列島がその余波を受けるのは自明であり、邪馬台国がいつどうなっても全くおかしくない状況です(だから帯方太守の王頎は邪馬台国の難升米に檄を飛ばしています)。
実際、毌丘倹の半島支配が確立すると、東川王は活路を求めて北九州に上陸。邪馬台国と戦い、卑弥呼を殺し倭王を僭称したと考えられます。
(引用はじめ)
東川王は246年に長寿山の戦いに敗れると、半島の西海岸を南に下り北九州に上陸した。そして247年に王頎の使者が来る前に卑弥呼を拘束して死に至らしめた。突然現われ、卑弥呼を殺し、北九州の覇を唱える東川王を奴国以外の北九州の卑弥呼側の国々が簡単に承認するはずはない。そこで東川王は卑弥呼の姪の台与を卑弥呼の代わりに祭祀権を授けて実権を握ることにしたようだ。しかし北九州勢力は、東川王は魏に敗れた高句麗からの亡命者だから、簡単に同盟すれば魏の怒りを買うことを恐れた。その上、精神的政治的支柱の卑弥呼を殺した事実は許せなかったらしい。北九州に定着することは困難とみた東川王は、卑弥呼の姪・台与を大物主のように疎外せず、祭祀者として取り込んで、はるかな祖先の休氏が辿った道、近畿地方に安住の地を求めて東遷する。台与を取り込んだのは北九州 も列島、つまり倭国の一地方にすぎなくするためだった。はたして、これ以後、北九州が倭国を代表することはなかった。東川王は『記紀』においては北九州から東遷した神武天皇といわれることになったのである。『記紀』では東川王の父山上王は高句麗で没したので、そのまま記録するわけにはいかない。 そこで神代最後の神ウガヤフキアエズとして名を残し、列島で没した東川王は人代の初代神武として名を留めたのである。東川王の名は東遷した王という意味を内在させている(小林恵子『古代倭王の正体』祥伝社新書p108~109)

2054です。東川王による「神武東遷」は、実際には順風満帆ではなく、毌丘倹の影響力が強いうちは、できなかったようです。本格化するのは、毌丘倹の没落した255年以降になりますが、その間に東川王も死去しています。東遷を完成させたのは、息子の神渟名川耳(かみぬなかわみみ)で、264年から265年にかけて近畿を平定。266年に即位します(これが綏靖天皇で、台与は皇后)。そして晉に承認を求めたが結果的には空振りで、国交は断絶したというのが歴史の流れと考えられます。

以上までで、ようやく【409】への回答が終わりました。伊藤氏にはいろいろ質問を提示していただき、また、長々とした説明をお読みいただき感謝いたします。

伊藤氏は2000年にわたる通史を作成されるとのこと、エネルギッシュさを尊敬しています。博学な伊藤氏にいろいろ教えていただきたいと思います。

伊藤 投稿日:2024/12/08 11:59

【520】属国日本史論の見取り図(伊藤ファンタジー)を提示します。

伊藤睦月です。私の「属国日本史論」メモ、アトランダムに続けます。(過去分の重複、上書き御免)

1 「九州王朝説」(古田武彦)の採用(真理の整合説:下條竜夫)

(1)「邪馬台国九州説」、「邪馬台国所在問題」、「卑弥呼の正体」、「邪馬台国東遷説」、「広開土王との死闘」、「倭の五王あてはめ問題」「隋書倭国伝:タシリヒコ問題」、「旧唐書倭国伝、日本伝の併存」問題は、「九州王朝」の存在を前提としないと、うまく説明できない。(科学的方法論を採用した「考古学」・「文献学」の成果が裏付けつつある)

(1)ー2:「騎馬民族征服説」は「邪馬台国東遷説」のバリエーション。

(1)-3: 4世紀の畿内に「民族」はこなかったが、「騎馬」は伝わった。

(1)ー4:「騎馬」をいち早く採用した「ワカタケル」(雄略大王)が、畿内を統一して、勢力を「西進し」九州王朝を圧倒した。

(2)日本書紀は、「大和王朝」の歴史。

(2)-2:宮内庁公認の「皇室系図」は、ヤマト王朝の系図に九州王朝の系図が巧みに織り込まれている。

(3)天武・持統王朝の正統性を「国内の他の有力豪族向け」に主張(啓蒙普及)させるために、あえて、「ネイティブ漢文」で作成して、らしく装った。

(3)-2:日本書紀の「帝紀(大王の年代記)」と「旧辞(その他のエピソード集)」に、九州王朝の歴史書「日本旧記(古田武彦)」を巧みに混ぜ込んでいる。

(3)-3:中国正史の「倭の5王」と、日本書紀の「河内王朝、播磨王朝」の王たちは、別人とみると説明がうまくいく。

(3)の2:遣唐使は、日本書紀を唐皇帝に提出しなかった。(できなかった。「天皇号」承認問題。則天武后に「天皇」と名乗る度胸がなかった、とみるが、最初から提出する気がなかったとも解釈できる。

(3)の3:日本書紀完成後、ほぼ30年に1回、当時の貴族(官人)全員を対象に「日本書紀勉強会」を開催して啓蒙普及に努めた。

(3)の4:その時の講義レジメが「日本紀私記」(第2回目が有名な多人長の『弘仁私記』、人長は、この序文で、あんちょこ(古事記)の存在をばらした。)

(3)の5:『古事記』は、歴代講師(太安万侶の子孫)の「指導書(あんちょこ)」として、「多家秘伝の書」として書かれた。(だから、鎌倉時代の写本が最古であり、また、ネイティブ漢文でなく、当時の日本語である、変体漢文(万葉仮名)で作成。

(3)の6:日本書紀講義は、藤原北家の摂関政治が確立(960年ごろ)した後、その役割を終え、終了。

(3)-7:18世紀の国学者、賀茂真淵は、古事記の序文が平安時代初期の作だと見抜き、弟子の本居宣長に手紙で知らせた。本居宣長は、それを受け、序文は無視して、本文のみを分析、解釈して「古事記伝」を完成した。その後、現在まで、「古事記伝」が正統の学説となる。

(4)戦後、古事記偽書論争がおこったが、2000年代に至り、「序文は偽書、もしくは疑問。本文は本物」という解釈が主流となり、建前はともかく、論争の意味が事実上消滅した。現在では、偽書かどうかを争うのではなく、「本居宣長に帰れ」とのスローガンのもと、本文の内容研究が中心となっている。

(5)古事記作者についても、「稗田阿礼については、ペンディング、存在不明。太安万侶は実在が確実なので、彼が中心となって古事記を完成した」というのが学会主流。また、稗田阿礼の正体については、天武10年に結成された「日本書紀編集委員会」のメンバーのなかから、作者を推定する見解が現れ、定説になりつつある。

2 遣隋使以来、倭=日本は、中華帝国と対等関係を主張し、その後ずっとその態度を貫いた、というのが、戦前・戦後日本史学会の「定説」だった。

3 しかし、西嶋定生ら、「世界史の中で日本史を考える」東洋史学会は、「対等論」に正面から反論せず、史料、事実の提示で「違う」ことを示唆しつづけた。(1970年代から、はっきりと、主張した岡田英弘は、日本史学会、東洋史学会、両方からシカトされた)

4 2000年代に入り、学会定説の「対等論」に疑問を表明する研究者が現れた(中村修也、河上麻衣子など)また、「魏志倭人伝」に関して、岡田英弘説を採用する東洋史学者(渡邊義浩など)、考古学者(片岡宏二など)も現れだした。その決定版が1995年の副島隆彦「属国日本史テーゼ(仮称)」。

5 「漢委倭奴国王」、「親魏倭王」「倭の五王」までは、他の東アジア諸国と同じく、「朝貢・冊 封」による、貿易利権の独占と国内支配権の権威付け、図った。

6 遣隋使で、中華帝国と対等の関係構築を目指したが、失敗した。しかし、国内的には、対等関係構築に成功したふりをして、国内的にアピールし続けた。その後も同じ。実質的には、貿易利権(朝貢貿易)の確保と仏教文化、律令制度、など中国文明の輸入で満足した。

7 遣唐使でも、第7回で、「日本国号」は認めてもらったが、「天皇号」については、使用申請すらできなかった。その後の遣唐使でも、「天皇」ではなく、「スメラミコト」で終始せざるをえなかった。

8 「天皇号」が中華帝国に承認されるのは、北宋以降であるが、「対等」ではなく、「朝貢国」という前提であった。これ以降は、対中国交流の窓口は、天皇・公家から、僧侶、そして、武家に移った。鎌倉時代はその移行期。(蒙古襲来で初めて、窓口が問題となり、宋学移入のきっかけをつくった)

9 武家の時代になり、足利義満は、本音ベースで「日本国王」の冊封を受け、貿易利権を独占しようとした。この方針は、次代の「足利義持」以外の歴代の足利将軍たちに受け継がれ、将軍達は、明帝国に朝貢使を出し、日本国王の冊封を受け続けた。(1500年代になり、細川氏→大内氏に受け継がれた)

10 秀吉による、朝鮮出兵の講和交渉で、明側は、前例にのっとり、秀吉に「日本国王」の冊封をしようとしたが、拒否られ、逆切れされた。明側からすれば「不当な言いがかり」だった。

11 豊臣政権を引き継いだ徳川政権は、中国との国交を回復しようとしたが、「冊封問題」のため、実現できず、琉球王国に代わりに朝貢させることで、貿易実利を獲得することができた。この状態は、明治まで続いた。

12 明治になり、欧米式の外交関係を樹立しようとした。最終的には「戦争という外交手段」により、対等の関係を樹立できた。(1895年下関条約)その後の展開は、おおむね、高校日本史の教科書どおりに進行した。

13 中国の属国を脱した後は、大英帝国の属国となり、太平洋戦争の敗戦後、合衆国の属国となり、現在に至っている。

14 その後、「9.11終わりの始まり」以降、合衆国の求心力が弱まりつつあるが、その後の展開について、副島隆彦先生の「予言」が続いている。(佐藤優氏によれば「預言」だそうだ)

 以上、伊藤ファンタジーの見取図でした。今後、必要に応じて改定していきますし、この見取図のもと、枝葉、各論について、議論していきます。

ので、悪しからず。

以上、伊藤睦月筆

 

 

 

 

 

 

会員番号2054 投稿日:2024/12/08 08:46

【519】仮綬の意味について(【518】へのご返信)

2054です。仮綬については横道にそれるので言及を避けていましたが、伊藤氏からタイムリーな投稿がありましたので、「返信:その6」をまとめる前にこの点について考察してみようと思います。

東倭は240年に帯方太守から詔書を仮綬しただけだから、これは偽物で邪馬台国の朝貢とわけが違うというアイデアが【518】の伊藤説です。しかし、「仮綬」だからニセモノとは言えません。帯方太守の独断で詔書が発行されたのではなく、実質的な最高権力者=司馬懿の意向をもとに帯方太守から渡されているのですから、東倭からすればそれは「本物」です。東倭の使者の面前で「これは仮だから」と言ったわけでもないですし東倭は大いに宣伝したでしょう。

史書(魏志倭人伝)の記述だけに絞ってみれば、東倭に限らず、邪馬台国の金印・親魏倭王も「仮綬」です。皇帝が授けているのに「仮に」って何なの?と思います。なぜ「仮綬」という、わけのわからない表現になっているのか?という疑問がわきます。

その正解は、小林恵子の『興亡古代史』p77~78にあります。

(引用はじめ)

明帝の詔には金印を仮授するなど他にほとんど例のない「仮」という語が使われている。これは「魏志」の「倭人伝」に記されている事柄で、「魏志」の本紀には238年に卑弥呼の使者が都に来たと記していないから、 もちろん「親魏倭王」を仮授したという条もない。卑弥呼の送使は本紀では抹消されているのである。

しかし明帝は正式に卑弥呼を倭国王として「親魏倭王」の金印を与え、莫大な贈物をしたと思う。(中略)ではなぜ本紀は卑弥呼の送使を抹消し、「倭人伝」は「親魏倭王」を「仮授」したと表記したのか。皇帝から直接、任命されたのではなく、王から任命された場合、「仮授」というのではないかとする意見がある。しかし中国で「仮授」にそのような意味を持たせた例を私は知らない。

「倭人伝」には、卑弥呼の記事に引き続いて、正始元 (240)年、太守の弓違が使者を倭に使わして、仮に倭王に任命するという詔を下し、金や錦、刀、鏡を下賜したので、倭王はその恩に対して感謝の返礼をしたとある。

この時の太守は卑弥呼の時の劉夏と違って、弓遵という人物になっている。それにしても先年、卑弥呼は明帝によって、倭王に任命されているのだから、太守の弓遵が重複して卑弥呼を倭王に任命するというのはおかしい。

卑弥呼の使者、難升米等は238年11月に都に到着して明帝に対面しているが、翌12月に明帝は死んでいる。明帝が死ぬと、司馬懿は明帝の養子の子供を擁立して実権を握った。つまり240年の太守弓遵の倭国への送使はすでに明帝は死んでいるから、司馬懿の意志だったのである。

司馬懿は明帝、毌丘倹、劉夏ラインが倭王として認知した卑弥呼ではなく、司馬懿自身が別に倭王を立てて、 毌丘倹の遼東から列島にかけての勢力を排除しようとしたのである。

このことは「倭人伝」において、卑弥呼を女王と表記しているが、正始元年条では倭王と記して、区別していることからもわかる。卑弥呼はあくまでも女王であって、倭王ではないのである。後王とは男王のことである。

このように明帝=毌丘倹と司馬懿の勢力争いの結果、列島は明帝が認めた倭王卑弥呼の他、司馬懿が倭王に任命した倭王が存在することになった。『三国志』の編者、陳寿は魏の忠臣だったから、卑弥呼を倭王としたかったのだろうが、しかし事実は司馬懿が任命した倭王が別にいた。そこで卑弥呼ともう一人の倭王という二人の倭王任命には不確定な「仮」という文字を使ったのだろう。

(引用終わり)

2054です。伊藤氏は先の投稿で、明帝と司馬懿の権力闘争という点についてその時点では存在しないと判断されていました。しかし、実際には権力闘争は水面下を含めると相当あったのではないでしょうか。その現れが倭国代表の2国です。

もし司馬懿がその当時、明帝の忠臣であるならば東倭を呼び寄せること自体が不遜です。明帝は邪馬台国に金印を渡しているのですから、それは明帝の意向を踏みにじる行為です。そして、史実からは「明帝、毌丘倹、劉夏ライン」に対抗して「司馬懿、高句麗、弓遵ライン」がほの見えます。

 

高句麗は公孫氏と対立していましたが、魏の公孫氏討伐の際、司馬懿には援軍を出しますが、毌丘倹には出しません。毌丘倹は245年に高句麗を滅亡させます。司馬懿は毌丘倹の支援をした形跡はありません。

弓遵は半島土着の勢力(辰韓)に反乱されて戦死しています。この土着勢力は水面下での毌丘倹の支援の可能性があります。弓遵の後を継いだ帯方太守は毌丘倹側の王頎であることがそのことを物語っています。そして王頎は徹底して東川王を討伐します。その際、司馬懿側の楽浪太守・劉茂は王頎に援軍を出さずに黙殺します。そして劉茂は土着勢力(辰韓ら)に殺害されます(新羅本紀・助賁王17)。他方、助賁王は突如、歴史上から消えます。司馬懿側に殺害されたと推測されます。この一連の闘争の中で、邪馬台国の難升米は王頎から黄幢が授けられ檄を飛ばされています。

これらのいわば魏の内乱に等しい状態は、正史においてはごまかされてしまっています。

(引用はじめ)江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武(現代思潮新社p223)

現地勢力及び助賁王と臣賁沽国王との戦いによって、楽浪太守の劉茂が戦死するという未曾有の事件は、その背後には毌丘倹と王頎がいるからこそ成功したのではないか。いや、むしろ 私は王頎自身が出陣して劉茂を殺したと思っている。それは、楽浪太守だった劉茂が殺された翌年の247年(正始8)、王頎が帯方太守として卑弥呼に使者を送っていることによって想像されるのである。王頎は劉茂を殺して帯方太守の地位を強奪したのではないか。「魏書」(斉王紀注二)には、王頎は東萊(山東半島)の人だが、孫の王弥は、晋の永嘉年間(307~12)の大賊だったとある。王頎自身のその後のことは不明だが、少なくとも晋朝において出世した様子はない。

「魏書」の著者陳寿は、斉王本紀に、245年の王頎と東川王との戦いの後始末ともいうべき翌年五月の濊・狛の討伐と数十国の降伏のみを記して、246年8月から始まる王頎と劉茂との対決、それから10月から11月にかけての劉茂の戦死を隠蔽してしまったのである。その理由は、劉茂の戦死は、陳寿の書いているような現地人の反乱というような単純なものではなかったからだ。陳寿は、劉茂の死の真相を明らかにしたくなかった。だからその死の前後を年月もふくめてぼかしてしまった。

(引用終わり)

2054です。伊藤氏は「東倭」の存在を首肯されるとのこと。このように従来の前提を覆して新たな前提を設定すると、次々と疑問点が浮かぶと思います(私はそうです)。その際には本当に頭を使いますし、面白味がありますよね。伊藤氏はお風呂の中でも考えられていたとのこと。また何か良い着想があればご教示いただければ幸いです。

伊藤 投稿日:2024/12/07 20:56

【518】東倭にかんする、ちょっと気になること。

 伊藤睦月です。東倭の存在については、2054さんの説明で納得なのですが、気になっていることがひとつ。なぜ、帯方郡の長官が仮綬したのか。すこし引っかかっていましたが、風呂に入ったら急に思いついたので、忘れないうちに書き留めます。

 それは、東倭の朝貢時には、宣帝=司馬懿は、まだ皇帝ではなかったから。

 史実として、司馬懿は皇帝にならず、孫の司馬炎の代になって西晋の皇帝になりました。

 この卑弥呼や東倭の朝貢の約10年後、明帝の死後に、曹一族による、司馬懿排除の動きをしたのですが、逆襲され、曹一族の主だった者は捕縛、処刑され、それ以降、司馬懿とその一族が、実権をにぎり、魏皇帝は傀儡となってしまいました。

 晋書宣帝本紀は、後世「宣帝」の名を追贈された司馬懿の功績を称えるために書かれたものですが、当時は、東夷の朝貢を受けることはできても、倭国王の官位を与えるのは、司馬懿の越権行為、下手すれば明帝から処罰されても、文句は言えません。

 だから、魏都では、倭国王の詔書は与えられず、自分の地盤である、帯方郡の長官から渡すことになったのだと思われます。厳密にいえば、東倭に与えた詔書は、正式のものではない、ニセモノです。東倭の使者はそんなこととは知らず、喜んで受け取ったでしょう。だから、邪馬台国女王の朝貢とは違って、当時、東倭の来訪は、そんなに大々的に喧伝できなかったのでしょう。むしろ内密にされた可能性もあります。正史における、邪馬台国の記事と東倭の記事の扱いの差がでたのは、以上のような事情があったのではないかと、推測します。勝てば官軍なので・・・

以上、伊藤睦月筆

 

伊藤 投稿日:2024/12/07 10:43

【517】【516】「重訳」について(【409】への返信:その5)への返信。

伊藤睦月です。2054さん、早朝からお付き合いいただき、ありがとうございます。

2054さんは、「東倭」という、邪馬台国を盟主とする「倭国」とは、別の国、勢力の存在が倭の東にあった、ということを小林恵子説を使って、主張されているのでしょうか。

 それに対しては、2054さんの見解に賛同します。 ただ、「東倭」が史料上は、1か所、1回きりなのが気になります。

 ところで、『冊府元亀』は北宋時代にまとめられた資料集で、中国正史に記載されていない、史実がたくさん紹介されており、司馬光の「資治通鑑」とならんで、小林氏だけでなく、多くの研究者が引用しております。しかし、当該資料の出どころは明らかでなく、記載史料の真偽がわからない、2次資料なので、あくまでも、中国正史等一次資料を補完するものと考えております。今回のケースは一次資料が使えるので、それでよいのでは。あくまで、私見ですが。

 重訳が、文書の翻訳を重ねることなのか(鳥越説)、通訳者のことなのか(小林説)なのかは、平行線かと思いますが、中国への朝貢は、「文書」でやりとりするのが、基本で、当時の中国語をしゃべることができたかどうかは関係ないと思います。それに最近まで中国語の口語や発音は、まるで別言語かと思われるほど通じない方言が多いそうで、結局は、文書で会話しているらしい。(岡田本及び私自身の訪中経験)ここ50年くらいはテレビ、ラジオ等により、「北京官話」という、大連地方の方言が普及したので、大分口頭での話が通じるようになったとか。当時の状況が思いやられます。

 往生際が悪くて恐縮ですが、魏と邪馬台国、魏と東倭、邪馬台国と東倭とでは、口頭では言葉が通じなかった、文書で筆談するしかなかったので、重訳にしても、どちらの意味にもとれそうです。ああいえばこういう、ですみません。だから何?と言われたら微苦笑するしかないけど。

以上、伊藤睦月筆

 

 

 

会員番号2054 投稿日:2024/12/07 09:09

【516】「重訳」について(【409】への返信:その5)

2054です。今回は晋書:武帝紀と四夷伝から考えてみたいと思います。
それぞれの原文は以下のようにあります。
武帝紀「泰始2年、11月巳卯、倭人来献方物」(泰始2年は266年)
四夷伝:倭条「泰始、初遣使重訳入貢」
伊藤氏は、この原文の解釈について、「泰始、初遣使重訳入貢」は「邪馬台国の台与(臺與)が晋に使いを送った」と解釈しています(参照:『倭人・倭国伝全釈 東アジアのなかの古代日本』鳥越憲三郎・角川ソフィア文庫)。
(伊藤氏の疑問提示:抜粋はじめ)
「東倭」が重訳を連れてきたのではなく、「台与が」というのが、素直な読み方。それに重訳を「通訳」としているが、ほかに用例があれば、納得しますが、よくわからん。
(抜粋終わり)
鳥越憲三郎は前掲書のなかで「邪馬台国の女王台与によるものであったことは確か」(電子書籍版:47/100%箇所)としています。しかし、本当に「邪馬台国」が送使したのでしょうか(私はそう思いません)。
まず、原文には主語が「倭人が」とあり、どこの国の誰かは明記していません。晋は倭国を独立国と認めていませんので、解釈が必要になります。この点、『冊府元亀』にも倭の女王が朝貢した(265年)とあるので、「台与が」と解釈するのは妥当です。しかし、これが「邪馬台国(の台与)」とする根拠はありません。武帝紀には「倭人」とあるだけです。

なお、重訳とは「通訳を重ねる」ということ。用例はいろいろあり、漢書·平帝紀には「元始元年春正月、越裳氏 重譯獻白雉一」とあり、「重譯」は使われております。これも通訳を重ねると読むのが通常です。貞観政要にも「絶域君長、皆來朝貢、九夷重譯、相望於道。」(誠道十七)とあります。

邪馬台国であれば重訳を連れずに朝貢できるはず。伊藤説が岡田説・下條説などと同様に、華僑説を前提にする場合、邪馬台国は華僑が支配者層ですよね?(解釈を間違っていたらすみません)。それなら邪馬台国では、重訳どころか通訳すら不要です。実際、邪馬台国の卑弥呼については、重訳を連れていったという記述はありません。しかし台与の送使は重訳を連れています。同じ邪馬台国であれば、それはおかしいように思います。

そして宣帝紀には、240年正月に、東倭重訳朝貢の記載があります。東倭であれば、重訳が必要で、女王国の場合は重訳がいません。したがって、晋書は邪馬台国と東倭を対比して使い分けていると解釈されます。

なお、鳥越氏の前掲書では晋書の説明箇所をみても宣帝紀への言及がありません。「東倭」は存在しないかのような扱いです。学会通説も似たようなものと私は推測しています。最新の伊藤氏のコメントでも東倭の存在に(学会を説得するような)根拠がないとしていますが、上記に述べた通り、中国正史上では十分、根拠が明示されていると私は思います(中国正史以外での根拠については別の機会にコメントします)。

一般的に流布されている考えからすれば、「あれ?おかしいな?」という異端な説を私はご紹介していると思います。伊藤氏におかれましては「学会通説で説明つかないときは、学会内外にこだわりなく、最も適切な見解を採用する」とのスタンスを取られるとのこと。少なくとも学会通説のおかしな点をご理解いただければ幸いです。
つぎに高句麗と倭国について、晋書がまったくの無視をしている点を取り上げたいと思います。(続く)

伊藤 投稿日:2024/12/07 04:16

【515】【514】ブレイク:【513】へのご返信へのご返信

 伊藤睦月です。2054さん、早速のレス、ありがとうございます。司馬懿=徳川家康説は、私の思い付きですが、239年、明帝の死後、249年に司馬懿が逆クーデタで実権を握ったという史実を念頭に置いたものです。なお、司馬懿の孫、司馬炎は、265年に魏の元帝から禅譲を受け、西晋帝国を建国します。2054さんのご指摘通り、238年の卑弥呼の朝貢のときには、諸葛亮を死に至らしめた英雄として、司馬懿は存在感を増しており、むしろ曹一族の方が警戒を強め、緊張関係はあったようですが、まだ表面化していない段階だと思います。明帝の死後、張玉蘭の夫、曹宇が新帝の後継人に指名されますが、4日後に解任されます。司馬懿の関与は不明です。

 また、毌丘倹は、司馬懿と連携して、公孫淵を滅ぼした大功があり、司馬懿存命中は、忠実な子分として行動していました。司馬懿にはよほど心服していたのでしょう。

 しかし、孫の司馬炎が元帝から禅譲を受け、西晋を建国すると、江南の呉と内通して反乱を起こしますが、逆に打ち取られます。最後は魏帝国に殉じたわけです。彼にとっては「禅譲」も「簒奪」と映ったのでしょう。

 以上、岡田英弘『倭国』第三章をベースに記憶を呼び起こしました。

 なお、下條本のとおり、魏→晋への禅譲は平和裏に行われ、最後の魏皇帝(元帝)は、殺されることなく、陳留王として、57歳まで生きたそうです。陳寿が三国志正史を書き上げたときはまだ存命だったそうです。両者の接触は確認されておりません。50年ほど前のNHK人形劇「三国志」では、禅譲のあと、元帝は暗殺されますが、これは1000年後にできた羅漢中作『三国志演義』に基づくもので、フィクションだと言われています。ちなみに、禅譲で前皇帝が、殺されなかったのは、後漢→魏、魏→晋、北周→北宋、の3回だけだと言われています。

 とりあえずのレスでした。卑弥呼=張玉蘭説の重掲投稿は、後日拝見したいと思います。2054さんの投稿は、いつも、励みになります。今後ともお付き合いいただければ幸いです。

以上、伊藤睦月拝

 

 

会員番号2054 投稿日:2024/12/06 21:42

【514】ブレイク:【513】へのご返信

2054です。さっそくに私の投稿をお読みいただきありがとうございます。伊藤氏の精力的な投稿に触発され、いろいろ考える契機をいただけました。御礼申し上げます。重訳については、近日中に投稿いたします。

司馬懿は徳川家康にそっくりというのは「言い得て妙」ですね。豊臣秀吉は臨終の際に「秀頼を頼む」と徳川家康に頼んでで死んだとされていますから、確かにそっくりです。
しかし徳川家康の忠義は表面だけです。豊臣秀吉もそういわざるを得なかっただけで、忠義者とは思っていなかった
ことは想像に難くありません。それと同じではないでしょうか。

「魏書」毌丘倹伝では、習鑿歯(しゅうきんし)が以下のように語っています。

(引用はじめ)http://home.t02.itscom.net/izn/ea/kd3/28a.html
習鑿歯曰く:毌丘倹は明帝の顧命に感動し、ゆえにこの戦役を為した。
君子(習鑿歯)が謂うには、毌丘倹の事は成らなかったとはいえ、忠臣と謂うべきである。
そも節を竭くして義に赴くのは自身に在り、成功と失敗とは時に在り、
自身に苟くも時が無ければ、成功がどうして必定となろうか? 自身を忘れて必定を求めず、
これが忠たる理由である。古人の言葉にも 「死者が復た生きても、生者は愧じず」 とある。
毌丘倹の如きは愧じぬ者と謂ってよかろう。
(引用おわり)

2054です。ここで分かることは、毌丘倹は明帝の忠臣で、明帝の顧命に従った(よって司馬氏に反逆した)ということです。ということは明帝の時から司馬氏が実権を掌握しつつあり、そして聡明な明帝はその状況を理解していたのではないでしょうか(理解していないはずがありません)。

【508】の(13)において、下條先生の「卑弥呼=張玉蘭説」について判断を保留すると述べられていました。その点についてですが、私は重たい掲示板において、[3453]『物理学者が解き明かす邪馬台国の謎』の疑問点というタイトルで投稿したことがございます。下條先生とはそのときに重たい掲示板上でやりとりをさせていただきました。もしよろしければ、ご高覧いただき、判断材料の1つにしていただければ幸いです。