ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
伊藤 投稿日:2024/06/13 16:39

【377】守谷論文を検証する(4)チョウネンの大手柄(功績)

伊藤睦月(2145)です。今回は守谷論文のチェックではなくて、自説を述べさせていただきます。

守谷論文にも登場したチョウネン坊主は、6位の身でありながら、中国皇帝との謁見を果たすという「尋常でないこと」をやってのけてたのですが、(宋史外国七日本国)それよりも、もっとすごいことをやってのけたのです。以下、列挙します。

〇チョウネンの功績(後世の日本に対する貢献)

1 当時の覇権国家、北宋太宗皇帝に日本に対する関心を持たせたこと。

2 新唐書以降中国正史に日本正史の記述を採用させたこと。(天皇の正統性を公認してもらった)

3 宋書から、日本を蛮族扱いから国扱いに昇格させたこと。(中国世界の文明国として認めてもらった)

以下、補足説明します。

1 当時の派遣国家、中国皇帝に日本に対する関心を持たせたこと。

1)「宋史外国七日本国」の記述(「倭人伝」(講談社学術文庫))によると、チョウネンは、皇帝拝謁前に中国役人から尋問を受け、手荷物検査みたいなことをされています。そして、あることがきっかけで皇帝との拝謁に成功している。このチョウネンの話は、不法入国外国人の取り調べのようなものと考えればわかりやすい。半分罪人扱いです。この取り調べを行った中国役人は、明州(寧波)、杭州といった、今の中国浙江省の港町に駐在していた「市泊司」のスタッフでしょう。高校テキストでは、貿易管理、税関機能が強調されてますが、当然人の管理、出入国管理機能も果たしていました。当時の中国への出入国は皇帝の許可状か、派遣側の国書(上表文、表)が必要でした。また中国国内の旅行、移動も皇帝の許可状が必要でした。

それ以外の入国、市泊司が駐在している港町以外の場所から上陸することはすべて不法入国です。その場で殺されても文句は言えない。出入国管理の決裁権は、皇帝にありましたから、市泊司で取調の後は、身柄の取り扱いについて必ず、皇帝まで報告、指示をあおいだはずです。そのときに没収(いや献上)された、銅器十余事、職員令、年代記は皇帝のスタッフのもとに送られたと思います、この時点ではまだ皇帝はチョウネンのことを知らない。(しつこいようですがもし、銅器のなかに黄金が詰められていれば、金の分量含めて、この時点で必ず皇帝まで報告されていたはずです。そうでないと、役人が処罰されます。役人がピンハネして全部わがものにした可能性は否定できませんが、守谷説だと量ははっきりしませんが、多少ピンハネしてもしきれない量だと思いますので、やっぱり黄金献上の記事がないのはおかしい)

(補足)チョウネンは、「その徒(従者や弟子)5,6人と海に浮かびて至る」とあり、乗ってきた皇帝公認の宋商人の名前が記されていないので、おそらくは密航でしょう。また宋船しか中国への渡航が許されず、日本船の入港は許されなかったので、もしかしたら、日本商人の密輸船だったかも。そうなるとかなりのリスクを負って渡航してきたと思われます、船はジャンク船、大きさは推測ですが、外洋航海可能な船となると最低500トン以上はあったでしょう。(補足終わり)

(補足②)チョウネンが献上した職員令と日本王の年代記は、超重要です。職員令は我が国の行政組織を記したもの。これは、日本が中国並みの、つまりグローバルスタンダードの社会制度を整備した、ちゃんとした国ですよ。ということを証明するものです。明治時代に、日本が西洋並みの国であることを示すため、憲法、民法、刑法といった社会制度を急いで整備して。欧州列強にアピールしたのと同じです。大事な書物です。また年代記は、日本書紀やその後の日本正史、それから今に至るまでの、歴代天皇の名簿です。守谷さんが主張されている、天皇の支配の正統性を宗主国である、中国(北宋)に認めてもらう必須アイテムであり、これらに比べれば、銅器や黄金(仮)など、どうでもよいのです。(補足終わり)

2)チョウネンに会いたがったのは北宋太宗皇帝の方である。だから「尋常でないこと」が起きた。

宋史には、「太宗、チョウネンを召見(呼び寄せて面会)し、これを存撫(ねぎらう)することはなはだしく・・・」とあります。チョウネンは6位の僧侶ですから、チョウネンがいくら希望しても皇帝には会えない。でも皇帝側が呼べば、話は違います。市泊司からの報告を受けた皇帝は、なんらかの理由で日本に関心をもち、チョウネンからもっとその話を聞きたいと考えたのです。それは銅器や幻の黄金、ではない。それなら話を聞く必要はない。

皇帝は、チョウネンが献上した、「王の年代記」と「職員令」のある部分に関心を持ったのです。チョウネンは空海のような能書家ではありませんから、上表文で皇帝を感動させたわけではない。尋問調書だけ。(チョウネンは中国語がしゃべれなかったので。すべて筆談です。皇帝との会見もすべて筆談。最も中国の公用語は書き言葉の漢文ですから、皇帝と会話することはそもそ許されていません)

皇帝は、日本の何に関心を持ったか。宋史にはこう記録されてます。

(引用はじめ)上はその国王、一姓伝継にして、臣下皆官なりと聞き(筆談だから読み:伊藤、因りて嘆息してして、宰相に言いて(たぶんしゃべった、と思います)曰く、「・・・日本の年代記のように一姓の天子が続いていることは、(伊藤要約)・・・これ朕の心なり」(引用終わり)

伊藤睦月(2145)です。「万世一系」という言葉は明治時代の造語であり、平安時代の歴史を語るに使用すべきでない、と考えてますので、「万世一系(仮)」としますが、中国皇帝は日本の「万世一系(仮)」の天皇と(一姓の)家臣たちで治めている、日本の国のありようを、私の理想だ、(朕の心)と言ったのです。これは中国スタンダード、易姓革命論からすれば、驚天動地の発言です。北宋史官(歴史記録官)に強い印象を与え、中国正史(宋史)に記録されたのです。その願いは、1060年に成立した、新唐書でかなえられました。新唐書の編集代表者の欧陽脩は、この太宗皇帝とチョウネンの歴史的な会見を尊重して、新唐書の大半を、日本書紀をはじめとする日本正史に記録された歴代天皇の名前で埋める、という作業をしたのです。このことは日本の歴代天皇が中国皇帝から正当性を承認された、ということを意味します。でも、後世からみれば、史料的価値に乏しく、面白みのない文章、ということになりましたが、そんなことは当時の人々からすれば、どうでもよいこと。それよりも、「万世一系(仮)」が生命線である天皇家の正統性が中国に担保されたことが超重要ではないですか。守谷さん。あなたの主張されている目的は、旧唐書でなく、新唐書で果たされたのですよ。なのになんで旧唐書なんていう、10年余りで滅亡した地方政権が編纂した歴史書にこだわるのか、私には理解できません。

(補足③)チョウネンが北宋太宗皇帝に拝謁したとき、会見まえにチョウネンに紫衣と当時の五つ星ホテルに泊まらせ、3位の日本僧チョウネンとして会見(筆談)しています。つまり、皇帝に拝謁できる日本の使者は、3位であるという、粟田真人から菅原道真までの慣例は守られています。あーめんどくさい。(補足終わり)

3)そして、このチョウネンの大成功(ケガの功名)は、意外な副次効果を持ちます。チョウネンの帰国後も、日本の僧たちによる中国訪問が続きます。そして日本の情報もだんだん中国に知られるようになりました。当時は藤原氏ら高級貴族たちは、守谷説のような危機感もなく、もちろん、旧唐書を読んで衝撃を受けることもなく、というか、読んだはずもなく、(太平御覧を読んで知ったという可能性はあります。藤原行成とか藤原公任、藤原実資あたりなら、読んでるかも、それならそんなに衝撃的な内容なら、彼らの誰かが日記に書いていそうなものだ。守谷さん、探してみませんか。)安和の変(969年)で最後の賜姓源氏のライバルを蹴落とした後は、藤原摂関家の中で骨肉の争いを始めたころです。藤原道長の祖父や父たちの時代です。そんなとき、5位の中級貴族を父に持つ6位の僧侶(当時正式の僧侶は国から官位をもらった。いわば国家公務員でした)が、なんの偶然か、中国皇帝に拝謁がかない、3位の官位(紫衣)までもらってきたのです。賞賛するよりむしろ当惑したでしょう。今のサラリーマン社会と同じです。

そして、最期の功績。チョウネンの足跡は次の元の時代に編纂された「宋史」(1345年成立)に詳しく記録され、次の明代に編纂された「元史」(1369年成立)にまで引き継がれた。そして、宋史にてはじめて、外国七日本に分類された。それまでは、例えば、隋書東夷倭国、旧唐書東夷倭、同じく日本、新唐書東夷日本、とすべて東夷(東の野蛮人)という冠がつく。日出所の天子、日没するところの天子に云々とか、虚勢をはっていても、中国からみれば東夷(野蛮人)扱い。遣唐使で何度朝貢してあたまさげても、野蛮人扱い。私はいままで「倭国伝」とか「日本伝」とか「伝」を使用するのに慎重になっていたが、伝は列伝の伝。それをチョウネンの訪中、皇帝との会見がきっかけとなって、外国扱いにまで昇格したのだから、これもチョウネンの、ケガの功名であろう。だから倭王、日本王というのは、少なくとも唐史以前では、倭族長、倭酋長、と言った方が、中国側から見えた日本の姿であろう。

(補足:さらに脱線)後世、足利義満が明王朝から、日本国王に柵封を受けたが、これもチョウネンらの努力により、日本が、蛮族扱いから外国扱いになっていたからかも、という想像を楽しんでいます)(補足終わり)

(更に補足)元史外夷1日本(また外夷に戻っているが、次の明史では外国扱いになっている。その理由は現時点では不明)のチョウネンの記事では、

「職貢を奉り、並びに銅器十余事を献ず」となっている。職貢とは、貢物という意味なので、黄金であれば、守谷説の支援になるのに。また、皇帝との会見は省略されている。外夷に格下げしたことと話のつじつまが合わなくなるからであろう。

今回はここまで、次回から、また守谷論文の検証に戻ります。実は、これからが本番、です。

(以上、伊藤睦月(2145)筆)

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/06/13 10:34

【376】伊藤睦月氏に答える、に答える(続々)

伊藤睦月(2145)です。それでは、表題の残りの部分にコメントします。

(引用はじめ)チョウネン(私のスキル不足で活字が拾えないので、カタカナ表記にします。以下同じ悪しからず)は、普通だったら中国の皇帝に謁見できるはずがない。そんなことは誰にでもわかることだ。

(引用終わり)

伊藤:私も普通だったら、謁見できないと思います。しかし「誰にでもわかることだ」の理由が「一学僧だったから」では、答えにならない。幼稚園児でも、もっと気の利いた答えをいうだろう。「誰にでもわかることだ」は副島隆彦の学問道場ではNGワードだ。思考放棄です。もっと考えましょうよ。重たい掲示板は副島隆彦先生が管理人。会員もそうですが、軽い気持ちでなくて「重たい決意」で語る先生のオピニオンを明らかにする場、と理解しております。だから未熟な者(私も含め)は、その「補集合」であるふじむら掲示板あたりが、相応しい。

で、守谷さん、「誰にもわかることだ」という理由を簡潔に述べてください、と問いかけてもいつ返ってくるか、わからないので、伊藤案を示します。

伊藤案:本来3位(紫衣)以上のか僧侶しか拝謁できないのに、6位(緑位)の僧侶が拝謁できたから。

守谷さんの書かれているとおり、確かにこれは尋常なことではありません。守谷さんはその理由を尋常でない黄金を運んで行ったのだ」と断定していますが、論理飛躍しすぎ。宋史外国七日本国(1345年成立)では、黄金献上の記事がないからです。守谷さんが言われるほどの量の黄金(実は量不明:あとで試算をしますけど。その前に守谷さんに答えてほしい。「銅器十余事」詰め込まれた黄金の量。「とにかくたくさん。いっぱい」は幼稚園児の回答です)ならば、途中で、役人がピンハネできない量だと思うので、かならず記録に残るはず。なにせ今までの慣例を破って、北宋太宗皇帝が拝謁を許すくらいですから。黄金献上について、皇帝から何かコメントあったと考える方が普通です。

また、チョウネンの帰国後、弟子を返礼に差し向けますが、(そのときは、上表文、すなわちギフトカタログと手土産を提出しただけで皇帝との拝謁は実現しなかったようです。)そのとき、なぜ黄金を献上しなかったのか。当時チョウネンは3位(紫衣)の東大寺別当でしたが、弟子はそうではなかったからという、今でも役所やサラリーマン社会ではよくある、つまらない理由で拝謁できなかったと思いますが、そのとき黄金を献上していれば、例外的に会えたかもしれないのに。

 それに弟子が献上した手土産を守谷さんは「空前絶後」と言っています。確かに当時日本特産の貴重品ばかりですが、裕福な貴族ならポケットマネーで用意できるような。品と量(各一つずつとかせこい量です)

それよりも仏典なんかが大変喜ばれているようです。

おそらくは、日本に連れ帰ってくれた宋商人にまとまった個人の金を渡して用意させたのでしょう。東大寺や朝廷から払ったのなら、必ず記録が残ってます。上表文にギフトカタログがあるので、ピンハネはできなかったと思いますが、安く仕入れて、差額を懐に入れることぐらいはしたでしょう。現在でもしばしばみられる光景です。以前紹介した、高校レベルのテキストでは、日本からの輸出品として、上表文にあるような品物はリストアップされてますが、黄金はあげられてません。金銀の流出が話題になるのは、これから500年後の戦国後期か750年後の幕末です。意外と金の産出量は少なかったのではないか。少なくとも教科書レベルでは、輸出できるほどの量でなかったと理解されているようです。奥州黄金伝説なんてビッグマウスの話盛りすぎでは。実際、守谷さんが重要視されてる旧唐書東夷日本、でも、

(引用開始)

その人、(唐の)朝(廷)に入る者、多くは自ら大を誇り、実をもって対えず。故に中国はこれを(どこまで真なりやと)疑う。

(引用終わり)

と、書かれているくらいですから。日本人=ほら吹き説は少なくとも当時の中国世界では常識だったようです。

この項に関しては、まだまだ書きたりないので、また追加投稿します。

また、東方見聞録関連は、さきほど、東方見聞録(東洋文庫)をアマゾンで注文しましたので、その内容を精査してから、後日投稿します。

(予告)守谷論文の検証終了後は、岸義文さんの投稿を検証します。

(以上、伊藤睦月(2145)筆)

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/06/12 16:46

【375】(3134)伊藤睦月氏に答えるに答えます(続き)

伊藤睦月(2145)です。最初に訂正。前稿で、旧唐東夷日本には、遣隋使の記事もあって云々、とありましたが、新唐書東夷日本の間違いでした。訂正させていただきます。それにしても、旧唐書東夷倭は、白村江の戦いまでたどり着いていませんので私の指摘に変更はありません。

で、守谷さんの投稿でできるだけコメントします。

守谷(1)「列伝の記事を倭国記事と見做して悪いですか。悪いのでしたらその理由を教えてください。

伊藤意見:悪いです。理由:列伝以外には、いわゆる倭国記事を裏付ける史料がないからです。(例えば、百済や新羅、日本(大和朝廷)側の記事や旧唐書中のほかの個所(例えば高宗紀に白村江の記事があるとか)に列伝の内容を裏付ける記事を現時点では確認できていないから)つまり、列伝の記事は検証不能の記事なので、参考にはなりますが、そのまま「見做す」ことはできない。「推定」とか「推測」であれば、仮説の提示なので、仮説としてはありえます。ついでに、高宗が封禅の儀に率いられた倭王(とおそらくは百済王)は、推測ですが、封禅の儀の生贄としてささげられたと思います(伊藤推測)

守谷(2)宋初(983年)、太宗(チョウネンを謁見した人です:伊藤注)の勅命を受けて作られた「太平御覧」は日本記事を「旧唐書」の認識を踏襲し、日本の代表王朝は倭王朝から日本王朝に代わった、と書いてある」

伊藤意見:それならその部分を正確に引用して掲示してください。「太平御覧」は類書すなわち、「歴史資料集」といったもので、いわゆる歴史書とは違います。当代に存在する手紙とか公文書とか正史とか過去の歴史的史料を集めたものだと承知している。であるなら、旧唐書もそのまま採録されていると推測します。であるなら、日本の代表王朝は倭王朝から、日本王朝に代わった、と書いてあるのでなく、「太平御覧に納められている旧唐書には、そう書かれてある(守谷説)だけであると思われます。そうなら、これは典型的な循環論法であって、説明になっていません。これも原文を正確に引用して掲示していただければ、すむ話です。

守谷(3)宋朝の学者たちも、「旧唐書」の認識を支持していたのである。

伊藤意見:それならば、1060年に新唐書を編纂した、欧陽脩ら宋朝の学者たちは、なぜ、旧唐書を採用しなかったのでしょうか。ちなみに、欧陽脩も後に出てくる司馬光も「唐宋八大家」に数えられる当時の大学者です。しかも両者は王安石の新法に反対して干された、という旧法党の仲間です。認識を支持していたなら、なぜ、旧唐書の内容を反映させなかったのでしょう。守谷さんは、これに対し、明快な見解を示してください。そうしないと議論が前に進みません。

守谷(4)「新唐書」は、成立当初から信頼性の劣る史書とみなされていたのである。

伊藤見解:それならなぜ「新唐書」が正史として採用され、「資治通鑑」が、採用されなかったのか。明快に回答願います。「資治通鑑」は最初「通志」と名付けられた編年体の中国通史です。「春秋」の体裁に習ったものとされています(春秋の筆法)。のちにその内容が政治指南書として有益であることから、(貞観政要や宋名臣言行録、と同じです)神宗皇帝(1048~1085)から「資治通鑑」という名を与えられました。なお、大義名分論の立場から、資治通鑑を批判的に再編集したのが、南宋朱子による「資治通鑑綱目」です。つまり資治通鑑は、歴史書というよりも、政治指南の書として認識されておりました。後年引用資料の正確さが評価されます。しかし当時は正史として認められることはありませんでした。資料の正確さ、信頼性と正史としての正統性の評価は別、ということです。

そして、ここに正史成立について興味深い記述を見つけましたので、ご紹介します。

(引用開始)

(正史の数え方は:伊藤注)・・・明初に「元史」が成立したので、これを合わせて二十一史、清初にさらに「明史」ができたので、あわせて二十二史の名が生じた。・・・(清の)乾隆帝(1711~1799)は、さらに「旧唐書」と「旧五代史」をこれに加えて二十四史とし、宮中の部英殿で印行した。(印刷した:伊藤注)(執筆:宮崎市定)(日本大百科全書(ニッポニカ)電子辞書版)

中国史に関心がある人で「宮崎市定」を知らない人がいたら、その人はモグリです。但し彼の見解や史観には賛否あります。(副島先生の昔の投稿で、宮崎史観のことを「ランケ風の古臭い史観」と書かれていたと記憶しています。)しかし史料の取り扱いは信用できるでしょう。

以前の投稿で、「旧唐書を正史に入れたのは、清代の学者である」と書きましたが、乾隆帝の間違いでした、訂正します。いずれにせよ、旧唐書を編纂した後晋が滅亡した946年から乾隆帝が正史に加えた1700年代まで、700年余り、旧唐書は正史として認められませんでした。あくまでも、「新唐書」が正史、正当な歴史書とされ、乾隆帝が旧唐書を加えても、新唐書の位置づけは不動でした。乾隆帝がなぜ加えたのかは、わかりません。史料的価値はあったのでしょう。それは戦後になって顕著になりました。岩波文庫版では、旧唐書を搭載し、新唐書は宋書があるから不要とまでされました。岩波文庫版が出た1956年は、反動の極だったのでしょう。中国本国では、毛沢東が「百家争鳴」を煽っていたころです。さすがに現在では、新唐書をディするような学者や歴史愛好家はいないようです。たぶん守谷さんを除いては。

(以上伊藤睦月筆)

追伸:あとチョウネンと黄金問題がありますが後日稿を改めます。また守谷さんの投稿についてはさらに深刻な問題点がありますので、これも後日投稿させていただきます。

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/06/12 11:14

【374】守谷論文を検証する(4)「一学僧」と中国皇帝との謁見は、不法入国者の取調記録だと考えれば、わかりやすい(守谷氏への再反論に切り替えます)

伊藤睦月(2145)です。今回は「宋史日本国(外国七)」(あえて伝はつけません。伝は列伝の伝であり、日本の記事は書、とか志(各地域レポート、ニュース記録のようなもの)とかに分類されるものだから。正史の中の扱いは低い。これからも日本側から新唐書の編纂を依頼した、なんてのは、中国側からすれば、夜郎自大、中二病も甚だしい、といいうことになります)にそって、日本の「一学僧」チョウネンと北宋太宗皇帝との謁見についてレポートします。

と、ここまで書いたところで、守谷さんから、うれしい反論をいただいているので、そちらのレスを優先します。守谷さん、私の相手をしてくださって、まことにありがとうございます。

1)私は、白村江の戦いの存在そのものを否定していない。

  守谷さんは、旧唐書の列伝を引用されておられる。私は、「倭国伝」(講談社学術文庫)のみしか手元にないので、守谷さんが旧唐書の列伝からの引用を提示されている。それはそれで、ああそうですか、といだけです。なぜなら、私は白村江の戦いそのものを否定しているのではない。守谷さん、「倭人伝」をお持ちなら、206頁を開いてください。そこには、「(貞観)22年(648年)に至り、・・・」で旧唐書(旧唐書東夷倭国)での述が終わっています。663年の白村江の戦いまでたどり着いていません。つまり旧唐書(倭国)には、白村江の戦いは一切記述されていません。それなのに、「663年の白村江の戦いまでを「倭国伝」で作り」ということは成立しません。これは見解の相違ではなく、史料にのってるかのっていないか、という問題ですから、そう指摘したまでのこと。何を憤慨しておられるのか、理解できません。

 まだあります。「新唐書東夷日本」には、初代天皇(天御中主)から始まる歴代天皇の紹介がメインです。また、粟田真人(703年)から始めている、とされていますが、隋の煬帝への遣隋使の記述もありますから、これも間違い。(264頁)これは、見解の相違ではなく、史料に書いてあるか、ないかだけの確認問題ですから、これを私見にあうように、書いてもない記述を書いてあるかのように主張されること、これを学問の世界では、やってはいけないことです。ご注意ください。

ちなみに、上記旧唐書は、白村江の戦いの前で記述が終わってますから、当然ですが、新唐書も白村江の戦いの記事は一行もありません。これをどう説明されるのか。

ついでに言えば、新唐書東夷百済に、白村江の戦いの記事が出てきます。(227頁)が同書「新羅」には一行もありません。これはどう説明したらよいのか。

ちなみに、列伝は、紀(皇帝の事績)とセットで(紀伝体)、皇帝の偉業に貢献した人たちの事績を集めたのがメインです(史記では例外があります)。要は劉仁軌という皇帝の家来の手柄話で、要は白村江の戦いはその程度の扱いです。守谷さんの投稿を見てる範囲では。

また、太平御覧については、私はすぐにはアクセスできませんので、該当部分を掲示していただければ、たすかります。なお、守谷論文の検証はまだまだ続きます。

また、これに対する、コメントは今後は、ふじむら掲示板にお願いします。「重たい掲示板」に載せるようなレベルの議論ではない。

(伊藤睦月筆以上)

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/06/11 10:45

【373】守谷論文を検証する(3)ブレイク

伊藤睦月(2145)です。今回は少しおしゃべり。

私は守谷論文に対し、問いかけをしていますが、守谷さんに限らず、もし私、伊藤が守谷さんだったら、どう答えるかを考え、回答の道筋(代案)のめどをつけてから投稿します。そのひとつを紹介しします。

「議論とは、自分の弱点を徹底的に考えることだ」(副島隆彦)は、私の方法論のひとつです。

(引用はじめ)

「旧唐書」の成立は、西暦945年、当時日本と中国は民間貿易が盛んになっており、宋船が盛んに博多を訪れるようになっていた。

(引用終わり)上記の根拠史料を示せ。

〇伊藤回答案:西暦945年を894年遣唐使の廃止以降、に修正。このことは、学術論文の引用をまたなくても、高校教科書レベルの見解である。(守谷さん、いかがでしょう)

以上を証するため、次の引用文をご覧ください。

(引用はじめ)①

 平氏の繁栄の基礎となった日宋貿易で、日本から宋に輸出されたものとしては奥州産の砂金のほか、伊勢産水銀、薩摩産の硫黄、志摩産の真珠、さらには刀剣・扇などがあげられる。他方宋からは、銅線、経典、書籍、陶磁器などが盛んに輸入された。とりわけ銅線の流入により、日本の社会は大きな影響を受けた。(新もう一度読む山川日本史)

(引用終わり)

(引用はじめ➁)

平氏は忠盛以来、日宋貿易にも力を入れていた。すでに11世紀(1000年代:伊藤)後半、日本と高麗・宋との間で商船の往来がようやく活発となり、12世紀に宋が北方の女真の建てた金に圧迫されて南に移ってからは、宋(南宋)との通商も盛んに行われるようになった。(改訂版詳説日本史研究)

(引用終わり)

(引用はじめ➂)

日本:9世紀末(894年:伊藤)に遣唐使を廃止して以後、中国との正式な国交はもたなかったが、宋・元を通じて多くの僧侶や商人が往来した。(新もう一度読む山川世界史)

(引用終わり)

(引用はじめ④)

宋代には、対外貿易も活発化します。唐末以来、朝貢や冊封に基づく国際的な政治秩序は崩れたものの、かわって商人による交易活動が東アジア世界を結びつける絆となりました。中国からの輸出品としては、絹織物や陶磁器、書籍・文房具や銅線などが主なものであり、その対価として、・・・日本からは金・真珠・水銀(化粧品の原料:伊藤)、硫黄や刀剣・扇子などの工芸品・・・(もういちど読む山川世界史プラスアジア編)

(引用終わり)

伊藤睦月(2145)です。上記引用テキスト①➂は共通テストレベル、➁④は難関校(論述)レベルと」思われますが、高校教科書レベルであり、歴史学会の通説、とみてよいでしょう。守谷さん、もう50年ほど前にさかのぼればよかったのに。

これは、私の推測ですが、守谷さんは日本史のテキストだけをチェックあるいは受験科目選択したときの記憶に頼っておられるのでは。

日本史も世界史の一部であることは、岡田英弘学説によって立つ副島史学の鉄則ですから、世界史レベル(当時の東洋世界覇権国の中国から見えてる日本)の視点は必須です。少なくとの世界史のテキストも合わチェックされることをお勧めします。

(引用開始)

日本は、本当はこの2000年の間、中国の歴代王朝・中華帝国の属国としての地位にあった。しかし表面上は絶対に絶対に中国に屈服しないで、すくなくとも政治的には対等である、というふりをして、少なくとも、政治的には対等である、というふりをして、やせ我慢をしてきた国である。(英文法の謎を解く第1章)」

(引用おわり)

伊藤睦月(2145)です。この副島史学の要諦をなす、歴史的視点(ソエジマメガネ)に出会って30年、いまだにそのメガネを外せないでおります。たぶん死ぬまでそうでしょう。次回からまた旧・新唐書の読み解きをさいかいします。

(以上、伊藤睦月筆)

 

伊藤 投稿日:2024/06/09 19:08

【372】柿谷論文を検証する(2)

伊藤睦月(2145)です。続けます、

3)日本の坊さんが、新唐書編纂を嘆願した形跡はなく、嘆願あろうとなかろうと北宋王朝は新唐書を編纂しなければならなかった。

983年に日本僧がチョウネンが宋商人の船で、宋にわたり皇帝に拝謁、と年表にありますが、宋書日本国では、その徒5,6人と海に浮かびて至る、とあります。これは密航だと思われます。帰りは、宋商人テイジントクの船に従いて帰る、とありますので、これは皇帝公認の商人の船に乗ったものと思われます。

なぜ、チョウネンは皇帝に拝謁できたか、チョウネンは僧侶です。今ではこの感覚は分からないと思いますが、僧侶は身分の壁を乗り越え、誰にでも会えます。また、華厳宗の学僧であることから、中国総本山のネットワーク、手引きもあったと思われます。ここでは詳しく触れませんが、仏教の総本山は実はすべて中国にあったのではないか。国際的なネットワークがあったのではないか、という仮説を持っています。少なくとも江戸時代初めまでは。

それに中国皇帝の拝謁といえば、映画「ラストエンペラー」のイメージですが、北宋皇帝はもう少し距離が近かったかも。チョウエンが拝謁した皇帝太宗は、のちに「セン淵の盟」という中国皇帝のメンツにこだわらない平和条約(1004年)を遼と締結し、賛否あるが、さばけた皇帝であったそうなので、拝謁ができたのかもしれない。

また、北宋は後晋を唐の後継王朝と認めてません。認めているなら、旧唐書を正式の歴史書とし、新唐書ではなく、「後晋書(仮)」を編纂しているはずです。北宋こそが唐の正当な後継であることを証明するため、唐の歴史書を編纂する必要がどうしてもあったのです。だから欧陽脩といった当代一流の学者に編纂させたのです。戦後、新唐書より、旧唐書が脚光浴びたのは、後晋時代には、唐滅亡から間がなく、当時の史料や証言者が生き残っていたりして、後世からみて参考になる記事が多い、すなわち史料的価値から見直されていただけです。ちなみに旧唐書を正史に入れたのは、700年後の清代の学者です。

 また、柿谷氏は「宋史の書き方は、銅器十余事の献上が主で、「職員令」「王年代記」など付録のような扱いです」と述べているが、全く逆です。銅器に詰められた金がどれくらいの量かわかりませんが、そんなはした金で動じるような中国皇帝ではありません。中国なめるな。理由は別にあります。またその理由こそ、柿谷氏が主張していた訪中目的を達成するものでした。そういう意味で、チョウネンは大手柄を立てたわけです。東大寺別当の地位くらいお安いものです。次回それを説明します。(以上 伊藤睦月筆)

 

 さて、チョウネンは中国語がしゃべれなかったので、皇帝とは筆談で会話したそうです。多分距離はお互いの顔も判別できないくらいの距離であったと思われます。

 柿谷氏はチョウネンを一学僧と矮小化していますが、チョウネンは6位の緑衣を身に着けていたそうですから、下級貴族とはいえ、立派な身分です。大河ドラマで紫式部の父親が5位の越前守になる前の身分です。チョウネンの父親は、5位の殿上人、国司クラスで、息子を宋に送るくらいですから、かなり裕福であったとみるべきです。一学僧には実家が身分高く裕福でないとなれないのです。ちなみにチョウネンは皇帝から紫衣を与えられます。紫衣は日本では3位です。それに見合う役職として東大寺別当になります。超エリートで富裕層です。余計な印象操作は有害無益です。

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/06/09 11:29

【371】柿谷論文を検証する

伊藤睦月(2145)です。歴史好きの副島ファンとして、柿谷さんの投稿を楽しんでますが、【3128】について少しコメントします。

1)旧唐書が出たときの中国の状況

旧唐書が成立した西暦945年 わが国では朱雀天皇の在位最後の年、権力者は藤原忠平という人で、平将門が仕えていました。藤原道長【966~1027)はまだ生まれていませんので、タイトルに道長を上げるのは適当ではない。

民間貿易が盛んになりうんぬん、とありますが、それを象徴するような出来事の史料を示してください。藤原純友が死んだのは941年、当時海賊と貿易商はニアイクオールだし、945年には呉越人、肥前に漂着との記事があります。「日本史年表(第5版)岩波書店」そもそも894年に遣唐使が廃止されてからは、日中貿易は、原則民間貿易、(つまりはほぼ密貿易)です。それが、盛んになったことを示す史料を柿谷さんはお持ちでしょうから、まずお示しください。そんなことよりも、945年で押さえておくべき事項があります。

2)消滅した王朝が編纂した歴史書がそんなに衝撃的か。(中国正史の意味)

旧唐書を編纂したのは後晋王朝、創始者は石敬トウ、北方民族の契丹(遼)の後押しで、建国しますが要するに遼の傀儡王朝です。そのため946年に遼からあっさり滅ぼされてしまします。旧唐書成立のわずか1年後に消滅しています。

またもう一つ大事な事項、石敬トウは、燕雲16州を遼に割譲します。これは大事件で、後継の北宋王朝を終始悩ませ、これが北宋王朝の滅亡の一因になります。(ここまでは高校歴史教科書レベルです)

中国の王朝交代は血筋でおこなわれるのではない。易姓革命、天命を受けた王朝が天命を失った王朝から王権を引き継ぎます。それを証明するのが、歴史書です。だから、歴史書は門外不出。皇帝とその関係者しか閲覧(見ること)できません。また歴史書を編纂するための史料を記録、収集、保管する学者官僚(史官)はそれこそ命がけで史料を守り、後継王朝に引き継ぎます。簡単に改ざんもしない。一族あげて命がけで守るのです。後継王朝はそれを引き継いで前王朝の歴史書を編纂し、正統王朝であることを証明しようとするのです。それは現在も同様で、現在中華民国は、清王朝の歴史書を編纂し、中華人民共和国は、中華民国の歴史を編纂しなければなりません。単に武力で台湾を制圧すればすむものではない。これが中国の歴史伝統。だから「ほどなくもたらされただろう」といわれるなら、それの日本側の記録を示していただたい。それほどの衝撃なら、日本側の歴史書か貴族や坊さんの日記なんかに書かれていても不思議ではない。可能性としては、後晋の滅亡時の混乱で流出したことは考えられる。事実、唐滅亡の混乱で、多くの仏典や詩集など多くの書物がわが国にもたらされ、中国本国に存在しない書物を、柿谷論文にも出てくる坊さんたちが北宋皇帝に献上(返還)してご褒美をたくさんもらった、という記事がある。それなら、なぜ北宋皇帝は、旧唐書をくれなかったのだろう。そのあたりの史料や学者の論文なんかをお持ちに違いない。柿谷さんはぜお示しください。楽しみだ。

今回はここまでにするが、最後に一つ指摘。

「旧唐書」本文を参照すると、「東夷倭国」は、631年に唐太宗皇帝(貞観政要)との接触から648年の接触まで記載されており、白村江の戦い(663年)までの記述ではない。また「東夷日本」は則天武后との接触(703年)から文宗皇帝との接触(839年)まで記述されている。(藤堂明保ほか「倭国伝」講談社学術文庫)

したがって、663年の白村江の戦いまでを「倭国伝」で作り、というのは間違いもしくはほかの史料からの引用であろう。お示しいただきたい。

とりあえずここまでイントロ。次回から本番。楽しみですね。(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かたせ2号 投稿日:2024/04/02 19:24

【370】仮説の提示

以下のような仮説を考えています。データの提示ができておらず恐縮ですが、ご参考ください。

・世界の悪の中心は副島隆彦先生の見立て通り、バチカン。
 そして、バチカンの悪の巣窟の奥の奥に鎮座しているのは「プラトン」ではないのか?
 バチカン宮殿「署名の間」に掲げられた世界的に有名な絵画「アテネの学堂」が真実を物語る。

・世界の本当の姿がどうなのかは不明だが、人間の考察とは「矛盾律(Aであって同時にAではないという状態を認めない)」が前提で前に進む。
裏を返せば「矛盾律」を否定する思想は、人間を最終的に混乱と破壊に導く。

(例1)以下はみんな「アウト」。
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」
「いわゆる『空』の仏教思想」
  (「色即是空」の(玄奘)三蔵法師の周りを妖怪が固めているのも、案外と真実かも(西遊記))
「『矛盾律』を手放した先の意識の深層にこそ、真実が見つかるという風な類の神秘主義」
「絶対矛盾的自己同一」(これでは単に妖怪「ゲゲゲの幾多郎」である)

(例2)
人間の思考・人格を破壊するダブルバインド理論<洗脳理論>のエッセンスは、以下の「3つを同時に」命令すること。
(1)Aをせよ(2)Aをするな(3)ここから逃げるな
(職場の困った上司や毒親などは、知らず知らずに、普通にこれを実践している。ごくありふれた現象。)

以上

かたせ2号 投稿日:2024/04/02 18:59

【369】こんな戦国時代史のプロットを頭に描いてみた

(前置き)

以下のような戦国史のプロットを描いています。

なにかの参考にしていただければ幸いです。

以下の内容を、いずれきちんと根拠資料を再整理して、文章にできたらなあ、と考えています。

なお、本能寺の変の真相については、副島隆彦先生の「イエズス会による爆殺説」をそのまま使わせていただいております。

(プロット)

・大きい絵図でいけば、日本におけるキリシタン大名の代表格は、大友宗麟と織田信長、この両名。ほぼ同格。

 ただし、両名の主君はともにイエズス会。

・「天正」の元号の時代が、日本の危機の時代。「Tensyou」は「Tensy」でほぼ「天主(デウス)」と同音。元号の名付け親は信長。

・イエズス会に街が寄進されたのは長崎が最初ではなく、高山右近が城主となった現大阪府、高槻の地が実質的に最初。

・イエズス会が織田信長を「除去」しようとした「動機」は、荒木村重攻めの際に信長が、高槻城主、高山右近および宣教師たちに行なった脅迫行為。

 これで信長は、「この男(信長)は主人の手を噛もうとする『しつけのなっていない』犬」であるとの判定を受ける。以降、イエズス会は「ポスト・信長」後継者選定に着手。

・信長の後継者に、秀吉が密かに選定される。

・いつの時期かは特定できないが、イエズス会容認のもと、秀吉が仇敵であるはずの毛利家と「信長打倒」で密約を結ぶ。毛利家は、滅亡を免れること(所領安堵)が条件。

・本能寺の変の前年、西暦1581年、イエズス会のトップの来京に合わせて、馬揃え(軍事パレード)を敢行。
ヴァリニャーノ(イエズス会のトップ)は、柔和な態度で信長に接したと思われるが、「主人の手を噛もうとする『しつけのなっていない』犬」という信長への評価ほおそらく変わらなかったのだろう。

・イエズス会は、「犯人役」をしたてるべく、信長に「グレゴリウス暦の変更を朝廷に強要」をさせる。信長は自らの墓の「墓掘り人夫」をさせられているのに気づかない。

・朝廷の存在意義である暦についての介入を、消滅の危機と判断した朝廷側は、明智光秀に信長抹殺を依頼。

・そのころに、おそらく秀吉側から明智光秀に「信長を無防備な本能寺に誘いこむから、その時に討滅してくれ」と依頼。光秀も了解。

  これで「犯人役」が仕上がる。

・西暦1582年、本能寺の変、当日。光秀が亀山城から本能寺に出撃するも、イエズス会がすでに信長を完全爆殺。主君殺しの汚名が光秀にかぶせられる。

・秀吉の中国大返し。結論としては「毛利家とイエズス会(秀吉)との権力者共同謀議」。中国大返しは、毛利家の協力なくしては成り立たない。 
司馬遼太郎のいう「毛利は律儀者(だから撤退する秀吉を攻めなかった)」とかそういう安易な話ではない。
 また、山崎の合戦の秀吉方の最前線中央には高山右近が布陣していることから、これはイエズス会容認の布陣である、すなわち、秀吉の主君がイエズス会であることは明らか。

・光秀との密約を裏切っての、山崎の合戦勝利後、信長亡き後の後継者争いの主導権を秀吉が握る。本能寺の変で利益を得たのは、毛利家とイエズス会、そしてもちろん秀吉。

まだまだ続きますが、こんな感じです。

 

(補足)
・本能寺の変は、光秀(朝廷)、イエズス会、秀吉、毛利家が「全員」、信長抹殺の意図でそれぞれが行動を起こしたと私は解釈します。
だから「全員悪人」。
アガサ・クリスティーの「オリエント急行殺人事件」とほぼ同じことが起きたと推察します。

・秀吉の中国大返しは「毛利家とイエズス会(秀吉)との権力者共同謀議」と判定せざるを得ないと、考えを定めて、ようやく上のプロットが仕上がりました。

今後について、大きくは、

「秀吉は主君を2回裏切った。最初は信長(本能寺の変)、次にイエズス会(大友勢力消滅直後のバテレン追放令発令)」

「生き延びた明智光秀が会津出身の天海に『背乗り』して、豊臣家とイエズス会(を主力とするカトリック勢力)とに壮大な復讐劇をなしとげた」

が続きますが、細かいプロットは別途記載します。

そういえば、信長を祀る神社は、明治時代の京都は船岡山に建勲神社ができるまで、ただの一つもできませんでした。朝廷(光秀)、秀吉、江戸幕府(天海)、その全てに嫌悪されていたのなら、いたしかたないなと考えます。

以上

かたせ2号 投稿日:2023/03/21 07:14

【368】【お詫び】2023年3月13日に「第2次ブラックマンデー」は起きませんでした。

かたせ2号です。

ふじむら掲示板[565]までで、2023年3月13日に、「第2次ブラックマンデー」が起きるようなことを書きましたが、実際には、そんなものは起きませんでした。
その点について、素直に認めます。

副島隆彦先生の以下の記載が、読みとして正しいです。

以下、一部引用します。

(引用開始)
重たい掲示板[3528]ついに、世界大恐慌への道筋が見えた。金融セミナーのお知らせも。
投稿者:副島隆彦 投稿日:2023-03-13 21:13:23

副島隆彦です。今日は、2023年3月13日(月)で今、午後9時 です。
私は、自分の肚(はら)を決めて、今こそ、はっきりと書かなければいけない。遂(つい)に始まった米国の金融崩れのことである。

私は、アメリカで現地2023年3月10日(金)の午前に起きた、シリコン・ヴァレー・バンクSVBの破綻( demise デマイズ)を知ってから、情勢をずっと凝視し分析していた。
今回の事態が、世界大恐慌に突入するのは、もう少し先だ。4か月余ぐらい先だ。だから、7月、あるいは8月になるだろう。
今の危機は、なんとかアメリカ政府が押さえ込むだろう。だが、そのあとに、本当のNYの金融大暴落が来る。そして世界大恐慌への突入となる。
(引用終わり)

かたせ2号です。
また、わたしが深く注目していた、クックロビンさんも2023年3月15日以降、発言のトーンを明確に変えました。それまでのトーンであった「第2次ブラックマンデー」を明確に否定して、「アメリカ大統領選挙直前にやるんやろなて。一年早かった」と述べています。

午前5:21 ・ 2023年3月16日
https://twitter.com/patapatananana/status/1636100344727080960
「つか国際金融市場崩壊は来年くらいかなて思ってた。アメリカ大統領選挙直前にやるんやろなて。一年早かったね。
金融システムが丸ごと潰れるんやからそらトンデモないことになるんやろけど、…まあどうにかなるか。元気ならええわ、なんとかなるやろの精神。
戦後の日本人はこのシステムの中で生きてきたわけでしょう。外を知ってる人の方が少ないわけよね。どうなるんかな。」

かたせ2号です。2023年3月13日は、「これから世界大恐慌が起きる」とわかる明確なシグナルとなりはしましたが、
国際金融市場崩壊の時期については、今年7月から来年、2024年のアメリカ大統領選挙直前までの間で、幅を見込んで、見ておきます。

以上、判断を修正します。