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Loginはこちら【2253】[2647]村人は最初に井戸を掘った人を忘れない
初めて投稿いたします。
日本企業で30余年働き、今年から中国企業の顧問を務めております。
たまたま自身の出来事に重ねて中国の故事を調べたところ、日本の歴史の一面にたどり着き、ご紹介したくて投稿しております。
http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2012-04/20/content_448026.htm
人民日報のページのURLを貼り付けます。
「飲水思源(インシュイスーユェン)」 村人は最初に井戸を掘った人を忘れない、つまり豊かな村の村人は、最初にこの地に来て井戸を掘った=人が暮らせるように水の確保を成し遂げた人を忘れない。の意味です。中国の方は故事成語を使うときに、目の前のことに当てはめる意味ともう少し大きな意味と重ねて使います。1972年日中国交化に向けて当時の田中角栄首相が訪中した際に、同じく当時の周恩来首相が感謝の言葉として伝えたと広く知られています。
ですが上記に貼り付けた人民日報の記事では、トップの政治家ではなく日中国交正常化に尽力した中国や日本の関係の方々を指してこの言葉を用いています。周恩来首相が田中首相に対して、日本に感謝してこの言葉を使ったのか、恩を忘れずに帰ってきたねと田中首相を誉められたのか、当時の日本のメディアには読み取れなかったのかも知れません。
この記事の中にもう一つ、小さなことと大きなこと、2つを重ねて表現する中国の人の事例が見つかったので今回投稿しました。記事の中で日中友好の場に居合わせた米国卓球代表団が周恩来首相の招きに応じて訪中し、毛沢東主席が「小さな球が大きな球を動かした。」と表現したとあります。小さな球はピンポンのボールですが、大きな球は地球、言い換えるとピンポンが扉を開いた世界情勢を指して毛沢東が発言したのでは無いかと思いました。
日中友好のイベントの中で朝鮮戦争以後交流のなかった中米の交流の兆しが芽生え、その後に訪中した田中首相に周首相が貴方は恩を忘れない/貴方の恩を忘れないと伝えた。世界に先んじて公の場で中国を認めた日本を妬んだ欧米諸国によって田中首相は前途を閉ざされましたが、その先見の明により世界に戦後をもたらした功績は大きいと思います。
安倍総理が就任直後に最初の訪問国として中国を選ばれたこと、2009年の平成天皇と習近平副主席との特例会見設定など、日中の政治家は双方を尊重した行為を以後も続けておられます。
表向きは米国重視の姿勢を保ちながらが、メディアに同調表現を流布させながら水面下で過去の双方の恩を返す、もし私の想像通りなら私の将来も明るいのでしょう。
【2252】[2646]『秀吉本』のブックレヴューと、誤記・誤植の訂正一覧
拙著『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』は大型書店の日本史コーナーで、平積みか面陳(めんちん 表紙を見せて立てて販売)してあります。
『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛を込めて書いたので読んでください』
の著者の藤森かよこ先生にも、次のような書評を頂きました。またその下のおふたりのブックレヴューのように、高い評価を頂いております。
また、お読みになられた方はアマゾン・ブックレヴューに投稿して頂けると幸いです。
続編もできるだけ早く出そうと思います。
(以下、アマゾンの拙著のブックレヴューより一部を引用)
●日本アイン・ランド研究会(_藤森かよこ先生)
5つ星のうち5.0 「キリシタン研究を通して浮かび上がる世界の中の戦国時代末期と江戸時代初期の日本!続編大期待!!」
学問的な労作である。説得力あります。非常に勉強になった。同時に面白く読み進めることができる歴史ミステリーの趣もあった。日本史への見方を衝撃的に変えます。
なによりも、キリスト教に感化されなかった信長と秀吉と家康の偉大さ、ニーチェに匹敵する「自分の外部に依拠するものを持たない」精神の無頼さとファンタジーに逃げないリアリズムが、為政者の資質であるという著者の示唆に感銘を受けた。
(以下は長文のため中略。)
私(藤森かよこさん)の感慨。
(1) それほどにも日本で広まったキリスト教のいったい何が日本人の心に響いたのか?仏教も神道も与えることできなかった救済とユートピアへの希望か?弱者のルサンチマンの吸収装置であるキリスト教は、形を変えて人類史に生き続けている。社会主義や共産主義として。キリスト教の魅力って何?やっぱ救済とユートピアの甘美さ?
(2)明治まではキリシタンの歴史は隠されなければならなかったにせよ、明治以降もキリシタンの日本史における影響の大きさが日本史研究において正当に認識されていないのは、なぜか?
(藤森かよこ先生の書評ここまで 全文は↓のほうの記事にある拙著のアマゾン紹介で読めます。)
●星のうち5.0 「日本史におけるキリスト教影響の甚大さを痛感させられる「問題作」か」
(2020年10月8日)
「織豊・徳川政権」「キリスト教」「茶の湯」「安土桃山文化」が全て必然的につながっていたことを大きく提示している。キリスト教が台子(デウス)茶、天守(天主)閣、九谷焼、狩野派絵画など、今日「日本らしい文化」とされているものを数多くもたらし、それらが単なる文化の話でなく政治抗争の流れから明快に説明されていることに意義があるだろう。
また「キリシタン」一般でなく、「キリシタン大名」という存在にスポットを当て、「転向」という日本の現代政治思想にもつながるテーマから、戦国大名の行動原理に切り込んでいく視座も特異である。「転向」は覇権国の周辺国につきまとう宿命なのかと考えさせられる。「転向」(キリスト教の棄教)をうまく利用し、関ケ原を制した家康の戦略に対する考察も興味深い。
終章の「忠直卿行状記」の真相も衝撃的だった。
タイトル「毒殺」がどぎついのでそこに目が行ってしまいがちだが、世界覇権国の支配戦略から「日本文化」まで解き明かそうとする意欲的な著作といえる。
●「5つ星のうち5.0 日本人が知らない真実の日本(近世)史」
2020年10月9日
田中進二郎氏、初の単著である、この本は、監修の副島氏2018年の『日本人が知らない 真実の世界史』の日本近世史版だ。
この2冊の本の構造は同じである。
それは、副島氏の独自の自説である、「帝国―属国理論」、「政治と経済は貸借を取り合ってバランスする」という理論に、副島史観ともいうべき、人間が持つ「食べさせてくれ理論」、遊牧民の「ドドド史観」、最後は人類の脳が取りつかれる「熱狂史観」の3つを加えたものだ。
田中氏の本書も相似形だ。
もう少し言えば、日本が西洋世界に発見された1543年の種子島への鉄砲伝来によって、それまで東アジア中心の日本国の歴史が、西洋世界ともつながったことによる余波である。その余波は巨大なもので、権力者たちばかりでなく庶民たちの生活や信条まで及んだ。その結実が、天才、信長なのである。
しかし、その余波が余りに巨大なものだから“日本史(=国史)”の学者たちは、正面から対峙することが出来ない。何でもかんでも、日本国内だけで物事が完結したように“ゴニョニョ”と訳も分からない事を言うだけだ。
本能寺の変(1582年)の22年後の1605年にイエズス会は英国で同じ事をしようとして未遂に終わった。これは火薬陰謀事件(Gunpowder Plot)としてウィキペディアにも載っている。もはや時代は、文献(それも日本の)だけを奉る歴史学者たちより、市井の人間たちの方が深い理解に達している。それは、田中氏も本書の中で言及しているが、NHKスペシャル『戦国~激動の世界と日本~』などにも現れている。
世の中、「教科書に書いてある日本の歴史ってなんか変だ」という空気(ニューマ)、精神が誕生しつつあるように思う。それは、近代500年が大きな転換にあるからだ。近世は現代へと一直線に続いている。
●以下は、『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』の誤記、誤植の訂正一覧です。
本をお持ちの方は、直しておいてください。
副島先生の推薦文より
P4 9行目 清正は生涯、秀吉にX臣臣して、→〇 秀吉に臣従して
主な登場人物の生没年のページより
高山右近の生年 X 1555年→ 「〇1552年から1553年にかけて」
p19 最後の行 Xイギリス国教会は今でも長老派教会(カルヴァン派・プレズビテリアン)
として続いている。→長老派教会(ハイチャーチ・プレズビテリアン)として続いている。
(カルヴァン派はローチャーチで、国教会から弾圧されていた。副島先生から間違いだと指摘ありました。)
p21 3行目 羽仁五郎著X『ミケランジェロ』(1968年刊)→『ミケランヂェロ』(1939年刊)
p21 6行目 ロレンツォ豪華王は、それよりもX30年前にローマ教会によって暗殺された。
→「40年前に」に訂正 (1492年 メディチ家のロレンツォ豪華王はコロンブスの新大陸発見の年に死んでいます。ボッティチェッリはその後、怒りのあまり、発狂していく。)
p37 11行目(ザビエルと会ったのは)千利休(田中与四郎)はX27歳→〇29歳
p39 後ろから三行目 明から程大位著『算法統宗』(さんぽうとうそう)という算術書が伝わる。→(ソロバンの)算術書が伝わる。
日本では、京都の僧侶たちが、いち早くソロバンに熟達した。
p44 5行目 X「つまり 鉄砲の国産品の鉄砲は」→「つまり国産品の鉄砲は」
p59 5行目 X近江の三方ヶ原の戦い→〇遠江国(とおとうみ 静岡県)の三方ヶ原
(近江は京都から近い湖=琵琶湖、遠江は浜名湖をさしている)
P61 最後から2行目 『武士の日本史』( 岩波新書刊)→「高橋昌明著」を入れる。
p83 6行目 日本の天皇は中国の北極星を意味する→「天皇星」からとってきた称号だ。
→北極星を意味する〇「天皇大帝(てんこうたいてい)」からとってきた称号だ。
( 参考: 副島隆彦・斎川眞著『天皇とは北極星のことである』PHP刊 p36より)
(つまり「天皇」という称号は中国古代王朝からのパクリだった、ということ。 )
p130 ・p133・p134に引用したルイス・フロイス『信長の死について』の訳全文は、
浅見雅一著『キリシタン教会と本能寺の変』(角川新書 2020年刊)の史料編に、掲載されている。
p162 1行目 (高山右近はバテレン追放令ののち、)X内藤ジョアン(如安)とともに、領国の明石を去って、小豆島にしばらく潜んだ。
→内藤ジョアンはこの頃、小西行長の家臣だった。高山右近が小豆島に潜んだときに、ジョアンが行動を共にしていた。なお小西行長が関ヶ原で敗死したあとの1602年に、ジョアンは金沢へ落ち延びている。
p162 6行目 X「加賀の七尾」y→?〇「能登国の七尾」
(七尾市は能登半島にある)
p163 7行目 「日蓮宗・本行寺というのは、X江戸の浅草、下関、高槻にも点在している。」
「江戸の浅草」を消してください。浅草の本行寺は、浄土真宗の何の変哲もない寺らしい。
p166 2行目 「九谷焼のルーツの古九谷(こくたに)は、もともと加賀藩三代目藩主の前田利常が、洗礼盤としても使えるように、絵付けさせ焼いたのが始まり、と孫崎紀子(まごさき・のりこ)氏は証明している。」
金沢から南に離れた、蓮代寺(れんだいじ)という寺で密かに、1637年に作らせている。
蓮台寺の窯は洗礼盤を焼かせた後、前田藩が徹底的に破壊して、幕府の公儀隠密に疑われないようにした。藩主の利常がこれだけ警戒した理由は、二代藩主・前田利長が、幕府の忍者に殺されたためではないか?高山右近がマニラに追放された1614年に、利長は急死した。
同じページの次の段落で「大聖寺」で九谷焼を作らせたのは、その二十年あとの1655年のこと。これが一般に「古九谷」と呼ばれている。大聖寺藩という前田の支藩が、加賀の小松の南に置かれていた。その大聖寺をずっと山奥に入ると九谷村がある。
(古九谷は最初は蓮代寺で、のちに大聖寺藩の九谷村で密かに焼かれた、ということ。)
p171 3行目 誤植 「として破壊を進めた」を消す。
p180 3行目 X「宗教革命」→〇「宗教改革」
p183 10行目 「本当は小西軍が漢城(ソウル)にX入場した時、」→〇「
入城した時」
p192 8行目 「生まれたばかりの秀頼(お拾)が、成人まで育つというX確証はない。」
→「保証はない。」
P200 「スペイン宮廷ウォルシンガム」→「ウォルシンガム」を消す。
P205 最後の行「1906年」は「1609年」の間違い。
P213 1行目 「片桐且元はXどっちつかずで、最後までふらふらした。」
→片桐且元は家康側について、大坂城の内偵をした高等スパイである。
P219 最後の行 X「毛利輝元」→「毛利秀元」(ひでもと)
P224 「当時の南蛮人バテレンというのは、ロザリオをつけたX東大教授のようなものである」(六城雅敦著『隠された十字架ー江戸の数学者たち』)
→〇「ロザリオをつけたMIT(マサチューセッツ工科大学)教授のようなものである」
(六城雅敦氏の「隠れた十字架」p57)
P227 後ろから4行目
「(宇喜多秀家)の正室・豪姫は実家の加賀の前田家に戻って、」
補足: 1602年から1608年まで、豪姫は京都で秀吉の正室・北の政所に面倒を見られた。
その後、金沢へ行った。母である、利家の正室・まつが豪姫の面倒を見た。
P227 後ろから2行目 「関東平野の利根川の湿地に、キリシタンは多く隠れ住むことになった。」
補足:「戦国時代に採掘が始まっていた足尾銅山(栃木県)にも、キリシタンが隠れていた。」
p232 6行目 「1619年(板倉)重昌は彼らを牢につないだが、」
→「重昌は京都の耶蘇教の信者を牢につないだが、生かしたままにしていた。」
P234 2行目「領国で乱行な振る舞いが続いたため、」→「領国で乱行が続いたため、」
P234 4行目 「菊池寛の短編小説『忠直卿行状記』」
補足:(1918年発表)
p237 最後の行 忠直配流のf3年前→「f」を消す。
田中進二郎拝 2020年10月11日
【2251】[2645]Re : 日本学術会議会員任命問題
日本学術会議法
http://www.scj.go.jp/ja/scj/kisoku/01.pdf
第17条に
日本学術会議は、二百十人の日本学術会議会員をもつて、これを組織する。
とあります。
ということは、欠員が生じたままでは明らかにこの条文を破っているわけです。
相田英男氏が「朝日新聞の高橋真理子氏はよくわかっている」とおっしゃる通り、高橋氏はこの点も指摘しています。この条文を遵守するためには、内閣総理大臣は、学術会議が推薦してきた会員の中に不適格な候補者がいて、その者を任命できないという場合には、学術会議に向かって不適格と判断する根拠を示し、代わりの候補者を推薦するよう説得する義務があるでしょう。
それをしていないのに「法律にもとづいた判断だ」と強弁する人たちが指導層を形成しているということになると、諸外国の知識層から見て「日本はまともな法治国家ではない」という評価になってしまうのは当然のことだと思いました。
【2250】[2644]日本学術会議の行く末に期待する
相田です。
短く書きます。
日本学術会議という、あまりにもマイナー過ぎる団体の存在が、今になって、俄然、世間の注目を集めている。
私は、学術会議の会員だった訳ではなく、学術会議員に選ばれるような立派な研究者でも、未だかつてない。しかし、今回騒がれている問題の原因については、日本でもトップレベルの知識を自分は持っている。その自負がある。
そもそもは、私が原発の歴史を自己流で研究する際に、1953年の「茅・伏見提案」について詳しく調べたのがきっかけだった。その舞台となった「日本学術会議」とは、一体どのような組織なのか、興味を持った。自分で納得行くまで、資料を集めて調べた。
驚いたのは、学術会議を作る際に、マッカーサー配下の軍人達や、ニューディーラーと呼ばれる左翼知識人達が、積極的に援助していた、という事実だった。これは、副島先生の「属国日本論」そのものの世界ではないか、と、私の目から鱗が落ちた。
現在の学術会議という組織の、わけのわからなさは、発足当時の複雑な情勢に由来するものである。学術会議の成立過程については、広重徹が情熱を込めて書き残している。私は広重の幾つかの著作を手元に置いて、今でも折りを見て読み返している。なので、現在の学術会議員の当人達以上に、問題の状況がよく理解出来る。
新たに就任した首相のしでかした、最初のチョンボになったせいで、学術会議に関する新たな新聞のニュースや、識者のコメントが、毎日ネットに掲載されている。こんな情勢になるとは全くの想定外だった。私は今、出来る限りの記事に目を通している。
私は、広重や武谷三男が今でも生きていたら、どのように熱くコメントしていただろうか、と、思いを馳せずにはいられない。
今回の件については、コメントを書く多くの著者が、どの程度のレベルの見識や、勉強量を持っているかが、私には手にとるようにわかる。なので、大変興味深い。「この人は、よくわかっているな」と、私が思うのは、自民党の船田元(ふなだはじめ)代議士と、朝日新聞の高橋真理子氏くらいだ。この二人は、かつての当事者だったり、よく事情を調べられていたりして、内容に説得力がある。他の論者はみんな、とりあえず何か言っておくか、というノリで書く様子が透けてしまい、中身があまりにも薄過ぎる。
今から、広重の本を読み返して学術会議の勉強しようとしても、茅誠司、ハリー・ケリー、嵯峨根遼吉、小倉金之助、兼重寛九郎、矢内原忠雄、などの古い学者の名前に困惑するだけだ。内容を理解する頃には、ブームは終わっているだろう。
もうすぐ開催される臨時国会で、学術会議案件は、野党による追求案の筆頭に挙げられている。私は成り行きを期待して見守るつもりだ。学術会議がこれからどうなるか、よりも、外からコメントする識者達が、どの程度の見識とやる気を持って、記事を書いているかが、私には丸わかりになる。そっちの方が大変楽しみだ。書かないで済ませて、やり過ごした連中も、しっかり覚えておくつもりだ。
相田英男 拝
【2249】[2643]副島隆彦学問道場の方々への御礼
副島隆彦学問道場の方々へのお礼 田中進二郎
拙著『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』(電波社)が、学問道場の皆さまの、様々なご支援によって、想像していないほどの反響を頂いております。
Amazon売れ行きランキングで、
戦国・安土桃山時代1位(ベストセラー)ただ今2位
歴史学 8位
日本史総合 22位
地理・歴史 62位など
驚異的な人気を頂いております。
昨日やっと、Amazonなどから、本が届いた方も多いかと存じます。
なお、今朝(10/4)、朝日新聞1面下に拙著の広告が、電波社から出ましたので、朝日新聞をご購読の皆さまは、ご覧ください。
自分でも何が起こっているのか、よく把握できておりませんので、これで失礼します。
秋の休日にご一読くだされば、幸いです。
ますますのご支持給わりますよう、お願い申し上げます。
田中進二郎拝
【2248】[2642]日本学術会議の問題についての核心
相田です。
最近はおちゃらけた投稿ばかりでしたが、今回はマジで行きます。
新たに総理になった菅氏が、日本学術会議のメンバー数人を承認しなかったと、物議を醸している。それに関する記事の一つを引用する。
(引用始め)
2020/10/3 16:00 (JST) ©株式会社京都新聞社
社説:学術会議人事 萎縮生む不当な介入だ
学術の立場から政府に政策提言する「日本学術会議」の新会員について、菅義偉首相が同会議推薦の候補者105人のうち6人を任命しなかった。首相が一部の候補者を「排除」した形だ。法律上、会員の任命権者は首相だが、現在の制度下で推薦された候補者が任命されなかったのは初めてだ。
加藤勝信官房長官は「任命する立場に立って、しっかりと精査していくのは当然」と述べ、法律に基づく判断だと強調した。だが、なぜ任命しなかったのかについては明らかにしていない。理由を示さず一方的に人事に介入することは、政府への過剰な忖度(そんたく)を生み、会議の活動の萎縮につながるおそれがある。学問の自由を著しく侵害する行為だと言わざるを得ない。
学術会議は日本の科学者を代表する組織として、1949年に設立された。「学者の国会」とも呼ばれ、前政権下では防衛省による軍事研究への助成制度を批判するなど、政府から独立した立場で提言を続けてきた。会員には、高度な専門性が求められる。このため、学術会議は各分野の代表となる会員候補を推薦し、政府もこれを尊重してきた。
ところが今回、菅首相はこの慣例を変えた。任命しなかった6人には、共謀罪の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法に反対したり、安全保障関連法案の審議過程で違憲性を主張したりした学者が含まれている。法律上の任命権を盾に、前政権の政策に異論を唱えた人物を外したと受け取られても、仕方あるまい。
懸念されるのは、今回のケースが、政府に恣意(しい)的な人選を認める前例となることだ。菅首相は、官房長官時代から官僚組織の掌握に人事権を活用してきた。総裁選中に出演したテレビ番組でも「反対するのであれば異動してもらう」と明言している。科学者に対しても、首相自ら人事権を握っておきたいとの意向なのだろう。
無難な勧告や提言だけしていればいいと言わんばかりの対応では、専門的な知見を政策に生かす機会が奪われよう。政府にとってもマイナスになるのは明らかだ。学術会議はきのうの定例総会で、菅首相に対し、任命を見送った理由の明確化と、改めて6人を任命するよう求める要望書の提出を決めた。政府は真摯(しんし)に応じるべきだ。
(引用終わり)
相田です。
さて、今回の問題で騒いでいる政治家や、マスコミ関係者の中で、日本学術会議というものが、そもそもが、どういう目的で作られた組織なのか、正確に理解出来ている人物はいるのだろうか?
おそらく誰もいないだろう。
学術会議の別名が「科学者の国会」と呼ばれる、その本当の理由も、騒いでいる連中の殆どは知るまい。70歳以上の、大学出の方々はご存じであろうが。
学術会議が終戦直後に作られた詳しい経緯を書いた本は、今では簡単には見当たらない。科学史家の広重徹(ひろしげてつ)が残した「科学の社会史」、「戦後日本の科学運動」か、同じく、科学史家の中山茂がリーダーとなって、トヨタ財団の支援でまとめたプロジェクトの成果である「通史 日本の科学技術」(全5巻)、を読めばわかる。物理学者の伏見康治(朝永振一郎よりも数学の能力が高いといわれた人物)の自伝「時代の証言」にも、学術会議の発足についての記載がある。
しかし、令和の今になり、これらの古い本を読む方は、殆どいないだろう。
結論をいうと、日本学術会議の設立は、日本の科学体制の歴史を辿る中で、最重要の出来事である。断言できる。
私は自著の「東芝本」に、上記の本を参考にして、学術会議の結成についての経緯を、ざっくりと書いた。読んだ人は殆どいないだろうが・・・。ちなみに元になった原稿を、「重たい掲示板」の過去ログに残しているので、興味がある方は辿っていただければよい。物好きの方がいれば、であるが。
日本学術会議とは、1949年に、日本国が米軍の支配下にあった時代に発足した学術組織だ。その目的は、戦前の旧い学術組織を全て解体して、一本化し、現場の科学者達の手に、取り戻す事だった。文科、理科の両方における日本の学術分野の全体の方針を、科学者達自信の代表により決定するために、学術会議は作られた。学術会議員の選抜はは、科学者達による直接選挙であった。直接選挙で選ばれた二百数十人の学術会議員の合議により、日本の学術方針を決める場が、本来の学術会議だったのだ。
しかし、1980年代に体制が変わり、議員の選抜は直接選挙から、科学者同士の推薦による方式となった。そこで推薦された会員候補者を任命するのが、総理大臣の役割だと、現在の学術会議法には定められている。だから法律に則って、今回は相応しくない学者達6名の任命をしなかった、と言うのが、菅総理の説明らしい。
さて、道理の上からは、菅総理の言うことは全く正しい。しかし、相手の科学者達の気持ちは、これでは絶対に収まらないだろう。学術会議の役割には重要な不文律がある。菅総理の判断は、その伝統的な不文律を踏みにじる行動だからだ。
その不文律について、伏見康治(昭和53年から57年まで学術会議長を勤めた)は、「時代の証言」の中で、発足当時の学術会議法を引用し、次のように語っている。
(引用始め)
日本学術会議法
第1条第2項
日本学術会議は内閣総理大臣の所轄とする。
第1条第3項
日本学術会議に関する経費は、国庫の負担とする。
この第1条第3項が注意が必要である。およそ国の機関で国費で賄わないものがあるだろうか。国の他の機関の設置法で、こういう条項のあるものがあるだろうか。これは日本学術会議が実は国の機関ではなく、政府から独立したものであることの実際上の保障なのである。日本学術会議の運営上の事務を担当する事務局があるが、この部分は政府の一部なのである。科学者の会員が色々な会合を催すのに必要な費用も国が負担する。しかし会員の集合体である日本学術会議の本体は、政府と全く独立して物を言うことができる。時にはその時点での政府の政策に対して、真向から反対する意見を出してよい訳である。
(引用終わり)
相田です。学術会議は総理大臣の直轄下に置かれた理由は、総理大臣に科学知識の助言を行うためで、等はない。学術会議を政府と切り離した、完全な独立組織とするためである。伏見によると、政府の意向とは完全に独立に、場合によっては政府の意向に反してでも、自由な発言権を科学者達の代表に与える事が、学術会議には当初は許されていたのだ。
発足当初の学術会議は、世界的に見ても例のない、過激な民主主義の理想の下に作られた組織だった。GHQ -SCAPにいたニューディーラー(多くはアメリカ共産党員だった)の、意気込みを受けて作られたからだ。
ニューディーラー達は、日本の科学者達に、自らの考えにより、国家の学術体制の理想形を作るように、強く訴え続けた。アメリカ側との連絡を取り持ったのは、「リエゾン」と呼ばれる、学術分野毎に分かれた、能力の高い若手研究者の少人数のグループであった。
学術会議の準備段階で議論されたアイデアの一つには、「科学および教育に関するあらゆる政策、研究費の決定・配分の案を決定し、国会の決議を得たうえで政府にその執行を命令し、監督する権限を持つ “最高科学者会議” を設置せよ。最高科学者会議のメンバーは、科学者による直接選挙で選べ」という、過激な案まであったという(広重の著作による)。さすがにそこまではやりすぎだ、ということで、「科学者の意見を政府に提言する組織」という内容で、落ち着いたらしい。
学術会議発足後の、占領下での国が貧しい時代には、日本の学術に関する重要事項の全ては、学術会議の議題として審議され、承認を受けた後に政府で実施されていた。文字通り学術会議が、日本の科学体制の司令塔として活動していた。しかし、朝鮮戦争を経て経済復興が本格化すると、学術会議のまどろこしい議論を待つ余裕が、経済界や政府には無くなって来る。1954年に当時は駆け出しの若手議員だった中曽根康弘により、「原子力予算」が国会に提出され、成立した。これをきっかけに、科学技術庁が学術会議とは別に設立される。科技庁を通じた研究開発予算は、学術会議の審議を経ることなく、研究現場に行き渡り始めた。
このように自民党の政治家達により、学術会議の当初の権限は、徐々に切り崩されていった。一方で、学術会議側にも問題が生じていた。議員を直接選挙により選ぶ仕組みを利用して、レッドパージにより農林省を追放された、農学者の福島要一(ふくしまよういち)や、同じく国立科学博物館を追放された、古生物学者の井尻正二(いじりしょうじ)等が、20年以上に渡り議員に在職し続けるという、部外者から見てあまりにも不可解な事象が生じていた。
彼らのような、組織に属さない在野の研究者でも、政治思想的な影響力を駆使することで、票を集めて議員になる事が出来た(当時は学術会議員の当選回数には制限は無かった)。右翼議員として名高い森山欽司(もりやまきんじ)から、「アカの巣窟と化している」と罵倒された、日本原子力研究所(原研)の、労働組合(原研労組)のリーダーだった中島篤之助(なかじまとくのすけ)も、学術会議員を長く務めていた。
森山が科学技術庁長官時代に起こった不祥事を、国会で追求する際に、中島は共産党議員から何度か、証人として国会に呼ばれている。中島の発言が始まった途端に、森山が「お前のようなものが、どうしてこの場にいるのだ」という嫌味を述べたのが、国会の議事録に残っている。
結局、1970年代になると、高い理想を掲げていた学術会議の中に、多くの矛盾が存在することが露呈するようになる。そのような状況で、自民党議員達から、かねてから反政府的な発言を繰り返す学術会議員への対応として、直接選挙から推薦方式への選抜方式の変更が、要望として出された。伏見康治が会長の時代に、なし崩し的に、学術会議法は自民党により修正される。これにより、直接選挙による学術会議の体制は終焉を迎えたのだった。
科学者自身による直接選挙のしくみが奪われたことで、学術会議の理念は実質消滅した。当時の覚書として、政府は学術会議が挙げた推薦人について、口を挟むことはない、と述べた内容が、議事録に残っているらしい。しかし、菅総理は今回、その約束を反故にした。長くなったが、そういう経緯である。
はっきり言って、現状の日本学術会議は、あっても無くてもどうでも良い、老人達の寄合のような集団に過ぎない。このまま時を重ねれば、自然に忘れ去れる存在だと、私は思う。しかし、学術会議を店仕舞いするのであれば、単に終わらせるだけではいけない。設立時に唱えられた崇高な理念が、現実のものになったのか、理念が未だ実現しないのであれば、どうすればよいのか、きちんと総括しなければならない。それこそが、後を継ぐ者の責務である。
学術会議が成立した時、菅総理は物ごごろつかない赤ん坊に過ぎなかった。秋田の田園の中で、首が座るかどうかの幼児がのんびりと過ごす同じ頃に、東京では多くの学者が集まり、米軍の監視の下て、激しい議論を交わしていた。科学技術の力が劣った故に廃墟にされた日本の社会を、科学の力を正しく使うことで復興させることを目指して、科学者達は理想をぶつけ合っていた。その事実をせめて認めて、その意思を(形だけではあるものの)受け継ぐ、今の学者達に対して、僅かでも理解を向けてもらえないのか。
菅総理はそんなことは、恐らくは、全く関知しないであろう。科学者達の怒りは、そこから発しているのである。
最後に書くが、自分よりも弱い相手に対して、厳しい道理を説いて、バッサリと斬り捨てるのも、仕方がないのかもしれない。しかし、それならば、今度は、自分よりも強い相手に対峙した際に、相手の道理により切り捨てられることを、今から覚悟すべきだろう。
相田英男 拝
【2247】[2640]10月18日に金融セミナーがあります。来てください。
副島隆彦です。今日は、2020年9月30日です。
恒例の私が5時間しゃべる「副島隆彦(そえじまたかひこ)の“予言者”金融セミナー第20回」があります。
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副島隆彦(そえじまたかひこ)の“予言者”金融セミナー 第20回
*会場:イイノホール&カンファレンスセンター 東京都千代田区内幸町2-1-1
*日時:2020年10月18日(日)
*開場・受付11:00~ 開演12:00~ 終了17:30(予定)
*受講料:15,000円(税込)/指定席
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申し込み方法は、後ろの方に載せてありますから、そのサイトから申し込んでください。
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追記:10月1日
ホールでの受講は、満席となりました。
「オンライン受講」動画配信(10月19日~)+DVD(後日、発送)の、受付になります。
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前回の金融セミナーは、コロナ大騒動が起きた直後の3月15日にありました。このときは、ギリギリセーフで500人の会場(ホール)に全員、入場できました。もし1週間でも遅れていたら、「自粛、自粛」で東京都知事のあの女性の「強い要請」で開催できなかったでしょう。
ところが今回も、まだコロナ騒ぎの余波と残滓(ざんし)で会場には定員の半分しか入れません。日本政府は「全員入れていい」と、言っているのに・・・。だから、このことへの切実な対策として、私の講演内容を翌日にはすぐに、YouTubeの動画配信で見ることができる選択肢も作りました。それでも、実際、生(なま)で直(じか)に、私の話を聞きたい人は、あと少しだけ席があるそうですから(注記:ホールでの受講は満席になりました)、急いで申し込んでください。コロナがコワイ人は前述した動画配信と、必ず後で送ってくるDVDで見てください。
この金融セミナーは、あくまで、小金持ち層や、経営者、投資家たち向けのものです。私の本を読んで、金(きん)を買って儲(もう)かっている人たちが中心です。このあと、「さあ、どうしたらいいか」を話します。それと、ついに菅政権が、預金封鎖、金融資産(預・貯金、株)への財産税を言い出した。一刻の猶予も無くなってきた。そしてハイパーインフレの予兆と、リデノミ(通貨単位の変更)が一斉に起きる時代が、私たちの目の前に迫ってきた。このことを、私が本気で喚(わめ)き立てます。
私の本の中の難しい知識や思想を理解する、頭のいいインテリ読者と、学問道場の会員たち向けに、別個に、学問道場の定例会(自力での講演会)を、来年(2021年)1月17日(日)に、東京で開きます。こっちは、会場に全員入れます。その詳細は、追ってお知らせします。
私は、自分の読者を今や、明確に2種類に分けています。前者が金融セミナーに来る人で、後者は定例会に来てください。両方が混ざっている人もいるでしょうから、ご自身で判断してください。
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追記:10月1日
ホールでの受講は、満席となりました。
「オンライン受講」動画配信(10月19日~)+DVD(後日、発送)の、受付になります。
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以下が、再(さ)来週の10月18日(日)の金融セミナーの申し込み事項です。
申し込みはコチラ → https://kokucheese.com/event/index/602548/
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副島隆彦(そえじまたかひこ)の“予言者”金融セミナー 第20回
*会場:イイノホール&カンファレンスセンター 東京都千代田区内幸町2-1-1
*日時:2020年10月18日(日)
*開場・受付11:00~ 開演12:00~ 終了17:30(予定)
*受講料:15,000円(税込)/指定席
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申し込みはコチラ → https://kokucheese.com/event/index/602548/
副島隆彦 拝
【2246】[2639]戦国大名はほとんどがキリシタンであった。この事実の重さを改めて知ることになる
9月26日に発売された田中進二郎著「秀吉はキリシタン大名に毒殺された」(電波社)を読了した。
本書は田中進二郎氏がずっと追いかけていたキリシタン大名の系統の集大成である。
同盟と裏切りが横行した戦国史の謎が、田中進二郎氏が示すように高山右近、蒲生氏郷という二人のキーマン、そして千利休を中心とする「日本十字軍」の暗闘という視点を加えると、カチッカチとパズルのピースがはまってゆく快感を覚えるだろう。
茶の湯が戦国武将に愛されたのは、茶の湯=イエズス会のミサという面があったからだ。
すなわち利休を日本での司祭(bishop)代理に見立てて、イエズス会の背後に控える覇権国スペインの恩寵を我先にと少しでも得たいからだ。
千利休が扱う茶器は、そのままスペイン国公認の神器であったのだろう。
剣、勾玉、鏡が天皇即位に必要なように、利休が認めた茶入れこそがキリシタン大名の誉れであり、イエズス会を通してスペインと結びつく証明のようなものだったのだ。キリシタン大名のこの弱みをうまく利用したのが信長であり、秀吉の茶の湯御政道の本質だ。
加賀前田家は現在、古九谷焼とよばれる磁器を製作していたが、これはもともと三代藩主・前田利常(利家の息子)がキリシタンのミサ(礼拝)での必要にかられて城下で作らせたそうだ。
たしかに、そう考えれば古九谷を焼いたとする窯(かま)は徹底して破壊されて現存しない理由に合点する。
本書で暴露されているが、秀吉が伴天連追放令(1587)の3ヶ月後に北野天満宮で「北野大茶会」を開催した。
千利休・今井宗久(そうきゅう)・津田宗汲(そうぎゅう)の三大茶人が目の前で茶を点てて振る舞う一大イベントを、秀吉は城下庶民にまで開放した。
10日にもわたる大茶会とうたった割には、参加は1000人程度で閑散とし、たった一日で終わってしまった。
武将たちの”宗教ごっこ”に脳天気にノコノコ出ていって、キリシタンの嫌疑を掛けられるのなんかまっぴら御免と誰もが思ったのだろう。
利休を通して暗にイエズス会の権威を利用した秀吉も最後には斬り捨てられ、豊臣家の命運は潰(つい)えた。
■つぎつぎと氷解する戦国武将たちの疑問
まず、冒頭に多くの方はあの島津家の家紋(丸に十字)は、本来は縦棒が長い十字架であったという副島隆彦先生の指摘に、まさかそんなことがと驚くのではないだろうか。
しかし幕末の偉人西郷隆盛がよく揮毫したという『敬天愛人』はキリスト教の教義であるという指摘がある。隆盛も島津藩においてキリスト教の影響を強く深く多く受けた人物なのだ。
また日本一美しい城郭といわれる姫路城(白鷺城)にも、譜代藩であるに関わらず実は十字架が掲げられている。
パンフレットにもしっかりと明記されているが、理由は謎とされている。
写真 二の門に掲げられる丸に十字
キリスト勢力は権力者から弾圧された側という解釈ばかりが歴史教科書には示されているが、それでは、なぜ徳川の血統である結城氏と松平氏が交互に藩主を務めた姫路城に十字架が掲げられて現存しているのかがわかるはずがない。
わたし(六城)の出身地でもある堺は南蛮貿易の拠点として繁栄し、千利休を生み出したところであるにも関わらず、いまでは大阪湾に面した工場と密集した住宅が混在するだけの地域にすぎない。歴史を感じさせるような街並はほとんど消えている。
日本のベニスとまでポルトガル商人に讃えられた面影などどこにもない。日本で最初に鉄砲までも造った打刃物産業が伝統工芸として残っているだけだ。
せいぜい百舌鳥古市古墳群(仁徳天皇陵や応仁天皇陵)が世界遺産登録されたことが最近の唯一明るいニュースではある。
このような個人的な疑問にも本書を読めば氷解する。
江戸時代に幕府直轄領となってからは、堺は外国と直接通じる貿易港の役目を剥奪され、イエズス会(耶蘇教)の要注意監視区域だったのだろう。
だからイエズス会や布教の面影を残すものは全部破却されたのだろう。千利休を始めとする堺の豪商(会合衆:豪商の連合)の史蹟もない。
日比谷了慶の屋敷跡は公園となり、寄付で石碑が建てられているだけだ。
(写真:堺市戎公園 通称ザビエル公園)
本書で南蛮貿易の貿易事務所として登場する南宗寺は千利休(1522-1591)と三好長慶(1522-1564)の墓がある。
現在放映されているNHK大河ドラマ「麒麟が来る」で三好長慶も登場している。
畿内の支配者の三好長慶は細川晴元ともに京に攻め入り国内で初めて火縄銃を使ったとされる。(1550)
信長よりも先に火力兵器を手中にしたことで、現在の大阪地域で勢力を固めたのが三好長慶だ。
だが、南蛮貿易で火薬原料と鉛を独占していた三好長慶は家宰の松永久秀によって毒殺されたのが、長慶の死の真相なのだ。
松永久秀は、三好長慶を殺したあと、三好三人衆を動かして、畿内をしばらく牛耳っていた。その間、畿内のキリシタン大名たちは、戦々恐々としており、彼らに代わる新しい庇護者を必要としていた。だから、信長の台頭を歓迎したのだとわかる。
イエズス会の強力な庇護者であった三好長慶は、イエズス会が禅宗に擬装した南宗寺で長慶を弔らわれたのだろう。
(写真:南宗寺の利休由来の茶室とキリシタン灯籠(織部灯籠)。灯籠の竿(足の部分)は作り直されている。一旦壊されたのかもしれない)
そしてこの南宗寺は大阪夏の陣で死んだとされる徳川家康の墓があることで有名だ。
ただしこれは松下幸之助が再建したもので、当時のものではないが戦災で焼ける前は東照宮の廟があったそうだ。
いままでは訪れても「家康の墓?馬鹿らしい」と一笑一蹴していたが、この南宗寺は水戸徳川家の庇護下の由緒ある古刹である。(だから瓦は三ッ葵の紋だ)
南宗寺には、三代将軍家光も参拝したという言い伝えも残っているらしい。
本書で水戸徳川家もキリシタン大名の有力な一派であることを知ると、俄然イエズス会の勢力は徳川幕府下においても温存されていたことがわかる。
もしも徳川幕府がイエズス会勢力(スペイン勢)により倒幕された際には、家康はすでに大阪で死んでいることを水戸徳川が発表して、水戸藩主こそ真の大権現様であるぞとキリシタン大名と共に公布しようとしたのではないだろうか。
そうすると、イエズス会の寺に家康の墓があるのかということの説明がつく。
■キリシタン大名の中心であった蒲生氏郷
自著「かくされた十字架 江戸の数学者たち」(2019 秀和システム)において江戸時代初期にキリシタン弾圧を指揮した張本人の井上政重(1585-1661)の出自におおいて、駿河で生まれ、徳川家臣の大須賀家(キリシタン)に使えていた。その後二代将軍秀忠に仕える前は、福島二本松の蒲生(がもう)家に出向していることが判明していることを記した。井上政重は徳川の伊賀忍者系の出身だ。
徳川家のお膝元である駿河(遠州)から遠く離れた蒲生家になぜ出向いたのか。
田中進二郎氏によると、蒲生家とは信長政権からずっと一貫してキリシタン大名であり、反信長、反秀吉の中心大名であるのだ。
秀吉によって高山右近が国外追放された後も、蒲生氏郷の家系はイエズス会のエージェント(agent)として暗躍していたのだ。
だからこそ徳川家もキリシタン大名ネットワークの連絡係としても井上政重をキリシタン大名の統制を担う蒲生家に公儀隠密(スパイ)として派遣したということ。
やがて井上政重はキリシタン弾圧とは真逆に密入国したイタリア人宣教師ジョセッペ・キアラを江戸の小石川に匿った。そこで西洋数学(天文学)を同じ駿河出身の関孝和に学ばせた。
本書とはちょっとずれるが、井上政重の系統に江戸後期の数学者で高橋至時(たかはしよしとき 1764-1804)という人物がいる。
弟子が日本地図を作り上げた伊能忠敬(1745-1818)である。
高橋至時は見廻り組の小役人が表向きの身分で、井上家に所属している。忍者の家系は江戸城の警備を担当だ。
この人物が江戸幕府の頭脳集団となり、浅草天文台(幕府の数学研究所1782年)を設立した。やがて蕃書調所(ばんしょしらべしょ:幕府の海外研究機関)となった。
世界に対峙できる頭脳がなぜ禁教下の江戸時代に集められたのか不思議に思わないだろうか。
黒船来航(1853)の百年前にはすでに海外情勢と西洋科学(Science)をキリシタン大名が密かに研究していたのだ。
代表例として挙げると岡山の津山藩だ。天才・秀才の家系として知られる箕作(みつくり)家だろう。(維新後は華族となった)
だからこそキリシタン大名ネットワークで速やかに人材を一箇所に集めることが可能だった。
■海外情勢はそのまま国内勢力に大きく影響した
日本の戦国時代と同時期のヨーロッパでは凄惨なカトリックと新興のプロテスタントの勢力抗争が行われていた。
イギリスにおけるスペイン勢力(カトリック)とオランダ勢力(プロテスタント)イギリスを経てアメリカ建国(独立)へとつながっていく過程は、副島隆彦先生の「本当は恐ろしいアメリカの思想と歴史」(2020 秀和システム)に詳しくわかりやすく書かれている。
本当は恐ろしいアメリカの思想と歴史
さて、その影響(イエズス会の勢力低下)は日本にもどのように影響したのか、が本書の後半の主題である。
イエズス会配下の大名たちをアメとムチでなんとか懐柔してきた秀吉政権も、身内までもがキリシタンに侵蝕されて瓦解していったことがつぶさにわかるだろう。
秀吉恩顧のキリシタン大名たちを関ヶ原で家康側に寝返らせたのは、反イエズスであった権力者石田三成への憎悪である。
本能寺の変から続く反勢力・イエズス会ネットワークは関ヶ原の戦いで決定的に豊臣家を孤立させ家康有利に働いた。
大阪夏の陣(1614)、大阪冬の陣(1614~15)で豊臣家滅亡させた家康の原動力は、プロテスタント国家のオランダとイギリスの支援によるものだった。
家康がイエズス会からプロテスタント勢力に鞍替えした理由、それはヨーロッパでも明白な差となっていたプロテスタント側の科学であり、兵器や築城や治水(開拓)といった先進の工学であった。
覇権国がスペインからイギリスへ動くという海外情勢の大きな変動がそのまますぐに日本にも波及していた。
キリシタン大名たちを操ったイエズス会(=スペイン)とオランダのプロテスタント(=ユダヤ人勢力)の暗闘が日本中世史の真の姿であったことが、本書によってはっきりと解るのである。
【2245】[2638]年会費のお振込みなどに関しての学問道場からのお知らせ(学問道場・古村)
SNSI・副島隆彦の学問道場研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)です。
今日は2020年9月25日です。
本日はいくつかお知らせをいたします。
(1)会員の方には2021年度会員継続のお願いのお手紙をお送りいたしました。受け取っていない、届いていないという方は下記連絡先までお問い合わせください。
(2)2021年度の会員有効期間は、「2021年2月1日から2022年1月31日」までとなります。2020年度の会員期限は2021年1月31日までとなります。
(3)領収証をご希望の方は下記連絡先までお知らせください。
(4)代表交代に伴う、振込先口座番号変更に関するお問い合わせも下記連絡先までお願いいたします。
(5)田中進二郎(たなかしんじろう)研究員の単著デビュー作『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』(電波社)が2020年9月28日に発売となります。田中研究員の本掲示板への投稿[2635]加賀前田藩は隠れキリシタン王国だった①」(少し下にあります)を是非お読みください。
【連絡先】
副島隆彦の学問道場
Eメールアドレス:snsi@mwb.biglobe.ne.jp
330-0855 埼玉県さいたま市大宮区上小町591-5
シウコウビル3A
電話:048-788-1837
ファックス:048-788-1854
以上、よろしくお願いいたします。
副島隆彦の学問道場
古村治彦拝
【2244】[2637]『マリス博士の奇想天外な人生』とコロナ騒動
『マリス博士の奇想天外な人生』(早川書房)という興味深い本を読み次々と想像(妄想)を膨らませてみました。
マリス博士はPCR検査(Polymerase Chain Reaction)の発明者でその功績により1993年のノーベル化学賞を獲得した人です。
恐らく多くの人にとっては「PCR検査」という言葉は今年の2月に横浜港に戻ってきたクルーズ船の乗客がコロナウイルスによって感染し発病したというニュースがテレビで報道されるようになったころ初めて聞いた言葉ではないかと思います。
今では毎日のように耳にし、小学生でも知っている「PCR検査」、どのような検査なのか具体的には、つい最近まで私は全く知りませんでした。(その後、以下に紹介する大橋眞先生のYouTube動画を何十本も観ることによって、おぼろげながらではありますがイメージを掴むことが出来ました)
この『マリス博士の奇想天外な人生』はマリス博士の自著で1998年に出版されました。日本語訳は2000年に単行本として早川書房から出版されました。
そして現在、この本の題名にあるごとく「奇想天外」な展開が世界中で繰り広げられていると私は思っています。
昨年(2019年)8月マリス博士は突然亡くなりました。(殺害されたともいわれています)
生前、博士はPCR検査を感染症の診断に使ってはならないと警告していました。
そして2019年の秋から冬にかけて、中国の武漢で謎の感染症が流行しました。その感染症の陽性判定にPCR検査が使われています。
この本の中に「エイズの真相」という一章があって、40年前突然流行したエイズと今回の新型コロナウイルス騒動の展開の構図が余りにも類似しているので私は驚いています。
博士の突然の死と感染症の流行、エイズとワクチンをめぐる疑惑・・・・・コロナウイルスとワクチンの開発競争。
まるで推理小説の謎を解くような奇想天外な結末が待っているような予感がします。 (笑)
意図的に編集されたテレビの映像によってパニックが引き起こされ、たった半年の間に人々の生活はすっかり変わってしまったことに、あらためて驚きを感じます。今では電車に乗るときも、スーパーマーケットに買い物をするときもマスクなしでは白い目で見られるようになりました。
先日、あるコンサートに行った人によると、スマホにCOCOA(新型コロナウイルス接触感染アプリ)が入っているかのチェックを受け、入っていない人はその場でインストールを要請(命令?)されたということです。(エッ!ということは、そもそもスマホを持っていないとコンサートホールに入れないの?)
このコロナ騒動がどのように落し前を付けて世界中が納得出来る状況を作れるのか、それとも描かれた(誰によって?)デザインの中に押し込められて納得させられてしまうのか、実に興味深い展開が今後も続いて行くのです。
次に紹介する講演会は「納得出来る状況を我々が作るのか、それとも納得させられてしまうのか」の瀬戸際で闘っている人々の数ある運動の一つであると私は思っています。
8月24日、永田町の参議院議員会館の小ホールで行われた大橋眞先生(おおはし まこと 徳島大学名誉教授)の講演会に参加しました。
免疫学者大橋教授は新型コロナウイルス(新コロ)の恐怖をあおるマスコミを批判し、PCR検査の問題点を指摘する立場から論陣を張っておられる方です。
この講演会では非常に驚いたことが、二つありました。
驚いたことの一つ目は、開演間際に私は会場に着きましたが、中に入って既に300人以上集まった聴衆を見るとマスクを着けている人が誰も居なかったのです。(後で目視で確認したところでは僅か3名がつけていました)
会場に来るまでの地下鉄でも暑い歩道を歩いて来る時も、ほぼ全ての人がマスク姿であったのに、この会場はまるで別世界と思うような光景でした。
しかし考えてみれば、これが当たり前のことで真夏にマスクなど着けている方が可笑しいのに、いつの間にか常識が逆転していたようです。
ところが、この会場に限って、マスクをつけることを拒否する人が300人もいたことに、私は何となくほっとし安心しました。
驚いたことの2つ目は、この講演会は3部で構成されていて、第3部は質問コーナとなっていましたが、司会者が質問者を指名しようとした途端、会場から勢いよく発声を伴い一斉に挙手する人々(中には立ち上がって指名を求める人も何人かいて)が30人以上いたのです。とても活発なそして熱気にあふれた会場であったということです。
それにしても、このように熱気あふれる集会は、いつか見たことがあるなぁー と思い巡らせていたら・・・思い出した!
それは50年も昔の大学闘争が始まったばかりのごく初期の学生集会。そこには学生自治会の議長がいて、一定の秩序があり、活発な意見交換がなされていた、非常に真面目な集会でした。(しかし、やがてはこれらの有意義な議論は暴力によってすべて消え去って行ったのですが・・・)
大橋先生の講演会「コロナウイルスの真相」の質問コーナーも非常に活発で熱心な質問が飛び交い、予定時間を一時間以上超過したように思いました。
質問者の意見は私の見たところ、①純粋にコロナウイルスやこの騒動について詳しく知りたいという人達(8割近く)、②行政が行うコロナ危機対策に不満がありそれに対抗する政治活動を目指している人達、③一般からはかなり浮いた極端で過激な陰謀論を展開し自説を述べ警告したい人達の3つのグループに分けることが出来ました。
しかし、どの人たちも大橋先生の静かに語る言葉に科学者らしい説得力を感じて、満足して聞いていたように思いました。
大橋眞先生のYouTube動画サイト「学びラウンジ」 (マリス博士の遺言について語った動画も数本あります)
↓ ↓ ↓
https://www.youtube.com/user/ias1ohashi/videos
現在(9月22日)120本以上の「新コロ」関係の動画がありますが、YouTube側の判断(どのような基準?)により既に何本かの動画が削除されています。
上にも書きましたが、コンサートホールに入るのにスマホに「新コロ」接触感染アプリが入っていないと入場できないという事態にまで状況が出来上がりつつあります。
この先「新コロ」ワクチンが完成すると、ワクチンの接種が薦められ、接種した人には「証明書」が発行され、「証明書」がないと買い物もできず、電車にも乗れないという様な状況が作られないとも限りません。
今後どのような状況が出現して行くのか、じっくりと観察したいと思います。
2020年9月22日投稿