重たい掲示板

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宮林謙吉 投稿日:2020/10/09 07:04

【2251】[2645]Re : 日本学術会議会員任命問題

日本学術会議法
http://www.scj.go.jp/ja/scj/kisoku/01.pdf
第17条に
日本学術会議は、二百十人の日本学術会議会員をもつて、これを組織する。
とあります。
ということは、欠員が生じたままでは明らかにこの条文を破っているわけです。
相田英男氏が「朝日新聞の高橋真理子氏はよくわかっている」とおっしゃる通り、高橋氏はこの点も指摘しています。この条文を遵守するためには、内閣総理大臣は、学術会議が推薦してきた会員の中に不適格な候補者がいて、その者を任命できないという場合には、学術会議に向かって不適格と判断する根拠を示し、代わりの候補者を推薦するよう説得する義務があるでしょう。
それをしていないのに「法律にもとづいた判断だ」と強弁する人たちが指導層を形成しているということになると、諸外国の知識層から見て「日本はまともな法治国家ではない」という評価になってしまうのは当然のことだと思いました。

相田英男 投稿日:2020/10/06 21:50

【2250】[2644]日本学術会議の行く末に期待する

相田です。
短く書きます。

日本学術会議という、あまりにもマイナー過ぎる団体の存在が、今になって、俄然、世間の注目を集めている。

私は、学術会議の会員だった訳ではなく、学術会議員に選ばれるような立派な研究者でも、未だかつてない。しかし、今回騒がれている問題の原因については、日本でもトップレベルの知識を自分は持っている。その自負がある。

そもそもは、私が原発の歴史を自己流で研究する際に、1953年の「茅・伏見提案」について詳しく調べたのがきっかけだった。その舞台となった「日本学術会議」とは、一体どのような組織なのか、興味を持った。自分で納得行くまで、資料を集めて調べた。

驚いたのは、学術会議を作る際に、マッカーサー配下の軍人達や、ニューディーラーと呼ばれる左翼知識人達が、積極的に援助していた、という事実だった。これは、副島先生の「属国日本論」そのものの世界ではないか、と、私の目から鱗が落ちた。

現在の学術会議という組織の、わけのわからなさは、発足当時の複雑な情勢に由来するものである。学術会議の成立過程については、広重徹が情熱を込めて書き残している。私は広重の幾つかの著作を手元に置いて、今でも折りを見て読み返している。なので、現在の学術会議員の当人達以上に、問題の状況がよく理解出来る。

新たに就任した首相のしでかした、最初のチョンボになったせいで、学術会議に関する新たな新聞のニュースや、識者のコメントが、毎日ネットに掲載されている。こんな情勢になるとは全くの想定外だった。私は今、出来る限りの記事に目を通している。

私は、広重や武谷三男が今でも生きていたら、どのように熱くコメントしていただろうか、と、思いを馳せずにはいられない。

今回の件については、コメントを書く多くの著者が、どの程度のレベルの見識や、勉強量を持っているかが、私には手にとるようにわかる。なので、大変興味深い。「この人は、よくわかっているな」と、私が思うのは、自民党の船田元(ふなだはじめ)代議士と、朝日新聞の高橋真理子氏くらいだ。この二人は、かつての当事者だったり、よく事情を調べられていたりして、内容に説得力がある。他の論者はみんな、とりあえず何か言っておくか、というノリで書く様子が透けてしまい、中身があまりにも薄過ぎる。

今から、広重の本を読み返して学術会議の勉強しようとしても、茅誠司、ハリー・ケリー、嵯峨根遼吉、小倉金之助、兼重寛九郎、矢内原忠雄、などの古い学者の名前に困惑するだけだ。内容を理解する頃には、ブームは終わっているだろう。

もうすぐ開催される臨時国会で、学術会議案件は、野党による追求案の筆頭に挙げられている。私は成り行きを期待して見守るつもりだ。学術会議がこれからどうなるか、よりも、外からコメントする識者達が、どの程度の見識とやる気を持って、記事を書いているかが、私には丸わかりになる。そっちの方が大変楽しみだ。書かないで済ませて、やり過ごした連中も、しっかり覚えておくつもりだ。

相田英男 拝

田中進二郎 投稿日:2020/10/04 08:09

【2249】[2643]副島隆彦学問道場の方々への御礼 

副島隆彦学問道場の方々へのお礼 田中進二郎

拙著『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』(電波社)が、学問道場の皆さまの、様々なご支援によって、想像していないほどの反響を頂いております。
Amazon売れ行きランキングで、
戦国・安土桃山時代1位(ベストセラー)ただ今2位
歴史学      8位
日本史総合    22位
地理・歴史     62位など
驚異的な人気を頂いております。
昨日やっと、Amazonなどから、本が届いた方も多いかと存じます。

なお、今朝(10/4)、朝日新聞1面下に拙著の広告が、電波社から出ましたので、朝日新聞をご購読の皆さまは、ご覧ください。
自分でも何が起こっているのか、よく把握できておりませんので、これで失礼します。
秋の休日にご一読くだされば、幸いです。
ますますのご支持給わりますよう、お願い申し上げます。

田中進二郎拝

相田英男 投稿日:2020/10/04 02:01

【2248】[2642]日本学術会議の問題についての核心

相田です。

最近はおちゃらけた投稿ばかりでしたが、今回はマジで行きます。

新たに総理になった菅氏が、日本学術会議のメンバー数人を承認しなかったと、物議を醸している。それに関する記事の一つを引用する。

(引用始め)

2020/10/3 16:00 (JST) ©株式会社京都新聞社
社説:学術会議人事 萎縮生む不当な介入だ

学術の立場から政府に政策提言する「日本学術会議」の新会員について、菅義偉首相が同会議推薦の候補者105人のうち6人を任命しなかった。首相が一部の候補者を「排除」した形だ。法律上、会員の任命権者は首相だが、現在の制度下で推薦された候補者が任命されなかったのは初めてだ。

加藤勝信官房長官は「任命する立場に立って、しっかりと精査していくのは当然」と述べ、法律に基づく判断だと強調した。だが、なぜ任命しなかったのかについては明らかにしていない。理由を示さず一方的に人事に介入することは、政府への過剰な忖度(そんたく)を生み、会議の活動の萎縮につながるおそれがある。学問の自由を著しく侵害する行為だと言わざるを得ない。

学術会議は日本の科学者を代表する組織として、1949年に設立された。「学者の国会」とも呼ばれ、前政権下では防衛省による軍事研究への助成制度を批判するなど、政府から独立した立場で提言を続けてきた。会員には、高度な専門性が求められる。このため、学術会議は各分野の代表となる会員候補を推薦し、政府もこれを尊重してきた。

ところが今回、菅首相はこの慣例を変えた。任命しなかった6人には、共謀罪の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法に反対したり、安全保障関連法案の審議過程で違憲性を主張したりした学者が含まれている。法律上の任命権を盾に、前政権の政策に異論を唱えた人物を外したと受け取られても、仕方あるまい。

懸念されるのは、今回のケースが、政府に恣意(しい)的な人選を認める前例となることだ。菅首相は、官房長官時代から官僚組織の掌握に人事権を活用してきた。総裁選中に出演したテレビ番組でも「反対するのであれば異動してもらう」と明言している。科学者に対しても、首相自ら人事権を握っておきたいとの意向なのだろう。

 無難な勧告や提言だけしていればいいと言わんばかりの対応では、専門的な知見を政策に生かす機会が奪われよう。政府にとってもマイナスになるのは明らかだ。学術会議はきのうの定例総会で、菅首相に対し、任命を見送った理由の明確化と、改めて6人を任命するよう求める要望書の提出を決めた。政府は真摯(しんし)に応じるべきだ。

(引用終わり)

相田です。

さて、今回の問題で騒いでいる政治家や、マスコミ関係者の中で、日本学術会議というものが、そもそもが、どういう目的で作られた組織なのか、正確に理解出来ている人物はいるのだろうか?

おそらく誰もいないだろう。

学術会議の別名が「科学者の国会」と呼ばれる、その本当の理由も、騒いでいる連中の殆どは知るまい。70歳以上の、大学出の方々はご存じであろうが。

学術会議が終戦直後に作られた詳しい経緯を書いた本は、今では簡単には見当たらない。科学史家の広重徹(ひろしげてつ)が残した「科学の社会史」、「戦後日本の科学運動」か、同じく、科学史家の中山茂がリーダーとなって、トヨタ財団の支援でまとめたプロジェクトの成果である「通史 日本の科学技術」(全5巻)、を読めばわかる。物理学者の伏見康治(朝永振一郎よりも数学の能力が高いといわれた人物)の自伝「時代の証言」にも、学術会議の発足についての記載がある。

しかし、令和の今になり、これらの古い本を読む方は、殆どいないだろう。

結論をいうと、日本学術会議の設立は、日本の科学体制の歴史を辿る中で、最重要の出来事である。断言できる。

私は自著の「東芝本」に、上記の本を参考にして、学術会議の結成についての経緯を、ざっくりと書いた。読んだ人は殆どいないだろうが・・・。ちなみに元になった原稿を、「重たい掲示板」の過去ログに残しているので、興味がある方は辿っていただければよい。物好きの方がいれば、であるが。

日本学術会議とは、1949年に、日本国が米軍の支配下にあった時代に発足した学術組織だ。その目的は、戦前の旧い学術組織を全て解体して、一本化し、現場の科学者達の手に、取り戻す事だった。文科、理科の両方における日本の学術分野の全体の方針を、科学者達自信の代表により決定するために、学術会議は作られた。学術会議員の選抜はは、科学者達による直接選挙であった。直接選挙で選ばれた二百数十人の学術会議員の合議により、日本の学術方針を決める場が、本来の学術会議だったのだ。

しかし、1980年代に体制が変わり、議員の選抜は直接選挙から、科学者同士の推薦による方式となった。そこで推薦された会員候補者を任命するのが、総理大臣の役割だと、現在の学術会議法には定められている。だから法律に則って、今回は相応しくない学者達6名の任命をしなかった、と言うのが、菅総理の説明らしい。

さて、道理の上からは、菅総理の言うことは全く正しい。しかし、相手の科学者達の気持ちは、これでは絶対に収まらないだろう。学術会議の役割には重要な不文律がある。菅総理の判断は、その伝統的な不文律を踏みにじる行動だからだ。

その不文律について、伏見康治(昭和53年から57年まで学術会議長を勤めた)は、「時代の証言」の中で、発足当時の学術会議法を引用し、次のように語っている。

(引用始め)

日本学術会議法
 第1条第2項
   日本学術会議は内閣総理大臣の所轄とする。
 第1条第3項
   日本学術会議に関する経費は、国庫の負担とする。

この第1条第3項が注意が必要である。およそ国の機関で国費で賄わないものがあるだろうか。国の他の機関の設置法で、こういう条項のあるものがあるだろうか。これは日本学術会議が実は国の機関ではなく、政府から独立したものであることの実際上の保障なのである。日本学術会議の運営上の事務を担当する事務局があるが、この部分は政府の一部なのである。科学者の会員が色々な会合を催すのに必要な費用も国が負担する。しかし会員の集合体である日本学術会議の本体は、政府と全く独立して物を言うことができる。時にはその時点での政府の政策に対して、真向から反対する意見を出してよい訳である。

(引用終わり)

相田です。学術会議は総理大臣の直轄下に置かれた理由は、総理大臣に科学知識の助言を行うためで、等はない。学術会議を政府と切り離した、完全な独立組織とするためである。伏見によると、政府の意向とは完全に独立に、場合によっては政府の意向に反してでも、自由な発言権を科学者達の代表に与える事が、学術会議には当初は許されていたのだ。

発足当初の学術会議は、世界的に見ても例のない、過激な民主主義の理想の下に作られた組織だった。GHQ -SCAPにいたニューディーラー(多くはアメリカ共産党員だった)の、意気込みを受けて作られたからだ。

ニューディーラー達は、日本の科学者達に、自らの考えにより、国家の学術体制の理想形を作るように、強く訴え続けた。アメリカ側との連絡を取り持ったのは、「リエゾン」と呼ばれる、学術分野毎に分かれた、能力の高い若手研究者の少人数のグループであった。

学術会議の準備段階で議論されたアイデアの一つには、「科学および教育に関するあらゆる政策、研究費の決定・配分の案を決定し、国会の決議を得たうえで政府にその執行を命令し、監督する権限を持つ “最高科学者会議” を設置せよ。最高科学者会議のメンバーは、科学者による直接選挙で選べ」という、過激な案まであったという(広重の著作による)。さすがにそこまではやりすぎだ、ということで、「科学者の意見を政府に提言する組織」という内容で、落ち着いたらしい。

学術会議発足後の、占領下での国が貧しい時代には、日本の学術に関する重要事項の全ては、学術会議の議題として審議され、承認を受けた後に政府で実施されていた。文字通り学術会議が、日本の科学体制の司令塔として活動していた。しかし、朝鮮戦争を経て経済復興が本格化すると、学術会議のまどろこしい議論を待つ余裕が、経済界や政府には無くなって来る。1954年に当時は駆け出しの若手議員だった中曽根康弘により、「原子力予算」が国会に提出され、成立した。これをきっかけに、科学技術庁が学術会議とは別に設立される。科技庁を通じた研究開発予算は、学術会議の審議を経ることなく、研究現場に行き渡り始めた。

このように自民党の政治家達により、学術会議の当初の権限は、徐々に切り崩されていった。一方で、学術会議側にも問題が生じていた。議員を直接選挙により選ぶ仕組みを利用して、レッドパージにより農林省を追放された、農学者の福島要一(ふくしまよういち)や、同じく国立科学博物館を追放された、古生物学者の井尻正二(いじりしょうじ)等が、20年以上に渡り議員に在職し続けるという、部外者から見てあまりにも不可解な事象が生じていた。

彼らのような、組織に属さない在野の研究者でも、政治思想的な影響力を駆使することで、票を集めて議員になる事が出来た(当時は学術会議員の当選回数には制限は無かった)。右翼議員として名高い森山欽司(もりやまきんじ)から、「アカの巣窟と化している」と罵倒された、日本原子力研究所(原研)の、労働組合(原研労組)のリーダーだった中島篤之助(なかじまとくのすけ)も、学術会議員を長く務めていた。

森山が科学技術庁長官時代に起こった不祥事を、国会で追求する際に、中島は共産党議員から何度か、証人として国会に呼ばれている。中島の発言が始まった途端に、森山が「お前のようなものが、どうしてこの場にいるのだ」という嫌味を述べたのが、国会の議事録に残っている。

結局、1970年代になると、高い理想を掲げていた学術会議の中に、多くの矛盾が存在することが露呈するようになる。そのような状況で、自民党議員達から、かねてから反政府的な発言を繰り返す学術会議員への対応として、直接選挙から推薦方式への選抜方式の変更が、要望として出された。伏見康治が会長の時代に、なし崩し的に、学術会議法は自民党により修正される。これにより、直接選挙による学術会議の体制は終焉を迎えたのだった。

科学者自身による直接選挙のしくみが奪われたことで、学術会議の理念は実質消滅した。当時の覚書として、政府は学術会議が挙げた推薦人について、口を挟むことはない、と述べた内容が、議事録に残っているらしい。しかし、菅総理は今回、その約束を反故にした。長くなったが、そういう経緯である。

はっきり言って、現状の日本学術会議は、あっても無くてもどうでも良い、老人達の寄合のような集団に過ぎない。このまま時を重ねれば、自然に忘れ去れる存在だと、私は思う。しかし、学術会議を店仕舞いするのであれば、単に終わらせるだけではいけない。設立時に唱えられた崇高な理念が、現実のものになったのか、理念が未だ実現しないのであれば、どうすればよいのか、きちんと総括しなければならない。それこそが、後を継ぐ者の責務である。

学術会議が成立した時、菅総理は物ごごろつかない赤ん坊に過ぎなかった。秋田の田園の中で、首が座るかどうかの幼児がのんびりと過ごす同じ頃に、東京では多くの学者が集まり、米軍の監視の下て、激しい議論を交わしていた。科学技術の力が劣った故に廃墟にされた日本の社会を、科学の力を正しく使うことで復興させることを目指して、科学者達は理想をぶつけ合っていた。その事実をせめて認めて、その意思を(形だけではあるものの)受け継ぐ、今の学者達に対して、僅かでも理解を向けてもらえないのか。

菅総理はそんなことは、恐らくは、全く関知しないであろう。科学者達の怒りは、そこから発しているのである。

最後に書くが、自分よりも弱い相手に対して、厳しい道理を説いて、バッサリと斬り捨てるのも、仕方がないのかもしれない。しかし、それならば、今度は、自分よりも強い相手に対峙した際に、相手の道理により切り捨てられることを、今から覚悟すべきだろう。

相田英男 拝

副島隆彦 投稿日:2020/09/30 10:01

【2247】[2640]10月18日に金融セミナーがあります。来てください。

副島隆彦です。今日は、2020年9月30日です。

恒例の私が5時間しゃべる「副島隆彦(そえじまたかひこ)の“予言者”金融セミナー第20回」があります。

====================================
副島隆彦(そえじまたかひこ)の“予言者”金融セミナー 第20回
*会場:イイノホール&カンファレンスセンター 東京都千代田区内幸町2-1-1
*日時:2020年10月18日(日)
*開場・受付11:00~ 開演12:00~ 終了17:30(予定)
*受講料:15,000円(税込)/指定席
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申し込み方法は、後ろの方に載せてありますから、そのサイトから申し込んでください。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
 追記:10月1日
 ホールでの受講は、満席となりました。
「オンライン受講」動画配信(10月19日~)+DVD(後日、発送)の、受付になります。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

前回の金融セミナーは、コロナ大騒動が起きた直後の3月15日にありました。このときは、ギリギリセーフで500人の会場(ホール)に全員、入場できました。もし1週間でも遅れていたら、「自粛、自粛」で東京都知事のあの女性の「強い要請」で開催できなかったでしょう。

ところが今回も、まだコロナ騒ぎの余波と残滓(ざんし)で会場には定員の半分しか入れません。日本政府は「全員入れていい」と、言っているのに・・・。だから、このことへの切実な対策として、私の講演内容を翌日にはすぐに、YouTubeの動画配信で見ることができる選択肢も作りました。それでも、実際、生(なま)で直(じか)に、私の話を聞きたい人は、あと少しだけ席があるそうですから(注記:ホールでの受講は満席になりました)、急いで申し込んでください。コロナがコワイ人は前述した動画配信と、必ず後で送ってくるDVDで見てください。

この金融セミナーは、あくまで、小金持ち層や、経営者、投資家たち向けのものです。私の本を読んで、金(きん)を買って儲(もう)かっている人たちが中心です。このあと、「さあ、どうしたらいいか」を話します。それと、ついに菅政権が、預金封鎖、金融資産(預・貯金、株)への財産税を言い出した。一刻の猶予も無くなってきた。そしてハイパーインフレの予兆と、リデノミ(通貨単位の変更)が一斉に起きる時代が、私たちの目の前に迫ってきた。このことを、私が本気で喚(わめ)き立てます。

私の本の中の難しい知識や思想を理解する、頭のいいインテリ読者と、学問道場の会員たち向けに、別個に、学問道場の定例会(自力での講演会)を、来年(2021年)1月17日(日)に、東京で開きます。こっちは、会場に全員入れます。その詳細は、追ってお知らせします。

私は、自分の読者を今や、明確に2種類に分けています。前者が金融セミナーに来る人で、後者は定例会に来てください。両方が混ざっている人もいるでしょうから、ご自身で判断してください。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
 追記:10月1日
 ホールでの受講は、満席となりました。
「オンライン受講」動画配信(10月19日~)+DVD(後日、発送)の、受付になります。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

以下が、再(さ)来週の10月18日(日)の金融セミナーの申し込み事項です。
申し込みはコチラ → https://kokucheese.com/event/index/602548/

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副島隆彦(そえじまたかひこ)の“予言者”金融セミナー 第20回
*会場:イイノホール&カンファレンスセンター 東京都千代田区内幸町2-1-1
*日時:2020年10月18日(日)
*開場・受付11:00~ 開演12:00~ 終了17:30(予定)
*受講料:15,000円(税込)/指定席
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申し込みはコチラ → https://kokucheese.com/event/index/602548/

副島隆彦 拝

六城雅敦 投稿日:2020/09/29 09:02

【2246】[2639]戦国大名はほとんどがキリシタンであった。この事実の重さを改めて知ることになる


秀吉はキリシタン大名に毒殺された

9月26日に発売された田中進二郎著「秀吉はキリシタン大名に毒殺された」(電波社)を読了した。

本書は田中進二郎氏がずっと追いかけていたキリシタン大名の系統の集大成である。

同盟と裏切りが横行した戦国史の謎が、田中進二郎氏が示すように高山右近、蒲生氏郷という二人のキーマン、そして千利休を中心とする「日本十字軍」の暗闘という視点を加えると、カチッカチとパズルのピースがはまってゆく快感を覚えるだろう。

茶の湯が戦国武将に愛されたのは、茶の湯=イエズス会のミサという面があったからだ。
すなわち利休を日本での司祭(bishop)代理に見立てて、イエズス会の背後に控える覇権国スペインの恩寵を我先にと少しでも得たいからだ。

千利休が扱う茶器は、そのままスペイン国公認の神器であったのだろう。
剣、勾玉、鏡が天皇即位に必要なように、利休が認めた茶入れこそがキリシタン大名の誉れであり、イエズス会を通してスペインと結びつく証明のようなものだったのだ。キリシタン大名のこの弱みをうまく利用したのが信長であり、秀吉の茶の湯御政道の本質だ。

加賀前田家は現在、古九谷焼とよばれる磁器を製作していたが、これはもともと三代藩主・前田利常(利家の息子)がキリシタンのミサ(礼拝)での必要にかられて城下で作らせたそうだ。
たしかに、そう考えれば古九谷を焼いたとする窯(かま)は徹底して破壊されて現存しない理由に合点する。

本書で暴露されているが、秀吉が伴天連追放令(1587)の3ヶ月後に北野天満宮で「北野大茶会」を開催した。
千利休・今井宗久(そうきゅう)・津田宗汲(そうぎゅう)の三大茶人が目の前で茶を点てて振る舞う一大イベントを、秀吉は城下庶民にまで開放した。
10日にもわたる大茶会とうたった割には、参加は1000人程度で閑散とし、たった一日で終わってしまった。
武将たちの”宗教ごっこ”に脳天気にノコノコ出ていって、キリシタンの嫌疑を掛けられるのなんかまっぴら御免と誰もが思ったのだろう。

利休を通して暗にイエズス会の権威を利用した秀吉も最後には斬り捨てられ、豊臣家の命運は潰(つい)えた。

■つぎつぎと氷解する戦国武将たちの疑問

まず、冒頭に多くの方はあの島津家の家紋(丸に十字)は、本来は縦棒が長い十字架であったという副島隆彦先生の指摘に、まさかそんなことがと驚くのではないだろうか。

しかし幕末の偉人西郷隆盛がよく揮毫したという『敬天愛人』はキリスト教の教義であるという指摘がある。隆盛も島津藩においてキリスト教の影響を強く深く多く受けた人物なのだ。

また日本一美しい城郭といわれる姫路城(白鷺城)にも、譜代藩であるに関わらず実は十字架が掲げられている。
パンフレットにもしっかりと明記されているが、理由は謎とされている。
せいぜい百舌鳥古市古墳群(仁徳天皇陵や応仁天皇陵)が世界遺産登録されたことが最近の唯一明るいニュースではある。

このような個人的な疑問にも本書を読めば氷解する。

江戸時代に幕府直轄領となってからは、堺は外国と直接通じる貿易港の役目を剥奪され、イエズス会(耶蘇教)の要注意監視区域だったのだろう。

だからイエズス会や布教の面影を残すものは全部破却されたのだろう。千利休を始めとする堺の豪商(会合衆:豪商の連合)の史蹟もない。

日比谷了慶の屋敷跡は公園となり、寄付で石碑が建てられているだけだ。
畿内の支配者の三好長慶は細川晴元ともに京に攻め入り国内で初めて火縄銃を使ったとされる。(1550)
信長よりも先に火力兵器を手中にしたことで、現在の大阪地域で勢力を固めたのが三好長慶だ。
だが、南蛮貿易で火薬原料と鉛を独占していた三好長慶は家宰の松永久秀によって毒殺されたのが、長慶の死の真相なのだ。
松永久秀は、三好長慶を殺したあと、三好三人衆を動かして、畿内をしばらく牛耳っていた。その間、畿内のキリシタン大名たちは、戦々恐々としており、彼らに代わる新しい庇護者を必要としていた。だから、信長の台頭を歓迎したのだとわかる。

イエズス会の強力な庇護者であった三好長慶は、イエズス会が禅宗に擬装した南宗寺で長慶を弔らわれたのだろう。

(写真:南宗寺の利休由来の茶室とキリシタン灯籠(織部灯籠)。灯籠の竿(足の部分)は作り直されている。一旦壊されたのかもしれない)

そしてこの南宗寺は大阪夏の陣で死んだとされる徳川家康の墓があることで有名だ。
ただしこれは松下幸之助が再建したもので、当時のものではないが戦災で焼ける前は東照宮の廟があったそうだ。

いままでは訪れても「家康の墓?馬鹿らしい」と一笑一蹴していたが、この南宗寺は水戸徳川家の庇護下の由緒ある古刹である。(だから瓦は三ッ葵の紋だ)
南宗寺には、三代将軍家光も参拝したという言い伝えも残っているらしい。

本書で水戸徳川家もキリシタン大名の有力な一派であることを知ると、俄然イエズス会の勢力は徳川幕府下においても温存されていたことがわかる。

もしも徳川幕府がイエズス会勢力(スペイン勢)により倒幕された際には、家康はすでに大阪で死んでいることを水戸徳川が発表して、水戸藩主こそ真の大権現様であるぞとキリシタン大名と共に公布しようとしたのではないだろうか。

そうすると、イエズス会の寺に家康の墓があるのかということの説明がつく。

■キリシタン大名の中心であった蒲生氏郷

自著「かくされた十字架 江戸の数学者たち」(2019 秀和システム)において江戸時代初期にキリシタン弾圧を指揮した張本人の井上政重(1585-1661)の出自におおいて、駿河で生まれ、徳川家臣の大須賀家(キリシタン)に使えていた。その後二代将軍秀忠に仕える前は、福島二本松の蒲生(がもう)家に出向していることが判明していることを記した。井上政重は徳川の伊賀忍者系の出身だ。

徳川家のお膝元である駿河(遠州)から遠く離れた蒲生家になぜ出向いたのか。

田中進二郎氏によると、蒲生家とは信長政権からずっと一貫してキリシタン大名であり、反信長、反秀吉の中心大名であるのだ。
秀吉によって高山右近が国外追放された後も、蒲生氏郷の家系はイエズス会のエージェント(agent)として暗躍していたのだ。

だからこそ徳川家もキリシタン大名ネットワークの連絡係としても井上政重をキリシタン大名の統制を担う蒲生家に公儀隠密(スパイ)として派遣したということ。

やがて井上政重はキリシタン弾圧とは真逆に密入国したイタリア人宣教師ジョセッペ・キアラを江戸の小石川に匿った。そこで西洋数学(天文学)を同じ駿河出身の関孝和に学ばせた。

本書とはちょっとずれるが、井上政重の系統に江戸後期の数学者で高橋至時(たかはしよしとき 1764-1804)という人物がいる。
弟子が日本地図を作り上げた伊能忠敬(1745-1818)である。

高橋至時は見廻り組の小役人が表向きの身分で、井上家に所属している。忍者の家系は江戸城の警備を担当だ。
この人物が江戸幕府の頭脳集団となり、浅草天文台(幕府の数学研究所1782年)を設立した。やがて蕃書調所(ばんしょしらべしょ:幕府の海外研究機関)となった。

世界に対峙できる頭脳がなぜ禁教下の江戸時代に集められたのか不思議に思わないだろうか。
黒船来航(1853)の百年前にはすでに海外情勢と西洋科学(Science)をキリシタン大名が密かに研究していたのだ。
代表例として挙げると岡山の津山藩だ。天才・秀才の家系として知られる箕作(みつくり)家だろう。(維新後は華族となった)

だからこそキリシタン大名ネットワークで速やかに人材を一箇所に集めることが可能だった。

■海外情勢はそのまま国内勢力に大きく影響した

日本の戦国時代と同時期のヨーロッパでは凄惨なカトリックと新興のプロテスタントの勢力抗争が行われていた。
イギリスにおけるスペイン勢力(カトリック)とオランダ勢力(プロテスタント)イギリスを経てアメリカ建国(独立)へとつながっていく過程は、副島隆彦先生の「本当は恐ろしいアメリカの思想と歴史」(2020 秀和システム)に詳しくわかりやすく書かれている。

本当は恐ろしいアメリカの思想と歴史

さて、その影響(イエズス会の勢力低下)は日本にもどのように影響したのか、が本書の後半の主題である。

イエズス会配下の大名たちをアメとムチでなんとか懐柔してきた秀吉政権も、身内までもがキリシタンに侵蝕されて瓦解していったことがつぶさにわかるだろう。

秀吉恩顧のキリシタン大名たちを関ヶ原で家康側に寝返らせたのは、反イエズスであった権力者石田三成への憎悪である。
本能寺の変から続く反勢力・イエズス会ネットワークは関ヶ原の戦いで決定的に豊臣家を孤立させ家康有利に働いた。

大阪夏の陣(1614)、大阪冬の陣(1614~15)で豊臣家滅亡させた家康の原動力は、プロテスタント国家のオランダとイギリスの支援によるものだった。

家康がイエズス会からプロテスタント勢力に鞍替えした理由、それはヨーロッパでも明白な差となっていたプロテスタント側の科学であり、兵器や築城や治水(開拓)といった先進の工学であった。

覇権国がスペインからイギリスへ動くという海外情勢の大きな変動がそのまますぐに日本にも波及していた。

キリシタン大名たちを操ったイエズス会(=スペイン)とオランダのプロテスタント(=ユダヤ人勢力)の暗闘が日本中世史の真の姿であったことが、本書によってはっきりと解るのである。

古村治彦(副島隆彦の学問道場) 投稿日:2020/09/25 18:02

【2245】[2638]年会費のお振込みなどに関しての学問道場からのお知らせ(学問道場・古村)

SNSI・副島隆彦の学問道場研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)です。
今日は2020年9月25日です。

本日はいくつかお知らせをいたします。

(1)会員の方には2021年度会員継続のお願いのお手紙をお送りいたしました。受け取っていない、届いていないという方は下記連絡先までお問い合わせください。

(2)2021年度の会員有効期間は、「2021年2月1日から2022年1月31日」までとなります。2020年度の会員期限は2021年1月31日までとなります。

(3)領収証をご希望の方は下記連絡先までお知らせください。

(4)代表交代に伴う、振込先口座番号変更に関するお問い合わせも下記連絡先までお願いいたします。

(5)田中進二郎(たなかしんじろう)研究員の単著デビュー作『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』(電波社)が2020年9月28日に発売となります。田中研究員の本掲示板への投稿[2635]加賀前田藩は隠れキリシタン王国だった①」(少し下にあります)を是非お読みください。

【連絡先】

副島隆彦の学問道場

Eメールアドレス:snsi@mwb.biglobe.ne.jp

330-0855 埼玉県さいたま市大宮区上小町591-5
     シウコウビル3A
電話:048-788-1837
ファックス:048-788-1854

以上、よろしくお願いいたします。

副島隆彦の学問道場
古村治彦拝

片岡裕晴(かたおか のぶはる) 投稿日:2020/09/22 06:51

【2244】[2637]『マリス博士の奇想天外な人生』とコロナ騒動

『マリス博士の奇想天外な人生』(早川書房)という興味深い本を読み次々と想像(妄想)を膨らませてみました。

マリス博士はPCR検査(Polymerase Chain Reaction)の発明者でその功績により1993年のノーベル化学賞を獲得した人です。

恐らく多くの人にとっては「PCR検査」という言葉は今年の2月に横浜港に戻ってきたクルーズ船の乗客がコロナウイルスによって感染し発病したというニュースがテレビで報道されるようになったころ初めて聞いた言葉ではないかと思います。

今では毎日のように耳にし、小学生でも知っている「PCR検査」、どのような検査なのか具体的には、つい最近まで私は全く知りませんでした。(その後、以下に紹介する大橋眞先生のYouTube動画を何十本も観ることによって、おぼろげながらではありますがイメージを掴むことが出来ました)

この『マリス博士の奇想天外な人生』はマリス博士の自著で1998年に出版されました。日本語訳は2000年に単行本として早川書房から出版されました。

そして現在、この本の題名にあるごとく「奇想天外」な展開が世界中で繰り広げられていると私は思っています。

昨年(2019年)8月マリス博士は突然亡くなりました。(殺害されたともいわれています)

生前、博士はPCR検査を感染症の診断に使ってはならないと警告していました。

そして2019年の秋から冬にかけて、中国の武漢で謎の感染症が流行しました。その感染症の陽性判定にPCR検査が使われています。

この本の中に「エイズの真相」という一章があって、40年前突然流行したエイズと今回の新型コロナウイルス騒動の展開の構図が余りにも類似しているので私は驚いています。

博士の突然の死と感染症の流行、エイズとワクチンをめぐる疑惑・・・・・コロナウイルスとワクチンの開発競争。

まるで推理小説の謎を解くような奇想天外な結末が待っているような予感がします。 (笑)

意図的に編集されたテレビの映像によってパニックが引き起こされ、たった半年の間に人々の生活はすっかり変わってしまったことに、あらためて驚きを感じます。今では電車に乗るときも、スーパーマーケットに買い物をするときもマスクなしでは白い目で見られるようになりました。

先日、あるコンサートに行った人によると、スマホにCOCOA(新型コロナウイルス接触感染アプリ)が入っているかのチェックを受け、入っていない人はその場でインストールを要請(命令?)されたということです。(エッ!ということは、そもそもスマホを持っていないとコンサートホールに入れないの?)

このコロナ騒動がどのように落し前を付けて世界中が納得出来る状況を作れるのか、それとも描かれた(誰によって?)デザインの中に押し込められて納得させられてしまうのか、実に興味深い展開が今後も続いて行くのです。

次に紹介する講演会は「納得出来る状況を我々が作るのか、それとも納得させられてしまうのか」の瀬戸際で闘っている人々の数ある運動の一つであると私は思っています。

8月24日、永田町の参議院議員会館の小ホールで行われた大橋眞先生(おおはし まこと 徳島大学名誉教授)の講演会に参加しました。

免疫学者大橋教授は新型コロナウイルス(新コロ)の恐怖をあおるマスコミを批判し、PCR検査の問題点を指摘する立場から論陣を張っておられる方です。

この講演会では非常に驚いたことが、二つありました。

驚いたことの一つ目は、開演間際に私は会場に着きましたが、中に入って既に300人以上集まった聴衆を見るとマスクを着けている人が誰も居なかったのです。(後で目視で確認したところでは僅か3名がつけていました)

会場に来るまでの地下鉄でも暑い歩道を歩いて来る時も、ほぼ全ての人がマスク姿であったのに、この会場はまるで別世界と思うような光景でした。

しかし考えてみれば、これが当たり前のことで真夏にマスクなど着けている方が可笑しいのに、いつの間にか常識が逆転していたようです。

ところが、この会場に限って、マスクをつけることを拒否する人が300人もいたことに、私は何となくほっとし安心しました。

驚いたことの2つ目は、この講演会は3部で構成されていて、第3部は質問コーナとなっていましたが、司会者が質問者を指名しようとした途端、会場から勢いよく発声を伴い一斉に挙手する人々(中には立ち上がって指名を求める人も何人かいて)が30人以上いたのです。とても活発なそして熱気にあふれた会場であったということです。

それにしても、このように熱気あふれる集会は、いつか見たことがあるなぁー と思い巡らせていたら・・・思い出した!

それは50年も昔の大学闘争が始まったばかりのごく初期の学生集会。そこには学生自治会の議長がいて、一定の秩序があり、活発な意見交換がなされていた、非常に真面目な集会でした。(しかし、やがてはこれらの有意義な議論は暴力によってすべて消え去って行ったのですが・・・)

大橋先生の講演会「コロナウイルスの真相」の質問コーナーも非常に活発で熱心な質問が飛び交い、予定時間を一時間以上超過したように思いました。

質問者の意見は私の見たところ、①純粋にコロナウイルスやこの騒動について詳しく知りたいという人達(8割近く)、②行政が行うコロナ危機対策に不満がありそれに対抗する政治活動を目指している人達、③一般からはかなり浮いた極端で過激な陰謀論を展開し自説を述べ警告したい人達の3つのグループに分けることが出来ました。

しかし、どの人たちも大橋先生の静かに語る言葉に科学者らしい説得力を感じて、満足して聞いていたように思いました。

大橋眞先生のYouTube動画サイト「学びラウンジ」 (マリス博士の遺言について語った動画も数本あります)
    ↓     ↓     ↓

 https://www.youtube.com/user/ias1ohashi/videos

現在(9月22日)120本以上の「新コロ」関係の動画がありますが、YouTube側の判断(どのような基準?)により既に何本かの動画が削除されています。

上にも書きましたが、コンサートホールに入るのにスマホに「新コロ」接触感染アプリが入っていないと入場できないという事態にまで状況が出来上がりつつあります。

この先「新コロ」ワクチンが完成すると、ワクチンの接種が薦められ、接種した人には「証明書」が発行され、「証明書」がないと買い物もできず、電車にも乗れないという様な状況が作られないとも限りません。

今後どのような状況が出現して行くのか、じっくりと観察したいと思います。

 2020年9月22日投稿

副島隆彦副島隆彦 投稿日:2020/09/21 05:48

【2243】[2636]日本でも、これをすぐにやらないとダメだ。何が、マスク着用にご協力を、だ。強制じゃないか!

「 マスク着用に抗議する人々 」  これが正しい。
副島隆彦です。 私は、これまでに、病院や、デパートの入り口で、マスクをしないで
突破しようとして、何度か羽交い締めにされた。不愉快だ。法律でも義務でもないのに。

どいつもこいつも、みんな、ヘラヘラとまわりの言うことを聞く、
根性無しの、奴隷人間 ばっかりじゃないか。馬鹿野郎ども。お前らなんか、
大嫌いだ。まわりを見て、物わかり がいいことが、そんなに大事なことか。
ちょっとは、今の事態は、おかしい、と思わないのか。脳タリンども。

あのピーチ航空内で、マスクを拒否して、北海道から乗って、途中の新潟空港に 
緊急着陸させられて外に連れ出された人の、記事を載せてください。

(転載貼り付けはじめ)

●「ピーチ機で乗客がマスク拒否、騒いで飛行機降ろされる」

朝日新聞 川田惇史 2020年9月8日 20時50分
https://www.asahi.com/articles/ASN986THPN98PPTB00B.html

 北海道の釧路空港発関西空港行きのピーチ・アビエーション機で7日、乗客の男性がマスクを拒否し、大声で騒ぐなどしたため、同機が新潟空港に臨時着陸した。8日、同社への取材で分かった。

 同社によると、客室乗務員が離陸前からマスクの着用を求めていたが、男性が拒否を続けたという。そのため、男性周辺の席の乗客を移動させた上で、約45分遅れの午後1時15分に出発。その後も男性は機内で大声を出したり、他の乗客と言い争ったりして、客室乗務員の注意も聞かず威圧的な態度をとったという。

 機長は航空法の安全阻害行為にあたると判断。新潟空港に臨時着陸し、男性を降ろした上で出発した。

 関空には約2時間15分遅れで到着。同機には乗客約120人が乗っていた。

 同社の広報担当者は「マスクの着用は義務ではなくお願いベースなので着用しないからといって搭乗拒否できない。今回は大声を出すなど、機内の秩序を乱す行為があったので男性に降りてもらった」と話した。(川田惇史)

(転載貼り付け終わり)

(転載貼り付け始め)

マスク着用に抗議する人々(Twitter/@Rexchapman)アメリカ合衆国

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f630445c5b618455866bef6?utm_hp_ref=yahoo

マスク反対派が小売店で抗議デモ。店内を練り歩き「マスクを外せ!」と叫ぶ

(転載貼り付け終わり)
副島隆彦記

田中進二郎 投稿日:2020/09/20 20:46

【2242】[2635]加賀前田藩は隠れキリシタン王国だった①

加賀前田藩は隠れキリシタン王国だった ① 田中進二郎

 このたび、副島隆彦先生の監修と推薦文を頂き、電波社より『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』が出版されることになりました。↓著者の田中進二郎です。


秀吉はキリシタン大名に毒殺された

 1冊の本を書くというのが、とても大変であるということを、身をもって学ぶ貴重な経験になりました。9/28に発売開始予定、ということで、この場をお借りして、宣伝させて頂きます。(少し製本作業が遅れて、9/24の発売予定日に間に合わないのではないか、と思われます。)

 『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』のタイトルは、副島先生の『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』(2016年 PHP刊)の間を埋める内容である、ということです。『信長はイエズス会に爆殺され、・・・』以外の副島先生の著作からも、理論や知識を借用させて頂きました。

 大小含めて、全部で30箇所ぐらいあります。ですから、副島先生の本の読者にとっては、『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』は、馴染みやすいのではないか、と思います。ただ、全て著者の理解した範囲での、副島理論の引用、活用であることはお断りしておかなくてはなりません。

 副島先生から頂いた推薦文の冒頭で、「本書ー『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』ーの圧巻は、加賀(石川県)金沢の大名、前田利家のもとに落ち延びた、キリシタン大名の筆頭、高山右近が、そのあと25年にもわたり、加賀でイエズス会宣教師たちとともに密かに布教活動を続けていた事実を明らかにしたことである。秀吉のキリシタン禁教令(バテレン追放令)天正15(1587)年6月のすぐあとからだ。金沢は今やキリシタン文化都市として知られる。」
と紹介して頂いています。

 本書の後半の主人公は、秀吉、家康ら天下人と、キリシタン大名・高山右近、前田利家、蒲生氏郷、宣教師ヴァリリャーニです。

 利家の正室・まつや、利家の四女で宇喜多秀家の正室だった、豪姫も重要です。豪姫は、関ヶ原の戦いで西軍についた夫・宇喜多秀家が八丈島に流されたあと、1608年に備前岡山から生まれ故郷の金沢に帰還しました。この年に、高山右近は金沢教会(現在の金沢城と兼六園の入り口辺りに存在した)に、豪姫を招待して日本最初のクリスマス・パーティーを開いた、ということです。

 右近の金沢での布教活動について、実際に現地調査を行ったところ、新たに興味深い事実が分かってきました。本書で書き切れなかった部分を中心に、以下補足として書きたいと思います。
(写真貼り付けに失敗しているだろうな、、、。空白は写真を入れてるつもりなんですが)

●キリシタン大名・高山右近が加賀に落ち延びるまで

 高山右近(1552-1615)は1564年に、父・飛騨守(友照)とともに、イエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラから洗礼を受けて、入信する。ヴィレラは、ザビエルの来日布教(1549年)後の、第2陣の宣教師である。

 1568年高山父子は、足利義昭を擁立して、入京した織田信長に下り、武将・荒木村重の配下に入る。73年に家督を父・飛騨守から譲られ、高槻城主(大阪府)となっている。
1576年には、京都(四条蛸薬師通り)に南蛮寺を建立し、父子が揃(そろ)って、落成式に参加している。


京都・南蛮寺跡(三階建てで、本能寺から150mほど離れたところにあった)

 高槻領内では、家臣や領民をキリスト教に改宗させている。強制的な改宗も行われ、高槻の仏教寺院は破壊された。イエズス会の『1579年日本年報』(ローマに送る年次報告書)には、高槻の領内に八千人のキリシタン信者がいた、と記されている。が、さらにその2年後の、81年には、高槻の二万五千人の人口のうち、一万八千人が信者だった、ともいわれている。

 1579年の荒木村重の謀反では、荒木と連携して、信長に抗した。だが、信長が宣教師オルガンチーノを高槻城に送り、右近が恭順しなければ、京都の宣教師は皆殺しにされる、と説得させた。右近は、高槻城を開城し、信長に下った。その後、再び高槻領の城主になる。
 
 一方、父・高山飛騨守は荒木の本城・伊丹城(摂津国 兵庫県)に逃げた。伊丹城が信長の大軍に攻め落とされた後、飛騨守は信長の重臣・柴田勝家を頼って、北の庄(越前国 福井市)に逃れている。そして、越前国で布教を続けた。一向宗の拠点でもある越前国に、キリスト教が入っている。柴田勝家と妻・お市の方(信長の妹)、それから、お市の方の前の夫・浅井長政の娘の三姉妹・茶々(のちの淀君)、お初、お江(のちの徳川秀忠の正室)の一家が、飛騨守の影響でキリシタンになっていた可能性もある。

 1583年に、秀吉に北の庄城を攻められた、柴田勝家、お市の方は自害するが、そのあとも越前国にも、隠れキリシタンは少なからずいたようである。


金沢カトリック教会前に立つ高山右近像(1588年秋から、26年以上、能登と加賀で布教活動を行った)

 高山右近は、1582(天正10)年6月2日の本能寺の変後の、山崎の戦い(京都府 6月13日)で、秀吉に味方して、決定的な役割を果たした。これは本書で詳しく論じましたが、ルイス・フロイスが、「右近はわずか一千の兵で、明智光秀の軍一万を破った」と記している。(1583年イエズス会総長宛書翰『信長の死について』より)

 山崎の戦いで勝利を収めた秀吉が、柴田勝家ら信長の重臣たちを圧倒して、次の天下人になっていきますが、秀吉は右近を用いつつも、警戒するという姿勢でした。1614年に右近を国外追放した徳川家康は、右近を徹底的に嫌いました。
 
 家康は常々、「右近麾下(きか)千人は他の何人(なんびと)の部下の一万人にも優る」と言っていた。これは、山崎の戦いでの右近の働きを指している、と考えれば納得がいく。
秀吉本隊が、「中国大返し」で20km余りを走ってきて、疲労困ぱいで戦場にたどり着いたときには、光秀軍は敗北寸前だった。先鋒隊の右近隊一千が、光秀本隊に勝利を収めつつあった。秀吉本隊は、総崩れとなり、逃げる光秀軍を追撃して、光秀軍の首を取るだけでよかっただろう。
 山崎の北にある勝竜寺城を包囲すると、光秀はさらに逃げようとして、京都の小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りにあって死んだことになっている。が、本当は、光秀は家康の忍者部隊・水野忠重に保護された(副島先生の『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』)。
 そして、天海となった光秀は、家康に、イエズス会が背後にいる高山右近の恐ろしさを教えたのだろう。
 
 秀吉は、右近の山崎の戦いの功績に報いて、高槻領に隣接する能勢郡(大阪府北部)を与えた。ここは一帯が、多田銀山と総称される銀の産出地だった。大阪夏の陣のときに、豊臣方の真田幸村が、ここに大阪城の埋蔵金を隠した、という伝説がある。
 ところがその三年後(1585年)には、明石に改易(国替え)になっている。秀吉は京都、大阪の真ん中にキリシタンがぞろぞろいることを望まなかった。領民と領主がキリスト教で一丸となることを、秀吉は恐れていた。また、この年、右近は、黒田官兵衛(如水、孝高)ら秀吉配下の武将に、洗礼を与えた。蒲生氏郷(がもう・うじさと)もこの時受洗した、とされている。
が、彼らはその前から、ずっとキリシタンだっただろう、というのが、筆者・田中の考えだ。この頃に秀吉の家来たちが、公然と、キリシタンとして動き出した、ということだろう。
  
 20年後のことですが、右近は、京都の伏見屋敷でも布教している(1604-1614)。「右近の屋敷は、そのまま教会であった」、と伏見屋敷跡の説明に書かれている。伏見の町の中心部です。現在、酒造会社の「月桂冠」がこの跡地を整備しています。


(筆者撮影)

 右近は、改易後、明石の城と港を整備して、ここにガスパル・コエリュ、ルイス・フロイスらが長崎から寄港すると、彼らと、総勢三十名で大阪城に向かい、秀吉と歴史的会見をする(1586年5月4日)。しかし、ここでのコエリュ(イエズス会日本準管区長)とフロイスの傲慢な発言が、秀吉に、イエズス会に対する警戒の念を抱かせることになった。加賀の前田利家も、この時秀吉と同席して、不快になった。右近もあわてて発言を制止しようとしたが、この時、イエズス会の日本侵略の謀略が、ばれてしまった。そして、翌年の87年(天正15)7月、青天の霹靂(へきれき)のように、バテレン追放令が出される。しかし、右近だけは、この日が来ることを予感していた、という(渡辺京二著『バテレンの世紀』より)。

 小西行長や黒田官兵衛が表向きの棄教をして、秀吉の勘気を和らげたが、右近は棄教を拒み、秀吉の家臣を追放される。そのあと、小西行長の領地の、瀬戸内海の小豆島(香川県)に潜伏していたが、それが秀吉にばれて、そこを離れ、長崎でコエリュに会っている。そして、前田利家が、秀吉の怒りが和らいだ頃合いを見計らって、とりなした。右近は、秀吉の許しを得て、加賀の前田利家のもとへ頼っていった(1588年9月)。千利休が蒲生氏郷に、手紙でそのように伝えている。「利休十字軍」の情報網だ。右近は、以後1614年まで、26年間も、加賀で布教活動をした。

●『右近が建てた金沢教会は日本で最も繁栄した貴族集団である』

 加賀の前田利家についてであるが、金沢を本拠地にするのは、賤ヶ岳の戦いの後である。それまでは、本能寺の変以後、利家は、能登国の七尾城に拠っていた。金沢は信長の家臣・佐久間盛政が入っていた。金沢の街割りも、佐久間盛政が最初に行っている。金沢城はもともと、浄土真宗の道場の金沢御坊があった。それが、叩き壊されて、城下町に変わった。大阪城が、石山本願寺の跡地に建てられたのと同じだ。佐久間時代の街割りを、ほぼ当時のまま残している、と言われるのが、金沢の香林坊(こうりんぼう)の近くの長町(ながまち)武家屋敷の辺りだ。佐久間盛政は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで、柴田勝家側について奮戦するも、捕らえられて処刑される。「死んでも、秀吉の配下になりたくない。」という猛将だった。以後、利家が金沢を拠点として、佐々成政(さっさなりまさ)を末森城に破って、加賀国を支配することになった。


前田利家像
   
 右近は、利家に匿われ、1万5千石の禄(ろく)をもらった。能登の七尾の本行寺にいて、ここで利家と正室・まつたちをキリシタンに変えていった。ここでイエズス会宣教師が、当時の西洋学問も教えた。ここで学んだ一人が辰巳用水を開いた、板屋兵四郎である。日蓮宗の本行寺の茶室で、ミサを行っていた。

 右近は、金沢城天主閣の修築も、手掛けたと言われている。この時天主閣は、京都に建てた南蛮寺を模して作られた。

金沢城 菱櫓と京都南蛮寺が酷似していることについての記事↓
https://go-centraljapan.jp/route/samurai/spots/detail.html?id=140


金沢城 菱櫓の木組み 実物の10分の1の模型と菱櫓((菱櫓内にて筆者撮影)

 金沢の年配の観光ボランティアから聞いた話であるけれども、京都の南蛮寺と、金沢城天主閣(1602年の火災で焼失)を再現したもの、といわれる菱櫓(ひしやぐら)には、大きな共通点がみられる。菱櫓の四隅が黒塗りだが、それは柱を入れた上から、黒漆塗りの鉄板で覆っている点である、とのことである。金沢城・天主閣で右近はミサなども行っていたはずだ。
どうも、高山右近が天才建築家であったことは疑い得ないようである。これは、イエズス会宣教師たちから、非常に高度な工学を教わっていたためであろう。

 七尾だけでなく、金沢城下にも、高山右近は屋敷を構えた、とされている(1599年以降とされている)。兼六園の入口の紺屋坂下に、金沢教会(南蛮寺)があった。
 
 右近の生存中に、加賀前田藩の有力藩士はみな、キリシタンになっていった。ミサを執り行うたびに百名の藩士たちを一晩で受洗させていた、という。しかし、領民たちはほとんど、右近のミサに参加しなかった。武士たちが密かにデウスを信仰した。

 また加賀藩は、真宗王国の加賀・能登の一向宗徒を弾圧した。キリシタンと一向宗信徒が階級で真っ二つに分かれていた。
 
 バテレン追放令を出した羽柴秀吉だが、「農民、町人など下々(しもじも)の者が、キリシタンを信じるのは、勝手にせよ。だが、大名、武士たちがキリシタンになることは、許さない。」と考えていた。しかし、徹底できなかった。秀吉の中途半端なキリスト教禁教政策の裏には、一向一揆に対する恐れがあった。それが仇となり、加賀前田藩は、秀吉が恐れていた通りの布教状況になっていった。

 右近国外追放の翌年の、1615年のイエズス会年報には、「金沢教会は日本で最も繁栄した貴族集団である」と記されている。金沢は、1587年のバテレン追放令以後、キリスト教布教の中心であった。
 
 イエズス会の指令を受けたキリシタン大名たちが、繰り返し秀吉暗殺計画を行っていたことは、本書『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』第二部で論じました。これまでの利家像は,秀吉政権を裏で支えるナンバー2、というのが、一般的でした。秀吉と利家の関係は、たとえるなら、中国共産党の毛沢東と彼に忠実な、周恩来の関係のように思われてきた。

 しかし、それはキリシタン大名という存在を全く捨象して、築かれてきた戦国日本史の中の利家像である。秀吉の身内や側近たちはキリシタンだらけだった。

 その中心人物が千利休、高山右近、小西行長、蒲生氏郷である。この4人はイエズス会から直接指令を受けていた。利家が右近を庇護したことにより、利家と秀吉は、「懐に刀を隠した友情」の関係になっていく。副島先生いわく、「秀吉が利家を殺そうとして、家康がかばったこともあった」そうである。

 利休は何度も秀吉暗殺を企てているが、その度に失敗して、最後は処刑された(1591年3月17日)。右近は、直後、再来日した宣教師ヴァリリャーニに会うために大坂に出向いた。
イエズス会の方針は、「秀吉を謀殺せよ、そして小西行長を日本国王にする。」というものだった。この指令は右近を通じて、加賀の前田利家にも伝えられた。

 その後は、骨肉相食む(こつにくあいはむ)の恐ろしい殺し合いでした。そして、秀吉はキリシタンの前に、敗北した、本書で筆者は結論づけました。

 利家もまつも、秀吉の正室・北の政所も、側室の淀君もみんなキリシタンでは、秀吉もお手上げです。

 秀吉の死(1598年9月18日)後、五大老・前田利家も、1599年4月27日に死ぬ。利家は、二代目藩主・利長に、右近の忠誠をたたえ、大事にするように、と遺訓を与えた。家臣の扱いについて、触れたくだりで、右近は二番目に名前が挙がっている。嫡子・利長は、利家に輪をかけて熱心な隠れキリシタン大名だった。だから、家康は利長を憎悪した。
藩主の名代(みょうだい)として、高山右近と横山長知(ながちか 加賀の有力藩士)が、大坂城の家康の元へ弁明に向かった。

 だが、家康はふたりに面会もしなかった。キリシタンを極度に警戒していたためである。
 家康はそれでも、キリシタンに寛容であるか、禁教の立場なのかあいまいにして、関ヶ原の戦いを迎える。前田家は徳川方につく。
 
 右近は加賀へ戻ると、すぐに加賀藩の防衛強化を急いでいる。わずか27日間で、金沢城の城下に内惣構、(および外惣構)(うちそうがまえ)をつくり、城下一帯が攻撃に耐えられるように工事した。関ヶ原の戦いの後の徳川との戦に備え動いていたのである。右近の凄まじい工事のスピードに驚かなかった者は、一人もいなかった、という。

イエズス会の日本のエージェント高山右近と、三人目の天下人・徳川家康の暗闘が、関ヶ原の裏で、始まっていたのであった。

(参考:『ユスト高山右近 光は今も 』木佐 邦子
    『福者ユスト高山右近ー金沢市内の足跡を訪ねて』 監修 木佐 邦子
カトリック金沢教会 発行より)

新刊 『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』のご支援をどうぞよろしく。

田中進二郎拝