重たい掲示板
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Loginはこちら【2557】[2984]大江千里
週刊CIAのはずのNewsweekでも、こういう記事を抑えきれないのが恐ろしいですね。。
NY在住の大江千里、ワクチン接種後に副反応? 体調が急変し失神した。
https://www.newsweekjapan.jp/amp/stories/world/2021/02/ny-59.php?page=1
【2556】[2983]PCR検査を金科玉条にする愚
松田政策研究チャンネルによると、1月22日に厚労省はPCR検査のCT値を35(~30)に下げるように、全国の医療検査機関に通達を出していたそうです(松田政策研究所チャンネル2/17-井上正康医師との対談で取りあげています)。
だから2月に入って東京都では1日の陽性確認2千人超えは無くなり、今や500人を下回る陽性確認になっているし、全国でも1月のピーク時7千人の陽性確認数から、現在は千人代に下がってますね。
以前からCT値をWHO基準の35に下げれば陽性数は半分以下になる。と言われていたが、まさにピッタンコ、いやそれ以上の効果。要するにこれまでは軽症や無症状者を、偽陽性でコロナに仕立てあげて、大騒ぎ。それで医療逼迫だとして自粛せよの根拠としていたわけです。まさにディープステイトの言いつけ通り政治的、意図的に作られていた訳ですね。
虚言小池都知事や医師会系のテレビに出てくる、嘘つきか、馬鹿の医師連中、政府の専門家、そしてメディアは感染数が減っているのは、緊急事態宣言の効果、自粛と飲食店の時短営業の成果だと言うでしょうが、学問道場はそんなことに騙されんぞ。でしょう。
ここからが反転攻勢ですね。PCR金科玉条を反省する事を各政党に求めて、怖くないコロナ騒ぎを収めて国民の暮らしを回復させることを、馬鹿政治家共に突きつけないと、民の暮らしは壊されます。
返す刀で危機をでっあげ、テレビに出たがって煽るばかりの医師連中らに鉄槌を食らわすことですかね。
【2555】[2982]PCRのカラクリを医者が理解してないのでは。
コロナ騒動について。
私は医学部受験に失敗した過去を持つただの還暦を過ぎたオッサンです。
いよいよついに日本国内でも、ワクチン接種が始まった。
この掲示板を見ている、自分では頭がいいと思っている医者の人に聞きたいことがある。
1)
【2554】[2981]日本の初代天皇は天智天皇
伊勢神宮に最初に参拝した天皇は、明治二年の明治天皇である。
それ以前に参拝した天皇は誰一人いなかったのである。
平安王朝は、皇族貴族の伊勢神宮参拝を禁じた。それが明治維新まで続いていたのであった。
伊勢神宮に天皇の皇祖神が祭られていると云うのは、明治政府の創り上げたフィクションである。
この問題は、天皇家の菩提寺泉湧寺に天武天皇はじめ天武系八代の天皇の御位牌の欠落と併せて考えなければならない。
天皇家は、天武八代の天皇を別家系と、明治維新まで認識していた。
奈良王朝と平安王朝は別王朝である。「壬申の乱」と天智天皇の血統の完全復活(光仁天皇の擁立)は、易姓革命であった。
【2553】[2980]西森マリーさんへ。
西森マリーさん。初めまして。会員の川本と申します。マリーさん、ユリが大親友って、「マ・ジ・で!?」ユリに伝えて欲しいことがあります。多分45年ぐらい前、多分日本テレビの番組で、ユリの特集があって、番組の最後に、ユリが「これから超能力パワーを送るので、なんでもいいから壊れたものを手に取って、直るように念じてみてください。」というコーナーがありました。家族でテレビをみていたのですが、死んだ祖父の形見の、壊れて動かなくなった腕時計を手渡されてやってみろと言われ、集中するために少し離れた場所でテレビに背中を向けて時計を両手に包んで念じた手を開いてみたら、本当に秒針が時間を刻んで動いていました。リュウズを巻いたわけでも何をしたわけでもなく、ただ手に包んで言われるままに「直れ、直れ」と念じただけです。家族もポカーンとして呆気に取られていました。超能力はちゃんと電波に乗るんですね。そして、信じる力はすごいですね。ぜひ、ユリにお礼を伝えて欲しいです。講演会のゲストに呼んでいただけたら最高です。よろしくお願いします。ありがとうございました。
【2552】[2979]習さんもトランプの味方だと嬉しいですよね
まず、主婦様、”ボヘミアン・ラプソディ”のコロナ・パロディ、すっごくおもしろかったです!どうもありがとうございました!
テキサスは大寒波に襲われて雪が降り、ダラス、ヒューストン、オースティンなどのグリーン化した民主党が市長を務める街で風力発電の風車が凍り付いて停電になり、数人が凍死しました。私は田舎に住んでいるので大丈夫です。
次に軽い話題を二つ。(この掲示板に来る多くのみなさんは既にご存じかも知れませんが、念のため)
私はレディ・ガガが嫌いなので就任式の彼女の服装が『ハンガー・ゲイム』の悪者にそっくり
https://www.youtube.com/watch?v=4WfmfnjUKdY
(30秒あたりから)
ということしか気づかなかったのですが、見直してみると、海兵隊員のエスコートの仕方がヘン、
https://www.yahoo.com/entertainment/marine-escorted-lady-gaga-inauguration-210506286.html
ということが分かります。海兵隊員がガガの腕を捕まえていますよね。
普通は、女性が海兵隊員の腕に捕まる、というか、海兵隊員の腕に手を添えます。下記のジェニファー・ロペスのように。
https://stylecaster.com/jennifer-lopez-inauguration-performance/
ガガの腕が捕まれているのは、ペドのガガが逮捕された、ということを伝えるための演出だったのでしょう。
きのう、2019年のインタビューで、バイデンを演じている人がマスクをかぶっていたことが分かりました。(後半の「記者会見室もキャッスル・ロック」という映像は、みなさんも既にご存じですよね。
https://rumble.com/vduhmv-what-fake-mr-b-wearing-a-maskdouble-fake-oval-office.html?mref=b0bw1&mc=c1c8v
バイデンを演じている人のオリジナルの映像は、ここでごらんになれます。
https://www.youtube.com/watch?v=BQHyqi0fARo
既に2019年からお芝居してたのに、気づかなかったとは!
未だにバイデン政権がお芝居だ、ってことに気づかない人達を”愚鈍な連中”と言う資格は、私にはもうない、っていう感じです。。。
次にトランプのカバール打倒計画に関して。
ゲイムストップの後、レディットのウォールストリートベッツの仲間たちが銀を買い、単なるネット上の取引だけではなく、実際に実物の銀を買い取り始め、銀不足を露呈させて、ネイキッド・ショート・セリングの証拠を掴もうとしたことから、「トランプはカバールの紙幣で成り立っている現存のアメリカの経済を破綻させて、責任をバイデンに押しつけようとしているのだ」ということに、トランプ支持者が気づきました。
イーロン・マスクがテスラをビットコインで買えるようにし、息子にドージコインを買い、カード会社や銀行も暗号通貨を受け容れるようになってきたので、トランプはカバールの紙幣への信頼度を下げ、暗号通貨へ移行させる、という形でカバールを潰そうとしているのでしょう。
ゲイムストップが最初に話題になったのは1月25日でしたが、その後、28日に「ウォールストリートベッツが次は銀を狙っている」ということがニュースになるまでは、トランプ以外は誰も「空売りを逆手にとって紙幣の価値を下げることによってカバールをつぶせる」、などとは考えてもいませんでした。
にも関わらず、1月20日の時点で副島先生はトランプの計略を見抜いていたとは!!!
私は大親友の1人がユリ・ゲラーなので、副島先生のような人物に対して免疫がありますが、証拠もないのに先が見えてしまう希有な人々のことは、常人には理解できないのでしょう。
最後に、中国に関して。
ロシア革命も中国共産党も世銀とIMFの奴隷にするためにカバールが仕組んだものです。
たぶん副島先生が既にお書きになっていることなので要点だけ書きますが、共産主義になった中国に最初に進出した外国の銀行はロスチャイルドの銀行でした。毛沢東はロスチャイルドとロックフェラーが資金提供をしたイェール・イン・チャイナ(中国人のリーダーを育てるための組織)で学生新聞の編集をしていました。
アメリカが中華民国を支持して米中関係が悪化した後、カバールの業務執行人のキッシンジャーが国交を正常化。この後ニクソンが中国に特別全権公使として派遣したのはイェールのスカル・アンド・ボーンズにどっぷり浸かった親ブッシュで、これ以降、中国共産党幹部も完全にカバールの手下になったのです。
しかし、2月3日にNATOの広報部、アトランティック・カウンシルが強気すぎる習近平を非難して政権交代を望むことを促す記事を掲載。”敵の敵は味方”なので、NATOの敵と見なされた習近平は、トランプの味方、と見ることができるでしょう。習はトランプ同様、カバールを中国から追放したいのではないでしょうか?
今年のダヴォスの会議で、習近平は「国際政府は、少数が下す命令に従って運営されるのではなく、皆が合意したルールに基づいて運営されるべき」と主張。国際政府という概念を受け容れている点は、トランプと異なりますが、カバールが牛耳るワン・ワールドに反対している、という点ではトランプと同じです。
同会議で、プーティンも、ワシントン・コンセンサス(IMFと世銀の借金漬けにして人々を奴隷化する)を批判し、人々を食い物にするグローバル・エリートを糾弾しました。
フリーダム・デイ、”自由の日”の2月1日には、ミヤンマーで、ソロスのスマートマティックを使った不正選挙で”勝った”とされるアウン・サン・スー・チーを軍隊が拘束。
スー・チーはオバマ、ヒラリー、ソロスと親しく、クリントン財団が莫大な資金をミヤンマーにつぎ込み、ミヤンマーは人身売買(特に子ども)と麻薬密売のアジアの拠点です。
スペインやイタリア、スコットランドでも奇妙な地震があり、それぞれの国の軍隊がDUMBを破壊して子どもたちを救出しているのでは?、と噂されています。
Qは、「中国、ロシア、その他の国々がニュー・ワールド・オーダーを廃絶するために大統領とコーディネートしているとしたら?」と、問いかけていますが、世界中の勇士たちがトランプと協力してカバールを潰しにかかっている、と信じたいですよね!
ちなみに、私の『ディープ・ステイトの真実』の後書きに、「そして、”民主主義を広めるため”とか、”ロシアの脅威”、”中国の脅威”という言葉を聞いたら、グラディオの偽旗工作が始まる!、と察する反射神経を養いましょう!」という文章が出てきます。実は、私のオリジナルの文章には、”中国の脅威”という一言は入っていませんでした。これを付け加えたのは監修をしてくださった副島先生です。この本を書いた時点(2020年の春)では、バイデンの飼い主である中国を大手メディアが批判することは有り得なかったので、”中国の脅威”がアメリカで問題視されるとは私は全く考えてもいませんでした。
ダヴォスの習近平の演説とアトランティック・カウンシルの記事を読んで、現政権の中国がカバールの敵になった、あるいはカバールが戦争を起こすために中国を敵扱いし始めたことが分かった次第です。
2020年の春、大手メディアもCIAも民主党政治家も左派市民もハリウッドもNBAもナイキも中国に媚びまくり、中国の脅威がグラディオに使われるかもしれない、という証拠など一つもなかった時点で、中国の脅威を予言した副島先生の予知能力にあらためて敬服しております!
【2551】[2978]私たちは、日本の思想(史)の研究も続けます。もっと大きな、大きな構図で見なければいけない。
副島隆彦です。今日は、2021年2月15日(月)です。
私は、トランプ革命 の 今後の進展を横目で睨みながら、自分のトランプ革命の、勃発(トランプ政権転覆クーデター、昨11月4日)からの3カ月間 の ことを、出来れば、編年体(へんねんたい。クロノロジー)で書いてゆくことで、苦心していて、なかなか上手く行かないで、苦しんでいる。
私、副島隆彦が、アメリカ帝国の動乱の歴史的始まりである、トランプ革命を、描いて、のちのちの歴史資料として残るように、一冊の本に書かなければ、他に、誰が、この重大問題を書いて残すだろうか。と、自分で勝手に気負って、それで、大変、精神的にキツい。
それなのに、粗製濫造の、緊急出版の本のようにして出さないと済まない。困った。それが、時代の要請だからだ。
ユーチューブとSNS で、激しく、華々しく、トランプ革命を、日本国内に、情報、知識として、導入して、私たち日本人に伝えてくれる、勇敢で、気骨のある、言論戦闘集団のユーチューバーたち(中心は、大紀元、エポックタイムズと、果敢なネット若者たち)の努力を、私が、なんとか、後方(こうほう)から支援して、出版物の形で、はっきりと書いて残さないわけには行かない。
そして、日本で500万人の、SNSで、エンターテインメント系の、実生活重視の人たちが、
アメリカの ディープ・ステイト(裏に隠れた政府)の、支配者たちが、やっている、凶悪犯罪である、ペドフィリア(幼児性愛犯罪)と 大量の幼児殺害(インファンティサイド infanticide )と生贄の儀式の ことを、書いて、騒いでいる。この人たちは激しく怒っている。このことのスゴさを、私たちの大後方(だいこうほう)の支援勢力、「人民の海」として、私たちは、もっともっと前に進む。
私たち日本国民の中の、生来、感覚が鋭くて、頭のいい、覚醒(かくせい。アウェイクニング awakening )して、立派である50万人の、アメリカのトランプ勢力1億人への、え熱狂的日本人を、私が、代表して歴史資料となるべく、書いている。画像(写真)も、ふんだんに入れます。
私、副島隆彦にとっては、カール・マルクスが、ロンドンから、1871年の、パリで起きた、労働者階級の反乱で、たった4カ月で鎮圧された(6百人の指導者たちは銃殺刑 )形だけは、史上初の労働者政府を作った、「パリ・コミューン」を描いた、「フランスの内乱」(第1インターナショナル=国際労働者協会=への報告書だった)を書く、ぐらいの気負いがある。
フランス軍がプロイセン軍に壊滅させられていたので、パリ市内で、労働者たちが一斉蜂起して、一瞬の政治権力を握った。 この時、普仏戦争(プロシア・フランス戦争)の勝者である、プロイセン軍(ドイツ帝国軍)が、パリの周囲に築かれていたバリケードを破壊、突入し、進撃して、パリ・コミューンの反乱者たちを殺戮した。
このあと、ウイルヘルム1世と、ビスマルクは、パリの郊外のベルサイユ宮殿に行って、何と、そこで、第2ドイツ帝国の戴冠式(たいかんしき)を行った。ドイツが、ヨーロッパ帝国になった、と世界に示したかったのだ。
ここに、日本から、伊藤博文を殺す前の、山縣有朋(やまがたありとも)が、日本からの属国首領として、急いで呼ばれて来た(1871年)。まだ西郷隆盛も死んでいない。・・・・こういうことを書いていると、却(かえ)ってきつい。もうどうにもならないぐらいキツいです。
あるいは。ヨーロッパで1436年からの「ルネサンス」の巨大な火柱を挙げた、大都市フィレンツエの共和政(リパブリーク republic レスプブリカ。res publica 。王様と貴族がいない政治体制)が、一度、壊された(1512年)とき、マキアベッリは、失職して、そのあとの政府から貰った仕事をして、「フィレンツエ史」(何が起きていたかを、記憶を頼りに、ずば抜けた頭脳が書いて後世に残す)を書いた。このときのマキアベッリのような気持ちになっている。私は、こういう大きな想念、妄想 を起こす人間だ。
それでも、今、弟子たちの中の、頭のいい者たち(もの書き、言論人になれる資質のある者たち)に、向かって、これだけは書いておかねば、と言うことがある。それを書きます。
それは、下 ↓ の 「2974番」で、田中進二郎君が、自分の続編の本のための、草稿(マニュスクリプト)でもあるのだろうが、中国からの、明帝国の官僚文人で遺臣で、1659年に、日本への亡命を決心して、その6年後の1665年には、水戸に、水戸光圀(みとみつくに、黄門様 )に招かれて、やってきた、朱舜水(しゅしゅんすい)のことを、唐突に載せたからです。
水戸学(みとがく)の、「大日本史」編纂の240年の事業が始まった。水戸学は、山崎闇斎(やまざきあんさい)「崎門の学」の創始者、の亜流のような学問だが、この水戸学が、幕末に、大変な、苦しみを、水戸藩に与えた。
水戸の苦しみ(武士階級の女、子供まで、惨殺、6千人)のことを、今の日本で、書いて復活させること出来る人は、田中進二郎しかいない。会津戦争で、凄惨な死に方をした会津藩士たち(白虎隊を含む)は、2400人ぐらいだ。
私は、田中君と、それから、あとに載せる 杉山雅一(すぎやままさかず)君、それから、この学問道場に集まっている、壮年の、真に頭のいい人たち(世界と日本の歴史を自分の頭で考えられる人たち数百人います。私、副島隆彦本の読み手でもある)向けに、どうしてても、書いておかなければいけないことがあります。
それは、小室直樹先生の、学問研究の同志で盟友だった、山本七平(やまもとしちへい)氏が書いた、大著『現人神(あらひとがみ)の創作者たち』(1983年刊、文藝春秋 )という本の重要性についてです。
(ここに、この本の表紙をあとで、貼る)
小室直樹と山本七平は、『日本教の社会学』という対談本がある。これが、上記の本を論じている。 私、副島隆彦が、大きく、大きく、一番大きく、ここで教えておきます。この方向への、大きな世界思想への日本からの橋渡しを忘れないでください、ということです。
まず、第一点。林羅山(はやしらざん。徳川家の思想顧問として京都から招かれた。昌平坂学問上の創始者。徳川幕府体制の理論の中心)が、熊沢蕃山(くまざわばんざん)の、「水土(すいど)論」を、耶蘇(やそ)=ヨーロッパのキリスト教だ、と、見抜いて、激しく論難、糾弾 したこと。
徳川幕府は、耶蘇(ヤソ)教、イエズス会、 (キリスト教は、正しくは、天主教と言う)が、死ぬほど怖かったのだ。日本にとっての、最大の敵は、西洋のキリスト教だった。中国に対しては、大きな劣等感を持って、日本は、中国文明の一部として、中国文化圏(中国の華夷=かい=秩序)に入っていた。誰も、この大(だい)事実を否定できない。
私、副島隆彦は、グリグリと、今の、日本の反共右翼の人々を、柔らかくしかし、強烈に、説得している最中(さいちゅう)だ。私に、勝てる、と思う人は、誰でもいいから、出てきなさい。お相手します。
羅山の林家(りんけ)は、儒学の中の正統とされる朱子学(しゅしがく)を、日本でも学問の中心とした。朱子学は、「易姓革命(えきせいかくめい)」と、「湯武放伐(とうぶほうばつ)」である。体制変革、政治動乱、王朝交替、政権交替、を認める立場である。
日本の体制派の中心の思想は、中国が、東アジアの覇権国(はけんこく)である。日本は、それに、「外にバレないように、服属している」とするものである。それなりに正直である。中国の儒教思想の大きさに、当時の日本の知識階級は、全面敵に、どっぷりと浸かっていた。それ以外の思考は有り得なかった。
ところが、弾圧して、禁圧して消滅したはずの、西洋のキリスト教が、じわり、じわりと、日本の民衆思想家(仕官したがらない浪人たち。大秀才たち)の中に、ずーっと深く、深―く入っていた。
第2点。1687年、民衆の思想家の熊沢蕃山(くまざわばんざん)は、幕府の怒りを買って、古河(こが)に、幽閉、禁固になった。 蕃山は、上層のインテリ日本人と、大名たちからも、崇められ、尊敬された。裏に、“近江聖人”中江藤樹(なかえとうじゅ)(隠れキリシタン思想家。陽明学者)と伊藤仁斎、京都の古義堂 の学派 がいた。
第3点。 朱舜水が水戸に来た年の前年である、1665年に、山鹿素行(やまがそこう)は、播州(ばんしゅう)赤穂(あこう)に、幕府の命令で幽閉された。山鹿素行は、「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」を書いた。「中朝」とは、「日本こそが、世界の中心(センター)である」、「中国よりも、日本が、中国(世界のセンター)である」 、「日本が世界の中心である中国(ちゅうごく)だ論」を書いた。
この山鹿素行の「中朝事実」、「日本が世界の中心である。中国ではない」は、日本人の、中国人への劣等感の裏返しである。 この「日本が中国だ」論 の、スゴさと、腹を抱えて笑い転げ回りたくなるぐらいの、おかしさを、今の日本人である、私たちは、今の自分たちのこととして、本気で噛みしめないといけない。
日本は、中国の大きさを無視しては生きてゆけない。中国人は、自分たちが、常に世界の中心(センター)だと、ずっと信じ続けて生きてきた。中国が、列強(れっきょう。ヨーロピアン・パウアズ
European powers ) の 攻撃で、ボロボロに割譲(ケーキの切り分けのように)され収奪された時も、毛沢東時代に、1億人が餓死して、全国民が飢餓線上をさ迷ったときにも。それでも「中国が世界の中心国(チユンクオ)」だ、と中国人は信じ続けた。ただし、自分たちのあまりもの貧困、貧乏を覚醒した。
私、副島隆彦は、自分の「歴史に学ぶ知恵」(2009年刊。改題して、「日本の歴史を貫く柱」(PHP文庫、2014年)で、江戸時代の民衆の思想家たちのことを書いた。
山鹿素行も熱烈に、圧倒的に、当時の知識人階級に支持された。そして、その39年後に、赤穂浪士事件「忠臣蔵」の大事件が起きた。山鹿流(やまがりゅう)の陣太鼓を、大内良雄内蔵之助(おおうち・よしお・くらのすけ)は打ち鳴らしたという。本所松坂(今の墨田区)の吉良義央(きらよしなか)の屋敷を、真っ暗闇の、真夜中に襲撃したときに、その太鼓の音が、ずっと小さく、47士には聞こえたはずだ。
この山鹿流の軍学は、幕末に、長州の、吉田松陰(よしだしょういん)も、吉田家の伝来の家学(かがく)として承継した。日本国の危機を前に、ヒステリックになった人々が、上層の町人たちまで巻き込んで、軍学(ぐんがく)と激剣(げきけん。真剣での剣道)が復活していた。
三多摩壮士、本当は、惣村の惣士(そうし)という、百姓の出である新撰組たちが、武士になりたくて、剣での殺し合いを覚悟する、反革命突撃隊になった。日本の尊王攘夷と、四民平等の思想は、ずっと、長く、深ーく、民衆の中に培われた。
尊王攘夷(そんのうじょうい)とは、毛唐(けとう)=白人を見たら、その場でただちに斬り殺せ。神州不滅の日本国の土を、あいつらに踏ませるな、という思想だ。ただし、これを実際に実行した者たちは、必ず捕まって死刑にされた。
X「尊皇」という字はない。無いものは無い。無いのを作ったのが、バカ右翼たちだ。「尊王」が正しい。日本の天皇(てんこう。天の皇=かがや=き。北極星の意味)は、今も、昔もずっと王だ。ただの普通の 王様、国王(キング。モナーク monarch )だ。何か、文句が有るか。
第4点。山鹿素行の幽閉と同年、1665年に、保科正之(ほしなまさゆき。本当は、第3代徳川将軍になるべきだった人。”叔父”の家光ではなく。笑い。家光は、天海僧正とお福=春日局の子だ)が、自分の所領の会津に、思想家の山崎闇斎(やまざき あんさい)を招聘(しょうへい)、招いている。
山崎闇斎の「崎門(きもん)の学」については、もう書かない。浅見絅斎(あさみけいさい)の「靖献遺言(せいけんいげん)」と、栗山潜峰(くりやませんぽう)の「保建大記(ほけんたいき)」 のことも。
これらを、山本七平が、『現人神・・・』で、詳しく論じている。小室直樹先生も、それに触発されて、『天皇の原理』や『天皇畏(おそ)るべし』を書いた。
・・・・ああ、もう、書きだしたら切りがない。副島隆彦は、弟子たちに、大きな一点を、投げかけます。 冒頭に書いたとおり、林羅山(徳川氏の学問代表) は、耶蘇(ヤソ)を、死ぬほど恐れた。西洋のキリスト教を、最大の敵とした。これが、おそらく日本国の、今も最大の課題だ。
そして、林羅山は、中国の支配体制である、朱子学を正統、正当 (レジティマシー、 legitimacy )として、幕府(徳川氏の体制)も、それに従う、とした。 京都の御門(ミカド)の思想である、万世一系の 日嗣(ひつぎ)の思想を排除した。
「日嗣(ひつぎ、にっし)」とは、日本の天皇=天子は、太陽(ザ・サン the Sun )の直接の子供である。天皇は、太陽(お日様)の、嗣子(しし)、嫡男(ちゃくなん)、長男坊だ。そして、それが代々続いている、という思想である。 これが、天皇思想だ。 だから、日本には、政治体制の変更、変革はない。政権交替もない。自民党一党独裁政治が壊れることなく、ずっと続く、という思想である。
それに対して、徳川氏が肯定して抱え込んだ、林羅山の中国・朱子学は、体制変動、支配者の交替を認める。鮮卑(せんぴ)族の遊牧民=北魏、隋、唐、そしてモンゴル(大元国)、清朝=大清帝国=満州族 の王朝の支配も認める、という思想だ。本当に漢民族(Han race ハン・レイス)の王朝なのは、漢と、宋、と 明 の王朝(帝国)だけだ。
そして、副島隆彦が、1997年に、「属国 日本論」(決定版は、2019年、PHP研究所刊)を出した時に、「日本はアメリカの属国である」を打ち出して、日本国の、新しい真実の国体(こくたい)を、表に出した。
私の属国日本論が、この国の最新で、唯一の国体(こくたい)論なのだ。これ以外には、無い。
その前には、日本共産党系の、東大の政治学者と法学者たちが、打ち立てた、「あれ。日本国憲法が、日本国の最高法規だ、と言うけれど。この日本国憲法の上、に、日米安保条約が有るじゃなか」「すなわち、安保条約が憲法よりも上に有る。日本はそういう国家だ」という、日本国の国体(国家体制)論を出していた。
それに対して、日本の、体制派、保守派の一番、上の連中は、全く、対応出来ていなかった。
日本の国家体制について、曖昧(あいまい)に、誤魔化すしかなかった。日本は、「民主政(デモクラシー)国家で、自由主義の国で、欧米・西側諸国(ザ・ウエスト)の同盟国です」と言うだけだった。
そして、日本は、デモクラシーの国だ、と言いながら、天皇という国王を持つ、王国(キングダム)だ、という、奇妙な、2重構造の国なのだ、という、大きな問題を、絶対に、表明に出さなかった。
日本は、「外側は、天皇という国王を戴く、君主制国家(モナーキイ)だ。すなわち、立憲君主政国家(りっけん・くんしゅせい・こっか。コンスティチューショナル・モナーキイ)なのだが、内側が、民主政国家(デモクラシー)になっている」という、入れ子構造の、二重構造になっているのだ、という、正直な理論を提出した、学者は、日本には、ひとりもいない。私、副島隆彦だけだ。
私たちの日本国は、外側、すなわち世界、諸外国から見たら、どうしても王国(キングダム、モナーキイ)に見える。タイ国や、サウジアラビア国と同じだ。この、あからさまな真実を、日本人は、全員で、惚(とぼ)けて、知らん顔をして生きて来た。
それは、今の日本の体制保守の頂点の者たち(すなわち、現在の林羅山=はやしらざん=)が、頭が悪いので、正直にきちんと考える能力が無いのだ。アメリカの支配を受けているので、知能が低下した。日本は、世界基準でものごとを考えることの出来る、本物の知識人がいない国だ。
反共右翼たちに至っては、ただ、とにかく、「反(はん)共産主義の日本(アメリカよ、助けてくれ)論 」「日本は反共(はんきょう)国家だ」しか、提出しなかった。頭が元々、悪い人たちだから、これしか言えないし、考える知能がなかった。その代表が、まさしく、生まれながらに、学力が無かった安倍晋三だ。
そして、今、世界覇権国(ヘジェモニック・ステイト the hegemonic state)であるアメリカ帝国に 動乱が起った。それに連れて、中国への世界覇権の移動が起きつつあることが、どんな日本人にとっても、頭をかすめる時代に突入した。中国が、私たちの目の前で、今も、どんどん大きくなっている。さあ、反共右翼の皆さん、どうしますか。
草莽崛起(そうもうくっき)というコトバは、今の中国人たちが、平気でさらさらと書ける。
生きている中国語なのだ。日本のバカ右翼たちの専売特許ではない。何でもかんでも、古いコトバは、中国語なんだよ。君たち、いい加減、中国をバカにして腐(くさ)すは、やめなさいね。
私たち、学問道場に集まる、民間の知識人有志は、まさしく、草莽(そうもう)だ。雑民だ。
それでいい。私たち、民間の有志たちが、いつも世の中を変えてきた。
私、副島隆彦にとっては、今日の最重要の課題は、「林羅山(道春、どうしゅん)は、耶蘇(やそ)=キリスト教を、何よりも一番に、恐れた」である。そして、その次に、「中国を覇権国(はけんこく)として認めて、日本はその歴代中華帝国の支配に、直接の服属はしないが、その周辺に存在する、と認めた」ことである。
日本の体制派の学者の頂点であった 林羅山は、不干齊ハビアンという、重要な、しかし、今も詳細が分らない、日本人の耶蘇(ヤソ)教徒と、論争している。
不干齊(ふかんさい)ハビアン(1580-1640 ぐらいか?)は、日本耶蘇会の修道士(イルマン)である。日本人イルマンは、宣教師(バテレン)の横にいて、通訳のような仕事もした、頭のいい者たちで、バテレンたちが頼りにした日本人だ。林羅山は、不干齊ハビアンと、1606(慶長10)年に、地球説について、論争した。
地球説とは、読んで字のごとく、この地球、当時は、大地、地上 は、球体であるか、の巡る議論である。日本の最高の学者を自認した、林羅山は、大地が球体(the globe グロウブ )である、という事実を、おそらく理解できなかったと思う。それでも、西洋の文献は、たくさん入っていたし、日本の国家スパイ(インテリ情報部員)たちからも、いろいろと教えられていただろう。
林羅山は、日本の体制思想を、必死で防衛しただろう。だが論争に勝利したはずはない。 今、「地球」と書けば、「地は球だ」で、どんなバカでも、分る。しかし、ここで、分かる、とは、一体、どういうことなのか。の問題が起きる。
私たちが、当たり前の事実(ファクト)だと、信じ込んでいることを、改めて、「ちょっと、待てよ」と、考え直すと、大変な疑いが、どんどん起きてくる。「そんなの、当たり前じゃん」は、あまり頭のよくない、知恵の足りない人間たちがやることだ。「そんなの常識よ」は、簡単には言えない。このことを、私たちは、近年、イヤと言うほど、知っている。
不干齊ハビアンは、宗教思想研究の山折哲雄(やまおりてつお)氏が、よく調べて書いている。不干齊ハビアンは、若い頃は、その優れた頭脳で、西洋学問を知って、「妙貞(みょうてい)問答」(1605年刊)で、キリスト教というよりも、西洋の近代思想を使って、日本の、神、仏、儒(神道、仏教、儒教)の3つともを木っ端微塵に批判した。
しかし、それから、15年後の、1620年に、「破提宇子(は、デウス)」という本を書いた。この破(は)は、「破る」で、デウス(提宇子)は、キリスト教の、大神(たいしん)で、天(てん)のことだ。 「神(ゴッド、デユー)は、3つが合わさって1つとする」すなわち「三位一体(トリニティ)の、「父(天)と、子(イエス)と、精霊(せいれい)」の 、1番目の「父、天、パッパ」のことだ。
16世紀(1500年代)に、日本に来た、バテレン(宣教師)たちは、「天にまします、我らがデウスさま、デウスさま」と、このデウスを耶蘇(ヤソ)教の神として、日本人に教えた。最大時には、200万人の信者がいたようだ。
だから、不干齊ハビアンは、正直で衝撃的な、その著書「破・提宇子(デウス)」で、「自分は、もうイエズス会のキリスト教を信じない」と、棄教(ききょう)して、信仰を捨てた、と書いた。なぜなら、ハビアンは、イエズス会の悪辣で残酷な、日本支配計画、そして、ヴァチカンによる日本の完全な占領、日本人洗脳の企(たくら)みを、知った。 それで、のちに思想転向した。耶蘇教を捨てた。
若い人たちや、文科系でも他の分野のインテチたちは、不干齊ハビアンを知らない。
私、副島隆彦が、今では、日本の思想研究の、大(だい)先生であるから、エッヘン。こういうことを、みんなに、分かり易く、教える。 学問道場には、知ったかぶりは無しだ。どんな人も、ある知識を始めて知ったときは、赤ちゃんだ。「へー、知らなかった。勉強になるー」の、初めの驚きこそは、人間の成長にとって、大切だ。 そのために、私たちの学問道場が有るのである。
不干齊ハビアンは、このあと、転び(棄教)バテレンの、フェレイラたちと同じように、
幕府のキリシタン弾圧の側に回って、目明かし(幕府の最下級の情報部員、今の公安警察官)となって、働いたはずである。
”目明かしフェレイラ(日本名。沢野忠庵、さわのちゅうあん)”のことは、六城君の、本「江戸の数学者たち 」に詳しく書いている。 目明かしというのは、岡っ引きで、銭形平次のような、非人(ひにん)階級 (非人が、穢多=えた=と、どのように違うかは、私の別の歴史の本で、書いた)の、江戸、大坂でのキリシタン狩り、と取り締まりの探査、偵察をする尖兵のことだ。
旧、穢多=えた= 部落民の地域 の高卒の者たちを、今も、国税庁は、たくさん雇ってる。そして、資産家や、経営者たちの家まで行って、税務調査で、襲いかかって、脅して痛めつける。私、副島隆彦は、自分で、苛烈な国税裁判を闘ったから、自分の体で、このことを知った。証拠付きだ。
国税庁! お前たちとの、闘いを、私、副島隆彦がやめた、と思うな。きたならしい、おカネを巡る闘いこそは、人間が、血みどろでやるべき、真の闘いだ。
目明かし、とは、「無理やりでも、お前の、その耶蘇教で、曇って、濁って、ゆがんだ、狂った宗教の、目を、明かしてやる」という、拷問(トーチャー)を含む、恐ろしい脅しのコトバだ。
こういう日本史の真実を、私たちは、今から、たくさん知らなければいけない。そのために副島隆彦が、これまでに、200冊の本を書いてきた。
江戸時代の、民間の名高い思想家たちは、密かに、当時の世界思想である、耶蘇(ヤソ)=イエズス会の キスト教を、漠然と受け入れて、鮮烈な議論を、国内に巻き起こし、大名たちにまで、感激された。「にっくき、徳川氏めー」、「毎年、江戸城で、私たち大(だい)大名までも、大広間に、ぎっしり並べて、畳に頭を擦り付けさせ、土下座をさせやがって」と。 いつか必ず、徳川氏を打倒する、と息巻く思想が、幕末に繋がっていった。そして、大名たちの多くは、ずっと、隠れキリシタンの、キリシタン大名だった。
そこに、民間の浪人思想家たちの、山崎闇斎、山鹿素行、熊沢蕃山、平田篤胤(ひらたあつたね)らは、「中国、そして天皇 中心政治、反(はん)徳川」を深く培った。
幕末、明治の偉人、西郷隆盛は、陽明学(ようめいがく。民衆救済の思想)を、水戸にまで行って学んだ。 西郷の書いた扁額(へんがく)の「敬天愛人(けいてんあいじん)」は、「天(てん、デウス)を敬い、人を愛せよ」は、明らかにキリスト教である。
それを、何と、昌平坂の学問所(昌平黌=しょうへいこう=、今のお茶の水の医科歯科大学。その隣地が、孔子廟 聖橋の、聖人とは嚆矢のこと)の、教授たちが、昼間は、「徳川家のご恩顧で、泰平の、太平の世が続き、結構なことで御座る」と講義していたのに、夜になると、日本橋の私塾で、顔つきが変って、眉を吊り上げて、「打倒、徳川氏」、「回天(かいてん)=体制変更」の、討幕の思想を講義した。
これを、「日朱、夜王(にっしゅ、やおう)」(昼間は、朱子学を教え、夜になると、人が変ったようになって、王陽明の、王学=陽明学 を教えた)あるいは、陰陽(イン、ヤン)を使って、「陽朱、陰王(ようしゅ、いんおう)」という。 この講義、を優秀な、各藩から集まった、優秀な藩士や、壮士たちが、ぎっしり集まって熱心に聴いた。目を爛々と輝かして聴いた。これを思想闘争という。どんな時代にも、これがある。
林羅山のとって、死ぬほど怖くて、憎むべき大敵である、耶蘇(ヤソ)は、今の、反共右翼たちにとっての、「アカ」(赤。reds レッズ。共産主義者 )のようなものだ。
私たちの学問道場が、「陽明学は、キリスト教である」「中国で儒教の一種に、改変、偽装された、キリスト教である」を、大発見して、公然と暴き立てて、日本の思想研究に、大きな血路を切り開いた。
私たちは、今や、山本七平と小室直樹先生を、超えつつある。このことを、皆に、分って貰って、そして、もっと前に進みましょう。そのときは、大きな、大きな、構図を持たなければいけない。 これまでの、資本思想史の研究 のすべてを、大きく作り直す覚悟で、私たちは、研鑽(けんさん)を積まなければいけない。
私、副島隆彦の最新の研究成果は、「日本の明治体制で、天皇を 現人神(あらひとがみ。生き神さま)にしたのは、悪賢い、イギリス帝国である。イギリス国王と、同じように、
日本の国王である(皇帝、ファンデイエ。エンペラーではない)天皇に、「神格(しんかく。ペルソナ persona )」を与えて、生き神様に作ったのは、イギリスだ。そして、それを国家神道と呼んだ。 日本の古来の神道の伝統の復活などではない、のである。これじゃ、一神教じゃなか。このことを、皆さんも、よーく考えてください。
キリスト教の、正統派、体制派は三位一体(トリニティ)を、「天(父)と、子(イエス)と、精霊(ホウリースピリット)」とする。
だが、これを、ヘンリー8世の創立(1553年?)の時から、イギリス国教会(アングリカン・チャーチ。聖公会)は、今の今でも、「父(デウス)と、子(イエス)と、イギリス国王」とするのだ。 だから、今のエリザベス2世女王は、神(の一部)なのだ。イギリス国王は、今も現人神(あらひとがみ)で生き神さま、なのだ。
この一点の重要性を、私たち日本人は、今こそ、知らなければいけない。
そして、彼らヨーロッパの国王たちは、裏側で、世界の支配者としての、悪魔の儀式をする。
この世界は、元々、悪魔が支配している、という思想で、ヨーロッパの王族と、大貴族たちは、今も裏側で、信じている。だから悪魔崇拝の儀式をする。
これに対して、今、イギリスを含めて、ヨーロッパ全土で、「もう王制、国王 は要らない。廃止せよ」の、激しい民衆運動が湧き起こっている。
このことは、なかなか報道されない。現在の世界で、一番重要な 報道禁圧の事項だからだ。だから、それを目眩(めくら)ましするために、コロナ、コロナと、コロナ疫病の恐怖を煽る、コロナ洗脳を、ディープ・ステイトどもは、狂ったように世界中で実行している。
そうやって、世界民衆をイジメないと気が済まなくなっている。どうも、ディープ・ステイト側の方が、余裕がなくなったようで、あいつらが、狂っているのだ。
なぜなら、ローマ・カトリック教会(ヴァチカン)と、ヨーロッパの見苦しい、各王家(王室)どもが、まさしく、ディープ・ステイト the Deep State の総本山だ。このことが、アメリカの民衆革命(第2次独立戦争)を率いる、トランプの戦いが起きて、大きくバレてしまった。これは、もの凄いことなのだ。
だから、副島隆彦が、「今、現に、私たちの目の前で、ヨーロッパ近代500年が、逆回転(カウンター・レーヴォルト)を始めた」と、書いているのだ。今のところは、碩学(せきがく)である私しか、このことの重大性は、日本人は、分っていない。だが、どんどん、このことに気づく、知識人たちが増えてくる。
イギリス国王は、神なのだ。と同じことを、日本に対して、イギリス(当時は、大英帝国)が、明治体制の初めに、仕掛けた。だから、「父と、子と、天皇陛下」にしたのだ。だから、万世一系(これもウソだ。血統は、途中でブチブチと切れている)の ウソ八百は、まさしく、一神教(いっしんきょう。モノ・シーイズム mono-the-ism )でしょう。多神教(たしんきょう。poly-the-ismu ポリ・シー・イズム)ではない。
多神教、というのは、ギリシアの、「オリュンポスの12神」のギリシアの神々のことを言う。
日本という東アジアの 土人の国の、八百万(やおろず)の神々 のような、土人の呪術(アニミズム、自然崇拝。宗教=レリジョン=以前 だ)のことを言うのではない。八百万も神さまがいて、どうするんだ。 バカども。
私、副島隆彦が、土人の国、日本と書くと、ムッと顔を歪(ゆが)ませて、以後、私に、近寄らなくなる者たちがいる。
だが、この者たちでも、やがて、素直になって、私のもとに再び、集まってくる。私は、このことをよく分っている。 ギリシアの、「オリュンポスの12神」の方が、ユダヤ教や、キリスト教や、イスラム教よりは、ずっと格式が高くて、人類史上、最高の宗教なのだ。他の世界宗教(5つ)よりも、ずっと質が上なのだ。ニーチェがこのことを力説した。
このように私が書くと、この「決めつけ」に、強く反発する者たちがいる。それは、自分が、これまでの人生で、数十年掛けて信じ込んできた、あるいは、勝手に自分で作った信念(宗教を含む)を、貶(けな)され、蹴り倒され、泥を塗られた、と感じるからだ。だが、私、副島隆彦のこの書き方よりも、優秀で強力な世界思想の理解は有り得ない。それでも、ゴモゴモと、何か言いたいだろうが、私に向かって、面と向かってケンカを売れるほどの人間は、この国にはいない。どんな知識人どもでもだ。ただし、これはこの日本という、土人の国の中における、判定です。
皆、大きく、大きく、世界を分りなさい。ヨーロッパ知識人たちは、このように考えている。このオリュンポスの12神の、最高神の、大神が、Zeus ゼウス だ。みんな、名前ぐらいは知っているでしょう。
この大神、ゼウスが、天(ヘヴン)で、天帝(てんてい)である。このことも、分かるだろう。 ところが、だ。この「ゼ」ウス と、 「デ」ウス Deus は、違う ! 同じだけど、ちがう。は?
Zeus ゼウス と、 デウス Deus (耶蘇教、キリスト教は、こっち) は、違う。このことの重大性に、気づいているのは、日本では、私、副島隆彦だけだろう。そんなことはない。という、クリスチャンとか、居ましたら、「異議あり」で、私に、メールをください。
そう言えば、「ポリス」 polis 都市国家(この語は、英和辞典に載っていない)と、 police 「 ポリス」 は、違う。 後者の、police ポリス は、誰でも知っているとおり、警察官 のことだ。だが、polisと書くと、全く別ものだ。 この違いを、知っている、日本知識人も、今のところ、私だけだろう。
田中美知太郎(たなかみちたろう。ギリシア語の、日本の大家だった学者)も、知らなかったのではないか。ギリシア語、ローマ語(=ラテン語)の権威だった、呉吾一(くれごいち)も、このことを、果たして、知っていただろうか。
最後に、載せるメールは、最近、私に連絡を取ってきた、20年前の、大学の教え子である杉山雅一(すぎやままさかず)君との、昨日の やり取りである。
副島隆彦 記
(転載貼り付け始め)
2021年2月12日
杉山雅一くんへ
副島隆彦から
さっき、私が、アマゾン を 見たら、私と佐藤優の対談本「ウイルスが変えた世界の構造 (日本語) 単行本 - 2020/12/19刊」 への、2月10日、だからつい昨日の、書評が載っていた。「創作研究会Amazon支部」 という人の文だ。
それに以下のように書かれていた。この書評子は、相当な知性があると思われる。ところが、他のアマゾン書評文は、アニメ作品への 書評だ。まだ若い人なのだろう。
この文を、君も見つけて読んでください。 私が、君に、知らせたいのは、以下のような記述が有った。 この部分は、君が、大学の時、卒業論文で、私に提出した、大国隆正(おおくにたかまさ)がやったことなのではないか。 君の課題だ。
私、副島隆彦は、この大國隆正が、最初の明治政府の 神祇官(しんじかん)、大神官 となり、この男に、裏からイギリスの指矩(さしがね)があって、天皇(まだこの呼称はない)、御門(みかど)、オホキミ(大君)スメラミコト を、現人神(あらひとがみ)にしただろう。
私は、この男が、それまでの 尊王攘夷(こっちが、当時は、自然な民族主義だ。祖国防衛感情だ)をかなぐり捨てて、ヨーロッパ近代国家 の方に、天皇制度を、現人神(あらひとがみ)の国家神道に、作り替えていった。この者たちが、明治の太政官(だじょうかん)政府の中に、計画的に準備され、出現したのだ、考えます。
大國隆正は、君が書いていたが、御殿医だった、森鴎外の父親と同じ、石見(いわみ。今は島根県の西側)の出で、鴎外を、軍医総監(ぐんいそうかん)にまで引き立てたのも、この男だ、と。
君の考えを聞きたい。今からでも、君はこの問題を追究するべきです。これは重要な問題だから、一冊の本になります。私が、推薦して出版社を紹介します。興味があるなら、論究してください。
(転載貼り付け始め)
創作研究会Amazon支部 ベスト1000レビュアー 5つ星のうち3.0 話半分で読む分には問題ない
2021年2月10日に日本でレビュー済み
佐藤優氏と副島隆彦氏(以下、敬称略)の対談本。
(略)
・・・・・副島「同じように、日本では天皇を神の格に当てはめた。この戦前の責任が物凄く大きい。このことをイギリスが計画的に押し付けたのです。これが国体思想だ。現人神の思想だ。」(187-188頁)
→ 副島の主張には根拠がなく、また、日本の国体を定めた文部省発行の冊子『国体の本義』(1937年)を読めば、日本の天皇の神格が英国王(王権神授説)のそれとは別物とされているのは明らかである。
『国体の本義』には、こうある。
〈かくて天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神(あきつみかみ)であらせられる。この現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである。〉
副島隆彦が、2月14日に、加筆する。 上記の ↑ 「国体の本義(こくたいのほんぎ)」は、昭和の戦争に突入してゆく時期(1937年、昭和12年)に文部省が出した安易な文書だ。とんでもない、軽薄な内容の、学問水準の低い政府の広報パンフレットだ。思想の高みは全くない。
国民に刻苦勉励せよの、二宮金次郎(にのみやきんじろう)を、復古賞賛する程度の質の悪さだ。
上記の「国体の本義」は、よく読めば、まさしく、ヨーロッパの王権神授説そのものだ。何が、「日本の天皇は、それとは別物であることは、明らかだ」だ。
どの右翼学者が書いたか分らない。八紘一宇(はっこういちう)、五族協和(ごぞくきょうわ)、大東亜共栄圏の、田中智学=たなかちがく=や大川周明=おおかわしゅうめい=ではないだろう。
佐藤優は、愚かにも、この「国体の本義」を、日本の国家体制論、国体論、として称揚している。他の今の、日本の反共右翼たちと同じレベルだ。
小室直樹先生は、この「国体の本義」を、大著『天皇の原理』で、こっぴどく叩いた。
浅見絅斎(あさみけいさい)の「靖献遺言」や、栗山潜鋒(くりやませんぽう)の「保建大記(けんたいき)」でこそ、日本の国体が、真剣に論じられているのだ、と知らないのだ。
副島隆彦の加筆終わり。
From: M Sent: Saturday, February 13, 2021 11:42 AM
To: 副島隆彦
Subject: Re: 先日の講演会、ありがとうございました。杉山から
副島先生 メールありがとうございます。
先日の定例会、(コロナが怖くて…と言うと怒られそうですが)東京に伺えなかったため、
オンラインで何度も拝聴いたしました。もう最高でした。
まさに副島節の真骨頂。日本に50万人いるトランプ支持者たち全員に聞いてほしい内容でした。
ご指摘のAmazonのレビューも拝見いたしました。
『ウイルスが変えた世界の構造』も発売と同時に購入させていただいたのですが、今、副島先生の著書を次々に読んでいる途中なので、まだ到達できていませんでした。
(今、『仕組まれた昭和史―日中・太平洋戦争の真実 思想劇画』を読んでいます)
大国隆正の師である平田篤胤は、いわゆるカルト主義者のようです。
キリスト教の影響を受けているとWikipediaにすら明確に書かれています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/平田篤胤
平田篤胤はキリスト教や仏教の思想に触れて、神道を宗教的なものにしたかったようです。神道はそもそも神話の羅列と、儀式しかなく、体系などなかったのですが、平田が、天御中主を創造主とする日本独自の宗教にしようとした形跡が見られます。
(もしかしたらここにも先輩方が指摘なさっているようなイエズス会の影響があるのかもしれません)
大国隆正はその平田から学び、さらに若い頃、蘭学も学んでいますから、キリスト教を元にして、国家神道をまとめあげようとしたことは間違いないでしょう。
副島先生が『日本人が知らない 真実の世界史』の中で指摘しているように、太陽神を中心としたアニミズムは世界各地に見られるものです。しかし、基本的にそれらは『信仰』であり、儀式と神話の羅列でしかありません。
絶対神を中心として体系化された『一神教』の方が異質なのです。
歴史的に見ると、それまで土着信仰で、各地で作法も伝承も全く異なっていた神道が急に体系化されたことの方が異質です。それがこの時期に急に、自然発生的に起こったと考えるのは不自然です。
尊王攘夷派の国学者だった彼を、誰か(おそらく伊藤博文あたりか?)が引っ張り上げて、
イギリス国教会の仕組みを表層的に模して国家神道としてまとめ上げさせてのだと考えます。
この辺りはまだ私も深追いできていない部分も多いので、副島先生からいただいた課題として、引き続き調べていきたいと思います。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦 拝
【2550】[2977]バートン・クレーン
もうひとつ素朴な投稿です。
戦前にジャパンアドバタイザーの記者として来日、片言の日本語で吹き込んだ「酒が呑みたい」が大ヒットし、「外国人タレントの先駆け」とも言われたバートン・クレーンというアメリカ人がいます。
数年前、NHKがやった吉田茂のドラマ「負けて、勝つ」の中で、鳩山一郎が公職追放となる流れをつくった外国人記者との記者会見を、クレーンが先導しているシーンがあり、記憶に残っていました。
この男は何者なのだろう?と調べてみると、どうやらOSS(戦略情報局)の方が本籍で、カバーとして記者もしていたというのが実際のようです。
「バートン・クレーン覚書」
http://camp.ff.tku.ac.jp/yamada-ken/y-ken/fulltext/02BC.html
(引用始め)
まだ終戦前の1945年,つまり太平洋戦争の帰趨が決し日本占領が迫りつつあった頃,クレインは戦略局極東班(the Office of Strategic Services in the Far East)の任務につき,中国の昆明へ派遣された35)。
次いで,終戦を受けて,ニューヨーク・タイムズ紙の東京特派員となった。
書簡によれば,OSSの任務で既に極東にいたクレインを,ニューヨーク・タイムズ紙の外報部が経済部から「借りる」形で終戦後の東京へ派遣したということらしい。
(引用終わり)
とすると鳩山を追いやり吉田茂にスイッチさせるということがOSSの意思としてあり、そのためにクレーンも役割を果たしたということになるかと思います。
という歴史を踏まえると、デーブ・スペクターとかパックンとか、あれだけたくさんメディアに出ている人がスパイだなんてことが本当にあるのだろうか?と素朴には思うわけですが、まぁあるのでしょうね。
日本語でしゃべれる白人というだけでうれしくなって懐に入られてしまうのだろうな。。
【2549】[2976]プラウド・ボーイズ
皆さんの活発なやりとりに触発されて久々に投稿します。
「ディープステイトの真実」で西森マリーさんと副島先生が「政治活動をしている組織には必ずおかしな人間(=政治警察の潜入者)が紛れ込んできて扇動する」という話をされています。
この話は非合法時代の共産党を過激路線に導き、壊滅させた「スパイM」のことを思い出させますが、素朴には現代でもそういったことがあるものだろうか?とも感じてしまいます。
ところが先日、ロイターを読んでいると議事堂侵入をあおったとされるプラウドボーイズのリーダーがかつて法執行機関の協力者(=スパイ)であったという記事が出ているのでした。
「焦点:米極右「プラウド・ボーイズ」リーダー、捜査協力者だった過去」
https://jp.reuters.com/article/idJPKBN29X0WB
記事の中ではとぼけて
(引用始まり)
元検事のジョアンズ氏は、かつて詐欺罪で訴追した被告が今、バイデン氏の大統領選勝利認定を阻止しようとした暴動での重要人物になっていることには、驚くしかないと話す。
「彼が詐欺師であることは分かっていたが、まさか国内でテロを起こす男だとは、知るよしもなかった」とあっけにとられた様子だった。
(引用終わり)
と書いていますが、まぁ今でも同じ役割を果たしている人物だという風に考えた方が筋が通るように思えます。
なので、やはりなんでも「陰謀論」で片付けるのは、底の浅い考え方なのだなと改めて思います。
素朴な投稿でした。
【2548】[2974]亡命中国知識人の朱舜水が江戸時代の政治思想を変えた
昨年、副島隆彦先生の監修で、『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』(電波社刊)を書いた田中進二郎です。
2/9に重たい掲示板↓で副島先生に、拙著を紹介していただきまして、ありがとうございます。1/17の学問道場の定例会でも、六城雅敦研究員による『江戸時代の知識人はみなキリシタンである』という発表の中で、紹介して、いただきました。
これから、拙著「秀吉毒殺本」を読もうという方には、完全版として、電子書籍の方をおすすめします。単行本にあった、誤記や訂正箇所を改めています。
副島先生の著書を大量に紹介している、ユーチューバーのごんべえさんが、大河ドラマの『麒麟が来る』の最終回について、副島先生の『信長はイエズス会に爆発され、家康は毒殺された』と拙著『秀吉毒殺本』の視点から、意見を述べている。↓
「読書中毒 アラ還」
日本の読書人たちのあいだに、『麒麟が来る』への怒りがかなりあるでしょう。Amazonの戦国安土桃山時代本ランキングを見ると、それが分かります。「光秀は天海上人だ」説が、これからどんどん主流になってくるでしょう。
ーーーー
ところで以下は、私田中の続編の原稿です。江戸時代に日本に亡命してきた中国知識人の朱舜水( しゅ しゅんすい 1600ー1682)について、書きました。かなり長文になります。
明治維新の原動力となったが、太平洋戦争後は皇国史観、狂信的であるとして、捨て去られた水戸学について考察する。現代日本の研究機関で水戸学を研究すると、「右翼人間」と思われるそうである。戦前の狂信的な天皇崇拝、天皇原理主義は、敗戦後、徹底的にアメリカのGHQによって除去された。しかし、それでも現在の保守派・右翼は、東条英機をはじめとするA級戦犯を合祀した、靖国神社に参拝するカルト・オブ・ヤスクニが多い。森喜朗・元首相の「日本は天皇を中心とした神の国である」という発言(2000年)もそこから出てきている。
2016年に出版され、ベストセラーになった菅野完(すがの・たもつ)の『日本会議の研究』(扶桑社新書刊)は、神道系団体(生長の家 等)が、全共闘時代に保守の側から対抗する形で復活した。自民党議員(清和会系)も動かしている。そして、国民の知らないところで、憲法改正を実現しようとしている実態を、暴いた。
これらの起源と言っていい水戸学はいかにして歴史に現れたのか。
●朱舜水の指導で、『大日本史』の編さんが始まる
水戸黄門(徳川光圀 みつくに 1628-1700)は、時代劇の中では、全国を漫遊する。
しかし、実在の水戸黄門(光圀・義公)は、行動の自由もなくて、水戸と江戸を往復する以外は、水戸領内の巡察と、鎌倉に数回訪れたのみだ。
黄門様の側近で有名なのは、助さん、格さん。助さんのモデルは佐々宗淳(ささ そうじゅん)、格さんのモデルは、 安積澹泊(覚兵衛 あさか たんぱく 1656-1738)である。二人は水戸生まれの儒学者である。
徳川光圀は、長崎に亡命してきた中国知識人・朱舜水(しゅ しゅんすい 1600-1682)を江戸、水戸に招き、教えを乞うた。天皇崇拝の日本通史である『大日本史』の編さんを開始した。安積も佐々もこの事業の責任者、総裁だった。安積澹泊は、1660年にわずか10歳で、朱舜水のもとで学び始めている。
『大日本史』の編纂は、最初、江戸の駒込にあった水戸徳川家中屋敷(現在の東京大学農学部の敷地)の中で始まっている。彰考館(しょうこうかん)という。ここには、全国からの儒学者、歴史学者が30名も集められ、史局員となった。水戸藩の江戸屋敷はほかに、小石川の上屋敷(後楽園と現在の東京ドーム)と、隅田川沿いの浅草、小梅に下屋敷があった。
彰考館はのちに、水戸城の二の丸の敷地内にもつくられ、50名体制に拡充された。光圀没後も、編纂は長い中断期間はあったものの、延々二百年以上続けられた(完成は1906年 全397巻) 光圀の大日本史編さんが、水戸学の始まりとなった。
●朱舜水が、文天祥崇拝を日本に移し変えた
朱舜水については、副島隆彦先生と石平(シーピン)の対談本『中国人の本性』(徳間書店 2013年刊)で次のように解説されている。
(引用開始)
石平: 水戸光圀は朱舜水からそれほどの影響を受けたのですか?
副島: 影響などというものではありません。水戸光圀は朱舜水から、司馬遷の『史記』の書き方を教わったわけです。隠元禅師(1592-1673)は江戸時代、1654年の63歳のとき、弟子たち20人を引き連れて日本へ渡ってきました。その5年後に朱舜水も日本に永住を求め、日本国学の思想も吹き込んだ。
石平: その国学が水戸学につながって、幕末維新を動かしていったわけですね。
副島: つながったどころか、この国粋思想(排外主義 ショービズム)しかなかったと思います。日本の「尊王攘夷」は中国知識人から教えられたものです。それなのに、「中国から最高級の亡命知識人たちが日本に来た」という真実を、日本の右翼言論人たちは隠そうとしている。日本の各宗派の僧侶たちもこの真実を隠して、地力で高度の仏教思想を築きあげた振りをしています。
(中略)
副島:朱舜水は楠木正成の息子である正行(まさつら)との「桜井の訣別」とか足利尊氏に敗れて自害した「湊川の決戦」の故事を初めて日本の正史として高く評価した人です。
二・二六事件の青年将校たちも、水戸学が築いた「日本の国体」なるものに心酔しました。
だから戦争中に狂ったように崇拝して、今でもあちこちに楠木正成の碑と銅像があるのです。
石平:神戸市にある湊川神社には楠木正成の墓碑(嗚呼忠臣楠子の墓 ああちゅうしんなんしのはか)がありますね。
副島:その墓碑の裏面には、朱舜水のつくった賛文(陰記)が書かれています。今は誰も読めません。この湊川の墓碑の建立(1692年 元禄五年)によって、楠木正成の威徳が極端にまで宣揚されるようになりました。後の幕末勤皇思想の発展につながり、明治体制の精神的指導力にまでなりました。さらに、神がかりといえるほど軍国主義の本尊に祭り上げられました。そして敗戦でアメリカに打ち倒されました。
【P47~51】
(引用終わり)
田中進二郎です。
以下に、朱舜水の裏面の碑文の書き下し文を挙げる。石碑は難解な漢文である。1692年建立、この年から十年後の元禄十四年(1702年)、「忠臣蔵」の赤穂浪士の討ち入り事件が起こっている。
楠公碑陰記 (なんこうひいんき)
朱 舜 水
忠孝天下に著(あら)はれ、日月天に麗(つ)く。天地に日月無ければ、則ち晦蒙(かいもう)否塞(ひそく ふさがる 逼迫する)し、人心に忠孝を廢(はい)すれば、則ち亂賊相尋(あひつ)ぎ、乾坤(けんこん 天地のこと)反覆す。余聞く、楠公諱(いみな)正成は、忠勇節烈にして、國士無雙(国士無双)なり、と。其の行事を蒐(けみ)するに、概見(適当に見ること)すべからず。大抵、(楠)公の兵を用ふる、強弱の勢ひを幾先に審(つまび)らかにし、成敗の機を呼吸に決す。人を知りて善く任じ、士を體(たい)して誠(まこと)を推(お)す。是(ここ)を以て、謀(はかりごと)中(あた)らざるなくして、戰(たたかひ)克(か)たざるなし。心を天地に誓つて、金石渝(かは)らず。利の爲に囘(かへ)らず、害の爲に怵(おそ)れず。故に能く王室を興復し、舊都(きゅうと古い都ー京)に還(かへ)せり。諺(ことわざ)に云ふ、前門に狼を拒(ふせ)いで、後門に虎を進む、と。廟謨(びょうぼー朝廷のはかりごと)臧(よ)からず。元兇(足利尊氏のこと)踵(きびす)を接し、國儲(こくちょ- 君主の後継者・護良親王)を構殺(無実の罪に陥れること)し、鐘簴(しようきよ)を傾移(けいい)す(足利尊氏が後醍醐天皇を京から奈良の吉野追い出したことを指す)。功成るに垂(なんなん)として、主を震(おどろ)かす。策善(さくよ)しと雖(いえど)も、庸(もち)ひられず。古(いにしへ)より未だ、元帥前を妒(ねた)み庸臣(ようしん)斷を專(もっぱら)らにして、大將能(よ)く功を外に立つる者あらず。之(これ)を卒(?)ふるに、身を以て國に許し、死に之(ゆ)いて佗(他)なし。其の終りに臨み、子(楠木正成の子 正行 まさつら)に訓(をし)ふるを觀(み)るに、從容(しようよう)として義に就き、孤に託し命を寄せ、言(げん)私(わたくし)に及ばず。精忠(せいちゅう)日を貫くに非ざるよりは、能(よ)く是(か)くの如く整ふに暇(いとま)あらんや。父子兄弟、世々に忠貞を篤くし、節孝一門に萃(あつ)まる。盛んなる哉(かな)。今に至りて、王公大人、以て里巷(りこう)の士に及ぶまで、口を交へて之(これ)を誦説して衰へず。其れ必ず大いに人に過ぐる者あらん。惜しいかな、筆を載する者、信を考ふる所なく、其の盛美大徳を發揚(はつよう)すること能(あた)はざるのみ。
右は、故(もと)河(内)・攝(津)・(和)泉三州の守(かみ)、贈(おくる)正三位(しょうさんみ)近衛中將楠公の贊(さん)、
明の徴士(ちょうし)、舜水朱之瑜(しゆ)、字(あざな)魯璵(ろよ)の撰する所、勒(ろく)して碑文に代へ、以て不朽に垂(た)る。
(楠公碑陰記おわり)
田中進二郎です。
江戸時代には、湊川神社には、この顕彰碑だけがあって、社殿などはなかったことが、当時の名所図会(めいしょづえ)に描かれている。水田や松林などの中に、この碑だけが屋根で囲われてあった。頼山陽(らいさんよう 1780-1832)がここを訪れて、漢詩を読んだ。
幕末になると、東上する吉田松陰、西郷隆盛、坂本龍馬ら志士たちが、必ず神戸の湊川を訪れて、この碑文の前で、頭を擦りつけて、尊王を誓って涙を流した。どれだけ涙を流せるかが、本当の志士であるかどうかの基準とされた。
これは、朱舜水が、南宋の政治家で軍人の文天祥(ぶんてんしょう 1236-1283)をそっくりそのまま日本の楠木正成に移し変えたものだ、と言える。文天祥は元の皇帝フビライ=ハン(1215-1294)と最後まで抗戦するも、捕らえられる。獄中で、フビライに「大臣にしてやるから、臣下になれ」、と何度も言われるが、拒否し、南宋に忠義を貫いて処刑された人物である。
文天祥の死は、日本史の二度の元寇(1274年 文永の役、 1281年 弘安の役)のすぐ後だ。
しかし、楠木崇拝が、中国に原型があり、亡命中国人が日本に伝えたのだ、ということを知っている日本人は、戦前にはいなかった。
『空気の研究』で知られる故・山本七平(1921-1991年)は、次のように書いている。
『現人神(あらひとがみ)の創作者たち』(山本七平・小室直樹 共著 文藝春秋社1997年刊)p48より引用する。
(引用開始)
楠公(楠木正成)を発見し、これに賛を書いたのが、中国人朱舜水だなどということは、戦前の日本人にありえざることだったのだろう。(中略)
楠公碑は、講談にも副読本にも歴史教科書にもでてきて、私たちの世代の人間はいやおうなく覚え込まされたが、その表面の「嗚呼忠臣楠子之墓」が、光圀の自筆であることは語られても、裏面の文章は朱舜水であることは、まったく語られなかった。と同時に、そのすべては戦後に消されてしまった。
(引用終わり)
●朱舜水と同郷の黄宗羲(こうそうぎ)の復明(ふくみん)運動
朱舜水が、日本に亡命するに至った、当時の東アジアの情勢を次に見てみよう。
明末清初に、満州の女真族を統一したヌルハチ(太祖 位1616-26)は後金(こうきん)を建国した。彼はもともと、軍人ではなく、商人であった。遼東地方で薬用の人参や貂(てん)の毛皮の交易を行いながら、利権を独占して、力を握った。
ヌルハチに巨大な権力を与えたのは、皮肉なことに、スペイン帝国がもたらした銀と、明朝のバブル経済であった。
故・岡田英弘博士は、『読む年表ー中国の歴史』(WAC 2015年刊)という新書の中で、次のように書いている。
(以下引用する)
メキシコから太平洋をわたってきたスペイン人が1571年、フィリピンにマニラ市を建設してからメキシコ産の銀が流れ込み始め、そのおかげで中国では空前の消費ブームが起こった。その結果、女直人(マンジュと呼ばれた。これが満州という地名の語源である)たちの住む森林地帯の特産品である高麗人参と毛皮の需要が高まり、ヌルハチたちも富を蓄積することができるようになったのである。
(中略)
ヌルハチとしては、できれば明と平和的な貿易を再開したかったのだが、明の朝廷では主戦論ばかりが幅をきかせていた。・・・そうした事情で、戦争がずるずると続いた。
【P225】
(引用終わり)
田中進二郎です。
岡田英弘博士と同様のことを、故・西村三郎(京都大学名誉教授)が『毛皮と人間の歴史』(2003年刊)で指摘している。大興安嶺(だいシンアンリン)山脈からアムール川流域、長白山脈の奥地から、貂(テン)皮をはじめとする特産品が、遼東南部、つまり建州を通って、中国本土へと運ばれた。それらの見返りに、中国からは、朝廷からの下賜品や交易市で入手された物品が、再び建州を通って、北の辺境の地の隅々にまで流れていった。だから、ここから、ヌルハチとその一族が、後金国(のちの清帝国)が生まれたことは不思議ではない、と西村三郎氏も書いている。
ヌルハチが病没し、次のホンタイジ(皇太子の中国読みがホンタイジ 太宗 位1626-43)のときに、国号を清と改めた。清は1637年に、李氏朝鮮を服属させた。丙子(へいし)の役(1636-1637)。
この戦いで、朝鮮の宮廷も、明の朝廷と同様に、門閥貴族階級である両班(ヤンパン)が、いたずらに徹底抗戦を唱え、和平の道を自ら閉ざしてますます窮地に陥っていった。
朝鮮王・仁宗は、12万の大軍を率いるホンタイジの前で、屈辱的な三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)を行った。
この戦役を描いた最近の韓国映画に、『天命の城』(2017年公開)がある。
明が1644年に李自成によって、滅ぼされた数十日後に、清の次の皇帝(順治帝)の後見人ドルゴンが李自成を破り、北京紫禁城に入城。こののち、清軍は、漢民族も軍に編成して(漢軍八旗)、女真族の風習である辮髪(べんぱつ)も強制するようになった。清に対する漢民族の抵抗運動が、中国南部の江南地方で起きていた。
なかでも、大きかった反乱は、揚州(現・江蘇省揚州市 南京から100キロ北)においてのものだった。この地で、「揚州十日事件」という悲惨な虐殺事件がおきている。
明の遺臣たちは、南京を拠点として清に抵抗した(南京は、明朝の最初の首都だった )。長江流域の諸都市も、明の遺臣にならった。 が、翌1645年、清の大軍が、揚州を包囲して攻め落とす。その直後、80万人という住民の大殺戮がおこなわれたという。これは中国の王朝の残酷史の中でも、特筆される出来事だ。
(『蜀碧・揚州十日記(しょくへき・ようしゅうじゅうじつき)』東洋文庫所収。『揚州十日記』は1805年(文政年間)に日本でも刊行されている。江戸時代の日本の読書人がこの本を読んだ。そして震え上がった。)
●朱舜水と黄宗羲の出身地ー余姚(よよう)ーについて
朱舜水の出身地の余姚(よよう)県は、 上海とは長江を隔てた南の対岸にある。対岸といっても200キロも離れている。王陽明が学塾・を開いた陽明学の聖地である。だから、朱舜水も、はじめは陽明学者だった。
余姚(よよう)県出身の陽明学者は他にもいる。『明夷待訪録』(めいいたいほうろく)を著した黄宗羲(こうそうぎ 1612-1695))だ。
黄宗羲の父親も、明の復興を企てる政治結社・東林党に属していた。そのため清の政府によって殺されている。その仇を討つために、彼は生涯懐に刀を入れて持ち歩いていた、という。黄宗羲は東林党の精神を引き継いで、政治結社・復社(明を復興する組織)に参加した。清が中国本土に侵入してくると、郷里の子弟を組織して義勇軍を結成、清朝支配に抵抗した。
黄宗羲は、明の皇族で、福建省を支配した魯王・朱以海(ろおう・しゅいかい)の政権に協力し、1649年には長崎を訪れ、日本の江戸幕府(3代家光の時代)に反清の援軍を要請した。この時の要請は果たせず、結局「反清復明」の運動は絶たれてしまい、以後は故郷の余姚で、著述に明け暮れる日々を送った。
この、黄宗義の『明夷待訪録』によって、湯武放伐論という易姓革命の思想が生まれた。
易姓革命は王朝の姓が易(か)わり、天命が革(あらた)まる。と言う意味だ。王朝交代は正当だ、とする考え方だ。もともと孔子の百年後に現れた孟子が説いた。
この本は、明から清への交替を経験した黄宗義が、明朝末期の社会混乱の原因や理由を考察し、君主専制の否定、「民本重民」の思想をのべたものである。この時代の政治評論集として白眉(はくび)であると評価されている。黄宗義の『明夷待訪録』は中国のルソー、中国の「民約論」として清朝末期にもてはやされ、「排満興漢」の起爆剤になった。
(参考ー副島隆彦・石平 対談集『中国人の本性』徳間書店刊)
黄宗羲の秘密結社は、ずっと続いていった。今も中国フリーメイソンの祖と崇められている。一説には、中国フリーメイソンの組織は一億人いるそうだ。華僑(かきょう)はみんな中国フリーメイソンだ、という見方もある。
このように黄宗羲と朱舜水は、王陽明の故郷の余姚で、陽明学を学び、復明運動を行ったところまで同じである。このことは、戦後の日本の陽明学の研究者たちが言わないことだ。
そして、清代の陽明学は、王陽明の教えとは変質して、経世学(けいせいがく)になっている。
彼らの同時代の考証学者の一人・顧炎武(こ えぶ1613-1682)は、「経世致用」(けいせいちよう)をスローガンに掲げた。、朱子学(空虚な理気ニ元論、大義名分論)などに対して、自分の学問を経学と称した。朱子学の抽象的な議論を嫌った。
ヌルハチ、ホンタイジ、順治帝の後に、康煕帝(こうきてい 位1661-1722)が即位すると、いよいよ清帝国の隆盛ははっきりしたものになった。もはや漢民族の抵抗運動の時代は終わった。この時代は、清代の盛世(せいせい)と呼ばれる。康煕、雍正(ようせい)、乾隆帝(の前半)まで清朝は繁栄を続けた。
だから、反清運動は革命路線を捨てて、「経世致用』を説いて、現実社会の役に立つことを目指した。
●国姓爺=鄭世功はキリシタンだった
ところが、朱舜水や鄭世功(ていせいこう)はなおも、日本の徳川政権の力を借りて、明の復興を企図したのである。
朱舜水は、鎖国政策下の日本へ、鄭成功の救援を求める日本請援使として派遣されていた。1647年、51年、53年、58年にそれぞれ長崎に立ち寄っている。鄭成功軍が南京攻略戦で敗退した後、59年朱舜水は明の復興運動(復明運動)を諦め、日本の長崎へ亡命を希望する。鄭成功は、オランダ東インド会社の支配する台湾を攻略するが、翌年の1662年に、39歳の若さで死んだ。
鄭成功は、日本人の母を持っているが、母子ともに熱烈なキリシタンであった。 彼の活躍を、近松門左衛門(1653-1725)が人形浄瑠璃の脚本『国姓爺合戦』(こくせんやかっせん 初演 1715年)で和藤内(わとうない)として描いた。 近松が国姓爺=鄭世功を主人公にしたのは、彼もまた、隠れキリシタンであったからにほかならない。
古川愛哲著『江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた』(講談社α新書 2011年刊)には次のように記されている。
-若き日の近松は、京で雑掌として一条恵観と、その兄の後水尾帝にも仕え、とくに後水尾帝(1596-1680)からは和歌を賜っている。
一条恵観の兄である後水尾天皇の后と母が早くにイエズス会の説教を聞きに京の教会を訪れたことを、イエズス会のルイス・フロイスが記録している。このように戯曲を書く前の近松は、キリシタンゆかりの人々に囲まれて成長をしたことになる。おのずから近松門左衛門の精神は、隠れキリシタンによって形成された。
■参考ー鄭成功の母 田川マツについて
『日本女性人名辞典(普及版)』p.646-647より引用します。
田川マツ (生年不詳-1646)
鄭成功の母。肥前の国平戸、川内浦の住人田川七左衛門の娘。明の泉州(中国福建省)出身の鄭芝竜と契って、福松と七左衛門を生んだ。福松が後の鄭成功である。芝竜は平戸老一官と称して藩主の寵を受けた。のちオランダ船で南に行く途中海賊に捕えられたが才幹を認められ、頭目の死後は、党類を率いて中国南部の沿岸を攻め、明朝に帰順し、富貴権勢赫々たるものがあった。子供たちは平戸に残っていたが、福松は単身渡海し、一五歳で南京の太学に学ぶ。二一歳の時、明王隆武に謁し、国姓朱を賜り、成功と改名、軍部督となった。人々は国姓爺と敬称した。のち平戸の母を中国に招き、よく尽した。清が起り、明王が危険に瀕した時、芝竜は清に降ったが、マツは泉州安平城内で憤死した。平戸 川内浦千里ケ浜に、鄭成功の児誕(じたん)石と葉山鎧軒撰文の碑が立つ。(『史都平戸』『長崎女人伝』)
(引用終わり)
田中進二郎です。このように、日本に亡命してきた朱舜水は、陽明学、経世学、そしてキリスト教(これらは同一だった)の背景を持っていた大学者だった。
だから、長崎にやってくると、当時の儒学者たちが、次々と朱舜水に教えを
乞うた。山鹿素行、伊藤仁斎、山崎闇斎(あんさい)、浅見絅斎(あさみ けいさい)たちも思想を変容させていった。次回はそれについて書きます。
(続く)
田中進ニ郎拝