重たい掲示板
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Loginはこちら【434】[479]福島大丈夫宣言の根拠
初めて投稿します。群馬県で医師をしております。
副島先生の「福島大丈夫、定住する予定」の根拠となりうるビデオを発見しました。
副島先生はこの方とその話を知っていて、今回の福島大丈夫宣言をしていたんだと、勝手に納得し、感心しました。皆さんもご参考までに見て下さい。
医師としては一つの考えとして理解できるものです。
否定、肯定は個々人が決めるしかありませんが。
http://www.youtube.com/watch?v=PQcgw9CDYO8&feature=related
【433】[478]太田様への回答
太田様のメッセージにも一理あり。
一番原発を止めてほしいのは私たち福島県民体験者です。
私も小沢さんに期待するしかないと思うのですが、
もし彼に全てを託しても、すぐに原発を止められるかどうかは疑問だということです。
もし、止められるなら、とっくに止めていると思うのです。
では、なぜ止められないのか?
そこは世界経済、アメリカ、フランス、日本、アフリカ、中国の、核抑止力なき後の核平和利用による地球温暖化の嘘によるエコ利権による経済問題がある。
だから止められない。
止めてほしい、これ以上、犠牲を出してほしくない。
だから私は、副島先生を信じて、ここで生きる決意をして、復興はどころか復旧の段階ですが、借金をまたして働く、動く、それをしている。
まずは、原発止めろ、ではなくて、小沢さんを官僚国家から救い、日本の産業構造を大きく変換してもらわなければならない。
この福島でこれほどの事故を起こしながら、なぜ浜岡が止められないのか?浜岡が断層の上にあり、これも明日爆発しかねないのを誰もが知っていて、なぜできないのか?
そこを考えてほしいということです。
私は、原発推進を擁護しているわけではない、
この恐怖は凄い。
ただ、冷静になぜすぐとめらえないのか?
あっちこっちで止めろと運動が起きているのに止められない。
やはり、原発産業政策に依存してきた歴史を検証し、それを撤回する準備と順序があり、それは一歩一歩でしか進まない、40年のエネルギー政策の利権は世界規模で重いので、すぐには無理だと思う、では、みんなで考えて動きましょう。
それで、具体的に太田様はどんな秘策があるか教えて頂きたい。
止める秘策です。それがわからないからもの申している。
・・・・と思うのですが、やっぱり違うかな?
他の学問道場の方々の御意見もうかがいたい。
あなたがやっと止めてください、と書いたのは喧嘩をふっかけたわけではなく、冷静に具体的な事案を出してください、という意味でしたので、謝罪します。書き方が悪かった。
とにかく人は死ぬし、私の頭ではもう案が浮かばない。
浜岡を止める案が浮かばない。
止めたい気持ちは痛いほどわかる、ここは地獄ですからこの地獄を日本国で作ってほしくない。
現実は、福島差別で悲惨です。
廃業、経済ストップ、誰も近づかない。
私は飯舘、南相馬にも行きました。
その苦悩を人々から聞いてきました。
農家は作付できないまま。
ただし、ぼやきで書かれている副島先生の言葉は、99%賛同しています。
【432】[477]なぜ、副島先生は、「もう、大丈夫です。安心してください。と、私は、言い続けるしかない」のか。
こんにちは。
石井 利明です。
私は副島先生と一緒に、二回、福島の現地を訪れました。
大震災の発生から、40日です。
この重たい掲示板でも、佐藤さんが“454”と“457”で、副島先生の報告文を解説しています。
そこで、私も出来るだけ簡単に整理してみようと思います。
まずは、佐藤さんと同じように、時系列でまとめます。
始まりは、12日の15時36分に起きた、福島第一原発第1号機が爆発です。
この事実は、17時45分に枝野官房長官が緊急会見まで伏せられていました。
つまり、2時間ほど隠蔽(いんぺい)されていました。
会見の内容は。「原子炉そのものとは確認されていないが、なんらかの爆発的な事象が確認された。総理や専門家をまじえて、情報の把握と分析など対応にあたっているところである。放射能について測定はおこなわれているところであるが、18時過ぎに新しい数字がでてきます。落ち着いて行動を。」
です。
副島先生の第1信は、この会見から1時間以内、18時33分でした。
この掲示板の[207]の “福島第一原発で メルトダウン(炉心溶解)が起きました。 自分の判断で逃げてください。”です。
13日の5時には、官邸ホームページの地震関連ページに「東北地方太平洋沖地震への対応」という資料が追加されます。
この内容は、ベント操作により1名が大量被爆(線量106msv)し、原発に近くの双葉病院にいた3名も被爆、というものでした。
先生は、同じ、13日の8時21分に[210]をこの掲示板に投稿しました。
[207]は、先生自身の安否情報も兼ねていましたので、この[210]が正式な原発に対する報告文の最初です。
タイトルは、“[210]福島第一原発の事故(報告1)この大凶事は、日本国の本当の危機です。日本国民は、もう疲れ果てて「どうにでもなれ」と諦(あきら)めつつある。”でした。
この時の先生は原発事故をタイトルにあるように、日本国の危機、全国民の危機として、として判断されていました。
だから、将来の日本国を担う若者たちに、「逃げろ! 生き延びろ!」と訴えたのです。
(報告1の[210]から引用開始)
私たち、もう50台から上の人間たちは、いい。十分に生きた。しかし、判断力も人生の知恵もない、若い人たちを守らなければいけない。若者たちだけが、私たちの財産だ。
([210]から引用終了)
しかし、原発の状況は悪化の一途をたどります。
14日の11時1分には、 福島第一原発第3号機で水素爆発が発生。爆発音は2回にわたり、水素爆発特有の白い煙とは別に灰褐色の煙が高くあがったとの情報があり。第3号機の建物外壁がなくなり、骨組のみとなっている様子が報道され、半径20キロ圏内屋内退避指示が発令されました。
私も、このプルトニウム燃料の3号機の爆発を見て、「もう、ダメかもしれないなぁ」と思い、逃げることをあきらめました。
15日の8時30分頃には、福島1-2 発電所所長判断で一部従業員が退避を始めるという報道が流れ。子どものいる友人に電話を何件も掛けました。何人かは、奥さんと子どもを今いるところより安全な場所に移動させてくれたようでした。
そして、逃げるだけでは、もう、どうしようもない状況だと、私は理解しました。
15日の9時40分に投稿されていた、副島先生の報告文5
“若い人たちは、西に逃げてください。 老人と、公務員は、決死隊員になる覚悟を決めてください。”
を読んで、副島先生に電話を掛けました。
「決死隊にはなれませんが、手伝えることが言ってください」というようなことを話しました。
先生は、「これから、東京に行って政治家を説得する」と言っていました。
16日の17時過ぎに投稿された。
[254]“まだ大惨事が迫っています。大切なのは、上に立つ人間たちが、責任を取る、という思想です。”に先生が決意を述べられている通りです。
18日の午前7時は、[273]“ECCS(緊急の炉心冷却装置)の電源回復、冷却ポンプが作動することが一番、重要だろう。”が投稿されました。
([273]から引用開始)
私は、都心で国会議員たちを説得して、現地視察をすることを強く勧めています。国会議員たちでないと、福島県境の東北縦貫道の警察の制止線を越えられない。(中略)
政治家たちが動かない、ということになったら、私は、自分と弟子だけで、現地に向かって、出来る限り福島第一の現場の近くまで行きます。
([273]から引用終了)
結局、責任ある政治家で現地に赴(おもむ)くという人は現れませんでした。
「手伝います」と言ったので、先生と一緒に、3月19・20日に福島へ行くことになりました。
その結果は、19日の15時27分に[292]として、速報で中田さんにより“福島県内に調査に入った副島先生からの電話の内容”として、この掲示板にアップされ。
翌朝の6時39分には、先生が[295]として、
“強運により、原発事故の凶悪事(強度の放射能汚染)から日本国民全体が、逃れることができました。”
と投稿されたとおりです。
この現地調査を境に、先生の原発事故に関する視点は変わります。
実際に現場に行きデータを取ることで、日本の危機という国家規模の問題から、福島の地域規模の問題へと変化したのです。
福島の人たちを助けるためには何をすべきか?
先生の“福島に住む!”発言は、この中から生まれたのだ、と思います。
3月22日の、午前6時21分には、[309]
“私たちは、今こそ福島県産の野菜、果物、コメ、魚を進んで食べる運動を始めなければならない。それが復興への支援だ。”
が投稿されています。
この転換が分からない人たちは、“危険だ!危険だ!”を連発し、挙句、「金をもらったんだろう」という輩(やから)も現れました。
私が先生と一緒にいて印象に残ったのは、「俺はなぁ。現地の人の頭とも同化できるから、現地の人の気持ちが分かるんだよ」でした。
確かに、現地行けば、そこに住んでいる人が、当たり前に居るのです。
そして、一番怖いのは、私たちではなく現地の人たちなのです。
その人たちは、自分の家を見に帰りたい、と思っても怖くて行けない。
私にも、その気持ちは少しは分かる。
だから、二回目に福島に現地調査に行った報告文10として、ぼやき「1207」で書かれた、
“原発の避難者の皆さん、子供もつれて自分の家に帰りましょう。もう、大丈夫です。安心してください。と、私は、言い続けるしかない”、
が、どれくらい、現地の人たちを勇気づけたかが分かる。
昔、つのだじろう、という漫画家の書いたマンガに『恐怖新聞』というのがあった。
主人公の家には、毎日、12時になると明日の出来事が書いてある新聞が届けられる。
いくら要らないといっても届けられ、それを読むと100日寿命が縮む。
私は、“危ない! 危ない!”といい続ける人は、恐怖心の配達人に似ていると思った。
現実を少しでも良くするという方策も無く、ハズレても、「ハズレて良かったじゃない」だ。
何の責任も取らないばかりか、「あなたのためを思って言っていたんです」とも言いかねない。
その間に、それを読んだ人たちの寿命が縮んだことなど、考えもしない。
石井 利明拝
【431】[476]「支援金」の情報です。やはり「お金」です。
東京在住の28歳です。「支援金」の情報です。
最近のこの掲示板のやりとりは「福島」なので少し論点がずれてしまうかもしれません。
しかし「お金を振り込む」ことは誰にでも『すぐ』に、『何度』でもできるかと思い、かつ「赤十字への義援金」よりはよほど「すぐに役立つ」と思い載せさせていただきました。
タレント清水国明さんのブログより「口座名」のみ抜粋いたします。
基金の設立の経緯や活動の詳細などはブログからご覧ください。
http://ameblo.jp/kuniaki-shimizu/
『生きるチカラ基金口座
銀行:三井住友銀行
支店:新橋支店(店番216)
種類:普通預金
口座番号:2137380
口座名義:生きるチカラ基金口 (イキルチカラキキングチ)
公益財団法人東京コミュニティー財団
代表理事小川敏男』
活動に賛同いただける方はtwitter、ブログなどぜひ「情報拡散」へのご協力もお願いいたします。
今朝(21日)のニュースで「20km圏内」が「警戒区域(地元民でも立ち入り禁止)」を設定したようです。
あれだけ「安全」「安全」と連呼しておきながら、震災より40日以上経過してのこの措置。
「地域や地元の理解必要」などと簡単にいう菅直人を私は許せません。
【430】[475]福島行
会員番号3792の長谷川高士です。初めて投稿します。
先週4月16日(土)と17日(日)に原発周辺に行きました。その報告と所感を述べます。
私は福井県で消防防災関連の会社を経営しております。ある企業と共同開発を行なっている関係で、かねてより、そちらの小名浜工場で実験を行なうことにして居りました。もう少し早く行ければよかったのですが、いろんな事情が重なって、些か遅れました。
金曜日の夜に車で現地に入り、土曜の早朝から実験を開始しました。その甲斐あって、予想以上に早く順調に終了しました。その後は自由時間です。
出発前の心積りでは、土曜日はいわき市から広野町までを動き、日曜には北側からアクセスしようと考えておりました。取り扱い商品は出来るだけそのサンプルを所有する方針ですが、サーベイメータ(一般的にはガイガーカウンター)は持っておりませんでした。偶々ポケット線量計何本か手元にありましたので、運転助手の息子と私の分2本を携行しました。この線量計はスイッチがONになっている間、検知した放射線を積算値として表示します。その時点での放射線の強度をμSv/hで表示するサーベイメータとは違い、表示単位はμSvです。
小名浜の社員さんは情報を持っていました。「最近になって事故地域の出入りが厳しくチェックされるようになった。」「知り合いが現地で働いている。」「良かったら、何か情報を貰おうか」と言うことで昼食時に電話をかけてもらいました。電話の相手は関東の建築会社の部長さんだそうで、その返答は「現地にいる社員に電話して、原発の前でもどこでも、幾らでも連れて行ってもらってあげる」と言う、驚くべきものでした。
実験の後片付けもそこそこに部長氏の指示のまま、高速に乗り四倉ICまで行き、一旦外に出てUターンし、一般車両通行止めの広野ICまでの区間を進み、高速を降りました。そのままJビレッジで部下の方と落ち合いました。広野ICからJビレッジまでの間に警察の検問がありましたが、実験時の作業服のままだったせいででしょうか、身分証の掲示だけで簡単に通れました。あとで気づいたのですが、そこが20Km圏の検問だったような気がします。ここまでは予想を超えた展開でした。
社員の方はJビレッジの駐車場まで車を誘導してくれましたが、Jビレッジを見せてやってくれと言う程度の指示しか貰っていなかったようです。
数百台の作業員の通勤車両がグリーンに停められていました。帰宅してからJビレッジのHPを確認したのですが、駐車場になっていたのはメイン建屋の裏のサッカーコート3面分だったようです。建屋1階の約半分が作業員向けのスペースで、東電支給の防護服を着て指示を受け、正面玄関から出発するシャトルバスで事故現場に向かうのだそうです。人数は駐車車両の数以上になりますが、全て圏外から通勤しているとのことです。前線基地としての様相はかなり良く理解できました。
Jビレッジから原発までは約20Kmですから車だと30分間程度です。原発の近くまで行って良いですかと聞いたところ「行った車は出る際、洗わなければならない」とのこと、行くのが憚られましたのでそのまま南下しました。
入った時とは違う検問所を抜けましたが、その際は何も言われませんでした。広野町を市街地から海岸線へと通り抜けました。折からの強風も相俟って、津波に襲われた地域は凄惨でした。不自然に感じられたのは、被害を受けなかった地域に人気が感じられなかったことです。何軒かは残っていたのかもしれませんが、店もガソリンスタンドも営業しておらず寄る辺ない生活になっているだろうと思われました。海岸と並行して走る旧街道のコンビニだけが営業しており、かなりのお客さんが入っていました。
この日は福島市近くの宿に泊まることにしました。朝7時から広野町を出るまでの積算線量は3μSv、穴原温泉に着くまでに1上昇して4μSvとなっていました。
17日は399号線を通って飯舘村と南相馬市を走りました。昨夕と打って変って日曜日は穏やか日でした。誰もいない早朝の飯舘村役場とは対照的に旧原町市役所(南相馬市原町庁舎)の駐車場は満杯でした。何か集会でもあるのかと覗いたところそうではなく、多くの人が罹災証明書を受け取る為の混雑でした。数人の方が掲示板犠牲者名簿を食い入るように見ておられました。別の掲示板にはA2程度の市地図モノクロコピーが貼り出され、第1原発から20Km圏、30Km圏を示す円弧が赤鉛筆で示されていました。旧原町地区は人出が多く、津波罹災地区を除き、広野町とは違った、活きた町でした。
海岸線を南下して双葉町に隣接する小浜という地区に入りました。津波で壊滅状態です。消防団のトラックが先を走っていたお陰で車を進めることができましたが、そうでなければ引き返していたはずの危なっかしい道路状態でした。
道なりに走っていた結果、いつのまにか20Km圏内に入っていたようです。警官から「もう入りませんね。念のためナンバーは控えさせてもらいます。」と言われのですから、そこで圏外に出たということです。
帰宅モードのナビの命じるまま、20Km圏の外周を少々走りました。ナビがどうしても検問所を通過せよというので、3つ目の検問所で警官に聞いたところ「通過は駄目です」と言われました。多摩ナンバーの警視庁の警官でした。道路地図で調べてもらい、迂回して東北道ニ本松ICを通るしかないと判りました。しかし先行して交渉していた軽トラックは「気をつけて行ってください」と言われて中に入りましたので、きっと圏内の住民の方だったのです。ですから圏内の住民の出入りは禁止されているわけではありません。
二本松で線量計を見たところ、数値は7μSv。朝、宿を出た7時過ぎの数値は昨夜と同じ4μSv。7時から12時まで、飯舘村→南相馬市→双葉町直近→南相馬市→飯舘村→二本松で我々が受けた放射線の総量は3μSvだったことになります。飯舘村→二本松間は約1時間だったと思われますので、4時間の単純平均線量率を敢えて採れば、0.75μSv/h。ところでポケット線量計は指向性が高く左程正確ではないといわれていますが、二つの線量計の数値は一致しています。
因みに、同じロットの線量計を3月末から小名浜の工場に貸してあります。3月28日午後4時から4月1日の8時までの88時間の数値が残っています。積算線量は29μSvでした。平均すると0.33μSv/hと言うことになります。
地震発生後、夜7時のニュースで津波の映像を見て心底驚きました。しかし福島第一原発の冷却系等に異常があるとの報道を耳にしてからの私の心理状態は別物でした。不安で堪らず、13日からは仙台の妹に15日からは関東の兄弟達に脱出を奨めるメールを送って居りました。チェルノブイリの再来必至と本気で恐れました。私は福井で原発事故が発生することをいつも恐れています。
不真面目な読者で、学問道場の頁を見始めたのは17日です。何と副島先生が現地に行く?私には恐怖でした。自分の血もイヤですが、人の血も怖い。従って3月20日、副島先生の現地調査の報に触れ、本当に安堵しました。有難うございました。即座に脱出中止メールを兄弟に送りました。日頃は仲が良いわけでもないのですが。
福井県で暮らしているだけでなく、原発銀座と呼ばれる地域の消防機関をお客さんにしている関係で、放射性物質・放射線、原子力事故に関してはそれなりの知識を持っている積りでした。チェルノブイリがあれだけの大災害になったのは単なる水素爆発で原子炉が壊れた為だけではなく、減速材として使われていた黒鉛が燃え核燃料を上空高く巻上げたためだということです。本来高純度黒鉛は燃えるはずがないのですが、所謂想定外の不運の連鎖が成した業。これは石川迪夫先生の著書「原子炉の暴走第2版」に述べられていることです。私が先生とお呼びするのは、本の内容が優れているためというだけでなく、その姿勢が首尾一貫しているためです。この本はあの難解な原子炉内での物理的な動きに関する説明において、素人でも何とか理解が出来るほどに優れているだけでなく、信念が貫かれている印象を持ちました。しかし残念なことに、原子力発電システムに内在する脆弱な部分、矛盾には触れられていません。
どなたの言葉だったか名前を覚えていないのが悔やまれますが「原子力発電は単なるボイラーだ。但し石炭・石油を使うボイラーとは決定的な違いがある。後者の場合は機嫌が悪ければお守りをする我々が聴診器を当てたり、触ってみたりして不具合箇所をほぼ完全に治せる。但し、直接触れることが出来なければどんなボイラーだって危険である。一旦動き始めた原発は、生身のわれわれの手が届かないところにある。」運転に関する限り、私はこれが本質だと考えております。石川先生は核燃料のコントロール、原子炉の運用のプロなのであって、配管材料を始めとする原子力発電システム全体に責任を持つわけでも、廃棄物の責任者でもないのでしょう。
気の毒なことに80歳近くの先生はアメリカの委員会に呼びつけられて事故の釈明をさせられました。「今回事故は、保安院が発表したようなレベル5ではありえない。レベル6だ」と発言されたそうです。先週の突発的なレベル7への格上げを、どのような思いで見ておられたのでしょうか。不肖の弟子を育てたと言うことかもしれません。
チェルノブイリ事故の際は風の通り道となった地域が汚染されました。ヨーロッパのかなりの広範な地域が、恐らく今回の比ではないくらいに汚染されたはずです。ではその時ヨーロッパ人はどうしたか?結果としては、風と雨が汚染物質を掃き流してくれるのを、耐えて待っただけだったはずです。少なくとも現段階では、チェルノブイリと比較した汚染物漏出はたいした量ではありません。発表された冷静な分析を根拠として言っているのではなく、チェルノブイリとは事故の様相が全く違うのです。それは副島先生が3月19日に現地で体を張って確認されたとおりで、幸運にも地獄の釜の蓋は開かなかったのです。同じ町でも津波が作った一本のラインの陸地側は、何事もなかったような様相を呈します。災害の特徴です。今回の原発事故もあと一歩のところで、あわやと言うところで、とどまっています。そうでなければ今頃東京は惨憺たる状態に陥っていたはずです。
だからごく一部の地域を除いて、大したことはないのだ。そのように、私も頭では理解しています。
しかし告白をしなければなりません。私は放射線・放射性物質について全く何も考えたことがありませんでした。字面ではそれなりの説明が出来ます。しかしただ単に恐ろしいものとズーッと怯えていただけでした。副島先生がマスクも何にも身に付けずに19日の原発前で放射線を測っている写真を見て恐怖しました。しかし、逃げようのない現実は受け容れなければなりません。副島先生の仰るとおり、がつがつ食べることには抵抗がありますが。
今回の福島行は従って、そんな私を啓蒙するためのものでした。息子の蒙の方もついでに啓いてしまったことになります。
先ほど小沢一郎さんの一般市民との対談を見ました。一刻も早く、国民を代表する政治家が主導して事態を収拾して欲しいと心から願います。多少の失敗など私は容認します。
【429】[474]福島に行くつもりです
[473]川端さんの言うとおり、福島にお金を落とさなければなりません。こちらは子供が2人いて日程に制約があります。学問道場の方とご一緒はできませんが、5月3日~5日の間に行ってきます。女房は嫌がっていますが、
これから説得します。できるだけ現地のものを食べ、軽に積めるだけの品を買って帰ります。連休明けにその成果をこの場でご紹介できると思います。
【428】[473]ゴールデンウィークに2泊3日で福島に行こう
群馬のゆみこ(川端優美子)です。
福島県産のものを消費しようという先生の呼びかけに賛成したわたしですが、今のところ意識して福島県産のものを買っていません。なぜなら流通していないからです。わたしが買うものといえば自分のお弁当用の食料品くらいなので、たいした量にはならないのですが、それでも買おうと思っているのに、売ってない。まあ、しょうがないかな、と思います(お店を責める気にはなれない)。
そこで、要(よう)は福島にお金が落ちればいいわけですから、福島の旅館に2泊3日で学問道場のみんなで、大勢で泊まりに行ったらどうかと考えました。日程は2011年5月3日(火)から5日(木)です。行きたい人はいますか?
もし誰もいなければ、わたし一人で行くつもりです。もし大勢行きたい人がいたら、旅館を決めて手配したりとか、そういう取りまとめをしてくれる人を募集します。わたしは末っ子なので(言い訳)、そういうことが苦手でやりたくありません(自分の面倒は見られます)。男女の部屋を分けてくれれば、あとはお任せします。
きっと楽しいと思うんですよね。誰か行きませんか。 以上
【427】[472]議論を拝読して
大阪在住で、初めて書き込みをさせていただきます。堀江様と市井の福島市民様の議論を拝読させていただいて、どうしても、一言書かせていただきたくなりました。
東海地震と関東大震災型の巨大地震は必ず起こります。このことを否定する地震学者は一人としていません。では、今から少なくとも10年は大丈夫かというと全くそうではありません。ご存じのように最後の東海地震(安政東海地震)が起こってから、すでに157年が経過しており、それ以前の4回の東海地震の間隔を上回っています。それどころか、通常、滅多なことでは悲観的な報道をしない大手報道機関でさえ、東日本大地震が周囲の地殻に与えた大きな影響により、近い将来の巨大地震の発生に警戒するよう伝えています。隠ぺい主義の大手マスコミですら近日中の大地震を警告している状況なのです。なので、特に危険が差し迫っている東北、東海地方のすべての原発は、四の五の言わずに、今すぐ停止するしかないと思います。その後、可及的速やかに日本の全原発を廃止する。この場に及んで、これ以外に正しい選択肢があるのでしょうか?
今回の、福島第一原発の事故が伝えたメッセージは、電力会社や政府が言い続けてきた「安全でクリーン」という宣伝が真っ赤なウソであったということです。例えば、浜岡原発が、静岡県御前崎付近を震源とするM8クラスの東海地震とその津波に耐えうるなどと、この場に及んで真面目に信じる方が本当にいるのでしょうか?もし、そうなら、それこそ信じられない感覚です。
経済問題?、冗談ではありません。福島第一原発たった一か所の事故だけで、東京電力が、これまでしこたまため込んだ資金を全部つぎ込んでも到底まかないきれないような損害をまき散らして、今まさに国民の血税を投じて補てんしようとしている最中じゃないですか?国民が過去に原発による電力の恩恵を受けていたとしても、すべてチャラどころではありません。先のことを考えても、危機をあおって全原発を停止して、あとで何も起こらなかった場合に被る経済的損失など、もし、このまま稼働を続けて、1機でも爆発を起こして大量の放射能をまき散らした場合の経済損失に比べれば、微々たるものだと思いませんか?まさに、福島がそのことを教えてくれたのではないですか?
「浜岡を止めて、そこで働きそこで暮らす多くの人をどう食わせていくのか?」。市井の福島市民様は、浜岡原発の労働者の就職先を決めてから原発を止めろ(決まらなければ止めるな)とおっしゃるのでしょうか?でも、どう考えても逆のほうが良いと思います。取りあえず止めてから、就職先を探す。それまでのブランクは公的資金で生活を保障する。もし、地震による事故が起これば、真っ先に死ぬ確率の高い方々です。電力会社や政府が払う補償金も莫大です。人道的にも経済的も、当然逆ではないですか?
そもそも、副島先生の本を読んでおられる方なら、もし、地震がなかったとしても、今後、日本はアメリカと抱きつき心中する格好で、国家デフォルトの危機に見舞われ、預金封鎖を含めた非常措置がとられる可能性が高いことを理解されているのではないですか?生活費3割カットなどというレベルの騒ぎではないことは明らかです。そんな中で地震災害がこれ以上続いた場合の悲惨さは言語を絶します。それなのに、さらに放射能汚染のおまけがつくなんて本当にまっぴらごめんです。ハイパーインフレで食糧輸入ができない、放射能汚染で国内の農業も漁業もダメ。もし、こんなことになれば、生活レベルの低下どころか餓死者が続出です。悲観的な妄想ではなく、本当に起こりうることではないのですか?
実際、今回の福島の事故を受けて、世界中で反原発のうねりが高まっている中、当の被害国である日本の国民、特に、例えば学問道場の会員などの一定以上の知識層が、「経済的理由」や「現実的問題」などを盾に、原発を「必要悪」として容認しようとする動きがあること自体が、私には信じられません。今、迫っている本当の危機にまっすぐに目を向けない「現実論」なんて、いざ、ことが起こってから振り返れば、「多くの人を死に追いやった最悪の非現実論」として語り継がれることは明らかです。
「実際に現地に出向いて被災の現状を目でみてからにしろ」とか、「安全な場所から偉そうに意見するな!」なんていう議論はどうかやめて下さい。原発事故が起こっても心配がいらない土地なんて日本中どこにもありません。経済崩壊や食糧難も全国民の問題です。被災者でなくとも、皆、「明日は我が身」と福島のことを心配しています。あと、「そんなに言うならお前がやれ」というのもなしにして下さい。もし、たまたま思いついた人がそれを簡単に実行できる社会なら、そっちの方が大問題です。やはり、一般国民が取ることのできる手段というのは、まず、情報を共有して意見を統一し、次に、力を合わせて、小沢さんのような有力な政治家やメディアなど働きかけるとか、デモやストライキに訴えるということではないでしょうか。この大切な最初の意見をまとめる段階で、「現地におもむけ」、「お前がやれ」などと敵意むき出しで喧嘩してしまっては、すでに、そのグループ(学問道場会員)は負けだと思います。政・官・外・財・電の「悪徳ペンタゴン」による原発推進政策が強行され続けるかも知れませんし、それを阻止しようとする新たな勢力が力を発揮して原発をとめてくれるかも知れません。ハッキリしているのは、どちらにしても蚊帳の外で、犬のように吠え続けるだけになるということです。それが、副島先生の意思にそうとは到底思われません。
【426】[471]南相馬市に行ってきました
会員の皆さん、はじめまして。バンコクに20年以上、住んでいます。4月中旬のタイ正月を利用してひとり福島の南相馬市まで行ってきました。
副島隆彦先生の本は1冊しか読んでいないので(今回、関空でもう2冊買い求めました)、この掲示板に投稿する資格はないのですが、南相馬市の様子を先生にメールで報告したところ、こちらに書いて情報を共有せよ、と言われましたのでそうします。
以下、副島先生に宛てた私からのメールの内容(一部)です。
(前略)
さて4月15日06:18、前日から借りていたレンタカーで、まず相馬市を目指しました。気温は6度です。カーナビは便利です。見知らぬ土地でも不安はありません。心地よい緊張感です。
国道115号線、日本のカレンダーに用いられるような山里を目に楽しみながら相馬市に入ったのが7時5分です。気温12度。市内をぐるぐる回りますが、まだ時間が早いせいか町に人影はありません。
その後、国道6号線を南下、あれれという間に南相馬市に入りました。南相馬真野小学校や周辺で津波の被害を目の当たりにしましたが、だいぶ復旧作業が進んでいるらしく、自衛隊や重機が活躍していました。
南相馬市役所の社会福祉課でバンコクにいる日本人数人から預かったお金を寄付し、係りの方から様子を伺いました。
「市役所玄関入ってすぐに貼っている掲示板によると
放射線量はだいぶ少なくなっていますね」との問いに
「でもね、見えないからね」という義援金受付係りらしい(?)回答を得ました。
次に避難所になっている原町第一小学校を訪れました。気温はぐんぐん上がっています。体育館の中はポカポカしていました。
「エアコンが入っているのですか」との問いに
「そんなのありません。寒いときにはこの大きなファンヒーターで暖気を送る」とのこと。ここで南相馬市と双葉町の中間に位置する「おだか」というところから避難している二人の女子中高生に話しかけました。元気そうでした。
お年寄りと比較したせいでしょうか。お年寄りは無口です。
カメラを向けることもはばかられます。
二人のおかあさんに双葉町まで行けるかと聞くと、6号線は封鎖されているけれど、取材といえば通してくれるかもしれない。だめなら海沿いの道を行けばいいと教えてもらいました。
「海沿いは別世界です。私も昨日、ちょっと家に戻りました」と言います。気丈な女性です。
6号線は案の定、「いわきおおた」のあたりで警視庁の警察によって封鎖されており、住民であれば名簿と照合して通してくれますが、取材は認めてくれません。国際免許証を見せると「外国人か? 立ち入り禁止と言え」という声がパトカーの中から聞こえました。悪いけど「日本人です」と答えました。部下が「地元の人らが外部の人間を入れたがらないのです。物盗りとしてあなたを疑っているわけじゃないのですよ。これも復興の支援と思って取材をあきらめてください」と言います。こう切り返されては二の句が告げられません。10キロ圏内の遺体捜索が昨日から始まっていることも関係しているかもしれません。
そこで、小浜(おばま)という村へ引き返して、そこから海岸線沿いに南下を試みました。道はガタガタでところどころ陥没しています。海沿いの家はほとんど押し倒されていましたが、重機が入って整備され始めています。ところが、小浜から南下しようとすると、河口に架けられていた橋が崩壊しており、向こうへは行けません。前方の道は陥没していました。しかたなく戻って、検問のある手前のセブンイレブンに行きました。そこでおだかまでゆく道を何通りか地元の人に聞きましたが、ぜんぶ封鎖されて住民以外は入れないと思うよとのこと。
今度は内陸側から南下を試みましたが要所、要所で検問があり、
住民以外は南下させてくれません(しかしカーナビは役に立ちました)。「正式な取材許可があれば入れてくれるのですか?」と聞きましたら、口ごもった後、もちろんですとのこと。前夜、泊まった3500円の宿にはNHKのクルーもいましたので、そうなのでしょう。ちなみに福島市内中心部のビジネスホテルはほぼ満室でした。メディアや原発関係者がたくさん入ってきているそうです。
南下をあきらめ、飯舘村経由で福島市へ行くことにしました。ここは放射線量の高い値が出たと今朝のニュースで報じていました。ですが、コンビニは開いているし、地元の生鮮スーパーも開いていました。スーパーには福島産のあさり(たぶん。表示がなかったので)と野菜、果物もありました。
「何、作ったらいいかわからないのよね」
スーパーに買い物に来ている主婦と思われる女性同士の声が聞こえました。普通の会話です。
福島市内まで暑いので窓を開け放して運転していました。すれ違う車を運転する人はほとんどがマスクをしていましたが、マスクをだらりとたらして運転している人はこっけいでした。
福島市内着13時14分。駅前の電光掲示板には28.5度! 朝との気温差22度です。夏のような暑さでした。桜並み木を通ってレンタカーを返しに。そこで地元のうまいもの屋を紹介してもらいましたが
「あまりすすめられるものはないのですが……あ、餃子がある。でも夕方からしかやってないなぁ。地元の人に人気といえば……」
と切り出しながら教えてくれた西口駅前の喜多やとかいう蕎麦屋。たいへんおいしかったです。そういえば旅館で食べた晩メシも朝メシもたいへんおいしかった。浅漬けキュウリがバリバリしていました。
郡山駅の100円すし屋カウンターで知らないもの同士が会話していました。
「地元でも原発20キロ圏内から来たと言われると冷たい目でみられるんだから」
「地元同士じゃありえないでしょう。東京の人ならそうするだろうけど」
「あたしたちは東京のために電気をおくったのに」
「(私)今日、飯舘に行ってました。現地の様子を見に」
「あそこ、今、放射線量けっこうあるよ。盆地だからな、あそこは。ごくろうさま」
今回の現地入りで感じたこと、
1)やはり行ってよかった。見えないものが見えた気がする
2)だれが空論を述べているか、実論を述べているか、わかる
3)出会った現地の人はきわめて落ち着いていた。お年寄りにがんばってというのは酷だ
4)福島産の食材に対する風評被害はばかばかしい。福島と聞いただけでアレルギーを起こすなどもってのほか
5)福島の人は日本を代表して犠牲になったのだから、長く守ってやらなければならない
6)何より福島の人は雄雄しく立ち上がってほしい。おれはこれからも協力する
最後に
先生の本や学問道場のサイトを見て、金を儲けたひとは
先生に活動費としていくばくかでも差し出すべきです。
「いいえ副島さんに目をつけたのも私の選択眼があったからこそです」
なんていわないでね、お金はあの世へ持っていけないんだから。
世話になった人にはお返ししろ、
犠牲になった福島に、恩を仇で返すようなことはするな
福島から転校してきた子どもに対して「被爆する」といわせる子の親め、ばかじゃないのか。
失礼しました。
福島のことを考えるといろいろと怒りが沸きあがります。
沼舘 幹夫 拝
【425】[470]女川原子炉の安全レポートの問題
初めて投稿します。
副島先生のご本は10冊以上読んでいます。
古希を過ぎた、建築構造士で耐震補強の仕事を
10数年行っています。
また、数年前から吉野大峯山の修験道を初めています。
先生の福島原発に対する活動は全面的に支持します。
先生は、修験者の精神を受け継いで活動しているように
感じています。
「女川原子力発電所における津波に対する
安全評価と防災対策」のレポートが公表されていますが、
大変な間違いをしています。
http://www.jnes.go.jp/content/000015486.pdf
文献調査で昭和8年の震嘯誌に書かれていることを
正確に理解せずに数値のみを利用しています。
技術者として一番大切なことが欠落しています。
前提条件を無視して自分に都合のよい数値だけを
用いることは絶対にやってはいけないことです。
杜都文化社編「昭和8年三陸震嘯誌」で、
中村左右衛門太郎博士は、「津波地震に就いて」で
(転載開始)
閖上町は、二・二米、坂元村磯浜は三・二、中浜は二・五米
である。然しこれらは石巻湾内と共に震源より遠く他と
比較するのは不適当であろう。
(転載終了)
レポートの文献調査歴史津波の比較の図で昭和8年の
ピンクの楕円で崩壊した範囲を明示しているのだろうが、
昭和8年三陸震嘯誌のなかで震源について今村明恒他3者で
意見が一致しないと書かれています。この図を見た人は、
過去の津波の高さは正しいと思ってしまう。
一般に模擬地震波を作成する場合には、想定する範囲のすべの
箇所について検討し、その中の最大の地震波を採用します。
過去の津波の高さを決めて、それ以下の想定だから安全と言うのは、
まさに福島原発の想定外の話に共通するものと感じる。
津波の高さを場所を特定せずに最大の高さで安全対策を講ずるなら良いが、低い値を採用するのは、二つの活断層を別々に評価して問題になっていることと同じである。
この時期、このレポートが公表されたことに危険性を感じる。